少し前のことになりますが、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が、世界文化遺産登録を目指す候補に選出されたという記事が新聞にのっていました。
青森市の小牧野遺跡も、その中のひとつです。私も数年前に遺跡を訪れ、いろいろ見て回りました。
⇒ 小牧野遺跡① ⇒ 小牧野遺跡②
また、遺跡から少し離れた所にある「縄文の学び舎・小牧野館」にも出かけて見学したりしました。
新聞記事を見て、久々に行ってみようと思い立ち、先日、行ってきました。
5年くらい前に訪れたときは、小さな建物がぽつんと立っているだけでしたが、今はりっぱな「小牧野の森 どんぐりの家」という観察施設があります。

森の中や遺跡へ向かう道のわきには、ウサギやタヌキ、ミミズクなど、ユーモラスな木彫りの人形(?)が置かれています。

今回は、この遺跡の特徴である環状列石のまわりを、ぶらぶらと歩いてきました。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆ ☆縄文と弥生☆
青森市の小牧野遺跡も、その中のひとつです。私も数年前に遺跡を訪れ、いろいろ見て回りました。
⇒ 小牧野遺跡① ⇒ 小牧野遺跡②
また、遺跡から少し離れた所にある「縄文の学び舎・小牧野館」にも出かけて見学したりしました。
新聞記事を見て、久々に行ってみようと思い立ち、先日、行ってきました。
5年くらい前に訪れたときは、小さな建物がぽつんと立っているだけでしたが、今はりっぱな「小牧野の森 どんぐりの家」という観察施設があります。

森の中や遺跡へ向かう道のわきには、ウサギやタヌキ、ミミズクなど、ユーモラスな木彫りの人形(?)が置かれています。



今回は、この遺跡の特徴である環状列石のまわりを、ぶらぶらと歩いてきました。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆ ☆縄文と弥生☆



青森市の小牧野遺跡は、国の史跡にも指定されており、北東北の縄文後期を代表する遺跡のひとつです。
遺跡の土坑墓周辺から大量の土器や石器が発掘されている他、墓石や湧水遺構なども発見されていますが、何といってもこの遺跡を特徴づけているのは環状列石の存在です。
【直径2.5mの中央帯、直径29mの内帯、直径35.5mの外帯の三重の輪のほか、さらに外側に、一部四重となる弧状列石や、直線状列石、直径4mの環状列石などがあり、直径は55mにもおよぶ。荒川から運んだと推測された石を、縦に置き、さらにその両脇に平らな石を横に数段積み重ね、さらにその脇に縦に石を置いて環状に並べて、そうして出来た環をさらに三重(一部四重)にしている。この並べ方は石垣の積み方に類似する煩雑な並べ方からも全国的にも非常に珍しく、「小牧野式」と呼ばれている。※wikipediaより】
小牧野遺跡は山中にあるため、冬期間は訪れることは叶いませんが、遺跡から1.5kmほど離れた野沢の集落に「縄文の学び舎・小牧野館」があります。
野沢には、近くにある津軽三十三霊場24番札所・入内観音堂(小金山神社)の御朱印所がありますが、村の中に今は閉校になった小学校の建物があります。閉校になったとはいえ、建物自体はまだまだ新しく、少しもったいない感じがしますが、ここが現在は小牧野館になっているというわけです。
HPには、
【「縄文の学び舎・小牧野館」は、平成24年に閉校になった旧野沢小学校(小牧野遺跡から約1.5km)を改修し、出土品の展示や保管、遺跡に関する情報発信など小牧野遺跡の保護の拠点となる施設です。1階には展示室、2階には企画展示室や体験学習室、出土品の収蔵室等を設け、子どもからお年寄りまで楽しく小牧野遺跡を学ぶことができます。】と紹介されています。
各展示室には、遺跡の解説をはじめ、土器や石器などの出土物、三内丸山遺跡や十腰内遺跡など、県内の代表的な縄文遺跡からの出土品が展示されている他、祭祀に関する道具・模型などが置かれ、縄文人の精神世界を知ることができます。また、環状列石を造るのに使われたと思われる道具(実験用)なども展示されていました。







