のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
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冬ごもり2

 まだまだ先のことですが、雪解けを待ちながら、ときどき散歩に出かけています。

   


    


    

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冬ごもり

 寒さに負けて、記事の更新も「冬ごもり」中です。


    



    

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盛美神社 - つがるみち440

 平川市猿賀公園の近くに盛美園があります。

◇盛美園 (せいびえん)
ー 津軽には大石武学流と呼ばれる独特の作庭様式が伝えられており、その典型とされるのが、国指定名勝の盛美園です。明治35年より9ヵ年を費やして作庭されたといわれており、面積3,600坪(約1.2ha)の池泉廻遊式の庭園です。大きく刈り込んだイチイの木は、天地を創造した神々をかたどり、津軽平野と遠山を借景として取り入れ、庭石をきめ細かく配置し、装飾的にもすばらしい名園として有名です。盛美園の一角にある盛美館は、一階が純和風、二階が洋風で建てられており、鹿鳴館時代の特徴を表した和洋折衷の珍しい建物で、庭園と融合した独特の美しさをもち、明治文化の面影を忍ばせています。※青森県観光情報サイトアプティネットより -

 四季それぞれの美しさを見せる盛美園ですが、ちょうど今の時期は冬支度の最中で、あちこちで雪囲いが行われていました。
 園内には樹齢400年を超えるケヤキの大木もあり、数多くの樹木や大石、池などが巧みに配置されています。

 築山の一角に鳥居が立っていて、その上に盛美神社があります。
 神社といっても、小さな祠がポツンとあるだけなのですが、その由緒については青森県神社庁HPにものっています。
【鎌倉時代、 津軽藤崎の郷鶉ケ池のほとりに祀っていた倉稲魂神を、 猿賀村の清藤家 (当主清藤盛治) の祖先が、 庭先の欅樹の傍に祀った。 のち、 猿賀神社の境内社であった一王子神社の祭神大山祇神を合祀し、 更に猿賀神社の祭神田道命も奉斎して神威彌々加わり霊験があらたかになった。 明治時代に至って、 清藤家二十四代祖盛美、 たまたま感じるところあり、 邸内庭園の一部を浄めて、 此の処に奉遷し、 更に又、 庭津日神、 庭高津日神をも配祀して小祠を建立した。 】

 御祭神は、大山祇神・田道命・庭津日神・庭高津日神の四柱ですが、「竃や屋敷、庭、農地など、農業生活の神」である庭津日神(にわつひのかみ)と庭高津日神(にわたかつひのかみ)を祀っているあたりは、いかにも名園にふさわしい守り神である気がします。


  


  


  


  


  

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市   Tags: 名木めぐり  

冬待つケヤキ

 凛とした姿形のケヤキの木は、晩秋から初冬の神社の境内でもひときわ目立つ存在です。平川市尾上(旧尾上町)には、そんな風格を持つケヤキの大木が生えている神社があります。

 愛宕神社は、坂上田村麻呂の蝦夷征討の際、建立された社で、将軍地蔵と唱えられていました。境内には珍しい夫婦木や三頭木があります。

 七柱神社は、かつて、獅子権現宮と呼ばれ、猿賀神社の摂社でしたが、ここにも田村麻呂の伝説が残っています。この神社の境内は、昔はケヤキの巨木が密集していて「けやきの森」と呼ばれていました。


  


  



  


   

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日沼三社神社 - つがるみち439




 平川市日沼(旧尾上町)は、一帯を流れている平川沿いにある集落ですが、弘前市や田舎館村と境を接する所です。
 平川を渡った所には富岳神社(弘前市)があり、その対岸には大袋稲荷神社(田舎館村)が鎮座しています。
 この日沼の集落の道路沿いに三社神社があります。弘前へ行く途中によく見かける神社ですが、ゆっくり境内の中を見たことはありませんでした。
 大きな社号標のとなりに一の鳥居があって金属製のしめ縄が架かっています。そこから民家に挟まれた参道が続いていますが、二の鳥居、三の鳥居、四の鳥居とくぐって行くと境内に出ます。境内には狛犬が二対、神馬、末社などが立てられていました。
 この神社の名物は、四の鳥居に架かっている「鬼っこ」です。以前、鳥居の鬼っこを探して神社めぐりをしましたが、そのとき、ここにも立ち寄って、鬼の写真だけを撮って帰ったことがありました。
 青い体の鮮やかな鬼っこです。赤く太いゲジゲジまゆげが特徴で、何となく「こち亀」の両津勘吉に似ています。




 その由緒については、
【御祭神:天照皇大神 譽田別尊 天児屋根命  当社草創の年月日は不詳だが、 往古より中津軽郡和徳村和徳字俵元の高山治助氏邸内に祀られ、 明治十三年五月八日、 許可を得て無格社となる。 明治十八年九月十四日、 当村葛西利三郎邸内へ移転の許可を得、 同年十月十四日、 新たに社殿を造営して同邸内に奉遷する。 爾来、 当日沼村の産土神として村中一同厚く崇敬す。 大正三年七月十日、 当村の樋口甚左衛門氏は、 祖先が邸内に祀っていた少名彦神社を合祀して現地へ奉遷した。 大正十一年八月二十一日、 従来中津軽郡豊田村境関に鎮座する富岳神社の氏子であった当日沼を、 三社神社の氏子区域に変更することが承認され、 大正十三年五月十五日村社に列せられ、 同年六月二十四日、 神饌幣帛料供進神社に指定される。 ※青森県神社庁HPより 】とあります。

 由緒に書かれているように、元来、個人の邸宅の守り神であったものが、村の産土社として崇敬されるに至ったもののようです。
 また、村の者が合祀したとされる少彦名神は、大己貴神とともに相殿神として祀られているとのことです。

◇日沼三社神社

  


    

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初雪の境内

 天気予報の通り、ついに里にも初雪が降りました。朝起きたらうっすらと雪が積もっていたので、近くの猿賀神社へ行ってみました。赤、黄、緑に加えて、雪の白がまじりあった境内でした。


  

  

  

  

   

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白岩森林公園の秋

 真っ白な岩肌の屏風が立ち並ぶ平川市の白岩森林公園は、 四季の自然が美しい場所ですが、秋に訪れたのははじめてです。白壁の東屋から見る山の峠付近は、赤、黄、緑に染まっていました。


  


  


  


    


    

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猿賀公園の秋

 秋は一足飛びに過ぎていくようで、近場の公園の紅葉も日増しにその色があせていくような気がします。

 画像は、一週間くらい前の猿賀公園の築山付近の様子です。


  


  


  


  

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沖館神明宮 - つがるみち435




 平川市の沖館観音堂は津軽三十三霊場の第29番札所ですが、その創建は延暦10年(791)とされており、坂上田村麻呂が東夷東征の際、御堂を造営し歓喜天像と十一面観音を祀り戦勝祈願したことが始まりと伝えられています。
 戦国時代には大浦(津軽)為信が、ここで南部方との戦の勝利祈願を行い、念願成就したといわれていますが、この観音堂は神明宮の境内の中にあります。




 この神社の由緒は観音堂の歩みと重なっている分けですが、
【御祭神:天照皇大神   社伝に依れば、 「延暦十年 (七九一)、 田村麿将軍東夷征討に当り、 社殿一宇建立の上、 歓喜聖天及び十一面観音を勧請し祈願す」 とある。 神明宮の起源は、 観音堂創建に遡るが、 文亀三年 (一五〇三)、 神仏二道の道を修めた修験者一道坊全賢によって勧請建立された。 天正三年 (一五七五) 九月には、 津軽大守藤原為信公が時の五代目別当堯光に百日の戦勝祈願を命じ、 翌四年、 大光寺城攻略に成功した為信公は、 霊威に感動され、 「如意輪観音画像」 を始め鏡や祭具奉納の記録もあるが、 慶長十三年 (一六〇八)、 野火が原因の火災により、 今日に残るものは、 為信公直筆 「観音画像」 だけである。 慶長十四年仮殿を建て、 享保十四年 (一七二九) に建立された本殿が、 嘉永四年 (一八五一) 改築され、 のちに萱葺きからトタン葺きになり今日に至っている。 又、 本殿内陣には安政六年 (一八五九)、 津軽十二代藩主承昭公奉納の厨子に御神体が祀られている。 ※青森県神社庁HPより】とされています。

 石造りの鳥居をくぐると、奉納された御神燈が立ち並ぶ参道が続いていますが、道の右側に手水舎があり、その後ろには地域の方々によって造られた築山があります。一方、左側は小高い丘になっており、石段を上った所に観音堂があります。
 観音堂の上り口には大きな神馬。拝殿までの途中には狛犬が二対置かれていました。拝殿には石段を上っていきますが、ここにも小さな狛犬が一対置かれています。

◇沖館神明宮






 由緒に書かれてあるように、この神社は修験者・全賢によって建立されましたが、全賢の両親については次のような話が残っています。
【室町時代中期、時の関白・平房三男の政友は、藤原尚之の姫・貴増と恋に落ちた。しかし、姫は政友の兄・政知との婚約がととのい、妻となった。政友と貴増はその後も、ひそかに恋を語り続けた。その悲恋も兄・政知が知ることとなり、二人は老臣の州崎(
すのさき)政市を共に、駆け落ちすることとなった。そして、遠くみちのくの奥の奥、沖館の地に庵を結んだのである。二人は沖館に住み、山野を拓(ひら)き農耕、植林に励んだのだという。さらには十一面観音を信仰し、周辺に散在する庵所を1カ所に集め、修験の地とした。その場所は十九院と呼ばれているそうだ。二人に男子が生まれ、千代丸と名付けられた。この千代丸も父母と同じく修験の道に入り、長じて一道坊全賢と言う。※陸奥新報社『津軽三十三霊場』より抜粋

 この全賢の両親の墓碑が境内に立っているとのことですが、それらしきものはあるものの、はっきりとは分かりませんでした。

◇観音堂、御神木など



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不浪寄八幡宮 - つがるみち434




 平川市碇ヶ関古懸(旧碇ヶ関村)に鎮座する八幡宮は、不動尊で有名な国上寺のとなりにある神社です。
 国上寺は以前訪ねたことがありますが、この神社はざっと回っただけでした。今回は再訪になります。
 参道の入り口に鳥居が立っていて、松並木に囲まれた道が続いていますが、まっすぐ進むとお寺の本堂になり、その手前に神社の一の鳥居が立っています。




 社号標には「不浪寄八幡宮」とありますが、不浪寄(よせなみしらず)とは、
「昔、大規模な白髭水(山津波)が起きたことがあったが、八幡様の霊験により被害を最小限で食い止めることができた。」という言い伝えに基づいていて、それが神社名にもなっています。なかなか一発では読めません。

