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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 外ヶ浜町   Tags: 津軽三十三寺社巡り  

義経寺 2 -津軽三十三寺社巡り19-2




 義経寺の境内は、左右に折れ曲がる石段の参道を登り詰めた高台にありますが、山門をくぐって、左の方に進み、さらに石段を上がった所が本堂です。
 北前船の寄港地、松前との渡航口として賑わった三厩に立つ寺院として、多くの海運業者や漁業関係者から篤く信仰された分けですが、本堂の下には金毘羅大神、海側の鐘楼のとなりには弁天堂など、水神を祀る堂宇も立てられています。



 大きな仁王像が立つ山門をくぐると、その正面に観音堂があります。
 御堂の前には一対の狛犬が置かれていて、堂宇の後ろ側には、本殿が立っているなど、神社の社殿を思わせる造りで、神仏混合の名残を感じさせます。
 また、観音堂を取り囲むように、三十三の観音像が立っていますが、この石の観音様は、西国からやってくる北前船が、お守りや重石としていたものとされています。

 観音堂の入口には、鰐口が下がり、「聖観音」と書かれた扁額が架けられていますが、その壁には源氏の家紋である「笹竜胆」が彫られており、いかにも義経伝説を伝えるお堂という感じです。
 中には、義経の物語に関する多くの絵馬や船絵馬が奉納されています。祭壇の中央には、金色に輝く聖観音菩薩が安置されていました。

◇義経寺観音堂ほか









 さて、前回お伝えしたように、義経寺は、蝦夷地渡海を目指して、平泉から三厩へと逃避行を続けてきた義経が、大嵐を静めるために、厩石に自分の守り本尊である観音像を安置し、祈ったという伝承に由来するお寺ですが、後に、この「義経風祈りの観音様」を発見したのは、円空和尚であったと伝えられています。

【寛文7年(1667)、この地を訪れた円空和尚が厩岩で神々しい光を放つ観音像を見つけると、その晩、円空の霊夢に観音像の化身が立ち、上記の由来を切々と語った事から、この観音像こそが義経の守り本尊と悟り、自らも観音像を彫り込み、胎内に義経の守り本尊を納め、草庵を結んだ。】
 また、別説では、
【本尊の観音像は義経の兜の前立てに納めた持仏で、江戸時代初期には越前足立(現在の福井県福井市)住民の甚兵衛が所有していたが、甚兵衛の霊夢に観音像の化身が立ち、「津軽三厩に我を納めよ」との御告げがあった事から、船頭である久末に頼み、三厩の船問屋伊藤家に納め、その後、円空に渡った。】とされています。

 現在、円空作と伝わる木彫観世音菩薩像(像高52cm、一木造り、寛文7年の銘)は「秘仏」として、観音堂に安置されていて、青森県重宝に指定されています。

 義経北行伝説は、ここ三厩の義経寺から津軽海峡を越え、北海道へと続いています。

※【】は、HP「青森 歴史・観光・見所」からの抜粋です。 

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 外ヶ浜町   Tags: 津軽三十三寺社巡り  

義経寺 1 -津軽三十三寺社巡り19-1




 外ヶ浜町は、蟹田町と平舘村、そして、(今別町をはさんで)三厩村という三つの町村が合併して誕生した町です。
 旧三厩村は 津軽半島の最北端に位置している分けですが、「三厩」という村名は「厩石(まやいし)」という大きな岩の名前から名づけられたとされていて、説明板には次のように記されています。

【厩石の由来:文治五年(1189年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた! 藤原秀衡の遺言「危機が迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし」のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることができない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩、日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるよう一心に祈願した。丁度満願の暁に、白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい」と云って消えた。翌朝、巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島へ渡ることができた。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩)と呼ぶようになった。】
 



 この厩石のある所は、三厩の漁港のそばなのですが、ここは、松前街道の本州側の終点にあたり、「松前街道終点之碑」が立っています。
 また、上記の説明板にも書かれているように、一帯は義経北行伝説の本州最北の地でもある分けですが、厩石のそばには「源義経渡道の地」という木柱が立っており、隣には、「源義経龍神塔」と「静御前龍神塔」が仲良く置かれていました。

 厩石の裏側には小高い山があり、その山上に義経寺があります。
 義経寺は、「龍馬山」を山号とする浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来ですが、境内の観音堂は津軽三十三霊場の第19番札所として知られており、名前の通り、源義経にまつわる伝説が残るお寺です。

