
十三湖にほど近い岩木川下流には、かつて、富野、豊島、芦野、田茂木、長泥、福浦、豊岡の村々が点在していましたが、明治22年(1889)に合併し、「武田村」が発足しました。
村名は、岩木川下流の開拓と治水につとめた江戸時代の奉行・武田源左衛門に因んで名づけられたとされていますが、その後、昭和30年(1955)に中里町の誕生により、武田村は消滅し、武田地区と呼ばれるようになりました。

武田地区の田茂木は、寛文4年(1664)頃に開拓がはじまり、津軽藩田舎庄金木新田として成立したといわれていますが、村の産土社として崇敬を集めてきた社が鳴見という集落に鎮座する稲荷神社です。
その由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 創立年月日 不詳 旧社格 村社 明治六年 列格 創立年月日不詳であるが、 元禄十三年の再建と伝えられる (神社微細調書記載)。 明治初年以前は長泥部落の稲荷宮と合祀してあったが、 昭和二十二年六月、 長泥の稲荷宮は復社した。 当神社は明治四十四年神饌幣帛料供進の指定神社となる。※青森県神社庁HPより】とありますが、その創建については、延宝3年(1675)や元禄13年(1700)とする説もあります。
また、江戸時代の中期には岩木川氾濫による水害に悩まされ、何度も流されたようですが、「正徳元年(1711)と宝暦3 年(1753)に再建された」という記録は、そのことを物語っているように思います。
◇田茂木稲荷神社





神社の入口の道路付近には地蔵堂が立っており、その傍らには、弘化3年(1846)の銘をもつ庚申塔をはじめ、明治・昭和・平成の時代に建立された二十三夜塔や百万遍塚などが並んでいます。
それらの石碑群のそばには大黒様と恵比寿様。後ろの田んぼを見守るように立っていました。台座にはろうそくなどが置かれており、地域の方々が拝んでいるようです。
境内は、社殿の右側が広く開けていて、新しい神馬像の後ろに鳥居を伴った境内社がありますが、これは保食神を祀る保食神社のようです。
保食神社の後ろには、古びた祠が四つ並んで立っていますが、そのうちのひとつは石をくりぬいて造られたものでした。
四つの祠をそれぞれ覗いてみましたが、二つの祠の中には両手を合わせた水神・水虎様が祀られていました。
◇水虎様ほか




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中泊町の田茂木(たもぎ)地区は、岩木川下流の低地に広がる集落ですが、ここを馬鹿川(ばかがわ)という小さな川が流れています。岩木川の分流のひとつですが、勾配がとてもゆるく、水の流れが停滞しがちな河川です。
一帯は十三湖南岸の三角州地帯にあたりますが、冬の西風による日本海の高波で十三湖の水位が上昇し、そのため下流から上流へと逆流することがあったため、水害防止の放水路として作られた川です。しかし、放流効果がなく、そのため馬鹿川(※役に立たない)という蔑称で呼ばれるようになったといわれています。
そんな田茂木地区の若宮という所に若宮稲荷神社が鎮座しています。

若宮の集落は、昭和2年(1927)、 「岩木川改修工事に伴う新堤防造築のため、長泥地区から分かれて馬鹿川沿岸に入植したものであり、当初は下長泥と称したが、戦後若宮と改称した。」とされています。
村の道路沿いに赤い大きな一の鳥居が立っており、参道が続き、二の鳥居、三の鳥居をくぐると境内へと出ます。境内の背後は田んぼになっていて、黄金色の稲が波打っていました。
入口には水道竣功記念碑があり、そのそばに紫色の衣を身に着けた神馬が置かれています。社殿は、緑色の藤棚の奥に立っていて、その前には青色のほっかむりをした狛狐が一対置かれていました。
社殿の右側は広い敷地になっていて、赤い祠や鳥居を伴った石碑群があります。「昭和13 年(1938)建立の庚申塔、甲子塔、昭和57年(1982)建立の二十三夜塔」とのことです。
◇石碑、神馬、狛狐





神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 創立年月日 昭和二年月日不詳。 大正年間入植せる開拓村の守護神として、 近隣長泥稲荷神社の御分霊を小祠に奉祀。 以来、村民の厚き尊崇を受く。 河川の築堤工事に伴い現在地に移転、 社殿改築、 昭和五十六年十二月二日遷座祭、 竣工祭斎行。 昭和五十八年七月、 宗教法人設立及神社本庁被包括承認申請。 ※青森県神社庁HPより】とありますが、集落が長泥地区から分離するにともなって建立された社のようです。
社殿のそばに赤い祠がぽつんと立っていましたが、その中を覗いて見ると、木彫りの水虎様が祀られていました。水害から村を守る守護神として祀られたのでしょう。少し珍しい姿の水虎様です。
◇若宮稲荷神社




※「中泊町史跡・文化財マップ」を参照しました。
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中泊町長泥(ながどろ)地区については、次のように紹介されています。
【岩木川下流部右岸堤防沿いに展開する集落。元々は現在地よりも2 キロほど下流に位置したが、大正末~昭和初年現在地に移転した。旧村の開拓は、文化元年(1804)で弘前藩田舎庄金木新田福泊村として成立した。天保飢饉で廃村となったが、安政5 年(1858)に復興し、文久元年、(1861)長泥村と改称した。※「中泊町史跡・文化財マップ」より要約・抜粋】

そんな長泥集落の産土社として人々の信仰を集めてきた社が稲荷神社です。
十三湖へと続く岩木川の堤防のそばに鎮座している神社ですが、堤防の上から境内全体を見渡すことができます。
入り口付近に赤い屋根のお堂がありましたが、そこにはお地蔵様が祀られていました。お参りの人が絶えないようです。
奥の方に社殿があり、その後ろには黄金色の田んぼが見えました。社殿の前には、ほっかむりをした狛狐が一対置かれています。
境内の中央付近に赤い鳥居が立っていて、その後方には明治42 年(1909) 建立の二十三夜塔や百万遍の塚などが三基並んで立っていました。
◇長泥稲荷神社





この神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 文政二年の勧請で、 醍醐帝の御代坂場八郎家資卿勤五ノ兵を擧ぐるに際し帝の謁見を得、 京都伏見稲荷神社の御分霊を捧持し来たけれども越後国で戦いに破れ海路津軽に落延びたと云われ、 家資津軽地に遊去の後子々孫々稲荷社を厚く崇敬し来たけれども、 文政二年に至り家資の後裔義道より長泥部落開発守護神として勧請するに至り、 天保年間、 凶作のため廃家続出離村するに及び田茂木稲荷神社合祀した。 昭和二十二年六月に至り新たに神社創設の承認を得、 今日に至った。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
また、「中泊町史跡・文化財マップ」にも、
【文政2 年(1819)創建。天保飢饉時廃社となるも、慶応2 年(1866)再建。】とあり、天保の大飢饉の甚大な被害を今に伝えています。
◇社号標、狛狐ほか