 境内は、国上寺の大きな伽藍が立ち並ぶ所の隣の敷地、少し低い所にあります。

 鳥居をくぐって神社の参道を進むと、社号標があり、そのそばに一対の狛犬が置かれています。傍らには手水舎。拝殿の手前には昇り龍と降り龍の神門が立っていました。
 拝殿の屋根の下には八幡宮と書かれた扁額がありますが、その前にねぶた絵が描かれた灯篭が下がっています。地域の方々のアイデアでしょうか。

 拝殿の横がちょっとした丘になっていますが、その下を小川が流れています。丘の上には末社がひとつと観音像が立っていました。

◇不浪寄八幡宮
 





 この神社の由緒については、
【御祭神:譽田別命  由緒不詳。 社伝に依ると、 人皇三十代敏達天皇の御代、 津軽郡が大津波のため入海となった時、 入水を祓退け、 霊験あらたかなるによって、 不浪寄八幡宮と称されるようになり、 参拝者は船によって往来し、 その古跡が今もあり、 其の時船をつないだ所が船岡森と称され、 又、 碇石として天保年間 (一八三〇~一八四四) の頃までは、 柵がめぐらされていたが、 近年は石だけが残っている。 又、 坂上田村麿東夷の折り、 八幡大神の霊験顕著なるを以て、 大神の尊像を彫り、 堂宇建立されたと云い伝えられ、 のち、 天正年間 (一五七三~一五九二)、 津軽土佐守藤原朝臣が御堂を建立し、 以来度々再建修造された。 神仏分離令により一時弘前八幡宮へ合祀され、 明治六年古懸村に復社遷座され今日に至る。 ※青森県神社庁HPより】とありますが、ここでもまた、「不浪寄」のことが語られています。

◇昇り龍ほか



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猿賀神社の蓮 - つがるみち410




 猿賀神社の蓮の花が咲き始めたので行ってみました。
 境内の鏡ヶ池に群生している蓮は「和蓮」という種類で、自生しているものとしては、日本の北限のものといわれていますが、池にびっしり群がる葉っぱに交じって、淡いピンクの花が顔をのぞかせています。
 この蓮の花は、例年、7月中旬ごろから咲き始め、7月下旬から8月下旬が見ごろとされていますが、期間中は、『北限に観る蓮の花まつり』が開催され、多くの家族連れやカメラマンなどで賑わいます。


   


   

   

   

   

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館山神明宮ーつがるみち409




 平川市の松館・館山地区は、弘前市と隣接しており、バイパス沿いにはたくさんの住宅が並び立ち、ベッドタウンを形成しています。
 また、立地環境と交通アクセスにも恵まれているため、各社の工場などが建てられ、一帯は「松崎工業団地」と呼ばれています。
 しかしながら、バイパスから少し離れた所は水田やリンゴ畑が広がるのどかな景色で、その中に神明宮が鎮座しています。




「松館」「館山」という地名からも分かるように、かつてこの地には城(館)が築かれていたようです。
 築城年代や築城主など、その詳細については定かではありません。この神明宮一帯がその中心であったようですが、現在は、その遺構などは残っていません。
 神社の由緒については、

【御祭神:天照皇大神   古来観音堂として四民深く信仰し、 元禄三年 (一六九〇) 建立、 当村の産土神として崇敬された。 天文年中 (一五三二~一五五五) は、 守山神明宮として勧請され、 爾来館山、 松崎、 松館右三ケ村の産土神として重く奉齋され、 明治初年御一新に付き、 明治三年の神仏混淆仕分けの際、 社号を神明宮と改め、 明治四年三月十七日、 神明宮の社号を受け、 明治八年五月五日、 陸奥国第二大区八小区館山の神社として、 天照皇大神を奉齋し、 村社に列せられる。 館山、 松崎、 松館三ケ村の産土神として崇敬され、 大正年間に松館村が氏子区域を離れ、 館山、 松崎二ケ村の氏神として今日に至る。※青森県神社庁HP】と記されています。

 酒樽を掲げ、豪華な注連縄が張られている一の鳥居、二の鳥居と参道を進んで行くと、一段高い場所に石段が設けられ、昇り龍と降り龍が彫られた門柱がありますが、その奥に三の鳥居があります。

 社殿は、そこから真っすぐではなく、右側に回り込んだ所に立っていますが、これは方角を考えて、「東向き」に建てたものだと思われます。
 境内には、御神燈や狛犬、改築記念碑、末社などが並んで立っていますが、拝殿の壁面には、十二支を描いた奉納絵馬が掲げられていて、地域の産土社として崇敬されている様子が分かります。

◇館山神明宮










 境内は、中世の城跡だったようですが、一の鳥居の横に立っている由緒書きには、「松舘址」として、次のように紹介されています。
【御由緒略記  舘山神明宮所在地を守山と明記してあり、大浦為信の旗揚げ当時には既に守山神明宮を本陣として、天正三年大浦勢正月元日第二次大光寺城を攻め、落城の際に大浦為信が本陣を構えて指揮したという史実から推して見ても古社であり、舘山松舘松崎三村の御産土神様として崇敬されています。松舘址 ※由緒書きより

 これらを見ると、古来、観音堂として信仰を集めていた社は、戦国時代には「守山神明宮」と呼ばれ、大浦為信の津軽統一の戦いの際は、その拠点のひとつになっていたことが分かります。

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杉館八幡宮ーつがるみち407




「○○館」とかいう地名は県内にも数多くありますが、その多くは昔、その地に城郭(館、砦)が築かれていたことに因むといわれています。
 平川市にも、かつては「館田館」や「松館」、「小和森館」、「猿賀館」などの館があり、それが現在は地名として残っている分けですが、「杉館」もそのひとつです。




 杉館の城については、その詳細は分かりませんが、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、この地を所領していた工藤氏の居館であったといわれています。
 工藤氏は、鎌倉北条氏の御内人であった工藤貞行(くどうさだあき)が、当時の田舎郡の地頭代として入部し、勢力を広げていった分けですが、その後は南部氏の配下になり、現在の黒石市を中心にして一帯を治めていた氏族です。
 現在は、杉館の遺構は残っていませんが、集落の中心に鎮座する八幡宮付近が、その館跡だとされています。

 一の鳥居と社号標は別の場所に立っているようですが、私は二の鳥居の方から訪ねました。地域の集会所の隣に神社が立っていましたが、かつては、一帯が境内であったように思われます。

 境内には、御神燈をはじめ、狛犬が二対、大小の神馬などが並んで立っています。拝殿の前には、末社が二つほど立っていましたが、注連縄が張られていたり、奉納された草鞋が架けられていて、地域の信仰を集めている社だということを感じさせます。

◇杉館八幡宮境内







 この社の由緒については、
【御祭神:譽田別尊  当社の創立年月日は不詳なるも、 伝説に依れば、 延暦年間 (七八二~八〇六)、 坂上田村麿の建立と云う。 上代より庶民の信仰特に厚く、 当村字滝本の地に久しく祀られていたが、 正徳三年 (一七一三)、 現地へ社殿を造営奉遷す。 天明年間 (一七八一~一七八九)、 以前より廃社になっていた八幡宮を合祀し、 弘化四年 (一八四七) 四月、 社殿を再建し、 村中にて産土神として深く崇敬するに至る。 明治六年九月八日、 村社に列せられ、 明治四十四年四月、 神饌幣帛料供進神社の指定を受ける。 終戦後、 神社制度の根本的改革により、 昭和二十二年四月一日宗教法人令による宗教法人八幡宮となり、 昭和二十六年二月六日、 国有境内地九六・六坪譲与され今日に至る。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。

 津軽には、「坂上田村麻呂建立」という伝承を持つ神社が多いのですが、ここもそのひとつのようです。

◇狛犬、木鼻など



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広船神社ーつがるみち404




 平川市には「森林公園」と名のつく公園が2ヶ所あります。ひとつは、文字通り白い岩が佇立する白岩森林公園で、もうひとつは志賀坊森林公園です。
 志賀坊森林公園は、標高350mにある公園で、公園全体にゆるやかな遊歩道が設けられ、季節にはさまざまな山野草が咲き乱れ、のんびりと森林浴を楽しむことができます。また、ここからは、霊峰・岩木山と広大な津軽平野を一望できますが、特に、夕景と夜景が美しいということもあり、人気スポットになっています。




 公園からの道は矢捨山方面へと続いていますが、その道の入口に「津軽と南部の要路」と題する案内板が立っています。
【・・・観音様の参拝と南部地方との物流の主要道路であったと思われるこの道。往時、南部遠野の住人が城主の姫と恋仲になり、遠野では結ばれる関係ではないが、二人の燃える恋心はいかんともしがたく「愛の逃避行」を決意する。野を越え山を越え、手に手を取って苦難を乗り越え、志賀坊を経て風光明媚な広船にたどり着き、この地を永住の地と定めた。】
 なかなかロマンチックな伝説ですが、今は森林の中に埋もれている道も、かつては、人馬の往来が盛んな道路であったようです。




 案内板に書かれている「観音様」とは、津軽三十三霊場28番札所である広船観音堂のことですが、観音堂は広船神社の境内にあります。
 観音堂については、以前の記事で紹介したので、少し重複しますが、広船神社は、
【祭神:須佐之男命  創建は大同2年(807)坂上田村麻呂が開いたのが始まりと伝えられ、古くから神仏混合し広船観音堂や弘船寺などと呼ばれていました。一事衰退し荒廃しましたが正長元年(1428)に再興、正長2年(1429)に制作された鰐口や五輪塔が残されています。又、境内は中世の城である広船城に隣接していることから城主との関係が深かったと考えられ、慶長15年(1610)には城主の後裔と思われる別浦太郎左衛門信正が社殿を再建しています。寛延年間(1748~51)には津軽三十三観音霊場二十八番札所に選定されると広く信仰を集めるようになりますが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され本尊の千手観音像は村頭の仏壇に移され社号を広船神社に改称されました。廃仏毀釈の気運が静まると、再び千手観音像は広船神社の本殿に安置され昭和15年(1943)に観音堂を建立すると千手観音像を観音堂に移しています。※青森県 観光・歴史・見所より抜粋】と紹介されています。

 広船の村の産土社として信仰を集めてきた神社で、棟札、鰐口、五大力菩薩、薬師如来立像、梵鐘などの社宝は市の文化財に指定されている他、手水舎は「観音清水」と呼ばれる名水にも指定されています。






  

 
 
 広い境内には、拝殿や本殿をはじめ、観音堂、稲荷神社、薬師堂、鐘楼などが立っている他、観音像や狛犬、祠などが数多く見られます。
 
 観音堂へ上る石段の手前に、一風変わった表情をした大きな石が置かれています。
 一見、おにぎりのような形をしたこの巨石の表面には、まるで人間の「目」を思わせるような横長の穴があいており、でっぱりは鼻のようにも見えます。この「目」は、人の手によって彫られたものではなく、自然にできたものだということですが、見る角度によって、笑っているようにも、泣いているようにも、怒っているようにも見えるため、「人面石」と呼ばれています。

 また、境内にはかなりの大きさのイチョウの木がありますが、かつては、もっと大きな巨木がそびえていたようです。
 拝殿の前に、その乳根が置かれていて、「広船観音堂 大銀杏の由来」という説明札が下げられています。
【この大銀杏は第二鳥居前方の南側の場所にあった。この木に登り、枝を伝い、地面に降りることなく広船館に行くことが出来たという(古老の話)。この大銀杏の乳枝を煎じて飲めば母乳の出が良くなると信じられ、明治二十一年大火消失前は垂乳根を大銀杏から取り、神社に納めた。お母さんたちは、乳根を鉋削りをして持ち帰った。】
 
 置かれていた大きな乳根の裏側には、確かに削った跡が見られます。
 広船館跡は第二鳥居から道路を挟んだ斜め向かいにありますが、けっこうな距離があり、木に登り、そこまで枝伝いに行くことができたとは、かつてのイチョウの木は、かなりの大木だったようです。




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小杉月読神社 ー つがるみち400




 平川市小杉は、戦国時代に「樋川館(ひかわだて)」という城が築かれていた所です。
 樋川館は、前回お伝えした館田館とともに、南部方の滝本重行が築いた砦であり、天正3年(1575)、津軽為信が大光寺城を攻めた際に、まず、ここの砦を攻め落とし、軍を進めて行ったとされています。
 館田館と同様、現在はその遺構は残ってはいませんが、この地に鎮座している月読神社一帯が、城跡だったと思われます。




 道路沿いに「月讀神社」と書かれた大きな社号標と、真っ赤な一の鳥居が立っていますが、鳥居をくぐった右側には、聖観世音菩薩碑、二十三夜塚、庚申塔が並んで立っています。
 説明板があり、聖観世音菩薩については、
「衆生の諸難を祓い、願いをかなえ、教化救済をする菩薩」と書かれていました。

 説明板に書かれているように、この神社は、昔から聖観世音菩薩を祀ってきたようで、その由緒については、
【御祭神:月読命  当社には昔から正観音をお祀りしている。 この正観音の由来について、 自ら勧請した旧黒石藩の従臣寺田四郎左エ門盛民の残した次の記録がある。 『当月山宮の社堂は天正年中 (一五七三~一五九二)当所の給主相馬良盛が拓り開くところのいわゆる父喜多左エ門良貞は当国の内の黒石領中野不動館の上田城に居住し嫡子良盛は当所の野原地知行二百石の所領を扶持即ち開拓し、村の鎮守宮として月山宮をここに移し奉ったと雖も、良貞七代の後孫寺田庄藤原氏四郎左エ門盛民が奉持し来たりし誠に奇瑞なる正観音を恩義のため当社に勧請奉るもの也』
 これに依れば、 二代相馬良盛がこの地を開拓し、 村の鎮守として月山宮を創立、 その後、 七代目の孫寺田盛民が正観音を併せ祀ったものと思われる。 ※青森県神社庁HP】とあります。難解ですが、主神の月読命とともに、聖観音が祀られるに至った様子が、何となく分かります。







 説明板には二十三夜塚(塔)について、「陰暦二十三日の夜、この夜月待をすれば願い事がかなったと云う信仰があった」と書かれていますが、拝殿の前にも「二十三夜」の説明板があり、それには、「二十三夜様は、庚申様の弟でありという。勢至菩薩をあて、月夜見命をあてている。人々は、豊作を祈願した。」とありました。

 月待信仰は、
【十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事。※wikipediaより】ですが、例えば、十五夜の場合は「阿弥陀如来・大日如来・聖観音」というように、月齢によって祈願する主尊が割り当てられており、二十三夜の場合は「勢至菩薩」と「月夜見命」になっています。
 月読命を御祭神とするこの神社の氏子の人々にとって、二十三夜講は、かけがえのない大切な行事だったのでしょう。

 境内には、月の使者であり、月読命の神使でもある「兎」の像が、参道に一対、そして本殿にも一対置かれていました。
 



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館田八幡宮ほかーつがるみち399




 平川市の館田(たちた)には、戦国時代に「館田館」という城が築かれていたとされています。
 築城時期は天正2年(1574)頃といわれており、築城主は大光寺城主・滝本重行で、家臣の千葉与四郎という武将が守将として配置されていました。
 当時は、津軽統一を目指す大浦(津軽)為信と南部氏との間で熾烈な戦いが繰り広げられていましたが、南部方の滝本重行は、一帯に、松館・館山館・樋川館などの防御砦を築いたとされており、館田館もそのひとつでした。
 大光寺城は、天正3年(1575)に為信軍の奇襲を受けて落城しますが、このとき、館田館も打ち破られ、軍勢は館田村になだれ込んだとされています。
 館跡は、現在では宅地化され、その遺構などは残っていませんが、ここに八幡宮(館田前田八幡宮)が鎮座しています。
 



 神社の入口付近に地蔵堂が立っていますが、何人かの御婦人方が忙しそうに働いていました。どうやらお地蔵さまの「お清め」をしているようです。
 八幡宮の境内をぐるっとひと巡りして、地蔵堂の方へ向かいましたが、御婦人方はお堂の前で、休憩していました。
 尋ねると、「今日はお地蔵さまの宵宮で、お堂をお清めして、地蔵様の衣替えをしている。」とのこと。
 私:「八幡様の宵宮なのですか。」
 御婦人方:「いいやちがう。地蔵様の宵宮だ。毎年、正月と宵宮には、地蔵様に新しい晴着を着てもらうんだ。」
 私:「地蔵様の写真を撮ってもいいですか。」
 御婦人方:「どうぞ。新しい着物を着たお地蔵さまも喜ぶでしょう。」
 - 実際は津軽弁での会話だったのですが、心温まるやりとりでした。挨拶をして帰るときには、赤飯のおにぎりをいただきました。

 八幡宮の境内は広く、様々な記念碑や手水舎、末社などが立っており、狛犬は拝殿前に一対置かれています。
 その詳しい由緒などについては不明ですが、やはり、館田館の「館神」として建立され、地域の崇敬を集めてきた社だと思われます。







 八幡宮から少し行った所に、私鉄の館田駅がありますが、踏切を渡ると苗生松の集落に出ます。
「苗生松」と書いて「なんばいまつ」と読みますが、地元の方ならともかく、一発で読める人はあまりいないでしょう。 
 この変わった地名の由来についてはよく分かりませんが、ここに神明宮があります。社号標は「天照皇大神宮」となっていて、住宅に挟まれた道路沿いに立っている社です。
 鳥居をくぐって、境内の中に入ると、御神燈や手水岩、鳥居の新築記念碑などが、びっしり立ち並んでいるのが見えます。小さなブランコなどもあり、子どもたちの遊び場にもなっているのでしょう。社殿の隣には、庚申塔が三基立っていました。

 赤い社殿の前には、今にも飛びかかってきそうな狛犬が一対と、昇り龍と降り龍の石像が置かれています。小さな神社ですが、印象に残る社です。




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金屋 山神社へーつがるみち389




 桜の季節も終わり、津軽の野山の緑も濃くなってきました。
 天気の良い日には、あてもなくぶらぶらすることも多いのですが、今回は、平川市金屋(旧尾上町)の自然の森と山神社へ行ってみました。
 その斜面がりんご畑になっている金屋山には、キャンプ場として整備された「平川市自然の森」という施設がありますが、その奥が山神社の境内、さらにその後方の権現平は、古代人の祭祀場跡といわれており、伝説の大石「大石さま」があります。一帯は、猿賀神社とのつながりも語られている所ですが、私も以前に一度訪ねたことがあります。
 ⇒以前の記事へ

 駐車場から少し上ると施設の建物があり、「親杉」という大きな杉の木があります。樹齢が約250年以上、高さ28m、幹周り3.5mという巨木ですが、ここからは岩木山と津軽平野を一望することができます。

 遊歩道を歩いて行くと、山神社の境内へと出ます。



◇山神社由緒
【御祭神:大山祇神   草創の年月は不明であるが、 伝聞によると、 慶長十年 (一六〇五)、 津軽左馬守藤原建麿再建と言われている。 明治八年、 本殿が組頭小野長九郎、 百姓総代佐藤喜助らによって再建され、 同年十一月氏子総代等により拝殿が造営された。
 古い伝説によると、 神社後方にある 「大石様」 にその昔、 さるか神霊が秋田県鹿角郡申ケ野から白馬に乗って流れつき、 ここからさるか森 (猿賀神社) に鎮座したと言われている。 御祭神大山祇神は、 山の神様としてばかりではなく、 国土安泰、 家内安全、 開運、 延命、 夫婦和合、 子育て、 厄除けの神様など、 金屋集落の産土神として尊崇されている。※青森県神社庁HP

 由緒にも書かれている「大石さま」は、古代人が刻んだと思われる磨痕や線刻文が記されている大石です。山神社の後ろ側から遊歩道を池に沿って進んだ所に木柱が立っていて、そこから山の上に急な上り坂が続いています。

  


  

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猿賀胸肩神社ーつがるみち348


胸肩神社


 平川市猿賀神社の境内地はおよそ15,000坪とされていますが、広大な境内には「見晴ヶ池」と「鏡ヶ池」という二つの大池があります。
「見晴ヶ池」は行楽向けの池で、夏場は連日ボート遊びで賑わう池ですが、冬場の今は鴨たちの憩いの場です。
 一方の「鏡ヶ池」は、
【鏡ヶ池は猿賀神社信仰の中心となっている神池で中島周辺は散供(さんご)占いの霊場である。また、北限の蓮の花の群生地として広く知られ、夏には池全域に花が咲き競う。伝説によると津軽二代藩主信牧公が霊夢によって作ったと云われている。※猿賀神社HPより】と紹介されています。

 胸肩神社は、この鏡ヶ池内の中島に鎮座する境内社で、市杵島姫命を祀る社です。薄氷が張った池の上に新雪が積もり、朱色の社殿がとても鮮やかです。


 





◇猿賀の池と片目の魚

【境内の大池に片目の魚がすむといわれる。昔、猿賀の神様は、トコロのつるに足をひかれて倒れ、そのはずみにウドのからで目をついたために片目になってしまった。それから池の魚も片目になったという。
 津軽の古い盆歌にも「おらも見だ見だ猿賀の池よ、猿賀池の雑魚(じゃっこ)アみな盲(めつこ)だ」と歌われている。
 眼病で猿賀様に願をかける人は、神様が嫌うウドとトコロを食べない。
 境内に薬師の清水という湧き水があり、目の悪い人はこの清水で目を洗うとよいとされている。そこで人間の目の病が池の魚にうつって、魚が片目になるのだという。※『青森の伝説』より

