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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  水虎様  

強巻稲荷神社ーつがるみち380




 鶴田町は、全国で初めて「朝ごはん条例」を制定した町としても知られています。
 この条例は、町民の平均寿命が全国平均を下回っていること、朝食をとらない子どもが増加していること等の背景を受け、「ごはんを中心とした食生活の改善」とそれを支える体制づくりを目指し、平成16年に制定されました。




 鶴田町の米作りが飛躍的に発展したのは、他の津軽地方と同様に、江戸時代、津軽藩による大規模な新田開発が行われるようになってからのことです。
 この時期には、開発の安全と五穀豊穣を願って各村に多くの神社や祠が建立されましたが、強巻(こわまき)に鎮座する稲荷神社もそのひとつです。

 その由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  縁起には 「貞享三年津軽藩重役大道寺隼人、 間宮求馬の両士、 新墾巡親の折本村強巻氏神として建立」 また、 津軽郡村誌に 「貞享四丁卯年奥瀬某勧請」 とあるが、 貞享の新検地 (一六八四~六) 当時は無かったのであるから元禄十五年 (一七〇二) の大行院配下宮控帳にある 「元禄三年一戸五衛門草創」 が正しいと考えられる。 なお、 この神社は大行院の配下で見重院ともいって、 修験者 (山伏) の持宮であった。 明治六年大巻村稲荷神社へ合祭、 同八年二月復社、 同九年十二月村社に列せられ、 大正四年七月十二日神饌幣帛料供進指定神社となる。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 由緒に出てくる大道寺氏は、代々、津軽藩の要職を務めた家柄ですが、元々は、大道寺直英(なおひで)なる武将が2代藩主・津軽信枚に召し抱えられたのがはじまりで、慶長19年(1614)頃のこととされています。この大道寺直英が「隼人」を名乗ったため、以後、それにならって子孫たちも大道寺隼人と称し、少し紛らわしいことになっています。
 上記の「貞享三年津軽藩重役大道寺隼人」は、年代からいって直英の3代後の大道寺繁清(しげきよ)を指していると思われますが、繁清は4代藩主・津軽信政を補佐した家老として有名な人物です。
 津軽信政(1646ー1710)の時代は、大規模な検地や新田開発が行われ、石高が飛躍的に増加した時代でしたが、大道寺隼人は間宮求馬等とともに、土地の有力者を指揮し、腕を振るっていたということなのでしょう。
 ですが、この検地や開発は、とても苛烈なものだったらしく、農民の側からは「百姓泣かせ」「百姓殺し」とさえいわれていたということです。
 



 強巻稲荷神社は、前回紹介した大巻の隣村にあたる集落に立っている社です。
 参道には、御神燈と狛犬がそれぞれ一対ずつ置かれているだけの、シンプルな境内ですが、社殿の横や後ろ側は広いりんご畑になっていて、後方には岩木山が見えました。
 拝殿の扉が開いていたので中を拝みましたが、ここには、稲荷神社らしく、きつねを描いた絵馬が数多く奉納されていました。そして、きつねの絵馬に交じって、船絵馬が、これまたたくさん掲げられています。「海に縁のない土地なのに」と不思議でしたが、岩木川を利用した水運発達の影響なのかも知れません。

 道路を挟んだ向かい側にも鳥居が立っていて、そこには二十三夜搭と庚申塔があり、祠が2つありました。その祠のひとつを覗いて見ると、その中には、亀に乗った女神型の水虎様が祀られていました。

◇強巻稲荷神社
 






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大巻稲荷神社ーつがるみち379




 鶴田町の大巻(おおまき)に稲荷神社が鎮座しています。
「大巻稲荷神社」と彫られた社号標や一の鳥居は比較的新しいもののようですが、鳥居の脇に立っていた碑文には、「昭和五十八年五月二十六日 日本海中部地震にて石鳥居が崩壊のため ここに木造にて建立する」と書かれていました。社号標の裏側にも同様の記述があります。

 住宅に挟まれた参道を、二の鳥居、三の鳥居とくぐって行くと、大きな石造りの鳥居があり、その奥に社殿が立っています。
 境内には、庚申塔や天照皇大神宮碑などがあり、拝殿の前にきつね像と狛犬がそれぞれ一対ずつ置かれていました。
 拝殿の左側(向かって)に、「熊野宮」と書かれた社号標と鳥居を伴った境内社が立っていましたが、この熊野宮は、後述する由緒とも関係する社のようです。

◇稲荷神社境内

  







 この大巻稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  縁起には 「当社は津軽藩士関甚左エ門なる者、 慶長年間南部家の圧制を避け本村内僻地に潜居、 漸時田圃と開墾し遂に一部落為すに至り、 自家崇敬の熊野宮を以て一時氏神とし奉仕の処、 開拓巧竣り数十戸の部落となりて全村協議を以て更に護穀神として現今の稲荷神社を建立したものなり」 とある。 また安政二年の書上帳には、 「宝暦七年産神に祭る」 とあるが、 この宝暦説は祭神を熊野さまから稲荷さまに更めた年代であり、 地誌草稿にある 「嘉永三年庚戌建」 は、 神社の再建年代と思われる。 安政当時は、 まだ祠時代で、 大部分の神社が三尺四面程度の建物なのに、 当社は約六尺四面、 雨覆は二間に四間という堂々とした社堂であった。 明治六年四月村社に列せられ、 明治四十二年八月二十七日神饌幣帛料供進指定神社となる。 ※青森県神社庁HP】とあります。

