
昨年の夏の小旅行で訪れた会津若松市。飯盛山や会津武家屋敷に立ち寄った後に鶴ヶ城を見に行きました。いうまでもなく、会津若松市のシンボルであり、市民の心のよりどころでもある名城です。
戊辰戦争の象徴として語られることも多いこの城にはたくさんの観光客が訪れますが、私が訪れたときも何組かの団体さんがいました。
昭和40年に再建されたという現在の城は、白壁の美しい堂々たる風格をもった城ですが、多くの人々は、本などに掲載されている「砲弾の跡が痛々しい姿」を思い浮かべるのではないでしょうか。
団体さんを案内しているボランティアの方が、
「♪はるこうろうのはなのえん・・♪」と歌っていました。どうやら、この鶴ヶ城は名曲『荒城の月』のモデルだったことを説明しているようです。
『荒城の月』のモデルについては、作曲者の滝蓮太郎と作詞者の土井晩翠に因んだ城がいくつか挙げられていますが、昭和21年に会津若松市で講演した土井晩翠は、「鶴ヶ城が『荒城の月』のモデルである」と語ったということです。
◇鶴ヶ城
【至徳元(1384)年、葦名直盛公が東黒川館を築いたのが始まりと言われており、その後、蒲生氏郷公により、七層の天守(諸説あり)が竣工され「鶴ヶ城」と改名。慶長16(1611)年の会津地震で倒壊するも、加藤氏の時代に、現在見られるような五層の天守閣となった。保科正之公が入封してから明治維新までは会津松平氏の居城としてこの地に立ち、戊辰戦争では1ヶ月にも及ぶ籠城戦にも耐えきった。まさに“難攻不落の名城”。現在の天守閣は、明治政府に取り壊されて後、昭和40(1965)年に再建されたもの。平成23(2011)年には、幕末の頃の赤瓦に屋根が葺き替えられている。】





一帯は天守閣を中心にして「城址公園」となっていますが、その一角に稲荷神社が鎮座しています。
「鶴ヶ城稲荷神社」と呼ばれるこの神社は、学業成就、商売繁盛、家内安全や交通安全祈願など、広く人々の信仰を集めている社で、「優美な鶴ヶ城を思わせる、会津葵の御紋が記された上品な筆遣いの御朱印」をいただくことができるようです。

この神社の由緒等については、
【鶴ヶ城内にある『鶴ヶ城稲荷神社』は、約600年前に城がつくられた頃から、守護神として祀られていたと伝えられており、御祭神は宇迦魂命(ウカノミタマノミコト)。食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神であり、日本で最も親しまれている神様の1つ「稲荷大神」を祀っている神社として有名。伝説によると、築城の縄張りに苦心した芦名直盛が勧請先の田中稲荷神社に祈願したところ、霊夢を見て目覚めてみると降り積もった雪の中に狐の足跡があったことから、それをしるべとして築城の縄張りを決め、今現在名城と評価の高い城を築くことができたと伝えられている。】と紹介されています。
参道の石段の両脇には狛犬ならぬ「狛狐」が置かれています。
【重厚な石造りの明神鳥居をくぐると、編み笠とほっかむりをした姿が特徴的な『狛狐』が、参道の階段の両脇に3対、合計6体が訪れた人をお出迎え。狐の足元には、宝珠に巻物、米俵、稲、鍵など特徴的。また小さい子狐もちゃんとほっかむりをしており、可愛い姿を見ることができます。】
ほっかむりをした狛犬や狛狐は、津軽の神社にも多く見られますが、「編み笠姿」の狐は、いかにも「城下町会津」といったところでしょうか。
※【】は、HP「會津物語」等を参照しました。




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☆みちのくあれこれ☆



夏に会津若松市を訪ねたときに、会津武家屋敷に行ってみました。十数年ぶりです。
有名な観光スポットなので今さら何ですが、この武家屋敷は会津藩家老・西郷頼母邸を復元したものです。西郷家は、会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務め、1700石取りの家柄でした。
復元された邸宅は、敷地が約400坪、部屋数38、表門、表玄関、御成りの間、茶室、槍の間、客待の間などが再現され、当時の武家の生活の様子を伺うことができます。
戊辰戦争の悲劇を今に伝える会津にあって、ここの武家屋敷は飯盛山などのように、その悲劇を直接伝えている建物ではありません。ただ、復元された「西郷一族自刃の間」などを見ると、人形だと分かっていても、やはり胸がしめつけられます。
◇会津武家屋敷









西郷頼母近悳(ちかのり)は、会津藩家老であったにもかかわらず、その事績や人となりについて、あまり多く語られる人物ではありませんでした。
私たちには「滅びの美」みたいなものに惹かれるところがあって、「敗者」に対して同情的な面があります。殊に、敗戦を覚悟しながらも果敢に戦い、散った人物・・・例えば、湊川の楠正成や大阪の陣の真田幸村、函館戦争の土方歳三などの姿に一種の「潔さ」を感じ、共感を覚えたりします。
会津戦争でいえば、白虎隊の少年たちや中野竹子と娘子隊、斎藤一と新選組、あるいは山本八重や佐川官兵衛などに比べて、西軍に対して「恭順」を説く頼母の姿はいかにも「弱腰」に映ります。さらには、妻・千重子をはじめ、一族全員が落城を前にして壮絶な自刃を遂げたということもあり、頼母は、「よくもおめおめと・・卑怯者」と蔑まれたこともあったようです。
ですが、近頃、会津戦争を題材にしたTVドラマが放映されたり、関連した書籍が数多く出版されたりしたこともあってか、西郷頼母に関しても、その人物像が見直されてきたようです。
頼母と会津戦争との関りを簡単に整理してみると、
○文久2年(1862)、藩主・松平容保の京都守護職就任に対して、混乱した世の中の流れや財政等藩の現状を理由に強硬に反対・諌止する。結果、容保に拒絶され、家老職を免ぜられ、藩政から外される。以後5年間、若松郊外に蟄居。
○慶応4年(1868)、鳥羽伏見での敗戦を受け、戦場が会津に移ったときに再び家老職に復帰。「白河口の戦い」に総督として派遣されるが敗退。情勢を冷静に分析し、ここでも和議恭順を主張するが、藩論が徹底抗戦で固まっている中、頼母は異端者扱いされ、西軍の領内突入がまじかに迫った緊急時にも関わらず、再び、免職・閉門となる。
○鶴ヶ城籠城戦が始まると再度復帰し、戦いに参加。この頃になると、容保をはじめ重臣たちは和議恭順を考えていたが、それを聞いた頼母は激昂したといわれる。
【既にして同僚中、或いは和を唱ふる者あり。頼母之に謂って曰く、「卿等前に余が和議を排しながら、今日に至って和を説くとは何ぞや。部門の恥辱は城下の盟より大なるはなし。※『会津戊辰戦史』より】
- 今までさんざん自分の意見を却下しておきながら、この期に及んで和議を図るなどもってのほか、武門の恥である。こうなったら徹底抗戦し、一同切腹、藩をあげて玉砕だ - 頼母の積年の鬱憤が爆発した分けです。
この頼母の叫びは他の家老の讒訴を招き、結局、頼母は鶴ヶ城を追放されますが、一説には頼母の身を案じた容保の配慮によって脱出したともいわれています。
その後、西郷頼母は函館戦争に参加し、降伏後に幽閉生活を送った後、神職として日光東照宮などに奉職します。後半生は塾長として子弟教育に携わったりするなど数奇な人生を送った分けですが、終焉の地はやはり妻・千重子など一族が眠る会津でした。
主君に対しても物おじせず、歯に衣をきせない物言いをする頼母の態度は、他からは「傲岸無礼」と映ったようですが、頼母にしてみれば「もともと西郷家は藩祖・保科氏の一族であった」という自負心があったのでしょう。
いずれにせよ、頼母の度々の諫言は、今からみると、時の流れを冷静に分析し、大局的な立場から、真に藩の行く末を憂いたものであったといえそうです。また、城を去る前の激昂ぶりからは、軟弱どころか気骨ある会津武士でもあった様子が伺われます。
総じて、西郷頼母は、己の信ずる忠義を貫きながらも、時代に受け入れられなかった悲運の宰相であったといえるでしょうか。
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☆みちのくあれこれ☆