展示室の一角に、同じ青森市内の山野峠(さんのとうげ)遺跡から出土した土器館が置かれていました。
山野峠遺跡は、小牧野遺跡と同様、縄文時代後期前半(約4,000年前)の遺跡と考えられていますが、青森市内から浅虫方面へと向かう国道4号線の久栗坂トンネルの真上、標高約90mの峠を挟む斜面に位置しています。一帯は、急斜面であり、周辺には住居に適した平地もないことから、集落は存在しないと思われており、縄文後期の「墓地遺跡」であるといわれています。
この遺跡からは、同じ時代の石棺墓群と再葬土器棺墓群が互いに並んだ形で発見されました。このことについては、
「種類のちがう墓が同じ時期のものであると確認されたことから、亡くなった人はまず石棺墓に葬られ、後に、その骨が取り出され、土器棺の中に納めて再葬された」と考えられており、その独特の埋葬方法の発見は、縄文後期の墓制・葬制研究上、貴重なものであるとされています。 - 因みに、私はこの遺跡の存在を初めて知りました。
私が小牧野遺跡を訪ねたのはだいぶ前のことになりますが、雪が解けて、アクセスが可能になった頃に、もう一度行ってみたいと思います。
※小牧野遺跡関係のHPやパンフレット等を参照しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



秋田県鹿角市の大湯環状列石は国の特別史跡にも指定されており、青森県の三内丸山遺跡と並んで、東北を代表する縄文遺跡です。
その特徴は、何といっても整然と配置されている環状列石(ストーンサークル)なのですが、その造られた目的については、「共同墓地」や「司祭場」、「日時計」などの諸説があり、はっきりとは断定していないようです。
ストーンサークルはそれ自体がミステリアスなのですが、付近には聖なる山・黒又山もあり、両者は密接なつながりをもつものとされ、古代史(超古代史)ファンの関心を惹きつけています。


発掘調査の結果、大規模な「祭祀施設」であったことが次第に明らかになり、その遺跡の概要は書籍やネットなどで数多く紹介されています。
【秋田県北東部、鹿角市の米代川上流に位置し、その支流である大湯川左岸、標高180m程の台地上に構築された、縄文時代後期前葉から中葉(紀元前2,000年~紀元前1,500年頃)の環状列石を中心とした遺跡です。環状列石の形態は、定住とともに発達した集落形態である環状集落を背景としたものと考えられます。遺跡の中心として万座(まんざ)と野中堂(のなかどう)の二つの環状列石があり、それぞれの環状列石を取り囲むように、掘立柱建物跡、土坑・貯蔵穴、遺物廃棄域が同心円状に配置されています。これらの遺構とともに、日常使用する土器や石器、土偶や土版、鐸形土製品、石棒、石刀等といった土製品や石製品が出土しています。二つの環状列石の各々の中心と日時計状組石は一直線に並び、夏至の日没方向を指しており、四季を区分する「二至二分」や太陽の運行を意識していたことをうかがい知ることができます。構築場所を選定し、天体(太陽の運行)を意識し、豊かな労働力と精神性によって構築された縄文時代の代表的な環状列石であり、当時の精神文化を知る上で重要なものです。※HP「JOMON JAPAN 北海道・北東北の縄文遺跡群」より】






前述の説明に述べられているように、この遺跡は「万座遺跡」と「野中堂遺跡」という2つの環状列石で構成されています。
2つは道路で隔てられていますが、どちらも直径40~50mの外帯と10~15mの内帯の二重の組石群からなり、両遺跡とも40組以上の組石があるといわれています。
「万座遺跡」の方には縄文期の掘立柱建物などを復元したものが建っていますが、一方の「野中堂遺跡」は、広い野原に環状列石があるだけで、どちらかというと素朴な感じがします。
その「野中堂遺跡」のはしっこの方に(遺跡の一部に含まれるのかどうかは分かりませんが)、こんもりとした小さな森があり、そこに神社が立っています。
実は「野中堂」という地名は、この神社に因んだものとされています。即ち、「野(原)の中にお堂(神社)がある」から「野中堂」という分けです。地名の由来になっているくらいですから、古くからこの地に鎮座していた社なのでしょう。
鳥居の扁額には「浅間神社」とありました。富士山の神霊である「浅間大神」を祀る神社のようです。詳細は分かりませんが、いわゆる「富士信仰」がこの地にも広がっていたということなのでしょう。
日本の象徴である富士山に対する信仰は全国に及び、地域の富士山の姿に似た山を「○○富士」と呼んで崇めていますが、ここ大湯の聖なる山は、やはり黒又山で、その姿を拝める場所に、この神社が建てられたのでしょうか。
小さな社殿の前に御神燈がありますが、そのそばに「野中観音堂」の碑が立っていました。
社殿の真ん中に御神体をが納められた祠がありますが、その前には准胝観音(じゅんていかんのん)と、女神様が一体置かれていました。この女神様は浅間大神とされている「木花咲耶姫命(コノハナノサクヤビメ)」のようです。
◇浅間神社








ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆みちのくあれこれ☆



鯵ヶ沢町建石町は弘前市と境を接する地区です。県道31号線を弘前から鯵ヶ沢へ行く途中にある町ですが、ここが鯵ヶ沢への入口になります。
その建石町に石神神社が鎮座していますが、鎮座地の住所も「石神」。古くから集落の産土社であったことを思わせます。
県道沿いに「石神神社」と書かれた大きな碑(社号標)が立っていますが、そこから曲がって、山手の方へ細い道をたどって行くと神社が見えてきます。周りをりんご畑に囲まれた社です。
この神社の由緒については、
【御祭神:上筒男命 中筒男命 底筒男命 勧請年月不詳であるが、 安永、 文化、 安政年間に再興及び再建との事あり。 明治六年村社に列格。 ※青森県神社庁HP】とありますが、詳細については不明です。
御祭神の上筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)は、いわゆる「住吉三神」と呼ばれる水神ですが、海の神、航海の神、また和歌の神とされています。ここ建石町は、海岸までは少し距離があるのですが、こうして三柱を祭っているあたりは、いかにも海の町・鯵ヶ沢らしいといえます。
白い鳥居をくぐって行くと境内へと出ますが、社殿の前には狛犬と石灯籠があり、建物の左右には、庚申塔や猿田彦碑、月読命碑などが数多く並んでいました。朱色が鮮やかな本殿も印象的です。
◇石神神社






「石神」という神社名が示すように、この神社の御神体は「大石」です。鯵ヶ沢町のHPでは、
【石神神社は、集落より約1.5kmほど離れた場所にあり、奥殿には大きな自然石が御神体として祀られている。
昔、集落の近くに神社を建立しようと石の周りの土を掘りあげたが、次の日には土が元に戻っている。同じようなことが何度も続くので、この石はこの場所から動きたくないのだということになり、現在の場所になったという言い伝えがある神社である。】と紹介しています。
- 伝説の大石を見たかったのですが、残念ながら本殿の中を拝むことはできませんでした。
境内には鯵ヶ沢町の文化財にもなっている名木が3本佇立しています。クロマツが1本、センの木(ハリギリ)が2本ありますが、いずれも樹齢が300年以上と推定されていて、神社創建の頃に植えられたと考えられています。
クロマツは拝殿の前の道路際に、センの木2本は、拝殿と本殿を守るように左右にそびえていました。クロマツは可憐な感じ、センの木は2本とも堂々たる大木です。
◇クロマツとセンの木





ところでこの石神神社一帯は、「三内丸山遺跡に匹敵するぐらいの遺物が出土した」とされている「餅ノ沢遺跡」という縄文遺跡です。
神社のすぐ近くに発掘された石棺墓を見学できる施設が造られていますが、そこに立っている説明板には、
【餅ノ沢遺跡は、縄文時代前期後半から後期前半(約5,500年~3,500年前)にかけての時期を主体とした遺跡です。1997年から1998年にかけて実施された発掘調査では、竪穴住居跡、石囲炉、配石遺構、石棺墓、埋設土器、土坑などの遺構と、ダンボール1,000箱もの遺物が出土しました。特に注目されるのは石棺墓、大型住居などの特殊な遺構や、赤色顔料入り土器、土偶などの祭祀的性格の濃い遺物です。餅ノ沢遺跡は縄文人の生死に対する考え方や、祭祀のあり方を考える上で非常に重要な遺跡と言えそうです。】と記されていました。
県道31号線沿いには、大森勝山遺跡や十腰内遺跡、そして旧森田村の石神遺跡など縄文時代の貴重な遺跡が点在していますが、この餅ノ沢遺跡もそのひとつです。
⇒以前の記事へ
◇餅ノ沢遺跡