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中泊町高根地区については、
【高根(たかね) 上高根溜池南側の上高根と、北側の下高根からなる集落。 城館跡である黒崎館遺跡や、 製鉄址である小金石遺跡などが認められるが、詳細は不明である。上高根溜池の築造が寛 永年間(1624-43)とされることから、近世高根集落もそのころの成立と考えられる。当 初は黒崎村と称していたが、貞享3年(1686)高根村と改称。※中泊町史跡・文化財マップより】と紹介されています。
その上高根と下高根との境目にあたる道路沿いに、赤い鳥居が2つ並んで立っている場所があったので立ち寄ってみました。
右側の鳥居のそばには昭和42 年(1967)に建立された「高根保安林碑」があり、鳥居をくぐって石段を上ると、大正15年(1926)に建てられた「植樹報恩碑」がありました。隣にはお堂があって石仏が祀られています。
一方、左側の鳥居の奥には祠が2つ。後で分かったのですが、この場所は清水が湧き出ている場所で、「冷水コ・惣染堂」と呼ばれているようです。2つの祠は馬頭観音と勢至観音を祀っています。





惣染堂を過ぎると下高根の集落になりますが、ここに稲荷神社が鎮座しています。
十三湖へと向かう国道339号線沿いにある神社ですが、道路沿いに干支の猿が描かれた絵が鳥居に架かっており、上の方に白っぽい社殿が見えました。
鳥居からは小高い丘に向かって、参道の石段が延びていますが、上りきった所が境内です。

石段の頂上付近に二の鳥居が立っており、そばには大きなケヤキの木がそびえていますが、そこから境内は左右に分かれており、左の方には鳥居を伴ったお堂がひとつ立っていました。
右に曲がった方は稲荷神社の境内ですが、ここからは集落の様子が見渡せます。社殿がポツンと立っているという、いたってシンプルな境内ですが、御神燈とほっかむりをした狛狐が置かれています。
この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 旧社格 村社 明治六年四月列格。 往昔大日堂と称して祀り来れるものなり、 明治初年稲荷神社と改む。 御棟札宝暦十辰年二月 文化九申年九月 文政十二丑年十月 嘉永五 丑年九月 大正二十四年八月二十六日神饌幣帛料供進指定神社に列せらる。※青森県神社庁HP】とあります。
また、中泊町史跡・文化財マップには、【江戸時代は大日如来を祀る大日堂であったが、明治初年神仏分離令により稲荷神社となった。創建年代不詳であるが、貞享4 年(1687)『検地水帳』に「大日堂地」がみえることから、それ以前の創建である。宝暦10年(1760)再建。】と書かれています。
◇下高根稲荷神社








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旧中里町の豊岡村は、明暦年間に開村されたと伝えられていますが、その後、津軽藩の新田開発にともなって拓けていった所です。
4代藩主・津軽信政はこの地の新田開発にあたって、元禄元年、村内南端に神明宮を建立して、安全鎮護を祈願したとされていますが、その後、元禄13年(1700)に現在の地に遷座されました。

神明宮と同じ敷地に鎮座している加茂神社については、
【御祭神:別雷命 倉稲魂命 創立年月日 不詳 元禄二年の創建と伝えられるけれども不詳である。 元禄十三年再建した。 (安政年中の神社微細調書に依る) 御棟札 寛政三年四月 文政二年八月 明治以前は神明宮の相殿として同境内に建立されてあったけれども、 明治六年分離し、 賀茂神社として村社に列格、 今日に至る。 昭和二十四年九月三十日、 無償譲与された。 神明宮境内地の地域内に建立してある。 ※青森県神社庁HP】とありますが、神明宮の相殿として創建され、同様の歴史を積み重ねてきた神社のようです。
この神社の境内は、付近を流れる川にそって広がっていますが、川のそばの小道の木の根元には、百万遍の塚が立てられていました。
米俵が乗っかった鳥居をくぐると参道が続きますが、途中には社号標や御神燈、狛犬などが置かれています。参道の左側に白木の鳥居があって、その奥には庚申塔や二十三夜塔が草木に隠れるように立っていました。
庚申塔の横には赤い祠がひとつ。実は、この加茂神社には津軽の水神・水虎様が祀られているということで訪ねたのですが、どうやらこの祠がそれのようです。扉を開け、中を覗いてみたら、黒塗りの木箱がありました。この中に水虎様が納められているようですが、大切に祀られているようなので、箱を開けてみるのは遠慮しました。
拝殿の祭壇の上には、前述と同様の由緒書きが掲げられていましたが、この神社には7代藩主・津軽信寧が奉納した「御供鳴弦御守二通」があるとのことです。
「鳴弦(めいげん)」とは、
【弓に矢をつがえずに、弓弦(ゆづる)だけを引いて放し、ビュンと鳴らすことによって、妖魔(ようま)を驚かせ退散させる呪法。※コトバンクより】のことですが、この地で、五穀成就の鳴弦行事が行われていたことが分かります。
◇豊岡加茂神社








◇稲荷社と天満宮


社殿の左右には、建物(堂宇)があります。左側の大きな祠は稲荷社です。神明宮の由緒に「明治六年以前は相殿として加茂宮、 稲荷宮の二社、 同境内に建立してあった」と書かれていますが、この祠を指しているのでしょうか。
一方、右側は天満宮でした。大きな由緒板がありましたが、文字がかすれて読めませんでした。社殿の中には、
【御祭神:菅原道真公 文化三年(一八○六年)、神明宮境内社として創建。地域文化発展の守護神として崇敬され、今日に至る。】と書かれた由緒書きがありました。
前回紹介した神明宮と猿賀神社、そして加茂神社、稲荷社、天満宮と、同一の境内に様々な神様が祀られているこの場所は、村の人々の信仰の拠り所だったのでしょう。
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中泊町豊岡(旧中里町)の緑川という集落に赤い神橋が架かっている場所があります。
「御詣橋(おまいりばし)」と名づけられたこの橋の対岸に、森に囲まれた広い境内があって、左右にそれぞれ鳥居が立っているのが見えます。
左側が加茂神社で、右側の社は神明宮。境内の敷地はいっしょで、行き来できますが、参道はそれぞれ別々です。

