
深浦町の北金ヶ沢は、「日本一の大イチョウ」があることで知られています。
久しぶりに訪ねてみましたが、秋には黄色い葉っぱのトンネルができるイチョウの木も、春の初めということで、まだ葉っぱも茂っていませんでした。それだけに巨大な幹や乳根がはっきり見え、その大きさには圧倒されます。

この大イチョウのそばをJR五能線が走っていますが、線路に沿って道路が延びており、北金ヶ沢の集落が広がっています。
道路は弁天崎へと続いている分けですが、その途中に春日神社の社号標が見えたので、立ち寄ってみました。
社号票から民家に挟まれた路地を進むと、間もなく踏切につきあたりました。踏切の向こう側に一の鳥居があり、そこから小高い丘に向かって石段が延びているのが見えます。
なかなか急な坂道でしたが、石段を上りつめると社殿が見えました。左側には末社の稲荷神社、右側には大きな御神木がそびえています。
この大木はケヤキの木ですが、深浦町の有形文化財になっていて、
【直径およそ1.1メートルと、当町屈指の巨木として住民から大切にされています。※深浦町HP】と紹介されていました。もともと山地に自生するケヤキですが、台地や平地では防風林として利用されてきたとのことです。この大木も浜風から神社を守ってきたのでしょうか。
境内のすぐそばまで山が迫っていて、切り立った崖の下には、赤い屋根の祠がいくつか立っていました。
この神社の由緒については、
【御祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと) 元禄11年(1698)勧請、明治12年拝殿改造村社に列せられる。北金ヶ沢の産土神として崇敬されている。※深浦町HP】とあります。
今回は拝殿の中を拝むことはできませんでしたが、拝殿には有形文化財の「鮫漁絵額(カドザメ漁を描いた大型の絵馬)」が奉納されていて、明治時代の漁業を知る貴重な資料となっているとのことです。
◇春日神社









せっかく海辺の町へやってきたので、春日神社から漁港の方へ足を伸ばしてみました。
ここまで来ると、強い潮の香りがします。港には、大小の漁船がつながれていました。
少し曇り空でしたが、遠くには岩木山が見えます。弘前の方から見える形とは少し違いますが(三つの峰が逆)、なかなか味わい深い山容です。
港のすぐそばに胸肩神社がありますが、昔から漁師たちから「弁天様」として崇められてきた社です。御祭神は市杵島姫命でしょうか。
境内には、庚申塔をはじめ多くの碑や、様々な神仏を祀った祠がたくさん立っていました。
◇胸肩神社




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



昨年の9月の末に、深浦町岩坂に鎮座する磐境神社を訪ねました。
岩坂は、五能線の陸奥柳田駅付近から国道101号線と別れ、大童子川(おおどうじがわ)という川をさかのぼる県道191号線沿いにある集落です。
「岩坂」という町名が、この磐境神社に因んだものなのかどうかは分かりませんが、「磐境」については、
【磐座・磐境(いわくら・いわさか) 神社の原始的祭場。自然の岩石またそれに多少の人工を加えたもので,そこに神を招いてまつった。高天原のそれが天津(あまつ)磐境であり,その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。 ※コトバンクより】とあります。
「さか」は神域との境を意味するともいわれていますが、この岩坂の集落は、まさに神域(ここでは岩木山)との境をなす山里といった感じです。
磐境神社の一の鳥居は集落の道路沿いに立っていますが、境内はそこから坂道を登った所にあります。
石段を登り切ったところに、二本の大杉がまるで門のように佇立していますが、深浦町の文化財にもなっているこの杉の木は、神社建立の折りに鳥居替わりとして植えられたものとされています。
その由緒については、
【御祭神:伊邪那岐神 伊邪那美神 保食神 大山祇神 元和2年(1616)創立の熊野宮、石動)と、享保3年(1713)稲荷神社(大童子)末社、山神の祠を合祀して、明治40年「磐境神社」と改称、旧社格村社岩坂三村の産土神として信仰されている。※深浦町HPより】とあるように、昔から信仰を集めてきた産土社であったようです。
◇磐境神社





磐境神社からさらに山奥の方へ。ますます神域に近づく感じですが、しばらく進むと石動(いするぎ)という集落があります。ここにイチョウの名木があるということなので行ってみました。
村にたどりついたものの、目当ての大イチョウの木が見つかりません。うろうろしていると、ちょうどトラクターが通りかかったので、その場所を聞いてみました。「田んぼにそって走る細道をしばらく行くとイチョウが見える」ということだったので、その通りに進みました。
だいぶ細い道だったので、ゆっくりゆっくり進んで行くと、やがて、道路の両側に大きな木が立っているのが見えました。二本の大木の根元には軽トラックが止まっていましたが、これが大イチョウでした。私が訪ねたときには天気も良く、稲刈りの真っ最中で、農家の方々が忙しそうに働いていました。
この二本の大イチョウは、道路を挟んで仲良く並び立っているため「石動の夫婦イチョウ」と呼ばれています。ですが、実際はどちらも雄株で、一応、川側(田んぼ側)が「夫」で山側が「婦」とされているようです。
推定樹齢は不明ながらも、樹高は「夫」が26m、「婦」が22mで、幹回りは、どちらも11m以上といわれています。
山側に小さな祠あり、隣に説明板が立っていましたが、それには、
【町指定天然記念物 夫婦イチョウ このイチョウは道を挟んで2本並んで立っており、2本とも幹回り11.20mで、10mを越えるイチョウは県内では珍しいものです。
昔、3人の杣人(そまふ)が、マサカリでイチョウに穴を空けハチミツを取ったといわれています。
川側のイチョウの幹にはマサカリで開けたと思われる穴があり、山側のイチョウの幹はカミナリが落ちて燃えたあとが黒く焦げて空洞となっています。
昔から神木として信仰あつい老巨木です。】と書かれていました。
二本のイチョウに近づいて見ると、確かに「夫」には杣人の穴、「婦」には雷の焼け焦げがありました。
深浦町は「イチョウの宝庫」ともいわれるように、イチョウの名木がとても多い町で、この「石動の夫婦イチョウ」もそのひとつなのですが、何しろ、すぐ近くに日本一の北金ヶ沢の大イチョウや折曽のイチョウがあるためか、その知名度は今ひとつのようです。「山里にひっそりと佇む名木」といったところでしょうか。
◇石動の夫婦イチョウ









ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



【深浦発祥の歴史は定かではありませんが、深浦が記録上に現われたのは、今からおよそ1,300年の昔、斉明天皇四年のことで、日本書記には阿部比羅夫将軍が蝦夷討征をして帰順した蝦夷たちを有馬の浜(吾妻の浜)に招いて大響宴を催したと記されています。 ※深浦町HPより】
以後、十三の安東氏の繁栄の拠点であったことから「安東浦」とも呼ばれ、北前船の全盛時代には「風待ちの湊」として栄えてきた分けです。
一方、自然に恵まれたこの地は、関の亀杉や北金ヶ沢の大銀杏などの巨木・名木も多いことでも知られていますが、銀杏をはじめ、たくさんの古木が密集している所は全国的にも珍しいといわれています。
- そんな深浦町の人々の古くからの信仰を集めてきた社が神明宮で、ここに名水「トヨの水」があります。

道路沿いにある社号標にしたがって少し歩いて行くと、間もなく茅葺屋根の水屋と大きな一の鳥居が見えてきます。この鳥居、石の四角の柱を組み合わせて造られており、あまり見かけない珍しいものです。
境内は、鳥居から延びた石段を登った高台にありました。石段の上からは深浦の海が見えます。横に広い大きな拝殿の前や後ろには龍神宮などの末社 が建っていました。いずれも年代を感じさせる古い祠です。
この神明宮は、【寛永11年 (1634) 津軽2代藩主・信枚が海上航行の安全と国中安泰祈願のため、吾妻館に勧請。元禄11年 (1698) 4代藩主・信政が、吾妻館の宮遠きに付き、中沢鎮座熊野宮に遷座神明宮となり、熊野宮も合祀。しかし、西海岸の豪族であった木庭袋伊豫守頼清が吾妻館を築いた時、木庭袋氏の内神である御伊勢堂を祀り建立 (神明宮) とあるから、1500年代から吾妻館の館神として祠はあったものと推察される。社家となっての初代木庭袋若宮大夫平信貞、「慶長18年 (1613) 中沢熊野宮社司となる」とあるので、寛永11年は2代木庭袋時大夫の時代に津軽藩主信枚が再建のような形で勧請し、4代信政の時代に現在地に遷宮熊野宮も合祀したものと思われる。この拝殿が明治6年に深浦小学校として使われたそうである。※青森県神社庁HPより】
- 「小学校として使われた」そうですが、確かに大きな拝殿です。
『深浦町史』他によると、木庭袋伊豫守頼清は、「文亀2年頃(1502~1520)に深浦に入り、東妻城を築き、後に南郡平賀の大光寺城主となったが、天文2年(1533)南部高信に攻められ、壮烈な戦死を遂げた。」とされている実在の人物です。その後、木庭袋家は、永禄、元亀、天正年間と戦国の動乱に巻きこまれ、居城(吾妻館、深浦城)は落城。以後、没落し、社家となった。」といわれています。
境内の一角に「花塚」という石碑がありました。説明書きによると、【安政2年2月に建立されたこの石碑は、表面に「花塚」と刻まれていることから「花塚」と呼ばれています。・・・裏面には文化年中に活躍した浦谷源助の「花塚やきのふの露に蝶ふたつ」の発句と、山崎元雄の和歌「いけ花にこころをこめし□(不明)のらばいく世たむへき神の社に」が刻まれています。】とありました。文化から安政にかけて活躍した深浦の文芸人たちの足跡を残している貴重な石碑のようです。
◇神明宮境内






