のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: 名木めぐり  

御神木の手入れ




 田舎館村川部の熊野宮は、以前にも訪ねたことがありますが、JR川部駅のすぐ近くにある神社です。
 その由緒については、
【御祭神:伊邪奈岐命 伊邪奈美命  「津軽一統志」 (享保十六年・一七三一) には 「初開年号不詳坂上田村麻呂建立焉往古真言宗寺院退転メ而今号ス新城館ト有大根子村領」 と記されてある。 仏体号の熊野大権現で真言宗派に属するというが詳しいことはわかっていない。 なお 「堂社帳又は山伏」 には 「川辺村熊野宮者従古来雖有之建立之由緒不分明其後明暦四年村中之者再興別当常福院」 と出ている。 明治四十二年七月十四日和泉の地に鎮座している村社稲荷神社を当社川部熊野宮に合祀したが、 その後稲荷神社は独立して現在に至っている。 ※青森県神社庁HPより】とあります。

◇川部熊野宮






 この神社の境内で、ひと際異彩を放っているのが御神木の「エゾエノキ」です。
 そばにある説明板には、
【エゾエノキ大樹は、樹齢450年以上、標高17.0m、幹周・主幹570cmを計測する。この種の樹木は高木となることから、境界や一里塚などの道しるべとして植えられたり、神社やお寺の神木や縁起樹として植えられることが多い。この種のエノキ科の樹木は、腐植菌に犯されやすく、樹齢が短いとされており、このような巨木は珍しいといわれている。ー 以下略 -】と書かれています。

 私が訪ねたときは、二人の方が、忙しそうに樹木の手入れをなさっていました。

 太い幹の真ん中あたりにキノコが生えていたので、珍しそうに眺めていると、作業をしている方が、
「そのキノコの菌が木にはよくないんだ。」と、笑いながら話してくれました。
 風格のある堂々たる巨木ですが、その雄姿を保ち続けるのは大変なようです。

◇御神木「エゾエノキ」

  

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田舎館田んぼアート ー つがるみち408




 



 恒例の田舎館村田んぼアートが今年も開催されていて、見ごろを迎えたということで行ってみました。近くに住んでいながら、なかなか行けず、ここへ来るのは三年ぶりです。
 主会場(第1会場)である田舎館村役場に行き、さっそく展望デッキへ。今年のテーマはNHK大河ドラマ「真田丸より 石田三成と真田昌幸」です。
 デッキから見下ろすと、道路を挟んで右側に真田昌幸(役:草刈正雄さん)。背後には大阪城と真田の旗印「六文銭」が描かれています。
 一方、左側には石田三成(役:山本耕史さん)が、「真田丸」の題字と「大一大万大吉」の旗印とともに描かれていました。
 石田三成の子孫は津軽家との関わりが深く、弘前市の宗徳寺や板柳町の深味八幡宮などに、その足跡が残されています。

 緑や赤、紫など7色12種の稲穂で描かれた「真田丸」は迫力満点ですが、7月17日には、三成役の俳優・山本耕史さんを招いてテープカットを行い、「見ごろ宣言」をしたとのことです。




 一方、こちらは第2会場。道の駅「弥生の里」がその会場となりますが、ここには遊園地などもあり、家族連れで賑わう所です。
 そのせいか、こちらのテーマは例年、「サザエさん」や「スター・ウォーズ」など、どちらかというとファミリー向けの作品が多いようです。




 今年の絵柄は話題の映画「シン・ゴジラ」。封切りよりも早く田舎館の田んぼに出現したという分けです。
 こちらも「真田丸」に負けず劣らず、なかなかの迫力ですが、田舎館村のHPによると、「ゴジラの赤黒い皮膚を稲できれいに表現するために工夫を重ねた」ようです。
 余談ですが、これまでのゴジラ映画の中で、青森県にゴジラが「上陸」したことはありませんが、第20作の『ゴジラvsメカゴジラ』で、都心へと向かう怪鳥・ラドンが青森駅や観光物産館の上空を飛来したシーンが記憶に残ります。

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境森神明宮ーつがるみち371


境森神明宮


 田舎館村の神社めぐりが続きますが、今回は境森の集落に鎮座している神明宮です。
 先回、前田屋敷神明宮の記事でも少しふれましたが、境森(さかいもり)は、南北朝期に南朝方に属した前田氏が居館を構え、治めていた所です。
 すぐ隣の村は「和泉」といいますが、時代は不明ですが、ここには津嶋和泉という武将の「和泉館」という城(館)があったとされていたり、同じく隣には砦を思わせる「土矢倉」という名前の集落があったりと、一帯は、何かしら中世の歴史を感じさせる所です。

 この神明宮は、集落の端っこの方に鎮座していますが、その入口には門柱があり、「弘化三年」と刻まれた大きな庚申塔がありました。門をくぐり、鳥居をくぐると広い境内へと出ます。

◇神明宮境内

  





 境内には御神燈のほか、神馬と狛犬がそれぞれ一対ずつ。社殿の隣には忠魂碑や従軍記念碑などが立っていました。
 この神社の由緒については、
【御祭神:大日め尊  創立は延暦十二年 (七九三) 六月、 坂上田村麻呂が蝦夷退治の祈願の為、 大日女尊を祀り大日堂を建立す。
 天正六年 (一五七八)、 津軽藩祖為信公が浪岡城を攻撃せんとして、 軍兵を率いて当社の森地にて休憩した時、 為信公すこぶる睡眠を催し、 夢に天照皇大神の教えを受け、 進撃の功を奏すと伝えられる。 明治三年仏号を廃止し、 神明宮と改め、 明治六年村社に列せられる。 昭和二十三年四月二十四日、 国有財産の譲与の許可を受ける。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

◇本殿、狛犬など

  





 由緒にあるように、この神社には坂上田村麻呂の話が残っている分けですが、「田村麻呂が戦勝祈願のため○○を祀り・・」とか「窮地に陥ったとき、○○神が現れて田村麻呂軍を勝利に導いた」などの話は、多くの津軽の神社縁起で語られていることです。
 もちろん、田村麻呂東征の話は伝説に過ぎないのですが、要するに【神仏の加護を受けた、いわば「正」の東征軍が、まつろわぬ「邪」の蝦夷軍を打ち滅ぼす】というもので、そこには征服に対する一種の「正当性」みたいなものが述べられている分けです。
 津軽には、このような往古の田村麻呂の話と同様の話が、戦国時代の大浦為信による津軽統一の話として伝わっています。

◇曼字(卍)と錫杖の話
【岩木山に住み着く鬼(蝦夷)を征討するためにやってきた坂上田村麻呂は、兵たちに曼字の旗と錫杖印の戟をそれぞれ十二ずつ持たせて戦わせた。ある時、兵の飲み水が足りなくなり、窮地に陥ったのをみた田村麻呂は、錫杖戟を以て岩を穿った。すると、水が滾々と湧き出してきて、難局を乗り切る事ができ、戦いに勝利することができた。】

【ある夜、為信の夢枕に、異様な姿をした二人の童子があらわれた。そして、「われらは、昔からこの岩木山に住み、勧善懲悪を宗として、民を教戒することを心としてきた。公(為信)よ、今こそ、この津軽の国を治める時である。急ぎ実行せよ、われらが加護致す。」と告げた。為信がその名を問うと、二人は「卍」「錫杖」と答えて消え去り、同時に夢もさめた。そこで為信は、これぞまさに岩木山権現の霊験と喜び、旗印に卍、馬印に錫杖を用い、さらに兜の前立にも錫杖をつけたのであった。】

 南部氏の支配下から独立し、津軽統一を成し遂げた津軽氏にとっては、往古の田村麻呂と同様に、自分たちもまた神仏の加護に守られた氏族であることを流布する必要があったのでしょう。ここ境森神明宮の由緒は、そのことを端的に物語っているように思います。

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枝川稲荷神社ーつがるみち370


本殿のきつね


 田舎館村の村民憲章には、「秀峰岩木のみねを仰ぎ、浅瀬石川の清流にうるおされている土地に住む幸せを感じ・・」と書かれています。
 豊かな水と肥沃な土壌に恵まれた村は、「北方稲作文化発祥の地」としても知られていますが、田舎館駅の前には「田舎館米発祥の地」と書かれた標柱が立っています。




 枝川は、田舎館駅から少し離れた所に広がる集落ですが、ここに稲荷神社が鎮座しています。
 集落の中心部を道路が通っていますが、その道路沿いにこの神社は立っています。
 一の鳥居に架かっている注連縄は、大変立派な物で、金色に光っていました。そこから道路にそって、二、三、四と鳥居があり、細い参道が続いていますが、鳥居と御神燈の朱色がとても鮮やかです。
 細長い境内には、敷石記念の碑や御神燈、手水舎などがあります。拝殿は割と小ぶりな造りで、その後ろに、赤い玉垣に囲まれた本殿がありました。
 稲荷神のお使いであるきつねは、本殿の中に一対、向かい合って座っています。

