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雪景色 1


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猿賀公園へ


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紅葉待ち


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蓮の咲き始め


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見晴ヶ池付近


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遅咲きの・・・


平川市小国(おぐに)は、市東方の山間部に位置する集落で、十和田湖へ向かう国道102号線を右折し、大鰐方面へと続く道の途中にあります。
明治時代、八甲田雪中行軍を行った弘前31連隊が、弘前を出発し、この村に一泊し、十和田湖へと向かったという記録も残っています。
舗装された道路を進んで行くと、道路沿いに八幡宮が見えます。この辺りが集落の中心でしょうか。

境内には社殿の前に、狛犬と神馬、石灯篭がそれぞれ一対ずつ置かれています。
神馬のとなりに「小国温泉誕生記念」と書かれた大きな記念碑が立っていました。
温泉地というわけではありませんが、この神社のすぐそばには温泉の入浴施設があります。「小国町会保養所」という名前がつけられていて、その名の通り、もともと地元民専用の浴場だったのですが、現在は一般の人々も入浴できるようです。


この神社の詳しい由緒などについては分かりませんが、縁起では「正長七年四月小国丹波勧請」となっているようです。
小国丹波は、鎌倉時代末期・南朝方の小国弥三郎泰経という武将を指すとされていますが、この地に逃れ、城を築いていたようです。因みに、「正長」の時代は、2年間だけだったので、縁起の「正長七年」は15世紀の始め頃と考えた方がよさそうです。
小国丹波が築いた小国城は、いくつかの郭と堀を有する城でしたが、小国氏の没落後は城主がかわり、戦国時代まで続いたとされています。


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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☆つがるみち☆
明治時代、八甲田雪中行軍を行った弘前31連隊が、弘前を出発し、この村に一泊し、十和田湖へと向かったという記録も残っています。
舗装された道路を進んで行くと、道路沿いに八幡宮が見えます。この辺りが集落の中心でしょうか。

境内には社殿の前に、狛犬と神馬、石灯篭がそれぞれ一対ずつ置かれています。
神馬のとなりに「小国温泉誕生記念」と書かれた大きな記念碑が立っていました。
温泉地というわけではありませんが、この神社のすぐそばには温泉の入浴施設があります。「小国町会保養所」という名前がつけられていて、その名の通り、もともと地元民専用の浴場だったのですが、現在は一般の人々も入浴できるようです。


この神社の詳しい由緒などについては分かりませんが、縁起では「正長七年四月小国丹波勧請」となっているようです。
小国丹波は、鎌倉時代末期・南朝方の小国弥三郎泰経という武将を指すとされていますが、この地に逃れ、城を築いていたようです。因みに、「正長」の時代は、2年間だけだったので、縁起の「正長七年」は15世紀の始め頃と考えた方がよさそうです。
小国丹波が築いた小国城は、いくつかの郭と堀を有する城でしたが、小国氏の没落後は城主がかわり、戦国時代まで続いたとされています。




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☆つがるみち☆



平川市の猿賀公園では、今、蓮の花祭りが行われています。
北限の蓮の花ということで、今年も多くの人々が訪れ、歓声を上げたり、可憐な花の姿を写真におさめたりしています。
私も行ってみました。相変わらず、みごとな蓮の花です。ただ、時間帯によっては、花が少しくったりしているときもあるので、朝早く出かけるのがいいのではないでしょうか。







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☆つがるみち☆


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こいこい神社ができた - つがるみち484
平川市の猿賀公園も、すっかり夏の佇まいとなり、園内の緑も濃くなってきました。時々訪れてみますが、園内を散策する人々や、ジョギング、神社にお参りする方々で賑わっています。