さて、「トヨの水」は、古くから崇められ、愛されてきた霊泉ですが、地元の人々は親しみをこめて「しんめいさまのとよのみつこ」と呼んでいるとのことです(しんめいさま=神明宮、みつこ=清水)。
境内の手水舎(この手水舎にも満々と水があふれていました)の隣にこんな説明板が立っています。
【このトヨの水は藩政時代から禊、水垢離、茶道の清水に使われ、また往時日本海を往来した北前船にも積み込まれた貴重な飲み水でした。今もなお茶を嗜む多くの人々に愛用されています。】
付近に高い山もないのに、いったいどこから湧き出しているものなのか不思議です。
「トヨ」は「豊」なのでしょうか。尽きることのない「豊かな水」は、「豊かな生活」をももたらしたのでしょう。深浦の海を望む高台にあるこの神明宮は、人々の憩いの場であるとともに、「聖地」でもあったのでしょう。
◇トヨの水





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆




深浦町の中心部に入る手前に「大岩」という景勝地があります。文字通り「大きな岩の島」なのですが、国道から遊歩道が延びており、歩いて行くことができます。その遊歩道の入口付近に鎮座しているのが「恵比須神社」です。ここもまた小さな島になっていて、赤い鳥居が立っており、島の上に社殿があります。
その由来書きには「恵比須澗口(まぐち)の入江を利用して漁業を営む上田豊吉が、海上安全と大漁を祈願して、祠堂を建立。以後、一帯に住む人々の信仰を集める。」とありました。
御祭神は「事代主命(ことしろぬしのみこと)と船魂主命(ふなだまぬしのみこと)。事代主命は「えびす様」と同一神とされる、漁業と商業の神で福神でもある分けですが、船魂主命については、【船霊(ふなだま)とは海の民が航海の安全を願う神。天平宝字6年(762年)に嵐にあった遣渤海使船能登で、無事の帰国を船霊に祈ったことがあり、起源は相当古いようである。御神体が有る場合と無い場合がある。ある場合は人形、銅銭、人間の毛髪、五穀、賽などを船の柱の下部、モリとかツツと呼ばれる場所に安置し、一種の魔除け・お守り的な役目を果たす。また、陸上に船霊を祀る神社をおく場合もある。※wikipediaより】といわれています。
船霊(船魂)を祀ったのは漁民の他に船大工。棟梁は船が完成すると船霊をまつる儀式を執り行ったとされています。 ー 事代主命(恵比須神)、船魂主命・・ともに漁業のまち「深浦」にふさわしい御祭神だった分けです。
◇恵比須神社と大岩






恵比須神社を過ぎると、間もなく深浦町役場がありますが、この役場の庁舎の向かい側に岩壁を掘りぬいた隧道があります。
名前は「猿神鼻岩洞門」。穴門とも呼ばれるこの洞門は、深浦港への物資の安全な運搬の為に、明治25年から明治39年に行われた能代道改修工事の際に「猿神鼻岩」を掘削し造られたものです。
「猿神鼻岩」とは、道路側に突き出た大岩が猿の横顔に似ていることから名づけられたとされていますが、北前船の風待湊である深浦湊の象徴的な存在で古くから信仰の対象となっていたとのことです。
なお、この洞門は「深浦十二景」のひとつにも数えられていて、説明板には【深浦十二景猿神鼻夕照 「奇巖怪石湾東に聳江、巖上の古松翠影を波に漂はし、一條の路道岩を穿通して三個の洞門を作す、夕陽沈む處岩に波に松に絶佳の光彩を添ふ。」 大正四年十月 西津軽郡誌 島川観水著より。】と記されていました。
◇猿神鼻岩洞門