先ずは、右側の神明宮の方へ。古びた石造りの一の鳥居をくぐると、社号標があり、鳥居は、二の鳥居、三の鳥居と続いていますが、社殿の前の木造の鳥居には、大きな文字で「五穀豊穣」と記されています。
この鳥居の奥に社殿がありますが、その前の木々に隠れるように、神馬とほっかむりをした狛犬が一対置かれていました。
社殿は、素朴な藁葺き屋根で、どこか懐かしさを感じさせる建物です。中には、「天の岩戸」を描いた絵馬や、新年を祝って奉納された干支の絵馬が、たくさん掲げられていました。
この豊岡神明宮の由緒については、
【御祭神:天照皇大神 創立年月日 不詳 旧社格 村社 明治六年四月 列格 創立年月日不詳であるが、 元禄十三年九月再建される。 (安政年中取調帳に依る) 御棟札 寛政三年四月 文化二年八月 文政二年八月 弘化三年八月 明治六年以前は相殿として加茂宮、 稲荷宮の二社、 同境内に建立してあったが明治六年分離し加茂宮は加茂神社として四月村社に列格し今日に至る。※青森県神社庁HP 】とあります。
また、境内の由緒書きには、
【神明宮が此の地に創建された歴史は古く元禄三年今より三百有余年前、我々の先祖が御産土神として崇拝し今尚変る事なく氏子並びに地域住民によって崇拝されているところであります。今、この神社境内にひば材の大鳥居を建立せんと氏子を中心に広く浄財の寄進を募りしところ崇敬者の深い御理解と御協力により併せて大鈴一吊、大幟一対に大締縄を添えて奉納し、今後は更に地域住民の幸せを祈願し末永く崇拝するものであります。※由緒(浄財寄進者御芳名)より】と書かれていました。
◇豊岡神明宮








◇豊岡猿賀神社


神明宮の右隣に、もうひとつ鳥居が立っていて、その奥に社殿があります。扁額には「猿賀神社」とありました。平川市の猿賀神社の分霊社のようです。
社殿に掲げられている由緒板には、御祭神は上毛君田道命で、田道命や坂上田村麻呂に関する伝説、いわゆる本家の猿賀神社の縁起について書かれていますが、最後に、
【豊岡猿賀神社は、豊岡神明宮神祇官職和田豊前守が、尾上町(※現平川市)の猿賀神社の御神霊を厚く信仰し、文化四年(一八○七年)御分霊を奉じて、ご社殿を創建し・・・。】と、この社の由緒についてふれています。
猿賀神社の分霊社は、県内にもいくつかありますが、ここもそのひとつのようです。同じ中泊町には、たくさんの奉納された船絵馬で知られる富野猿賀神社もあります。
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深郷田の中里八幡宮を訪ね、薬師堂の龍神様を拝んだ後、国道339号線に出て、道路沿いの五林神社に行ってみました。
縄文時代から平安時代にかけて整然と区画された大集落があったとされる中里城遺跡 は、旧中里町のシンボルですが、五林神社のある宮川地区は、遺跡の中心部から延びたゆるやかな尾根の先端部にあたります。
かつては、この場所にも「五林館」という館が築かれていたとされています。
この地域にも多くの地蔵堂があるようですが、神社から少し離れたところにもありました。集落の名前から「五林地蔵堂」と呼ばれているようです。その中には、大小のお地蔵様とともに、ひとつの石に何体も刻まれたお地蔵様もありました。
339号線沿いに少し小高い丘があって、そこには鳥居が立っています。車を駐めて丘を上ってみると、そこには庚申塔と二十三夜塔がありました、いずれも塔の前に注連縄が張られたものです。天保3 年(1832)建立の庚申塔と明治18 年(1885)建立の二十三夜塔だということです。
◇五林地蔵堂、庚申塔、二十三夜塔






さて、五林神社については、
【御祭神:大道寺力命、オリ女命 創立年月日不詳。 旧中里村誌によれば、 文治、 建久の頃頼朝公の追討軍に発覚された義経の家臣大導寺力は大導寺沢 (現に山沢名として残れり) に立籠り、 衆寡敵せず、 遂に討死せり、 五林村に住める身籠れる妻のオリ女は 「この地の産神とならん」 と伝い残して、 夫の跡を追いて自刃せりと、 村人はその哀しい運命に遭いる二人の神霊を祀りて五輪塔となすと伝へらる。 当部落は中里町六ケ村の母村と云われ 「五林」 と呼称されている。
藩制時代には 「五林権現堂」 と称されていた。 因に安政二年の棟札に 「奉再興五林権現堂」。 一宇講中守祈攸。 別当金剛山最勝院現住家朝慶敬白。 「社司松橋遠江」 と記されている。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

上記の縁起にもあるように、「平泉から逃れてきた源義経の従者であった大導寺力は、津軽三厩にて主人と別れ、中里部落に隠れ住んでいた。大導寺力は、部落の「オリ」という娘を娶っていたが、やがて鎌倉勢に発見され、奮戦の後、討ち死にした。妻のオリは身重であったが、夫の後を追って自刃した。」という伝説が残っています。
「大導寺伝説」と呼ばれるこの伝承は、義経北行伝説のひとつですが、地域には、「大導寺沢」「大導寺屋敷」などの地名も残っており、礎石のような石をはじめ、信楽の小壺などの遺物が発見されているということです。
村人は、大導寺力と薄幸の娘「オリ」に同情し、夫妻を御祭神として五林神社を建立し、五輪塔と宝筐印塔を建てて供養したわけですが、「五林」という地名も「五輪」からつけられたともいわれているようです。
この五輪塔と宝筐印塔は、五林神社の社宝になっているわけですが、境内にその説明板があります。それらによると、
「五輪塔は、高さ120㎝、幅46.5㎝、奥行き45㎝あり、磨滅してはいるが、地・水・火・風・空の各部が残り、梵字が刻まれている。これらの石塔が建てられた年代については、宝筐印塔の方が鎌倉時代から室町時代、五輪塔は室町時代前期までに造立されたとする見方がある。」とされているようです。
なお、菅江真澄は『外浜奇勝』の中で、「五倫といふやかたあり、そこは寺のあともしられてたが五倫塔ならんありて、むかし栄えたるもの語ありとぞ」と記しているとのことです。
私が訪ねたときには、残念ながら社殿は施錠されており、その中の五輪塔と宝筐印塔を拝むことはできませんでしたが、神社のすぐ近くの中泊町博物館にそのレプリカが展示されているということで、さっそく行ってみました。博物館には、主に縄文時代から昭和までの旧中里町の歴史を物語る資料が数多く展示されていましたが、その中に五輪塔がありました。
◇五林神社、五輪塔、宝筐印塔





旧中里町に残る義経伝説を訪ねてきましたが、中泊町HP『誰も知らない中里』には、次のように記されています。
【鎌倉時代初頭、衣川で敗死したはずの源義経が、実際は津軽地方まで逃げ、さらに北方へ落ちのびたとするいわゆる「義経伝説」は、青森県内各所に存在するが、中里町にもいくつかの伝承が残されている。 ひとつは、五林神社五輪塔にまつわる「大導寺伝説」である。
一方宮野沢地区には、源頼朝を祭神とする白旗神社が存在する。・・・つまり中里においては、旧敵同士を祭る五林神社と白旗神社が、約2キロの距離を隔てて対峙していることになる。】
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義経伝説が残る宮野沢の白旗神社からの帰り道、「深郷田」という集落を通りました。
旧中里町全体にいえることですが、この地域もまた縄文時代からの文化が花開いたところで、縄文前期の土器(※深郷田式土器と命名されている)から晩期の亀ヶ岡式土器に至るまで多くの遺物が発見されており、長期間に渡って古代集落が形成されていたことが分かっています。なかでも一本松遺跡は「深郷田館」とも呼ばれ、空壕を巡らせた跡も見つかっており、整然と区画された集落が、古代から中世にかけて存在していたとされています。
そんな歴史をもつ深郷田の集落に鎮座しているのが中里八幡宮です。