猿賀公園には「見晴ケ池」と「鏡ヶ池」という2つの池がありますが、見晴ケ池の方に赤い鳥居がひとつ立ちました。とはいっても、できたのは春先のことで、私が知らなかっただけなのですが。。。
新聞の記事などによると、
【平川市の猿賀公園にある見晴ケ池のほとりに「こいこい神社」と書かれた鳥居がお目見えした。・・・市観光協会が、100匹ほど生息しているとされる池のコイをPRしようと企画し、高さと横幅ともに約2.6mの朱色の鳥居を設け、さい銭の代わりとなるコイのエサの自動販売機も近くに設置…。】とあり、設置の理由については、
【池のコイは協会が管理しているが、観光客がスナック菓子を与えたり、コイを放したりして困っていたという。そこで、願いや悩みをエサに込めて投げ、コイが食いつけば解決するという「こいこい神社」を企画し、鳥居とエサの自動販売機を設置した。】とのことです。因みに「こい」は「恋」にひっかけているようです。いずれにしても、公園の新しい名物になったようです。


一方、鏡ヶ池には、例年7月中旬頃から淡いピンク色の蓮の花が咲き誇り、花祭りも開催されます。池は一面鮮やかな黄緑色になっていて、開花が待たれます。

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☆つがるみち☆



猿賀公園には「見晴ケ池」と「鏡ヶ池」という2つの池がありますが、見晴ケ池の方に赤い鳥居がひとつ立ちました。とはいっても、できたのは春先のことで、私が知らなかっただけなのですが。。。
新聞の記事などによると、
【平川市の猿賀公園にある見晴ケ池のほとりに「こいこい神社」と書かれた鳥居がお目見えした。・・・市観光協会が、100匹ほど生息しているとされる池のコイをPRしようと企画し、高さと横幅ともに約2.6mの朱色の鳥居を設け、さい銭の代わりとなるコイのエサの自動販売機も近くに設置…。】とあり、設置の理由については、
【池のコイは協会が管理しているが、観光客がスナック菓子を与えたり、コイを放したりして困っていたという。そこで、願いや悩みをエサに込めて投げ、コイが食いつけば解決するという「こいこい神社」を企画し、鳥居とエサの自動販売機を設置した。】とのことです。因みに「こい」は「恋」にひっかけているようです。いずれにしても、公園の新しい名物になったようです。


一方、鏡ヶ池には、例年7月中旬頃から淡いピンク色の蓮の花が咲き誇り、花祭りも開催されます。池は一面鮮やかな黄緑色になっていて、開花が待たれます。

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園内に道端に


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遅咲きの八重桜



前回取り上げた平川市平六の近くに「井戸沢」という集落があり、ここに稲荷神社が鎮座しています。
平六同様、ここにもまた次のような坂上田村麻呂に関する伝承が残っています。
【延暦年中、田村麻呂将軍東夷征伐の時、八甲田嶽の方へ進軍したが、道に迷い、沢を出ようとすればますます奥に入り、進退窮まった。そこで、山の神に道開きを祈願したところ、数時間で山を出ることができた。すなわち、一社を建立し、それに報い礼拝して、櫛ケ峰の方へ進撃す。沢深く井戸の如し、もって「井戸沢」と称す。いつの間にか村落ができて現在に至る。 -『竹館村史』より】
「井戸沢」という集落名の由来や、神社の縁起が簡潔に述べられていますが、それ以上のことは分かりません。

集落の入口付近に消防の屯所があり、その裏手に稲荷神社の鳥居が立っています。上の方は小高い丘になっていて、そこに境内があります。私が訪ねたときには、まだ雪が残っていました。

拝殿の前に、りっぱなイチョウの大木がそびえていて、根元には黄色い葉っぱやイチョウの実がたくさん落ちていました。冬の間、雪に埋もれていたのでしょう。

由緒などは詳しく分かりませんが、御祭神は一般的な倉稲魂命ではなく豊受姫神となっています。
倉稲魂命も豊受姫神もともに食物・穀物を司る神ということで同一視されることも多いとされていますが、市内の稲荷神社で豊受姫神を祭っているのは、ここ井戸沢の社だけのようです。

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☆つがるみち☆



南八甲田山麓に位置する平川市の東部地域は、高原野菜の一大生産地になっています。
標高500m~700mの高原にいくつかの集落があり、その冷涼な気候、豊かな水と土壌から育まれる大根、人参、小カブなどは「南八甲田高原野菜」として知られています。
主な生産地である大木平や善光寺平などの集落は、冬季は豪雪地帯であるため、農繁期を集落ですごし、冬場は麓の村に降りてくるといった農家の方も多いようです。
国道102号線を十和田湖方面に向かう途中に、平六(へいろく)という集落がありますが、ここにJAの野菜出荷センターがあって、そのすぐそばに大山祇神社が鎮座しています。
道路沿いに、白い鳥居が立っており、そこから奥へ参道が延びています。私が訪ねたときには、まだ鳥居の脇に雪が残っていました。