ところで、深浦町を含む西海岸一帯は、日本海に沈む夕日が美しい風光明媚な場所で、「日本の夕日100選」にも選ばれている所ですが、円覚寺のそばにある岡崎海岸も絶景スポットのひとつです。この海岸にも鳥居と社をいただく岩島があります。名前は「弁天島」。深浦町の古くから知られた名所のひとつですが、島の頂上にある展望所からは、深浦の港を望むことができます。
ここは「弁才天」を祀っている社ですが、案内板には【港口に位置するこの岩島は弁財天鎮座の島といって安東水軍盛んな時代からすでに「安東船守護深浦弁天島」と称され崇敬されていた。藩政時代の享保元年(1716年)町の船問屋や漁民は航海安全、豊漁祈願のための弁財天を祀る小祀を建てた。昭和13年修復されたとき、その造りの見事さは工匠を感嘆せしめたと言う。】と記されていました。
水の神「弁才天」を祀る社は、海辺に多く、「弁天島」と呼ばれる島や岬は各地にありますが、これは、弁才天が、海の神である宗像三女神の一柱「市杵嶋姫命(いちきしまひめ)」と同一視されているからでしょう。
- 安東水軍、北前船・・・深浦町の海の歴史を物語っている岩島です。
◇弁天島





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆




このイチョウの木は、「関の甕杉・折曽のイチョウ」のすぐ近くにあります。同じ道路沿いということで、「三名木」を合わせて訪ねる人々も多いようです。この大樹は「垂乳根のイチョウ」とも呼ばれ、古くから崇拝されてきた分けですが、伝説によると、阿倍比羅夫がここに神社を建立した時に手植えしたものとされています。
「日本書記」には阿部比羅夫が蝦夷征伐をした際、帰順した蝦夷たちを有馬の浜に招いて饗応したと記されていますが、「有馬の浜」は深浦の「吾妻の浜」だといわれており、このイチョウの由緒もそんな伝承に根ざしているようです。また、南北朝の頃には、ここに金井安倍氏(安東氏)の寺院が築かれていたともいわれています。

推定樹齢が約1,000年、幹回り22m、高さ31m(40mとも)というこの日本一のイチョウの巨樹は、近づくにつれてその大きさが実感できます。正に「巨人」という感じでしょうか。古からの信仰のあとを物語るように、周りには多くの祠 が建てられています。地面すれすれまで 葉っぱが横に広がっていて、「逆さ竜」が刻まれた灯籠 の奥にある地蔵堂は埋もれていました。
後ろの方に「礼拝堂」と書かれた社 があります。阿倍比羅夫が建てた神社の跡なのでしょうか、安東氏の寺院跡でしょうか。ここの狛犬はとても面白く、前列の一対は地上20cm位、とても低い位置にあります。初めからこうだったのでしょうか?また、後列のものは体が正面を向いていて、顔だけが中を見ているという、ちょっと変わった狛犬です。 ⇒礼拝所の狛犬

大イチョウの中に入ると、まるで森の中に足を踏み入れたような気がしました。発達した大きな気根 が刺すように地面の中に伸び、それがまた、巨大な幹 を形作っていて、その鋭くとがった気根 と穴の開いた幹は、まるで鍾乳洞のようです。イチョウは、太古の時代を生き抜いてきた「生命力の強い」木であるといわれますが、このような姿を見ると、そのことがよく分かります。まだ本格的な黄葉ではなかったものの、色づき始めた葉っぱをつけた枝は 縦横に絡まり、上の方へと伸びていました。
⇒「北金ヶ沢の大イチョウ」スライド

さて、私は帰り道、日照田観音堂へ立ち寄りました。夏に訪れたとき、その青々とした稲穂を見て、「刈り入れの頃にもう一度訪れてみたい。」と書いたことを思い出したからです。もちろん収穫はとっくに終わっていて、辺りは「冬を待つばかり」 といった感じでした。
ここにも「名物イチョウ」があります。伝承によると、このイチョウの葉っぱが落ちる頃には「根雪」になるのだとか。。それまでにはまだ間がありそうです。
※記事の画像はいずれも11月中旬のものです。
☆つがるみち☆



