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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 秋田県   Tags: みちのくあれこれ  縄文と弥生  

大湯環状列石と浅間神社ーみちのくあれこれ9




 秋田県鹿角市の大湯環状列石は国の特別史跡にも指定されており、青森県の三内丸山遺跡と並んで、東北を代表する縄文遺跡です。
 その特徴は、何といっても整然と配置されている環状列石(ストーンサークル)なのですが、その造られた目的については、「共同墓地」や「司祭場」、「日時計」などの諸説があり、はっきりとは断定していないようです。
 ストーンサークルはそれ自体がミステリアスなのですが、付近には聖なる山・黒又山もあり、両者は密接なつながりをもつものとされ、古代史(超古代史)ファンの関心を惹きつけています。





 発掘調査の結果、大規模な「祭祀施設」であったことが次第に明らかになり、その遺跡の概要は書籍やネットなどで数多く紹介されています。
【秋田県北東部、鹿角市の米代川上流に位置し、その支流である大湯川左岸、標高180m程の台地上に構築された、縄文時代後期前葉から中葉(紀元前2,000年~紀元前1,500年頃)の環状列石を中心とした遺跡です。環状列石の形態は、定住とともに発達した集落形態である環状集落を背景としたものと考えられます。遺跡の中心として万座(まんざ)と野中堂(のなかどう)の二つの環状列石があり、それぞれの環状列石を取り囲むように、掘立柱建物跡、土坑・貯蔵穴、遺物廃棄域が同心円状に配置されています。これらの遺構とともに、日常使用する土器や石器、土偶や土版、鐸形土製品、石棒、石刀等といった土製品や石製品が出土しています。二つの環状列石の各々の中心と日時計状組石は一直線に並び、夏至の日没方向を指しており、四季を区分する「二至二分」や太陽の運行を意識していたことをうかがい知ることができます。構築場所を選定し、天体(太陽の運行)を意識し、豊かな労働力と精神性によって構築された縄文時代の代表的な環状列石であり、当時の精神文化を知る上で重要なものです。※HP「JOMON JAPAN 北海道・北東北の縄文遺跡群」より

  



 


 前述の説明に述べられているように、この遺跡は「万座遺跡」と「野中堂遺跡」という2つの環状列石で構成されています。
 2つは道路で隔てられていますが、どちらも直径40~50mの外帯と10~15mの内帯の二重の組石群からなり、両遺跡とも40組以上の組石があるといわれています。
「万座遺跡」の方には縄文期の掘立柱建物などを復元したものが建っていますが、一方の「野中堂遺跡」は、広い野原に環状列石があるだけで、どちらかというと素朴な感じがします。
 その「野中堂遺跡」のはしっこの方に(遺跡の一部に含まれるのかどうかは分かりませんが)、こんもりとした小さな森があり、そこに神社が立っています。

 実は「野中堂」という地名は、この神社に因んだものとされています。即ち、「野(原)の中にお堂(神社)がある」から「野中堂」という分けです。地名の由来になっているくらいですから、古くからこの地に鎮座していた社なのでしょう。

 鳥居の扁額には「浅間神社」とありました。富士山の神霊である「浅間大神」を祀る神社のようです。詳細は分かりませんが、いわゆる「富士信仰」がこの地にも広がっていたということなのでしょう。
 日本の象徴である富士山に対する信仰は全国に及び、地域の富士山の姿に似た山を「○○富士」と呼んで崇めていますが、ここ大湯の聖なる山は、やはり黒又山で、その姿を拝める場所に、この神社が建てられたのでしょうか。

 小さな社殿の前に御神燈がありますが、そのそばに「野中観音堂」の碑が立っていました。
 社殿の真ん中に御神体をが納められた祠がありますが、その前には准胝観音(じゅんていかんのん)と、女神様が一体置かれていました。この女神様は浅間大神とされている「木花咲耶姫命(コノハナノサクヤビメ)」のようです。

◇浅間神社
 
  


  


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本宮神社ーみちのくあれこれ7


黒又山


 10月の初め頃に、秋田県鹿角市大湯の「大湯環状列石(ストーンサークル)」に行ってきましたが、そのときに近くの黒又山(くろまたやま)に登ってみました。
 黒又山は標高が約280mと、さして高い山ではないのですが、きれいな三角錐の形をしており、道路からもすぐにそれと分かる特徴のある山です。
 その姿形から青森県五所川原市の靄山などとともに、「日本のピラミッド」ともいわれ、超古代史へのロマンをかきたてている山でもあります。