参道を歩いて行くと、まもなく川(用水路)に突き当たりますが、雪解け水がゴーゴーと音を立てて流れていました。
赤い橋の先には、大きな杉の木が何本も生えていて、その奥にぽつんと社殿が立っています。狛犬などはなく、建物がひとつだけという境内です。


この神社の由緒などについては、よく分かりませんが、この辺りの集落や神社には坂上田村麻呂に関する伝承が残されています。
平川市の『竹館村誌』にはこの神社や「平六」という集落名の由来について、
【・・往古、田村麻呂将軍夷狄を追撃の時、山根通りを越えんとせし一本の標石あり。右へ進めば陸中の方、左へ行く時は太平洋に出づべし。将軍暫し考え左折す。是に由りて平地を降らんとして、携えたる鉾石を境目に一神社を建立大山祇神社と称して進軍せりと。右故実により「平陸」と名づけしをいつの間にか「平六」になれりといふ。】と書かれています。

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猿賀公園の春



気がつけば、前回の記事更新から早2ヵ月あまり。季節は真冬になっていました。
昨年の11月、紅葉の頃、黒石市の中野神社と浄仙寺を最後にして、寺社巡りを休んでいましたが、先日、久しぶりに浄仙寺を訪ねてみました。雪にすっぽりとおおわれた境内はとても静かで、鐘楼がとても寒そうにしていました。
寒さと雪のため、なかなか遠出できない昨今ですので、季節はずれですが、今回は昨年訪れた神社を紹介します。
平川市小和森は周りを水田に囲まれた集落ですが、最近ではバイパス沿いに大型スーパーなども進出し、様子が様変わりしている所です。
集落の中に集会所がありますが、その隣には稲荷神社が鎮座しています。

立派な一の鳥居のそばには、郷土力士の顕彰碑や庚申塔、青面金剛の碑などが立っており、二の鳥居、三の鳥居と参道が続いています。
境内には稲荷神社らしく、神使のきつね像が一対。拝殿の手前には、みごとな老松が一本あり、拝殿の屋根に被さっていました。本殿の横には、けっこうな大きさの杉の木や松の木が生えています。




御祭神は倉稲魂命ですが、その由緒については詳しくは分かりません。
伝によると、もともとここの稲荷様は隣の集落の豪農の内神様であったといい、代々崇敬してきたものを小和森の集落で譲りうけたとされています。その後、明治から大正を経て、村社に昇格したといわれています。



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荒田八幡宮 - つがるみち473

平川市の荒田は、農業高校の近くにある小さな集落ですが、かつてはこの地に「荒田館」という城が築かれていたといいます。
この館の築城年代などについては、詳しくは分からないのですが、現在の荒田八幡宮付近にあったとされています。今は、その周囲は宅地や畑になっていますが、わずかに当時の堀跡が残っているようです。
また、ここには、藩政時代に代官所が置かれ、支配者の下、治安・民政・徴税などを行っていましたが、水堀に囲まれた大きな構えの館が立っていたようです。今は、りんご畑になっており、当時の面影はありません。私は見つけられませんでしたが、りんご園の中に、「大光寺組代官所跡」という木柱が立っているようです。

荒田八幡宮は、誉田別命を御祭神とする小さな神社ですが、棟札には、
【天文二年(1533)八月、小野井讃岐守祐政勧請。嘉永二年(1849)閏四月と、明治十一年七月改修。」と、その由緒が記されています。
小野井讃岐守祐政は、この地の武将であったと思われ、荒田館の城主であったとされています。



住宅にはさまれた所に金属製の注連縄が架かった一の鳥居があり、そこから参道が続いています。
境内は、右に曲がった所にあり、拝殿と本殿、狛犬、神馬、末社などが並んで立っていました。
拝殿の屋根を覆うように、大きなイチョウの木が立っています。直径6m、高さ20m、樹齢は300年ともいわれている見事な巨木です。
社殿の後ろはりんご畑になっており、真っ赤なりんごが実っていました。