◇境内
 
  


 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂神 素盞鳴尊  往古、 神八之助の宅神を寛永元年 (一六二四) 枝川三堰の守護神として現在の社地に祠を建立、 灌漑地域の藩代官を始め、 水域農民の崇敬頗る厚く、 年々の祭事には、 多数の人々が参拝し、 供物を献じ、 盛大なる祭事が行なわれたと伝えられる。 明治七年五月村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

◇御神燈、本殿など

  



本殿のきつね


 由緒に「枝川三堰の守護神として」と書かれていますが、「枝川三堰」とは、農業用水路のことで、「枝川堰・諏訪堂堰・大曲堰(※いずれも集落名)」を指しています。その中の大曲堰については、「宝暦年間(1751~1764)に開削されたという言い伝えがある。 堰の延長は11kmで、350haを灌漑している。」とあります。

 浅瀬石川を含む岩木川水系は、夏期の雨量が少ないために、しばしば水不足に陥り、農民たちを苦しめていました。そのため、江戸時代になり、水田開発が本格的に行われるようになると、浅瀬石川からの取入堰
取入堰
が数多く造られました。
 その管理運営については、
【江戸時代の用水管理は、各用水の水下農民が用水組合を作り、その自治によって行う形がとられていました。藩営事業で開削した水路を農民に渡し、受益者負担で管理するシステムは、官民一致の理想を具体的に示したものですが、実際には激しい水論(用水配分の利害損失を巡る争い)を引き起こす最大の原因として、藩政上、常に悩みの種でした。】とあります。
 実際、江戸から昭和初期にかけて、
【灌漑用水の引き入れ時期に旱天が続き、本川の浅瀬石川が渇水となったときは、一滴の水も譲るまいと熾烈な争いが続けられ、関係農民の感情を疎隔させ、ひいては行政にも影響を及ぼすことが多かった。】とされています。

「堰の守り神」として鎮座するこの稲荷神社は、そのような水争いの根絶と村の繁栄を願って建立された社なのでしょう。

※東北農政局PDF「北奥羽調査だより ~浅瀬石川地区の生い立ち~」を参照しました。

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東光寺八幡宮ーつがるみち369


境内から


 田舎館村の東光寺は、旧常盤村と黒石市と境を接する所で、先回取上げた前田屋敷の隣の村にあたります。
 かつてはこの両村に、「東光寺小学校」と「前田屋敷小学校」という小学校がそれぞれありましたが、戦後に統合し、両方の村名から「光」と「田」をとり、「光田寺小学校」と名づけられました。
 現在では、その光田寺小学校も統合され、廃校になっています。




 米どころ・田舎館村らしく、東光寺は辺り一面を田んぼに囲まれた村ですが、その中の高田という集落に八幡宮が鎮座しています。
 道路沿いに鎮座している社ですが、一の鳥居の右横には小さな地蔵堂があり、そのそばには百万遍の塚が立っていました。
 左横には、庚申塔や二十三夜搭が並んで立っています。鳥居の扁額の下には大きく重そうな米俵が乗った注連縄が架かっていました。
 境内には、四対の御神燈と一対の神馬、そして狛犬が参道の両脇にずらっと並んでいました。風化の具合をみて、その都度修築しているようで、中には新しいものもあります。地域の崇敬の表れでしょうか。
 狛犬は本殿にも一対置かれていました。小さいながらもなかなか迫力のある表情をした狛犬です。
 社殿の後ろ側には田んぼが広がっていて、頭に雲をかぶった岩木山が見えました。

◇本殿、末社など

  






 この八幡宮の由緒については、詳しくは分かっていないのですが、
【御祭神:譽田別尊  当社は建立不詳というも、 古くから東光寺村内に常光寺道という小路があり、 その北傍の僅かの場所に祠があった。
 天文十年 (一五四一) 、当村字高田の地の開基で太左衛門という者が移住し、 これを深く崇敬す。 これより年々移住の者増加して、一〇〇年を経て、二十余りの戸数になる。
 天正年間 (一五七三~一五九一) 、村中一同協議の上、 社殿を新築し、 初めて産土神と崇め、崇敬し、 今日に至る。 明治四年神社改正に付き村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 
 集落の成り立ちがよくわかる由緒書きですが、この神社は、そんな村の発展の様子を見つめ続けてきたのでしょう。

◇境内

  


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前田屋敷神明宮ーつがるみち368


神明宮


 田舎館村に前田屋敷(まえだやしき)という集落があります。少し珍しい名前なので、以前、知り合いに地名の由来をたずねてみたことがありました。そうしたら、「昔、前田様の屋敷があった所だから」ということでした。
 詳しいことは分かりませんが、南北朝時代には、南朝に組する「前田氏」が、隣村の境森を中心に、領主として辺り一帯を治めていたということです。その前田氏の館跡といわれている所が神明宮です。




 この神明宮の由緒については、次のように紹介されています。
【御祭神:天照皇大神  由緒不明なれど、 往昔より村中の信仰厚く、 明治六年神社改革の節、 神明宮として無格社に列し、 同年隣村境森神明宮の氏子となり、 両神社共崇敬していたが、 遠隔と危路の為、 雪中参拝の困難を感じ、 教部省のお達しに基づき、 明治十六年、 両村協議の上氏子分離し、 大正四年十二月十三日、 村社に列し神饌幣帛料の供進を受ける。 昭和二十年七月一日、 宗教法人令により届け出をす。 ※青森県神社庁HP

「往昔より村中の信仰厚く」とありますが、この社は、かつては「大日堂」と呼ばれ、崇敬されていたようですが、これは、御祭神の天照皇大神が神仏混合では大日如来と同一神とされることからきたものなのでしょう。因みに、前田屋敷の隣は堂野前(どうのまえ)という集落ですが、昔は大日堂の門前町であったようです。
 また、由緒に「境森神明宮の氏子となり」と書かれていますが、この境森(さかいもり)に鎮座する神明宮は、坂上田村麻呂の創建とされ、戦国時代には津軽為信が陣をしいた所だともいわれています。

 前田屋敷の集落を流れる堰に真っ赤な神橋がかけられていて、それを渡ると境内へと出ます。かつての館跡ということですが、社殿の横や裏側には、段差が見られ、わずかにその面影を残しているようです。


  





 広いj境内には、末社や忠魂碑、落成記念碑などが立っていますが、その中に力士の顕彰碑もありました。「東京力士 大関 一ノ矢藤太郎之碑」と刻まれています。 
 田舎館村は第49代横綱・栃ノ海の出身地ですが、この一ノ矢藤太郎は明治時代に活躍した力士で、高砂部屋に所属し、当時は「高砂三羽烏」と謳われた実力者でした。大関にまで上り詰めましたが、引退後は角界に残らず、【地元青森に帰って土地相撲を率いて各地を巡業した。一ノ矢を慕って高砂部屋に入門するものが続出し、一時「津軽部屋」とも呼ばれたほどだったという。そうしたことから、「青森相撲王国中興の祖」と呼ばれている。※wikipedia「青森県出身の大相撲力士」より抜粋】とのことです。
 娯楽の少ない時代、一ノ矢をはじめとする郷土力士の活躍は、村民の誇りだったのでしょう。


 社殿の左側は広い森になっていますが、小さな鳥居の後ろには天保三年建立の庚申塔が立っていました。そのそばに大きなケヤキの木がありますが、なかなか見応えのある大木です。


  


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境内でひと休み「胸肩神社と八幡宮」ーつがるみち273


胸肩神社


 田舎館村の役場にほど近い所に胸肩神社があります。地図では「胸肩神社」となっていますが、一般的には「田舎館弁天堂」と呼ばれている社です。
 この弁天堂の境内にひとつの石碑が立っていますが、これは、二人の人物の戒名を刻んだ碑です。
「天正十三年五月十九日 誠忠院殿前雄鑑義大居士」 ー 田舎館城主・千徳政武の戒名です。日付は、津軽為信による攻撃で、田舎館城が落城、政武が城と運命をともにしたときです。戒名の「誠忠」「鑑義」からは、南部氏への義に殉じた政武の生き方が伝わってくるようです。
「慶長六年三月十日 心貞院殿義学妙堅大姉」 ー 千徳政武の妻・お市の戒名です。
二人の命日が、天正十三年(1585)と慶長六年(1601)とはなれているのは、お市が落城後も生き延び、津軽統一の際の戦死者の大法要に突然現れ、為信の前で自刃して果てたからです。
  → 田舎館城落城悲話
 この夫婦の戒名碑は、昭和5年(1930)に弁天堂の掃除をしているときに、戒名が書かれた張り紙が発見されたため、田舎館城址付近のこの境内に、村人の手によって建てられたとのことです。 

