
- 前回の記事から少し間が空きました。
平内町夏泊半島の茂浦・浦田を過ぎると、半島の先端である大島 へと至りますが、ここから右回りに下って行くと、椿山方面になります。
今回は、茂浦から大島へと向かう途中にある稲生という集落に鎮座している稲生神社を訪ねました。

「稲生」という地名の読み方は「いなおい」「いなしょう」「いなぶ」など、各地によって様々ですが、ここは「いのう」と読むようです。
稲生は県道9号線沿いに広がっている漁村ですが、走って行くと、道路際の丘に赤い鳥居が見えたので立ち寄ってみました。この社が稲生神社だと分かったのは後のことです。

その由緒については、
【御祭神:須佐男命 この神社は正保三年創立、 造主豊嶋孫次郎外村中、 延享、 天明、 寛政年中再建、 文政六年再建日光院延寿法印 (十世)、 明治四年再建日光院延正法印佐々木和仲 (十二代)、 大正十年修築、 社掌佐々木要 (十三代)、 昭和二十九年四月、 夏泊半島一円に害虫の発生で樹木に大被害あり、 当神社もこれが被害による枯損木 (ナラの大木二十本) を神社本庁の承認を得て伐採処分す。 昭和三十三年四月、 拝殿の新改築実施、 宮司佐々木高精、 大工頭領東田沢の須藤定蔵。 同四十八年九月、 本殿修改築、 拝殿新築、 このとき参道の不便から境内の山上を中腹までブルドーザーで切開き、 一大平地を造成して社殿を建立、 更に表参道の新設と自動車可能の裏参道をも新設して老人の参拝を容易ならしめた。 同二十四日秋祭をかね落成遷座祭を執行。 宮司佐々木高精、 大工頭領茂浦の佐々木茂光。 ※青森県神社庁HP】と書かれています。
道路沿いの一の鳥居からは丘の上に向けて参道の石段が延びており、上りきった左側の方に境内はありました。
背の高い草や木々のために、参道の途中からは見えなかったのですが、由緒に「・・・参道の不便から境内の山上を中腹までブルドーザーで切開き、 一大平地を造成して社殿を建立・・」とあるように、真っ平に整地された広い境内でした。
境内には、御神燈と狛犬が一対ずつ立っていますが、狛犬の台座には貝なども置かれていて、いかにも海辺の神社だという感じがします。
拝殿の後方には、白い末社が2つ並んで立っていますが、どうやら馬頭観音を祀っているようです。末社と末社の間には馬頭観音碑も立っていました。
◇稲生神社








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☆つがるみち☆



平内町は、養殖ホタテ水揚げ高日本一の生産量を誇っていて、「ホタテ王国」と呼ばれています。
ホタテ養殖が町の基幹産業になったいきさつについては、
【・・・当町浦田の豊島友太郎氏が昭和32年、杉の葉による採苗と中間育成の研究を重ねホタテ養殖を軌道に乗せました。昭和48年には養殖ホタテ全盛期を迎えました。この頃から出稼ぎから解き放たれ、やっと夫婦が一つ屋根の下で住むことが叶いました。私財をなげうって研究に取り組んだ豊島氏の情熱がやっと実を結び、その後「ホタテ御殿」の愛称で呼ばれる新築の家が次々建てられたのもこの頃からです。このホタテ王国実現のカギとなったのが「タマネギ袋」であり、ホタテ養殖とタマネギ袋は切っても切れない関係があります。この育苗生産成功によって、それまでは杉の葉による卵子の付着だけに頼っていたものを、更にタマネギの袋を上からかぶせる事により、杉の葉から落ちる稚貝を高い確立で回収する事に成功しました。※平内町HPより抜粋】と紹介されています。

上記の紹介文に書かれているように、ホタテ養殖が始まったのは浦田の村で、漁港には漁業協同組合がありますが、建物の手前にほたて養殖発祥の地 という記念碑が立てられています。
その組合の建物と道路を挟んだ向かい側に小高い丘がありますが、かつては、この辺りまで海岸線が迫っていたのでしょう。その頂上には稲荷神社が鎮座しています。

その由緒については、
【御祭神:倉稲魂神 この神社は正保元年四月十日創立、 造主総兵衛、 甚九郎、 新助外村中、 その後天明、 寛政年中再建、 文政六年九月十日再建、 日光院十世延寿法印代。 明治二十年九月十日新築、 大正十年十月十日社殿及び鳥居の修改築、 社掌佐々木要 (十三代)。
昭和三十三年二月十二日、 暴風雪のため境内の松の大木七本が倒木、 神社本庁の承認を得て処分す。 同年十月十日社殿の修築及び第一鳥居を新築、 宮司佐々木高精。 同三十五年五月、 拝殿の修改築、 宮司佐々木高精。 平成元年九月三十日浦田稲荷神社並に馬尻観音堂の社殿新築落成奉告祭執行。 宮司佐々木高精、 大工頭領東田沢の笹原敬吾。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
平内町の神社紹介欄には、創建や改築、新築等に関わった人々の足跡がとてもていねいに書かれていますが、この神社も江戸時代の初期から、村人の手によって、大切に守られてきた社のようです。
一の鳥居をくぐると、左側に御神燈と狛犬が一対ずつ置かれており、そこから参道の石段が小山の頂上へと延びています。
二の鳥居からは、さらにその上へと石段が続き、社殿の前にも一対の狛犬。浦田の村を見下ろしていました。
社殿の裏側は、さらに高く細い崖になっていますが、ここからは海岸線がくっきりと見え、なかなかの絶景です。
由緒に「暴風雪のため境内の松の大木七本が倒木・・」とありますが、丘の上には、たくさんの老松が生い茂り、朽ちた切り株などもありました。
長い時間、一段と高い場所から、そのときどきの村の繁栄を見守ってきた神社という感じがします。
◇浦田稲荷神社








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☆つがるみち☆



青森市の浅虫温泉を過ぎると平内町に入ります。
国道4号線を進み、町の中心部に入る手前に、夏泊半島へと至る県道9号線が枝分かれしていますが、この道をたどって行くと半島をぐるっと一周することができます。
様々な奇岩が立ち並ぶ風光明媚な海岸線が続きますが、道路沿いの集落にはそれぞれ漁港があり、防波堤のそばにはたくさんの漁船が繋がれています。

茂浦(もうら)も、そんな集落のひとつですが、漁港のそばに塩竈神社が鎮座しています。
その由緒については、
【御祭神:味耜高彦根命 この神社は天正十三年の創立、 建主須藤三九郎、 同十左エ門、 釜師浪岡六兵衛外村中、 一時中絶のところ寛永十一年塩釜の址から銅像の観音 (一尺五寸) 出現、 この旨お上申別堂の造立仰付られ、 現在地に社殿を新築して遷座、 日光院四代山名法印、 造主須藤三郎兵衛外村中、 いつの頃か、 岩木山神社の分霊と伝えられる小像の御神体が同座している。 茂浦島の弁天堂宝暦八年創立、 日光院八世延常法印、 造主須藤権三郎外村中、 この神社は明治初年法令によって廃社となったが、 その後小堂を建立。 終戦後御堂及び鳥居再建、 造主後藤岩五郎。 昭和十年十月十七日、 本殿が拝殿内に併設されていたがこのとき本殿を離して別棟に新築遷座。 ※青森県神社庁HP】とあります。
詳しいことは分かりませんが、戦国時代から江戸期にかけて、地域の有力者等によって建立され、その後、村の産土社として崇敬されてきた社のようです。
◇茂浦塩竈神社




御祭神の味耜高彦根神 (あじすきたかひこねのかみ)については、あまりなじみがなく、私は分かりませんでしたが、
【大国主神(おおくにぬしのかみ)と田霧姫命(たぎりひめのみこと)の子。天稚彦(あめわかひこ)が死んだとき弔問にいったところ,顔がにているため死者が生きかえったとまちがえられ,おこって刀をぬいて喪屋をきりたおしたとつたえる。岐阜県美濃市の喪山はこの喪屋という。奈良県御所(ごせ)市の高鴨神社の祭神。「古事記」では阿遅志貴(あじしき)高日子根神。 ※コトバンクより】とのことです。
古来より、「航海と安産の守護神」として信仰されてきた神様ですが、漁業の村・茂浦の守り神にふさわしい御祭神です。
参道には、末社がひとつ。境内には御神燈と狛犬が一対ずつと丘の上の社殿のみ。いたってシンプルな造りです。
左右の狛犬のとなりに、それぞれ「人型」を思わせる自然石が置かれています。ちょうど人のひざにあたる場所には御賽銭もありました。「石仏」として崇められているのかも知れません。
◇人型石、狛犬、末社




