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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: つがるみち  津軽統一までのあゆみ  

落城悲話「生魂神社」ーつがるみち129

 南津軽郡田舎館村は、弥生時代の水田跡が残る垂柳遺跡や田んぼアートの村として知られていますが、戦国時代には千徳氏が治めていた土地で、その居城である田舎館城があったところです。
 田舎館城は、本郭・外郭・新館・東郭の四郭で構成されていたとされていますが、現在では遺構らしいものは明確には残されておらず、本郭の端であったと思われる小高い場所に城址碑が立っているだけです。この田舎館城址のそば、道を挟んだ場所に生魂神社が鎮座しています。

田舎館城址


 田舎館城は、詳しい築城年代は分かっていませんが、建武3年(1336年)頃には既に城館があったといわれています。文明7年(1475年)には、南部氏一族で浅瀬石城主・千徳政久の次子である千徳大三郎貞武が田舎館城主となったとされていて、以後、千徳氏の居城として、南部氏の津軽支配に重きをなしていた分けです。
 大浦(津軽)為信によって、津軽統一への戦いが進められていた頃の城主は、5代・千徳掃部政武でしたが、政武は、石川城、浪岡城、大光寺城などが次々と落城したり、同族の浅瀬石・千徳氏が為信と同盟を結んだりした(後に同盟は破綻)中にあっても、頑として南部氏への情誼を曲げず、戦い抜いていました。そんな姿は、何となくあの高松城主の清水宗治を思わせます。
 政武は、高潔な人柄で家来や領民の尊敬を集めていたといわれており、為信もその人物を惜しみ、再三にわたって降伏勧告に努めましたが、南部氏への忠誠の念が厚かった政武は応じず、やむなく為信軍は、天正13年(1585年)5月、総攻撃を行い、田舎館城は落城した分けです。この時の戦いでは、為信軍3,000に対し、城兵は、わずか330余名、全員が突撃を繰り返し玉砕したという悲壮な落城の物語が伝えられています。
 城址碑が残る小高い丘は「ヤマコ」と呼ばれており、田舎館城兵330余名を埋葬した場所で、現在、そこには田舎館城400年記念碑
田舎館城400年記念碑
が建っており、後ろには往時の城を模した役場の庁舎
田舎館村役場
が見えます。
 この「ヤマコ」の老木・サイカチの木は、戦死した城兵たちの墓碑として植えられたと伝えられていますが、その姿は、
サイカチの木
落城の様子を今に伝えているようです。

 このような田舎館城の「落城悲話」を、いっそう際立たせているのが千徳政武の妻・お市の物語です。お市は、これまた為信に滅ぼされた和徳城(弘前市)主・小山内氏の娘だったこともあり、政武に嫁いでからも、父の仇である為信に一矢報いたいと念じていました。田舎館城落城当時、お市は十七歳・・夫の命にしたがって泣く泣く城を脱出したとされています。
 以後17年の間、お市は身を潜めていた分けですが、慶長6年(1601年)3月、清水森で執り行われた津軽統一の際の戦死者の大法要の場に、お市は侍女と共に突然姿を現します。仏前に進み出たお市は、【「それ義によって軽きものは武士の命、情けにより捨てがたきは婦人の身なり。わが夫はなはだに武名を重んじ、すみやかに戦場一葉の露と身をなし給う」と一巻の文を、朗々と読み上げた。『津軽一統志』】 ー そして、短剣を取り出して自ら胸を突き刺し、慕う夫の後を追って自害したといわれています。
 お市自刃の地である清水森には、彼女を祀る祠が建てられ、政武とお市夫妻の霊が弔らわれているとのことです。

生魂神社二の鳥居


 さて、生魂神社は、その縁起によると【人皇五十一代平城天皇の御代、 大同二年 (八〇七) 四月四日坂上田村麻呂将軍建立と伝えられる。 ※青森県神社庁HP】とあり、古くから田舎館城下において、信仰を集めていた社だったようです。御祭神は「生魂神 (いくむすびのかみ)」で、この神様は【「延喜式」にみえる神祇官八神のうちの一神。物を生産する能力を神格化したもので、天皇の守護神として宮中の鎮魂祭などの祭神とされた。※kotobankより】ということですが、イクは「活」、ムスは「産」であるために、物を活発に産み出す霊力をもつ神とされています。

