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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 鰺ヶ沢町   Tags: つがるみち  名木めぐり  

鬼神神社 - つがるみち419




 弘前から鯵ヶ沢へと至る県道31号線沿いに建石町がありますが、途中に赤い鳥居が立っているのが見えます。
 近くに「鬼神神社前」と書かれたバス停があったので、車を停めて立ち寄ってみました。
 鬼神神社は、つい見過ごしてしまうくらいの小さな社です。
 境内の裏側には民家が迫っていて、そばには田んぼが広がっています。

 境内には白い社殿がひとつだけ立っていて、御神燈や狛犬などはありません。それでも、境内全体を木々が覆っており、神社らしい雰囲気を醸し出しています。

 御祭神とか、その由緒については全く分かりませんが、社殿の中はきれいに清められており、地域の方々の信仰を集めている様子が伺われます。
 
 社殿の中には、奉納された絵馬や草鞋などが掲げられていますが、壁に特徴のある一本の松を描いた絵がありました。絵の最後には、「天明の大飢饉をはじめとする食糧難の時代を見続けてきた一本松である」といった意味の文が書かれていました。

◇鬼神神社
 






 描かれている一本松はクロマツで、この神社の御神木であり、鰺ヶ沢町の文化財にも指定されているものです。
 この老松については、
【鬼神神社のクロマツは、樹齢400年以上と推定され、神社建立を記念して植えられたと伝えられている。言い伝えによると、この鬼神神社には、戦でもぎ取られた左腕を、右手に持った槍に刺し、仁王の相で立っている唐金(青銅)の御神体を祭っていたといわれる。※鰺ヶ沢町HPより】と紹介されています。
 見る場所によって、さまざまな表情を見せる貫禄のあるクロマツです。

◇鬼神神社のクロマツ







 県道31号線沿いには、多くの縄文遺跡や古代の遺跡が点在していますが、いわゆる「岩木山の鬼」に関する伝承が残っている地域でもあります。
 鬼神社のある弘前市の鬼沢地区には、農業の繁栄をもたらした鬼の神通力を崇める風習がありますし、同じく弘前市の十腰内や鯵ヶ沢の湯舟には、岩木山麓に住み着く鬼を退治するために、刀を打ち上げた鍛冶の伝説も残っています。
 これらの鬼は、赤倉沢(厳鬼山)に住んでいた「赤倉の大兄」と呼ばれ、様々な話を残しています。
【昔々、赤倉に大人が住んでいるという噂があった。あるとき、村の鍛冶屋が、長さ一間、重さ60貫という、とんでもない大きな鉄の棒の注文を受けることになった。鍛冶屋は、弟子と7日もかかり、大きな鉄の棒を鍛えた。そして約束の8日目の朝早く、赤倉沢のお堂まで3人の弟子達に持っていかせた。日暮れになると、背がおそろしく高く、顔にもすねにも、毛がバラバラと生えているような男が出てきて、「お前だぢ、よぐ届げでくれだ。重くてあたべ。今、美味いものかへら」と、串にさした魚を焼いて食べさせ、もてなした。弟子はよい気分になってそのまま眠ってしまった。朝になって気がつくと、鉄の棒がなくなっており、たくさんのお金が落ちていた。お堂の方を見ると、山の茂みが踏みつけられており、二尺もある大わらじがぶらんと下がっていた。村人は、赤倉の巨人(おおひと)が注文した鉄の棒だという噂をした。※青森県音楽保存資料協会より

「鬼に金棒」といわれるように、日本各地の鬼伝説は、製鉄技術の発展とともに語られることが多いようですが、岩木山麓は、かつて日本有数の製鉄コンビナートがあった所でした。鯵ヶ沢町の杢沢遺跡
杢沢遺跡
などからは、平安時代のタタラの跡が大量に発見されています。
 岩木山麓に住んでいた古代の人々は、鉄を自由に扱い、農具や武器などを作り上げる製鉄集団を「鬼」として畏怖し、畏敬の念を持ったと思われます。弘前から鯵ヶ沢へと続く鬼伝説の存在は、そのことの証だといえるかも知れません。

 ここ建石町の鬼神神社にも、そのような「鬼の伝承」があるのでしょうか。御神木のクロマツの根元には、「鬼神」と彫られた石碑が一基置かれていました。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鰺ヶ沢町   Tags: つがるみち  名木めぐり  縄文と弥生  

石神神社ーつがるみち320


石神神社


 鯵ヶ沢町建石町は弘前市と境を接する地区です。県道31号線を弘前から鯵ヶ沢へ行く途中にある町ですが、ここが鯵ヶ沢への入口になります。
 その建石町に石神神社が鎮座していますが、鎮座地の住所も「石神」。古くから集落の産土社であったことを思わせます。
 県道沿いに「石神神社」と書かれた大きな碑(社号標)が立っていますが、そこから曲がって、山手の方へ細い道をたどって行くと神社が見えてきます。周りをりんご畑に囲まれた社です。

 この神社の由緒については、
【御祭神:上筒男命 中筒男命 底筒男命   勧請年月不詳であるが、 安永、 文化、 安政年間に再興及び再建との事あり。 明治六年村社に列格。 ※青森県神社庁HP】とありますが、詳細については不明です。

 御祭神の上筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)は、いわゆる「住吉三神」と呼ばれる水神ですが、海の神、航海の神、また和歌の神とされています。ここ建石町は、海岸までは少し距離があるのですが、こうして三柱を祭っているあたりは、いかにも海の町・鯵ヶ沢らしいといえます。

 白い鳥居をくぐって行くと境内へと出ますが、社殿の前には狛犬と石灯籠があり、建物の左右には、庚申塔や猿田彦碑、月読命碑などが数多く並んでいました。朱色が鮮やかな本殿も印象的です。

◇石神神社

 
境内
拝殿
庚申塔
月読命碑ほか
本殿



センの木


「石神」という神社名が示すように、この神社の御神体は「大石」です。鯵ヶ沢町のHPでは、
【石神神社は、集落より約1.5kmほど離れた場所にあり、奥殿には大きな自然石が御神体として祀られている。
 昔、集落の近くに神社を建立しようと石の周りの土を掘りあげたが、次の日には土が元に戻っている。同じようなことが何度も続くので、この石はこの場所から動きたくないのだということになり、現在の場所になったという言い伝えがある神社である。】と紹介しています。
 - 伝説の大石を見たかったのですが、残念ながら本殿の中を拝むことはできませんでした。