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



「花巻」といっても、私の地元・黒石市の集落のことで、前回、ご紹介した稲荷神社のある牡丹平の隣村になります。
江戸時代にこの地を訪れた菅江真澄は、
『花巻についた。むかし、牡丹平を大杭(おおぐい)村といい、この花巻を小杭(こぐい)村といった。そのころ、孫次郎というものがいて、「これは子をも食い、孫までも食ったのか。子喰村の孫倉というのは鬼であろう」などと人に言いたてられ、世間のきこえがよくないというので、村の名を花巻といいかえたという。
しかし花巻の地名はむかしここに牧場があり、その牧のめぐりにさした古杭が、そこに朽ちのこっているところから、大杭、小杭などとよんだ名なのであろうか。とはいうものの、この土地は馬を飼った広い野もみえないので、別な方面からこの名だけついたのだろうか。』と記しています。
「大杭」「小杭」の名称の由来は定かではないようですが、実は、この花巻は昔から縄文時代の遺跡があることで知られていて、菅江真澄は、『追柯呂能通度』の中で、花巻遺跡から発見された土器や石器、土偶、遺跡の様子などについて記述しています。
花巻遺跡は、大正から昭和初期において考古学界の代表的な遺跡でしたが、その存在を知らしめたのは中谷治宇二郎(なかや じうじろう:※物理学者・中谷宇吉郎の弟)という考古学者でした。
治宇二郎は、花巻遺跡に関する論文を表し、その中で、遺跡から発見された円筒上層式土器を『花巻式土器』と命名しましたが、本人が若くしてこの世を去るとともに、この土器名も消滅してしまいました。
遺跡は、浅瀬石川の北側の丘陵地帯にありますが、
【昭和60年と62年に黒石市教育委員会で花巻遺跡の発掘調査を行ったが、調査の結果、竪穴住居跡1棟、土坑跡20基、石棺墓10基などが発見されている。縄文時代前期から後期にかけての大集落が存在していたと思われる。もっとも注目されたのは、縄文中期末~後期初頭のものと思われる組石石棺墓7基である。
石棺墓はその名のとおり石で造った棺桶で、青森県内では、この黒石市花巻遺跡ほか数か所で発見されているだけである。この組石石棺墓は、穴掘りだけでなく、大石の運搬や石組に大勢の人手を要する埋葬方法であるため、当時のムラで特別の地位にあった人物達の墓と推定されている。】
- こうしたことから、この遺跡は、縄文期の埋葬方法を知ることができるだけでなく、当時の「ムラ」の構造を研究する上で貴重な遺跡とされています。
※上記写真と【】は黒石市HP、『青森県の歴史シリーズ』を参照しました。

そんな花巻の集落の中心に山祗神社が鎮座しています。神社の由緒については、
【御祭神:大山祇神 草創年月日不詳なるも、 古来より現境内に大山祇神を祀る小堂ありて小喰野村にて産土神として崇敬された。
天正年間 (一五七三~一五九二) 当国戦の際、 村中並びに堂宇破損或いは焼失され、 再建ならず、 その後慶安三年 (一六五〇) 六月村中にて堂宇新築す。
明治四年神社改正に付き村社に列せられ、 同六年五月九日豊岡村稲荷神社を合祀し、 同八年四月二十六日豊岡稲荷神社を復社す。 ※青森県神社庁HP】と説明されています。
「天正年間 (一五七三~一五九二) 当国戦の際」とは、戦国時代にこの地を支配していた浅瀬石千徳氏と南部氏との抗争、及び、その後の千徳氏と津軽氏との争いを指していると思いますが、かつて、村の産土神として崇められていた社が再建されたのは、津軽氏の時代になってからのようです。
住宅地に囲まれた道路沿いに「山祗神社」という扁額が掲げられた赤い鳥居がありますが、反対側の通りには大きな庚申塔も立っています。
境内には、狛犬が2対(4体)ありますが、そのうちの1対は風化が進み、もう少しで原型が分からなくなるような姿でした。
拝殿の両脇には大きな草鞋が掲げられ、地域の崇敬ぶりが偲ばれます。神社の後ろには小川が流れていて、その先の浅瀬石川流域には、花巻遺跡が眠っています。
◇花巻山祗神社









ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆

