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のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  

出来島四所神社 - つがるみち444




 つがる市木造出来島の海岸に最終氷期埋没林があります。
 この埋没林は、およそ30000年前、最終氷期後期のものとされていて、その規模は世界最大級といわれています。
 以前に一度行ったことがありますが、荒涼とした海岸に、急激な温暖化に伴い水没し枯死した針葉樹林の根株が顔を出している様は、とても不思議な光景でした。




 埋没林へ行く途中に出来島の雉子森という集落を通るのですが、ここに四所神社が鎮座しています。
「四所」の「四」は御祭神の数を表しているのですが、祀られている神様は、保食神・多紀理比売命・多紀津比売命・市杵島比売命の四柱です。
 市杵島比売命をはじめとするいわゆる「宗像三女神」を祀っているのは、いかにも海辺の神社という感じがします。

 その由緒については、
【創立年月日 万治弐年。 明治六年四月村社に列格。 明治四十二年八月神饌幣帛料供進神社に指定せられる。 昭和二十五年三月三十一日国有境内地譲与許可せられる。※青森県神社庁HPより】とありますが、詳細については分かりません。万治の頃(1658-1660)は津軽藩による大規模な新田開発が始まった時期であり、この神社もその時期に五穀豊穣を願って建立されたものと思われます。

◇四所神社






 道路沿いに立つ一の鳥居のそばには、社号標と龍が刻まれた御神燈があり、そこから赤い鳥居が何本も立つ参道が続いています。鳥居をくぐって、ゆるやかな石段を上った所に社殿が立っています。
 拝殿と本殿の横の少し高い場所には赤い鳥居が立っていて、その奥には薬師如来の石碑が祀られていました。集落で昔から崇められてきた薬師様です。

 神社の入口には二つのお堂が立っていましたが、ひとつは弘法大師を祀るお堂でした。ここには遍路姿の大師の立像があり、お堂の中に座像が祀られていました。

 そして、その隣りには馬頭観音堂がありました。「馬頭観音」と書かれた石碑の上に大きな龍(蛇)が架けられています。これは西北津軽の伝統行事「虫送り」の虫です。

◇薬師如来ほか



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高城八幡宮 - つがるみち442




 つがる市森田町の下相野地区は、津軽民謡「弥三郎節」の発祥の地として知られていますが、ここに高城八幡宮が鎮座しています。
「八幡宮」という神社名よりも、むしろ「下相野観音堂」という名称で呼ばれているように、ここは津軽三十三霊場の11番札所として、多くの信仰を集めている社です。
 私も霊場めぐりをしているときに一度訪ねたことがあります。

 その神社としての由緒については、
【御祭神:誉田別尊  高皇産霊神 倉稲魂命 如意輪観世音菩薩  当社は、 寛文五年 (一六六五) に勧請。 これより先、 寛文年間に、 現境内地の奥まった所に、 如意輪観音像を安置する約一坪程の観音堂が創建されていた。 元禄三年七月 (一六九〇)、 集落民の五穀成就と家内安全等の祈願所として社が再建。 延享三年 (一七四六) に集落民が崇拝する産土神と観音像を合祀したが、 明治三年 (一八七〇) に 「神仏分離令」 が出され、 観音像は棄却、 没収されることとなったが、 集落では観音像を秘かに隠しておいて、 身代わり像をわたしたと言われる。 現在本殿には、 三柱の産土神と観音像とが合祀奉齋されている。 明治六年 (一八七三) に郷社に列格される。 社名は旧もと 「八幡宮」 であったが、 隣接の高皇産霊神社と統合したことから、 「高皇産霊」 の 「高」 の一字と、 八幡宮は堀に囲まれ、 「城構えの景観」 だったことから 「城」 の一字を頂戴して、 「高城八幡宮」 と名称を改めたと言われる。※青森県神社庁HPより】とあります。
 由緒に書かれているように、かつては堀をともなった砦のような境内だったようですが、現在はその面影は見られません。

◇高城八幡宮






 石造りの一の鳥居のとなりに由緒板があって、そのそばには月夜見大神と猿田彦神の石碑が並んで立っています。
 参道には、手水舎や狛犬が一対置かれていますが、拝殿のそばには多くの祈願札が下げられていて、三十三霊場の雰囲気が漂っています。拝殿の横には如意輪観音像もありました。
 扉が開いていたので拝殿の中に入って拝みましたが、線香のにおいが漂よっていました。お参りする人々が絶えないようです。
 この神社を再訪した理由は、津軽の水神・水虎様を見たかったからなのですが、境内のどこに祀られているのか分かりませんでした。いろいろ回ったのですが、大きな木の下に末社らしき建物があったので、中に入ってみました。
 中の祭壇の上に小さな祠があり、扉を開けて見ると、小さな水虎様が大切に祀られていました。木彫りの河童型の水虎様です。

◇水虎様ほか



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富萢稲荷神社ーつがるみち386




 旧木造町から旧車力村へと、県道12号線沿いに鎮座している神社をいくつか訪ねてきましたが、つがる市の富萢(とみやち)町にやって来ました。
 この辺りまで来ると、十三湖はすぐ目の前なのですが、富萢町(旧車力村)は、岩木川とともに十三湖へと至る山田川(岩木川水系の一級河川)の河口付近に広がっている集落です。




 この富萢町の藪分という所に稲荷神社が鎮座しています。
 場所が分からず、けっこう迷ったのですが、小高い山と森が見えたので、そっちへ進んでみるとそこが境内でした。
 一の鳥居の前に「富萢開村記念碑」という大きな碑が立っており、そこから参道の石段が上に向かって延びていて、二の鳥居のそばには「富萢農協発祥の地」と書かれた碑もありました。この辺り一帯が、開発の中心地だったのでしょう。

 三の鳥居からは道が分かれていて、右手の方へ少し下ったところに緑色の建物があったので覗いて見ると、中には観音様が祀られていました。左手の方には、さらに石段があり、境内へと続いています。

 丘の上の境内には、いくつかの鳥居と御神燈、庚申塔などが立っていますが、奥津軽の稲荷神社らしく、ほっかむりをしたきつね像も置かれていました。拝殿の中のきつねも、ほっかむり。
 末社は、境内の入口付近と、社殿の後方に立っていましたが、入口付近の祠には、これまた、ほっかむりをした石(石仏)が祀られていました。

◇庚申塔、きつね像ほか



 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂神  初開は元文元年 (一七三六) 八月氏子中より建立し、 御棟札は最勝院より納め置き候とある。 享保十一年 (一七二六) 新田開発に専心している農民が十三潟より逆流する潮害の為甚大な被害をうけているので、 神の鎮護を祈って建立したと伝えられる。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 神社入口の「富萢開村記念碑」には「享保十一年  一七二六年十一月 棟方作左衛門 新田開発の儀仰せつけられ 其の際百姓多く寄り集りて 富萢村と相改め・・」と、村落成立の歴史が書かれていますが、同じ時期に豊作を願ってこの神社は建立されたのでしょう。

◇境内






 由緒に「十三潟より逆流する潮害の為甚大な被害・・」とありますが、元来、この地域は、稲作に適さない湿地帯であったため、開発に携わる農民たちの労苦は大変なものだったようです。
 - 【津軽平野の開田は、津軽藩2代藩主の信枚公時代の新田開発令(1620年)が始まりとされ、江戸時代中期には、米作でかなりの高い生産技術を有し、津軽藩の財政を支える根源であったといわれるまでになりました。 しかし、地域の中心をなす岩木川の改修は遅々として進まず、大正中期までは自然河川に近い状態となっていました。特に、岩木川の最下流部の十三湖は、日本海への水戸口が度々閉塞し逆流氾濫や塩害、更には中小河川の断面極小による溢水等により付近の耕地は多大な被害を受けていました。また、極端な湿田で「腰切田」「乳切田」と称されるように、腰や胸まで浸かりながらの農作業を強いられるなど農業生産環境は劣悪なものでした。 ※農林水産省 北奥羽調査だより「十三湖地区の生い立ち」より抜粋】 -
 江戸時代、このような劣悪な環境の中で、稲作に励む農民たちをさらに苦しめたのは度重なる飢饉と、藩の重い年貢の取り立てでした。

 腰までぬかる「腰切田」の話は、津軽の農業哀史として児童文学にも取り上げられていたり、
鈴木喜代春『十三湖のばば』 
句にも詠まれています。

ー 「腰切田の津軽農史や雪霏々と」  松宮梗子 - 

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車力町大山祇神社ーつがるみち385




 前回お伝えした牛潟八幡宮を過ぎ、さらに北上すると袴形池(はかまがたいけ)という大きな池が見えてきます。
 その形が袴に似ていることから「袴形池」と呼ばれるようになったということですが、牛潟池と同様、水深が3mほどで、冬場はワカサギ釣り客で賑わう農業用溜池です。
 牛潟池と袴形池に挟まれた地域が旧車力村の中心です。現在は車力町となり、つがる市役所の支所が置かれていますが、ここに大山祇神社が鎮座しています。

 その由緒については、
【御祭神:大山祇尊  初開享保六年 (一七二一) 氏子中より建立とあり、 七里長浜の砂岩木山の嵐を防ぐ屏風山の植林を鎮護する目的で建立したと伝えられる。 ※青森県神社庁HP】とありますが、この神社もまた、木造筒木坂の山神社同様、屏風山の守り神として大山祇神を祀る社のようです。

◇大山祇神社
 





 この神社は高台にありますが、道路沿いの一の鳥居をくぐり、石段を上ると視界が開け、まるでグラウンドのような広い境内があります。
 参道には、三対、合わせて六体の狛犬がありますが、置かれている間隔が広く、一の狛犬、二の狛犬、三の狛犬といった感じです。私が訪ねたときには、境内で工事が行われていましたが、年々、境内全体が拡張されているような気がしました。

 社殿の後方は一段高い丘になっていますが、その下に末社が立っています。中を覗いて見ると、そこには馬頭観音が祀られていました。この祠の前には神馬像があります。

 拝殿の左側には、庚申塔が立っていましたが、そのとなりに石室があり、小さな祠がひとつと、両手を合わせた女神姿の水虎様が五体祀られていました。

◇狛犬、庚申塔、馬頭観音






 さて、袴形池ですが、牛潟池と同じく、この池にも平将門の伝説があります。
【袴形の池というのがあり、池の側に城跡がある。昔、正子どの(平将門)という人がその城に住んでいた。側仕えをしていた都から来た女が、この池で自分の袴を洗おうとした。ところが、どうしたことか袴は向こう岸に流れ、それを取ろうとした女も池に落ちて死んでしまった。そこで「袴潟」といい、また、池の形が袴に似ているので、「袴形」ともいう。※『青森の伝説』より

「池の側に城跡がある。昔、正子どの(平将門)という人がその城に住んでいた」とありますが、大山祇神社の近くには、かつて「柾子館(まさこだて)」という城(館)が築かれていました。
 この城は、弘元二年(1332)頃、鎌倉幕府の武将である柾子弾正という人物が、京からこの地に入部して居館とした城だといわれています。「正子どの」というのはこの柾子弾正のことなのかも知れませんが、それが平将門に置きかわっているようです(もちろん、伝説ですが)。
 余談ですが、「車力(しゃりき)」という地名の由来は、「砂力(サリキ)」からきたという説や、アイヌ語の「サルキ(草原の湿地帯)」を語源とするという説がありますが、その他に、前述の柾子弾正が「京都から牛車に乗って来た」ことに因むという話も残されているようです。

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牛潟八幡宮ーつがるみち384




 県道12号線を十三湖方面に進んで行くと、つがる市牛潟町(旧車力村)になりますが、ここに「牛潟大留池」という広大な池があります。
 水深は約3.5m、農業用の溜池として大きな役割を果たしているこの池は、冬場はワカサギ釣りでにぎわう所です。
 この牛潟池には、平将門に関する伝説が伝えられています。

【・・・牛潟という大きな池がある。承平の昔(九三一年ごろ)平将門がこのあたりの館に住んでいた。ある日、愛用の牛が突然ものに恐れて、この池に飛び込んで死んだ。それから牛潟とよぶようになった。※『青森の伝説』より

 津軽には源義経をはじめ、中央から逃れてきた人物の伝説がいくつかありますが、平将門もその一人です。青森市の入内観音堂には、将門の子孫がこの地に住み着いたとする伝承があったり、また、蓬田村の蓬田城には、文明年間に将門の8代後の子孫が城主となったという話も残されています。




 その牛潟池の岸辺に鎮座している社が牛潟八幡宮です。
 この神社の由緒については、
【御祭神:譽田別尊  慶長十七年村中にて建立、 明治六年四月に筒木坂山神社へ合祭。 同八年二月復社。 同九年十二月村社に列せられる。 昭和三年十一月四日神饌幣帛料供進神社に指定される。 昭和二十七年四月四日国有境内地譲与許可される。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 牛潟町は2013年に生誕400年を迎えましたが、それを記念してこの八幡宮で神事が執り行われました。
【慶長17年(1612)、赤石沢種里から来た石舘与助という人が、牛潟村に近野沢溜池と潟溜池を築き、山田川まで排水路を工事して、田畑15ヘクタールを開発したことを現在の牛潟町の始まりとし、牛潟八幡宮で400年記念の神事が行われました。※『広報つがる』より
 ー 由緒の詳細については分かりませんが、大切な神事が執り行われるこの神社は、集落の中心となっている社のようです。

◇牛潟八幡宮






 前には道路、後方には牛潟池が社殿のすぐそばまで迫っているという、比較的狭い境内ですが、敷地には鳥居をはじめ、御神燈、狛犬、神馬、庚申塔などが所狭しと並んでいます。
 草鞋を足に巻いた神馬の後ろ側に大きなケヤキの木がありますが、そのとなりに石造りの祠が立っています。その中にはお遍路姿のお坊さんを思わせる像が一体祀られていましたが、これは弘法大師の姿を表しているのでしょうか。
 末社は本殿のとなりと神馬のとなりに立っていますが、その中には石仏が安置されていました。
 拝殿の軒下に、「八幡宮」と刻まれた何やら異様な塊が掲げられていましたが、よく見るとそれは大きな亀甲でした。そのそばに説明書きがありますが、それによると「西海岸で死去していた大亀を拾い、牛潟温古萢羽黒神社前の水溜りにて解剖処理の上、甲を大事に乾かし、昭和3年に奉納した」ということです。
 ー 拝殿に大草鞋や鉄の草鞋、鬼の面などが掲げられている神社はよく見かけますが、亀甲は初めてです。

◇神馬、末社、本殿



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筒木坂 山神社ーつがるみち383




 津軽地方では、例年、田植えが終わった時期に「虫送り」という行事が行われます。「虫送り」は、稲に被害を与える害虫を追い出し、五穀豊穣と無病息災を願う農村の伝統行事です。
 その一連の流れは、「稲わらで虫(龍)の人形を作り、集落内を練り歩き、村の境に安置し、災いが村に入らないことを願う」というものですが、各地区ごとに個性的な「虫」が作られるなど、集落独特の取り組みも行われています。
 ⇒つがる市の虫送り
つがる市の虫送り ※つがる市HPより


 つがる市の筒木坂(どうぎざか)の集落でも、毎年、「虫送り」が盛大に催されます。柳の枝を腰に結び付けた若者が「荒馬」となり、行列の先頭に立って走りながら一軒一軒を回って歩き、それぞれの家が、行列の人をねぎらうために用意した笹餅や酒の肴を振るまうというお祭りが続けられています。




 筒木坂は、戸数はおよそ150、旧木造町の丘陵地帯に位置し、屏風山の林に守られるように、水田が広がっている集落です。
 この集落の産土社として崇められてきた社が山神社です。
 実際に訪れてみたのですが、一の鳥居のそばに立っている社号標には「大山祇神社」と刻まれていました。大山祇神社は、しばしば「山祇神社」や「山神社」となっていたりしますが、この社もそのひとつのようです。

 その由緒については、
【御祭神:大山祇神  創立年月日不詳。 明治六年旧社格を村社に列格。 明治四十二年神饌幣帛料供進指定。 ※青森県神社庁HP】とあるのみで、詳細は不明ですが、屏風山造林に際し、山林守護のため鎮祭が執り行われたという記録もあり、村の稲作の生命線である屏風山の林の守り神として崇められていたようです。

 私が訪ねた時には、ちょうど氏子の方々の総会が行われていたようです。拝殿の中には神主さんをはじめ、地域の方がたくさん集まっていて、にぎやかな会話がはずんでいました。今年の「例祭」や「虫送り」についての話し合いだったのでしょうか。

◇山神社境内






 道路沿いの石段を上ると、拝殿までの参道には鳥居が三つ。境内には、御神燈や狛犬、足に草鞋が巻かれた神馬などが置かれています。
 ひときわ目をひくのが、拝殿の横にそびえているクロマツの大樹です。一の鳥居のそばに「クロマツ」と書かれた標柱が立っていましたが、文字がかすれていたために、その高さや幹周り、樹齢などについては分かりませんが、この神社の御神木なのだと思います。
 少し大げさですが、クロマツの根元は、まるで巨人の足を思わせる形をしており、足の指でがっちりと地面をつかんでいるように見えました。
 そのクロマツのとなりに赤い屋根をした石づくりの祠があったので、氏子の方に聞いてみたら「水虎様だ。」と教えてくれました。

 扉を開けて中を拝んで見ると、真ん中に大小2体の水虎様が祀られていました。河童の姿をした木彫りの素朴な感じのする水虎様です。

◇水虎様ほか



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菰槌鹿嶋神社ーつがるみち382




 前回ご紹介した丸山八幡宮を過ぎ、県道12号線を進むと、亀ヶ岡遺跡へと至りますが、途中に菰槌(こもつち)という集落があります。
 集落の中に鹿嶋神社が鎮座していますが、その由緒などについては、
【御祭神:武甕槌神  創立年月日不詳。 明治六年旧社格を村社に列格。※青森県神社庁HP】と書かれているだけで、その詳細については分かりません。




 道路沿いに位置するこの神社は、境内の左右には民家、後ろ側は田んぼになっていて、明るく開けた感じのする社です。
 参道には神馬が一体と、御神燈と狛犬が一対ずつ。拝殿の横には庚申塔や二十三夜搭、猿田彦碑などが並んで立っていました。
 季節がら、境内の木々はまだ葉っぱがついていませんでしたが、社殿を囲むように背の高い木々が何本かそびえています。
 中でも、最も年輪を経ていると思われるものがオオバボダイジュの木で、手前に標柱が立っているところをみると、この神社のご神木なのでしょう。後ろから見ると、空洞化が進んでおり、いかにも「老木・古木」という感じです。

 拝殿の左側の木の根元に石造りの祠がありましたが、ここには馬頭観音が祀られています。末社の祠は境内の右側の奥に2つ立っています。小さな方の祠の中に祀られていたのは水虎様でした。

◇鹿島神社境内









 実はこの神社の境内には、かつて、多くの松の木があったそうですが、「強い風雪に耐えるだけの力が残っていないため」に、昭和52年、多くの村民が見守る中、すべて切り倒されたとのことです。
 その中の一本は、高さが約25m、幹周りが約4m、樹齢はおよそ230年のご神木でしたが、その切り株が拝殿の祭壇の横に置かれています。
 壁に、ご神木だったこの松の木に関する説明が記された額が掲げられています。

◇鹿嶋神社のご神木
「天和2年(1682)、舘岡村の野呂理左衛門が砂丘地に松の木の植林に成功し、寛延年間(1748-1751)には植林総数862,200本を数え、「緑の屏風山」と呼ばれ、美田4,000町歩、木造新田66ヶ村を形成するに至った。この頃には菰槌村の人々の生活も安定してきた。そこで村人は境内に松の木を植えて、この繁栄が長く続き、村に災いがないように神様に願った。
 しかし、津軽の村々の生活はきびしい自然とのつらく長い闘いの連続であった。天明年間の長雨、大風、冷害、霜害や、天保年間の天候不順、冷害などのため、境内の松の木の成長も十分ではなかった。切り株の年輪の間が、ものすごく狭い時期が何か所か見られるのはそのためである(※栄養もなく日も当たらず厳しい環境で育った木は成長も遅く目が混んでいる)。
 もちろん、米はほとんどとれず、人々は飢えに苦しみ、多くの人が死んだりした。飢饉のため、屏風山の松の木は切られて根は食料になり、木は米代になったりして、一時は30,000本にまで減ってしまった。けれども、この神社にあった松の木は切り倒されることはなかった。※説明書きを要約・抜粋。原文のままではありません。

 江戸時代の悲惨な農民たちの暮らしが伝わってくる記述です。そんな困窮した状況にも関わらず、境内の松の木を切り倒さなかったということは、この神社は村人が深く崇敬する産土社であったことを示しているように思います。

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丸山八幡宮ほかーつがるみち381




 つがる市木造(旧木造町)は、ため池の数がとても多い所で、十三湖に至る道路沿いには多くの池や沼が点在しています。
 有名な亀ヶ岡遺跡がある辺りには「大溜池」と呼ばれる大きな池がありますが、このため池は、2代藩主・津軽信枚がこの地に「亀ヶ岡城」を築こうとした際に、城の堀にするために造ったものといわれています。結局、築城の途中、幕府から「一国一城令」が発せられたため、「亀ヶ岡城」は幻となりましたが、その後、「大溜池」は農業用貯水池として活用されることになりました。
 4代藩主・津軽信政の時代になると、新田の開発が進み、ため池の整備や拡張が行われましたが、丸山地区にある「丸山ため池」もそのひとつです。
 



 県道12号線沿いに広がる丸山ため池ですが、住所は丸山竹鼻で、一帯からは縄文時代の石器などが発見されています。大きなため池の向かい側は小高い丘になっていますが、そこに八幡宮がありました。
 その由緒については、
【御祭神:誉田別尊  検地水帳によれば元文時代八幡社の一か所あり。 「宮建有之工藤河内抱」 と記され、 工藤河内が祭司していたことがうかがわれる。 明治六年四月越水村吹原天満宮へ合祭。 同七年復社、 同八年村社に列せられる。※青森県神社庁HP】とありますが、詳細については分かりません。

 石段を上って、石造りの鳥居をくぐると、右手に赤い鳥居が続いており、その奥に社殿が立っていました。丘の上の境内からはため池や田んぼなどが見渡せます。
 境内には、御神燈と神馬が一体、狛犬が一対置かれていましたが、本殿の後ろ側には「大国主命」「岩木山神社」「猿田彦大神」と書かれた碑が並んで立っていました。

 丘の端っこの方に、石で造られた祠がひとつ立っています。中を覗いて見ると、そこには両手を合わせた水虎様が祀られていました。以前に尊殿堂を訪ねたときに拝んだものと似た感じの神様です。

◇丸山八幡宮









 丸山八幡宮を過ぎて、出来島方面へ車を走らせたのですが、途中に松林があり、道路際に「羽黒神社」と書かれた立て札がありました。
 案内にしたがって、林の中の細い道を進むと赤い鳥居があり、社殿がひとつぽつんと立っています。
 社殿の横は急な崖になっていましたが、下へ続く遊歩道があります。どうやらここは、丸山ため池の岸辺にあたっているようです。
 歩道を降りて、岸辺の方に行ってみましたが、枝にさえぎられて池はよく見えませんでした。道の周りの湿地には、白いミズバショウの花が咲いています。
 鳥居と社殿だけが立っている境内ですが、敷地にはベンチなども置かれており、これからの季節、農家の方々の憩いの場になるのでしょう。

 この羽黒神社の由緒などについては全く分かりませんが、古くから地域の崇敬を集めてきた社のようで、拝殿には「丸山羽黒神社讃歌」と題して、次のような一文が掲げられていました。

「津軽平野と丸山の 里を東に望みたる 屏風の山

 屏風山は津軽藩が今から300年ほど前に造林した「保安林」のことで、日本海からの潮風と飛砂を防ぐために丘陵地帯に植林し、そのさまが「びょうぶ」をめぐらしたようだとして屏風山とよばれている。
また、屏風山地域はスイカの産地としても有名であり、昼夜の寒暖差が大きいため糖度が増し、高い甘み・みずみずしさが特徴。
~青森県観光情報サイトアプティネットより~
の一郭に 老松茂る杜の中 里を加護して幾百年 羽黒の神は有難や」

◇羽黒神社



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沼崎稲荷神社ーつがるみち357


沼崎稲荷神社


 つがる市稲垣町(旧稲垣村)の沼崎という所に稲荷神社が鎮座しています。
 この神社は、昨年の暮れに同じ稲垣の春日神社を訪ねた帰り道に偶然見つけた神社です。
 岩木川の土手の下に広がる集落の道路を走っているときに、田んぼの中に赤い鳥居が立っているのが見えたので、行ってみると稲荷神社がありました。




 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 猿田彦大神 大宮姫命  貞享元年七月十日に勧請す。 明治六年四月に出野里神明宮に合祭される。 明治七年十二月復社。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 その詳細については分かりませんが、貞享元年(1684)の創建とされているところをみると、やはり、一帯の新田開発とともに生まれた社のようです。

 由緒に「出野里神明宮に合祭される」とありますが、出野里(いでのさと)は、旧木造町の集落です。ここ稲荷神社のある沼崎周辺は、稲垣と木造の境目にあたる所で、出野里神明宮の由緒にも「稲垣村豊川の春日神社及び同村沼崎の稲荷神社の2社を合祭」と記されています。

 稲垣といえば「化粧地蔵」ですが、この神社の入口付近にも地蔵堂があり、中にはおそろいの着物を着たお地蔵様が祀られていました。一の鳥居のとなりに、もうひとつ鳥居があって、その奥には百万遍の塚と庚申塔があります。

 境内には大きな神馬などがありますが、稲荷神のお使いであるきつね像も四体置かれています。いずれも頬かむりしている姿は、いかにも「西津軽」といった感じです。

◇沼崎稲荷神社

  



  





 参道の右側にも鳥居があって、小さな祠がひとつ立っています。中を覗いて見ると、緑色の岩に腰をかけ、両手を合わせた女神様が一体祀られていました。どうやらこの女神は水虎様のようです。
 水虎様は元々、
「水害の原因である水中に住む河童の霊を鎮めるために祀られた神様」で、その姿は河童だった分けですが、次第に亀に乗った女神姿のものも多く祀られるようになっていきました。

 ここ稲荷神社の水虎様は、「白い体と亜麻色の長い髪」の神様で、一見女神様のようですが、よく見るとその表情は河童の面影を残しています。
 すべての水虎様を訪ねてみた分けではありませんが、80以上もあるといわれる水虎様の中には、典型的な「河童型」と「女神型」のものの他、こうした「河童のような女神のような」姿形のものもあります。

◇水虎様 - 河童型から女神型へ
 
  


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豊川春日神社ーつがるみち353


春日神社一の鳥居


 津軽地方に「春日」と名のつく神社は、数多くある分けではありません。
 青森県神社庁HPには、深浦町北金ケ沢の一社、弘前市葛原(旧岩木町)の一社、そして青森市田茂木野の一社が、御祭神に天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀る「春日神社」として紹介されています。実際にはもっとあるのかも知れませんが、巡っていないので。。


御神燈と狛犬


 つがる市稲垣町(旧稲垣村)の豊川という地区に鎮座する春日神社もそのひとつです。
 旧稲垣村は、明治22年(1889年)に千年村、吉出村、沼館村、穂積村など九つの村が合併してできた村ですが、その中に豊川村の名前もあります。
 これらの集落は、岩木川沿いに広がる低湿地帯で、かつては再三川の氾濫に悩まされてきた所ですが、稲垣町に点在する2,000体もの化粧地蔵は、水害等で亡くなった幼子の霊を慰めるために置かれたともいわれています。
 豊川の集落も、すぐそばまで岩木川が迫っており、現在は長い土手の上を県道43号線が走っています。春日神社は、この道路から急な坂道を少し下った所にあり、その周りは田んぼに囲まれていました。

 その由緒については、
【御祭神:天児屋根命  享保三年九月二十七日に産土神として勧請す。 明治六年四月に木造町出野里鎮座の神明宮に合祭される。 明治七年十二月に復社する。 ※青森県神社庁HP】とありますが、その詳細については分かりません。

「春日神社」と書かれた小さな木札(扁額)が架かっている赤い一の鳥居の奥に境内があります。参道には、新旧の御神燈や神馬、狛犬などが並んで立っていました。
 訪ねた時期が昨年の12月下旬だったので、境内を覆っている樹木の葉っぱもなく、がらんとした感じでしたが、それだけに、辺りの木に縦横にからみついている藤の蔓の姿が目につきました。特に、社殿の横のものは巨大で、そばの木に巻きついている様子は、まるで「龍」を思わせます。

 境内に赤い屋根のお堂がありましたが、その中を覗いて見ると、3体の神仏が大切に祀られていました。
 右側(向かって)のものは不動明王だと思われますが、真ん中と左側のものは、両手を合わせた河童姿の水神・水虎様でした。黒、青、緑色に塗られた色鮮やかな姿です。
「岩木川を境にして、その西側の水虎様は主に河童型のものが多い」といわれていますが、確かに、この春日神社は岩木川の西側に鎮座しています。

◇春日神社

  
境内
拝殿
藤蔓
末社



  
狛犬
不動明王?
水虎様
水虎様



奉納絵馬


 さて、御祭神の天児屋根命は、神話では、
【春日権現、春日大明神とも呼ばれる。岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、古事記には中臣連の祖となったとある。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。※wikipediaより抜粋】とされていますが、拝殿の中には、その天岩戸隠れの場面を描いた大きな絵馬が掲げられていました。

 天児屋根命は藤原氏(中臣氏)の氏神ですが、津軽藩初代藩主・為信は、豊臣秀吉の時代に、南部氏からの独立を図るために、近衛前久の猶子となり、「藤原姓」を名乗り、本領安堵が認められました。
 そういういきさつもあって、津軽家では、春日神(春日大社の分霊)を祀る必要性があった分けですが、弘前市の高照神社には、古くから春日四神(武甕槌命・伊波比主神・天児屋根命・比売神)を祀る小祠があったと伝えられています。また、弘前市には「春日町」という町がありますが、その町名は、かつてその地にあった「春日宮」に因んだものとされています。

 ここ豊川の春日神社もその創建については不明ですが、津軽氏の領地であったことから、そういった「春日神」に対する信仰が根づいていた土地でもあったのでしょう。

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武甕槌神社ほかーつがるみち340


大黒天


 道路沿いに赤い鳥居を伴った祠、地蔵堂、注連縄が張られた庚申塔や二十三夜塔、百万遍塚など・・津軽ではよく見かける光景です。
 つがる市木造(旧木造町)は、そんな場所が特に多いところで、道端にたくさんの碑や祠が立っています。9月に千代田という集落沿いを走っていた時に、たくさんの石碑が立っている場所をみつけました。
 道路沿いに、赤い鳥居と二本の松の木があって、その奥に小さな祠や庚申塔、石仏が彫られた碑、大黒様の像などがあります。
 後ろには広々とした田んぼ。私が立ち寄ったときは既に刈入れも終わった後でしたが、これらの碑や石仏は「豊作祈願」のためにここに置かれたものなのでしょう。向かい側には、八幡宮が鎮座していました。

◇石碑群と千代田八幡宮

  
庚申塔など
庚申塔など
千代田八幡宮
山の神



武甕槌神社


 そんな木造町の越水神山という地区に武甕槌神社があります。同じ越水地区ということもあって、先回取上げた高倉神社の後に寄ってみました。
 木造町は日本海に近いこともあって、湿地帯が多く、十三湖方面に向かう一帯には大小の沼が数多く点在しています。
 この神社の近くにも大きな沼(名前は不明)がありました。農業用の溜池としても活用されているのでしょう。

 集落の中心部に鎮座しているこの神社の由緒については、
【御祭神:武甕槌神 経津主神 大己貴命 少彦名命   検地水帳によると延宝四年社殿建立とあり、 元文時代には観音堂、 毘沙門堂が 「宮建有之工藤備後抱」 とあることから両堂も工藤備後が祭司していたことがうかがわれる。 明治六年吹原村社天満宮に合祭、 同七年復社、 同八年村社に列せられる。 明治四二年二月神饌幣帛料供進に指定される。 ※青森県神社庁HP】とあります。

「元文時代、工藤備後が祭司・・」という文言は、近くの高倉神社や吹原天満宮の由緒にも出てきます。工藤氏については不明ですが、藩命を受けて、この地域の祭祀を司っていたのでしょうか。

 入口には月夜見大神と猿田彦碑などが立っていて、その奥に社殿があります。
 由緒に「元文時代には観音堂、 毘沙門堂が・・」とありますが、拝殿は瓦屋根を思わせる造りで、境内の末社には石仏などが納められている他、小さな五重塔などもあり、どことなく神仏混合の名残を感じさせる社です。

◇武甕槌神社

  
境内
月夜見大神ほか
末社
拝殿


  
狛犬
石仏
五重塔
本殿



拝殿


 御祭神の武甕槌神(タケミカヅチ)は、「刀剣の神、弓術の神、武神、軍神」で「相撲の神」としても信仰されていますが、「建御雷神」や「建雷命」とも書かれるように「雷神」でもあります。
「雷」は雨を呼ぶことから、民間信仰では、武甕槌神は稲作に欠かせない水をもたらす神、雨乞いの神、水神として祀られてきました。この神社においても、武甕槌神を祀ることによって五穀豊穣を願ったのだと思います。
 
 この神社には武甕槌神と大己貴命(大国主神)が共に御祭神として祀られていますが、この二柱の組み合わせは少し面白いというか興味深い感じがします。

 どちらも五穀豊穣をもたらす神様ではありますが、『国譲り神話』では、武甕槌神は、アマテラスの命により出雲の伊耶佐小浜に降り立ち、「十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、その切っ先の上に胡坐をかいて、大国主に対して国譲りの談判をおこなった」ことになっています。
 その結果、大国主は国を譲って隠れる分けですが、この神話が意味するところは「国譲り」ではなくて「侵略・征服」であったと考えられています。

 そういう意味からすると、武甕槌神と大国主の関係は「征服した側とされた側」、いわば「勝者と敗者」になる分けです。ですから、二神を共に祀っているのは少し奇異な感じがしますが、これもまた、村の繁栄を願う村人の「知恵」といったところでしょうか。即ち、
「どちらも大切にお祀りいたします。ですから、いきさつ(国をめぐる争い)は忘れて、仲良く、この村をお守りください」みたいな。。

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越水高倉神社ーつがるみち339


湯舟高倉神社
 
北浮田高倉神社
 
日照田高倉神社




 上の写真は鯵ヶ沢町にある津軽三十三観音霊場で、左から、
◇湯舟観音堂 (6番札所)
◇北浮田弘誓閣(7番札所)
◇日照田観音堂(8番札所)      です。

 実はこれらの観音堂、三つともに神社名は「高倉神社」となっていて、訪ねたときは少しびっくりしたものでした。
 鯵ヶ沢町は「高倉」と名のつく神社がとても多い所で、青森県神社庁HPには鯵ヶ沢町の「高倉神社」が7社紹介されています。特定の地域に、これだけ同名の神社が存在するということはとても不思議です。


越水高倉神社


 9月の上旬に、五所川原から鯵ヶ沢方面へ向かって、国道101号線を走っていたとき、道路沿いにひとつの神社を見つけたので立ち寄ってみました。
 後で地図を見て確かめたところ、ここはつがる市の「越水」という地区であることが分かりました。
 越水は鯵ヶ沢町と境を接する集落で、すぐ隣の鯵ヶ沢の北浮田町とつながっています。

 神社の入口の社号標には村社 高倉神社とあります。住所は「つがる市木造」なのですが、地理的にみて、周辺に点在する「高倉神社」のひとつと考えてもよさそうです。

 一の鳥居のそばに、文字のかすれた木柱があって「○○杉」と書かれていました。かつては名物の大杉があったのかも知れません。境内は、大木こそないものの無数の杉の木が生い茂っており、神社全体をすっぽりと包んでいるような感じです。私が訪ねたときは雨上がりだったので、その緑がとても鮮やかでした。
 一の鳥居、二の鳥居と進んで行き、右側に折れた所に社殿が立っています。社殿のそばには、稲荷様などの小さな祠が並んでいました。

 境内の一角に、庚申塔や二十三夜塔が並んで置かれていますが、二十三夜塔には女神を思わせる像が刻まれていました。
 私は、二十三夜塔については分かったようでよく分からなかったので、あらためて調べてみると、
【月待塔(つきまちとう)は、日本の民間信仰。特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔である。月待信仰塔ともいう。月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられる。※wikipediaより】とありました。
 月待信仰の崇拝の対象は、「十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、そして二十三夜は勢至菩薩を本尊として祀った」とされていますが、ここに描かれた「女神像」も勢至菩薩なのでしょう。

◇越水高倉神社
 
  
境内
末社
末社と本殿
庚申塔ほか



  
狛犬
石灯籠
本殿
二十三夜塔



柴田高皇産霊神社


 この高倉神社の由緒については、
【御祭神:高皇産霊命  検地水帳によれば元文以前に鎮祭ありと記され、 「堂建有之工藤備後」 とあることにより、 お宮が建てられ工藤備後が祭司していたことがうかがわれる。 明治六年森田村床舞村社八幡宮へ合祭 同七年復社、 同八年村社に列せられ、 同二年二月神饌幣帛料供進に指定される。※青森県神社庁舎HP 】とあり、その詳細は分かりませんが、元文の頃(1736ー1740)には既に村の信仰を集めていた社のようです。

 御祭神の高皇産霊尊(タカミムスビ)は、神話では天之御中主神、神産巣日神ととも高天原の「造化三神」のうちの一神であり、別名「高木神」とも呼ばれます。
 津軽にも高皇産霊尊を祀る神社(※写真はつがる市柴田の高皇産霊神社)がありますが、興味深いことに、ここ越水の高倉神社をはじめ、前述した鯵ヶ沢の高倉神社の主祭神は、全て高皇産霊尊です。

 出雲国譲りや天孫降臨の物語などでは、高木神はアマテラスとともに最高神・司令神として描かれます。そのことから、「邪馬台国=高天原だとすると、卑弥呼=天照大神で、魏志倭人伝に出てくる”男弟”は即ち高木神のことである」とする説もよく知られていますが、「高木神」という名称は元々は文字通り「高い木」が神格化されたものだとされているようです。

「高木」は神霊が依り憑く「依り代」で、津軽には祖霊の住む山・岩木山から降臨する神々を崇める神社が多くありますが、鯵ヶ沢付近に点在する高倉神社もまた、そのような社だと思われます。

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天満宮と稲荷神社ーつがるみち319


天満宮の牛の像


 天神様のお使いといえば「牛」ですが、その由来については、
【菅原道真公は丑の年にご生誕になり、丑の日に薨ぜられた】【菅公は「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」と遺言した。遺言に従い、喪の車を引き出したが、途中で牛車が動かなくなったので、その場所に埋葬した】など、諸説あります。

 ともあれ、菅原道真と牛との関りはとても深く、道真を御祭神とする各地の天満宮には、お使いの「臥牛(座った牛)」の像が置かれている分けですが、今回訪ねたつがる市木造吹原の天満宮にも大きな牛の像がありました。

 拝殿の中にこの神社の由緒書きがありますが、それには、
【祭神:菅原道真命  吹原村旧高野本帳によれば、貞享元年四月すでに産土神社として崇敬してきたという。最初は現地を隔ること山中に六七町であった為、雪中参拝者困難により、明治十年、現地に移転した。明治六年村社に列せられ、 大正八年二月神饌幣帛料供進に指定された。※由緒書きより】と書かれていました。

 境内は集落を見下ろす小高い丘の上にあり、下には田んぼが広がっています。拝殿の隣には末社や庚申塔などが立っていました。扉が開いていたので拝殿の中を拝みましたが、ガラス越しに鮮やかな朱色の本殿が見えました。

 私は、この神社にも水神・水虎様が祀られているということでやって来たのですが、境内の祠の中を覗いても見つからず、あきらめて参道の石段を下りました。上るときは気がつかなかったのですが、上り口に小さな祠があったので、中を見てみるとそれが水虎様でした。
 この水虎様、両手を合わせた女神の姿をしていますが、その表情は今まで見た水虎様と少し違います。大きな目と厚い唇・・それは何となく縄文土偶(遮光器土偶)に似ています。「縄文の里・木造」が、そう思わせるのでしょうか。。

◇吹原天満宮

  
天満宮
拝殿
末社
水虎様



稲荷神社のきつね像


 木造町はとても神社の多い所ですが、道路沿いに小さな祠があったり、百万遍の碑があったり、鳥居をともなった庚申塔や二十三夜塔、猿田彦碑なども数多くある町です。
 また、水虎様発祥の地ということもあって、水虎様を祀る神社やお堂もたくさんありますが、菊川という集落に鎮座する稲荷神社もそのひとつです。
 この神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 猿田彦大神 大宮姫命  創立年月日、 宝永二年 (一七〇五)。 明治九年 (一八七六) に村社に列格される。※青森県神社庁HP】とありますが、詳細は分かりません。

 境内には稲荷様の神使であるきつねが一対。社殿を挟んで両側には赤い鳥居が立っています。そのひとつの鳥居の奥がお堂になっていましたが、そこは馬頭観音堂でした。石碑と大きな馬の像に挟まれて、小さな可愛い神馬が祀られていました。

 社殿の周りにはいくつかの祠が立っています。そのうちのひとつが水虎様の祠でした。ここの水虎様は白地にピンク色の模様が入った鮮やかな衣装を着ています。体と頭は衣で覆われているので、その姿形はよく分かりませんでしたが、どうやら河童型の水虎様のようでした。

◇菊川稲荷神社

  
稲荷神社
境内
拝殿
馬頭観音社


  
馬頭観音
庚申塔
末社
水虎様


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尊殿堂三本藤ーつがるみち316


尊殿堂


 つがる市森田町(旧森田村)の上相野という地区に尊殿堂という社があります。
 このお堂には、樹齢が400年、根元の回りが2mを越える藤の古木があり、毎年、開花の時期になると紫色の見事な花を一面に咲かせ、訪れる人の目を楽しませています。
 今は季節外れなので、その花が咲いている様子を見ることはできませんが、由緒ある藤の木を見ようと思い出かけました。

 道路に沿って10数m以上の藤棚が長く延びた所があり、その中に赤い祠や鳥居などが見えます。藤の枝が縦横にのびて、お堂を覆っている様は、緑の天幕を思わせます。

 参道の入口にひとつの祠がありますが、中を覗いて見ると、そこには水神・水虎様が二体。水虎様には、河童型のものと女神型のものがありますが、ここの水虎様は、何となく両方を合わせたような姿形をしていました。
 この祠から、「天幕」の下を参道が続いています。鳥居をくぐり、歩いて行くと社殿がありました。まるで緑のトンネルの中を歩いているような感じです。

 この藤の古木は「尊殿堂三本藤(そんでんどうさんぼんふじ)」と呼ばれていますが、説明板には次のように記されていました。
【尊殿堂三本藤の由来:天正のはじめの頃、津軽藩祖為信公が新田開発の志をいただき、御巡視のため現在の妙堂崎から卯の方一面に広がる芦原の中にひときわ高き大木の根元より一筋の煙の立ちのぼるを眺望し、そこ広須村に至らんと御乗馬のたずなを牽かせ、此処まで参られた時、お召馬が疲れはて倒れたのを公いたくあわれみ、ながく新田開発の神と祭らんと背負いたる弓矢を取り、馬頭観音と書いた塔を建て、持ちたる藤のむちを植えられ、あつくこれを葬られたという。これが尊殿堂三本藤の由来で、以来、当地方開発の神ならびに神木として尊崇されてきたものである。】

 この津軽為信の地方巡視の話は柏正八幡宮の縁起でも語られていますが、旧森田村、木造町、柏村の辺りは新田開発が盛んに行われた地域で、農民たちの苦労の様子は民謡の弥三郎節でも謡われています。

◇尊殿堂三本藤

  
末社
祠の中
水虎様
参道



  
藤棚
藤の木
社殿
馬頭観音碑



藤の古木


「三本藤」は、津軽為信が愛馬供養のために植えた「藤のむち」が根付いたという伝承がその由来となっていますが、各地の古木には同じような伝承をもつものが数多くあります。
 いくつか挙げると、
◇おいらせ町根岸の大イチョウ
 昔、慈覚大師が、諸国巡歴の途中この地を訪れ、立てた杖に根が生えて大イチョウになった。
◇五所川原市喜良市の十二本ヤス
 昔、弥七郎と呼ばれる若者が、勇を鼓して山の魔物を退治した際に、供養のためにヒバの苗を植えたものが奇怪な大木となった。

◇青森市浪岡羽黒神社の杉
 昔、京都からやってきた姫君がこの地の美人川で化粧をしたとき、杉の小枝を折ってお歯黒をつける楊枝として使った。それをお堂の前にさしていったのが大木となった。
◇つがる市稲垣の一本タモ
 昔、ある殿様がこの地で道に迷い、杖にしていたタモの枝を地上にさして目じるしにした。それに根がついて生長した。

 - なかなか面白い伝承ばかりです。

  
根岸のイチョウ
十二本ヤス
羽黒神社の杉
一本タモ


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動かなくなった大石「久須志神社」-つがるみち225

 天明元年から8年間続いた(1781~1788)大飢饉により、津軽藩領内では人口の3割~5割もの餓死者が相次いだとされています。
 新田の開発が行われたつがる市森田(旧森田村)も例外ではなく、天明5年(1785年)に森田村の床前を訪れた菅江真澄は、
「・・・雪のむら消え残りたるやうに、草むらにしら骨あまたみだれちり、あるは山高くつかねたり。かうべなど、まれびたる穴ごとに、薄、女郎花の生出たるさま、見るこゝちもなく、あなめあなめとひとりごちたるを、しりたる人の聞て、見たまへや、こはみな、うへ死たるものゝかばね也。※『外が浜風』」と、当時の飢饉の惨状を記しています。 ー 「草むらに転がる髑髏(どくろ)の目から薄(すすき)や女郎花(おみなえし)が生えて見るに耐えない。」というくだりは、鬼気迫るものがあります。

 菅江真澄がその惨状を目にした「床前」は現在の「床舞(とこまい)」で、ここに八幡宮が鎮座しています。神社の詳しい記録等は焼失したとされるために、その創建については不詳ながらも、古くから村の産土社として崇められてきたとされ、境内には、月夜見尊碑や庚申(幸神)塔、馬頭観音碑などが立っています。
 また、本殿のとなりには「猿賀大神」のお堂が建っており、猿賀様の信仰がこの地にも広がっていたことが分かります。
 この神社の後ろ側は狄ケ館(えぞがだて)溜池になっていて、青森県の縄文を代表する石神遺跡があるところです。

◇床舞八幡宮

 
一の鳥居
拝殿
月夜見尊碑ほか
本殿と猿賀大神
狄ケ館溜池



一の鳥居


 床舞から五所川原方面へ向かって少し進んだところに月見野という集落がありますが、ここに久須志神社があります。
 集落を走る道路沿いに大きな赤い鳥居が立っており、その奥は小高い山で、そこへ向かって参道の石段が続いているのが見えます。昔から「鎮守の森」であったことをうかがわせるような眺めです。二の鳥居、三の鳥居・・・とくぐり、石段を登りきったところが境内で、拝殿、本殿、末社などが立っていました。

 この久須志神社の御祭神は、大己貴命・ 少彦名命・倉稲魂命ですが、青森県神社庁HP には、【慶長三年、 丹代森右衛門この地に薬師様勧請。 正保二乙酉年、 薬師如来を祀る。 薬師堂。 明治四年、 久須志神社となる。 明治六年四月、 村社となる。 本殿は一般的な神社の造り方ではなく、 地上から高床まで厳重に囲い、 御神体が見えないようにしてある異なった構造である。 】と簡潔に書かれていました。

 かつては薬師堂であったということですが、拝殿に掲げられた由緒書きには、次のように記されています。
【久須志神社(薬師様縁起) 現在の地に崇敬するように成たのは慶長15年からです。春祭4月8日例大祭7月8日秋祭11月8日。この地に崇敬された時は右の通りですが或夜枕神が立って赤わらびの奥山より持って来てくれと依頼を受けたので朝早く行って見ましたら山の中に大石が立っていたのです。その石を背負って薬師流まで来たので一休みしようと思って休んだところその石が動かなくなったのでその地に祭ったそうです。枕神に命ぜられ人 丹代盛右エ門 時慶長3年 35人力あったと称される。・・・】
 - 霊夢に導かれた力持ちの村人が、山の奥から大石(薬師様)を探して背負って村まで来たところ、その地で大石が動かなくなったので、そこに祭ったというわけです。

 菅江真澄は、寛政8年(1796)にこの社を訪れていますが、この縁起にふれ、
「森田の村ざかいにきて、石をならべて坂をつくってあるところをはるばるとのぼって、薬師仏をまつった堂に行った。むかし、探題某という人が大きな石を背負ってきて、仏として崇めたのがはじめであろうという。※『外浜奇勝』」と記しています。

◇久須志神社①

 
参道
拝殿①
拝殿②
拝殿内
本殿


 広々とした境内には、庚申塔をはじめ二十三夜塔、猿田彦大神碑などが立っていました。また、馬頭観音の祠や竜神様、稲荷大神の祠などもあり、地域の中心的な信仰の場であったことを思わせます。

 本殿の後ろにひとつの赤い鳥居
大石神社
が立っていますが、その奥のお堂は「大石神社」。かつてはここが縁起にある伝説の大石(薬師様)を祭った薬師堂だったのでしょうか。
 菅江真澄は、前述の『外浜奇勝』において、
「のぼりつめて、むらだつ木々の間から遠近の眺めがよいので、あたりをまわってみた。堂のうしろの方に鳥居があり、ここから十腰内の観音菩薩へ詣でる道があるので鳥居がたっているのだという。」と書いていますが、それは、この鳥居と大石神社のことのようです。

「十腰内の観音菩薩」とは、現在の厳鬼山神社だと思われますが、当時は、この神社から弘前市十腰内の厳鬼山神社、また、赤倉の大石神社方面へと、参拝の道が続いていたのかも知れません。

「・・むらだつ木々の間から遠近の眺めがよい」と菅江真澄も書いているように、小高い山の上にある境内からは、岩木山がよく見えました。この久須志神社は、村の産土社であるとともに、村人にとって、岩木山巡礼の基点ともなっていた社だったのでしょう。

◇久須志神社②

 
馬頭観音
龍神様
稲荷大神
大石神社
岩木山


※画像は、いずれも10月中旬に撮影したものです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  水虎様  

ここにも鬼が「天満宮と鹿嶋神社」-つがるみち191

 いつもネットなどで、各地の神社の場所や、その縁起などをデータベース化したHPを見て勉強させてもらっています。
 先日も、津軽地方の神社を探していたら、つがる市・木造に「鬼っコ」がいる社を新たに2つ見つけることができました。まだ、訪れていない神社だったので、さっそく行ってみました。

 はじめに訪れたのは、木造の蓮花田(れんげた)地区にある天満宮です。
 蓮花田地区は、寛文3年(1663年)の開村とされ、境内にその記念碑
開村記念碑
が立てられています。江戸前期に新田開発が盛んに行われた地域なのでしょう。
 天満宮は、閑静な住宅街に囲まれたところに鎮座していますが、この神社については、【蓮花田村、小山内儀兵衛の先祖藤兵衛成國というもの、元奥州仙台藩の家臣で、北野天神社にある梅の古木を分け乞い、氏神と崇敬し、其の後、北郡鶴田町の村落田地千町歩余を開拓。当時の従夫、寛文三年当地に引越し、同九年氏神とし、村中の産土神と崇敬し、明治九年十二月二十五日村社に列せられた。※青森県神社庁HP】と紹介されています。御祭神は、もちろん菅原道真です。

 境内には大きなイチョウの木があり、境内の外からもよく見えます。三の鳥居から参道が右側に折れていて、その正面に拝殿と本殿があります。
 この拝殿の隣にはひとつの赤い祠。中を覗いて見ると、両手を合わせたお姿の小さな神様が祀られていました。どうやらこれは水の神・水虎様のようです。
 水虎様の姿形は、それを祀る地域によって様々ですが、大別すると女神形と河童形があるとされています。ここの水虎様は河童形。水虎信仰の発祥の寺とされる実相寺の水虎様
実相寺の水虎様
に似ていました。

◇天満宮境内

 
 
境内
三の鳥居
水虎様①
水虎様②
本殿


鳥居の鬼①

鳥居の鬼②


 鬼は、一の鳥居に扁額がわりに掲げられていました。背中ごと、びしっと鳥居にへばりついているような格好をしています。
 表情をよく見ると、どうやらこれは子どもの鬼のようです。
鬼っコ
目をつり上げ、歯をくいしばり、両足を広げて、必死にふんばっている様子は、とてもユーモラスで、何となく幼い感じがします。
 右手と左手それぞれに、何か棒状の物を握っているようですが、よく分かりませんでした。何かの農作業に使う道具なのか・・大工用具のようにも見えますが。。きっと、そのいわれがあるのだと思います。



 続いて訪ねたのが鹿嶋神社です。この神社は、天満宮からおよそ3km。木造・大畑に鎮座しています。
 この神社の由緒については、【慶長17年(1612年)創立。明治四年旧社格を村社に列格。明治四十二年神饌幣帛料供進指定。※青森県神社庁HPより】とあり、詳しくは分かりませんでしたが、長い歴史を持つ古い社のようです。

 拝殿の中には古の歌人たちの歌の額が奉納されていました。柿本人麻呂、猿丸太夫、在原業平・・・どうやら三十六歌仙のようです。
 拝殿の両側に末社が並んで立っていました。右手(向かって)には、庚申塔?のそばに赤い鳥居。祠の中には馬頭観音
馬頭観音
が祀られていました。一方、左手の大小の祠は稲荷社のようです。

◇鹿嶋神社境内

 
境内
拝殿
奉納額
馬頭観音
稲荷社



祠の鬼①

祠の鬼②


 津軽の鬼っコは、鳥居に掲げられているもの、拝殿にあるものなど様々ですが、祠の中に納められているものもあります。ここ鹿嶋神社の鬼も稲荷社のそばの祠の中に祀られていました。
 少し風化していますが、般若を思わせる怖い表情をした鬼です。その窪んだ目や裂けた口、とがったあごなど、「鬼らしい鬼」といえばいいでしょうか。頭部は獅子のようでもあり、とても貫禄のある姿です。
 右手は、何かを支えているような感じですが、あるいは以前には、一の鳥居に掲げられて、笠木を支えている姿だったのかも知れません。

 祠の中にいっしょに祀られていたのは福神の大黒天と恵比寿様。この鬼もまた、五穀豊穣の守り神だったのでしょう。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  津軽の七福神  

津軽の七福神7「弘法寺」-つがるみち188

「西の高野山 弘法寺」を訪ねるのも2回目です。
 このお寺については、【開創などは、一時期洪水などの天災で寺が消失したらしく、記録が残されていないため不明である。唯一現存する七代目住職の位はいが、貞和4年(1348)7月6日の年号があることから、かなりの歴史があったものと思われる。現在の弘法寺は明治に入ってから再興されている。本尊は弘法大師で高野山真言宗に属し、無檀家の信者寺で、先祖の廻向、および車などの祈とうに訪れる信者が多く、特に「黄泉の祝言」-独身で亡くなった人に伴侶(はんりょ)をおくる供養の行われる寺として知られ、人形堂には県内外より奉安された約千体余の花嫁、花婿の人形が安置されている。境内に建つ修行大師の石像は信者たちの力で大正7年に建立されており、県内最古のもの。また平成2年7月には、弘法大師が四国行脚の途中、橋の下に仮の宿を求めた姿を再現した「御寝み大師」が建立され人々の信仰を集めている。※HP真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」】と紹介されていますが、ここは、福禄寿を奉安する「津軽七福神霊場」のひとつでもあります。

