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のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 青森市   Tags: 津軽統一までのあゆみ  

となりのまちー青森市「浪岡城」

文字色 青森市にある浪岡城址
を訪ねてきました。浪岡城は、応仁の乱(1467年~)の頃に築かれた城郭で、築城主は北畠氏です。あの北畠顕家の嫡流がここ浪岡の地に入ったのは、14世紀末のことといわれ、その子孫は『浪岡御所』 と尊称されていたといいます。戦国の世になると、南部氏の津軽地方支配の拠点になっていました。
 さて、津軽統一を目指す大浦為信(津軽為信)が、この城を落としたのは天正6年(1578年)のことです。最後の当主北畠顕村は捉えられ、幽閉の後、自刃し、約150年続いた浪岡北畠氏は滅びました。為信は堅固な構えを誇るこの城を攻めるにあたって一計を案じました。北畠家臣団の内部分裂を誘うために、家臣団から内通者を出したり、城下の”あぶれ者”をつかって流言(城主の「悪政」に対する批判)を流させたりしました。いわゆる「内から攻める」というこの作戦は、豊臣秀吉が「調略」というかたちで得意にしていた手ですね。そうしたことがどの程度功を奏したのかは分かりませんが、為信は北畠家の重臣の一人が城を留守にしていた時を見計らって、突如、兵を挙げ、浪岡城を急襲したのです。
 それにしても、為信という武将は大変な知略をもっていた人だと思います。あの石川城を攻めた時も、城主の油断を誘って奇襲したり、大光寺城(現平川市)を攻め滅ぼした時は、天正4年(1576年)の正月元旦、新年の祝賀中だったといわれています。ーこういうところから、為信は”策士”で”こすっからい”という印象をもたれることもあるようです。為信の策にはまって滅びた南部氏の各支城に対する”判官びいき”もあるのかも知れませんね。ー 
 浪岡城は、ここを流れる浪岡川や正平津川を自然の濠とする大規模な城館でした。城跡は、総面積が約136,500㎡(東西1,200m、南北600m)で、本丸である「内館」他8つの郭が、幅20m、深さ5m程の二重堀で分けられています。道路沿いには、何か所か入口が設けられ、市民の憩いの場所となっており、桜の名所としても知られています。広大な城郭の跡は、なかなか趣があり、時間をかけてじっくりと巡りたい気持ちにさせてくれます。私もゆっくり散策してきました。
                         ☆津軽統一までのあゆみ☆ 


                     浪岡城を訪ねて!                              
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: 津軽統一までのあゆみ  

となりのまちー弘前市「堀越城址」

 ブログを始めてから、気の向くままに綴ってきました。「どんなテーマで書いていこうかな?」と迷っていますが、せっかく田舎館城
 浅瀬石城
そして 石川城
と、津軽の戦国時代の城址について、拙いながら述べてきたので、津軽為信を中心とした「津軽戦国史」を自分なりにまとめてみようと思いました。今日、訪ねたのは 堀越城址
です。為信の津軽統一の過程(即ち、南部氏の支城を攻略した過程)を挙げてみると、元亀2年(1571年)に石川城(現弘前市)、和徳城(現弘前市)と大光寺城(現平市)を天正3年(1575年)、天正6年(1578年)には浪岡城、天正13年(1585年)には油川城・横内城(いずれも現青森市)と田舎館城(現田舎館村)、そして、天正16年(1588年)には飯詰高楯城(現五所川原市)を攻略して津軽地方を統一しました(その後、同盟を結んでいた浅瀬石城の千徳氏と不和になり、1597年に攻め滅ぼしました)。こうしてみると、中央では織田信長による比叡山焼き討ち、本願寺や一向一揆との戦い、三方ケ原の戦い、長篠の戦い、そして本能寺の変の後の山崎の合戦、豊臣秀吉の天下統一など、正に、信長~秀吉の時代(安土桃山)に、ここ津軽にも、し烈な覇権争いがあったことが分かります。
 さて、ご紹介する「堀越城」は為信によって攻略された城ではありません。為信の津軽統一の中心となった城であり、ここを拠点として、津軽統一がなされたのです。-為信は謀略と奇襲が得意で、石川城、大光寺城、浪岡城といずれも機略を用いて落城させています。その策略の多くが、この城で語られたのかも知れませんね。。 しかし、為信が家康側として関ヶ原の戦いに参陣中、石田方の勝利を信じて謀反を起こした武将もあり、為信はこの平定に苦労しました。ー関ヶ原の戦いにおいて、為信は、徳川方、石田方の双方に勢力を分散したといいます。あの真田家と同じですね。お家大事ということですよね。- さらに慶長7年(1602年)、為信が嫡孫である大熊(当時3歳)の顔に誤って大火傷を負わせてしまった時、家臣が堀越城の本丸・二ノ丸・三ノ丸へ襲撃したりするなど、不穏な事件が相次いだために、堀越城は居城として不備があると感じ(俗な言い方をすれば縁起が悪い)、慶長16年(1611年)、高岡城(後の弘前城)を築き、居城を堀越城から移しました。それにより、堀越城は廃城になったのです。
 現在は熊野神社の境内となっていますが、境内に入ると、そこは主郭らしいつくりや土塁が積み上げられていて、空堀の跡も残っています。昭和60年(1985年)11月に国史跡指定を受け、現在は、史跡公園として整備するために、継続して発掘調査が行われています。
                        ☆津軽統一までのあゆみ☆
                    そんな堀越城址を訪ねてきました。⇩

