10月の中旬に、青森市に住む親戚におじゃましました。
青森駅にも市役所にも近い場所にあるマンションからは、遠くにかすんで見える岩木山が見え、反対側からは青森湾が見えます。



近くには、モダンな建物の大寺が立ち並んでいますが、その中のひとつが、津軽三十三22番札所である正覚寺です。
江戸時代の初め、青森市は「善知鳥(うとう)村」と呼ばれていた小村でしたが、港が開かれたことにより発展しました。時の開港奉行は、民心の安定をはかる為、寺院設置の必要を津軽藩主信枚に懇願し、寛永五年(1628年)に建立されました。
正式名称は「無量山(むりょうざん) 引接院(いんじょういん) 正覚寺(しょうがくじ)」で、慈覚大師作と伝わる阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺です。
建立以後、地震や火災、昭和になってからは青森大空襲などにより、本堂などが消失しましたが、復興されて現在に至っています。

霊場の本尊は正観世音ですが、観音堂は正保二年(1645)頃、当時近くにあった毘沙門天堂の境内に建立され、「青森観音堂」と呼ばれて信仰を集めていたようです。
その後、明和の大地震などで全壊したようですが、やがて正覚寺の境内に観音堂が再建され、22番の霊場となりました。
私は、津軽三十三霊場を廻ってきましたが、最後に残ったのがこの正覚寺でした。また機会があれば、そのいくつかをゆっくり訪ねてみたいと思います。


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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☆津軽三十三寺社巡り☆
青森駅にも市役所にも近い場所にあるマンションからは、遠くにかすんで見える岩木山が見え、反対側からは青森湾が見えます。



近くには、モダンな建物の大寺が立ち並んでいますが、その中のひとつが、津軽三十三22番札所である正覚寺です。
江戸時代の初め、青森市は「善知鳥(うとう)村」と呼ばれていた小村でしたが、港が開かれたことにより発展しました。時の開港奉行は、民心の安定をはかる為、寺院設置の必要を津軽藩主信枚に懇願し、寛永五年(1628年)に建立されました。
正式名称は「無量山(むりょうざん) 引接院(いんじょういん) 正覚寺(しょうがくじ)」で、慈覚大師作と伝わる阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺です。
建立以後、地震や火災、昭和になってからは青森大空襲などにより、本堂などが消失しましたが、復興されて現在に至っています。

霊場の本尊は正観世音ですが、観音堂は正保二年(1645)頃、当時近くにあった毘沙門天堂の境内に建立され、「青森観音堂」と呼ばれて信仰を集めていたようです。
その後、明和の大地震などで全壊したようですが、やがて正覚寺の境内に観音堂が再建され、22番の霊場となりました。
私は、津軽三十三霊場を廻ってきましたが、最後に残ったのがこの正覚寺でした。また機会があれば、そのいくつかをゆっくり訪ねてみたいと思います。


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☆津軽三十三寺社巡り☆


青森市野沢集落に鎮座する熊野宮です。
近くには、小牧野遺跡からの出土品を展示している「縄文の学び舎・小牧野館」があります。
ジャンバラ型の豪華な注連縄が架かった鳥居をくぐり抜け、境内へと進みます。


二の鳥居の横に「郷里の 想い出多し 夫婦銀杏」と刻まれた石碑が立っていました。かつては境内の中に、大きな夫婦銀杏がそびえていたのでしょうか。


参道には、天照皇大神や猿田彦大神、二十三夜塔などの碑が立っていました。
社殿の後ろ側は小山になっていて、そこに山の神が祀られています。


御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命で、その由緒については、
【草創年不詳、安政二年の神社書上帳によれば、享保十五年、野沢村沢部地内に当神社を産土神として、村中にて再興。明治六年、入内村小金山神社に一時移され合祀されるが、同十一年、再び当村へ遷座し復社した。同年無格社に列せらる。】と紹介されています。

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☆つがるみち☆
近くには、小牧野遺跡からの出土品を展示している「縄文の学び舎・小牧野館」があります。
ジャンバラ型の豪華な注連縄が架かった鳥居をくぐり抜け、境内へと進みます。


二の鳥居の横に「郷里の 想い出多し 夫婦銀杏」と刻まれた石碑が立っていました。かつては境内の中に、大きな夫婦銀杏がそびえていたのでしょうか。


参道には、天照皇大神や猿田彦大神、二十三夜塔などの碑が立っていました。
社殿の後ろ側は小山になっていて、そこに山の神が祀られています。


御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命で、その由緒については、
【草創年不詳、安政二年の神社書上帳によれば、享保十五年、野沢村沢部地内に当神社を産土神として、村中にて再興。明治六年、入内村小金山神社に一時移され合祀されるが、同十一年、再び当村へ遷座し復社した。同年無格社に列せらる。】と紹介されています。



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☆つがるみち☆


JR油川駅周辺には、十三森熊野宮の他に、もうひとつの熊野宮があります。
十三森の社と区別するためか、こちらの神社は「伝馬町熊野宮」と呼ばれることが多いようです。
津軽藩は、寛文4年(1644)に、奥州街道と合流する油川に伝馬場を作らせましたが、これにより伝馬町ができました。
伝馬町は羽州街道の終着点であり、この先で、奥州街道と交叉することになります。熊野宮の鳥居付近に「羽州街道終点地伝馬町」という標柱があり、それには、
【江戸時代初期の寛文四年(一六六四)伝馬派立ちとして開かれ、安永七年(一七七八)には五十九軒の家があった。ここは、羽州街道の終着点であり、油川港に諸国廻船の出入りが多かった安土桃山時代から、町内で最も賑やかな町であった。】と書かれていました。


鳥居をくぐって、少し参道を進んだ所に御神木があります。
大きなケヤキの木で、樹齢は不明ながらも、樹高が15m、幹周り5.3mという、なかなか立派な大木です。

社殿までの参道は、反時計回りに続いていて、途中には、青面金剛、猿田彦大神、大田神などの碑や、池を伴った末社などが立っていました。
社殿の前には、手水舎や石燈篭、角を生やした狛犬などがあります。




その由緒は詳しくは分かりませんが、「熊野山十二所権現」を祀る社で、807年に坂上田村麿が創建したと伝えられています。
また、宮司さんの澤田家に伝わる「由緒書」には、
【澤田家の初代は「大永のころ」(1521 ~27)「西国辺りより当国へ」下り、2代目から神職を勤めています。「弘治のころ」(1555~57)北畠家の祈願所となりました。】と書かれているようです。

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☆つがるみち☆ ☆名木めぐり☆
十三森の社と区別するためか、こちらの神社は「伝馬町熊野宮」と呼ばれることが多いようです。
津軽藩は、寛文4年(1644)に、奥州街道と合流する油川に伝馬場を作らせましたが、これにより伝馬町ができました。
伝馬町は羽州街道の終着点であり、この先で、奥州街道と交叉することになります。熊野宮の鳥居付近に「羽州街道終点地伝馬町」という標柱があり、それには、
【江戸時代初期の寛文四年(一六六四)伝馬派立ちとして開かれ、安永七年(一七七八)には五十九軒の家があった。ここは、羽州街道の終着点であり、油川港に諸国廻船の出入りが多かった安土桃山時代から、町内で最も賑やかな町であった。】と書かれていました。




鳥居をくぐって、少し参道を進んだ所に御神木があります。
大きなケヤキの木で、樹齢は不明ながらも、樹高が15m、幹周り5.3mという、なかなか立派な大木です。



社殿までの参道は、反時計回りに続いていて、途中には、青面金剛、猿田彦大神、大田神などの碑や、池を伴った末社などが立っていました。
社殿の前には、手水舎や石燈篭、角を生やした狛犬などがあります。




その由緒は詳しくは分かりませんが、「熊野山十二所権現」を祀る社で、807年に坂上田村麿が創建したと伝えられています。
また、宮司さんの澤田家に伝わる「由緒書」には、
【澤田家の初代は「大永のころ」(1521 ~27)「西国辺りより当国へ」下り、2代目から神職を勤めています。「弘治のころ」(1555~57)北畠家の祈願所となりました。】と書かれているようです。

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☆つがるみち☆ ☆名木めぐり☆


青森市のJR油川駅一帯は、かつての十三森村です。
駅の入口前には、
【十三森村は、江戸時代油川組二十六ケ村中の一村で、油川村の支村。江戸後期安永七年(一七七六)に戸数三十八。・・・】と書かれた木柱が立っています。

この駅のすぐ近くに鎮座しているのが熊野宮(熊野神社)です。
御祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊で、創建年代は不詳ですが、駅の木柱には、
【熊野神社は、筆頭願主森山弥七郎で寛文十一年(一六七一)の創建。】とあります。
道路沿いに大きな木造の鳥居があり、その後ろには、昇龍と降龍が掘られた門柱が立っていますが、なぜか上に小さな狛犬がちょこんとのっています。この門から参道が反時計回りに続いていて、その奥に拝殿と本殿がありました。



境内には、狛犬や灯篭、手水舎、末社などがありますが、社殿を覆い隠すような大きな木が印象的です。


広い境内ですが、がらんとした感じの社です。
かつて、境内には今よりも木々が多く、「林」の状態だったらしいのですが、数十本切ってしまったようです。その中には、直径1m以上の大木が数多くあったのだとか。
タモや松の木はほとんど切られ、切り株が数多残されていたといわれています。また、戦時中は松から油をとったため、境内は更地状態になっていたようです・

