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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  津軽の七福神  

津軽の七福神7「弘法寺」-つがるみち188

「西の高野山 弘法寺」を訪ねるのも2回目です。
 このお寺については、【開創などは、一時期洪水などの天災で寺が消失したらしく、記録が残されていないため不明である。唯一現存する七代目住職の位はいが、貞和4年(1348)7月6日の年号があることから、かなりの歴史があったものと思われる。現在の弘法寺は明治に入ってから再興されている。本尊は弘法大師で高野山真言宗に属し、無檀家の信者寺で、先祖の廻向、および車などの祈とうに訪れる信者が多く、特に「黄泉の祝言」-独身で亡くなった人に伴侶(はんりょ)をおくる供養の行われる寺として知られ、人形堂には県内外より奉安された約千体余の花嫁、花婿の人形が安置されている。境内に建つ修行大師の石像は信者たちの力で大正7年に建立されており、県内最古のもの。また平成2年7月には、弘法大師が四国行脚の途中、橋の下に仮の宿を求めた姿を再現した「御寝み大師」が建立され人々の信仰を集めている。※HP真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」】と紹介されていますが、ここは、福禄寿を奉安する「津軽七福神霊場」のひとつでもあります。

後生車と石仏


 弘法大師の霊場ということもあり、境内には県内最古の修行大師像や寝姿の像などがあり、以前に訪ねた時は、それらを中心に見て回ったものでした。
 お寺の裏側が高台になっていて、頂上には伏見稲荷神社がありますが、そこへたどり着くまでの道筋には、たくさんの石仏などが立っています。

 今回、あらためてその山頂まで歩いてみました。
 賽の河原を思わせる後生車と石仏、馬頭観音碑、牛頭天王碑など、古ぼけた石碑や石像は、ゆっくり見ていくと、とても趣があります。
 参道には、西国三十三観音像が立っていますが、最後の観音様から上は稲荷神社への登り道。登りきったところに社殿があります。今回は、その中を覗いてみたのですが、中には狐にまたがった稲荷様が2体。この高台から、五穀豊穣を祈り、眼下に広がる津軽平野の「実り」を見守っているようです。
 実は、この社殿の裏に展望台の跡
展望台の跡
らしきものがあり、梯子も渡されていたようです。かつてはこの展望台から、津軽平野はもちろん、日本海、十三湖なども遠望できたのでしょうか。

◇稲荷神社への道

 
石仏
牛頭天王
三十三観音
稲荷神社①
稲荷神社②


地蔵堂①


 山頂から再び境内へ。以前、見逃したお堂があります。入口付近には無造作に置かれた野球ボール。
「ひょっとして・・・」と思い、中へ入って見ると、そこには、十字前掛けをしたり、きれいな衣装を着せられた幼子のお地蔵様
幼子のお地蔵様
がたくさん納められていました。中央の大きなお地蔵様の周りに子地蔵が並んでいる姿は、津軽の寺社ではおなじみの光景です。

 前に訪ねたときにも感じたのですが、この弘法寺の山門は、とても風格があります。その山門をくぐり、木々の間を進んで行くと本堂。マスコットの「こうやくん」が出迎えてくれます。
 祭壇の横の廊下側にも、「御休み姿の弘法大師」の他、いくつか神仏が祀られていますが、その一角に福禄寿が奉安されていました。

◇地蔵堂、山門、本堂

 
地蔵堂②
山門
本堂①
本堂②
福禄寿堂


福禄寿


 さて、「七福神」は、一般的に、「恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁才天、布袋尊、福禄寿、寿老人」の七柱を指しますが、それが定着したのは、七福神信仰が盛んとなった近世中期以降であるとされています。それまでは、例えば吉祥天が弁才天と同一視され、代わりにメンバーに入ったりするなど、時代や地方によって異動があったようです。
 福禄寿もその一人で、「背が低く、長い頭に長い髭、巻物を結んだ杖を持つ」その姿は、寿老人とあまりにも酷似しているために、同一神とされていた時期もあったといわれています。