 境内には鯵ヶ沢町の文化財にもなっている名木が3本佇立しています。クロマツが1本、センの木(ハリギリ)が2本ありますが、いずれも樹齢が300年以上と推定されていて、神社創建の頃に植えられたと考えられています。
 クロマツは拝殿の前の道路際に、センの木2本は、拝殿と本殿を守るように左右にそびえていました。クロマツは可憐な感じ、センの木は2本とも堂々たる大木です。

◇クロマツとセンの木

  
クロマツ
センの木
センの木
センの木



餅ノ沢遺跡


 ところでこの石神神社一帯は、「三内丸山遺跡に匹敵するぐらいの遺物が出土した」とされている「餅ノ沢遺跡」という縄文遺跡です。
 神社のすぐ近くに発掘された石棺墓を見学できる施設が造られていますが、そこに立っている説明板には、
【餅ノ沢遺跡は、縄文時代前期後半から後期前半(約5,500年~3,500年前)にかけての時期を主体とした遺跡です。1997年から1998年にかけて実施された発掘調査では、竪穴住居跡、石囲炉、配石遺構、石棺墓、埋設土器、土坑などの遺構と、ダンボール1,000箱もの遺物が出土しました。特に注目されるのは石棺墓、大型住居などの特殊な遺構や、赤色顔料入り土器、土偶などの祭祀的性格の濃い遺物です。餅ノ沢遺跡は縄文人の生死に対する考え方や、祭祀のあり方を考える上で非常に重要な遺跡と言えそうです。】と記されていました。

 県道31号線沿いには、大森勝山遺跡や十腰内遺跡、そして旧森田村の石神遺跡など縄文時代の貴重な遺跡が点在していますが、この餅ノ沢遺跡もそのひとつです。
 ⇒以前の記事へ

◇餅ノ沢遺跡

 
餅ノ沢遺跡
餅ノ沢遺跡
餅ノ沢遺跡
餅ノ沢遺跡
餅ノ沢遺跡


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鰺ヶ沢町   Tags: つがるみち  巨石と神石  

中村町大石神社ーつがるみち311


弘前市大石神社


【日本の古神道の由来の民間信仰・神道の根底には、あらゆる物に神・精霊や魂などのマナ(外来魂)が宿ると考える自然崇拝があった。マナは太陽、山河、森林、海などから来て物、特に石や木につくとされ、そのような物を祀る磐座(いわくら)信仰や神籬(ひもろぎ)信仰が始まっていった。そのようにして祀られる巨石・岩や高木には、現在も注連縄が飾られる。※wikipediaより】とあるように、巨石は巨木と並んで神々が降り立つ「依り代」の代表的なものです。

 津軽の神社の境内にも大石に注連縄が張ってあるのをよく見かけますが、小さな祠の中を覗いて見ると、その中には自然石が御神体として納められていたりします。「石」に対する信仰のあらわれです。

 巨石を御神体として祀っている神社としては弘前市の大石神社が知られていますが、境内や山上にある大石の前に祭壇が設けられている所もたくさんあります。石の大きさや形も様々ですが、青森市入内の石神様などの奇怪な姿を見ると、一種の「畏れ」を感じます。

 このような巨石・大石が、太古から磐座として崇められてきた様子は、平川市山神社の「大石様」に古代人の線刻文が彫られていることからも分かります。山上の大石のある場所は、重要な祭祀が行われていた所でもあったのでしょう。

◇訪ねた巨石・大石

  
青森市入内の石神様
青森市中山大権現
平川市山神社の大石様
弘前市最上神社



本殿へ


 鯵ヶ沢中村町下清水崎の熊野宮を訪ねた帰り道、上清水崎の集落を通りました。青森県神社庁のHPによると、ここに大石神社が鎮座しているとのことなので、立ち寄ってみることにしました。
 だいぶ迷ったのですが、集落の道路から坂道を上って行くと、白木の真新しい鳥居が立っていました。
 鳥居からは、石段の参道が山の上へと続いています。林に囲まれた細い道です。登り終えた所に拝殿が立っていました。拝殿と向かい合った所が少し小高くなっており、そこに庚申塔が立てられています。
 拝殿の扉が開いていたので、中を拝みました。祭壇があり、いくつかの社額や奉納された絵馬などが掲げられていました。

◇大石神社

  
一の鳥居
庚申塔
拝殿
拝殿内


「大石神社なのだから、どこかに巨石が祀られているはずだ」と思い、うろうろしながら拝殿の後ろに回ってみたら、そこからさらに小高い丘に向かって登りが続いていました。そして、その上には、赤銅色の狛犬が一対あって、真ん中に祠が建っていました。どうやらここが本殿のようです。

 登っているときには気づかなかったのですが、その祠の後ろにひとつの大きな石が立っていました。文字通り、「自然の中に立っている」という感じで、いかにも神々が降り立つ神聖な磐座を思わせます。表面に何やら線のようなものが見えますが、自然にできたもののようです。

 ここの大石神社の由緒については、
【御祭神:高皇産霊神 神皇産霊神   享保五年 (一七二〇) 四月講中にて勧請し、 昭和二十二年四月から氏子一同崇敬、 昭和四十五年七月本殿・拝殿建立認可される。※青森県神社庁HP】とあります。

 御祭神に造化の神である高皇産霊神と神皇産霊神を祀っているのは、弘前の大石神社と同様です。弘前大石神社の巨石は、神域と現世(人間界)との結界とされていますが、ここの大石も同じなのだと思います。古くから村の人々に崇められてきた大石なのでしょう。