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☆つがるみち☆
駅の入口前には、
【十三森村は、江戸時代油川組二十六ケ村中の一村で、油川村の支村。江戸後期安永七年(一七七六)に戸数三十八。・・・】と書かれた木柱が立っています。

この駅のすぐ近くに鎮座しているのが熊野宮(熊野神社)です。
御祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊で、創建年代は不詳ですが、駅の木柱には、
【熊野神社は、筆頭願主森山弥七郎で寛文十一年(一六七一)の創建。】とあります。
道路沿いに大きな木造の鳥居があり、その後ろには、昇龍と降龍が掘られた門柱が立っていますが、なぜか上に小さな狛犬がちょこんとのっています。この門から参道が反時計回りに続いていて、その奥に拝殿と本殿がありました。



境内には、狛犬や灯篭、手水舎、末社などがありますが、社殿を覆い隠すような大きな木が印象的です。


広い境内ですが、がらんとした感じの社です。
かつて、境内には今よりも木々が多く、「林」の状態だったらしいのですが、数十本切ってしまったようです。その中には、直径1m以上の大木が数多くあったのだとか。
タモや松の木はほとんど切られ、切り株が数多残されていたといわれています。また、戦時中は松から油をとったため、境内は更地状態になっていたようです・



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☆つがるみち☆


少し前のことになりますが、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が、世界文化遺産登録を目指す候補に選出されたという記事が新聞にのっていました。
青森市の小牧野遺跡も、その中のひとつです。私も数年前に遺跡を訪れ、いろいろ見て回りました。
⇒ 小牧野遺跡① ⇒ 小牧野遺跡②
また、遺跡から少し離れた所にある「縄文の学び舎・小牧野館」にも出かけて見学したりしました。
新聞記事を見て、久々に行ってみようと思い立ち、先日、行ってきました。
5年くらい前に訪れたときは、小さな建物がぽつんと立っているだけでしたが、今はりっぱな「小牧野の森 どんぐりの家」という観察施設があります。

森の中や遺跡へ向かう道のわきには、ウサギやタヌキ、ミミズクなど、ユーモラスな木彫りの人形(?)が置かれています。

今回は、この遺跡の特徴である環状列石のまわりを、ぶらぶらと歩いてきました。





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☆つがるみち☆ ☆縄文と弥生☆
青森市の小牧野遺跡も、その中のひとつです。私も数年前に遺跡を訪れ、いろいろ見て回りました。
⇒ 小牧野遺跡① ⇒ 小牧野遺跡②
また、遺跡から少し離れた所にある「縄文の学び舎・小牧野館」にも出かけて見学したりしました。
新聞記事を見て、久々に行ってみようと思い立ち、先日、行ってきました。
5年くらい前に訪れたときは、小さな建物がぽつんと立っているだけでしたが、今はりっぱな「小牧野の森 どんぐりの家」という観察施設があります。

森の中や遺跡へ向かう道のわきには、ウサギやタヌキ、ミミズクなど、ユーモラスな木彫りの人形(?)が置かれています。



今回は、この遺跡の特徴である環状列石のまわりを、ぶらぶらと歩いてきました。





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☆つがるみち☆ ☆縄文と弥生☆


青森市浪岡女鹿沢(旧浪岡町)の西増田という集落に稲荷神社が鎮座しています。私が訪ねたのは秋口で、まだ稲刈りが始まる前のことでした。

鳥居をくぐって境内に入ると、右手に庚申塔、猿田彦碑、十七面勢至観音の碑などが置かれています。
拝殿前の一対の狛犬は、互いにそっぽを向いた形で置かれていました。


その由緒については詳しくは分かりませんが、青森県神社庁の旧HPでは、
【御祭神:宇賀霊命 奇稲田姫命 草創の年月は不明であるが、文明年間 (一四六九~一四八七) の勧請という。 昭和二十一年三月三十一日、宗教法人令に依り届け出、昭和二十四年十一月三十日譲与許可により現在に至る。】と紹介されていました。
御祭神の奇稲田姫命は、その名前から、稲田(水田)を守る神として崇められてきたようで、近くには奇稲田姫命神社もあります。


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☆つがるみち☆

鳥居をくぐって境内に入ると、右手に庚申塔、猿田彦碑、十七面勢至観音の碑などが置かれています。
拝殿前の一対の狛犬は、互いにそっぽを向いた形で置かれていました。


その由緒については詳しくは分かりませんが、青森県神社庁の旧HPでは、
【御祭神:宇賀霊命 奇稲田姫命 草創の年月は不明であるが、文明年間 (一四六九~一四八七) の勧請という。 昭和二十一年三月三十一日、宗教法人令に依り届け出、昭和二十四年十一月三十日譲与許可により現在に至る。】と紹介されていました。
御祭神の奇稲田姫命は、その名前から、稲田(水田)を守る神として崇められてきたようで、近くには奇稲田姫命神社もあります。




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☆つがるみち☆


Category: ふるさと【東北・青森】 > 青森市
吉内稲荷神社 - つがるみち498
青森市浪岡(旧浪岡町)の吉内という所に稲荷神社が鎮座しています。
道路沿いに社号標が立っており、そこから集落の中を通り過ぎ、山側へ向かう途中、りんご畑に囲まれた所に赤い鳥居が立っています。


御祭神は倉稲魂命だと思いますが、その由緒等については詳しくは分かりません。
この稲荷神社一帯には、かつて北畠氏が築いた館があったとされており、吉内館とか北畠古城跡と呼ばれています。
北畠氏が浪岡に入部した時期については諸説ありますが、おおよそ14世紀末から15世紀初期だと言われています。当時、主家である南部氏と安東氏との対立が深まる中、対立を緩和するため、両氏の境界である浪岡に北畠氏が置かれましたが、浪岡に入部した北畠氏は北畠顕家の曽孫といわれています。
吉内は、その北畠氏が最初に入部した地であるとされ、稲荷神社境内の北東側には空堀土塁跡が残っていたといわれています。


稲荷神社らしく、境内にはこ大小二対の狛狐と狛犬が置かれ、社殿を中心にして、左側には馬頭観音堂、右側には鳥居を伴った猿田彦大神の碑がありました。


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☆つがるみち☆
道路沿いに社号標が立っており、そこから集落の中を通り過ぎ、山側へ向かう途中、りんご畑に囲まれた所に赤い鳥居が立っています。


御祭神は倉稲魂命だと思いますが、その由緒等については詳しくは分かりません。
この稲荷神社一帯には、かつて北畠氏が築いた館があったとされており、吉内館とか北畠古城跡と呼ばれています。
北畠氏が浪岡に入部した時期については諸説ありますが、おおよそ14世紀末から15世紀初期だと言われています。当時、主家である南部氏と安東氏との対立が深まる中、対立を緩和するため、両氏の境界である浪岡に北畠氏が置かれましたが、浪岡に入部した北畠氏は北畠顕家の曽孫といわれています。
吉内は、その北畠氏が最初に入部した地であるとされ、稲荷神社境内の北東側には空堀土塁跡が残っていたといわれています。


稲荷神社らしく、境内にはこ大小二対の狛狐と狛犬が置かれ、社殿を中心にして、左側には馬頭観音堂、右側には鳥居を伴った猿田彦大神の碑がありました。




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☆つがるみち☆


青森市浪岡(旧浪岡町)の下石川は、五所川原市や板柳町と境を接する集落です。すぐ隣は、五所川原市高野で、ここには以前に訪れた廣峰神社などがあります。
熊野宮は、そんな下石川の集落から山沿いに進んだところに鎮座しています。

境内は、田んぼとりんご畑に挟まれた場所にあり、上の方が少しつぶれた赤い一の鳥居が立っていました。
そこから、二の鳥居、三の鳥居と参道が続いていますが、途中に小鳥居があり、そこには馬頭観音が祀られていました。


杉林に囲まれた静かな境内で、拝殿の前には一対の狛犬のみ。いたってシンプルなたたずまいです。草むらの地面を覆い隠すように、たくさんのふきのとうが顔を出していました。

由緒など詳細は分かりませんが、北津軽郡神社誌には、
【祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 本村は元石澤村と称せしが、享保十二年下石川と改称せり。神社勧請年月は不詳なれども大同年中の草創と伝へらる。明治六年四月高野廣峯神社へ合祀、仝八年復社。仝九年十二月村社に列せられ、仝四十二年八月廿七日指定神社に列格せらる。】とあります。

☆つがるみち☆
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熊野宮は、そんな下石川の集落から山沿いに進んだところに鎮座しています。

境内は、田んぼとりんご畑に挟まれた場所にあり、上の方が少しつぶれた赤い一の鳥居が立っていました。
そこから、二の鳥居、三の鳥居と参道が続いていますが、途中に小鳥居があり、そこには馬頭観音が祀られていました。


杉林に囲まれた静かな境内で、拝殿の前には一対の狛犬のみ。いたってシンプルなたたずまいです。草むらの地面を覆い隠すように、たくさんのふきのとうが顔を出していました。

由緒など詳細は分かりませんが、北津軽郡神社誌には、
【祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 本村は元石澤村と称せしが、享保十二年下石川と改称せり。神社勧請年月は不詳なれども大同年中の草創と伝へらる。明治六年四月高野廣峯神社へ合祀、仝八年復社。仝九年十二月村社に列せられ、仝四十二年八月廿七日指定神社に列格せらる。】とあります。