後生車と石仏


 弘法大師の霊場ということもあり、境内には県内最古の修行大師像や寝姿の像などがあり、以前に訪ねた時は、それらを中心に見て回ったものでした。
 お寺の裏側が高台になっていて、頂上には伏見稲荷神社がありますが、そこへたどり着くまでの道筋には、たくさんの石仏などが立っています。

 今回、あらためてその山頂まで歩いてみました。
 賽の河原を思わせる後生車と石仏、馬頭観音碑、牛頭天王碑など、古ぼけた石碑や石像は、ゆっくり見ていくと、とても趣があります。
 参道には、西国三十三観音像が立っていますが、最後の観音様から上は稲荷神社への登り道。登りきったところに社殿があります。今回は、その中を覗いてみたのですが、中には狐にまたがった稲荷様が2体。この高台から、五穀豊穣を祈り、眼下に広がる津軽平野の「実り」を見守っているようです。
 実は、この社殿の裏に展望台の跡
展望台の跡
らしきものがあり、梯子も渡されていたようです。かつてはこの展望台から、津軽平野はもちろん、日本海、十三湖なども遠望できたのでしょうか。

◇稲荷神社への道

 
石仏
牛頭天王
三十三観音
稲荷神社①
稲荷神社②


地蔵堂①


 山頂から再び境内へ。以前、見逃したお堂があります。入口付近には無造作に置かれた野球ボール。
「ひょっとして・・・」と思い、中へ入って見ると、そこには、十字前掛けをしたり、きれいな衣装を着せられた幼子のお地蔵様
幼子のお地蔵様
がたくさん納められていました。中央の大きなお地蔵様の周りに子地蔵が並んでいる姿は、津軽の寺社ではおなじみの光景です。

 前に訪ねたときにも感じたのですが、この弘法寺の山門は、とても風格があります。その山門をくぐり、木々の間を進んで行くと本堂。マスコットの「こうやくん」が出迎えてくれます。
 祭壇の横の廊下側にも、「御休み姿の弘法大師」の他、いくつか神仏が祀られていますが、その一角に福禄寿が奉安されていました。

◇地蔵堂、山門、本堂

 
地蔵堂②
山門
本堂①
本堂②
福禄寿堂


福禄寿


 さて、「七福神」は、一般的に、「恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁才天、布袋尊、福禄寿、寿老人」の七柱を指しますが、それが定着したのは、七福神信仰が盛んとなった近世中期以降であるとされています。それまでは、例えば吉祥天が弁才天と同一視され、代わりにメンバーに入ったりするなど、時代や地方によって異動があったようです。
 福禄寿もその一人で、「背が低く、長い頭に長い髭、巻物を結んだ杖を持つ」その姿は、寿老人とあまりにも酷似しているために、同一神とされていた時期もあったといわれています。

 福禄寿は、中国の道教が起源の長寿の福神ですが、日本に伝えられてから、神道や仏教と結びつけて考えられたということもないため、「道士」「仙人」といったイメージが、ほとんどそのまま生かされている神であるとされています。
「福禄寿」という名前は、「福=幸福」「禄=富貴」「寿=長寿」を表すとされ、前述のように、その姿は「短躯(短身)で頭長の体つき。美髭を蓄え、左手には如意宝珠、右手の杖頭に経巻を結び、長寿の印の白鶴を伴っている。」という福神です。この「短躯・頭長」は、いわゆる「畸形」にあたる姿なのですが、昔の中国や日本では、そのような畸形の人が「異能の神」「福の神」として大事にされてきたとのことです。

 我が国の「福助」も、大きな頭とちょんまげが特徴の幸福を招く縁起人形ですが、【一説に、享和2年8月に長寿で死去した摂津国西成郡安部里の佐太郎がモデルである。もともと身長2尺足らずの大頭の者であったが、近所の笑いものになることをうれい、他行をこころざし東海道を下る途中、小田原で香具師にさそわれ、生活の途を得て、鎌倉雪の下で見せ物にでたところ、評判がよく、江戸両国の見せ物にだされた。江戸でも大評判で、不具助をもじった福助の名前を佐太郎に命じたところ、名前が福々しくて縁起がよいと見物は盛況であった。※wikipediaより】といわれています。

 - そのような伝承にあやかったものでしょうか、ここ弘法寺の福禄寿は、左右に大黒天と恵比須天、そして前に福助を伴い、中央に祀られていました。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  名木めぐり  

境内でひと休み4「ほっかむりと名木」-つがるみち185

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        繁田八幡宮              愛宕神社

参道


 休憩を兼ねて立ち寄り、見て回った神社を2つほど紹介します。その由緒などはあまり詳しく分かりませんでしたが、それぞれ特徴のある神社でした。
 つがる市繁田に鎮座する八幡宮・・・ここには津軽赤倉山神社を訪ねた帰りに立ち寄りました。
 岩木川の川沿いに赤い鳥居があり、そこから階段が延び、境内へと続いています。
 
 この神社については、【御祭神は誉田別尊。享保2年(1717)5月15日に勧請す。 明治6年4月穂積闇おかみ神社に合祭。 明治7年12月復社。 ※青森県神社庁HP】と紹介されていますが、古い由緒を持つ八幡様のようです。

 一の鳥居
一の鳥居
の前に「平和の塔」という碑が立っており、そのそばの石のお堂の中に石仏が祀られています。中を見てみると、少し風化しているものの、どうやらこれは七福神のようです。「七福神=福神=平和」ということでしょうか。しかも、七体の福神は、いずれも手ぬぐいで「ほっかむり(頬かむり)」。
 参道を歩いて行くと、またまた、ほっかむりした大黒天。八幡様の使い「狛鳩」もほっかむり。二十三夜塔や庚申塔もほっかむり・・・離れて見ると、お地蔵様のように見えます。もちろん、大中小の狛犬も、ほっかむりでお出迎え。 - どの石像も、手ぬぐいはあごの下で、しっかりと結ばれていました。極めつけは、拝殿の中に奉納されている石のお面と像。これもまた、ほっかむりです。

 神社の神使たちに、ほっかむりをする風習は、主に西北津軽地方に多く見られるものですが、以前、訪れた金木町の八幡宮の説明板
金木八幡宮説明板
には、「冬の厳しい寒さや夏の暑さから神社を守るため」と書かれてありました。同じ西北津軽のこの辺りも、そのような風習が残っているのでしょう。

◇ほっかむり姿の石像たち

 
七福神
大黒天と狛鳩
二十三夜塔・庚申塔
狛犬
拝殿の中のお面



一の鳥居


 板柳町石野の愛宕神社。ここは、七福神霊場(弁才天)である蓮正院のすぐ近くです。
 御祭神は火を司る「火産霊神(カグツチ、ホムスビ)」。その由緒については、神社前の木柱に、【このあたりは古くから津軽新田開発が進められた場所で、寛永の頃(1624~1644)から始められ、現在の愛宕神社は明暦3年(1657)創建の地蔵堂がその前身であるとされている。】と記されていて、創建当初は「地蔵堂」として、地域の信仰を集めていたようです。

 入口には、真っ赤な一の鳥居を覆い隠すように、緑の葉をいっぱいに茂らせた大木がありますが、これが、この神社の神木「ハルニレ」の木です。あまりに枝や葉っぱが多いためか、正面からはその姿はなかなか見えませんが、鳥居の後ろから見ると
ハルニレ
、その形がよく分かります。
 この大木は、樹齢が約500年、高さが25m、幹周り5.4mで、【この樹木は開拓前からの板柳・石野の歴史と共に歩んできた貴重な存在である。樹皮はかつて良好な繊維として重宝がられた。※説明書きより】といわれています。
 ハルニレ(ニレ、エルム)は、主に北海道や本州の山地に自生するといわれていますが、大きなものは北海道に集中しているとされており、ここ愛宕神社のような巨木は本州では珍しいとのことで、青森の名木のひとつに挙げられている分けです。

 この愛宕神社には、ハルニレの他にも、大木が多く、境内に大きな影を落としていますが、中でも、境内の真ん中にあるサイカチの木は、その姿形がとても美しく、目をひきます。これも、この神社の神木のひとつなのでしょう。そばには、この木の説明が書かれていました。
 サイカチは、【サポニンを多く含むため古くから洗剤として使われている。莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつてはこれを石鹸の代わりに利用した。石鹸が簡単に手に入るようになっても、石鹸のアルカリで傷む絹の着物の洗濯などに利用されていたようである。※wikipediaより】といわれていますが、この地域の人々も、昔は「サイカチの石鹸」を使っていたのでしょうか。

 サイカチからは洗剤。そしてハルニレの樹皮からは縄(繊維)。村人の身近にあった大樹は、人々の暮らしにも役立っていたようです。この愛宕神社のサイカチとハルニレは、そのことを象徴しているような御神木です。

◇境内のサイカチとハルニレ

 
サイカチとハルニレ
サイカチ
ハルニレ①
ハルニレ②
ハルニレ③


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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  

大神の里宮2「津軽赤倉山神社」-つがるみち157

 今回はつがる市稲垣町繁田の津軽赤倉山神社を訪ねました。ここもまた、赤倉霊場に奥の院をもち、ここ繁田の地に里宮を有する神社です。
 現在は「宗教法人津軽赤倉山神社」となっていますが、由緒によると、ご先祖様が、神道の神様に導かれ修行し、「カミサマ(ゴミソ・霊能者)」となり、県内外の人々に広く信仰され、神社を創立するまでに至ったとのことです。
 御祭神は津軽赤倉山大神ですが、霊場の奥の院
赤倉霊場:津軽赤倉山神社
と同様、天照大神や弘法大師、猿田彦など、多くの神々が「大神」として祭られています。

二の鳥居


 稲垣町を流れる岩木川の土手の下に、この社は鎮座している分けですが、その境内の横には、いくつかのお堂や祠が立っています。
 稲垣町といえば町内に2,000箇所はあるだろうといわれる「化粧地蔵」のお堂が有名ですが、神社の周りにも地蔵堂がありました。中を見ると十字前掛けをした大小のお地蔵さまが並んで祀られています。
 ロウソクや線香、鐘などもそばに置かれており、地域の人々が大事に祀っている様子が伝わってきます。中には、破損した(首だけ、胴体だけとか)お地蔵様を集めて供養しているお堂もありました。
 そばには、小さな鳥居や庚申塔なども立っていますが、ひとつの祠を覗いて見ると、そこには龍の形をしたロウソク立ての後ろに、女神形の水虎様が置かれていました。ここもまた、岩木川の氾濫に悩まされてきたところだったのでしょう。化粧地蔵と水神・水虎様は、そのことを物語っているようです。

◇地蔵堂ほか

 
末社と地蔵堂
地蔵堂①
地蔵堂②
地蔵堂③
水虎様



社務所


 土手の上から神社へと降りる参道
参道
が延びていて、道端には赤倉大神や弘法大師の像が立てられていました。
 境内には、ひと際大きな猿田彦大神の碑があります。猿田彦は、赤倉の霊場でも赤倉大神や弘法大師と並んで、数多く祀られている分けですが、面白かったのは、この猿田彦の碑の台座に三匹の猿がいたことです。いわゆる「見ざる 言わざる 聞かざる」
「見ざる 言わざる 聞かざる」
です。猿田彦神は庚申信仰と結びついている(「猿」は庚申の「申」に通じる)とされていますが、庚申の使いは猿であることから、この三匹の猿が置かれているのでしょう。

 境内の端の方には、大小様々な石が祭られています。ひとつひとつに祭壇が設けられていたり、注連縄が張られていたりします。石に刻まれた名前を見てみると、「熊野、立山、高千穂、出雲」
熊野大神など
などがあり、日本の古代からの霊地が「大神」として崇められているようです。
 もちろん、岩木山の三つの峰(鳥海、岩木、厳鬼)も祭られている分けですが、そばには、「大石山大神と大石姫大神」
「大石山大神と大石姫大神」
という丸石が寄り添うように置かれています。これは、赤倉霊場の入口にあたる大石神社の御祭神である高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と神皇産霊神(カミムスビノカミ)を表したもののようです(両神は、男女の「むすび」を象徴する神であると考えられていることから、大石神社は、子授けの神、安産の神としても古くから信仰されている)。

◇津軽赤倉山神社境内

 
赤倉大神ほか
拝殿
猿田彦大神
岩木山大神
御神馬


 さて、伝説では、【昔、赤倉山(厳鬼山)には鬼神が住み、里の人々を苦しめていたので、坂上田村麿が勅命を受けて征討にやってきたが苦戦続きだった。ある日、「錫杖の印と卍の旗を用いよ」という神託にしたがって攻めたところ、鬼たちは退散した。】と語られている分けですが、ここ津軽赤倉山神社の由緒書き
由緒書き
によると、【(田村麻呂軍が)もはやこれまでと思いし時に、雲の中より津軽赤倉大神が現れ、そのお告げにより勝ち戦となり・・】とあり、神託を授けたのは赤倉大神であるとされています。

 伝承はともかく、菅江真澄が「つねに霧が深く立ち込めて、ほの暗く、道もたいへん険しい。赤倉(巌鬼山)には、「鬼神」が隠れ住んでおり、その身丈は相撲取りより高い。」と書いていることや、現在の岩木山神社は、巌鬼山神社のあった十腰内から、寛治5年(1091年)の頃に移されたとされていることなど、一帯が古くからの信仰の地であったことは確かなことです。

