のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
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合子沢猿田彦大神 - つがるみち450




 雲谷の稲荷神社から合子沢(ごうしざわ)の方に足を伸ばしてみました。
 合子沢は自然に恵まれた集落で、合子沢川にはイワナやヤマメが生息しており、上流には養魚場もあります。
 また、周辺一帯はタケノコをはじめとする山菜の宝庫で、湧水もあります。平成10年には、青森市制施行100周年に合わせてオープンした合子沢記念公園も造られ、市内から近いこともあり、たくさんの人々が訪れています。




 私は集落に鎮座する稲荷神社に行ってみたのですが、神社へと向かう途中の坂道に赤い鳥居が立っていたので立ち寄ってみました。
 小高い丘の上に社殿といくつかの石碑が立っていて、付近からは八甲田山と雲谷峠を望むことができます。
 何の社かは分からなかったのですが、後で地図を見たら「猿田彦大神」となっていました。


    


 鳥居をくぐると、そのそばには、天保三年と刻まれた猿田彦大神の石碑が立っていて、そこから少し上った所に社殿があり、両脇に重そうな注連縄が張られた大きな碑が立っていました。

 左側の碑は慶應四年建立の馬頭観音碑。とても大きくて立派なものです。
 一方、右側には、石碑が二つ並んで置かれています。ひとつは、嘉永四年と刻まれた保食神ですが、もうひとつは嘉永三年と銘記されていますが、何の碑かよく分かりませんでした。注連縄の下の方に馬の姿が描かれているところをみると、これも馬頭観音碑なのかも知れません。


    

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雲谷稲荷神社 - つがるみち449




 青森市の雲谷峠(もやとうげ)は、標高553m、三角型のきれいな形をした山で、付近の道路からは岩木山が望める展望所などもあります。
 八甲田山の手前にあり、形もよいことから市民に親しまれ、スキー場としても賑わいをみせている山です。
 この山の裾野一帯には、昔、阿弥須(オヤス)という女首長が率いる蝦夷の集団が住み着いていて、蝦夷征伐を目指す坂上田村麻呂に激しく抵抗したという伝説があります。難儀した田村麻呂は、蝦夷を驚かすために太鼓や鐘を鳴らして攻め立て、阿弥須軍を屈服させたとされており、これが青森ねぶたの起源だともいわれています。
 ⇒ 大星神社の記事へ
 名前は「雲谷峠」ですが、実は峠ではなく独立した山なのですが、それは、女首長・阿弥須の弟である頓慶(トンケイ)に由来するといわれています。即ち、田村麻呂と戦った蝦夷の英雄を偲んで、地元の古老たちは、この山を「雲谷のトンケ」と呼んできましたが、後に、「トンケ」に「峠」の字が当てられ「雲谷峠」になったとされているようです。 




 雲谷峠(山)に行く途中に「津軽藩雲谷牧場趾の碑」が立っています。
 石碑の裏側には、
【雲谷の牧場について  雲谷の牧場は初開不詳で薩摩の浪人川越六郎左衛門が故あって雲谷に居住、牧場を開いていたと伝えられている。津軽藩では寛永八年正月川越源右衛門を牧頭とし献上馬進上馬などの名馬養育のため牧場を開かせた。幾多の名馬を産し公卿諸侯へ送られた。 ー以下略ー ※碑文より】と書かれていました。

 津軽藩では、3代藩主・信義と続く4代・信政の頃から産業振興が盛んになりましたが、新田の開発や鉱山の開発とともに良馬の生産に重点が置かれ、津軽坂(鶴ヶ坂)、枯木平、滝の沢、入内、そしてこの雲谷の地に牧場が開かれました。これらの牧場は「津軽五牧」と呼ばれ、良馬を産出し、各地の有力大名への献上品ともなりました。
 雲谷牧が開かれたのは寛永八年(1631)の頃で、天保三年(1832)に藩の財政急迫により廃止されましたが、以後も村営牧場として良馬を産出し続けたようです。




 稲荷神社は、牧場跡のすぐ近くの道路沿いに鎮座している社です。
 金色の米俵が乗った太い注連縄が張られた一の鳥居のそばには猿田彦の碑があり、奥へと参道が続いています。
 境内には、社殿がポツンと立っているだけで、いたってシンプルな神社です。 
 その由緒などについては詳しく分かりませんが、村人から「雲の明神」として崇められてきた神社です。

 かつては、雲谷峠(山)に鎮座していましたが、後に現在の場所に遷座したといわれています。平安の頃、この地を治めていた雲谷のトンケイが、山中に空堀を巡らした一社を建立し、「雲の明神」と名づけたという、言い伝えがあるようです。


    

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大柳辺稲荷神社 - つがるみち448




 縄文の学び舎・小牧野館がある青森市野沢から、八甲田酸ヶ湯方面へと向かう県道122号線沿いに大柳辺の集落があります。住所は野沢川部となっていますが、バス停などの名前も大柳辺となっている所です。
 大柳辺は「おおやなべ」と読むそうですが、集落の外れに集会所があり、近くに稲荷神社が鎮座しています。


 両端に雪が残る道路に沿って、白、赤、赤の三本の鳥居が並んで立っていますが、石造りの鳥居は稲荷神社、真ん中が庚申様、端っこのものは山神様の鳥居です。

 三つの鳥居には、少し色あせていますがブルーの注連縄が架かっていて、いずれも模様が編まれたジャンバラ型の注連縄です。特に稲荷神社のものは重量感のある豪華なものです。


    


 一の鳥居をくぐりぬけて境内に入ると、参道が続いており、右へ曲がると社殿が立っています。境内には、狛犬や御神燈ほか、いくつかの石塔が置かれています。赤い柱の拝殿には木彫りの龍や特徴のある木鼻が架けられていました。


    





 この神社については詳しくは分かりませんが、拝殿の中に簡単な縁起が記されていました。
○一五九二年 稲荷神社  
○昭和四十六年 拝殿再建  
○昭和五十一年 本殿再建  
○平成二十二年 鳥居再建
○祭神 倉稲霊大神
 どうやらこの社は、文禄年間(1592-1596)に、村人の手によって、五穀豊穣と村の繁栄を願って創建されたようです。 


 鳥居を伴った庚申塔は天保二年、山神様は明治二十三年の建立と刻まれていました。

 山間部に位置しているためか、境内にはまだ少し雪が残ってはいますが、黒い土の間から黄緑色のふきのとうが顔を出し始めていました。


    

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縄文の学び舎・小牧野館 ー つがるみち445




 青森市の小牧野遺跡は、国の史跡にも指定されており、北東北の縄文後期を代表する遺跡のひとつです。
 遺跡の土坑墓周辺から大量の土器や石器が発掘されている他、墓石や湧水遺構なども発見されていますが、何といってもこの遺跡を特徴づけているのは環状列石の存在です。
【直径2.5mの中央帯、直径29mの内帯、直径35.5mの外帯の三重の輪のほか、さらに外側に、一部四重となる弧状列石や、直線状列石、直径4mの環状列石などがあり、直径は55mにもおよぶ。荒川から運んだと推測された石を、縦に置き、さらにその両脇に平らな石を横に数段積み重ね、さらにその脇に縦に石を置いて環状に並べて、そうして出来た環をさらに三重(一部四重)にしている。この並べ方は石垣の積み方に類似する煩雑な並べ方からも全国的にも非常に珍しく、「小牧野式」と呼ばれている。※wikipediaより

 小牧野遺跡は山中にあるため、冬期間は訪れることは叶いませんが、遺跡から1.5kmほど離れた野沢の集落に「縄文の学び舎・小牧野館」があります。

 野沢には、近くにある津軽三十三霊場24番札所・入内観音堂(小金山神社)の御朱印所がありますが、村の中に今は閉校になった小学校の建物があります。閉校になったとはいえ、建物自体はまだまだ新しく、少しもったいない感じがしますが、ここが現在は小牧野館になっているというわけです。
 HPには、
【「縄文の学び舎・小牧野館」は、平成24年に閉校になった旧野沢小学校(小牧野遺跡から約1.5km)を改修し、出土品の展示や保管、遺跡に関する情報発信など小牧野遺跡の保護の拠点となる施設です。1階には展示室、2階には企画展示室や体験学習室、出土品の収蔵室等を設け、子どもからお年寄りまで楽しく小牧野遺跡を学ぶことができます。】と紹介されています。

 各展示室には、遺跡の解説をはじめ、土器や石器などの出土物、三内丸山遺跡や十腰内遺跡など、県内の代表的な縄文遺跡からの出土品が展示されている他、祭祀に関する道具・模型などが置かれ、縄文人の精神世界を知ることができます。また、環状列石を造るのに使われたと思われる道具(実験用)なども展示されていました。

 
    


    


    





 展示室の一角に、同じ青森市内の山野峠(さんのとうげ)遺跡から出土した土器館が置かれていました。
 山野峠遺跡は、小牧野遺跡と同様、縄文時代後期前半(約4,000年前)の遺跡と考えられていますが、青森市内から浅虫方面へと向かう国道4号線の久栗坂トンネルの真上、標高約90mの峠を挟む斜面に位置しています。一帯は、急斜面であり、周辺には住居に適した平地もないことから、集落は存在しないと思われており、縄文後期の「墓地遺跡」であるといわれています。
 この遺跡からは、同じ時代の石棺墓群と再葬土器棺墓群が互いに並んだ形で発見されました。このことについては、
「種類のちがう墓が同じ時期のものであると確認されたことから、亡くなった人はまず石棺墓に葬られ、後に、その骨が取り出され、土器棺の中に納めて再葬された」と考えられており、その独特の埋葬方法の発見は、縄文後期の墓制・葬制研究上、貴重なものであるとされています。 - 因みに、私はこの遺跡の存在を初めて知りました。

 私が小牧野遺跡を訪ねたのはだいぶ前のことになりますが、雪が解けて、アクセスが可能になった頃に、もう一度行ってみたいと思います。

※小牧野遺跡関係のHPやパンフレット等を参照しました。

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北中野廣峰神社 - つがるみち443




 金光上人の塚から辺りを眺めると、後方に神社の森が見えます。以前に来たときには気づかなかったのですが、そこは廣峰神社の境内でした。
 一の鳥居は、道路沿いの民家に挟まれた所にありますが、車を止める都合もあったので、今回は金光上人の塚から続く道を進みました。神社の裏側から「侵入」したことになります。




 廣峰神社の由緒については、
【御祭神:須佐能男命  人皇五十一代平城天皇の御世、 大同二年 (八〇七) 六月十四日、 坂上田村麻呂の建立にして、 社号を天王社、 一説には御廟社、 或は行岳崎磯の社とも称した。 此の社の東西に田畑二十町余りあり、 其の字名は往古より現在に至るまで天王と称す。 延宝年中 (一六七三~一六八一) の頃より、 いかなることか誤りて牛頭天王と称す。 其の後、 寛政年中 (一七八九~一八〇一)、 社寺御調べの折、 祇園社と称す。 安政二年 (一八五五) 神社明細調べの節、 神典詮議の処、 祇園は須佐能男命に当たる由を以て、 須佐能男命を勧請致したくその旨上申した。 元禄二年 (一六八九)、 北畠権大納言具永が造営して、 旧藩主より現米一石八斗の社料を賜わる旨が津軽記の申書に記載されている。 文化十二年 (一八一五) 四月、 当社焼失し宝物及び書類の大半を失い、 残った物も天保七年 (一八三六)、 凶荒の折り何れかに散乱したと伝えられる。 神仏混淆仕分け以来、 社号を改め廣峰神社と称し今日に至る。 ※青森県神社庁HPより】とあります。

