のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  水虎様  

神山闇おかみ神社 - つがるみち437




 以前、鳥居や拝殿に架かっている「鬼っこ」を探して津軽の神社を歩いたことがありますが、五所川原市の長橋地区神山に鎮座する闇おかみ神社もそのひとつです。
 目当ての鬼っこは、入口の社号標の前に一体、御神木の隣に一体、そして拝殿と三体も祀られていました。
 ⇒ 以前の記事へ

 ですが、前回の訪問は春先だったために、境内の中にも雪があり、ゆっくり回って見ることはできませんでした。そういう分けで、今回は再訪です。




 その由緒については、
【御祭神:闇おかみ神   明暦二年 (一六五六) 勧請。 明治六年観音堂を闇おかみ神社と改め松倉神社へ合祭。 同八年復社。
明治九年十二月村社に列せられる。 明治十七年五月松野木観音林より現社地へ移転。 明治四十四年九月八日神饌幣帛料供進指定神社に列格せられる。※青森県神社庁HPより】と簡潔に記されているだけで、詳しいことは不明ですが、すぐそばに長橋溜池という大きな農業用の溜池があることから、灌漑の安全と豊作を願って水神・闇おかみ神が祀られるようになったと思われます。

 今回、あらためて訪ねてみたのですが、神社入口に並んでいる庚申塔や十字前掛けをまとった多くのお地蔵様など、新しい「発見」がありました。また、三体の鬼っこや、御神木の見事なクロマツなども健在でした。

◇闇おかみ神社






 長橋地区は、かつて長橋村と呼ばれていましたが、その地名の由来は「村中に長橋と呼ばれる溜池あり、各村には耕地が多くこの水を引いて耕作をしているからこの溜池に因んで村名とした」とされています。
 また、神社の鎮座地である「神山」は、この地に中世の館である「神山館」が築かれ、神山左京之助なる人物が居館としていたことに基づくといわれていますが、館跡からは、中国産の青磁碗や日本産の焼物の破片が出土しているとのことです。
 江戸時代、この地を訪れた菅江真澄は『外浜奇勝』の中で、
【杉羽立という村のあとを通り、むかしかかっていたが、いまは名ばかり残っている長橋というところで、広い池(長橋溜池)がよこたわっているのを見わたした。こうしてゆくゆく心に浮かんだことを歌によみ、神山というところにきて、村のはずれにある井杭の柳に歌をかきつけた。「草たかみ野越えはらこえわけ来れば そのかみやまの麓也けり」】と書いています。

 闇おかみ神、鬼っこと水神を崇めている社ですが、実は、境内にはもうひとつの津軽の水神・水虎様が祀られているということが再訪の理由でした。
 以前は拝めなかったのですが、今回、境内の真ん中に小さな祠がポツンと立っていたので、扉を開けて見ると、その中には女神型の水虎様が大切に祀られていました。




※五所川原市立図書館「長橋地区の地名」を参照しました。

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松倉山神社ーつがるみち403




 松倉観音堂(松倉神社)へと至る巡礼ルートはいくつかありますが、体力に自信がある健脚の方は、大釈迦から梵珠山へと登り、尾根道を下って観音堂へと向かう道を進みます。
 もうひとつは、前回取り上げた遥拝所のある前田野目の集落から、直接、観音堂のある松倉山を目指すルートですが、私は、この道をたどりました。

 ですが、この他にも道はあるようで、詳しくは分かりませんが、五所川原の長橋地区からも巡礼の道があるようです。
 
 県道36号線を金木町方面に走って行くと、途中に「長橋ため池」という大きな農業用ため池がありますが、その手前に「松倉神社」という社号標が立っています。ここから続く道は「野里」という集落を通り、松倉山まで続いているようです。その途中には名水「恵の泉」があることで知られる中山大権現があり、私も訪ねたことがありますが、そこから先へは行ったことがありません。

 この社号標の向かい側の道を進むと「松倉山神社」という社がありますが、この神社は、かつて、松倉神社の遥拝所(里宮)だったとされています。

 ⇒ 松倉山神社・中山大権現・松倉神社


 
 集落の道路沿いに一の鳥居が立っていますが、扁額は「松倉神社」、社号標は「松倉山神社」になっていました。
 鳥居をくぐると、りんご畑が広がっており、赤い二の鳥居が見えます。境内の入口には地蔵堂があり、大きなお地蔵さまが祀られていました。




 
 社殿へと続く参道の両側には三十三観音像が立っていましたが、よく見ると観音様は、境内をぐるっと取り囲むように置かれていました。中には、白いほっかむりをしたものもあります。境内には、観音像のほかに神馬や狛犬などもありましたが、いずれもほっかむり。
 境内の端っこの方に、赤い小さな祠が2つ並んで立っていましたが、そのうちのひとつには水神・水虎様が祀られていました。

 この神社の由緒等についてはよく分かりませんが、かつては「野里遥拝所」と呼ばれていたようで、文政年間(1818~1835)に建立されたといわれています。
 一帯は、正保年間(1645~1648)に築造された「長橋ため池」とともに開けていった村ですが、治水の安全と五穀豊穣を願って、この神社にも水虎様を祀ったものなのでしょうか。








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前田野目松倉神社ーつがるみち402




 松倉観音堂は津軽三十三霊場の25番札所ですが、梵珠山の峰の松倉山にあるため、三十三霊場の中でも一番の「難所」として知られています。
 観音堂までの道のりが厳しく、巡礼に行きたくても行けない人々のために、現在は、浪岡にある元光寺が納経所になっていますが、境内には、本尊の十一面観世音菩薩が安置されていて、「うつし御本尊」と呼ばれています。




 こうした村里から遠く離れた社には、遥拝所としての役割を負った「里宮」が設けられていたりします。
 松倉観音堂(松倉神社)にも、そのような遥拝所にあたる神社が二つほどありますが、そのうちのひとつが前田野目(まえだのめ)という集落に鎮座する松倉神社で、「前田野目遥拝所」とも呼ばれています。

 前田野目は、大釈迦から五所川原へと向かう国道101号線沿いに開けている集落で、観音堂への登り口にあたり、二十五番札所の道案内板が立っていますが、遥拝所の松倉神社は、そこから反対方向へ少し進んだ所にありました。

 農道沿いに赤い鳥居が立っており、一の鳥居、二の鳥居と参道が続きます。境内の入口に末社がひとつ立っていましたが、ここには水神様が祀られていました。
 こんもりとした森に囲まれた境内で、その中には、手水舎や御神燈、狛犬が置かれています。神馬は、黄、赤、青の鮮やかな衣装をまとっています。








 この里宮の由緒等については、詳しく分かりませんが、本宮の松倉神社は、大同二年(807)に坂上田村麻呂が創建したとされています。
 その御祭神は、大山祇神・大名持神・少名彦神となっていますが、遥拝所である、ここ前田野目松倉神社も三神を祀っていると思われます。


 松倉観音堂の遥拝所として、また、地域の守り神として、人々の崇敬を集めてきた社ですが、ここでは、正月に勇壮な裸参り
前田野目裸参り ※青森県観光情報サイトアプティネットより
が行われます。
 - 【 前田野目地区の裸参りは、新年の行事として古くから当地域に受け継がれてきたもので、大晦日の夜より「お籠り」をして、元日の早朝に「若水」を浴びて邪気を払うとともに、種々の「お供物」と共に松倉神社前田野目遥拝所へ参拝します。 ※青森県観光情報サイトアプティネットより
 



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下岩崎愛宕神社ほかーつがるみち356


柳久保神社狛犬


 五所川原市方面へ出かけるときは、大釈迦(旧浪岡町)から国道101号線を通ることがよくありますが、その分岐点にあたる所に柳久保神社があります。
 ここには、かつて元光寺というお寺があったのですが、現在は移転し、跡地には地蔵堂などが立っており、そばには柳久保神社の一の鳥居があります。
 神社の境内は、その鳥居をくぐって急な坂道を登った所にあります。
 その由緒については、
【御祭神:大美那能売命(大宮能売命) 草創不詳なるも、 もとは梵珠山の近くにあり、 火災で村内沢田に移り、 明治四十三年、 現在地に移ったという。
 明治初年には相殿に能野宮・春日神社があった。※青森県神社庁HP 】とあります。

 この神社には、青森や五所川原の寺社を訪ねる際に何回か立ち寄りました。
 境内には、神馬が納められたお堂や、とぼけ顔の狛犬などがありますが、小高い山の上からは、国道が五所川原方面へまっすぐに延びているのが見えます。なかなかよい眺めです。

◇柳久保神社

  
参道
境内
末社
境内から



愛宕神社


 国道101号線を通って、五所川原市飯詰地区・下岩崎に鎮座する愛宕神社を訪れたのは昨年の11月でした。
 飯詰の町には飯詰城址や八幡宮を訪ねて何度か足を運んでいます。
 集落の中心部には長円寺をはじめ、いくつかの寺院が並んでいますが、長円寺の釣鐘は、昔、十三湖の底に沈んだという伝承をもつものです。

 下岩崎の集落は、長円寺の辺りから、少し進んだ所にありますが、その道路沿いに愛宕神社がありました。

二の鳥居から


 道路から見えるのは神社の後ろ側で、入口はそこから回り込んだところにありました。大きな社号標が立っており、一の鳥居からは、二、三と鳥居が続いている参道が見えます。
 参道の両脇にはたくさんの松の木が生えていますが、中には道を取り囲んでいるアーチのような面白い形のものもありました。
 境内はとても広く、神馬の像や交通安全の碑、御神燈と狛犬がそれぞれ一対ずつあります。
 私が訪ねたときはとても良い天気だったので、社殿の屋根の赤い色が鮮やかでした。その社殿のとなりに鳥居を伴った小さな祠がありました。
 祠の中を覗いて見ると、壁側には奉納された草鞋、床には馬の姿が描かれた碑が置かれていました。中央には三つの顔を持つ観音様が祀られていましたが、どうやらこれは馬頭観音のようです。

 この神社の由緒については、
【御祭神:軻遇突智命  創立年月日不詳 寛永の頃、 藤右エ門なる者、 金神林に於ける大木の根元にて奇異の三石を発見し、 霊夢に依り三宝荒神と崇め奉る。 明治四年愛宕神社と改める。 明治六年四月毘沙門鹿島神社へ合祭。 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 にわか勉強ですが、三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)については、
【日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する仏神である。三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)である。頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがある。不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、「かまど神」として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものである。※wikipedia他より】とあります。

「かまど神」は、台所などの火を使う場所に祀られる神で、「火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神」とされていますが、社に祀ることにより、家々の安全とともに村全体の繁栄を祈願したものなのでしょう。

◇愛宕神社

  
三の鳥居
境内
拝殿
本殿の木鼻


  
参道
神馬
馬頭観音
本殿


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田川八幡宮ーつがるみち352


田川八幡宮


 神社の境内は鎮魂の場でもあり、日清戦争や日露戦争、大東亜戦争等に出征し、戦死した地元兵士を記念する「忠魂碑」や御霊を祀る「招魂社」、さらには、無事の帰還を感謝する「復員記念碑」などが立てられているのを見かけます。
 今回訪ねた五所川原市田川の八幡宮には、一の鳥居のそばに大きな「日露戦役記念碑」が立っていましたが、同様の碑は、先回ご紹介した川山の神明宮や弘前市の日吉神社にもありました。

 青森県と日露戦争といえば、開戦前夜に起こった八甲田雪中行軍の事件が有名ですが、いざ戦争が始まると各地で連戦連勝を重ねる日本軍に国民は狂喜し、日本全体が祝賀ムードに包まれます。それは、津軽も同様で、兵隊を出した村は、わが村の勝利のように喜んだといわれています。

 ですが、大戦が本格化し、弘前の第八師団が、最前線で戦うようになると、戦争の悲惨さが現実味を帯びてきて、出征兵士を出した村々の家では、我が子や身内の安全を願う思いが強くなっていきました。徴兵を名誉とする風潮の中で、人々がすがったのは、やはり神仏だった分けですが、黒石市の目内澤に残るしばり地蔵の話は、そんな当時の様子を今に伝えています。この田川の村でも、似たようなことがあったのでしょう。

◇戦役記念碑ほか

  
弘前市熊野宮復員記念碑
弘前市三日月神社招魂社
五所川原市川山神明宮
弘前市日吉神社



境内


 五所川原市の田川は、川山村や新宮村、沖飯詰村などと共に、旧中川村の一部でした。
 そばを岩木川が流れる農村地帯ですが、八幡宮は村の外れの方に、田んぼに囲まれて鎮座していて、境内からは国道101号線のバイパスが見えました。
 私が訪ねたのは、昨年の12月下旬でしたが、師走にもかかわらず、この時はまだ降雪もなく、とてもよい天気でした。




 その由緒については、
【御祭神:誉田別尊  創建は明暦二年。 寛文二年田川、 川元、 赤堀三ケ村にて再建される。 明治六年四月村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】とありますが、その詳細は分かりません。
 明暦年間(1655-1657)の創建とあるところをみると、津軽藩による新田開発が本格的に行われだした頃からの村の産土社であったと思われます。

 社殿に向かって、狛犬や神馬のほかに、八幡様らしくお使いの鳩の像が並んで立っています。狛犬は本殿にも一対置かれていましたが、こちらは、しっぽがピンと跳ね上がった特徴のあるものでした。
 拝殿の前に大きな切り株がありましたが、株からは新しい枝が伸びていて、そこに願札がいくつか結びつけられていました。かつての御神木だったのでしょうか。

 境内には、百万遍塚や庚申塔のほか、神仏が彫られた石碑などがあります。もうすぐ地面に埋まってしまいそうな小さな碑には、蝶が羽を広げているような姿の神様(仏様)が刻まれていました。

 二の鳥居の横に末社が二つ並んで立っていましたが、そのうちのひとつを覗いて見ると、そこには大小二体の水虎様が祀られていました。少し薄くなってはいるものの、色鮮やかな女神型の水虎様です。

◇田川八幡宮

  
石仏
末社
水虎様
境内


  
狛犬と鳩
本殿
本殿の狛犬
水虎様


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川山神明宮ーつがるみち349


川山神明宮


 五所川原市の川山地区は、明治の頃は、近郷の北津軽郡川山村、新宮村、長橋村、田川村、種井村、沖飯詰村、桜田村が合併した「中川村」に含まれていました。
 昭和29年(1954)の市制施行により、五所川原町、栄村、三好村、飯詰村などと合併し、五所川原市の一部となった分けですが、ここに神明宮が鎮座しています。

一の鳥居


 その由緒については、
【御祭神:天照皇大神  創建年号は不詳である。 元禄二年村中にて再建。 明治六年四月沖飯詰八幡宮へ合祭の処、 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 詳細は分かりませんが、元禄期の新田開発とともに、再建され、村の産土社として崇められてきた神社と思われます。