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明治の初めに青森県が編纂した『新撰国誌』には平川市切明について、
【切明は地味薄く、山気強く、蔬菜すら実らず。薪炭以て米穀に代えて糊口す。】と書かれていますが、山中のやせた土地であったため、村人の生活は貧しかったようです。
切明の集落は、天和年間(1681-1683)に本格的に開拓されたと言われていますが、それ以前に、津軽為信が津軽統一の後、南部方の反撃を知るために、ここに番所を置いたのが始まりと伝えられています。因みに、最初の番所頭は東海吉兵衛とされていますが、この人物は、弘前城築城の際、その縄張りをしたことでも知られています。
切明神社は、そんな切明集落に鎮座している社です。
集落の消防屯所の裏側を小さな川が流れていますが、橋を渡った所に一の鳥居が立っています。
扁額は「大山祇神社」となっていますが、別に「切明神明宮」と刻まれた石柱もあり、いろいろな名で呼ばれた村の産土社であったのでしょう。
鳥居をくぐると、背の高い杉木立に囲まれた参道が続いていますが、間もなく分かれ道になり、左手には鬼子母神堂と、神馬が祀られた末社が立っていました。鬼子母神堂は、地元の日蓮宗の信者の方たちが建立したもののようです。


右側の方に、さらに細道が続いていて、その先に境内がありました。狛犬が一対と、拝殿と本殿・・・いたって簡素な小さな社です。


御祭神は大山祇神ですが、その由緒については詳しくは分かりません。
しかしながら、この地にも坂上田村麻呂に関する伝説が残っており、それによると、
【坂上田村麻呂が巡回の折、疲労し、足を痛めたため、ここに滞在したところ、温泉を発見した。これは「山の神からの授かりもの」と喜んだ田村麻呂は、ここに大山祇神社を勧請。入浴の結果、疲労も癒えたので、この地を「切明」と名づけた。】と伝えられています。 - この温泉は、400年以上も前から「村の湯」として、人々に親しまれていたようです・



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☆つがるみち☆



平川市石郷(旧平賀町)は、縄文遺跡のある地区として知られていますが、集落内には「縄文の故郷石郷」と書かれた木柱も立っています。
また、村内の闇おかみ神社には、遺跡について記した説明板があります。
【平賀町は県内有数の遺跡の多い町で、現在180余の遺跡が確認されています。平賀町の平野部に遺跡が多くなる時期は、縄文時代後期(約4000-3000年前)です。この時期には、石郷地区の両側を平川の一大支流が北流していたと想定され、その氾濫と堆積による自然堤防状の微高地一帯に集落が形成され発達したものと考えられ、昭和49年に実施された発掘調査により、石郷遺跡が最も栄えた時期は、縄文時代後期末から晩期前半(約3000-2500年前)である事が判明し、夥しい土器や石器などが出土し大集落が営まれていたことが判明しました。遺跡の大半はいまだ地中に埋もれており、今後の調査研究が待たれます。 ※説明板より】
闇おかみ神社は、民家にはさまれた道路沿いに鎮座していますが、酒樽をのっけた一の鳥居のそばには、遺跡の説明板。そのとなりに大きな社号標があります。
「おかみ」という漢字は、水神ですので「雨+龍」のものが多いのですが、この神社の「おかみ」は、「龍」の左半分がが「帝」になっている珍しい字形でした。

境内の敷地は、あまり広くなく、庚申塔や狛犬、末社などが並んで立っています。
拝殿の中には、大きな絵馬や神馬などが置かれていました。



その由緒については詳しくは分かりませんが、江戸中期頃に勧請されたと伝えられており、拝殿に次のような説明がありました。
【今迄発掘された埋蔵文化遺跡に示されるように相当早くから開田耕作されて居たと思われるが水の不自由の上で困難を感じていた爲、雨を降らせる神として闇おかみ神を勧請して産土神と崇敬して来たという。但し、何時の頃からか不明である】



