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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  津軽の北斗七星  

津軽の北斗七星「岩木山神社2」-つがるみち200

 津軽の風物詩である「お山参詣」については、【この行事がいつ頃から始まったかは定かではありません。一説によると鎌倉時代の初期といわれていますが、現在のように形式化したのは江戸時代中期(1719年)約289年前。その当時は、8月1日だけは一般の人々は山に入ることが出来ず、藩主のみが登拝するものでした。明治に入ってから、一般の人たちによるお山参詣がメインになったといわれています。】と紹介されています。
 その日程は、【向山(むかいやま)と呼ばれる初日、岩木山神社では、訪れた多くの人たちが参道を上ってお参りします。翌日の「宵山(よいやま)」では、大勢の参拝者が黄金色の御幣や色あざやかな幟(のぼり)を掲げ練り歩きます。白装束に身を包んだ参拝者たちは、登山囃子が響く中「サイギ、サイギ」の掛け声を響かせ、岩木山神社を目指します。
お山参詣
最終日の3日目は、旧暦8月1日の「朔日山(ついたちやま)」。参拝者は岩木山の山頂を目指して未明に出発します。懐中電灯などの明かりを頼りに岩場を登り、山頂付近でご来光に向かって手を合わせます。】という3日間に渡る行事です。
 参拝者たちが唱える唱文は、【懺悔懺悔(サイギサイギ)、六根懺悔(ドッコイサイギ)、御山八代(オヤマサハツダイ)、金剛道者(コウゴウドウサ)、一々礼拝(イーツニナノハイ)、南無帰命頂礼(ナムキンミョウチョウライ)】というもので、その大意は、【過去の罪過を悔い改め神仏に告げこれを謝し、(登拝することにより)身命をささげて仏菩薩に帰依し神仏のいましめに従う。】というものです。 - 岩木山神社は、この「お山参詣」の中心な分けです。
 ※上記の【】は、岩木山観光協会HPを参照しました。

 長い参道の先に楼門がありますが、先回もご紹介したように、右側に回って行くと龍神水があります。さらに回っていくと境内社のひとつである稲荷神社があります。「正一位稲荷大明神」の赤い幟のそばにはチビッ子狛犬。愛らしい姿です。
 稲荷神社から石段を登ると拝殿があり、右側に白雲大龍神の参道が見えますが、ここは、ちょうど、楼門の裏側にあたります。

◇稲荷神社ほか

 
龍神水
稲荷神社
稲荷神社狛犬
拝殿
楼門裏


楼門①


 さて、岩木山神社の前身は「百沢寺(ひゃくたくじ)」という寺院だった分けですが、天正17年(1589年)の岩木山噴火によって百沢寺全山が焼失したため、津軽藩藩祖・為信が慶長8年(1603年)に起工し、寛永17年(1640年)、3代藩主・信義の時代に完成したといわれています。

 見事な楼門は、その百沢寺山門として、寛永5年(1628年)、2代藩主・信枚の時に建てられたものですが、「桁行16.6m、梁間7.98m、棟高17.85m、丹塗り一色の二層の壮大な楼門」で、見る者を圧倒するような建物です。
 以前は、ここに十一面観音、五百羅漢像が安置されていましたが、百沢寺が廃寺になったため取り除かれ、五百羅漢像のうち、約100体は、現在、長勝寺の蒼龍窟に安置されています。
 この楼門は現在は岩木山神社の随神門となっている分けですが、両脇に随神像
随神像
が安置されており、門をくぐると中門と拝殿が見えます。

 どうしても、前方に目が行きがちですが、「ちょっと待った!」という感じでしょうか、実は、この楼門の玉垣の親柱にへばりついている一対の変わった狛犬?がいます。しかも一体は逆立ち。。。両方とも、何とも奇妙な、そして愛嬌のある姿です。

◇楼門

 
楼門②
随神像
長勝寺の五百羅漢像
楼門から
楼門の狛犬


                         ー 次回へ続きます。

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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  津軽の北斗七星  

津軽の北斗七星「岩木山神社1」-つがるみち199

 その昔、坂上田村麻呂が津軽の地に北斗七星になぞらえて配したとされる7つの神社。6つ目まで取り上げてから少し間をおきましたが、最後の7つ目は岩木山神社(いわきやまじんじゃ)です。
 津軽人の「心のふるさと」ともいうべき霊峰・岩木山の頂上に奥宮をもつこの神社は、多くの寺社とも深い関わりをもち、青森県の歴史・風土・文化に大きな影響を与えてきた社でもあります。

 県内外から多くの崇敬を集めるこの神社の御祭神は、顕国魂神(うつしくにたまのかみ)多都比姫神(たつびひめのかみ)・宇賀能売神(うかのめのかみ)・大山祇神(おおやまつみのかみ)・坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと)ですが、その由緒等については、【昔から 「お岩木さま」 「お山」 と親しんで呼ばれ、陸奥津軽の開拓の神、農海産物の守護神、また祖霊の座すところとして崇められている。今から約1200余年前、宝亀11年(780年) 社殿を岩木山頂に創建したのが当社の起源であり、延暦19年 (800年)征夷大将軍坂上田村麿これを再建し、別に山麓十腰内の里に下おり居ゐの宮みやを建立して、山頂を奥宮と称し、寛治5年 (1091年) 神宣により下居宮を現在地に奉遷。その後、世々の地頭・領主何れもがよく崇敬の赤誠をつくし、江戸時代には津軽藩主為信・信牧・信義・信政により大造営が行なわれ、近代には崇敬者の熱意を集めて、建造物、諸施設とも整い、名実ともにその偉容を誇り、畏き辺りも日本の北門鎮護の名社として、農業・漁業・商工業・医薬・交通関係、とりわけ開運福の神として、色々の宗派を越え、深い信仰の源として厚く崇敬されている。※青森県神社庁HP】と紹介されています。

一の鳥居から


 白い大きな一の鳥居をくぐると長い長い参道が続きますが、この参道は岩木山頂上の奥宮
岩木山頂上の奥宮
と一直線に結ばれているといわれています。
 その参道の入口付近に「五本杉」と呼ばれる名木があります。文字通り、根元から枝が5本に分かれている杉ですが、注連縄が張られ、境内の神木となっているようです。

 三の鳥居の手前に鎮座しているのが出雲神社。社殿の前には大黒天と恵比須様。
大黒天と恵比須様

 出雲といえば大国主命ですが、岩木山神社の御祭神である顕国魂神は大国主命の別称であるとされています。大国主命は神話によると、様々な地方の女神と婚姻を重ね、180柱の神々をもうけたとされていますが、これは、古代の出雲勢力の拡大を意味していると思われます。
 岩木山には、【昔、大己貴命(大国主命)が津軽に降臨し、百八十人の子どもを育てていたが、大変土地が肥え、収穫が多く、子をよく遊ばせることができた。それで、この山を阿曽部(岩木山の古名)と称した。※小館衷三『岩木山信仰史』】という伝説がありますが、出雲をはじめとする山陰地方と津軽は、古来から日本海航路を通じて深く結びついており、岩木山麓に製鉄技術をもたらしたのも、出雲地方の人々だったともいわれています。

◇参道

 
五本杉
出雲神社①
出雲神社②
三の鳥居から
楼門


龍神水


 参道はやがてりっぱな楼門へと至り、大きな狛犬
大きな狛犬
が出迎えてくれます。
 この楼門を右手に回り込んだところに龍神水があります。3つの龍の頭から岩木山の清らかな伏流水が勢いよく流れ出る名水(御神水)です。ここで手を合わせ、清水をひと口飲んでいる方々も大勢いました。

 前述の伝説の続き。【(大国主は)田の中に白い光を出すものあるので、よく見ると沼であった。田光(たっぴ)の沼と名づけた。竜女がこの沼から珠を得て献上したので、命は大変悦んで、国安珠竜女と名づけ、夫婦となってこの国をよく治めた。】といわれていますが、この竜女が即ち御祭神の多都比姫神です。

