FC2ブログ

のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 福島県   Tags: みちのくあれこれ    

鶴ヶ城稲荷神社ーみちのくあれこれ11


鶴ヶ城


 昨年の夏の小旅行で訪れた会津若松市。飯盛山や会津武家屋敷に立ち寄った後に鶴ヶ城を見に行きました。いうまでもなく、会津若松市のシンボルであり、市民の心のよりどころでもある名城です。
 戊辰戦争の象徴として語られることも多いこの城にはたくさんの観光客が訪れますが、私が訪れたときも何組かの団体さんがいました。
 昭和40年に再建されたという現在の城は、白壁の美しい堂々たる風格をもった城ですが、多くの人々は、本などに掲載されている「砲弾の跡が痛々しい姿」を思い浮かべるのではないでしょうか。
 団体さんを案内しているボランティアの方が、
「♪はるこうろうのはなのえん・・♪」と歌っていました。どうやら、この鶴ヶ城は名曲『荒城の月』のモデルだったことを説明しているようです。

『荒城の月』のモデルについては、作曲者の滝蓮太郎と作詞者の土井晩翠に因んだ城がいくつか挙げられていますが、昭和21年に会津若松市で講演した土井晩翠は、「鶴ヶ城が『荒城の月』のモデルである」と語ったということです。

◇鶴ヶ城
【至徳元(1384)年、葦名直盛公が東黒川館を築いたのが始まりと言われており、その後、蒲生氏郷公により、七層の天守(諸説あり)が竣工され「鶴ヶ城」と改名。慶長16(1611)年の会津地震で倒壊するも、加藤氏の時代に、現在見られるような五層の天守閣となった。保科正之公が入封してから明治維新までは会津松平氏の居城としてこの地に立ち、戊辰戦争では1ヶ月にも及ぶ籠城戦にも耐えきった。まさに“難攻不落の名城”。現在の天守閣は、明治政府に取り壊されて後、昭和40(1965)年に再建されたもの。平成23(2011)年には、幕末の頃の赤瓦に屋根が葺き替えられている。】


  



鶴ヶ城稲荷神社


 一帯は天守閣を中心にして「城址公園」となっていますが、その一角に稲荷神社が鎮座しています。
「鶴ヶ城稲荷神社」と呼ばれるこの神社は、学業成就、商売繁盛、家内安全や交通安全祈願など、広く人々の信仰を集めている社で、「優美な鶴ヶ城を思わせる、会津葵の御紋が記された上品な筆遣いの御朱印」をいただくことができるようです。




 この神社の由緒等については、
【鶴ヶ城内にある『鶴ヶ城稲荷神社』は、約600年前に城がつくられた頃から、守護神として祀られていたと伝えられており、御祭神は宇迦魂命(ウカノミタマノミコト)。食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神であり、日本で最も親しまれている神様の1つ「稲荷大神」を祀っている神社として有名。伝説によると、築城の縄張りに苦心した芦名直盛が勧請先の田中稲荷神社に祈願したところ、霊夢を見て目覚めてみると降り積もった雪の中に狐の足跡があったことから、それをしるべとして築城の縄張りを決め、今現在名城と評価の高い城を築くことができたと伝えられている。】と紹介されています。

 参道の石段の両脇には狛犬ならぬ「狛狐」が置かれています。
【重厚な石造りの明神鳥居をくぐると、編み笠とほっかむりをした姿が特徴的な『狛狐』が、参道の階段の両脇に3対、合計6体が訪れた人をお出迎え。狐の足元には、宝珠に巻物、米俵、稲、鍵など特徴的。また小さい子狐もちゃんとほっかむりをしており、可愛い姿を見ることができます。】

 ほっかむりをした狛犬や狛狐は、津軽の神社にも多く見られますが、「編み笠姿」の狐は、いかにも「城下町会津」といったところでしょうか。

※【】は、HP「會津物語」等を参照しました。

  



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                                ☆みちのくあれこれ☆
記事を読んでいただき、ありがとうございます。よろしかったら、応援をお願いします!