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☆つがるみち☆



道路を走っていると、『田舎館村たんぼアート』の道案内とともに、『北限にみる蓮の花まつり』という案内板も立っています。猿賀神社境内にある鏡ヶ池に咲く蓮の花を楽しむ祭りのことで、『和蓮』の群生地としては、ここが北限といわれています。
例年、家族連れや、花の様子を写真におさめようと、多くの人々が訪れますが、猿賀神社のHPによると、少しずつ花が咲き始めているとのことで、行ってみました。まだまだ「一面蓮の花」というわけではありませんが、池のあちこちにぽつぽつと可憐な花が咲いていました。




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☆つがるみち☆



平川市葛川(くずかわ)に「誉田屋敷(こんたやしき)」という高台がありますが、ここに次のような話が伝えられています。
【(その地名は)昔、河内国の誉田の城主がここに落ちてきたからだという。そのころ、切明川にサケの大群が上ってきた。誉田殿は、これを小国(おぐに)の殿様に献上せねばならず、藤のつるを切り取って荷縄にし、いくども坂を越えて小国の城まで運んだ。これが苦しかったので、誉田殿は坂の下で「こんなに上らず、また藤つるがなかったら、こんな苦しい目にあわずにすむものを・・・」といって泣いたという。それからこの坂を「誉田の泣き坂」といった。それから川にサケが上らず、藤も絶えてしまったという。 ※『青森の伝説』より】
葛川には、昔、「葛川館」という山城がありました。築城主や築城年代など、詳しくは分かっていませんが、かつての館跡は現在、神明宮になっています。
道路のそばに「葛川館跡」と書かれた木柱があり、その上に鳥居が立っています。そこから参道が続いていますが、境内は、標高300mほどの山の上にあります。
完全な山道で、うっそうとした森の小路を左右に三回、四回と曲がりながら登って、やっとたどり着きました。


境内には、「神明宮」と書かれた石柱が2基、拝殿の両横には,、末社の祠がそれぞれ立っています。拝殿の柱には、大きな奉納草鞋が掲げられていました。





この神社の御祭神は天照皇大神ですが、その由緒については分かりません。
葛川は江戸時代には「折戸村」と呼ばれていましたが、農作物が育たないやせた土地であったといわれています。時期は不明ですが、土地の開墾と豊作を願って、この神社は建立されたものと思われます。
参道入口の木柱 には、次のように記されています。
【葛川館跡 築城年代、城主は不明。郭の三方は断崖で、南側の台地続きを堀で切断した一郭の館跡である。神明宮境内になっている郭内に、関ヶ原合戦に西軍の武将であった大谷刑部吉継の子と、越後の武将上杉景勝の重臣直江山城守の弟が植えたという伝説をもつ樹齢三○○年を越す松と杉がある。】
その真偽はともかく、なかなかロマンを感じさせる伝説です。因みに、葛川には「直井」という名字の方がたくさんおられます。「直江兼続との関係は・・」と、空想がふくらみますが、兼続ゆかりの人物が、この地にやって来たのかも知れませんね。
なお、木柱に書かれている老杉の大木の一本は、とちゅうから折れて無くなっていました。朽ち果てたものか、自然の力によるものか。。
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緑 みどり



津軽の神社でよく見かける「鳥居の鬼っこ」。掲げられている場所は、一の鳥居、二、三の鳥居であったり、拝殿の屋根の下であったりとさまざまですが、色や形、表情などにそれぞれ特徴があり、見ていてあきません。
平川市にも、そんな「鬼っこ」のある神社が二つあります(もっとあるのかも知れませんが、私の知っている限りでは)。
ひとつは、日沼の三社神社で、ここの鬼っこはカラフルな青鬼でした。そして、もう一社は柏木町に鎮座する八幡宮です。
石で造られた地味な感じの鬼っこですが、ちょっと寄り目の愛嬌のある顔つきで、その両肩で、重そうな鳥居を、いっしょうけんめい支えています。

