Category: ふるさと【東北・青森】 > 藤崎町
リンゴの花とチューリップ
地元の新聞に、藤崎町にある弘前大学農学部藤崎農場で「リンゴとチューリップのフェスティバル」が開かれているという記事が載っていたので、早速行ってみました。リンゴとチューリップの花、そして菜の花が咲き誇る様子が見られるとのことでした。
とてもいい天気だったので遠くの岩木山もくっきり。朝早くから農場には、子どもの手を引く親子連れやカメラを持った年配の方達がたくさん訪れ、思い思いにリンゴ畑を散策したり、赤、黄、白の景色を楽しんでいました。





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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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とてもいい天気だったので遠くの岩木山もくっきり。朝早くから農場には、子どもの手を引く親子連れやカメラを持った年配の方達がたくさん訪れ、思い思いにリンゴ畑を散策したり、赤、黄、白の景色を楽しんでいました。






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Category: ふるさと【東北・青森】 > 藤崎町
まだまだ冬


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土手の上で
連日雪模様の天気で、寒い日が続いていますが、晴れ間を狙って、藤崎町の白鳥広場に行ってみました。平川の畔に、例年、たくさんの白鳥が訪れる場所です。

白鳥は他の鳥たちといっしょに水辺で思い思いに日差しを楽しんでいましたが、一匹だけ、土手の上に上がり、悠然と座っている白鳥がいました。辺りを気にするでもなく、カメラを向けても知らん顔、正に泰然自若。。


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白鳥は他の鳥たちといっしょに水辺で思い思いに日差しを楽しんでいましたが、一匹だけ、土手の上に上がり、悠然と座っている白鳥がいました。辺りを気にするでもなく、カメラを向けても知らん顔、正に泰然自若。。




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藤崎町榊に鎮座する榊八幡宮を訪ねたのは、2ヶ月前のことで、桜が咲き始めた頃でした。
重そうな米俵が乗った豪華な注連縄が張られた鳥居から参道が延びていますが、鳥居をくぐった所に地蔵堂があり、その向かい側にはイチョウの木にからみついた老松などが生えています。地蔵堂のそばには、これまた注連縄が張られた馬頭観音の碑などが立っていました。



境内には、二十三夜塔と庚申塔などが置かれていますが、御神馬は赤い玉垣に囲まれ、大切に祀られていました。赤い屋根の三つの祠は、神明宮と観音堂、そして稲荷宮のようです。



この神社の由緒については、
【大字榊にある八幡宮には、品多和気命(ほんだわけのみこと ※一般的に八幡宮に祀られている応神天皇)が祀られています。この神社は、万治7年(万治は3年で改元されていることから次の年号の寛文4年-1664 年か)に、「榊村八幡堂」として村中で
お堂を新築したという記録があり、さらに慶安元年(1648 年)に新建され、神主は円太夫という人であったという記録が見られます。その後時を経て明治6年(1873 年)に矢沢の正八幡宮に合祀されましたが翌年には復社し、さらに翌年の明治8年に村社となりました。 ※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」より】と紹介されています。
なお、本殿を囲んでいる玉垣などについては、
【明治4年(1871 年)には神殿が造られ、さらに明治43 年(1910年)、皇太子時代の大正天皇が北海道と本県に行啓されたのを記念して玉垣が造られた】とのことです。


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☆つがるみち☆



藤崎町の中野目の集落の西側に惣染宮があります。
訪ねる前に、地図を見て場所を確かめたのですが、よく分からずうろうろした挙句、やっとたどり着きました。
りんご畑の中を小さな農道が通っており、その傍らに赤い鳥居が立っています。扁額には「惣染宮」、社号標には「馬頭観世音庚申塚」と書かれていましたが、その名の通り、馬頭観音を祀る社で、江戸末期に立てられた庚申塔(猿田彦碑)などがあります。
境内には、鮮やかな衣装をまとった御神馬と狛犬、庚申塔が何基か立っていますが、ひときわ目を引くのが、ハリギリの大木で、樹齢等は分かりませんが、この社の御神木になっているようです。
庚申塔のそばに「馬頭観音大神」と刻まれた大きな碑があります。これは、建立300年の記念碑で、平成2年に、地域の人達の手で300年祭が執り行われ、大がかりな整備が行われたとのことです。



その由緒については、
【中野目村には「三間と四間の観音堂地があり、元禄二年(1689 年)に神職の長利太夫が勧請してお堂を建て、観音を祀った‥」という内容の古い記録があります。そして、貞享4年( 1687 年)の「御検地水帳」には、「観音堂地十二歩」の記載が見られ、ここの堂地が古くからあったということが分かります。また、村の豪農で大庄屋も務めた村上多次兵衛が、昔からの観音堂地に堂社と鳥居を建て松や杉を植えて馬頭観音を祀ったという記録も残っています。 ※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」より】と書かれています。
社殿の後ろ側にはりんご畑が広がっています。私が訪ねたときにはまだ花が咲いていませんでしたが、きっと今頃は白いりんごの花で埋め尽くされていることでしょう。



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☆つがるみち☆



藤崎町に藤越という集落がありますが、その由来について次のような話が残されています。
【藤越は昔「田中萢」と呼ばれる湿地帯でした。慶長年間、細越村(現在は青森市)で開拓に励んでいた木村弥太衛門ら3人の夢枕に鹿島神が現れて、「田中萢を開拓せよ‥」と告げました。3人は勇んで開拓を進め、その土地は立派な耕地になったのでした。】
集落の道路沿いに鹿嶋神社が鎮座しています。
御祭神は武甕槌神で、境内には御神燈や狛犬、庚申塔、藤越村の由来を記した記念碑などが立っています。
社殿の横に鳥居を伴った馬頭観音堂があり、そのそばには、根元から三つに分かれた大きな御神木があります。馬頭観音堂のまわりの桜がとてもきれいでした。



その由緒については、
【慶長元年(1596年)、現在地より東側の字東一本木にお堂が建てられ、藤崎村の毘沙門宮(鹿島神社)の分霊を祀って鎮守としたのがこの神社の始まりとされます。そして明治21 年(1881年)お堂が火災で焼失し、その後現在の字西一本木に移転しました。】とあります。


由緒に書かれている「藤崎村の毘沙門宮」とは現在の鹿島神社のことですが、この社は町の中心部にあり、「坂上田村麻呂が戦勝を祝って毘沙門堂を立てた際、植えた一本の藤の木から花が咲き、一帯は藤咲(崎)村と呼ばれるようになった」といういわれをもつ神社です。
ここ藤越の鹿嶋神社は、その分霊を祀って創建された分けですが、
【その時、藤崎村の毘沙門宮の神木の藤の木から一夜にして根や枝葉が伸び田中萢に至ったので、この地を「藤越」と改め、神社を創建した。】といわれています。


※【】は、藤崎町「ふるさとの史跡散歩」を参照しました。
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☆つがるみち☆



藤崎町の中島地区に中島小畑八幡宮が鎮座しています。
「中島」と「小畑」という隣接した集落の名前を併せ持つ神社となっています。
第二次世界大戦以前には、中島と小畑は、「中小(なかこ)」と呼ばれ、一つの村として活動していました。神社名は、そんな当時の様子を物語るものといえそうです。
御祭神は誉田別命と八幡太郎義家で、参道には、御神燈や狛犬とともに、八幡様のお使いである鳩の像(狛鳩)も置かれています。
境内には末社と地蔵堂、百万遍塚、庚申塔と猿田彦碑の他、郷土力士の顕彰碑なども立っていました。



参道の入口に由緒を記した説明板がありますが、それによると、この神社の創建は明治八年(1875)、矢沢の正八幡宮の遥拝所として分離・建立されたとのことで、当初は「正八幡宮遥拝所」と呼ばれていたようです。


説明板には、
【分離にあたり、中島、小畑地区の人々は、川部の熊野宮の奥の院を譲り受け、近くの赤沼のほとりに祀られていた薬師様をも合祀して、新しい堂社を建立した。】と書かれていました。


因みに、由緒に出てくる赤沼 は福舘地区にある沼ですが、この沼には「村に異変があると赤く濁ったことからその名がついたといわれており、村人は沼の色を見て豊凶を占っていた。」という話が伝えられています。
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☆つがるみち☆