 さて、社殿の隣に、もうひとつお堂が建てられていますが、その前には「十一面観音像」と書かれた木柱と説明板がありました。説明には、
【十一面観音像は、寛文7-9年(1667-1669)に僧侶円空が彫った立像で、ヒバ材が使用され、像高が150cmで台座を合わせた総高は182cm、像厚が6cmとなっている。※以下略】と書かれています。
 説明にある通り、このお堂に祀られているのは、いわゆる「円空仏」です。県内には17体が現存するといわれていますが、ほとんどは座像で、立像のものは少ないとされています。
 私は、弘前市の普門院を訪ねたときに円空仏を拝んだことがありますが、ここの十一面観音菩薩立像は、県内の円空仏の中では最も早い時期の作品といわれているということで期待したのですが、残念ながら見ることはできませんでした。事前の許可が必要だということでした。

◇田舎館胸肩神社(弁天堂)

 
社殿
社殿内
千徳氏戒名碑
十一面観音菩薩堂
弘前普門院の円空仏



一の鳥居


 続いて、同じく田舎館村の畑中に鎮座している八幡宮まで足をのばしてみました。
 この八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  寛正年中 (一四六〇~一四六五) 阿保甚助なる者、 当社八幡大神を奉じて当地に来たりて原野の中に小屋を建て、 開拓に従事し、 営々苦心の末、 遂に八反歩の田を開墾し、 小宇を建てそこへ奉じてきた八幡大神を祀る。
 爾来、 人々次第に集まり村落をなし、 村名を八反田と称し、 当社八幡大神を産土神として奉齋した。 此の草創者阿保甚助を草分の甚助と云って、 その子孫は今に至るまで在住している。 貞享四年 (一六八七) 五月の検地水帳に畑中村八幡宮境内地東西二十四間南北二十間とあり。 享保十八年 (一七三三) 九月、 及び天保十二年 (一八四一) 四月の棟札あり。 ※青森県神社庁HPより】とあります。

 相当古い時代に勧請された神社のようですが、この由緒はまた、村の開拓の歴史をも伝えているようです。阿保甚助なる者が、「八反歩(※1反歩は約300坪、990㎡)」の田を開墾したことに因んで、村名が「八反田」になったといういきさつは面白いですね。一の鳥居に下がっている重そうな注連縄は、五穀豊穣の願いの表れでしょうか。

 この神社は、回りを水田に囲まれた道路沿いに建っていますが、そばに、庚申塔などがまとめて立っていました。その中に「力士 荒岩彦三郎之碑」
力士顕彰碑
と刻まれた石碑がありました。地元出身の力士の顕彰碑?のようです。 
 田舎館村出身の力士といえば、第49代横綱・栃ノ海が有名ですが、この荒岩というお相撲さん・・・いつの時代にどんな活躍を見せた力士だったのでしょうか。

◇畑中八幡宮

 
境内
狛犬
末社
拝殿
庚申塔ほか


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嘉暦の板碑「大袋稲荷神社」ーつがるみち255


平川と岩木山


「平川市」という名称の由来ともなっている平川は、平川市の坂梨峠西麓に源を発する延長約40kmの一級河川です。
 藤崎町の辺りで浅瀬石川と合流し、岩木川となるわけですが、その流域の市町村には、平川市、大鰐町、弘前市、田舎館村、藤崎町 などがあります。
 田舎館村を流れる平川の周辺に「大袋(おおふくろ)」という集落がありますが、ここの川沿いに稲荷神社が鎮座しています。

 一帯は、田舎館村と弘前市との境目にあたり、神社の後ろの土手の対岸には、以前に訪れた富岳神社の森が見えます。また、今の時期は夏場と違い、木々の葉なども茂っておらず、稲荷神社の境内の様子もはっきりと見ることができました。

 社号標は集落の道路沿いに立っていて、そこから民家の中を歩いて行くと一の鳥居があります。そこから、二、三、四と鳥居をくぐるわけですが、二の鳥居には米俵を載せた大きな注連縄が張られていました。社殿は参道を右側に折れた所に建っています。

◇稲荷神社参道
 
 
平川
稲荷神社
一の鳥居
二の鳥居
四の鳥居


 大きな石燈籠がありますが、狛犬などもなく、わりとあっさりとした境内です。拝殿・本殿ともに新しく改修されたものらしく、きれいで、色がとても鮮やかでした。

 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂神  当社創建の年月日は不詳なるも、 古来稲荷宮と称えられ、 元和四年 (一六一八)、 当村南方の川辺に新たに社殿を建立し、 当村葛西又右衛門を始め村民一同深く信仰し産土神と崇め祀った。 慶安元年 (一六四八)、 平川洪水にて宮地残らず川へ落ち、 又右衛門屋敷の内へ遷し祀った。 これに依り、 貞享年間の御調べの時には、 社地川へ落ちたる為に御調べに記載されなかった。 その後、 延宝九年 (一六八一)、 又右衛門が社地の復興を計り、 御神慮を安じ奉らんと、 年々重く奉賽し、 ついに平川洪水より九十八年目の延享三年 (一七四六) 六月、 現地へ再建された。 以来、 社地の整備等に村民一同協力し、 弘化二年 (一八四五) 五月、 当村葛西勘十郎より祠堂田地一反歩の寄進あり。 明治六年五月十日、 村社に列せられる。※青森県神社庁HP】とあります。
 ー 古くから村の産土社であったようですが、「平川洪水により・・・」とあるように、地域は何度も平川の氾濫に悩まされてきたのでしょう。

◇稲荷神社境内

 
境内
五の鳥居
拝殿
本殿
忠魂碑と板碑



嘉暦の板碑


 境内に大きな忠魂碑がありますが、その手前にひとつの石碑が立てられています。
「石碑」と書きましたが、実はこれは台座の上に据えられた板碑で、刻まれている年号から「嘉暦(かりゃく)の板碑」
「嘉暦(かりゃく)の板碑」
と呼ばれています。そばにある説明板には、次のように書かれていました。

【嘉暦(かりゃく 1326~29)は鎌倉末期、後醍醐天皇朝の年号。 その頃津軽の豪族安東氏は内紛を起こして戦乱状態にあった。 その原因の一つは、十三湊の本家季長(すえなが)と、藤崎の分家季久の争いに対する鎌倉幕府の裁きの不手際からで、板碑はこの戦いの死者への供養碑といわれる。 近年、この乱の背景に元寇以来、民族意識に目覚めた北方蝦夷の問題を取り上げる研究者も多い。 なお、この板碑を人の見ていないときに撫でると、オコリ(熱病の一種)が治ると言われた。

「その頃津軽の豪族安東氏は内紛を起こして戦乱状態にあった。 」とありますが、この戦乱は「安東(藤)氏の乱」とも、津軽一円を巻き込んだことから「津軽大乱」とも呼ばれています。
【発端は、1268年(文永5年)に津軽でエゾの蜂起があり、蝦夷代官職の安藤氏が討たれた事件である。更に1318年(文保2年)以前から続いていたと見られている蝦夷代官・安藤又太郎と従兄弟の安藤五郎三郎との間の内紛に、1320年(元応2年)エゾの再蜂起が加わった。得宗家では、1325年(正中2年)に蝦夷代官職季長から季久に替えたが戦乱は収まらず、却って内紛が反乱に繋がったと見られている。その後も季長は得宗家の裁定に服さず戦乱は収まらなかったため、翌1326年(嘉暦元年)には御内侍所工藤祐貞が追討に派遣された。※wikipediaより抜粋
 この大乱の泥沼化は、鎌倉幕府に騒乱を平定する力がないことを内外に示し、その威信を低下させることに繋がったともいわれています。

 なお、安東季長の城館は、深浦町関にあったといわれており、この地にある関の古碑群は、この大乱のときの供養碑であるとされていますが、ここ稲荷神社の板碑もまた戦乱で命を落とした者への供養碑だったのでしょう。

 説明板の終わりに、「この板碑を人の見ていないときに撫でると、オコリが治ると言われた」とありますが、オコリ(瘧)とは、「隔日また周期的に起こる」という意味で、「悪感や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。えやみ。わらわやみ。瘧(ぎゃく)。」で、日本の古文献にもしばしば登場する疫病です。主に、低湿地帯において流行したとされていますが、ここ田舎館の地でも、平川の氾濫や打ち続く戦乱によって、自然環境が悪化し、疫病が蔓延したのでしょうか。