 「光る沼」「竜女」が示すように、この多都比姫神は水神で、農業に欠かせない「水」を恵む岩木山にふさわしい女神です。それは、ここ岩木山神社の龍神信仰と結びついている分けです。境内には、龍神水をはじめ、前述の出雲神社には「白龍大神」、本殿の隣には、池をともなった「白雲大龍神」もありました。

 楼門の左手からは、奥宮への登山道が延びています。「山頂まで約6km、4時間」と記されていました。
 岩木山といえば、例年、旧暦の8月1日に行われる「お山参詣」が有名です。「五穀豊穣」「家内安全」を祈願して、集団登拝する「お山参詣」は、津軽地方最大の行事ですが、それ以外にも、各地域の人々がそろってこの神社に参拝する習わしがあるようで、私が訪ねたときには、地元・百沢の方々の参詣行列に出合いました。
 御幣、神輿、幟端等を持った人々が、「サイギ、サイギ」と唱えながら本殿へと向かって行きました。⇒参詣する人々
参詣する人々


◇龍神、登山道ほか

 
白龍大神
白雲大龍神
奥宮登山口
登山道
参詣行列


                          ー 次回へ続きます。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  津軽の北斗七星  

津軽の北斗七星「乳井神社2」ーつがるみち146

 前回お伝えした乳井神社の奥、古館に登った時に、参拝に来ていた方々と少し言葉を交わしましたが、その方達は、「この神社には田村麻呂が隠した剣があるそうですが、今でもあるのでしょうか?」と笑いながら話していました。
 青森市内の方だそうで、同じく津軽北斗七神社のひとつ大星神社とともに、この北斗七星伝説に興味を持ち、親戚を訪ねるついでにこの神社に立ち寄ったということでした。

参道と拝殿


 りっぱな注連縄が張られた鳥居をくぐると、今にも飛びかかってきそうな表情の大きな狛犬
狛犬
が出迎えてくれます。燈籠も、とても大きなものですが、よく見てみると、その台座には龍が彫られていました。
燈籠

 参道には、恵比寿様や大黒天の石像がある神池がありますが、そのそばには龍神宮の祠が二つ並んで建っています。「金龍大聖王神」と記された祠の中を覗いて見ると、こんな神様が祀られていました。


 広い境内の中には、稲荷神社をはじめ、天照皇大神、猿田彦大神、牛頭天皇などを祭っている末社がありますが、その中に戸隠神社があります。
 前回お伝えしたように、この乳井神社はかつては「福王寺毘沙門堂」と呼ばれていた分けですが、鎌倉時代にこの地にやってきて、城郭や堂宇を建立した乳井氏は、もともとその先祖は信濃国・戸隠の修験僧であったと伝えられています。境内の戸隠神社は、そんな由緒を物語っているのでしょうか。

◇乳井神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
神池
龍神様
戸隠神社
拝殿と祠
拝殿内



本殿


 さて、この乳井神社は、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に毘沙門天を祀ったとの伝説を持ち、一帯に大きな勢力を持っていた熊野修験・福王寺だった分けですが、その由緒は、【承暦2年(1078)に福王寺が開山したことで神仏混合し、戦国時代末期には津軽氏の庇護の元、猿賀神社の別当にもなり寺運が隆盛した。江戸時代に入ると弘前藩主の祈願所として庇護された。現在の社殿である旧毘沙門堂は、明暦元年(1655)に3代藩主津軽信義によって再建された。】といわれています。
 その後、明治の神仏分離令により、社号は「乳井神社」と改められた分けですが、その際、【境内にあった仁王門や鐘楼などが撤去され、仁王門に安置されていた仁王像は黒石市の浄仙寺に移された。】とされており、この仁王像は
浄仙寺仁王像
現在、黒石市有形文化財に指定されています。
※【】は、HP「青森県歴史観光案内所」他を参考にしました。

