
師走に入ってから、それなりの冷え込みはあったものの、雪のないクリスマスでした。
このままの天気が続けばいいなと思っていましたが、やっぱり冬は冬。暮れも押し迫ったここにきて、ようやくまとまった雪が積もりました。
それぞれの町や村の神社やお寺も「お清め」が終わり、「新年を待つばかり」といった感じですが、津軽には「一代様」という風習があります。

◇津軽一代様
【一代様とは、藩政時代から続いている自分の生まれた年の干支を守り神とする信仰のことです。現在も津軽では、子供が生まれた時の初宮参り、受験、就職等の人生の節目、初詣や厄年の参拝など、それぞれの一代様へお参りしたり、干支の絵馬を奉納したりするという風習が定着しています。※弘前タクシーHP他より】
自分の生まれた年の干支にしたがって、例えば「午年生まれの守り本尊は勢至菩薩で、一代様は黒石の袋観音堂(白山姫神社)」という風に決まっているのも大きな特徴です。
今年の干支は「未」でしたが、来年は「申」です。「未・申」の守り本尊は大日如来で、一代様(参拝の寺社)は大鰐町の大円寺になります。


◇大円寺
【大円寺(大鰐町蔵館、高野山真言宗大圓寺)は、津軽では「大鰐の大日様」として篤い信仰を集める名所です。
大円寺の起源は、奈良時代、聖武天皇の国分寺建立に際し、本尊大日如来を阿闍羅山の大安国寺に安置したことに始まります。後に大安国寺は荒廃し、鎌倉時代建久2年(1191)、阿闍羅山千坊(せんぼう)と称された「高伯寺」(円智上人建立)に移奉されました。
慶安3年(1650)、津軽三代藩主・信義が鷹の病気平癒を祈願したところ、病は治り、これを喜んだ信義は、本尊を京都で補修させ、同年に御堂を現在の場所(大円寺のある場所)に建立、「神岡山(じんごうざん)高伯寺」と号し、高伯寺と本尊を移安。以来、津軽家代々の崇敬を受け、江戸時代末期まで「大日様」として信仰を集めてきました。
明治4年(1871)、神仏分離の際、弘前市から大円寺が移り、「高伯寺」から「大円寺」となりました。本尊の大日如来座像(本来は阿弥陀如来像ですが何故か古くから大日如来と呼ばれている)は国指定重要文化財となっています。※大鰐町HPより】
名刹だけに訪れる人も多く、特にお正月は初詣の人々で大変賑わいます。
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☆つがるみち☆
一年間、拙いブログを応援してくださった皆さまに感謝いたします。ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
皆さま、よいおとしをお迎えください。



大鰐町が現在の町名である「おおわに」と文書などに記されるようになったのは、大浦(津軽)為信による津軽統一以後のことだといわれています。
「鰐」は大きな山椒魚のことで、昔、「鰐」が棲んでいたという伝説がその由来とされていますが、町内には「鯖石(さばいし)」や「虹貝(にじかい)」という地名などもあります。鯖も貝も「海(水)」に関した名前で、とても面白いのですが、その虹貝地区に白山神社が鎮座しています。
この神社は、虹貝川が流れる「虹貝新田」という集落にありますが、現在はりっぱな道路が通っているものの、昔は谷川沿いの狭隘な土地だったと思われます。峡谷を「峡(かい)」と読む用法もあるようですが、虹貝の「貝」は「狭」から来ているのかも知れないと思ったりします。

「白山神社」という扁額が掲げられた鳥居の奥へ進むと、いったんそこで行き止まりになります。参道はそこから少し右側にあり、小高い山の上へと続いていますが、境内は見ることができません。
この「行き止まりの場所」に大きな木の切り株がありますが、根元には、ぽっかりと大きな穴が空いており、その前には祭壇がありました。
社殿の中には、この大木の前で行われた神事の写真が飾られていました。かつては何かしらいわれのある御神木だったのでしょうか。いったんここで立ち止まり、拝み、身を清めて参拝せよ・・ということなのだと思います。この神社の「聖なる場所」なのでしょう。
◇参道登り口




距離は短いものの、なかなか手ごわい曲がりくねった登りでした。しばらく歩いて行くと社殿が見えました。
中には参拝者の幟や奉納絵馬や額などが掲げられていますが、相当に古いものもあり、昔からの由緒ある神社だということが分かります。
壁に簡潔な由緒書きが掲げられていましたが、それには、
【御祭神:伊邪奈岐尊 伊邪奈美尊 由緒 虹貝村白山岩屋 同鳥居白木角柱 元和元年在建立】とありました。
「白山」という神社名からして御祭神は白山比咩神(菊理媛命)だと思いますが、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の名があるところをみると、合祀その他で、熊野宮とも関連しているのかも知れません。いずれにしても、修験の影響があるのだと思われます。
また、「白山岩屋」とあるように、古くから「白山岩屋堂」と呼ばれ、信仰されてきた社を、元和元年(1615)に村人が再建したもののようです。
◇拝殿、本殿など




「岩屋堂」という名にふさわしく、本殿の後ろには大きな岩が重なり合っていました。それは大きな洞窟のようにも見えます。そして、文字通り、大きな岩が屋根のようになっている穴の中には、小さな祠があり、稲荷様や大黒天、石仏などが納められていました。「岩屋(洞窟など)」は、それ自体、神秘的なのですが、やはりそこは「神仏が宿る場所」として崇められているのでしょう。
◇社殿後ろの岩屋




◇今までに訪れた岩屋




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☆つがるみち☆



大鰐町から碇ヶ関へと向かう途中の唐牛地区に熊野宮(熊野神社)が鎮座しています。
唐牛には、かつて「唐牛館」という城が築かれていたとのことですが、いつも勉強させてもらっているHP「陸奥の城」には、【築城時期・築城主体とも不明。館主は南北朝期、義良親王を供奉して陸奥に下向した摂津源氏多田貞綱を祖とし、津軽の北条残党を討伐後、この地に土着したと推測される。室町期、多田氏は三戸南部氏の支配下に入ったが、後に大浦為信の津軽統一に与力し、その後、唐牛氏に改称した。】とあります。
津軽地方には「唐牛」という名字が多くみられますが、この多田氏(唐牛氏)の子孫にあたる家柄と思われ、江戸時代は津軽藩士で藩医を務めた家もあったとのことです。

この「唐牛(かろうじ)」という少し珍しい地名は、かつてこの地にあった「伽藍寺」に由来するとされていて、「伽藍寺(がらんじ)」が転化して「唐牛(かろうじ)」となったされています。
大鰐町は津軽地方の中でも仏教の伝来は早かった所で、「大鰐」という町名も「はるか昔、大きな阿弥陀如来像があることから大阿弥陀と呼ばれていた」ことに由来するといわれています。
また、町のシンボルである阿闍羅山は、古代から山岳信仰の対象になっていた山です。中世には、山頂に大日堂、不動堂、観音堂が建てられ、これらを含め「阿闍羅千坊」と称される修験の聖地だったとされていますが、阿闍羅山の麓に位置するこの唐牛地区も、かつては、大きな伽藍が立ち並ぶ所だったのでしょうか。
熊野宮は、そんな唐牛の集落の産土社として信仰を集めてきた神社ですが、その由緒については、
【御祭神:伊弉諾命 伊弉册命 由緒不詳ではあるが、 天正年間 (一五七三~一五九二)、 当社は阿闍羅山に建立されており、 その後当地に奉移された。 寛永十年 (一六三三) 村中にて再建される。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
国道7号線沿いに立ち並んでいる集落から細い坂道を上ると、やがて小高い丘の上に神社があるのが見えます。
一の鳥居をくぐって、石段を上るとその奥に拝殿が見えました。津軽特有のジャンバラ型の注連縄が張られています。拝殿の中には、多くの方々が奉納した供物や絵馬などがありました。地域の崇敬の厚さが分かります。
◇唐牛熊野宮




拝殿の後ろへと回ってみるとそこに本殿がありますが、ここにも狛犬がいました。なかなか広い境内で、社殿の回りには、庚申塔や薬師如来の祠などが立っています。
一の鳥居をくぐらず、右側へ進んだ所にも末社がありましたが、そこには馬頭観音が祀られていました。
◇庚申塔、末社など





境内の下に、廃校になった小学校の校舎が見えます。唐牛小学校の跡です。
この小学校は平成9年(1997)に、近くの長峰小学校へ統合されたため閉校となりました(少子化が進み、現在は、その長峰小学校他の小学校も統合されています)。
この熊野宮への参道は、かつて、子どもたちの通学路でもあった分けです。
古びた校舎の建物や草の生えた校庭などの跡地を見ていると、何となく感傷的になります。少し前までは、この校庭で運動会が行われ、子どもたちや地域の人々の歓声が響いていたのでしょう。現在の活用については分かりませんが、かつては夏祭りや秋祭りなども行われたのでしょうか。学校の上に鎮座している熊野宮は、そんな地域の営みを見守り続けてきた社です。
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☆つがるみち☆



大鰐町の十和田山(664.1m)の山中に、津軽地方一帯の人々に「水の神・トワダ様」として信仰されてきた戸和田貴船神社の奥宮があります。
三ツ目内川上流をさかのぼった所に社号標と登り口に鳥居が立っていますが、大鰐町のHPやこの神社を紹介している方々のブログなどを見て、昨年の秋、私もそこまでは行ってみました。ですが、天気が悪かったことと、説明板(案内板)に「徒歩45分。熊に注意」とあったので引き返したのでした。
あらためて、この戸和田貴船神社の由緒を見ると、
【御祭神 (主神):高おかみ神、闇おかみ (相殿神):倉稲魂神、宇気保神、素盞鳴尊、久須志神 当神社は文明二年 (一四七〇) 四月十九日三ツ目内山国有林古戸和田山に祀られていたが、 その昔大旱魃が続き、 全農民協議の結果貯水池を急造する必要を認め、 大挙して水源地三ツ目内山奥に来て、 今の古戸和田の大沼を発見、 水量豊かであるのでこれを破りて、 放水の準備に取りかかったところ、 一天にわかにかき曇り大雷雨が起き狂喜して下山せり。これ水神の御加護とこの地水神の鎮座まします処と元和二年(一六一六)六月現在の境内地に社殿造営奉遷せり。
明治六年五月十五日村社に列られ、 明治四十四年四月一日神饌幣帛料供進神社に指定され、 昭和二十一年六月十九日宗教法人令により貴船神社となり、 昭和二十五年十二月二十二日前記境内地参八弐七坪六四譲与認可せられ今日に至る。又、 三ツ目内地区西の山手に、 元和六年 (一六二〇) 戸和田貴船宮の遙拝所とし貴船神社を居土三ツ目内両村で建立したといわれる。※青森県神社庁HP】とあります。
説明板 には、【藩政時代には、干ばつ続きで領民が困ったとき、藩命で幾度か神社奉公が雨乞いをした史実もあるといわれている。神社の由緒書には、草創は室町時代の文明二年(一四七〇年)四月十九日となっている。当時は室町時代の戦乱に明け暮れている世の中であったといわれている。こんな世の中に三ツ目内の山深い地に、どんな人物がわざわざ京都から水の神様を奉還したのかは分かっていないが、なんともいえぬロマンを感じさせる神秘さがある。】と書かれていました。

由緒にもあるように、この戸和田貴船神社の遙拝所として江戸時代に建立された社が三ツ目内集落に鎮座する貴船神社です。
かつては、この貴船神社や戸和田の奥宮への参詣者で一帯は大変なにぎわいだったといわれています。
○「そば屋の出店が立ち、立ったままそばを食べなければならないほど込み合った。三ツ目内地区にはサーカス小屋も立ったものだ」
○「三ツ目内や高野新田(※戸和田貴船神社の入口にあたる集落)の各戸は、見ず知らずの参詣客も家に招き入れて食事などを振る舞った」
○「高野新田から登山口まで森林軌道を利用して、高齢の参詣客をトロッコに乗せて運んだものだ。登りは手で押し、下りは手動ブレーキ。料金は登りが1人50-60円、下りが30円だった。けっこうなお金になったものだ」 ※○「」は、HP「あおもり110山」より

往時の賑わいが目に浮かぶようですが、三ツ目内の貴船神社は集落を見下ろす山の上にひっそりと建っています。
りんご畑の中に立っている一の鳥居を過ぎると、細い参道が境内まで続いていて、やがて二の鳥居が見えてきます。
鳥居の両脇には石灯籠が一対ありますが、いずれにも龍が巻きついています。いかにも「水の神様を祀っている神社」という感じがします。
戸和田の奥宮には、「クロサンショウウオが産卵し、その卵の多少と卵塊の位置で稲作の豊凶を占った」とされる伝説の池(沼) があり、例大祭の旧4月19日は、卵塊の位置を確かめようという農家でごった返したといわれていますが、ここ貴船神社の境内にも小さな神池が築かれていました。
戸和田貴船神社からは神代文字である「ホツマ文字」の神印が発見されていますが、このことは、この神社が相当古い歴史を持つ社であることを示しています。
神代文字とは【漢字伝来以前に古代日本で使用されたとされる日本固有の文字の総称であり、神代(初代神武天皇が即位した紀元前660年より前)に使用されたとされる文字である。※Wikipediaより】ですが、説明板には、
【 一、 ホツマモジは「土牘秀眞文(ハニフダホツマブミ)」と題し、愛媛県松山市八幡地主の授くる神代之文字とありイヨモジともいう。
一、 このホツマモジも、景行天皇朝(皇紀七三一~七九〇)前期には、なお使用され、いきていたことを推察しうるのである。】と書かれていました。
⇒ 戸和田貴船神社のホツマ文字
「ホツマ文字」などの神代文字は、よく伝奇小説などで取り上げられますが、往古から実在したものではなく、後世の捏造であるという見方が定説となっているようです。しかしながら、やはり相当古い時代に作られたものと思われ、それが津軽の地まで、どのように伝わってきたのか。。。
なお、ここ貴船神社と同様に、青森県において神代文字を御神符に使用しているのは、熊野奥照神社(弘前)と唐笠柳八幡宮(五所川原市)だけなのだそうです。
◇三ツ目内貴船神社