「南部家の圧制を避け・・」はともかく、関甚左エ門という津軽藩士が神社の創建に深く関わったことは事実のようで、『北津軽郡神社誌』にも、
【・・百姓となりて田地を拓き、一部落を成すに至り、熊野権現を産土神とす。同人の墓所は村内に在りて今尚敬意を拂はれつつあり】と書かれています。

 ところで、稲荷神社といえば稲荷神のお使いのきつねです。拝殿前に一対と本殿にも一対、それぞれ向かい合って置かれていましたが、本殿の祠をよく見ると、その木鼻にも小さなきつねが彫られていました。




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大性神明宮ーつがるみち293


大性神明宮


 鶴田町大性(だいしょう)は、板柳町との境目にあたる集落ですが、ここに神明宮が鎮座しています。
 万治3年(1660)に創建されたと伝わるこの神社の由緒については、
【御祭神:天照皇大神  藩主信枚公の三男信隆公の草創にして、今の西津軽郡亀ヶ岡雷電宮の前社司にして当時当村に移住せる工藤権之太夫に社務被仰付、御供田並幕燈籠寄進の上、宮社普請の御手入料御渡し下され候云々とあり、由緒ある神社なり。明治六年四月、菖蒲川神明宮へ合祭。同八年復社。※『北津軽郡神社誌』より】とあります。


二の鳥居から

 
 由緒に語られている「藩主信枚公の三男信隆公」とは、津軽藩2代藩主信枚の三男・津軽信隆(つがるのぶたか:1620~1659)のことですが、通称を百助(ももすけ)といい、代々家老を務めた「津軽百助家」の始祖とされる人物です。現在の弘前公園の隣に高校がありますが、その敷地はかつては、この百助信隆の広大な屋敷があった場所であるといわれています。

 津軽信隆には信義(津軽藩3代藩主)と信英(黒石藩初代藩主)という兄がいましたが、この時代には津軽家騒動のひとつである「正保の変」が起きています。
 この騒動は、「じょっぱり殿様」などといわれ、暗君のイメージが強かった3代藩主・信義とその子(後の4代藩主・信政)を退かせ、信英を擁立しようとする企てだったのですが、そこのあたりと信隆の関わりについては、
【正保4年(1647年)、弘前第3代藩主津軽信義を強制隠居、嫡子の信政をも廃嫡させ、幕府旗本の兄・信英を藩主に擁立しようとする主君押込の企て、いわゆる正保の騒動が起こった。しかし、これは計画段階で信義側へ密告があり大きな騒動となる前に防がれている。この後、家臣だけでなく、異母弟や妹婿もが処罰される中、擁立された信英と百助信隆には何の沙汰(咎め)もなかった。百助は信英擁立派ではあったものの、(後に改心してからか、)その密告者であったとされ、自ら騒動を起こしたというよりはむしろ企ての情報を信義に密告した功があったことが原因であったとされる。この功により知行を加増されている。※wikipediaより】と説明されています。

 結果的に信英と信隆には何の咎めもなかった分けですが、信英についてはその人物が英邁であったことに加えて、徳川の血筋を引く人物であったことがその大きな理由と考えられています。
 一方、信隆は「沈勇の士で、お家第一と考える人であった」といわれており、大局をみて適切な判断ができた人物だったようで、そういう意味では、この騒動の芽を事前に摘み取った功が評価されているようです。
 この津軽信隆と昔の鶴田町、及び大性地区との関わりについては詳しくは分かりませんが、前述の『北津軽郡神社誌』には、
【信義・信政二代の家老職を務め、徳行を以て聞こえたる人物なり。卒去に際して、領民その死を惜しむ。】と記されています。

◇大性神明宮

 
境内
末社
庚申塔ほか
二十三夜塔ほか
大黒天と・・



大イチョウ①


 神明宮は大性の集落の道路沿い、民家に挟まれた所に位置しています。
 境内には、社殿の他、狛犬や鳥居を伴った末社などが立っていますが、端っこの方に庚申塔や二十三夜塔があります。庚申塔のそばには小槌を持った大黒様。一方、二十三夜塔の隣には、何やら風変わりな石像が・・。風化しているため、胡座をかいた猿の姿のようにも見えますが、鬼っコでしょうか、何かの石仏なのでしょうか。

 境内の中で、ひときわ存在感があるのが一本のイチョウの巨木です。このイチョウの木は、とても大きくて、神社の外からもよく見えますが、まるで民家の屋根から枝がのびているような光景です。

 鶴田町の名木のひとつにも数えられているこのイチョウは、樹高32.5m、幹周5.56mで、樹齢はおよそ400年といわれています。いわゆる「乳根」が垂れていたり、横幅が巨大な形の木ではありませんが、この神社の御神木にふさわしい形のよいイチョウです。

◇大性神明宮のイチョウ

  
大イチョウ②
大イチョウ③
大イチョウ④
大イチョウ⑤


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廻堰八幡宮と菖蒲川神明宮ーつがるみち290


一の鳥居から


 鶴田町の観光名所である津軽富士見湖(廻堰大溜池)の周辺には、熊野宮、神明神社、稲荷神社、八幡宮など数多くの神社が点在しています。
 廻堰大溜池は万治3年(1660)、津軽藩4代藩主・津軽信政の時代に西津軽の新田開墾の灌漑用水源として築造されたものですが、周辺の神社もまた、その時期に五穀豊穣を願って建立されたものと思われます。廻堰集落に鎮座する八幡宮もそのひとつです。

