板柳町の掛落林(かけおちばやし)に鎮座する稲荷神社です。
以前、鳥居の鬼っこを探して冬場に訪ねたのですが、その時は鬼の写真を撮っただけで、境内には入りませんでした。
二の鳥居に鬼っこがいます。


御祭神は倉稲魂命で、創建は寛永20年(1643)あるいは正保3年(1646)といわれていますが、かつては「飛竜宮」とも称したようです。
その後、明治6年に稲荷神社と改めて海童神社に合祀され、明治8年に復社しました。



拝殿の横に御神木である「サイカチ」の木があります。説明を記した木柱には、
【掛落林は、正保2年(1645)の『津軽知行高之帳』に石高122石5斗5升とあり、寛永年間(1624~1643)に拓かれたと考えられる。寛永20年(1643)勧請の観音堂(現稲荷神社)の境内に生えるサイカチの主幹は、地上5メートルの所まで空洞である。マメ科に属するサイカチの実は石けんの代用や、漢方薬として利用されることがある。】とありました。
木柱の裏側には、【樹齢 300年 樹高 約8m 幹周り 4m48cm】と書かれていました。説明にあるように、かなり空洞化が進んでいますが、なかなか風格のある老木です。

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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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☆つがるみち☆
☆名木めぐり☆
☆鬼ッコめぐり☆
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二の鳥居に鬼っこがいます。




御祭神は倉稲魂命で、創建は寛永20年(1643)あるいは正保3年(1646)といわれていますが、かつては「飛竜宮」とも称したようです。
その後、明治6年に稲荷神社と改めて海童神社に合祀され、明治8年に復社しました。



拝殿の横に御神木である「サイカチ」の木があります。説明を記した木柱には、
【掛落林は、正保2年(1645)の『津軽知行高之帳』に石高122石5斗5升とあり、寛永年間(1624~1643)に拓かれたと考えられる。寛永20年(1643)勧請の観音堂(現稲荷神社)の境内に生えるサイカチの主幹は、地上5メートルの所まで空洞である。マメ科に属するサイカチの実は石けんの代用や、漢方薬として利用されることがある。】とありました。
木柱の裏側には、【樹齢 300年 樹高 約8m 幹周り 4m48cm】と書かれていました。説明にあるように、かなり空洞化が進んでいますが、なかなか風格のある老木です。



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だいぶ前、冬の時期に行った神社を訪ねなおしています。
先日は、板柳町の海童神社に行ってきました。

由緒等の詳細は、以前の記事を見ていただければと思います。
※以前の記事 ⇒海童神社① ⇒海童神社②


HP「青森県:歴史・観光・見所」には、
【海童神社(青森県板柳町)の創建は文禄2年(1593)、当時の領主津軽為信が豊臣秀吉の朝鮮出兵の際(肥前名護屋城の本陣付近に着陣したとの記録が残されています)、海上安全の祈願する為に板屋野木の船岡の地に宝量大権現を勧請し宝量宮と称したのが始まりとされます。江戸時代に入ると津軽家は徳川家に転じた事などから衰退し信仰が疎かになっていたところ、川端町の懇願により正保元年(1645)に大川(岩木川)の守護神として現在の五所川原市川端町に遷座、しかし、洪水などが続いた為、当時の板柳は舟運の拠点となった川湊であった事からも海神、水神が祀られる地としては適地と考えられ、承応元年(1653)に現在地に遷座しています。※以下略】とあります。




今回、行ってみて、あらためて由緒ある大きな社であると感じました。
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先日は、板柳町の海童神社に行ってきました。

由緒等の詳細は、以前の記事を見ていただければと思います。
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【海童神社(青森県板柳町)の創建は文禄2年(1593)、当時の領主津軽為信が豊臣秀吉の朝鮮出兵の際(肥前名護屋城の本陣付近に着陣したとの記録が残されています)、海上安全の祈願する為に板屋野木の船岡の地に宝量大権現を勧請し宝量宮と称したのが始まりとされます。江戸時代に入ると津軽家は徳川家に転じた事などから衰退し信仰が疎かになっていたところ、川端町の懇願により正保元年(1645)に大川(岩木川)の守護神として現在の五所川原市川端町に遷座、しかし、洪水などが続いた為、当時の板柳は舟運の拠点となった川湊であった事からも海神、水神が祀られる地としては適地と考えられ、承応元年(1653)に現在地に遷座しています。※以下略】とあります。




今回、行ってみて、あらためて由緒ある大きな社であると感じました。
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板柳町夕顔関(ゆうがおぜき)の八坂神社。ここに来たのは2回目です。前回は、この神社の二の鳥居に「鬼っこ」が掲げられているとのことで訪ねたのでした。今回は4月に行ってみたので、境内から見る岩木山にはまだ雪がたっぷり残っていました。

この神社の御祭神は素戔嗚尊で、その由緒については『北津軽郡神社誌』等に、
【かつては「夕顔関正観音堂」と呼ばれていた。開発の時に、異石が二つあり、その前を掘ると長三寸の観音像が出てきたので、それを祭った。寛永二年、当村の草開者永山六左衛門が建立。明治六年に正観音堂を五林平村八幡宮へ合祀。明治八年復社して八坂神社に改称。】とあります。
地中から出てきた観音像は、今も本殿内に納められていると言われていますが、かつては、境内に山伏たちが集まり、盛大に神事が執り行われていたようです。


鳥居の赤い鬼っこを見ながら参道を進むと、大きなトチノキがあります。樹齢が約450年、板柳町の名木に数えられている大木です。拝殿の前には狛犬が一対。本殿の後ろはりんご畑になっていました。

この神社を再訪しようと思ったのは、ここに津軽の水神・水虎様が祀られていると聞いたからです。
村内の水難防止や開発の安全を祈願して祀られることが多い水虎様ですが、かつてはこの地でも大規模な用水工事や堤防建設が行われたようです。
拝殿の右側に、注連縄が張られた庚申塔と小さなお堂がひとつありましたが、お堂の扉を開けて見ると、亀の背中に乗った女神姿の水虎様がいました。

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この神社の御祭神は素戔嗚尊で、その由緒については『北津軽郡神社誌』等に、
【かつては「夕顔関正観音堂」と呼ばれていた。開発の時に、異石が二つあり、その前を掘ると長三寸の観音像が出てきたので、それを祭った。寛永二年、当村の草開者永山六左衛門が建立。明治六年に正観音堂を五林平村八幡宮へ合祀。明治八年復社して八坂神社に改称。】とあります。
地中から出てきた観音像は、今も本殿内に納められていると言われていますが、かつては、境内に山伏たちが集まり、盛大に神事が執り行われていたようです。


