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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 十和田市   Tags: みちのくあれこれ  名木めぐり  

法量神社ーみちのくあれこれ6


法量神社


「三本木原」とは、現在の十和田市を中心とする洪積台地を指しますが、一帯はかつて八甲田火山群の噴火による火山灰におおわれた荒れ地で、「木なんか三本と育たね」とされたことから、そう呼ばれました。
 この不毛の地の開拓を志し、水源となる人工河川の開削を中心となって進めたのは新渡戸傳 (にとべつとう ※新渡戸稲造の祖父)という人物で、安政2年(1855)に工事着手し、難工事の末に完成させた水路が現在の稲生川の基となりました。
「実り豊かになるように」と願いをこめて命名された稲生川は、旧十和田湖町から太平洋岸まで続く人口河川ですが、この水路の完成により、荒涼とした台地は広大な水田地帯へと変貌した分けです。

 十和田市の奥入瀬川沿いに位置する法量地区は、この稲生川の取水口がある町です。周辺からは縄文時代の土器などが発見されており、昔から大きな集落があったとされている所ですが、ここに法量神社が鎮座しています。

 その由緒については、
【御祭神:高おかみ神  宝永五年 (一七〇八) 六月創立。 明治六年奥瀬村新羅神社に合祀されるが、 明治八年二月復社した。 明治九年十二月六日無格社に列せられる。 昭和十一年九月十日村社に昇格。 昭和二十四年十一月三十日国有境内地の譲与許可を受ける。 ※青森県神社庁HP】とあります。

「高おかみ神」は日本の代表的な水神ですが、県南地方でこの水神を祀る代表的な神社は八戸市の「おがみ神社」です。この神社は義経北行伝説も残る八戸市内で最古と言われる神社ですが、集落の農業用水などを賄っていた「柏崎堤」の守護神として創建されたといわれています。
 この「おがみ神社」は正式には「法霊山おがみ神社」といい、「法霊神社」という通称で呼ばれています。その由来については、
【鎌倉時代に「法霊(ほうりょう)」という修験者が、熊野や京都の聖護院などで修行の後、東北地方から青森県内の様々な地域を説いてまわりながら八戸に戻った。・・・法霊が戻った時、八戸では日照り続きで作物の栽培に深刻な影響が出ていたため、農民たちは雨乞い祈祷に優れた法霊に依頼し恵みの雨を願ったが、寝食を忘れた命がけの祈祷の甲斐むなしく雨を降らせることができなかったという。それに心を痛めた法霊は池に自らの身を投げ、自身の命と引き換えに雨を降らせてほしいと願ったところ、とたんに法霊の御霊が龍に化身し天に登り、にわかに空に暗雲が立ち込めて恵の雨を降らせたと言い伝えられている。この御神徳に心から感謝した人々は御霊を法霊明神と崇め、法霊社という神社として祀った。】とされています。
 - この八戸市の「おがみ神社(法霊神社)」と、ここ十和田市の法量神社との詳しいつながりについては分かりませんが、【青森県内ならびに東北地方に点在する法霊(法領、法量など様々な表記がある)という地名は、八戸に至るまでの間に修験者の法霊が説いてまわった地域で、密接な関係がある。】といわれているようです。
※【】はwikipediaからの引用です。

 法量神社は、町を一望できる高台の上にあります。御祭神の「高おかみ神」は、稲生川開削の拠点となったこの地にふさわしい祭神といえるでしょうか。境内のそばには水力発電所もありました。地域の守り神として崇められてきたこの社の境内には、住吉大神の祠や二十三夜塔、八幡大神などの碑も立っていました。