 境内のすぐ横を旧十川とその支流が流れていて、川べりに立っている社ですが、一の鳥居が立っている入口は反対側にあります。二の鳥居、三の鳥居とくぐり抜けると右側に社殿が見えました。

 社殿の前に「神明宮」と書かれた大きな社号標がありますが、どうやらこれはネオン型のもののようです。どんな色に光るのでしょうか。
 拝殿の扉が開いていたので中を覗いたら真っ赤でした。両窓に張りめぐらされた紅白幕に光があたって、とても幻想的な雰囲気です。
 拝殿のとなりに末社の祠が2つ。そのうちのひとつには、水虎様と水神様が祀られていました。すぐそばを流れている旧十川は、何度も氾濫し、村人を苦しめたといわれていますが、水の神を祀ることによって、村の安全を願ったのでしょう。

 境内には、狛犬をはじめ、神馬やうさぎ像などが立っています。津軽では、弘前市の天満宮が卯年生まれの一代様(守り神)として、境内にうさぎ像が置かれていますが、ここの神明宮も地域の一代様として信仰されているのでしょうか。

◇神明宮

  
拝殿
末社
水虎様と水神
狛犬ほか


  
神馬
狛犬
うさぎ
うさぎ



水虎様


 さて、祠に祀られている水虎様は、
【実際に起こった水の事故をきっかけに、水難よけを祈願するために広まったもの。水の事故は河童のせいで、それを鎮めるために神様としてまつった。】という津軽の水神信仰です。
 ですが、
【水虎様は、すべて河童の形をしているわけではありません。岩木川を境にして西側には河童の形をしたもの、東側には、カメに乗った女神様の形をしたものが多いのです。河童の形をした神様も不思議ですが、岩木川を境にして形が違うのも不思議です。】とされています。  ※【】は、HPまるごと青森「津軽不思議発見!水虎様」より
 - 「女神型」の水虎様が誕生したいきさつについては分かりませんが、あるいはそこに日本の代表的な水神である「弁才天」や「市寸島比売命」の影響があるのかも知れません。

 ここ神明宮の水虎様は、黒光りする「河童型」の神様でした。
 水虎様を祀っている寺社等は、西北津軽地方を中心に、およそ80か所あるといわれています。私も神社めぐりを通して、水虎様を拝んできましたが、そのほとんどは「女神型」のもので、「河童型」を見たのは久しぶりです。

◇河童型の水虎様

  
川山神明宮
つがる市尊殿堂
つがる市実相寺
五所川原市胸肩神社


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姥萢稲荷神社ーつがるみち335


本殿のきつね


 貞享4年(1687)、津軽藩は行政機構の改革を行い、領内を25に分割した「組」を設置しました。
 五所川原市域は「柏木組」「広田組」「飯詰組」「金木組」「藤代組」に属していましたが、「広田組」には、本村23カ村、枝村5カ村の計28カ村があり、その中に「姥萢村」の名前があります。
 姥萢(うばやち)は、国道101号線と339号線沿いに開けた集落で、五所川原市の繁華街にも近い所にありますが、ここに稲荷神社が鎮座しています。
 一の鳥居を見たとき、少しギョッとしました。本来ならば扁額が掲げられている所に、何やら不思議な固まりがあります。

 何かのお面のようにも、豊作祈願の米俵の跡のようにも見えますが、とても奇妙な形をしていて、しかも朱色で塗られているために、その正体は分かりません。西北津軽地方の神社には、鳥居に「鬼っコ」を掲げている神社も多いのですが、これもまた、かつては「鬼っコ」だったのでしょうか。

 この神社は交差点付近にあり、境内からは五所川原市の市街地を見渡すことができます。一の鳥居のそばにもうひとつ赤い鳥居が立っており、そこには庚申塔や二十三夜塔、百万遍塚などが置かれていました。
 割とこじんまりとした境内ですが、稲荷様のお使いのきつね像や狛犬、忠魂碑などがあります。拝殿の中には入れませんでしたが、窓越しにその中が見えました。

◇稲荷神社

  
一の鳥居
庚申塔ほか
境内
拝殿



本殿のきつね


 この神社の由緒については、
【御祭神:保食神  創建年代不詳。 『安政二年神社微細社司由緒調書上帳』 に 「広田組姥萢村 一、 正一位稲荷宮一宇 右、 草創年月不詳候得ば明暦年中 (一六五五~五八) 村中安全之為建立仕候」 とある。
  明治九年十二月村社に列せられる。 明治四十三年本殿造営。 大正二年指定神社に列格せられる。 昭和二十五年一月国有境内地無償譲与許可。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 また、『北津軽郡神社誌』には、
【勧請年月不詳、安政六年四月、日本稲荷総本宮愛染寺より稲荷社神璽(※しんじ:神社の祭神の御印)頂戴・・・】とありました。愛染寺は、伏見稲荷大社に附属して建てられた仏教寺院(神宮寺)です。
 いずれにせよ、この神社は五穀豊穣と村落繁栄の祈願所として、信仰を集めてきた社のようです。

 稲荷神社らしく、境内には狛犬よりも大きなきつね像がありました。また、本殿を覗いて見ると、そこにも一対のきつねが置かれています。

 境内の中に、石をくりぬいた形の祠がありました。「水神宮」と書かれています。長方形にくりぬかれた穴の中には、一体の神様が祀られています。両手を合わせた女神型の水神・・・どうやらこの神様は水虎様のようです。

◇きつね、本殿、水虎様

  
境内のきつね
本殿
水神宮
水虎様


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米田稲荷神社ほかーつがるみち325


きつね像


 前回の記事でもふれましたが、江戸時代、津軽藩による新田開発は四代藩主・津軽信政のときに積極的に進められ、五所川原新田をはじめ、いわゆる三新田(広須新田、金木新田、俵元新田)の大規模開発が行われました。その結果、いくつかの新しい村落も誕生した分けですが、米田(よねた)村もそのひとつです。
 この村は俵元新田の開発に伴い誕生しましたが、
【新田開発当初、名前のない所だったので、郡奉行が津軽藩の家老の許可を得て、生田(いくた)村と名づけた。ところが、広須新田にも同名の生田村があったため、混同をさけるために米田村に改名された。※五所川原市立図書館「五所川原の地名」より】という経緯があります。
 今回は、その米田地区に鎮座している稲荷神社を訪ねました。

 その由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  元文二年勧請。 安永五年八月より俵元新田八ケ村の守護の為祈願所に指定せられ、 明治元年迄公費を以って年々六月十日祭祀を行う。 安永五年大神宮大麻鳴絃御守俵元新田守護の為、 飯詰組の御代官を以って御奉納仰せつけられる。 明治六年四月金山泉神社へ合祭。 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。※青森県神社庁HP 】とあります。

 住宅が並び立つ集落の道路沿いに大きな赤い鳥居があり、社殿は道路からも見ることができます。稲荷神社らしく、境内には大きなきつね像や背筋がピンとのびた狛犬などがありました。
 社殿の左右にはそれぞれ末社が立っていますが、道路側の方の祠は馬頭観音でした。そばには注連縄が張られた庚申塔と二十三夜塔がありました。

 実は、この社にも水神・水虎様が祀られているということでやってきた分けですが、その祠は社殿の奥の方にありました。両手を合わせた女神型の水虎様です。

◇米田稲荷神社

  
境内
拝殿
拝殿内
庚申塔と二十三夜塔



  
きつね像
狛犬
馬頭観音
水虎様



泉神社


 米田稲荷神社の由緒に「金山泉神社へ合祭、復社」とありますが、金山地区は、米田地区のとなりの集落にあたります。
「金山(かねやま)」・・・何となく金銀を連想させる地名ですが、鉱山があった分けではありません。
 この地区の周辺には、大溜池・姥溜池・上溜池・下溜池など多くの溜池があり、早くから新田開発が盛んに行われてきた所です。最も大きい金山大溜池は、津軽藩の新田開発初期(二代藩主・信枚の頃)には既に造られていたと伝えられていますが、最近は、溜池の底に堆積している良質の粘土を原料とする「津軽金山焼」という焼き物も名物となっているようです。
 泉神社は、そんな金山地区の産土社として信仰を集めてきた神社です。

 その由緒については、
【御祭神:別雷命  勧請年月不詳。 明治六年四月金山天満宮合祭。 同年同月村社に列せられる。 昭和八年八月十七日指定神社に列格せられる。※青森県神社庁HP 】とありますが、詳細については分かりません。
 別雷命を祭っている神社の多くは、「雷電宮(雷電社)」ですが、この神社もかつてはそう呼ばれていたのでしょうか。社殿の後方に田んぼを背にしてポツンと立っている赤い祠(稲荷社)が印象的でした。

◇泉神社

   
拝殿
拝殿内
本殿
末社


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広田神明宮ーつがるみち324


広田神明宮


 江戸時代の津軽藩による新田開発の時期は、一般に次の四期に分けられるとされています。
・第一期 開発奨励期(初代藩主為信~3代信義)  
・第二期 積極的推進期(4代信政)
・第三期 開発休止期(5代信寿~7代信寧)
・第四期 廃田復興期・小新田開発期(8代信明~12代承昭)
 現在の五所川原市の大半は、主に第一期と第二期の間に開発されました。 

 貞享4年(1687)には、総検地が終了し、在方行政機構の改革を行い、領内を25に分割した「組」が設けられましたが、五所川原市域は「柏木組」「広田組」「飯詰組」「金木組」「藤代組」に属していました。
 その中の「広田組」には、本村23カ村、枝村5カ村の計28カ村が属していましたが、地域の祈願所として信仰を集めてきた社が広田神明宮です。

 その由緒については、
【御祭神:天照皇大神   創建年代不詳。 『元禄十五年堂社縁起修験道由緒』 に 「広田村 大日如来堂 寛永年中 (一六二四~四四) 同村開発砌、 往古堂地河添有、 洪水損崩之故検堂地、有小森此、 穿土地古礎顕則一宇建立……」 とある。
 安永五年 (一七七六) 広田組中安全五穀成就の祈願所として吹畑村八幡宮、 喰川村の神明宮とともに三年目毎に組神楽の執行方仰せつけられる。
  明治三年神仏混淆分離調の際、 祭神を天照皇大神に改め、 社名を神明宮とした。 それまで祀っていた大日如来像は別に堂を建立し残された。 明治六年四月村社に列せられる。 明治四十四年十月本殿造営。 大正二年八月神饌幣帛料供進指定神社に列格せられる。 ※青森県神社庁HP 】とあります。
 これを見ると、その前身は、開発の守り神として崇められていた大日如来を祀るお堂だったようです。

 境内にはいくつか末社がありましたが、ひとつひとつ覗いてみました。
 入口の一の鳥居の隣にあるのは馬頭観音堂。中には三体の馬頭観音と奉納された絵馬などが納められています。

 社殿の近くに祠が二つありますが、そのうちの一つの祠の中には二柱の神様の像がありました。そばに木札があり、それには、「奉鎮祭  手置帆負神 屋船久久能智神 屋船豊受姫神 彦狭知神  廣田水神宮新築神祠 壱宇」と書かれています。
 私にとってはあまりなじみのない神様たちですが、
【手置帆負命(たおきほおいのみこと)と彦狭知命(ひこさしりのみこと)は、天照大神が天の岩屋に隠れてしまわれた時、共に天御量(あまつみはかり)をもって木を伐り、瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営した。二柱はともに工匠の守護神とされ、木造建築の上棟式(棟上げ)などにおいて祭神とされる。 ※wikipediaより】「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味なのだとか。
 また、屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)は「木の神」であり、屋船豊受気姫命(やぶねとようけひめのみこと)は豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)のことですが、二柱とも家屋の守護神として信仰されています。社殿の新築にふさわしい神様たちです。

 木札に「廣田水神宮」とありますが、由緒にも「往古堂地河添有、 洪水損崩之故・・」とあるように、たびたび水害に悩まされてきた土地だったようで、この社は「水神様」としても信仰されてきたのでしょう。それは、もうひとつの祠に津軽の水神・水虎様が二体祀られていることからも分かります。

◇広田神明宮
     
 
馬頭観音
神馬と末社
手置帆負命と彦狭知命
水虎様



大日堂


 由緒には、神仏分離に伴い、「それまで祀っていた大日如来像は別に堂を建立し・・」とありますが、その大日如来堂は、神明宮のすぐ近く、道路を挟んだ所にありました。
「大日如来」と書かれた社号標と鳥居があり、その奥に社殿が建っています。境内には庚申塔や二十三夜塔、そして末社の中には石仏(大日如来か?)が祀られていました。

 大日如来は神仏習合の解釈では天照大神と同一神とされていますが、神明宮と同様、このお堂もまた変わらぬ崇敬を集めているようです。

◇大日如来堂

 
庚申塔と二十三夜塔
拝殿
末社
末社


※五所川原市立図書館「五所川原市のなりたちと地名」PDF版を参考にしました。

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廣峯神社ーつがるみち318


廣峯神社


 各地の「広峯神社(廣峯、広峰)」の御祭神は素戔嗚尊ですが、明治の神仏分離以前は牛頭天王を祭る社でした。
 牛頭天皇は祇園精舎の守護神とされ、その信仰がいわゆる「祇園信仰」へとつながっていく分けですが、そこのあたりについては、
【祇園信仰:牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰である。明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社を総本社とする。牛頭天皇は神道の神であるスサノオと習合した。これは牛頭天王もスサノオも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は薬師如来とされた。行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形である。※wikipediaより抜粋】と説明されています。

 青森県にも「広峯」あるいは「八坂」と名のつく神社は数多くあります。いずれも神仏分離にともない、「祇園社」「牛頭天王社」などの社名を改称した社なのですが、五所川原市高野に鎮座する廣峯神社もそのひとつです。

庚申塔と二十三夜塔


 神社の入口の一の鳥居の隣には大きな二十三夜塔と庚申塔が立っており、さらにそのそばには一対の神馬をともなった馬頭観音社がありました。参道を進むと二の鳥居があり、その奥に社殿が立っています。
 境内の下には田んぼが広がっていますが、田んぼ側から見ると、ここは小高い丘になっているようです。
 赤い水門も見えますが、地図によれば、付近には農業用のため池があるようです。この社は、ため池を活用した農業開発の守り神としても信仰されてきたのでしょう。

 この神社の由緒については、
【御祭神:素盞鳴尊  一樹の根に長さ一尺の異石あり。寛永十七年一宇を修造し牛頭天皇堂と唱え、氏神として崇敬せり。後数十年間持子澤村毘沙門宮と合社の處、天保十三年村中にて現社地に再建。明治六年四月、廣峯神社と改め村社に列せられ、明治四十二年八月神饌幣帛料供進指定神社に列格せらる。※北津軽郡神社誌より】とあります。