柏木町の中心部にあるこの神社は、道路沿いに鎮座していて、「八幡宮」と書かれた一の鳥居、「八幡大神」の額が架かる二の鳥居、そして鬼っこのある三の鳥居と参道が続いています。四の鳥居の後ろにもうひとつ馬蹄形の鳥居があって、奥に拝殿が立っています。
境内には、狛犬と御神馬がそれぞれ数対と、手水石や石灯籠、庚申塔や青面金剛などもあり、なかなかにぎやかです。
大きなイチョウの木が数本そびえていて、境内はこんもりとした森になっています。拝殿の横に、八坂神社があり、その門には龍が刻まれていました。また、社殿のわきには、忠魂碑や地元力士の顕彰碑なども立っています。



その由緒については詳しくは分かりませんが、
【御祭神:譽田別尊 創立由緒不詳なるも、社伝に依れば、慶長六年 (一六〇一)、津軽大守藤原朝臣為信公、故ありて神鏡一面寄付の上、三間四方の社殿を建立し勧請したと云う。しかし、元和初年、社殿焼失のため神鏡一面のみ残して、縁起書宝物等は全て灰塵に帰すと云う。後に元和八年 (一六二二)、修験者義法坊、柏木の境内に小社を建てて、八幡宮を勧請したと伝えられる。 ※青森県神社庁旧HPより】とあり、長い歴史をもつ地域の産土社です。



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ようやく桜



先日、猿賀神社付近をぶらぶらしていたら、近くに小さな赤い鳥居が立っていたので立ち寄ってみました。
辺りの住所は平川市猿賀石林になっているようですが、この鳥居は、盛美園の庭の裏側にあり、盛美園の塀が近くまで迫っています。
鳥居に掲げられている扁額には「猿田彦大神」とあります。背の高い杉が何本か立っており、その奥に猿田彦の碑や青面金剛、庚申塔が置かれています。大きな猿田彦碑には注連縄が張られ、地元の信仰の厚さがうかがえます。




この猿田彦大神の近くは墓地になっていますが、そこに道路によって遮断された形の土盛があり、「遺跡小田ノ森」という説明板が立っています。
【古図に大丹森(オオタンモリ)とあり夷賊酋長大丹丸(大丈丸とも)の首塚があったことから此の名が起ったと言伝えられ古墳塚が五基と七坊あった。昭和三十五年に古銭一万四百六十七枚、焼失屋敷、焼米、鉄製品が出土し、古銭の下限から鎌倉末期に埋れたものと推定されている。この地は縄文から歴史時代に至る遺跡包蔵地帯でもある。 ※説明板より】
縄文の昔から続いていた遺跡らしいのですが、発掘された古銭の中には、紀元前175年の中国の漢の半両銭や紀元前118年の五銖銭なども含まれていたとのことです。
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☆つがるみち☆



平川市本町は、付近に私鉄の平賀駅やJAの建物、学校などが立ち並ぶ、旧平賀町の中心地ですが、その住宅街の一角に八坂神社が鎮座しています。
御祭神は須佐之男尊(スサノオノミコト)。その由緒については詳しくは分かりませんが、
【享禄年間(1528-1531)に、大光寺城主・滝本播摩守が千手観音を勧請したのがはじまり】 と伝えられています。
住宅にはさまれた道を進んで行くと、川があり、そこに赤い神橋が架かっています。橋を渡った所が境内ですが、雪解けが進んだとはいえ、まだ少し雪が残っています。
境内には新旧の御神塔や狛犬、神馬、地元力士の顕彰碑などが置かれていました。神池を伴った末社が立っていましたが、弁天宮でしょうか。拝殿のとなりには、二十三夜塔と庚申塔、青面金剛像がまとめて置かれていました。






一帯は、鎌倉時代の初期に幕命を受けた曽我氏が大光寺城主となり治めていましたが、南北朝時代になると安東氏、さらに室町期には南部氏の所領となり、大光寺城には南部氏の城代として滝本氏が入りました。ここ八坂神社の前身である千手観音堂は、その滝本氏が建立したもののようです。
しかしながら、大浦為信による津軽統一が進み、天正三年(1575)、大光寺城は奇襲を受けて落城します。その後、大光寺城は、為信の娘婿である津軽左馬之助藤原建広(たけひろ)が城主となりましたが、建広は、消失した千手観音堂跡に大光寺城落城戦死者供養のために聖観音堂を建立しました。この観音堂が、明治になって八坂神社となる分けです。
因みに、津軽左馬之助建広は、後の二代藩主・信枚と津軽家の跡目相続をめぐって争い、津軽の地を追放されたといわれています。