◇法量神社

  
一の鳥居
境内から
拝殿
境内


  
二十三夜塔ほか
狛犬
木鼻
住吉大神



道案内碑


 法量の町は日本第4位ともいわれる巨大なイチョウがある所としても知られています。
 国道102号線沿いの法量の町の入口に説明板が立っていますが、道案内の石碑の図柄はイチョウ、ここの住所は十和田市法量字銀杏木・・・イチョウづくしです。
「法量のイチョウ」は、樹高がおよそ36m、幹回り14m、推定樹齢が1,100年ともいわれる巨木で、1926年(大正15年・昭和元年)には、国指定天然記念物となっています。
 説明板などによると、
「平安時代、ここに善正寺という寺が開かれた。イチョウはその建立記念に植えられたとする伝承がある。また、十和田湖の主・八郎太郎と闘って、これを倒した南祖坊が手植えしたする伝承もある。」とのことです。
 ⇒ 南祖坊の伝説

 案内にしたがって坂道を登って行くと、やがて暗い森が見えてきます。ここからは大イチョウは見えません。少し行くと、注連縄が張られた参道?
参道
がありました。そばには後生車も立っています。神社の中へ入って行くような感じです。
 道の終点にその伝説のイチョウがありました。根元には八大龍王大神
八大龍王大神
の祠があります。十和田湖で入寂し、龍神となったとされる南祖坊に因んだものなのでしょうか。

 大イチョウの木は太い幹から垂れるいくつもの気根の様子から、「乳もらいの木」「子安めのイチョウ」と呼ばれ、信仰を集めてきた分けですが、この法量のイチョウもまた、それにふさわしい大木です。高さ、太さ、枝葉の広がり具合など、神秘的な姿形をした巨木でした。

◇法量のイチョウ

  
法量のイチョウ
法量のイチョウ
法量のイチョウ
法量のイチョウ


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仙ノ沢新羅神社ーみちのくあれこれ5


新羅神社一の鳥居


 青森県内に鎮座する「新羅(しんら)神社」は、八戸市、三戸郡南部町、そして十和田市の三社(※合祀を除いて)であるとされています。
 いずれも県内地方、旧南部藩の領地にあたる分けですが、これは、南部氏の家祖とされる南部光行が新羅三郎義光(源義光)の子孫であることから、以後、この地の支配者となった南部氏が新羅三郎義光を御祭神とする社を建立したことに起因しています。

 八戸市の長者山新羅神社
長者山新羅神社
は、「源義経の命を受けた家来の板橋長治が、平泉からこの地に先行し、芝や樹木を植え、主従の隠れ家を準備して、居を構え、長治山と称された(※長治山が長者山に)」という義経北行伝説が残る所ですが、
【延宝6年(1678)に八戸藩2代藩主の南部直政が、藩主の守護、領内の五穀豊穣・万民安穏・無病息災の祈願所として社を建て、三社堂又は虚空蔵堂と称されたのが新羅神社のはじまり ※八戸市HPより】とされています。
 この長者山新羅神社よりも、さらに古い由緒をもつとされる社が、十和田市奥瀬(旧十和田湖町)に鎮座する新羅神社です。


参道


 その由緒については、
【御祭神:新羅三郎義光   慶長年間後陽成天皇治世十二年 (一六〇七) 甲斐の国より小宮山内善故有りて、 此地に趨向小祠を草創神霊を奉祀せるに起因する。
 延宝十辛酉年府君奥瀬治大夫善定再興。 明和八年奥瀬定職公の命を拝し遷座導師現大僧都尚純稲荷大明神を合祀。文化五戊辰年奥瀬内藏崇儀公武運長久諸願成就の為本社及御内社を建立、 毎歳五石を賜る。
 嘉永年中山火に遇し災焼。 嘉永六癸丑年再築成る。 昭和二十五年三月三十一日国有境内地の譲与許可される。 ※青森県神社庁HP】とありますが、由緒の中に何度か「奥瀬氏」の名前が出てきます。

 奥瀬氏は、南部光行に従い、建久二年甲斐より糠部(ぬかのぶ:現在の青森県東部と岩手県北部)に移住してきた小笠原安芸の後裔で、奥瀬村に居住したことから、「奥瀬」を称したといわれる豪族です。