実は私は、深郷田を「ふこうだ」と読むということは知りませんでした。この中里八幡宮は、以前は集落名から「深郷田八幡宮」と称していたようです。
その縁起については、
【御祭神:譽田別尊 往昔中里村袴腰岳に鎮座ありしを天正二年現社地へ遷せりと伝へらる。 天正七年再建して中里、 深郷田、 宮野沢三ケ村の産土神となる。 社宝の八幡宮と書せし額面は神祗伯資延王の眞筆と伝へらる。 明治六年四月郷社に列格せられ、 同四十年一月十五日神饌幣帛料供進指定神社に列せらる。 ※青森県神社庁HP】とあります。前回の記事でご紹介したように、昔、袴腰岳の山頂に祀られていた八幡神が、白旗神社を経て、この社に落ち着いたという伝承があり、以来、地域の産土社として人々の崇敬を集めてきた由緒ある神社です。村の一地域の「深郷田八幡宮」から、村全体を示す「中里八幡宮」へと社名が変わったのも、そうしたより広い地域の人々により、信仰されてきたからなのでしょう。
私が訪ねたときは、一組のご夫婦が境内を掃除しているところでした。私が、拝殿の中を覗き込んでいると(鍵がかかっていたので)、ご主人が鍵を開け、拝殿の中を案内してくれました。どうやら、このご夫婦は氏子の代表の方だったらしいです。
ご主人は、拝殿の中を見せながら、前述したこの神社の歴史について、誇らしげに語ってくれました。境内の神馬や狛犬なども、名のある石工の作品なのだそうです。
拝殿の中には、いかにも八幡様らしく、お使いの鳩が描かれた幕が張られています。この神社には、青森県の著名人が数多く参拝に訪れたらしく、長年に渡って青森県知事を務めた竹内俊吉氏の「中里八幡宮を讃えて」と題する歌額 も掲げられていました。
ー 『荒海の北の守りにつかいせし 白鳩さまの御名ぞかぐわし』
◇拝殿、本殿ほか






一の鳥居のそばには地蔵堂があります。中には「奥津軽」を感じさせる十字前掛けをしたお地蔵様が二体。境内は小高い丘の上にありますが、社殿の周りには末社や石碑がいくつかありました。猿田彦碑(庚申塔)は文化5 年(1808)、二十三夜塔は元治2 年(1865)に建立されたもののようです。
二の鳥居の隣にもうひとつ赤い鳥居がありましたが、その奥には聖徳太子碑が立っていました。どうして聖徳太子の碑がここにあるのか不思議です。
参道のと中には「山大神之碑」と刻まれた石碑があり、そこには山ノ神のお堂があります。中に入ってみると、入口付近に御神輿が置かれていました。お祭り用のものなのでしょうか。
◇地蔵堂、石碑、山神堂








山神堂と聖徳太子碑にはさまれた所にも建物がありますが、ここは薬師様を祀っているお堂です。
中に入って拝み、外へ出たとき、掃除をしていたご夫婦の奥様が、「龍神様を見ましたか。今、お出でになってるんですよ。」と、声をかけてくれました。
私は、最初、何のことか分からなかったのですが、奥様の「ろうそく!」という言葉で、「あっ」と気がつき、もう一度お堂の中へ入りました。
「龍神様」というのは、祭壇のろうそくから溶け出したろうが、あたかも龍の姿のように固まる現象なのです。以前、青森市の大星神社を訪ねたとき、その写真を見たことを思い出しました。
⇒大星神社の龍神様
この不思議な「龍神様」は、人々の信心深さを愛でるために現れ、瑞兆のしるしともされています。
薬師堂の中にある燭台のひとつをよく見てみると、確かに、ろうそくの芯から流れ出たろうが、時計回りに半円を描いて、ろうそくの中央に結びついていました。
その少し幅のある螺旋状の形は正に龍。うろこのある体つき、細い首、三角形の頭、上に伸びた角、ヒゲ・・・びっくりさせられます。
このような形は、ろうそくの大きさ・太さ・材質や、芯の長さや傾き具合、炎の強さ、あるいは空気の流れなど、様々な要因によって出来るのでしょうが、やはり、一種の神秘的な現象には違いなく、拝む人にとっては貴重な宗教的体験なのだと思います。
教えてくれた奥様の一言。
ー 「龍神様が来ているので、きっと神様も喜んでると思う。」 ー その通りです。
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安東氏以前に十三湊を支配していた十三氏(十三藤原氏)の祖・藤原秀栄(ひでひさ)は藤原秀衡の弟であり、平泉との交流も深く、十三湊から得られる収益は、平泉繁栄の一翼を担っていたともいわれています。
また、平成5年の大河ドラマ『炎立つ』では、平泉に亡命中の源義経が十三湊を訪れるという設定でロケも行われるなど、十三湖一帯の市町村には、いわゆる「義経北行伝説」が多く残っているわけですが、旧中里町(現中泊町)もそのひとつです。今回は、そんな中里町の宮野沢に鎮座する白旗神社を訪ねてみました。

宮野沢の集落は、縄文時代の遺跡が見つかったり、平安時代には大きな古代集落が誕生したとされるなど、太古からの歴史の流れを感じさせる土地です。
「宮野沢」という地名は、文明13 年(1481)、南朝の皇子が逗留したことにちなんで名づけられたという伝承もあるようです。
現在は中泊町運動公園となっている丘陵地帯は、中世の城館があった場所だとされていますが、その運動公園の入口付近に、白い注連縄が張られた鳥居があったので立ち寄ってみました。
鳥居をくぐって、参道の石段を上ると、そこにはひとつのお堂が立っていました。ここは観音堂で、集落の名前から「宮野沢観音堂」と呼ばれているようです。
ここには、「申の子」「金毘羅」「二十三夜」「庚申」「山の神」が祀られていますが、中を覗いてみると、神様の小祠や石碑、御神体を描いた掛図などが並んでいました。線香のにおいが漂っていて、お参りする人々も絶えないようです。このような観音堂や地蔵堂が点在しているのも、奥津軽の特徴です。
◇宮野沢観音堂