☆つがるみち☆
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青森市の築木館(つきのきだて)については、
【江戸期までは築野木館または槻館と書いた。集落の東方の野内川左岸の丘陵端(字山ノ井)に築木館跡があり、「新撰陸奥国誌」には「館迹、本村の寅卯の方弐拾間にあり、今は畑となりて形界詳ならず」とある。】と書かれています。
さらには、
【菅江真澄は「すみかの山」の寛政8年(1796)4月20日に「槻木館といふに至る。建武のむかし、隅田の小太郎なにがしの柵のあととてあり」と記し、南北朝初期の砦跡と伝承する。現在も畑地で「タテの畑」と呼ばれるが、単郭の遺構に二重の堀跡や土塁跡が残る】とありますが、この集落に久須志神社が鎮座しています。
集落の道路から、少し山側へ小道を進んだ所に鳥居が立っていて、ひっそりとした森の中に境内があります。
境内には、狛犬や御神燈のほか、「馬頭観音様」「大石様」「山の神様」などと書かれた木柱があり、祠や大石などが置かれています。





この神社の由緒については、
【御祭神:大己貴命 少彦名命 安政2年(1855)の書上帖には、草創年月不詳、明和年中(1764~72)同村の佐次兵衛が再建、村中で維持してきた稲荷宮と薬師堂の相殿一宇、本社 板葺二而建坪弐尺四面、覆 萱葺二而建坪弐間に九尺と記されている。明治初年の神仏分離に際して久須志神社と改められた。】とありますが、古くから薬師様を祀っていた場所のようです。


拝殿の中に、集落の奥にある薬師山の絵が掲げられていましたが、その山の麓に築かれた祭壇が描かれており、昔からこの山を聖山として崇めていた様子が伺えます。この神社は、薬師山の遥拝所でもあったように思えます。

※【】は、青森市諏訪神社HP「兼務社の紹介」からの引用です。
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☆つがるみち☆



青森市の後萢(うしろやち)の県道44号線沿いに、その集落名を冠した後萢神社が鎮座しています。
「萢」という文字は、湿地帯を意味するとされていますが、県内にもつがる市富萢とか、鶴田町横萢など「萢」のつく地名があり、以前にそれぞれの集落の神社を訪ねたことがあります。
後萢も、昔はその名の通り湿地帯だったのでしょうが、立派な道路や多くの建物が並び立つ現在は、その面影はありません。
後萢神社は、44号線沿いの町並みを見下ろすことができる小高い丘の上にあり、道路からも赤い一の鳥居や境内を望むことができます。
鳥居をくぐり、参道を右、左と上って行くと、境内の入口があり、そこに二の鳥居と、猿田彦大神の碑がありました。


御祭神は天御中主大神。昭和二十六年に、「後萢集落の氏神として建立された」ということで、比較的新しい神社といえます。
境内には、狛犬のほか、いくつかの末社の祠が立っていました。





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青森市の桑原には、「昭和大仏」で知られる青龍寺がありますが、その近くに稲荷神社が鎮座しています。
この神社の拝殿には、地元の方が書いたと思われる「桑原郷土史」が掲げられていますが、それによると、
【桑原の地名は、昔この地一帯に桑の木即ち山桑がいっぱいはえていたところから名づけられたという。小字には山崎、稲葉があり、元亀元年(一五七○年)の頃、十数件を要した部落であった。】と、その地名の由来が説明されています。
また、
【桑原方面のイゾ森は、天然のチャシ即ち砦である。・・・付近からは、縄文前期と中期の土器が出土している。】と書かれていますが、一帯には、縄文から平安へと続く遺跡があり、「桑原遺跡」と呼ばれています。この神社の境内からも平安時代の土師器などが発見されていて、「桑原稲荷神社遺跡」と名づけられているようです。

道路沿いの一の鳥居から、小高い山の上に向かって参道が延びていますが、途中には小公園もあり、下の町並みを見渡すことができます。
山頂に社殿が立っていて、御神燈や神馬、手水石、鳥居を伴った猿田彦大神の碑がありました。



この稲荷神社は、青森市内の諏訪神社の兼務社になっていますが、
【御祭神:稲荷大神 安政2年(1855)の書上帖には、稲荷宮一宇、往古建立年月不詳、享保19年(1734)より村中で五穀成就の為に再建。本社 板葺二而建坪三尺四方、覆 萱葺二而建坪弐間に四間、御神楽の儀は三ヶ年に一度執行、と記される。貞享4年(1687)の検地帳には、稲荷社地、宮無之とある。】と紹介されています。
また続けて、
【菅江真澄は「すみかの山」寛政8年(1796)4月20日に「桑原の村になれば、鯨森といふに稲荷の神籬あり。むかし鯢(くじらのこ)の寄り来しところに神をいはひまつる、飯形の社これなりといふ」と稲荷神社の由来伝承を記している。】とありますが、この神社が「鯨森」と呼ばれていたことについては、先の「桑原郷土史」にも書かれていました。

※【】は、拝殿内の説明板と諏訪神社HPからの引用です。
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☆つがるみち☆



青森市合子沢の猿田彦大神から少し歩いた所に稲荷神社が鎮座しています。
坂道を歩いて行くと、道路がY字形に分かれている場所があり、そこに豪華なジャンバラ型の注連縄が張られた一の鳥居があります。
境内には、狛犬や御神燈、末社の十和田神社などが立っている他、滑り台や相撲の土俵などもあり、子ども達の遊び場や村人の憩いの場にもなっている様子がうかがえます。



この神社の由緒については詳しくは分かりませんが、寛保元年(1741)、五穀豊穣と村中繁栄を願って、合子沢村と近隣の村が共同して建立した社のようです。
以後、地域の産土社として崇敬され、明治初期には雲谷の稲荷神社などを合祭して村社となり、合子沢神社と改称。その後再び稲荷神社と称し、現在に至っています。御祭神は倉稲魂命、猿田彦大神、大宮姫神。




後で分かったことですが、この神社から200mほど離れた所に合子沢松森(2)遺跡があります。
合子沢一帯は、八甲田山の噴火によってできた台地上に立地しており、縄文時代から平安期にかけての集落跡が多数見つかっています。
それらには、「合子沢松森(1)、(2)・・遺跡」というように番号がつけられていますが、この稲荷神社の近くのものは、合子沢松森(2)遺跡です。
この遺跡は、東北新幹線建設工事に係わって発掘調査が実施されましたが、
【調査の結果、竪穴住居跡、土器埋設遺構、溝跡などの遺構や土師器や須恵器などの遺物を確認し、本遺跡は、平安時代を主体とする遺跡であることが判明した。 ※青森市教育委員会「合子沢松森(2)遺跡」発掘調査概報より】とのことです。
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☆つがるみち☆



雲谷の稲荷神社から合子沢(ごうしざわ)の方に足を伸ばしてみました。
合子沢は自然に恵まれた集落で、合子沢川にはイワナやヤマメが生息しており、上流には養魚場もあります。
また、周辺一帯はタケノコをはじめとする山菜の宝庫で、湧水もあります。平成10年には、青森市制施行100周年に合わせてオープンした合子沢記念公園も造られ、市内から近いこともあり、たくさんの人々が訪れています。

私は集落に鎮座する稲荷神社に行ってみたのですが、神社へと向かう途中の坂道に赤い鳥居が立っていたので立ち寄ってみました。
小高い丘の上に社殿といくつかの石碑が立っていて、付近からは八甲田山と雲谷峠を望むことができます。
何の社かは分からなかったのですが、後で地図を見たら「猿田彦大神」となっていました。


鳥居をくぐると、そのそばには、天保三年と刻まれた猿田彦大神の石碑が立っていて、そこから少し上った所に社殿があり、両脇に重そうな注連縄が張られた大きな碑が立っていました。
左側の碑は慶應四年建立の馬頭観音碑。とても大きくて立派なものです。
一方、右側には、石碑が二つ並んで置かれています。ひとつは、嘉永四年と刻まれた保食神ですが、もうひとつは嘉永三年と銘記されていますが、何の碑かよく分かりませんでした。注連縄の下の方に馬の姿が描かれているところをみると、これも馬頭観音碑なのかも知れません。




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☆つがるみち☆



青森市の雲谷峠(もやとうげ)は、標高553m、三角型のきれいな形をした山で、付近の道路からは岩木山が望める展望所などもあります。
八甲田山の手前にあり、形もよいことから市民に親しまれ、スキー場としても賑わいをみせている山です。
この山の裾野一帯には、昔、阿弥須(オヤス)という女首長が率いる蝦夷の集団が住み着いていて、蝦夷征伐を目指す坂上田村麻呂に激しく抵抗したという伝説があります。難儀した田村麻呂は、蝦夷を驚かすために太鼓や鐘を鳴らして攻め立て、阿弥須軍を屈服させたとされており、これが青森ねぶたの起源だともいわれています。
⇒ 大星神社の記事へ
名前は「雲谷峠」ですが、実は峠ではなく独立した山なのですが、それは、女首長・阿弥須の弟である頓慶(トンケイ)に由来するといわれています。即ち、田村麻呂と戦った蝦夷の英雄を偲んで、地元の古老たちは、この山を「雲谷のトンケ」と呼んできましたが、後に、「トンケ」に「峠」の字が当てられ「雲谷峠」になったとされているようです。