「一樹の根に長さ一尺の異石あり」と書かれていて、御神体として崇められていたようですが、拝殿横に立っている祠の中を覗いて見ると、それを思わせるような石
祠の中の石
が大切に祀られていました。

◇廣峯神社

  
参道
境内
境内
末社



牛頭天皇(つがる市弘法寺)


 前述の由緒には続きがあり、「附記」として次のような面白いことが書かれています。
 - 【本村は古来の習慣として一切胡瓜を作らず(その代り眞瓜を作る)氏子亦之を口にせず。例祭には態々他村より胡瓜を買ふて神饌に供するを例とせり】ー
 地方に住んでいるためか、ここに書かれてあることは私にはよく分かりませんでしたが、これは、
「祇園信仰において、スサノオ(牛頭天王)を祭神とする八坂神社の神紋が木瓜であり、胡瓜(キュウリ)の切り口と似ていることから、祭礼の期間はキュウリを食べない」という風習と関係があるようです。

 また、宮城県亘理町には、
【昔、この里に、戦いに敗北した牛頭天王 が逃げてきたことがあった。そのとき、牛頭天王は、この里の胡瓜畑に隠れたため、間一髪のところで命が助かった。そのため、牛頭天王は里人たちに、 「この里の胡瓜は、私の命を救った。今後、胡瓜を作ることも食べることも禁止する 」 と命じたので、その後、里人たちは、胡瓜を作ることも食べることもしなくなった。】という伝承があるとのことです。

 ここ五所川原市高野に伝わる話も、この亘理町の伝承に類似しているものと思われますが、それにしても、限られたひとつの村落にこんな風習が残っていることは、とても興味深いものがあります。

◇末社、本殿など

  
馬頭観音
末社
本殿
香取神社方面



香取神社の大ケヤキ


 本殿の後ろ側には広い田んぼが広がっていますが、その向こう側に森が見えます。
 実はこの森は香取神社で、住所は持子沢(もっこざわ)になっていますが、この廣峯神社のすぐ近くです。
 廣峯神社の由緒に書かれている「持子澤村毘沙門宮」とは、この香取神社のことですが、ついでに立ち寄って、名木・大ケヤキを眺めてから帰りました。

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磐余神社と天満宮ーつがるみち317


磐余神社


「神日本磐余彦尊((かむやまといわれひこのみこと)」とは神武天皇のことですが、五所川原市羽野木沢に神日本磐余彦尊を御祭神とする磐余神社が鎮座しています。
「磐余」は「いわれ」で、磐余彦からきている分けですが、その由緒については、
【御祭神:神日本磐余彦尊  大同年中の草創と伝えられる。弘化三年八月、阿部三左エ門寄進の現社地へ移転。その以前は村の西方の小林へ建設せる社であった。 明治六年四月村社。 大正二年神饌幣帛料供進指定神社。 因みに改名前は、宝量宮と唱えしが、貞享の頃、原子城址にありし観音堂を遷したものと伝えられる。※北津軽郡神社誌より】とありますが、創立年月はよく分かっていないようです。

 色鮮やかな赤い鳥居をくぐると二の鳥居と参道が続きますが、途中から左に曲がった所に三の鳥居があり、社殿が見えてきます。境内には、黄色と紫の衣をまとった神馬と狛犬がそれぞれ一対。社殿の左側の小道を進んだ所には注連縄が張られた二十三夜塔と庚申塔がありました。拝殿の中には、馬頭観音を描いたと思われる奉納絵馬などが掲げられていました。

 三の鳥居のそばに、鳥居をともなった小さな祠が立っています。中を覗いて見ると、そこには亀に乗った女神様。水神・水虎様です。

◇磐余神社

  
神馬と狛犬
拝殿
拝殿内
庚申塔ほか


  
本殿
奉納絵馬
末社
水虎様



天満宮


 この磐余神社に一時期合祭されていた社が俵元の集落に鎮座する天満宮です。
 由緒については、
【御祭神:菅原道眞公  (当地は)宝永元年、俵元以北の荒地を開墾せる新開地、所謂俵元新田八ケ村の親村で、原子の枝村であった。(当神社は)勧請年月不詳であるが、貞享年中、原子村より移転せしものと伝えられる。明治六年四月磐余神社に合祭。 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社。 ※北津軽郡神社誌より】とありますが、磐余神社と同様、近村の原子村と深い関りを持つ社のようです。

 境内には、社殿のとなりに赤銅色の神馬をともなった末社(馬頭観音か)がありますが、ひとつの祠の中を覗いて見ると、そこには水波能売命(罔象女神:みつはのめのかみ)が祀られていました。
 ですが、奥の扉から少しだけ姿が見える神様がもう一体。資料では、この天満宮もまた水虎様を祀っている社だということなので、この神様が水虎様なのかも知れません。

◇天満宮

  
二十三夜塔ほか
馬頭観音社
末社
水神


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中泉稲荷神社ほかーつがるみち315


稲荷神社本殿


 五所川原市立図書館『五所川原市の地名』(※PDF版)には、中泉地区について、
【中泉は、正保二年(一六四五)の「津軽郡之絵図」・「郷帳」、慶安年間(一六四八~五一)の「御郡中絵図」に名がみえる古い村です。貞享四年(一六八七)「検地水帳」には瀬良沢村枝村深井の分として、五八町歩余、四二〇石余、屋敷(戸数)一二となっています。
 慶安二年(一六四九)、中泉の新田開発に従事した一人に辻村の金四郎(後斎藤姓)がおり、三〇石の知行を与えられています。また小山内孫助は明暦三年(一六五七)中泉に三〇石の知行地が与えられました。これらのことから中泉は下級藩士の小知行によって開発された村といえます。】と書かれています。
 
 小知行(しょうちぎょう、こちぎょう)とは、津軽藩で新田開発に功のあった下級武士を指しますが、これらの人々によって拓かれた農村のようです。集落は十川(※岩木川の支流)沿いに立地しているため、長年にわたり水害に悩まされてきたとされており、開拓には相当難儀をしたと思われます。
 - そんな中泉の集落に鎮座しているのが稲荷神社です。

 一の鳥居のそばに簡潔な由緒書きがありますが、それによると、
【御祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)  稲荷宮一宇 元和二年(一六一六)頃勧請 貞享年中(一六八四~八七)村中にて再建。明治四年四月梅田熊野宮へ合祭の処、明治八年四月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。 】とありました。年代からみて、新田開発の成就と五穀豊穣を祈念して建立された社のようです。

 拝殿の前には、狛犬と稲荷様の神使のきつねがそれぞれ一対。両者ともにほっかむりをしています。いかにも西津軽の神社という感じです。
 豊穣祈願の表れなのでしょうか、拝殿の屋根の下には米俵を思わせる大きな注連縄。いかにも重そうです。

 古くから地域の産土社として信仰を集めてきた神社らしく、境内には二十三夜塔や庚申塔、馬頭観音碑などが立っていました。小さな祠があったので中を覗いて見たら、紫の衣をまとった女神型の水虎様がいました。この水神が大切に祀られているのは、やはり、かつて何度も水害に見舞われた地域だったからでしょう。

◇中泉稲荷神社

  
稲荷神社
二十三夜塔ほか
境内
拝殿


  
馬頭観音
きつね像
狛犬
水虎様



平淵大明神一の鳥居


 帰り道、赤い鳥居がぽつんと立っている場所が見えたので立ち寄ってみました。
 前には黄金色の田んぼ、後ろにはりんご畑、そんな場所こんもりとした森があります。
 一、二、三と赤い鳥居が立っていますが、二の鳥居と三の鳥居の間に「平淵大明神」と書かれた白い木柱がありました。森の中はその社のようです。鳥居をくぐって林の中に入って見ると、そこには神池をともなった社殿がありました。
 
 この「平淵大明神(ひらぶちだいみょうじん)」は、「中泉」という村名の由来と関係しているとされる社で、
【平淵大明神:十川の左岸新十川橋の近く、林の中にある清水がわいている泉、シツコがそれです。旧四月二一日に平淵大明神に参詣し、神に祈りを捧げ、「さんご」を打って米の作柄の豊凶や身の上を占います。平淵の水は眼病とか頭やみとかその他種々の病気にも効能があるといわれています。
 宝暦五年(一七五五)には参詣者があまりにも多く、村人により賽銭の奪い合いがあったほど祭りが盛んでありました。そのため藩の沙汰に及んだことが「弘前藩庁日記」や『永禄日記』に記録されています。
 江戸時代後期、津軽の名跡、旧跡などを記した地誌「津軽地名考」に中泉が取り上げられています。中泉は当時津軽の名所の一つでかなり名が知られていたものと思われます。※五所川原市立図書館『五所川原市の地名】と紹介されています。 
 - 「中泉」の「泉」はこの明神様に由来している分けです。それにしても、たいそうな賑わいだったようですが、この地域の「十和田様(水神を祀る信仰)」として崇められていたのでしょうか。

 今はその季節ではないのか神池(泉)には水はありませんでしたが、社殿の中の祭壇には多くの参拝者の方々の名前がありました。崇敬の厚さは昔から変わっていないようです。

◇平淵大明神

  
二の鳥居と三の鳥居
社殿と神池
社殿内
由緒書き


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飯詰稲荷神社ーつがるみち287


飯詰城址


 五所川原市の飯詰城址を訪ねるのは久しぶりです。
 → 以前の記事へ
 菅江真澄が「右のかた岨(そば)の中に七面の堂ありと杜(もり)に ほくゑきゃう(法華経)よむ声のこかくれにへたるは庵にや寺にや」と綴った妙龍寺は、この城跡に位置していますが、以前に訪ねたときには、その境内には入ってみなかったので、今回は少し歩いてみました。

 妙龍寺は山号「高楯山(たかだてざん)」を号する寺院で、その創建は寛文年間(1661~73)といわれています(※飯詰城は高楯城とも呼ばれます)。高楯城主・朝日左衛門尉藤原行安が七面大明神を勧請する鎮守堂を創建したのがはじまりとされ、その後、何回か移転・再建され、現在に至っています。
 寺の由緒にも関わる「七面大明神」は、五所川原市有形文化財に指定されているもので、【 1間の建築型厨子ですが、細部まで行き届いた細工がなされており、貴重な建造物です。桁行が0.705mで梁間が0.632mで、三方に縁が廻っています。入母屋造の妻入で軒唐破風(のきからはふ)が付き、板葺。粽(ちまき)付きの円柱を立て、切目長押(きりめながし)、内法長押(うちのりなげし)、頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)、台輪と組上げて、出三斗(でみつと)と蟇股(かえるまた)とを置いて軒桁を受けています。※五所川原市HP】と紹介されています。
 城跡から鐘楼や七面堂(七面大明神宮殿 )の方へ降りてみましたが、お堂の内部は見ることができませんでした。見学許可が必要なようです。

◇妙龍寺
 
 
菅江真澄碑
妙龍寺山門
本堂
七面大明神宮殿
鐘楼



社号標

参道

本殿


 妙龍寺から少し離れた飯詰狐野の集落に稲荷神社が鎮座しています。この神社では、藤崎町の常盤八幡宮と同じように、例年、勇壮な「裸まいり」が行われています。【約300年の歴史を持つ飯詰地区の伝統行事「飯詰稲荷神社裸まいり」が行われます。大晦日に若者たちがまわし姿で、「サイギ、サイギ」の掛け声とともに、約500mの道のりを練り歩きます。五穀豊穣を祈願し、神社へ供物を奉納します。】とあるように、伝統行事が行われる地域の中心となる神社のようです。

 集落の道路沿いに「稲荷神社」と書かれた石碑(社号標?)が立っていますが、石碑には祭壇が設けられており、線香のにおいがしました。全体に注連縄がまわされた大きな石碑です。

 隣に一の鳥居があり、そこから参道が奥へと続いていますが、二の鳥居までは民家の間に挟まれたような道です。ところが、二の鳥居を過ぎたあたりから景色は一変。参道の両側に大木が並び立ち、深い森の中へ迷い込んだような雰囲気になります。一本一本の木は、その姿形が美しく、見ていてあきることはありませんでした。

 木々を眺めながら参道を歩いて行くと、やがて三の鳥居が見え、境内へと出ました。残念ながら拝殿の中は拝めませんでしたが、稲荷神社らしく、拝殿の前には頬被りをしたきつね像が一対、そして、本殿の中にもきつねが居ました。「森の中」という感じで、とても静かな境内です。

 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 寶暦十二年勧請。 飯積稲荷宮由来によると高楯城南丸の西の方に祀られる正一位稲荷大明神は、 高楯城の城神である。
 古来高楯城の地名は飯塚盛と称し、 また稲城とも称した。 正平六年藤原藤房公が伊勢神宮の外宮豊受大明神宮司藤原総宮大夫山城守より守尊符に持参した御神体である。※青森県神社庁HP 】と紹介されています。

 妙龍寺と同様、飯詰城と深い関わりのある神社で、「城神(館神)」として崇敬されてきた社のようです。先回、弘前市・国吉稲荷神社のところでみたように、戦国時代に各地の武将(ここでは城主・朝日氏)が戦闘の勝利、怨敵退散を願って、稲荷神と習合した荼枳尼天を祀ったことがはじまりと思われます。

◇稲荷神社

 
境内入口
三の鳥居
拝殿
末社
境内


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大杉と水神様「戸沢白山姫神社」ーつがるみち279


白山姫神社


「白山姫」と名のつく神社はいくつか訪ねましたが、黒石市の白山姫神社は袋観音堂とも呼ばれ、津軽三十三霊場のひとつでした。また、弘前市鳥井野の白山姫神社は、鳥居に鬼っコを掲げていることでも知られています。さらには、鶴田町の白山姫神社・・津軽富士見湖の近くにある神社です。
 いずれの社も主祭神は白山比咩神(シラヤマヒメノカミ)です。菊理媛神(ククリヒメノカミ)と同一神とされていますが、菊理媛神は謎の多い神で、神話ではイザナギとイザナミの間をとりもった神となっています。菊理(ククリ)は「括り」に通じることから、万事をくくる(まとめる)神、縁結びの神としても知られます。 