観音堂を過ぎて、運動公園へと続く坂道を歩いて行くと、途中の田んぼの中に鳥居がポツンと立っているのが見えます。そして、その奥には小さな森。どうやらここが白旗神社のようです。
田んぼと畦道の中にひっそりと立っている神社ですが、やがて、田植えの時期を迎え、田んぼに満々と水が張られる頃には、まるで湖の中に浮かぶ小島のように見えるのではないでしょうか。そんな感じの風景です。
一の鳥居の注連縄は、ここも白。この注連縄は、宮野沢の方々が「白旗」という神社名に因んで、例年、奉納している白いビニール製のものだということです。
⇒新聞記事より
参道を歩いて行くと、やがて境内へと至りますが、社号標と鳥居、社殿が立っているだけのいたってシンプルな社です。社殿の前に、小さな狛犬がありましたが、片方の狛犬の前足は、だいぶ風化して細くなっており、今にも折れそうでした。
この白旗神社については、
【創建年代は不詳であるが、天正年間、八幡宮が袴腰岳より深郷田に遷る際に仮殿を建てた場所に、後年創建されたと伝えられる。※中泊町史跡・文化財マップより】とあります。
袴腰岳(はかまごしだけ:627.8m)は、運動公園からも登山道が続いている山ですが、その山頂からは、十三湖をはじめ、日本海、北海道渡島、津軽海峡、下北半島、陸奥湾、八甲田、岩木山、津軽平野などを一望できるとあって、登山客に人気のある山です。その頂には小鳥居 があるようですが、ここに、元々の八幡様が祀られていて、この白旗神社に遷座、そして現在は深郷田(ふこうだ)の八幡宮の御祭神となったということのようです。
さて、この神社には、次のような伝説が残されています。
【中里町の東方、中山山脈のふもとにある宮野沢に昔、源義経と家来が落ち延びて来たという。ここで山子(木こり)になって山仕事をし、木で烏帽子を作っていた。
何年か経って、義経はこの烏帽子を村人に与え、野原に源氏の白旗を立ててこの地を去り、三厩に向かった。この白旗を立てたところに神社を建て、烏帽子を祭ったのが白旗神社だという。※『青森の伝説』角川書店】
ー 蝦夷へと旅立つ前の義経の姿を描いた伝説です。
ところで、「白旗」という名のつく神社(白旗神社)は、関東地方・東北地方・中部地方に分布していて、その数は70社ほどとされています。その中には、源氏の氏神である八幡神を主祭神とする社もありますが、多くは源頼朝を主祭神としているようです。
ここ宮野沢の白旗神社の主祭神もまた源頼朝。 ー 義経伝説を語り伝える社の祭神が頼朝とは、何とも皮肉な話です。
◇白旗神社





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☆つがるみち☆



ここは、吉田松陰が東北遊学の際、嘉永5年(1852年)3月4日に訪れた地で、【嘉永四年(1851年)勤王の志士吉田松陰は、江戸遊学中友人宮部鼎蔵と密かに東北の旅に出た。 時に松陰二十二歳、学問を磨き情報を収集し、北方海岸の防備を視察する為である。
秋田藩領から矢立峠を越え、弘前、五所川原を経て嘉永五年旧暦三月四日この地を通り、波穏やかな十三湖と遥に霞む岩木山の絶景にしばし足をとどめた。※遊賞之碑の由来より】といわれています。
その風景に感動した松陰は「晴 駅(中里)を発す。今泉 合津を経て十三潟を過ぎ小山を超ゆ。山は潟に臨み岩城山に対す。真に好風景也。」と日記に記したのだとか。

この松陰の遊賞之碑の向かい側に、「今泉賽の河原」という霊場があります。
「安倍・安東氏霊場」と書かれた大きな案内板から小高い山に向かって参道が延びていますが、ここはかつて「唐崎山」と呼ばれていたようです。
参道を歩いて行くと「長寿の泉」という霊泉があり、竜神様?の祠が建っています。この水で体を清めて霊場を詣でる習わしのようです。もう少し進むと、ひとつのお堂がありました。その中には、羽黒大神 が祀られています。
やがて見晴らしのよい広々とした場所に出ますが、ここが賽の河原。いくつかのお堂が建っており、その周りには、大小のお地蔵様が並んで立っているのが見えます。
中でも、ひときわ大きなお堂が「地蔵尊堂」で、 その中は、中央に大きなお地蔵様。周りにはたくさんの方々の祈願札が納められていました。
その地蔵尊堂の隣りが救世観音堂 で、これまた大きな観音像が奉安されています。
ここは「賽の河原公園」とも呼ばれていて、毎年6月23日に例大祭が開催され、「イタコの口寄せ」が行われますが、その他に歌謡ショーやカラオケ大会などが行われるそうです。眼下に十三湖を見渡すことができるこの場所は、地元の人々の憩いの場にもなっているようです。
「賽の河原」と呼ばれる霊場は、一種独特の雰囲気を持っているものですが、天気が良かったこともあり、ここは、とても開放的な雰囲気でした。しかしながら、ここはやはり霊場。夕暮れ時など、周りも十三湖も赤く染まり出す頃には、この丘にも別な光景が広がるのだと思います。
◇賽の河原






さて、この賽の河原のある今泉は、縄文土器や土師器片が散布する遺跡(大石崎遺跡)があった場所ですが、十三湖一帯には縄文遺跡が数多くあり、ここもその中のひとつだったと思われます。
賽の河原は、【南北朝時代の大津波(興国元年・1340年と伝えられている)や室町時代の戦乱で亡くなった人々を供養するために、当時の為政者であった安東氏が唐崎山に地蔵堂を建立したのが始まりであり、明治初期に木造の地蔵尊が出土したことからこの地に復活した。※HP「青森の観光・歴史・見所」ほか】とされています。
津軽三十三霊場の16番札所である今泉観音堂は、明治維新のときまで、この地にありました。また、奥津軽の霊場として名高い旧金木町の川倉地蔵尊は、ここ今泉唐崎山にあった「地蔵堂」を享保の頃に移したものといわれています。
そういうことから、ここは「賽の河原のルーツ」であり、「最古のイタコの発祥地」「川倉賽の河原(川倉地蔵尊)発祥地」とされている分けです。
様々な色の衣装を着せられた小さなお地蔵様や、そのそばで回っている風車を見ると、やはりここは、亡くなった幼子と人々との「魂が通い合う霊場」 - そんな気がします。
下北・恐山には宇曽利湖(うそりこ)、金木・川倉地蔵尊は芦野湖など、「賽の河原」と呼ばれる霊場の多くは、湖、川、海などのそばの高台にありますが、それは、それらを「三途の川」に見立てているからだといわれています。ここ「今泉賽の河原」は、十三湖 がそれにあたる分けです。
◇賽の河原のお地蔵様





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☆つがるみち☆



さらにはまた、猿田彦大神の碑、庚申塔、二十三夜塔、観音像などたくさの石碑もよく目にします。大きな神社ばかりではなく、決して広いとはいえない小さな社の境内にも、それはあります。
それぞれの時代に、それぞれの人々が、それぞれの信仰の証を村の産土社に祀った結果、地域の鎮守の杜が出来上がるのだと思います。富野猿賀神社の帰り道に立ち寄った中泊町豊島の熊野宮もそんな社です。