「人の見ていないときに撫でると」・・・人が大勢いるときには御利益が薄まるということでしょうか。あるいは、オコリに罹った者は、その伝染が恐れられたために、人々の前に出るのが憚られたということなのでしょうか。
 それにしても、○○様やお地蔵様を撫でると病気平癒の御利益があるという話はよくありますが、「板碑」は初めてです。それだけ、地域の人々に大切にされてきた板碑だったのでしょう。

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田舎館村の神明宮ーつがるみち254


田舎館駅


 田舎館駅は、黒石市と弘前市を結ぶ弘南鉄道弘南線の駅のひとつです。小さな駅ですが、朝夕の通勤通学の時間帯には賑わいをみせます。
 現在は無人駅ですが、かつては、ちょっとした軽食喫茶や売店などもありました。
 そんな田舎館駅の近くに鎮座している2つの神明宮を訪ねてみました。


高樋神明宮


 一帯の住所は高樋(たかひ)。この田舎館駅のすぐそばが神明宮(高樋神明宮)です。線路越しにその境内を見渡すことができます。
 踏切を渡ると、道路沿いに大きな鳥居が立っていますが、二の鳥居、境内へと道が続いています。境内には八幡宮もあり、八幡様も合祀されているようです。

 社殿を取り囲むように大木が何本かあるのですが、駅をはじめ、辺りの民家や道路などがよく見えます。何となくがらーんとした印象の社ですが、実は、かつては「鬱蒼とした森」だったらしく、由緒には次のように書かれています。
【御祭神:天照皇大神 譽田別尊   創立年月不詳と云えども当社神職系図 (安政二年八月書上表控) から見て、 天正以前である事は明らかである。 古くは深山大権現と称し、 又、 境内に巨木茂り、 更に藤の古木が連なり、 通称藤林と云われて、 それにまつわる種々の伝説が残っている。
  古くより神威の聞こえ高く、 往時、 津軽藩主何程の事やあると、 社前を騎馬にて乗り過ぎた時、 馬が木の根につまづいて落馬した。 人々は神威を恐れたが、 藩主は大いに怒り、 以後藩庁へは祭神名を変えた届けを出して明治に至る。 明治六年四月高樋、 十二川原両村の産土神として村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP

「境内に巨木茂り、 更に藤の古木が連なり、 通称藤林・・」とありますが、こんな伝説があります。
【境内に繁茂した老木に藤つるがたくさんまとわりついて、昔は藤の森であった。この藤のつるは、境内の森の主、大蜘蛛の巣が変化した蜘蛛の藤であったと伝える。妖怪の蜘蛛を退治してから、藤は自然と少なくなってしまった。※『青森の伝説』角川書店
 ー 大蜘蛛がいなくなったからでしょうか、今は往時の面影はありません。

 もちろん伝説でしょうが、「神威を恐れず、境内に馬で乗り入れ落馬した津軽藩主」とは、いったい誰なのでしょうか。一本気で負けず嫌いな「じょっぱりな殿様」。。
 ー 歴代の津軽藩主の中で、そんな逸話を残すにふさわしいのは、やはり3代藩主・津軽信義だと思うのですが。。

◇高樋神明宮

 
一の鳥居
境内
八幡宮
狛犬
本殿



垂柳神明宮


 こちらは垂柳に鎮座する神明宮(垂柳神明宮)
 最北の弥生田とされる垂柳遺跡がある集落内に鎮座する社ですが、やはり田舎館駅から近い所です。
 一の鳥居に張られた注連縄は金属製の物ですが、一風変わった形をしています。藁に包んだ握り飯のようにも、大きなサングラスのようにも。。

 小さな境内ですが、この神社は、
【御祭神:天照皇大神  古来より日月堂と称し、 垂柳と枝川両村の氏神として崇敬された神体仏号の神社である。 明治四年神仏分離の時、 神明宮と称した。 大同二年 (八〇七) 征夷大将軍坂上田村麿が蝦夷征伐に来た時、 神仏の加護を受けんとして百余りの神社を建立して祈願、 日月の絵を書いた軍旗に改め、 見事蝦夷を討ち平らげることができたと云う。 その時、 清浄の地を選んで軍旗を置いたのが垂柳と伝えられている。 村民は、 その旗が風雨に曝さらされるのを恐れ日月堂を建立して納め崇敬した。
 それから四百年後の天正年中 (一五七三~一五九一) 火災にあったが、 その後、 田舎舘城主・千徳掃部政武の家来福士市左右衛門が再建し産土神として崇敬した。 日月の像を鋳造、 金属を溶かして作り、 それを御神体として神殿を造営したと伝えられている。 ※青森県神社庁HP】と紹介されているように、平安時代からの古い由緒を伝える「産土社」であったようです。

◇垂柳神明宮

 
注連縄
境内
拝殿
狛犬
本殿


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社号標が二つ「堂野前八幡宮」ーつがるみち245


堂野前八幡宮


 田舎館村に堂野前(どうのまえ)という集落がありますが、ここにこんな話が伝えられています。
【堂野前の墓地は、昔、グズ盛といわれた高さ三メートルほどの土盛りであった。ここを夜中に通ると、いつもグズグズものをいう声がする。そばへ行くとその声がやみ、立ち去るとまたグズグズいう。それでグズ盛とよんだ。明治になって新道開発のためここを発掘すると、朽ちた武具と、それを着ていたと思われる人骨が現れたという。※角川書店『青森の伝説』より
 何となく怪談じみた伝説ですが、その堂野前に八幡宮が鎮座しています。

一の鳥居


 堂野前は110号線沿いに開けた集落ですが、浅瀬石川の北岸にあたるこの地は、浅瀬石川の水運をいかした開発の拠点だったといわれています。
 八幡宮の境内は、道路に面した住宅地を少し入ったところにあり、その後ろ側には水田が広がっています。
「八幡宮」と書きましたが、実はこの神社は譽田別尊と保食神を合祀しており(八幡宮と保食神社)、地図によっては、「保食神社」と記載されていたりもします。そのためか、社頭には、「八幡宮」と「保食神社」という2つの社号標、そして「合祀記念碑」が立っていました。
 ⇒社号標と合祀記念碑
社号標と合祀記念碑


「八幡宮」という扁額が掲げられた鳥居には金属の注連縄が張られていて、そこから参道が延びています。境内にはいくつか石碑などもあると思うのですが、今は雪に埋もれていました。丸い石で造られた碑もありましたが、何を祀っているのやら。
 参道には神馬が2対(4体)、大事そうに祀られています。狛犬は3対(6体)。左右ともそれぞれ大・中・小の狛犬で、なかなか不敵な面構えです。小さいものは、雪に埋もれ、その顔だけが見えました。

◇八幡宮①

 
注連縄
神馬
石碑
狛犬①
狛犬②



 この八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  創立年月日は不詳なれど、 正保四年 (一六四七)、 堂野前村、 東光寺村、 前田屋敷村右三ケ村にて五穀成就、 村中繁栄の為、 願い主福士吉衛門、 神職市十郎が京都男山祇鳩峰岩清水八幡宮より勧請、 前田屋敷村の山谷四五衛門、 東光寺村孫右衛門、 堂野前村庄屋兵助等、 三ケ村を代表して産土神として再建、 破損等の節は右三ケ村にて修復されてきた。 御棟札四体あり。貞享三年十一月、 宝永七年九月、 寛保四年三月、 明和二年六月、大正二年、 幣帛供進社に指定される。 昭和二十四年九月三十日、 指令第一三一三号を以て国有境内地譲与される。※青森県神社庁HP 】とあります。

「堂野前・東光寺・前田屋敷」はいずれも隣り合った付近の村落なのですが、一帯の産土神として崇敬されてきた社のようです。
 どんな経緯があって保食神社と一緒になったのかは分かりませんが、拝殿には「保食神社 八幡宮」の扁額が架かり、拝殿の中にも二社の奉納額が掲げられていました。

◇八幡宮②

 
境内
拝殿①
拝殿②
拝殿③
本殿


 遠い昔の話ですが、郷土史に詳しい上司から「堂野前の神社は、昔、お市の方が逃げのび、隠れ住んだところだ。」と聞かされたことがありました。
「お市」というのは、田舎館城主・千徳政武の室だった人物です。天正13年(1585年)、津軽為信軍の攻撃に遭い、田舎館城は落城。政武も自刃して果てたわけですが、「共に自害を」と願ったお市は、政武に諭され、百姓姿に身をやつし、幼子とともに落城寸前の城を脱出します。 
 ⇒以前の記事へ。
 ー 浅井長政とお市の方(信長の妹)の運命を思わせる話ですが、この「津軽のお市」が逃げのびた先が、この堂野前の八幡宮だったというわけです。