 私が訪ねたときは、まだ「秋」を感じさせる時期だったので、参道には栗の実などが落ちていました。参道の横には取入れが終わったりんご畑が広がっていますが、境内にはりんごの豊作を祈願した「果樹観音堂」なども立っています。

◇廣峰神社



 由緒にも書かれていますが、かつては牛頭天王を祀った社であり、「天王社」とも呼ばれていました。多くの牛頭天王社は、明治の神仏分離により、素戔嗚尊を祀る神社となりましたが、この神社もまた同様の経緯をたどったようです。

 この地方の中世の覇者は北畠氏ですが、北畠氏は、京都の街並みを模して、浪岡城の周りに祇園神社、八幡神社(浪岡八幡宮)、加茂神社(五本松加茂神社)、春日神社を配しました。ここ廣峰神社は、その中の祇園社にあたり、牛頭天王とスサノオに対する信仰(祇園信仰)を伝える社です。

◇神馬ほか



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黄色いじゅうたん

 黒石市から浪岡町へ向かう途中に本郷の集落がありますが、小学校からほど近い所に見事なイチョウの巨木があります。
 その樹高は26m、幹回りが6.6m、樹齢は300年を超えるという大樹ですが、特に天然記念物に指定されている分けではなく、隠れた名木といえそうです。
 このイチョウの木は、とある民家の庭(敷地)にそびえています。根元に赤い鳥居と小さな祠が立てられていますが、祀られているのは、このお宅の守り神でしょうか。
 今の時期、イチョウの姿形の移り変わりはとても早く、つい昨日まで枝先に「黄色い花を咲かせていた」葉っぱは、寒気や風のために散り落ち、地面を黄色に染めます。この本郷のイチョウの葉っぱも、庭いっぱいに広がり、まるで黄色いじゅうたんが敷き詰められているように見えました。
 

    


  

  

    


  
         

  

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金光上人の塚 - つがるみち438




 浪岡城址の下(南側)を浪岡川と正平津川という二つの川が流れていますが、一帯は「北中野」という集落になっています。
 北中野の集落は、浪岡北畠氏との関わりが深い所ですが、長慶天王の潜幸伝説も残っている所です。
 源常林の銀杏 (げんじょうばやしのいちょう)は農業用の溜池付近にそびえたつ大きなイチョウの木ですが、樹高が19mで幹回りは6,7m、樹齢は300年以上といわれています。
 巨木とあって、「8百年ほど前、津軽十三の福島城主藤原秀栄の子が、病死した乳母の墓の目印に銀杏の枝を挿した。それが育って、この大イチョウになった」とか、「長慶天皇がこの地に潜んで浪岡源常と称した」という伝説が語られています。
 また、「戦国時代に、津軽為信の家臣がこの巨木を歌にし戦勝祝いの席で歌った」とされ、これが「津軽山歌」になったともいわれており、イチョウのそばには「津軽山唄発祥の地」の石碑も立っています。

  





 この伝説の大銀杏から少し離れた道路際に「金光上人」というバス停があります。高僧の名前がそのままバス停になっている分けです。
 金光上人については、
【鎌倉時代前期に、念仏-浄土宗を東奥に広めた僧で、法然と出会い、師と仰ぐようになった。正治2年(1200)頃、念仏布教の旅にでた。津軽にやってきた上人は、外ヶ浜のある川から「夜な夜な光物がでる」という話があり、旅先でそれを聞いた上人はその川に行き、川底から阿弥陀如来を発見した。これが蓬田村を流れる阿弥陀川の伝説である。
 その後、金光上人は、阿弥陀如来を背負い梵珠山に登り、布教の道場を開き、五本松(浪岡)に庵を結び布教を続けたと伝えられている。金光上人の死は建保5年(1217)のことで、遺言により北中野に墓がつくられた。※青森市HP「なみおか今・昔」より要約・抜粋】とされています。

 バス停の向かい側に小高い丘があって、そこに金光上人の塚(墳墓)があります。丘の上には東屋も設けられていて、とても見晴らしのよいところです。上人の墳墓の前には、真新しい菊の花が供えられていました。

  

  

  

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 青森市   Tags: つがるみち  巨石と神石  

貝倉神社 - つがるみち428




 青森市奥内に「貝倉神社」という、少し変わった名前の神社があるということで訪ねてみることにしました。
 ネットで地図を見て探しながら行きましたが、国道280号線の旧道沿い、奥内郵便局の近くに貝倉神社という標識が立っていたので止まってみましたが、民家のような建物があるだけでした。どうやらここは社務所のようです。
 



 社殿は山の中にあるということなので、バイパスの方へ進み、奥内川の橋を渡って左折し、山側へと向かいます。そこから新幹線の高架橋を越えると、あとはじゃり道。ひたすら進んで行くと「奥内豊源井堰竣工記念碑」という石碑がある所へと出ます。そこを過ぎると「貝倉神社→」という小さな案内板が立っていますが、そこから林の中へ。辺りは奥内国有林になっていて、先が分からず不安でしたが、やがて小さな川のそばに赤い鳥居と社号標が立っているのが見えたのでひと安心。ほんとに「山の中」に鎮座している社です。
 こんな山中なのに「貝」という海(水)を連想させる神社名というのも不思議ですが、参道の途中には、小舟が置かれていたりします。太古の時代には、海岸線が、この近くまで迫っていたのでしょうか。大きな湖沼があった所なのかも知れません。




 小川の橋を渡って鳥居をくぐり、参道を歩いて行くと、左右に建物が見えてきます。右側の大きな建物は「白龍殿」でした。その中に入ると、中央の祭壇には、数多くの神様が祀られています。
 この神社は、その草創については不詳ながらも、御祭神は、七福神・恵比寿神・大黒天神・毘沙門天神・弁財天神・福禄寿神・寿老人神・布袋尊神となっていて、他にもオシラ様や淡島神も祀られているようです。

 白龍殿の中にも「貝倉丸」と書かれた小舟が置かれていたりしますが、同じく貝倉丸と書かれた帆には、大きな龍が描かれていました。龍の絵は、他にも天井や壁に掲げられていたり、境内には龍神を祀った祠などもあり、水神を崇める信仰が伝わってくる社です。
 壁に「貝倉明神と龍」という絵が掲げられていましたが、これはねぶたの絵だということです。絵は、貝倉明神と大きな龍が戦っている姿を描いたものですが、これは(両者の戦いは)、「奥内伝説」として語られているとのことです。どんな話なのでしょうか。十和田湖に伝わる南祖坊と八郎太郎の話と似たようなものなのかも知れません。

 白龍殿の向かい側の少し高い丘の上に本殿があります。小さな狭い社殿ですが、真ん中の祭壇には、貝殻が敷き詰められ、中央には、大きな石が佇立していました。

◇白龍殿、本殿










「大きな石」と書きましたが、実はこれは貝の化石塊で、この神社の御神体になっています。
 この御神体については、
【青森市奥内西方約4キロメートル、奥内川中流域の山中にひっそりとたたずむように貝倉(かいくら)神社がある。この社(やしろ)は、山の斜面に突出している貝の化石が集まってできた幅約1.5メートル、高さ約2.5メートルの大きな団塊の御神体を覆うように形づくられている。その御神体は、大昔に海底の凹部に貝殻が運ばれ堆積し、それが石灰分などで固まり塊状となったものである。
 このような御神体は、全国的に見ても非常に珍しい。含まれている化石はエゾタマキガイが大半であるが、神社脇の地層にはホタテガイ、コシバニシキなどの化石も見られる。神社がある一帯を含めた津軽山地の東麓には、大釈迦層(北方では蟹田層と呼称)と呼ばれている砂岩を主体とした地層が分布している。この地層は、北方は今別町、南方は浪岡町まで連続的に分布しており、貝化石が所々に含まれる。特に、浪岡町との境界大釈迦付近からは、60種の貝化石が産出しており、貝化石を含む地層として、古くから全国的に知られている。貝倉神社のほか、六枚橋川林道、内眞部川(眺望山ビジターセンター付近)、飛鳥沢中流などでも化石を見ることができる。
 産出している化石の種類から当時の環境を推定すると、海棲の貝化石が産することから海底であったことはもちろん、砂地で浅海、さらに暖流の影響がある寒流域であったと思われる。また、新生代第4期更新世(170万年~1万年前)初期の堆積であると考えられている。※HP「あおもり今・昔」より】と紹介されています。

 太古からの時の流れを感じさせる不思議な神社です。

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瀬戸子八幡宮 - つがるみち427




 青森市瀬戸子(せとし)に鎮座する瀬戸子八幡宮は青森市長島・廣田神社の兼務社になっていますが、同神社のHPでは、瀬戸子八幡宮の祈年祭の様子を次のように紹介しています。
【青森市瀬戸子地区に鎮座する瀬戸子八幡宮の祈年祭、春祈祷が執り行われました。もともと、春祈祷は2月~3月に掛けて氏子宅を一軒ずつ回り、ご祈祷を行っていたそうですが、現在は、春の大祭に併せて行われています。先ずは祈年祭の祝詞を奏上して今年一年の五穀豊穣を祈り、続いて春祈祷ということで氏子方それぞれのご祈祷を祈念しました。瀬戸子八幡宮は山に鎮座しているため、春祈祷の時には毎年、雪に覆われており、途中の農道は八甲田山を縮小したような雪の回廊ぐらい積もっています。※廣田神社HPより




 国道280号バイパス沿いに木柱の社号標が立っていますが、それにしたがって道なりに進み、新幹線の高架橋を渡るとジャリ道。しばらく行くと、小高い山があり、そこに赤い鳥居が立っているのが見えます。
 鳥居のとなりに由緒板がありました。
【御祭神:素戔嗚尊(天照大神御弟)広峰神社・誉田別命(応神天皇)八幡大神・牛頭天王(御隠居様)天正年代(1573)。御祭祀銀座日:寛文元年代(1660)。由緒:祭神誉田別命は仲哀天皇の第4皇子にあらせられ御諡号を応神天皇と申し奉り即ち第15代の天皇に座します。御母神功皇后三韓征服当時胎中にあらせられ一般の崇敬篤く又韓土の技芸学を盛に輸入して文化に資せられるなど御恩頼頗る高き御神なり。追伸:祭祀当時村民は10数戸なり。子孫の繁栄を祈り祀るなり。※由緒書より

 創建は寛文元年の頃で、御祭神は素戔鳴命、誉田別命、牛頭天王の三柱ですが、由緒に牛頭天皇を「御隠居様」と書いてあるように、古くは牛頭天皇を祀る社であったようで、1687年頃に「八幡社」になったとされています。

◇瀬戸子八幡宮






 一の鳥居から続く参道は急な上り坂になっていて、林の中を進んで行くと、やがて視界が開け、頂上にたどり着きます。
 途中には休憩用のベンチも設けられており、木々の間から黄金色の田んぼが見えました。
 頂上付近には、正面と右側にそれぞれ鳥居があり、右側の道先に、狛犬と神馬、拝殿と本殿がありました。

 境内社には、稲荷大明神、大山祗神、十和田龍神、オシラ様、大白神様などが祀られているとのことですが、頂上の境内社には稲荷大明神と大山祗神、参道上り口付近の社には十和田龍神、オシラ様が祀られているようです。
 参道の途中の林の中には、庚申塔や馬頭観音の祠が立っていました。