◇本殿と大石

  
狛犬
本殿
大石
大石


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中村町熊野宮ーつがるみち310


かかしの里①
  
かかしの里②


 岩木山から鯵ヶ沢へと続く県道3号線(鯵ヶ沢線)沿いに位置する中村町は「かかしの里」と呼ばれています。

【中村地区では、毎年、地域の特色を生かした田舎風景の残るほのぼのとしたのどかさを、景観的・文化的にアピールし、地域の風物詩とするため「かかしの里づくり」を実施しています。
 中村バイパスを進むと「巨大かかし」が出迎え、大小様々な「オリジナルかかし」が一列に並び、車から降りて見学したくなります。「オリジナルかかし」は、今話題の人や、人気のキャラクターなどを、「せせらぎ中村委員会」の人達が楽しみながら作ったかかしです。展示期間中、毎週日曜日には、地元の新鮮採れたて野菜や山菜などを低価格で販売する「かかし茶屋」が開店します。また、展示最終日の夕方には、「かかし供養祭」も開催します。※HP「青森県観光アプティネット」より

 かかしは、本来、米をはじめとする農作物を鳥獣から守る役目ですが、最近では安全運転の啓発や地域の話題づくりなどにも活用されることも多く、各地の道路沿いに立っている姿を見かけます。
 ここ中村町もそのひとつですが、私も車を降りて「手作りかかし」を見て回りました。保育園児や地元の婦人会の方々の力作が岩木山を背に、競うように並んで立っていました。

◇中村地区のかかし

  
かかし①
かかし②
かかし③
かかし④



熊野宮参道


 中村地区へは今年の春にも訪れて、久須志神社などを見て回りましたが、今回は下清水崎という集落に鎮座する熊野宮を訪ねました。
 鯵ヶ沢を流れる中村川は、岩木山麓に源を発する二級河川ですが、河口付近に「中村川ふれあい公園」があります。ここは「川岸の散策を楽しめる市民公園」「鮭と顔を合わせる水辺の学習空間」として整備された所で、流れる川をガラス越しに見られる水中鑑賞室もあるとのことです。
 中村町清水崎はこの中村川をさかのぼった所の広い地区で、「上清水」「中清水」「下清水」に分かれていますが、熊野宮は下流沿いの下清水地区にありました。
 - なかなか探せなくて、ふれあい公園の辺りをうろうろしたのですが。。

 熊野宮の由緒については、
【御祭神:伊邪那岐命 伊邪那美命   天正十三年中月日不詳、 明治六年四月十日村社列格、 昭和十六年三月三十一日、 供進社指定、 昭和二五年六月二十一日、 国有境内地無償譲与許可なり。 当時、 氏子数五十世帯、 崇敬者数一八五人住んでいた。
 天正十三年、 津軽為信公下渡の際、 津軽旧藩、 斉藤掃部之助は、 中村字下清水崎、 田中慶次郎なるものに開墾を命じ、 同慶次郎開拓に専心従事され、 熊野宮を建立、 勧請し、 武運長久、 五穀豊穣祈願し、 万治三年 (一六五八) 田中治平、 嘉永六年 (一八四五) 氏子村中にて再建したものである。 ※青森県神社庁HPより】とあります。

 天正13年(1585)頃に建立された神社のようですが、この頃は、油川城や田舎館城を攻略するなど、為信が津軽統一を精力的に推し進めていた時期です。同年には、天下人・豊臣秀吉に対する工作のために自ら上洛しようと鰺ヶ沢より海路出帆しています。もっともこの時は、暴風に巻き込まれ、松前沖まで流されてしまったといわれていますが。。 ⇒ 浪切り不動の話

 由緒に出てくる斉藤掃部之助については、久須志神社の縁起にも「天正十三年 (一五八五) に津軽為信公下渡の際、 斉藤掃部之助を中村に遣わされ・・・」とあり、この地域の開拓責任者だったようです。それにしても、「合戦、中央への根回し、領地の開拓」と、為信が着々と勢力を拡げていく様子がよく分かります。

◇熊野宮

 
一の鳥居
龍神宮?
境内
拝殿
庚申塔


 神社は、集落のはずれのこんもりとした森の中にありました。一の鳥居のそばには2つの神池があり、龍神様?の祠が立っています。祠のそばに柄杓が立てかけられていました。「清めの水」といったところでしょうか。
 鳥居からは参道の石段が真っすぐに続いており、途中には末社もありました。

 丘の上の拝殿のとなりには、「庚申」「猿田彦」「幸神」と刻まれた庚申塔が立っています。拝殿の扉が開いていたので、その中を拝むことができました。中には御神像や獅子頭の面などが置かれています。きれいに清められた拝殿は、地域の信仰の厚さを感じさせます。

◇末社、本殿など

   
末社①
末社②
獅子頭
本殿


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藩祖の建立「種里八幡宮」ーつがるみち266


種里八幡宮


 鰺ヶ沢町を流れる赤石川は、白神山地に源を発し、日本海へと注ぐ河川です。上流は深い渓谷が続き、赤石渓流など数多くの支流があり、美しい風景が見られます。また、赤石川に生息するアユは、魚体が金色を帯びていることから「金アユ」と呼ばれていますが、これは、赤石川に含まれる黄鉄鉱の成分がアユに吸収され、背や腹部を金色にするのではないかと言われているようです。
 かつては、流域沿いに、いくつかの城館があったとされていますが、河口から8kmほど遡った所に種里城跡があります。
 種里城は、大浦光信が築いた城ですが、光信は津軽藩の初代藩主・津軽(大浦)為信の祖であることから、この城跡一帯は「津軽氏発祥の地」とも呼ばれています。その大浦光信が勧請したとされる社が種里八幡宮です。


入口


 種里八幡宮へは赤石川を遡って行くわけですが、その途中には津軽三十三霊場8番札所である日照田観音堂(高倉神社)があります。ついでなので少し立ち寄って、名木とされているイチョウの大木
イチョウの大木
を見てきました。観音堂からさらに種里城跡を目指して進んでいくと、間もなく八幡宮へとたどり着きます。

 神社の入口には注連縄が張られた門。まるでお寺の山門のようですが、神仏混合の名残でしょうか。そばには「種里八幡宮」と書かれた扁額が置かれていました。
 門をくぐると、そこからは参道の石段が続いていますが、その両脇に見事な杉の大木がそびえ立っています。この杉は、鰺ヶ沢町の天然記念物に指定されているものですが、推定樹齢350年以上とされており、津軽為信が社殿再建時に植樹したものと伝えられています。