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冬ごもり2


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冬ごもり


平川市猿賀公園の近くに盛美園があります。
◇盛美園 (せいびえん)
ー 津軽には大石武学流と呼ばれる独特の作庭様式が伝えられており、その典型とされるのが、国指定名勝の盛美園です。明治35年より9ヵ年を費やして作庭されたといわれており、面積3,600坪(約1.2ha)の池泉廻遊式の庭園です。大きく刈り込んだイチイの木は、天地を創造した神々をかたどり、津軽平野と遠山を借景として取り入れ、庭石をきめ細かく配置し、装飾的にもすばらしい名園として有名です。盛美園の一角にある盛美館は、一階が純和風、二階が洋風で建てられており、鹿鳴館時代の特徴を表した和洋折衷の珍しい建物で、庭園と融合した独特の美しさをもち、明治文化の面影を忍ばせています。※青森県観光情報サイトアプティネットより -
四季それぞれの美しさを見せる盛美園ですが、ちょうど今の時期は冬支度の最中で、あちこちで雪囲いが行われていました。
園内には樹齢400年を超えるケヤキの大木もあり、数多くの樹木や大石、池などが巧みに配置されています。
築山の一角に鳥居が立っていて、その上に盛美神社があります。
神社といっても、小さな祠がポツンとあるだけなのですが、その由緒については青森県神社庁HPにものっています。
【鎌倉時代、 津軽藤崎の郷鶉ケ池のほとりに祀っていた倉稲魂神を、 猿賀村の清藤家 (当主清藤盛治) の祖先が、 庭先の欅樹の傍に祀った。 のち、 猿賀神社の境内社であった一王子神社の祭神大山祇神を合祀し、 更に猿賀神社の祭神田道命も奉斎して神威彌々加わり霊験があらたかになった。 明治時代に至って、 清藤家二十四代祖盛美、 たまたま感じるところあり、 邸内庭園の一部を浄めて、 此の処に奉遷し、 更に又、 庭津日神、 庭高津日神をも配祀して小祠を建立した。 】
御祭神は、大山祇神・田道命・庭津日神・庭高津日神の四柱ですが、「竃や屋敷、庭、農地など、農業生活の神」である庭津日神(にわつひのかみ)と庭高津日神(にわたかつひのかみ)を祀っているあたりは、いかにも名園にふさわしい守り神である気がします。





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☆つがるみち☆
◇盛美園 (せいびえん)
ー 津軽には大石武学流と呼ばれる独特の作庭様式が伝えられており、その典型とされるのが、国指定名勝の盛美園です。明治35年より9ヵ年を費やして作庭されたといわれており、面積3,600坪(約1.2ha)の池泉廻遊式の庭園です。大きく刈り込んだイチイの木は、天地を創造した神々をかたどり、津軽平野と遠山を借景として取り入れ、庭石をきめ細かく配置し、装飾的にもすばらしい名園として有名です。盛美園の一角にある盛美館は、一階が純和風、二階が洋風で建てられており、鹿鳴館時代の特徴を表した和洋折衷の珍しい建物で、庭園と融合した独特の美しさをもち、明治文化の面影を忍ばせています。※青森県観光情報サイトアプティネットより -
四季それぞれの美しさを見せる盛美園ですが、ちょうど今の時期は冬支度の最中で、あちこちで雪囲いが行われていました。
園内には樹齢400年を超えるケヤキの大木もあり、数多くの樹木や大石、池などが巧みに配置されています。
築山の一角に鳥居が立っていて、その上に盛美神社があります。
神社といっても、小さな祠がポツンとあるだけなのですが、その由緒については青森県神社庁HPにものっています。
【鎌倉時代、 津軽藤崎の郷鶉ケ池のほとりに祀っていた倉稲魂神を、 猿賀村の清藤家 (当主清藤盛治) の祖先が、 庭先の欅樹の傍に祀った。 のち、 猿賀神社の境内社であった一王子神社の祭神大山祇神を合祀し、 更に猿賀神社の祭神田道命も奉斎して神威彌々加わり霊験があらたかになった。 明治時代に至って、 清藤家二十四代祖盛美、 たまたま感じるところあり、 邸内庭園の一部を浄めて、 此の処に奉遷し、 更に又、 庭津日神、 庭高津日神をも配祀して小祠を建立した。 】
御祭神は、大山祇神・田道命・庭津日神・庭高津日神の四柱ですが、「竃や屋敷、庭、農地など、農業生活の神」である庭津日神(にわつひのかみ)と庭高津日神(にわたかつひのかみ)を祀っているあたりは、いかにも名園にふさわしい守り神である気がします。