鳥居の赤い鬼っこを見ながら参道を進むと、大きなトチノキがあります。樹齢が約450年、板柳町の名木に数えられている大木です。拝殿の前には狛犬が一対。本殿の後ろはりんご畑になっていました。

この神社を再訪しようと思ったのは、ここに津軽の水神・水虎様が祀られていると聞いたからです。
村内の水難防止や開発の安全を祈願して祀られることが多い水虎様ですが、かつてはこの地でも大規模な用水工事や堤防建設が行われたようです。
拝殿の右側に、注連縄が張られた庚申塔と小さなお堂がひとつありましたが、お堂の扉を開けて見ると、亀の背中に乗った女神姿の水虎様がいました。



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板柳町太田は、町の中心部へ向かう県道276号線沿いにある集落ですが、ここに月讀神社が鎮座しています。
神社の境内に「月読命」と書かれた石碑が立っているのはよく見かけますが、同名の神社は、津軽には多くある分けではありません。
この神社は、その中のひとつなのですが、一の鳥居の扁額には「月讀神社」、社号標には「月夜見神社」とありました。
境内は道路沿いにあり、周りを住宅に囲まれていますが、一の鳥居のそばには、赤い鳥居が二つ並んで立っています。それぞれの鳥居の奥には馬頭観音と庚申塔、猿田彦の碑がありました。
境内には、御神燈と狛犬、神馬がそれぞれ一対ずつ置かれています。ちょっと奥目の狛犬と眠そうな目をした小太りの神馬ですが、拝殿の木鼻とともに、とても表情が優しくユーモラスです。
その由緒については、
【御祭神:月讀命 草創不詳。 明治六年深味八幡宮に合祭したが、 その後分離し復社した。 月読神社または月夜見神社とも書き、 北向きの社である。
御神体は仏像 (牛頭天王) と神像 (素戔嗚尊) の二体で、 神仏混淆時代のものと、 神仏仕分け (明治四年) 以後のものと二体になっている。 この地方では、 子の年生まれの守神として信仰されている。 ※青森県神社庁HP】とあります。詳細は不明ですが、由緒にあるように、かつては牛頭天王を祀る社だったようです。
◇月讀神社









御祭神の月読命(ツクヨミ、ツキヨミ)については諸説ありますが、
【『古事記』ではイザナギが黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大神、鼻から生まれた須佐之男とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。※wikipediaより】とされ、一般的には太陽を象徴する天照大神と対になって、「月の神」「夜を統べる神」と考えられています。
ですが、姉のアマテラスや弟のスサノオのように、神話にはあまり登場せず、どちらかといえば影の薄い神で、ツクヨミを祀っている神社は、アマテラスやスサノオに比べて、はるかに少ないといわれています。
『日本書紀』には、【天照大神から保食神と対面するよう命令を受けたツクヨミは保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、ツクヨミは「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。天照大神はツクヨミの凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになった】とあります。
いわゆる「食物の起源」を物語る神話ですが、『古事記』では、同様の話が、ツクヨミがスサノオに、保食神が大気津比売神(オオゲツヒメ)として語られているところから、ツクヨミとスサノオを同一視する説もあるようです。
ここ月讀神社の由緒に「御神体は仏像 (牛頭天王) と神像 (素戔嗚尊) の二体」と書かれているように、牛頭天皇は素戔嗚尊と習合していたため、その社は、神仏分離の際に素戔嗚尊を祀るようになりました。その多くは「八坂」や「廣峯」という神社名になったのですが、ここが「月讀神社」となったのはツクヨミ=スサノオという認識があったからなのかも知れません。

また、由緒に「北向きの社である」と書かれていますが、神社の社殿の方角は基本的に南向き、次いで東向きが多いとされています。(にわか勉強ですが)これは「天子南面す(天皇は南に面して君臨する)」という思想によるものだそうで、要するに「尊い神様」は北を背にして南向き、または西を背にして東向きに祀るのが正しいとされている分けです。
ですが、ネットなどで調べてみると、各地には「北向きの社」もけっこう存在しています。その中には北向きにする「いわれ」を持つ社もありますが、多くは地理的条件が関係しているようです。それにしても「北向きの社である」ことが強調されているところをみると、この神社の配置は、津軽地方でも珍しいということなのでしょう。
面白いのは、この神社が「子の年生まれの守神として信仰されている」ことです。十二支を使った方位では「子の方角」は「北」。「北向きの社に対する信仰」から「北(子)の方角を尊ぶ風習」が生まれ、「子年の守り神」となっていったのでしょうか。
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板柳町柏木地区は県道38号線に沿って広がっている村落ですが、ここに「鴨泊(かもどまり)」という集落があります。
道路沿いはりんご畑になっていますが、集落の中心部に注連縄が張られた百万遍の塚が立っています。
その百万遍塚の斜め向かい側に鳥居が立っていますが、そこから参道を歩いて行くと八幡宮の境内へ出ます。
この八幡宮の由緒については、
【御祭神:譽田別尊 大正四年十二月二十日、 斎藤伝左エ門が書いた柏木郷社八幡宮資料に 「寛永年中同村本尊弥陀薬師観之三尊堂建立ス」 とあり、 元禄十五年社堂社地境内記には 「延宝三年建立」、 又、 延宝九年堂宮神主山伏行人之覚に、 「上柏木村弥陀堂万治元年建立」 とあり、 万治元年、 弥陀、 薬師、 観音を勧請し三尊堂と称したと考えられる。 安永五年、 柏木十七ケ年の祈願所に指定され、 明治六年四月八幡宮と改め郷社、 同四十二年四月二日、 神饌幣帛料供進指定神社。 ※青森県神社庁HP】とあります。
境内には「内神宮」などの末社や真っ白い神馬、とぼけた顔の狛犬などがありました。詳しい縁起については分かりませんが、昔からの神仏混合の名残を感じさせる神社です。
◇柏木八幡宮






柏木八幡宮から少し進んだ所に「牡丹森(ぼたんもり)」という集落があります。ここにも八幡宮が鎮座していますが、その住所は「牡丹森字鴨泊」。同じくここも「鴨泊」です。
「鴨泊」という地名の由来については分かりませんが、車で数分の距離。かつて、この辺り一帯は、広い沼地で、水辺で水鳥たちが羽を休めていた・・・そんな感じもします。
神社の入口には大きな松の木が植えられていて、そのそばには、庚申塔や二十三夜塔がありました。いくつかの鳥居をくぐりながら参道を進むと境内へと出ます。
社殿を取り囲むように池がめぐらされ、なかなか趣のある境内です。本殿は、拝殿の後方、少し小高い丘の上に立っていました。
◇牡丹森八幡宮