 ー 今回は、五所川原市戸沢の白山姫神社を訪ねました。

 この戸沢の白山姫神社については、
【御祭神:白山姫命  慶長二年勧請。 明治六年四月白山権現を白山姫神社と改め飯詰村八幡宮へ合祭。 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。 昭和十一年一月十八日神饌幣帛料供進指定神社に列格せられる。 本殿、 拝殿大正二年新築。 幣殿昭和八年六月新築。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 慶長2年(1597)年の勧請ということは、津軽藩による藩政が本格的に行われる少し以前のことであり、古くから村の守り神として崇敬を集めてきた社のようです。「白山姫神社」と書かれた社号標には五穀豊穣祈願
五穀豊穣祈願
と刻まれていました。
 集落から枝分かれしている小道が神社の方へと続いていますが、大きな鳥居が立っており、そこから丘の上の社殿が見えます。周りに広々とした水田が広がっている様子が境内からも見えました。

◇白山姫神社

 
二の鳥居
境内へ
境内から
拝殿
本殿



大杉①
大杉②

大杉③
大杉④


 私は、「全国巨樹探訪記」というHPの中の「青森県の巨樹」のページをよく見ているのですが、この白山姫神社の大杉を紹介している記事の中に、こんな記述がありました。
【境内では、2人の男性がしっかり身支度をして、境内平面と斜面の境界部に溝を切っておられた。排水路を確保しておかないと、大雨の時に斜面から境内に大量の雨水が流れ込み、境内面の表土を削り取ってしまうのである。】 ー 確かに、社殿の右側(向かって)は急な斜面になっていて、境内の環境維持も大変なようです。 

 拝殿の手前に大きな杉の木が一本立っています。どちらかというと、がらんとした境内に佇立しているこの巨木は、よいアクセントになっいて、神社全体をひきたたせているように見えます。
 この大杉は、樹高27m、幹周り5.1mとされていて、樹齢は不明ながらも、古くからこの神社のシンボルとして崇められてきた巨木のようです。貫禄は十分ですが、若々しい感じのする杉の木で、まだまだ上に向かって伸びていきそうな感じです。


 神社の入口付近には地蔵堂があります。中には十字前掛けをしたお地蔵様が何体か祀られていました。そして、その地蔵堂のとなりには、神社とは別の鳥居が立っており、そこから何本か奥に向かって鳥居が立てられていました。
 手前にあった小祠の中を覗いて見ると、祀られていたのは大山咋神(おおやまくいのかみ)と罔象女神(みつはのめのかみ)。大山咋神は、「大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神」とされ、罔象女神は里山(農村地帯)では、「灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得がある」とされる神です。
 そして、鳥居をくぐって、奥へと進むとそこには祭壇があり、中央に祠が築かれていました。特徴的なのは、祭壇両脇の大石。人の目を思わせる穴が所々にあいている自然石です。この祠は北東北の代表的な水神・十和田様でした。

◇地蔵堂と十和田様

 
地蔵堂①
地蔵堂②
末社
十和田様①
十和田様②


 私が訪ねたとき、田んぼの世話をしていた方が気さくに話しかけてくださり、神社のことを少しお話してくれました。その方によると、「この山(神社一帯)は、水の神様を祀っているんだ。」とのこと。罔象女神、大山咋神、そして十和田様は、治水を司る神様として信仰されている分けですが、神社の御祭神である菊理媛神もまた、「ククリ」は「潜り」に通じるところから、水神であるという説もあるようです。

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ケヤキと水虎様2「水野尾稲荷神社と横萢八幡宮」ーつがるみち277


水野尾稲荷神社
  
横萢八幡宮





境内

 

 五所川原市水野尾に鎮座する稲荷神社です。
 その由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  元文二年 (一七三七) 勧請。 明治六年六月松野木大山祇神社へ合祭の処、 明治八年二月復社。 明治九年二月村社に列せられ、 大正十年一月四日指定神社に列格せられる。 昭和二十六年三月二十四日国有境内地無償譲与許可。 昭和四十一年幣殿、 拝殿改築。※青森県神社庁HP 】とあります。

 水野尾は、その周囲を水田に囲まれた集落です。集落に沿って五所川原広域農道が走っていますが、この農道は藤崎町から板柳町、五所川原市を経て、中泊町に至る広域農道で、通称「米マイロード」と呼ばれています。この神社もまた、社殿の後ろは遮る建物などもなく、広々とした水田が続いており、遠くの岩木山がとてもきれいでした。

 稲荷神社らしく、境内には狛犬の他に頬被りをしたきつね像なども置かれていますが、社殿の周りには庚申塔や二十三夜塔の他に、神馬厩舎や馬頭観音碑が建てられています。そんな祠の中のひとつを覗いて見ると水神・水虎様が祀られていました。
 この水虎様・・・よく見ると、そのとなりに何やら一匹の動物を伴っています。どうやらこれは稲荷神のお使いのきつねのようです。いかにも稲荷神社らしい石像です。

◇稲荷神社

 
拝殿①
拝殿②
二十三夜塔と本殿
馬頭観音
馬頭観音と水虎様


 この神社は一の鳥居から左回りに二の鳥居、さらに右回りに三の鳥居と続いていますが、その二の鳥居の傍らに一本のケヤキの大木が佇立しています。
「水野尾稲荷神社のケヤキ」として、県内の巨樹・巨木関係のH`Pなどでも紹介されているケヤキですが、樹高は約20m、幹周りは5.3mといわれています。
 かつては、大きな幹が2つに分かれてのびていたようですが、残念ながら現在では大きな幹の方は失われています。境内には樹木がほとんどないこともあって、このケヤキの大木はひときわ目立つ存在です。

◇水野尾稲荷神社のケヤキ

   
ケヤキ①
ケヤキ②
ケヤキ③
ケヤキ④



境内


 水虎様の多くは、神社の境内の祠の中に祀られています。岩木川流域の西北津軽の社の小祠を覗いて見ると、それが水虎様だったりします。
 ですが、中には、何体かの水虎様をまとめて祀っているお堂もあります。鶴田町横萢に鎮座する八幡宮もそのひとつです。

 社号標の上に鳩が乗ったいかにも八幡様らしい感じのする神社ですが、その由緒については、
【御祭神:譽田別尊  慶安四年、後光明正保天皇時代に横萢村中にて建立。 明治六年四月瀬良沢八幡宮へ合祭。 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社。 ※青森県神社庁HP】とあり、詳細は分かりませんが1651年頃に創建された社のようです。

 いくつかの鳥居をくぐって参道を進むと、境内の入口にひとつのお堂が建っています。中央には大きな馬頭観音像?。そしてその両脇には4体の水虎様が祀られていました。像の大きさや形、色つき等のちがいはありますが、いずれも亀に乗り、両手を合わせた女神型の水虎様です。祠の中に隠れているのではなくて、まるで地蔵堂のように、こうした形で祀られている水虎様は、私にはとても珍しいものでした。

◇横萢八幡宮と水虎様

 
拝殿①
拝殿②
境内手前のお堂
水虎様①
水虎様②


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ケヤキと水虎様「高瀬熊野宮」ーつがるみち275


高瀬熊野宮


 神社やお寺、霊場の御神木といえば、大杉や老松、大イチョウなどがあり、「名木」として知られていたりしますが、ケヤキの木もそのひとつです。
 私は、常々、「青森県の名木」とか「青森県の巨樹」などを紹介しているサイトをよく見るのですが、先日、五所川原市高瀬地区に鎮座している熊野宮の境内のケヤキの木が紹介されているのを見て、さっそく出かけてみることにしました。
 かつては五ヶ所の河原があったとされ、それが地名の由来ともいわれている五所川原市ですが、それだけに岩木川をはじめ、十川などの氾濫による洪水被害も甚大だったようです。
 五所川原新田の開発が進んだのは、1665年頃のことといわれており、以来、岩木川の水運による米の集散地として発展し、多くの集落が形成されていったわけですが、この高瀬地区もそのひとつです。

 高瀬熊野宮については、
【御祭神:伊邪那岐命  創建は明暦年中。 明治六年四月鶴ケ岡八幡宮へ合祭の処、 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】とあり、その詳細についてはわかりませんが、明暦年中(1655年~)とあるところをみると、新田開発が始まった頃に建立された社のようです。

 高瀬の集落の中心部にあるこの神社の境内は、明るく開放的な感じがしました。拝殿の隣に、特徴のある2本の大木がありますが。その根元には「出征軍人安全祈祷」と彫られた庚申塔をはじめ、猿田彦大神碑、二十三夜塔などがまとめて建っていました。注連縄こそ張られてはいないものの、この大木はこの社の御神木なのでしょう。

◇熊野宮境内

  
一の鳥居
拝殿①
拝殿②
本殿と末社
庚申塔ほか



水虎様


 大木を取り囲むような石碑群の後ろ側に、2つの小さな祠が置かれてrいます。
 扉が開いていたので、その中を覗いてびっくり。何と、大きな獅子頭
獅子頭
が納められていました。いかにも、熊野神社といった感じです。
 そして、もう一方の祠の中には、「亀に乗り両手を合わせた女神様」・・津軽の水神・水虎様でした。この水虎様、陰にも何体か隠れているようで、まとめて祀られているようです。地域の水の安全と五穀豊穣を願って祀ったものなのでしょう。

 さて、石碑と水虎様を根元に抱いているこの大ケヤキ、見たところ樹勢もあり、若々しい感じのする木です。樹高は約28mで、幹周りはおよそ5mとされているようです。
 駐車場を挟んで、熊野宮と地区の集会所の境に立つこの巨木は、根元の石碑と祠と相まって、なかなか見応えのある姿形をしていました。地域のシンボル的な樹木なのでしょう。

◇境内の大ケヤキ

  
ケヤキと末社
ケヤキ①
ケヤキ②
ケヤキ③


 ケヤキは、
【木目が美しく、磨くと著しい光沢を生じる。堅くて摩耗に強いので、家具・建具等の指物に使われる。日本家屋の建築用材としても古くから多用され、神社仏閣などにも用いられた。※wikipediaより】とされていますが、樹形が美しく、その巨木が天然記念物になっているものも多いようです。

 私も、いくつかの神社を巡るうちに、春、夏、秋、冬と、それぞれに美しい姿を見せるケヤキの木に出会いました。ここ熊野宮の巨木も、そのひとつになりました。

◇訪れた神社のケヤキたち

  
平川市七柱神社のケヤキ
藤崎町鹿島神社のケヤキ
平川市愛宕神社のケヤキ
五所川原市香取神社のケヤキ




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国道をはさんで「原子八幡宮」ーつがるみち257


ふきのとう


 私は五所川原方面へ出かけるときは、黒石から浪岡・大釈迦へ出て、そこから国道101号線を通ります。
 大釈迦を過ぎて少し走っていくと、道路沿いに色鮮やかな真っ赤な鳥居が見えてきます。この鳥居は、「何という神社なのだろう。」と、いつも気になっていました。
 地図で調べてみると、一帯の住所は「五所川原市原子」となっており、神社は八幡宮であることがわかりました。


一の鳥居


 実は、この道路沿いの鳥居は二の鳥居で、社号標と一の鳥居は、道路をはさんだ向かい側の集落の中にあります。そちらへ行ってみると、入口に大きな神馬が置かれた一の鳥居がありました。そこからは、遠くにさっきの二の鳥居が小さく見えました。つまり、参道は、国道101号線をはさんで、長く延びているわけです。

 二の鳥居から少し進むと、そこには、猿田彦を祀る赤い鳥居があり、猿田彦碑と二十三夜塔が立っていました。ここを左に折れると八幡宮の境内へ出ます。雪解けがだいぶ進んだとはいえ、参道の両脇には雪が残っています。しかしながら、確実に春はやってきており、道ばたにはふきのとうが顔を出していました。

◇一の鳥居から

 
神馬
二の鳥居
猿田彦・二十三夜塔①
猿田彦・二十三夜塔②
参道



四の鳥居


 杉の大木にはさまれた参道を歩いて行くと、やがて四の鳥居。そしてさらに鳥居をもうひとつくぐって境内へと出ました。
 拝殿のとなりに、コンクリート造りのお堂がありましたが、そこには、石像が二体。一体は観音像だと思いますが、もう一体は「亀に乗った女神」・・・津軽の水神である水虎様
水虎様
でした。
 
 岩木川流域の西北津軽地方に多く祀られている水虎様ですが、大きな川もないこの辺りに祀られているのは、少し意外な感じがします。
 ですが、ここ梵珠山の麓一帯には、農業用のため池があちこちにあることなどを考えると、灌漑工事の安全を祈願して祀られているのかも知れません。この原子八幡宮の御祭神に、譽田別尊とともに水神・闇おかみ神が祀られていることもまた、そのこと(水の安全祈願)をよく表していると思います。

 さて、この原子八幡宮ですが、
【八幡宮の創建は不詳ですが天正年間(1573~93)に勧請されたのが始まりと伝えられています。境内は浪岡城の支城である原子城(城主は北畠氏の重臣原子平内兵衛)の一画にあることから城の鎮守社か原子氏の氏神として勧請されたものかも知れません。明治時代に入り小神社の統合が行われ八幡宮は明治6年に一端磐余神社に合際されますが明治8年に複社し明治9年に村社に列しています。※HP 『青森県 歴史・観光・見所』より】と紹介されています。
 紹介にあるように、境内は戦国時代の城郭があった場所のようですが、今は、その面影はありません。この原子城は、大浦(津軽)為信の浪岡城攻撃の際に、ともに攻撃されたものとされています。

 拝殿には、見事な龍が彫られており、木鼻もなかなかの迫力でした。

◇拝殿と水虎様

 
境内
水虎様と観音像①
水虎様と観音像②
拝殿の龍
木鼻


 昨年の秋に、平川市の阿蘇神社を訪ねたときに、拝殿の四方の軒下を取り囲むように、十二支の像が彫られているのを見ましたが、この神社の拝殿にも彫刻がなされていました。

 ここに彫られているのは「馬」。その中には翼が生えた「天馬」を思わせるものもあります。動きがあり、一体一体が生きているような感じのする力作です。

◇馬の彫り物と本殿

 
馬の彫刻①
馬の彫刻②
馬の彫刻③
馬の彫刻④
本殿


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地名の由来「元町八幡宮」ーつがるみち253


一の鳥居


 五所川原市周辺の地域は、昔から岩木川の氾濫もあり、大部分は荒地であったといわれていますが、江戸時代になると津軽藩による新田開発が積極的に行われるようになりました。
 開発に伴い、岩木川の改修工事も進んだわけですが、当時は岩木川の屈曲のために「五ヶ所に川原があった」といわれています。
 
 ー この「五ヶ所の川原」が即ち「五所川原」という地名の由来であるという説があります。今回は、そんな五所川原市元町に鎮座する八幡宮を訪ねてみました。


常夜燈


 私が車を駐めたところは、どうやら裏口のようでしたが、その入口には馬繋石
馬繋石
がありました。昔はここで馬を降りて神社に詣でたものでしょうか。
 入口の右側に、ひとつの常夜燈が立っています。近づいて見ると、「牧水 山蘭 常夜燈」と書かれていました。「牧水」はあの若山牧水で、「山蘭」とは、五所川原市出身の歌人・和田山蘭のことです。