参道


 私が訪ねたときは日差しがとても強く、鳥居の朱色や境内の緑が鮮やかでした。
 瓦屋根を思わせる拝殿の造りは何となくお寺のような感じです。境内には神馬像や角が生えた狛犬
角が生えた狛犬
などが置かれています。拝殿の扉が開いていたので、その中を拝むことができました。大きな燭台と天井からつるされた御神燈が印象的です。

 拝殿の隣には、昭和初期のものと思われる二十三夜塔が5基ほど並んで立っていますが、そのそばには、大きな末社が3つありました。
 中でも一番大きなものは鳥居をともなった中央の祠で、その中には、淡嶋大神をはじめ、牛頭天皇
牛頭天皇碑
の石碑などが祀られています。

 この廻堰八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  延宝四年三月に勧請、 貞享二年に村中で再建した。 当時の記録によれば境内には田畑がない。 明治六年四月村社、 同四十年四月二十九日に神饌幣帛料供進神社指定。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 勧請・再建がそれぞれ、1676年と1685年とあるところをみると、やはり、廻堰大溜池の築造に伴い、開墾の守り神として建立されたものと思われますが、「当時の記録によれば境内には田畑がない」という文言からもそれは伺えます。

◇廻堰八幡宮

 
境内
二十三夜塔
末社
牛頭天皇碑など
拝殿



一の鳥居から


 藤崎町から板柳町、そして鶴田町へと流れる岩木川。その岩木川の流れと並行する形で国道339号線が走っていますが、廻堰から板柳町へ行く途中に菖蒲川(しょうぶかわ)という集落があります。
「菖蒲」という名前の通り、その地名は「かつてこの地は、菖蒲の繁茂する川原であったことに由来する」といわれていますが、ここに神明宮(神明神社)が鎮座しています。

二十三夜塔ほか


 この神社の縁起などについては詳しく分かりませんが、『北津軽郡神社誌』には、
【御祭神:天照皇太神  勧請年月不詳。昭和三年再建。嘉永二年、村民・工藤久左エ門の願表に依り、伊勢神田扇一對奉納せらる。明治六年四月村社に列せられる。】と記されています。

 神社の住所は鶴田町菖蒲川川辺。文字通り、岩木川の「川辺」にある神社で、川岸には長い土手が築かれており、道路との境になっています。土手の上から下に向かって石段が延びており、神社の境内へはそれを下って進みます。

 きれいに掃き清められた気持ちのよい境内で、拝殿の前には注連縄が張られた狛犬
狛犬
などもあり、地域の方々の崇敬の厚さが窺われます。
 木の陰に隠れるように小さな祠がいくつか立っていますが、二十三夜塔や庚申塔に挟まれた少し大きなお堂には石仏なども祀られていました。

 社の周りは「河川敷」といった感じで、ほとんどが畑地ですが、この神社の境内だけがこんもりとした森のように見えます。
 実際、一の鳥居をくぐると社殿までの参道
社殿までの参道
の両脇には、大きな木が何本も並び立っています。それらの樹木は巨木というほどではありませんが、相応の高さをもち、イチョウやケヤキなど、なかなか趣のある姿形をしていました。こうした樹木に囲まれているせいでしょうか、車の往来が激しい道路沿いの神社といった感じではなく、静かで落ち着いた境内でした。

◇菖蒲川神明宮

  
末社①
末社②
境内の樹木①
境内の樹木②


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トドロッポと「妙堂崎八幡宮」ーつがるみち270


妙堂崎のトドロッポ①
   
妙堂崎のトドロッポ②

 

 









 黒石市中野神社は、巨木が多いことでも知られています。隋神門の両脇には、推定樹齢約200年以上といわれる大きなモミの木がありますが、鶴田町妙堂崎の集落には、それよりもさらに古い樹齢をもつ巨木があります。

 この一本のモミの木には、「トドロッポ」という少し変わった名前がつけられていますが、この老木については、
【推定樹齢350年、樹高約30m、目通り幹囲約6mである。このモミの木の植栽の年代は明らかでないが、樹の大きさから推定して、元和年代(1615~1623)から寛永年代(1624~1643)のころ、津軽藩が木造新田の開拓に本腰を入れた頃、植えられたものと思われる。最近まで地上約7m付近にサクラ(樹種不明)が根付いていたが、昭和61年(1986)10月にサクラに栄養分が取られるというので、切ってしまった。そのあとを雨水が入らないようにコンクリートでふさいでいる。「トドロッポ」と地域の人々が呼んでいるが、アイヌ語だともいわれ、詳しいことは分からない。※青森県HP「あおもりの文化財」より
 この「トドロッポ」は、かつては6本ほど並んで立っていたそうですが、落雷の被害などにより、現在は1本になってしまったということです。
 古くから地元の人に「トドロッポ」と呼ばれ、その名称の由来はわかっていませんが、トドロッポとはアイヌ語で「トドマツ」という意味だとされており、この木が昔は、モミの木ではなく、トドマツだと思われていたために、そう呼ばれ始めたともいわれているようです。
 青森県の天然記念物に指定されているこの巨木は、鶴田町の名物のひとつでもあるわけですが、斎藤さんという方の私有地内にあるために、間近には見ることができませんが、道路からその雄姿をを見ることができます。太いその幹には注連縄が張られ、奥の方には祠も建てられていました。
 
◇トドロッポ

  
黒石中野神社のモミの木
 
トドロッポ③
 
トドロッポ④
 
トドロッポ⑤



妙堂崎八幡宮


 妙堂崎は、「鶴の舞橋」で有名な津軽富士見湖の北方にある集落ですが、ここに八幡宮が鎮座しています。
 付近の住宅に挟まれたところに一の鳥居。その奥の参道には、さらに多くの鳥居が立ち並んでおり、中には、自然木(あまり手が加えられていない)に朱色を塗ったような素朴なものもあります。