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☆つがるみち☆



大鰐町の森山という集落に町指定文化財である板碑が一基残されています。「森山の板碑」と呼ばれるこの板碑は、鎌倉時代にこの地に住んでいた山城ノ国相良郡の正八幡宮の神主・山中伊豆守貞詮の二男・山中之太夫正義の屋敷跡から見つかったもので、延慶2年(1309)の年号を持つものです。
現在は森山の踏切近くの墓地の一角に保存されていますが、板碑の背後にきれいな三角錐の形をした山が見えます。標高200mあまりの低い山ですが、その姿はあたかも漁具の銛(もり)を思わせる形をしています。この「モリ山」は、古くから地域の聖なる場所として崇められてきたとされ、それが「森山」という地名の起源になったともいわれています。
東北では独立したコニーデ型の山を「モリ山」とか「モヤ山」と呼びますが、
【この「モリ」ということは、民俗学では「祖霊のこもる神聖な丘」という意味で、部落ごとに近くのきわだった丘に祖霊がおさまっていると信じてきた。※小館衷三『岩木山信仰史』】とされています。
津軽地方で最大の「モリ山」はもちろん岩木山ですが、平常禁足の山であった岩木山に代わるものとして、各地域のモリ山は、模擬岩木山として信仰を集めたようです。
特に弘前市百沢(旧岩木町)の守山(森山:403.4m)は、聖なる場所・岩木山に近いこともあり、岩木山に見立てて登られてきた山で、寛治5年(1091)には大山祇大神など三神を祀る守山神社が創建されましたが、現在は岩木山神社に合祀されています。岩木山神社の参道のわきには「守山三柱大神」の碑が建っています。
ここ大鰐町の森山もまた模擬岩木山としての役目を負っていたのかどうかは分かりません。あるいは、この地方の聖山・阿闍羅山や一大修験場があった堂ケ平山の遥拝所として信仰されてきたのかもしれません。
そんな森山の麓に鹿嶋神社が鎮座しています。
◇大鰐町森山、百沢守山、鹿嶋神社入口






りんご畑の中の農道を歩いて行くと、大きな社号標と一の鳥居が見えます。りんご畑はその先にも続いていますが、二の鳥居の登り口に広場があり、石碑がポツンと立っていました。
【正傳寺跡 現在地(旧地森山村)に薬王院松傳寺を開山されたのは、文禄4年(1595)本寺である耕春院(現在の耕春山・宗徳寺)8代中巌撮堂和尚である。松傳寺が後に薬王山・正傳寺に改称しているが年代は詳らかでない。
二代藩主津軽信枚は、高岡城(弘前城)防衛の「長勝寺構え」築造のため、各寺に移転を命じたのは慶長十五年といわれているが、移転したのは延宝八年(一六八〇)で、八十六年間この地にあった。※説明板より】
正伝寺は曹洞宗33寺が集まる弘前市・禅林街の一角にある寺院ですが、「幽霊画の掛け軸が動く」という心霊スポットとしても知られています。
二の鳥居からは登り坂になっていますが、鳥居のそばには馬頭観音が祀られていました。参道というよりも農道といった感じで、上の方にもりんご畑がありました。
少し登って行くと、やがて社殿が見えてきますが、どちらかというと普通の民家を思わせるような建物でした。
しかしながらやはりここは境内。草木に隠れた石灯籠や狛犬、末社などが顔を覗かせています。
◇馬頭観音、狛犬など




この神社の由緒については詳しくは分かりませんが、多くの鹿島(鹿嶋)神社と同様に武甕槌神(タケミカヅチ)を祭神とする社だと思われます。
前述したように、鎌倉時代にここ森山の麓に居住していた山中之太夫 正義は、津軽地方の神主を育成する務めを負っていたとされ、山中家は毘沙門天を信仰し、その毘沙門堂の跡が現在の鹿嶋神社だといわれているようです。
毘沙門天は、古くから多くの武士や修験者たちから崇められ、祀られてきた分けですが、堂ケ平、阿闍羅山、そして乳井神社へと続く一帯は、広大な修験場跡として知られており、ここ大鰐の森山鹿嶋神社もまた、その一翼を担っていたのかも知れません。
◇鹿嶋神社境内





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大鰐町居土地区は戦国時代に津軽為信の家臣であった多田玄蕃(三ツ目内玄藩)が領していた所です。
多田玄蕃は、この地に城を構え、現在の三ツ目内・居土一帯を治めていましたが、関ケ原の戦いの際に為信に叛旗を翻し、抗戦の末、城もろとも爆死したと伝えられる武将です。
そんな歴史をもつ居土地区に熊野宮が鎮座しています。

住所(居土観音堂)が示すように、この神社は、津軽三十三霊場の31番札所・居土普門堂として知られている社で、私も以前に訪れたことがあります。
そういうわけで、ここを訪れたのは2回目なのですが、以前はとにかく三十三霊場めぐりが中心だったので、「観音堂」ばかりが頭の中にあり、「熊野宮という神社」については、あまり注意して見ませんでした。
あらためて訪ねてみると、以前には気づかなかった点が多々あります。
一の鳥居の扁額には「熊野宮」とありますが、そばに立っている社号標には「居土神社」とあります。「熊野宮」「熊野神社」「普門堂」など、様々な名前で呼ばれている社ですが、やはり集落名が一番ふさわしいということなのでしょうか。
鳥居の手前に建つ地蔵堂。かわいい姿形のお地蔵さまが祀られています。その中をよく見ると、むき出しの大岩も。ここから急な参道の登り道が続いています。
大杉が左右に並び立つ参道は木の根っこが階段がわり。登り切ると視界が開け、畑の奥に赤い二の鳥居が見えました。
特徴のある二本の大銀杏の間から社殿が見えます。右側には観音堂と神明社が並んで建っています、以前に来たときは、観音堂ばかりが気になっていたのですが、今回は境内の様子や拝殿など、ゆっくりと見てきました。
観音堂として、古くから村人の崇敬を集めていたこと、神仏分離の際には、村人が本尊の千手観音を隠し持っていたことなどについては以前の記事でも紹介しましたが、神社としての由緒については、
【御祭神 (主神): 伊弉諾尊、伊弉册尊 (相殿神) 倉稲魂神 当神社は天正年間 (一五七三~一五九二) に創建、 当居土村民は勿論三ツ目内沢目中の農民の信仰厚く、 当城主三ツ目内玄藩は殊に崇敬し、 当沢目中の安泰の祈願所として年々金品の奉納あり。 其の後津軽藩公時代に観世音を祀り、 津軽三十一番の札所として善男善女挙げて信仰するに至る。 元和六年 (一六二〇) 再建と誌される。
明治初めの神仏分離によって、 観音堂跡に熊野宮が建てられ、 明治六年五月十五日村社に列せられ、 昭和二十一年二月二日勅令七〇号神社制度改革により同年六月二十日宗教法人令による熊野宮となり、 昭和二十五年二月二十八日前記境内地譲与認可せられ今日に至る。 その後観音堂をも境内に祀る変転はあった。※青森県神社庁HP 】と記されています。
◇居土熊野宮