この熊野宮は豊島地区のはずれにあり、そのすぐそばを岩木川が流れていて、高い堤防が築かれています。
御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命ですが、その由緒については、【創立年月日不詳であるが、元禄十三年に再建したと「神社微細調書」に記載してある。享保七年岩木川洪水により堤防決壊したので、同十三年現地に移転した。※青森県神社庁HPより】とあります。「暴れん坊」の岩木川は、この地においても、たびたび氾濫し、村人を苦しめたようです。
拝殿の左横(向かって)に御神木があり、その前に三つの石碑が建てられています。
ひとつはおなじみの庚申塔。【庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。※wikipediaより】で、古来、各村では庚申講(庚申待ち)という一種の社交の儀式が行われるのが常でした。これは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、60日ごとにやってくる庚申の日に夜通し眠らないで、塔のそばで勤行をしたり宴会をしたりする風習です。
二つ目は、これもよく目にする猿田彦大神の碑で、三つ目は猿田彦とともに、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の名前が刻まれた碑でした。
天鈿女命はいうまでもなく、天照大神を岩戸から導き出した神であり、天孫降臨の際、天照大神の使者として国津神の猿田彦の名を問い正したとされる神です。猿田彦は、ニニギノミコトの天降りの道案内をしたことから、道祖神として崇められている分けですが、「庚申=カノエサル=猿」ということから、猿田彦と庚申塔はそろって建てられていることが多いようです。 ー この神社の境内でもそんな庚申講を思わせる儀式が行われているのでしょうか、そんな「あしあと」が残っていました。木に架けられた絵札に描かれているのは岩木山。 津軽ですね。。

拝殿の右の方には三つのお堂。 順番に覗いてみました。一番左側は、水難防止の神・水の神の水虎様 です。すぐそばを岩木川が流れていることを考えると、この水神を祀っている理由もよく分かります。高おかみ神社同様、ここの水虎様も河童姿ではなく、女神様 でした。
真ん中は稲荷大明神。 稲荷様は、豊饒神・宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)で、春になると山から里に下りてきて田畑の豊作をもたらす神様と考えられていて、人々は古くから春になると、この神を迎え、収穫を終えると初穂を捧げて神に感謝したとされています。キツネは、その稲荷大明神のお使い。祠の中には、神様と神使 が仲良く祭られていました。
右側は馬頭観音 のお堂でした。馬は牛とともに、農業にとってはなくてはならない大事な働き手で、農民にとっては神ともいえる存在だった分けで、それを崇める気持ちはとても強いものがあり、こうして観音様 として祭られるようになったのだと思います。

さて、私がここ熊野宮を訪ねようと思ったのは、実はここにも鬼ッコが掲げられていると聞いたからです。
真っ白い壁の拝殿の上、扁額の横に、その鬼はいました。鬼というよりは「修験者」を思わせる姿です。
頭部は少し欠けていますが、大きく見開いた目や、右手の拳をしっかりと握りしめた姿からは、力強さ、意志の強さみたいなものを感じます。
⇒豊島熊野宮鬼ッコ ※画像複数
この熊野宮の後ろには、見渡す限り田んぼ が広がっていました。
ー 小さな境内に祀られている水の神・水虎様、豊作の神・稲荷様、人々の労働を手助けし、見守る馬頭観音と鬼ッコ・・・それらは五穀豊穣を願う地域の信仰の現れなのだと思います。
☆つがるみち☆



以来、地域の精神的な拠り所として敬われてきた分けですが、例年旧暦8月に行われる大祭は「猿賀大権現例大祭」 と呼ばれ、多くの参拝客で賑わうとのことです。
般若寺の本堂 の手前には弁天宮があり、弁財天が祀られています。いくつかの鳥居 をくぐると神社の拝殿の前にたどりつきます。
※画像はクリックで拡大します。





ここ富野猿賀神社は、200年前に分霊を受けたときから変わらずに深砂大権現を御祭神としてきた分けですが、社号標をはじめ、拝殿前の扁額、あるいは拝殿の中の奉納額にも「深砂(沙)」の文字が刻まれていて、その歴史と信仰の深さが伺えます。
⇒深砂大権現 ※画像複数
横長の拝殿 には、たくさんの奉納額をはじめ、絵馬、草鞋などが納められていました。中には、こんな権現様(獅子頭) もあったりして、ちょっとドッキリです。

さて、この神社の大きな特色は、拝殿の壁に所狭しと数多くの「船絵馬」が奉納されていることです。
【猿賀神社には、奥津軽一円から北海道松前まで広域にわたる人々によって奉納された船絵馬88枚が一括して保存されており、中里町文化財に指定されています。おもに江戸時代後期から明治時代末にかけて奉納された船絵馬は、100年あまりの歳月を経ているにもかかわらず、今なお鮮烈な色彩をとどめており、往時の水運や船体構造に関する資料として、あるいは「下の猿賀様」信仰の一面を示す民俗資料として重要な情報を提供しています。】
ー 88枚にものぼるこの船絵馬・・・内陸部なのに何故「船」?と思いますが、これはやはり、藩政時代に岩木川~十三湊にかけて水運が盛んだったことを物語っているようです。【弘前藩は岩木川流域に御蔵を設けて年貢米を納めさせていましたが、それらは春になるといわゆる「小廻し船」で十三湊に輸送され、さらに鰺ヶ沢や北海道松前などに運ばれました。岩木川から十三湊を経て鰺ヶ沢に送る輸送方法は“十三小廻し”と呼ばれました。岩木川の旧流は、富野付近で大きく蛇行しつつ猿賀神社の西側を流れ、往時は境内から大型船の帆が見えたとされています。また風のないときは綱で曳船をしたとされ、曳船用の道も富野側にあったと伝えられています。】
かつては、岩木川と十三湖が合流する地点は、突風が吹き、船が転覆することも多かったといわれています。【小廻し船の船頭たちは、川口での安全を船から見える猿賀神社に祈り、いつしか船絵馬を奉納するようになったとは考えられないでしょうか。】 ※【】はいずれも「中泊町博物館」HPからの引用です。
天保2年(1831年)~明治43年(1910年)の間、およそ80年間に渡って奉納され続けたこの船絵馬。その奉納者は、十三、小泊地区などの日本海沿いの村にとどまらず、北海道方面の方々の物もあります。このことは、十三湊交易圏の広がりを物語るものです。また、地元の農民による奉納も多く、漁業や商業のみならず、農業においても、この富野猿賀神社は信仰を集めてきた神社だった分けです。
⇒富野猿賀神社船絵馬 ※画像複数
☆つがるみち☆



