
義経寺の境内は、左右に折れ曲がる石段の参道を登り詰めた高台にありますが、山門をくぐって、左の方に進み、さらに石段を上がった所が本堂です。
北前船の寄港地、松前との渡航口として賑わった三厩に立つ寺院として、多くの海運業者や漁業関係者から篤く信仰された分けですが、本堂の下には金毘羅大神、海側の鐘楼のとなりには弁天堂など、水神を祀る堂宇も立てられています。

大きな仁王像が立つ山門をくぐると、その正面に観音堂があります。
御堂の前には一対の狛犬が置かれていて、堂宇の後ろ側には、本殿が立っているなど、神社の社殿を思わせる造りで、神仏混合の名残を感じさせます。
また、観音堂を取り囲むように、三十三の観音像が立っていますが、この石の観音様は、西国からやってくる北前船が、お守りや重石としていたものとされています。
観音堂の入口には、鰐口が下がり、「聖観音」と書かれた扁額が架けられていますが、その壁には源氏の家紋である「笹竜胆」が彫られており、いかにも義経伝説を伝えるお堂という感じです。
中には、義経の物語に関する多くの絵馬や船絵馬が奉納されています。祭壇の中央には、金色に輝く聖観音菩薩が安置されていました。
◇義経寺観音堂ほか









さて、前回お伝えしたように、義経寺は、蝦夷地渡海を目指して、平泉から三厩へと逃避行を続けてきた義経が、大嵐を静めるために、厩石に自分の守り本尊である観音像を安置し、祈ったという伝承に由来するお寺ですが、後に、この「義経風祈りの観音様」を発見したのは、円空和尚であったと伝えられています。
【寛文7年(1667)、この地を訪れた円空和尚が厩岩で神々しい光を放つ観音像を見つけると、その晩、円空の霊夢に観音像の化身が立ち、上記の由来を切々と語った事から、この観音像こそが義経の守り本尊と悟り、自らも観音像を彫り込み、胎内に義経の守り本尊を納め、草庵を結んだ。】
また、別説では、
【本尊の観音像は義経の兜の前立てに納めた持仏で、江戸時代初期には越前足立(現在の福井県福井市)住民の甚兵衛が所有していたが、甚兵衛の霊夢に観音像の化身が立ち、「津軽三厩に我を納めよ」との御告げがあった事から、船頭である久末に頼み、三厩の船問屋伊藤家に納め、その後、円空に渡った。】とされています。
現在、円空作と伝わる木彫観世音菩薩像(像高52cm、一木造り、寛文7年の銘)は「秘仏」として、観音堂に安置されていて、青森県重宝に指定されています。
義経北行伝説は、ここ三厩の義経寺から津軽海峡を越え、北海道へと続いています。
※【】は、HP「青森 歴史・観光・見所」からの抜粋です。
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☆津軽三十三寺社巡り☆



外ヶ浜町は、蟹田町と平舘村、そして、(今別町をはさんで)三厩村という三つの町村が合併して誕生した町です。
旧三厩村は 津軽半島の最北端に位置している分けですが、「三厩」という村名は「厩石(まやいし)」という大きな岩の名前から名づけられたとされていて、説明板には次のように記されています。
【厩石の由来:文治五年(1189年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた! 藤原秀衡の遺言「危機が迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし」のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることができない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩、日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるよう一心に祈願した。丁度満願の暁に、白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい」と云って消えた。翌朝、巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島へ渡ることができた。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩)と呼ぶようになった。】

この厩石のある所は、三厩の漁港のそばなのですが、ここは、松前街道の本州側の終点にあたり、「松前街道終点之碑」が立っています。
また、上記の説明板にも書かれているように、一帯は義経北行伝説の本州最北の地でもある分けですが、厩石のそばには「源義経渡道の地」という木柱が立っており、隣には、「源義経龍神塔」と「静御前龍神塔」が仲良く置かれていました。
厩石の裏側には小高い山があり、その山上に義経寺があります。
義経寺は、「龍馬山」を山号とする浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来ですが、境内の観音堂は津軽三十三霊場の第19番札所として知られており、名前の通り、源義経にまつわる伝説が残るお寺です。
かなり急な石段が続く参道を登ると、やがて山門が見えてきますが、境内からは、津軽海峡を望むことができ、とても美しい眺めです。
その沿革などについては、
【三厩湊が蝦夷地である松前との渡航口で北前舟の寄港地になると、義経が観音像の御加護を受けで蝦夷地に渡った故事(伝承)から、海に関わる海運業者(廻船問屋)や漁業関係者から篤く信仰されるようになります。特に義経寺では航海安全、豊漁祈願が行われ、境内には数多くの船絵馬や大漁旗、舟の重りで使用した石、石鳥居などが奉納され、文政2年(1819)には松前奉行村垣定行が石燈籠を寄進しています。当初の義経寺は厩岩近くに境内を構えていましたが安政2年(1855)に現在地に移り、神仏習合していた為、明治時代初頭に発令された神仏分離令により一時廃寺寸前となりましたが、今別にある本覚寺の末寺となり、現在に至っています。※HP「青森 歴史・観光・見所 」より】と紹介されています。









義経寺は、太宰治の小説『津軽』の舞台にもなっていますが、太宰は、昭和19年5月18日に友達のN君と、このお寺を訪ねた時の話を次のように書いています。以下は、小説からの抜粋です。
【「登つて見ようか。」N君は、義経寺の石の鳥居の前で立ちどまつた。「うん。」私たちはその石の鳥居をくぐつて、石の段々を登つた。頂上まで、かなりあつた。石段の両側の樹々の梢から雨のしづくが落ちて来る。「これか。」石段を登り切つた小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立つてゐる。堂の扉には、笹竜胆(ささりんだう)の源家の紋が附いてゐる。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、 「これか。」と、また言つた。「これだ。」N君は間抜けた声で答へた。
私たちは無言で石段を降りた。「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだらう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいふ話だ。」N君はさう言つて、力無く笑つた。私は信じたいと思つたが、駄目であつた。】
太宰は、義経伝説に関しては、割と冷ややかにとらえていたようです。
ー 次回へ続きます。
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☆津軽三十三寺社巡り☆