居土の集落からさらに山間部の方には高野新田という村があり、その先には神域である戸和田貴船神社がありますが、この辺り一帯には大きな杉の木をはじめ、大木が密集しています。
この熊野宮の参道及び境内にも巨木が並んでいる分けですが、境内には樹齢600年以上ともいわれる大銀杏や形のよい夫婦杉などがあり、それぞれ注連縄が張られた御神木となっています。
とりわけ、観音堂の後ろにあるかつらは、とても味わいのある古木です。
◇熊野宮の巨木




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神社の中には、「○○○○年建立。○○年、○○により、○○神社へ合祀されるが、○○年復社す。」といった由緒を持つ社が数多くあります。
大鰐町虹貝に鎮座する熊野宮もそんな由緒を持つ神社のひとつです。

その縁起については、
【御祭神:伊邪那岐命 伊邪那美命 長利家文書に依れば、 慶安五年 (一六五二)、 虹貝村では熊野新山宮と熊野宝量宮の二社を再建していたが、 両社とも創建年月日は明らかでない。 又、 明治六年、 神仏仕分けで一社にまとめ、 大鰐羽黒神社に合祀れるとある。
明治八年、 羽黒神社より元熊野宝量宮地へ移す。 明治三十三年、 参道狭く且つ浮浪者住み着き社殿を汚すため、 前所在地より現在地へ移す。 明治四十年九月、 神饌幣帛料供進の指定を受ける。 昭和二十一年四月九日、 法人令により宗教法人となる。※青森県神社庁HP 】とあります。
二社の統合→町内の神社へ合祀→元の地へ復社→移転と、幾たびかの変遷を経てきた社のようです。「浮浪者住み着き社殿を汚すため・・・」とありますが、かつては、そんなこともあったのでしょうか。名作映画『砂の器』の中で、放浪の旅をしてきた父と子が、島根県亀嵩へとたどり着き、村の神社の社殿の下に隠れているところを、善良な警察官に発見されるというシーンを思い出しました。
虹貝の道路沿いに大きな社号標 が立っていて、そこからは境内へと急な石段が続いています。小高い丘の上に開けた境内には、小さいながらも貫禄のある狛犬や、龍神様が置かれた手水舎などがありました。拝殿の奥は、さらに高くなっていて、そこに本殿がありました。
◇虹貝熊野宮






熊野宮を合祀した羽黒神社は、大鰐町の名所「茶臼山公園」の中腹に鎮座しています。
この神社は、大鰐温泉スキー場へと向かうトンネルの入口付近にあるわけですが、道路から上に向かって長い石段が続いているのが見えます。私は、石段を登らず、公園側から歩いたのですが、途中に「パワースポット羽黒神社へ」という道案内板が立っていました。この神社が町民の信仰を集めていることが分かります。
石造りの二の鳥居は見事なもので、両柱には「昇り龍、降り龍」が施され、真ん中の扁額を支えるように、二匹の子獅子?が刻まれています。そこから、さらに石段を登ったところに社殿がありました。社殿には、ジャンバラ型の注連縄が張られていましたが、ここもその中を拝むことができました。
由緒等、その詳細は分からないのですが、社殿の中に御祭神が書かれていました。「手力男命・大名持命・少彦名命・素戔嗚尊」など、七神を祭っているようです。
その中の一柱に「八種雷神(やくさのいかずちがみ)」がありますが、「伊弉命が亡くなったとき、その屍に化成した神(大雷、火雷、黒雷等の八神)」で、「死の穢の象徴」とされています。
ー 穢神を丁重に祀ることによって、穢や災いから逃れる・・・日本の祭祀のひとつの特徴でしょうか。
◇大鰐羽黒神社







さて、羽黒神社は前述のように茶臼山公園内にあるわけですが、この公園は山全体が県立自然公園となっています。眺望もすばらしく、また、園内には、約300種類を超える植物も育成している他、20数種類、総数約15,000本以上のツツジが花を咲かせるとあって、家族連れのハイキングなどで賑わう所です。
頂上までの登り道の傍らには、合わせて69の俳句を刻んだ句碑が立てられており、ちょっとした「文学散歩」を楽しむこともできます。この道は「俳句の小径」と名づけられています。
大鰐町は、俳人高浜虚子門下の四天王といわれ、俳壇で活躍した増田手古奈の故郷でもあり、その気風は現在にも受け継がれています。
この公園では、例年、15,000本ものツツジが咲きそろう5月下旬には「ツツジ祭」が開催され、多くの人々で賑わいますが、今年は例年になく雪解けが早かったために、開花が早まり、私が訪れたときは、ちょうど見頃でした。




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☆つがるみち☆



大鰐町に宿川原という集落がありますが、町のHPでは、次のように紹介しています。
【河原宿(かわらじゅく)あるいは宿川原(しゅくがわら)の地名は、全国に百以上あり、いずれも中世の大商業地で、大鰐の宿川原もそうでした。
その理由(一)として、年貢を中央へ送るには基地が必要で、津軽各地からの道路が一本化する宿川原は、集散どちらにも適している。理由(二)として、米は馬での大量輸送が困難なため、布・染料などに交換されたが、その際、倉庫・市・宿泊所などが必要だったためです。】
ー 今回は、そんな宿川原に鎮座している稲荷神社を訪ねました。

村落の中に社号標が立っているようですが、どうやら私はそこを通らず、別の道を来たらしく、直接、神社へと出てしまいました。
神社の回りは小高い山で、りんご園になっています。境内からは、すぐそばを走る東北自動車道や大鰐方面の山々が見えました。
坂道を上って行くと、途中に赤い一の鳥居が見えます。さらに進むと今度は白木の二の鳥居。ここから左に曲がったところが境内です。
この二の鳥居の隣には、二十三夜塔や庚申燈、猿田彦の石碑などがまとめて立てられています。特に猿田彦碑は、大小様々なものがありました。中には倒れているものも。
この石碑群の後方には馬頭観音碑が6基。その中には、三十三観音像の形式の碑もありました。参道の入口には、昇り龍と降り流が彫られた神門が立っていました。
◇鳥居、石碑、神門






稲荷神社といえば「おきつね様」ですが、この神社には狛犬はおらず、稲荷様の使いであるきつね像が拝殿に向かってズラーッと並んでいます。
その数は合わせて4対(8体)で、神門から小・中・大と、拝殿に近づくにつれて大きなきつね像になっていました。
子犬を思わせるものや、いかにもきつねを思わせる目がつり上がったものなど、表情も様々です。拝殿前の2体は、とりわけ大きな像で、一方は木の実(どんぐり?)を抱いたもの、片方は子ぎつねを抱えたものでした。
◇きつね像