生魂神社拝殿


 拝殿の中に由緒を記した額
由緒を記した額
が掲げられていますが、それによると、【田舎館城落城の際、兵火により炎上したが、不思議あると知り、為信公、御仮殿を建立・・】とあります。この「不思議ありと知り」が何を意味するのか定かではありませんが、戦国に限らず、勝者が敗者を祀ることは古来から行われてきたことで、あるいは滅んだ千徳氏の霊を鎮めるための建立だったのかも知れません。また、それは、千徳氏に代わって、新しく支配することになった土地の人心の安定を図ったものとも思われます。
 さらに、2代藩主・信枚は、その後、社を再建し、【鬼板に津軽藩の紋である「卍」を付けたが、 それは現在に至るまで社紋として用いられている。】とのことです。
「卍」は、古くは坂上田村麻呂がその霊力によって、岩木山麓の悪鬼(蝦夷)を滅ぼしたとされていたり、為信が旗の紋に用いたところ、津軽統一の念願が叶ったとされ、津軽藩の象徴ともいえる紋章ですが、その大事な御紋を、この神社の社紋として与えたところをみると、藩の経営上、この田舎館の地が重要視されていたことが分かります。

 境内には、もうすっかりお馴染みになった金属製の注連縄や、大きな牛の石像。本殿の隣には「千徳掃部追悼碑」が建てられていました。

◇田舎館・生魂神社 ※画像はクリックで拡大します。

 
生魂神社狛牛?
生魂神
千徳掃部追悼碑
生魂神社拝殿①
生魂神社拝殿②


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  津軽統一までのあゆみ  名木めぐり  

落城悲話「一本杉とじょんから節」ーつがるみち99

 戦国時代には、城の落城に際して、最期を覚悟しながら勇敢に戦い、散っていった主従や哀れな女性達の物語がたくさんありますが、津軽の戦国もまた同様で、大浦為信の津軽統一の過程で、為信軍に敗れ落城した城の「悲話」がいくつか語り継がれています。
 黒石市・浅瀬石城もそのひとつで、その落城に関する悲話は、「一本杉」及び「じょんから節発祥の地」という史跡として今も残されています。  ⇒浅瀬石城址・一本杉・じょんから節の碑
浅瀬石城址・一本杉・じょんから節の碑


浅瀬石城址館神社


 浅瀬石城は、黒石市・高賀野に築かれた平城で、現在は城址碑
浅瀬石城址
と土塁や掘の跡がわずかに残るのみですが、その絵図
浅瀬石城絵図
を見ると往時の広大さが分かります。
 定かではありませんが、この城は仁治元年(1240年)、南部氏の一族・千徳(せんとく)伊予守行重によって築城されたといわれています。戦国時代には、石川城(弘前市)や大光寺城(平川市)とともに、南部氏の津軽支配の拠点であり、交通の要衝でしたが、永禄4年(1561年)、10代城主・千徳政氏は、大浦(津軽)為信と「統一の暁には津軽を二分する」という盟約を交わし、南部氏に叛旗を翻します。
 その後、千徳氏は為信と組んで、大光寺城や、同族であり南部氏に忠誠を誓っていた田舎館・千徳氏を攻略し、これを滅ぼす分けですが、この千徳氏の裏切りに激怒した本家・南部信直は、大兵を派遣し、浅瀬石城を攻撃します。しかし、千徳氏の頑強な抵抗に合い、城を落とす事ができなかった分けですが、盟友・為信はこのとき千徳氏のもとへ援兵を送らず、このことが同盟亀裂の原因にもなったとされています。
 やがて、津軽平定がほぼ成った後に、為信と千徳氏は対立するようになり、遂に慶長2年(1597年)、為信軍の攻撃を受け、千徳氏は滅亡、浅瀬石城は落城した分けです。

◇『津軽じょんから節』
♪二 ハアー今は昔の七百年前 南部行重城主となりて 伝えつたえて十代あまり
♪三 ハアー頃は慶長二年の春に 大浦為信大軍率い 城主政保討死いたす