 かなり急な石段が続く参道を登ると、やがて山門が見えてきますが、境内からは、津軽海峡を望むことができ、とても美しい眺めです。
 その沿革などについては、
【三厩湊が蝦夷地である松前との渡航口で北前舟の寄港地になると、義経が観音像の御加護を受けで蝦夷地に渡った故事(伝承)から、海に関わる海運業者(廻船問屋)や漁業関係者から篤く信仰されるようになります。特に義経寺では航海安全、豊漁祈願が行われ、境内には数多くの船絵馬や大漁旗、舟の重りで使用した石、石鳥居などが奉納され、文政2年(1819)には松前奉行村垣定行が石燈籠を寄進しています。当初の義経寺は厩岩近くに境内を構えていましたが安政2年(1855)に現在地に移り、神仏習合していた為、明治時代初頭に発令された神仏分離令により一時廃寺寸前となりましたが、今別にある本覚寺の末寺となり、現在に至っています。※HP「青森 歴史・観光・見所 」より】と紹介されています。











 義経寺は、太宰治の小説『津軽』の舞台にもなっていますが、太宰は、昭和19年5月18日に友達のN君と、このお寺を訪ねた時の話を次のように書いています。以下は、小説からの抜粋です。
【「登つて見ようか。」N君は、義経寺の石の鳥居の前で立ちどまつた。「うん。」私たちはその石の鳥居をくぐつて、石の段々を登つた。頂上まで、かなりあつた。石段の両側の樹々の梢から雨のしづくが落ちて来る。「これか。」石段を登り切つた小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立つてゐる。堂の扉には、笹竜胆(ささりんだう)の源家の紋が附いてゐる。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、 「これか。」と、また言つた。「これだ。」N君は間抜けた声で答へた。
 私たちは無言で石段を降りた。「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだらう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいふ話だ。」N君はさう言つて、力無く笑つた。私は信じたいと思つたが、駄目であつた。】
 
 太宰は、義経伝説に関しては、割と冷ややかにとらえていたようです。

 ー 次回へ続きます。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 今別町   Tags: 津軽三十三寺社巡り  

高野山観音堂ー津軽三十三寺社巡り20




 今別町役場の近くの坂道を登って行くと踏切がありますが、踏切を渡り切った所は広場になっていて、ここに高野山観音堂があります。
 広場から、さらに上の方に道が続いていて、杉木立の中を登って行くと、開けた場所があります。一帯の50年前の様子について、
【朝から花火が打ち上げられ、町には5月14日から3日間「今別町大観桜会」のポスターがはられ、「大運動会、消防観閲式、婦人会仮装、町内駅伝競走、上磯相撲大会」などと書かれていた。小学校のある丘の上、三十三観音のあるところがその場所だ。山桜、八重桜が十数本、松の木にまじって咲いていた。この丘から三厩湾が見渡され、はるかに北海道の山々も望まれる。津軽の観桜会は弘前、金木、青森、今別という順で、昭和5、6年ころには見世物小屋ができ、行商人も集まったし、青森からはカフェーが出張してきて、大いににぎわったものだと土地の人は自慢していた。※地元紙:陸奥新報HPより】と書かれています。当時の町の賑わいがしのばれる文章です。




 高野山観音堂は、津軽三十三霊場の20番札所ですが、建物は立派な寺院造りで、その前に案内板が立っています。
【この観音堂の草創は古く天長年中(826年頃)であると言われ、本尊は十一面観音で慈覚大師の作と伝えられている。
 寛政5年(1794年)の御堂建立に当たっては西国三十三霊場の土を運ばせ御堂の下に埋めたことからここに参詣すれば西国三十三観音を拝するに等しいとみ言われ津軽霊場三十三観音の二十番掛所として広く知られている。※案内板より

 その入口には鰐口が吊り下げられており、たくさんの巡礼札が貼られていますが、中に入ると、中央に祭壇があり、如来像とともに、本尊の十一面観音が祀られています。
 御堂の前の広場の周りには、観音像が置かれていて、ここからは、今別の町と海を望むことができます。昔も今も、ここは「観音の丘」として、町民の信仰を集めているのでしょう。