                 日本史 ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ にほんブログ村    


Category: ふるさと【東北・青森】 > 山形県   Tags: みちのくあれこれ  

上杉神社ーみちのくあれこれ10


上杉神社


 昨年の夏に、福島県や山形県の方に小旅行に出かけたのですが、その時に米沢市の上杉神社へ行ってみました。
「上杉神社は今でも米沢市民の心の支えとなっていて、初詣やお宮参り、結婚式や安全祈願など、四季を問わず多くの市民が訪れています。※米沢市HP」とあるように、市の中心部に鎮座する社です。
 
 初めて訪れたのはもう20年以上も前になるでしょうか、それ以来です。




◇上杉神社
【上杉神社は、山形県米沢市にある神社。松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつである。
 上杉謙信が天正6年(1578年)、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封された際に、謙信の祠堂も米沢に遷された。
 以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めている。
 併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」とした。明治9年(1876年)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。明治35年(1902年)4月26日には別格官幣社に列せられる。この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。
 大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼したが、米沢出身で、神社建築の第一人者伊東忠太博士の設計により現在に残る社殿が再建された。※wikipedia他より


  



  
毘の軍旗
上杉謙信
上杉景勝と直江兼続
上杉鷹山





 戦国の名将である上杉謙信については、多くの方々がブログなどで取り上げていますが、私も好きな武将の一人です。
 先日、地元の本屋さんへ行ったとき、『戦国の「いい男」「ダメ男」』という面白そうな文庫本があったので手にしました。何人かの戦国武将の事績に対して作者なりのうんちくが語られ、最後に○×をつけるという、肩の凝らない内容でした。
「ダメ男」の烙印を押されたのは、織田信長、豊臣秀吉、朝倉義景、徳川家康など・・・。一方、「いい男」は明智光秀、竹中半兵衛、石田三成などでした。

「いい男」の筆頭は上杉謙信で、「戦国乱世きっての品格」と称賛されています。
【上杉謙信といえば、戦国武将の中で一番品格のある武将だろう。私たちのイメージにある謙信は、「毘」と「龍」の軍旗を翻して、白い馬に跨っていくカリスマ的武将だ。あのような品格とカリスマ性のある美しさはどこからくるのか。戦陣にあっても琵琶を弾じ、詩を吟ずるなどという貴公子は、平安武士の平家にはあったかも知れないが、汗臭い戦国武将には珍しいことだ。能登七尾城攻めの時の「霜ハ軍営ニ満チテ秋気清シ」に始まる七言絶句の漢詩など、溜息が出るほど美しい。 ※中島道子『戦国の「いい男」「ダメ男』より抜粋】 
 - 謙信ファンなら、思わず「うん」とうなずくところです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                                ☆みちのくあれこれ☆
記事を読んでいただき、ありがとうございます。よろしかったら、応援をお願いします!

                 日本史 ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ にほんブログ村    


Category: ふるさと【東北・青森】 > 秋田県   Tags: みちのくあれこれ  縄文と弥生  

大湯環状列石と浅間神社ーみちのくあれこれ9




 秋田県鹿角市の大湯環状列石は国の特別史跡にも指定されており、青森県の三内丸山遺跡と並んで、東北を代表する縄文遺跡です。
 その特徴は、何といっても整然と配置されている環状列石(ストーンサークル)なのですが、その造られた目的については、「共同墓地」や「司祭場」、「日時計」などの諸説があり、はっきりとは断定していないようです。
 ストーンサークルはそれ自体がミステリアスなのですが、付近には聖なる山・黒又山もあり、両者は密接なつながりをもつものとされ、古代史(超古代史)ファンの関心を惹きつけています。





 発掘調査の結果、大規模な「祭祀施設」であったことが次第に明らかになり、その遺跡の概要は書籍やネットなどで数多く紹介されています。
【秋田県北東部、鹿角市の米代川上流に位置し、その支流である大湯川左岸、標高180m程の台地上に構築された、縄文時代後期前葉から中葉(紀元前2,000年~紀元前1,500年頃)の環状列石を中心とした遺跡です。環状列石の形態は、定住とともに発達した集落形態である環状集落を背景としたものと考えられます。遺跡の中心として万座(まんざ)と野中堂(のなかどう)の二つの環状列石があり、それぞれの環状列石を取り囲むように、掘立柱建物跡、土坑・貯蔵穴、遺物廃棄域が同心円状に配置されています。これらの遺構とともに、日常使用する土器や石器、土偶や土版、鐸形土製品、石棒、石刀等といった土製品や石製品が出土しています。二つの環状列石の各々の中心と日時計状組石は一直線に並び、夏至の日没方向を指しており、四季を区分する「二至二分」や太陽の運行を意識していたことをうかがい知ることができます。構築場所を選定し、天体(太陽の運行)を意識し、豊かな労働力と精神性によって構築された縄文時代の代表的な環状列石であり、当時の精神文化を知る上で重要なものです。※HP「JOMON JAPAN 北海道・北東北の縄文遺跡群」より