 境内の狛犬は、だいぶ風化が進んでいましたが、片方の頭には角が生えていました。二体ともに小さな造りですが、その表情は厳めしく、なかなか迫力があります。
 灯籠のそばに「御鎮座 三百五十年記念」と刻まれたりっぱな記念碑が建っていました。「トドロッポ」の樹齢も350年・・・この地で本格的な新田開発が行われた時期に植樹されたり、祀られたりしたもののようです。
 この記念碑には、鶴田町のシンボルが描かれています。まずは「鶴」、そして「米(稲)」と「りんごの木」。「亀」は鶴亀にあやかったものでしょうか。

◇参道、狛犬、記念碑

 
一の鳥居から
参道
狛犬
鎮座記念碑
鎮座記念碑より


 境内は、参道より少し高くなっていて、石造りの玉垣に囲まれていました。
 拝殿には、小さなジャンバラ型の注連縄が張られていましたが、真ん中にピンク色の模様?があります。まるでバラの花のようで、目を惹きます。
 拝殿の扉が開いていたので、中を拝むことができました。たくさんの扁額や奉納額に混じって、神馬像や獅子頭なども置かれていました。

 鎮座記念碑の裏側に、この神社の由緒が記されていました。それによると、
【御祭神:譽田別尊  正保二乙酉年(1645年)、大開、玉川両村の新田開発の守護神として村繁栄の為勧請された。中野孝一氏と斎藤常太郞氏の間の桑野木田道路の東方の小丘の森に小祠があった。この社が妙堂崎八幡宮の前身である。その後、宝暦四年大開、玉川両社が合祀され、現在地に建立せられた。】

 ー 津軽藩による大がかりな新田開発が始まった頃、各村々には、豊作祈願のため多くの小祠が建てられた。やがて、開発が進むにつれ、集落どうしが統合したりして、より大きな村が形成され、地域の産土社が建立された。 ー 神社の由緒は、村発展の歴史でもあるようです。

◇拝殿、本殿

 
社殿へ
拝殿①
拝殿②
拝殿③
本殿


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  

弥生画奉納「鶴田八幡宮」ーつがるみち241


鶴田八幡宮


 どこの市町村を訪ねても、「稲荷神社」「熊野宮」などとともに数多く見られる神社は「八幡宮」です。
 各村落に必ずといっていいほど鎮座している八幡様ですが、鶴田町HPでは、同町の八幡宮を8つほど紹介しています。
 その中でも、鶴田駅の近く、いわば町の中心部に鎮座している八幡宮を訪ねたのは、昨年の11月のことでした。

 町の中心部ということで、交通量も多い交差点付近にこの神社はありますが、広い境内の中は静かな雰囲気でした。

 この鶴田八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  当社の縁起は甚だ古く 「平城天皇大同二年に坂上田村麻呂が蝦夷退治に悪戦苦闘し同年退散せしめこの地を平定せり、 依って同年九月大川畔の木を伐りて神殿を造営し蝦夷退散国中安泰守護神を勧請し、 敬仰せり」 とある。
 現在の地に遷座したのは天正二年と伝えられている。 当社は安永三年、 板屋野木村宝量宮 (板柳町海童神社) と共に赤田組の祈願所に指定され、 第七代藩主信寧公から御武運長久風雨順時五穀成就組中安全祈願の為、 伊勢御田扇神宝一通太神宮大麻と鳴弦御守札が奉納され、 宝量宮と一年交替で六月一日に組中でお神楽を行う事を命ぜられた。
 また、 安永五年十月には再び藩主から太神宮大麻と鳴弦御霊札が奉納され、 宝量宮と七年交替で組中で御輿を通行させるように命ぜられた。 明治六年四月に村社、 明治四十四年九月八日神饌幣帛料供進指定神社。 】と紹介されています。

 例によって、坂上田村麻呂の創建とありますが、「赤田組」というのは、津軽藩が設置した行政区域25組の1つで、主に津軽平野の中部、岩木川の中流域の村々を統括する組だったようです。
 位置的には、現在の藤崎町から板柳町、そして鶴田町から五所川原市へと続く岩木川沿いにある一帯は、川港の要所として、土地の開発が盛んに行われた所でもあります。この八幡宮は、由緒にもあるように、板柳町の海童神社とともに、歴代の津軽藩主から崇敬された祈願所でもあったのでしょう。拝殿、本殿ともに、そんな「格式」を感じさせる重厚な造りです。

◇鶴田八幡宮

 
境内
拝殿①
拝殿②
拝殿③
本殿


 拝殿の両隣には、それぞれ別の鳥居が立っています。右側に祀られているのは猿田彦大神。鳥居の後ろ側に猿田彦碑と庚申塔がありました、
 一方、左側には十和田神社と水波能売命。「十和田様」は、北東北を代表する水の神で、各地域の神社にも数多くその祠があります。
 水波能売命(罔象女神:みずはめ)もまた、「灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる日本の代表的な水神」です。
 鶴田町には、津軽富士見湖に伝わる伝説をはじめ、闇おかみ神社や水虎様など、「水神」を祀る社が多いわけですが、それはやはり、岩木川の水運によって発展してきた町だったからでしょう。