◇高野山観音堂









 現在、観音堂は本覚寺の末寺となっていますが、先の案内板に書かれているように、その草創は本覚寺よりも古く、藩政時代には、津軽三十三霊場のひとつ(20番、あるいは23番)として信仰を集めていました。
 しかしながら、その後、観音堂は荒廃したために、寛政3年(1791)に、本覚寺の愍栄上人が本尊の古仏を引き取り、本覚寺客殿裏に安置しました。この時、愍栄上人は、自らが彫り上げた十一面観音像を古仏の体内に納めたといわれています。
 その後、寛政5年に「円通庵」が創建され、本尊は再び、ここに遷されることになりましたが、この時、村の者を西国に行かせ、三十三霊場の土を持ち帰らせ、新堂の下に埋めたと伝えられています。

 - 御詠歌 : 高野山誓いをここに今別の 石の光りも弥陀の舎利浜 ー

※『津軽三十三霊場』 陸奥新報社 等を参照しました。

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袰月海雲洞釈迦堂ー津軽三十三寺社巡り21-2




 鬼泊巌屋観音堂から、今別町の方へ向かって5、6Kmほど進んだ所に袰月(ほろづき)の集落があります。
 一帯の海岸線は「袰月海岸」と呼ばれ、津軽国定公園にもなっている景勝地ですが、昔は、松前街道の難所のひとつで、嘉永4年(1851)には吉田松陰もこの道を通ったと伝えられています。

 その袰月の集落の入江に海雲洞釈迦堂があります。

 鬼泊巌屋観音堂とともに津軽三十三霊場の21番札所になっていて、明治の神仏分離によって巌屋観音堂は廃堂となりましたが、廃仏毀釈運動が薄まった明治20年代に、ここ袰月の村に再建された観音堂です。

 前回の記事でもお伝えしましたが、享保年間(1716~1736)の頃には、巌屋観音堂の建物は荒波に晒され、老朽化していたために、本尊の聖観音菩薩は、今別町内の本覚寺五世・貞伝上人の手によって本覚寺に遷されました。
 貞伝上人は名僧の誉れ高く、地域の産業振興にも尽くした人物で、
【漁師の生活を安じた貞伝上人が、境内の多門天堂に祈願し、経を書いた石を念仏読経とともに、海に投げいれ昆布を根付けさせたといわれ、当地方では、今別昆布は貞伝上人の賜わり物とされており、また、ただ取るだけでなく育てる漁業の先駆者ともいわれております。※本覚寺案内板より】と紹介されています。
 海雲洞釈迦堂は、この貞伝上人の作とも伝わる聖観音菩薩像を譲り受け、建立された分けです。



 道路沿いに赤い神橋が架かっており、その奥にもうひとつの赤い橋と鳥居が立っていますが、鳥居くぐると、その先には高さ10mほどの滝があります。細い絹糸のようなこの滝は、観音堂のシンボルとなっています。
 堂宇は、一見、集会所を思わせるような造りですが、扉を開けて中に入ると長椅子なども置かれています。地域の人々が集まり、時には句会なども行われているということです。建物の横には、「光明の松」と呼ばれる松の老木と地蔵堂が立っていました。
 ここは、釈迦如来を本尊とする本覚寺の末寺でもある分けですが、中央の祭壇の右側(向かって)には、釈迦如来や阿弥陀如来が祀られており、左側に聖観音が祀られていました。
 
◇袰月海雲洞釈迦堂
 





 裏側に滝があるところからその名がついたのでしょうか、ここの観音様は「滝見観音」と呼ばれています。
 地域の厚い信仰を集めているようで、壁には、「滝見観音は、我が国に三体のひとつで、古書には唐土より渡来せしとある。名を呼べば煩悩と災難は消え去り、火の海も水の池に変わるという。」と書かれた額が掲げられていました。

 - 御詠歌 :  鷲の山誓いも重き袰月の 影を浮世に残す舎利浜 -




 ところで、袰月は、高野崎と鋳釜崎というふたつの岬に囲まれた湾内にある分けですが、元来は、「両翼突(ほろづき)」と書かれていたとされています。二つの岬を翼に例えたものなのでしょうか。
 また、地名はアイヌ語の「ポロトゥキ (大きい坏) 」からきたという説や、地形が「母衣(武士が合戦の時馬に乗る際、飛んでくる矢を防ぐため背に負う、竹等で作った籠に布を被せたもの)」を思わせるところから名づけられたという説もあるようです。
 実は、ここにも義経の北行伝説が残っています。
【袰月というのは、源義経がここで鎧につけたホロをぬらしたので、道端のツキの木に掛けて乾かしたところから出た地名だという。海岸に袰の形の「袰岩」がある。また、義経の乗馬が岩になったのだとして、馬の腹の形をした岩や、ひづめの跡のある「馬岩」があった。※『青森の伝説』より