  



 


 前述の説明に述べられているように、この遺跡は「万座遺跡」と「野中堂遺跡」という2つの環状列石で構成されています。
 2つは道路で隔てられていますが、どちらも直径40~50mの外帯と10~15mの内帯の二重の組石群からなり、両遺跡とも40組以上の組石があるといわれています。
「万座遺跡」の方には縄文期の掘立柱建物などを復元したものが建っていますが、一方の「野中堂遺跡」は、広い野原に環状列石があるだけで、どちらかというと素朴な感じがします。
 その「野中堂遺跡」のはしっこの方に(遺跡の一部に含まれるのかどうかは分かりませんが)、こんもりとした小さな森があり、そこに神社が立っています。

 実は「野中堂」という地名は、この神社に因んだものとされています。即ち、「野(原)の中にお堂(神社)がある」から「野中堂」という分けです。地名の由来になっているくらいですから、古くからこの地に鎮座していた社なのでしょう。

 鳥居の扁額には「浅間神社」とありました。富士山の神霊である「浅間大神」を祀る神社のようです。詳細は分かりませんが、いわゆる「富士信仰」がこの地にも広がっていたということなのでしょう。
 日本の象徴である富士山に対する信仰は全国に及び、地域の富士山の姿に似た山を「○○富士」と呼んで崇めていますが、ここ大湯の聖なる山は、やはり黒又山で、その姿を拝める場所に、この神社が建てられたのでしょうか。

 小さな社殿の前に御神燈がありますが、そのそばに「野中観音堂」の碑が立っていました。
 社殿の真ん中に御神体をが納められた祠がありますが、その前には准胝観音(じゅんていかんのん)と、女神様が一体置かれていました。この女神様は浅間大神とされている「木花咲耶姫命(コノハナノサクヤビメ)」のようです。

◇浅間神社
 
  


  


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                                ☆みちのくあれこれ☆
記事を読んでいただき、ありがとうございます。よろしかったら、応援をお願いします!

                 日本史 ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ にほんブログ村    


Category: ふるさと【東北・青森】 > 福島県   Tags: みちのくあれこれ  

会津武家屋敷にてーみちのくあれこれ8


会津武家屋敷


 夏に会津若松市を訪ねたときに、会津武家屋敷に行ってみました。十数年ぶりです。
 有名な観光スポットなので今さら何ですが、この武家屋敷は会津藩家老・西郷頼母邸を復元したものです。西郷家は、会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務め、1700石取りの家柄でした。
 復元された邸宅は、敷地が約400坪、部屋数38、表門、表玄関、御成りの間、茶室、槍の間、客待の間などが再現され、当時の武家の生活の様子を伺うことができます。

 戊辰戦争の悲劇を今に伝える会津にあって、ここの武家屋敷は飯盛山などのように、その悲劇を直接伝えている建物ではありません。ただ、復元された「西郷一族自刃の間」などを見ると、人形だと分かっていても、やはり胸がしめつけられます。

◇会津武家屋敷

  


  



西郷頼母


 西郷頼母近悳(ちかのり)は、会津藩家老であったにもかかわらず、その事績や人となりについて、あまり多く語られる人物ではありませんでした。
 私たちには「滅びの美」みたいなものに惹かれるところがあって、「敗者」に対して同情的な面があります。殊に、敗戦を覚悟しながらも果敢に戦い、散った人物・・・例えば、湊川の楠正成や大阪の陣の真田幸村、函館戦争の土方歳三などの姿に一種の「潔さ」を感じ、共感を覚えたりします。
 会津戦争でいえば、白虎隊の少年たちや中野竹子と娘子隊、斎藤一と新選組、あるいは山本八重や佐川官兵衛などに比べて、西軍に対して「恭順」を説く頼母の姿はいかにも「弱腰」に映ります。さらには、妻・千重子をはじめ、一族全員が落城を前にして壮絶な自刃を遂げたということもあり、頼母は、「よくもおめおめと・・卑怯者」と蔑まれたこともあったようです。