◇境内社、馬頭観音など
 





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内真部大山祇神社 - つがるみち426




 遥拝所としての「里宮」と「奥宮」をもつ神社は各地にありますが、青森市内真部(うちまんべ)に鎮座している大山祇神社もそのひとつです。
 この神社は、国道280号線バイパスから旧道へと進み、津軽線の鉄道の踏切を渡った所にありますが、近くには、以前に訪ねた清水天満宮もあります。
 旧道沿いに大きな社号標が立っていて、そこから民家の間を参道が続いていますが、線路を越えると、クロマツの木々が縦横に伸びていて、松林の中に境内がありました。
 これらの松の木は、海風を防ぐ防風林・防砂林として社を守るために植えられたものなのでしょうか。特に、拝殿前の末社の後ろにそびえ立つクロマツは、なかなかの迫力です。




 境内には、狛犬が2体と手水舎、末社などが立ち並んでいますが、本殿の横には、馬頭観音碑や文政5年(1822)の銘をもつ庚申塔などが並んでいて、その後ろには黄色に色づいた田んぼが広がっていました。
 この神社の由緒など、その詳細については分かりませんが、御祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)、その創建は、貞享4年(1687)以前とされており、かつては「不動堂」と呼ばれていた時期もあったようです。

◇大山祇神社(里宮)







 奥宮は、日本三大美林のひとつヒバの学術参考保護林で知られる眺望山(143m)への登山道がある山沿いにあり、五所川原市へと向かう道沿いに鎮座しています。
 道際に「大山祗神社奥宮」と書かれた木柱と由緒碑・由緒板が立っていて、一の鳥居からは、急な石段が上に続いているのが見えます。石段はかなりの傾斜だったので、私は右回りの迂回路を登りました。

 奥宮の由緒については、
【当社は津軽藩政の頃、山守の番所があった所で、山守達がその守護神として当社を建立し、山神を奉祀、信仰したのがその始まりである。この裏方に沢があって番所家戸と称せられているのは、これに因んだものである。廃藩後、明治政府により官、民、有林が設定され当所は内真部部落の見継山として経営されるようになり、おやしろは部落民の山神として信仰されるようになった。由来毎年四月十二日を祭日として、山下内真部町内に於て盛大な祭典が執り行われてきたが、大正の初期見継山は社地として分割払下げを受けて今日に到ったものである。
  因みに日本三大美林の一つであるヒバ林で有名な眺望山はこれより先、130mの所にその入り口があり、畏くも梨本宮高松宮並に秩父宮両殿下の御光来を賜れり、その頂上にはお手植のヒバ紀念樹が美事に育ち、今にその栄光を伝えている。
社前の老木は厳然として山神の鎮座に相ふさわしく神神しさに自ら心身の清まるのを覚えるものがある。※由緒板より】と紹介されています。

「山守」とは文字通り、「所有者に代わって森林の管理、保護をする人」を指しますが、江戸時代、津軽藩は、山林の種類を「本山・田山・見継山・仕立見継山・立山・抱山」と分類して管理していました。
「本山」は、純然たる藩有林ですが、由緒に出てくる「見継山」とは「藩山の伐採跡地に植栽、または天然に生育した林を、山麓の住民(1人または1村若しくは数ケ村)に保護監守を命じ、その報として将来森林経営上の支障とならない限度において自家用材の有償払下げ、その他副産物の無料採取等を許可した山」のことです。

 因みに、津軽藩は米に次ぐ藩の財源としての山林管理をとても重要視し、2代藩主・信政は林政に意を注ぎ、「我に大事と思うものが三つある。第一に家運、第二に土佐守(※3代藩主・信義のこと)、第三に山である。山の用は挙げて数えがたい。後世に至っても、上下共に能く心を山林に用いねばならぬ」と述べたといわれています。

◇大山祗神社奥宮



※HP[太宰ミュージアム」、HP「青森県木材協同組合」等を参照しました。

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奥内三社宮 - つがるみち425




 三柱神社、四所神社、七柱神社など、御祭神の数が神社名となっている社は数多くありますが、三社宮など「宮」がつく社は、いわゆる「三社様」を祭っているところが多いようです。
「三社様」とは、伊勢・八幡・春日を崇める「三社託宣」という信仰に基づくものとされ、次のように説明されています。
【伊勢神宮(天照皇大神宮),石清水八幡宮(八幡大菩薩),春日大社(春日大明神)の三社の託宣,神のお告げを記したもの。中世後期からみられ,近世には広く庶民信仰として普及した。中央には天照大神宮,右に八幡大菩薩,左に春日大明神と記し,その下に託宣を載せて一軸の掛軸に仕立てたものが床の間に飾られ,信仰の対象とされた。託宣の内容は神道・儒教・仏教の三教融合思想に基づき,正直・清浄・慈悲観を強調している。この正直・清浄・慈悲の三つの徳目は,中世以降,伊勢・石清水・春日の三社においてとくに強調された徳目であり,中世神道思想の基本的考え方はこれに由来している。※コトバンクより

 三社様を祭る神社は各地にありますが、青森市奥内の三社宮もそのひとつです。

◇三社宮








 御祭神は、天照大神、誉田別尊、天児屋根命で、創建年代は不詳とのことですが、貞享四年(1687)の検地帳に境内地が記載されているということで、その当時から村の産土社であったようです。
 かつては、大明神社と呼ばれ、その後、蔵王宮となりましたが、明治の神仏分離により、天照大神・誉田別命・天児屋根命という伊勢・八幡・春日の三神を勧請して、社号を三社宮に改称したといわれています。

 神社は国道280号線のバイパスから、少し入った田んぼに囲まれた所にあり、全体がこんもりとした森になっています。
 境内には、御神燈や狛犬、手水舎などがありますが、拝殿の横に石碑を納めた大きな建物が立っています。

 この建物の中に祀られている碑は、岩木山大神、天照大神、馬頭観音、そして弘化2年(1845)銘の猿田彦大神ですが、いずれにも碑の前に燭台が設けられていて、ひとつの祈りの空間になっているようです。

◇石碑群、狛犬、本殿など






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飛鳥羽黒神社 - つがるみち424




 前回お伝えした西田沢のとなりの集落が飛鳥で、ここに羽黒神社が鎮座しています。
 一帯の集落は、国道280号線のバイパスと旧道の間に広がっていますが、旧道沿いに「羽黒神社」という大きな社号標があり、参道に鳥居が立っているのが見えました。
 ところが、この参道は草ぼうぼう・・・。かつては、りっぱな道だったのでしょうが、今はあんまり利用されていないようです。

 とにもかくにも、草の中を歩き、鳥居をくぐり抜けると、今度は線路につきあたりました。少し離れた所に踏切があったので、それを渡って、やっと神社にたどりつきました。境内の横には別の道があり、どうやらバイパス側から続いているようです。

 ここ飛鳥の羽黒神社については、
【御祭神:大山祇神 大己貴神 倉稲魂神  草創年月不詳、寛永7年(1630)飛鳥村中の安全のため再建。明治9年村社に列せらる。もとは羽黒権現と称し、安政2年の書上帖には羽黒宮一宇、堂社 屋禰板葺二而建坪三尺四面、雨覆 板葺二而東西四間南北三間、社地境内共東西六拾間南北五拾間がみえる。明治初年の神仏分離に際して、羽黒神社に改めた。
 飛鳥村は明治9年ごろに夏井田村を合併したが、現在羽黒神社は飛鳥・夏井田(※隣の集落)両町会の産土神となっている。※諏訪神社HP「兼務社について」より】と紹介されています。

◇飛鳥羽黒神社






 由緒には、江戸時代には「羽黒権現」と呼ばれていたとありますが、明治初年に「大山祇神社」に改称、その後「羽黒神社」と改称されたという経緯をたどっているようです。
 境内はとても広く、拝殿の左右には、文政5年(1822)銘の大田ノ神碑や十和田龍神大神、稲荷社、馬頭観音碑などが並んで立てられています。
 拝殿の中には、祭壇の左側に奉納された神馬(木馬)が置かれていますが、右側には権現様の獅子頭が2つ納められていました。
 菅江真澄は津軽を旅した際に、「陸奥(みちのく)のならわしとして、どこの浦、どこの山里でも、熊野の神様をまつる行事のはじめに、獅子頭を持って踊るということがある。そして、その獅子頭をひたすら権現様と言っている。」と紀行文に記していますが、この地域にも同じような風習が残っているようで、4年に一度、この神社に神楽が奉納されているとのことです。

◇拝殿、獅子頭、末社



 
 境内には、幹の真ん中に丸い穴が空いた珍しい樹木などがありますが、拝殿の横に、幹の途中から枝が3本に分かれた大きなケヤキの木があります。
 このような形の木は平川市の愛宕神社でも見かけましたが、「三頭木」と呼ばれ、昔から「山ノ神」が宿ると敬われていて、木こりやマタギの人々も伐採せずに守ってきたといわれています。
 この羽黒神社のケヤキの木も、注連縄は張られていないものの、御神木として崇められているのでしょう。

◇大田ノ神碑、神馬など
 


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西田沢八幡宮 - つがるみち423




 松前街道(国道280号線)の海岸沿いに西田沢の集落がありますが、道路際に「青森海岸」と書かれた標識があったので車を降りでみました。
 青森海岸は、陸奥湾に面した津軽半島の東側の海岸で、青森市から蓬田村、外ヶ浜町へと松前街道にそって続いています。防波堤の上に立って見ると、左右に青森市街と蓬田村方面を見渡すことができました。




 海岸付近は、浜田川という川の河口にあたり、浜田橋という橋が架けられていますが、その橋のたもとに社号標とジャンバラ型の注連縄が下がった大きな鳥居が立っています。
 ここが西田沢八幡宮への入口で、川沿いに参道が続いていますが、民家と民家の間を歩いて行くと、やがて二の鳥居があり、その先に境内があります。


 西田沢八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  高おかみ神  草創年月不詳、 寛永十年 (一六三三) 村中にて再建。 爾来村中産土神として尊崇。 安政二年の書上帖には、 油川組田沢村八幡宮一宇、 板葺屋根の建坪二間四面の堂社、 萱葺の建坪東西三間南北二間の雨覆、 東西五十間南北三十間の社地境内、 東西十九間南北九間の社司屋敷一軒がみえる。
 明治十一年平内の田沢村 (現東田沢) と区別する為、 田沢村を西田沢村と改称した。 字浜田に油川城跡があり、 城主奥瀬判九郎・同善九郎が居城したという。 享和二年 (一八〇二) 伊能忠敬の 「測量日記」 には家数二八とある。 明治初年の新撰陸奥国誌には、 「家数十八軒。 古墟あり奥瀬善九郎か住せし処なりと云。 善九郎は油川村の城主の由。 古書に見れは、 此の村旧は油川村の裡にして、 今の油川村比檐の処なりしなるへし」 とある。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。この辺りの神社には、青森市栄町の諏訪神社の兼務社が多いのですが、この八幡宮もそのひとつのようです。

 由緒に書かれているように、戦国時代には近くに油川城があり、南部方の奥瀬氏が一帯を支配していましたが、天正13年(1585年)3月、大浦(津軽)為信による攻撃により落城。奥瀬氏は一戦も交えず下北方面へ逃走したという話も残されています。
 この八幡宮は、そんな戦国期を経て、江戸初期に村の産土社として再建され、人々の信仰を集めてきた社といえそうです。

◇西田沢八幡宮
 





 神社のすぐ隣には保育園があり、私が訪ねたときは、元気な子ども達の声が境内いっぱいに響いていました。社殿の後方は田んぼで、その向こうに280号線バイパスや新幹線の架橋などが見えます。
 境内には、御神燈をはじめ、子どもを抱いた狛犬や修改築の記念碑などが立っています。望遠鏡を手にした軍人の石像がありましたが、これは、日中戦争当時の兵士を描いたもののようです。御神馬は、屋根つきのお堂に大切に祀られていました。
 境内社(末社)もいくつかありましたが、一番大きな社が十和田神社で、その隣に赤い鳥居を伴った稲荷社があります。また、境内の入口と、拝殿の後方には、水は枯れていましたが、神池と思われる池があり、それぞれに祠が立てられていました。いずれも龍神様を祀っている祠だと思います。