大イチョウの多くは、その見事な「乳根」に因んで「たらちね(垂乳根)の銀杏」とも呼ばれ、特に女性の信仰の対象となっている名木をはじめ、「神木」として崇められているものも多く、様々な伝説なども残されています。

県南・十和田市にある「法量のイチョウ」 は、樹齢が約1,100年、高さ32m、幹回り14.5m、青森県では2番目に国の天然記念物に指定された大樹です。
平安時代、ここには「善正寺」というお寺があったとされていて、このイチョウは寺院創建の記念として植えられたと伝えられています。また、このイチョウは、十和田湖伝説 の主である南祖坊(なんそのぼう)が手植えしたものだという伝承も残されています。
「明神様」とも呼ばれるこのイチョウは 【毎年黄葉する前に初雪の季節を迎え、緑を残したまま落葉してしまい、日本一気難しいイチョウと写真愛好家たちを嘆かせる。しかし、いったん黄葉すると、杉林の濃い緑を背景に見事なコントラストを見せてくれる。※広報「とわだ」より】ということですが、今年はどうなのでしょうか。。

上北郡・おいらせ町にも推定樹齢1,100年という「根岸のイチョウ」 があります。こちらは高さ約32m、周囲は16mとされている名木です。
「長寿日本一の大いちょう」と呼ばれているこの巨樹には慈覚大師にまつわる伝承があります。 【恐山に向かう道すがら、この地を通りかかった大師は、川のほとりの小高い丘に腰を下ろし、景色を眺めていたが、旅の疲れに、いつの間にか手にしていたイチョウの杖に寄りかかって眠ってしまった。大師が目を覚ましたところ、イチョウの杖に根が生え、動かなくなってしまった。そこで大師は、いきさつを記した紙片と、一体の不動尊像をその場に置いて立ち去った ※案内板より】 ー その大師の残した杖が大樹となり、現在の大イチョウになったという分けです。伝説はともかく、このイチョウが昔も今も人々の信仰の対象であることには変わりないようです。

さて、私は「関の甕杉」を見た後、駐車場に引き返しましたが、そこには素晴らしい大イチョウがありました。この辺りは昔、「折曽の関」という山城があった所ですが、その地名に因んで「折曽のイチョウ」と呼ばれています。高さは約20m、周りは12mといわれていますが、いわゆる「番付」にはのっていません。「隠れた名木」とでもいえばいいでしょうか。その整った姿形は 駐車場からもよく見え、私たちの目を楽しませてくれます。側には、地元の「長寿会」の方々による銀杏観音 も立っていました。樹齢は1,000年ともいわれているこのイチョウにあやかってのことでしょうか。近づいてみると、まるで巨大な傘の中にすっぽりと入ったようです。土に突き刺さったような乳根?、太い幹回り、地面すれすれまで広がった黄色い葉っぱなど、なかなかどうして堂々たる大樹でした。
⇒折曽のイチョウ
☆つがるみち☆



遠くから見た姿が水甕を伏せた形に似ているので、「甕杉(かめすぎ)」と呼ばれるこの大杉は、古くから信仰の対象だったようで、その名前は昔、「神木(かみすぎ)」と呼ばれていたのが訛って「かめすぎ」になったともいわれています。この名木の側には、南北朝時代の「古碑(板碑・供養塔)」が数多く建てられており、「関の甕杉と古碑群」と呼ばれる名所のひとつになっています。

駐車場から少し坂道を歩いて行くと、長い石段が見えてきます。 ここが入口で、その先には赤い鳥居。入口の手前には
案内板とともに菅江真澄の碑 が立っていました。
江戸時代の紀行家・菅江真澄は、寛政9年(1797年)にここを訪れ、その著『都介路廻遠地(つがろのおち)』で「かめ杉は山ぎはの小高き処にあり、その木のもとに貞和三年(1347)貞治六年(1367)石ぶみどもたてり。」と記しており、当時から大杉と古碑があるこの場所は「名所」だったことが分かります。
鳥居をくぐった所に古碑と杉の木はあり、近くには、いくつかの祠とともに「金井安東古地之碑」 という安東氏の顕彰碑が立っていました。