◇鶴田八幡宮の末社

 
猿田彦大神
猿田彦碑
十和田神社①
十和田神社②
水波能売命



弥生画①

弥生画②

弥生画③


 この八幡宮は、年末から正月にかけて「弥生画」が奉納されることでも知られています。 
「弥生画」は、五穀豊穣を願い、額に穀物の種子を一粒ずつ貼り付けて仕上げたもので、全国で唯一、鶴田町で継承されているものです。「弥生」という名前は、水田耕作が始まった時代に因んだものであり、その起源は藩政時代(天明の大飢饉)の頃までさかのぼるといわれています。鶴田町のHPでは、
【寛政元(1789)年は夏中、日照りが続き、思い余った村人たちは残り少ない種子を持ち寄り、餅で作ったのりで板に張り付けて雨の神様に祈願した。その種を土に植えたところ、翌年は大豊作になったことから毎年行われるようになったという。 】と紹介しています。
 現在は、
【町内の「元町弥生会」と、「山道弥生保存会」が継承しており、毎年、9月頃に下絵に取りかかる。絵の題材は、来年の干支や七福神など、五穀豊穣を願って毎年決めているという。11月下旬になると、いよいよ種子の貼り付け作業である。細い線は菜種や粟(あわ)、太い線は小豆などの粒の大きいもの、白い部分はうるち米、赤い部分は赤米など。十数種類の穀物の色や形を使い分け、削った割り箸やピンセットを使い、ひと粒ずつボンドで張り付けていく。穀物の色をいかし、いっさい着色をせずに仕上げるのも弥生画の特徴だ。こうして完成した弥生画は年末になると、元町弥生会は「鶴田八幡宮」へ、山道弥生保存会は「山道闇おかみ神社」へそれぞれ奉納される。】ということです。

 この弥生画、1ヶ月後には「道の駅つるた」に運ばれ、常設展示場に1年間展示されるということで、道の駅に行って見ました。大黒様と恵比寿様(鶴田八幡宮)、花咲爺さん(闇おかみ神社)の大きな弥生画が飾られていました。その精巧な作りは驚きです。残念ながらガラス張りのため、うまく写せませんでしたが、後で鶴田町HPで、その奉納の様子を見ることができました。
 ⇒ 観光ウェブマガジン「メデタイ・ツルタ」 観光情報

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  

境内でひと休み「闇おかみ神社2つ」-つがるみち236


闇おかみ神社〔北田〕
 
闇おかみ神社〔山道〕



 
 
 鶴田町のHPでは町内の主な神社仏閣について紹介していますが、それによると「闇(くら)おかみ」と名のつく神社は、町内に3つほどあります。
 ⇒鶴田町の闇おかみ神社
鶴田町の闇おかみ神社


 ひとつは沖地区に鎮座している闇おかみ神社ですが、ここは鳥居に「鬼っコ」を掲げている神社で、一度訪ねました。
 残りの2つは、いずれも158号線に沿って鎮座しています。私が訪ねたのは昨年の11月初旬のことでした。

地蔵堂


 胡桃舘(くるみだて)字北田の闇おかみ神社は、小学校のすぐ近くに鎮座しています。 
 神社の社頭には、百万遍や庚申、二十三夜などの塚や塔が立っているのをよく見かけますが、地蔵堂もそのひとつで、ここにも田んぼを背にして三体のお地蔵様を祀っているお堂がありました。

 また、一の鳥居の近くに別の赤い鳥居が立ち、その奥に小さな祠や塔が立っている神社もよくありますが、たいていは馬頭観音を祀っているようです。馬を「神様」と崇める農村地帯の特徴でしょうか。この神社にも馬頭観音が祀られていました。

 金属製の注連縄が張られた一の鳥居をくぐると、境内にはベンチなども置かれており、ちょっとした小公園という感じです。拝殿にも大きく太い金属の注連縄が張られていました。
 境内には、灯篭や狛犬と並んで神馬像がありますが、この神馬、
神馬
屋根つきのお堂の中に大切に祀られていました。

◇闇おかみ神社(北田)

 
馬頭観音①
馬頭観音②
拝殿①
拝殿②
灯篭・神馬・狛犬



正面鳥居


 北田の闇おかみ神社から鶴田の町へと進んで行くと山道という集落がありますが、ここにも闇おかみ神社があります。
 入口に由緒書きが立っていますが、それには、
【御祭神:闇於加美神(くらおかみのかみ)  日本最古の文献古事記によると闇於加美神は神代の時代イザナミノミコトとイザナギノミコトの子として生まれ降雨止雨をつかさどる水の神と記されている。昔は飛龍権現と称され、一時惣染堂(馬頭観音)に移管されたとも伝えられるが、明治六年四月闇?神社と改め、亀田村稲荷神社へ合祭された。明治八年二月復社、同九年十二月に村社に列せられ、同四十年四月十九日神饌幣帛料供進指定神社に列格され現在にいたる。】と記されています。

 この神社は交差点の近くにあるため、入口の鳥居が二つありますが、由緒書きがある方の鳥居をくぐると、庚申塔や二十三夜塔の隣に小さな祠があります。その中には男女二体の神様
男女二体の神様
が祀られていました。姿からして山ノ神なのでしょうか?