 若山牧水は、和田山蘭や同じく五所川原出身の加藤東籬と親しく交わり、大正5年3月と大正15年11月には、この町を訪れているとのことです。
 常夜燈の後方に石段があり、小高い丘の上には小さな東屋が設けられていますが、そのそばに牧水の歌碑が建立されています。
 ー 『橇の鈴戸の面に聞こゆ旅なれやつがるのくにの春のあけぼの』 ー
 ー 『ひっそりと馬乗り入るる津軽野の五所川原町は雪小止みせり』 ー
 二首ともに、冬の五所川原の情景が浮かんでくるような歌です。この歌に因んだものでしょうか、東屋には「橇の鈴」という額が掲げられていました。 

◇若山牧水歌碑、本殿、拝殿

 
橇の鈴
若山牧水歌碑
本殿
拝殿
拝殿から



境内


 拝殿や本殿を見た私は、あらためて表口の方に回ってみました。一の鳥居から続く参道はけっこう長く、桜の木が何本もありました。
 手水舎の後ろに3つの祠が建っていましたが、そのうちのひとつは、「亀に乗り、両手を合わせた女神」=水虎様でした。祠のすぐ後ろは川の土手。かつてはその氾濫に苦しめられ、水神・水虎様が祀られたのでしょう。

 拝殿の隣に、旧社殿と思われる建物があります。その前に小さな狛犬がありますが、風化が進み、もう少しで原型が分からなくなるような姿です。

◇水虎様ほか

 
末社
水虎様
旧社殿?
狛犬
拝殿



八幡宮由来


 さて、この元町八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  寛文元年 (一六六一) 勧請。 往古 (明暦か万治の頃との説あり)、 春の大水のとき、 五所川原村の崎に現在の中津軽郡相馬村五所鎮座五所神社の御霊代を奉安した御厨子納の祠が流れつき、 新宮の住人が拾い上げて私宅に奉齋した。 このときは五所から訪れた使者に返納するが、 その年の秋、 次の春と同じように流れつくこと三度。 これ神慮として五所の人々も納得し、 新宮の地に祀ることとなった。 新宮の地名もこのことに由来する。 その後、 実際に漂着した処こそ鎮座地に相応しいと改めて五所川原村に鎮祭されることとなった。※青森県神社庁HP 】とあります。

 上記下線に「相馬村から祠が流れつき」とありますが、流れてきたこの祠は長慶天皇を祀る「御所権現社」であったとされています。これについて、ここ八幡宮にある由緒書きには、
【ここの御神体はその昔中津軽郡五所の長慶天皇が崩御大葬されたという場所に祠られてあったが洪水にあい、ここ元町の岩木川原に流れ着いたものである。柳の大木にひっかかっているのを発見した新宮の人が拾いあげ宅地内に祠ったが、やがて五所村の人達が探しあててもらいうけて行った。ところが再三流れては不思議に同じ場所に着いたので、これは神様の思召しによるものだと五所村の人達も認め以来この地に祠ることにしたと伝えられている。その年代は明らかではないが、万治三年(1660年)の頃と考えられている。なお、五所川原の地名の由来はこのことによるとの一説がある。 】と書かれています。

 長慶天皇(1368~1383年)は、南北朝時代の第98代(南朝第3代)天皇ですが、青森県内に潜幸してきたという伝説が残されており、私も以前に青森市浪岡(旧浪岡町)や、その御陵墓参考地がある弘前市相馬(旧相馬村)を訪ねたことがあります。
 
 伝説では、崩御の地・相馬から三度に渡って祠が同じ場所に流されてきたとありますが、「五カ所の川原があった」とされるこの辺り一帯には、かつて、岩木川の氾濫に伴い、上流から様々な物が流され、岸にたどり着いたこともあったのでしょう。その中には、祠とか御神体とかもあったのかも知れません。
 そして、由緒書きに「五所川原の地名の由来はこのことによる」とあるように、長慶天皇の「御所が流れ着いた川原」であることから「御所河原」と呼ばれ、「五所川原」という地名になったという説も唱えられているわけです。

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川湊の守り神「胸肩神社」ーつがるみち251


岩木川と岩木山


 ー青森県五所川原市湊千鳥ー 
「湊」「千鳥」という文字から、何となく海辺を連想しますが、ここは岩木川とその支流沿いに開けた町です。 
 辺りは、藩政時代には「広田組(※津軽藩が設置した行政区画のひとつ)湊村」と呼ばれていた地域です。
 藤崎町から板柳町、鶴田町、そして五所川原市と、岩木川中流沿いに開けた集落は舟運が盛んで、多くの川湊が設けられた所でした。「湊千鳥」という地名も、そんなところからきているのでしょう。ここに胸肩神社が鎮座しています。 

 胸肩神社は、隣接する菊ヶ丘運動公園の一角にありますが、道路を挟んだ向かい側に、ひとつの堰が流れています。「湊堰」と名づけられたこの堰は、その開削年代は不詳ながらも、古くから辺り一帯の土地を潤してきたようです。
 そして、その後ろには黒塀に囲まれた古い住宅が建っていますが、この建物は「旧平山家住宅」です。

 旧平山家住宅については、
【平山家は古くからこの地に土着した豪農で正保2年(1645)に湊村が開村すると代々肝入役や庄屋など村の上役を歴任し、江戸時代後期には大庄屋となり、代官所の手代や堰奉行などを務め郷士として身分も認められ大きな影響力を持つようになりました。現在の建物は明和6年(1769)に再建されたもので木造平屋建て、寄棟、茅葺、正面左側を前に張り出しその部分の屋根は切妻とし、桁行17間(32.953m)、梁間6間(10.455m)、平面は整形四間取系で向って右端から7間分が土間で7頭分の厩、作業場として利用された「いなべ」、「にら」、「とろじ」が配され、中心部分は家族の一般生活が営まれる「だいどころ」、「じょうい」、「なんど」、「きたのざま」が配され、左側3間分が式台付の玄関や「おもてざしき」、「おくざしき」など身分の高い人物を迎える接客する場所が配されました。当時、農家住宅には表門を設ける事は禁止されていましたが「平山家文書」によると天保元年(1830)に10代弘前藩主津軽信順から藩への貢献が高い事ことで特別に許可を受け建てられ現在も大きな改変が行われていません。表門は寄棟、茅葺、桁行3.818m、梁間1.818mの長屋門形式で小規模ながら番所を備えた格式の高い造りになっています。※『青森県歴史・観光・見所』HP】と紹介されています。
 この住宅は「津軽地方の上層農民が生活した18世紀後半の規模をほぼ原形のまま伝えている」ことなどから、昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されていますが、今はシーズンオフということでしょうか、住宅の中を見ることはできませんでした。

 私は、運動公園の駐車場に車を駐めたのですが、ふと見ると、そこには小高い2つの山。除排雪で積み上げられた小山です。八甲田山のようにも、雪のピラミッドのようにも見えました。この駐車場からは、民俗資料館や胸肩神社の社殿も見えます。

◇湊堰、旧平山家住宅ほか

 
 
湊堰
旧平山家住宅
五所川原市歴史民俗資料館
除雪山
胸肩神社



一の鳥居


 穏やかな天候が続いているため、雪解けもだいぶ進んではいますが、境内にはまだまだ雪がたくさんありました。とちゅうでズボズボぬかりながら拝殿に向かって歩きましたが、靴の中は雪だらけ。。
 拝殿の木鼻や龍の彫り物などは赤銅色に塗られ、きらきらと光っていました。まるで金属のようです。

 さて、この胸肩神社の由緒については、
【御祭神:市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命  創建年代不詳。 『安政二年神社微細社司由緒調書上帳』 に 「広田組湊村 一、 弁天宮一宇 右者、 草創不詳候得共、 港村半田村両村尓而五穀成就村中安全之為建立仕候。 尤貞享年中 (一六八四~八八) 御調ニ水神登御座候えば、 社号ニ而弁天宮ニ御座候。」 とある。
 明治四年の 『藩内神社調』 には現社名胸肩神社の記載あるが改称年月日は不詳。 明治六年四月姥萢稲荷神社へ合祭の処、 明治八年二月復社。 明治九年十一月村社に列せられる。 昭和十一年十一月十川改修の為移転遷座。 平成元年十一月十川改修と道路整備によって現社地に移転遷座。 ※青森県神社庁HP】とあります。

「胸肩」という神社名の通り、御祭神は宗像三女神なわけですが、由緒にも「水神」とか「弁天宮」とあるように、古くから地域の「水神様」として崇められてきた社のようです。
 また、「十川改修の為の移転遷座」が、昭和と平成になってから行われているように、岩木川の支流である十川の治水工事はたびたび行われていたことがわかります。

◇境内と拝殿

 
参道
境内
狛犬
木鼻
龍の彫り物


 拝殿の脇には白い鳥居が立っており、その奥には庚申塚と2つの祠がありました。
 そのうちのひとつを覗いて見ると、そこには両手を合わせた河童のような姿をした木像。奥津軽の代表的な水神・水虎様です。舟運の安全と五穀豊穣、そして水難防止の願いをこめて祀られているのでしょう。

 水虎様は、岩木川流域の神社などに多く見られますが、その地域によって、「亀に乗った女神型」のものと、「河童のような姿」のものがあります。
 ここ胸肩神社の水虎様は、その発祥の地とされるつがる市木造の実相寺と同じように、「河童型」の神様でした。

◇水虎様ほか

 
拝殿
末社①
末社②
水虎様
本殿


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県重宝の本殿「飯詰八幡宮」ーつがるみち250


飯詰八幡宮


 五所川原市飯詰は、戦国時代、津軽為信軍に長年に渡って抵抗した朝日氏(朝日行安)の居城であった飯詰城址(高楯城址)がある所です。
 また、この集落には、かつて十三湖の湖底に沈んだという伝説の梵鐘のある長円寺がありますが、その長円寺の近くに八幡宮(飯詰八幡宮)が鎮座しています。


参道


 集落の中を走る道路沿いに赤い手すりのついた石段があり、その上に一の鳥居が立っています。「郷社 八幡宮」と書かれた社号標の隣には、「県重宝指定八幡宮本殿」の木柱も立っていました。
 参道の雪もだいぶ少なくなっており、八幡様の神使である「狛鳩」も、両側にその姿を見せていました。民家に挟まれた参道を少し進むと、境内へたどり着きます。

 拝殿の向かい側に、もうひとつ白い木造の鳥居が立っており、その下にも参道があります。雪で歩けませんでしたが、こちらも入口になっているようです。
 こちらの鳥居をくぐった右側には、「山神」と書かれた鳥居。どうやらここは大山祇神社のようです。
 施錠されていたために、その拝殿の中へは入れませんでしたが、ガラス越しに見ると、その中には御神体とともに、大きな石が祀られていました。拝殿前の狛犬は、比較的新しいもののようですが、つり上がった目で、均整のとれた姿形をしており、なかなかの迫力でした。

◇境内と大山祇神社

 
狛鳩
三の鳥居?
大山祇神社①
大山祇神社②
大山祇神社狛犬



神馬と末社


 飯詰八幡宮については、
【祭神:譽田別尊、天照皇大神、軻遇突智命  創建は弘治元年(1555)大房村の領主樺澤団右エ門が勧請したのが始まりと伝えられています。樺澤団右エ門が死去すると一時荒廃しましたが承応元年(1652)飯詰本村の鎮守社として再興され、参拝に不便なことから宝永2年(1705)に現在地に遷座し元々あった愛宕宮と合祀し、安永3年(1774)に飯詰組27ケ村の祈願所に指定されています。愛宕宮と合祀してからは上愛宕宮と称していましたが明治4年(1871)に八幡宮と社号を改称し愛宕宮を合祭する形式に変更、明治6年(1875)に石田坂村白山姫神社を遷座し郷社に列しています。明治7年(1876)には神官である松野博が拝殿を利用し寺子屋を開設しています。※HP『青森県:歴史・観光・見所』より】と紹介されています。

 様々な変遷を経てきた神社ですが、「郷社(旧社格制度で府県社の下、村社の上に位置)」として、近郷の崇敬を集めてきた様子は、「神官が寺子屋を開設した」という一文からもうかがえます。

 さて、社号標のそばの木柱に「県重宝指定本殿」とあるように、この社の本殿は、平成6年(1994)に青森県重宝に指定された建造物です。
 その概要については、
【飯詰八幡宮本殿:小規模ではあるが、均整のよく取れた社殿である。承応元年(1652年)に再建され、宝永2年(1705年)に現在地へ移転、さらに宝暦元年(1751年)に再建されている。土台に円柱を立て、腰貫(こしぬき)を通し、2段の切目長押(きりめながし)を廻し、内法長押(うちのりなげし)、頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)と組み、出三斗(でみつと)、蟇股(かえるまた)を置いて軒桁(のきげた)を受けている。軒は二軒繁垂木とし、妻飾は虹梁(こうりょう)に太瓶束(たいへいつか)となっている。浜縁や高欄・正面扉など後世の改造とみられる箇所もあるが、向拝柱(ごはいばしら)に粽(ちまき)が付けられているのも珍しく、素朴な造りながら、虹梁や木鼻の彫刻をはじめ、各所に優れた手法が示されており、貴重な遺構として末長く保存すべきものである。※五所川原市HP他より 】と説明されています。

 保護のためか、現在は本殿ごとすっぽりと覆われており、玉垣の中の建物は外観しか見ることはできず、上記のいろいろな建物の特徴は窺い知ることはできませんでしたが、地域が誇る優れた文化財であることは、何となく実感することができました。

◇拝殿と本殿

 
拝殿①
拝殿②
本殿①
本殿②
本殿③


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境内でひと休み「大山祇神社ほか」-つがるみち232


大山祇神社
 
松野木八幡宮



二の鳥居


「大山祇命(オオヤマツミ)」は、『古事記』では伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた神とされていますが、『日本書紀』では、イザナギが軻遇突智(カグツチ)を斬った際に生まれたとなっています。
【神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となる。別名の和多志大神の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。※wikipediaより】とありますが、多くは「山ノ神」として、全国の大山祇神社や山神社、山神神社において、主祭神として祀られています。五所川原市の大山祇神社もそのひとつです。

 この神社は、津軽の霊山のひとつである梵珠山の麓ともいうべきなだらかな丘陵地帯に鎮座していますが、五所川原市方面へと続く道路際にこんもりとした森が見えます。
 神社の回りはりんご畑になっていて、森の入口には社号標と大きな一の鳥居が立っています。社号標の奥には、赤い鳥居と末社が3つほどありますが、小さな池をともなっているところをみると龍神様なのでしょうか。