 この伝承の真偽は分かりませんが、八幡宮一帯は、かつて「堂野前館」という城があった所です。堂野前館は、創建時期は不明ですが、鎌倉時代には大光寺左馬之助が、室町時代には牧野氏(※事績等は不明)が居館にした城とされていて、東西600m×南北160mの本郭と東西150m×50mの東郭があり、浅瀬石川から水を引き、堀としていたともいわれています。現在は、住宅と果樹園になっているため、当時の様子は分かりませんが、この八幡宮の境内は、何となく、こんもりとしていて、「館跡」といった感じもします。

 戦国時代には田舎館城を本城として、周辺には「諏訪堂館」や「垂柳館」などの支城がありましたが、伝承によるとお市は、垂柳に立ち寄り、幼子を預けたともいわれており、その後、堂野前館に隠れ住んだということも考えられる話です。

 お市は、それから17年後に行われた法要の席に現れ、為信の前で自害して果てるという、悲しい運命をたどるわけですが、冒頭の「グズ盛」の伝説といい、この八幡宮とお市の話といい、堂野前には田舎館城落城にまつわる悲話が残っているような気がします。(※グズ盛から発見された武人の人骨の時代は不明ですが)

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境内でひと休み「豊受神社ほか」-つがるみち229


稲荷神社


 以前に訪れた田舎館村の愛宕神社の手前に諏訪堂という集落がありますが、ここは、かつて「諏訪堂館」という城郭(砦)があった所です。
 その規模は、本郭・北郭・南郭の3郭で構成され、現在の諏訪堂集落のほとんどを含んでいたとされています。
 本郭は、およそ東西250m、南北250mであったといわれていますが、現在、その本郭跡には稲荷神社が鎮座しています。

 諏訪堂館の建築年代や館主などは不明ですが、平川市の大光寺城の支城の役目を負った南部方の砦であったようです。 
 津軽統一を目指す大浦為信は、 天正13年(1585)5月に田舎館城を攻撃し、城主・千徳氏を滅ぼす分けですが、その戦いの際に、この諏訪堂館本郭に陣を構えたといわれています。

 稲荷神社の入口は道路沿いにあり、一の鳥居をくぐって少し歩くと右側に参道が続いています。「千本鳥居」とまではいきませんが、りんご畑のそばにいくつかの鳥居が並んで立っており、それをくぐり抜けると境内へたどりつきます。

 境内には、末社の他、郷土出身の力士の顕彰碑なども立てられています。かつての城跡を偲ばせる遺構は残ってはいませんが、社殿の後ろ側は一段低くなっており、当時の堀跡とされているようです。

 この稲荷神社の御祭神は倉稲魂命ですが、その由緒については、【天福元年 (一二三三) に建立。 明暦三年 (一六五七)、 二本柳孫右衛門が再建し、 諏訪堂の産土神社として崇敬す。 元禄年中 (一六八八~一七〇四) より、 田舎舘組田中部落も氏子となる。 明治四十二年八月二十七日、 村社に列せられ、 昭和二十一年六月二十六日、 神社本庁に所属し、 宗教法人令に依る稲荷神社となる。※青森県神社庁舎HP】とあり、古くから集落の信仰を集める産土社であったようです。

◇稲荷神社

 
一の鳥居
参道
境内
末社ほか
狐像・狛犬



一の鳥居


 諏訪堂を過ぎて、弘前方面へ進む途中に豊蒔という集落がありますが、ここに豊受神社があります。
「豊受」の名の通り、この神社の御祭神は豊受気命(豊受大神:トヨウケビメ)。
 豊受大神は豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に祀られる名高い神様です。皇大神宮(内宮)に祀られる天照大御神のお告げにより、丹波の国から迎えられた神様とされていますが、御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、天照大御神の食事をはじめ、神々にたてまつる食物を司ることから、広く衣食住・産業の守護神として崇められていることは、広く知られているところです。

 余談になりますが、邪馬台国の女王・卑弥呼は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)や神功皇后など、神話上の人物に比定されていますが、卑弥呼=天照大御神とする説も多く語られています。
 安本美典さんなどの著書によれば、卑弥呼の時代は、神話にあらわれる天照大御神の時代と重なりあうことや、両者ともに女性であること、「日の巫女」であることなどがその根拠とされています。
 有名な「天岩戸」の物語は、太陽神である天照大神が隠れたために世界が真っ暗になった(乱れた)という神話ですが、これは、邪馬台国の女王・卑弥呼が死んだ後、国が乱れたことをあらわしており、アマテラスの復活は、邪馬台国の新女王誕生を象徴しているものである・・・というなかなか興味深い説です。
 卑弥呼のあとを継いだ女王の名は宗女の「トヨ」。天照大御神=卑弥呼だとすれば、豊受大神はトヨか?・・などと空想はふくらみます。

 脇道にそれてしまいましたが、この田舎館の豊受神社のそばは墓地になっていて、そこには仏の石像
仏の石像
なども立っており、ひとつの霊地となっているようです。
 赤い神橋を渡ったところには、猿田彦や庚申塔と並んで末社が立っていました。その祠のひとつを覗いて見ると、中にはオシラ様が祀られていました。

 この豊受神社については、
【当村は昔大根子村極楽寺護摩堂本尊不動尊の氏子であった。 その極楽寺が田舎舘へ移った時、 豊蒔村の産土神として勢至菩薩を極楽寺住職大円坊が勧請したという。 それが当社の始まりであり、 往昔は仏体号の神社であった。 そして寛永三年 (一六二六) より豊蒔、 二ツ屋両村で堂宇を営繕して来たが、 「貞享検地水帳」 (貞享四年・一六八七) の記録には 「豊蒔村勢至観音堂一三間九間堂建有之」 とある。明治四年の神仏分離令の出された時には、 仏体を取除いて豊受神社と改称し、 豊宇気命を奉齋した。 氏子の話によると三重県伊勢市の豊受大神宮を勧請したものだという。 (田舎舘村誌より) ※青森県神社庁HP】と、豊受大神を祀るに至ったことが紹介されています。
 全国各地の巡礼地へお参りし、その御神体を地域に奉納・勧請することは、よくあることですが、この神社もそのような社のひとつだったようです。

◇豊受神社

 
参道
末社・庚申塔ほか
オシラ様
神馬・狛犬
拝殿


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境内でひと休み「富岳神社ほか」-つがるみち206


愛宕神社
 
富岳神社


 黒石市から弘前へと向かう途中に鎮座している神社を2つ。片方は白、一方は赤と、色鮮やかな一の鳥居が立つ社です。また、両社ともに、坂上田村麻呂の創建と伝えられています。

一の鳥居


 「田んぼアート」で有名な田舎館村の大根子(おおねこ)地区に鎮座する愛宕神社です。
 各地の愛宕神社と同様、御祭神は火の神様である「迦具土神(火之迦具土神:ひのかぐつちのかみ)」ですが、この神社の由緒については、【昔、 坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時、 神仏の加護を願って大根子村新城舘に長福山極楽寺を建て不動尊を勧請したという。 その後極楽寺が大根子より大曲の鳥巻に移り、 文和年中 (一三五二~一三五六) 浅瀬石川欠崩により、 更に田舎舘へ移ったといわれている。 その時同寺護摩堂の不動尊を大根子村産土神として堂社に安置したという。 そして 「堂社帳又は山伏」 (延宝八年) には 「大根子村不動堂者正保二年建立之堂也別当大徳院」 と記されている。 その後明治九年の 「新撰陸奥国誌」 には愛宕神社として次のように記録されている。 「旧は不動の像を安す。 木像にして寛永十二年八月、 源正坊作と称し。 棟札に寛永七庚午年九月別当源光坊、 願主二本柳孫左衛門再建とあれば寛永以前の草創としらる。」 (田舎館誌より) ※青森県神社庁HP】とあります。

 一の鳥居のそばに、もうひとつ赤い鳥居
庚申塔
がありますが、その奥にはいくつかの庚申塔が立てられていました。庚申塔や二十三夜塔などは、神社の境内の中に立てられているものもありますが、こうして、別の鳥居を伴うものも多いようです。

 ひとつのお堂
地蔵堂?
があったので、中を覗いてみるとお地蔵様が一体祀られていました。
 以前は、だいぶ大きかっただろうと思われる神馬があります。残念ながら、その足は壊れてしまったようで、今は台座に体をあずけているような姿になっています。何となく痛々しい感じです。