 ですが、近頃、会津戦争を題材にしたTVドラマが放映されたり、関連した書籍が数多く出版されたりしたこともあってか、西郷頼母に関しても、その人物像が見直されてきたようです。

 頼母と会津戦争との関りを簡単に整理してみると、
○文久2年(1862)、藩主・松平容保の京都守護職就任に対して、混乱した世の中の流れや財政等藩の現状を理由に強硬に反対・諌止する。結果、容保に拒絶され、家老職を免ぜられ、藩政から外される。以後5年間、若松郊外に蟄居。
○慶応4年(1868)、鳥羽伏見での敗戦を受け、戦場が会津に移ったときに再び家老職に復帰。「白河口の戦い」に総督として派遣されるが敗退。情勢を冷静に分析し、ここでも和議恭順を主張するが、藩論が徹底抗戦で固まっている中、頼母は異端者扱いされ、西軍の領内突入がまじかに迫った緊急時にも関わらず、再び、免職・閉門となる。
○鶴ヶ城籠城戦が始まると再度復帰し、戦いに参加。この頃になると、容保をはじめ重臣たちは和議恭順を考えていたが、それを聞いた頼母は激昂したといわれる。
【既にして同僚中、或いは和を唱ふる者あり。頼母之に謂って曰く、「卿等前に余が和議を排しながら、今日に至って和を説くとは何ぞや。部門の恥辱は城下の盟より大なるはなし。※『会津戊辰戦史』より
 - 今までさんざん自分の意見を却下しておきながら、この期に及んで和議を図るなどもってのほか、武門の恥である。こうなったら徹底抗戦し、一同切腹、藩をあげて玉砕だ - 頼母の積年の鬱憤が爆発した分けです。
 この頼母の叫びは他の家老の讒訴を招き、結局、頼母は鶴ヶ城を追放されますが、一説には頼母の身を案じた容保の配慮によって脱出したともいわれています。

 その後、西郷頼母は函館戦争に参加し、降伏後に幽閉生活を送った後、神職として日光東照宮などに奉職します。後半生は塾長として子弟教育に携わったりするなど数奇な人生を送った分けですが、終焉の地はやはり妻・千重子など一族が眠る会津でした。

 主君に対しても物おじせず、歯に衣をきせない物言いをする頼母の態度は、他からは「傲岸無礼」と映ったようですが、頼母にしてみれば「もともと西郷家は藩祖・保科氏の一族であった」という自負心があったのでしょう。

 いずれにせよ、頼母の度々の諫言は、今からみると、時の流れを冷静に分析し、大局的な立場から、真に藩の行く末を憂いたものであったといえそうです。また、城を去る前の激昂ぶりからは、軟弱どころか気骨ある会津武士でもあった様子が伺われます。
 総じて、西郷頼母は、己の信ずる忠義を貫きながらも、時代に受け入れられなかった悲運の宰相であったといえるでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                                ☆みちのくあれこれ☆
記事を読んでいただき、ありがとうございます。よろしかったら、応援をお願いします!

                 日本史 ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ にほんブログ村    


Category: ふるさと【東北・青森】 > 秋田県   Tags: みちのくあれこれ  

本宮神社ーみちのくあれこれ7


黒又山


 10月の初め頃に、秋田県鹿角市大湯の「大湯環状列石(ストーンサークル)」に行ってきましたが、そのときに近くの黒又山(くろまたやま)に登ってみました。
 黒又山は標高が約280mと、さして高い山ではないのですが、きれいな三角錐の形をしており、道路からもすぐにそれと分かる特徴のある山です。
 その姿形から青森県五所川原市の靄山などとともに、「日本のピラミッド」ともいわれ、超古代史へのロマンをかきたてている山でもあります。

 登山道の入口にある説明板(※私は見つけられませんでしたが・・)には、
【この山は、ピラミッド説が強く神秘につつまれた山です。人工的に積み上げた山ではないが、人の手で削り取り形を整えて、山霊を仰ぎ多くの人々の信仰を深め、祭儀を行なった山とされています。 地元の人々は昔から、この山を、クロマンタ山、又はクルマンタ山と読んでいます。大昔から、この地方は蝦夷地であったのでクルマンタ山も蝦夷語で解説すると次のようになります。
「クル」とは神、又は普通でない人間の事。
「マクタ」とは野の事(マンタはマクタの転訛と思われる)。
「キシタ」とは山の事。
「クルマクタキシタ」すなわち神野山となり、これがクロマンタと呼ばれるようになったと思われます。
 黒又山の名は後で付けられたものですが、ともかく古代の遺跡ストーンサークルをはじめとして、多くの神仏が祀られている野原に立つ山、そして深い神秘の中に多くの信仰を集めた山で、ピラミッドと言っても不思議ではありません。今もなお、信仰深い山「神野山」であり、すなわち現在の黒又山なのです。】とあります。