雲谷峠(山)に行く途中に「津軽藩雲谷牧場趾の碑」が立っています。
石碑の裏側には、
【雲谷の牧場について 雲谷の牧場は初開不詳で薩摩の浪人川越六郎左衛門が故あって雲谷に居住、牧場を開いていたと伝えられている。津軽藩では寛永八年正月川越源右衛門を牧頭とし献上馬進上馬などの名馬養育のため牧場を開かせた。幾多の名馬を産し公卿諸侯へ送られた。 ー以下略ー ※碑文より】と書かれていました。
津軽藩では、3代藩主・信義と続く4代・信政の頃から産業振興が盛んになりましたが、新田の開発や鉱山の開発とともに良馬の生産に重点が置かれ、津軽坂(鶴ヶ坂)、枯木平、滝の沢、入内、そしてこの雲谷の地に牧場が開かれました。これらの牧場は「津軽五牧」と呼ばれ、良馬を産出し、各地の有力大名への献上品ともなりました。
雲谷牧が開かれたのは寛永八年(1631)の頃で、天保三年(1832)に藩の財政急迫により廃止されましたが、以後も村営牧場として良馬を産出し続けたようです。

稲荷神社は、牧場跡のすぐ近くの道路沿いに鎮座している社です。
金色の米俵が乗った太い注連縄が張られた一の鳥居のそばには猿田彦の碑があり、奥へと参道が続いています。
境内には、社殿がポツンと立っているだけで、いたってシンプルな神社です。
その由緒などについては詳しく分かりませんが、村人から「雲の明神」として崇められてきた神社です。
かつては、雲谷峠(山)に鎮座していましたが、後に現在の場所に遷座したといわれています。平安の頃、この地を治めていた雲谷のトンケイが、山中に空堀を巡らした一社を建立し、「雲の明神」と名づけたという、言い伝えがあるようです。



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縄文の学び舎・小牧野館がある青森市野沢から、八甲田酸ヶ湯方面へと向かう県道122号線沿いに大柳辺の集落があります。住所は野沢川部となっていますが、バス停などの名前も大柳辺となっている所です。
大柳辺は「おおやなべ」と読むそうですが、集落の外れに集会所があり、近くに稲荷神社が鎮座しています。
両端に雪が残る道路に沿って、白、赤、赤の三本の鳥居が並んで立っていますが、石造りの鳥居は稲荷神社、真ん中が庚申様、端っこのものは山神様の鳥居です。
三つの鳥居には、少し色あせていますがブルーの注連縄が架かっていて、いずれも模様が編まれたジャンバラ型の注連縄です。特に稲荷神社のものは重量感のある豪華なものです。


一の鳥居をくぐりぬけて境内に入ると、参道が続いており、右へ曲がると社殿が立っています。境内には、狛犬や御神燈ほか、いくつかの石塔が置かれています。赤い柱の拝殿には木彫りの龍や特徴のある木鼻が架けられていました。



この神社については詳しくは分かりませんが、拝殿の中に簡単な縁起が記されていました。
○一五九二年 稲荷神社
○昭和四十六年 拝殿再建
○昭和五十一年 本殿再建
○平成二十二年 鳥居再建
○祭神 倉稲霊大神
どうやらこの社は、文禄年間(1592-1596)に、村人の手によって、五穀豊穣と村の繁栄を願って創建されたようです。
鳥居を伴った庚申塔は天保二年、山神様は明治二十三年の建立と刻まれていました。
山間部に位置しているためか、境内にはまだ少し雪が残ってはいますが、黒い土の間から黄緑色のふきのとうが顔を出し始めていました。



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☆つがるみち☆



青森市の小牧野遺跡は、国の史跡にも指定されており、北東北の縄文後期を代表する遺跡のひとつです。
遺跡の土坑墓周辺から大量の土器や石器が発掘されている他、墓石や湧水遺構なども発見されていますが、何といってもこの遺跡を特徴づけているのは環状列石の存在です。
【直径2.5mの中央帯、直径29mの内帯、直径35.5mの外帯の三重の輪のほか、さらに外側に、一部四重となる弧状列石や、直線状列石、直径4mの環状列石などがあり、直径は55mにもおよぶ。荒川から運んだと推測された石を、縦に置き、さらにその両脇に平らな石を横に数段積み重ね、さらにその脇に縦に石を置いて環状に並べて、そうして出来た環をさらに三重(一部四重)にしている。この並べ方は石垣の積み方に類似する煩雑な並べ方からも全国的にも非常に珍しく、「小牧野式」と呼ばれている。※wikipediaより】
小牧野遺跡は山中にあるため、冬期間は訪れることは叶いませんが、遺跡から1.5kmほど離れた野沢の集落に「縄文の学び舎・小牧野館」があります。
野沢には、近くにある津軽三十三霊場24番札所・入内観音堂(小金山神社)の御朱印所がありますが、村の中に今は閉校になった小学校の建物があります。閉校になったとはいえ、建物自体はまだまだ新しく、少しもったいない感じがしますが、ここが現在は小牧野館になっているというわけです。
HPには、
【「縄文の学び舎・小牧野館」は、平成24年に閉校になった旧野沢小学校(小牧野遺跡から約1.5km)を改修し、出土品の展示や保管、遺跡に関する情報発信など小牧野遺跡の保護の拠点となる施設です。1階には展示室、2階には企画展示室や体験学習室、出土品の収蔵室等を設け、子どもからお年寄りまで楽しく小牧野遺跡を学ぶことができます。】と紹介されています。
各展示室には、遺跡の解説をはじめ、土器や石器などの出土物、三内丸山遺跡や十腰内遺跡など、県内の代表的な縄文遺跡からの出土品が展示されている他、祭祀に関する道具・模型などが置かれ、縄文人の精神世界を知ることができます。また、環状列石を造るのに使われたと思われる道具(実験用)なども展示されていました。







展示室の一角に、同じ青森市内の山野峠(さんのとうげ)遺跡から出土した土器館が置かれていました。
山野峠遺跡は、小牧野遺跡と同様、縄文時代後期前半(約4,000年前)の遺跡と考えられていますが、青森市内から浅虫方面へと向かう国道4号線の久栗坂トンネルの真上、標高約90mの峠を挟む斜面に位置しています。一帯は、急斜面であり、周辺には住居に適した平地もないことから、集落は存在しないと思われており、縄文後期の「墓地遺跡」であるといわれています。
この遺跡からは、同じ時代の石棺墓群と再葬土器棺墓群が互いに並んだ形で発見されました。このことについては、
「種類のちがう墓が同じ時期のものであると確認されたことから、亡くなった人はまず石棺墓に葬られ、後に、その骨が取り出され、土器棺の中に納めて再葬された」と考えられており、その独特の埋葬方法の発見は、縄文後期の墓制・葬制研究上、貴重なものであるとされています。 - 因みに、私はこの遺跡の存在を初めて知りました。
私が小牧野遺跡を訪ねたのはだいぶ前のことになりますが、雪が解けて、アクセスが可能になった頃に、もう一度行ってみたいと思います。
※小牧野遺跡関係のHPやパンフレット等を参照しました。
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金光上人の塚から辺りを眺めると、後方に神社の森が見えます。以前に来たときには気づかなかったのですが、そこは廣峰神社の境内でした。
一の鳥居は、道路沿いの民家に挟まれた所にありますが、車を止める都合もあったので、今回は金光上人の塚から続く道を進みました。神社の裏側から「侵入」したことになります。

廣峰神社の由緒については、
【御祭神:須佐能男命 人皇五十一代平城天皇の御世、 大同二年 (八〇七) 六月十四日、 坂上田村麻呂の建立にして、 社号を天王社、 一説には御廟社、 或は行岳崎磯の社とも称した。 此の社の東西に田畑二十町余りあり、 其の字名は往古より現在に至るまで天王と称す。 延宝年中 (一六七三~一六八一) の頃より、 いかなることか誤りて牛頭天王と称す。 其の後、 寛政年中 (一七八九~一八〇一)、 社寺御調べの折、 祇園社と称す。 安政二年 (一八五五) 神社明細調べの節、 神典詮議の処、 祇園は須佐能男命に当たる由を以て、 須佐能男命を勧請致したくその旨上申した。 元禄二年 (一六八九)、 北畠権大納言具永が造営して、 旧藩主より現米一石八斗の社料を賜わる旨が津軽記の申書に記載されている。 文化十二年 (一八一五) 四月、 当社焼失し宝物及び書類の大半を失い、 残った物も天保七年 (一八三六)、 凶荒の折り何れかに散乱したと伝えられる。 神仏混淆仕分け以来、 社号を改め廣峰神社と称し今日に至る。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
私が訪ねたときは、まだ「秋」を感じさせる時期だったので、参道には栗の実などが落ちていました。参道の横には取入れが終わったりんご畑が広がっていますが、境内にはりんごの豊作を祈願した「果樹観音堂」なども立っています。
◇廣峰神社




由緒にも書かれていますが、かつては牛頭天王を祀った社であり、「天王社」とも呼ばれていました。多くの牛頭天王社は、明治の神仏分離により、素戔嗚尊を祀る神社となりましたが、この神社もまた同様の経緯をたどったようです。
この地方の中世の覇者は北畠氏ですが、北畠氏は、京都の街並みを模して、浪岡城の周りに祇園神社、八幡神社(浪岡八幡宮)、加茂神社(五本松加茂神社)、春日神社を配しました。ここ廣峰神社は、その中の祇園社にあたり、牛頭天王とスサノオに対する信仰(祇園信仰)を伝える社です。
◇神馬ほか