 この神社の社宝は、町の有形文化財となっていますが、石段の登り口に、その説明板が立っていました。その中の弓具(滋藤の弓と鏑矢)と獅子頭は、いずれも為信が社再建の折に寄進したものですが、「身正体」といわれる懸仏は、初代の神官であった奈良主水貞親(ならもんどさだちか)が、奈良の国から首につるして来たものといわれています。 ー 説明板から何段か石段を上って行くと、一の鳥居があり、小高い丘の境内へとたどり着きます。

◇種里八幡宮の社宝と境内

 
文化財説明板
社宝①
社宝②
境内へ
狛犬



境内


 この八幡宮の由緒については、
【創建は大永3年(1523)、大浦光信(種里城の城主)が、武運長久、一門繁栄を祈願して勧請したのが始まりと伝えられている古社で、神官には奈良主水貞親があたり代々奈良家が祭祀を司っています。
 大浦光信は後の弘前藩津軽家の祖と言われた人物で死後神格化され慶長2年(1597)に光信の御霊が種里八幡宮に合祀されると歴代津軽家に庇護され、社領15石が安堵され永禄12年(1569)や慶長2年(1597)に社殿の寄進が行われ、例祭の際は藩主の代参が欠かさず行われたと言われています。
 明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、明治6年(1873)に郷社に列し、昭和12年(1937)に八幡宮から現在の社号である種里八幡宮に改称、明治39年(1906)に神饌幣帛料供進社に指定されています。※HP「青森県:歴史・観光・見所」より】と紹介されていますが、歴代藩主の崇敬も厚かったこの社は、「津軽家の聖地」でもあったのでしょう。

 由緒にも出てくる初代神官・奈良主水貞親は、大浦光信の忠実な家臣だった人物で、次のような話が残されています。
ー 光信公が病に倒れて死期を悟った時、家臣で種里八幡宮の初代神官である奈良主水貞親を枕元に呼び、「汝 冥途に先立ちて 我に供養せよ」と告げた。 ー ・・・即ち光信は奈良主水に殉死を命じたわけですが、主水は、主の意を悟り、殉死したと伝えられています。少し残酷な話ではあります。
 種里城跡には大浦光信の廟所がありますが、その隣には、主に寄り添うようにして、この奈良主水貞親のお墓
奈良主水貞親のお墓
もあります。

 今まで津軽の多くの神社を訪ねてきましたが、様々な理由から拝殿が施錠されているところがほとんどです。しかし、ここ種里八幡宮の拝殿は開いており、その中を拝むことができました。
 拝殿の奥の両側には隋神像が二体置かれていますが、さらにその奥が本殿へとつながっていました。本殿の向拝の竜虎や木鼻の龍は、とても緻密な彫り物でした。

◇拝殿と本殿

 
拝殿①
拝殿②
本殿①
本殿②
本殿③


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境内でひと休み「中村町久須志神社」ーつがるみち263

 鰺ヶ沢中村町の深山神社を過ぎて、岩木山へと至る道中には、二十三夜塔や庚申塔などの石碑群があります。
 途中に白い鳥居が立っていて、そこから石段が延びていたので上ってみたところ、そこには二十三夜塔と庚申塔、青面金剛像の石碑などがありました。
 庚申の「申」は「猿」に通じるところから猿田彦と同一視され、信仰されているわけですが、猿田彦神は道祖神であり、「道案内の神様」「旅の安全の神様」として、通行人や村人を災難から守るために村境・峠・辻などに祀られることも多いようです。こうして、道端に祀られているのも、そんな信仰の表れなのでしょう。なお、「庚申」を「幸神」と刻んだりしている碑もしばしば見うけられますが、これも村人の安住と幸福を願うところからきているのでしょう。ここの石碑にも「幸神」とありました。
 私は、中村町の産土社である久須志神社へと向かったのですが、川沿いにも赤い鳥居が立っており、そこにもいくつかの石碑が立っていました。

◇中村町の石碑群

 
岩木山
石碑群①
石碑群②
石碑群③
石碑群④



久須志神社


 久須志神社は、中村町の中心部に鎮座していますが、その御祭神は、「大己貴神」「少彦名神」「金山比古神」「金山姫神」「大国主神」の五柱です。
 多くの久須志神社がそうであるように、「国造りの神」「農業の神」「医療の神」として、大己貴神や少彦名神が祭られているわけですが、前回お伝えした深山神社と同様、「金属の神」である金山比古神と金山姫神も祭られていることは、この地域の特徴といえます。

 その由緒については、
應永年中 (一四二五) 初代宮司・工藤神宮太夫は、 岩代 (現在の福島県) から鯵ケ沢の中村に来たる。 神宮太夫は、 神主として薬師堂を勧請奉仕應永三十二年に没、 二代目工藤祐太夫となる。後大国主神を合祀、 久須志宮と改めた。 その後十一代、 伊豫正之は和楽・舞にすぐれ、 津軽地方の神主の師範で門人十数人に及び、 境内地には頌徳碑が建立されてある。 天正十三年 (一五八五) に津軽為信公下渡の際、 斉藤掃部之助を中村に遣わされ、 武運長久、 一門安全祈願せられ規模大きく建立させる。 更に、 万治三年 (一六六〇) 村中で再建・明治六年四月村社となった。  初代宮司、 工藤神宮太夫が来た時から植えられている、 樹齢六百五拾年と推定される杉二本あり、 昭和二十三年、 町指定文化財となっている。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。

 古くからの由緒ある神社であるらしく、一の鳥居にはジャンバラ型の注連縄が張られており、拝殿の彫り物や木鼻なども精巧なものでした。本殿には、なかなか味のある小さな狛犬が睨みをきかしていました。

◇久須志神社拝殿ほか

 
境内
拝殿
木鼻
拝殿内
本殿の狛犬



頌徳碑


 境内には末社や祠がいくつか建っていますが、主に、入口と本殿の回りにまとめられていて、その中には稲荷様や神馬などが祀られていました。
 由緒にあるように(※上部下線)、初代の宮司の方が福島県からやってきて勧請したとされる社で、その後、代々の子孫は、地域のために尽くし、神主の師範まで務めたとありますが、その遺徳を讃えた頌徳碑は、社殿の隣に木々に囲まれ、ひっそりと建っていました。

