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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 西目屋村   Tags: つがるみち  

氷結せずーつがるみち362


乳穂ヶ滝


 寛政8年(1796)の冬、西目屋村の乳穂ヶ滝を訪れた菅江真澄は次のように記しています。
 【道のかたわらの鳥居をくぐると、夜中滝(よのなかたき)といって、その年の作物の豊凶を占う習俗をもつ滝のもとに出た。見れば二十尋ばかり高いところから、村雨のように水がはらはらと落ちかかっている。滝の下方の岩を新穂石(にほいし)といって、稲の新穂(乳穂)を束ねたかたちをしたところに水が凍りついていた。
 この水が日がたつにつれて降り積もる雪とひとつになり、ますます高く積み重なって、まことの新穂を積んだようになる。寒い年にはたいそう高く重くなり、暖かい年は低い。その程度をはかり、一月のころ藩主に申し上げて、来る秋の田の実りの豊凶を占い、予知するというのは、古く宮中で行われた「氷池(ひいけ)のまつり」と同じであろう。※菅江真澄『雪のもろ滝』




 乳穂ヶ滝は、高さ30m以上の崖の上から白糸のような水が流れ落ちている可憐な滝ですが、厳冬期になると滝壺に向かって一本の棒のように氷結することで知られています。
 その結氷の大きさや形状によって、その年の豊凶が占われてきたため、「世の中滝(※世の中とは稲作を指す)」とも呼ばれる滝ですが、現在も2月の末に豊作占いの神事が執り行われます。
 今年も先頃、「乳穂ヶ滝氷祭」が行われましたが、その様子が地元紙
地元紙
に載っていました。 
- 「寒さ緩み、結氷せず。豊作は期待薄」 -
 西目屋村の津軽ダム工事事務所のHPでは、「今日の乳穂ヶ滝」と題して、冬期の滝の様子(画像)を公開していますが、ここ数年の2月の様子を見ると、2012年には完全に結氷し、2013年もほぼ結氷しましたが、それ以降は結氷しておらず、暖冬傾向は否めないようです。
 先日、私も見に行ってきましたが、確かに、凍ってはおらず、雲のような水が下に向かって流れ落ちていました。

 農業と天気のことわざに、「暖かい冬は凶作」「厳冬はコメ豊作」「寒の大雪は豊作」というのがあります。
 冬は冬らしく、まとまった降雪がある年は野山に農業に不可欠な水が豊富に蓄えられ、水不足にならず、結果、豊作となる。
 また、「暖冬の時は病害虫が死なずに越冬してしまい、病害虫の被害が増えて凶作になる。反対に厳冬のときは、寒さで病害虫が死滅してしまうので、夏の被害も少なくなる。」といわれていますが、昔の人たちは、経験で、そんなことを感じ取っていたのでしょう。

  


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謙信への思い「広泰寺と不識塔」-つがるみち161

 「戦国時代で一番好きな武将は?」と問われれば、迷うことなく「上杉謙信」と答える私ですが、残念ながら未だに謙信ゆかりの地を訪ねたことはありません。ずっと昔に米沢の上杉神社に出かけたことはありますが、春日山城とか川中島古戦場など、行ってみたいと思ってはいるのですが。。
 そのかわりに・・・という分けでもないのですが、西目屋村に、深く上杉謙信を敬愛した?人物が建てた寺院と塔があるということなので、訪れてみました。


広泰寺①


 寺院の名前は「広泰寺(こうたいじ)」、塔は「不識塔(ふしきのとう)」といいます。
 以前、記事で取り上げた乳穂ヶ滝や鹿嶋神社を通り過ぎ、暗門の滝方面へと進んで行くと、目屋ダム(美山湖)が見えてきます。さらにさかのぼったところに川原平という集落・・ここにそのお寺と塔
周辺の地図
が建っています。
 少し道に迷いましたが、何とか目的地に着きました。ここに「弘前大学白神自然環境研究所」
「弘前大学白神自然環境研究所」
という建物がありますが、一帯は植物園になっており、この研究所が管理しているようです。ここに車を停めて入園届を書き、いざ、出かけようとした時に、管理人の方が「出るかも知れないから、一応、これを着けて行きなさい。」と言って、渡してくれた物は熊よけ用の鈴
熊よけ用の鈴
でした。