 福禄寿は、中国の道教が起源の長寿の福神ですが、日本に伝えられてから、神道や仏教と結びつけて考えられたということもないため、「道士」「仙人」といったイメージが、ほとんどそのまま生かされている神であるとされています。
「福禄寿」という名前は、「福=幸福」「禄=富貴」「寿=長寿」を表すとされ、前述のように、その姿は「短躯(短身)で頭長の体つき。美髭を蓄え、左手には如意宝珠、右手の杖頭に経巻を結び、長寿の印の白鶴を伴っている。」という福神です。この「短躯・頭長」は、いわゆる「畸形」にあたる姿なのですが、昔の中国や日本では、そのような畸形の人が「異能の神」「福の神」として大事にされてきたとのことです。

 我が国の「福助」も、大きな頭とちょんまげが特徴の幸福を招く縁起人形ですが、【一説に、享和2年8月に長寿で死去した摂津国西成郡安部里の佐太郎がモデルである。もともと身長2尺足らずの大頭の者であったが、近所の笑いものになることをうれい、他行をこころざし東海道を下る途中、小田原で香具師にさそわれ、生活の途を得て、鎌倉雪の下で見せ物にでたところ、評判がよく、江戸両国の見せ物にだされた。江戸でも大評判で、不具助をもじった福助の名前を佐太郎に命じたところ、名前が福々しくて縁起がよいと見物は盛況であった。※wikipediaより】といわれています。

 - そのような伝承にあやかったものでしょうか、ここ弘法寺の福禄寿は、左右に大黒天と恵比須天、そして前に福助を伴い、中央に祀られていました。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 板柳町   Tags: つがるみち  津軽の七福神  

津軽の七福神5「蓮正院」-つがるみち181

 七福神めぐりということで、平川市・金剛寺(布袋尊)を皮切りに、黒石市・愛宕山地蔵院(恵比須)、弘前市・求聞寺(大黒天)、加福不動寺(毘沙門天)、覚応院(寿老人)と「津軽七福神霊場」を訪ねてきましたが、今回は板柳町の蓮正院を訪れました。
 真言宗醍醐派に属する蓮正院(れんしょういん)の山号は「大峰山(おおみねさん)」。不動明王を本尊とする津軽弘法大師霊場の第14番札所で、福神・弁才天を奉安する寺院です。

蓮正院


 静かな農村地帯にあるこのお寺。趣のある山門をくぐると、弘法大師の霊場らしく、大きな大師像が目に入ります。弘法大師霊場には、御詠歌がつきものですが、このお寺の歌は、「かかる世に 望みをつなぐ 蓮正院 南無や大師の 深きこころに」というものです。
 不動明王を祀る寺ということあってか、境内には不動堂や石像なども立っていました。もうひとつの御詠歌 - 「似非笑う 人もあるらん 濁り世に 不動利剣の 利益知らせん」

 
 ここの狛犬、目の中に10円玉や50円玉を入れていて、
狛犬
なかなかひょうきん者です。

 この蓮正院は、およそ450年ほど前に、加賀の国(石川県)の僧・観性(かんしょう)法印によって開かれたとされていますが、【蓮正院の縁起はその記録が乏しいため、詳細は明らかではない。断片的な資料を総合すると、最初は法隆院と称したが、寛政年間前後に蓮覚院と改め、文化、文政のころにいたって寿円山蓮正院と改称したようで、弘前市の大行院の支配下であった。
 その由来は「明治14年火生三昧御祈祷御寄進帳」に次のように記されている。
「大聖不動明王、その昔能登国石動山不動院に奉安請御本尊なり、大納言前田利家郷より火災消除祈願のため、我が祖たる堂守観性法印に下し給へし御神体にして、天正2年(1572)大和国大峰山に入りて修行し、権大僧都の位を得、巡り巡りて当国に来りて云々。※真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」より】と紹介されています。
 もっとも、別の説もあり、それによると開山は「関ヶ原の戦いに敗れ、山伏に変装してこの地に落ち着いた由緒ある武士」とも伝えられているようです。