藤崎町の福舘(ふくだて)は、合併以前は旧常盤村に属していた集落です。
旧常盤村は、室町時代から戦国時代にかけて、安東氏や浪岡北畠氏が支配していた所で、久井名舘など、安東氏や北畠氏ゆかりの武将の館跡に由来する地名が残されています。
福舘もそのような集落のひとつで、中世の安東時代に築かれた砦から名づけられたものだといわれています。
稲荷神社は、そんな福舘の中心に鎮座している社ですが、道路沿いの真っ赤な鳥居と、そのそばに立つ幕末と明治期の大きな庚申塔が印象的な神社です。
御祭神は宇賀魂命で、その由緒については、
【延宝3年(1675) に、福舘村の一戸弥五左衛門という人が、産土様のお宮として建てたのが始まりだと伝えられています。その昔、神社から西方約30丁(約3270m)の所に「舘」があり、北畠氏の一族が守り住んでいましたが、この神社は、その古舘の守護神だということです。】と紹介されています。


また、建立にまつわる話として、
【一戸弥五左衛門らがこの村の田地を開墾した時、一人のおじいさんが現れ、持っていた杖で「ここが良い土地だ」と導いてくれました。そして「私は舘の神様である」と告げたというのです。そのことから一戸弥五左衛門が延宝3年にその神様を祀るお堂を建て、皆崇敬するようになったということです。】という物語も残されているようです。





※【】は、藤崎町「ふるさとの史跡散歩」を参照しました。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 藤崎町
水辺の早春


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おだやかな初春



藤崎町の水沼に鎮座している保食神社は、国道339号線から分かれた県道沿いにある社です。
道路を挟んで、前方には岩木山、境内の後方には田んぼが広がっていますが、その境内の様子については、
【・・・境内には、江戸時代の道路の案内標識とも言うべき「追分石」(藤崎中学校の通りと国道7号旧道の交差点付近にあった)、三面六臂 (顔が三つ、腕が六本の像)の馬頭観音、江戸時代末・天保年間の庚申塔などがあります。※藤崎町『ふるさとの史跡散歩』より】と紹介されています。
二の鳥居のそばに由緒書きが立っていますが、そのとなりに小さな碑が立っています。これが追分石で、全ての文字は読めなかったのですが、「道」の文字はしっかりと見えました。追分石のそばには天保年間の庚申塔があります。
馬頭観音像は、追分石や庚申塔と反対側にあるりっぱなお堂の中に祀られていました。社殿の周りには、狛犬と神馬、末社などが立っています。
◇追分石、庚申塔ほか






その由緒については、
【御祭神:保食神 草創年月は不詳なるも、 延宝年間 (一六七三~一六八一)、 観音堂を建立し、 初め惣染宮と称え奉り、 水沼村を氏子として堂社建立し崇敬、 信仰も厚く付近部落より参拝者多数ありと伝えられる。
本殿の棟札には次のように記されている。
一、 明和八年三月
二、 寛政三年六月
三、 天保二年九月
これに依れば、 氏子戸数少ないため、 五年毎に神事を行なう状況であったようである。 明治三年、 神社令公布に依り、 氏子協議の上、 保食神社と改め、 明治六年村社に列せられる。 大正八年六月、 拝殿内の社殿に祀っていた御神体を新たに造営した御本殿に移し奉り、 現在に至っている。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
また、明治3年の神仏分離の際に、氏子が相談し、神社の名前を「保食神社」と改めた際に、産業・農業の神様である倉稲魂命(うけのみたまのみこと)と共に、風神様を合祀したと伝えられています。
◇保食神社境内




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藤崎町の富柳(とみやなぎ)という所に正八幡宮が鎮座しています。
富柳は、合併以前は旧常磐村に属していた集落ですが、旧浪岡町と境を接しています。
村の中を浪岡川が流れています。今の時期はまだ水量が少なく、川原には枯れたススキの穂が密集していましたが、ところどころにふきのとうや黄色い花が咲いていて、前方には岩木山がくっきりと見えました。

正八幡宮の境内は、川の土手の下にあるのですが、社号標は村の道路沿いに立っており、そこから少し進むと一の鳥居があります。
境内には、御神燈が二対と神馬と狛犬がそれぞれ一対ずつ置かれています。神馬は向かい合う形で左右に置かれていましたが、どちらの神馬の後ろにも厩舎があり、ここにはまた別の神馬が納められているようです。狛犬と神馬の首には、いずれも丸い注連縄が架けられていました。
厩舎のとなりには赤い屋根の末社がひとつ立っていますが、その横の大きな木の根元には石碑が二体置かれていました。少し風化してはいるものの、そのなかのひとつは青面金剛の庚申様のようです。
この神社の由緒については、
【御祭神:誉田別尊 寛文元年 (一六六一) 八月五日、 弘寛法印が勧請する。 明治六年四月、 福館村稲荷神社と合祀されるが、 同八年二月復社する。 明治四十年四月十九日、 神饌幣帛供進の指定を受ける。 明治四十四年八月三十日、 拝殿、 幣殿を新築する。 昭和十二年八月二十八日、 本殿を新築する。 又、 拝殿、 幣殿を改築する。 昭和二十四年十一月十一日、 国有境内地を無償で譲与される。 ※青森県神社庁HP】とあります。
◇正八幡宮境内









上記の由緒と少し重複しますが、藤崎町「ふるさとの史跡散歩」では、この神社を次のように紹介しています。
【富柳の正八幡宮には、誉田別命(ほむたわけのみこと)が祀 られています。この神社は、寛文元年(1661年・江戸時代中期の初め頃)に、弘寛法印(こうかんほういん)という人によって勧請されたという伝承があり、また寛文12年(1672年)に御派立頭(おんはだちがしら)の戸田七郎兵衛という人がお堂を建立したのが始まりだとも伝えられています。また「貞享の検地」が進められようとしている天和4年(1684年=貞享元年)の書上帳には「八幡宮あり」と記されています。】
戦国時代が終わり、武力による領土拡張が出来なくなると、全国の諸藩は新田開発を盛んに行い、年貢増強を図りました。津軽藩はその中でももっとも新田開発が進んだ藩の一つであったとされており、17世紀末には米の収穫量は、幕府から公認された表高4万7千石の5倍以上に達していたといわれています。
津軽藩の新田開発は、「小知行派立(こちぎょうはだち)」と呼ばれる在地の有力者による小規模な開発から始まりましたが、「派」とは「新田」を示す津軽地方独特の用語だとされています。
上記の文中に出てくる「御派立頭(おんはだちがしら)」とは、各地の開発の責任者のことであり、戸田七郎兵衛なる人物は、この地方の開発の指揮を任された人物だったのでしょう。
※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」PDF、地元紙・陸奥新報「江戸前期に新田開発」の記事などを参照しました。
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旧常盤村(現藤崎町)には、「福舘」や「古舘」など「舘」のつく集落がありますが、それは、かつてこの地方を支配していた安東氏や北畠氏ゆかりの武将の館跡に由来する地名だといわれています。
「久井名舘(ぐいなだて)」もそのひとつなのですが、鎌倉時代、ここの十川と浪岡川の間に囲まれた高台に舘が築かれていたとされています。現在は、その遺構らしきものは見当たりません。
今回は、その久井名舘に鎮座する稲荷神社を訪ねたのですが、道路を挟んだ向かい側に「正法庵」という庵寺がありました。
正法庵については、
【正法庵は、釈迦如来の坐像を祀る庵寺です。正法庵は、開基や開山といった歴史を刻んだ寺院ではなく、由緒 も不明です。元禄時代に庵ができたという説もありますが、定かではありません。昔から村人たちが集まり、極楽浄土を求めて懺悔し説教を受ける、心の寄り所として寄り合った場所、そんな説教道場が正法庵の前身のようです。※藤崎町『ふるさとの史跡散歩』より】と紹介されています。
入口に、猿田彦大神、二十三夜塔、百万遍塔、馬頭観音の碑が立っていて、境内には地蔵堂などがありますが、その中に二体の羅漢象を祀るお堂があります。
この二体の羅漢像は町の文化財に指定されているものですが、説明板には、
【当庵入所の由来等については不明であるが、三百五十六年前の古仏像で、津軽の宗教史上、神仏分離資料として貴重なものである。これは旧岩木三所大権現の山門(現岩木山神社楼門)上に、津軽藩二代藩主信枚によって奉納された五百羅漢像のうちの二体で、明治三年十二月、神仏分離によって散逸したものと推定される。】と書かれていました。
岩木山神社楼門(旧百沢寺山門)の五百羅漢像のうち、百体ほどは弘前市の長勝寺に移されていますが、他のものは概ね不明であるだけに、ここの二体はとても貴重なものとされています。
◇正法庵