この権現崎は海抜229mの断崖絶壁で、頂上に「尾崎神社」があります。飛龍大権現を祭神として、大同2年(807年)に建立されたといわれるこの神社は、古くから修験者の聖地として崇められてきたところです。ー 昔、丹後の国から卵をいっぱい積んだ船が何艘かやってきて、一休みしようと岬の浜に近づいたら、「出ろ、出ろ」という神様の声が聞こえたので、あわてて戻った。しかし、聞こえなかった船は神様の怒りをかい、転げ落ちてきた岩のために沈んでしまった。神様を怒らせた理由は、ここ尾崎の神様は卵が嫌いだったから。。ー などという、思わず吹き出してしまいそうな”伝説”も残されています。
また、ここはあの「徐福伝説」の最北の地でもあります。泰の始皇帝の命をうけ、不老不死の仙薬を求めて航海していた徐福の行き着いた先がここ権現崎。以来、この地を蓬莱山と定めた徐福は、村人に農業や漁業、医療などの技術を施したとされています。
18番札所海満寺は、小泊漁港を臨む小高い丘の上にあります。海満寺は、弘前誓願寺の末寺で、万治元年(1658年)に船の難破による犠牲者を弔うため建立されたといわれています。りっぱな本堂 の前には、大きな慈母観音像 が建てられています。周りには、地蔵堂 や西国三十三観音石像 。本堂の後ろの石段を上ると小泊漁港 が一望できます。港は、ヤリイカ、スルメイカ、メバルの1本釣り漁などで一年中賑わいを見せているそうです。
観音堂は、本堂に向かい合うかたちで建てられており、本尊は「聖観世音菩薩」。木像の観音様は元々は近くの「柴崎城跡」に祀られ、「小泊観音堂」として多くの信仰をあつめていたとされています。しかし、宝永7年(1704年)、山津波のため、観音像はお堂もろとも海に流されてしまいました。
ところが、しばらくして、一人の漁師が海中からこの観音像を引き上げ、海満寺に仮安置されることになりました。この観音像、長い間海中にあったらしく、木面が流木のようになっていて、両腕と下半身が失われていたそうです。
この話は、たちまち広がり、信者達は観音堂再建に乗り出し、やがて、観音像は海満寺から、元の観音堂へ移され、18番札所として賑わいをみせたといわれています。
その後、明治に入り、神仏分離により、再び海満寺に戻ってきた観音像。霊験あらたかな観音様として、海満寺の名物となり、今日でも多くの巡礼者が訪れているということです。
↓海満寺観音堂 ※クリックで拡大します。







☆津軽三十三寺社巡り☆


◇文中の赤字はクリックしながらご覧ください◇
「名物しじみ料理」とか「しじみラーメン」という幟が立ち並ぶ店の側に、今泉「ゆとりの駐車場」があります。ここは十三湖 の入口のひとつ。幕末の頃にここを訪れた吉田松陰を記念して吉田松陰遊賞之碑 も建っています。松陰は、十三湖の湖面と遠くにかすむ岩木山を見て、「・・真に好風景なり。」と日記に記したといわれています。あいにくの曇り空、岩木山は見えませんでした。
中泊町の3つめ、16番札所今泉観音堂は、このすぐ近くのはずなのですが、先回同様、入り組んだ道を何回もぐるぐる。。。やっと見つけました。鳥居の側の狛犬たちはオレンジの頭巾に青い足袋 。なかなかオシャレです。場所探しに時間を取られたので、急いで参道を上りました。
いくつかのお堂がありましたが、まずは神明宮からと思い、石段を上ってびっくり!左右の2本の木が大きな「×印」 をつくっています。 「通せんぼしているのか?鳥居代わりにくぐれということか?」などと、くだらないことを思いながら、拝殿まで上りました。ここにも青い足袋の狛犬。しかも赤い頭巾 です。
下の景色を見てみようと、拝殿の後ろへ行ってまたまたびっくり!老木の太枝に青い頭巾 が被せられていました。馬のようにも見えるし、恐竜のようにも、狛犬のようにも見えるし。。反対側に行ってみたら、老木の根元 には、お茶、ジュース、お酒。「こんな所に空き缶を捨てて・・」と思ったのは私が鈍いからで、「御神体」として祀られていたのですね。
さて、ここ今泉地区について『十三往来』という書では「東には山野つづき、渺々たる牧なり。千匹の馬・・・思い思いに勇むなり・・・」と記しています。十三湖を望む山裾は、現在でも広い牧場になっています。この地に観音堂が建立されたのは寛文9年(1669年)のことでした。尾別地区の弘誓寺観音堂と同じく、明治になると本尊の「千手観世音菩薩」は、一時、弘前の最勝院に移されますが、明治8年、村人の強い願いにより、千手観音を譲り受け、神明宮の下にお堂を再建したと伝えられています。当初は、茅葺きの粗末な堂宇でしたが、昭和38年に改築され、現在に至っています。
他の観音堂と同じく、ここにもまた、西国三十三観音石像が参道に沿って立てられていました。この33体の観音様もまた、狛犬に負けないくらいオシャレです。ピンク、黒、白、赤などの色の「着物」を着ている観音様は、それだけで絵になります。上りは急いだので石段を通りましたが、帰りはゆっくりと観音像を見ながら降りました。
↓今泉観音堂 ※クリックすると拡大します。







⇒今泉三十三観音スライド
狛犬の足袋、老木の頭巾、三十三観音像の着物など、大変楽しい参拝でした。足袋、頭巾、着物・・・いずれも色褪せてはおらず、鮮やかな色でした。
ー地区の方々の信仰心の表れだと思います。ー
☆津軽三十三寺社巡り☆

中泊町の3つめ、16番札所今泉観音堂は、このすぐ近くのはずなのですが、先回同様、入り組んだ道を何回もぐるぐる。。。やっと見つけました。鳥居の側の狛犬たちはオレンジの頭巾に青い足袋 。なかなかオシャレです。場所探しに時間を取られたので、急いで参道を上りました。
いくつかのお堂がありましたが、まずは神明宮からと思い、石段を上ってびっくり!左右の2本の木が大きな「×印」 をつくっています。 「通せんぼしているのか?鳥居代わりにくぐれということか?」などと、くだらないことを思いながら、拝殿まで上りました。ここにも青い足袋の狛犬。しかも赤い頭巾 です。
下の景色を見てみようと、拝殿の後ろへ行ってまたまたびっくり!老木の太枝に青い頭巾 が被せられていました。馬のようにも見えるし、恐竜のようにも、狛犬のようにも見えるし。。反対側に行ってみたら、老木の根元 には、お茶、ジュース、お酒。「こんな所に空き缶を捨てて・・」と思ったのは私が鈍いからで、「御神体」として祀られていたのですね。
さて、ここ今泉地区について『十三往来』という書では「東には山野つづき、渺々たる牧なり。千匹の馬・・・思い思いに勇むなり・・・」と記しています。十三湖を望む山裾は、現在でも広い牧場になっています。この地に観音堂が建立されたのは寛文9年(1669年)のことでした。尾別地区の弘誓寺観音堂と同じく、明治になると本尊の「千手観世音菩薩」は、一時、弘前の最勝院に移されますが、明治8年、村人の強い願いにより、千手観音を譲り受け、神明宮の下にお堂を再建したと伝えられています。当初は、茅葺きの粗末な堂宇でしたが、昭和38年に改築され、現在に至っています。
他の観音堂と同じく、ここにもまた、西国三十三観音石像が参道に沿って立てられていました。この33体の観音様もまた、狛犬に負けないくらいオシャレです。ピンク、黒、白、赤などの色の「着物」を着ている観音様は、それだけで絵になります。上りは急いだので石段を通りましたが、帰りはゆっくりと観音像を見ながら降りました。
↓今泉観音堂 ※クリックすると拡大します。