 西田沢の村は、海辺のため土地が低く、かつては川の氾濫や津波などにより、大きな被害をこうむった歴史があるのかも知れません。実際に、「この辺りは古くから高潮や冬季風浪により浸食が著しく、50年間で激しいところでは40~50mの浸食があり、約百戸の家屋移転もあった」という記録もあるようです。

 境内に龍神社、十和田神社があること、そして御祭神に高おかみ神が祀られていることなど、この神社は、水神を崇める社といってもいいのかも知れません。

◇末社、本殿など
 
 

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幸畑熊野宮 - つがるみち422




「幸畑」という響きの良いきれいな地名の由来については、同村の谷脇に鎮座している熊野宮の由緒板に、
【(周辺の村では)貞享以前に畑に桑を植えて、蚕を生業としてあったので「桑畑村」となり、宝暦年間に現今の「幸畑村」になった。※熊野宮由緒板より要約・抜粋】と記されており、「桑畑」が「幸畑」に転化していったことが分かります。




 熊野宮は、前回ご紹介した白山神社のすぐ近くにある社ですが、その由緒については、
【御祭神:伊邪那岐命 伊邪那美命 草創年月不詳、 寛永八年 (一六三一) 村中安全のため再建。 当初新山宮と称していたが、 明治初年神仏混淆廃止後、 仏体を廃し熊野宮と称した。 熊野大権現とも新山宮とも呼ばれたようだが、 貞享元年の書上帳には、 新山権現宮、 五十間に三十間 (五反歩)、 御宮一間四方、 別当和泉太夫とある。 貞享四年の検地帳に、 五間に六間の熊野宮地、 五十間に四八間の境内林がある。 安政二年の書上帖には、 横内組幸畑村新山宮一宇、 東西五六間南北五三間の境内がみえる。
 明治六年三月筒井村稲荷神社と共に横内村大星神社へ合祀、 同八年二月復社。 同九年十二月村社に列せらる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 神社は民家に囲まれたところにあり、向かい側には保育園があります。私が訪れたときには、園児たちが保育士さんとなかよく手をつないで散歩中でした。
 一の鳥居は金属製のもので、そばに大きな社号標と由緒書きと例祭の予定を書いた案内板などが立っています。そこから杉の木の間を参道が通っていて、社殿へ続いていました。

 境内には、御神燈や狛犬、神馬などが並んで置かれています。拝殿の左側には赤い鳥居を伴った稲荷社がありました。右側には、猿田彦碑などが三基並んで立っていましたが、石碑の前には小さな赤い鳥居が立てかけられていました。

◇幸畑熊野宮










 前述した由緒板には次のようなことも書かれています。
【(辺りの村と境内一帯は)延暦十一年(七九二年)頃は酋長・甲田丸の領地であり、甲田丸の祈願所があった。その祈願所を五穀豊穣の守護神として寛永八年に再建した。※由緒板より要約・抜粋
「甲田丸」は八甲田山に因んだ名前なのでしょうが、かつて、この辺り一帯をを治めていた蝦夷の首魁のようです。

 津軽には、かつて、中央の政事に「まつろわぬ者」たちが大勢いたとされ、蝦夷と呼ばれていました。岩木山麓の彼らは鬼と呼ばれたり、その首魁は「恵美の高丸(藤崎町)」、「大丈丸、大獄丸(平川市)」などとされています。八甲田山麓にも、女酉長・阿屋須と弟・雲谷の頓慶を首魁とする蝦夷が住んでいたとされています。
 蝦夷は、坂上田村麻呂と激戦を繰り広げた後に征討されたと伝わっており、それが多くの神社の由緒にも残っている分けですが、ここ幸畑の熊野宮もそのひとつといえそうです。

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幸畑白山神社 - つがるみち421




 前回の記事に続いて、青森市幸畑にある神社のご紹介になります。
 幸畑の谷脇という所に白山神社が鎮座しています。
 集落は道路沿いに広がっていますが、その途中はゆるい坂道になっていて、そばにちょっと小高い丘があり、そこに白い鳥居と社殿が見えます。大変小さな神社なので、ついつい見過ごしてしまいそうになります。




 道端に石段があって、そのそばには庚申塔が置かれていますが、御神燈や狛犬などはなく、背の高い樹木に囲まれて白い社殿がぽつんと立っています。
 その由緒については、よく分かりませんが、
【御祭神:伊弉並尊 菊理姫命  本社の勧請年月は不詳であるが、その昔、深持村の産土の神であったというが、同部落の名がなくなってから無格社となっている。しかし今尚参拝する人が多い。※『筒井町誌』より】と紹介されています。
 また、安政2年(1855)の『神社微細社司由緒調書上帳』には、「白山権現」として記録されているとのことです。

 小さな境内ですが、前述したように、大きな木々に囲まれており、神社らしい雰囲気が漂っています。鳥居の横にそびえているイチョウの木などは、かなりの大きさのものですが、とりわけ、社殿の後ろにどーんとそびえているのがケヤキの木で、この神社の御神木になっています。

 このケヤキの木は「幸畑のケヤキ」と呼ばれ、「樹齢500年と推定される県内でも有数のケヤキ巨樹である。白山神社の本殿裏に生育し、まっすぐな主幹が地域のシンボルにふさわしい様を呈している。」と紹介されています。樹高が約25mで、幹回りが5.9mという、堂々たる巨木です。

◇白山神社









「白山」あるいは「白山姫」と名のつく神社は全国におよそ2,700社余り鎮座しているということですが、その多くは祭神を菊理媛神(白山比咩神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱としているといわれています。言うまでもなく、これらの神社は、石川県、福井県、岐阜県にまたがる白山に関わる山岳信仰(白山信仰)に基づくものです。

 白山信仰は修験道と結びつき、「白山修験」として熊野修験に次ぐ勢力をもち、各地に伝播し、神社等が建立されました。津軽もその例外ではなく、多くの白山(姫)神社が建てられましたが、津軽の場合は、岩木山信仰との関わりも深いとされています。
 岩木山は鳥海山、岩木山、厳鬼山の三つの峰から成り立っていますが、そのうちの厳鬼山の主神は多都比姫(田光の竜女)で、本地仏は十一面観音です。一方、白山の祭神である菊理媛命(ククリヒメのミコト)も神仏習合では本地仏は十一面観音とされており、両神はともに女性ということもあり、信仰が広がっていったといわれています。

 ※wikipedia、小館衷三『岩木山信仰史』等を参照しました。


◇津軽の白山(姫)神社




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八甲田神社 - つがるみち420




 青森市の幸畑(こうばた)の墓苑には陸軍墓地があり、八甲田山雪中行軍遭難資料館や雪中行軍関連石碑、慰霊碑などが建てられています。
 雪中行軍で遭難死した青森五連隊の大隊長を真ん中にして、名もなき下士卒達の白い墓標が並び立つ光景は胸に迫るものがあります。


【・・・のびやかな距離を保って立ち並ぶ墓標は、春には校庭いっぱいに広がった白い運動着の子どもたちのようにも見え、夏には港で白い帆を休めるヨットの一群にも見え、秋には林立する白樺のようにも見える。そして、一面が純白におおわれる冬、 - それは道を失って立ちつくした彼らの最期の悲しい姿に重なるのだった。 ※山下康博 『指揮官の決断』より

 この幸畑墓苑から、八甲田山中へ進んで行くと、第五連隊が生死を彷徨った露営地跡があり、雪中行軍遭難記念像(後藤房之助伍長の像)が立つ馬立場へと至ります。




 八甲田神社は、その幸畑墓苑の近くに鎮座している社で、「病気平癒」「除災招福」などの御神徳により、市民の信仰を集めている神社です。
 その由緒については、
【往昔、阿倍比羅夫は夷賊征討の時、後潟に政庁を置き、八甲田山麓に山霊を祀り、伊邪那岐大神・伊邪那美大神ほか諸神を勧請したが、その後永く廃絶した。
 北畠顕信公、その子・守親公等は父・親房公、顕家公の遺志を継いで南朝の為に画策、霊山(福島県)を出でて再び諸神を勧請して南部氏を頼ったが、時運にあわず八幡岳にて一敗、その後を絶った。浪岡に拠った顕家公の後嗣も津軽氏に打倒されその跡殆煙滅した。
 創立者・小笠原壽久翁は昭和十八年、啓示を受けて八甲田大神(はっこうだおおかみ)を祭祀、昭和四十六年には北畠氏縁故者や崇敬者と共に明治百年を期し、現在地に社殿を建立。平成二年に鎮座二十年記念事業として本殿三棟を建立した。※八甲田神社『参拝のしおり』】と紹介されています。

 平安の昔から南北朝、戦国時代を経て、八甲田の神々を祀ってきた古い歴史を持つ社ですが、現在地に八甲田神社として建立されたのは昭和に入ってからのことです。

 敷地が約三千坪という広い境内ですが、社殿の前には手水舎や社務所、天照大御大神や月夜見大神を祀っている曙神社などがある他、郷土の俳人たちの句碑もあります。
 拝殿の後ろ側は、玉垣と門に囲まれた本殿が三棟立っていましたが、残念ながら、中へは入れませんでした。

◇八甲田神社









 御祭神は、「天津御祖大神・伊邪那岐大神・伊邪那美大神・天照大御神・月夜見大神・大地主大神・大山祇大神・北畠顕信命・ 北畠守親命・美穂屋姫大神 ほか」となっています。
 多くの神様の名前に驚かされますが、その数が多いのは、八甲田山は独立峰である岩木山などと違って、連峰の総称であるために、各峰々にはそれぞれの「神様」がおり、信仰を集めていたためだと思われます。八甲田連峰の「萬の神々」が宿る神社といえそうです。

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青森寺 - つがるみち418




 青森寺(せいしんじ)は、青森市栄町の堤川の河口に位置しており、「イルカ伝説」で有名な諏訪神社と境内が隣り合わせになっている寺院です。
 東北三十六不動尊霊場、津軽弘法大師霊場にもなっていて、多くの信者をもつお寺ですが、二月の節分会と七月の灯篭流しの行事には多くの人々が訪れ、「節分の豆撒きには、厄除祈願の善男善女が多数参集し、その規模は県下一である。又夏の灯篭流しは、川面を幻想的な光で彩り、誠に叙情的で短い青森の夏には欠かせぬ風物詩となっている。」と紹介されています。




 山号は「成田山」。本尊に不動明王を祀る真言宗のお寺ですが、成田山という名前からも分かるように、成田山新勝寺の青森分院という位置づけになっています。
 その由緒については、
【明治二十一年、中村浄了師が結成した成田山新勝寺に参拝することを目的とした「成田講」の信徒が中心となり、青森市青柳に不動堂を建立したのが当山の始まりです。同二十三年に新勝寺の御分霊を不動堂に奉安し青森成田山と称しました。同四十一年に現在の栄町に本堂を移転し、県内外から広く信仰を集めておりましたが、昭和二十年の空襲により御本尊・本堂等悉く焼失してしまいました。昭和二十七年、中村照純師(中興第一世住職)が中心となり本堂再建を目指し成田山青森寺と寺号を称し奉賛会を設立、同三十二年に本堂再建、同三十五年に御本尊不動明王を奉安し当山の再興が成されました。このとき、当山が本州最北の地にあることから北を守るという願いも込められ、御本尊不動明王を北向きに安置しました。
 当山開創以来、信徒各位のさまざまな願いを成就いたすべく、一心に不動明王へご祈願を捧げ続け今日に至ります。※青森寺HPより】とあります。