 御祭神は、武甕槌命(タケミカヅチ)と経津主命(フツヌシ)、そして天手力男命(アメノタヂカラオ)。神話では、武甕槌命は大国主に国譲りを承諾させた神、経津主命は、刀剣の神ともいわれ、武甕槌命とともに国造りに活躍した神、天手力男命は天の岩戸からアマテラスを引き出した神です。
 ー 毘沙門天、そしてこの三神と、代々「武神」を祭ってきたこの社は、治政者にとって、戦略的に重要な位置を占めていたのでしょう。

五輪塔と板碑


 ところで、この神社にある板碑群と五輪塔は、弘前市指定有形文化財になっています。
 板碑群は、【神社境内とその周辺に分布していたが、神社の墓地の板碑は昭和初期に集められたものである。13基の板碑の年代は、鎌倉時代末期から南北朝時代に造立されたと考えられ、年号のあるものは十四世紀初頭のものが多く、当地方では早い時期に属している。石材は石英安山岩が多く、種子や願文を刻むが、種子を月輪で囲むものや二重線で区画するなどいくつかの種類が見られる。】
 また、五輪塔は、【この五輪塔は以前、本殿の裏にあったものである。比較的大形の五輪塔で、空・風輪は当初のものではなく、補修されている。火・水・地とも後部に破損が見られるが、押しつぶされた形の水輪の三面には種子が刻まれている。乳井城主の墓塔と伝えられるが年代が符合せず、五輪塔の年代はその規模や文献史料・板碑の存在から推定すると、津軽地方には少ない鎌倉時代の制作である。】と紹介されています。
※【】はHP「弘前の文化財」より

 実は、参道や社殿前にもいくつか板碑
参道と拝殿前の板碑
が立っているのですが、このまとまった板碑群は本殿の裏側、りんご畑の中にありました。
 拝殿の脇の坂道を登ると地蔵堂
地蔵堂
があり、そこから道が分かれています。案内の立て札
案内の立て札
にしたがって小道を登って行くと、その板碑群が見えました。

 私が訪ねたときは4月の中旬で天気も良かったのですが、やはりそこは墓所。。雪解けが終わったばかりで、辺りが「緑」になる前だったこともあり、何となくもの淋しい場所でした。

◇乳井神社の板碑と五輪塔 ※画像はクリックで拡大します。

板碑群①
板碑群②
板碑群③
板碑群④
板碑
五輪塔


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  名水と霊泉  津軽の北斗七星  

津軽の北斗七星「乳井神社1」ーつがるみち145

 弘前市の乳井地区は、大鰐町と平川市とを結ぶ街道沿いに古くから開けた、歴史のある町です。
 「乳井」という地名は、「災いが起こりそうなとき、その前兆で手水が白く濁る(乳白色になる)」との言い伝えからこの名がついたそうですが、この乳井の町に、「坂上田村麻呂が津軽に建立した七社のひとつで、毘沙門天が勧請され武器が納められた」と伝えられている、いわゆる「津軽の北斗七神社」である乳井神社があります。

乳井茶臼館


 この一帯には、かつて、乳井神社をはさんで、茶臼館と古館という城郭が築かれ、津軽の戦国時代に、その争乱の舞台ともなった所ですが、現在、その館跡は展望所となっています。
 茶臼館は、高さ約60m程の丘陵地帯に築かれていた山城で、東西約150m、南北約300m位の規模だったといわれていますが、現在はりんご畑になっており、遺構らしきものは失われています。
 かつて主郭があった頂上には、麓の曹洞宗・盛祥院というお堂から登山道が延びています。道端には、石仏なども立っており、りんご畑の間を縫うように延びた道を上りきった所が展望台。大鰐町、弘前市、平川市の平野が一望できる素晴らしい眺めです。

◇乳井茶臼館 ※画像はクリックで拡大します。

 
盛祥院
石仏
茶臼館①
茶臼館②
茶臼館から


乳井古館


 一方、古(ふる)館は、乳井神社本殿の裏側の小山に位置しており、境内の中を通って高さ100m位の山頂まで行くことができます。
 展望台には、鳥居と観音堂?。辺りには、愛宕神社があり、小さな祠がありました。「丘公園」と名付けられているようです。ここからも、山裾いっぱいに広がるりんご畑と、水田や町並みを眺めることができました。