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猿賀神社の紅葉ーつがるみち326




 あっという間に紅葉の時期も終わり、辺りの景色は様変わりしてしまいましたが、少し前の猿賀神社のスナップです。
◇猿賀神社
【御祭神:上毛野君田道命  桓武天皇の御代、 坂上田村麻呂将軍が暴夷を平定することになり、 兵を進め苦戦となった際、 田道命の霊感を受けて大勝した。 よって将軍はその趣を天皇に奏上したところ、 勅命により大同二年 (八〇七) 八月十五日社殿を造営、 奥州猿賀山深砂大権現として勧請し、 神威天長、 国家安穏、 黎民豊楽、 悪鬼退散を祈願した。 以来猿賀の深砂宮と崇められ御神徳四辺に遍く、 地方唯一の霊場と仰がれるに至った。 かつては藤原秀衡、 北畠顕家、 安倍氏代々等の国司、 探題の崇敬篤く、 藩政時代に入り津軽為信公により祈願所と定められ、 代々の藩主の守護のもと、 社殿の改修造営、 また社領の寄進などしばしばであった。 明治四年太政官政令にて権現号を廃して猿賀神社と改称し、 明治六年郷社、 更に明治十三年県社に昇格、 昭和三十四年神社本庁別表神社に加列され今日に及んでいる。 辰年、 巳年生まれの守護神として広く崇敬されている。 ※青森県神社庁HP

 ⇒ 以前の記事   記事①    記事②

◇猿賀神社の紅葉

  



  


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八幡崎八幡宮ーつがるみち304


八幡崎八幡宮


 平川市八幡崎地区に鎮座する八幡宮は縄文時代晩期の遺跡の上に築かれた神社です。
 以前は、神社入口付近に遺跡の説明板もあったようなのですが、八幡崎遺跡については、
【縄文時代晩期の低湿地・泥炭層遺跡。昭和23年(1948)中学校(旧猿賀中学校)建設工事の際に発見され、昭和36年(1961)~同38年(1975)にかけて、旧尾上町教育委員会並びに慶応大学の江坂輝彌等により発掘調査が行われ、約6,700m2が昭和44年県史跡の指定を受けている。縄文時代晩期前半の大洞B式~同C1式土器、石器、石製品、土製品をはじめ、藍胎漆器、木製椀、丹漆塗腕輪・同櫛並びに草本を用いたアンペラ(敷物)などがあり、堅果種子・樹皮・哺乳類骨も発見されている。
 平川市の中心部から延びる低台地西端に位置し、遺跡上には八幡宮が鎮座している。遺跡は上層に奈良時代の集落があり、台地の北側低地に縄文時代晩期の遺物包含層がある。 ※青森県HP「あおもりの文化財」】と紹介されています。
 八幡崎は旧尾上町。近くの猿賀神社をはじめ、尾上町には古代から中世にかけての遺跡や館跡などが多くあるのですが、ここもまた貴重な遺跡のひとつとされています。


末社


 道路沿いに社号標と大きな白い鳥居が立っており、参道へは石段を登って進みます。
 鳥居のそばに木柱があったので近寄って見ると「銀杏盛跡」
「銀杏盛跡」
と書かれていました。
 いろいろと調べてみたのですが、これについては分からずじまい。遺跡の沿革に、「遺跡の上層に奈良時代の集落があり」と書かれているところをみると、古代の集落の跡のことなのかも知れません。

 この八幡宮の由緒については、
【御祭神:譽田別尊  延暦十四年 (七九五)、 坂上田村麿が建立、 更に大同二年 (八〇七)、 同じく坂上田村麿が再建したと云われている。 其の後、 貞享四年 (一六八七)、 社殿を新築す。 大正二年九月十三日、 村社に列格、 昭和二十一年六月二十六日、 宗教法人令に依る宗教法人八幡宮となり、 昭和二十五年十二月二十二日、 国有境内地二、 一六一坪一合九勺を無償譲与され今日に至っている。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
 猿賀神社の縁起には、田村麻呂がこの地で蝦夷の首魁を退治したという伝説がありますが、平川市のいくつかの神社にも「田村麻呂が創建した」という話が残っています。この八幡宮も、そうした田村麻呂伝説を伝える社です。

 二の鳥居、三の鳥居と順番にくぐって行くと境内へと出ますが、上を見上げると、電球の線が縦横に延び、建物につながれています。さすが地域の中心となる社。宵宮の時などはきっと賑わうことでしょう。

 拝殿の左(向かって)には鳥居をともなった淡島神社(淡島大明神)がありましたが、社殿の中を覗いて見ると、祭壇のまわりには子ども向けの人形がたくさん置かれていました。
 淡島神は、「婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神」とされていますが、そんな信仰の現れなのでしょう。

拝殿の扉も開いていたので、中へ入ってみました。両側の壁には奉納絵馬などの他に、「あまの川」「山びこ」などの習字(条幅)が飾られています。地域の小中学生が書いたものなのでしょうか。

◇八幡崎八幡宮

 
参道
淡島大明神①
淡島大明神②
拝殿
拝殿内


 平川市は獅子踊(獅子舞)の継承活動が盛んな町で、猿賀神社の境内では県下獅子踊り大会なども行われていますが、ここ八幡崎の獅子踊も約400年の歴史を持ち県無形民俗文化財になっています。
【八幡崎の獅子  八幡崎の獅子踊りは踊りと囃子のきめ細かさとリズ ミカルさが特徴。 幕と呼ばれる獅子の衣装にも特徴があり、津軽獅子の幕の紋様は、その大部分が牡丹、唐獅子、波、千鳥 だが、八幡崎のものは白地に藍で鶴と三つどもえを染 めたものである。
八幡崎獅子踊衣装 ※広報「ひらかわ」より
※広報「ひらかわ」他より】 

 津軽の獅子踊は、熊獅子系と鹿獅子系に大別されますが、八幡崎の踊りは熊獅子で、 熊踊りの荘重さと(鹿獅子の)跳躍の軽妙さが加わった特徴のある踊りとされているようです。  ⇒津軽の獅子踊

 この獅子踊は、例年、旧暦8月1日に獅子起しが行われ、ここ八幡宮への奉納されるとのことです。

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天照皇大神宮と新館八幡宮ーつがるみち300


本殿


 平川市に岩館下リ松という集落がありますが、ここに天照皇大神宮が鎮座しています。
 下り松には、寛永年間に勧請された観音堂があったと伝えられていますが、この神社がその跡地であるのかどうかは分かりません。
 青森県神社庁HPでは「神明宮」として、この神社について、
【御祭神:天照皇大神  草創の年月は不詳なるも、 寛永年中 (一六二四~一六四四) の勧請という。 昭和二十一年三月二十九日、 宗教法人令に依り届け出、 昭和二十五年二月二十八日、 境内地無償譲与許可になり現在に至る。 】と紹介しています。詳細は不明ながらも、古くから村の産土社であったようです。

 住宅に囲まれた所に「天照皇大神宮」と刻まれた大きな社号標が立っており、境内にはいくつかの末社や記念碑などが立っていました。

 とりわけ、一の鳥居の右側(向かって)に建てられている石灯籠の奥の祠は、門つきのとても立派なものです。中を拝むことはできませんでしたが、祠の下には石仏を思わせる自然石?
石仏を思わせる自然石?
が置かれていました。

 一方、鳥居の左側には、庚申塔と並んで「塞神三柱」と書かれた石碑が立っています。塞三柱神(サエノミハシラノカミ)とは、衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)の3柱の神で、イザナギが黄泉比良坂で、追ってくるイザナミに「これ以上追ってくるな」と投げた杖から化生した神とされています。
「塞神」は、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐために、集落の道端などに祀られるものですが、この境内の中に祀ることによって、村の繁栄を願ったものなのでしょう。

◇天照皇大神宮

 
社号標
境内
末社
庚申塔
狛犬



本殿


 平川市の中心部から山手の方へ少し車を走らせると新館という集落に至りますが、集落の中心から少し離れた所に八幡宮が鎮座しています。
 新館八幡宮の由緒については、
【御祭神:譽田別命  慶長五年 (一六〇〇)、 村中安全のため、 譽田別命を御祭神として勧請、 産土神として村民崇敬の中心となると伝えられるも、 明治六年、 沖館神明宮に合祀となる。
  のち、 村民の熱い願いによって、 明治九年十二月、 ようやく復社許可されたと云われる。 しかし、 度々の請願にも関わらず、 村社昇格が許可にならず、 ついに昭和十四年七月二十日、 社格昇進し村社に列すと記録されている。※青森県神社庁HP 】 - 産土社を守ろうとする村人の思いが伝わってくるようです。

 すぐそばを東北自動車道が走り、周りはりんご畑ですが、農道の分かれ道にこんもりした森があり、石造りの鳥居が立っています。
 二の鳥居には、模様が織られた津軽独特のジャンバラ型の注連縄が張られていました。そこから高い木々に囲まれた参道が続いています。
 境内の端の方には、水はありませんでしたが、神池があり、その後ろには、貴船神社の鳥居と祠が建っていました。

◇新館八幡宮境内

 
一の鳥居
二の鳥居
拝殿
境内
貴船神社


 拝殿の隣にある手水舎には昔なつかしい釣瓶井戸・・いつ頃まで使われていたのでしょうか。

 参道の両脇と境内には、狛犬や神馬をはじめ、様々な記念碑などが立っていますが、特に目をひいたのが「オリンピック東京大会記念碑」。昭和の東京オリンピックは、地方にとっても大変大きな出来事だったようです。

 本殿の方へと回ってみましたが、木々の間に挟まれて、天神様と金毘羅大神の石碑がひっそりと立っていました。

◇手水舎、石碑

  
手水舎
釣瓶井戸
東京オリンピック記念碑
天神と金毘羅大神


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町居熊野宮ーつがるみち286


 
二柱神社
熊野宮
水分神社
両社宮




一の鳥居

末社①


 







 社号標には「村社 二柱神社」と刻まれ、一の鳥居には「熊野宮」の扁額が掲げられ、参道の入口には「水分神社」の石碑、そして、拝殿には「両社宮」とありました。平川市町居に鎮座する熊野宮です。
 神社入口のすぐそばを東北自動車道が走り、社の周りはりんご畑。鳥居をくぐり、参道を進むと間もなく、杉の大木に囲まれた境内へと出ます。
 境内には末社がいくつかあります。社殿へ行く道は石段になっていますが、その手前に末社が2つほど。いずれも中を拝むことはできませんでしたが、大きな神池があるところをみると龍神様などの水神なのかも知れません。「水分神社」という社名にふさわしいといえるでしょうか。末社は拝殿の下にひとつ、そして横にもひとつ建っていました。境内全体が鬱そうとした林の中なので、緑がとても濃く見えます。