 御本尊の不動明王は、前田利家から譲られたものとされていますが、寺宝として、開祖・観性法印所持の法螺貝とわき差し(一尺一寸二分、無銘)一腰が保管されているとのことです。
 また、このお寺には五能線工事の際、大戸瀬(深浦町)から出土した石法螺(いしぼら)
石法螺 ※地元TV局のニュース番組より
が保存されていますが、その口を吹くと、今でも音が出るようです。

◇境内

 
山門
境内
弘法大師像
不動堂
不動明王


弁才天①


 本堂へ足を踏み入れると、豪華な祭壇もさることながら、まず圧倒されるのが天井いっぱいに描かれた(飾られた)「雲龍図」。まるで生きているような迫力です。あまり見事なので、右から左から斜めから、そして仏様には申し訳ありませんでしたが、畳の上に寝そべって、下から眺めてしまいました。

 弁才天は、祭壇の右側(向かって)に奉安されていました。
 この神様については、「宗像三女神の市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視される水神で、その祠には池が設けられていること、海辺や島に祀られていること」などや、「才」は「財」に通じることから「弁財天」とも呼ばれる福神であること・・・など、何度か取り上げてきました。
 七福神の中では唯一の女性の神様であり、手に琵琶を抱えた妖艶な姿で描かれたり、造られたりすることが多いのですが、中には手に宝珠を持った吉祥天のような姿で描かれることもあるようです。吉祥天と同一視されていた時期もあったせいでしょうか。
 ⇒弁才天
弁才天 ※左:座頭石弁天社 右:堂ヶ平弁天宮


 弁才天は、元来、「サラスヴァティー」と呼ばれる芸術、学問などの知を司るヒンドゥー教の女神ですが、【サンスクリット語でサラスヴァティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神であるともされている。インドの最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』において、初めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の化身であった。流れる川が転じて、流れるもの全て(言葉・弁舌や知識、音楽など)の女神となった。※wikipediaより】とされています。
 日本には仏教伝来時に『金光明経』を通じて中国から伝えられ、その後、様々な神仏と習合し、七福神の一人として、広く信仰されるに至った分けです。

 ここ蓮正院には、手に琵琶を持ち、ふくよかなお顔の弁才天が祀られていました。

◇本堂と弁才天

 
本堂①
本堂②
本堂③
雲龍図
弁才天②


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  津軽の七福神  

津軽の七福神4「覚應院」つがるみち177

 弘前市湯口(旧相馬村)の覚應院を訪れるのは2回目です。
 以前は、津軽地方に残されている長慶天皇の伝承を探して、浪岡から御陵墓参考地のある旧相馬村へとやって来たときに訪れたのでした。
 山号寺名は「行峯山覚應院 (ぎょうほうざんかくおういん)」。真言宗醍醐派に属する寺院ですが、ここは津軽弘法大師霊場の7番札所であるとともに、福神・七福神の一人「寿老人」を奉安している「津軽七福神霊場」のひとつでもあります。

本堂


 覚應院は、【津軽藩5代藩主・信寿の時に家老・喜多村氏が故あって、茶臼館に不動尊を安置したことに始まる。以来、代々の藩主の崇敬を受け、藩の祈願所となり寺禄二十俵を受けたといわれている。※真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」より】といわれています。

 本尊である不動尊は「浪切り不動」と呼ばれていますが、そのいわれは、【天正13年(1585年)、津軽為信が、秋田沖で暴風雨に遭った際、太刀を海に投じて祈念したところ嵐はおさまり、錨を上げて見ると、不動明王の尊像が網にかかっていた。為信はこの奇瑞に感謝し、「浪切り不動」として、ここに祀った。※境内由緒書き他より】という伝説に基づくものです。

 茶臼館は、境内を見下ろす小高い丘ですが、鳥居から参道が延びており、
参道
頂上に不動尊を祀っているお堂があります。
 この茶臼館は、かつては砦だったところで、【堀が三重になっている要所の天険であって、長慶天皇が紙漉沢御所におられた時、供奉の溝口左膳亮が東方警備に当たった所である。溝口氏は代々修験者(山伏)の流れをつぐ家で、溝江と改姓したのは江戸の末期であったといわれている。溝口氏は長慶天皇崩御の後もこの地に在住し、行峯山を開いたもようである。】といわれています。
 ー 御詠歌にも「とこしへに 変わらぬ誓い たてし丘 のぼる茶臼の 坂の下」「みどり濃き 茶臼の館に 立つ御堂 峰行き山に 行きて拝まん」と詠まれているように、 覚應院の草創と深い関わりをもっている分けです。