⇒今泉三十三観音スライド
狛犬の足袋、老木の頭巾、三十三観音像の着物など、大変楽しい参拝でした。足袋、頭巾、着物・・・いずれも色褪せてはおらず、鮮やかな色でした。
ー地区の方々の信仰心の表れだと思います。ー
☆津軽三十三寺社巡り☆




「まんまんと眺めもあかぬ十三の潟 千年をここにまつ風の音」 ー 15番札所薄市観音堂のご詠歌です。「十三潟」は「十三湖」、かつてはこの観音堂のすぐ側まで湖が迫っていたことが分かります。
薄市集落のある中泊町は、旧中里町と旧小泊村が合併してできた町ですが、中里町は面積の60%が山林であるために、昔からヒバの生産量が多く、その多くは河川を利用して十三湖に運ばれた分けです。とりわけ、薄市川は河口が広く、最も良い川港だったといわれ、木材を運搬する千石船で賑わったとされています。
しかしながら、昔はこれといった交通機関がなかったために、この地域の人々は五所川原方面へ出かけるのにも、大変難儀をしました。夏場は馬車、冬は馬ぞりが主でしたが、「地吹雪」になった時は、たびたび交通が途絶したとか。。
そんな北津軽の地に、鉄道を通そうとする計画が持ち上がったのは昭和2年。湿地帯がたくさんあったために難工事が続きましたが、昭和5年に全線開通しました。現在の津軽鉄道 です。中里町から金木町(いずれも旧名)を経由して五所川原市までおよそ20㎞。金木町出身の作家、太宰治に因んだ「走れメロス号」が走るこの鉄道は、北海道「ちほく高原鉄道」が廃止された現在では、日本最北の民間経営による鉄道となっています。吉幾三の「♪津軽平野♪」の中にも出てくるストーブ列車でも有名ですね。ストーブ列車は、例年、12月初めから3月いっぱいまで運行されていて、今ではすっかり津軽の冬の「風物詩」になりました。
観音堂探し。イヤー、探しました、探しました。迷いました、迷いました。同じ道を行ったり来たり。。案内板はあったのですが、民家に挟まれた奥に鳥居 があったので気づきませんでした。鳥居をくぐって、左側の参道 を上ると、こんな傾いた二の鳥居 ! ー 右側の地盤が沈下したのかな。それとも初めから? ー そんなことを思いつつ、三の鳥居 をくぐると、そこからは西国三十三観音様 が観音堂へ導いてくれました。
薄市観音堂の創建は元禄元年(1668年)。ひとつ先の今泉集落にある「千手観世音菩薩」を分祀したといわれています。寛延4年(1751年)以降は、15番札所として、たくさんの巡礼者が訪れたということです。
↓薄市観音堂 ※クリックすると拡大します。







観音堂付近には桜林があり、ちょっとした小公園になっています。下を見下ろすと青々とした水田。かつて、ここの辺りは「昆布掛(こんぶがけ)」と呼ばれ、十三湖から風によって運ばれてきた昆布を採って、干した場所であったことは、遠い昔のこと。。。
☆津軽三十三寺社巡り☆



この付近には、江戸時代以前から「観音山解脱院」と称する観音堂があったとされていますが、この地に「尾別観世音」が建立されたのは、慶安元年(1648年)のことでした。その後、14番札所として村人達の信仰を集めたこの観音堂も、明治になると神明宮 となり、本尊である「千手観世音菩薩」は、弘前市の最勝院 ヘ移されてしまいました。「廃堂」となってしまったこの観音堂が「弘誓寺観音堂」として復活を遂げた陰には、ある一人の僧とそれを支えた村民達の物語がありました。
明治34年のことです。山梨県から一人の青年僧が尾別の村を訪れました。名前は海野戒淳。戒淳は、全国を行脚し、各地の観音像3,300体を描こうという志を持っていました。地元の造り酒屋を宿とし、ここに住み着いた戒淳は、観音堂の話を聞き、最勝院から観音像を返してもらい、仮堂を建てて祀りました。その後、地元民と一体となって観音堂の再建を図った分けですが、やがて日露戦争に召集されたため、尾別を去ることになります。しかし、戒淳の意志を継いだ村人達は、再建運動を粘り強く進め、明治43年、遂に観音堂は再建されたということです。
昭和4年、「円海」と改名した戒淳は再び尾別を訪れ、寺院の創建を目指しますが、叶わず、また尾別を去ります。3回目の尾別入りは昭和19年のことでした。尾別に永住する決意を固めた戒淳は、昭和28年、遂に念願であった寺院の建立を成し遂げます。天台宗の総本山から贈られた山号・寺号は「解脱院弘誓寺」。それに因んで「弘誓寺観音堂」と呼ばれることになった分けです。
~※以上『津軽三十三霊場ー北方新社』を参考にしました。~
ー それにしても、明治、大正、昭和に渡る半世紀50年、寺院建立に情熱を傾けた戒淳。。その生き方には感心させられます。 ー
さて、県道沿いにあるこの観音堂、村社「神明宮」の鳥居をくぐると、左手に小高い丘があり、そこから石段が真っ直ぐに延びています。「○○○不動産」の案内板もしっかりと立っていて、そこが参道だということが分かります。急な石段を半分くらい上ると、右側に分かれ道がありました。道の途中には、西国三十三観音の石像が建てられています。この石像は、戒淳が残した画像をもとにしてつくられたとされています。村人の戒淳に対する感謝の気持ちの表れでしょうか。
参道を巡り、再び石段を上り切ると観音堂が見えます。松の根が縦横に走っていて、うっかりすると躓きそうです。辺りの景色のせいでしょうか、とても「明るい」感じのするお堂です。本堂の中にも大きな窓があり、お日様の光が差し込んでいました。正面には、お参りの「心得」が貼られているなど、地域の方々の心遣いが感じられました。
↓弘誓寺参道と観音堂 ※クリックすると拡大します。














帰り道、石段から下を見ると、津軽の田園風景 が広がっていました。戒淳もこのような景色を見ていたのだと思います。当時は、十三湖も、すぐそばに広がっていたのかも知れません。
☆津軽三十三寺社巡り☆