 この神社の御神木
御神木
は鰺ヶ沢町の文化財にも指定されている二本の大杉ですが、社が建立された頃には既にここに生えていたとされ、樹齢650年ともいわれています。
 一本は一の鳥居のすぐ隣にそびえていましたが、もう一本は本殿の脇にありました。その大きさなどは分かりませんが、この神社の歴史を見つめてきた大木です。

◇末社と御神木
 
 
末社①
末社②
末社③
御神木
御神木と本殿


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枯れた老木「深山神社」ーつがるみち262


深山神社


 鰺ヶ沢町というと「海」のイメージが強いのですが、町は、南部の白神山地や岩木山麓から日本海に向けて広がっている形をしています。
 港町らしく、中心街のある海辺には白八幡宮をはじめ、海上安全を司る神社が多いのですが、一方、岩木山の麓にあたる山手の方には、海辺の神社とはまた違う御祭神を祀る社があります。今回は、そんな山手側にある中村町に鎮座している深山神社を訪ねました。
 中村町は、海辺から岩木山に向かって走る道路沿いに開けた集落ですが、辺りは広い田園地帯になっています。そんな田んぼの真ん中に、こんもりした森が見えますが、そこが深山神社です。

 この神社については、
【草創年月日不詳であるが、 村民、 新田地開懇と共に延宝五年 (一六七七) 本殿改築し、 五穀豊穣、 家内安全を祈願、 工藤清太夫が勧請し、 以来、 氏子で、 拝殿を改築した神社である。※青森県神社庁HP】とあるだけで、詳しい縁起などは分かりませんが、村人によって、大切に守られてきた社だったようです。
 その御祭神は、金山彦神(カナヤマヒコノカミ)と金山姫神(カナヤマヒメノカミ)、そして植山比売命 (ハニヤマヒメノミコト)の三柱ですが、いずれも、私には馴染みがうすく、よく分かりませんでした。
 
 神話によると、金山彦神と金山姫神の二柱は、イザナミが火の神・カグツチを産んで火傷をし、病み苦しんでいるときに、その嘔吐物から生まれた神であるとされ、嘔吐物がどろどろに溶けた鉱石を連想させることから、「鉱山の神」「製鉄の神」として信仰されてきた神様といわれています。
 岩木山麓は、かつては大規模な製鉄事業が行われていた場所で、鰺ヶ沢からは古代の製鉄に関する遺跡が発見されていたり、湯舟観音堂などに伝わる「鉄と鬼の伝説」も残っているわけですが、こうした製鉄技術は、山陰・北陸地方から日本海航路を通じてもたらされたものとされています。
 鰺ヶ沢は、古代から、そんな技術の伝来の窓口とした栄えた湊だったことを考えると、この神社に「金属の神」が祀られていることもうなずけます。
  また、埴山姫命は金山彦命と金山姫命とともに、イザナミが産み落とした一柱で、「土の神」として、農業や土木業、造園業、陶磁器製造業を営む人々に広く信仰されている神様ですが、水の神である水波能売命と同時に生まれたとされることから、「田畑の神」として祀られているようです。

 今でこそ一帯は豊かな水田地帯になっていますが、昔は潮風が吹きつける荒れ地だったわけで、土地の開墾や土壌の改良は大変な苦労を伴ったと思われます。由緒に「村民、 新田地開懇と共に」とあるように、この三神を祀ったのは、五穀豊穣を願う村人の思いの表れだったのでしょう。

◇深山神社

 
一の鳥居
境内
社殿
馬頭観音碑
庚申塔と二十三夜塔



老木①

老木②


 杉の木で覆われた境内には、狛犬と社殿のみ。入口付近には馬頭観音碑と猿田彦碑(庚申塔)、二十三夜塔が立っていました。
 数多い杉の木の中に、特徴のある大木がありました。その大きさ、太さは他の木とは別格で、ひと目でそれと分かります。樹齢は最も古く、根元にはぽっかりと穴が開いていました。まるで小洞窟のようです。
 幹は途中から90度に曲がっていたので、最初は折れて倒れているのかと思いましたが、そうではなく、しっかりと枝をつけていました。その姿形は、まるで大地にしっかりと足をおろし、踏ん張っている「首長竜」のように見えました。その年輪を感じさせる色やシワは、とても貫禄があり、「枯れた老木」という感じです。

「枯れる」という言葉は、本来の意味の他に、「練れて、深みが増す。円熟して、落ち着いた深い味わいが出てくる。」という意味にも用いられます。私も、寺社巡りを通して、そのような重厚で存在感のある老木をいくつか見てきました。この深山神社の老木もその中のひとつになりました。

◇老木たち

 
田舎館城址サイカチ
弘前市鬼沢りんご園
板柳愛宕神社サイカチ
稲垣一本タモ
田舎館熊野宮エゾエノキ


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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浜の守り神「白八幡宮」ーつがるみち51

 「縄文めぐり」をひとまず終えて、鰺ヶ沢町へとやってきました。鰺ヶ沢は、古くから海上交通の「要」として開けた港町だけに、「海」に関する史跡等も多い所ですが、ここに「白八幡宮」という神社があります。弘前八幡宮浪岡八幡宮
浪岡八幡宮
とともに「津軽三八幡」とも呼ばれ、江戸時代から、地元はもとより、大阪方面や日本海沿岸各地の商人、船乗りたちの信仰を集めてきた神社です。

白八幡宮二の鳥居


 役場庁舎の近くにあるこの社の手前には「鰺ヶ沢町奉行所跡」
鰺ヶ沢町奉行所跡
が残されています。鰺ヶ沢は、津軽藩の「御用湊」として賑わった所ですが、湊の管理や治安維持のため設けられたこの奉行所は、明治2年まで置かれていたとのことです。
 石造りの鳥居をくぐると登りの石段
参道石段
が延びており、境内へと続いています。高台にある境内からは、鰺ヶ沢港
鰺ヶ沢港
を望むことができました。境内にある宝物殿?
宝物殿?
や拝殿には、船主や船頭が航海安全祈願のため奉納した船絵馬が多数掲げられているとのことですが、見学のためには事前の申し込みが必要なようです。