 研究所のそばに道案内板
道案内板
が立っていましたが、まずは広泰寺へ。100m程歩くと、木々の間から、その建物は見えました。少し離れたところから見ると、その造りは「お寺」という感じがしますが、近寄って見ると、茶色いレンガ造り・二階建ての姿形は洋館のようでもあり、不思議な感じのする寺院です。

 この広泰寺は、明治44年(1911)に完成した分けですが、建てたのは「斎藤主(さいとうつかさ)」という人物です。
 斎藤主は、万延元年(1860)に弘前市で生まれましたが、17歳の時に上京し、その後、北海道に渡って役人生活を送りながら、英語や測量学、天文学などを習い、その知識を生かして北海道の奥地から千島、国後などの調査・測量に従事したとされています。その後、全国各地で土木事業に従事した彼は、明治35年(1902)に独立し、弘前で土木建築請負業を始めました。
 明治35年という年は、あの悲劇の「八甲田雪中行軍」が行われた年ですが、この年はまた、冷害による大凶作の年であったといわれています。特に、西目屋村の惨状はひどく、「村人は米も麦はもちろんソバや豆まで食べ尽くし、ワラビの根を掘って食いつないだ」とされています。
 村人たちの窮状を見かねた斎藤は、村を救わんがために立ち上がり、水路のトンネル工事を起こし、動員された村人に日当を支払うようにしました。生活に困り切っている村人は喜んで働いたといわれています。さらには、村の原野の開墾や植林などを手がけ、篤志家として尊敬を集めたとされています。

 斎藤は、晩年には仏門への関心を深め、横浜市鶴見にある總持寺管長・西有穆山(にしありぼくざん)の下で参禅・修行を行っていましたが、その西有管長から「山形県米沢にある広泰寺が住職無住になっていて誠に惜しい」という話を聞かされます。 
 広泰寺は元々は戦国武将・上杉謙信が開基したもので寺格は非常に高く、上杉家では代々寺領を与えて保護していましたが、斎藤が米沢に出向いた時には既に荒れ果てて修復出来ない程の状態になっていたといわれています。それを見た斎藤は、寺格をそのまま譲り受けて寺を移転させようと考え、自ら住職の資格を得て広泰寺を西目屋村に再建する事を決心したという分けです。

 - 斎藤主が、謙信をどのように思っていたのかは定かではありませんが、「高潔な人格をもった義の人」で「仏門の求道者」でもあった謙信の姿に己を重ね合わせようとしていたのではないでしょうか。

◇広泰寺

 
広泰寺②
広泰寺③
広泰寺④
広泰寺⑤
広泰寺⑥



不識塔①


 そんな謙信への傾倒を示すように、斎藤は翌1912年に「不識塔」を建てます。
 名前は、もちろん謙信の法号「不識庵」からとったものですが、「不識」とは、梁(中国)の武帝と達磨大師の間で取り交わされた問答の中に出てくる言葉で、単に「知らぬ」という意味ではなくて、【ただ頭の中で考えたり、本で学んだ知識などでおしはかれるものではない。あらゆる偏った見方、考え方を捨てて、仏様に身も心も預けて、仏様とともにその教えに生きるとき、初めて真理と自分とがひとつになり、悟りがひらけて、自分も仏様になれるということ。※米沢市春日山林泉寺HPより】とされており、謙信もまた、その本旨を極めようと、修行に励んだといわれています。

 この不識塔はここへ来る途中の道路からも遠望できましたが、実際に道案内に従って遊歩道を登るのはなかなかきついものがありました。
 山頂めがけて登っていくと、突然視界が開けて、その建物が姿を現します。何と、鉄骨に囲まれた塔です。この鉄骨は改修工事用に組まれた足場だそうですが、撤去される見込みはたっていないとのことです。
 塔は、高さ20.8m、底部の直径が5.94mと説明書きにありましたが、元々の姿は鉄骨のため、よく分かりませんでした。説明板には、鉄骨が組まれる以前の写真がありましたが
不識塔
、それを見ると、こけしに似ているような何とも特徴のある姿形です。この不識塔の形は、斎藤主の「主」という漢字をかたどっているといわれていて、地元の人は不識塔を「主(つかさ)の塔」とも呼んでいるとのことです。
 - それにしても、早く鉄骨が取り払われた本来の姿を見たいものです。