 鳥居をくぐった境内の中は「静寂の世界」といった感じで、二の鳥居からは丘の頂上へと参道の石段が延びていました。石段を登りきり、左へと折れたところに拝殿と本殿があります。辺りは木々で覆われ、まさしく「山の神が住む社」という感じでした。

 この大山祇神社については、
【御祭神:大山祇命 勧請年月不詳。明治6年4月新山権現堂を大山祇神社と改め村社に列せられる。明治6年6月福岡八幡宮、水野尾稲荷神社、富枡稲荷神社を合祭せるも同8年2月右三社分離復社となる。大正10年1月4日神饌幣帛料供進指定神社に列格せられる。本殿、拝殿明治元年及大正6年12月改築。昭和26年3月31日国有境内地無償譲与許可。昭和63年7月幣殿、拝殿改築。※青森県神社庁舎HP】と紹介されています。

◇大山祇神社

 
参道
拝殿
拝殿内
境内
末社



二の鳥居


 大山祇神社から少し離れたところに松野木という集落がありますが、ここに八幡宮が鎮座しています。
 その由緒については、
【御祭神:誉田別尊 承応2年 (1653) に勧請されました。明治6年4月松野木大山祇神社へ合祭されましたが、明治8年2月復社しています。明治9年12月村社に列せられ、大正10年1月4日神饌幣帛料供進指定神社に列格されました。本殿は明治13年12月に改築、大正6年7月28日に営繕され、拝殿は明治13年12月に改築、昭和26年7月に営繕されています。昭和25年11月18日国有境内地無償譲与許可があり、昭和52年幣殿、拝殿が改築されました。※青森県神社庁HP】とあるように、古い歴史をもつ社のようです。

 道路を挟んだ向かい側には、赤い鳥居が立っており、奥に百万遍の塔や庚申塔が並んでいます。古くからの祈りの場であったのでしょう。

 大きな松の隣に社号標。一の鳥居からは二、三、四と鳥居が続いており、くぐり抜けると境内に至ります。社殿の前には、紫色の胴衣をまとった神馬や狛犬、そして八幡様のお使いの狛鳩などが並んで立っていました。なかなかに広く、趣のある境内です。

◇松野木八幡宮

 
参道
狛鳩
拝殿
境内
末社


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 ご挨拶がおくれましたが、あけましておめでとうございます。今年も皆様方にとって、幸多き年であることを願っています。
 なにぶん雪国のため、寺社めぐりも滞りがちで、記事の更新もスローペースとなりますが、よろしくお願いします。
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霊山の麓に「洗磯崎神社」-つがるみち195

 国道339号線を小泊に向かう途中に「脇元」という村があります。海岸線がとても美しい漁村ですが、道路沿いに、見事な紡錘形の山が見えます。地元では霊山として崇められている「靄山(もややま)」です。
 「モヤ」はアイヌ語で「小さい」を意味するといわれ、「モヤ」と名のつく山は、北海道や青森県、秋田県に多くありますが、いずれも整った三角形の形をしており、昔から人々に神聖視され、信仰の対象になっていたようです。

 ここ脇元の靄山は標高150m位の山ですが、数々の伝説が伝わる山です。
 青森県には、八甲田山をはじめ黒石市の黒森山など、岩木山と「背比べ」をした山の昔話がありますが、この靄山もまた、そのひとつです。
 岩木山との関わりはとても深く、【昔、安住の地を捜して旅をしていた安寿と厨子王が、この地に立ち寄ったときに、厨子王が獅子舞のとりこになり、姉の安寿と離ればなれになってしまった。姉の安寿はあきらめて遠い津軽の岩木山におさまることになったが、弟の厨子王は形が似ている脇元の靄山におさまることになった。】という伝説もあります。姉の安寿は岩木山に、弟の厨子王は靄山に鎮座したという分けです。
 頂上には「岩木山神社(脇元岩木山神社)」も建っており、岩木山で盛大にお山参詣行事が行われている頃、同じくここ靄山でも「さいぎ、さいぎ」の声と登山囃子の演奏が響き渡ります。今回は頂上までは登ってみませんでしたが、晴れた日には、真正面に岩木山が見え、すばらしい景色が眺められるとのことです。
 また、この靄山は、昔、安東氏が築いた「人工の山=ピラミッド」であるという話もありますが、ロマンをかき立てる神秘の山といえそうです。

◇靄山

 
靄山①
靄山②
靄山③
靄山④
靄山⑤



一の鳥居


 その霊山・靄山の麓、脇元漁港の近くに洗磯崎神社が鎮座しています。境内は小高い丘になっていて、ここから見る靄山は三角形ではなく、鍋を伏せたような形をしています。
 洗磯崎神社については、【御祭神は大己貴命と少彦名命で、安倍・安東氏の祖神を祀った神社であるといわれている。 文永11年 (1274) 天台宗僧賢坊により薬師堂が建立され、 それ以来薬師信仰が盛んになり、 旧暦の4月8日には薬師祭が行われ白旗立てた参詣者が近隣から集まり賑わいをみせたという。
 また、 一説には天和3年 (1683) 村中建立とも伝えられる。 何れにせよ明治以前は、 薬師堂または薬師宮と称され、 明治6年4月神仏分離令により洗磯崎神社と改め、 村社に列せられる。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。

 安倍・安東氏の祖神とは「荒吐神(アラハバキ)」のことだとされていますが、【アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)は、日本の民間信仰の神の1柱である。その起源は不明な点が多く、歴史的経緯や信憑性については諸説ある。東日流外三郡誌で遮光器土偶の絵が示されており、それに影響を受けたフィクションなども見られるなど、古史古伝・偽史的な主張と結びつけられることも多い。アラハバキを祀る神社は約150で、全国に見られる。東北以外では客人神(門客神)としてまつられている例が多く見られる。※wikipediaより】という謎の多い神です。
 「縄文神の一種」であるとか、「蝦夷の神」であるともいわれていますが、「蝦夷の末裔」を自負する安東氏の守護神ともいえる神だったのでしょう。

 道路際にある一の鳥居をくぐるとそこは境内。右側に回り込んだところに二の鳥居、三の鳥居、そして拝殿が建っています。
 あいにく、拝殿の扉は閉まっていましたが、境内に一軒の民家があったので、宮司さんのお宅ではないかと思い、訪ねてみたところ、おばあさんが出てきて快く鍵を開けてくれました。窓から日差しが入り込み、とても明るい感じのする拝殿でした。
 この拝殿の隣にひとつの末社が建っています。中を覗いて見ると、中央の大きな石の左右にいくつかの石が祀られていました。石を御神体とする社のようです。中央の大石は靄山の姿(神社側から見た丸い靄山)を表しているのだとか。。。

 境内には、まるで龍が横たわっているような大きな老松がありますが、その後ろに、これまた整った三角形の山が見えます。おばあさんに聞いてみたところ、この山は「不動山」だということでした。頂上には不動明王が祀られているとのことです。「登れますか?」と聞いたら、「あー、登れる。わらはど(子どもたち)だば、すぐ登る。入口に鳥居が立ってる。」という話だったので、行ってみると赤と白の鳥居があり、「軻遇突智(カグツチ)神社」とありました。火の神・火之迦具土神を祀っているようです。ここもまた霊山なのでしょう。

 この不動山について、おばあさんは、こんな話をしてくれました。
 ー 「三月には、わらはどが白いのぼりをもって、この山さ登ったもんだ。あっちの山(靄山)に登る者と二つに分がれで、どっちが早く、多く、てっぺんにのぼりを立てるか、競争したんだ。」 -

 
 このおばあさんの話・・・正直、よく分からなかったのですが、後でHP「Web東奥ーあおもり110山」の靄山の記事を見ると、次のようなことが書かれていました。
【靄山にはかつて「3月25日」という行事があった。地元の方の話によると、旧3月25日、同地区の小学生までの子供たちが授業を午前中で終わり、親が準備してくれた重箱を持って靄山と北のお不動さまに登る。山頂で条幅に「天下太平 菅原運真公」と筆で書き、ササにつるしたものを山頂に立てた。下山の途中、各人がやぶの中に休憩場所を作り、そこでごちそうを食べた。】 
 - 二つの霊山に囲まれた、まさに、この地域ならではの行事だった分けです。

◇洗磯崎神社ほか 

 
 
二の鳥居
境内
狛犬
拝殿①
拝殿②


 
拝殿③
末社
御神体の大石
不動山
軻遇突智神社


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オセドウ貝塚「神明宮」-つがるみち187

 今泉の賽の河原を過ぎ、十三湖沿いに小泊方面へと進むと旧市浦村(現五所川原市)。
 福島城址、唐川城址、山王坊遺跡など、十三湊と安東氏ゆかりの寺社や遺跡が続いている分けですが、相内(あいうち)というところに「オセドウ貝塚遺跡」という縄文時代の遺跡があって、そこに神明宮が鎮座しています。


神明宮


 今にも地面に落ちてきそうな重量感のある注連縄が張られている一の鳥居。そこから小高い丘に向かって、右へ左へと参道の登り道が続いています。
 と中に2つのお堂が並んで建っていましたが、中には石碑が祀られていました。刻まれた文字は読めませんでしたが、左側(向かって)のお堂に祀られているのは月読命のようです。右側のお堂には大石が2つ。お参り用の燭台もあり、巨石信仰のひとつなのでしょう。 ⇒参道途中のお堂
参道途中のお堂


 そこからは白木の鳥居が拝殿までいくつか立っていますが、鳥居のそばの木を見てびっくり。木の又に藁で作られた大きな虫(蛇)
木に掛けられた虫(蛇)
が掛かっています。まるで、木の間から龍がニューッと顔を突き出しているような感じです。

 これは、奥津軽の伝統行事「虫おくり」で使われる「虫」ですが、「虫おくり」とは、田植えを終えた時期に五穀豊穣と無病息災を願い、【木彫りの竜の頭に、稲わらの胴体で作られた「虫」を若者が担いで、囃子とともに村中を練り歩き、村はずれの一番高い木の枝に「虫」をかけ祈願するお祭り(行事)】です。
 その起源は、【「風」や「日照り」と並んで農業に害を与える「害虫」は、昔から恐ろしいものとされていた。そこで、駆虫効果のありそうな植物を焼いて、その煙で幼虫を追い出そうとした。それが形式化し、信仰的な行事として定着し、神社の前で火をつけ、田んぼの中を周り歩き、海とか川へ捨てに行くようになった。この行事が虫おくりである。】とされていますが、津軽では高い木に掛ける風習が定着していたようです。

 「虫おくり」は津軽一円で古くから行われていたようで、菅江真澄の『遊覧記』や『外濱奇勝』などにも、その記述があるとのことですが、中でも、ここ相内地区のそれは、津軽地方の虫送りの原型といわれ、450年以上の長い歴史があると伝えられていて、県の無形文化財にも指定されています。 - 【笛や太鼓の囃子にあわせ、コミカルな動きをする荒馬に太刀振り(※坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、太刀や棒切れを振りかざして追い払ったという伝説に由来する)のハネトが続き、蛇体をかたどった5mの長虫を作り、山車で村中を練り歩く。】というこの行事は、今年も盛大に行われたようで、地元紙のWebにその様子が掲載されていました。
 ⇒相内の「虫おくり」 ※画像複数

 
 ※上記の【】は、五所川原市HP「奥津軽虫と火まつり」他を参照しました。

◇神明宮参道

 
 
一の鳥居
大石堂
二の鳥居
虫①
虫②



三の鳥居


 拝殿前の狛犬はだいぶ風化が進んでいましたが、かえってそれが古い由緒を伝えているような気もします。
 ここの拝殿、少し変わっていて、横長の扁額は「神明宮」ではなくて、打出の小槌が中央に描かれた「寿殿」となっています。豊作祈願というところでしょうか。
 そばには末社が建っており、中を覗いて見ると山ノ神
山ノ神
が祀られていました。

 さて、ここの神明宮は、【御祭神:天照皇大神 勧請年月不詳、 社地は御伊勢堂と称し福島城址の鬼門に当ることから館神として祀られたものと考えられる。 また、 一説に於瀬洞(オセドウ)は、古代の安日彦、 長髄彦の遺骸を再葬した墓地といわれ、 長髄神社あるいは荒吐神社と称し、 建久2年 (1191) 、安倍神社として再建されるが、 応永33年 (1426) 、福島城とともに焼討された。 延徳2年 (1490) 、天眞名井宮義仁親王は津軽に落ち当地に御幸し、 往古の安倍一族を偲び於世堂と号して一宇を建立したといわれる。元文3年 (1738) 、津軽藩の寺社令によって御伊勢宮と称され、 弘化2年 (1845) に神明宮と改める。 明治六年四月村社にら列せられる。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。

 
 於瀬洞(オセドウ)は、「御伊勢堂」が訛ったものとされていますが、一帯からは、大正12年、県道の工事中に貝塚が発見された他、円筒式土器が多数出土しました。この土器類は亀ヶ岡式土器につながる貴重なものだといわれています。
 さらに、昭和46年には斜面から多くの縄文土器が出土し、以来、オセドウ貝塚と呼ばれ、神明宮の本殿の裏側の森は「オセドウ遺跡公園」となっています。

 貴重な土器類もさることながら、この遺跡を有名にしたのは貝塚から発見された完全な人骨です。
オセドウ貝塚
現在、東京大学に保管されているこの大きな人骨は、神武天皇の東征により畿内の地を追われ、兄・安日彦とともに津軽へ逃れてきた長髄彦であると語られたこともありました。
 かつて、「長髄神社」「荒吐神社」と呼ばれていたことなど、ここ神明宮は、古代の津軽の歴史を感じさせる社です。

◇神明宮

 
狛犬
拝殿①
拝殿②
山神堂
貝塚公園


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  巨石と神石  名水と霊泉  

梵珠の名水2「中山大権現」-つがるみち165

 かつて、「梵珠千坊」と呼ばれ、修験の地であった梵珠山の麓は、山の自然が育む清水が湧き出る所でもあります。
 先回は、そんな「梵珠の名水」として、浪岡・吉野田の十和田神社(十和田霊泉)をご紹介しましたが、同じく梵珠の麓、五所川原市野里というところに、十和田霊泉と同様に、県の「私たちの名水」に認定されている湧水のある社があります。
 社の名前は中山大権現。霊泉は「恵の泉」と呼ばれています。