 闇おかみ神、高おかみ神 - いわゆる「おかみ神」は日本の水神で、
【農耕民族にとって水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においては水神は田の神と結びついた。田の神と結びついた水神は、田のそばや用水路沿いに祀られていることが多い。また、水源地に祀られる水神・水分神(みくまりのかみ)は山の神とも結びついている。※wikipediaより】とされているわけですが、「おかみ神」は特に農村において、祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されてきたといわれています。

 神社の後ろには刈り取りを終えた田んぼが広がっていましたが、社殿の隣に祠が2つ立っていました。その中のひとつを覗いて見ると、それは津軽の代表的な水神・水虎様。姉妹でしょうか、二体並んで祀られていました。

◇闇おかみ神社(山道)

 
庚申塔など
拝殿①
拝殿②
末社
水虎様


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鳥居にも拝殿にも「胡桃舘八幡宮」ーつがるみち116

 胡桃舘(くるみだて)の八幡宮は、元は近くの中野村にあったのですが、荒廃したために、ここにあった観音堂の相殿として遷されたものです。
 明治の神仏分離により、観音様が取り上げられてしまい、境内には現在、淡島神社が建てられています。
 この淡島神社の社殿の後ろ側に、ひとつのお堂が建っていますが、覗いてみたら、そこが観音堂
観音堂
でした。お堂だけは残っているようです。
 観音堂の周りには、小さな末社が並んで建っていたり、庚申塔や二十三夜塔もあります。そこからは、八幡宮の本殿も見ることができました。かつては、この場所が境内の中心だったのかも知れません。 ⇒末社・庚申塔・本殿(画像複数)

八幡宮拝殿


 淡島神社、そして観音堂などを見た後、あらためて八幡宮の鳥居をくぐりました。
 ここにもまた、御神木
御神木
が2本、鳥居の脇にそびえています。第二の鳥居というべきでしょうか。
 こちらは、八幡様のお使いの狛鳩。
狛鳩
そして、こちらが狛犬
狛犬
です。とても愛らしく、「ワンちゃん」という感じです。頬被りは「神使」に対する人々の思いやり・・。西北津軽地方には、こんな頬被りの狛犬がたくさんいます。
 狛犬だけではありません。ここの神馬
神馬①
は、お腹にも手ぬぐいを巻いています。寒さから身を守る腹巻きのかわりでしょうか。
 こちらの神馬
神馬②
、前足と後ろ足に動きがあり、境八幡宮や沖の闇おかみ神社の神馬像とよく似ています。鶴田町の神社の特徴といえるかも知れません。

八幡宮拝殿龍神①


 拝殿の左右の壁には、龍神を描いた額が奉納されていました。青色の背景に金色で龍を刻んだ、なかなかの力作です。(向かって)左側の龍神の横を見てみると、いました、いました、青鬼
拝殿の青鬼①
です。
 淡島神社で見たものと同じような木工作品?の青鬼。
拝殿の青鬼②

 その瞳が、一方は真ん中、片方は下向きに描かれていて、思わず笑ってしまいます。

八幡宮拝殿龍神②


 一方、右側の龍神様の絵の隣には赤鬼
拝殿の赤鬼①
が掲げられていました。こちらの赤鬼
拝殿の赤鬼②
は、頭に大きな一本の角が生えていて、節分のときの鬼みたいです。
 黄色い目や黒い髪、鋭い牙と胸毛もしっかり描かれていますが、どこかユーモラスです。
 この拝殿の青鬼と赤鬼、とても親しみやすく、その姿を見た人は、ほっとするのではないでしょうか。

八幡宮一の鳥居鬼ッコ


 さて、この神社の鳥居の鬼ッコは一の鳥居にありました。拝殿の青鬼、赤鬼とはうってかわって、とても怖い表情をした鬼です。
 全身が金色、角も耳もぴーんと跳ね上がり、口は大きく裂け、鋭くとがった歯が見えます。眉根を寄せて、目を大きく見開き、参拝する人を睨みつけているようです。その容貌は「般若の面」を思わせます。
                ⇒胡桃舘八幡宮鬼ッコ(画像複数)

 淡島神社の青鬼、八幡宮拝殿の青鬼と赤鬼、そして一の鳥居の金色の鬼・・。ここ胡桃舘八幡宮には、合わせて四体の鬼ッコが掲げられていました。ここでもまた、鬼ッコは敬われ、親しまれているようです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鬼ッコめぐり(鶴田町2)ーつがるみち115

 青森県HP「鬼コ詳細一覧」では、鶴田町で鬼ッコを掲げている神社として、3ヶ所を紹介しています。
 その中の2ヶ所目、先回の境・八幡宮に続いて、沖地区にある闇おかみ神社を訪ねてみました。
 五所川原市の闇おかみ神社と同様、稲作に不可欠な「水」の神様「闇おかみ」を祀っています。ここもまた、新田開拓が行われた所で、用水路づくりなど、大変な作業が続いた土地なのだと思います。五所川原と同じく「鬼」を掲げているのも興味深いところです。「沖」という地名も「水」との関係を思わせます。

闇おかみ神社拝殿


 ここの闇おかみ神社も、延暦年間(782年~)に桓武天皇の命を受けて、坂上田村麻呂が建立したと伝えられていますが、詳しいことは分かりません。「明治九年十二月に村社となった」と由緒には記されていました。
 私が訪ねたときは、まだ境内にいっぱい雪が残っており、一巡りすることはできませんでした。
 こちらは台座が雪に埋まっていた狛犬
闇おかみ神社狛犬
です。この神社の神馬
闇おかみ神社神馬
も、先回の境八幡宮と同じく、とても躍動感があります。見れば見るほど、両者はよく似ており、
左:闇おかみ神社神馬 右:境八幡宮神馬
同じ年代、同じ作者なのかなと思ったりしました。
 拝殿まで進むのが精一杯でしたが、この拝殿に架かっている注連縄
拝殿の注連縄
は金属製の物でした。金属製の物は最近よく見かけます。