◇参道と末社

 
参道
末社②
末社③
末社④


 一つ目の石段を上ると、神馬や狛犬、手水舎などがある所へと出ますが、社殿はさらにもうひとつの石段を上ります。お城の石垣を思わせるような構えです。拝殿の横から後ろの方へと回ってみました。そこからは本殿と拝殿を見下ろすことができます。さらに坂道は続いており、小高い山の上にもりんご畑がありました。

◇拝殿と本殿ほか

 
社殿へ
神馬
狛犬
拝殿
裏手から


 さて、この神社は地図などには「二柱神社」として書かれてありますが、青森県神社庁HPには「熊野宮」として紹介されています。その由緒は、
【御祭神:伊邪那岐尊 伊邪那美命 水分之神   草創の年月は不詳なるも、 言い伝えに依れば、 大同二年 (八〇七) 八月、 坂上田村麿呂将軍が猿賀神社再建の折り、 余材を以て当社を造営したと云う。 鎌倉時代、 曽我氏が津軽の地頭代として入部以来、歴代の地頭代の尊崇の念甚だ篤く、 奉謝の誠を尽くした。
 吉野朝時代には、 吉野方の残党が吉野水分神の分神を此の地に奉遷し、 三嵩山蔵王権現として秘かに南方恢復の壮挙を計ったように見受けられる。 天文年中 (一五三二~一五五五)、 津軽の大守となった津軽為信公が父守信を失って一人となってから、 当地の郷主町居飛鳥に養育されて、 約五年在住し、 熊野大神と蔵王権現を信仰し、 早くから津軽統一の誓いを立てていた。 延宝九年 (一六八一) 十月調べの当宮神主山伏行人の覚えには、 古来より熊野宮建立の跡有り、 神主は齋宮太夫と云い、 由緒詳細は不詳とあるが、 いずれにしても、 かなり古い時代から此の地にあり、 町居地区の産土神として尊崇されてきた。 ※青森県神社庁HP】と語られています。

 伊邪那岐尊・伊邪那美命は各地の熊野宮(熊野神社)に祀られる御祭神。水分神(みくまりのかみ)は、日本の代表的な水神で、農業にとって大切な「水を配る神」であり、豊作の神です。 ー 「二柱神社」の「二柱」とは、即ち、伊邪那岐尊・伊邪那美命と水分神のことなのでしょう。
 しかしながら、水分神は主に水源地や水路の分水点に祀られ、田の神、祈雨の神として信仰されているわけですが、この神社に水分神を祀るようになったいきさつは、上記下線に「吉野朝時代には、 吉野方の残党が吉野水分神の分神を此の地に奉遷し・・」とあるように、特別な意味合いがあったようです。「吉野水分神」とは、奈良県吉野郡吉野町の吉野水分神社のことと思われます。

 創建の年代は詳しくは分かりませんが、由緒を見る限り、平安、鎌倉、南北朝、そして戦国時代と続く中世の津軽を見つめ続けてきた社といえそうです。

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境内でひと休み「貴船神社と稲荷神社」ーつがるみち278


貴船神社の狛犬
  
稲荷神社のきつね像


  

一の鳥居


 農業にとって大切な水。その状況によって収穫が左右されることから、水の神は田の神と結びつき、水田のそばや用水路のそばに祀られるようになりました。
 そんな農耕地帯の代表的な水神は「闇おかみ神」ですが、名前そのももの「闇おかみ神社」とか「貴船神社」に祈雨・止雨・灌漑の神として祀られています。
 平川市新屋町(旧尾上町)に鎮座する貴船神社もそのひとつです。

 新屋町は、周りを水田に囲まれた集落ですが、道路沿いに少し高い丘があり、そこに神社があります。社号標のとなりに庚申塔がありますが、これは文政五年(1822)のもののようです。そこから上に石段が延びていて、登り切ったところに一の鳥居、二の鳥居と続いていました。

 その由緒については、
【御祭神:闇おかみ神  由緒不祥。 元和年間 (一六一五~一六二四) の創建と伝えられる。 古来観音堂として崇拝されていたが、 明治になって貴船神社と改称した。※青森県神社庁HP】と簡潔に記されていますが、古くから地元の人々の信仰の対象になっていた観音様を祀るお堂だったようです。貴船神社として水神・闇おかみを祀るようになったのは、やはり五穀豊穣の願いからだったのでしょう。

 比較的狭い境内ですが、二の鳥居のそばに末社が2つ建っています。大きい方の名前は「御隠居様」。何とも珍しく不思議な名前の祠ですが、かつて本尊として祀られていた観音様が隠居した後の住まいなのでしょうか?
 小さい方の祠は稲荷堂で、中には大小のきつね
きつね
が納められていました。たくさんのお賽銭・・拝む人々が絶えないようです。
 小さな社ですが、大きな狛犬や朱色鮮やかな本殿など、印象に残る神社です。

◇新屋貴船神社

 
庚申塔
二の鳥居
末社
境内
本殿



一の鳥居


 新屋の貴船神社には、明治になってから平田森の稲荷神社を一時合祀したという記録が残っているようです。
 平川市は平賀町、尾上町、碇ヶ関村が合併して発足した市ですが、平田森は旧平賀町にある集落です。
 名前の通り、昔は多くの木々が繁茂する村だったのかも知れませんが、現在では住宅と水田に囲まれた集落です。ここに稲荷神社が鎮座しています。新屋の貴船神社から、少しの距離です。

 この稲荷神社は古くからの由緒を持つ社であるらしく、
【御祭神:宇賀御魂神  社伝に依れば、 往古草創幾星霜を経て、 慶長年間 (一五九六~一六一五)、 氏子にて建立す。 正保二年 (一六四五)、 平田森村開村の折り、 小兵衛と云う者一夜瑞夢有りて、 社地を定め堂宇を建つ。 延宝九年 (一六八一)、 堂宮神主山伏行人の覚えに、 平田森村稲荷堂別当東覚坊と記されている。 延享元年 (一七四四) 六月、 隣の町居村法院より鳥居の寄進あり、 当時の神威思う。 後、 文化六年 (一八〇九) 二月四日と弘化二年 (一八四五) 五月十三日に再度御厨子並びに堂宇の寄進あり。 安政四年 (一八五七) 稲荷堂再建す。 明治四年、 社格村社に列せられる。 ー以下略ー ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
 開村以来、村の産土社だったようですが、【平成三年、 台風十九号により御本殿並びに境内樹木壊滅す。 翌年御本殿を新築す。 】とあり、変わらぬ地域の崇敬を集めているようです。

 稲荷神社らしく、一の鳥居から社殿までの間にいくつかの鳥居が立ち並んでいる境内です。拝殿のとなりには、玉垣に囲まれた神馬像が2体。鳥居も立っていて、奥の方には祠がありました。馬頭観音堂なのでしょうか。

 ここの神使は狛犬ではなくてきつね。巻物(鍵?)をくわえている目つきのするどいきつねや親子ぎつねなど、新旧のきつね像が立ち並んでいました。

◇平田森稲荷神社

 
境内
馬頭観音堂?
本殿
きつね像①
きつね像②


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白岩森林公園の十和田様ーつがるみち247


白岩森林公園


 深浦町のJR五能線十二湖駅の近くに日本キャニオン
日本キャニオン
と呼ばれる景勝地があります。
 その名の通り、グランドキャニオンを思わせる大断崖で、周囲の緑の中に崩壊浸食された白い凝灰岩の岩肌が露出している名所ですが、青池で有名な十二湖に近いということもあり、多くの観光客が訪れる所です。
 この日本キャニオンと規模は違いますが、平川市にも、同じように白い岩肌がむき出しになっている景勝地・白岩森林公園があります。


 白岩森林公園は、以前に訪れた尾崎八幡宮のある尾崎(おさき)集落から、山の方へと進んだ所にありますが、道中は、両側にりんご畑が広がるのどかな景色が続いています。私が訪ねたときは昨年の夏でしたので、辺りの緑がとても鮮やかでした。

 途中の山裾に小さな祠を見つけました。車で走っていると、時々、このような忘れ去られたような祠がポツンと立っているのを見かけます。長く伸びた草をかき分けながら近寄って見ると、「保食宮」とありました。
 中には、馬の像が何体か奉納されていました。「保食神」は五穀豊穣の神(食物神)ですが、神話には、その「頭から馬が生まれた」とあることから、馬頭観音と同一神とされることも多いようです。

 だんだん道幅が狭くなり、樹木が目立つようになりますが、ここが公園の入口です。大きな岩の下に、ひとつの石碑
中島熊吉顕彰碑
が立っていました。
【故中島熊吉翁ハ 温厚篤実 信仰心ニ富ミ 明治七年ヨリ 丗有年間無報酬ニテ山守長トシテ誠意奉仕シ 今日ノ山間安楽郷ヲ築キタリ・・・】 ー どうやら中島熊吉という人物の顕彰碑のようです。
 この碑にも書かれているように、中島熊吉は、明治7年(1874)より30有余年、この山の山守長を務め、美しい景観を後世に残した「地域の偉人」として尊敬されてきた人物だったようです。この顕彰碑の向かい側にも大きな岩があり、そこには中島熊吉と思われる人物の石像がありました。穏やかで、慈愛に満ちた眼差しの像です。

◇保食宮・中島熊吉顕彰碑

 
 
保食宮①
保食宮②
中島熊吉碑
中島熊吉像①
中島熊吉像②


白岩森林公園案内板


 入口から少し進んだ所に、ひとつの鳥居が立っています。扁額には「山神様」とあり、そばには「大山祇神」と書かれていました。ここは山神神社のようです。祠は鳥居をくぐった少し高い所にありましたが、そばには「山神様」と刻まれた大きな石碑もありました。長い間にわたって、この山(公園)の守り神として崇敬されてきたのでしょう。

 白岩森林公園は、
【アカマツ・ブナ・カエデなど約131ヘクタールにも及ぶ広大な自然公園を有し、点在する凝灰岩の美しさで知られる白岩森林公園。その岩肌は雪と見まちがうほどの白さで、四季折々の木々や山々と織りなす色彩のコントラストは見事なものです。公園内には、キャンプ場、森の家(休憩場)、遊歩道、展望所等があります。また、毎年5月下旬には白岩まつりが開催され、多くの観光客で賑わいをみせています。※平川市HP他より】と紹介されているように、自然観察や森林浴が楽しめる行楽地となっています。
 むき出しの「白岩」を中心にして広いハイキングコースとなっていますが、私が訪れたときは、付近の崖崩れなどのために通行禁止になっている所もありました。
 圧巻は、何といっても屏風のように広がる白い断崖。スキーゲレンデのようです。