◇乳井古館 ※画像はクリックで拡大します。

 
古館①
古館②
古館③
古館④
愛宕神社


 この茶臼館と古館・・ともにその築城年代は定かではありませんが、鎌倉時代にこの地にやってきた乳井氏によって築かれたといわれています。
 乳井氏は着々とその勢力を広げ、戦国時代、乳井玄蕃の代には猿賀神社の別当となり、「津軽の法師三大名」と呼ばれるほどでした。当時、南部氏は、付近に石川城や大光寺城などを築き、一帯を勢力下に収めていましたが、乳井玄蕃は南部氏にも従わず、「沙門大名」ともいわれていました。そのため、大光寺城主・滝本重行は刺客を放ち、1565年に玄蕃を暗殺。乳井氏は、所領を侵略をされることになります。
 その後、大浦(津軽)為信が津軽統一を目指し、1571年に石川城を攻略したのを機会に、玄蕃の嫡子・建清は為信に臣従し、1575年の大光寺城攻めで滝本重行を津軽から追放することに成功した分けです。

 しかし、1579年には再び押し寄せた南部方により、茶臼館などが落とされると建清は為信軍に従軍し、激しい戦いを繰り広げました。「六羽川合戦」と呼ばれるこの戦いでは、為信も苦戦を強いられ、家臣が身代わりとなって戦死するほどでした。今、この乳井付近を流れる六羽川には、為信の身代わりとなって戦死した武士を讃え、「津軽忠臣の碑」が立っています。合戦は結局、為信軍が勝利し、乳井氏は所領を取り戻し、南部氏との抗争に決着がついた分けです。

乳井神社二の鳥居


 乳井神社は、このような激しい抗争の歴史を見つめてきた社ですが、かつては「福王寺(※乳井氏の旧姓)毘沙門堂」と呼ばれる熊野修験系統の山伏寺でした。その勢力は大鰐町から平川市にかけて、山岳一帯の広い地帯に及んでいたと伝えられています。
 大鰐町へと向かう道路沿いに一の鳥居があり、そこから境内へと参道が延びています。
 参道を進み、城郭を思わせる立派な門(鳥居?)をくぐったところに水汲み場
桂清水①
があります。「桂清水」
桂清水②
と名づけられたこの湧水は、昔は、神社右手にある桂の木の根元から湧いていたということから、その名がつけられたといわれています。
 現在は、少し場所が移されてはいますが、津軽地方を代表する名水のひとつとして、訪れる人も多いとのことです。この「桂清水」から
桂清水③
参道は境内へと続いています。

                           ー 次回へ続きます。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 西目屋村   Tags: つがるみち  津軽の北斗七星  

津軽の北斗七星「鹿嶋神社」ーつがるみち134

 津軽の台地に、ひしゃく形に並んでいるといわれる北斗七星七神社。今回は、西目屋村・村市に鎮座している鹿嶋神社です(ではなく、のようです)。
 村市地区は、西目屋村から名所・暗門の滝に通じる県道28号線沿いに開けている集落ですが、ここには西目屋村の温泉施設「もりのいずみ村いちの湯」
「もりのいずみ村いちの湯」
があり、家族連れなどで賑わう所です。
 鹿嶋神社は、この施設のすぐそば、ほとんど同じ敷地内に鎮座しています。

乳穂ヶ滝


 ところで、西目屋村というと、その昔から、氷結した滝の太さや形状などによって豊凶占いが行われるという乳穂ヶ滝があります。
 毎年、2月下旬に滝の前で行われるその神事は、「乳穂ヶ滝氷祭」というイベントとして知られていますが、果たして、今年の占いはどうだったのでしょうか。
 実は、私もその氷結の様子が見たくて、2月、3月、そして4月上旬と、何度か足を運んでみました。2月には、がちがちに凍った氷が、滝壺めがけて延びていて、一本の氷柱となりそうな感じでしたが、祭りのときはどうなったのか分かりません。4月に訪ねたときには、雪解けの水が、太い筋となり、音をたてて流れていました。