                       堀越城本丸付近!
                       堀越城外周!
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: 津軽統一までのあゆみ  

となりのまちー弘前市「石川城址」

 弘前市の 石川城址
を訪ねてきました。別名「大仏ヶ鼻城」と呼ばれるこの城は、田舎館城
や 浅瀬石城
とともに、津軽為信が攻略した城のひとつです。当時、ここ(現弘前市石川字大仏)は、南部氏の津軽郡代である南部高信の城でしたが、元亀2年(1571年)、為信の謀略による奇襲攻撃を受け、城主高信は自刃し、落城しました。石川城は津軽における南部氏の拠点であり、高信は郡代であったので、まず為信は石川城の近くにある自分の城(堀越城)を修復したいと高信に申し出ました。そして、修復すると見せかけて兵糧や武具を運び、大工や人夫、兵を引き入れ、戦いの準備を整えたのです。城の修復が終わると(攻撃のめどがたつと)為信は、堀越城修理の完了の宴を行うことを高信に伝え、高信側の家臣をもてなしました。「明日は端午の節句、高信殿に祝いを申し上げたい」と言ったといわれています。そうして、油断させ、その夜、わずか八十余騎の兵を率いて石川城を奇襲して落としたといわれています。うーん。。。という感じですね。
 さて、この大仏ヶ鼻城を中心として、当時は周りに13の城館があり、「石川城」というのはその総称であったといいます。現在は「大仏公園」として、整備が進み、春にはソメイヨシノ、初夏には園内一帯に植えられたアジサイが、見事な花を咲かせることでも有名です。また、周辺はりんご畑となっており、私が訪ねたときは、りんごの花がとてもきれいでした。公園内は、確かに往時の平山城の面影を残してはいますが、私には館の跡とかがどこにあったのかよく分からず、うろうろしながら、歩き回りました。下調べが足りなかったと思います。
 余談ですが、小さい頃、なぜ「大仏ヶ鼻城」というのか不思議に思い、聞いてみたことがあります(相手は忘れました)。答えは、 「寝ている大仏様の鼻に似ているからだ。。。」 というものでした。いわれてみれば「確かにそうだな。」とその時は思いました。まっ、所在地が「石川字大仏」なので、自然にそう名づけられたのかも知れません。でも、「」というのは顔の中心であることから考えると、ー計13の館の中核となる城ーという意味合いもあったのかな?と勝手に思ってみたりします。
                          ☆津軽統一までのあゆみ☆ 
                       ⇩ご覧ください。
                        石川城うろうろ!
                                            