一本杉


 東北自動車道・黒石ICの辺りの道端に「一本杉」と呼ばれる杉の木がポツンと立っています。高さ15mといわれるこの老木は、辻堂とともに、もとは浅瀬石城主・千徳氏の菩提寺にあったものといわれていて、現在は「辻堂跡」として史跡になっています。
 この老木には、落城し、滅亡した千徳家の怨念がこもっていると信じられ、古くから大切に崇められてきた分けですが、東北縦貫道路の建設にあたり、この木が路線にあたっていたために、一時は切り倒しの話も出ました。しかし、「切り倒しては災いがおこる」という村民の意見を受け、もとの場所から50mほど離れた現在地に移植されたとのことです。    ⇒史跡一本杉(画像複数)

 さて、この辻堂の住職は常縁(じょうえん)という和尚でしたが、常縁は、【為信軍と戦う主家の必勝を祈願し、神仏の加護を信じて熱祷を捧げていたが、大浦勢は喚声を挙げて辻堂にも乱入し、手当り次第に仏像をこわし、墓をあばく乱暴を働いたので、和尚は先祖代々の位牌を背負い、薙刀を構えて仁王立ちとなり「汝等、大浦の犬ざむらいめ!仏像をこわし、仏を足げにするとは仏道を恐れぬ人非人ども、人は死しても霊魂は不減なり、我れ死すとも、この罪は汝等の子々孫々に至るまで祟りあらん」と大声で叫び、大勢の大浦勢を相手に奮戦したが、多勢に無勢で、逐いに裏道から白岩まで逃れたが、進退極まり浅瀬石川
浅瀬石川
の濁流に飛込んで、その一生を終った。】とされています。

◇『津軽じょんから節』
♪四 ハアー時に辻堂常縁和尚 先祖代々位牌を背負い 高い崖から濁流めがけ

じょんから節の碑


 常縁和尚が身を投じた場所は浅瀬石川に架かる上川原(じょうがわら)橋
上川原橋
の付近で、現在はそこに「津軽じょんから節発祥の地」という碑が建てられています。
【和尚が身投げしてから数年後の夏、村の子供等が川原で砂遊びをしていると、砂の中から変り果てた常縁和尚の屍体があらわれた。子供等の騒ぎに村人が駆けつけ、相談の結果、その場所に墓を作り、手厚く葬って、常縁の墓と名づけたので、この辺一帯を「常縁川原(じょうえんかわら)」と称した。】といわれていて、「常縁川原」がやがて「上川原」となっていったとのことです。
 以来、お盆になると村人達はこの川原に集い、盆踊りに即興の唄を添えて常縁や千徳氏の霊を慰めた。 ー それが、やがて津軽を代表する民謡『津軽じょんから節』
『津軽じょんから節』の碑
となったという分けです。

◇『津軽じょんから節』
♪五 ハアーやがて春過ぎ真夏となりて村の子供等水浴びすれば 砂の中から哀れな姿
♪六 ハアー村の人達手厚く葬り 盆の供養をすました後は 昔偲んでじょんから節よ

※【】は『津軽じょんから節』説明板を参考にしました。また、じょんから節の歌詞には様々なものがあります。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: 津軽統一までのあゆみ  

十三湊と安東氏4ー「市浦歴史民俗資料館」

 「安東史跡をめぐるみち」にしたがって、福島城址、山王坊遺跡、春日内観音堂、唐川城址と巡ってきましたが、最後に十三湖中の島にある市浦歴史民俗資料館を訪ねました。先回もお伝えしましたが、十三湖周辺は、縄文時代から中世にかけての遺跡
十三湖周辺の遺跡 ※歴史民俗資料館パンフレットより
がたくさん残っているところで、中でも十三湊遺跡は国史跡にも指定されています。民俗資料館は、そんな十三湖の歴史的な資料や出土品などを展示している場所です。