 ネットなどで「黒又山」で検索すると、「ピラミッド」だとか「レイライン」、はたまた「UFO」などという言葉がたくさん出てくる山ですが、以前には学術調査が行われ、山頂で縄文後期から続縄文期に渡る祭祀用土器が多数発見されたり、地中に人工構造物がある可能性が指摘されたりしています。
 ピラミッド云々はともかく、この山は、近くのストーンサークルとともに、古代人にとって、聖なる祭祀の場であったように思えます。


本宮神社


 この黒又山の山頂に本宮神社が鎮座しています。
 その由緒については、
【御祭神:大己貴命 誉田別命 火武主比命 保食神  創立年代不詳。 社伝によれば、万治己亥2年に中通四ヶ村一同にて、大己貴命を祭神とする神社を建立したとされる。別伝によれば、阿倍貞任の一門の本宮徳次郎が、薬師堂を建立したのが、創祀といわれる。本宮神社の社名は、明治以降のものである。※秋田県神社庁HP】と書かれています。

「別伝によれば・・・」とありますが、由来を記した説明板には、
【十世紀末頃、俘囚の長として成長した豪族安倍貞任は、この地に及ぶ程の強力な支配勢力をもっていたと言われる。安倍一門の中に本宮徳次郎という医者がいた。本宮は、安倍の従者として蝦夷地に移ってきたのであるが、草深い鹿角に来て薬草の生い繁るこの地に安住の場所を求めたのである。 その時、安倍の守り神である清水観音、八幡大菩薩、帝釈天を背負ってきたとされる。 安倍の守り本尊である帝釈天を庚神として現在地にまつり、これより巽の方角(草木八幡堂)に八幡大菩薩を、丑寅の方角(大円寺境内)に清水観音をまつったのである。 更に自ら庚神を守りながら、医者の守り神である薬師如来を一心に信仰し、四方はるか遠くからでもお参りできるよう、この黒又山頂に薬師堂を建立した。】とあります。 - 「本宮」という神社名は、この本宮徳次郎に因んだものなのでしょう。


 登山道の入口に「本宮神社」という扁額が掲げられた鳥居が立っていて、そのそばには大きな猿田彦碑(庚申塔)がありました。碑の前には三猿(みざる、きかざる、いわざる)が刻まれた石も置かれています。
 登山道が即ち参道という分けで、山頂まで至るには、杉木立に囲まれた細道が延々と続きます。時間にすればそれほどでもないのでしょうが、先の見えない曲がった道はけっこう疲れました。

 山頂には、お堂がぽつんと建っていて、その前に祠がふたつ。この社の前身は「薬師堂」と由緒にありますが、社殿には確かに「薬師神社」と書かれていました。社殿の中は古寺を思わせる雰囲気です。
 この神社、明治になって本宮神社と改称されましたが、昔も今も「お薬師さん」として親しまれ、厚く崇敬されているとのことです。

◇本宮神社

  
社殿
末社
社殿
祭壇



  
猿田彦碑
参道
石仏
社殿内


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                                ☆みちのくあれこれ☆
記事を読んでいただき、ありがとうございます。よろしかったら、応援をお願いします!

                 日本史 ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ にほんブログ村    


06-2019
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

«   »

月別アーカイブ
カテゴリー

openclose

グループ別記事

よろしくお願いします!
⇩に参加しています。応援してくださると励みになります!
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村        

歴史 ブログランキングへ
Welcome
 六月、緑鮮やかな季節になってきました。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
My Profile
Author:korekarada       ふるさと「東北・青森県」の史跡を巡り、感想などを綴っています。ときには、まだ見ぬ地方への憧れを「バーチャル旅行記」として、書いていきたいと思います。
My Friend
Thanks!
現在の閲覧者数:
My Contents
記事で紹介しているContentsをまとめています。ご覧ください!
コメント&トラックバック
Comments<>+-
Trackback <> + -
QRコード
QR