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黒石市から浪岡町へ向かう途中に本郷の集落がありますが、小学校からほど近い所に見事なイチョウの巨木があります。
その樹高は26m、幹回りが6.6m、樹齢は300年を超えるという大樹ですが、特に天然記念物に指定されている分けではなく、隠れた名木といえそうです。
このイチョウの木は、とある民家の庭(敷地)にそびえています。根元に赤い鳥居と小さな祠が立てられていますが、祀られているのは、このお宅の守り神でしょうか。
今の時期、イチョウの姿形の移り変わりはとても早く、つい昨日まで枝先に「黄色い花を咲かせていた」葉っぱは、寒気や風のために散り落ち、地面を黄色に染めます。この本郷のイチョウの葉っぱも、庭いっぱいに広がり、まるで黄色いじゅうたんが敷き詰められているように見えました。





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その樹高は26m、幹回りが6.6m、樹齢は300年を超えるという大樹ですが、特に天然記念物に指定されている分けではなく、隠れた名木といえそうです。
このイチョウの木は、とある民家の庭(敷地)にそびえています。根元に赤い鳥居と小さな祠が立てられていますが、祀られているのは、このお宅の守り神でしょうか。
今の時期、イチョウの姿形の移り変わりはとても早く、つい昨日まで枝先に「黄色い花を咲かせていた」葉っぱは、寒気や風のために散り落ち、地面を黄色に染めます。この本郷のイチョウの葉っぱも、庭いっぱいに広がり、まるで黄色いじゅうたんが敷き詰められているように見えました。








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浪岡城址の下(南側)を浪岡川と正平津川という二つの川が流れていますが、一帯は「北中野」という集落になっています。
北中野の集落は、浪岡北畠氏との関わりが深い所ですが、長慶天王の潜幸伝説も残っている所です。
源常林の銀杏 (げんじょうばやしのいちょう)は農業用の溜池付近にそびえたつ大きなイチョウの木ですが、樹高が19mで幹回りは6,7m、樹齢は300年以上といわれています。
巨木とあって、「8百年ほど前、津軽十三の福島城主藤原秀栄の子が、病死した乳母の墓の目印に銀杏の枝を挿した。それが育って、この大イチョウになった」とか、「長慶天皇がこの地に潜んで浪岡源常と称した」という伝説が語られています。
また、「戦国時代に、津軽為信の家臣がこの巨木を歌にし戦勝祝いの席で歌った」とされ、これが「津軽山歌」になったともいわれており、イチョウのそばには「津軽山唄発祥の地」の石碑も立っています。


この伝説の大銀杏から少し離れた道路際に「金光上人」というバス停があります。高僧の名前がそのままバス停になっている分けです。
金光上人については、
【鎌倉時代前期に、念仏-浄土宗を東奥に広めた僧で、法然と出会い、師と仰ぐようになった。正治2年(1200)頃、念仏布教の旅にでた。津軽にやってきた上人は、外ヶ浜のある川から「夜な夜な光物がでる」という話があり、旅先でそれを聞いた上人はその川に行き、川底から阿弥陀如来を発見した。これが蓬田村を流れる阿弥陀川の伝説である。
その後、金光上人は、阿弥陀如来を背負い梵珠山に登り、布教の道場を開き、五本松(浪岡)に庵を結び布教を続けたと伝えられている。金光上人の死は建保5年(1217)のことで、遺言により北中野に墓がつくられた。※青森市HP「なみおか今・昔」より要約・抜粋】とされています。
バス停の向かい側に小高い丘があって、そこに金光上人の塚(墳墓)があります。丘の上には東屋も設けられていて、とても見晴らしのよいところです。上人の墳墓の前には、真新しい菊の花が供えられていました。



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青森市奥内に「貝倉神社」という、少し変わった名前の神社があるということで訪ねてみることにしました。
ネットで地図を見て探しながら行きましたが、国道280号線の旧道沿い、奥内郵便局の近くに貝倉神社という標識が立っていたので止まってみましたが、民家のような建物があるだけでした。どうやらここは社務所のようです。

社殿は山の中にあるということなので、バイパスの方へ進み、奥内川の橋を渡って左折し、山側へと向かいます。そこから新幹線の高架橋を越えると、あとはじゃり道。ひたすら進んで行くと「奥内豊源井堰竣工記念碑」という石碑がある所へと出ます。そこを過ぎると「貝倉神社→」という小さな案内板が立っていますが、そこから林の中へ。辺りは奥内国有林になっていて、先が分からず不安でしたが、やがて小さな川のそばに赤い鳥居と社号標が立っているのが見えたのでひと安心。ほんとに「山の中」に鎮座している社です。
こんな山中なのに「貝」という海(水)を連想させる神社名というのも不思議ですが、参道の途中には、小舟が置かれていたりします。太古の時代には、海岸線が、この近くまで迫っていたのでしょうか。大きな湖沼があった所なのかも知れません。

小川の橋を渡って鳥居をくぐり、参道を歩いて行くと、左右に建物が見えてきます。右側の大きな建物は「白龍殿」でした。その中に入ると、中央の祭壇には、数多くの神様が祀られています。
この神社は、その草創については不詳ながらも、御祭神は、七福神・恵比寿神・大黒天神・毘沙門天神・弁財天神・福禄寿神・寿老人神・布袋尊神となっていて、他にもオシラ様や淡島神も祀られているようです。
白龍殿の中にも「貝倉丸」と書かれた小舟が置かれていたりしますが、同じく貝倉丸と書かれた帆には、大きな龍が描かれていました。龍の絵は、他にも天井や壁に掲げられていたり、境内には龍神を祀った祠などもあり、水神を崇める信仰が伝わってくる社です。
壁に「貝倉明神と龍」という絵が掲げられていましたが、これはねぶたの絵だということです。絵は、貝倉明神と大きな龍が戦っている姿を描いたものですが、これは(両者の戦いは)、「奥内伝説」として語られているとのことです。どんな話なのでしょうか。十和田湖に伝わる南祖坊と八郎太郎の話と似たようなものなのかも知れません。
白龍殿の向かい側の少し高い丘の上に本殿があります。小さな狭い社殿ですが、真ん中の祭壇には、貝殻が敷き詰められ、中央には、大きな石が佇立していました。
◇白龍殿、本殿









「大きな石」と書きましたが、実はこれは貝の化石塊で、この神社の御神体になっています。
この御神体については、
【青森市奥内西方約4キロメートル、奥内川中流域の山中にひっそりとたたずむように貝倉(かいくら)神社がある。この社(やしろ)は、山の斜面に突出している貝の化石が集まってできた幅約1.5メートル、高さ約2.5メートルの大きな団塊の御神体を覆うように形づくられている。その御神体は、大昔に海底の凹部に貝殻が運ばれ堆積し、それが石灰分などで固まり塊状となったものである。
このような御神体は、全国的に見ても非常に珍しい。含まれている化石はエゾタマキガイが大半であるが、神社脇の地層にはホタテガイ、コシバニシキなどの化石も見られる。神社がある一帯を含めた津軽山地の東麓には、大釈迦層(北方では蟹田層と呼称)と呼ばれている砂岩を主体とした地層が分布している。この地層は、北方は今別町、南方は浪岡町まで連続的に分布しており、貝化石が所々に含まれる。特に、浪岡町との境界大釈迦付近からは、60種の貝化石が産出しており、貝化石を含む地層として、古くから全国的に知られている。貝倉神社のほか、六枚橋川林道、内眞部川(眺望山ビジターセンター付近)、飛鳥沢中流などでも化石を見ることができる。
産出している化石の種類から当時の環境を推定すると、海棲の貝化石が産することから海底であったことはもちろん、砂地で浅海、さらに暖流の影響がある寒流域であったと思われる。また、新生代第4期更新世(170万年~1万年前)初期の堆積であると考えられている。※HP「あおもり今・昔」より】と紹介されています。
太古からの時の流れを感じさせる不思議な神社です。
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青森市瀬戸子(せとし)に鎮座する瀬戸子八幡宮は青森市長島・廣田神社の兼務社になっていますが、同神社のHPでは、瀬戸子八幡宮の祈年祭の様子を次のように紹介しています。
【青森市瀬戸子地区に鎮座する瀬戸子八幡宮の祈年祭、春祈祷が執り行われました。もともと、春祈祷は2月~3月に掛けて氏子宅を一軒ずつ回り、ご祈祷を行っていたそうですが、現在は、春の大祭に併せて行われています。先ずは祈年祭の祝詞を奏上して今年一年の五穀豊穣を祈り、続いて春祈祷ということで氏子方それぞれのご祈祷を祈念しました。瀬戸子八幡宮は山に鎮座しているため、春祈祷の時には毎年、雪に覆われており、途中の農道は八甲田山を縮小したような雪の回廊ぐらい積もっています。※廣田神社HPより】

国道280号バイパス沿いに木柱の社号標が立っていますが、それにしたがって道なりに進み、新幹線の高架橋を渡るとジャリ道。しばらく行くと、小高い山があり、そこに赤い鳥居が立っているのが見えます。
鳥居のとなりに由緒板がありました。
【御祭神:素戔嗚尊(天照大神御弟)広峰神社・誉田別命(応神天皇)八幡大神・牛頭天王(御隠居様)天正年代(1573)。御祭祀銀座日:寛文元年代(1660)。由緒:祭神誉田別命は仲哀天皇の第4皇子にあらせられ御諡号を応神天皇と申し奉り即ち第15代の天皇に座します。御母神功皇后三韓征服当時胎中にあらせられ一般の崇敬篤く又韓土の技芸学を盛に輸入して文化に資せられるなど御恩頼頗る高き御神なり。追伸:祭祀当時村民は10数戸なり。子孫の繁栄を祈り祀るなり。※由緒書より】
創建は寛文元年の頃で、御祭神は素戔鳴命、誉田別命、牛頭天王の三柱ですが、由緒に牛頭天皇を「御隠居様」と書いてあるように、古くは牛頭天皇を祀る社であったようで、1687年頃に「八幡社」になったとされています。
◇瀬戸子八幡宮