◇冬の乳穂ヶ滝 ※画像はクリックで拡大します。

 
乳穂ヶ滝2月中旬
乳穂ヶ滝2月中旬
乳穂ヶ滝3月上旬
乳穂ヶ滝3月中旬
乳穂ヶ滝4月上旬



鹿嶋神社一の鳥居


 さて、この鹿嶋神社は、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が勧請した古社とされていますが、神社の説明板には【坂上田村麻呂将軍を祀っている鹿嶋神社拝殿に安置されている仏像は、将軍が地方征服した際、桂の木をとり彫刻したものであると伝えられている。】と記されています。平成18年には、村民の手により、建立1200年祭が盛大に行われたとのことです。

 江戸時代の紀行家・菅江真澄は、寛政8年(1796年)にこの神社を訪れ、次のように述べています。
【・・昨夜の雪も今朝はなごりなく晴れて、日も照っているので、家をでて、藤川という村の、こちらの畳平という村からはいり、おおひら山の麓、守沢というあたりに、大同年間の由来をもつといい伝えられている多門天の堂があった。
 山本に群れだつ杉がたいそう多い。去年か今年、改修されたと思われる清らかな堂にはいると、むかしの御仏であろう、六、七尺ほどの朽ちた古像がふたつたっていた。この堂の後方に人の丈の高さのところではかると、周囲七尋(十ニメートルぐらい)ばかりある大杉があった。たくさんある杉のなかで、これはとりわけ、どれほどの年を経たものか知れない古木である。この幹の真中あたりのところが朽ちて、その空洞に水がたまり、これを池の杉とよんでいる。三枚平という峰にのぼって、この杉の真中の空洞をみていると、ときには鮒のおどることがあるなどと、案内人が指さし見上げながら語った。※菅江真澄『雪のもろ滝』

 菅江真澄が、「多門天の堂があった。」と書いているように、この社は以前は「村市毘沙門堂」と呼ばれていましたが、明治の神仏分離令で「鹿嶋神社」と改称された分けです。また、真澄が見た二体の仏像は、現在も拝殿に安置されているということです。
 「巨木探し」に興味を持っている私としては、真澄がいう「周囲七尋(十ニメートルぐらい)ばかりある大杉」も見たかったのですが、探せませんでした。今はないのかも知れません。

鹿嶋神社拝殿


 津軽の北斗信仰は、毘沙門天信仰でもある分けですが、これについては、【北斗七星や北極星は、航海の方向を示すので、いつの間にか神格化し、北方鎮護の守護神とされ、北方神の毘沙門天(多聞天)と同一視されたものであろう。※古館衷三『岩木山信仰史』】といわれています。
 都からみて「鬼門」であった津軽の蝦夷を征討し、統治するためには、北の守護神・毘沙門天の力を必要とした分けで、その中心であった田村麻呂は、毘沙門天の生まれ変わりとも称されていました。
 青森、浪岡、猿賀などとともに、この辺り一帯にも「まつろわぬ民(蝦夷)」の集団がいて、かつては激しい戦いが行われたのでしょうか、ここの毘沙門堂の建立は、他の七神社同様、戦勝祈願のためだったと思われます。
 なお、西目屋村には、行基上人が、布教のためこの地を訪れたところ、蝦夷の抵抗にあったため、布教を成就させようと観音様を祀ったという伝承も残されています。 
 ⇒拙記事へ

 境内には、不動尊、稲荷神、山の神と並んで、「鬼神様」
鬼神様
という祠も建てられていました。「鬼神」が何を指すのか分かりませんが、あるいは、征服された鬼達(蝦夷)の霊を祀っているのかも知れません。

◇鹿嶋神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
拝殿①
拝殿②
御神燈
末社
本殿


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 9月に入ったとはいえ、まだまだ暑い日が続きます。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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