稲荷神社は正法庵の向かい側、十川の流れに沿って鎮座しています。
川原の土手からは神社の境内全体を見渡すことができますが、道を少し歩いて行くと、間もなく社号標と赤い一の鳥居が見えてきます。
一の鳥居には重そうな米俵が架けられ、その下には津軽独特のジャンバラ型の注連縄が下がっていました。
境内には、かつての御神木だったと思われる大きな木や、御神燈、狛犬などが並んでいますが、この時期の狛犬は雪をかぶった姿で、とても愛嬌があります。
拝殿のとなりに、ひとつのお堂が立っており、中を覗いて見ると、立派な神馬が二体納められていました。
この神社については、
【久井名舘(ぐいなだて)の稲荷神社には、一般的に稲荷神社に祀られている宇賀魂命(うがのみたまのみこと)が祀られています。神社の由緒などはよく分からないということですが、万治年間 (1658~61年)に、村中の手で再建されたという記録が残っています。また、昭和61年に発行された「常盤村文化財資料Ⅰ神社・仏閣編」には「この稲荷神社の脇の馬が入っているお堂の中に竜神様の木彫2体とその由緒の書付がある」と記されています。※藤崎町『ふるさとの史跡散歩』より】とあります。
神馬堂(厩舎)の中に木彫りの龍神様が祀られているようですが、私はみつけられませんでした。
すぐそばを流れる十川は、改修されるまでは大変な暴れ川で、毎年のように氾濫が続き、地域の人達は大変難儀をしていたということですが、この龍神様は、五穀豊穣と共に、水害から村を守る水神として崇められていたのかも知れません。
◇稲荷神社








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☆つがるみち☆



藤崎町鹿島神社の縁起には、
【平安時代初め、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際、蝦夷の頭領・恵美の高丸の霊を退治した時、田村麻呂の守護神である毘沙門を祀ったのが始まり。
田村麻呂が、勝利に感謝し、毘沙門を祀った時、地面に突き立てた藤の杖に因んで「藤咲村」と呼ぶようになった】と記されています。
同じように、藤崎町に鎮座し、田村麻呂伝説を伝えている神社が矢沢正八幡宮です。
この神社の住所は藤崎町矢沢福富四番囲(ふくとみよばんがこい)。矢沢地区には他にも「福富一番囲」とか、「豊成三番囲」とかいうように、「囲」と名のつく集落がありますが、少し変わったこの地名の由来なども気になるところです。
矢沢正八幡宮については、入口の由緒書きに次のように書かれています。
【御祭神:誉田別命 矢沢の正八幡宮の縁起については、二つの物語が伝えられています。一つは、大同年間(806~810 年)、坂上田村麻呂が蝦夷の頭領・高丸を射殺した際、その矢を修験の僧・明円に与え、正八幡宮を祀って「矢沢山勝軍寺」を建立したという伝説(新撰陸奥国史)、弘藩明治一統誌では、それを延暦3年(784 年)のこととし、沼洲村(藤崎村)の近くの赤沼に高丸の遺骸を埋め、矢は正八幡宮のご神体として崇敬したというもの。
もう一つは、元和元年(1615 年)、弘前の広田三郎左衛門という人が、小畑の三本木から異体の仏像を発見し、それを祀って矢沢村の氏神として崇敬したというものです。※由緒書き及び藤崎町『ふるさとの歴史散歩』より】
下線にあるように、鹿島神社同様、ここでも田村麻呂の蝦夷征伐の伝説が語られています。矢沢の「矢」も田村麻呂が放った矢に因んでつけられたものなのでしょう。
また、「村人が異体の仏像を見つけて祀った」という話は、この社が古くから村の産土社であったことを物語っていると思われます。
八幡様のお使いの鳩や神馬、狛犬などが立ち並ぶその先に拝殿があります。拝殿の両脇にはそれぞれ末社や庚申塔などが立っていますが、向かって右側の祠には稲荷様とオシラサマを思わせる二体の神様、そして神馬が祀られていました。
一方、左側にもお堂がありますが、その屋根から御神木(けやき?)が、ニョキッと突き出ています。まるで、太い煙突のようですが、その中を除いて見ると、根元に祭壇がありました。そして天井から太い幹が飛び出していました。大変珍しいお堂です。何かいわれのある御神木なのでしょうか。
◇矢沢正八幡宮











帰り道、保食神社に立ち寄りました。道路沿いにある小さな神社ですが、この社には次のような伝説があります。
【通称下町にある保食神社には農業の神様である保食神(宇賀之魂命)が祀られています。
この神社には、源義経の乗馬がこの地で死んだのを祀ったという伝説(源義経の北行伝説)、唐糸御前を探しに来た北条時頼の家来の馬が倒れた場所だという伝説などが伝えられています。保食神社としてこの地に建てられたのは大正時代のことで、それ以前は、現在地の向かい側の村外れにあり、馬頭観音を祀る土産神として信仰され、「鞍森(くらもり)」と呼ばれていたということです。※藤崎町『ふるさとの歴史散歩』】
藤崎町は唐糸御前の物語のように、北条時頼の回国伝説が残っているところですが、義経の北行伝説もあったとは意外でした。 ー 義経恐るべし。
「義経の馬の話」、「時頼の家来の馬」、「かつては馬頭観音を祀る土産社であったこと」など、古来から「馬」と縁が深い神社だったらしく、菅江真澄も『つがろのおち』の中で、この神社を描いたと思われるうまの神 という絵を残しているようです。
◇保食神社





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☆つがるみち☆




神社をめぐっていると、ときどき同じような姿形をした狛犬や神馬を見かけることがあります。特にあまりかけ離れていない地区の神社にそれは多いようです。
私は神社の拝殿や本殿の造りや形に関して、あまり注意して見たり調べたりすることはありませんが、先日、藤崎町の水木熊野宮と淡島神社という2つの神社を訪ねたときに、社殿(拝殿)が、ほぼ同じような形をしていることに気づきました。
「神明造」「住吉造」「大社造」「春日造」「日吉造」など、様々な建築様式があるようですが、この2つの神社がその中のどれにあたるのかは、私には分かりませんが、形や色がそっくりだったので印象に残りました。

藤崎町水木(旧常盤村)に鎮座する熊野宮。かつてここには「水木城」という舘があったところです。
水木城については、【中世の頃、浪岡城を本拠地として栄えた北畠氏は、北畠顕家系統で宗家である「浪岡御所」と、北畠顕信系統の「川原御所」に別れていました。その「川原御所」である溝城具信の所領地の要の場所にある城・舘が、溝城舘・水木城です。水木城は、津軽統一を目指す大浦氏(津軽氏)に対抗する北畠氏の最前線の基地でもあったようです。永禄5年( 1562 年)に、北畠一族の内紛である「川原御所の反乱」がおこり、溝城舘・水木城は浪岡御所の軍勢に攻められ落城したといわれます。溝城氏はその後、津軽為信に仕え、水木氏を名乗り、文禄2年(1596 年)から、「溝城」が「水木」と改められたということです。※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」】とありますが、境内横に立つ説明板によると、当時、辺りには熊野堂、惣前堂、薬師堂が設けられ、有事の際の砦としての役割を負っていたとのことです。
神社正面の大鳥居の左右には、昇り龍と降り龍が刻まれています。また、境内の御神木の周りには水がたまっていますが、これは地下水のようで、神木と拝殿のあたりから湧き出ていました。「御神水」といったところでしょうか。
「熊野宮」という名にあやかったものでしょうか、拝殿前には狛犬とともに大きな熊の像が立てられていました。
この熊野宮の縁起については、【御祭神:伊弉諾命、伊弉册命、誉田別命 創立年月日は不詳なれど、 住古溝城の館神として恵心僧が都から永正十七年 (一五二〇) に勧請したと云われている。※青森県神社庁HP 】とあるように、水木城の守り神として創建され、恵心僧都によって勧請されたと伝えられています。
◇水木熊野宮