拝殿のとなりに、鳥居をともなった末社が立っていますが、覗いて見ると、その中には大きな石と鏡、そして龍に乗った女神像が祀られていました。この女神様、両手を合わせたその姿からして、津軽の水神・水虎様だと思うのですが、水虎様は亀に乗っているのが一般的なのですが、ここは龍。水虎様なのでしょうか??
拝殿前の狛犬達は、背筋がすっくと伸びた姿形です。神馬は白。後ろ足の部分の風化が進み、白いテープを巻かれた姿は、少し痛々しい感じがします。馬の首(たてがみ)を思わせる石碑に彫られている石仏は、不動明王でしょうか、馬頭観音でしょうか。
この神社の由緒については、
【御祭神:譽田別尊 同社由緒書に 「勧請年月不詳、 寛永十七年再建、 境内牡丹多かりし故に村名とす」 とあり、 「延宝九年堂宮神主山伏行人之覚」 には 「牡丹森八幡宮寛文十年村中氏子建立」 とある。 当社は明治六年四月柏木八幡宮へ合祭、 同八年二月復社、 同九年十二月村社、 同四十二年八月二十七日神饌幣帛料供進指定神社。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
- 「境内牡丹多かりし故に村名とす」とありますが、「牡丹森鴨泊」とは、ほんとにきれいな地名です。
◇狛犬、神馬ほか




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七月から八月にかけて、各地の神社では例祭が行われます。例祭日が近づくと、鳥居に国旗が掲げられ、社殿にも華やかな幕が垂れ下がります。七月の末に、板柳町の神社を訪ねたのですが、ちょうど、例祭の日にあたっていました。
板柳町に野中という集落がありますが、ここに八幡宮が鎮座しています。道路沿いにある神社なので、車をとめる適当な場所が見つからず、失礼とは思いましたが、神社の向かいのお宅の庭にとめさせてもらいました。
「えが。」
「えよ。」
会話らしくない会話ですが、津軽ではこれで用が足ります。快く、車をとめることを承知してくれました。
このお宅では、庭先でご主人と奥様が何か忙しそうにしています。ご主人は、ペットボトルが詰まった箱を神社の方へ。奥様はバケツにいっぱい水を汲んで雑巾を片手に、これまた神社の方へ。
「よみや(宵宮)だが。」と聞くと、「んだ(そうだ)。」と言って、にっこり笑いました。どうやら、今日は例祭のようです。
一の鳥居には、二本の日の丸が掲げられ、幟旗も立っています。幟には「八幡宮稲荷神社」と書かれていました。
「八幡宮のはずだが・・」と思いましたが、この神社の由緒については、
【御祭神:譽田別尊 倉稲魂命 承応三年の勧請と伝えられる。 村役人の提出した天和書上帳を基礎とした貞享惣検地の水帳に 「野添村 八幡宮 寛文四年在建立」 とあるが、 延宝九年営宮神主山行人之覚には表れていない。 これは、 あるいは延宝八年八月の大洪水で壊れ、 天和から貞享にかけて再建されたものと思われる。 明治六年野中村の稲荷神社とともに境村八幡宮に合祭となったが、 参詣に不便のため両村協議のうえ、 稲荷神社と合祭して、 社地を野中村に定める事に申請。 同八年二月許可、 同九年十二月村社、 大正四年七月十三日神饌幣帛供進指定神社。 ※青森県神社庁HP 】という経緯があり、今は八幡様と稲荷様を祭っているようです。
一の鳥居のそばには庚申塔などが立てられています。参道を歩いて拝殿の前へ進むと、何人かの人達が、内部を清めていました。年に一度の例祭、その準備に大わらわ・・といった感じでした。
◇野中八幡宮(稲荷神社)






一方、こちらは同じく板柳町横沢に鎮座する熊野宮。横沢は藤崎町との境にあたる集落ですが、この神社は339号線沿いにあります。
国道沿いということで、車の往来もはげしい分けですが、境内はこんもりとした森になっており、辺りの騒音も聞こえず、静かな雰囲気の社です。
ここの鳥居の両脇にも国旗があったので、例祭かと思いましたが、どうやら前日だったらしく、境内は静まり返っていました。
鳥居をくぐって参道を進むと、両脇の林の中に、何かしら赤いものが見えたので、近づいて見たら、赤い目をした小さな狛犬でした。
拝殿の前には、大柄で貫禄のある狛犬が一対。左側(向かって)には稲荷社、右側には神明社が建てられています。拝殿には、幕が回され、昨日行われた例祭の名残が残っているようでした。
ここの熊野宮については、
【御祭神:伊弉諾命 伊弉冊命 旧記不詳なれども貞享元年横沢・辻・両村にて観音堂を建立堂社は三尺四方にて同時に白木丸柱の鳥居をも建立せりとあり、 延寶五年堂社は大破に及びたるを以て再建せりとあり、 明治初年神社令公布に依り氏子相談の上にて熊野宮と改め崇拝し来る。 尚本殿に保存せる棟札は左の通りあり、
一、 寛永五年八月。 二、 明和七年七月。 三、 寛政八年八月。 四、 文政九年九月。 五、 天保十年八月。 六、 弘化二年八月。
文政九年八月講中にて稲荷神社建立せりとあり、 明治六年七月村杜に列格せられる。 昭和二十五年五月境内地無償譲与せられ現在に至る。※青森県神社庁HP 】と紹介されています。
◇横沢熊野宮





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前回お伝えした菖蒲川神明宮から藤崎方面へ向かって少し進んだところに板柳町小幡の集落があります。
小幡は鶴田町と境をなす村ですが、【寛文(1661-1673 年)以降に拓かれた村と考えられる。天和年間(1681-1683 年)には新屋村といわれ、掛落林村の枝村だった。貞享4年(1687 年)検地の際、「小幡」と改め、享保11年(1726 年)に独立村となった。※『広報いたやなぎ』より】という経緯をもっています。
そんな小幡の集落に八幡宮が鎮座しています。