 この赤倉の神様は、庶民に敬われただけではなく、津軽藩(弘前藩)にとっても厚い信仰の対象だったようで、【津軽藩日記によると、寛文6年(1666年)5月に大旱魃があり、4月からの連日の日照りで田畑は壊滅的状況にみまわれたことが記されています。その際、様々な雨乞いの方法を試したものの、効果がなく、ついに藩命によって、赤倉山での山伏たちによる祈祷がおこなわれるに至ります。その後、念願の雨が降り出したといわれています。山伏たちの祈祷の効果の真偽はともかくとして、津軽藩においても非常時に頼むのは、『赤倉山の鬼神』であるという点が注目され、『赤倉山の鬼神』は、古くから、単なる俗世の民間信仰ではない、『権威ある存在』であったということが知られています。※青森県音楽資料保存協会HPより】とのことです。

ー ここ津軽赤倉山神社の由緒書きは、赤倉大神が、古代から藩政時代、そして現在に至るまで、深く崇められてきたことを物語っているのでしょう。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  水虎様  

馬頭観音と鬼「柏稲荷神社」ーつがるみち137

 神社の境内の中に馬頭観音を祀っているお堂や祠をよく見かけます。
 西北津軽地方では、「鬼」「水虎様」そして「馬頭観音」の三神を祀っている社も少なくありません。また、神社の境内だけではなく、道路沿いに建てられている祠の中にも、馬頭観音が納められているところもあります。
 今回は、つがる市柏・下古川の稲荷神社の鬼ッコを見に行きましたが、岩木川の川岸にあった馬頭観音堂を二ヶ所みつけました。

 馬頭観音は、【仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身の1つであり、六観音の一尊にも数えられている。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である。他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒(ふんぬ)相である。】とされていますが、民間信仰では、「馬頭」というその名前から馬の守護神(仏)として崇められてきたようです。
 【近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。「馬頭観世音」の文字だけ彫られたものは多くが供養として祀られたものである。】
 ー 津軽に限らず、馬は、農作業の大切な働き手として尊ばれ、農民の生活に欠かせない生き物だった分けで、過労その他で、馬を亡くした悲しみは想像以上に深かったのだと思います。今回見つけた二つのお堂も、馬の供養のために建てられたものだったのでしょうか。 ※【】はWikipediaからの抜粋です。

◇岩木川馬頭観音の祠 ※画像はクリックで拡大します。

 
馬頭観音堂①
馬頭観音堂②
馬頭観音堂③
馬頭観音堂④
馬頭観音堂⑤


 


 前回に続いて、つがる市の鬼ッコ巡り、柏地区の稲荷神社へやってきました。享保元年四月に勧請されたと伝わる神社です。
 御祭神は、宇気母智命(うけもちのみこと)。「保食神」とも呼ばれるこの神様は、【天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。】と神話に語られています。
 ー それにしても神話に登場する日本の神々はほんとに「人間くさい」ですね。夫婦や兄弟の仲違いあり、嫉妬あり。。
 神話では、その後【天照大神が保食神の所に天熊人を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲などが生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。】とされ、食物の神様として稲荷神と同一視され、各地の稲荷神社に祭られていったということです。※【】はWikipediaから
 興味深いのは、保食神は頭から「牛馬を生んだ」ということから、牛や馬の神として祭られたり、「頭から馬」ということで馬頭観音とも同一視されているということです。 ー 五穀豊穣を願う神社に馬頭観音が祀られているのは、そんな意味もあるのだと分かりました。

 稲荷神社らしく、ここではお使いのキツネ
キツネ像
が狛犬代わり。神馬と並んで建っている末社には、水の神・水虎様
水虎様
が祀られていました。津軽です。

◇稲荷神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
二の鳥居
拝殿①
拝殿②
末社
神馬と水虎様



稲荷神社二の鳥居


 さて、この神社の鬼ッコは二の鳥居に掲げられていますが、この鬼にもまた顔がありません(失われています)。耳と鼻穴らしき跡は分かるのですが。。
 やせた体の鬼ッコですが、腰はしっかりしており、下半身は丈夫そうです。見た感じは「猿」にも似ていて、身軽そうですが、肩でしっかりと鳥居を支えている姿形をしています。かつては、どんな表情をしていたのでしょうか。なお、この鬼ッコは、その後ろ姿も人気のようです。

 ⇒柏稲荷神社鬼ッコ ※画像複数

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

地蔵堂と鬼1「二柱神社」ーつがるみち136

 岩木川の流域沿いを走っていると、川岸に神社だとか祠が建っているのをよく目にしますが、つがる市や五所川原市の川のそばには、地蔵堂の数が多いのに気がつきます。
 今回は、つがる市の鬼ッコを求めて、二柱神社へと向かいましたが、途中にひとつの地蔵堂をみつけました。
 二柱神社は、つがる市の稲垣町に鎮座していますが、稲垣といえばおよそ2,000ヶ所にも及ぶ化粧地蔵が祀られている町です。

 
 不幸にして亡くなった幼子の供養のために祀った化粧地蔵堂・・それは、川原のそばにポツンと建っていました。そばには、百万遍の塚と後生車。拝むたびに回すたびに幼い子どもの魂を呼ぶのでしょうか。お堂の中には、十字前掛けをしたお地蔵様
化粧地蔵
をが祀られていました。西北津軽ならではの風景です。
 車を進めているうちに、いつの間にか名木・一本タモのある場所へと辿りつきました。二柱神社は、この近くにあります。

◇化粧地蔵堂 ※画像はクリックで拡大します。

 
地蔵堂①
百万遍
地蔵堂②
化粧地蔵
一本タモ



 二柱神社の由緒については、【元禄八年沼舘の伊藤新之丈の先祖氏神として崇敬する。 享保二年に村中安全の産土神として勧請す。
 享保二年に稲垣村元語鎮座稲荷神社を合祭する。 明治六年四月稲垣村千年鎮座の石上神社へ合祭される。 明治七年十二月に復社する。 大正三年六月十八日に社号天満宮を二柱神社に改称の願いを出す。 大正五年参十日許可を得て現神社名となる。 ※青森県神社庁HP 】とあります。

 「稲荷神社」「天満宮」ということからも分かるように、御祭神は、倉稲魂命と菅原大神です。天神様(菅原道真)を祭る社らしく、拝殿の中には、道真を描いた絵馬
菅原道真
も掲げられていました。
 境内の桜は、まだ少し名残りをとどめていましたが、本殿の後ろの田んぼには水が引かれており、季節の移り変わりを感じさせます。神社につきものの狛犬がないな・・と思っていたら、何と燈籠の足元に置かれていました。小さくかわいい狛犬です。
燈籠と狛犬


◇二柱神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
二柱神社
一の鳥居
庚申塔
本殿
拝殿



拝殿の鬼


 さて鬼ッコですが、鳥居ではなくて拝殿に掲げられています。かつては鳥居の下に置かれていたこともあったようです。木造の小さな鬼ッコですが、何といえばいいでしょうか・・・子犬のようにも、ロボット人形のようにも見えます。
 その顔や姿形の原型は失われていて、元はどんな様子だったのか、ちょっと想像つきませんでした。
 ですが、よく見ると、なかなか味わいのある鬼です。上げた右手は以前は鳥居を支えていたのでしょうか?
 「よく来たな、こっちへおいで。」と、手招きしているようにも見えました。見る人を和ませる鬼ッコです。
 ⇒二柱神社鬼ッコ ※画像複数

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村の総鎮守「柏正八幡宮」ーつがるみち110

 つがる市は、木造町・森田村・柏村・稲垣村・車力村の5町村が合併して誕生しましたが、「柏村」の名前の由来は、次のように紹介されています。
【天正4年(1576年)、津軽藩主・右京大夫藤原朝臣為信公が領内巡視の際、山路から遥かに芒々たる葺原の中に亭々と繁る大樹をながめ、たずねて見るにそれは古木「柏の木」であった。根元には蟻が巣を喰っているので蟻巣村と称するという、先住の浪士・工藤先左衛門尉藤原祐益の言であった。為信公は、四方広遠なるこの地を見て自今廣須野と称え、廣須村と名づけられて以来、この地を発祥に廣須木造新田の荒野開発が進められ、柏村名の起源となったのである。※つがる市HPより】 
 ー 一本の古木から名づけられた村名だった分けです。この柏村の総鎮守として、多くの崇敬を集めてきた社が柏正八幡宮です。

柏正八幡宮


 この辺り一帯の住所は「八幡」。この八幡宮を中心に開けてきた町のようです。
 一の鳥居からは、長い長い参道
一の鳥居と参道
が続き、途中には保育園やアパートなども建っていて、隣には中学校もあります。昔は全てこの神社の境内だったのでしょうか。
 拝殿入り口の鳥居には、大きな注連縄と米俵が三つ、そして八幡様らしく「絵馬」が奉納されていました。親子でしょうか、二頭の馬が緑の野原を駆け回っている様子を描いた絵馬です。背景にはもちろん岩木山。津軽ですね。⇒鳥居の絵馬
鳥居の絵馬


柏正八幡宮拝殿①


 境内
境内
を回ってみました。
神馬です。
神馬
うつむきかげんで、何となく元気なさそうに見えました。こちらは、青い目をした狛犬達。
狛犬
一方は鞠突き、片方は子ども連れです。
◇本殿の隣には、いくつかの末社と庚申塔が立ち並んでいます。赤い鳥居の奥にも祠があったので、覗いて見ると保食大神が祀られていました。
  ⇒本殿・末社・庚申塔・保食大神(画像複数)

柏正八幡宮拝殿②


 拝殿の周りの壁は、たくさんの「干支の絵馬」で取り囲まれています。⇒拝殿の壁の干支(画像複数)
 中に入ってみると、これまた所狭しと絵馬が掲げられていました。この神社に寄せる地域の思いが伝わってくるようです。⇒拝殿内(画像複数)
 さて、この柏正八幡宮は、【創建は天正5年(1576年)、後に弘前藩祖となった津軽為信が社殿を建立し、金造の神像を御神体としたのが始まりと伝えられています。為信は前年この地を訪れた時、篤いもてなしを受け、村人から産土神の勧請を上願されると快く受けたとされ、社殿が完成すると国家安穏、 五穀成就、 萬民豊楽、 武運長久の祈願をこめ直筆の棟札を奉納したとされていて、以後、歴代藩主の祈願所となります。
 当初、旧柏村広須にあり広須八幡宮と称していましたが、寛文8年(1668)4代藩主津軽信枚の命で現在地に遷座し、広須木造両組の新田開発の総鎮守として広く信仰されるようになり、社殿の営繕費は代官の公費で賄ったとされます。明治42年に為信公直筆の棟札に正八幡宮にあやかり柏正八幡宮に社号を改名しました。※HP「青森県:歴史・観光・見所より】とされています。

 境内入口の由緒書き
由緒書き
には、前述のように、津軽為信がこの地を訪れたときの話として、【・・ようやくたどりついて見ると一大老柏木の傍に葦芽の家が三軒並んであった。これは、工藤祐益、花巻頼母、山崎織部等落武者の庵で付近僅かに粟稗が耕されてあった。一行は暫くこの草庵に憩をとることにした。昼時ともなったので、村人達は心をこめて粟や稗の酒飯を炊いてもてなした。為信公はことのほか上機嫌で祐益老の願いを聞くと産土神の御加護の下に開墾を進めたいとお宮の建立を上願した。】とあり、この神社の縁起は、「柏村」という村落の発祥と密接に結びついていることが分かります。正に村の総鎮守だった分けです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  名木めぐり  

古からの道しるべ「一本タモ」ーつがるみち84

 つがる市の稲垣町は、五所川原市の北西、岩木川下流に位置する町です。
 かつてこの地域一帯は大きな「潟」とも呼べる湿地帯でしたが、元和年間(1615~24年)の頃から開拓が始まり、藩政時代を通じて、木造町などとともに新田開発が行われた所です。
 この稲垣町・豊川地区を流れる岩木川の堤防沿いに「一本タモ」と呼ばれ、古くから地域の人々の信仰を集めきた大きな「ヤチダモ」の老木
「一本タモ」地図
があります。

一本タモ①


 私が訪れたのは、昨年の12月初旬のことでした。
 「一本タモ(ハングル文字?)」と書かれた石標が立っており、後ろの鳥居をくぐると正面にお堂が2つ
山の神・弘法大師
並んでいます。ひとつは「山の神」で、もうひとつは「弘法大師」を祀っている祠でした。この弘法大師、顔に白い化粧が施されています。
 堤防側には、百万遍・庚申塚・二十三夜塔
百万遍・庚申塚・二十三夜塔
の石碑がありました。この場所で「お講」が行われていたのでしょうか。周りのこれらの祠や石碑は、一本タモが昔から「神木」として崇められてきたことを示しているようです。

一本タモ②


「タモ(ヤチダモ)」は、モクセイ科トネリコ属の落葉広葉樹で、北海道と本州に分布しており、【家具や装飾材、日常器具の材料として利用されるほか、合板の材料にも用いられる。 また硬質で弾力性に富むため、野球のバットやテニスのラケットに使用される素材でもある。成長がよく、年輪幅が広いと重厚になり、成長が悪いと軽くなる。成長のよいものは運動用具材に、成長の悪いものは家具材として重宝される。※wikipediaより】というような特徴があるといわれています。あの王選手のホームランバットの素材としても使われていたのだとか。。
 また、その根は冠水しても生きているため、たびたび水没するような所でも生育するとされています。 ー 稲垣地区もかつては大変な湿地帯だった分けですが、「一本タモ」は、その中を生き抜いてきた「生命力の強い」樹木だった分けです。

一本タモ③


 さて、この「一本タモ」、樹高は約15m、幹回りが7.6m、樹齢はおよそ1,000年といわれており、タモの木としては日本最大のものとされています。ひと回りしながら眺めてみました。
◇大きな根元。巨象の足のように、地面をしっかり踏みしめ、掴んでいます。若い根も見られ、まだまだ現役。
  ⇒一本タモ画像その1(画像複数)
◇上に横に広がる幹と枝。年輪を感じさせる樹皮の色と深い皺。新しい生長も見られ、樹勢は衰えていないようです。
  ⇒一本タモ画像その2(画像複数)