一方、こちらは同じく藤崎町福左内に鎮座している淡島神社。住所は違いますが、水木熊野宮からはほんの少しの距離です。
明るく開放的な境内には、「天保」「弘化」など幕末期の年号を記した庚申塔が3基立っています。
御祭神は少彦名命ですが、その由緒については、
【永正17 年(1520 年)に水木(溝城)城主であった溝城刑部の家臣である水木村の今市右衛門が、薬師堂として勧請したという古記録があります。今市衛門と今次右衛門の二人が、主君の命により用水堰を開削した時に、土の中から薬師如来の木像を発見し、それを祀ったということです。※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」 】とあるように、やはりかつての水木城と関係が深いようです。前述の熊野宮とともに「防御砦」の役割を果たしていた「薬師堂」とは、ここのことでしょうか。
延宝3年(1675 年)には、菊理姫命(くくりひめのみこと)が合祀されますが、明治4年(1871 年)の廃仏毀釈の令によって仏体の薬師如来が廃され、菊理姫命だけを祭るようになったそうです。その後、明治20 年頃に火災で社殿を焼失し、明治33 年(1900 年)から、現在の少彦名命を祀るようになったということです。
◇淡島神社





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☆つがるみち☆



日本には菅原道真、源義経、信長、秀吉、家康など、歴史に名を残した英雄を御祭神として祭っている社がありますが、各地方にも、それぞれ「郷土の偉人」と称される人物を祭っている神社があります。
藤崎町の堰神社は、自ら「人柱」となって、村人を水害から救った堰八太郎左衛門安高(せきはちたろうざえもんやすたか)を祭っている神社でした。
また、御祭神ではないものの、郷土の発展のために尽くした人物の優れた業績や、その思いが創建と深い関わりをもっている社もあります。藤崎町福島(旧常盤村)に鎮座する八坂神社も、そのひとつです。

社頭には庚申塔、二十三夜塔、馬頭観音碑 など、いくつかの石碑がありますが、一の鳥居のそばに「本村開闢 元祖 古川仁左衛門霊」と刻まれたひと際大きな碑が立っています。
この古川仁左衛門は「福島の村の生みの親」といわれ、集落の敬愛を集めている人物ですが、この八坂神社の近くには、その墓所もあるとのことです。
古川仁左衛門は津軽藩の藩士で、
【仁左衛門綱智は、開拓者四三名を督励し、大湿地帯に用水工事の難事業を遂行、一七〇町歩の開田を成就し、寛文六年(一六六六)観音堂(現八坂神社の前身)を建立し、持佛の千手観音を産土神として祀り、福島部落の開祖。※藤崎町HP】といわれ、村落発展に多大な業績を残した人物だったようです。
青森県神社庁HPにもこの神社の縁起について【当社は、 寛文六年 (一六六六) の建立と伝えられる。 津軽藩御家中、 古川仁左衛門が当家の持仏 「千手観音」 を祀って産土大神とする。】とあり、その創建と仁左衛門との関わりについて述べられています。
一の鳥居の左手には、前述のようにいくつかの石碑がありますが、右側には別の赤い鳥居が立っています。ここには、穀物の神・宇気母智大神(うけもちおおかみ ※保食神)が祀られているようです。
鳥居から続く参道はけっこう距離があり、広々とした境内でした。拝殿の前に一対の狛犬がいますが、この狛犬、口の回りが真っ赤で、大きいだけに少しギョッとさせられます。
◇八坂神社①






拝殿のとなりにも鳥居が立っていますが、ここは胸肩神社でした。古川仁左衛門は、田地開発にあたり「大湿地帯に用水工事の難事業を遂行・・」とありますが、かつてこの辺りは湿地帯だったこともあり、それに伴う被害(水害)も大きいものがあったのでしょう。境内の中に胸肩神社を建立し、いわゆる宗像三女神を祀ったのは、そんないきさつがあったのだと思います。
この胸肩神社をはじめ、境内にはいくつかの末社(祠)があります。藤崎町『ふるさとの史跡散歩』には、「境内には千手観音堂、八幡堂や庚申堂、宇気母智大神などのお堂があり、さらに胸肩神社、祇園大明神などがある。」と紹介されていますが、私には、どれがどの祠なのか見分けがつきませんでした。
祠の他に、「千手観音」「宇気母智大神」などの碑も立っていますが、その中に「牛頭天王(ごずてんのう)碑」があります。
この神社は御祭神として素戔嗚尊を祭っている分けですが、由緒によると「明治二年神仏分離により、 旧来、 牛頭天王を祀ってきたので、 祭神素盞雄命を勧請して、 八坂神社と改称した。」とされています。
牛頭天王については、
【平安京の祇園社(現八坂神社)の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきたが、御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。これが祇園祭の起源である。※wikipediaより】とありますが、神道と習合し、スサノオと同一神であると考えられていたようです。
それは、「牛頭天王もスサノオも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。」とされています。いわば両神とも「祟り神」であった分けですが、それを排除するのではなく、その霊を祀り鎮撫し、「疫病除けの神」に転化する・・・という、日本独特の信仰形態といえるでしょうか。
この福島の集落も、かつては、大飢饉などのために疫病が流行し、人々を苦しめたのかも知れません。村人は、救いを求めて「疫病除けの神=牛頭天王」を祀るようになったと思ったりもします。
村の産土社とされてきた神社の境内には主祭神の他にも多くの神様が祀られており、一見、とりとめのない感じもしますが、この福島の八坂神社をみると、「衆生を漏らさず救済する」千手観音、食物の神・宇気母智大神、水の神・宗像神、そして疫病退散の神・牛頭天王と、そこには、古川仁左衛門がもたらした村の繁栄を守り継いでいこうとする地域の願いが感じられます。
◇八坂神社②





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☆つがるみち☆



神社には御神木がつきもので、たいていは、大きくて太くて、年輪を感じさせ、古からの言い伝えがある古木に注連縄が張られてあったり、玉垣で囲まれていたりします。
樹木の種類はというと、杉の大木やイチョウの巨木が圧倒的に多いのですが、中には他ではあまり見られない珍しい木を御神木にしている社もあります。今回は、そんな藤崎町の神社を2つほど紹介します。

藤崎町徳下(旧常盤村)に鎮座する徳下(とくげ)八幡宮は、詳細は不詳ながらも、
【承応2年(1653 年・江戸時代の初め)に村中によって造られたということですが、その後大破し、延宝4年(1676 年)と貞享2年(1685 年)に再建されたという古記録が見られます。そして、明治6年(1873 年)に一旦常盤八幡宮に合祀されましたが、2年後の明治8年に復社し、その年に村社になっています。※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」】という由緒をもち、誉田別命と天照大神を祭っている神社ですが、この社の御神木はイチイ(一位)の古木です。
一の鳥居のすぐ後ろに玉垣があり、それに囲まれて立っている老木ですが、社頭に木柱と説明板があり、それには、「一位の木(オンコ) 昭和のはじめ頃の調査では樹齢五百年以上と推定され、八幡宮とともに部落民に崇められ、本村(※旧常盤村のこと)では最も古い樹木である。」と記されていました。
説明書きにあるように、村の歴史をみつめてきた幹周り2m以上もある村の天然記念物に指定されている名木です。
イチイの木は別名「アララギ」。北海道や東北では「オンコ」とも呼ばれている樹木ですが、サカキが存在しない北海道では、神前の玉串にもイチイの枝を使うのが一般的であるとのことです。神社にふさわしい木といえるでしょうか。
多くのイチイの木は、地面から生えた丸太のような幹に枝がチョロチョロ出たような樹型をしているとされていますが、ここ徳下八幡宮のイチイもそんな感じでした。
私が訪ねたのは10月の下旬でしたが、イチイの枝には特長のある赤い実がたくさんついていて、とてもきれいでした。本殿のとなりには、馬頭観音碑や庚申塔が立っており、その背後には刈り取りを終えた田んぼが広がっていました。
◇徳下八幡宮






一方、こちらは藤崎町西中野目地区に鎮座する八幡宮です。
住宅に囲まれた道路沿いにある一の鳥居を覆い隠すように、社頭の巨木が枝と葉を茂らせています。この社の御神木であるイタヤカエデの木です。
イタヤカエデは別名「つたもみじ」とも呼ばれ、大きなもので樹高が20mほどになるそうですが、この神社のものもなかなかの高さと幅のある大木です。その特長として樹洞ができやすいとされていますが、この木にも大きな洞があり、それが御神木にふさわしい形をつくっているようです。