神社の近くには、旧満州国の皇帝溥儀の侍衛長を務めた工藤忠の生家がありますが、「皇帝の森」と呼ばれているとのことです。この人物については、
【工藤忠(1882-1965)。初名は工藤鉄三郎(くどう てつさぶろう)。明治、大正、昭和期におけるアジア主義者の大陸活動家及び満州国の政治家。満州国の侍衛長。最終階級は満州国侍衛処長、宮内府顧問官。※wikipediaより】とありますが、「忠」という名前はラストエンペラー溥儀が、その忠義を愛でて授けたものといわれています。
この八幡宮の由緒については詳しくは分かりませんが、天和元年(1681)頃の勧請といわれていて、次のような話が残されています。
【昔、この境内の南東に大きな沼がありました。その沼から光る物が毎晩のように出るようになったので、村人に噂が広がりました。「おれが沼にもぐって、その正体を見届けてやろう」と庄屋に申し出た青年があり、庄屋は青年の熱心さに心が動かされ、それを許しました。
翌朝、青年はふんどしに鎌を差して沼に飛び込みました。しばらくして、青年は両手に真っ黒な物を抱いて出てきました。よく見ると神々しい石像でした。「神様だ。」「神様がこの世に出たくて毎晩光を発し、村人たちに呼びかけたのだろう」と、その石像を祭ったのが、八幡宮のご神体であると伝えられています。※『広報いたやなぎ』】
今は、その伝説の沼はありません。境内には、神馬や狛犬をはじめ、嘉永7年(1854)、元治2年(1865)の庚申塔や、馬頭観音を祀る祠が置かれています。
◇小幡八幡宮






一の鳥居をくぐった参道の入口にひとつの木柱が立っていて、前述の小幡村の歴史などが書かれていますが、この木柱の表題は「イチョウ」。 ー 境内には、板柳町の天然記念物に指定されているイチョウの巨木がそびえています。
この大イチョウは樹高が約36.0m、幹周りが5.15m、雌木で、秋にはたくさんの実を結実させるとのことですが、隣にもう一本の巨木・ケヤキがそびえています。
二本の大木の姿は、「競うようでもあり、寄り添うようでもあり・・」といった感じですが、共に樹齢が約350~450年とされていて、その雄姿は道路からもよく見えます。二本の巨木は、この神社のシンボルであり、注連縄こそ張られてはいないものの「御神木」といえそうです。 ー それにしても、仲良く並び立っている同種の樹木は夫婦杉 などと名づけられ、よく見かけますが、こうしたケヤキとイチョウという異種の樹木が寄り添って伸びている姿は珍しいものです。
板柳町は、岩木川沿いの河港として開けた所ですが、弘前・藤崎から十三湊へと至る街道の要所でもありました。この八幡宮のイチョウは、街道筋の道標として植栽したのではないかと考えられているようです。
◇境内のケヤキとイチョウ




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10月も残り少なくなり、ふだん見慣れている景色も、夏場とはだいぶ様変わりしてきました。「深まりゆく秋」といった感じです。
津軽の田んぼの稲刈りも終わり、あちらこちらで「わら焼き」が行われています。
前回に引き続き、今回は板柳町の神社を2つ訪ねましたが、「闇おかみ神社」の境内には、その「わら焼き」の煙が流れていました。

この「闇おかみ神社」は、板柳町の飯田地区に鎮座していますが、藤崎町と境を接するところにあります。
御祭神は闇淤加美神。「闇おかみ(くらおかみ)」「高おかみ」など、いわゆる「おかみ神」を祭る神社は、津軽では、川べりやため池などの近くに多く見られますが、それは、この神は、農業にとって大切な「水の神様」であるからです。 ⇒以前の記事へ
板柳町は、現在では「りんごと米のまち」として有名ですが、かつては津軽藩の川港があった所で、岩木川の水運によって発展した町でした。
町内の海童神社は、そのような町の歴史を伝えている社ですが、ここ闇おかみ神社の由緒にも、
【御祭神:闇淤加美 神創建不詳であるが海童神社と同様岩木川沿岸の地によく祭られた社で、 綿津見神三神上・中・底のうち上津綿津見神を主神としている川の神様である。 ※青森県神社庁HP 】と記されています。
境内には、もうひとつの農業の神様である馬頭観音も祀られていました。
拝殿の前に「八千代乃神杉」と彫られた大きな石碑と、そのそばに「闇おかみ神社八千代杉」と書かれた木柱が立っています。
碑の後ろは玉垣で囲まれており、細い杉の木 が1本立っています。玉垣の中を覗いて見ると、大きな古株がありました。元の杉は何らかの事情で倒れたものなのでしょう。その跡から若杉が育っているようです。石碑には「大正七年 樹齢三百五拾年」と彫られています。その当時から、崇拝されていた「地域の御神木」だったのでしょう。
◇闇おかみ神社






今の季節、それぞれの神社の表情は様々です。
前述の闇おかみ神社は、杉の木が多いこともあって、「緑の境内」でしたが、ここ鹿島神社の入口の木々は色鮮やかに染まり、まさに「紅葉真っ盛り」という感じでした。
この鹿島神社の御祭神は武甕槌神。板柳町の滝井地区に鎮座している社です。

その由緒については、
【昭和三十二年私有とされていた、 毘沙門天を再び部落の氏神として祀り鹿島神社として建立。 御神体の毘沙門天は、徳兵ヱという人が、 南部から持って来たもので田村麿呂将軍手造りの古物と伝えられる。 徳兵ヱはこれを氏神として屋敷内に祭っていたが、 同人が没後その子孫が絶えたので、 人々が相談のうえ飛竜宮末社として滝井惣十郎地内に安置し祭りを絶やさなかった。 その後尊体は何者かに盗み取られたので、 文化二年 (一八〇五) 滝井の山崎勘右エ門が江戸登りした時、 新調した毘沙門天を求めて寄進したものである。 後年村の氏神としたが、 明治に入って氏子協議のうえ信者、 小野松太郎に遺わし、 同家の氏神となった。 その後昭和三十二年初秋、 小野七郎氏より土地、 お堂の奉納を受け滝井、 館野越の部落民の協議の結果、 毘沙門堂の場所に併せて武甕槌神を主祭神として、 昭和三十六年本庁の承認を得て現在に至る。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
「鹿嶋神社」としての創設は比較的新しいものの、元々の御神体である「毘沙門天」に対する信仰は、古くからのものであり、そのお堂は、村の産土社として崇められてきたのでしょう。
拝殿の両脇には、人の身長ほどもある大きな草鞋が奉納されています。この拝殿の後ろに大きなイチョウの木 があります。幹周りや高さは分かりませんが、なかなか堂々とした巨木です。注連縄こそ張られていませんでしたが、御神木なのでしょう。
この大イチョウの枝の下に、ひとつのお堂が建っています。中を覗いて見ると、そこには「亀に乗った女神像」が祀られていました。水の神・水虎様です。この地区もまた、水神を祀り、水害防止や豊作を祈願していたのでしょう。
◇鹿島神社