一の鳥居から続く参道は急な上り坂になっていて、林の中を進んで行くと、やがて視界が開け、頂上にたどり着きます。
途中には休憩用のベンチも設けられており、木々の間から黄金色の田んぼが見えました。
頂上付近には、正面と右側にそれぞれ鳥居があり、右側の道先に、狛犬と神馬、拝殿と本殿がありました。
境内社には、稲荷大明神、大山祗神、十和田龍神、オシラ様、大白神様などが祀られているとのことですが、頂上の境内社には稲荷大明神と大山祗神、参道上り口付近の社には十和田龍神、オシラ様が祀られているようです。
参道の途中の林の中には、庚申塔や馬頭観音の祠が立っていました。
◇境内社、馬頭観音など








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遥拝所としての「里宮」と「奥宮」をもつ神社は各地にありますが、青森市内真部(うちまんべ)に鎮座している大山祇神社もそのひとつです。
この神社は、国道280号線バイパスから旧道へと進み、津軽線の鉄道の踏切を渡った所にありますが、近くには、以前に訪ねた清水天満宮もあります。
旧道沿いに大きな社号標が立っていて、そこから民家の間を参道が続いていますが、線路を越えると、クロマツの木々が縦横に伸びていて、松林の中に境内がありました。
これらの松の木は、海風を防ぐ防風林・防砂林として社を守るために植えられたものなのでしょうか。特に、拝殿前の末社の後ろにそびえ立つクロマツは、なかなかの迫力です。

境内には、狛犬が2体と手水舎、末社などが立ち並んでいますが、本殿の横には、馬頭観音碑や文政5年(1822)の銘をもつ庚申塔などが並んでいて、その後ろには黄色に色づいた田んぼが広がっていました。
この神社の由緒など、その詳細については分かりませんが、御祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)、その創建は、貞享4年(1687)以前とされており、かつては「不動堂」と呼ばれていた時期もあったようです。
◇大山祇神社(里宮)





奥宮は、日本三大美林のひとつヒバの学術参考保護林で知られる眺望山(143m)への登山道がある山沿いにあり、五所川原市へと向かう道沿いに鎮座しています。
道際に「大山祗神社奥宮」と書かれた木柱と由緒碑・由緒板が立っていて、一の鳥居からは、急な石段が上に続いているのが見えます。石段はかなりの傾斜だったので、私は右回りの迂回路を登りました。
奥宮の由緒については、
【当社は津軽藩政の頃、山守の番所があった所で、山守達がその守護神として当社を建立し、山神を奉祀、信仰したのがその始まりである。この裏方に沢があって番所家戸と称せられているのは、これに因んだものである。廃藩後、明治政府により官、民、有林が設定され当所は内真部部落の見継山として経営されるようになり、おやしろは部落民の山神として信仰されるようになった。由来毎年四月十二日を祭日として、山下内真部町内に於て盛大な祭典が執り行われてきたが、大正の初期見継山は社地として分割払下げを受けて今日に到ったものである。
因みに日本三大美林の一つであるヒバ林で有名な眺望山はこれより先、130mの所にその入り口があり、畏くも梨本宮高松宮並に秩父宮両殿下の御光来を賜れり、その頂上にはお手植のヒバ紀念樹が美事に育ち、今にその栄光を伝えている。
社前の老木は厳然として山神の鎮座に相ふさわしく神神しさに自ら心身の清まるのを覚えるものがある。※由緒板より】と紹介されています。
「山守」とは文字通り、「所有者に代わって森林の管理、保護をする人」を指しますが、江戸時代、津軽藩は、山林の種類を「本山・田山・見継山・仕立見継山・立山・抱山」と分類して管理していました。
「本山」は、純然たる藩有林ですが、由緒に出てくる「見継山」とは「藩山の伐採跡地に植栽、または天然に生育した林を、山麓の住民(1人または1村若しくは数ケ村)に保護監守を命じ、その報として将来森林経営上の支障とならない限度において自家用材の有償払下げ、その他副産物の無料採取等を許可した山」のことです。
因みに、津軽藩は米に次ぐ藩の財源としての山林管理をとても重要視し、2代藩主・信政は林政に意を注ぎ、「我に大事と思うものが三つある。第一に家運、第二に土佐守(※3代藩主・信義のこと)、第三に山である。山の用は挙げて数えがたい。後世に至っても、上下共に能く心を山林に用いねばならぬ」と述べたといわれています。
◇大山祗神社奥宮




※HP[太宰ミュージアム」、HP「青森県木材協同組合」等を参照しました。
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☆つがるみち☆



三柱神社、四所神社、七柱神社など、御祭神の数が神社名となっている社は数多くありますが、三社宮など「宮」がつく社は、いわゆる「三社様」を祭っているところが多いようです。
「三社様」とは、伊勢・八幡・春日を崇める「三社託宣」という信仰に基づくものとされ、次のように説明されています。
【伊勢神宮(天照皇大神宮),石清水八幡宮(八幡大菩薩),春日大社(春日大明神)の三社の託宣,神のお告げを記したもの。中世後期からみられ,近世には広く庶民信仰として普及した。中央には天照大神宮,右に八幡大菩薩,左に春日大明神と記し,その下に託宣を載せて一軸の掛軸に仕立てたものが床の間に飾られ,信仰の対象とされた。託宣の内容は神道・儒教・仏教の三教融合思想に基づき,正直・清浄・慈悲観を強調している。この正直・清浄・慈悲の三つの徳目は,中世以降,伊勢・石清水・春日の三社においてとくに強調された徳目であり,中世神道思想の基本的考え方はこれに由来している。※コトバンクより】
三社様を祭る神社は各地にありますが、青森市奥内の三社宮もそのひとつです。
◇三社宮





御祭神は、天照大神、誉田別尊、天児屋根命で、創建年代は不詳とのことですが、貞享四年(1687)の検地帳に境内地が記載されているということで、その当時から村の産土社であったようです。
かつては、大明神社と呼ばれ、その後、蔵王宮となりましたが、明治の神仏分離により、天照大神・誉田別命・天児屋根命という伊勢・八幡・春日の三神を勧請して、社号を三社宮に改称したといわれています。
神社は国道280号線のバイパスから、少し入った田んぼに囲まれた所にあり、全体がこんもりとした森になっています。
境内には、御神燈や狛犬、手水舎などがありますが、拝殿の横に石碑を納めた大きな建物が立っています。
この建物の中に祀られている碑は、岩木山大神、天照大神、馬頭観音、そして弘化2年(1845)銘の猿田彦大神ですが、いずれにも碑の前に燭台が設けられていて、ひとつの祈りの空間になっているようです。
◇石碑群、狛犬、本殿など








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前回お伝えした西田沢のとなりの集落が飛鳥で、ここに羽黒神社が鎮座しています。
一帯の集落は、国道280号線のバイパスと旧道の間に広がっていますが、旧道沿いに「羽黒神社」という大きな社号標があり、参道に鳥居が立っているのが見えました。
ところが、この参道は草ぼうぼう・・・。かつては、りっぱな道だったのでしょうが、今はあんまり利用されていないようです。
とにもかくにも、草の中を歩き、鳥居をくぐり抜けると、今度は線路につきあたりました。少し離れた所に踏切があったので、それを渡って、やっと神社にたどりつきました。境内の横には別の道があり、どうやらバイパス側から続いているようです。
ここ飛鳥の羽黒神社については、
【御祭神:大山祇神 大己貴神 倉稲魂神 草創年月不詳、寛永7年(1630)飛鳥村中の安全のため再建。明治9年村社に列せらる。もとは羽黒権現と称し、安政2年の書上帖には羽黒宮一宇、堂社 屋禰板葺二而建坪三尺四面、雨覆 板葺二而東西四間南北三間、社地境内共東西六拾間南北五拾間がみえる。明治初年の神仏分離に際して、羽黒神社に改めた。
飛鳥村は明治9年ごろに夏井田村を合併したが、現在羽黒神社は飛鳥・夏井田(※隣の集落)両町会の産土神となっている。※諏訪神社HP「兼務社について」より】と紹介されています。
◇飛鳥羽黒神社





由緒には、江戸時代には「羽黒権現」と呼ばれていたとありますが、明治初年に「大山祇神社」に改称、その後「羽黒神社」と改称されたという経緯をたどっているようです。
境内はとても広く、拝殿の左右には、文政5年(1822)銘の大田ノ神碑や十和田龍神大神、稲荷社、馬頭観音碑などが並んで立てられています。
拝殿の中には、祭壇の左側に奉納された神馬(木馬)が置かれていますが、右側には権現様の獅子頭が2つ納められていました。
菅江真澄は津軽を旅した際に、「陸奥(みちのく)のならわしとして、どこの浦、どこの山里でも、熊野の神様をまつる行事のはじめに、獅子頭を持って踊るということがある。そして、その獅子頭をひたすら権現様と言っている。」と紀行文に記していますが、この地域にも同じような風習が残っているようで、4年に一度、この神社に神楽が奉納されているとのことです。
◇拝殿、獅子頭、末社