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Category: バーチャル旅行記 > 関東  

バーチャル旅行記ー「のぼうの城」

  昨日は映画「のぼうの城」のDVDを借りてきて、夢中になって観ていました。この作品は、あの大震災に配慮して、1年近く公開が遅れた映画でしたね。確かに冒頭の高松城の水攻めや、忍城に水が押し寄せるシーンは怖いほど迫力がありました。CGで一番難しいのは「水の表現だ」と何かの本で読んだことがありますが、ほんとにびっくりするような映像でした。この映画の批評や原作『のぼうの城』ー和田 竜 著(小学館)-については、多くの方々がHPやブログで記事になさっているので、”何を今さら”という感じですが、私なりに思ったことを書いてみます。
 このお話の主役?である「忍城(おしじょう)」は、戦国時代は関東七名城のひとつに数えられた城(現在の埼玉県行田市)です。築城は1478年(文明10年)頃、築城主は成田氏といわれています。当時、成田氏は北条氏の配下にありましたが、1561年(永禄4年)の上杉謙信(当時は長尾景虎)による小田原城攻めの際、城主の成田長泰は謙信に恭順し、その戦いに参加しています。しかし、謙信の鶴岡八幡宮での関東管領就任式の際、長泰は謙信の前で下馬しなかったために、その無礼を咎められました。そのことが原因で後に再び北条氏の傘下に入ったといわれています。ー成田氏は藤原氏の血統を受け継ぐ名門氏族で、先祖は、かの源義家(八幡太郎義家)との対面の際も馬上での答礼を許されたといわれています。ですから、長泰にしてみれば謙信の怒りは?という感じだったのではないでしょうか。因みに謙信はこの管領就任式の後、宿敵である武田信玄との第4回川中島の合戦に臨んでいます。-その後、成田家は、北条側に就いたり謙信側に就いたりしますが、その事をもって単なる「日和見主義」だと考えてはいけないと思います。一族郎党・民百姓など数千人余りの帰趨が当主の決断にかかっているのですから(あの筒井順慶の「洞ヶ峠」の話も同じだと思います)。
 さて、『のぼうの城』の物語はそれから約30年後、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主の成田氏長が小田原城にて籠城したために、従兄弟の成田長親が城代となり、家臣と農民ら約3,000の兵が忍城に立てこもり、豊臣方の総大将石田三成、大谷吉継、長束正家らの軍と戦ったという史実を基にしています。三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設しました。しかし、忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによって開城となり、城側は大いに面目を施すことになったのです。
 このお話には魅力的な人物が何人も登場します。まず、「のぼう様」こと成田長親(なりたながちか)、茫洋としたとらえどころのない人柄でありながら、民衆の心をしっかりととらえている人。この人は、後年、当主氏長とともに会津の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せた後、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔し、出家して自永斎と称しました。晩年は尾張国に住み、慶長17年12月4日(1613年1月24日)、68歳で死去したといわれています。次に”坂東武者”の心意気を存分に発揮した正木丹波、柴崎和泉、酒巻靱負。。。紅一点の甲斐姫。。開城後、豊臣秀吉の側室となった甲斐姫は、秀吉に口添えして父・成田氏長を下野の烏山二万石の大名に取り立てさせたりして、淀君と共に豊臣政権を支えたといわれています。
 そして、石田三成と大谷吉嗣。石田三成は、成り上がり者として嫌われてはいましたが、非常に義を重んじる人物だったといわれています。吉継は、三成の融通の利かなさを諌めつつも、ただひたすら豊臣家に対する忠誠心を全うしようとする、三成の義に厚い性格に大変感銘を受けていたようです。吉継は業病に侵されていて、体や顔からも膿が出るほど重いものでした。ある日の茶会で、お茶の回し飲みが行なわれましたが、吉継が病に侵されていることは周知のことだったので、その茶会にいた他の誰もがそれを気味悪がって、吉継の飲んだ後の湯のみは、回ってきても飲む振りをするだけでした。しかし石田三成ただ一人は、回ってきたそのお茶を、ためらうことなく飲み干したのです。三成という男は、そんなつまらぬことで人の面子を潰す事はしたくないという、義の男でした。後年、関ヶ原の戦いで、三成に殉じた吉嗣の心境が偲ばれますね。また、「のぼう様」と共に戦った百姓たち。。やはり、坂東武者の末裔としての”誇り”があったのだと思います。
 「天(のとき)・地(の利)・人(の和)」という言葉があります。忍城の攻防戦にはこの言葉がぴったりです。ー「天のとき」=群雄割拠の時代も終焉に向かっていたこと。忍城よりも先に小田原城が落ちたこと。「地の利」=攻めるに難く守るに易い”水の城”を水攻めで攻略しようとしたこと。「人の和」=家臣および百姓の団結心ー映画でも小説でもそれがよく描かれていました。
 ところで、この忍城を題材にした小説には、風野真知雄さんの『水の城いまだ落城せず』(詳伝社)もあります。なかなか読みごたえのある小説です。私は、この本を読んで、成田長親のイメージが、あの「昼行燈」と呼ばれた大石内蔵助と重なりました。とにかく一度「忍城」を訪れたいと思っています。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市  