 館の中の展示コーナーは、時代に合わせて区切られていますが、まず目を引くのは、「オセドウ貝遺跡」の出土品です。「オセドウ」とは「お伊勢堂」が訛ったもので、現在は神明宮になっているところです。大正12年に貝塚が見つかったのに続いて、「円筒式土器」をはじめ、縄文前期から中期にかけてつくられた貴重な土器などが多数発見されました。
 このオセドウには、はるか昔、神武天皇の東征の際、頑強に抵抗した大和の長髄彦(ナガスネヒコ)が、その兄の安日彦(アビヒコ)とともに、津軽に流れてきて、ここで亡くなったという伝承があります。安日彦は、奥州安部氏の祖ともいわれ、安部氏の流れをくむ安東氏は、ここを長髄神社とし、崇拝したと伝えられています。しかし、何せ神話時代の言い伝えであり、まともには信じられていませんでした。しかし、その後の発掘で身長2m近い巨大な人骨
オセドウ貝遺跡・巨大な人骨
が見つかり、「これこそ長髄彦の骨ではないか。」と話題になりました。もちろん、真偽は?ですが。。。

 
 五月女萢(そとめやち)遺跡
五月女萢(そとめやち)遺跡
は縄文後期~晩期の遺跡です。時期的には、つがる市木造の「亀ヶ岡遺跡」と重なります。展示されている多くの石器や土器は、当時、ここ十三湖及び岩木川周辺に「亀ヶ岡文化」が広がっていたことを物語っています。

 「中世」の展示室には、十三湊遺跡から出土した様々な陶磁器や土器、山王坊遺跡にあった五輪塔の他、貴重な古文書や絵図など、安東氏の軌跡を思わせるものが展示されていました。残念ながら、このコーナーは撮影禁止でした。それでも、入口に掲げられている環日本海交易図
環日本海交易図
などを見ると、「日の本将軍」と呼ばれた安東氏の日本各地及び海外での活躍の跡が分かります。

↓歴史民俗資料館 ※クリックで拡大します。
市浦歴史民俗資料館①
市浦歴史民俗資料館②
市浦歴史民俗資料館③
市浦歴史民俗資料館④
市浦歴史民俗資料館⑤
市浦歴史民俗資料館⑥
市浦歴史民俗資料館⑦
市浦歴史民俗資料館⑧※パンフレットより
市浦歴史民俗資料館⑨※パンフレットより


 ところで、この十三湊、興国元年(1340年)の大津波によって壊滅したというのは本当のことなのでしょうか? ー 発掘の結果によれば、中世を代表する巨大な港湾都市であったことは証明されたものの、大津波の被害を思わせる跡は発見されなかったということで、現在は否定されているようです。ー
 そんな発掘の結果を裏づけているものは、かつて十三湊は日本の 「三津七湊(さんしんしちそう)」 の一つに数えられていたという事実です。このことは日本最古の海洋法規集である『廻船式目』に記されていますが、この本が成立したのは室町時代の後期。また、安東氏が南部氏に敗れ、北海道へ逃れたのは1443年頃のこと。とすれば、「大津波」の約100年後。当時の十三湊はまだまだ「健在」だったということになります。こうしたことから、ー衰退の原因は大津波というよりも(それが事実だったとしても)、安東氏が抗争に敗れ、十三湊を放棄したことにあるー と考えられます。

 その後、南部氏の時代になり、次第に交易の中心は大浜湊(青森港)や野辺地港へと移され、十三湊は整備されることも無く、港としての機能は衰えていきました。ですが、津軽氏の時代になると、また活気を取り戻します。
 津軽藩の財政源は、鯵ヶ沢港を通して大阪など上方に米を送り、販売して得られる収入でした。収穫された米は岩木川の水運によって、いったん、十三湊に集められ、そこから海路鯵ヶ沢に運ばれるしくみになっていました。「十三小(米)廻し」と呼ばれたこの体制は、再び十三湊に繁栄をもたらした分けです。
 しかし、やがて年月が経つにつれ、港には川からの土砂が堆積し、水深が浅くなり、大船の入港は困難になっていきました。また、水運の要であった岩木川も、新田開発その他により、水量、川幅等が減退していったために、やがて、米の運搬は陸路を通じて行われるようになりました。ー「十三小(米)廻し」の終わりとともに、十三湊の衰退が再び始まったわけです。ー