◇不識塔

 
不識塔②
不識塔③
不識塔④
不識塔⑤
不識塔⑥


 青森の各地を訪ね、多くの紀行文を残した大町桂月は、ここ広泰寺と不識塔を訪れた際に、「寺一つ 家ひとつ満目 尾花哉」と詠み、【山の奥に思ひがけなき平地ありて、家一つ、祠一つ、寺一つ、峰上に高さ五丈ばかりの赤煉瓦の塔立てり。斉藤主といふ人、ここを開墾せむとて、田の未だ成らざるに、先ず社寺を置き塔を建てたるに、開墾成らず、空しく志を齎らして逝けり。その屍骸はアルコール漬けにして塔の中にありと聞く。世には奇抜なる墓もあるもの哉。 ※『岩木山より暗門滝へ 四・暗門滝』 広泰寺説明板より】と記しています。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 西目屋村   Tags: つがるみち  津軽の北斗七星  

津軽の北斗七星「鹿嶋神社」ーつがるみち134

 津軽の台地に、ひしゃく形に並んでいるといわれる北斗七星七神社。今回は、西目屋村・村市に鎮座している鹿嶋神社です(ではなく、のようです)。
 村市地区は、西目屋村から名所・暗門の滝に通じる県道28号線沿いに開けている集落ですが、ここには西目屋村の温泉施設「もりのいずみ村いちの湯」
「もりのいずみ村いちの湯」
があり、家族連れなどで賑わう所です。
 鹿嶋神社は、この施設のすぐそば、ほとんど同じ敷地内に鎮座しています。

乳穂ヶ滝


 ところで、西目屋村というと、その昔から、氷結した滝の太さや形状などによって豊凶占いが行われるという乳穂ヶ滝があります。
 毎年、2月下旬に滝の前で行われるその神事は、「乳穂ヶ滝氷祭」というイベントとして知られていますが、果たして、今年の占いはどうだったのでしょうか。
 実は、私もその氷結の様子が見たくて、2月、3月、そして4月上旬と、何度か足を運んでみました。2月には、がちがちに凍った氷が、滝壺めがけて延びていて、一本の氷柱となりそうな感じでしたが、祭りのときはどうなったのか分かりません。4月に訪ねたときには、雪解けの水が、太い筋となり、音をたてて流れていました。

◇冬の乳穂ヶ滝 ※画像はクリックで拡大します。

 
乳穂ヶ滝2月中旬
乳穂ヶ滝2月中旬
乳穂ヶ滝3月上旬
乳穂ヶ滝3月中旬
乳穂ヶ滝4月上旬



鹿嶋神社一の鳥居


 さて、この鹿嶋神社は、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が勧請した古社とされていますが、神社の説明板には【坂上田村麻呂将軍を祀っている鹿嶋神社拝殿に安置されている仏像は、将軍が地方征服した際、桂の木をとり彫刻したものであると伝えられている。】と記されています。平成18年には、村民の手により、建立1200年祭が盛大に行われたとのことです。

 江戸時代の紀行家・菅江真澄は、寛政8年(1796年)にこの神社を訪れ、次のように述べています。
【・・昨夜の雪も今朝はなごりなく晴れて、日も照っているので、家をでて、藤川という村の、こちらの畳平という村からはいり、おおひら山の麓、守沢というあたりに、大同年間の由来をもつといい伝えられている多門天の堂があった。
 山本に群れだつ杉がたいそう多い。去年か今年、改修されたと思われる清らかな堂にはいると、むかしの御仏であろう、六、七尺ほどの朽ちた古像がふたつたっていた。この堂の後方に人の丈の高さのところではかると、周囲七尋(十ニメートルぐらい)ばかりある大杉があった。たくさんある杉のなかで、これはとりわけ、どれほどの年を経たものか知れない古木である。この幹の真中あたりのところが朽ちて、その空洞に水がたまり、これを池の杉とよんでいる。三枚平という峰にのぼって、この杉の真中の空洞をみていると、ときには鮒のおどることがあるなどと、案内人が指さし見上げながら語った。※菅江真澄『雪のもろ滝』

 菅江真澄が、「多門天の堂があった。」と書いているように、この社は以前は「村市毘沙門堂」と呼ばれていましたが、明治の神仏分離令で「鹿嶋神社」と改称された分けです。また、真澄が見た二体の仏像は、現在も拝殿に安置されているということです。
 「巨木探し」に興味を持っている私としては、真澄がいう「周囲七尋(十ニメートルぐらい)ばかりある大杉」も見たかったのですが、探せませんでした。今はないのかも知れません。