 伝説では、義経は、袰月海岸の変化に富んだ断崖と、そこからの月の眺めが見事であると絶賛したとされています。

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鬼泊巌屋観音堂ー津軽三十三寺社巡り21-1




 松前街道(国道280号線)は、蓬田村から外ヶ浜町、そして今別町へと津軽半島の頭部を反時計回りに進んで行く分けですが、途中に奥平部(おくたいらへ)の集落があります。
 辺りは、奇岩が立ち並び、美しい海岸が続く景勝地となっていますが、ここに津軽三十三霊場の21番札所である鬼泊巌屋観音堂があります。

 道路際に「岩屋観音」と書かれた標識が立っており、その矢印に従って石段を海辺に向かって降りて行きます。
 三つの鳥居をくぐった後に、右側を見ると、海に向かってドーンと突き出した巨岩がありますが、その岩屋の中に赤い小さな観音堂が見えました。
 波風をうけて、洞窟の中につつましく納まっているその姿は、津軽三十三霊場の中でも、とりわけ印象深い光景です。参拝に訪れる人々も絶えないようで、祠の前には多くの巡礼札などが架けられていました。
 案内板には、
【岩屋観音の草創は定かではないが、貞享3年(1689年)「外ケ浜代官所書上張」によるとこの天然の岩洞に小さな祠が建てられ観世音菩薩が安置されているとある。又、天明6年(1786年)頃の凶作が続いた大飢饉には人々が苦しみ心は荒れはて悪人を鬼と言われた頃、この観音堂は津軽霊場三十三観音の二十一番札所掛所として広く知られていた。】と書かれています。







 その縁起については定かではないのですが、伝承によると、天長年間、舎利浜(※辺り一帯の海岸。「舎利石」と呼ばれる白い光沢の石がとれることから名付けられた)から釈迦如来像が出現し、奉祭した事がきっかけとなって創建されたと伝えられています。
 その後、「厳屋観音」として広く信仰され、江戸時代には津軽三十三観音霊場第21番札所にも選定されましたが、『寛延巡礼記』という本の中に、「海の中に岩あり。船にて参詣する所なり」と書かれているように、余りにも海に近く、堂宇の傷みが激しかったために、本尊の聖観世音菩薩は、本覚寺(今別町)に遷され、廃堂となりました。
 しかし、本尊がなくなっても信仰厚い人々は厳屋観音への巡礼を続けていたといわれています。
 
 本尊は、明治20年代に近くの袰月(ほろづき)に祀られ、観音堂は再興されましたが、「霊地」である鬼泊にもその再建を望む声も多く、昭和30年代に、再び、厳屋観音堂が建立された分けです。ですから、津軽三十三霊場の21番札所は、現在、鬼泊と袰月の二カ所となっています。

 ー 御詠歌 : いにしえの鬼の岩屋に神立ちて 悪魔はあらず外ケ浜にも -







 案内板に、「飢饉が続いた頃、悪人は鬼と言われた」という記述がありますが、「鬼泊」という地名については、次のような話が伝えられています。
【今別町大泊の海岸には、奇岩怪石におおわれた岩場があり、その中に「鬼の穴」と言われる洞窟もある。その昔、この岩穴に鬼が住みつき、海を通る船や、田畑を荒らしたり、村人たちは困りはてていた。そこへ、兄・頼朝に追われ蝦夷へ向かっていた義経一行が通りかかり、話をきいた義経はその鬼を退治してしまったという。青森には各地に鬼伝説が残っているが、この「大泊」という地名も鬼が住んでいた「おにどまり」からきているといわれている。※今別の伝説「 大泊の鬼 」より

 松前街道は、いくつかの義経北行伝説が残る道でもある分けですが、ここ鬼泊もそのひとつです。

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 まだまだ雪深い津軽です。雪解けを待ち、ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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