 「不動様」「山伏」など、その由緒をみると、かつては修験道とも深く関わっていた社らしいのですが、その足跡を探すことはできませんでした。

◇愛宕神社

 
庚申塔
地蔵堂
神馬
拝殿
本殿



一の鳥居


 田舎館村から旧尾上町(現平川市)を過ぎると、岩木川の支流である平川が流れていますが、その川岸に富岳神社が鎮座しています。
 大己貴神( オオナムチノカミ)と少彦名神(スクナヒコナノカミ)を御祭神とするこの社は、【創建は不詳ですが伝承によると延暦年間に坂上田村麻呂が勧請したのが始まりと伝えられています。歴代領主から崇敬され社領の寄進や社殿の造営などが行われ領内総鎮守、産土神として広く信仰されました。当初、富田館に鎮座していましたが、寛永19年(1642)現在地に遷座し、元禄2年(1689)に吉町弥治衛門によって社殿が寄進され、弘化2年(1845)に大袋葛西勘十郎から社領の寄進がありました。古くは観音堂と称していましたが嘉永年間に大汝少彦名神社と改め、 明治元年に富岳神社に社号を改称し、明治42年に村社に列しています※HP青森県歴史観光案内所「弘前市:歴史・観光・見所」より】と紹介されています。
 さらには、【古来薬師宮と称へ、 境関・日沼・大袋の三ケ村に建立いたし、 以上の三ケ村の産土神として崇敬せられ、 当時世々の地頭・領主・領内鎮護として、 崇め奉り久しく・・・※青森県神社庁HP】とあるところをみると、一帯の(※境関・日沼・大袋は、田舎館から弘前方面へ続く集落)厚い信仰を集めていた社だったようです。

 二の鳥居の前に立っている一対の狛犬は、一見、猫のような容貌で、とても特徴があります。境内には、末社が2つありましたが、ひとつは「オシラサマ」のお堂でした(その中は拝めませんでしたが)。
 川岸にあるこの神社は、小公園にもなっていて、ベンチやブランコなどもあり、子どもたちの遊び場にもなっているようです。

 本殿をよく見ると、その両脇の木鼻には、白い狛犬が彫られていました。白く、愛らしい小さな狛犬で、こんな姿を見ていると、何となくほっとします。

◇富岳神社
 
 
狛犬
末社
拝殿
本殿
木鼻の狛犬


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神木エゾエノキ「川部熊野宮」-つがるみち192

 南津軽郡田舎館村の川部地区は、黒石市、弘前市、藤崎町などと境を接するところで、川部駅は、明治27年(1894年)に開業された古い歴史を持つ駅です。
 現在は、JRの奥羽本線と五能線が乗り入れていますが、五能線はこの駅が路線としての終点となっています(発着は弘前駅)。
 この川部駅のすぐ近くに熊野宮という社が鎮座しています。

二の鳥居


 高架橋の下の線路沿いに立っているのが一の鳥居。そこから農道を少し歩いて行くと境内が見えます。すぐそばを浅瀬石川が流れていて、辺りはこんもりとした森の中。朱色の二の鳥居が鮮やかです。
 「村社」ということで、境内には様々な記念碑などが立っていますが、二の鳥居をくぐると、そのすぐそばに二宮金次郎の銅像が立っています。隣には地元の小学校の閉校記念碑。【明治十年六月創設以来、百八年の長い間部落民の教育文化中心の場として親しまれた古い歴史と由緒のある本校は・・・】とあり、昭和61年に付近の学校と統合になり、閉校となったことが述べられていました。
 いつの時代でも学校は地域の文化の中心である分けですが、諸事情(少子化など)によって、統廃合が進み、現在では田舎館村の小学校も1校となりました。

 
 この記念碑の反対側に大きな神馬像
神馬像ほか
がありますが、神馬を挟むように、護馬神という石碑と馬頭観音?の碑がありました。田舎館村は、2,000年以上も前の水田跡が発見されたり、近年は「田んぼアート」で有名な「米の村」ですが、ここでもやはり馬は尊ばれていたようです。

◇境内

 
開校記念碑
末社
三の鳥居
手水舎
拝殿



エゾエノキ①


 この神社の由緒については詳らかではありませんが、
【 「津軽一統志」 (享保十六年・一七三一) には 「初開年号不詳坂上田村麻呂建立焉往古真言宗寺院退転メ而今号ス新城館ト有大根子村領」 と記されてある。 仏体号の熊野大権現で真言宗派に属するというが詳しいことはわかっていない。
 なお 「堂社帳又は山伏」 には 「川辺村熊野宮者従古来雖有之建立之由緒不分明其後明暦四年村中之者再興別当常福院」 と出ている。 明治四十二年七月十四日和泉の地に鎮座している村社稲荷神社を当社川部熊野宮に合祀したが、 その後稲荷神社は独立して現在に至っている。 (田舎舘村誌より) ※青森県神社庁HPより】とあります。
 御祭神は、伊邪奈岐命と伊邪奈美命ですが、やはり他の地域の熊野神社と同様、修験者たちによってもたらされた熊野信仰がこの地にも根づいていたのでしょう。

 拝殿のとなり、手水舎の後ろに玉垣に囲まれて大きな老木が一本立っています。この熊野宮の御神木の「エゾエノキ」です。

 「エゾ」という名前から北海道固有の樹種と思われがちですが、【エノキは、日本原産の種が、4種あり、みな温暖な地方を中心に分布している。唯一、この種(エゾエノキ)だけが、北海道にも自生していることから、その名がつけられたともいわれている。国蝶である「オオムラサキ」の幼虫がその葉を食べることでも名が知られている。】とされています。

 境内の説明板には次のように記されていました。【エゾエノキ大樹は、樹齢450年以上、樹高17.0m、幹周・主幹570cm。この種の樹木は、高木となることから境界や一里塚などの道しるべとして植えられたり、神社やお寺の神木や縁起樹として植えられることが多い。この種のエノキ科の樹木は、腐植菌に犯されやすく、樹齢が短いとされており、このような巨木は珍しいといわれている。】

 北海道や青森県など、寒冷な地域にも自生するといわれるエゾエノキ。
 - ここ熊野宮のそれは、倒壊を防ぐため支柱が施されたり、根元には大きな空洞ができたりしていますが、貫禄のある堂々たる大樹で、その姿は、あの稲垣町の一本タモとよく似ていました。

◇エゾエノキ

 
エゾエノキ②
エゾエノキ③
エゾエノキ④
エゾエノキ⑤
エゾエノキ⑥


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: つがるみち  津軽統一までのあゆみ  

落城悲話「生魂神社」ーつがるみち129

 南津軽郡田舎館村は、弥生時代の水田跡が残る垂柳遺跡や田んぼアートの村として知られていますが、戦国時代には千徳氏が治めていた土地で、その居城である田舎館城があったところです。
 田舎館城は、本郭・外郭・新館・東郭の四郭で構成されていたとされていますが、現在では遺構らしいものは明確には残されておらず、本郭の端であったと思われる小高い場所に城址碑が立っているだけです。この田舎館城址のそば、道を挟んだ場所に生魂神社が鎮座しています。

田舎館城址


 田舎館城は、詳しい築城年代は分かっていませんが、建武3年(1336年)頃には既に城館があったといわれています。文明7年(1475年)には、南部氏一族で浅瀬石城主・千徳政久の次子である千徳大三郎貞武が田舎館城主となったとされていて、以後、千徳氏の居城として、南部氏の津軽支配に重きをなしていた分けです。
 大浦(津軽)為信によって、津軽統一への戦いが進められていた頃の城主は、5代・千徳掃部政武でしたが、政武は、石川城、浪岡城、大光寺城などが次々と落城したり、同族の浅瀬石・千徳氏が為信と同盟を結んだりした(後に同盟は破綻)中にあっても、頑として南部氏への情誼を曲げず、戦い抜いていました。そんな姿は、何となくあの高松城主の清水宗治を思わせます。
 政武は、高潔な人柄で家来や領民の尊敬を集めていたといわれており、為信もその人物を惜しみ、再三にわたって降伏勧告に努めましたが、南部氏への忠誠の念が厚かった政武は応じず、やむなく為信軍は、天正13年(1585年)5月、総攻撃を行い、田舎館城は落城した分けです。この時の戦いでは、為信軍3,000に対し、城兵は、わずか330余名、全員が突撃を繰り返し玉砕したという悲壮な落城の物語が伝えられています。
 城址碑が残る小高い丘は「ヤマコ」と呼ばれており、田舎館城兵330余名を埋葬した場所で、現在、そこには田舎館城400年記念碑
田舎館城400年記念碑
が建っており、後ろには往時の城を模した役場の庁舎
田舎館村役場
が見えます。
 この「ヤマコ」の老木・サイカチの木は、戦死した城兵たちの墓碑として植えられたと伝えられていますが、その姿は、
サイカチの木
落城の様子を今に伝えているようです。