この西中野目八幡宮も古い由緒をもつ神社で、
【平安時代の延暦年間(782~806 年)に、蝦夷地に遠征した征夷大将軍の坂上田村麻呂が建立した108カ所の神社の一つだといわれています。この神社はその昔、古館村・俵升村・中野目村の境にあって、正観音を祀り、付近の10の村の産土様として信仰されていました。
その後、亀岡村に移転し、さらに江戸時代の寛文2年(1661 年)に本殿・拝殿を現在地に建立して移転しました。また、宝永2年( 17085 年)には、吉田神道の傘下になって飛龍大権現を祀る「飛龍宮」となり、明治3年の神仏分離の際に「八幡宮」となっています。※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」】と紹介されています。
境内には庚申塔 がいくつかありますが、この庚申塔には、「強盗に襲われて難渋していたところ庚申様に助けられたので感謝の気持をこめて庚申の石塔を建てた。」という言い伝えが残っているとのことです。
また、寛政年間にこの地を訪れた菅江真澄は、「俵升山と書かれた飛龍権現の祠があり、その前の堰にたくさんの石の柱を並べた橋が架けてあった。」と記し、当時の社の様子を伺わせる絵 を残しているようです。
◇西中野目八幡宮





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蒼前、崇染、惣染、相染など表記は様々ですが、「そうぜん様信仰」は、主に東日本に広く伝わる民間信仰のひとつです。
「蒼前様」は、一般に馬の守護神とされていて、「勝善神」とも呼ばれているようですが、少しネットで調べてみたら、
【勝善神:勝善は正しくは「蒼前」で、つまり葦毛で四本の足の膝から下が白い馬のことをさす。葦毛の馬は「七聡八白」といい八才になると白馬になると信じられている。東北地方では「ショウデンサマ」と呼び、蒼前のような名馬の誕生を祈って祭った信仰である。・・・馬頭観音信仰が馬の安全や健康を祈ったり、死馬の冥福を祈ったりするものであるのに対して、勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰である。勝善もショウデンも蒼前=〔ソウゼン〕がなまったものである。※レファレンス協同データベース】とありました。
また、一説には、【無実の罪を着せられた都の貴族父子が、奥州へ流され、三戸郡に住み着いた。その子どもは「宗善」と名前を変え、この地でたくさんの名馬を育て村人に敬愛された。亡くなったとき、村人は一宇を建て、馬頭観音を祀り、故人を「ご宗善様」と呼ぶようになった。】という話も残されています。
青森県の県南地方は、昔から名馬・良馬の産地だっただけに、この蒼前様信仰が根強く、「蒼前」という名の社や、「蒼前」あるいは「蒼前平」という地名も多く残っています。「日本中央の碑(壷のいしぶみ?)」がある近くには「田村蒼前」と呼ばれる神社?がありますが、これは、坂上田村麻呂の乗馬がここで死んだのを祀ったことから、その名がつけられたのだとか。。。

前置きが長くなりましたが、津軽地方にも、この蒼前様を祀っている神社がいくつかあります。藤崎町柏木堰の崇染宮も、そのひとつです。
集落の道路沿いに鎮座するわりとこじんまりとした神社ですが、昔から地域の崇敬を集めてきた社らしく、境内には、猿田彦大神の碑や、村の出身力士の顕彰碑なども立っていました。
この崇染宮(そうぜんぐう)の由緒については、
【御祭神:保食大神 崇染宮は、 享保三年 (一七一八) に柏木堰村、 俵舛村、 下俵舛村の産土神として、 馬頭観音を祀って創立されたと伝えられている。
昭和三十六年頃に編纂された 「崇染宮由緒」 には、 その昔、 当祭神は館野越の墓地近くの小川の堤から発見され、 柏木堰のある家の内神としてまつられていたが、 非常に農民を愛する神様で、 年間の豊凶のお告げがあったり、 水害から農産物を救ったり、 お堂が腐朽した時に冷害の徴候が現れ、 神罰であるから速やかにお堂を修復せよという託宣があり、 修復して神楽を奉納したところ豊作となったと言い伝えが書かれている。 又、 境内の大銀杏に登った近所の子供が三十尺以上の所から下の用水堰に落下して気を失ったが、 翌日には何事もなかったかのように快復し、 神の助けと信仰を集めた。 安永五年 (一七七六) 新しく堂社建立し名称を崇染宮と改め、 昭和三十六年本庁より承認を得て現在に至る。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
私が最近、大変面白く読んでいる(勉強させてもらっている)藤崎町の『ふるさとの史跡散歩』にも、「ここの神様は思いやりの深い神様で、その年の豊凶のお告げがあったり、水害から農産物を救ったり、境内の銀杏の大木にのぼり、高い枝から落ちた子どもを無傷で救ってくれたり‥といった物語が伝えられています。」と書かれていました。 - 古くから地域の産土社であったことが分かります。
境内には、ひときわ大きなイチョウの巨木 がありますが、これが、「神様が高い木から落ちた子どもを救った」といわれる御神木なのでしょう。そんな伝説にふさわしいなかなかの大樹です。
拝殿の前に馬頭観音の碑 と2つのお堂が立っていましたが、ひとつには神馬が奉納されていました。そして、もうひとつのお堂の中を覗いて見ると、そこには亀に乗った女神像。水の神・水虎様 でした。以前からこの地は、近くを流れる十川の氾濫の常習地帯で、その犠牲者が多かったことから水虎様を祀ったとされています。
地域の「蒼前様」は馬頭観音信仰と結びつき、古くから崇敬されてきた分けですが、明治になると神仏分離によって「惣染宮」を称していた社の多くは「保食神社」となりました。これは、保食神(うけもちのかみ)が食物神であるとともに「牛や馬の神」でもあったことに関係するとされています。
- ここ崇染宮は、その名の通り、古くからの蒼前様信仰を伝えている社です。
◇崇染宮





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以前、五所川原市脇元の洗磯崎神社を訪ねましたが、十三湊の支配者であった安東氏が、祖神である「荒吐神(アラハバキ)」を祀り建立した神社で、かつては荒覇吐神社を称していた社でした。その後は薬師信仰がこの地に根づき、薬師堂または薬師宮と称されましたが、明治の神仏分離によって、大己貴命と少彦名命を御祭神とする洗磯崎神社となった分けです。
この脇元の洗磯崎神社と同名の神社が藤崎町にあります。

藤崎町の林崎地区に鎮座するこの社は荒磯崎神社。
その由緒については、【「荒磯崎神社」(あらいそざきじんじゃ)は、江戸時代初め頃の寛永11 年(1634 年)に創建されたと伝えられています。その頃は薬師堂で、飛龍権現を合祀していたといわれます。その後、明治3年の神仏分離の際に、闇靄神社(くらおうじんじゃ)となり、間もなく現在の荒磯崎神社となったようです。荒磯崎神社には、少彦名命(すくなびこなのみこと・記紀に登場する温泉・医療の神様)と大己貴命(おうなむちのみこと・大国主命)が祀られています。】と紹介されています。
昔は薬師堂と呼ばれていたことや、御祭神が少彦名命と大己貴命であること、改名の経緯など、「洗」と「荒」の違いはありますが、ほぼ脇元の洗磯崎神社と同様の由緒を持つ社といっていいでしょう。
また、この神社がかつて「荒覇吐神社」と呼ばれていたかどうかは分かりませんが、藤崎町は安東氏発祥の地であったことから考えると、昔は、荒吐神が祀られていたのかも知れません。
林崎は五能線沿いにある集落ですが、この神社はりんご畑に囲まれた道路沿いに鎮座しています。私が訪ねたときには赤と黄色の紅葉が鮮やかでした。
神馬や狛犬などを見ながら参道を進んで行くと、拝殿の隣に大きな猿田彦大神の碑とひとつの赤い祠が見えます。中を覗いて見ると、左右のきつね像をしたがえた大きな神像が中央にあります。これは薬師様なのかも知れません。かつて薬師堂と呼ばれていたことを思い起こさせる祠です。
薬師様はもちろん、御祭神の少彦名命もともに「医療の神様」な分けですが、この神社には、【荒磯崎神社の神様は、ウドで目をついて怪我をしたことがあるため、昔、村の人達は決してウドを食べなかった。】という話も伝えられています。
「ウドの大木」即ち「無用の長物」といわれるように、生長しきったウド(独活)は、食用にも木材にも適さないとされていますが、若葉やつぼみ、芽、茎などは貴重な山菜である他、その根は湿布などにも用いられた薬草であったといわれています。
昔は、この辺りに自生するウドを採りに村人が競って押しかけ、中には、枝などで身体を傷つけた者も多かったのだと思います。この「ウドで目をついた神様」の言い伝えは、そのような村人への「戒め」なのかも知れません。
ところで、「ウドで目をついた神様」の話は、平川市の猿賀神社にもあります。
- 猿賀の神様はウドのからで目をついたために片目になってしまった。以来、神池にすむ魚も片目になった。猿賀様に眼病治癒を祈願する者は、神様が嫌うウドを食べない。 - という話です。
この伝説は、弘前、平川、藤崎、黒石などこの辺り一円に伝わる話のようです。また、眼病平癒の神様として薬師様が崇められてきたことは、多くの薬師堂に、目がよく見えるようにと「穴のあいた石」が奉納されていることからも分かります。私は、よく注意して見なかったのですが、ここ荒磯崎神社の祠の下にもいくつか穴あき石 が置かれていました。
◇荒磯崎神社