白八幡宮社殿


 さて、縁起によると、この神社は大同2年(807年)に坂上田村麻呂が「蝦夷降伏祈願所」として祠を創立し、大刀一口と白旗八旗を納めて「白旗宮」と称したのが始まりとされています。康元元年(1256年)には、時の執権・北条時頼によって再建されたと伝えられ、その後、津軽為信が社殿の造営を行い、「鰺ヶ沢総鎮守」と定め、以来、歴代藩主の参拝が続いたといわれています。
 長年、海運業者や漁業関係者から崇敬され、文政4年(1822年)までは、高台の境内に「常夜塔」が設置され、灯台の役割を果たしていたとされており、その時の記念として「白八幡宮常灯碑」
「白八幡宮常灯碑」
が立っています。
 また、7世紀に阿部比羅夫がこの地を訪れたという伝承もあり、その時、境内から蝦夷渡海の日和を見るために腰掛けたとされる「比羅夫石」
比羅夫石
もありました。

白八幡宮本殿


 本殿の周りを取り囲んでいる玉垣
玉垣
は、鰺ヶ沢湊を利用した人達や船問屋達が奉納したもので、文化13年(1816年)に造られたことが記されていて、当時の鰺ヶ沢海運史の資料として貴重なものとされ、「奉納船絵馬」と共に鰺ヶ沢町指定有形文化財に指定されています。
 びっくりしたのは、この本殿の前の狛犬。狛犬というよりも「怪獣」
白八幡宮狛犬
を思わせるその姿形は少し異様な感じがしました。しかし、よく見ると風化がかなり進んでいて、かわいそうな気もしましたが。。。

白八幡宮境内


 延寶5年(1677年)に始まったとされるこの神社の大祭(白八幡宮大祭)は、京都の時代まつりと祇園まつりにとてもよく似ていることから、「津軽の京まつり」と呼ばれ、次のように紹介されています。【白八幡宮大祭は、300年以上続く伝統行事です。現在は4年に1度行われ「津軽の京まつり」とも言われています。大祭の中で最も華やかなのは、町の無形文化財に指定されている「神幸祭」(御神輿行列)。二基の神輿を中心に乗馬の神職、御神馬など、古式ゆかしい装束に身をまとい御神宝や祭具を捧持する人々は300名以上で、およそ1kmの行列となって、「行導」の音を奏でながら進みます。行列の後には、各町内の山車が続き、男児による「チャンチャレンコ」、女児による「夜かぐら」の踊りが披露されます。最終日には、御座船にお神輿をお遷しして、港町ならではの海上渡御も行われ、全ての漁船は、満艦飾に飾り立てられ、御座船の後に続き、華やかさを一層際立たせます。※鰺ヶ沢町HPより】
 都と津軽を結ぶ海運の拠点として栄えた鰺ヶ沢の繁栄を偲ばせるお祭りで、今年はその年にあたり、厳かに、そして賑やかに行われたようです。⇒白八幡宮大祭
白八幡宮大祭ポスター


 ー 様々な伝承が残るこの社は、「浜の守り神」と呼ぶにふさわしい所でした。

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となりのまちー鰺ヶ沢町「種里城址」

tanezyou1.jpg tanezyou3.jpg tanezyou2.jpg

 鰺ヶ沢町といえば、最近では映画「わさお」の舞台として脚光を浴びましたが、そのロケ地のひとつが、ここ種里城址です。津軽三十三霊場8番札所「日照田観音堂」から、少しの距離ということもあり、寄り道することにしました。

 
 さて、大浦光信が築いたこの種里城津軽藩発祥の地
津軽藩発祥の地
であり、中世を代表する城郭であったといわれています。現在も発掘調査が続けられており、その様子は先月の新聞記事
新聞記事
にも大きく取り上げられていました。現在ここは、史跡公園『光信公の館』として整備されていますが、史跡案内板
史跡案内板
を見ると当時の城郭の広大さが分かります。弘前市禅林街にある長勝寺
長勝寺
も元々はこの地にあった分けです。

 城址碑
城址碑
を見ながら石段を上ると、間もなく光信公の館
光信公の館
が見えてきます。ここには、光信公の事績や津軽家ゆかりの資料などが展示されていますが、残念ながら内部の撮影は禁止されていました。現在は週末(金、土、日)のみの開館ということです。敷地には、津軽家の紋章「津軽牡丹」に因んで、500本の牡丹が植えられており、牡丹が花を咲かせる5月~6月中旬には「ぼたん祭り」が開催され、大いに賑わいます。館の前には、采配を手にしたりりしい光信公の銅像
光信公の銅像
が立てられています。聞いた話では、生まれ故郷の久慈(岩手県)方面を見つめているとか。。。付近には、本丸跡
本丸跡
や、津軽家ゆかりの皇族の方々による「手植えの樹」
「手植えの樹」
もありました。そこから少し下った所に、廟所
廟所
があります。光信は、敵が攻めてきても「にらみ」をきかせられるように「剣や甲冑をつけたまま葬ってくれ。」と遺言したそうで、遺言通り埋葬したところ、廟所には雑草が一本も生えないとか。。光信の威厳を物語る話ですね。

   ⇒種里城址※クリックで拡大します。
   
種里城址①
 
種里城址②
 
種里城址③
 
種里城址④
 
種里城址⑤
 
種里城址⑥


   
種里城址⑦
 
種里城址⑧
 
種里城址⑨
 
種里城址⑩
 
種里城址⑪
 
種里城址⑫


 
 大浦光信が、ここ種里城を居城としたのは延徳3年(1491年)頃のことといわれています。津軽一帯は、安東氏によって統治されていましたが、やがて南部氏によって北海道に追いやられます。しかしながら、津軽奪還を図る安東氏は、たびたび、この地に侵攻を企てたため、南部氏は光信をこの地に置き、安東氏への押さえとした分けです。光信は軍事力を高める一方、民政もよくし、田畑を拓き、住民の暮らしに豊かさをもたらしたといわれています。その後、津軽統一をめざし、南部氏と対立した光信ですが、大永6年(1526年)に亡くなります。光信の悲願であった津軽統一は、やがて為信によって成し遂げられるのです。