 この中山大権現には、国道101号線から分かれた県道を進んで行く分けですが、この道を真っ直ぐに進んだところには、「鬼っコ」が3体も掲げられている闇おかみ神社があります。闇おかみ神社を訪ねてから何ヶ月も経っている分けではありませんが、何となく懐かしい感じがしました。
 農業用の大きな「長橋ため池」の付近から曲がって、梵珠山の方へと山道を進んで行くと、赤い鳥居が立ち並ぶ境内へと出ます。とても静かな場所で、辺りには小鳥の声と泉の湧き出る音だけが響いていました。
 
 この境内の「恵の泉」は、「頭痛や眼病、皮膚病」などによく効くとされており、多くの人々が訪れるとのことですが、境内には、そんな来訪者の方々が気軽に休める「憩いの家」なども建てられていました。鳥居の先には、祠や社殿が見えます。

◇中山大権現境内

 
ため池と梵珠山
中山大権現境内①
中山大権現境内②
中山大権現境内③
中山大権現境内④



神石の鳥居


 ひとつの鳥居の先に祭られていたのは、何と大きな石。祭壇が設けられており、巨石には注連縄も張られているところをみると、これは御神体の神石なのでしょう。その由来は分かりませんが、ここにもまた巨石信仰が見られます。それにしても、ごろんとした大きな神様です。隣にある鳥居をくぐって石段を登ったところに、社殿と祠がありました。

 この社の由緒などは分かりませんでしたが、権現(ごんげん)とは、【日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。※Wikipediaより】・・いわゆる神仏習合で「仏が民衆を救う目的で姿をあらわした姿(神)が権現」とされていますが、多くは山岳信仰と修験道が結びついて広まったものといわれています。
 梵珠山が修験道のメッカであったことから考えると、ここ中山大権現もまた、修験者にとってひとつの聖地であったのかも知れません。修験者達は、こんこんと湧き出る「恵の泉」で身を清め、修行に励んでいたのでしょうか。

◇中山大権現

 
神石①
神石②
中山大権現社殿
中山大権現①
中山大権現②



恵の泉①


 県の名水認定の碑が立っている辺りは、きれいに整備されていて、緑に囲まれた山からは、水量豊富な水が音をたてて流れ出ていました。「恵の泉」という名前にふさわしい霊泉です。
 多くの名水や霊泉には、龍神様が祭られていて、その水の出口は龍をかたどったものがほとんどですが、ここのそれは、何と「ライオン=獅子」です。

 山伏(修験者)達は、しばしば神社の境内で神楽を行い、獅子頭を回して「護国豊穣」「病魔退散」等の祈祷を行ったとされていますが、 その祭りの時に、神霊が獅子頭に降ろされ、獅子頭はご神体が宿った「権現様」となる・・といわれています。
- この「恵の泉」の獅子もまた、獅子頭=権現様にあやかったものなのでしょうか。

 「恵の泉」は、地元はもちろん、県内外のたくさんの人々から愛されているようです。社殿の中には、岩手県の方が作った「泉」と題する讃歌が掲げられていました。
(※下の画像をご覧ください)

◇恵の泉

 
恵の泉②
恵の泉③
恵の泉④
恵の泉⑤
恵の泉讃歌


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奥津軽の霊場「川倉地蔵尊」-つがるみち163

 下北半島の恐山と並んで、霊場としてよく知られてところが五所川原市・金木町の川倉賽の河原地蔵尊です。
 桜の名所である芦野公園北東部の小高い丘にあるこの地蔵尊は、恐山と同様にイタコの霊媒が有名で、旧暦6月22日からの例大祭には県内外から多くの参詣客が訪れ、哀調を帯びたイタコの「口寄せ」に聞き入る人達が見られます。
 地蔵堂内とその周りには、数多くのお地蔵様(大小約2,000体とも)が祀られているのも特色のひとつで、金木町出身の作家・太宰治も「ふるさとの名物」に挙げていたといわれています。

山門


 鳥居の上に三角形の破風(屋根)が乗った山王鳥居のような特徴のある山門?をくぐると境内へと出ますが、その山門の前に慈覚大師の像が建っています。
 この地蔵尊の宗派は天台宗で、東北の総本山は平泉中尊寺ですが、その由緒については、【ここ川倉の賽野川原は慈覚大師の開創と伝えられる点は、下北の恐山と同様であるが、天空からお燈明が降り、掘ると一体の地蔵尊が出土、これを安置したのがその始まりともいう。文化、文政の頃から参詣人が増えたということから、およそ170年も前から民間信仰のメッカとして支えられ・・・。※案内板より】とあり、慈覚大師の開基伝説が残っています。
 私が訪れたのは5月の中旬でしたが、どんよりと曇った雨空・・しかも霊場ということで少し「寒気」がしましたが、境内をめぐってみました。

 本堂(地蔵尊堂)の隣にひとつの供養堂が建っています。中に入って見ると、真ん中のお地蔵様をはさんで、左右には風車やミッキーマウスなど、子ども向けの人形がたくさん置かれていました。人形の供養堂のようです。
 そして、その奥には、数え切れないほどの花嫁人形や新郎新婦の人形が飾られて(祀られて)いました。
 この地蔵尊には、「未婚の男女の霊が結婚適齢期に達すると神様が夫婦として結びつけてくれる」という伝説があるとのことですが、『死霊婚(冥婚とも)』と呼ばれるこの儀式は、「独り身で死んだ青年や子供たちに、死後の世界で嫁や婿を迎えさせ、成仏させてやりたい」という遺族の想いから生まれたものといわれています。
ー きれいな花嫁・花婿の人形には、そんな切ない「霊」が宿っている分けです。

◇慈覚大師像と供養堂など

 
 
慈覚大師像
供養堂(人形堂)①
供養堂(人形堂)②
供養堂(人形堂)③
後生車と地蔵堂



賽の河原①


 境内から、両端に風車が並んだ坂道が延びていますが、ここが「賽の河原」と呼ばれる場所です。
 地元紙にこんな記事がありました。 - 【津軽地方では、夭折(ようせつ)した子どもの供養のために木や石で地蔵を造り、名前を付けてムラの地蔵堂や墓所へ奉納して、定期的に衣装を替え化粧を施すという、独特なスタイルがはぐくまれてきた。旧暦6月22日~24日には、津軽の各ムラの地蔵堂に婦人たちが集まる。御詠歌を唱え百万遍(ひゃくまんべん)の数珠を回して地蔵を供養した後、持ち寄った料理で会食が始まる。また、集落近くにサイノカワラという霊場を設け、そこに地蔵を奉納し、供養の大祭を行う習俗も多い。※陸奥新報『地蔵信仰の広がり』より抜粋

 賽の河原の坂道を降りて行くと、十字前掛けをした大小のお地蔵様がありました。風車のそばにポツンと立っているもの、お堂の中に納められているものなど、様々です。かつては夜や雨の日にここに来ると、亡くなった子どもたちが遊ぶ気配が感じられたという伝承もあったのだとか。。

◇賽の河原

 
賽の河原②
賽の河原③
賽の河原④
賽の河原⑤
賽の河原⑥



地蔵尊堂①


 本堂の中には、子供服や靴、玩具など、幼くして亡くなった子供たちの遺品が、所狭しと並べられ、積まれていました。参拝者達が奉納した草鞋や供物も。
 大祭には、県内外から【幼子を亡くした人々が集まる。本堂では、川倉地蔵講中の世話で参詣者が諷誦文(ふうじゅもん)を書き、近隣の僧侶が法要を行う。参詣者は本堂正面の裏に並ぶ我が子の地蔵へと向かい、着替えさせ供物をあげる。本堂の裏ではイタコたちが小屋を立て、依頼に応じてホトケ降ろしを行う。※陸奥新報より抜粋】とのことです。

 本堂の後ろに並べられたお地蔵様には圧倒されます。いったい何体あるのでしょうか。ちょっとしたスタジアムを思わせます。一体一体にそれぞれ大きさがあり、表情があり・・・参詣者の方々は、そんな自分のお地蔵様に語りかけるのでしょう。

 この川倉地蔵尊に祀られている多くのお地蔵様や「冥婚した花嫁・花婿」たち・・・その様子を漢字一文字で表すとすれば、それは「未」という文字でしょうか。

◇本堂内

 
地蔵尊堂②
地蔵尊堂③
地蔵尊堂④
地蔵尊堂⑤
地蔵尊堂⑥


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  水虎様  

水神と鬼3「金比羅宮」ーつがるみち141

 岩木川流域に沿って鎮座する鬼の社は、金木町(五所川原市)と中泊町の境目辺りが北限のようです。
 神社でいえば、先回ご紹介した三柱神社(金木町川倉)、熊野宮(中泊町豊島)、そして、今回の金比羅宮(金木町蒔田)が最も北にある鬼ッコを掲げている社といえます。
⇒三柱神社・熊野宮・金比羅宮
三柱神社・熊野宮・金比羅宮

 前回も少しふれましたが、鬼ッコの分布は、江戸時代以降、農地の開拓が行われた足跡を示すものとも思われますが、この3つの神社がある地域より北側は、十三湖から津軽半島・・水運業や漁業、林業などで発展してきた地域になる分けです。

富野猿賀神社船絵馬


 岩木川は、藤崎町の辺りで支流と合流し、大河となり、たびたびの氾濫で大きな被害をもたらしたものの、津軽の経済を潤してきた分けです。
 藩政時代には、主な流域に川港がつくられ、弘前藩の御用倉も置かれ、賑わっていました。岩木川を渡る船乗り達や川港の人々は、その航海の安全を祈願し、いろいろな水神様などを祭っています。
 上津錦津見神(うわつわたつみのかみ)、中津錦津見神(なかつわたつみのかみ)、底津錦津見神(そこつわたつみのかみ)の三海神を祭っている板柳町の海童神社や、宗像三女神を祭る胸肩神社、そして、数多くの船絵馬が奉納されている富野猿賀神社などは、その代表的なものといえるでしょう。
 また、十三湖の入江近くの薄市(中泊町)は、天然の良港といわれていましたが、ここにも津軽三十三霊場の薄市観音堂があります。

◇岩木川沿いの主な神社など ※画像はクリックで拡大します。

 
藤崎八幡宮
海童神社
胸肩神社
富野猿賀神社
薄市観音堂



 今回訪ねた金木町蒔田の金比羅宮も、そんな水の神様を祭っている神社のひとつですが、この神社については、【勧進年月不詳ですが天明2年(1782)7月、津軽藩と縁故がある近衛家は、特に津軽藩のため内侍所において五穀豊饒の御祈祷を行わせられ、津軽領内へ御守礼二十七通御下賜の内、一通はこの御宮へ奉納されたことをみると、相当重きを置かれた神社であったと思われます。※HP「津軽なび」より】と紹介されています。

一の鳥居


 御祭神は、大物主神ですが、有名なこの神様は、蛇神といわれ、水神として崇められています。
 一方、「金比羅様」といえば、海上交通の守り神であり、古来、水難から守ってくれる神仏な分けですが、【江戸時代に船による流通が盛んになると、海運業者や商人によって金毘羅信仰が日本中に広められ、分社が各地に作られた。明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって神仏習合の金毘羅大権現は廃され、大物主神を主祭神とする神道の神社になった。※wikipediaより】といわれています。

 
 ここの金比羅宮は、四国の本山・琴平宮から、中世期に上方の船主たちが、水路安全祈願のため、金毘羅様の分身を勧請したものとされていますが、それは即ち、この土地もまた、岩木川流域の大事な川港であったことを示しているように思います。

 社号標は「金比羅宮」、拝殿の扁額には「琴平神社」とありました。私が訪ねたときは4月の上旬で、まだ境内の木々は葉っぱをつけておらず、半ば朽ちた老木たちの姿が印象に残りました。もちろん、境内には女神・水虎様も祀られています。

◇金比羅宮境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
境内
拝殿
拝殿から
拝殿内
水虎様



二の鳥居


 さて、この神社の鬼ッコは二の鳥居に掲げられています。一見して、少年のように見える若々しい鬼です。
 黒く長い髪が特徴的で、目をつり上げ、いっしょうけんめいに鳥居を支えているように見えます。
 口をしっかりと閉じ、しっかりと修行に励んでいる・・・そんな感じがしました。
 津軽地方の鳥居の鬼ッコ、今回の金比羅宮のこの鬼ッコで、一通り巡り終えました。各神社の鬼ッコ、それぞれの表情は正に千差万別で、受ける印象もそれぞれ違い、とても興味深いものでした。いずれ、機会をみて、自分なりの「鬼ッコマップ」づくりをしてみたいと思います。

 ⇒金比羅宮鬼ッコ ※画像複数

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

ひと休みした鬼「鶴ケ岡八幡宮」ーつがるみち140

 勇んで出かけてはみたものの、肝心の鬼ッコに会えないときもあります。
 弘前市三和地区に鎮座している日吉神社は、大国主命、事代主命、大山咋命(おおやまくいのみこと)の三柱を祭っている神社で、【創立年月不詳であるが、 貞享四年の検地帳には 「山王堂」 となっており、 それ以前に建立されていたのは間違いない。 明治六年四月村社、 同年中畑村胸肩神社合祭、 同年四月笹館村八幡宮合祭、 明治八年二月復社。※青森県神社庁HP】とあります。

 
 この神社もまた、弘前市内で鬼ッコがある社のひとつなのですが、その鬼は拝殿の中に置かれているということで、あきらめていましたが、「もしも、拝殿の戸が開いていれば・・」と思い、行ってみました。結果は×。。鬼ッコを拝むことは叶いませんでした。しかたないので、境内を何枚か写真におさめて帰りました。

 
 日吉神社は、田舎館垂柳遺跡と並んで、北限最古の弥生田が発見された「砂沢遺跡」のそばにあります。遺跡が眠っている砂沢ため池では、何人かの人がのんびり釣り糸を垂れていました。

◇砂沢ため池と日吉神社 ※画像はクリックで拡大します。

 
 
砂沢ため池
二の鳥居
三の鳥居
拝殿
幸神



 実は、鬼ッコが見れず、がっかりした社がもうひとつありました。
 それは、五所川原市鶴ケ岡鎌田地区の八幡宮です。その由緒については、【創建年号は不詳である。 度々の水害により明暦二年現住所へ移動する。 明治六年四月村社に列せられる。※青森県神社庁HP】ということしか分かりませんが、五所川原市内で鬼ッコを掲げている神社なのです。
 そういう分けで、雪解けを待って、さっそく訪ねてみたのですが、鳥居はおろか、境内のどこを探しても鬼はいませんでした。日吉神社と同じく、拝殿の中に納められてしまったのか・・と思い、がっかりしてしまいました。

狛犬と狛鳩


 ところが・・・です。先日、別の神社に出かけた帰り道、この神社の前を通りかかったのですが、何やら鳥居に人形みたいなものが掲げられていました。それは、以前、探してもみつけられなかった鬼ッコだったのです。
 この八幡宮には、入口の鳥居が二つあって、鬼の鳥居のそばには、八幡様らしく、りっぱな神馬と鳩の石像があります。住所が「鶴ヶ岡」だからでしょうか、亀の上に乗った鶴?の石像
馬・鳩・鶴・亀
もありました。鶴というよりは始祖鳥か。。