鹿嶋神社拝殿


 津軽の北斗信仰は、毘沙門天信仰でもある分けですが、これについては、【北斗七星や北極星は、航海の方向を示すので、いつの間にか神格化し、北方鎮護の守護神とされ、北方神の毘沙門天(多聞天)と同一視されたものであろう。※古館衷三『岩木山信仰史』】といわれています。
 都からみて「鬼門」であった津軽の蝦夷を征討し、統治するためには、北の守護神・毘沙門天の力を必要とした分けで、その中心であった田村麻呂は、毘沙門天の生まれ変わりとも称されていました。
 青森、浪岡、猿賀などとともに、この辺り一帯にも「まつろわぬ民(蝦夷)」の集団がいて、かつては激しい戦いが行われたのでしょうか、ここの毘沙門堂の建立は、他の七神社同様、戦勝祈願のためだったと思われます。
 なお、西目屋村には、行基上人が、布教のためこの地を訪れたところ、蝦夷の抵抗にあったため、布教を成就させようと観音様を祀ったという伝承も残されています。 
 ⇒拙記事へ

 境内には、不動尊、稲荷神、山の神と並んで、「鬼神様」
鬼神様
という祠も建てられていました。「鬼神」が何を指すのか分かりませんが、あるいは、征服された鬼達(蝦夷)の霊を祀っているのかも知れません。

◇鹿嶋神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
拝殿①
拝殿②
御神燈
末社
本殿


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今年は豊作?「乳穂ヶ滝」ーつがるみち19

 以前、西目屋村の岩屋観音についてご紹介したことがあります。津軽三十三霊場の2番札所「清水観音堂(多賀神社)」が、現在の場所に移るまで、観音様が安置されていたところであり、今も参拝者が絶えない社
岩屋観音堂
です。
 この観音堂の近くに乳穂ヶ滝(におがたき)
乳穂ヶ滝
という滝があります。高さ33mの断崖から、細い白絹のような水が静かに流れ落ちていて、辺りは静寂そのものといった感じのするところです。
↓乳穂ヶ滝 ※クリックで拡大します。

乳穂ヶ滝①

乳穂ヶ滝②

乳穂ヶ滝③

乳穂ヶ滝④

乳穂ヶ滝⑤


 駐車場には鳥居が立っていますが、説明によると
説明
、建立の時期は定かではないものの、ここには「不動尊」が祀られているということで、さっそく鳥居をくぐってみたら、大きな「剣」が見えました。不動明王に因んだものと思われます。
 この剣の隣りにひとつの歌碑
菅江真澄の歌碑
が立っていますが、これには、あの菅江真澄がここを訪れた際に詠んだ「とよとしのしるしを水もふる雪も 千束に氷れ新穂のたきなみ」という和歌が刻まれています。全国にある真澄の歌碑の中では、もっとも古いものなのだとか。。
 小さな二の鳥居を過ぎると、杉の大木の間から可憐な滝の流れが見えてきます。岩窟には、不動尊を祀る舞台造りのお堂
不動明王堂
が築かれており、そこまでは石段が延びています。ここからは滝を「裏」から見ることができるということで、私も登ってみました。その繊細な滝の様子は、なかなかカメラに収めることが難しかったのですが(腕前のせいですが)、何とか何枚か撮影することができました。
⇒乳穂ヶ滝
 この滝は厳冬期になると、流れ落ちる水が徐々に柱状に凍りつき、最後には滝口まで一本の太い氷柱になります。その氷結した姿が、あたかも「稲穂」を積み上げたように見えるため、人々は、昔からこの氷柱の出来具合によって、その年の豊饒を占ったとされています。藩政時代には、藩主がその時期になるとここに使者を送り、氷柱の形を調べさせ、その大小によって年の豊作・凶作を占ったので、この滝は「世の中滝」と呼ばれていたとか(「世の中」とはその年の稲作のことです)。。
 現在でもこの伝統・風習は続いており、毎年2月下旬には、積み上げた杉葉をいぶした煙や、稲束の燃え具合を見て作物の豊凶を占う神事が執り行われています。この「乳穂ヶ滝氷祭」が行われるときには、滝全体がライトアップされ
乳穂ヶ滝氷祭
、荘厳な雰囲気に包まれ、その姿を見ようと、たくさんの人々が訪れます。
 さて、この滝の道路を挟んだ向かい側に岩木川が流れていますが、川岸に面白い形をした石(岩)があります。名前は「ガマ石」。大きなガマガエルがでーんと座っているように見えることから、その名前がつけられました。実際、見てみると「なるほど。」
ガマ石
という感じです。面白かったので、ちょっと画像をいじってみました。
 