境内には大きな「力試石」が2つ置かれています。説明が書かれた碑も立っていますが、それには、
『左一石石 この石は当時部落で持ち上げられた若者は2、3名でありました。』
『右九斗石 この石は部落で56名が担ぎ上げたと言われています。』
『二ツ共明治の頃より大正初期に部落に置き当時若者達がこの石を担ぎ上げ力を競い合った石であります。』と書かれていました。
ー 力比べで賑わった往時の様子が浮かんでくるようです。
この宿川原稲荷神社については、
【御祭神:猿田彦命、倉稲魂命、大宮比売命 創建年月不詳、 明暦元年 (一六五五) 村中で再建、 江戸時代前期、 神宮長利家が宿川原で生活していたこともあって、 宿川原正一位稲荷大明神として祀られていたが、 神仏分離令により、 明治六年稲荷神社として大鰐羽黒神社に合祀され、 一時産土神が村からなくなっている。 その二年後明治八年に、 元稲荷宮地に、 羽黒神社より遷座し現在に至る。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
猿田彦命と倉稲魂命はおなじみの神様ですが、大宮比売命(おおみやひめのみこと)についてはよく知りませんでした。いろいろ調べてみると、
○「古代の神祇・祭祀の官庁であった神祇官に奉斎した神々のうちの一柱。天照大神の
御前に近侍された神」
○「心が和楽していっさいの憂いや苦悩がなくなるよう、霊魂を平らかにする神。 宮
殿の守護をつとめ、君臣の和合をもたらす神」 とありました。
佐田彦大神(猿田彦命)と倉稲魂命とともに、「稲荷大神三座」として祀られることも多く、猿田彦命の妻で天の岩戸神話に登場する天宇受売命の別名ともされているようです。
拝殿の注連縄はジャンバラ型の豪華なものでした。本殿のわきに、末社が建っていました。ここにも小さなジャンバラ型の注連縄がありましたが、どうやらここは山ノ神のお堂のようです。中を覗いて見ると、中央に山神様が祀られていました。
◇拝殿、本殿、山神堂





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☆つがるみち☆



県道13号線(大鰐浪岡線)は、国道7号線から大鰐町鯖石(さばいし)で分岐し、東北自動車道とほぼ平行に走る道路ですが、大鰐町から平川市へと至る道は「乳井通り」とも呼ばれています。かつて「福王寺」という修験寺であった乳井神社をはじめ、多くの史跡がある所ですが、戦国時代には津軽統一をめぐって激しい戦いが繰り広げられた場所でした。
【天正6年(1578)、大浦(津軽)為信が浪岡城の北畠顕村を滅ぼすと、顕村の岳父であった安東愛季(ちかすえ)は津軽に攻め込み、乳井茶臼館に陣城を構え、為信軍を攻め立て、近隣の村々を襲った。それに対して、沖館村(平川市)の農民達は自らの村を守るため懸命に戦い、愛季軍の侵入を阻止した。一方、村を守るため、愛季軍に一味(いちみ:同盟する)し、為信軍と戦った村もあった。※青森県の歴史シリーズ『弘前・黒石・南津軽の歴史』より要約】というように、津軽氏と南部氏の抗争は南津軽の村々をも巻き込んで、熾烈さを極めたようです。
そんな乳井通りの入り口が大鰐町八幡館(はちまんだて)で、ここに八幡宮が鎮座しています。

この八幡宮の創建年代やその由緒などについては不明なのですが、「村社」とあるところをみると、古くから集落の産土社であったようです。
道路沿いに坂道が延びていて、上りきると、民家に挟まれたかたちで一の鳥居が立っていますが、鳥居をくぐって石段を進むと境内があります。
小高い丘の上にある境内からは、乳井通りの村々や大鰐の町、阿闍羅山(あじゃらやま)、そして茶臼館などを望むことができます。
拝殿の中には大きな奉納絵馬。玉垣に囲まれた本殿の中には、少し朽ちかけていますが、八幡様のお使いである鳩の石像も奉納されていました。
◇八幡宮






境内の端の方に、庚申塔や二十三夜塔など、いくつかの石碑が立っています。その中に「若木大神」という碑がありましたが、実は私は、これは「若」ではなくて「岩」で、「岩木大神」の碑だと思っていました。
ー 津軽の信仰の中心は何といっても岩木山であり、岩木山神社に祀られている5柱(顕國魂神・多都比姫神・宇賀能賣神・大山祇神・坂上刈田麿命)は総称して「岩木山大神」呼ばれ、崇められていて、津軽一円の神社にはこの岩木山大神を勧請した末社や祠、石碑などが存在します。私が訪ねた神社の中では、弘前市の熊澤神社やつがる市の津軽赤倉山神社がそうでした。
そんな多くの崇敬を集めている「岩木山大神」なので、もともと疫病退散の神様であった「若木大神」が誤読され(「若」が「岩」に)、「岩木大神」として伝えられた例もあったようです。
「若木(おさなぎ)大神(若木大明神・若木大権現)」は、山形県東根市神町にある若木山の麓の若木神社に祀られている疱瘡(天然痘)の神様です。種痘が行われる前は致死率の高い病気から逃れる為、人々は迷信にすがるしかなく、全国から多くの人々が若木神社に参拝したといわれています。東根市のHPには、
【昔、遣唐使の最澄が山近くに来たところ赤い雲が山にかかっているのを見つけ、山に登り赤く光る石を見つけました。この石を山に封じ、大日霊女尊(オオヒルメ)を祀ったと言います。この地一帯に、天然痘、疱瘡(ほうそう)の大流行があり、顔を隠してお参りした所、病気も治り顔もあとがなくなり全快したといいます。天然痘や疱瘡の皮膚病に霊験あらただった噂を聞きつけた、最上家親(義光の二男)はじめ諸国大名からも篤い信仰を集め大いに栄え、神社にあがるお賽銭はかます(米袋)に集めるほどだった、と言われています。若木神社には、現在も水疱瘡の時、症状が軽く済むように参拝する人が多いようです。】と紹介されていました。
現在は撲滅されたといわれる天然痘は、江戸時代には死因の一、二位を常に占めていたとされる恐ろしい病気だったわけですが、津軽にも弘前市三世寺・神明宮の「疱瘡宮」のように、病魔退散を願って立てられた祠も多くあるようです。
ここ八幡館の辺りでも、かつては疱瘡が猛威を振るっていたのでしょうか。
ー それにしても、「若」と「岩」の違いには気づきませんでした。
◇岩木山大神、疱瘡宮ほか





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☆つがるみち☆



大鰐町の町の中心部から、少し離れた居土地区は、津軽三十三霊場の31番札所である居土普門堂があるところとしても知られています。
その居土から、さらに山の奥の方へ数km進んだところに沢田という集落があります。
まさに「山間の里」といった感じの村ですが、私が訪ねたときは、稲の刈り取りもすっかり終わり、早、晩秋の気配が漂っていました。この集落の中に八幡宮が鎮座しています。