闇おかみ神社一の鳥居


 鬼ッコは一の鳥居に掲げられていました。鳥居と同じ石造り、同じ色のせいか、少し地味な印象を受けます。
 筋肉質のがっしりした体つきで、肩で鳥居を支えていました。どこか力士を思わせる風貌です。
 奥に引っ込んだ大きな目と、ふくよかなほっぺたなど、西郷隆盛にも少し似ているような・・。
  ⇒闇おかみ神社鬼ッコ(画像複数)



 続いて私は、胡桃舘(くるみだて)地区にある八幡宮を訪れてみました。
 ここの八幡宮は、寛文6年(1666年)の勧請とされ、当初は付近の中野村にありましたが、元禄年間にその堂舎が破損したために、ここ胡桃館に遷座したといわれています。当時、ここには胡桃館観音堂がありましたが、その相殿として祭られたと伝えられています。
 その後、明治の神仏分離政策により、 観音は取り除かれ、明治六年に村社となった分けです。

淡島神社拝殿


 広い境内には二つの社が並んで建っていますが、ひとつは八幡宮、そして片方が淡島神社です。私はまず、淡島神社を拝観することにしました。
 由緒書きがないので、よく分からなかったのですが、「淡島」ということからして御祭神は「少彦名命」と思われます。少彦名命は、国造りの協力神であるとともに医療の神様で、特に、女性の病気回復や安産・子授けなどに霊験あらたかな神様といわれています。
 そんな御祭神を祀っているからでしょうか、拝殿の前には「子宝の銀杏」
子宝の銀杏①
という御神木があります。銀杏の古木は、いわゆる「乳授け」の神様として崇められている分けですが、ここの銀杏も
子宝の銀杏②
、そんな「垂乳根の銀杏」として祀られているようです。

淡島神社鬼ッコ


 さて、私は、隣の八幡宮の鬼ッコを見ようと、淡島神社から立ち去ろうとしたのですが、何気なく拝殿の扁額の方を見ると、何とそこには「青鬼」がいました。
 注連縄に隠れて見えなかったせいもありますが、ほんとに気がつきませんでした。
 あらためてよく見ると、とてもユーモラスな鬼ッコです。地域の方々の手作り、それも子ども達の作品のような気もするのですが、どうなのでしょうか・・。
 ⇒淡島神社鬼ッコ(画像複数)

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鬼ッコめぐり(鶴田町1)ーつがるみち114

 鶴田町の富士見湖(廻堰大溜池)付近からは、縄文前期から晩期にかけての土器(土師器、須恵器など)が発見されており、この地一帯には数千年前から縄文文化が花開いていたことが分かっていますが、現在の町の原型がつくられたのは、弘前藩の開拓事業が始まってからのことといわれています。
 弘前藩3代藩主・津軽信義の時代には、開拓が非常に活発に行われ、寛永17年(1640年)頃には、現在の鶴田、野木、木筒、沖などの集落が出現し、次第に発展していった分けです。

丹頂鶴


 鶴田町のシンボルはその名の通り「鶴」。その町章は鶴を象徴したもので、町の鳥は「丹頂鶴」、町のキャッチフレーズは「鶴と国際交流の里」・・。
 江戸時代の頃には数多くの鶴が飛来したという鶴田町ですが、そんな歴史を踏まえてのことでしょうか ー
【平成4年に「生きた丹頂鶴誘致」の声が高まり、平成5年に中国黒龍江省より2羽を譲り受け、平成9年にはロシア連邦アムール州よりつがいを譲り受け飼育、現在では当町で出生したものや多摩動物公園から借受している丹頂鶴が飼育されています。】と、紹介されています。

 現在は、富士見湖に架かる鶴の舞橋を渡りきったところに「丹頂鶴自然公園」があり、元気な丹頂鶴たちが、
丹頂鶴
訪れる人々に愛嬌をふりまいています。
 また、毎年、恒例の『鶴凧揚げ大会』が開催されています。この鶴凧は、【北海道鶴居村から大切にしていた鶴凧と設計図を譲り受け制作が始まりました。今では、毎年1月2日の新春と8月15日の夏まつりに、町民が凧揚げする様子を見ることができます。風を切って大空を舞う鶴凧の姿は、本物の鶴が飛んでいるような
鶴凧
優雅な光景。】なのだとか。。 ※【】はHP「鶴田町観光ウェブマガジン」より


 この鶴田町にも、鬼ッコを掲げている神社がいくつかあります。
 まずは、境地区・高田にある八幡宮を訪ねてみました。
 この境八幡宮の創建については詳しく分かりませんが、町の各地区に鎮座している「八幡宮」と名づけられた神社は、1670年頃の建立とされるものが多く、この八幡宮もその頃のものと思われます。新田開発にあたって、五穀豊穣祈願のために建立されたのかも知れません。

御神木と拝殿


 境内へと入って行くと、大きな御神木が二本、拝殿の前に立っているのが見えます。まるで鳥居というか、お寺でいえば山門というか・・。
 ⇒拝殿前の御神木(画像複数)
 このような「門」を思わせる御神木は、以前、大鰐町の居土普門堂
居土普門堂
や、青森市入内の小金山神社
小金山神社
でも見たことがあります。
 こちらは、拝殿、本殿、そして狛犬です。⇒拝殿・本殿・狛犬(画像複数)
 ここの境内の神馬
神馬
はとても印象に残りました。何というか、動きがあって、生きているような気がします。見事な造りだと思います。

拝殿の鬼ッコ


 さて、この神社の鬼ッコは拝殿に掲げられています。
拝殿の鬼

 見てドッキリ、びっくり・・。何と顔がありません。頭部が欠落しているのです。
 長い間、このままで雨風にさらされてきたのでしょうか・・顔だった部分は、だいぶ腐食が進んでいました。とても痛々しい感じがします。
 かつては、どんな姿で、どんな表情で、参拝する人々を見つめていたのでしょうか。。 ⇒境八幡宮鬼ッコ(画像複数)