境内には、幹の真ん中に丸い穴が空いた珍しい樹木などがありますが、拝殿の横に、幹の途中から枝が3本に分かれた大きなケヤキの木があります。
このような形の木は平川市の愛宕神社でも見かけましたが、「三頭木」と呼ばれ、昔から「山ノ神」が宿ると敬われていて、木こりやマタギの人々も伐採せずに守ってきたといわれています。
この羽黒神社のケヤキの木も、注連縄は張られていないものの、御神木として崇められているのでしょう。
◇大田ノ神碑、神馬など




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松前街道(国道280号線)の海岸沿いに西田沢の集落がありますが、道路際に「青森海岸」と書かれた標識があったので車を降りでみました。
青森海岸は、陸奥湾に面した津軽半島の東側の海岸で、青森市から蓬田村、外ヶ浜町へと松前街道にそって続いています。防波堤の上に立って見ると、左右に青森市街と蓬田村方面を見渡すことができました。

海岸付近は、浜田川という川の河口にあたり、浜田橋という橋が架けられていますが、その橋のたもとに社号標とジャンバラ型の注連縄が下がった大きな鳥居が立っています。
ここが西田沢八幡宮への入口で、川沿いに参道が続いていますが、民家と民家の間を歩いて行くと、やがて二の鳥居があり、その先に境内があります。
西田沢八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊 高おかみ神 草創年月不詳、 寛永十年 (一六三三) 村中にて再建。 爾来村中産土神として尊崇。 安政二年の書上帖には、 油川組田沢村八幡宮一宇、 板葺屋根の建坪二間四面の堂社、 萱葺の建坪東西三間南北二間の雨覆、 東西五十間南北三十間の社地境内、 東西十九間南北九間の社司屋敷一軒がみえる。
明治十一年平内の田沢村 (現東田沢) と区別する為、 田沢村を西田沢村と改称した。 字浜田に油川城跡があり、 城主奥瀬判九郎・同善九郎が居城したという。 享和二年 (一八〇二) 伊能忠敬の 「測量日記」 には家数二八とある。 明治初年の新撰陸奥国誌には、 「家数十八軒。 古墟あり奥瀬善九郎か住せし処なりと云。 善九郎は油川村の城主の由。 古書に見れは、 此の村旧は油川村の裡にして、 今の油川村比檐の処なりしなるへし」 とある。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。この辺りの神社には、青森市栄町の諏訪神社の兼務社が多いのですが、この八幡宮もそのひとつのようです。
由緒に書かれているように、戦国時代には近くに油川城があり、南部方の奥瀬氏が一帯を支配していましたが、天正13年(1585年)3月、大浦(津軽)為信による攻撃により落城。奥瀬氏は一戦も交えず下北方面へ逃走したという話も残されています。
この八幡宮は、そんな戦国期を経て、江戸初期に村の産土社として再建され、人々の信仰を集めてきた社といえそうです。
◇西田沢八幡宮





神社のすぐ隣には保育園があり、私が訪ねたときは、元気な子ども達の声が境内いっぱいに響いていました。社殿の後方は田んぼで、その向こうに280号線バイパスや新幹線の架橋などが見えます。
境内には、御神燈をはじめ、子どもを抱いた狛犬や修改築の記念碑などが立っています。望遠鏡を手にした軍人の石像がありましたが、これは、日中戦争当時の兵士を描いたもののようです。御神馬は、屋根つきのお堂に大切に祀られていました。
境内社(末社)もいくつかありましたが、一番大きな社が十和田神社で、その隣に赤い鳥居を伴った稲荷社があります。また、境内の入口と、拝殿の後方には、水は枯れていましたが、神池と思われる池があり、それぞれに祠が立てられていました。いずれも龍神様を祀っている祠だと思います。
西田沢の村は、海辺のため土地が低く、かつては川の氾濫や津波などにより、大きな被害をこうむった歴史があるのかも知れません。実際に、「この辺りは古くから高潮や冬季風浪により浸食が著しく、50年間で激しいところでは40~50mの浸食があり、約百戸の家屋移転もあった」という記録もあるようです。
境内に龍神社、十和田神社があること、そして御祭神に高おかみ神が祀られていることなど、この神社は、水神を崇める社といってもいいのかも知れません。
◇末社、本殿など





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「幸畑」という響きの良いきれいな地名の由来については、同村の谷脇に鎮座している熊野宮の由緒板に、
【(周辺の村では)貞享以前に畑に桑を植えて、蚕を生業としてあったので「桑畑村」となり、宝暦年間に現今の「幸畑村」になった。※熊野宮由緒板より要約・抜粋】と記されており、「桑畑」が「幸畑」に転化していったことが分かります。

熊野宮は、前回ご紹介した白山神社のすぐ近くにある社ですが、その由緒については、
【御祭神:伊邪那岐命 伊邪那美命 草創年月不詳、 寛永八年 (一六三一) 村中安全のため再建。 当初新山宮と称していたが、 明治初年神仏混淆廃止後、 仏体を廃し熊野宮と称した。 熊野大権現とも新山宮とも呼ばれたようだが、 貞享元年の書上帳には、 新山権現宮、 五十間に三十間 (五反歩)、 御宮一間四方、 別当和泉太夫とある。 貞享四年の検地帳に、 五間に六間の熊野宮地、 五十間に四八間の境内林がある。 安政二年の書上帖には、 横内組幸畑村新山宮一宇、 東西五六間南北五三間の境内がみえる。
明治六年三月筒井村稲荷神社と共に横内村大星神社へ合祀、 同八年二月復社。 同九年十二月村社に列せらる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
神社は民家に囲まれたところにあり、向かい側には保育園があります。私が訪れたときには、園児たちが保育士さんとなかよく手をつないで散歩中でした。
一の鳥居は金属製のもので、そばに大きな社号標と由緒書きと例祭の予定を書いた案内板などが立っています。そこから杉の木の間を参道が通っていて、社殿へ続いていました。
境内には、御神燈や狛犬、神馬などが並んで置かれています。拝殿の左側には赤い鳥居を伴った稲荷社がありました。右側には、猿田彦碑などが三基並んで立っていましたが、石碑の前には小さな赤い鳥居が立てかけられていました。
◇幸畑熊野宮









前述した由緒板には次のようなことも書かれています。
【(辺りの村と境内一帯は)延暦十一年(七九二年)頃は酋長・甲田丸の領地であり、甲田丸の祈願所があった。その祈願所を五穀豊穣の守護神として寛永八年に再建した。※由緒板より要約・抜粋】
「甲田丸」は八甲田山に因んだ名前なのでしょうが、かつて、この辺り一帯をを治めていた蝦夷の首魁のようです。
津軽には、かつて、中央の政事に「まつろわぬ者」たちが大勢いたとされ、蝦夷と呼ばれていました。岩木山麓の彼らは鬼と呼ばれたり、その首魁は「恵美の高丸(藤崎町)」、「大丈丸、大獄丸(平川市)」などとされています。八甲田山麓にも、女酉長・阿屋須と弟・雲谷の頓慶を首魁とする蝦夷が住んでいたとされています。
蝦夷は、坂上田村麻呂と激戦を繰り広げた後に征討されたと伝わっており、それが多くの神社の由緒にも残っている分けですが、ここ幸畑の熊野宮もそのひとつといえそうです。
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前回の記事に続いて、青森市幸畑にある神社のご紹介になります。
幸畑の谷脇という所に白山神社が鎮座しています。
集落は道路沿いに広がっていますが、その途中はゆるい坂道になっていて、そばにちょっと小高い丘があり、そこに白い鳥居と社殿が見えます。大変小さな神社なので、ついつい見過ごしてしまいそうになります。

道端に石段があって、そのそばには庚申塔が置かれていますが、御神燈や狛犬などはなく、背の高い樹木に囲まれて白い社殿がぽつんと立っています。
その由緒については、よく分かりませんが、
【御祭神:伊弉並尊 菊理姫命 本社の勧請年月は不詳であるが、その昔、深持村の産土の神であったというが、同部落の名がなくなってから無格社となっている。しかし今尚参拝する人が多い。※『筒井町誌』より】と紹介されています。
また、安政2年(1855)の『神社微細社司由緒調書上帳』には、「白山権現」として記録されているとのことです。
小さな境内ですが、前述したように、大きな木々に囲まれており、神社らしい雰囲気が漂っています。鳥居の横にそびえているイチョウの木などは、かなりの大きさのものですが、とりわけ、社殿の後ろにどーんとそびえているのがケヤキの木で、この神社の御神木になっています。
このケヤキの木は「幸畑のケヤキ」と呼ばれ、「樹齢500年と推定される県内でも有数のケヤキ巨樹である。白山神社の本殿裏に生育し、まっすぐな主幹が地域のシンボルにふさわしい様を呈している。」と紹介されています。樹高が約25mで、幹回りが5.9mという、堂々たる巨木です。
◇白山神社









「白山」あるいは「白山姫」と名のつく神社は全国におよそ2,700社余り鎮座しているということですが、その多くは祭神を菊理媛神(白山比咩神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱としているといわれています。言うまでもなく、これらの神社は、石川県、福井県、岐阜県にまたがる白山に関わる山岳信仰(白山信仰)に基づくものです。
白山信仰は修験道と結びつき、「白山修験」として熊野修験に次ぐ勢力をもち、各地に伝播し、神社等が建立されました。津軽もその例外ではなく、多くの白山(姫)神社が建てられましたが、津軽の場合は、岩木山信仰との関わりも深いとされています。
岩木山は鳥海山、岩木山、厳鬼山の三つの峰から成り立っていますが、そのうちの厳鬼山の主神は多都比姫(田光の竜女)で、本地仏は十一面観音です。一方、白山の祭神である菊理媛命(ククリヒメのミコト)も神仏習合では本地仏は十一面観音とされており、両神はともに女性ということもあり、信仰が広がっていったといわれています。
※wikipedia、小館衷三『岩木山信仰史』等を参照しました。
◇津軽の白山(姫)神社




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青森市の幸畑(こうばた)の墓苑には陸軍墓地があり、八甲田山雪中行軍遭難資料館や雪中行軍関連石碑、慰霊碑などが建てられています。
雪中行軍で遭難死した青森五連隊の大隊長を真ん中にして、名もなき下士卒達の白い墓標が並び立つ光景は胸に迫るものがあります。
【・・・のびやかな距離を保って立ち並ぶ墓標は、春には校庭いっぱいに広がった白い運動着の子どもたちのようにも見え、夏には港で白い帆を休めるヨットの一群にも見え、秋には林立する白樺のようにも見える。そして、一面が純白におおわれる冬、 - それは道を失って立ちつくした彼らの最期の悲しい姿に重なるのだった。 ※山下康博 『指揮官の決断』より】
この幸畑墓苑から、八甲田山中へ進んで行くと、第五連隊が生死を彷徨った露営地跡があり、雪中行軍遭難記念像(後藤房之助伍長の像)が立つ馬立場へと至ります。

八甲田神社は、その幸畑墓苑の近くに鎮座している社で、「病気平癒」「除災招福」などの御神徳により、市民の信仰を集めている神社です。
その由緒については、
【往昔、阿倍比羅夫は夷賊征討の時、後潟に政庁を置き、八甲田山麓に山霊を祀り、伊邪那岐大神・伊邪那美大神ほか諸神を勧請したが、その後永く廃絶した。
北畠顕信公、その子・守親公等は父・親房公、顕家公の遺志を継いで南朝の為に画策、霊山(福島県)を出でて再び諸神を勧請して南部氏を頼ったが、時運にあわず八幡岳にて一敗、その後を絶った。浪岡に拠った顕家公の後嗣も津軽氏に打倒されその跡殆煙滅した。
創立者・小笠原壽久翁は昭和十八年、啓示を受けて八甲田大神(はっこうだおおかみ)を祭祀、昭和四十六年には北畠氏縁故者や崇敬者と共に明治百年を期し、現在地に社殿を建立。平成二年に鎮座二十年記念事業として本殿三棟を建立した。※八甲田神社『参拝のしおり』】と紹介されています。
平安の昔から南北朝、戦国時代を経て、八甲田の神々を祀ってきた古い歴史を持つ社ですが、現在地に八甲田神社として建立されたのは昭和に入ってからのことです。
敷地が約三千坪という広い境内ですが、社殿の前には手水舎や社務所、天照大御大神や月夜見大神を祀っている曙神社などがある他、郷土の俳人たちの句碑もあります。
拝殿の後ろ側は、玉垣と門に囲まれた本殿が三棟立っていましたが、残念ながら、中へは入れませんでした。
◇八甲田神社









御祭神は、「天津御祖大神・伊邪那岐大神・伊邪那美大神・天照大御神・月夜見大神・大地主大神・大山祇大神・北畠顕信命・ 北畠守親命・美穂屋姫大神 ほか」となっています。
多くの神様の名前に驚かされますが、その数が多いのは、八甲田山は独立峰である岩木山などと違って、連峰の総称であるために、各峰々にはそれぞれの「神様」がおり、信仰を集めていたためだと思われます。八甲田連峰の「萬の神々」が宿る神社といえそうです。
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青森寺(せいしんじ)は、青森市栄町の堤川の河口に位置しており、「イルカ伝説」で有名な諏訪神社と境内が隣り合わせになっている寺院です。
東北三十六不動尊霊場、津軽弘法大師霊場にもなっていて、多くの信者をもつお寺ですが、二月の節分会と七月の灯篭流しの行事には多くの人々が訪れ、「節分の豆撒きには、厄除祈願の善男善女が多数参集し、その規模は県下一である。又夏の灯篭流しは、川面を幻想的な光で彩り、誠に叙情的で短い青森の夏には欠かせぬ風物詩となっている。」と紹介されています。

山号は「成田山」。本尊に不動明王を祀る真言宗のお寺ですが、成田山という名前からも分かるように、成田山新勝寺の青森分院という位置づけになっています。
その由緒については、
【明治二十一年、中村浄了師が結成した成田山新勝寺に参拝することを目的とした「成田講」の信徒が中心となり、青森市青柳に不動堂を建立したのが当山の始まりです。同二十三年に新勝寺の御分霊を不動堂に奉安し青森成田山と称しました。同四十一年に現在の栄町に本堂を移転し、県内外から広く信仰を集めておりましたが、昭和二十年の空襲により御本尊・本堂等悉く焼失してしまいました。昭和二十七年、中村照純師(中興第一世住職)が中心となり本堂再建を目指し成田山青森寺と寺号を称し奉賛会を設立、同三十二年に本堂再建、同三十五年に御本尊不動明王を奉安し当山の再興が成されました。このとき、当山が本州最北の地にあることから北を守るという願いも込められ、御本尊不動明王を北向きに安置しました。
当山開創以来、信徒各位のさまざまな願いを成就いたすべく、一心に不動明王へご祈願を捧げ続け今日に至ります。※青森寺HPより】とあります。
大きな鰐口が架かっている入口の扉を開けると、正面に祭壇があり、御本尊が祀られていますが、祭壇の両脇に小型ねぶた位の大きさの置物があります。
左側の物は高さ1.66m、幅2,21m、大理石一枚岩に彫られた「九龍献瑞」で、右側は高さ1.72m、幅3mの「屋久杉置物」ですが、両方とも、このお寺の寺宝となっています。
◇青森寺本堂





入口に「阿吽」の仁王像が立っていたり、狛犬があったり、境内の中に赤い鳥居の社があったりと、神仏混合を感じさせるお寺です。
境内の奥に立つ社は稲荷堂(鎮守稲荷堂)で、扁額には「高山稲荷」とありました。その隣が龍神堂(清瀧権現堂)。いずれも、昭和30年代に建立されたもののようです。
弘法大師霊場ということで、「子安大師」などの大師像も何体か見られますが、入口に「曼荼羅堂」という建物があり、その中には、水子地蔵尊や、勢至菩薩、阿弥陀如来、不動明王などの「生れ年一代尊」などが祀られていました。
◇青森寺境内




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青森市HP「なみおか 今 昔」には、【・・・浪岡から五本松、王余魚沢を通り青森の堤橋に出る道は、古くから「大豆坂(まめさか)街道」と呼ばれ、大釈迦峠-鶴ヶ坂の道筋とともに重視されてきました。】と書かれています。
文中に出てくる王余魚沢(かれいざわ)は、浪岡町内から青森空港へと至る途中にある集落です。

ここには、かつて、「王余魚沢館」という城(館)が築かれていましたが、浪岡北畠氏の家臣であった軽井源左衛門尉という武将が築城主といわれています。現在は遺構もなく、詳細は分かりませんが、稲荷神社の境内が、その居館の跡とされています。
前述のように、王余魚沢一帯は、青森へと至る要路でした。津軽藩は、夏の強い日差しをやわらげ、冬の風雪を防ぎ、往来を楽にするため、松を植えるなど、街道整備に努めましたが、享和元年(1801)頃には、ここ稲荷神社の辺りにも並木松が植えられたとのことです。
現在は、その並木松はほとんど残ってはいませんが、一の鳥居から続く参道の両脇には、背の高い杉木立が林立しており、かつての街道の様子を偲ぶことができます。
◇稲荷神社参道と境内





この神社の由緒についてはよく分かりません。神社名からして御祭神は倉稲魂命だと思われますが、かつては武将の館跡だったことから考えると、戦いの神・荼枳尼天が祀られていたのかも知れません。
細い参道を歩いて行くと、広い境内へと出ます。御神燈や狛犬、鳥居を伴った末社などが並んで立っていました。
境内には、大石が何個か置かれています。舟のような形のものやお椀型のもの、石碑のようなもの、石塀に囲まれて置かれているものなど、様々ですが、いずれも真ん中がくりぬかれていました。これらは、近くの山などから集められ、ここに置かれたようですが、何か、信仰上の理由があったのでしょうか。不思議です。
◇境内の大石と本殿




ところで、「王余魚沢(かれいざわ)」という、とても珍しい地名ですが、その由来については、はっきりとしたことは分かっていません。
ひとつには、大豆坂街道を旅する人達が「餉(かれいい:携帯する食糧)」をとる場所、または、馬や荷物を下ろす場所(かるいざわ)から転化したものだという説があります。
また、「王余魚」という魚の名前は、「昔、中国の王が魚を半分食べたところを水に放すと泳ぎだした」という故事から名づけられたとされていますが、それに倣ったものだという説もあります。即ち、この説は、中世浪岡の支配者であった北畠氏を中国の王になぞらえている分けです。
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