さて、この神社には次のような興味深い伝説があります。
【昔、神社の社殿に乞食が泊まり込み、ご神体を盗み出し、それがいつの間にか下北の恐山に納められていました。恐山には林崎神社という祠があり、そのご神体はいつの間にか林崎の方角を向いているのですが、そのご神体を林崎の人達が取り返しに行くと必ず風雨になるという。】
林崎神社というのは、恐山の「林崎大明神」のことですが、その祠の名前は、この荒磯崎神社がある「林崎」という地名からとられたものなのでしょうか。遠く離れた霊場・恐山との結びつきにはびっくりさせられます。
それにしても、元々、自分たちの御神体であった神様を元の場所へ安置しようと取り返しに行った人々が祟られる(嵐になる)とは、何ともかわいそうな話ですが、裏を返せば、それだけ、この御神体は「強い霊力を持つ神様である」ことを語っているのかも知れません。
◇荒磯崎神社②





※記事の中の【】は、藤崎町「ふるさとの史跡散歩」を参照しました。
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☆つがるみち☆



早いもので、今年も残すところ1ヶ月あまりとなりました。
例年、この時期になると各地域の神社では、新しい注連縄作りなど、新年を迎える準備が行われます。
以前お伝えしたつがる市・木造の三新田神社では、新年の五穀豊穣を祈願して33の米俵を奉納する習わしがありますが、今年もまた作業が進んでいることと思います。
また、お正月恒例の地域行事が行われる神社も数多くあります。
鬼伝説で知られる弘前市鬼沢の鬼神社では、毎年、旧正月に「鬼神社しめ縄奉納裸参り」が行われますが、これは、【通称「鬼沢のハダカ参り」と呼ばれ、弘前市の無形民俗文化財に指定されており、男衆がふんどし姿で、神社にしめ縄を奉納する行事です。最大の見どころは、男衆が冷水に漬かる水垢離(みずごり)の儀 です。これは神仏にお願いする前に穢れを取り除き、心身を清めるために行います。男衆は水の入った樽から出て、列の後ろにあるたき火で暖を取り、再び樽に入るという行為を繰り返します。※弘前市シティプロモーションHP他より】というものですが、400年前から続く伝統行事で、毎年多くの見物客が境内を埋め尽くすとのことです。

この鬼神社と同様、毎年、寒中をついて勇壮な注連縄奉納行事が行われている神社が、藤崎町常盤地区(旧常盤村)に鎮座している常盤八幡宮です。
その由緒については詳らかではありませんが、寛文4年(1664)の建立とされていて、天和年間(1681-1683)の古図にこの神社が描かれているなど、古い歴史をもつ地域の代表的な社であったようです。御祭神は誉田別命と気長足姫命(おきながたらしひめのみこと ※神功皇后)です。
大きな社号標から続く参道には、いくつかの鳥居が立てられており、それらをくぐり抜けると境内へと出ます。
私が訪れたときには、境内はイチョウの葉っぱで覆われていました。「落ち葉の絨毯」といった感じです。その実を踏まないように気をつけて歩いたのですが何個か踏んでしまいました(帰りの車の中は大変でした)。
境内には、庚申塔や二十三夜塔、馬頭観音碑などが祀られていましたが、この神社が古くから村の産土社であることを示しているのが2個の「力試石」の存在です。
力試石(力石)については、【江戸時代から明治時代にかけては力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。・・・人々は、山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰り、力石とした。重さが異なる石を複数用意することが多かった。置き場所は神社や寺社、空き地、道端、民家の庭など様々であったが、若者が集まるのに都合が良い場所であった。※wikipediaより】とありますが、「神社・寺院に置かれた特定の石を持ち上げて重いと感じるか軽いと感じるかによって吉凶や願い事の成就を占うものである。もともと占いのために持ち上げていたものが、娯楽や鍛錬のための力試しになった」という説もあるようです。
いずれにしても、娯楽の少なかった時代に、地域の中心であったこの神社の境内において、「力試し」が賑やかに行われていたのでしょう。2個の石は「重すぎず軽すぎず」。がんばらないと持ち上げられない・・・そんな大きさでした。
◇常盤八幡宮①





さて、恒例の注連縄奉納行事ですが、正式には「年縄奉納行事(としなほうのうぎょうじ)」と呼ばれているものです。
社頭には社号標とともに木柱 が立っていて、そこには「八幡宮建立は寛文四年(一六六四)、年縄奉納はこのころからと伝えられる。日章旗・扁額・柳樽・福俵・注連縄・邪払からなり、一切を稲藁で作り、多数の男子が締め込み一本で、毎年一月一日に行われる。」と書かれていました。
町の民俗文化財にも指定されているこの伝統行事は、よくTVのニュースや新聞でも報道されるのですが、その様子は、【毎年元日の朝に行われる、五穀豊穣・家内安全を祈願する伝統あるまつりです。長さ4.4メートル、幅2.3メートル、重さ400キロもある巨大なしめ縄を常盤八幡宮に奉納します。極寒の中、裸で水ごりをし、身を清めた締め込み一本姿の男衆が、巨大な年縄を肩にかつぎ「サイギ、サイギ、ドウコウサイギ」の掛け声を町中に響かせながら常盤八幡宮を目指します。※藤崎町HP他より】と紹介されています。 ⇒常盤八幡宮年縄奉納行事
こちらも、先の鬼神社と同様、350年以上の伝統を誇る真冬の催しです。
興味深いのは、常盤八幡宮、鬼神社ともに、注連縄奉納の際の掛け声が、岩木山お山参詣と同じく「サイギサイギ」であるということ。
「懺悔懺悔(サイギサイギ)/過去の罪過を悔い改め神仏に告げこれを謝す。」という唱文は、この神聖な注連縄奉納行事にふさわしいものともいえますが、一方、津軽人の信仰のシンボルは、祖霊の住む山=岩木山であることを思わせます。
◇常盤八幡宮②





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※体調を崩し、入院していましたが、おかげさまで順調に回復し、退院することができました。また、ぼちぼち、記事を更新していきたいと思います。多くの方々から励ましのコメントをいただき、感謝しています。今後ともよろしくお願いします。
☆つがるみち☆



ここは「羽州街道」と呼ばれる国道7号線と黒石~五所川原方面を結ぶ110号線が交差する要所ですが、その道路沿いに鎮座しているのが藤崎八幡宮です。

由緒書きによると、この藤崎八幡宮は【前九年の役(1056年)に敗れた安倍貞任の次子高星丸が、寛治6年(1092年)藤崎築城と同時に、領内の鎮守として、領民の安堵と安東氏の武運を祈願して創立したのが、この旧村社八幡宮である。祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)・・津軽藩政時代においても、代々の藩主は、この神社を崇敬し、藤崎組の総鎮守に定め、安永年間(1772~1781)には、組大神楽を奉納し、藩の繁栄を祈願している】とされています。
今の時期、どこの寺社もそうですが、境内は雪にすっぽりとおおわれていて、体に雪をのせた神馬達も、 とても寒そうです。こちらは狛犬達。 雪のために表情ははっきりと見えませんでしたが、首を大きくひねって顔を正面に向けている姿は、とても愛嬌があります。境内には、いくつかお堂が建っていますが、小ぶりなお堂があったので、中をのぞいてみたら、親子の馬達が住んでいました。