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板柳町の深味という集落は、昔、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の次男・重成が隠れ住んだ地域だといわれています。
ここに八幡宮が鎮座していますが、この八幡宮は石田家ゆかりの神社とされていて、「杉山八幡宮」とも呼ばれています。
「杉山」とは、石田重成の津軽における別名「杉山源吾」からとられたものです。
石田重成は、
【石田 重成(いしだ しげなり、1589年(天正17年)? - 1610年(慶長15年)4月28日、あるいは1641年(寛永18年))は、石田三成の次男。母は宇多頼忠の娘・皎月院。兄に石田重家、妹に辰姫(津軽信枚室)。官位は隼人正。名は重成のほかに、杉山源吾某、杉山仁兵衛俊成。妻は朽木氏の娘、後妻は柘植氏の娘、子に杉山吉成、石田掃部、杉山嘉兵衛成保。 豊臣秀頼に小姓として仕えていた。】分けですが、
【慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父をはじめとする西軍が東軍に大敗し、居城・佐和山城も落城したことを知ると、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。】といわれている人物です。
津軽為信は、自らの本領を安堵してくれた豊臣秀吉への感謝の念を終生持ち続けたといわれ、弘前城の「館神」として、秀吉の木像を祀ったといわれています。
⇒革秀寺の記事へ
そのため、為信の長男・津軽信建(つがるのぶたけ)、2代藩主・信枚などもまた、豊臣家及び、その家臣であった石田三成への恩顧の気持ちは強く、三成の子どもを津軽へと逃亡させたといわれている分けです。
その後の重成については、
【「杉山源吾」を名乗り、津軽氏の保護のもと深味村(現・板柳町)に隠棲する。慶長15年(1610年)4月28日に若死したという説があるが、慶長15年ごろまで隠棲しその後出府して寛永18年(1641年)に53歳で没したという説も有力である。三男の成保系『杉山系図』には藤堂高虎に仕え伊勢で死去したという記述があるが真偽は不明。長男・吉成は弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職についており、子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続した。】と伝わっていますが、杉山家代々の墓所は、弘前市の宗徳寺にあります。
- ここ板柳町深味は、石田家(杉山家)のその後の出発点となった集落だった分けです。
※上記の【】はwikipedia他より
八幡宮の境内へと入ると、左手に馬頭観音が祀られています。そのそばには、赤い鳥居の後ろに、二十三夜塔や庚申塔が立っていました。
八幡様のお使いである、大きな狛鳩は参道の両脇に立っていますが、神馬も三体ほど。板柳町の神社の神馬は、今にも動き出しそうな前足のつくりが特徴的ですが、ここの神馬もさっそうとした姿をしていました。
◇八幡宮境内










さて、神社の入口に由緒を記した木柱 が立っていますが、それには、「(重成一行が)この地を去るとき、持ってきた守護神が急に重たくなり、執着があるのだろうと、この地に安置したと伝えられる」とありました。
青森県神社庁HPには、次のように紹介されています。
【 杉山家伝記に、「深味は先祖杉山八兵衛の知行所にして先祖代々武運長久を祈れる八幡宮の鎮座する処なり」 と記され、伝記によると関ヶ原で敗れた石田三成の子源吾とその残党が徳川の追及を逃れて海路西浜に上陸、 津軽家をたよってこの地にたどり着き深味の神家にしばらくとどまった。 間もなく黒石方面に発つことになったが、 持って来た守護神が急に重くなったためこの地に深い執着があるのだろうとのことから安置したと伝えられている。 先祖代々武運長久祈願の守護神として祭り、「杉山八幡宮」と称したといわれている。
御神体は「豊臣太閤の護神即ち肌身の守神とせるものなりを石田三成の偉功を憂せられて親しく賜りたるものなり」とあり、 また口碑には三寸三分の金無垢の像と三成の陣羽織であると伝えられている。 この御神体は盗難に会い今はない。 現在の御神体は明治初期新たに作ったもののようで二十七センチの極彩胡粉塗り立像である。 】
- 深味八幡宮は、秀吉と三成、そして重成と津軽家との強い結びつきを感じさせる社です。
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真言宗醍醐派に属する蓮正院(れんしょういん)の山号は「大峰山(おおみねさん)」。不動明王を本尊とする津軽弘法大師霊場の第14番札所で、福神・弁才天を奉安する寺院です。

静かな農村地帯にあるこのお寺。趣のある山門をくぐると、弘法大師の霊場らしく、大きな大師像が目に入ります。弘法大師霊場には、御詠歌がつきものですが、このお寺の歌は、「かかる世に 望みをつなぐ 蓮正院 南無や大師の 深きこころに」というものです。
不動明王を祀る寺ということあってか、境内には不動堂や石像なども立っていました。もうひとつの御詠歌 - 「似非笑う 人もあるらん 濁り世に 不動利剣の 利益知らせん」
ここの狛犬、目の中に10円玉や50円玉を入れていて、 なかなかひょうきん者です。
この蓮正院は、およそ450年ほど前に、加賀の国(石川県)の僧・観性(かんしょう)法印によって開かれたとされていますが、【蓮正院の縁起はその記録が乏しいため、詳細は明らかではない。断片的な資料を総合すると、最初は法隆院と称したが、寛政年間前後に蓮覚院と改め、文化、文政のころにいたって寿円山蓮正院と改称したようで、弘前市の大行院の支配下であった。
その由来は「明治14年火生三昧御祈祷御寄進帳」に次のように記されている。
「大聖不動明王、その昔能登国石動山不動院に奉安請御本尊なり、大納言前田利家郷より火災消除祈願のため、我が祖たる堂守観性法印に下し給へし御神体にして、天正2年(1572)大和国大峰山に入りて修行し、権大僧都の位を得、巡り巡りて当国に来りて云々。※真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」より】と紹介されています。
もっとも、別の説もあり、それによると開山は「関ヶ原の戦いに敗れ、山伏に変装してこの地に落ち着いた由緒ある武士」とも伝えられているようです。
御本尊の不動明王は、前田利家から譲られたものとされていますが、寺宝として、開祖・観性法印所持の法螺貝とわき差し(一尺一寸二分、無銘)一腰が保管されているとのことです。
また、このお寺には五能線工事の際、大戸瀬(深浦町)から出土した石法螺(いしぼら) が保存されていますが、その口を吹くと、今でも音が出るようです。
◇境内