 本堂には、不動明王ほか、たくさんの仏像が安置されていますが、中には、「浪切り不動尊」と「寿老人」
御朱印
の御朱印が置かれていました。

◇茶臼館と本堂

 
地蔵堂
不動尊鳥居
不動堂
本堂内①
本堂内②



寿老人


 本堂から茶臼館(不動尊)へと続く境内には、いくつかの祠が立っていますが、そのうちのひとつに龍神様を祀る祠もあ
りました。私が訪れた時には、小さな池にはまだ水が張られていませんでしたが、祠の中には龍が巻きついた女神様
龍神祠
が祀られていました。寿老人を祀るお堂「寿老堂」は、その隣に建てられています。

 さて、寿老人は【道教の神仙。中国の伝説上の人物。酒を好み頭の長い長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている。※wikipediaより抜粋】とされていますが、その姿形から同じく福神である「福禄寿」と同一神と考えられたこともあったようです。

 また、寿老人と福禄寿は、道教で祀る星宿のうち、生を司る「南極老人星(カノープス)」の化身とされていますが、日本では、北極星や北斗七星を神格化した「妙見信仰」は昔からあったものの、南極星に関してはなかったために、「七福神」以外に寿老人が信仰の対象になることはなかったともいわれているようです。

◇寿老堂

 
境内
龍神祠
寿老堂①
寿老堂②
寿老堂③


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  津軽の七福神  

津軽の七福神3「加福不動寺」-つがるみち174

 最勝院や袋宮寺、貞昌寺などの大きな寺院が立ち並ぶ弘前市の新寺町から少し離れた茂森新町。ここに加福不動寺というお寺があります。
 山号は「鷹揚山(おうようざん)」、不動明王を本尊とする真言宗醍醐派の寺院です。ここは津軽弘法大師霊場第4番札所であり、本尊の不動明王は酉年生まれの守り本尊であることから「酉年の一代様」としても知られているお寺ですが、毘沙門天を奉安する津軽七福神霊場のひとつでもあります。

山門


 このお寺については、【昭和41年、加福晃教和尚が真言宗国分寺派の末寺として開山した。修験道、加持祈祷を中心に活動し、同61年、修験道を極めるべく、寺籍を真言宗当山派修験の本山である醍醐寺(京都市)に移した。醍醐寺は、豊臣秀吉最後の観桜会「醍醐の花見」と言われるように、その勢力を広めた寺で、不動寺もその修験道の法燈を津軽の地に広めるべく、信者の迷いや悩みの相談を受け、現世利益を目的とした衆生済度のために日々の活動を続けている。※HP真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」から要約】と紹介されていますが、その開基にあたっては、次のような話が伝えられています。

①【加福晃教住職は、戦後間もなく 隣に住むおばあさんの手ほどきにより、水ごり(水行)を始め、以後、 赤倉山や出羽三山に出向き修行を続けた。ある日、住職は「町の上空を畳20畳分もある黄金色の物体が飛んできて、太さ10cmほどの縄がするすると降りてきた。その縄にしがみついたところ、ある山頂の石畳の上に降ろされた。」という夢を見た。】
②【ある日、津軽三不動尊へ参拝に出かけ、長谷澤神社に祈祷した帰り際、夢で見た太い縄があった。またその後、母の供養のため四国霊場巡りをして、高野山に詣でたところ、奥の院の『無明の松』付近で夢に見た石畳があった。】

 - 住職の見た霊夢が、鷹揚山加福不動寺の寺号を取得し、堂宇の建立につながった分けです。なお、津軽三不動尊とは、「その昔、円智上人が一本の神木から三体の仏像を彫り上げた」と伝えられている不動明王を祀る平川市・国上寺黒石市・中野神社、同じく黒石市・長谷澤神社を指します。
※①、②は、弘前公益社『こころ 津軽のお寺さん巡り 弘前編』を参考にしました。