 つがる市の指定文化財にもなっているこの老木は、様々な手当てが施され、
樹木保存の試み
現在も地元の人々から崇められている分けですが、古くからの伝承もいくつか残されています。

【昔、ある殿様が、このあたりで道に迷い、杖にしていたタモの木の枝を地上にさして目じるしにした。それに根がついて生長したのだという。※『青森の伝説』角川書店
【津軽藩二代目藩主信枚公が津軽平野の開拓をした時、広大な湿原を実地調査するための目印になった。以来、開拓民の崇拝の的となった。※「一本タモ」説明書きより
 また、現在のように道路が整備されていなかった時代には、「川沿いの細い道を一本タモを目当てにして歩いて村に帰った」という村人の話も残されています。 
ー この一本タモは、開発や人々の暮らしの中で、大切な「道しるべ」として感謝されてきたようです。

 帰り際にひとつのお堂を覗いて見たら、お化粧した地蔵様
化粧地蔵
がたくさん安置されていました。「化粧地蔵」
川倉賽の河原地蔵尊(金木町)
と呼ばれるこのお地蔵様は、幼くして亡くなった子どもの霊を慰めるために、木や石で地蔵を堀り、幼児の戒名を刻み、手作りの衣類を着せ、化粧を施して地蔵堂などに奉納しているものです。
 このような風習は西北津軽地方独特のものとされ、つがる市には多くの地蔵堂がある分けですが、とりわけ、ここ稲垣地区には2,000体以上の化粧地蔵が祀られているとのことです。

 不幸にして亡くなった子ども達の多くは、飢饉や病気、自然災害、等による犠牲者であるといわれていますが、かつては沼地がいっぱい広がっていたこの辺りは、子どもの不慮の事故等も多かったと思われます。

ー 川岸に立つこの「一本タモ」は、そんな子ども達の安全を見守り続けてきたのかも知れません。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  水虎様  

水神を祀る寺「実相寺」ーつがるみち71

 津軽地方の岩木川流域は「鳥居の鬼っこ」をはじめ、化粧をほどこしたお地蔵様を祀るお堂など、独特の民俗信仰が根づいている所です。
 そのひとつとして河童の姿をした「水虎(すいこ)様」という「水神」を崇める信仰があります。地図で調べてみると、岩木川沿いにたくさんありました。
祀られている水虎様
西北津軽地方を中心にその寺社やお堂などは約80ヶ所といわれていますが、「水虎様」を祀り、水難防止を祈願するこの信仰は、つがる市・木造の実相寺から始まったとされています。
実相寺山門

実相寺鐘楼

 つがる市役所から木造駅へ。道の途中にこのお寺はあります。その山門は姿形が美しくとても趣があります。
山門
本堂と鐘楼の屋根の左右は、ピーンとつり上がっていて、まるで鳥の羽のようです。
 実相寺は山号「法光山」を称する日蓮宗のお寺ですが、その創建については、五所川原・飯詰城(高楯城)
飯詰城跡
に関わる伝承が残されています。

 戦国時代、大浦為信による津軽統一が進む中、飯詰城を守護していたのは、浪岡北畠氏の家臣・朝日左衛門尉藤原行安で、飯詰城は、北畠氏滅亡後も10年に渡って為信の攻撃を持ちこたえましたが、遂に1588年に落城しました。 ⇒飯詰城址
 その時、【城主の後室お妙の方は身ごもっていたため、城主の命により家老とわずかな供を連れ立って間道を通り城から大原(つがる市柏下古川)の地に逃げ延び男子を出産。その後、慶長2年(1597年)大原に主従の霊を弔うため落飾し庵を建て供養した。 ※実相寺縁起より】といわれており、「法華庵」と呼ばれたこの庵が実相寺の前身で、その後、【50年ほど経て寛文年間(1661-72年)のころ讃岐(香川県)生まれの実相院日成上人は布教伝道の為この地を訪れ、特に木作(木造)地方の多くの人の信望を得たので、住持していた法華庵を元禄2年(1689年)に現在の地に移し本行寺(弘前市)の末寺となった。元禄14年(1701年)本堂、庫裡の改装工事が完了し、法光山実相寺の寺山号を公称した。】とされています。

実相寺本堂

さて、「水虎」とは【中国の湖北省の川にいたという妖怪。外観は3、4歳の児童のようで、体は矢も通さないほどの硬さの鱗に覆われている。普段は水中に潜っており、虎の爪に似た膝頭だけを水上に浮かべている。日本には本来、中国の水虎に相当する妖怪はいないが、中国の水虎が日本に伝えられた際、日本の著名な水の妖怪である河童と混同され、日本独自の水虎像が作り上げられている~wikipediaより~】といわれていますが、津軽では「妖怪」というよりも、「龍神様の使い」「水神」として崇められています。それは江戸時代の末頃、ここ木造一帯で多発していた子どもの水難事故を憂いた実相寺の日順上人が、「水虎大明神」を勧請・祈願して広く水虎信仰を広めたことが、その源になっている分けです。

 現在でも、つがる市や五所川原市付近には沼や池
点在する沼
がたくさん見られますが、当時は川も多く、湿地が広がり、新田の開発も大変難儀をしたといわれていますし、悲惨な子どもの水死事故も多かったと思われます。余談ですが、山から離れていたため、薪が不足していたこの地方では、田んぼの底に積もった葦などの泥炭層を掘り、それを乾燥させて燃料にしていました。「サルケ」
サルケ ※Web『こまきのいせきものがたり』より
と呼ばれるこの燃料は昭和20年代まで使われていたとのことです。

 本堂の中に入り、「水虎様」を拝ませてもらいました。それは、中央の祭壇
本堂祭壇
に祀られていました。「水虎様」は、
水虎様
とても愛らしく、親しみやすい感じの「水神」でした。若い住職さんの話によると、遠く関東の方々も拝観に訪れるとのことです。

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豊作祈願「三新田神社」ーつがるみち70

 木造町は、弘前藩2代藩主・津軽信枚の「新田開発令」以来、3代・津軽信義の頃から新田開発が行われた所で、続く4代・津軽信政の治世には大規模な開発が進められました。
 その信政は、新田の開発がほぼ成った貞享元年(1684年)に当時の「木作代官所」に仮宿を建てますが、その時に手植えした松は「千代の松」
千代の松
と呼ばれ、現在も残っています。
 当時、主に開発が行われた所は「木造(現つがる市)」「金木(現五所川原市)」「俵元(現五所川原市)」で「津軽三新田」といわれますが、開発にあたり信政が延宝年間(1672年)に造営し、「新田開発五穀成就」を祈願したのが三新田神社です。

三新田神社一の鳥居


 木造町の中心街、つがる市役所の側にこの神社はあります。その鳥居には、しめ縄と共に多くの「米俵」
鳥居の米俵
が取りつけられていました。これは町内会の皆さんが
町内会の皆さん
例年、奉納しているもので、「三十三俵しめ縄奉納」と呼ばれています。
 300kg以上の大しめ縄と33の俵を奉納し、新年の五穀豊穣を祈るこの催しは、この地域では数百年前から続く伝統で、俵作りの技術後継者不足もあり、いったん途絶えたそうですが、約20年前に復活したとのことです。古来、数字の「3」は神聖な数で「多数」を意味し、「3」が並んだ「33」は「無限」を表すとされるところから、「多くの恵み=豊作祈願」につながるもののようです。

三新田神社参道


 さて、由緒によるとこの社は元和元年(1615年)、「産土神」として建立されたのが始まりとされています。津軽信政による造営の際には、神明宮と稲荷宮を勧請し、御神体として、 藩祖・為信秘蔵の兜の鍬形の御前立小鏡が納められたといわれています。
 御祭神は天照皇大神をはじめ、譽田別命・宇加魂命・大宮姫命・猿田彦命で、歴代の藩主や地域の人々の崇敬も深かった神社で、明治期には、氏子の方々の熱意により、正殿・拝殿・神楽殿等が造営され、現在に至っています。

三新田神社境内


 参道を進んで拝殿の前まで行くと狛犬
狛犬
と共に一対の神馬像。
一対の神馬
木造町は「馬のまち」でもあります。
 境内にはいくつかの摂社が建っていますが2つ並んだこのお堂は
事比羅神社と天満宮
事比羅神社と天満宮のようです。こちらは豊穣の神・稲荷宮。
稲荷宮
柱には小さな龍
小さな龍
が巻きついていました。

 拝殿の前に「夫婦イチョウ」
夫婦イチョウ①
という町の名木がありましたが、このイチョウ、よく見ると片方は先が欠けていました。
夫婦イチョウ②
折れたのでしょうか、分けがあって切り取られたものでしょうか。。

 境内には、多くの猿田彦命の碑
猿田彦命の碑
と共に二十三夜塔
二十三夜塔
が並んで立っています。二十三夜塔は「月待塔(つきまちとう)」のひとつで【特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔である。月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。~wikipediaより~】とされています。十三夜は虚空蔵菩薩を、十五夜は大日如来、二十三夜は勢至菩薩をそれぞれ本尊として祀ったとされていますが、昔から月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も全国に広がったといわれています。ここでもまた「お講」が行われ、人々が集まっていたのでしょうか。

 三新田神社の境内には、歴代藩主の手植えによる木々があるなど、津軽家の崇敬も厚く、昭和39年には津軽華子様が、父義孝氏とともに結婚報告に参拝された神社としても知られています。

     ※画像はいずれも昨年12月のものです。

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メロンロードその10「高山稲荷神社4」ーつがるみち66

 多くの人々の信仰を集めている高山稲荷神社は、古くは交通の便がとても悪かった分けですが、難路を越えてお参りし、「高山のお稲荷さまにおこもりして祈願すれば願いは叶う」と何日も祈り続けられる方々が昔から大勢いたということです。現在はりっぱな参集殿
参集殿
が建てられており、約300名の宿泊が可能な施設になっています。
 4月中旬の春季大祭には、「諸願祈祷祭」や「海神招迎祭」が行われる他、龍神宮神池で「神占祭」が行われ、宮司さんが米を和紙に包み神池に沈め、その沈み具合で1年を占うとのことです。また、9月下旬の例大祭には、龍神宮神苑に特設会場が設けられ、「御火焚神事」が執り行われ、「津軽神楽」も奉納されるということで、参拝客で大いに賑わうようです。

千本鳥居


 龍神宮のある神苑の先には「小神祠公園」と呼ばれる場所がありますが、道中は日本庭園になっていて、間を縫うように朱塗りの鳥居が延びています。この神社のシンボル「千本鳥居」
千本鳥居
です。その入口付近
千本鳥居入口
から見上げると遠くの小高い丘まで無数の鳥居が延々と続いており、正に壮観な眺めです。鳥居の途中には橋も架けられていて
千本鳥居途中
、庭園で一休みすることもできます。

 ほぼ1~2m間隔で建てられているこの鳥居の数は200数本だとか。。終点から下を見ると、まるで「龍」が寝そべっているようにも見えます(ドミノのようにも)。青森県のパワースポットにも選ばれている摩訶不思議な光景です。
  ⇒千本鳥居スライド

神明社


 丘の上には「神明社」があり、その下の川に沿って「小神祠公園」
小神祠公園
が広がっています。高山稲荷神社には、多くの小神祠や「おきつね様」が奉納されていて、それらをまとめて神苑を造り、祀っているわけですが、中には老朽化したものやお参りが絶えてしまったもの、所在が分からなくなってしまったものも多くあり、それらをまとめて安置している場所が「小神祠公園」です。毎年8月には、信仰者の安泰を願ってお焚き上げの神事が行われるとのことです。

 この公園の入口にずらーっと並んで立っているのが無数のきつね達。
小神祠公園きつね像
いったい何体あるのでしょうか。中には仲良く寄り添っているきつねもいました。
きつね像

 お堂(小屋)があったので扉を開けてみました。びっくりです。中にはこれまた無数の子ぎつね。。その中に混じって「七福神」あり「福助」あり・・何でもあり、といった感じです。⇒お堂の中
お堂の中


祠群


 きつね達の向こうには、たくさんの祠が置かれていました。朽ち果てたもの、屋根が壊れかかっているもの・・大小様々です。祠群の間には、観音様の石像や
観音像
逆さ龍
逆さ龍
などもあります。
 神社の標柱
神社の標柱
がそのまま立っているのには驚かされましたし、壊れた社殿
壊れた社殿
が残っている様は、痛々しい感じもしました。たくさんのきつね像や祠群、天気の悪い日や夕暮れ時などに訪ねるのは控えた方がよさそうです。

 日本人は昔から生き物のみならず、使い古した筆だとか針とか人形とかを大切に供養してきた分けですが、ここ小神祠公園にあるものもまた、供養のための「塚」なのだと実感しました。

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メロンロードその9「高山稲荷神社3」ーつがるみち65

 高山稲荷神社は境内にある三王神社
三王神社
がその前身で、海路や陸路の「守り神」であったとされていますが、「稲荷神社」として多くの信仰を集めるようになったのは、江戸時代に入り、この辺り一帯の開墾が進んだためといわれています。
 ここに「稲荷大神」を祀るようになったいきさつとして、由緒書きは次のように伝えています。
【稲荷神社創建の社伝には、江戸時代の元禄十四年(1701)、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の江戸城内での刃傷事件による藩取りつぶしの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士の寺坂三五郎が奉載し、流浪の果て津軽の弘前城下に寓し、その後鯵ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し、醸造業を営み栄える。その子孫が渡島に移住するにあたり、この高山の霊地に祀れとのお告げにより移し祀った、と伝えられる。】

 ー 忠臣蔵(赤穂事件)の話などが出てきて、少しびっくりという感じです。もちろん、にわかには信じられない伝承ですが、津軽には赤穂とのつながりを物語る話も残されており、この伝承にも興味を惹かれます。