 大きな鰐口が架かっている入口の扉を開けると、正面に祭壇があり、御本尊が祀られていますが、祭壇の両脇に小型ねぶた位の大きさの置物があります。
 左側の物は高さ1.66m、幅2,21m、大理石一枚岩に彫られた「九龍献瑞」で、右側は高さ1.72m、幅3mの「屋久杉置物」ですが、両方とも、このお寺の寺宝となっています。

◇青森寺本堂






 入口に「阿吽」の仁王像が立っていたり、狛犬があったり、境内の中に赤い鳥居の社があったりと、神仏混合を感じさせるお寺です。
 境内の奥に立つ社は稲荷堂(鎮守稲荷堂)で、扁額には「高山稲荷」とありました。その隣が龍神堂(清瀧権現堂)。いずれも、昭和30年代に建立されたもののようです。


 弘法大師霊場ということで、「子安大師」などの大師像も何体か見られますが、入口に「曼荼羅堂」という建物があり、その中には、水子地蔵尊や、勢至菩薩、阿弥陀如来、不動明王などの「生れ年一代尊」などが祀られていました。

◇青森寺境内



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王余魚沢稲荷神社ーつがるみち411




 青森市HP「なみおか 今 昔」には、【・・・浪岡から五本松、王余魚沢を通り青森の堤橋に出る道は、古くから「大豆坂(まめさか)街道」と呼ばれ、大釈迦峠-鶴ヶ坂の道筋とともに重視されてきました。】と書かれています。
 文中に出てくる王余魚沢(かれいざわ)は、浪岡町内から青森空港へと至る途中にある集落です。




 ここには、かつて、「王余魚沢館」という城(館)が築かれていましたが、浪岡北畠氏の家臣であった軽井源左衛門尉という武将が築城主といわれています。現在は遺構もなく、詳細は分かりませんが、稲荷神社の境内が、その居館の跡とされています。
 前述のように、王余魚沢一帯は、青森へと至る要路でした。津軽藩は、夏の強い日差しをやわらげ、冬の風雪を防ぎ、往来を楽にするため、松を植えるなど、街道整備に努めましたが、享和元年(1801)頃には、ここ稲荷神社の辺りにも並木松が植えられたとのことです。

 現在は、その並木松はほとんど残ってはいませんが、一の鳥居から続く参道の両脇には、背の高い杉木立が林立しており、かつての街道の様子を偲ぶことができます。

◇稲荷神社参道と境内








 この神社の由緒についてはよく分かりません。神社名からして御祭神は倉稲魂命だと思われますが、かつては武将の館跡だったことから考えると、戦いの神・荼枳尼天が祀られていたのかも知れません。
 細い参道を歩いて行くと、広い境内へと出ます。御神燈や狛犬、鳥居を伴った末社などが並んで立っていました。

 境内には、大石が何個か置かれています。舟のような形のものやお椀型のもの、石碑のようなもの、石塀に囲まれて置かれているものなど、様々ですが、いずれも真ん中がくりぬかれていました。これらは、近くの山などから集められ、ここに置かれたようですが、何か、信仰上の理由があったのでしょうか。不思議です。

◇境内の大石と本殿




 
 ところで、「王余魚沢(かれいざわ)」という、とても珍しい地名ですが、その由来については、はっきりとしたことは分かっていません。
 ひとつには、大豆坂街道を旅する人達が「餉(かれいい:携帯する食糧)」をとる場所、または、馬や荷物を下ろす場所(かるいざわ)から転化したものだという説があります。
 また、「王余魚」という魚の名前は、「昔、中国の王が魚を半分食べたところを水に放すと泳ぎだした」という故事から名づけられたとされていますが、それに倣ったものだという説もあります。即ち、この説は、中世浪岡の支配者であった北畠氏を中国の王になぞらえている分けです。

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後潟神社ーつがるみち391




 津軽山地(中山山脈)は、津軽半島の背骨に例えられ、標高500m~700m級の山が連なる山脈です。
 そのヒバ林は、木曽のヒノキ林、秋田のスギ林と並んで日本三大美林のひとつに数えられています。
 袴腰岳(627m)や赤倉岳(563m)などの山々がそびえていますが、中でも大倉岳(677m)はその中心的存在で、登山ルートも整備され、その頂上からは、津軽海峡・下北半島・陸奥湾・八甲田・日本海などのすばらしい眺望が楽しめるとあって、多くの登山客が訪れます。




 国道280号線沿いに位置する青森市の後潟地区は、大倉岳と深い関わりをもつ集落で、その産土社が後潟神社です。
 後潟は蓬田村と境を接する集落ですが、神社はバイパスから見えるところに立っています。社号標は集落の通りにあるようですが、私は一の鳥居がある道から入りました。
 敷地には鉄棒やブランコなどもあり、子どもたちの遊び場にもなっているようです。

 境内には猿田彦碑のほか、自然石の庚申塔などが立っています。狛犬は参道に大小二対置かれていましたが、大きい方は、何となくスフィンクスを思わせる姿形でした。拝殿のとなりには、小さな祠があり、その横には鳥居を伴った境内社があります。

 その由緒については詳しく分かりませんが、御祭神は伊弉那岐命と伊弉那美命で、一説には正安二年(1300)建立と伝えられており、熊野権現と称していましたが、明治期に現在の後潟神社となったということです。

◇後潟神社









 前述した大倉岳の山頂には鳥居と小さな祠が立っており、「大倉岳神社」と呼ばれています。
 実は、この山頂の神社は後潟の人々が、昭和五年(1930)に建立したものですが、そのいきさつについては、
【(1)後潟営林署担当区主事が夢で「われは大倉岳山頂の神・木花開耶姫である」とお告げを受け、これを聞いた後潟の人たちが奉納した。 (2)世界大恐慌を受けた経済の浮揚と人心の不安一掃のために奉納した。※HP「あおもり110山」より】という二つの説が語られています。

 いずれにしても、山頂の祠を大切に守り、後潟神社の境内には、その里宮を建立するなど、大倉岳神社は後潟の人々の厚い信仰を集めている「山の神様」ですが、大倉岳への登拝は、同地区の大事な伝統行事として受け継がれているとのことです。

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清水天満宮ーつがるみち390




 国道280号線は、海上区間(津軽海峡)をはさんで函館へと至る道路ですが、藩政時代に北海道の松前藩主が参勤交代で通ったことから通称「松前街道」と呼ばれています。
 青森県側の松前街道は、青森市から龍飛崎に至る約120kmのルートです。街道沿いには歴史資源や伝統芸能が今も随所に残されていますが、多くの神社も点在しています。現在は、バイパスも開通していますが、青森市から蓬田村に向かって走ってみました。




 蓬田村へ向かう途中に「内真部(うちまんぺ)」という集落があります。
 周辺には平安時代後期の遺跡や「内真部館」という山城の跡がありますが、青森県HP「あおもりの今・昔」には、次のように記されています。
【・・内真部川が山中に入る北側の山麓に、館と山城の遺跡がある。実は、この地こそ鎌倉時代末期の文保二年(1318年)ころに始まった有名な津軽大乱(安藤氏の乱)の中心舞台となった土地であった。
 乱の顛末を記した「諏訪大明神絵詞」には以下のような記述がある。
「その蝦夷管領・安藤太の子孫に五郎三郎季久、又、太郎季長というは従父兄弟なり。(中略)彼らが留守の士卒、数千の夷賊を催し集め、外浜内末部、西浜折曽関(現在の深浦町)の城郭を構えて相争う。二つの城険阻によりて、洪河(現在の岩木川か?)を隔て、雌雄互いに決しがたし。」・・この「外浜内末部の城郭」が内真部の館・山城の遺跡にあたるらしい。】
 中世の激しい戦いが行われた内真部は、外ヶ浜地域の一大中心地であったようです。

 内真部を少し過ぎたあたりに、こんもりとした森が見えたので立ち寄ってみたら、そこは神社でした。後で確かめたのですが、この神社は清水天満宮です。




 この神社の由緒については、詳しくは分かりませんが、御祭神は菅原道真で、
「草創建立年代は不詳。安政二年(1855)の『神社微細社司由緒調書上帳』には、寛文十三年(1673)村中で再建したと書かれている。その後、明治六年三月に神社法改正により一時、後潟神社に合祭されたが、同八年に復社。」ということのようです。
 あまり広くない境内ですが、鳥居をくぐると、参道には手水舎や御神燈、狛犬などが置かれていました。
 かつてこの神社には、「春日宮」と「祇園宮」、そして「惣染堂」という三つの末社があったとされていますが、文政年間~安政年間にかけて廃社になったとのことです。


 現在は、拝殿の横に三つの末社が並んで立っていますが、左は権現社で、真ん中は不明、一番新しい右側の建物は神馬厩舎でした。

◇清水天満宮
 


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三内稲荷神社ーつがるみち377


三内稲荷神社


 前回の続きになりますが、寛政年間に青森市三内の桜見物のために、この地を訪れた菅江真澄は、
【このあたりに名だたる三内の桜見てんと、つとめて大浜を出て、川渡り、新田村をへて、三内村に来たり。
 飯形、誉田のおほん神をあはせまつる社あり。※『すみかの山』】と書き残しています。




 文中に「飯形、誉田のおほん神をあはせまつる社あり」とありますが、「誉田のおほん神」とは、前回の八幡宮のことです。
 一方の「飯形」は「飯成」即ち「稲荷」のことと思われ、八幡宮にほど近い場所に鎮座している三内稲荷神社を指していると考えられます。
「村里いったい、すべて紅の雲がたなびくように、うすい色の桜花が咲きわたっている」と真澄が記しているように、一帯は、広く桜の名所として知られていたのでしょう。

 三内稲荷神社は、現在は栄町の諏訪神社の兼務社となっていますが、同神社のHPでは、次のように紹介されています。
【御祭神:稲荷大神  草創年月不詳、 延宝元年 (一六七三) 五穀成就、 村中繁栄の為村中にて再建。 安政二年の書上帖には、 油川組三内村稲荷宮一宇、 板葺屋根の建坪三尺四方の堂社、 萱葺の建坪東西五間南北三間の覆、 東西四十間南北五四間の境内がみえる。
 明治六年三月当本村三内村八幡宮へ合祀、 同八年二月復社。 同九年十二月村社に列せらる。
 三内の丘陸地には、 神社西南約1kmの三内丸山遺跡や三内沢部遺跡をはじめとして、 旧石器時代後期・縄文時代の遺跡や平安後期の住居跡が多数存在する。 また、 早くから土器を出土することが知られ、 菅江眞澄 「すみかの山」 に記事がみられる。 】

 辺りに小学校や中学校、幼稚園などが立ち並ぶ住宅地の中にある神社ですが、集落の中ほど、坂道の途中に境内がありました。一の鳥居の両側に巨木がそびえていて、まるで門のようです。
 両側に住宅が迫っている細長い境内です。狛犬などは置かれておらず、参道の奥に拝殿と本殿があり、その隣には猿田彦大神の碑と末社の祠が立っていました。

◇三内稲荷神社

  





 比較的狭い境内の中には、杉木立に交じって、注連縄が張られたイチョウやクロマツの大木がそびえていたり、大きな切り株などがあちこちに見られますが、この神社の境内は「三内稲荷神社の杜」と呼ばれ、青森市の天然記念物に指定されています。
 神社の入口には、その説明板が立っていますが、青森市HPには、