本堂へ足を踏み入れると、豪華な祭壇もさることながら、まず圧倒されるのが天井いっぱいに描かれた(飾られた)「雲龍図」。まるで生きているような迫力です。あまり見事なので、右から左から斜めから、そして仏様には申し訳ありませんでしたが、畳の上に寝そべって、下から眺めてしまいました。
弁才天は、祭壇の右側(向かって)に奉安されていました。
この神様については、「宗像三女神の市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視される水神で、その祠には池が設けられていること、海辺や島に祀られていること」などや、「才」は「財」に通じることから「弁財天」とも呼ばれる福神であること・・・など、何度か取り上げてきました。
七福神の中では唯一の女性の神様であり、手に琵琶を抱えた妖艶な姿で描かれたり、造られたりすることが多いのですが、中には手に宝珠を持った吉祥天のような姿で描かれることもあるようです。吉祥天と同一視されていた時期もあったせいでしょうか。
⇒弁才天
弁才天は、元来、「サラスヴァティー」と呼ばれる芸術、学問などの知を司るヒンドゥー教の女神ですが、【サンスクリット語でサラスヴァティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神であるともされている。インドの最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』において、初めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の化身であった。流れる川が転じて、流れるもの全て(言葉・弁舌や知識、音楽など)の女神となった。※wikipediaより】とされています。
日本には仏教伝来時に『金光明経』を通じて中国から伝えられ、その後、様々な神仏と習合し、七福神の一人として、広く信仰されるに至った分けです。
ここ蓮正院には、手に琵琶を持ち、ふくよかなお顔の弁才天が祀られていました。
◇本堂と弁才天





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その由緒については、【創立年月不詳、 大同年中の言伝えあり。 明治六年四月廣峯神社に合祭。※青森県神社庁HP 】とありますが、詳らかではありません。
御祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)ですが、この神様は【建御雷之男神(たけみかずちおのかみ)と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多い。有名な例としては、経津主神を祀る香取神宮と、建御雷之男神を祀る鹿島神宮とが、利根川を挟んで相対するように位置することがあげられる。神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、刀剣の威力を神格化した神とする説などがある。※wikipedia】とされ、国の平定を成し遂げた戦いの神様のようです。
「大同年中」の創建という言い伝えがあるところをみると、この神社にもまた、坂上田村麻呂の蝦夷討伐の伝承が残っているのでしょうか。
境内には、五所川原市の指定名木である大ケヤキの巨木がそびえ立ち、二十三夜塔をはじめ、庚申塔なども祀られていました。
拝殿の隣に注連縄が張られたところがありますが、そこには小さな石像があります。よく見てみると、それは、亀に乗った女神型の水神・水虎様 でした。
◇香取神社境内 ※画像はクリックで拡大します。






さて、名木・大ケヤキは、高さが25m、幹回りは5.6mと紹介されていますが、高さはともかく、見た感じでは、幹はもう少し太いと思われます。樹齢は不明ながらも200年以上は経っているとのことですが、これもまたもう少し年月を経ているのではないでしょうか。
幹に大きな瘤がいくつもあって、その姿形から「乳さずけ」の神として信仰されていたようで、根元には、かつての祠の跡らしきものもありました。辺りを圧倒する老木・名木です。
⇒香取神社ケヤキ ※画像複数

住所は板柳町になっていますが、ここは香取神社とは、ほんのわずかの距離です。⇒香取神社と八幡宮
この神社は、かつては、五輪代村正八幡宮と呼ばれていたようで、【「文珠坊、寛永二年同所開発の砌一柳の辺に長三寸の異体の像を得、 其場を用い社地とし一宇修造し湯立を捧げ正八幡也という神託あり故に氏神とす」 とある。 神社の建立は承応三年で、 当村の草分け打越常左衛門の建設という。※青森県神社庁HP】とされています。

民家に挟まれた参道を歩いて行くと、辺りがパーッと開け、広い境内へと出ます。ここもまた、神社の背後には水田が広がっていました。
雪解けを待っていたのでしょうか、近所の方達が、いっしょうけんめい境内の整備をしていました。きれいに掃き清められた気持ちのよい神社です。ここの狛犬は、でっぷりとしていて、なかなか貫禄があります。
◇五林平八幡宮境内 ※画像はクリックで拡大します。






鬼ッコは、扁額といっしょに一の鳥居に掲げられていました。鳥居と同じ石造りの鬼です。
目も鼻も大粒で、口元からは、これも大きな歯(牙)が、にょっきりと飛び出しています。その耳は、横に広がっていて、とても特徴があります。体全体がガチガチで、とても「力が入っている」という感じで、その肩で、必死に鳥居を支えているように見えました。
⇒五林平八幡宮鬼ッコ ※画像複数
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はじめに訪れたのは、板柳町・夕顔関という地区にある八坂神社です。
この神社の創建は詳らかではありませんが、この地域の開拓(新田開発)が始まった頃(1630年頃?)だと考えられています。「八坂」という名前からして、牛頭天皇を祀る祇園信仰と関係の深い神社なのかも知れません。明治の神仏分離以後は、多くの八坂神社がそうであったように、ここでも素戔嗚尊を祭神としています。

伝承によると、開拓が行われていた頃、土の中から観音像が一体掘り上げられたので、鎮守の神として祭ったのが始まりで、その観音様は現在でも本殿に納まっているとのことです。また、往時は、山伏達が居て、神事を執り行い、村中はもちろん、近郷からも多数の参拝者が訪れ、非常に賑やかであったとされています。
拝殿の前に一本の老木があります。推定樹齢が450年、板柳町の名木に数えられている「トチノキ」ですが、町では土壌の改良に努めるなど、保護活動に力を入れています。 ⇒八坂神社トチノキ(画像複数)

鬼ッコは二の鳥居にありました。丸い顔、カールした髪の毛、とがった角・・その肩で笠木を支えているいわゆる「強力型」と呼ばれる鬼です。黄色い目をいっしょうけんめいつり上げて威厳を保とうとしているようで、何となく微笑ましい感じのする鬼です。周りが真っ白な雪だったせいか、その鮮やかな朱色が引き立って見えました。 ⇒八坂神社鬼ッコ(画像複数)
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この神社もその由緒ははっきりとは分かりませんが、境内の説明書きによると、【・・津軽藩最古の神社調「延宝9年堂宮神主山伏行人之覚」に、勧請年月不詳なるも、蒔苗市兵衛により寛永2年(1625年)の創建云々」】とあり、先の八坂神社同様、地域の開拓がなされた頃に建立されたもののようです。その後、一時荒廃しましたが、貞享4年(1687年)に再建されたと伝えられています。

境内は思ったよりも広く、中にはいくつかの末社や石碑が建てられています。これはそのひとつで龍神宮と馬頭観音 です。雪で分かりませんでしたが、神池もあるのでしょうか。。
拝殿 は、わりとこじんまりとした感じの建物でしたが、その前には大小二体の狛犬 が鎮座していました。