(横道にそれますが・・)弘前藩の「名君」といわれる4代藩主・津軽信政は、山鹿素行を「父とも仰ぐ」ほど敬愛し、その思想に共鳴していた分けですが、同じ門弟の赤穂藩主・浅野長矩とは特に親しい間柄であったといわれています。
 そういったことで、信政は、大石良雄の従弟である大石郷右衛門を用人として召し抱えていた分けですが、元禄15年(1703年)の吉良邸討ち入りに感銘した信政は、郷右衛門を呼んでその「義挙」を賞賛したと伝えられています。この大石郷右衛門の子孫は弘前に在住し、内蔵助の遺品を多く所蔵していましたが、後に赤穂市の大石神社に寄贈したといわれています。 ⇒拙記事へ

『大江戸釣客伝(おおえどちょうかくでん)』


 一方、吉良家とのつながりもあり、弘前藩の分家・黒石藩の3代目の当主である津軽政たけの奥方は、吉良上野介義央の三女でした。阿久里(あぐり)というこの奥方は、父が非業の死を遂げる前に逝去したといわれています。
 この津軽政たけは、「津軽采女」とも呼ばれ、後に我が国最古の釣り指南書『何羨録』を著した人物として有名です。
⇒拙記事へ
 夢枕獏さんの『大江戸釣客伝(おおえどちょうかくでん)』は、この津軽采女を主人公とした物語で、数々の文学賞に輝いたものです。私も手に入れました。まだ読みかけですが。。
.
 ー こうした津軽に残っている「忠臣蔵」にまつわる史実や伝承が、この高山稲荷神社の縁起にも投影されているのでしょうか。。。

高山稲荷神社龍神宮


 さて、私は、拝殿前の石段を降りて龍神宮
龍神宮
へと向かいました。社殿
社殿
の両脇には龍神様を守る「きつね・きつね・狛犬」
きつね・きつね・狛犬
がいました。三体が並んで立っているのは珍しい光景です。
 ここは「神苑」とされており、【・・神苑の続く一帯には、龍神さまが住むと信仰される神池があり、龍神宮があります。この神池では神占いが行われます。願をこめて「こより」を池に落とし、こよりが真直ぐ沈めば願望成就、途中で止まり、時間がかかると願い事は難儀をする。全く沈まないと願いは無理との信仰です。また龍神さまの付近の山に入り、七枚葉の付いた笹の葉を頂いて、田んぼの水口にさしておくと五穀豊穣が叶えられるという信仰もあります。※参拝の栞より】と紹介されています。
 龍神宮からその「神橋」
神橋
の方を見ると、あの「千本鳥居」
千本鳥居入口
の入口が見えました。

                         ー 次回へ続きます。

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メロンロードその8「高山稲荷神社2」ーつがるみち64

 メロンロードを走って、最初に立ち寄った所は「天皇山」でしたが、山の頂には「天皇山高山稲荷神社」があり、そこがこの(旧車力村の)高山稲荷神社の前身であるという言い伝えがありました。ですが、創建に関わる記録などの多くは火災等で失われており、「天皇山」との繋がりは分かりませんでした。
 ただ、伝承では天皇山に安徳天皇一行を導いたのは安東水軍(安東氏)だとされていますが、ここにもまた、安東氏との関連を思わせる「三王稲荷神社」と呼ばれる境内社があります。

三王稲荷神社


 社殿の後方の裏山にいくつかの境内社が建てられていますが、中でもひときわ大きく立派な建物が「三王稲荷」です。笠木の上に合掌形の破風を乗せた「山王鳥居」は、あの十三・日吉神社の鳥居
日吉神社の鳥居
と同形のものです。その神門や全体の造りなどからは、ここは「別格」の社であることがうかがえます。由緒書きには次のように記されていました。
 【・・高山稲荷神社の由緒は、創建の年代は明らかでないが、鎌倉時代から室町期にかけてこのあたりを統治していた豪族安倍安東氏の創建と伝えられている。江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社創建の社説には、十三湊東方に山王日吉神社を中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があり、安東氏の祈願所として栄えるも1443年(または1432年)頃に南部勢の焼き討ちにより消失。この時、山王大神さまが黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まられた、と伝えられる。】
 

 
 ー 「日の本将軍」と呼ばれ十三湊を中心にして隆盛を極めた安東氏は、三戸南部氏の襲撃を受け、渡島(北海道)へと撤退する分けですが、最盛時には、十三湖周辺に「十三千坊」といわれる広大な宗教施設が建ち並んでいたとされています。ここ高山の地も、あるいはその一角であったのかも知れません。いずれにしても、この「三王稲荷神社」は、この神社創建の「源」であったようです。 ⇒三王稲荷神社画像

境内社①


 さて、ここは古くから農業や漁業を営む地元の人々の「霊地」であったと思われますが、江戸時代になり、稲荷信仰が広まると、稲荷大神を信仰する団体や個人の方々が敷地内にたくさんの祠を建て、独特の信仰活動を行うようになったといわれていて、それがこの神社の特色にもなっています。

 そのような境内社として三王稲荷の周りには、作丈一稲荷神社
作丈一稲荷神社
や、関東の方の寄進による熊五郎稲荷神社
熊五郎稲荷神社
が建てられています。
 また、「よんこ稲荷神社」
よんこ稲荷神社
という、ちょっと変わった名前の社もありますが、ここには、この地方のごみそ

ごみそ

 津軽を中心にした青森県,秋田県北部,北海道南部に多い祈禱・卜占を業とする巫者で,ゴムソ,ゴムソウとも呼ばれる。この地方で同じ業態のイタコとともにカミサマと総称されているが,イタコと違い,ホトケオロシはせず,また,目あきの者が多く,女だけとは限らない。入神は,ある日突然に神あるいは霊感を体得したことを契機とし,イタコのように師匠に弟子入りして修業を積むのとは異なる。またイタコのように〈いらたか念珠〉,弓など定まった携帯用具を持たない。

                     ~kotobank~より~
の方を祀っているとのことです。

境内社②


 このような独特の境内社は拝殿の下の方にもあり、そこには千代稲荷神社
千代稲荷神社
大島稲荷神社
大島稲荷神社
、そして三五郎稲荷神社
三五郎稲荷神社
が建っていました。
 この「三五郎稲荷」は、地元・牛潟に住んでいた「三五郎」という人物が慶長の頃(1596年~)に建立したものだということです。

 稲荷大神のみならず、こうした個人や特定の団体が建てた神社や祠なども併せて祀っている高山稲荷神社・・・「懐の深さ」を感じさせます。例大祭は、毎年9月に行われますが、こうした境内社の大祭もそれぞれ別の月に行われているということです。

                           ー 次回へ続きます。

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メロンロードその7「高山稲荷神社1」ーつがるみち63

 メロンロード散策の終着点「高山稲荷神社」にやってきました。高山稲荷神社については【つがる市牛潟町にある五穀豊穣・海上安全・商売繁盛の守り神として霊験あらたかな神社です。ここの信仰には農業・商業・工業・漁業・家内安全・病気平癒・道中守護・憑物落としなど多種多様のものがあり、地元の方を始め、遠方からも多くの方々が訪れる神社です。※Web「津軽なび」より】と紹介されていて、神社の高台や隣の「高山小公園」からは日本海の風景
日本海・権現岬付近
を眺望できます。

高山稲荷神社社務所


 大鳥居をくぐると、大きな社務所が建っていますが、ここには宿泊施設も完備されており、例大祭には、全国各地から大勢の人々が訪れるということです。
 境内の案内図
境内案内図
を見ると、その敷地の広大さに驚きます。拝殿や本殿の他にもたくさんの摂社・末社があるようです。「よんこ神社」、「三五郎神社」など?と首をかしげたくなるような名前の社もあります。
 社殿へと続く参道階段の入口には、
参道階段入口
稲荷社らしく、一対の「きつね像」が立っていました。左右ともに子ぎつねを抱えたその姿は
きつね像
、とてもほほえましい感じがします。
 階段の両脇には
参道階段の灯籠
、多くの方々の寄進による灯籠がずらーっと並んで立っています。よく見ると、青森県のみならず秋田県や北海道の方々の寄進と思われるものもあり、この神社の信仰が遠くまで広がっていることが分かります。
 登り詰めたところには、手ぬぐいで頬被りをしたきつね
頬被りをしたきつね
がいました。顔が少し風化しているようで表情はよく分かりません。ここが分岐点になっているようで、そのまま真っ直ぐ下へ進むと、この神社のシンボル「千本鳥居」の場所、右側には末社群、そして左側に社殿があります。

高山稲荷神社拝殿前


 拝殿前の赤い鳥居の脇に何やら奇妙な石を祀った祠が立っていました。「命婦(みょうぶ)社」
「命婦(みょうぶ)社」
とよばれるこの社をよく見ると祀られていたのは大きな自然石。
祀られている自然石

 「命婦」とは、もともと宮中に仕える女官を指しますが、転じて、稲荷神の使いとされる「狐」の別名として用いられるようになったといわれています。
 確かにその姿形は、子ぎつねを抱えた親ぎつね
きつねの自然石
のようにも見えます。それにしても、奇妙な石もあるものです。この社、「命婦」というその名前からの連想なのでしょうか、「夫婦円満」の神様として信仰されているとのことです。※この神社に限らず、稲荷神社の狐は「親子」ではなくて「夫婦」だという説もあるようですが、どうなのでしょうか。。

高山稲荷神社拝殿


 さて、この神社の祭神は、全国稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社と同じ稲荷大神(宇迦之御魂命・佐田彦命・大宮賣命)で、五穀豊穣の神であるとされています。きつねはこの稲荷大神の「お使い」とされていますが、なぜそうなのかはよく分かっていないようです。 ー せっかく実った稲田を荒らし回る「野ネズミ」の天敵が「きつね」で、それを退治してくれるということから「神の使い」として信仰されていったということで、人々は感謝の気持ちをこめて、油であげたネズミを供えた。それが、「油揚げ」になった。・・という話も聞いたことがありますが。。
 それはともかく、ここ高山稲荷神社のきつねも、
拝殿前のきつね
稲荷大神の霊徳の象徴である「巻物(鍵)」と「宝珠(玉)」を、しっかりと口にくわえていました。

                           ー次回へ続きます。

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メロンロードその6「チェスボロー号記念碑」ーつがるみち62

 以前、「エルトゥールル号遭難事件」を描いたTV番組(確かプロジェクトXだったと思いますが?)を見たことがあります。1890年(明治23年)、当時のオスマン帝国軍艦「エルトゥールル号」が、和歌山県串本町沖で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件で、その時の地元民の献身的な救助活動は、その後の日本とトルコの友好関係の礎となったという内容でした。
 実は、青森県にも「チェスボロー号」という船が遭難した際、地元の人々が行った救助活動の話が残されていて、事件や人間愛に満ちた人々の様子を後世へ語り継ぐため、「遭難慰霊碑」が建立されています。

牛潟池


 亀ヶ岡から再びメロンロードに出て、高山稲荷神社を目指し、旧車力(しゃりき)村へとやってきました。何回かご紹介しましたが、一帯には沼や池がとても多いのですが、この近くにはあの平将門にまつわる話が伝わる池があります。【承平の頃、ここに城を構えていた将門の側仕えの女人が池で袴を洗っていたとき、あやまって自分も池に落ちて死んでしまった。以来、「袴形池」という。」という話や、【将門の愛用の牛が、突然ものに恐れて、池に飛び込んで死んでしまった。以来、「牛潟」という。】など、池の名前の由来が伝えられています。
 この牛潟池から少し進むと間もなく高山稲荷神社の鳥居
高山稲荷神社鳥居
が見えてきますが、その手前に「高山小公園」があり、そこに「チェスボロー号記念碑」が建っています。
  ⇒付近の地図
付近の地図


高山小公園展望台


 小公園には展望台が設けられていて、壁には「チェスボロー号」
チェスボロー号
が刻まれていました。
 さて、この遭難のあらましと記念碑建立のいきさつは次のようなものです。
【明治22年(1889年)10月30日の早朝、つがる市車力沖合300m付近で折からの暴風によって座礁した一隻の巨船が牛潟の漁民によって発見され、風速63mの嵐の中、決死の救出活動で乗組員23人中、4人の船員を奇跡的に救助。3日後、奇跡的に助かった4人は無事にアメリカに帰国しました。助けた当時の村人たちの心にも、助けられた乗組員たちの心にも大きな感動が生まれました。その船名はチェスボロー号、アメリカメーン州バス市の船籍。国境を超えた勇気と愛の人間ドラマは感動と共に語り継がれ、旧車力村とアメリカメーン州バス市は、積極的に交流が行なわれるようになりました。それを記念しチェスボロー号記念碑が出来ました。※Web「津軽なび」より 

 悪天候の中、荒海に飛び込み、何時間も粘り強く救助にあたった者、貧しい中から互いに食料を持ち寄り、温かい味噌汁やおにぎりをつくる者など、村人が一体となって救助活動に努めたとされています。ある婦人は、自らの肌で遭難者を温め、見事に蘇生させたといわれており、その姿はまるで「天女」のようだったと語り継がれています。

慰霊塔・記念碑


 展望台から奥の方へ進んだところに遭難慰霊碑
遭難慰霊碑
があります。十字架は命を落とした19名の慰霊碑。
慰霊碑
そのそばに、木造の顕彰碑
木造の顕彰碑
が建っていますが、これには歯を食いしばって走っている二人の若者の姿が描かれています。台座に説明書きがありました。
説明書き
二人は村一番の健脚といわれた若者で、村から青森まで約64kmを一気に走り抜け、県庁に遭難事件を伝えたとされています。「使命感」のなせる技でしょうか。。

 ところで、この出来事をきっかけに、車力村とバス市の国際交流が始まった分けですが、100周年にあたる平成2年(1990年)から、ひとつのイベントが始まっています。遭難した船の名前から「チェスボローカップ」と名づけられたこの「水泳駅伝」は、「車力村とバス市の直線距離10,200km」に、毎年の参加者が泳ぐ距離を累計して到達させようというものです。キャッチフレーズは「勇気と愛は海を越える」。
チェスボローカップ

 今では日本国内はもとより、世界各国からも参加者が集まり、つがる市の夏の大イベントとなっているようです。
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