顕彰碑の通り、この古碑群は安東氏ゆかりのもので、説明板には、【この古碑は61~160cmある大小不同の自然石を使用した供養碑でこの場所から42基出土されており、最も古い碑は暦応3年(1340)で新しいのは応永8年(1401)と判明しています。・・碑面には安倍(※安東)という姓が刻まれていることからその一族を供養するために建てられたと推測され、・・宗派的には"阿号"が判明されているので、一遍上人を開基宗祖とする時宗の信徒によったものと考えられます。】とあります。
深浦は、安東氏の要港として十三湊とともに賑わい、鎌倉時代から南北朝時代にかけてその拠点だった所ですが、この大杉のある辺りには、「折曽(おりそ)の関」という山城(館)があったといわれています。
1268年(文永5年)頃から、津軽で蝦夷の反乱が相次いだため、この地を治める蝦夷管領代官・安藤季長(あんどうすえなが)は、その鎮圧にあたっていましたが、蝦夷の抵抗は収まらず、鎌倉幕府は1325年(正中2年)に代官職を季長から同族の季久(すえひさ)に替えます。ところが、このことが安東氏の内紛を招く結果となり、津軽は大乱に巻き込まれることになります。「安東氏の乱(※津軽大乱とも)」と呼ばれるこの争いの調停のため、幕府(北条得宗家)は、たびたび追討使を派遣しますが、容易には沈静化できなかったされています。
この大乱は、時代的には「元寇」から鎌倉幕府滅亡(1333年)までの出来事であり、鎮圧できなかった幕府の権力の弱体化を物語るものでもあるとされていますが、 この乱の当時、安藤季長が城を構えた所が、この「折曽の関」で、多くの供養塔は、その争乱を偲ばせる遺跡として重要視されている分けです。
古碑は、祭壇を真ん中に 前列、後列に分かれて整然と立っていて、碑には梵字や願文、願主名、年紀など が刻まれていました。

さて、「関の甕杉」は、高さ約30m、幹回り8.2m、樹齢は1000年といわれる大樹です。
近づいてみると、その大きさ、どっしりとした姿形 に圧倒されますが、「荒々しい」という分けではなく、たくましさの中にも、どこか「可憐」さを感じさせる大杉です。
この名木は、古の多くの争乱の歴史を見つめてきただけではなく、その整った容姿は 街道を旅する人々に「安らぎ」をも与えてきたのだと思います。
☆つがるみち☆



北前航路の要港であったこの深浦の観音様は「澗口観音(まぐちかんのん)~”澗”は港の意、港の入り口にあって航海安全・商売繁盛を守護する観音様~」と呼ばれ、船乗り達の信仰の対象でした。航海中、嵐に遭った船乗りたちは自分の髷(まげ)を切り落とし、一心不乱に安全を神仏に祈願したとされます。そうして助かった後、切り落とした髷をここに奉納していった分けです。寺宝館にはそれを伝える「髷額」や「船絵馬」がたくさん奉納されており、それらは国の重要有形民俗文化財に指定されています。
また、境内には「竜灯杉」と呼ばれる高さ30m程の大杉がありますが、海が荒れたとき、船乗り達が祈ると、この杉から光が放たれ、船を無事に港まで導いたとされています。灯台の役目をしていたのですね。この霊木「竜灯杉」には紅白の綱が張られていて、祈りながらそれを引くとパワーをもらえるとか。。
山門には、京都の吉田源之丞大仏師が、宝歴9年(1759年)から約10年がかりで造り上げたとされる阿吽(あうん)の仁王像。天井には竜神。見つめていると気が引き締まります。 ↓クリックで拡大します。







境内には、たくさんの寺宝がありますが、中でも薬師堂 にある厨子は、室町時代初期から中期の作といわれ、青森県最古の木造建造物であり、国の重要文化財に指定されている貴重なものです。
先ほどの竜灯杉の紅白の綱もそうですが、叩くと「金」の音がして小金持ちになるといわれる鐘石(しょうせき) や、そばに立っているほほえみ観音 、すましたお顔の童地蔵などを見ていると、気持ちが和みます。
私が本堂 を訪れたのは、ちょうど「お講」が始まるときでした。多くの方々が本堂の中に座っていました。やがて、朗々とした読経が始まると皆さんいっしょに唱和していました。見ていると厳かな気持ちになりました。
⇒円覚寺本堂スライド
この円覚寺は、檀家を持たないお寺ながらも、古くから津軽家歴代藩主や船乗り達、そして地域の信仰厚い人々によって、守られてきたお寺です。休みの日は家族連れの方々で賑わうということです。
☆津軽三十三寺社巡り☆




