
(1)なぜ安土に城が築かれたのか?(2)安土城はどんな城だったのか(外郭、内部の構造など)?(3)なぜ焼失したのか(誰がどんな理由で燃やしたのか)?
安土に信長が新城を築いた理由としては、①安土は、東西の陸路が通り、交差する交通の要所であったこと。②琵琶湖や瀬戸内、大阪からの水路の便が良い地であったこと。③故郷の尾張から近かったこと。 ④京の都(京都)から近かったこと。などが挙げられています。信長は他の武将のように、ひとつの城に固執せず、清州、小牧山、岐阜と、居城を移していますが、そんな信長にとって、安土は「天下布武」を目指す上で、ぴったりの地だったのではないでしょうか。特に「京に近かったこと」は大きな意味をもっていると思います。当時の信長は、自身の官位の件、天皇の後継者の件、暦の問題などで、朝廷と対立していました。そんな朝廷との駆け引きの上でも安土は便利だったと思います(つかず離れず、近いけれども京の内ではない、かといって遠くもなく、事あればすぐに囲める、睨みをきかせられる、という絶妙の距離)。朝廷にとっては、喉元を抑えられた感じだったかも知れませんね。
安土城の様子については、近年の発掘調査の結果、多くのことが分かってきています。五層七階、我が国初めてといわれる天守閣(安土は天主閣と呼ぶ)をもつ豪華絢爛な大城郭だったと伝えられています。以前、NHKスペシャル『信長の夢「安土城」発掘』という番組の中で、各階の造りがCGで詳しく紹介されていました。番組を見て、びっくりさせられたのは、中に「吹き抜け」の空間があったということです。斬新な造りの反面、火をつけられたらひとたまりもないこの「吹き抜け構造」については、映画『火天の城』でも取り上げられていました。また、城郭の中に御所の清涼殿を模した建物があったらしいということ。これは、安土に天皇を迎えるための「御幸の間」だといわれています。ただ、この御幸の間は、天守閣から見下ろす位置にあり、そのことからも信長の朝廷に対する意思が伺えるとされています。こうした造りが本当だったとすれば、安土城は、戦いに備えた「軍事施設」というよりも、信長の「権威の象徴」としての役目を負わされた城、といえるのではないでしょうか。
作家の井沢元彦さんは、『逆説の日本史ー10戦国覇王編・天下布武と信長の謎』(小学館)の中で、安土城は信長の思想を表現した城であり、後に新城を大坂に築くつもりであった、と述べています。信長がそう考えていたという記録はありませんが、その後、秀吉が大阪城を築いたのは信長のアイデアを基にしたものだといわれています。秀吉にとって信長はいろんな意味で「師匠」だったのですね。当時、大坂の中心部には石山本願寺があり、信長と激しく敵対していましたが、戦いの背景にはそんな理由(本願寺の地がほしかった)もあったのでしょうか。
さて、この安土城が「なぜ焼失したか」について、一般的には「信長の次男信雄は、愚かだったので父親の名城に火をかけた」という説や、明智光秀の娘婿の秀満(明智左馬之助光春)が放火したという説が取り上げられているようです。二人とも、山崎の合戦後、相次いで安土城に入城しているので、そう思われてきたのでしょう。しかし、信雄については、何といっても息子であり、しかも長男の信忠が亡き後、安土の主におさまるのは、順序からいって信雄自身であることなどから、火をかける理由がないとされているし、一方、秀満は、主君光秀の山崎での敗戦が伝えられると、ただちに坂本城へ引き上げ、炎上した当日は安土にいなかったという事実や、坂本城が落城する際、城中の名品を灰にするのは忍びないといい、寄せ手側に引き渡したという行為からして、「そんな心配りのできる者が、天下の名城安土を焼くはずがない」と考えられているなど、二人の”放火”を否定する意見も数多くあります。要するに、炎上の真相は詳しく分かっていません。
この安土炎上について、工藤健策さんは、その著書『信長は本当に天才だったのか』(草思社)の中で、次のように述べています。ー「安土城は歴史上の建造物として現代では大きな意味をもつが、当時の武将にとって、金箔と朱で”キンキラ”に飾られた天主が名品としての価値をもっていたとは思えない。」- ”キンキラ”はともかく、天下統一が進んでいたとはいえ、まだまだ混乱期にあった当時の武将たちが、「城」に求めたものは「守るに適した堅固さ」だったと思います。そういう意味からすれば(そういう彼らの価値観からすれば)、安土城は、「異質な」城郭だったのではないでしょうか。ですから、誰が燃やしたにせよ、私たちが感じる”もったいない”という気持ちとは、少しかけ離れていたのかも知れません。
それにしても、琵琶湖の湖畔にそびえ立つ安土城の壮麗な姿を見てみたかったですね。残念ながら、私はまだ、安土城址を訪れたことはありません。「いつの日にか・・・」とは思っていますが。。。



このお話の主役?である「忍城(おしじょう)」は、戦国時代は関東七名城のひとつに数えられた城(現在の埼玉県行田市)です。築城は1478年(文明10年)頃、築城主は成田氏といわれています。当時、成田氏は北条氏の配下にありましたが、1561年(永禄4年)の上杉謙信(当時は長尾景虎)による小田原城攻めの際、城主の成田長泰は謙信に恭順し、その戦いに参加しています。しかし、謙信の鶴岡八幡宮での関東管領就任式の際、長泰は謙信の前で下馬しなかったために、その無礼を咎められました。そのことが原因で後に再び北条氏の傘下に入ったといわれています。ー成田氏は藤原氏の血統を受け継ぐ名門氏族で、先祖は、かの源義家(八幡太郎義家)との対面の際も馬上での答礼を許されたといわれています。ですから、長泰にしてみれば謙信の怒りは?という感じだったのではないでしょうか。因みに謙信はこの管領就任式の後、宿敵である武田信玄との第4回川中島の合戦に臨んでいます。-その後、成田家は、北条側に就いたり謙信側に就いたりしますが、その事をもって単なる「日和見主義」だと考えてはいけないと思います。一族郎党・民百姓など数千人余りの帰趨が当主の決断にかかっているのですから(あの筒井順慶の「洞ヶ峠」の話も同じだと思います)。
さて、『のぼうの城』の物語はそれから約30年後、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主の成田氏長が小田原城にて籠城したために、従兄弟の成田長親が城代となり、家臣と農民ら約3,000の兵が忍城に立てこもり、豊臣方の総大将石田三成、大谷吉継、長束正家らの軍と戦ったという史実を基にしています。三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設しました。しかし、忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによって開城となり、城側は大いに面目を施すことになったのです。
このお話には魅力的な人物が何人も登場します。まず、「のぼう様」こと成田長親(なりたながちか)、茫洋としたとらえどころのない人柄でありながら、民衆の心をしっかりととらえている人。この人は、後年、当主氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せた後、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔し、出家して自永斎と称しました。晩年は尾張国に住み、慶長17年12月4日(1613年1月24日)、68歳で死去したといわれています。次に”坂東武者”の心意気を存分に発揮した正木丹波、柴崎和泉、酒巻靱負。。。紅一点の甲斐姫。。開城後、豊臣秀吉の側室となった甲斐姫は、秀吉に口添えして父・成田氏長を下野の烏山二万石の大名に取り立てさせたりして、淀君と共に豊臣政権を支えたといわれています。
そして、石田三成と大谷吉嗣。石田三成は、成り上がり者として嫌われてはいましたが、非常に義を重んじる人物だったといわれています。吉継は、三成の融通の利かなさを諌めつつも、ただひたすら豊臣家に対する忠誠心を全うしようとする、三成の義に厚い性格に大変感銘を受けていたようです。吉継は業病に侵されていて、体や顔からも膿が出るほど重いものでした。ある日の茶会で、お茶の回し飲みが行なわれましたが、吉継が病に侵されていることは周知のことだったので、その茶会にいた他の誰もがそれを気味悪がって、吉継の飲んだ後の湯のみは、回ってきても飲む振りをするだけでした。しかし石田三成ただ一人は、回ってきたそのお茶を、ためらうことなく飲み干したのです。三成という男は、そんなつまらぬことで人の面子を潰す事はしたくないという、義の男でした。後年、関ヶ原の戦いで、三成に殉じた吉嗣の心境が偲ばれますね。また、「のぼう様」と共に戦った百姓たち。。やはり、坂東武者の末裔としての”誇り”があったのだと思います。
「天(のとき)・地(の利)・人(の和)」という言葉があります。忍城の攻防戦にはこの言葉がぴったりです。ー「天のとき」=群雄割拠の時代も終焉に向かっていたこと。忍城よりも先に小田原城が落ちたこと。「地の利」=攻めるに難く守るに易い”水の城”を水攻めで攻略しようとしたこと。「人の和」=家臣および百姓の団結心ー映画でも小説でもそれがよく描かれていました。
ところで、この忍城を題材にした小説には、風野真知雄さんの『水の城いまだ落城せず』(詳伝社)もあります。なかなか読みごたえのある小説です。私は、この本を読んで、成田長親のイメージが、あの「昼行燈」と呼ばれた大石内蔵助と重なりました。とにかく一度「忍城」を訪れたいと思っています。