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「日照田観音堂」ー津軽三十三寺社巡り8

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 黒石→弘前→鰺ヶ沢と「津軽路」をたどると、町並みが途切れたところには、必ず道路の両側にりんご畑と田んぼが広がっています。小高い丘はりんご畑に、平地は田んぼに・・・という感じです。中には「こんな高いところにも・・・。こんな狭いところにも・・・。」と思ってしまうほど、あらゆる場所に青々とした稲穂が見えます。こういう風景を見ていると、「津軽の人々の生活や文化を支えてきたのは”米”。」という思いを強くします。もちろん、津軽のみならず、日本の地方のほとんどはそうだと思いますが。。。 8番札所日照田(ひでりだ)観音堂も、そんな田園地帯の中にありました。

 ところで、観音様は相手に応じて33の姿になって功徳を施すとされていますが、ここ日照田観音堂の本尊は十一面観音菩薩です。ここの観音様はエネルギッシュで庶民的な観音様で、田植えや稲刈りのときは、たくましい若者の姿で現れ農作業を手伝ったといいます。観音様が手伝うと10日かかる作業が5日で終わったとされ、古くから農民に篤く信仰されてきたとか。。ですが、この言い伝え、裏を返せば「観音様=神様の手助けを必要とするくらい、この地域での稲作りは大変な仕事だった。」ということを表しているのだと思います。同じ津軽地方でも現在の黒石市、弘前市、平川市など、肥沃な土地に恵まれた所とは違って、山裾がすぐ間近に迫っているこの地域は、どちらかというと「やせた土地」だったのではないでしょうか。しかも、海が近いということもあり、潮風の影響もまともに受けたことでしょう。そんな条件の中で、苦心しながら土地を切り開き、水を引き、水田をつくっていった農民達のあしあとが、このような観音様の話になっていったのだと思います。観音堂の創建は坂上田村麻呂だとされていますが、開田が進むにつれ観音信仰は高まり、万治2年(1659年)に住民の手によって堂宇が建立されたという話や、廃仏毀釈のときも十一面観音像は、神官がしっかりと隠し持っていたという話からも、稲作と観音信仰との密接なつながりがうかがえます。 ー「日照田」という土地の名前にも、豊作に対する農民の強い期待が込められているような感じがしますね。根拠のないただの思いつきですが。。

 鰺ヶ沢の町を深浦方面に進み、赤石川にそって車を走らせると、まもなく大きな石造りの鳥居
鳥居①
が見えてきます。そこからは、およそ100mあまり参道ならぬ農道が一直線に延びていました。行き着いた先には赤い鳥居
鳥居②
が立っていて、すぐそばにある聖観音様
聖観音像
が優しく出迎えてくれます。拝殿までは急な石段
石段
を登ります。上を見上げると先客がいて、私を見ていました。どうやら、石段の幅が狭いので、私が登り切るのを待っていてくれたようです。お礼を言うと「ちゃんと、あし(足)、あがってらでば。」と言い、にっこり笑ってくれました。「よくがんばってのぼりましたね。」という意味です。こういう一声はうれしいものです。
 参拝を済ませ、拝殿
拝殿
や本殿の周りを見て回った後、石段を降り、ここの名物であり、鰺ヶ沢町の指定文化財でもある大イチョウ
大イチョウ
の木を見ました。幹回り8m以上という巨木です。このイチョウの葉っぱが全て落ちると根雪(春まで溶けない雪)になるといわれています。また、その大きな乳根
乳根
にさわると乳の出がよくなるとされており、ご婦人の参拝客も絶えないとか。。。

 帰り道、私は、辺り一面の稲穂が黄金色に染まる秋には、今とはちがう別の風景が広がっているのかな・・。と思いつつ車を走らせました。
 
                        ☆津軽三十三寺社巡り☆


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「北浮田弘誓閣」ー津軽三十三寺社巡り7

北浮田弘誓閣(きたうきたこうせいかく) ー 何とも響きの良い名前ですが、ここが7番札所です。日本海に面するこの地方一帯は、鎌倉時代から戦国の世にかけて安東(安藤)氏から南部氏、そして津軽氏へと、たびたび支配者が移り変わった所ですが、ここ北浮田のある鳴沢地区には「戸波(とわ)城址」が残されています。築城年代や城主などが分からず「幻の城」と言われていたのですが、最近の調査によれば、かなり大規模な城郭であったとされています。この城に甲斐の国から落ち延びてきた南部政光

南部政光

 南部 政光(なんぶ まさみつ、生年不詳 - 応永34年2月3日(1427年3月1日))は、根城南部氏第8代当主、南北朝時代から室町時代に活躍した武将。別名に四郎、茂行、祐長、薩摩入道がある。雅楽助、薩摩守。政光は南部信政の子とされているが、政光の別名とされる南部祐長は南部義行の子として、南部茂時・南部信長・南部為重らの弟とも、南部茂時の子ともされる人物。1372年(文中元年)に、兄の信光から家督を譲られる。信光には嫡子長経がいたが幼少だったためという。光は成人すると、母の加伊寿御前が南部政長から譲られた七戸の地を根拠地とした。この後、政光は甲斐に在住しているが、南北朝が統一されると1393年(明徳4年)に、再び八戸に根拠地を移している。また、晩年には甥の長経に八戸の地を譲って、自身は七戸に居を構えた。1427年(応永34年)2月3日に逝去。
~wikipediaより~
が入城し、家臣の浮田氏をここに住まわせました。この浮田氏がここの村落を拓いたため、「浮田」の集落名が生まれたとされています。しかし、先回の湯舟観音堂からわずかの距離、ここにも先回同様、「鉄」と「鬼」の伝説がありました。曰わく、~刀鍛冶の娘がほしかった大蛇(竜ともいわれます)は若者に化け、十腰(本)の刀をつくった。若者の正体を知った鍛冶は、1本を隠し、それを鳴沢川に捨てた。ところが、その太刀は川底から浮かび上がった。その場所を「浮太刀」という。~ この「浮太刀」が「浮田」という地名になったという分けです。どっちが本当?などと問うのは野暮というものでしょう。