道路際に社号標と一の鳥居が立っていたので、さっそく鳥居をくぐって参道を進んだのですが、その先には朽ちかけた二の鳥居 があるだけで、道らしい道はありませんでした。山の上の赤い鳥居が少しだけ見えたのですが、どうやら今は道がふさがっているようです。
もう一度、入口まで引き返し、辺りを歩いてみると山の上に小さな本殿が見えました。城の天守閣のような感じです。そこまでは、神社への裏道が続いており、少し歩くと、境内へたどり着くことができました。
この村の中で一番高い場所に鎮座しているこの社からは、大鰐町のシンボル・阿闍羅山や、山間に開けた村落を見下ろすことができます。ほんとにのどかな風景です。
小さいながらも新しい社殿には、「ジャンバラ型」の注連縄が張られ、石灯籠、狛犬、神馬などが置かれていました。
由緒によると、この沢田の八幡宮は、
【御祭神:誉田別尊 当神社は、 天正二年 (一五七四)、 新田源氏の末裔新田顕義が当地に陰伏し、 秘かに一旗を挙げんと此の地に社殿を建立、 武神を祀り祈願所とし、 後に小笠原伊勢守信静が居住し崇敬してきたが、 天明の大飢饉により村民四散し、 本社は只名称あるのみにて廃社同様となる。 昭和二十一年一月、 下山藤太郎外四名の村民山林を境内地として無償にて借用することを願い出の上申請し、 昭和二十一年六月十八日、 正規の神社に認可される。 同六月十九日宗教法人令施行と共に八幡宮となる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
- 詳しくは分かりませんが、何やら戦国期の「落武者伝説」なども伝わっていそうな山里の社です。
◇沢田八幡宮






沢田の集落から居土へと引き返し、三ツ目内川の上流をさかのぼり、十和田山(664.1m)へと向かう道を進みました。
この十和田山は、地域の霊山として崇められてきた山で、ここに「戸和田(とわだ)貴船神社」の奥宮があります。
戸和田貴船神社は、「藩政時代三免内御山の本トワダ沢の峰にあって、水の神様として敬われ、津軽地方一帯の人々にトワダ様として信仰されてきた。藩政時代には、干ばつ続きで領民が困ったとき、藩命で幾度か神社奉公が雨乞いをした史実もあるといわれている。奥深い山中に神秘的な御神池があり、そこにはクロサンショウウオとモリアオガエルが産卵し、それらの産卵の多少とその位置で作付けの豊凶を決定するものとして、昔から津軽地方の農民に敬われていて、大勢の人々が参詣に集まったと伝えられている。※由緒書きなどより」神社ですが、社号標 が立つ場所から奥宮までは、案内板によると、曲がりくねった山道が4,50分続き、しかも「熊に注意」とあったので、あきらめました。

この戸和田貴船神社への入口にあたる集落が高野新田(こうやしんでん)という村で、ここに神明宮が鎮座しています。
神明宮については、
【御祭神:天照皇大神 当村は藩政時代、 津軽藩主信政公より宝永六年 (一七〇九) 三月大鰐組居土村領高野平の畑地へ漆を仕立てて新村をつくることを命ぜられてより高野新田が支村として成立した。 当神社は、 漆栽培への農民の信仰厚く、 祭神を天照皇大神として享保一八年 (一七三三) に建立、 明治六年に村社として祀られ、 昭和二十一年七月十日宗教法人令による届出により神明宮となり、 その後前記境内地譲与認可され今日に至る。 ※青森県神社庁HP 】とあるように、漆栽培と新田開発のために開かれた村の産土社であったようです。
この神社もまた、沢田の八幡宮と同様、小高い山の上にあり、境内からは周辺の山々の紅葉を見ることができました。
境内には、水の神「十和田様」も祀られており、いかにも十和田山の麓にある社にふさわしい感じがします。
神馬が一体ありましたが、この神馬、前足で鞠を抱えているような姿をしています。鞠を抱えている狛犬はよく見かけますが、鞠を抱えている神馬は初めて見ました。
◇高野新田神明宮





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大鰐町の山中、秋田県大館市との境は標高450mほどの峠になっていますが、ここに「石の塔(いしのとう)」と呼ばれている巨石があります。
この大石は、新第三紀中新世の凝灰岩が、浸食されずにそのまま残ったものですが、高さが約24m、周囲は約74mの巨石 であることから、昔から、「天から降ってきた神様だ」とか、「薬師如来が降臨したもの」とされ、多くの信仰を集めてきました。
その姿が、あまりにも巨大であることから、津軽地方では昔から「石の塔見ねうぢ でっけごと しゃべらいねぞ(石の塔を見ないうちは大きなことは言えないよ)」と語られてきました。
それならば、その巨石に負けないような大きな話をしよう(大ボラを吹こう)ということで、大鰐町では毎年、大ボラ大会が開かれています。名づけて万国ホラ吹き大会。 参加者は、午前中に石の塔へ参拝登山をし、その後、会場を移し、各自持ち時間5分以内で、いかに大ボラを吹くかを競います。会場を沸かせた人には「大法螺吹(おおぼらふき)免許」が認定されるのだとか。。いかにも津軽らしいイベントです。
前述のように、昔から多くの人々の崇敬を集めてきた石の塔ですが、かの菅江真澄も1796年(寛政8年)にここを訪れ、「石のすがたは手のひらをつと立てたようで、ふりあおぐと雲がわきおこるほど高くそびえている」と記しているとのことです。

さて、この石の塔は、巨石そのものが御神体な分けですが、その岩の下に久須志神社が鎮座しています。この神社については、【(石の塔は)江戸時代には、天から降ってきた神様として信仰された。地元ばかりではなく、全国から行者が参拝に来た記録が残されている。久須志神社は眼病に霊験あらたかであるとされ、4月8日の祭りに際しては参詣者を当て込んで煮付けなどが売られるほどの賑わいであった。※wikipediaより】と紹介されています。
しかしながら、石の塔への登山は険しく、麓の集落からもかなりの距離があり、それなりの体力と準備、覚悟も必要であることから、気軽に「ちょいとお参りしてくる」とはいきません。
そんなこともあってか、麓の村には「久須志」という名の社が建てられています。石の塔の久須志神社が「奥宮」だとすれば、村のそれは「里宮」にあたるのでしょうか。
石の塔への登山口にあたる早瀬野という集落に久須志神社があります。御祭神は、少彦名命・大己貴命・ 天照皇大神ですが、その由緒については、【元和九年 (一六二三) 創建。 陸奥羽後両国の境界、 海抜約六〇〇米の山頂に、 自然出現の巨岩あり (周囲約五〇m・高さ約二七m)。 霊像と仰ぐに相応しく高大荘厳、 一面に蘚苔生え、 頂上より点々と泉滴絶えず眼病の妙薬と言われ、 往古より石の塔薬師と崇敬される無双の霊石である。 明治四年久須志神社と改称され、 毎年旧暦四月八日を参拝の日と定め、 氏子崇敬者をはじめ秋田県からの参拝者も多い。 又噂の奇岩見物旁参詣する者も多い。 昭和五十九年旧暦四月八日には奥宮が改築竣工す。 因みに奥宮までは、 早瀬野里宮より約十二キロの距離があるも、 山麓下車より登坂時間は約二十分ほどである。※青森県神社庁HP 】とあるように、「里宮」としての役割を負った神社のようです。境内からは、遠く石の塔の山々を望むことができます。
◇早瀬野久須志神社