 
 こうしてみると、十三湊に衰退をもたらしたものは、政治状況の変化、交易・経済ルートの変化、そして自然環境の変化であったことが分かります。

 十三湊の繁栄をのみこんだ「大津波」とは、すなわち、こうした大きな「時代のうねり」であったのかも知れません。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: 津軽統一までのあゆみ  

十三湊と安東氏3ー「唐川城址」

 安東史跡をめぐるみち
安東史跡をめぐるみち
の3回目です。今回は唐川城址をご紹介します。ここへは、先回訪ねた山王坊遺跡から続く遊歩道
山王坊遺跡から続く遊歩道
を通って来ることもできますが、私はいったん山王坊から国道に戻りました。

 十三湖付近には、牧場がいくつかあり、のんびりと草を食んでいる牛たちに出会うこともあります。のどかな光景です。山手の方へ車を進めていくと、まもなく「大沼公園」が見えてきます。ここは、「岩井・大沼遺跡」と呼ばれる縄文晩期の遺跡です。発掘調査の結果、縄文時代の土器捨て場が発見され、石器や土器製品がまとまって出土したところです。十三湖一帯には、縄文時代の遺跡がとても多く、出土した土器などは、中の島にある「歴史民俗資料館」に展示されています。湖面に架かる大きな橋は 「東日流館橋(つがるやかたばし)」。屋根付きの橋としては、日本一長い橋とされています。唐川城址は、この大沼公園から、さらに5分くらい上ったところにあります。城跡から、道なりに降ると春日内観音堂が見えてきます。

↓唐川城址周辺 ※クリックで拡大します。
十三湖付近の牧場
大沼公園
東日流館橋(つがるやかたばし)
唐川城址①
唐川城址②
春日内観音堂へ
春日内観音堂


 唐川城
唐川城
は、安東氏が十三湖を見下ろす標高160mの山の頂に築いた山城で、福島城の詰めの城(出城)であったとされていますが、元々は古代からの「高地性集落」の跡だともいわれています。城の南側には唐川が流れ、北側は険しい山岳の天然の要害で、堀と土塁に仕切られた城郭といくつかの曲輪があったとされています。
 ここは、1443年、南部氏によって福島城を追われた城主の安東盛季(もりすえ)が立てこもり、防戦した城でした。その後も南部氏の攻撃を受けた安東氏は、同じく福島城の支城であった「柴崎城」に逃亡し、渡島(北海道)へと渡っていったとされています。現在、遺構はほとんど残っていませんが、駐車場の後ろ側にある土塁の跡が当時を偲ばせてくれます。
 展望台が設けられており、十三の大地、十三湖、そして日本海を眼下に見ることができます。すばらしい眺めです。よく晴れた日には岩木山も見えるとか(私が訪ねたときは、あいにくの曇り空)。。黒光りする大きな安東氏の顕彰碑には、「日の本将軍」の文字とともに、日本地図、そして十三湊が描かれていました。

↓唐川城址
唐川城址①
唐川城址②
唐川城址③
唐川城址④
唐川城址⑤
唐川城址⑥
唐川城址⑦


 帰り際にひとつの古ぼけた案内板を見つけました。義経北方伝説
義経北方伝説
を記したものです。大意は、 ー 義経は衣川で死せず、北へ逃亡した。身代わりになったのは、杉目太郎行信という人物である。十三湊へ逃れてきた義経は、当時の支配者「藤原(十三)秀栄」に匿われ、やがて、竜飛から北海道へと渡っていった。ーというものです。
 青森県は、八戸→青森→十三湖→三厩→竜飛と、「義経伝説」がたくさん残っているところです。ロマンをかきたてるこの伝説。。三十三霊場19番札所「義経寺」を訪ねたときに、取り上げてみたいと思います。