⇒ガマ変化スライド

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 西目屋村   Tags: 津軽三十三寺社巡り  

「岩屋観音」ー津軽三十三寺社巡り(番外編)

 雨上がりで、岩木川の水も少し濁っていますが、川霧がうっすらと立ちこめている様子がご覧いただけるでしょうか?ここは岩屋観音
岩屋観音
といい、先回ご紹介した清水観音(多賀神社)の”ルーツ”とも呼べる所です。津軽三十三霊場2番札所の「千手観音」は、もともと、ここ西目屋村のこの地に祀られていたのです。その縁起は、次の通りです。~天平3年(731年)、聖武帝が仏教布教のため諸国へ僧を派遣した。みちのくの果てに来たのが行基上人である。しかし、蝦夷が相手では布教も思うにまかせず、行基上人は目屋辺りに滞在し、千手観音を彫った。その観音像を、西目屋村の大高森山にある岩窟(がんくつ)に安置した。すると、すぐ後ろにある老松がボタンのような白い花を咲かせた。蝦夷どもはその霊験に打たれて、信仰の道に入るようになった。(それで)この千手観音は明治の初めまでは「花咲き松の観音さま」と呼ばれていたそうだ。岩窟に安置されていることから「岩屋観音」とも、清水が滴り眼下に岩木川の清流が見えることから「清水観音」とも呼ばれていた。~※『津軽三十三霊場』北方新社より※
 多賀神社から、車で2分位で西目屋村に入ります。そこから5分位の場所にこの岩屋観音はあります。赤い鳥居をくぐり、さっそく参道を下りました。参道を上ったことは何回もありますが、”下る参道”というのは初めてです。木の階段を降り、右側に回り込むと岩木川の清流が見えます。手すりにつかまりながら、一歩一歩注意して進むと、岩窟の中に造られた朱色の本殿?が見えました。中に入って見ると、拝殿があり、上の岩からは清水が流れていました。何か「天の岩戸」を思わせるような感じでした。中には、観音様らしき仏像?(これが観音様なのかどうか、私には分かりませんでした)が祀られていました。
 さて、この岩屋観音は、歴代の弘前藩主から手厚い庇護を受け(初代為信公が社殿を再建、2代信枚公は大鳥居を、3代信義公が石段を寄進しています。)、観音信仰の中心地となっていましたが、4代信政公のときに、現在の多賀神社の地に遷座されたといわれています。なぜ、移されたのか、その理由は詳しく分かっていませんが、どちらも岩壁に社殿が造られていること、岩窟から清水が湧き出ていることなど、霊場としての趣は似通っています。ともあれ、「千手観音」様は、その後、江戸時代を通してここ(多賀神社)に祀られることになります。しかしながら、本尊を失ったとはいえ、その後も、岩屋観音を参拝する人々は絶えず、それは現在でも続いており、津軽三十三霊場の”番外の札所”として、その名を知られています。
 やがて明治の世になると、神仏分離令によって、多くの観音堂は、仏像排除を命じられます。「清水観音堂」が「多賀神社」となったのもこのときのことです。このとき、本尊である千手観音像は弘前市禅林街の桜庭山陽光院に引き取られました。千手観音様の2回目のお引っ越しです。なお、陽光院の山号「桜庭山」は、当時の給主(所領の管理を藩主から仰せつかった者)である桜庭氏にちなんだもので、桜庭氏は、はじめ、この辺りに陽光院を建てましたが、2代藩主信枚公のとき、禅林街に移されました。ともあれ、千手観音様は今、陽光院に安置されているということで、私は、帰りに訪れてみることにしました。
 陽光院は、禅林街の中心である長勝寺のすぐ隣にあります。山門には「二番清水観世音桜庭山」の石標がしっかりと立っていました。境内を入った左側には、千手観音の石像もあり、行基上人の手による観音様は、今、このお寺に祀られていることを実感しました。
 私が石像を眺めているときに、三人の男性の参拝者が訪れ、本堂に向かって一礼し、尺八の演奏を始めました。そのゆったりとした音色を聴いていると、何となく厳かな気持ちになりました。


                        ☆津軽三十三寺社巡り☆
 
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 記事を更新しないままに10月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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