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  

悲恋物語「津軽富士見湖」ーつがるみち113

 北津軽郡・鶴田町に廻堰(まわりぜき)大溜池という大きな溜池があります。周囲11km、堤の延長がおよそ4kmで、堤の長さは日本一とされています。
 この溜池は、岩木山を水源とする貯水池でしたが、万治3年(1660年)に弘前藩4代藩主・津軽信政の時代に、堤防が築かれ、用水池になったものです。
 その後、時代を経て、何回かの難工事の末、昭和35年に現在の堤防が完成し、県内で最も大きな人造湖として、西北津軽一円の田畑を潤しています。
 その景観はとても美しく、湖面に津軽富士・岩木山を映すことから、「津軽富士見湖」と名づけられ、人気の観光スポットにもなっています。
 この富士見湖に架かっている橋が「鶴の舞橋」で、文字通り、「湖面を舞う鶴」をイメージして造られていますが、HP「鶴田町観光ウェブマガジン」では、次のように紹介しています。
【「鶴の舞橋」は、全長300メートル、総ヒバ造りの三連太鼓橋。周辺の自然環境や景観との調和を保つため、橋脚には樹齢150年以上の青森ヒバ700本を使用し、日本古来の建築技術を駆使してつくられた。・・・ゆるやかなアーチを描く三連太鼓橋は、巌鬼山、鳥海山、岩木山の三峰で形成される岩木山を模しており、天候が悪く湖面に岩木山が映らない日でも、橋の影を岩木山に見立てて観賞できるよう配慮している。※HP「鶴田町観光ウェブマガジン」より】 ⇒富士見湖と鶴の舞橋(画像複数)

鶴の舞橋


 橋を渡って行くと、途中の休憩所に富士見湖にまつわる「悲恋物語」
「悲恋物語」説明板
が紹介されています。
【今から600年前、この辺りを治めていた清水城の城主・間山之守三郎兵衛忠勝が狩りの帰り道、草深い里にある太右衛門の家に立ち寄った際、同家の息女である白上姫と出会い、一目で白上姫を恋するようになった。二人は愛し合い、一年が過ぎた。
 ところが、翌年の秋、間山之守と土地の娘・琴姫との婚約が進み、間山之守はいつしか白上姫を忘れるようになっていった。そうとも知らぬ白上姫は、間山之守の正月用の晴れ着を縫い上げ、城下へとやってきた。城に近づくと、普通の日と違って大変な人通りである。不審を抱いた白上姫は通りかかった人に聞くと、この日が間山之守婚礼の日と知らされた。手にしていた晴れ着が落ちたのも知らず、人目を避けて帰る足はいつしか大溜池の畔に姫を運んでいた。水草が揺らぎ、波紋を残して白上姫の姿は水中に消えていった。 ※鶴の舞橋説明板より(要約) 】

 ー 白上姫は悲嘆のあまり、湖に身を投げた分けですが、翌年の春、小雨降る日、大溜池に清水城へ向って湖水を渡る白竜を見た人があり、「白上姫の霊」ではないか・・と、大騒になったと語られます。龍と化した姫は、間山之守を苦しめ続け、とうとう間山之守は狂乱し、自分の妻を殺し、自らも湖に身を投げてしまいます。それ以後、湖にはたくさんの鮒や鯉が住むようになり、鶴が飛来するようになったのだとか。。

戸和田神社


 この白上姫を憐れんだ村人達が、その魂を鎮めるために建立したとされる社が戸和田神社です。この神社は、鶴の舞橋の入口付近にひっそりと建っていました。神社にはつきものの石灯籠や狛犬もなく、鳥居の横に社号標
社号標
と、その奥に小さな社殿
社殿
が建っているだけです。
 戸和田=十和田で、青森県内には「十和田様」と呼ばれる神社や祠が数多くありますが、「十和田様」とは、窪地に水が溜まったものを指し、そこに水の神・龍神がいるという信仰が生まれたとされています(十和田湖の十和田信仰は、その代表的なもの)。ここ戸和田神社の中にも、龍神と自然石
龍神と自然石
が祀られていました。

 社殿の壁には、同様の「悲恋物語」が掲げられていましたが、物語の終わりの方に、「白上姫の悲劇を嘆いた村人は、戸和田神社とともに、村内に白山姫神社も建立した」と書かれていました。

白山姫神社


 その白山姫神社は、戸和田神社から見て、池の対岸付近に鎮座していました。青森県神社庁HPには、「元禄六年三月産土神として勧請す。 明治六年四月廻堰八幡宮に合祭される。 翌年復社。 」と記されています。
 御祭神は、伊邪那岐神、伊邪那美神、そして多くの白山姫神社がそうであるように菊理姫命です。

 境内には、並んで立っている庚申塔
庚申塔
のそばに末社
末社
がひとつ。こちらは拝殿
拝殿
の前にある子ども連れと鞠突きの狛犬
狛犬
です。田んぼと富士見湖を背にして本殿
本殿
が建っていました。

 富士見湖を挟んで、ちょうど向かい合うように「悲恋物語」を伝える社が鎮座していることは、この伝説が地域に長い間大切に語り継がれてきた「証」なのかも知れません。 ー この悲恋伝説は、青森ねぶたの題材になったり、地元の子ども達の「ふるさと学習」の素材としても取り上げられているとのことです。

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