 拝殿の前の鳥居のそばには、庚申塔や祠が並んでいます。朽ちた鳥居が無造作に立てかけられた祠には大蛇の像、以前は、龍神様
龍神様?
だったのでしょうか。
 隣に青い屋根の祠
水虎様
がもうひとつ。中は、なかなか覗けませんでしたが、下の方を見ると、亀に乗って両手を合わせている像が見えます。苦労しながら上の方を見てみると、それは水の神・水虎様
水虎様
でした。

◇八幡宮境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
一の鳥居
境内
本殿
拝殿
庚申塔など



八幡宮鬼


 さて、たぶん冬の間、鳥居から降りて「ひと休み」していたと思われるこの鬼・・。顔を見た瞬間、ギョッとします。鼻は残っていますが、右目から下半分が割れてなくなっているのです。
 つり上がった目とか、角とか、頭全体の様子を見ると、以前も怖い表情をしていた鬼だと思いますが、割れた顔が、怖さをいっそう強調しているようです。何はともあれ、2回目の訪問で拝むことができました。

 
 ⇒八幡宮鬼ッコ ※画像複数

                                               
☆つがるみち☆
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  水虎様  

地蔵堂と鬼2「胸肩神社」ーつがるみち139

 西北津軽地方の鬼ッコめぐりも終盤になりました。板柳町、鶴田町、つがる市、五所川原市から中泊町の各地に点在する鳥居の鬼ッコ・・・それは、弘前から十三湖方面へと、江戸時代初期から行われてきた新田開発をはじめとする土地の開拓と無関係ではなく、その多くは、五穀豊穣祈願の象徴として掲げられているものだと思います。
 そのような開発の大動脈が岩木川。津軽地方を潤し、経済発展をもたらしたこの川は反面、「雨三つぶ降ればイガル」といわれるほどの暴れ川でした。 ⇒以前の拙記事をご覧ください。

 
 弘前藩は、その盛んな新田開発のおかげで、実質的な石高は30万石にも達したといわれていますが、【その道程は洪水と凶作との過酷な戦いの連続だった。元和、元禄、宝暦、天明、天保の五大飢饉は、その度に数万人の餓死者を出し、津軽一円を凄惨な地獄へと化せしめた。食えないゆえの赤子の間引きなどの歴史も、津軽の情念となってじょんがら節の哀調や恐山のイタコ信仰の形で今日につながっているのだろう。※HP「TSUGARU BRAND」より】とされています。

 こうしてみると、岩木川沿いに、庚申塔などの塚や地蔵堂が多いのも分かるような気がします。水害で亡くなった人々(多くは子ども)や飢饉のために、それ以上生きられなかった幼子の供養なのでしょう。
 今回通りかかった岩木川の土手
岩木川の土手
のたもとにも後生車が立っており、鳥居の奥には地蔵堂がありました。大きな地蔵様のまわりに、たくさんの赤子の地蔵様。。

◇岩木川土手の地蔵堂 ※画像はクリックで拡大します。

 
地蔵堂①
観音様
地蔵堂②
地蔵堂③
地蔵堂④



 今回訪れたのは五所川原市藻川村崎の胸肩神社。その名前の通り、日本書紀で、市杵島姫命(イチキシマヒメ)、田心姫命(たごりひめ)、湍津姫命(タギツヒメ)と呼ばれている、いわゆる「宗像三女神」を祭っている神社です。
 この三女神は、神話によると、「アマテラスとスサノオが天真名井で行った誓約の際に、スサノオの剣から生まれた三女神」で、海の神、水の神として信仰を集めていることは、よく知られているところです。
 

胸肩神社一の鳥居


 この神社の由緒については、【創建年号は不詳である。 明暦二年弁天宮を蟹下と称する地に勧請の処、 度々の水害により弘化三年現住所へ移転せらる。 明治六年四月胸肩神社と改め、 村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】とありますが、御祭神の一柱である市杵嶋姫は、弁才天と同神とされ、各地の胸肩神社
猿賀胸肩神社
に祭られていますが、多くの弁天宮は神池を伴っています。かつては、ここの境内にも池があったのでしょうか。
 「度々の水害により」・・と由緒の中にも岩木川の洪水について記されていますが、【岩木川上流は急勾配のため、雨で水嵩が増すたびに鉄砲水のように氾濫を繰り返した。問題は上流だけではない。川には、水だけでなく、周囲の山からの大量の土砂、さらには、日本海から吹き付ける波風が海岸の砂を運び、ついには十三湖の水戸口(出口)をふさいでしまう。行き場を失った水はどっと津軽平野に溢れ出し、実りはじめた稲穂を一夜にして泥の淵に沈めたのだった。※HP「TSUGARU BRAND」より

 
 海ならぬ岩木川のほとりに、この水神を祭る神社を建立したのは、やはり、水運の発展と人や物の水難防止の祈願をこめたものなのでしょう。境内の中には、もうひとつの水の神・水虎様
水虎様
も祀られていました。
 また、【こうした数々の辛酸をなめながらも、農民たちは黙々と、馬に挽かせて田を打ち返す馬耕(バッコ)を繰り返し、灌漑工事に汗を流した。新田開発とは、まさに水との戦いだった。】とされていますが、馬は、
馬の石像
やはり、力強い味方だったようです。

◇胸肩神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
庚申塔
二の鳥居
神使たち
末社
本殿



胸肩神社鬼ッコ


 さて、水神とともに地域を守っている鬼ッコですが、今まで見てきた鬼達とは少し表情が違うような気がします。何というか、哲学者のような風貌とでもいえばいいでしょうか。
 姿形は修験者風の赤鬼ですが、ものを深く見つめているというか、じっくり物事を考え込んでいるような、そんな容貌です。手をゆったりと膝の上にのせ、参拝する人々の様子をじっと見ている・・そんな威厳を感じさせる鬼でした。

 ⇒胸肩神社鬼ッコ ※画像複数

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

観音堂と鬼「三柱神社」ーつがるみち138

 五所川原市金木町の三柱神社を訪ねるのは2回目です。桜の名所・芦野公園の近くにあるこの神社、昨年は、津軽三十三霊場の13番札所である「川倉芦野堂」があるために訪れたのでした。この観音堂については、以前の拙記事をご覧いただければ・・と思います。
 そういう分けで、前回やって来たときには、観音堂ばかりに目がいって、三柱神社そのものは、あまり詳しく見れませんでしたが、二の鳥居と三の鳥居にそれぞれ鬼が掲げられているのを見て、びっくりしたことを覚えています。西北津軽を中心に「鬼ッコめぐり」をしてきましたが、私にとって、そのきっかけになったのがここの鬼ッコでした。

拝殿


 三柱神社の由緒については、【建立年月日不詳であるが三社権現と稱したが、 明治四年三柱神社と改める。 明治六年金木八幡宮へ合祭のところ同八年復社同九年村社になる。明治四十年四月十九日幣帛供進神社に指定になり、昭和二十六年一月二十五日境内地譲与になった。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
 黒門の奥に佇んでいる観音堂は、相変わらず「品の良さ」を感じさせます。樹齢が500年ともいわれている金木町の名木・ケヤキ
金木町の名木・ケヤキ
もそのままでした。枝には、たくさんの若い葉っぱ。

 観音堂のそばに、いくつか祠が
建っていますが、中を覗いて見ると、大小の石が祀られていました。前掛けをしていたり、着物が着せられたりしているところをみると、これはお地蔵様
祠の中
のようです。小さなお顔が彫られているものもありました。

◇三柱神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
一の鳥居
末社
観音堂①
観音堂②
拝殿


 津軽三味線発祥の地・金木町らしく、拝殿のそばには津軽民謡の碑や、弘前藩4代藩主・津軽信政の時代に、この地で新田開発に努めた奉行の館跡の木碑も立っていました。 ⇒民謡碑・木碑
民謡碑・木碑


 拝殿の前に、何やら黄色い案内板があったの見てみると、「特攻機」。
特攻機
矢印の方に目を向けると、何と屋根の下に戦闘機(隼?)
戦闘機(隼?)
が吊されていました。翼に「奉納」と書かれているところをみると「飛行機絵馬」とでもいうべきなのでしょうか。。
 ー 日の丸に「若櫻」、そして「陸軍特別幹部候補生」「航空兵合格記念」の文字・・何となく胸が痛みます。
 出征していった若者は、その後、どうなったのでしょうか。。


二の鳥居


 さて、この神社の鬼ッコですが、前述のように、二の鳥居と三の鳥居に掲げられています。
 二の鳥居の方は、石造りの鬼。金木町の鬼は、力士型のものも多いのですが、この鬼も修行中の力士のようにも、修験者のようにも見えます。
 つくりの大きい鼻と、つり上がった目、右手で鳥居を支えている姿ですが、長く黒い髪が印象的な鬼です。

三の鳥居


 一方、三の鳥居の方は、金棒を手にした、節分のお面のような鬼らしい赤い鬼ッコ。とがった角と太い眉、目も大きく、睨みつけているような表情をしています。現在は、少し塗りがはげかかっていますが、以前は、もっと怖い顔に見えたのではないでしょうか。
 大きく開いた口の中には、たくさんの歯。何本あるのでしょうか。。

 ⇒三柱神社鬼ッコ ※画像複数


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  巨石と神石  

人丸と鬼「嘉瀬八幡宮」ーつがるみち135

 金木町嘉瀬にある「鬼ッコ神社」・・今回は、八幡宮(以下、嘉瀬八幡宮)を訪ねました。この神社は、先回、ご紹介した奴踊りのモニュメント
奴踊りのモニュメント
のある橋のすぐそばに鎮座しています。
 その由緒については、【建立年月日不詳であるが口伝に依ると元亀三年の建立にして明治六年四月村社になり明治四十年七月幣帛供進神社に指定になり昭和二十五年十月境内地譲与になった※青森県神社庁HP 】とあります。広い境内は、古くからこの地域の産土社として崇められてきたことを思わせます。

参道


 川に沿って進んで行くと、赤い神橋があり、一の鳥居が見えてきます。そばに、百万遍の塚があり、古びたお堂が建っていましたが、中には、色鮮やかな前掛けをしたお地蔵様
地蔵堂
が祀られていました。
 川岸に開けたこの神社の境内は、なかなか奥行きがあり、神武天皇碑をはじめ、庚申塔、二十三夜塔などが立っていました。「八幡様」ということで、神馬、鳩、狛犬なども拝殿に向かってズラーッと並んでいます。
 ⇒嘉瀬八幡宮境内 ※画像複数
 

 目を引いたのが、大黒天と恵比寿様のお堂です。両者とも福をもたらす七福神たちですが、【大黒と恵比寿は各々七福神の一柱であるが、寿老人と福禄寿が二柱で一組で信仰される事と同様に、一組で信仰されることが多い。このことは大黒が五穀豊穣の農業の神である面と恵比寿が大漁追福の漁業の神である面に起因すると考えられている。また商業においても農産物や水産物は主力であったことから商売の神としても信仰されるようになっていった。※wikipediaより
 ー 二柱をひとつのお堂に祭っているのは、やはり、新田開発に伴う五穀豊穣と、岩木川を利用した水運の繁栄を祈願したものと思われます。

 こういった様々な「神」を祭っている社を見ると、【各村々にある氏神・産土神は、今の村の人々の祖先・氏の上を祭っているだけではなく、多くは、分村、移住してきた時、団結と信仰の中心として何かを祀った。それは、もとの居住地の堂社であったり、あるいは近隣のものであったり、地域の流行神であったり、指導的立場の山伏、修験者が選んだりした。※小館衷三『岩木山信仰史』】ということがよく分かります。

◇嘉瀬八幡宮 ※画像はクリックで拡大します。

 
神橋
参道
大黒天と恵比寿
神武天皇像
境内



人丸の神石


 ところで、この嘉瀬八幡宮には、何とも奇妙な自然石?があります。名づけて「人丸の神石」・・人丸は、あの歌聖・柿本人麻呂のことです。
 正面から見ると、
人丸の神石
起き上がり小法師が、大きく口を開けているような形の石ですが、後ろへと回って見ると、何と、そこには「人丸」の文字。。
文字「人丸」

 この神石については、【嘉瀬八幡宮境内に“歌の神”として「人丸」の二文字を刻んだ大石が祀られています。その文字は「万葉集」の歌人で、三十六歌仙の一人でもある柿本人麻呂を意味するといわれ、同地区の昔日の文化を象徴する神石であると伝えられています。高さ70cm程の神石、いつ、だれが、どこで彫ったものか、いまでも歌の神として、詣でる人たちの姿が時々見かけられます。※HP「津軽なび」】と紹介されています。太宰治を生んだ文学の町・金木ならではの史跡?といったところでしょうか。

 余談ですが、以前、梅原猛先生の『水底の歌』という本を夢中になって読んだことがあります。「藤原不比等を中心とする時の政権に追われた柿本人麻呂は、やがて水死刑に処された。」「人麻呂は正史には登場しないが、同時代に柿本猿という人物がいる。人麻呂は懲罰のため、猿に改名させられた。」「人麻呂=猿は、即ち、猿丸太夫である。」といった内容は、まるで推理小説を読んでいるようでした。
 柿本人麻呂が津軽へとやって来た分けはありませんが、この神石、何となく人麻呂の肖像画と似ているような。。。
人麻呂と神石


お堂の鬼


 さて、この八幡宮には二体の鬼がいます。拝殿の前に二つの祠
稲荷様と鬼の祠
がありましたが、覗いて見ると一方は稲荷様、そして片方の祠には、木製の鬼が祀られていました。
 丸いドングリ目とふくよかな頬、大きく出っ張ったお腹など、なかなか貫禄のある鬼ッコです。
 口元のあたりが腐蝕していたり、左の手がもぎとられていたりと、痛々しい感じですが、かつては鳥居にあったものなのでしょうか。ろうそくも立てられていて、お参りする人々も多いようです。

二の鳥居の鬼


 続いては二の鳥居に掲げられている石造りの鬼。
 この鬼も風化が進んでいて、その表情はよく分かりません。祠にあった鬼と違って、こちらはやせ型の怖い表情をしていた鬼ッコだったと思われます。
 以前は、その角も鋭く尖り、牙もむき出しにしていたのではないでしょうか。
 「老骨にむち打って」、守り神としての役目を果たそうと、必死に鳥居を支えている・・そんな感じでした。
 
 ⇒嘉瀬八幡宮鬼ッコ ※画像複数

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