拝殿 にはまだ初詣のなごりが感じられ、その中を のぞいてみると、八幡様のお使いとされる鳩の絵なども掲げられていました。
この拝殿・本殿の後ろ側は小高い丘になっていますが、これが「藤崎城土塁の跡」です。
丘の上には、猿田彦を祀る祠とともに、「安東氏顛末記」 という大きな石碑が立っています。石碑の表面には、文字がびっしりと刻まれていましたが、読めませんでした。文字通り、この地における安東氏の「あしあと」を記したもののようです。境内にはまた、安東氏の末裔の墓所 もありました。
この「顛末記」の隣りに小さな石碑が2つ並んで立っていましたが、雪をどけて見ると、「二十三夜塔」 という文字が浮かび上がってきました。もう一つは、暦応3年(1340年)の板碑で、 この神社の向かい側にある「稱名寺(しょうみょうじ)」の境内から出土したといわれています。
この土塁は国道の方にも延びており、そこには「藤崎城土塁の跡・安東氏発祥の地」という木柱があって、道路側から見ると、その様子がよく分かります。⇒藤崎城土塁

さて、前九年の役で敗れた安倍貞任の子・高星丸は津軽に逃れ、安倍十郎貞義と名乗ったとされますが、藤崎城は、高星丸の子・尭恒(たかつね)が寛治年間(1089~93年)に築城したといわれています。
以後、安東氏を称するようになった子孫達は十三湊に進出し、繁栄を極める分けですが、安東氏が蝦夷地に撤退した後、城は南部氏が支配するようになります。やがて南部氏を駆逐した津軽為信は、ここに義弟の六郎や甥の五郎らを配置して重要な拠点としましたが、1585年(天正13年)頃、この六郎と五郎が川で事故死する事件があったため、その後、藤崎城は廃止されたとも伝えられています。
ー かつては、東西360m、南北800mという広大な平城であった藤崎城は、今、八幡宮の境内にわずかに残る土塁のみです。
ー (谷川健一さんの『白鳥伝説』などによると)藤崎・安東氏の祖である奥州安倍氏は「白鳥信仰」を持つ一族であり、「白鳥八郎」を称し、前九年の役で源頼義軍に抵抗したとされることや、高星丸の子孫の中にも「白鳥太郎」を称する者がいたこと、さらには藤崎城が「白鳥館」と呼ばれていたことなど、藤崎町は白鳥の伝説を残している町といえそうです。そんな藤崎町に例年、多くの白鳥が 飛来することを思うと興趣がつきないものがあります。
☆つがるみち☆



宮城県の刈田郡や柴田郡はその信仰が特に強烈で、そのために仙台藩はこの地方で白鳥を捕獲することを固く禁じていた分けですが、戊辰戦争に勝利し柴田郡に進軍してきた薩長軍の兵士達が、白鳥を乱獲したために、それを見かねた柴田家の家来が白鳥を守ろうと兵士に向かって発砲するという事件(白鳥事件)が起こりました。結果、事件に関与した家来達は処刑され、その責任を取って柴田家当主は切腹したといわれています。

青森県もまた、「県の鳥」として白鳥が選ばれているように、その信仰や伝承が数多く残るところです。おいらせ町・間木堤 や、むつ市・大湊 をはじめ、たくさんの白鳥飛来地がありますが、中でも平内町小湊・浅所海岸 の白鳥は国の特別天然記念物にも指定されています。
昨年亡くなった民俗学者・谷川健一さんは、その著書『白鳥伝説』の中で次のような逸話を紹介しています。
【・・昔は平内の村人は白鳥の来訪する頃には、田んぼや海岸近くに腰を下ろして待った。白鳥が五羽六羽、五十羽百羽と飛んでくると「おひさしゅうがす」「今年も無事でなあ、待ってましたじゃあ」と声をあげ、眼をうるませる。・・白鳥が神の使者であることを知らないで、筒先を向ける他所の漁師があると、血相を変えて筒口に立ちふさがり、「あれを撃つならその前におれを撃ってくれろ」と叫んだ・・】
また「源義経=成吉思汗」説を取り上げた高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』(この推理小説、若い頃夢中になって読みました)には、【・・ 義経は八戸にいたとき、地元の豪族の娘と深い仲となり、娘は義経が蝦夷地へ旅立った後に、鶴姫という姫を産んだ。やがて成長した姫は地元の阿部七郎という武士と恋仲になるが、阿部家は頼朝に仕える身で、義経の遺児と結ばれることは許されなかった。思い余った二人は、義経を慕って、蝦夷地への逃避行をはかったが、夏泊まで来た時、追っ手が迫り、二人は半島の絶壁で胸を刺し違えて、海に飛び込んだ。以来、浅所海岸には薄幸の娘の霊を慰めるために、義経の魂が乗り移った白鳥が、毎年飛来する。】という「椿山心中」の話が語られています。⇒夏泊半島付近
ー 前述した柴田郡の「白鳥事件」といい、この平内町に伝わる伝承といい、正に【・・かくも狂おしい思慕を人間から寄せられる対象は白鳥以外にはない。 ※谷川健一『白鳥伝説』 】というところでしょうか。

さて、藤崎町もまた、昔から白鳥の飛来地として有名な所で、町を流れる平川には、康平年間(1060年頃)または、正平年間(1356年頃)に万を超える白鳥が飛来し、安東氏の居城・藤崎城は「白鳥の館」と称されていたといわれています。
現在、「白鳥ふれあい広場」と名づけられた場所に白鳥が飛来するようになったのは昭和40年(1965年)頃からで、土手には白鳥観察施設「こ~やまるくん」 も建てられている他、川縁までゆるやかな階段が設置され、白鳥と間近で接することができるため、家族連れで賑わっています。
ー 谷川健一さんの『白鳥伝説』は、古代の畿内には、「饒速日命(ニギハヤヒ)」を祖とする物部氏が築いていた王国があり、やがて九州から押し寄せた勢力(神武東遷伝承に象徴される。谷川説では物部氏も神武以前に九州から東遷してきた氏族とされる。)によって、畿内を追われた物部一族は、蝦夷と共に東北各地に進出し、独自の文化を築くに至った・・とするものです(※内容が難しく、私もよく理解していませんが、東北の熱烈な白鳥信仰は自然発生的に生まれたというよりも、白鳥を「神」と崇めていた集団・物部氏及びその一族と結託した蝦夷によって広がったもので、根強い「白鳥信仰」、白鳥に関する伝説などを探ることによって、古代東北及び日本の歴史の深層がみえてくる・・ということだと思います)。
藤崎町は「前九年の役」で戦死した安倍貞任の遺児・高星丸(たかあきまる)が藤崎に落ち延び、やがて安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地としたと伝えられる町ですが、伝承によると、この奥州安倍氏の祖は、物部一族と共に神武軍に頑強に抵抗した長髄彦(ながすねひこ)の兄弟「安日彦(あびひこ)」とされています。また、安倍貞任の弟・則任は「白鳥八郎」と称していたとされることや藤崎城が「白鳥の館」と呼ばれていたことなど、藤崎町は「白鳥」との深いつながりを感じさせる町です。
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弘前市・貴船神社の一帯は「十面沢(とつらざわ)」と呼ばれていますが、この地名は、田村麻呂が「岩木山赤倉の鬼」を征伐した時、鬼(蝦夷)の面を「十面」取ったことからついたともいわれています。
南津軽郡・藤崎町の「藤崎」という町名もまた、田村麻呂にまつわる話からその名がつけられたとされていて、そんな伝承を伝えている社が鹿島神社です。

藤崎町は中世の頃から、交通・政治・経済の要所として開けた町ですが、藩政時代にはここ鹿島神社の辺りには、馬継所や代官所があったといわれています。
一の鳥居をくぐって進む境内はすっぽり雪景色。 鳥居の赤、松の緑、そして雪の白が鮮やかです。
境内には、3本のケヤキの大樹がありますが、これはそのうちの一本 で、幹回りが5m、高さが30mといわれています。上の方の枝には、「雪の花」が咲いていて、 拝殿の前の狛犬達も「雪帽子」をかぶっていました。