 このような田舎館城の「落城悲話」を、いっそう際立たせているのが千徳政武の妻・お市の物語です。お市は、これまた為信に滅ぼされた和徳城(弘前市)主・小山内氏の娘だったこともあり、政武に嫁いでからも、父の仇である為信に一矢報いたいと念じていました。田舎館城落城当時、お市は十七歳・・夫の命にしたがって泣く泣く城を脱出したとされています。
 以後17年の間、お市は身を潜めていた分けですが、慶長6年(1601年)3月、清水森で執り行われた津軽統一の際の戦死者の大法要の場に、お市は侍女と共に突然姿を現します。仏前に進み出たお市は、【「それ義によって軽きものは武士の命、情けにより捨てがたきは婦人の身なり。わが夫はなはだに武名を重んじ、すみやかに戦場一葉の露と身をなし給う」と一巻の文を、朗々と読み上げた。『津軽一統志』】 ー そして、短剣を取り出して自ら胸を突き刺し、慕う夫の後を追って自害したといわれています。
 お市自刃の地である清水森には、彼女を祀る祠が建てられ、政武とお市夫妻の霊が弔らわれているとのことです。

生魂神社二の鳥居


 さて、生魂神社は、その縁起によると【人皇五十一代平城天皇の御代、 大同二年 (八〇七) 四月四日坂上田村麻呂将軍建立と伝えられる。 ※青森県神社庁HP】とあり、古くから田舎館城下において、信仰を集めていた社だったようです。御祭神は「生魂神 (いくむすびのかみ)」で、この神様は【「延喜式」にみえる神祇官八神のうちの一神。物を生産する能力を神格化したもので、天皇の守護神として宮中の鎮魂祭などの祭神とされた。※kotobankより】ということですが、イクは「活」、ムスは「産」であるために、物を活発に産み出す霊力をもつ神とされています。

生魂神社拝殿


 拝殿の中に由緒を記した額
由緒を記した額
が掲げられていますが、それによると、【田舎館城落城の際、兵火により炎上したが、不思議あると知り、為信公、御仮殿を建立・・】とあります。この「不思議ありと知り」が何を意味するのか定かではありませんが、戦国に限らず、勝者が敗者を祀ることは古来から行われてきたことで、あるいは滅んだ千徳氏の霊を鎮めるための建立だったのかも知れません。また、それは、千徳氏に代わって、新しく支配することになった土地の人心の安定を図ったものとも思われます。
 さらに、2代藩主・信枚は、その後、社を再建し、【鬼板に津軽藩の紋である「卍」を付けたが、 それは現在に至るまで社紋として用いられている。】とのことです。
「卍」は、古くは坂上田村麻呂がその霊力によって、岩木山麓の悪鬼(蝦夷)を滅ぼしたとされていたり、為信が旗の紋に用いたところ、津軽統一の念願が叶ったとされ、津軽藩の象徴ともいえる紋章ですが、その大事な御紋を、この神社の社紋として与えたところをみると、藩の経営上、この田舎館の地が重要視されていたことが分かります。

 境内には、もうすっかりお馴染みになった金属製の注連縄や、大きな牛の石像。本殿の隣には「千徳掃部追悼碑」が建てられていました。

◇田舎館・生魂神社 ※画像はクリックで拡大します。

 
生魂神社狛牛?
生魂神
千徳掃部追悼碑
生魂神社拝殿①
生魂神社拝殿②


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: つがるみち  縄文と弥生  

完・豊穣のはじまり「田舎館垂柳遺跡」ーつがるみち7

 垂柳遺跡の出土品は、田舎館村埋蔵文化財センター
田舎館村埋蔵文化財センター
に保管・展示されています。玄関前には、弥生人の足跡
弥生人の足跡
が描かれており、中へと案内してくれます。なかなかのアイディアですね。
 入口のドアを開けると、床にも足跡。
床の足跡
これは、ここで見つかった同一人物と思われる歩行経路
同一人物と思われる歩行経路
を模しているようで、そのまま展示室へと続いています。
 入口の側には、実際のものをそのまま切り取ったガラス張りの水田跡
ガラス張りの水田跡
が置かれており、自由に歩くこともできます。弥生人と自分の足の大きさを比べてみるのも面白いですね。子ども達にも大変人気があるようです。

 
 このように、遙か2,000年以上も前の水田跡、弥生人の足跡、その他の貴重な遺物が、当時のままの状態でそのまま残ったのは、過去に八甲田山の噴火があり、山麓に降り積もったたくさんの噴石物が、雨によって川に集められ、洪水となって遺跡を襲ったためであるといわれています。垂柳遺跡は、洪水による土砂などで、そのまま「真空パック」された状態で埋もれた遺跡だった分けです。 ー 規模も原因も異なりますが、あの「ポンペイ遺跡」と似ていますね。 ー  ⇒垂柳土層
垂柳土層

 展示室は大きく2つに分かれていて、第1展示室では発見された弥生田と畦をそのままの状態で見ることができます。周りを歩いてみると、当時の様子がよく分かります。また、大小様々な足跡は、大人も子どもも総出で稲作りに励んでいたことを伺わせます。

↓水田跡・弥生人の足跡 ※クリックで拡大します。
弥生田と足跡①
弥生田と足跡②
弥生田と足跡③
弥生田と足跡④
弥生田と足跡⑤
弥生田と足跡⑥
弥生田と足跡⑦
弥生田と足跡⑧
弥生田と足跡⑨


※下の左の画像は、出土した田舎館式土器などの写真のミニギャラリーです。クリックで拡大します。

2つ目の展示室には、弥生時代中期に稲作が行われていた「証」となった「籾殻付きの土器」をはじめ、古代の炭化米、農耕具、石器類、そして女性が身につけていたと思われる装飾品などが置かれていました。 ーそれにしても土器にぴったりと張り付いた古代米
土器にぴったりと張り付いた古代米
。発見される日を待っていたのでしょうか。。
 どこか縄文時代の名残がみられる壺、甕、鉢、高坏などの大小様々な土器は、「田舎館式土器」と名づけられています。その形や、平行線を特徴とする文様を見ると、この時代の人々の文化水準の高さが感じられます。

 ここ垂柳遺跡では、明治時代の頃から、たくさんの土器がみつかっていて、昭和30年代には、弥生時代土器とともに炭のように黒く焼けこげた米も発見されていました。しかし、それはここで作られたものではなく、もっと南の地方で作られたものが運ばれてきたものと考えられていました。ただ一人、東北大学の伊東信雄先生だけは、この地で紛れもなく水田が作られた証であるという説を唱えていましたが、長い間認められませんでした。
 その後、昭和50年代半ばにバイパス計画が持ち上がり、事前に発掘調査が行われ、調査の結果、弥生時代中期の水田跡が発見され、間違いなく津軽平野で当時、稲作農耕が行われていたことが明らかにされたのです。まさに、画期的な発見でした。
 この「和製シュリーマン」ともいえる伊藤先生は、発掘調査報告書の序文でに次のように述べています。 

~ 津軽地方にこのような整然たる水田が弥生時代に営まれていたことをいままで誰れが想像したであろうか。私は早くから津軽平野で稲作が行われていたことを主張していたのであるから、稲作の場である水田の存在したことは当然考えていたのであるが、それにしても初期の水田は自然の低湿地にバラ播した程度のもので、このような畦畔や水口、水路を有する相当発達した水田が存在していようとは夢にも思わなかった。私は発掘された垂柳の水田跡を見て、東北北部の弥生時代の稲作農耕技術がすでに相当高いレベルにあったことを感ぜざるを得なかった。だいいち北緯40度を超える高緯度の地で、いまから2000年も前から水田による稲作農耕を行っていた処は東北北部以外には世界にその例がないのである。青森県は耐冷性品種のイネが育成された現在でも冷害による凶作に悩まされる年の多い処である。文献的には古代のこの地方は、蝦夷の住んでいたところで、蝦夷は農耕を知らない狩猟採集民であったと言われていた。それが実際には相当発達した稲作技術を持ってコメを作っていたことが、垂柳水田の発掘によって明らかになったのである。これは日本古代史研究上の革命的な発見である。~           (「垂柳遺跡発掘調査」青森県教育委員会 昭和60年3月より)