◇山神様と白岩

 
山神神社①
山神神社②
白岩①
白岩②
白岩③



薬師のシツコ

十和田神社

十和田のシツコ


 岩壁は凝灰岩でできているわけですが、凝灰岩層は、
【他の岩石の層に比べて軟弱で、また充分に固結していない凝灰岩層は地下水を含みやすく、地下水の通り道となって流動的になりやすい。・・・凝灰岩は河川などの侵食に弱いため、さまざまな形に侵食され風光明媚な地形を作る。※wikipediaより】といわれています。
「地下水を含みやすく、地下水の通り道となる」とあるように、この公園一帯には、清水が湧き出ている所が何カ所かあり、それらは総称して「白岩湧水群」と呼ばれています。
 湧水にはそれぞれ、「けやきのシッコ」「薬師のシッコ」「あじさいのシッコ」「たものシッコ」などと、親しみを込めた名前がつけられていますが、「シッコ(シツコ)」とは「清水」のことです。場所がわからず、全部は回ってみれませんでしたが、時期によっては、枯れている所もあるようです。
 それらの「シツコ」の中でも、「十和田のシッコ」は特別なようで、ここには鳥居が立っており、十和田神社の祠もあり、水量豊かな清水が湧き出ていました。
ー 北東北の水神「十和田様」は、この地でも崇敬を集めているようです。

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家臣の手で「李平保食神社」ーつがるみち243


保食神社


「大同二年、征夷大将軍坂上田村麻呂東征にあたり、戦勝を祈願して・・」 ー 津軽の神社の縁起ではおなじみの文言ですが、他にも、「○○○○年、村中にて創建」とか「○○村の某、○○観音を奉じて・・」など、各社の由来は様々に語られています。
 戦国時代に入ると、時の城主(領主)やその家臣が建立・再建したとされる神社も数多くなるわけですが、平川市李平(すももだい)に鎮座する保食神社も、そのひとつです。

遺跡説明板


 李平の上安原・下安原地区は、縄文時代からの遺跡が残る所として知られていますが、大きな火の見櫓がある李平町会センターに遺跡の説明板が立っています。
【この遺跡の特色は、(注1)縄文時代の遺跡に歴史時代(奈良・平安)に入ってから再び人が住み始めたことが明らかで、縄文土器が地表に多く散見され、地下には土師器が伴う住居跡が埋れている。また、上安原、下安原の丘陵地一帯に集落が形成されていたようで、土器片が広く散布している。住居跡から出土する土師器はロクロを使用しない此の地方古式のものであり従って須恵器が伴出しなかった。北側急斜面の下の水田から夥しい土器が出土したという。或いは縄文晩期の遺物包含地とも考えられる。この地区から検出される住居跡には明確にカマドが設置されていて、付近一帯は稲作に最適な地であり津軽地方でも比較的早くから開拓された地域であった事が推測される。(注2)縄文時代は北側低地部を大河が流れていたと考えられ夥しい程の漁撈具が出土している。※遺跡説明板より】 

 これを見ると、一帯は縄文時代から連綿と続いた遺跡だったことがわかります。下安原の方の遺跡からは、「頭位を南西方向にし、腹部に子供の頭大の大きさの川原石を置いた」平安時代の埋葬人骨
埋葬人骨
が発見されているとのことです。

(注2)の「低地部を流れる大河」とは、即ち、浅瀬石川のことですが、この川は古代から幾たびも氾濫を起こした川で、(注1)にあるように、「奈良、平安に至って再び、人が住み始めた」というのは、縄文から続く一時期、氾濫による大きな環境の変化があったことを示しているように思います。
 因みに、「北方最古の弥生田」として有名な田舎館垂柳遺跡もまた、浅瀬石川の氾濫により、貴重な水田跡や弥生人の足跡が「真空パック」されて残った遺跡だとされています。また、ここ李平と同じ平川市の八幡崎(やはたざき)地区の八幡宮一帯にも、縄文から奈良時代へと続く遺跡があり、石製品、土製品、藍胎漆器、木製椀などが見つかっています。 ー 浅瀬石川文化圏とでも言ったらいいでしょうか。

 遺跡説明板のある町会センターのすぐ隣が保食神社です。雪に埋まった一の鳥居のそばには、手水舎や庚申塔などが立っていました。

◇李平遺跡、保食神社ほか

 
火の見櫓
八幡崎八幡宮
道路から
参道
庚申塔


拝殿


 この保食神社については、
【御祭神:宇氣母智神(うけもちのかみ)  永正二年 (一五〇五) 浅石城主千徳左衛門政久の家臣、 天内治右衛門が社殿を建立し、 馬頭観音を勧請したのに始まる。 崇染堂と称せられ、 永禄三年 (一五六〇) に李平村にて社殿を改築したが、 天正三年 (一五七五) 失火により焼失した。 寛永六年 (一六二九)、 馬頭観音像を鋳造して御神体となし、 社殿が再建され、 更に正保元年 (一六四四)、 村中にて社殿を改築、 産土神として崇敬されるようになった。 明治三年、 観音像を弘前市最勝院に納め、 保食神社と改称した。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 由緒にあるように、当時の支配者・浅瀬石千徳氏の家臣であった天内氏の手によって創建された社ですが、天内氏は、浅瀬石からこの地に移り、「天内館」を築き、居館にしていました。
 天内館は、「3郭で構成され、各郭は空堀と土塁が設けられていたという。北側は丘陵の段差を利用し、南側は浅瀬石川上流から引いた水路をもって堀としていた。」とされていますが、 慶長2年(1597)、浅瀬石城が大浦(津軽)為信の手により落城すると、天内館も廃されることになります。現在、館跡は住宅地となっているため、その遺構はほとんど残っていません。

 この保食神社は主人・千徳氏から授かった領地の繁栄を願った天内氏の思いが詰まった社であり、それを大切に育んだ村人達の「産土社」であったのでしょう。今は、雪の中にひっそりと佇んでいました。

◇保食神社

 
境内
狛犬
拝殿
本殿
末社


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田村麻呂伝説「阿蘇神社」-つがるみち227


境内


 大鰐町と平川市の境に阿蘇ケ岳(494m)という山がありますが、この山についてWeb東奥「あおもり110山」には、次のような話がのっています。
「小学校のとき、阿蘇ケ岳は遠足で行く山の一つだった。学校から山頂まで歩いて約2時間。山は家畜のえさの草刈り場で、刈ったあとに遠足で行ったから、山頂からの眺めは360度で抜群だった。われわれの年代にとって、思い出深い山だ。」
 地元出身の「かつての少年」の回顧談です。今は砕石場ともなっているこの山は、大人にも子どもにも親しまれてきた山だったようですが、標高500m足らずのこの山は、坂上田村麻呂の伝説が伝わる霊山でもありました。

一の鳥居


 この阿蘇ケ岳の麓を走る国道282号線沿いに平川市唐竹の集落がありますが、その薬師沢というところに阿蘇神社が鎮座しています。
「阿蘇」という名前の通り、阿蘇ケ岳と深い関わりをもつ社な分けですが、その縁起については、
【御祭神:少彦名神  延暦十年 (七九一)、 田村麻呂東征の折り、 阿蘇嶽山頂に本陣を置いて征伐の末、 田村麻呂眼病に罹った時、 夜夢の中に二人の美人が顕われ、 清水の所在を教え、 その水で洗顔すれば平癒するであろうと告げ、 此の土地の鎮守の神は少彦名神であると言って去られたという。 その御神託によって、 眼病が平癒したことで、 眼病守護のため阿蘇嶽に剣を埋め、 薬師神と崇め社殿を建立したと伝えられる。 清水は 「渾神の井」 として知られる名水である。 阿蘇嶽社殿までは、 村より一里余りも離れて不便なため正徳六年 (一七一六)、 薬師沢へ本殿を移すにあたり掘り上げた鏃を少彦名神神璽として崇め祀り、 社名も薬師堂、 薬師宮、 久須志神社と変わり、 現在の阿蘇神社となる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 この縁起の内容については、田村麻呂の眼病を治したとされる渾神の清水の記事でも取り上げたので重複しますが、田村麻呂伝説が残る神社です。
 縁起の中に「村より一里余りも離れて不便なため」社殿を現在地に移したとありますが、同じように弘前市の熊澤神社もまた、阿蘇ケ岳の山中から奉移された社とされています。 - 熊澤神社が鎮座する場所は「薬師堂」、ここ阿蘇神社の住所は「薬師沢」・・いずれも、田村麻呂が阿蘇ケ岳山頂に祀った「薬師神」が、その地名の由来になっているようです。
 この阿蘇神社の御神体は少彦名神神霊とされる「掘り上げた鏃」ですが、実際に阿蘇ケ岳山頂付近からは、昭和16年に竪穴とともに鋤が発見されたという、興味深い話もあります。

 一の鳥居から続く長い参道の両脇にはりんご畑が広がり、社殿は小高い丘の上にありました。拝殿の前の手水舎には、鈴とともに鉄の草鞋が奉納されていました。

◇阿蘇神社①

 
二の鳥居
参道
拝殿
本殿
鉄草鞋



拝殿①


 木鼻をはじめ、鳳凰、龍、虎をはじめ、中障子の彫り物など、拝殿の彫刻はとても精巧に造られていて、すばらしいものがあります。
 境内の中を見て回り、写真に撮りましたが、その帰り道、近くで作業をしていた農家の方が気さくに話しかけてくれました。
「この辺りは昔、田村麻呂たちが通ったんだ。いい神社だべ。」という話からは、この神社と地域を愛する気持ちが伝わってきました。
「ところで、拝殿の屋根の下を見だが?」と言うので、「いいや。」と私が答えると、その方は「周りに十二支が彫られてるんだよ。」と教えてくれたので、もう一度引き返し、注意しながら見てみると、なるほど確かにうさぎ、馬、ねずみ・・・など、十二支の彫り物が拝殿を取り囲んでいました。これまた、見事なものです。

◇阿蘇神社②

 
拝殿②
十二支①
十二支②
十二支③
十二支④



相馬貞一鎮魂碑


 ところで神社の境内には末社などの他に、忠魂碑や村の開拓に関する記念碑、社の改築記念碑などとともに、郷土が生んだ名士や力士などの顕彰碑が立っているのをよく見かけます。この阿蘇神社にも郷土のために尽くした一人の人物の鎮魂碑が建てられていました。その人物の名は相馬貞一(そうま ていいち)。