この拝殿 の左側にお堂が並んで建っていますが、これは神馬堂で 、中には大きな神馬 が納められていました。
拝殿右側には土俵があって 、そのそばにひとつの碑が立っています。これは、藤崎町出身の名大関「大ノ里」の顕彰碑です。
大ノ里は大正時代から昭和の始めにかけて活躍した名力士で、身長は160cmそこそこ、体重は100kgにも満たない小兵ながら、「肉体と力には限界があるが技には限界がない」として、精進を重ね、大関にまで昇進した人物です。同じく小兵ながらも「土俵の鬼」と呼ばれた後の横綱・若乃花(初代)や、「技のデパート」舞の海といった青森県ゆかりの力士達の大先輩だった分けです。
ー 大ノ里はその温厚な人柄と、若手に対する熱心な指導のために、多くの力士達の人望を集めていたとされています。ここ鹿島神社の土俵では、その偉業をたたえて例年「大ノ里杯少年相撲大会」 が行われています。

さて、この社は、多くの「鹿島神社」と同様、「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」を祀っている分けですが、由来によると、【平安時代初め坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際、蝦夷の頭領・恵美の高丸の霊を退治した時、田村麻呂の守護神である毘沙門を祀ったのが始まり。 ※「ふるさとの史跡散歩」藤崎町】とされています。
「高丸」は、同じく蝦夷の頭領「悪路王」や「赤頭」と共に、岩手県・平泉の「達谷窟(たっこくのいわや)」 に立てこもり、田村麻呂軍に激しく抵抗したとされる伝説上の人物ですが、滅ぼされた高丸の霊魂がここ藤崎に飛んできたということでしょうか。蝦夷の頑強さを物語る伝承ではあります。
その田村麻呂が、勝利に感謝し、毘沙門を祀った時、【地面に突き立てた藤の杖(または「むち」)から枝や根がのび、付近を藤の咲く里・「藤咲村」と呼ぶようになった】といわれており、やがて「藤咲」が「藤崎」となり、町名の由来にもなったといわれている分けです。
このような「藤崎町の発祥」にまつわる伝承を残す鹿島神社は、藤崎八幡宮と並んでこの地域を代表する神社です。雪のために近くで見ることはできませんでしたが、本殿には、 その由緒を感じさせる鮮やかな装飾がほどこされていました。
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青森県の県南地方・南部町に「法光寺」というお寺があります。曹洞宗の東北屈指の名刹とされ、境内の承陽塔(三重の塔) は、日本一の大きさであるといわれています。その縁起によると、この古刹の開祖は北条時頼とされ、次のような伝説が残っています。
~鎌倉時代に、旅僧に身をやつしたさきの執権・北条時頼がこの地方を旅したとき、名久井岳中腹にある寺に一晩の宿を乞うたが断られた。やむなく山奥の別の庵寺に宿を求めたところ、庵寺の捐城(えんじょう)和尚は快く迎え入れ、厚くもてなされた。和尚の人柄に深く感激した時頼は翌朝自分の持っていた扇子の表に「千石を与える旨のお墨付き」を残し、ひそかに立ち去った。翌年、鎌倉から使者が来て、捐城和尚を住職とする法光寺が創建された。~ この話は、青森県に残る最明寺・北条時頼の廻国伝説のひとつですが、藤崎町には、先回の記事でも少しふれましたが、時頼の愛妾・唐糸(からいと)御前にまつわるもの哀しい伝承が残っています。時頼廻国伝説の「津軽版」といえばいいでしょうか。

伝説によると、~唐糸御前は藤崎の生まれで、執権・北条時頼に仕えていました。美しく心根の優しい才色兼備の女性で、時頼から深く寵愛されていましたが、そのことが周囲の女性達の妬みをかい、鎌倉を逃れ、生まれ故郷の津軽・藤崎に隠れ、ひっそりと暮らしていました。やがて執権を退いた時頼が、諸国行脚の旅の途中、津軽を訪れます。その話を聞いた唐糸は、「田舎に落ちぶれ、衰えやつれた姿を見せるのは恥ずかしい」と、柳の枝に衣を掛け、そばの池に身を投げてしまいました。※『青森の伝説』角川書店他を参考にしました。~ といわれています。

この唐糸御前の「遺跡」は、現在は唐糸御前史跡公園 になっていて、園内には杖を片手に旅姿の唐糸の銅像 や、その身を投じたとされる柳の池 などが造られています。
西側の一角に大きな松の古木がある場所がありますが、この辺り一帯は、唐糸御前が通っていたお寺・平等教院があったところとされており、赤い柵の中には延文の板碑と「唐糸」と刻まれた石碑 が立っていました。
唐糸御前の死を深く悲しんだ北条時頼は、この平等教院に墓をたて、厚く弔ったといわれており、幕府や地元の安東氏などの庇護を受け、「護国寺」と呼ばれ、中世津軽における宗教や文化の中心となったとされています。
その後、津軽氏の時代になり、護国寺は「万蔵寺」となり、弘前市・禅林街に移ります。(私はまだ訪ねてはいませんが)この万蔵寺には、唐糸御前の位牌と毘沙門天像が祀られていますが、唐糸は遠く離れた時頼の身を案じて、毘沙門天を肌身離さず持っていたとされ、死後にそれを知った時頼が持ち帰り、一回り大きな像をつくり、寄進したと伝えられています。
唐糸御前の伝説は、安東氏を中心とした中世津軽・藤崎と鎌倉との盛んな交流を物語る話といえます(一説には、唐糸は安東氏の娘であるともいわれています)。
また、北条時頼は弘長3年(1263年)に亡くなりますが、十数年後には「元寇」が起き、それをきっかけに鎌倉幕府の土台は崩れていきます。 ー そういったことを思うと、この「唐糸御前伝説」は、もの哀しい話ではありますが、時頼の廻国伝説とあいまって、北条政権が咲かせた「花」のひとつともいえそうです。
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そんな藤崎町にも、水害から人々の命や生活を守るために「人柱」となった人物の話が語り伝えられています。名前は堰八 安高(せきはち やすたか)。安高を祀る堰神社を訪ねてみました。 ※以下、画像と○○○○をクリックしながらご覧ください。

堰神社は藤崎町内の細い路地の曲がり角付近にありますが、石造りの一の鳥居をくぐると、思ったよりも広い境内 に出ます。鳥居のそばには「水神」・堰八 安高を祀る社にふさわしく庭園風の池 が造られていました。正面のどっしりとした拝殿 の内部は拝観できませんでしたが、中には、堰八 安高が人柱となった場面を描いた絵馬?が奉納されているということです。
この拝殿の隣りに神明宮 が建っていますが、ここの狛犬 の片方は、子どもの頭を撫でているような格好で、とてもほほえましい感じがします。向かい側には小さな天満宮。 堰八 安高の霊を鎮魂するために建てられたのでしょうか。

さて、堰八 安高は通称を太郎左衛門といい、前述の安倍貞任の子・高星丸の子孫であり、「堰八」に住み、「堰守」をしていたので氏を堰八と称したといわれています。
当時(安土桃山~江戸前期)、この辺り一帯を流れる浅瀬石川の中流域には下川原堰、枝川堰、小阿弥堰、藤崎堰、横沢堰がありましたが、安高は「藤崎堰」の堰守を務めていました。この藤崎堰は、現在の黒石市・境松付近(※右画像)にあり、慶長年間には出水のたびに堰を破られ、莫大な費用と労力を投じてこれを修復するものの、堰の崩壊は止まらなかったといわれています。
人々の苦しみをみた安高は、自ら人柱となって堰の崩壊を防ぎ止めようと、津軽藩主に許可を願い出ましたが、「国法に背く行為」として許されませんでした。しかしながら、その後も水害による堰の決壊が続いたため、安高の願いが通じ、ついにその許可がおりた分けです。安高は大いに喜び、一週間潔斎し、慶長14年(1609年)4月14日、検視役人と感涙にむせぶ村民の面前で水中に身を投じて人柱となったということです。先回の川崎権太夫同様、悲壮な話です。

この話には後日譚があり、安高の志を賞した藩主はその子どもに田地を与えるお墨付を授けましたが、その後、そのお墨付を盗まれてしまったために賞田を没収され、一家は零落したということです。ところが、寛永15年(1638年)、氾濫のために堰はまた崩壊し、大被害を被った村人達からは、「これは賞田を没収された安高の霊が祟ったものである」という声が上がりました。奉行はこの旨を藩主に申し出、翌16年(1639年)に安高の霊を祀ったところ、以後水害は絶えたと伝えられています。藤崎に安高を祀る福田宮堰神社が創建されたのは正保2年(1645年)のことでした。
境内には一本の見事な大銀杏 があります。樹齢400年余りといわれるこの大樹。堰八 安高の供養のために植えられたものなのでしょうか。その大きな姿から 、安高の思いが伝わってくるようです。
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