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ここは、【古くから白鳥渡来地として知られ、毎年10月中旬頃シベリア方面より渡来し、3月下旬頃まで白鳥とのふれあいが楽しめます。また、渡橋から松島・小松島へと渡れ、景勝地としても賑わっております。海岸一帯(夏泊全体に亘り)は『小湊のハクチョウおよびその渡来地』として国の特別天然記念物にも指定されていてます。※平内町HP 】と紹介されているように、白鳥飛来地として有名な海岸ですが、ここに雷電宮という社が鎮座しています。
一の鳥居をくぐると、手水舎のとなりにひとつの木製の歌碑が立っています。これは、菅江真澄の歌を記したものですが、菅江真澄は、天明八年(1788)と寛政七年(1795)にこの地を訪れ、紀行文『津軽の奥』には「・・この夜、雷電の祠に夜ごもりはせりけり、その、いほそくらの法螺ふく声いと高し。神明の社にぬさとりその林に入れば、さばかり広きみなとは、なから厚氷のゐたるに雪ふりかヽりたるうへを、氷渡すといひて、ふみしだき渡りぬ。大空の霞たるやうに月の朧なる長閑さ。 ー のどけしなみまへは春になるかのみたらし川はまだ氷るとも」と書いています。
菅江真澄の歌碑は、拝殿前にも立てられていて、そこには「みつしほの浪のしらゆふあさな夕かけていく世になり神の宮」 と記されていました。
手水舎の向かい側に一本の大杉がありますが、樹齢約350年とも言われるこの大木は「降雷大杉」と名づけられています。
ここ平内町の雷電宮は、「五穀豊穣・海上安全豊漁・雷難除去・諸願成就の神様」である別雷命(わけいかずちのみこと)を御祭神とする避雷信仰をもつ神社で、その力により、平内町の人々を雷の被害から守るとされていますが、2005年の11月に、この大杉に雷が落ち、その上部が燃えたようです。 - 被害を民家に及ぼさず、我が身に引き受けた「神木」といえるでしょうか。
境内には、稲荷神社をはじめ、龍神宮など、いくつかの末社が建っていますが、稲荷神社と龍神宮の間に、大きな石造りの歌碑があります。これには大町桂月の歌「白鳥の羽音と共に千代までも御稜威絶えせぬいかずちの宮」が刻まれていますが、桂月は大正11年に夏泊半島を探訪していて、雷電宮を参拝した際に呼んだものとされています。
◇雷電宮境内










さて、雷電宮の由緒については、【第五十代桓武天皇の御代、 延暦二十年坂上田村麻呂将軍創祀と伝えられる。往古蝦夷政策が進められた中に、 征夷大将軍坂上田村麻呂公は東北経営にあたったが、 奥州の夷賊高丸・大た基も・盤いわ具ぐ等(※蝦夷の首魁たち)が謀反し、 妖術で官軍を苦しめたので、 将軍神仏の冥助によって平定しようと多くの社寺を建立された。 当社はその一社と云われる。初め南部の某地に建立されたと伝えられるが、 何時の頃にか東岳に祀られる。 後東岳の社寺離散した時、 荒田 (今の平内町盛田) に再建。文禄二年、 洪水の為祠宇流されて現今の地に漂着。※青森県神社庁HP 】と紹介されています。
古くから白鳥の飛来地であるこの辺り一帯には、白鳥を「神使」と崇める信仰が根強く残っていて、他村の猟師が白鳥に銃を向けたりすると、その前に立ちはだかったという話もありますが、次のような伝説が語りつがれています。
「津軽藩と南部藩の境にあたるこの地は争乱が絶えなかった。戦国の頃、この地を治めていたのは七戸氏で、福館を居城とし、南部氏に仕えていたが、七戸修理の代になって津軽氏に帰順した。南部氏はその報復のため、大軍をもって攻め寄せた。七戸修理は迎え撃つ覚悟を決め、雷電宮へと戦勝祈願に向かった。 真剣な祈りを奉げ、いざ戦場へ向わんとした彼が目にしたのは、何処からか集まってきた数千羽の白鳥達だった。白鳥達は次々と境内に舞い降りたが、その羽音を聞いた南部勢は、津軽の援軍来ると勘違いして、戦わずして引き揚げた。」以来、白鳥は雷電宮の神の使いであるとされ、捕獲を禁じられたという話です。
また、この小湊の白鳥には、源義経に関わる言い伝えも残されています。
「平泉から逃れた義経は、八戸滞在中、地元の豪族佐藤家の娘と深い仲になり、娘は鶴姫を産む。義経が既に北へ旅立った後の話である。歳月が流れて、成長した姫が恋に落ちる。相手は地元の阿部七郎という武士である。しかし、阿部家は頼朝に仕える身であり、義経の遺児との結婚など不可能。思い余った2人は、話にだけ聞く義経を慕って蝦夷地への逃避行を図ろうとする。そして夏泊まで来たとき、追っ手が迫った。2人は半島の絶壁で胸を刺し違えて、海に飛び込んだ。」
ー 夏泊に咲く真っ赤な椿は二人の悲恋の(心中の)象徴。そして、浅所海岸に押し寄せるたくさんの白鳥は、薄幸の娘を慰めるために義経の霊魂が乗り移ったものとされている分けです。
「椿山心中」と呼ばれるこの伝説は(伝説とはいえないかも知れませんが)、源義経=成吉思汗説を取り上げた、高木彬光氏の『成吉思汗の秘密』の中でも重要視されています。
前回、お伝えした椿山の「椿山伝説」、そして、ここ雷電宮の白鳥伝説・・・夏泊は、ロマンあふれる半島です。
◇雷電宮拝殿・本殿