                            ☆つがるみち☆

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続・豊穣のはじまり「田舎館垂柳遺跡」ーつがるみち6

 田舎館村役場を後にして、黒石方面へ向かって、国道102号線バイパスを行くと、道の駅「弥生の里」があります。途中で陸橋
陸橋
を渡りますが、この橋の下辺りが「垂柳遺跡」発見のきっかけとなったところです。その後、このバイパス沿い一帯
遺跡全体写真(田舎館埋蔵文化センターより)
から、水田跡、弥生人の足跡、生活用具、土器などが相次いで見つかり、広大な遺跡が姿を現したわけです。橋には、そのことを記念して、田舎館式土器
田舎館式土器モニュメント
のモニュメントが据えられています。
 第2「田んぼアート」の会場、道の駅「弥生の里」には子ども向けの遊具施設も多くあるため、休日には家族連れで賑わうところです。そういったこともあり、ここで開催されている「田んぼアート」の図柄はウルトラマン、そしてバルタン星人。子ども達が喜びそうな題材です。見学場所に上って下を見ると飛び出してきそうなウルトラマンや、愛嬌のあるバルタン星人の姿が見えます。側には、田んぼアート駅
田んぼアート駅
も開設されていました。 ー このイベント、力が入っています。 ー

↓田んぼアート第2会場 ※クリックで拡大します。
 
第2田んぼアート
第2田んぼアート
第2田んぼアート
第2田んぼアート
第2田んぼアート
第2田んぼアート
第2田んぼアート

第2田んぼアート

※左の画像はクリックで拡大します。
垂柳遺跡①

垂柳遺跡②

垂柳遺跡③

垂柳遺跡④

垂柳遺跡⑤

垂柳遺跡⑥

垂柳遺跡⑦


 さて、田んぼアートを見た後、駅の踏切を越えて舗装された道を進みます。この道のマンホールにも田舎館式土器
田舎館式土器
が描かれていました。弥生一色という感じです。

 
 道なりに進んで行くと、間もなく水田が目の前に広がってきます。青々とした稲穂に混じって、ところどころに色鮮やかな小さな田んぼ。。これは、地元の小学生が体験学習の一環として、古代米を植えているのです。秋の収穫時には、弥生人さながら貫頭衣を着た子ども達が稲刈りをします。子ども達の「弥生田」のそばには、大きな案山子
大きな案山子
が何本も立てられています。表情がとてもユーモラスで、思わず笑ってしまいます。これも子ども達の手によるものなのでしょうか。 ー 地域に根ざしたこの体験学習、ずっと続いてほしいものです。 ー

 
 小学生の田んぼの前には、「垂柳遺跡」と記された石碑と、ここが「国指定の史跡」であることを示した説明板が立っていました。この遺跡が国の指定を受けたのは、平成12年のことでした。遺跡全体の広さは約4,000㎡。その中から656面の水田跡が発見されました。水田の広さは4㎡~22㎡、平均で8㎡といわれています。

 
 現代の水田と比べると
水田の大きさ
とても小規模なこの弥生田ですが、まとまって600以上見つかったことには驚かされます。今、この遺跡付近は、村から土地が貸し出され、希望する農家の方々が、思い思いに「小さな弥生田」
「小さな弥生田」
づくりに取り組んでいます。そういうわけで、周りは大小さまざまな田んぼ。。正に「米づくりの村」ですね。

                             ー次回へ続きます。ー

                            ☆つがるみち☆

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豊穣のはじまり「田舎館垂柳遺跡」ーつがるみち5

 黒石市と弘前市を結ぶ弘南鉄道。黒石駅を発って、2つ目の駅が田舎館駅
田舎館駅
です。道路沿いにポツンと立っている無人駅ですが、朝夕は、黒石・弘前方面へ通学する学生や通勤の人達で賑わいます。
 この駅の前に、「田舎館米発祥の地」という標柱と説明板
標柱と説明板
が立てられています。ここ田舎館村から、日本最北の弥生時代の水田跡が発見されたことを記しているものです。「東北地方北部に弥生時代はなかった」と言われていた「常識」をくつがえし、弥生時代中期(約2,100年前)、東北でも水耕稲作が行われていたことを明らかにしたのは「垂柳(たれやなぎ)遺跡」の発見でした。 
 ー田舎館村は、そんな北方稲作文化の歴史を伝える「米づくり」の村です。ー 私はまず、恒例となった「田んぼアート」が開催されている田舎館村役場を訪ねました。

※左の画像はクリックで拡大します。

田舎館村役場①

田舎館村役場②

田舎館村役場③

花魁①

花魁②

モンロー①

モンロー②


 ところで、この田舎館村役場、「お城」です。戦国時代、この地は南部氏の支配下にあり、千徳氏が治めていました。やがて津軽氏との抗争に敗れ、田舎館城は落城しますが、千徳氏は最後まで南部氏への忠義を貫き、悲壮な戦いを挑んだといわれています。そんな歴史を踏まえて、この役場は建てられた分けです。
(※拙記事「田舎館城」をご覧ください。) 
 さて、「田んぼアート」について、田舎館村のパンフレットには次のように書かれています。
~「田んぼアート」のはじまりは、平成5年からはじまった「お米」にこだわったイベント「稲作体験ツアー」でした。弥生時代からの北方稲作文化を今に伝えるために、昔ながらの手作業で田植えから稲刈りまで行うイベントで、米づくりの楽しさ、農業のおもしろさをより多くの人に知ってもらうために、色の違う稲を使って稲文字を描いたのがきっかけとなって、年々図柄は細かく芸術性も高くなり、いつしか注目を集め「田んぼアート」と呼ばれるようになっていきました。~ 
 今日では、重要な観光資源となり、例年10~20万人ほどの観光客が訪れています。私が訪れたときも、次々にバスから降りてくる人々で賑わっていました。
 「天守閣?」までエレベーターで上がると、巨大なアートが下に見えます。毎年、異なったテーマ(図柄)で創作されているこのアート、今年は「花魁とハリウッドスター」でした。華やかで貫禄のある花魁が左、道路を挟んだ右側には、あのマリリン・モンローの有名な映画シーンが描かれていました。辺りの建物と比べてみると、その大きさが実感できます。見学客達もしきりに感嘆の声を上げていました。
 この色鮮やかな「芸術」の主役は古代米。アートの足もとにはそのサンプルが植えられていました。⇒古代米

 さて、田んぼアートは会場が2つあって、ここ役場が第1会場。第2会場は、国道沿いの道の駅「弥生の里」にあります。そして、その近辺が垂柳遺跡です。 
 ー 次回は遺跡を訪ね、歴史博物館へ立ち寄ってみたいと思います。ー

                            ☆つがるみち☆
 
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となりのまちー「田舎館村」

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                田舎館城址
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                田舎館村役場
 私は黒石市の郊外に住んでいます。すぐとなりが田舎館村です(車で2分位)。「田舎館村」といえば、弥生時代の水田遺構が残る(弥生人の足跡もあります)「垂柳遺跡」「田んぼアート」で有名です。また役場の庁舎が写真のようにお城の形をしているので人目をひきます。
 実は私は、田舎館村に長年勤務していました。その時の職場の上司が郷土史好きで、田舎館城にまつわる話をよく聞かされました。何年かぶりで、昨日、城跡を訪ねてきました。
 戦国時代、今の津軽地方一帯は、三戸南部氏の支配下にあり、いくつかの支城が築かれていましたが、田舎館城もそのひとつでした。ところが、津軽統一を目指す大浦為信(後の津軽為信)は、次々に支城を攻略しはじめます。他の城が為信に降伏する中、田舎館城だけは南部氏への情誼を貫き、最後まで抵抗しました。そのときの城主は千徳掃部政武(せんとくかもんまさたけ)でした。しかし、1585年、3,000名の為信軍に攻められ、落城しました。この時の田舎館城兵は約330名だったといわれています。上の写真は「ヤマコ」とよばれる土塁です。落城した時に玉砕した田舎館城兵を埋葬した場所とされており、 土塁上に立つ老木は「サイカチの木」で、その時に墓碑として植えられたと伝えられています。なお、城主政武の夫人は「お市」といい (あの織田信長の妹と同じ名前ですね)、落城の際には難を逃れ、しばらく身を隠していましたが、1601年に為信が法要を営んだ際、焼香に現れ、自分の思いを綴った巻物を読み上げた後、その場で自裁したといわれています。そういった話ー政武と田舎館城兵の勇壮な戦いやお市にまつわる哀話などーが、人々を惹きつけるのだと思います。
 さて、今は田舎館城の遺構はほとんど残っていません。どんな城だったのでしょうか?ちょっと興味をもち、私なりに想像してみました。    
                        ☆津軽統一までのあゆみ☆                 
                                   
⇩よかったらご覧ください
   田舎館城今昔!
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 早いものでもう3月になりました。雪解けを待ち、また史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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