 十和田市から十和田湖にかけて、奥入瀬川沿いにはかつて「沢田館」「芦名沢館」など、南部氏家臣の館が築かれていましたが、奥瀬氏が居城とした「奥瀬館」もそのひとつで、その規模は「東西50m、南北100m、標高80m」であったとされています。現在は、郭跡・井戸跡・馬場跡が残されているとのことです。

 この新羅神社は、その奥瀬館の「館神」として建立されたとも伝えられていますが、新羅三郎義光と深い関りを持つ三井寺のHPには、次のような記事が載っています。

○「御祭神は新羅三郎義光、建久二年(1191)の創建と伝えられる。古くはもっと山の上に鎮座していた。一帯には寺もあり、神仏混淆の聖地であったといわれている。」
○「神殿には新羅三郎義光が剣を持って町を見下ろしている絵があったが、火災により史料が焼失してしまった。」
○「青森県にある新羅神社は、ここ十和田湖町の神社が最も古く、 八戸市や南部町の神社は当地のものを勧請したものであるとされている。」
○「当神社の麓より五百メートル位の場所に十和田神社が祭られている。 十和田湖畔に祭られている十和田神社は、この神社を勧請したそうである。」
 
 - 火災で社歴等が失われているため、確かなことは分からないにしても、深い歴史を感じさせる神社です。
※○「」は、三井寺HP 『新羅神社考~青森県の新羅神社』からの抜粋・要約です。

◇新羅神社

 
二の鳥居
境内
社殿
拝殿正面
木鼻の龍



五湾馬頭神から


 初めて訪れる土地だったので、けっこう迷いました。住所をたよりに探していたところ、小高い山の上に赤い鳥居らしきものが見えたので近づいて見ると、新羅神社の一の鳥居でした。道路沿いの標識には「仙ノ沢」とあります。集落名なのでしょうか。
 一の鳥居からは、杉の大木に挟まれて細い参道が続いています。鬱蒼とした暗い道を進んで行くと、登りの石段があり、その上に境内がありました。
 狛犬などはおらず、石灯籠と拝殿、本殿が立ち並ぶ広い境内です。暗い杉林をぬけた後なので、社殿の赤い屋根が輝いて見えました。
 この参道とは別に、もうひとつの「近道」があり、そこには「五湾馬頭神社」の鳥居と祠が建っていました。

 古い由緒を感じさせる拝殿で、鳳凰や木鼻の龍、脇障子のなどの精巧な彫り物は素晴らしい造りです。私は地元が津軽なので、県南地方の神社を訪ねる機会は少ないのですが、機会をみて、このような印象に残る神社を訪ねてみたいものです。

◇脇障子、本殿

  
脇障子①
脇障子②
本殿
本殿の木鼻


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深持如来堂ーみちのくあれこれ4


如来堂①
  
如来堂②


 先日、県道40号線沿いに建つ八甲田雪中行軍七勇士の碑を訪ねたときに、増沢方面へ向かってもう少し車を走らせてみましたが、その途中、白い鳥居と赤い鳥居が立っている場所を見つけました。後で地図を見てみたら、一帯は、十和田市深持如来堂という地区であることが分かりました。

如来観音神社・御蒼前神社


「如来堂(にょらいどう)は、釈迦如来や大日如来などの如来を本尊とする仏堂の呼称、及びそこから派生した地名である。※wikipediaより」とありますが、ここもまたそのひとつだと思われます。
 まずは、七勇士の石碑から近い白い鳥居の神社へ行ってみました。道路沿いの森の中にあるため目立たず、ついつい見過ごしてしまいそうな社です。

社殿内


 鳥居の前に立つと、その奥に赤い屋根の建物が立っているのが見えます。道路際の樹木にさえぎられて境内の中は見えないのですが、入ってみるとそこは思った以上に広い場所で、用水路が流れており、その後ろに社殿がポツンと立っていました。社殿の屋根の下には、「如来観音神社」「御蒼前神社」という二つの社号が並んで掲げられています。

 如来観音神社は「如来堂」という地名の由緒となった社だと思いますが、あわせて「蒼前様」を祀っているのは、いかにも蒼前信仰が根強く残っている県南地方らしいところです。社殿の中には、二つの祠が並んで置かれていました。

 境内の周りは細い杉の木立で囲まれていますが、その中に、とりわけ背の高いカツラの木が二本あります。一本は、社殿の真後ろに立っているカツラで、
社殿の真後ろのカツラ
社殿を見守るようにそびえています。もう一本は、用水路の手前に立っていますが、こちらはいかにも古木を思わせる形の良いカツラの木です。

 そして、同じく用水路の手前(向かって左側)には、イチョウの巨木があります。
「深持のイチョウ」として知られているこのイチョウの木は、樹高22m、幹回り8.8m、樹齢がおよそ400年という堂々たる古木で、近づいて見ると、その大きさを実感できます。 - 青森県では特に鯵ヶ沢・深浦地区が、大イチョウをはじめとする巨木の宝庫とされていますが、十和田市も名木・巨木がたくさんある所で、深持のイチョウもそのひとつです。

◇境内のカツラと深持のイチョウ

  
社殿後ろのカツラ
社殿前のカツラ
深持のイチョウ①
深持のイチョウ②



如来様


 如来観音神社を過ぎて、もう少し車を走らせると今度は赤い鳥居が見えてきました。近くのお店で聞いたところ、そこは「如来様(如来堂)だ」ということでした。
 ここもまた、道路沿いに小さな鳥居があるだけで、その奥は見えませんが、橋を渡り、鳥居をくぐると、石段の上に小さな祠がありました。ここに如来観音が祀られているのでしょう。

 道路から見ただけでは想像もつきませんが、そこは、急な崖になっていて、大岩があり、その岩を割るように、大きな木の根が縦横に延びています。そばには小さな滝も流れており、辺りの木の形などを見ると、ちょっとした異界に来たような感じです。道路沿いにこんな神々しい場所が隠れているとはびっくりです。村の人々にとって「神様の宿る場所」として崇められてきたのでしょうか。岩場の真ん中に立つ小さな祠がとても印象的でした。

◇如来様(如来堂)
 
  
祠①
岩場
祠②
小滝



カヤ人形 ※「青森観光アプティネット」より


 この如来堂地区からは少し離れていますが、同じく十和田市深持に「梅」という集落があります。昔、戦いに敗れた落ち武者達が住み着いたという伝説が残る村で、「落人の里」とも呼ばれています。
 八甲田山系の伏流水が湧き出す清水は「カドの水」と呼ばれ、名水のひとつにあげられていますが、集落の入口にカヤで作られた人形が立てられています(実際に行ってみたわけではありませんが)。

【「カヤ人形」は悪魔の部落への進入を防止するため日夜警戒していると伝えられ、また、天明の飢饉のとき集落に妖魔を入れないため、人の代わりに立てたのが始まりとも言われている。村の東口にあるしめ縄は、悪霊などの侵入を防ぐ信仰に培われているそうだ。※HP「あおもり湧水サーベイ」より

 如来堂、そして落人の里など、県道40号線沿いの深持地区は、興味深い歴史と風習が残る地域です。

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「七勇士」の石碑ーみちのくあれこれ3


七勇士の石碑


 青森県では今、弘前城石垣修理事業に伴う天守閣移動関連の話題でもちきりで、新聞紙上でも大きく取り上げられていますが、7月の末頃、地元紙にこんな記事が載っていました。
 -「七勇士」の石碑倒壊危機
地元紙より

「七勇士」とは、八甲田雪中行軍の際に弘前31連隊の道案内をつとめ、苦難の末、八甲田越えを成し遂げた当時の若者七人のことです。


 映画「八甲田山」が公開されてから、八甲田雪中行軍の出来事は広く知られるようになりましたが、史実はまだまだ闇につつまれた部分も多いようです。
 例えば、青森5連隊が厳冬期の八甲田山を越えるにあたって、なぜ案内人をつけなかったのかということもそのひとつです。小説や映画では、地元民の案内申し出を大隊長が一喝して断る場面がありますが、これについても「軍の威厳を保とうとした」とか「民間人の安全を考え、巻き込みたくなかった」などと解釈が分かれるところです。
 一方、福島大尉(映画では高倉健が演じた徳島大尉)率いる弘前31連隊がその行程で案内人の力をフルに活用したことは事実で、映画などでは、そのことが両者の明暗を分ける一因となったように描かれます。ともあれ、31連隊を先導した案内人達の功績は大きく、「真冬の八甲田越え」という壮挙を陰で支えた功労者といえるでしょう。


雪中行軍案内者顕彰碑

東道旌表碑①

東道旌表碑②


 弘前31連隊が屯営を出発したのは明治35年(1902)1月20日のことで、弘前から小国・切明(平川市)、十和田湖を半周し、戸来(新郷村)を経て三本木(十和田市)へ。そこから増沢、田代、田茂木野、青森へと至るコースで、弘前への帰営を含めた全行程はおよそ224km、11泊12日(予定では10泊)、総272時間という壮絶な行軍でした。
 ⇒弘前31連隊行軍経路
弘前31連隊行軍経路

 七勇士たちが先導に立ったのは、増沢から田代、そして田茂木野へと至るコースで、正に八甲田山のど真ん中を突っ切る行軍中最大の難関でした。

 七人はマタギ経験者を含む旧大深内村の壮健な若者たちでしたが、夏場ならまだしも、厳冬期の八甲田越えは想像を絶する苦難の連続だったようです。
◇増沢から田代
【田代平は、ゆるやかな傾斜の草原である。しかし、冬には一面の雪原と化す。風をさえぎる樹木とてない雪原は吹くにまかせた猛烈な北風が雪面を払い、どこまでが雪面でどこからが空なのか視界を失わせる。・・・磁石も凍りついて役に立たなくなる酷寒の中、しかも目標物のない雪原はそれ自体が白い巨大な眩暈のように人の方向感覚を幻惑する。】
 増沢から山あり谷ありの道を長い時間をかけて歩いてきた一行は、日が暮れたため、ここ田代で雪中露営をよぎなくされました。
◇田代から鳴沢、馬立場、田茂木野
【極限状態にある一隊に吹きつける寒風の強さは、はじめて経験するものだった。風速は25mを超えていた。踏み出そうとする一歩は、上体に吹きつける強風のために押し戻される。呼吸もままならず全員があえぎ続けながら歩いた。眠りながら歩く者も出はじめ、倒れる者も出た。歩けなくなった隊員を両脇から支えて歩く隊員もまたよろめいて歩けなくなるというすさまじさで、総崩れの危機が弘前隊に迫っていた。】
 1月28日の早朝、雪濠を出た一行は七勇士の先導で、青森5連隊を苦しめた鳴沢、馬立場方面へ出発。中の森、賽の河原を経て、29日の午前2時過ぎに田茂木野へたどり着いたのでした。27日午前6時過ぎに増沢を出てから実に44時間、弘前隊は一睡もしないまま強行軍を続けたことになります。「あわや遭難」という危機的状況の連続だったようですが、それを救ったのは福島泰三大尉の的確な判断もさることながら、やはり七勇士たちの働きが大きかったのだと思います。


説明板


 弘前31連隊の雪中行軍の成功は、青森5連隊遭難という大事件の陰に隠れてその偉業について多く語られることはありませんでした。隊を成功に導いた七勇士についても同様です。
 七人のほとんど全員が凍傷をわずらい、歩行困難になった方もいたとのことです。
 もうひとつ、長年にわたって彼らの心を苦しめたのは図らずも5連隊の遭難現場に遭遇してしまったことです。福島大尉の「八甲田で見たことはいっさい他言すべからず」という厳命を他の隊員と同様、この七人もまた守り通した分けです。彼らが「数個の凍死体を目撃し、同情の念を投げつつ下り降りた」と、重い口を開いたのは、遭難から30年後のことだったと伝えられています。

 七勇士の石碑は、十和田市へと向かう国道102号線の途中から分かれる県道40号線沿いにありますが、この道は増沢、田代方面へと続く道です。
 この石碑は、昭和6年に七人の勇気と努力を讃えるために地元・大深内村の人々によって建立されたもので、名付けて「東道旌表碑(とうどうせいひょうひ)」。「東道」は道案内、「旌表」は顕彰という意味です。
 もともとは、村内の別の場所に建てられたものなのだそうですが、雪中行軍百年を機に八甲田を望む現在の場所に移され、「雪中行軍七勇士の歌」という鎮魂歌も作られたそうです。

 実際に行ってみると、新聞記事の通り、石碑の周りは縄が張られ、「立入禁止」の札。なるほど、台座と碑をつないでいる部分などが、かなり風化しています。
 石碑の裏には「七勇士」として、「沢内鉄太郎、福沢留吉、福村勝太郎、小原寅助、沢内吉助、氏家宮蔵、中沢由松(※敬称略)」の七人の方の名前が刻まれていました。
 石碑のそばにある説明板には、雪中行軍の様子と七人の業績について述べられていますが、終わりの方で福島大尉の「(5連隊の遭難を見たことは)口外すべからず」という厳命ついてにふれ、「明治を終わり、大正を過ぎて、昭和五年までだれ一人として語る者がなかったことは、律儀な南部人の鑑であろう。」と書かれていました。

 この石碑のその後ですが、地元民の「柏地区の宝物として守り、語り継いでいきたい」という思いが通じたらしく、補修に向けた動きが始まったようです。
 ー「七勇士」の石碑補修へ
地元紙より


※【】をはじめ、記事については 山下康博 著『指揮官の決断』 中経出版 等を参照しました。


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「十和田神社」-みちのくあれこれ2


十和田湖


 十和田湖には御倉半島と中山半島という2つの島が突き出ていて、独特の湖の形をつくっていますが、あたかもその姿は、湖面に龍(蛇)が寝そべっているようです(御倉半島は頭、中山半島は尻尾)。
 青森県のパワースポットとして、その名が知られている十和田神社は、中山半島側の休屋に鎮座しています。

「十和田」は元来は「龍神が住む水のある場所」を意味し、十和田信仰は北東北に広く分布する水神信仰で、「十和田様」「十和田神社」「戸和田神社」など、各地に「とわだ」と名のつく社は数多くありますが、ここ休屋の十和田神社は、その信仰の象徴ともいえる神社です。

 境内へと至る道は2つありますが、そのひとつが御前ヶ浜から湖畔をたどる道です。ここには、「開運の小道」と名づけられた散策路が設けられていますが、そこには、溶岩の洞窟がいくつかあり、いずれも注連縄が張られ、「天の岩戸」をはじめ「日の神」「金の神」「山の神」「火の神」「風の神」が祀られています。
 カルデラ湖である十和田湖・・これらの洞窟は、太古の火山活動によって造られたものなのでしょう。この「開運の小道」を通り過ぎたところに、有名な高村光太郎作:乙女の像があり、そこから境内へと参道が延びています。

◇開運の小道から

 
御前が浜
開運の小道
天の岩戸・日の神
火の神・風の神
乙女の像


 もうひとつは、お土産屋さんやレストランなどが立ち並ぶ商店街から進む道ですが、ここに「一の宮」があり、祠が立っています。
 一の宮を過ぎると間もなく一の鳥居。参道には杉の大木が佇立していて、鬱蒼とした感じがします。こちらの参道脇にも、巨岩や奇岩が数多くあり、何となく神秘的な雰囲気が漂っています。

◇一の宮から

 
一の宮①
一の宮②
一の鳥居
参道
巨岩


手水舎


 十和田神社については、
【御祭神:日本武尊  大同二年 (八〇七) 坂上田村麿将軍東夷征討に際して、 一宇の堂を建立。 日本武尊を勧請して武運長久を祈願した。 夷賊を鎮定して後霊験高く、 旧南部藩時代には藩費を以て維持運営。 毎年代参拝礼の儀があり、 隆盛を極めた。 明治六年の変革に際して社領を没収され、 維持経営に困難した。 昭和十六年十月二十五日本殿改修、 幣殿、 拝殿、 社務所を新築。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 坂上田村麻呂が東征のおり、湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという伝説も残されており、【後、荒廃していたのを建武元年(1334)北畠顕家の奥州下向に際しこれに従って当地に来た甲州南部氏が、甲斐の国・白鳥の宮の御祭神・日本武尊の神霊を遷して再興し、藩費を以て維持運営。古くは熊野権現、青龍権現の名で知られていた。】とされています。

「神秘の湖」とも称される十和田湖には様々な伝説が語り伝えられています。中でも「昔、南祖坊(なんそのぼう)が十和田湖の主であった八郎太郎と争い、八郎太郎を秋田の八郎潟へと追いやった。」という話は最も有名なものですが、南祖坊については、この十和田神社の縁起でも次のように語られています。
【その昔熊野で修業をしていた「南祖坊」という修行僧が十和田湖にやってきました。南祖坊は熊野で権現様から「この草鞋を履いて諸国を修行し、草鞋が切れたところを住処とせよ」と鉄の草鞋を授かりました。そしてその草鞋が切れたところが十和田湖でした。ところが、その十和田湖には秋田のマタギであった八郎太郎が姿を変えた龍が住み着いていました。そして住処をめぐり八郎太郎と南祖坊の間で激しい戦いになりました。戦いは七日七晩にもおよび八郎太郎は八つ頭の龍と変じ、南祖坊は法華経を唱え経文を投げつけました。その結果、南祖坊が勝利し八郎太郎は八郎潟へと逃れることになります。そして勝利した南祖坊は十和田湖へ入寂し龍へと姿を変え「青龍大権現」として祀られることとなりました。】

 参道を通り、いくつかの鳥居をくぐる抜けると、やがて拝殿へと向かう石段が見えてきます。拝殿の奥には、500年前に建立されたといわれる本殿があり、そのそばには、熊野神社と稲荷神社が立っていました。この熊野神社には、南祖坊が履いたとされる鉄の草鞋が奉納されているとのことです。境内の杉の木にはたくさんの祈願絵馬が掲げられており、この神社に対する信仰の深さが感じられます。

 社殿から裏の山(崖)に向かって道が続いていますが、実はこの崖を登りきったところからは十和田湖で一番深いとされる「中湖」を望むことができます。そこからは、湖面に向かって鉄の梯子が渡されていて、それをつたって降りたところが「占場」。
「占場」案内板

 南祖坊が入水した場所とされ、
【吉凶を占う場として信仰を集めており、お金やお米を白紙にひねったものや、宮司が神前に供えて祈念をこらした「おより紙」を湖に投げ入れると、願いが叶うときには水底に引き込まれるように沈み、叶わないときんは重いものでも浮いたまま波にさらわれ沖へ流される。】といわれるところですが、現在は崖の頂きから占場へ下る梯子は通行禁止となっています。

◇十和田神社

 
拝殿①
拝殿②
本殿
熊野神社・稲荷神社
祈願絵馬


 十和田神社の「青龍大権現」とされる南祖坊に関する伝説は主に県南地方に多く残されていますが、一方、その戦いの相手であった八郎太郎(八郎)の話(草鞋を履いて旅に出た八郎がたどり着いた先は八郎潟であった)は、黒石市温湯大鰐町の大円寺など津軽地方にも残っており、その伝説の由来や分布など、興味深いものがあります。

※【】はHP「十和田湖国立公園協会」等を参考にしました。

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 記事を更新しないままに10月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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