【天然記念物:三内稲荷神社の杜  黒松4株、銀杏1株、針桐1株  三内稲荷神社の建立年月日は不詳であるが、延宝元年(1673)に五穀豊穣を祈願し、村中で再建したという記録が残っている。
 この神社近くには、かつての豪族の館といわれる「お城ながれ」と呼ばれている地域があることなどから、かなり昔から大規模な集落があったと推察される。
 この神社を取囲む黒松、銀杏、針桐は樹齢200年から400年と推定され、戦火や枯死などによりその風致を失いつつあるものが多い本市の樹木群の中で、大樹としての風格を備えた有数の古木群として貴重である。】と紹介されています。

 戦火や枯死に加えて、宅地化が進み、古木の数なども少なくなっているようですが、境内の老木は、かつての「杜」の面影を今に伝えているようです。

◇三内稲荷神社の杜

  


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三内八幡宮ーつがるみち376


三内八幡宮


 青森市の三内地区は、特別史跡・三内丸山遺跡がある所ですが、ここはまた、古くから桜の名所としても広く知られていました。
 江戸時代の紀行家・菅江真澄は、三内の桜について次のように書いています。
【有名な三内の桜を見ようと宿を出た。遠近のどこの山も、村里いったい、すべて紅の雲がたなびくように、うすい色の桜花が咲きわたっている景色は、たとえようもなく美しい。世間ではすっかり過ぎ去ってしまった春の季節が、ここではいまなおとどまっている心地がして、野山の道もたいそうおもしろく眺めながら、三内村に来た。誉田のおん神をまつる社がある。
 三内の桜の花は、ふつう世間にある桜と似ていない。一本の木に二枝、三枝ささやかに茂って、花に花の寄生があるようで、またとたぐいのないものである。たいそう小さい花がびっしりと生い立って、この小桜にも小枝がまりのようにさし込んでいて、枝ぶりは皆同じであった。村長に尋ねると、「これが名高い三内の千本桜といってまたと他にない桜である。天明三、四年の凶作の前までは、吉野は別として、広い世の中にもこのような見事な桜花のあるところはなかろうと、わが住む郷里ながら花の咲くころは誇りにしていたが、荒廃した世情のために薪に切られてしまい、今は桜の木も残り少なくなってしまった」ということであった。※菅江真澄『すみかの山』 黒田四郎 著『東北見聞録2』より




 紀行文に記されている「誉田のおん神をまつる社」とは、三内沢部の集落に鎮座する現在の八幡宮のことだと思われます。
 社号標のとなりに由緒書きが立っていましたが、それには、
【御祭神:譽田別神  草創年月不詳、 正徳四年 (一七一四) 五穀成就、 村中安全の為再建。 その後村中にて祭祀。 安政二年書上帖には、 油川組三内村八幡宮一宇、 板葺屋根の三尺四面の堂社、 萱葺の東西五間南北三間の雨覆、 東西五十間南北四十間の境内がみえる。 明治六年村社に列せられ、 昭和七年十月神饌幣帛料供進を指定される。
 神社の南南西約1kmに三内丸山遺跡、 川を隔てて三内沢部遺跡等、 旧石器時代後期、 縄文時代及び平安時代後期の遺跡群がある。 このことは古くから知られており、 菅江眞澄 「すみかの山」 に土器や土偶のことが書かれている。 また、 三内は桜の名所として知られ、 天明年間の 「津軽俗説選」 や 「すみかの山」 にもその見事さが記されている。 】とあり、ここにも三内丸山遺跡や菅江真澄について記されています。




 道路沿いに一の鳥居があり、そこから参道が続くのですが、途中には公民館や児童館があり、小道を横切った所が境内で、そこに二の鳥居が立っています。
 境内の左手には、鳥居を伴った庚申塔や厩舎が立っていますが、厩舎の中には幟旗や神馬が納められていました。右側には、馬頭観音堂や龍神堂などが立ち並んでいます。
 拝殿の前に一対の狛犬が置かれていますが、片方は青と白の水玉、もう一方は赤と白の水玉模様のほっかむりをしています。どちらもその表情は犬(獅子)というよりも猫といった感じで、とても愛嬌があります。狛猫。。
 境内には、幹回りは太くはありませんが、背の高い杉の木が無数に生い茂っています。

 本殿の後ろの方は、広い杉林になっていますが、その中に、明らかに他の木とは樹齢が異なるクロマツが一本そびえていました。
「三内八幡宮のクロマツ」と呼ばれているこのマツは、樹高が約28m、幹回りが約4.9mといわれていて、推定樹齢は不明ですが、なかなか貫禄のある老木です。

◇三内八幡宮

  



  


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久栗坂川上神社ーつがるみち374


久栗坂漁港付近


 久栗坂(くぐりざか)は、青森市内から浅虫へと至る途中にある集落です。
 国道4号線バイパスから浅虫へ抜ける手前に全長約600mほどの久栗坂トンネルがありますが、新しいものができる以前にあった旧トンネル付近は、いわゆる「心霊スポット」として、まことしやかな話がささやかれていたりします。
 国道4号線と並行するかたちで海辺を県道259号線が走っていますが、この道は旧奥州街道(陸羽街道)で、その道路際に川上神社が鎮座しています。




 この神社は、青森市栄町の諏訪神社の宮司さんが兼務する「兼務社」のひとつなのですが、同神社のHPでは次のように紹介されています。
【御祭神:高おかみ神  慶長元年(1596)、当村開発の折、田地から発見された観世音像を津軽家中野宮一郎兵衛並びに村民が崇敬し、観音堂を建立する。
 明治初年神仏分離の時、高おかみを勧請し川上神社と改称した。
 初め当社は、村の東南、浜田750番地に社殿を建立したが、明治25年9月27日、同浜田669番地共有地へ遷座改築する。貞享4年の検地帳には、根井村(久栗坂村の別名)観音堂地二四間に十二間とあり、安政2年の書上帖には、久栗坂村に観音堂がみえている。明治6年3月村社に列せられ、同42年8月27日神饌幣帛料供進を指定される。 ※諏訪神社HP「兼務社の紹介」より

 御祭神の「高おかみ神」は、罔象女神(みつはのめのかみ)等と並ぶ、日本の代表的な水神で、農村部では祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されていますが、海辺の村・漁業の村であった久栗坂の地に祀られたのは、やはり「海上安全・海難防止」を祈願したからであると思われます。
 また、「高おかみ神」の「高」は、山の上を指す言葉であるとされていますが、この神社の境内は、久栗坂漁港を望む小高い山の上にあり、御祭神の性格をよく表しているように感じます。

◇川上神社境内

  





 由緒に「田地から発見された観世音像を津軽家中野宮一郎兵衛並びに村民が崇敬」とあります。この話とのつながりは分かりませんが、神社のすぐ近くには「矢倉山 観音寺」という浄土宗のお寺があります。
 桜の名所として知られるこのお寺の背後の山の頂上には不動尊が祀られ、参道には三十三観音像が置かれているとのことですが、今回は行ってみませんでした。

 前述のように、川上神社の境内は小高い山の上ですが、一の鳥居から続く石段の参道はかなり急な登りで、少し息が切れました。
 社殿の左側には「川上神社」と刻まれた社号碑と二十三夜搭が並んで立っていましたが、その奥には山神様の小さな碑もありました。
 右側には「山頂薬師堂」の大きな碑と祠がひとつ立っていますが、ここには薬師如来が祀られているようです。

 この神社の狛犬は、そのつくりがとても面白く、体は前を向いているのですが、頭は拝殿の方を向いています。参拝者がきちんとお参りしているかどうかを見張っているような感じです。

◇狛犬、本殿、参道

  


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高屋敷神明宮ーつがるみち372


高屋敷神明宮


 青森市浪岡高屋敷(たかやしき)は、大釈迦に向かう途中にある集落です。
 国道7号線沿いに広がっている村ですが、その付近にはため池が数多くあります。
 その名前も「宇之助ため池」とか「惣エ門ため池」とか、土地の開発の歴史を感じさせるものですが、ため池から延びた用水路もたくさんあり、辺りの土地を潤しています。


一の鳥居


 そんな高屋敷の集落に神明宮が鎮座しています。
 道路のすぐそばを堰(用水路)が流れていて、近くには小さな水門があり、そのそばに赤い鳥居があります。「神明宮」と彫られた扁額の下には、津軽特有の幾何学模様のジャンバラ型注連縄が下がっていました。
 鳥居の後ろを堰が流れていて、その傍らには小さな末社と庚申塔が立っています。神橋があり、そこを渡ったところが境内になります。
 社殿は南向きに立っていますが、その前には狛犬が一対。拝殿の扉が開いていたので、中を拝みましたが、その壁にはたくさんの絵馬が奉納されていました。
 境内の東側には雪解け姿の田んぼが広がっていましたが、ここからは、真っ白な雪をかぶった北八甲田と南八甲田の山々が見えました。

 この神明宮の由緒については、
【御祭神:天大日霊命  草創不詳というも、 宝永三年四月十二日預主工藤権七及び村中にて建立した。 御棟札二体あり
寛政四壬子年四月 天保七丙申年四月  ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

◇高屋敷神明宮

  


  



八甲田山


 高屋敷は古代(平安時代後期)の大規模な集落があった所で、高屋敷館遺跡
高屋敷館遺跡想像図 ※青森県HPより
として、国の指定を受けています。

◇高屋敷館遺跡
【平安時代後期の集落跡。濠と土塁をめぐらして外部からの攻撃を防御する、いわゆる環濠集落としてとくに規模が大きい。以前は中世の城館跡と見られていたが、国道バイパス建設にともなう発掘調査によって古代のものとわかり、バイパスが路線を変更することで遺跡全体が保存され、2001年(平成13)、国指定史跡となった。南北約100m、東西約80mに広がり、西側には、幅約6m、深さ約3mの濠がめぐらされ、外側に幅約2m、現状の高さ約1mの土塁が築かれて集落を外部から遮断する形になっている。濠の西側に土塁の切れ目があり、南西部にも木の橋が架けられて、出入り口が設けられていたと見られる。濠の内部は大小の竪穴(たてあな)住居が重なって密集し、現在86棟が確認されている。ほかにも多数の住居跡が存在し、多くの人々が長期にわたって生活したことがしのばれる。鉄滓が出土した住居もあり、鍛冶工房だったと考えられる。土器のほか、鉄製品、木製品が豊富に出土している。遺跡北側にはこの遺跡に先行する時期の円形周溝遺構などがあり、高屋敷館遺跡成立以前の状況も具体的に推定されている。東北地方の北部以北の地域は律令国家の直接的な支配が及ばない地域であり、11世紀後半には前九年・後三年の役など東北地方の戦乱もあり、それ以前から、蝦夷(えみし)の集団相互の抗争もあったと想像されている。 ※コトバンクより

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白山神社と加茂神社ーつがるみち367


白山神社


 青森市浪岡杉沢(旧浪岡町)は、奥羽本線と国道7号線に沿って広がる地区ですが、その上福田という集落に白山神社が鎮座しています。
 一の鳥居は道路沿いに立っていますが、すぐ隣は住宅になっていて、そこから細い参道が続きます。
 道路を挟んで、境内の向かい側は廃校になった小学校の跡地でした。
 その由緒については、
【御祭神:伊弉諾命 伊弉册命   草創不詳というも、 寛保二年 (一七四二)、 上様御安全、 五穀成就、 村中安全の為村中にて再建した。 御供米二斗村中にて年々寄付す。
 御棟札三体あり  宝暦十三癸未年十月吉日   寛政四壬子年四月吉日  天保七丙申年三月吉日 ※青森県神社庁HP】とありました。

◇白山神社

  



  