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青森県の姿を形作っている津軽半島と下北半島に囲まれた陸奥湾。その陸奥湾に突き出た半島が夏泊半島です。
東津軽郡平内町に属するこの半島は、風光明媚な海岸線が続く行楽地で、夏は海水浴場やキャンプ場としても、大変賑わうところです。
平内(ひらない)という町名は、アイヌ語の「ピラナイ」が語源とされていますが、「ピラ」は山と山の間、「ナイ」は河川の意で山と山の間の川が流れる土地」という意味だとされています。藩政時代には、ちょうどこの平内町と隣の野辺地町のあたりが、津軽藩と南部藩との境目だったようです。

この夏泊半島の北端は、「椿山」と呼ばれ、椿(ヤブツバキ)が自生する北限地帯として国の特別天然記念物に指定されていますが、現在のように見事な椿の花が自生するにいたった影には、ひとつの物悲しい伝説が語り伝えられています。その伝説に由来する神社が椿神社です。
さて、その伝説とは、
【その昔、越前商人の横峰嘉平という人が、交易に来て、村の娘・玉と契り、末は夫婦になろうと誓い合った。嘉平は商用で一時国へ帰らなければならなくなり、お玉は「京の女がつけている椿の油が欲しい、今度来る時はその実を持ってきてください。絞って塗りたい」と名残りを惜しみ泣いて別れた。お玉は、嘉平を待ち続けたが、約束の年になっても船は来なかった。待ち焦がれたお玉は、嘉平を深く恨んで海に入って死んでしまった。村の人々は泣き悲しみ、海が見えるこの地にお玉の墓をつくって埋めた。三年を経た次の年、嘉平は約束の椿の実を持って来たが、お玉の死を村人から聞いた嘉平は、倒れんばかりに嘆き悲しみ、せめて慰みにと椿の実をお玉の墓のまわりに埋めてやった。それが芽を出し、年々繁殖し、椿が山を覆うようになり、今日の椿山になったという。明治の文人・大町桂月は、この伝説を書きとめ、「ありし世の その俤の偲ばれて 今も八千代の玉つばきかな」と詠んでいる。※境内の椿山伝説紹介板より】という悲恋物語です。
- 椿神社の境内には、この伝説を記した紹介板や、「お玉の墓」と伝わる祠なども建っています。
この辺りは「椿山海岸」といい、日本の渚100選にも選ばれている景勝地ですが、そこに菅江真澄の歌碑が立っています。
「影落つる 礒山椿紅に 染めて汐瀬の 波の色こき」 - 菅江真澄は、1795年の3月にここ椿神社(当時は椿明神)に参拝し、『津軽のおく』に、先の椿山伝説を記録しているとのことです。
◇椿山伝説ほか






椿山神社の由緒については、【御祭神:猿田彦神 文治の初め椿山にまつわる伝説の祠つかあり、 天正年間は椿崎大明神と称えたり、 明暦年中より椿大明神を祀る。 初め鳥居だけ建立されていたが藩主の仰せにより社殿を建立しての信仰となる。 創立、 元禄十一戊寅年四月三日奉造立椿宮女人神霊、 別当日光院六世山造法印、 施主新十郎、 吉兵衛外村中にて建立。※青森県神社庁HP】とあるように、文治の頃(1185年頃)には、椿山伝説の祠があり、明神様として信仰を集めていたようです。その後、【天正年間(1573~1592)には椿崎大明神と称し、明暦年中(1655~1687)より椿大明神を祀り、元禄十一年(1698)には椿宮女神を神霊とし社殿を建立。安永三年(1773)には椿神社と改称し、 明治六年に猿田彦大神を祀る。※由緒書きより】という経緯をたどっています。
社殿は、一段と高い丘の上にあり、境内と海岸線を見下ろしているようでした。
二の鳥居のそばに、ひとつの詩碑が立っています。その石碑の形は「ホタテ」。陸奥湾、そして平内町の名物です。
石碑には、作詞家・星野哲郎氏の詩『天使たちの海』が刻まれていました。
ー 「ほたては 天使の掌(たなごころ) しあわせをわれらに恵む 白鳥は天使の歌篭(うたかご) やすらぎの曲(しらべ)をはこぶ やぶつばきは天使のえくぼ おだやかな憩いを誘う 天使住むむつの海 このふるさとの海を守り ほたてに感謝を われら心こめて 石に刻む」
◇椿神社





☆つがるみち☆