 登山道の入口にある説明板(※私は見つけられませんでしたが・・)には、
【この山は、ピラミッド説が強く神秘につつまれた山です。人工的に積み上げた山ではないが、人の手で削り取り形を整えて、山霊を仰ぎ多くの人々の信仰を深め、祭儀を行なった山とされています。 地元の人々は昔から、この山を、クロマンタ山、又はクルマンタ山と読んでいます。大昔から、この地方は蝦夷地であったのでクルマンタ山も蝦夷語で解説すると次のようになります。
「クル」とは神、又は普通でない人間の事。
「マクタ」とは野の事(マンタはマクタの転訛と思われる)。
「キシタ」とは山の事。
「クルマクタキシタ」すなわち神野山となり、これがクロマンタと呼ばれるようになったと思われます。
 黒又山の名は後で付けられたものですが、ともかく古代の遺跡ストーンサークルをはじめとして、多くの神仏が祀られている野原に立つ山、そして深い神秘の中に多くの信仰を集めた山で、ピラミッドと言っても不思議ではありません。今もなお、信仰深い山「神野山」であり、すなわち現在の黒又山なのです。】とあります。

 ネットなどで「黒又山」で検索すると、「ピラミッド」だとか「レイライン」、はたまた「UFO」などという言葉がたくさん出てくる山ですが、以前には学術調査が行われ、山頂で縄文後期から続縄文期に渡る祭祀用土器が多数発見されたり、地中に人工構造物がある可能性が指摘されたりしています。
 ピラミッド云々はともかく、この山は、近くのストーンサークルとともに、古代人にとって、聖なる祭祀の場であったように思えます。


本宮神社


 この黒又山の山頂に本宮神社が鎮座しています。
 その由緒については、
【御祭神:大己貴命 誉田別命 火武主比命 保食神  創立年代不詳。 社伝によれば、万治己亥2年に中通四ヶ村一同にて、大己貴命を祭神とする神社を建立したとされる。別伝によれば、阿倍貞任の一門の本宮徳次郎が、薬師堂を建立したのが、創祀といわれる。本宮神社の社名は、明治以降のものである。※秋田県神社庁HP】と書かれています。

「別伝によれば・・・」とありますが、由来を記した説明板には、
【十世紀末頃、俘囚の長として成長した豪族安倍貞任は、この地に及ぶ程の強力な支配勢力をもっていたと言われる。安倍一門の中に本宮徳次郎という医者がいた。本宮は、安倍の従者として蝦夷地に移ってきたのであるが、草深い鹿角に来て薬草の生い繁るこの地に安住の場所を求めたのである。 その時、安倍の守り神である清水観音、八幡大菩薩、帝釈天を背負ってきたとされる。 安倍の守り本尊である帝釈天を庚神として現在地にまつり、これより巽の方角(草木八幡堂)に八幡大菩薩を、丑寅の方角(大円寺境内)に清水観音をまつったのである。 更に自ら庚神を守りながら、医者の守り神である薬師如来を一心に信仰し、四方はるか遠くからでもお参りできるよう、この黒又山頂に薬師堂を建立した。】とあります。 - 「本宮」という神社名は、この本宮徳次郎に因んだものなのでしょう。


 登山道の入口に「本宮神社」という扁額が掲げられた鳥居が立っていて、そのそばには大きな猿田彦碑(庚申塔)がありました。碑の前には三猿(みざる、きかざる、いわざる)が刻まれた石も置かれています。
 登山道が即ち参道という分けで、山頂まで至るには、杉木立に囲まれた細道が延々と続きます。時間にすればそれほどでもないのでしょうが、先の見えない曲がった道はけっこう疲れました。

 山頂には、お堂がぽつんと建っていて、その前に祠がふたつ。この社の前身は「薬師堂」と由緒にありますが、社殿には確かに「薬師神社」と書かれていました。社殿の中は古寺を思わせる雰囲気です。
 この神社、明治になって本宮神社と改称されましたが、昔も今も「お薬師さん」として親しまれ、厚く崇敬されているとのことです。

◇本宮神社

  
社殿
末社
社殿
祭壇



  
猿田彦碑
参道
石仏
社殿内


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「和井内神社」-みちのくあれこれ1


滝ノ沢展望台から


 10月初旬、十和田湖の休屋にある十和田神社を訪ねました。
私の住んでいる黒石市から十和田湖までは国道102号線をさかのぼることになるのですが、その途中に滝ノ沢があります。
 ここには展望台が設けられていて、十和田湖を望むことができるのですが、ここからは道が2つに分かれていて、真っ直ぐ102号を進むと子ノ口に、右側に折れると休屋方面へと道が続きます。   ⇒滝ノ沢から十和田湖
滝ノ沢から十和田湖


 湖畔に沿って続いているこの道は、青森県と秋田県の境を縫うように走っているため、ナビの案内もころころ変わるわけですが、しばらく走って行くと大川岱という集落があり、ここに和井内神社が鎮座しています。住所は秋田県鹿角郡小坂町。

 駐車場からは、湖畔へと遊歩道が延びていて、外輪山に囲まれた十和田湖を見ることができます。私が行ったときは天気もよく、水が澄んでいて、とても美しい眺めでした。道路を挟んだ真向かいに和井内神社の一の鳥居が立っています。

◇和井内神社①

 
十和田湖①
十和田湖②
十和田湖③
十和田湖④
和井内神社一の鳥居



案内板


「和井内」という神社名が示すようにこの神社は和井内貞行を祭る神社です。
 和井内貞行は、十和田湖の漁業と観光開発に貢献した明治の偉人の一人で、かつて教科書にも取り上げられ、その感動的な生涯は『われ幻の魚を見たり』という映画にもなったほどでした。

 その業績等については、
【和井内貞行は1858年、陸奥国鹿角郡毛馬内村(現・秋田県鹿角市)に生まれた。幼名を吉弥と名乗った。1881年、小坂鉱山に赴任する。鉱山勤務のかたわら十和田湖養魚事業に着手する。それ以前、十和田湖は魚一匹住まない湖だった。何度も失敗を繰り返すも辛抱強く研究を続けた。1897年には十和田湖畔に旅館『観湖楼』を創業。十和田湖養魚事業を進めるべく、人工孵化場を作る。1903年、ヒメマスの稚魚を放流し1905年に成魚となって回帰したことによりついに和井内は十和田湖養魚事業に成功した。和井内の養魚事業の成功は、十和田湖の観光にも大きな影響を与えた。和井内は十和田湖の養魚事業の開発の先駆者であるのと同時に観光開発の先駆者でもあった。2013年現在、十和田湖はヒメマスの釣りのスポットとして有名である。これらの事業成功が評価され、和井内は1907年に緑綬褒章を授与された。その後も十和田湖を国立公園として指定するよう、内務省に陳情を行っている。※wikipediaより】とあるように、粘り強く、活動的な人物であったようです。

 40歳を過ぎて帰郷した貞行は、【明治33年、青森水産試験場から買い入れたサクラマスの卵を孵化させると、5,000尾の稚魚を十和田湖に放流。さらに、日光養魚場からも日光マス(ビワマス)の卵を買い、孵化させて稚魚35,000尾を放流しますが、うまくいかず、多額の借金を抱えることとなってしまった。】といわれています。
 失意のどん底にあった貞行は、青森市の東北漁業組合本部を訪ね、そこで、【信州の寒天商人から北海道支笏湖の回帰性のマスの話を聞きます。このマスこそ、アイヌ語で「カバチェッポ」、後に「ヒメマス」と名付けられる魚でした。】 - 貞行とヒメマスとの出会いです。

【明治36年5月、卵の孵化に成功した貞行はその稚魚30,000尾を放流。「和井内マス」と命名しました。しかし、このマスが放流地点に帰るのは3年後のことであり、また苦労の日々が続くこととなります。和井内家の家計は困窮しました。】とあるように、幻の魚「カバチェッポ=ヒメマス」が群れをなして帰って来るまでには3年の月日が必要でした。その間、困窮した家計を切り盛りし、貞行を勇気づけ、支え続けたのが妻のカツ子でした。

※上記【】は「十和田湖国立公園協会HP」他を参考にしました。

 長年苦労をともにしてきた妻のカツは、その後、病に倒れ、46年の生涯を閉じます。湖畔の人々はカツの温情に感謝し、大川岱に「勝漁神社」を建立して御霊を祀りました。これが、和井内神社のはじまりとされています。
 「十和田湖の父」和井内貞行は、大正12年(1922)にこの世を去りましたが、昭和8年に「勝漁神社」が「和井内神社」に改称され、現在に至っています。

 御祭神は、和井内貞行と和井内カツ子、そして貞行が信仰していたとされる事代主命(ことしろぬしのみこと)。 - 和井内神社は大川岱地区の人々の信仰を集める湖畔に立つ静かな社です。

◇和井内神社②

 
参道
拝殿①
拝殿②
木鼻
本殿


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