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☆つがるみち☆


凛とした姿形のケヤキの木は、晩秋から初冬の神社の境内でもひときわ目立つ存在です。平川市尾上(旧尾上町)には、そんな風格を持つケヤキの大木が生えている神社があります。
愛宕神社は、坂上田村麻呂の蝦夷征討の際、建立された社で、将軍地蔵と唱えられていました。境内には珍しい夫婦木や三頭木があります。
七柱神社は、かつて、獅子権現宮と呼ばれ、猿賀神社の摂社でしたが、ここにも田村麻呂の伝説が残っています。この神社の境内は、昔はケヤキの巨木が密集していて「けやきの森」と呼ばれていました。




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愛宕神社は、坂上田村麻呂の蝦夷征討の際、建立された社で、将軍地蔵と唱えられていました。境内には珍しい夫婦木や三頭木があります。
七柱神社は、かつて、獅子権現宮と呼ばれ、猿賀神社の摂社でしたが、ここにも田村麻呂の伝説が残っています。この神社の境内は、昔はケヤキの巨木が密集していて「けやきの森」と呼ばれていました。






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平川市日沼(旧尾上町)は、一帯を流れている平川沿いにある集落ですが、弘前市や田舎館村と境を接する所です。
平川を渡った所には富岳神社(弘前市)があり、その対岸には大袋稲荷神社(田舎館村)が鎮座しています。
この日沼の集落の道路沿いに三社神社があります。弘前へ行く途中によく見かける神社ですが、ゆっくり境内の中を見たことはありませんでした。
大きな社号標のとなりに一の鳥居があって金属製のしめ縄が架かっています。そこから民家に挟まれた参道が続いていますが、二の鳥居、三の鳥居、四の鳥居とくぐって行くと境内に出ます。境内には狛犬が二対、神馬、末社などが立てられていました。
この神社の名物は、四の鳥居に架かっている「鬼っこ」です。以前、鳥居の鬼っこを探して神社めぐりをしましたが、そのとき、ここにも立ち寄って、鬼の写真だけを撮って帰ったことがありました。
青い体の鮮やかな鬼っこです。赤く太いゲジゲジまゆげが特徴で、何となく「こち亀」の両津勘吉に似ています。

その由緒については、
【御祭神:天照皇大神 譽田別尊 天児屋根命 当社草創の年月日は不詳だが、 往古より中津軽郡和徳村和徳字俵元の高山治助氏邸内に祀られ、 明治十三年五月八日、 許可を得て無格社となる。 明治十八年九月十四日、 当村葛西利三郎邸内へ移転の許可を得、 同年十月十四日、 新たに社殿を造営して同邸内に奉遷する。 爾来、 当日沼村の産土神として村中一同厚く崇敬す。 大正三年七月十日、 当村の樋口甚左衛門氏は、 祖先が邸内に祀っていた少名彦神社を合祀して現地へ奉遷した。 大正十一年八月二十一日、 従来中津軽郡豊田村境関に鎮座する富岳神社の氏子であった当日沼を、 三社神社の氏子区域に変更することが承認され、 大正十三年五月十五日村社に列せられ、 同年六月二十四日、 神饌幣帛料供進神社に指定される。 ※青森県神社庁HPより 】とあります。
由緒に書かれているように、元来、個人の邸宅の守り神であったものが、村の産土社として崇敬されるに至ったもののようです。
また、村の者が合祀したとされる少彦名神は、大己貴神とともに相殿神として祀られているとのことです。
◇日沼三社神社






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☆つがるみち☆