また、この早瀬野の隣の集落である島田にも、もうひとつの里宮である久須志神社があります。
この神社については、【御祭神:少彦名命・大山祇命・宇賀御魂命 宝永元年 (一七〇四) 創建。 由緒不詳なるも、 隣り部落早瀬野久須志神社の創建に遅れること約八十年、 石の塔薬師の霊験を信仰する者多くなり、 石の塔の奇岩の一部を奉戴し、 地中深く納め周囲にゾベコ石をめぐらし、 その上が本殿になるように社殿を建立したと伝えられ、 改築の現在も変らないという。 久須志神社の社名は明治になってからのことで、 大山祇命・宇賀御魂命の社殿は、 久須志神社の境内外にあって、 「山の神さま」 「稲荷さま」 として崇敬護持されている。 ※青森県神社庁HP】とあり、ここもまた、「里宮」として、石の塔との深いつながりを感じさせます。
「石の塔の奇岩の一部を奉戴し、 地中深く納め周囲にゾベコ石をめぐらし・・」とありますが、この「ゾベコ石」については、どういう意味なのか分かりませんでした。因みに、この辺りの住所は「大鰐町島田字ゾベコ沢」。この神社の由来に基づくものなのでしょうか。
拝殿の中には、巨大な石の塔を象徴しているかのように、大きな下駄 も奉納されていました。
◇島田久須志神社





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長らく阿闍羅山にあったお寺を現在の地に移したのは、あの「じょっぱり殿様」弘前藩3代藩主・津軽信義です。伝によれば、慶安3年(1650年)、信義の鷹が病気になり、平癒を祈願したところ、たちまち病は治ったそうです。たいそう喜んだ信義は本尊を京都で補修させ、御堂を現在の場所に建立し、阿闍羅山から本尊を遷して「神岡山(じんごうざん)高伯寺」と号したといわれています。
ー それにしてもこの信義公、「三十三霊場の創始者」とされたり、古懸山国上寺のお不動様を「ねまらせて」みたり、何かにと話題の多い殿様です。大鰐の「湯」が有名になったのも、信義が入浴してからのことだとか。。
この「高伯寺」が「大円寺」となったのは、明治4年(1871年)、神仏分離令により、弘前市の「大円寺」が移ってきたからです。そんなこともあって、現在は「金剛山最勝院」 と称する弘前のこのお寺を今でも「大円寺」と呼んでいる人も多いようです。
↓大円寺「大日堂」※クリックで拡大します。







大日堂の中に入ると、正面に大きな本尊【大日如来】 が安置されています。高さ2m、青森県名産の「ヒバ」の木を使った寄木造。金箔が貼られたこの仏像は、鎌倉時代の初期に、当時平泉に来ていた都の仏師が彫ったものとされており、津軽の仏教文化の高さを示すものとして「国指定重要文化財」になっています。
さて、 【大日如来】と【】書きしましたが、実はこの仏像は「大日如来」ではなくて「阿弥陀如来」の座像なのです。昔、大鰐の地は、この大きな阿弥陀如来像があることから「大阿弥陀」と呼ばれていたそうで、「おおあみ」が変化して「おおわに」という地名になったとも伝えられています。
それにしても、どうしてこの「阿弥陀如来」が「大日如来」として信仰されていったものか、大きな謎です。「本当の大日如来は胎内仏として阿弥陀様の中に納められている」という伝説もあり、大正時代に実際に調査されましたが、何も出てこなかったとのこと。子細はともかく、この大きな本尊が「大鰐の大日様」として、古くから、津軽一円の人々の深い信仰を集めてきたことは事実です。
この「大日様」に関わって次のような話があります。
ー 昔、黒石に八郎という木こりがいた。ある日、浅瀬石川でヤマベをとり、焼いてたくさん食べた。ひどくのどが渇いたので、谷川の水を飲み干してしまったところ、姿形が大蛇になってしまった。驚いた八郎は、碇ヶ関古懸のお不動様に、自分が住めるような大きな湖をつくってくれるように頼んだが断られた。そこで、大鰐の大日様は、八郎に金のわらじを与え、「このわらじの緒が切れたところを、お前の住みかとせよ。」と諭した。八郎はわらじを履いて旅立ったが、秋田の近くで緒が切れたので、大日様の教えに従って潟をつくった。以来、そこは八郎潟と呼ばれるようになった。ー この話は、十和田湖、八郎潟、そして田沢湖にも残っている「龍神伝説」ですが、「大日様」も絡んでいたようです。。
ところで、この大円寺は「未申(ひつじ、さる)年生まれ」の津軽一代様としても知られていますが、境内にはそれを思わせるようなものはありませんでした(探せなかったのかも)。?と思いながら帰ってきましたが、後で撮ってきた写真をよく見てみると・・・ありました。
場所は山門。はじめに大鰐に縁が深い牛 。その奥に 、羊と猿 が、しっかり描かれていました。
☆つがるみち☆



↓大円寺境内 ※クリックで拡大します。







大鰐駅から線路沿いに進んで行くと、間もなく色鮮やかな山門 が見えてきます。手前には国重要文化財「大日如来」 と記された案内板。山門をくぐった正面には「大日堂」があり、ここに国重要文化財・大日如来が安置されています。よく絵ハガキ等で目にする京都や奈良の寺社を思わせる造りです。
左側にはりっぱな本堂が建てられていますが、このお寺の山号は神岡山(じんごうざん)。高野山真言宗のお寺で、「津軽弘法大師霊場第二十二番札所」でもあります。
本堂の向かい側には鐘楼堂と金比羅堂。 その背後に「西国三十三観音像」が並んでいます。石像はいずれも姿形がはっきりしていて 、霊場巡りで観音様を探すとき、大いに助かります。
さて、大日堂の隣りに「不動明王・観世音菩薩・弘法大師」 という扁額が掲げられたお堂がありますが、その名の通り、正面には弘法大師の像 と、不動明王の像がありました。このお不動様、「ぼけ厄除不動尊」 だそうで、拝むと「ぼけ防止」につながるとか。。
このお堂は「旧大日堂」で、以前はここに本尊が安置されていたところですが、その前に一対の牛の石像 が置かれています。大日如来と牛とのつながりは深く、特に西日本では、大日如来を牛の守護神とする信仰が盛んで、縁日に牛をつれて参拝する風習もあったとか。牛は農家に欠かすことが出来ない「財産」であったので、人間と同じく大日様に守られていたということでしょうか。
ですが、ここ大鰐では「牛」は、もっと別な意味でも神聖視されているのです。それは「温泉を発見したのは牛だった」という話が残っているからです。
ー「ある時、一頭の牛を連れた旅人が途中で昼寝をした。目が覚めたら牛が居なかったので探したら、川原で草を食べていた。周りは枯草なのに、そこだけ青々としていたので掘ってみたらお湯が湧き出た。」という分けです。
町ではこの言い伝えや、前述の円智上人の話に基づいて、例年「大鰐温泉丑湯祭り」 を開催しており、祭りのはじめに、大日如来を背中に乗せた牛が「ご神体」となり、温泉の祈祷式を行っています。
ー次回へ続きます。
☆つがるみち☆



長慶天皇は南北朝時代、足利尊氏と戦って敗れた南朝の第3代天皇ですが、みちのくの果て津軽に亡命し、旧中津軽郡相馬村(現弘前市)の紙漉沢 に落ち着き、この地で崩御したとされています。紙漉沢には「陵墓参考地」もあり、かつては、日本各地に広がる「長慶伝説」の中でも有力なものとして知られていました。
大鰐町にある2つ目の霊場「苦木(にがき)観音長谷堂」は、この長慶天皇につき従ってきた家臣が、観音像を安置したことが始まりとされています。
↓苦木観音長谷堂 ※クリックで拡大します。