加茂神社


 白山神社からほんの少し歩いたところに、もうひとつ神社がありました。社号標には「加茂神社」とあります。
 この神社の一の鳥居も道路沿いに立っているのですが、参道にはまだ雪があり、ぬかるんでいたので裏手の方から行ってみました。
 川を渡ると境内へと出ますが、なかなか広い境内です。末社と旧社殿、拝殿、本殿などが立っていますが、角を生やしたちょっと寄り目の狛犬がユーモラスです。
 その由緒については、
【御祭神:別雷命  宝永三年 (一七〇六) 四月十二日、 願主工藤権七及び村中にて建立とある。 貞享御調べの時に雷電宮より書上げする由ありと言えども、 元来、 加茂宮にて古来の通り書上げする様申し入れて現在に至る。
御棟札二枚あり  一、 寛政四壬子年四月  一、 天保七丙申年四月 ※青森県神社庁】と説明されています。

◇加茂神社

  



  


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伝統の獅子踊「吉野田八幡宮」ーつがるみち276


一の鳥居


 青森市浪岡吉野田地区(旧浪岡町)は、名水・十和田霊泉への入口にあたる集落ですが、昔から獅子踊りが盛んな所です。
 青森県の無形民俗文化財に指定されている吉野田獅子(鹿)踊
吉野田獅子(鹿)踊
は、【踊り手は男獅子2、女獅子、笑可児からなり、演目は追い込み、橋かけ、山かけ、注連縄、山担ぎ、女獅子狂い、和楽、暇乞がある。胡蝶のように可憐に踊るのが特色であるといわれる。昔は神前で領内の社家等を招いて「神楽獅子」として3本の榊の枝を奉納し、旧正月2日、8月15日に踊ることが定例とされた。現在は獅子踊保存会が踊りの継承と普及活動を担い、吉野田地区にある十和田神社の大祭で踊りを奉納している。】と紹介されています。
 その由来については、【初代浪岡城主・北畠顕成が築城に際し、領地内の平和と五穀豊穣の祈願のため京都から踊り手を招いたのが始まり。】とされていますが、浪岡北畠氏の祖ともいわれる北畠顕信(北畠顕家の弟)は、獅子踊について、【東の方より男獅子に跨りて 南の方より女獅子に跨りて 西の方より神馬に跨りて 北の方より弁財天女 白く浄めし大蛇に跨りて 中央上下は大慈大悲の観世音・・※以下略】と謳っているとのことです。 
※【】はHP「あおもりの文化財」 「青森県音楽資料保存協会」等を参考にしました。

 ー そんな吉野田集落の中心部に八幡宮が鎮座しています。

 私がこの神社を訪れたのは4月の半ばでした。参道を歩いて行くと、正面に赤い二の鳥居、そして右側には別の白い鳥居が立っているのが見えます。これは馬頭観音堂の鳥居でした。
 観音堂の前には両脇に神馬像が置かれていますが、よく見ると右側は台座だけが残っており、神馬は見当たりません。お堂のそばに行って、その分けがわかりました。どうやら、この神馬像は壊れたようです。お堂の石段に大事そうに置かれていました。少し、痛々しい姿です。あれから約2ヶ月・・その後、どうなったでしょうか。お堂には、5基の馬頭観音碑が納められていました。

◇参道と馬頭観音堂

 
参道
馬頭観音堂①
神馬
馬頭観音堂②
境内



本殿①

本殿②


 吉野田八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  寛永年中 (一六二四~一六四四)、 松倉山の祠を当地に奉遷したと言われている。 貞享元年 (一六八四)、 村中で社殿を建立す。 安政四年 (一八五七) 九月十四日、 拝殿を新築して御神体を拝殿に祀る。 明治六年四月、 村社に列せられる。 明治二十一年、 神楽殿を新築す。 明治四十二年九月十日、 本殿を新築し、 拝殿を改造す。 明治四十四年九月十日、 神饌幣帛料供進の指定を受ける。 大正二年、 幣殿を新築す。 昭和二十四年三月十四日、 国有境内地を無償で譲与される。 昭和二十七年八月、 本殿、 幣殿、 拝殿を改築し現在に至る。 ※青森県神庁HP】と紹介されています。

 境内には、紫の衣をまとった神馬や大きな狛犬が拝殿の前に置かれています。りっぱな手水舎の隣には神馬厩舎が建てられていました。中には二体の馬の像。私が訪れたときには拝殿が開いていたので、その中を拝むことができました。本殿は小ぶりな建物ですが、その向背に彫られた龍や木鼻は見事なものでした。

◇拝殿ほか
 
 
狛犬と神馬
神馬
拝殿①
拝殿②
拝殿③


 ところで吉野田獅子踊の演目ですが、
1 「追い込み」・・・獅子が自分の安住の地を求めて、山奥に入る出発の場面。
2 「橋かけ」・・・獅子が川にさしかかり、橋を見つけ、危険を感じ、安全を確保す
          るため、男獅子が交互捜索する場面。
3 「山かけ」・・・ようやく川を渡って希望の山に入り、山中に潜む敵の捜索を入念
          に行う場面。
4 「しめ縄」・・・安住の地を見つけた獅子達が、しめ縄を張り、神を呼び、四方を
          祓い清める場面。
5 「山担ぎ」・・・四方を祓い清め、晴々しく、神とともに踊り戯れる場面。
6 「女獅子狂い」・・・踊り戯れる中、行方が分からなくなった女獅子をめぐって、
            男獅子が争う場面。
7 「和楽」・・・争いも終わり、共に働き楽しむ平和な安住の生活をおくる場面。
8 「暇乞い」・・・安住の地(踊り場)に暇を乞い、一別の挨拶をし、去る場面。
というように、「獅子たちが安住の地を求めて山中に分け入り、様々な困難を克服し、平和を得る」というストーリーになっています。踊りに先立って三本の榊の枝を立てる(奉納)のは、「三」を「山」に見立てているからだともいわれます。

 この獅子踊りの物語は、山岳修行とも通じるところもあり、北畠氏が踊りを伝えてから修験信仰の影響をうけ、発展していったと考えられています。一方、村人の間に広まった獅子踊りは、いろいろな農耕儀礼とも結びつき、豊作祈願・感謝の舞として定着していったと思われます。 ー 山中に入った獅子たちが、いろいろな艱難辛苦に耐え、喜びを分かち合う姿は、天災や土地や水をめぐる争いを克服しながら豊作を得ようとする村人達の姿であるといえるでしょうか。

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境内でひと休み「長沼大石神社」ーつがるみち269


大石神社


「大石」と名のつく神社は私の近場にもいくつかあります。
 その代表は、巨石信仰で知られる弘前市の大石神社ですが、鯵ケ沢町中村町にも同名の社があり、この神社については、
【享保五年 (一七二〇) 四月講中にて勧請し、 昭和二十二年四月から氏子一同崇敬、 昭和四十五年七月本殿・拝殿建立認可される。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
 ー 今回訪れたのは、青森市浪岡(旧浪岡町)長沼に鎮座している大石神社です。


二の鳥居


 集落の大通りに一の鳥居
一の鳥居
が立っていますが、境内へは、その鳥居をくぐって少し進むとたどり着きます。入口には色鮮やかな二の鳥居と、末社とその鳥居、そして神社の由緒書きが立っていました。
 二の鳥居のそばには、庚申塔と社号標がありますが、社号標を見てびっくり。加茂明神
加茂明神
と刻まれています。
「えっ」と思いましたが、この神社の由緒によると、
【御祭神:高皇産霊命 神皇産霊命 別雷命  草創不詳。陸奥国誌に日く、 大石神社は享保十年 (一七二五) 七月建立、 西の徳才子村(※隣の集落)に接している関係で明治四十二年加茂神社を合祀し、 大正元年村社となる。 ※青森県神社庁HP】とあり、納得しました。合祀により、高皇産霊命、神皇産霊命とともに、各地の加茂神社の御祭神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)も祭られているわけです。

 この神社は、左右に道が分かれるところにありますが、二の鳥居をくぐるとしばらくは杉の木立に囲まれた参道が続きます。三、四とそれぞれの鳥居を過ぎると、やがて拝殿が見えてきます。私が訪ねたときは運よく扉が開いていたため、その中を拝むことができました。

◇参道と拝殿

 
参道
境内
拝殿①
拝殿②
拝殿③


 拝殿手前の両脇に向かい合うようにしてお堂が二つ建っています。中を覗いて見ると、そこには着飾った神馬が祀られていました。
 奥の方には祠が二つ。白と青の衣装を着けた御神体がありました。何の神様なのでしょうか。
 境内と道を隔てた所にも鳥居が立っていて、そこにも祠が二つ並んでいました。

◇末社など
 
 
神馬
末社①
末社②
末社③
末社④


 さて、弘前、鰺ヶ沢、そしてここ浪岡の三つの「大石神社」の御祭神は、いずれも高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と神皇産霊神(カミムスビノカミ)です。
 先日、ネットを見ていたら静岡市清水区河内というところに、高さ19m、周囲60mという巨石があることが分かりました。「河内の大石(こうちのおおいし)」と呼ばれているこの巨大な石は、「元々は、西にある真富士山(1343m)の中腹にあったものが嘉永7年(1854)に起きた安政東海地震で崩れ、翌年の豪雨で発生した土石流によって約1.6kmも流されてきたもの」なのだそうです。HP上の写真を見て、その巨大さに驚きました。巨石のそばに神社が建てられていますが、名前は「大石神社」で御祭神は、ここでも高皇産霊神と神皇産霊神でした。

 この両神は、日本神話で「天地開闢のとき、高天原に出現した神で、天御中主神(アマノミナカノヌシノカミ)とともに造化の三神」とされています。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味することから、農業・工業・商業の発展をはじめ、安産・子孫繁栄など、広く敬われている神様です。

 特に高皇産霊神は「高木神」とも呼ばれ、天照大神とともに、高天原の至上神とされていて、「葦原中国平定(国譲り)」や「天孫降臨」などの神話においては、しばしば「天照大神と高皇産霊神の命により・・・」といった表現が使われているところをみると、八百万の神々の統括者であったといえそうです。
 一方、神皇産霊神は、須佐之男命、大国主神を中心とした「出雲系の神話」に数多く登場し、兄神たちに殺された大国主命を、その霊力で蘇生させたという伝承が語られています。

 では、なぜ「大石神社」の御祭神が高皇産霊神と神皇産霊神なのか・・。とても興味がありますが、浅学のため分かりません。 
 ー 「大石」は「要」とか「土台」を連想させるところから、国造りの基を成したこの両神が祀られる ー などと思ったりします。

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境内でひと休み「相沢八幡宮ほか」ーつがるみち265

 
本郷八幡宮
  
相沢八幡宮


 前回の記事から少し間が空いてしまいました。今回もまた、青森市浪岡(旧浪岡町)に鎮座している二つの八幡宮です。


参道


 浪岡と黒石市は隣接しているわけですが、本郷地区もそのひとつです。その本郷の集落に八幡宮があります。
 この八幡宮の周辺からは、縄文時代の土器や土偶をはじめ、平安時代の土師器や須恵器なども発掘されており、縄文から平安までを包含する遺跡となっていて、地名と社名から「本郷八幡宮遺跡」と呼ばれています。

 この八幡宮については、
【御祭神:譽田別命  草創不詳なるも、 元禄十一年 (一六九八)、 本郷村中にて、 再建する。※青森県神社庁HPより】と書かれてありますが、その詳細は分かりません。

 道路沿いに「御大典紀念」の碑と「八幡神社」と刻まれた社号標に挟まれて、金属製の注連縄が張られた一の鳥居が立っています。そこから参道が延びていますが、途中で右側に折れ曲がり、その先に社殿が見えます。
 拝殿までの参道の両側には、灯篭をはじめ、神馬が二対、狛犬も二対、そして八幡様のお使いの鳩などがズラーッと並んでいます。参道の右側は森、左側は道路になっており、明るい感じのする境内です。
 拝殿の塗りは鮮やかな朱色で、真ん中に置かれた鶴の像がとてもひきたって見えました。軒下には奉納された草鞋
草鞋
も掲げられていました。