 山門をくぐって境内に入ると、そこには如意輪観音の石像とともに、弘法大師像(修行大師)が立っていました。扉を開けて本堂の中に入ると、大きな燭台の後ろに、真っ赤な火焔を背負った黒光りするお不動様が見えます。そして、そのそばには、何体もの地蔵菩薩が祀られていました。

◇境内と本堂

 
弘法大師像
本堂①
本堂②
不動明王
地蔵菩薩


出羽三山祠


 毘沙門天堂は、本堂の隣に建てられています。住職が修行したという出羽三山を祀る祠と、童姿のお地蔵様の前を通ってお堂へと進みました。
 さっそく中を拝もうと思ったのですが残念。施錠されていました。カメラごしに見てみたのですが、お堂の中には、聖観音菩薩と、もう一体の観音様、そして、その真ん中に毘沙門天が祀られていました。「右手に仏敵を打ち据える宝棒(または三叉戟)、左手に宝塔を捧げ持つ」おなじみの姿です。

 毘沙門天は、仏法を守る四天王の一人であり、また、北方守護の神様でもあることから、津軽の寺社には、そのお堂がたくさんあり、たびたび取り上げてきましたが、「武神」のイメージが強いこの神が、どうして「福神」として信仰されるようになったのか・・・その由来については諸説あり、よく分かっていないようです。
 もともと毘沙門天は、インドの神話に出てくる「クベーラ」という神がその前身であったとされていますが、クベーラは、財福の神だったといわれており、それが強調され、「財宝、財徳」というイメージが庶民の間に広がっていったと思われます。

ー 【庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。鞍馬は北陸若狭と山陰丹波を京都と結ぶ交通の要衝でもあり古くから市が栄え、自然と鞍馬寺の毘沙門天の本来の神格である財福の神という面が強まり、また9世紀頃からは正月の追儺において、疫病を祓う役どころがかつての方相氏(ほうそうし:鬼を払う役目を負った役人)から毘沙門天と竜天のコンビに変わっていったことから無病息災の神という一面が加わる。平安時代末期にはエビスの本地仏ともされ、日本では毘沙門天は甲冑をつけた姿が主流となるがこの姿はエビス神の古い形態でもあり、このことは市場で祀られたことと関係がある。こうして福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。※wikipediaより】 ー

◇毘沙門天堂

 
童地蔵
毘沙門天堂①
毘沙門天堂②
観音像と毘沙門天
毘沙門天


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  津軽の七福神  

津軽の七福神2「求聞寺」-つがるみち173

 岩木山神社の隣にある求聞寺(ぐもんじ)は、津軽三十三霊場の3番札所であるとともに、津軽弘法大師霊場の9番札所、そして、丑年と寅年生まれの「一代様」として知られ、多くの信仰を集めている寺院です。
 私は以前にもここを訪れたことがありますが、その時は、三十三観音めぐりが目的で、参道に立つ観音像や境内の観音堂を中心に見たものでした。

 
 ⇒以前の記事へ  求聞寺①  求聞寺②

 ですが、その後、このお寺は「大黒天」を奉安する津軽七福神霊場のひとつであることを知り、もう一度訪ねてみようと思いました。

参道


 求聞寺の山号は岩木山(いわきさん)、虚空蔵菩薩を本尊とする真言宗智山派の寺院ですが、その草創は、津軽藩2代藩主・津軽信枚によると伝えられています。
 当時、津軽家では、藩主の継承問題をめぐる争乱(津軽騒動)が起こりました。結果、藩主となった信枚は領内の安定を願い、真言密教の「求聞持法」の荒行を行い、寛永6年(1629年)に百沢寺(現・岩木山神社)内に、虚空蔵菩薩を勧請して「百沢寺求聞持堂」を建立しましたが、それがこの寺院の始まりとされている分けです。