 さて、観音堂は天和2年(1689年)に庄屋であった惣兵衛という人物が創建したといわれています。その後、寛永年間(1784年~)からは第7番札所として大いに賑わいました。それについて『津軽三十三霊場ー北方新社』は、次のように記しています。~「鯵ケ沢港が間近い鳴沢地区は、昔上方と蝦夷地を結ぶ津軽の門戸として、江戸時代には駅逓として栄えていた。そのころの札所巡りの善男善女も、山深い鯵ケ沢街道を抜け、鳴沢にたどり着くと明るい海を見つけ、ほっとひと息ついたろう。」~ このように民衆に親しまれた観音堂も、明治になるといったん廃社になり、高倉神社となりました。地元住民の厚い願いにより、高倉神社内にお堂が再建されたのは昭和41年(1966年)のことでした。弘前市の久渡寺から、聖観音菩薩像を譲り受け、お堂は「弘誓閣」と名付けられたのです。

 七番札所案内板
案内板
にしたがって坂道を上ると高倉神社の鳥居
鳥居
が見えてきます。くぐった参道付近
参道
には、以前、小学校があったということです。子ども達が歓声を上げて元気に走り回っていた姿が目に浮かびます。拝殿
高倉神社拝殿
の隣に観音堂
観音堂
はありました。聖観音弘誓閣
北浮田弘誓閣
の文字が鮮やかです。
 この観音堂の前には大きなイチョウの木
イチョウの木
がありますが、かつては、この木のそばに清水がコンコンと湧き出ていました。この清水は万病に効いたとされ(目の悪い人が清水で目を洗えば治る・・・といった)、津軽地方のみならず、南部地方や遠くは北海道からも水を汲みに訪れた人々も多かったといわれています。残念ながら今は枯れ果てており、その面影はありません。しかし、このお堂の前には、地域の人々によって奉納された手水岩
手水岩
があり、往時を偲ばせてくれます。

 参拝の帰りに何気なく草むらを見たら、その陰に何やら白いもの
白いもの
が見えたので、何だろうと思い草をかき分けてみると、あの○○○不動産と書かれた七番札所
七番札所
の看板でした(確か5番厳鬼山神社と6番湯舟観音堂にはなかったような?)。看板には「七番北浮田大悲堂」の文字・・・。いろいろ名称を変えながらも、地域の人々はしっかりとこのお堂を守ってきたのですね。。

                        ☆津軽三十三寺社巡り☆
 
 




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「湯舟観音堂」ー津軽三十三寺社巡り6

    yubuneda1.jpg    yubuneda2.jpg
 津軽三十三寺社巡り、今回からは西津軽郡鰺ヶ沢町に入ります。鰺ヶ沢町には札所が3つありますが、いずれも「高倉神社」と呼ばれています。なお、鰺ヶ沢には同名の神社がたくさんあり、どうしてこの地に高倉神社が集中して在るのか、とても興味のあることですが、あまり深入りしないことにします(知識が追いついていけません)。今回訪れたのは6番札所である湯舟(ゆぶね)観音堂です。この観音堂にはとてもおもしろい話が伝えられています。
→「昔、ここに鬼神太夫という刀鍛治がおり、その刀の威力で村人を悩ましていた鬼を退治した。また、鉄の鋤や鍬をつくって農民に与え、農業を発展させた。村人は、鬼神太夫に深く感謝し、観世音菩薩として祀った。」
→「刀鍛冶の娘に岩木山に住む大蛇が恋をし、若者に化けて鍛冶の家に弟子入りした。腕前が上がったので、鍛冶はこの若者に娘をやり家督を継がせようと、一夜のうちに十腰(本)の刀を鍛えれば娘をやる。と約束した。若者は大蛇の姿に戻り、懸命に刀を打ち、十腰の刀を鍛えた。しかし、その姿(大蛇)を見てしまった鍛冶は、刀を一腰隠してしまった。夜が明けて、十腰に足らぬことを知った若者(大蛇)は、「とこしない!とこしない!(刀が十腰ない)」と叫びながら弘前方面に立ち去った。(先回紹介した)「厳鬼山神社」のある「十腰内」という地名は、そこから起こったといわれている。」    ※以上、~『津軽三十三霊場』北方新社~他を参考にしました。※
 
 さて、十腰内の「内(ナイ)」をはじめ、青森には「ナイ」のつく地名がいくつかありますが、「ナイ」はアイヌ語で「小さな川=沢」を意味します。「沢」は製鉄に適した場所。古代から、鉄を扱う工人達が岩木山麓の「沢」に住みつき、製鉄を行っていた・・・。村人にしてみれば、山奥で顔を真っ赤にしながら「タタラを踏んでいる」彼らは、まさしく「」に見えたのかも知れません。しかし、次第に、豊かな実りをもたらす鉄の農具をつくるその鬼達を崇拝していった・・・。農具ばかりではなく、彼らがつくる武器は、坂上田村麻呂をはじめとする東征軍を恐れさせ、ますます「鬼」は神格化されていった・・・。~この辺りにある「鉄」と「鬼」の伝説の背景には、そんな歴史が隠されているのではないでしょうか?
 実際、岩木山の山麓一帯では膨大な量の鉄滓(てっさい)が出土しており、製鉄事業の中心地であったことが分かっています。特に、この観音堂のある湯舟地域の杢沢(もくさわ)遺跡からは、タタラ(砂鉄を原料にして鉄をつくり出すための製鉄炉)が大量に発見されています。ここ湯舟観音堂には、そんな伝説の「証」として、聖観音菩薩の他に、鉄をつくるときに出る鉱滓(こうさい・こうし)も本尊として祀ってあります。

 5番札所の厳鬼山神社から鰺ヶ沢方面に向かって約8㎞。大きな表示板の通りに進むと観音堂が見えてきます。一の鳥居からは真っ直ぐに参道
参道
が延びていて、その石段を登り詰めた所に拝殿
拝殿と本殿
があります。拝殿の中
拝殿の中
には、いかにも海の町「鰺ヶ沢」を示すように北前船
北前船
を思わせる絵馬が掲げられていました。古代、この地に製鉄を広めた工人達は、このような船に乗って日本海を渡り、鰺ヶ沢の港に上陸したのでしょうか・・・・。絵馬のそばには、本尊である聖観音菩薩
聖観音菩薩
を描いた額も奉納されていました。

 
 帰りに、石段の上から下を見下ろすと、「」から延びた平地いっぱいに水田
田んぼ
が広がっていました。

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