津軽三十三霊場巡礼の旅、ひとつの区切りとなる10番札所が、ここ西津軽郡深浦町にある円覚寺です。深浦町は日本海側の天然の良港として栄えてきた町です。
ところで、「日本海(側)」と「太平洋(側)」を比べると、太平洋が「明・陽」とすれば日本海は「暗・陰」といった感じで語られることが多い気がします。気候条件の違いも大きいとは思いますが、出雲のオオクニヌシの国譲りとか、義経の逃避行(安宅の関)など、もの哀しい話が数多く日本海側に残っていることが、そんなイメージをもたせているのだと思います。芭蕉も『奥の細道』の中で「・・松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し・・」と書き分けていますし、松本清張の『ゼロの焦点』にも日本海の厳しく暗鬱な風景が描かれていました。
しかしながら、古くは縄文時代から明治の初期にかけて、日本海側の地域こそ、経済や文化の中心であった分けです。わが青森県の三内丸山遺跡は、縄文時代を代表する遺跡ですが、そこからは、大陸や北海道、北陸地方との交流を物語る「証」がたくさん見つかっています。また、出雲地方や「越国」と呼ばれた北陸地方の日本海沿岸には、古代に強大な王権が存在したことを思わせる遺跡が数多くあることなどを考えると、大陸との玄関口である北九州から津軽にかけて、日本海を中心にした交易や技術・文化の交流が頻繁に行われていたことが分かります。あの戦国時代の英雄である上杉謙信も日本海ルートを活用して、京の都などとの交易を盛んにし、莫大な富を築いたといわれています。謙信は”義”の人、戦の天才といわれていますが、その強さはこの「経済力」に負うところが大きかった分けです。
さて、深浦の港 もまた古くから交易の拠点だったわけですが、最も賑わいをみせたのは北前船 の時代です。私は、円覚寺のすぐ前にある風待ち館 に入ってみることにしました。この館は北前船に関する資料等を展示しています。深浦港は「風待ちの港」とも呼ばれ、嵐をさけ、航海に良き風が吹くまで船を停泊させる絶好の場所だったといわれています。館の脇には北前船を模した大きな模型?がありました。その名も深浦丸! 。。記念写真のスポットになっているようです。
館の中で特に目を引くのは、やはり「深浦丸」。江戸時代後期に活躍した北前船(700石積)の3分の1の復元模型です。 ※下の画像をクリックすると拡大します。







また、館の中には北前船が立ち寄った主な港 の図も展示されており、当時の海運の盛んな様子が偲ばれます。
北前船の往来は、寄港先の副業を生みだし、その土地でつくられた陶器や衣類 などが盛んに売買されたといわれています。一方、文化の伝播役としての役割も大きく、展示されている金色に輝く仏壇 などは、そのことをよく表しています。
しかし、私たちが考える以上に当時の航海技術は優れていたとはいえ、相手は荒海「日本海」。航海の無事を祈り、奉納された船絵馬 や、石の重り を見ると、航海の大変さが伝わってきます。
円覚寺は津軽三十三霊場であるとともに、そんな「海の安全」を祈願する寺院でもあります。次回は、そんな円覚寺の境内の様子などについて述べてみたいと思います。
☆津軽三十三寺社巡り☆




この見入山観音堂は、康永3年(1344年)の創建とされています。江戸時代には、円覚寺(10番札所)が山伏達の修験場に充てていたとのことです。そんな縁もあり、ここの納経所は円覚寺にあります。大正11年に観音堂は全焼しましたが、地域の強い願いにより、ほどなく再建され、現在に至っています。本尊は「如意輪観世音菩薩」。本堂の中 に白衣観音、地蔵菩薩とともに祀られています。
観音堂からの下りは、上りより大変でした。手すりにつかまって、滑らないよう注意しながら一歩一歩ゆっくり降りました。けっきょく、持ってきた登山用のストックはあまり役に立たなかったような。。。無事に上り下りできたのは、道中の3つの観音様のおかげだったかな。。
⇒見入山観音堂スライド
☆津軽三十三寺社巡り☆