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十三湊と安東氏2ー「山王坊遺跡」

 安東氏は、ここ十三湖一帯に「平安楽土」の地を築こうとしていたのでしょうか?都(京都)から様々な文物の移入に努め、繁栄を極めた頃は、周辺に数多くの神社仏閣が点在し、「十三千坊(とさせんぼう)」
十三千坊※「山王坊遺跡の発掘調査成果についてー五所川原市」より
と呼ばれていました。
 少し時代は下りますが、五所川原市の「長円寺」というお寺にはこんな伝説が残されています。 ~昔、長円寺に納めるために、二つの雌雄の鐘が、京都から津軽へ送られてきた。しかし、十三湊へ入ったとき暴風雨になり、雌鐘は湖底に沈んでしまった。今でも長円寺に納められた雄鐘をつくと、その鐘は十三湖の雌鐘を慕って「十三恋しやゴーン」と響き、それに応えるかのように湖底からは「長円寺恋しやゴーン」という雌鐘の音が響くのだという。以来、十三湖は沈鐘湖とも呼ばれ、今でもよく晴れた日に、漁夫が水中の鐘を見かけることがあるという。しかし、人の気配がすると鐘の中からたちまち魚のようなものが現れて、たちまち泥をかきたてて見えなくなってしまうのだという。 ~ 
 ーもの哀しい話ですが、古来から、十三湊が宗教文化の窓口であったことを思わせる話でもあります。ー

 さて、「山王坊遺跡」は十三千坊の中心となった宗教施設。遺跡へと通じる道には、大きな鳥居
シンボル塔
が立っています。実は、これは安東文化を顕彰するシンボル塔で、説明板
説明板
によると、平成5年のNHK大河ドラマ『炎立つ』の中で、十三湖がロケ地になったことを記念して立てられたものです。『炎立つ』は、奥州平泉藤原氏の興亡を描いたものですが、安東氏以前、十三の地は、藤原秀衡の弟の秀栄を祖とする十三氏が治めていたところです。ですから、当然、あの平泉の絢爛たる文化の影響を受けないはずはなく、後を継いだ安東氏もまた、それに倣ったことと思われます。

 シンボル塔をくぐって車を走らせると、やがて「日吉(ひえ)神社」の鳥居が見えてきます。ところで、この鳥居、上にもうひとつ「屋根」がついているような独特の形をしています。この「屋根」は「破風(はふ)」と呼ばれ、仏教と神道の合一を象徴しているもので、このような鳥居の様式を山王鳥居
山王鳥居
というそうです。「山王」とは滋賀県大津市坂本にある「日吉大社(日吉は「ひえ」とも読み、”日枝”とも書く)」の別称であり、安東氏は、その分霊社として、この社を建立したとされています。いわばここは神仏習合の宗教施設。入口にある地蔵堂
地蔵堂
がそれを物語っているようです。

 ここは、古来から霊地・聖域として村民に畏怖されてきたところで、阿吽寺という寺院があった場所ともいわれています。境内の中は無数の杉木立。まさに「神域」を思わせます。小川が流れる境内には小さな橋が架けられており、境内の説明板
境内の説明板
に書かれているように、流れに沿って庭園が造られていたような感じがします。

↓山王坊境内 ※クリックで拡大します。

 
三王坊境内①
三王坊境内②
三王坊境内③
三王坊境内④
三王坊境内⑤
三王坊境内⑥
三王坊境内⑦


 境内を一巡りした後、再びいくつかの鳥居をくぐると拝殿が見えてきます。何回かの発掘調査によると、周りにいくつかの礎石の跡が見つかり、本殿、舞殿、渡殿、仏堂風の拝殿、本地堂と神社と寺院が並存するような伽藍配置であったことが分かってきています。”素人”の私には、それらの宗教施設の判別はできませんでした。ただ、拝殿から少し回り込んだところに磐座(いわくら)
磐座(いわくら)
の跡を見たとき、ここが仏教と神道を、ある意味では超えた「信仰の場」であったことを実感しました。

 
山王坊宗教施設①
山王坊宗教施設②
山王坊宗教施設③
山王坊宗教施設④
山王坊宗教施設⑤
山王坊宗教施設⑥
山王坊宗教施設⑦


 ここ山王坊は、安東氏に取って代わった南部氏が、2回にわたって執拗に攻めた場所といわれています。それは、安東氏の築いた文化の象徴ともいえる場所だったからではないでしょうか。境内の杉木立が、何となく細くてあまり年輪を感じさせないのはその時の戦いで、焼失してしまったせいでしょうか。

 「安東史跡をめぐるみち」は、ここから春日内観音堂、そして唐川城址へと続いています。

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