 拝殿の右側(向かって)は、杉木立が茂る森になっていて、そこには庚申塔や二十三夜塔、末社などが建っていますが、そのそばに、忠魂碑と並んで、ひときわ大きな石碑があります。 ー 「浪の音健蔵之碑」 ー 郷土出身の力士の顕彰碑のようです。
 浪岡町出身の力士といえば、「おしん・家康・隆の里」といわれた第59代横綱・隆の里が有名ですが、この「浪の音」は、明治から大正にかけて活躍した力士だったようです。最高位は関脇。身長166cm、 体重79kg・・・かなり小さな力士だったようですが、そんな小兵が大きな力士をさばく姿に村は熱狂し、全力で応援したのでしょう。

◇本郷八幡宮

 
狛犬と狛鳩
拝殿
拝殿と本殿
庚申塔と末社
力士顕彰碑



二の鳥居


 本郷の八幡宮からさらに山奥へ数km。「相沢」という集落へ向かいました。さすがにもう道路には雪はありませんが、道の両側の日陰や木々の下などには、まだ残雪があります。
 相沢は、八甲田山系の山々の麓にぽつんと佇んでいるような、ひっそりとした山里ですが、この集落の道路沿いに八幡宮が鎮座しています。

 相沢八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  建立年月日は不詳ではあるが、 安政年間 (一八五四~一八六〇) の神社微細調書上帳に依れば、 当時は宝龍宮と称していた。 相当以前より当部落に建立されたように見受けられる。 明治四年四月の諸神社明細併せ由緒書上帳を見ても、 宝龍宮を八幡宮に改めたのは事実である。 本殿には古い棟札が一枚あるが、 その年代は不明である。※青森県神社庁HPより】と記されていますが、昔、この地を開拓した村人の産土社だったのでしょう。拝殿の前に新堂落慶の碑
新堂落慶の碑
が建てられていましたが、そこには「神を敬い 祖を尊び 民は和す」と刻まれていました。この社に対する崇敬の厚さが分かるようです。 

 二の鳥居から登りの参道が続いていて、大きな二本の杉の木
二本の杉の木
に挟まれた形で石段が延びています。途中に赤い鳥居と祠がありましたが、ここは馬頭観音堂でした。

 そこからさらに右に上ったところに社殿があります。小高い丘の上に築かれた境内には、神馬や狛犬が並んでいます。拝殿に下げられた多くの鈴がとても印象的な社です。

◇相沢八幡宮

 
馬頭観音
社殿へ
拝殿①
木鼻
拝殿②


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国道沿いの社「増館八幡宮ほか」ーつがるみち264

 
増館八幡宮
 
下十川八幡宮


 一の鳥居は道路沿いにあるものの、そこから参道が長く延び、境内が奥まったところに位置する神社はしばしば見かけます。
 以前に訪れた五所川原市の原子八幡宮は国道101号線が入口でしたが、今回は青森市浪岡(旧浪岡町)の国道7号線沿いに鎮座する二つの八幡宮を訪ねました。


増館八幡宮遠景


 国道7号線は旧羽州街道にあたるわけですが、江戸時代末期に書かれた『津軽道中譚』には、浪岡について「4つの道が集まる追分の大駅で、往来は格別に賑やかだ。泊まり客で旅籠は繁盛している。」と書かれているとのことです。そんな浪岡町の入口にあたるのが増館地区で、ここに八幡宮が鎮座しています。

 明治になって市制・町村制が公布され、浪岡は周辺の村々が合併し、「女鹿沢」「浪岡」「五郷」「大杉」「野沢」の五か村となりましたが、増館は女鹿沢村に位置づけられていました。
 羽州街道沿いということもあり、かつては菅江真澄をはじめ、数多くの文人や旅人が往来した所ですが、天明8年(1788)に幕府の巡見使に随行して、東北・北海道を旅した古川古松軒(ふるかわこしょうけん)は『東遊雑記』の中で、増館について、
「増館付近の村一帯は広々として、西に岩木山を見、南東の間に南部の山々が見える。地方も上方の風土に見えながら百姓のてい悪しく、家ごと女馬を3疋5疋も飼っている。うまやというのは掘立柱をたて、垣を結い廻している。」と述べていますが、当時の集落の様子が何となく想像できます。

 この増館八幡宮については、
【御祭神:譽田別命  創立年月日は詳らかではないが、 往古の伝えに依れば、 正しく北畠氏の建立にして天正年間 (一五七三~一五九二)、 北畠大納言落城に際し、 その後、 増舘に於いて信仰するもの也。 ※青森県神庁HPより 】とあるところをみると、浪岡北畠氏の時代から崇敬を集めてきた社のようです。

 道路際に赤い一の鳥居が立っていますが、そこからは神社の境内が遠望できます。昔からここに鳥居があったのかどうかはわかりませんが、昔、旅人達もこの鳥居をくぐって神社までの道を歩いたのでしょうか。境内の緑に混じってピンク色の桜の花がとてもきれいでした。

◇増館八幡宮

 
二の鳥居
境内の桜
社号標
狛犬と神馬
境内



百万遍塚ほか


 享和2年(1802)、日本地図作成のため、津軽半島へ向かっていた伊野忠敬は、弘前から青森へと向かう途中、女鹿沢村で休憩したとされていますが、その折り、この村が、「次の浪岡村と月の半分ずつ、公用物品の継ぎ送りを分担していた」ことを記しています。これは「宿次(しゅくつぎ)」といわれ、沿道の村々に課せられた負担で、女鹿沢村は、藤崎の宿駅から運ばれたものを、積替えて新城の駅場に送る役目を負っていたようです。往時の賑わいが目に見えるようです。
 
 かつての女鹿沢村は、「増館」「下十川」「女鹿沢」の集落から成り立っていましたが、下十川は村の役場があった所です。その下十川にも八幡宮があります。
 この八幡宮は、
【御祭神:譽田別尊  延宝三年 (一六七五)、 下十川村中にて勧請す。 明治六年四月、 村社に列せられる。 ー以下略ー ※青森県神社庁HP】とありますが、その詳細はわかりませんでした。

 7号線を浪岡方面へ走って行くと、左手の田んぼの中に白い鳥居と「村社八幡宮」と記された大きな社号標が見えますが、ここが入口になります。遠くに神社の森が見えますが、参道はかなりの長さです。

 一の鳥居を過ぎたあたりに小さな赤い鳥居があり、そこには後生車と百万遍塚や庚申塔などが並んで立っていました。のどかな風景を見ながらしばらく歩くと、やがて二の鳥居が立つ境内へとたどり着きます。入口には二十三夜塔も立っていました。
 田んぼに囲まれた小さな社ですが、何となく落ち着けます。社殿の両隣にはお堂がありましたが、中を覗いて見ると、そこには神馬が祀られていました。

◇下十川八幡宮

 
二の鳥居
三の鳥居から
狛犬
境内
神馬


※記事は青森市HP「なみおか今・昔」を参考にしました。

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五百羅漢の里「見道寺」ーつがるみち248


五百羅漢の里


 青森市の新城地区は、室町時代から戦国末期にかけて「新城城」という城郭があった所ですが、津軽統一の過程で、このお城は、慶長年中(1596年~1611年)に落城したといわれています。
 ⇒以前の記事(金峰神社)へ
 昭和後期から開発が進み、現在は、高台に多くの住宅や団地が建ち並んでいるわけですが、その一角に見道寺という寺院があります。


見道寺


 私がこのお寺を訪ねたのは、金峰神社からの帰り道。
「帰り道」と書くと、いかにも気軽に立ち寄ったかのようですが、実は、新城地区は土地の起伏が激しく、「坂のある町 新城」と呼ばれています。 
 ー そういうわけで、金峰神社から坂道を登っていくのはけっこう大変でした。モダンな造りの山門をくぐり抜け、道を上り詰めたところに本堂が建っていました。

 見道寺は曹洞宗のお寺ですが、「北国八十八ヶ所霊場」の63番札所になっています。
 「北国八十八ヶ所霊場」は、昭和60年代に創設された比較的新しい霊場で、宮城県から時計回りに福島県、山形県、秋田県、青森県、岩手県と巡拝していくわけですが、いわゆる弘法大師関係の「八十八霊場」とは、色合いが異なり、その宗派もまたいろいろのようです。青森県にも北国八十八ヶ所霊場の寺院がいくつかありますが、私が訪ねたところでは、五所川原市の長円寺や深浦町の円覚寺などがそうでした。

 見道寺の敷地は大変広大で、境内の中には墓園をはじめ、淡島神社や白衣観音堂、薬師堂などの堂宇が立ち並んでいます。 
 山号は「観音山」ですが、その名の通り、三十三観音をはじめ、境内のあちこちに観音像が立てられています。中には、頭でっかちスタイルの珍しい観音様もいらっしゃいます。

 そんな中でも、ひときわ大きな観音様が「白衣観音」。白衣観音(びゃくえかんのん)は、文字通り、「白い衣を着て、ベールのような白い布で頭を覆っている」観音様で、「阿弥陀如来の妻であり、観音菩薩の母でもある」とされています。観音堂の中には、立ち姿の大きな観音像が祀られていました。ここは、参拝者が絶えないようです。
 白衣観音の隣には、幼子を抱えた慈母観音。その後ろから、もう一段高い場所へと石段が続いています。

◇白衣観音ほか

 
三十三観音
観音像
白衣観音堂
白衣観音
慈母観音



薬師堂


 境内の一番高い場所に薬師堂があります。中を覗いてみると、左手に薬壺(やっこ)を持った薬師如来が、脇侍(十二神将?)を従えて安置されていました。
 この薬師堂に向かう道の両側に、動物と戯れている姿のお地蔵様が置かれています。それぞれに「午歳地蔵」とか「卯歳地蔵」「寅歳地蔵」などと名づけられていますが、「十二支地蔵」とでも呼ぶべきでしょうか。
 そして、薬師堂の隣に所狭しと並んでいるのが、「五百羅漢像」です。

 私は「羅漢」については、よく知りませんでした。
【阿羅漢 (あらかん)は、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことで、略称して羅漢ともいう。・・・中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢、第1回の仏典編集(結集:けちじゅう)に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して図像化することも盛んであった。ことに禅宗では阿羅漢である摩訶迦葉に釈迦の正法が直伝されたことを重視して、 釈迦の弟子たちの修行の姿が理想化され、五百羅漢図や羅漢像が作られ、正法護持の祈願の対象となった。※wikipediaより
 津軽では、寛永5年(1628年)、2代藩主・津軽信枚が百沢寺(現岩木山神社)に建立した楼門に、五百羅漢像が安置されていましたが、現在は、そのうち100体が弘前・長勝寺の蒼龍窟
蒼龍窟
に安置されています。

 五百羅漢といえば、笑い、怒り、悲しみ、喜びなど、いわゆる様々な「喜怒哀楽」の表情をした姿が思い浮かびますが、ここの羅漢像もまた、一体一体が異なった表情をしていました。
 この見道寺の薬師堂及び五百羅漢は、平成16年に落慶式が行われたもので、ここは「五百羅漢の里」と呼ばれています。

◇薬師堂と五百羅漢

 
薬師様
十二支地蔵①
十二支地蔵②
五百羅漢①
五百羅漢②


 
五百羅漢③
五百羅漢④
五百羅漢⑤
五百羅漢⑥
五百羅漢⑦


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 桜咲く4月になりました。めっきり雪解けが進み、風は冷たいものの穏やかな天気が続くようになりました。ぼちぼちと史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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