 相馬貞一は、慶応3年(1867)に生まれ、昭和10年(1935)に没するまで、その一生をここ唐竹(からだけ)村の「りんごづくり」に捧げた人物です。
 明治21年に東京からふるさとへ戻ってきた貞一は、村人の貧しい暮らしを憂い、雑穀畑にりんごを植えることを奨励しました。自らも杉林を切り開き、りんご園を作ったといわれています。
 貞一の取り組みは、次第に村人に受け入れられ、唐竹のりんご栽培は盛んになっていきました。さらに貞一は、栽培技術の向上や販売組織の拡大にも力を注ぎました。こうした貞一たちの努力が実り、青森県はりんご栽培日本一となった分けです。

 貞一は村人から敬愛され、「唐竹のとの様」といわれるようになりましたが、このとの様はけっして自分の業績を誇ることなく、自らりんご畑に出ては仕事をし、村人とともに歩んだ人物だったようです。人々は、そんな貞一を親しみをこめて「オドサ(お父さん)」と呼んでいました。

 このように、りんご作りを通して村の発展を築いた貞一は、死を間近にして自分の思いを表した短歌を遺しています。
ー 願わくは りんごの花の下陰に しづ心なく 眠りはてなん -

 阿蘇神社境内に立つ鎮魂碑には、今もなお、そんな「オドサ」相馬貞一を敬愛する地域の思いが込められているような気がします。

※相馬貞一については、平川市の小学校の「ふるさと学習」でも取り上げられ、社会科の副読本にも紹介されています。私も、その副読本を参考にしました。

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けやきの森「七柱神社」-つがるみち220


七柱神社


 「○柱神社」だとか「○社神社」、「○所神社」など、神社名に御祭神の数を冠している社があります。
 私が訪ねた中では、津軽三十三霊場13番札所である五所川原市金木の三柱神社(川倉芦野堂)もそのひとつで、大山祇命、大國主命、水波女命の三柱が御祭神でした。
 また、鳥居に鬼っコを掲げている平川市日沼の三社神社の御祭神も天照皇大神、譽田別尊、天児屋根命の三柱です。
 この三社神社と同じ平川市に七つの神様を祭っている神社があります。

一の鳥居


 神社名は七柱(ななはしら)神社。文字通り、七柱が鎮座する社で、平川市尾上(旧尾上町)にあります。
 拝殿前に御祭神が紹介されていますが、
「大國主神(オオクニヌシノカミ)・ 経津主神(フツヌシノカミ)・ 事代主神(コトシロヌシノカミ)・天鈿女神(アメノウズメノカミ)・ 宇賀魂神(ウカノミタマノカミ)・思兼神(オモイカネノカミ)・ 高おかみ神(タカオカミノカミ)」となっています。
 いわゆる豊穣祈願の神様と、日本の建国神話に登場する神様を一同に祭っているといったところでしょうか。境内には、摂社として猿田彦神社と天満宮があります。

 この神社の由緒については、
【正保四年 (一六四七) 九月建立、 明治四年太政官達にて神仏混淆仕分けの際、 獅子権現宮を七柱神社と改める。 神社改正以前は県社猿賀神社の摂社であった。 又、 一説には 「延暦十二年 (七九三) 坂上田村麻呂大将軍が田道命の霊感を受けて賊将大丈丸を討つ事ができたので、 その神恩に報いるため一社を建立した。 深砂大権現 (現猿賀神社) がこれである。 その当時、 去川派立 (尾上村) へ一宇を勧請し武運長久を祈る。 いわゆるこれが獅子権現宮 (現七柱神社) である。 爾来、 猿賀神社の摂社となる。 後に堂宇腐朽破損しているのを憂い、 正保四年九月、 氏田弥左衛門の邸内に勧請し、 更に安永七年 (一七七八) 堂宇を現在地に移遷した」 とも言われている。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 ほぼ同じような由緒を持つ神社として、近くに愛宕神社がありますが、この七柱神社もまた、地域の守り神であった深砂大権現=猿賀神社から分霊された社のようです。

◇七柱神社境内

 
参道
境内
拝殿
本殿と末社
末社と庚申塚



神社入口


 道路沿いに社号標があり、そこから境内へと参道の細道が続き、途中に一の鳥居と二の鳥居が立っていて、正面に社殿が見えます。
 その入口に「けやきの森 七柱神社 七柱神社御神木 欅」と書かれた木柱と、「日本一のけやきの森」と書かれた看板が両側に立っています。

 木柱に記されていた説明によると、境内には樹齢がおよそ400~450年といわれる大木をはじめ、多くの「けやきの木」があったことから「森」と称してきたようです。

 現在は、御神木として崇められているけやきの巨木は4本ですが、本殿横の大木は、高さが31.7m、幹周りが6.63mといわれています。

 「森」といわれてきたように、以前はもっと多くのけやきに囲まれていたようで、参道の説明板
説明板
には次のように記されていました。
「七柱神社の境内には昔、「ケヤキ」の大木が茂り、「ケヤキ」の森として親しまれたが、日露戦争のとき、木造船に徴用され、又、過去の台風や老樹のため数本倒れた。
 本殿の右側の大木は「ご神木」となっていて、他に三本の巨木があり、他には例をみない。」
 ー けやきの森に対する愛着と神社への崇敬の念、そして地域を誇りに思う気持ちが伝わってくるようです。「日本一の・・・」はともかくとして、造船にまで使われたというのですから、巨木が何本も繁茂する場所だったのでしょう。

 私は夕暮れも近い、午後の遅い時間に行ってみたのですが、静かな境内には、注連縄が張られた御神木たちが黄色の葉っぱをまといながらそびえていました。

◇境内のけやき

 
けやき①
けやき②
けやき③
けやき④
けやき⑤


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市   Tags: つがるみち  名木めぐり  

かつての陣所跡「高木愛宕神社」-つがるみち205

 平川市高木地区に、かつて「高木地蔵館」と呼ばれた城(館)跡があります。
 現在は愛宕神社の境内になっていますが、伝承によれば、南北朝時代に大坂の八王寺からきた高木佐門李平という武士の居館があったとされている所です。一帯には、空堀なども築かれ、平山城の体をなしていたようですが、今は、その遺構らしきものは残ってはいません。

参道


 その城跡に鎮座している愛宕神社の由緒については、【御祭神:軻遇突智命(かぐつちのみこと) 延暦年間の草創にして猿賀神社の末社なり。 明治に入り独立の神社として同六年村社に列せられる。 往古は愛宕宮、 愛宕権現、 高木山堂とも称えられた。 大正二年十一月十二日幣帛供進の指定を受け氏子一致協力して境内社殿の整備に努め経営、 以て今日に至る。 又、 津軽一統史に曰く 「延暦十年 (七九一) 坂上田村麻呂将軍、 勅命により東夷征討の節、 遠く此の地に来たりて賊将大嵩丸を津軽阿楚遍の森に攻めるも、 大嵩丸逃れて猿賀に至り、 ついに同所にて討たれる。 すなわち此の地を封じて一社を建立し、 土民に祀られる。 今の猿賀神社がこれである。 其の当時、 高木へ一社を建て武運長久を祈り、 将軍地蔵 (現愛宕神社) と唱え、 軍神として祀る。 云々」、 更に東日流大成記に曰く 「天正十三年 (一五八五) 南部勢浅瀬石城を攻めるに当たり、 中興の祖津軽為信公自ら浅瀬石城の後詰めとして高木将軍地蔵境内に陣営を布く」 とある。 ※青森県神社庁HP】とされています。

 この由緒書きによれば、坂上田村麻呂が蝦夷の首魁である大嵩丸を征討した際に、猿賀神社とともに築かれたとあり、伝承とはいえ、古い歴史を感じさせます。
 また、時代が下って、戦国時代になると、津軽為信が、統一の最後の仕上げともいうべき浅瀬石城を攻めたときの本陣がここに置かれたとされています。境内は為信の陣所跡だった分けです。

 戦国時代、浅瀬石城は千徳氏の居城で、、現在の黒石市を中心に広い領土を治めていました。元々は南部氏の家臣であったのにもかかわらず、千徳氏は、為信と友好な関係を築いたりもしましたが、結局は1597年に、為信軍に滅ぼされ、浅瀬石城は落城した分けです。

 この愛宕神社の境内は周りよりも若干小高い丘の上にあり、そこからは、浅瀬石方面
浅瀬石方面
を見渡すことができます。ここに陣取った為信軍は、連日、攻略のための作戦を練ったのでしょう。境内には、二十三夜塔や庚申塔の他に、拝殿の右横(向かって)に、「津軽為信公 腰掛の石」という大石が残されており、この石に座って采配を振るったということが記されています。
 また、当時、この境内にはケヤキの大木があり、為信はその木に軍旗である「曼字(卍)の旗」を掲げたとも伝えられています。この大木は、幹周りが10m近くもあったとされていて、「千年木」と名づけられていたということですから、相当に古い御神木だったのでしょう。

◇愛宕神社境内

 
二十三夜塔ほか
為信腰掛の岩
拝殿
狛犬
本殿


境内


 さて、その伝説の大ケヤキは今はないのですが、境内には珍しいケヤキの木が2種類そびえています。
 両方ともに御神木となっている分けですが、ひとつは「三頭木(さんとうぼく)」と呼ばれているケヤキです。「上部の幹が三つに分かれており、古くより神聖な木とされている。樹齢はおよそ200年・・・」と説明板にありますが、古来、幹の途中から三本に分かれている木は「山ノ神」が宿ると敬われ、大切に守られてきたとされています。

 もうひとつは「夫婦木」と称されるケヤキで、「樹齢約300年。二本の欅が寄り添っていることから、「夫婦円満」「長寿」の御神木として崇められている」分けですが、このような2本の木が結合したものは「連理木(連理の枝)」といわれます。
 【「連理の枝」は、並んで生えている二本の木が、枝の部分で一つに繋がっているという伝説上の樹木のこと。中唐の詩人・白居易の『長恨歌』の中に、玄宗皇帝と楊貴妃が七夕の夜に愛を誓い合ったことばとしてある「天に在りては願わくは比翼の鳥と作り、地に在りては願わくは連理の枝と為らん(天上では二羽一体で飛ぶ比翼の鳥に、地上では二本の枝がくっついた連理の枝になろう)」に基づく。※HP「故事ことわざ辞典」より】とされ、「男女の情愛、特に夫婦の情愛がきわめて深く、仲むつまじいことの象徴」といわれています。

 このようないわれをもつ大木が、同じ寺社の境内に2種類も存在していることは、きわめて珍しく、観賞会や説明会
地元紙「陸奥新報」記事より
なども盛んに行われているようです。 
 - 津軽の隠れた名木のひとつです。

◇三頭木と夫婦木
 
 
三頭木①
三頭木②
夫婦木①
夫婦木②
夫婦木③
夫婦木④


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市   Tags: つがるみち  名水と霊泉  

田村麻呂を救った「渾神の清水」-つがるみち162

「渾神の清水」・・・「いがみのしつこ」と読みます。
 全国の「名水百選」に選定されている霊泉ですが、名水百選とは、【1985年(昭和60年)3月に環境庁(現・環境省)が選定した全国各地の「名水」とされる100か所の湧水・河川(用水)・地下水】のことです。名水の基準として、【「保全状況が良好」で「地域住民等による保全活動がある」こと。】が挙げられていますが、渾神の清水は、長い期間にわたって地域の人々が守り育ててきた泉であり、十分に「百選」の条件を満たしているといえます。

句碑の丘


 この霊泉がある所は平川市唐竹、「びわの平」という高地を通って、十和田湖へと向かう道路沿いです。
 入口には看板とともに赤い鳥居が立っていますが、一帯は小公園になっていて、東屋なども設けられています。そこを少し登ったところに「句碑の丘」があります。文字通り、地域の俳人達が詠んだ句碑がたくさん建っている所ですが、中にはユーモラスな句もあり、心が和みます。

 その中でも、ひと際大きいものが「増田手古奈(てこな)」という俳人の句碑。
 増田手古奈については、【1897(明治30)年10月3日、南郡蔵館村(現大鰐町)に生まれた。大正12年に東京大学法医学教室で血清学の研究をしていた時、同じ教室にいた水原秋桜子(しゅうおうし)に強く勧められて高浜虚子(きょし)の門に入る。虚子門下の4S(誓子(せいし)、青畝(せいほ)、素十(すじゅう)、秋桜子)台頭の時代で、手古奈はその後に続く新人の一人であった。昭和6年、家業を継ぐべく郷里の大鰐町に医院を開業。この年の1月に東北では唯一のホトトギス系の俳誌「十和田」を発行主宰し、その後、長きにわたり客観写生の俳句の道を広めた※HP「青森県近代文学館」より】と紹介されていますが、青森県を代表する俳人の一人で、師の高浜虚子から、「手古奈君はとこしへに東北の俳諧の重鎮たるを失はない」と評されたといわれています。

 
 故郷である大鰐町・茶臼山公園にある増田手古奈の句碑には、代表作「山の温泉や夕鶯のいつまでも」の句が刻まれていますが、ここ渾神の清水に残した句は「づく鳴くや星の明りの見えそめて 」。 - ミミズクの鳴く夜、星明りに照らされながら、こんこんと湧き出る清水・・・とても清澄な感じのする情景です。

◇句碑の丘ほか

 
句碑①
句碑②
句碑③
増田手古奈句碑
末社



渾神の清水


 鳥居をくぐると、とても清潔な水屋があり、中からは、水量たっぷりな清水が勢いよく湧き出ていました。飲料水や、農業用水、生活用水として地域の方々に崇められ、守られてきた霊泉であることがよく分かりました。そばには、薬師様?と思われる祠とともに、この霊泉の由緒を刻んだ石碑も立っています。

 この石碑並びに由緒書き板などによると、この霊泉は、【坂上田村麻呂が延暦年間に陸奥国の蝦夷征伐の際、「矢捨山」の近くに陣をしいたとき、悪質な眼病を患った。或る夜、此土地の鎮守少彦明神が夢に現れ、是れよりも奥に行くと清水があり、この水で目を洗うとたちまち治るとのお告げがあった。お告げのとおり谷を上っても清水が無いため、現在の泉のあたりで神に礼拝すると烏帽子が飛んで落ちた場所にこんこんと水のわいている泉があった。この清水で目を洗うとたちまちのうちに眼病は治癒した。その徳に感じて眼病守護のため、「阿蘇山」に剣を埋めて薬師神と崇めて本殿を建てた。この清水わく泉を渾神の清水と呼んでいる。」※坂上田村麻呂の伝説「竹館村誌」】と紹介されています。「渾神の清水」は別名「今神の清水」ともいわれており、それが転化して「渾神(いがみ)の清水」と呼ばれるようになったのだとか。。

 文中に出てくる「矢捨山(やすてやま:564m)」は、この霊泉から少し進んだところにありますが、尾根が長いため「矢捨長根山」とも呼ばれた山で、この山には、【昔、阿倍一族が源義家に攻められ、背負っていた「やなぐい」という矢を入れる武具を捨てて逃げた。それで「矢捨」といった。※『青森の伝説』より】という伝説があります。
 また、「阿蘇山」は矢捨山の向かい側にある「阿蘇ケ岳((あそがだけ:494m)」のことですが、【「坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、阿蘇ケ岳山頂に本陣を構えたが、眼病になった。ふもとの清水で目を洗ったら治った。この水が名水『渾神の清水』だった」】という話が伝えられているように、両山ともに、かつては、戦の場となっていたようです。因みに、この阿蘇ケ岳からは、竪穴と鋤(すき)が発見されたということで、何らかの遺跡ではないか、と考えられているとのことです。
 ⇒矢捨山と阿蘇ケ岳 ※画像複数

◇渾神の清水

 
由緒石碑
渾神の清水①
渾神の清水②
渾神の清水③
渾神の清水④


 さて、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、眼病を患ったが、霊験により清水を探し、完治した・・という話は、弘前市・羽黒神社にも伝えられていますが、田村麻呂を象徴とする朝廷の征討軍が、「各地の蝦夷との戦いで苦戦し、窮地に追い込まれたが、霊夢を見、そのお告げに従って戦い、勝利を得た」という伝説の筋はいっしょです。
 田村麻呂とその軍を勝利に導いたものは、卍の旗と錫杖であったり七つの鬼面であったりと様々ですが、「眼病を治した清水」も、そのひとつといえます。

 この「渾神ノ清水」は地域の霊水として崇められ、時には重い目の病を患った人々を救ったのかも知れません。それが、田村麻呂と結びつけられ、ひとつの伝説を生んだのだと思いますが、田村麻呂が「眼病を患った」ということは即ち「(戦の)先が見えなくなった=負け戦に苦しんだ」ことを意味していると思われ、「眼が完治した」ということは、「先が見えた=勝利のめどがたった」ことを示しているとも考えられます。
 - 裏を返せば、それだけ、蝦夷の頑強な抵抗が続いた・・ともいえるのではないでしょうか。

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※使っているスクリプトの調子がおかしいので、拡大画像等が連続しませんが、とりあえずUPします。後ほど、対処したいと思います。 ⇒直りました。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市   Tags: つがるみち  津軽の七福神  

火性三昧「赤倉山金剛寺」ーつがるみち154

 平川市の八幡崎という地区に金剛寺というお寺があります。真言宗のお寺で、津軽弘法大師霊場の21番札所となっていますが、山号は「赤倉山」。名前の通り、赤倉霊場に奥の院をもつ寺院です。
 本尊は、文殊菩薩ですが、弘法大師をはじめ、不動明王や地蔵菩薩など、さまざまな仏を祭っており、供養や祈祷のために、津軽地方から多くの人々が訪れるお寺です。

金剛寺


 境内の中に猿田彦大神の碑が立っていますが、その側に「カサメヤ遺跡」という木柱があります。詳しくは分かりませんが、木柱の説明によると、【地元民は「カサンベ」と称し、土石器や穴開き銭も出土している】とありました。この金剛寺のある八幡崎には、県指定の「八幡崎遺跡」があり、【縄文時代晩期前半の土器、石器、石製品、土製品をはじめ、藍胎漆器、木製椀、丹漆塗腕輪・同櫛並びに草本を用いたアンペラ(敷物)などがあり、堅果種子・樹皮・哺乳類骨も発見されている。※青森県教育委員会HPより】とのことですが、奈良時代の集落跡も発見されており、現在、遺跡の上には八幡宮が鎮座しています。近くにあるこのカサメヤ遺跡もまた、古代から続いてきた集落跡だったと思われます。

 境内には、日・月・天とともに、鶴と亀が線刻された石がありますが、通称「鶴亀石」と呼ばれるこの石は、近くから発見されたものをここの境内に移したとのことです。住職さんが「水をかければはっきり見えるよ」と教えてくれたので、早速やってみたら、鶴と亀が浮かび上がってきました。

 本堂の前には、弘法大師と並んで、大きなお地蔵様の像も建てられています。本堂の階段には、いくつもの小さなお地蔵様も置かれていました。このお寺では、普段は家庭の仏壇等に祀っているお地蔵さまを、お寺にお参りにくる際に「一緒にお連れして」供養しているそうで、これを「お地蔵さまを遊ばせる」と呼んでいるということです。

◇金剛寺境内

 
カサメヤ遺跡
八幡崎八幡宮
鶴亀石
弘法大師と地蔵
お地蔵様



本堂


 本堂の入口には、大きな木像が置かれていますが、これは布袋様。布袋尊は、【唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では七福神の一柱として信仰されている。肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどるものと考えられ、所持品である袋は「堪忍袋」とも見なされるようになった。※wikipediaより】とされていますが、実は津軽地方には、「津軽七福神」を祭る霊場があって、ここ金剛寺にも「七福神巡り」のために訪れる人々も多いようです。

 さて、お寺の由緒については、「金剛寺報」の中で、【初代住職の照正僧正が開いたお寺で、僧正は五所川原のお寺の末っ子で、終戦後に五所川原の地を出て、八幡崎の村が管理するお寺に入り、そこで托鉢や仏事を重ね、やがて金剛寺を建立するに至った。五所川原の地を離れる時、住職である父から一つだけ渡されたもの、それが「金剛鈴」という密教法具である。】と紹介されています。
 若い住職さんは、「ダイヤモンドを金剛石というように、金剛とは固い信仰を意味している」と語ってくれました。祭壇の前には、法具・金剛杵
金剛鈴と金剛杵
も置かれています。

 このお寺が、赤倉の霊場に、弘法大師堂や「一代堂(※本尊の文殊菩薩は、卯年生まれの一代様。このお堂に文殊菩薩が安置されているとのこと)」及び修行道場などを建立したのは、先代住職蒔田照正師が、【夢の中に龍にのった白髪の老人が現れ「赤倉の地にお堂を建てよ」と告げられた】からであるとされています。
 赤倉霊場の広い敷地内には、三十三観音像や霊堂が並び立ち、その護摩場では、【毎年、6月の第三日曜日に、修験者による火生三昧(津軽では火性三昧と言う)を厳修(ゴンシュウ)し、熱釜や火渡りなどの荒行を行い、五穀豊穣や海上安全、家内の安全を祈る】 ー 「金剛寺赤倉道場山開き火性三昧」
火性三昧 ※金剛寺報より
が行われるとのことです。

◇本堂と赤倉霊場

 
布袋尊
祭壇
赤倉奥の院①
赤倉奥の院②
赤倉奥の院③


※お寺の紹介等は、「金剛寺HP並びに金剛寺報」を参考にしました。

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 早いものでもう3月になりました。雪解けを待ち、また史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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