 虚空蔵菩薩は「広大無辺の智慧と福徳を授ける菩薩」で、求聞寺の名は「求聞持法」からとったものです。
 百沢寺(ひゃくたくじ)は、明治の神仏分離により廃寺(岩木山神社となる)になりましたが、求聞持堂もまた明治9年の火災により焼失。その後、愛宕山橋雲寺の衆徒・南光院斎藤法善が小俺を取り結び、再興し現在に至っています。

 神社を思わせる鳥居をくぐって参道を歩いて行くと、おなじみの三十三観音石像が道の両脇に立っているのが見えます。以前に来た時はあまり感じなかったのですが、参道には杉の大木がとても多いことに気づかされます。中には、根元がくっついている「夫婦杉」という木もあったりしますが、これも以前は気づかなかったものです。この夫婦杉は神木となっているようです。観音様を数えながら石段を登ると境内、見慣れた鐘楼堂や本堂、観音堂などが見えました。

◇求聞寺参道と境内

 
観音像
夫婦杉
境内
鐘楼
本堂



本堂①


 今回は、大黒天を拝むために本堂の中へ入ってみました。入口には「虚空蔵菩薩」と記された扁額。祭壇の上にも同じような扁額が掲げられていました。本尊は祭壇中央に祀られているようです。
 天井には、津軽家ゆかりの寺らしく津軽牡丹
津軽牡丹
が描かれています。奉納された絵馬の中には、真ん中に虚空蔵菩薩、両脇に虎(寅)と牛(丑)を描いたものもあります。このお寺を象徴している(本尊と丑寅の一代様)ような絵馬です。
 大黒天は、祭壇の左側(向かって)に祀られていました。

 さて、「大黒天(大黒様)」といえば、「左肩に大きな袋を背負い、右手に打出小槌を持ち、米俵を踏んでいる」という長者風の、いかにも福々しい姿を思う浮かべますが、元来、大黒天は【ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラのことである。「マハー」とは大(もしくは偉大なる)、「カーラ」とは時あるいは黒(暗黒)を意味するので、大黒天と名づく。あるいは大暗黒天とも漢訳される。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である。】とされているように、青黒い身体を持つ破壊の神・戦闘の神であったようです。

 日本においては、「大黒(だいこく)」が「大国」に通じるため、古くから「大国主命」と習合し、【当初は破壊と豊穣の神として信仰されていたが、後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。】とされていますが、その姿形も、【室町時代以降は大国主命(おおくにぬしのみこと)の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。】というように変容しています。なお、袋を背負っているのは、「大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたため」であるのだとか。 
 ※【】はwikipedia他からの抜粋です。

 大黒天に対する信仰は民衆の間に広まり、大黒頭巾をかぶり、手には打出小槌を持って、大黒天に扮して舞う祝福芸である「大黒舞」を生み出したり、かつては、「家を建てるとき、土間と座敷の間に中心となる柱が立てられ、そこに大黒天を祀った」という、いわゆる「大黒柱」の風習も生まれたりしました。
 また、大黒天は、生活の中心である台所(カマド)を守る神様でもあることから、「家内安全」、さらには、担いでいる米俵から、農家においては田の神様、商家にとっては商売繁盛の神様として崇められていったとされています。

 ところで大黒様と恵比寿様は、各々七福神の一柱ではありますが、多くは一組で信仰されることが多いとされています。これは、大黒様が五穀豊穣の農業の神であり、恵比寿様が大漁追福の漁業の神であることに起因すると考えられています。二人あわせて招福、商売繁盛(農産物、水産物)の神様という分けです。
 - ここ求聞寺に祀られている大黒天は、そんな神様であることを象徴するように、右手には打出小槌を持ち(大黒様)、左手には魚を持って(恵比寿様)いました。

◇本堂と大黒天

 
本堂②
本堂③
奉納絵馬
大黒天①
大黒天②


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 まだまだ雪深い津軽です。雪解けを待ち、ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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Author:korekarada       ふるさと「東北・青森県」の史跡を巡り、感想などを綴っています。ときには、まだ見ぬ地方への憧れを「バーチャル旅行記」として、書いていきたいと思います。
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