さて、鬼ッコは二の鳥居にあります。面長な顔立ち、肩まで垂れ下がっている長い髪、黒くとがった角、太い眉の下の「どんぐり眼」が鋭く睨んでいます。
何といってもここの鬼ッコの特徴は、金棒を持っていることです。正に「鬼に金棒」ですね。
⇒常海橋八幡宮鬼ッコ(画像複数)
この鬼は2007年に新しく掲げられたものですが、それまでの「古い鬼ッコ」 は拝殿にありました。
現在のものとは、だいぶ姿形が違っていたようです。
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先回に続いての境内巡りですが、私は、この神社の創始者・安田健之助夫妻の像を見てから手水舎 の辺りへ戻り、拝殿や本殿のある方へ向かいました。

手水舎からは、2つの大きな建物 が並んで建っているのが見えます。まずは右側のお堂の方へ。
なかなか大きなお堂だったので、何だろうと思って戸を開けて見ると、薬師大神 という扁額が掲げられていました。ここは薬師堂のようです。
このお堂の側に雪に埋もれた石碑と石像がありましたが、後で社務所の方に聞いてみると、石碑は月読大神 で、石像は薬師様(薬師如来) であるということでした。

一方、こちらは拝殿です。前から見ても横から見ても、とても大きくりっぱな建物で、その中も広々としていました。 ⇒高増神社拝殿(画像複数)
拝殿前の狛犬は雪にすっぽりと埋まっていましたが、片方だけは何とかその顔を 拝むことができました。
この拝殿の奥が、本殿及び参集殿になっているようですが、この本殿、 お城の天守閣のようにも見えます。

社殿の横は広々としていますが、龍神宮を中心とした庭園 になっているようです。
ここにもまた、鳥居が立ち並び、いくつかの祠や石碑が建てられていました。多くは雪に埋もれて見れませんでしたが、こちらは、大国主命 を祀っている祠です。
社務所の裏側同様、こちらにも神池があり、真ん中に龍神宮がありました。この神池の中に立っている石燈籠、龍はもちろんですが、他にも様々な動物(十二支?)が掘られており、なかなか見応えがあります。 ⇒神池の石灯籠(画像複数)
さて、もう一度、安田健之助が遭遇したとされる伝承をみてみると、
【夜ともなれば大男が姿を現し、 大きな足跡を見せた・・・畑には驚く程大きなヘビが姿を見せた・・・家の壁には文字が書かれ、 それは十二山の神、 大山祇大神と読めた】とありますが、それは次のように考えられます。
◇「夜ともなれば大男が姿を現し、 大きな足跡を見せた」
この大男は、弘前市の大石神社や厳鬼山神社、鬼神社に伝わる「赤倉の大人」即ち岩木山麓に住む「鬼」と同じだといえます。この鬼は、稲作や潅漑などを手伝ってくれ、津軽地方で崇められている鬼です。鬼といえば「巨石(大石)」がつきものですが、ここ高増神社の境内にも所々に大石 が置かれていました。
◇「畑には驚く程大きなヘビが姿を見せた」
大きな蛇は即ち、水を司る「龍神」の象徴。農業に欠かせない「水」の守り神。境内には龍神池が2ヶ所ありました。
◇「家の壁には文字が書かれ、 それは十二山の神、 大山祇大神と読めた」
「十二」は山の神が好む数。大山祇大神は山の神と同一神といわれる神様です。
山の神は山民と農民とではその受け止め方が違いますが、農民が崇める山の神は、ふだんは山の中にいて、農繁期になると山から降り、豊作をもたらし、収穫が済むと山へ帰って行く・・というもので、先祖の霊と同一視されている神様です。 ⇒拙記事へ。
ー こうしてみると、この高増神社は、地域の五穀豊穣、農業発展を願った安田健之助翁の思いがこめられた社であるといえそうです。
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夢枕に立った祭神のお告げを聞いたのは、藩主や領主のみならず、その土地の豪農、豪商、あるいは村人だったり、いろいろです。
板柳町の高増神社もそのひとつで、地域のりんご作り農家の方が、その「神意を受けて」建立した神社です。

この高増神社の境内には温泉が湧き出ていて、「不動の湯」という浴場があります。この温泉も神様のお告げによって発見されたのだとか。。
鳥居の前の説明板 には「家内安全」「商売繁盛」「地鎮祭」などと書かれていますが、この神社は「子宝の神様」としても多くの信仰を集めているとのことです。
お寺の山門と見間違うような福寿門。 屋根雪のために通り抜けることはできませんでした。こちらは門の前の狛犬 です。
境内の中に入ると、赤い鳥居の奥に ひとつの石像が立っているのが見えたので、何だろうと思い、近づいて見るとそれは弘法大師 でした。「神社なのに弘法大師?」・・不思議ですが、あの石川八幡宮でも見ました。ほんとに神仏習合の世界です。

境内の中はとても広く、どこから回ろうかと迷いましたが、先ずは社務所裏の龍神池 の方に行ってみました。
目をこらしてよく見てみると、池の中に龍の頭や手足、様々な格好で泳いでいる魚の石像が見えます。なかなか凝った造りです。 ⇒龍神池の中
この龍神池の隣には、鳥居がいくつか立っていて、その後ろには何体かの神様が祀られていました。
こちらは猿田彦大神 、大きな目と高い鼻が特徴ですね。そして、こちらが天照大神と火結神(迦具土神) です。三体ともとても大きくて、迫力のある像でした。

三体の神様の隣に老夫婦の像が立っていますが、それが安田健之助夫妻 です。
この安田健之助という人が、この神社を勧請した人物ですが、その建立に至るまでには、次のような不思議な出来事があったとされています。
【安田健之助翁が、りんご生産に専念していた昭和三年の春頃より、不思議な事が起り始めた。庭の立木に一尺二寸、高さ三尺位のお堂が紅白の縄で結ばれていた。誰の仕業か話合っていると、夜ともなれば大男が姿を現し、床に長さ一尺八寸、巾が九寸位の大きな足跡を見せた。度重なる出来事に夜も眠れぬ日が続き、畑には驚く程大きなヘビが姿を見せたり、家の壁には文字が書かれ、それは十二山の神、大山祇大神と読めた。※青森県神社庁HPより】
その後、家の壁に「タユ (神主)タノム」、即ち、「我を祀れ」と書かれていたために、安田健之助は立木にあったお堂を自分の家の床の間に祀ることにしたのですが、いつの間にか、そのお堂は元の立木の場所に戻っていた・・ということです。
それを見た安田健之助は、それならばその場所に社殿を建立しようと思い立ち、地域の方々の協力を得て、昭和7年に完成したという分けです。
ー 次回へ続きます。
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津軽地方では珍しい海神を祀る神社ですが、昨年の夏には創建420年祭が執り行われ、その様子が地元紙 にも掲載されていました。
このように、古くからの由緒ある神社ですので、境内には様々な末社や石像、お堂などがあります。今回はその境内の様子をいくつかご紹介したいと思いますが、この手水舎 のように、建物の前にはその名前を記した札がかけられていたり、立てられているので、とても助かりました。

◇神池のすぐ隣にある淡島宮。 医療の神様「少彦名神」を祀っています。手前には、小さいながらもぷっくりした愛嬌のある狛犬。
◇こちらは虚空蔵宮です。 虚空蔵菩薩は、その「智慧と功徳が広大無辺」とされる菩薩ですが、丑年生まれの人の守護神でもあります。津軽では丑年生まれの一代様である弘前市・求聞寺などに、牛の石像が置かれているのを見かけますが、ここにも牛の像 がありました。
◇その虚空蔵宮の隣が平和観音堂 です。錠がしてあったので中は見れませんでしたが、馬頭観音、救世観音、そして「りんごの町板柳」にふさわしく「林檎観音」も祀られているとのことです。

拝殿 の右側(向かって)には、神楽殿、神明宮、保食大神などがあります。⇒神楽殿など(画像複数)
拝殿と本殿はいずれも板柳町の指定文化財ですが、その中門(唐門) と本殿の間にちょっと変わった狛犬が居ます。何回か写真などで見ていて、この神社を訪ねた目的のひとつでもあったのですが、残念ながら中へと入ることはできず、遠くから眺めるだけでした。
しかしながらこのブロンズ狛犬 ・・・ロボット犬というか、メカゴジラというか、とにかく珍しい狛犬です。夏場にゆっくり見てみたいものです。

さて、津軽は、弘前藩4代藩主・津軽信政が浅野内匠頭と懇意であったり、大石内蔵助の縁者が弘前藩に仕えていたりと、何かにと播州赤穂藩とのつながりが深いところですが、(※拙記事をご覧ください)ここ海童神社にも赤穂ゆかりのものが保管されています。
それは御神輿 で、この御神輿は【元禄15年(1702年)、板柳の豪商「若狭屋」が大阪での商用の折に購入し、海童神社に奉納した。この神輿は、播州浅野家が注文し作らせたものであるが、元禄14年(1701年)、浅野匠頭が殿中刃傷事件を起こし、お家断絶となったため引き取らなかったというものである。※HP『文化財オンライン』より】といわれています。
実物は見ることはできませんでしたが、この神輿には、赤穂の紋である「違いの鷹羽」がついているとのことです。
ー 赤穂といえば塩、塩といえば海・・やはりこの海童神社は、その名の通り、海と深くかかわっている社のようです。
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【鳥居の鬼ッコ】
板柳町の鬼ッコです。海童神社から少し離れた掛落林・稲荷神社にありました。
赤い角と赤い大きな口、鋭くとがった歯など、見るからに怖い感じのする鬼です。少し色が落ちていますが、その目も黄色で塗られていたようです。
※右の画像をクリックしてご覧ください(画像複数)。
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私も何度か西北津軽地方の寺社巡りでこの町を通りましたが、そのたびにひとつ気になっていた神社がありました。それは海童神社という社です。
板柳町は、りんごの生産地として有名な農村地帯ですが、それなのに「海童」とは?・・どうして「海」なのか?と不思議に思っていました。
そういう分けで、今回、訪ねてみることにしました。板柳町の寺社は初めてです。

板柳町は、江戸時代の頃には「板屋野木」と呼ばれていましたが、かつて、村を流れる岩木川の東岸に柳の木の広大な群落があり、人々はこれを打ち割って板を作り、家屋の建材として売りさばき、多大な利益を得たといわれています。「板柳村」の名は、この「柳」と「板」に因んで名づけられたのだとか。
藤崎町の辺りで合流した浅瀬石川と平川が岩木川 となり、その流域にある板柳は、天然の良港(河港)として発展した町で、文禄2年(1593年)には津軽氏が兵糧積み出しの河港に指定した、という記録が残っています。
また、弘前藩4代藩主・津軽信政の頃には、津軽平野一帯から収穫した米を、岩木川の水運を利用して十三湊へ運ぶ「十三小(米)廻し」が行われましたが、寛永3年(1663年)には、ここ板柳に廻送米の藩倉が建てられ、代官所が置かれ、藩の御用船が出入りし、若狭屋、井筒屋、小松屋、などの豪商が財を競い合い、それは城下町・弘前をしのぐ繁栄ぶりだったと伝えられています。
しかしながら、7代藩主・津軽信寧(のぶやす)の時代には、天災や飢饉が相次ぎ、藩の財政は破綻し、徹底した倹約令が出され、弘前以外の地域の商売は差し止められてしまいました。結果、板柳の町の勢いも衰えていった分けです。

一の鳥居をくぐり、境内へ入るとそこに説明板があり、この社の御祭神 が記されています。
祭神は「上津錦津見神(うわつわたつみのかみ)」「 中津錦津見神(なかつわたつみのかみ)」「底津錦津見神(そこつわたつみのかみ)」で、文字通りこの三神は海の上、中、底を司る海神です。
この神々は、黄泉国から帰還した伊弉諾尊が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊をした際に、それぞれ、海面、海の中程、海底から生まれた神とされ、総称して綿津見神(わたつみ)と呼ばれる海の守り神になったとされています。
ー 海ではないものの「川=水」によって発展した町・板柳を象徴する祭神といえるでしょうか。

「海神」とのつながりを示す由来がもうひとつ。境内の標柱 には次のようなことが書かれていました。
【文禄2年(1593)津軽為信が豊臣秀吉の朝鮮征伐の際に軍を派遣したとき、海上安全国土繁祥の祈願所とする。現在地に遷宮したのは承応元年(1653)である。※境内の案内標柱より】
朝鮮征伐軍の海上安全と国土の繁栄を願う祈願所として、この神社は建立され、「宝量宮」と名づけられたということで、海神を祀っている理由はそこにあった分けです。
入口には大きな神池があり、そこには龍頭観音 が祀られていました。いかにも水に縁が深い神社・・といった感じです。この神池の龍神の口 からはお湯が湧き出ていますが温泉でしょうか。。観音様は、 大きな龍の後ろに静かに佇んでいました。
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆

