
このお話の主役?である「忍城(おしじょう)」は、戦国時代は関東七名城のひとつに数えられた城(現在の埼玉県行田市)です。築城は1478年(文明10年)頃、築城主は成田氏といわれています。当時、成田氏は北条氏の配下にありましたが、1561年(永禄4年)の上杉謙信(当時は長尾景虎)による小田原城攻めの際、城主の成田長泰は謙信に恭順し、その戦いに参加しています。しかし、謙信の鶴岡八幡宮での関東管領就任式の際、長泰は謙信の前で下馬しなかったために、その無礼を咎められました。そのことが原因で後に再び北条氏の傘下に入ったといわれています。ー成田氏は藤原氏の血統を受け継ぐ名門氏族で、先祖は、かの源義家(八幡太郎義家)との対面の際も馬上での答礼を許されたといわれています。ですから、長泰にしてみれば謙信の怒りは?という感じだったのではないでしょうか。因みに謙信はこの管領就任式の後、宿敵である武田信玄との第4回川中島の合戦に臨んでいます。-その後、成田家は、北条側に就いたり謙信側に就いたりしますが、その事をもって単なる「日和見主義」だと考えてはいけないと思います。一族郎党・民百姓など数千人余りの帰趨が当主の決断にかかっているのですから(あの筒井順慶の「洞ヶ峠」の話も同じだと思います)。
さて、『のぼうの城』の物語はそれから約30年後、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主の成田氏長が小田原城にて籠城したために、従兄弟の成田長親が城代となり、家臣と農民ら約3,000の兵が忍城に立てこもり、豊臣方の総大将石田三成、大谷吉継、長束正家らの軍と戦ったという史実を基にしています。三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設しました。しかし、忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによって開城となり、城側は大いに面目を施すことになったのです。
このお話には魅力的な人物が何人も登場します。まず、「のぼう様」こと成田長親(なりたながちか)、茫洋としたとらえどころのない人柄でありながら、民衆の心をしっかりととらえている人。この人は、後年、当主氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せた後、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔し、出家して自永斎と称しました。晩年は尾張国に住み、慶長17年12月4日(1613年1月24日)、68歳で死去したといわれています。次に”坂東武者”の心意気を存分に発揮した正木丹波、柴崎和泉、酒巻靱負。。。紅一点の甲斐姫。。開城後、豊臣秀吉の側室となった甲斐姫は、秀吉に口添えして父・成田氏長を下野の烏山二万石の大名に取り立てさせたりして、淀君と共に豊臣政権を支えたといわれています。
そして、石田三成と大谷吉嗣。石田三成は、成り上がり者として嫌われてはいましたが、非常に義を重んじる人物だったといわれています。吉継は、三成の融通の利かなさを諌めつつも、ただひたすら豊臣家に対する忠誠心を全うしようとする、三成の義に厚い性格に大変感銘を受けていたようです。吉継は業病に侵されていて、体や顔からも膿が出るほど重いものでした。ある日の茶会で、お茶の回し飲みが行なわれましたが、吉継が病に侵されていることは周知のことだったので、その茶会にいた他の誰もがそれを気味悪がって、吉継の飲んだ後の湯のみは、回ってきても飲む振りをするだけでした。しかし石田三成ただ一人は、回ってきたそのお茶を、ためらうことなく飲み干したのです。三成という男は、そんなつまらぬことで人の面子を潰す事はしたくないという、義の男でした。後年、関ヶ原の戦いで、三成に殉じた吉嗣の心境が偲ばれますね。また、「のぼう様」と共に戦った百姓たち。。やはり、坂東武者の末裔としての”誇り”があったのだと思います。
「天(のとき)・地(の利)・人(の和)」という言葉があります。忍城の攻防戦にはこの言葉がぴったりです。ー「天のとき」=群雄割拠の時代も終焉に向かっていたこと。忍城よりも先に小田原城が落ちたこと。「地の利」=攻めるに難く守るに易い”水の城”を水攻めで攻略しようとしたこと。「人の和」=家臣および百姓の団結心ー映画でも小説でもそれがよく描かれていました。
ところで、この忍城を題材にした小説には、風野真知雄さんの『水の城いまだ落城せず』(詳伝社)もあります。なかなか読みごたえのある小説です。私は、この本を読んで、成田長親のイメージが、あの「昼行燈」と呼ばれた大石内蔵助と重なりました。とにかく一度「忍城」を訪れたいと思っています。