私のまちー黒石市「もみじ山」

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 今日は 中野もみじ山
に行ってきました。先日ご紹介した 浅瀬石川
と、その支流の中野川が合流する付近にある「市民の森」です。中野もみじ山は、秋になると、辺り一面が鮮やかな紅葉で覆われ、中野川の渓流と木々が織り成す自然美に魅せられて、多くの行楽客が訪れている所です。紅葉が見頃の時期(10月中旬~11月上旬?)にはライトアップされ、幻想的な雰囲気の中で"中野もみじ"を楽しむことができます。
 さて、この「もみじ山」は、亨和2年(1802年)弘前藩主の津軽寧親公が京都からおよそ百種の楓苗を取寄せ、移植したものといわれています。林の中には津軽三不動と呼ばれる「中野神社」と不動館城跡があります。中野神社には、樹齢約200年のモミジとモミの木、樹齢500年から700年の大杉が生育し、いずれも市の天然記念物に指定されています。森の中には、こんな微笑ましい 句碑
もたくさんあります。
 「もみじ山」は紅葉の秋が一番だと思いますが、新緑の頃もなかなかいいですよ。場所は ここ
です。
 ⇩どうぞ!
      春のもみじ山! 
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: 津軽統一までのあゆみ  

私のまちー黒石市「浅瀬石城址」

 今日は浅瀬石城址を訪ねてきました。ほんとに十数年ぶりです。写真に写っている車は私の愛車です。ポンコツですが、まだまだいけます。ここは私有地なのですが、ご主人に停めさせてくれるよう、頼んだら快く引き受けてくれました。感謝です!浅瀬石城址は東北自動車道の黒石IC
のすぐそばにありますが、なかなか探すのは難しいです。やっとたどり着きました。さて、戦国時代にこの浅瀬石城は南部氏の支城であり、千徳氏が治めていましたが、大浦(津軽)為信が南部氏の支城を次々に攻略していた頃、当主の千徳政氏は、為信と同盟を結び、津軽の南部諸城を攻め、1576年には大光寺城(現平川市)を、1585年には千徳氏の一族千徳掃部政武の 田舎館城
をも攻め落とすなど、為信と結んで津軽平定に活躍しました。  
 これに対し南部氏は、1585年に3000の軍勢で浅瀬石城を攻撃しましたが、千徳氏によって撃退されました。しかしこの時、大浦為信は浅瀬石城に援軍を送らず、このことが後年、千徳氏と津軽氏の不和の原因になったと伝えられています。その後、1597年、為信は2500の軍勢で浅瀬石城を攻撃、そのときの当主千徳政康率いる2000の城兵は三度突入して、大浦勢を三度撃退しましたが、奮戦及ばず、大浦勢の総攻撃により、ついに浅瀬石城は落城したということです。
 それにしても、下剋上世の中とはいえ、田舎館の千徳氏(田舎館城)、浅瀬石の千徳氏(浅瀬石城)、ともに悲運でしたね。松尾芭蕉じゃないけど、「夏草や・・・・」という感じです。今、浅瀬石城の往時を偲ぶ遺構もあまり残っていません。駆け足で何枚か撮影してきました。
                          ☆津軽統一までのあゆみ☆ 
 ⇩ご覧ください。
 ちょっと浅瀬石城! 
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: 津軽統一までのあゆみ  