国道7号線を碇ヶ関方面に向かって車を進め、ちょうど阿闍羅山を半周したところに 観音堂があります。由緒書き などによると、14世紀半ば、長慶天皇とともに津軽へ落ち延びた武将・水木監正の一族が、天皇崩御の後、ここ苦木の地に住み着いたといわれています。当時、ここは葦だらけの沼地で、村落らしきものもなく、大変な荒れ地でした。水木一族は少しずつ開墾を進め、集落を造り上げ、収穫が安定した16世紀半ばに観音像を安置したのでした。
参道入り口には、石段が真っ直ぐに延びていて、登り切った所に一の鳥居 。左右の杉木立の中を進むと広く明るい境内へ出ます。境内には「子宝神社」 とともに「姥石神社」 という祠もありました。「姥石」は、「子どもを守る神様」といわれることもあるそうで、「子宝」と併せて子孫繁栄・地域繁栄を願って建てられているのでしょうか。
観音堂 は、熊野神社と並んで建っていました。小ぶりな造りですが、巡礼に訪れる人々の「足跡」が詰まった品のあるお堂です。本尊は「聖観世音菩薩」。観音堂の創建は寛永9年(1632年)のこととされ、「苦木観音長谷堂」の名前は、「西国三十三所・豊山長谷寺」に因んだものとされています。
ところで、ここの観音様、二度ほど盗難騒ぎに遭っているとのこと。一度目は天保年間(1830~44年)、参拝に訪れた女修験者が観音像を盗み出し、二度目は時期は不明ですが、何と神官が盗んだとされています。二度とも観音様は無事に戻ってきましたが、村人は今後そういうことが起こらないようにと、コンクリートでお堂を造り直したということです。今は木造のものに替わっていますが、境内にある山神堂 はコンクリート造りで、あるいはこのお堂が、その時の観音堂だったのか?とも思いますが、確かなことは分かりません。
先回の居土普門堂と同じく、ここの後ろにもまた「りんご畑」が広がっていました。のどかで落ち着いた風景です。
ここのご詠歌は「いくたびも法に歩みを運ぶなり あまき苦木は後の世のため」。
ー 「あまき 苦木(にがき)」・・・なかなかしゃれていますね。。
☆津軽三十三寺社巡り☆



朱色が鮮やかな鳥居に向かって進むと、間もなく熊野神社の拝殿が見えてきます。
先回、お伝えしたように阿闍羅山は「阿闍羅千坊」と呼ばれ、「津軽千坊」のひとつとされる霊山でした。ここ居土の地もまた、その一角だった分けです。しかし、鎌倉時代初期の頃は「千坊」は荒れ果てており、唐僧・円智上人( 「津軽三不動尊」 を造ったとされる)が再興したと伝えられています。
↓居土普門堂 ※クリックで拡大します。







観音堂 は熊野神社拝殿と並んで建っています。元和6年(1620年)、弘前藩2代藩主・津軽信枚の時代に、村人の手によって建立されたといわれています。当初は「十一面観世音」を本尊としていたようですが、その後「千手観世音」に本尊が変わったようです。
寛延年間(1748~51年)には、31番札所として三十三霊場のひとつとなっており、「居土観音堂」として人々の信仰を集めていました。明治に入り、神仏分離のため、廃社となり、跡には熊野神社が置かれましたが、やがて村民の力により再興されました。本尊の観音像は、村人が密かに隠しておいたのだとか。。その後、熊野宮の新築に伴い、観音堂も再建され、「居土普門堂」と名づけられたといわれています。
ところで、寺社巡りの楽しみのひとつ「巨木・名木探し」。ここにもあります。
まずは、神社拝殿前にドーンとそびえ立つ2本の大銀杏 。巨大な「鳥居」を思わせるこの古木は、樹齢700年 とされています。
拝殿の横には、大鰐町の天然記念物である「いちょうの木」 。そして、観音堂の後ろには大きな「かつら」の古木があります。この「かつら」、隣の杉の木に見事なアーチ を架けていました。
また、観音堂の手前 には、「夫婦杉」が立っています。以前、9番札所「見入山観音堂」にあった夫婦杉 は、2本の杉の木が並んで立っているものでしたが、こちらは根は1本の木 。互いに寄り添うように上の方へのびていました。
それにしても、ここの境内、明るく気持ちの良いところです。後ろ側には、さらに畑が広がっています。農作業の手を休めた人々が、観音様にお参りしながら、ここで地域の話に花を咲かせているのでしょうか。。
☆津軽三十三寺社巡り☆



↓大鰐町と観音堂 ※クリックで拡大します。







ところでこの阿闍羅山、今はスキー場として有名ですが、昔は「津軽三千坊」のひとつに数えられる「阿闍羅千坊」があった霊山でした(他の2つは「十三千坊」と「梵珠千坊」 )。その昔、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に津軽へやってきた時、阿闍羅山に本陣を構え、岩木山まで峰伝いに千の坊舎を建てたのだとか。。
それはともかく、津軽地方は大和からみると「鬼門」にあたるため、ここ阿闍羅山も古くから「鬼門鎮護・国家安泰」を願った修験の山だった分けです。ー 津軽三十三霊場の31番札所居土(いづち)普門堂は、そんな阿闍羅山の麓にあります。
観音堂への道を進んで行くと小学校が見えてきます。私が訪ねたときは日曜日ということもあり、少年野球の大会が行われていて、グラウンドいっぱいに子ども達の元気な声が響いていました。この小学校の道路を挟んだ向かい側に小高い山がありますが、戦国時代、ここは三ッ目内城 という山城があったところです。津軽為信の軍に攻められたとき、降伏することを良しとしなかった城主は、自ら火薬庫に火をつけ、城を吹き飛ばしてしまったという話が伝えられています(城が爆発したのは、戦の準備中に誤って灯火を火薬庫に落としてしまったからだともいわれています)。
城跡を過ぎて、もう少し進んだところに「居土霊場」 と記された案内板が立っています。ここが観音堂(熊野神社)の入口です。一の鳥居の前には「地蔵堂」 。そして「馬頭観世音」 の石像が置かれていました。
鳥居の先へ、真っ直ぐに石段が延びています。なかなか急な坂道になっていて、参道の左右には杉の大木。鬱蒼としていて、上へ向かう道しか見えないという感じでした。途中で石段は途切れますが、そこからは木の根っこ が石段の替わり・・うまくできています。
しばらく行くと、辺りが明るくなってきたので「着いたのかな」と思い、登りつめると、視界がパーッと開け、そこには何とりんご畑や草原 が広がっていました。大げさですが「別天地」という感じです。空気が澄んでいるせいでしょうか、先ほど通った小学校で試合をしている子ども達の声も聞こえてきます。前方に参道が延びており、その先に「熊の宮(観音堂」の赤い鳥居 が小さく見えました。
ー次回へ続きます。
☆津軽三十三寺社巡り☆