となりのまちー「田舎館村」

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                田舎館城址
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                田舎館村役場
 私は黒石市の郊外に住んでいます。すぐとなりが田舎館村です(車で2分位)。「田舎館村」といえば、弥生時代の水田遺構が残る(弥生人の足跡もあります)「垂柳遺跡」「田んぼアート」で有名です。また役場の庁舎が写真のようにお城の形をしているので人目をひきます。
 実は私は、田舎館村に長年勤務していました。その時の職場の上司が郷土史好きで、田舎館城にまつわる話をよく聞かされました。何年かぶりで、昨日、城跡を訪ねてきました。
 戦国時代、今の津軽地方一帯は、三戸南部氏の支配下にあり、いくつかの支城が築かれていましたが、田舎館城もそのひとつでした。ところが、津軽統一を目指す大浦為信(後の津軽為信)は、次々に支城を攻略しはじめます。他の城が為信に降伏する中、田舎館城だけは南部氏への情誼を貫き、最後まで抵抗しました。そのときの城主は千徳掃部政武(せんとくかもんまさたけ)でした。しかし、1585年、3,000名の為信軍に攻められ、落城しました。この時の田舎館城兵は約330名だったといわれています。上の写真は「ヤマコ」とよばれる土塁です。落城した時に玉砕した田舎館城兵を埋葬した場所とされており、 土塁上に立つ老木は「サイカチの木」で、その時に墓碑として植えられたと伝えられています。なお、城主政武の夫人は「お市」といい (あの織田信長の妹と同じ名前ですね)、落城の際には難を逃れ、しばらく身を隠していましたが、1601年に為信が法要を営んだ際、焼香に現れ、自分の思いを綴った巻物を読み上げた後、その場で自裁したといわれています。そういった話ー政武と田舎館城兵の勇壮な戦いやお市にまつわる哀話などーが、人々を惹きつけるのだと思います。
 さて、今は田舎館城の遺構はほとんど残っていません。どんな城だったのでしょうか?ちょっと興味をもち、私なりに想像してみました。    
                        ☆津軽統一までのあゆみ☆                 
                                   
⇩よかったらご覧ください
   田舎館城今昔!
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市  

私のまちー黒石市「浅瀬石川」-追加です!

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 浅瀬石川上流散策の追加画像です。虹の湖(浅瀬石川ダム)付近の画像を集めてみました。よろしかったらご覧ください!→浅瀬石川上流②!をclick!⇩
                           浅瀬石川上流②!
                       
 
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市  

私のまちー黒石市「浅瀬石川」

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 ふと思い立ち、古いデジカメを持って浅瀬石川の上流まで出かけてきました。あいにくのくもり空でしたが、渓流はとてもきれいでした。上の写真のように、残雪のそばにふきのとうが咲いていました。「浅い春」という感じでしたね。
 さて、地図がないので分かりにくいと思いますが、浅瀬石川は、南八甲田山系から流れ出る滝ノ股川と、御鼻部山を源流とする温川が合流し「浅瀬石川」となり、上流は黒石市に隣接する平川市、虹の湖(浅瀬石川ダム)のあたりからは、黒石市を流れています。私は数年前、この上流にある職場へ勤務していたので、毎日、渓流を見ながら通勤していました。その頃のことを思い出しながら、何枚か写真を撮ってきました(腕前には全く自信がありません)。
 余談になりますが、火坂 雅志さんの小説に『忠臣蔵心中』というのがあります。おなじみの忠臣蔵物で、堀部安兵衛などが活躍する話です。その登場人物の一人が小さい頃のことを回想し、こんなことをつぶやく場面があります。-「まだ雪の残る山に真っ白なこぶしの花が咲くと、浅瀬石川でアメマスが釣れだす。雪代で川が乳色に濁り、それがきれいに澄み渡ると、魚の食いが急に荒くなる・・・」-同書(講談社文庫)より
 この人は津軽政たけ(つがるまさたけ)という実在の人物です。津軽弘前藩の分家黒石藩4000石の3代目の当主で、「津軽采女(うねめ)」と呼ばれていました。この采女の奥方が、あの吉良義央(上野介)の娘だったのです。ですから、赤穂浪士達の吉良邸討ち入りは、采女にとっても大事件だったに違いありません。
 さて、この采女、釣りが好きで好きでたまらない侍でしたが、何たって時は元禄、将軍綱吉の「生類憐みの令」のおかげで、釣りは御法度の世の中、大好きな釣りもできず、おまけに赤穂事件のこともあり、悶々とした日々を過ごしていたともいわれています。ところが、将軍の代替わりにともない、生類憐みの令が廃止されると、采女は釣りにのめりこみます。そして、『何羨録(かせんろく)』という、日本最古の釣りの指南書を書き上げたといわれています。釣りマニアの方々は、この津軽采女のことは、よくご存じだと思います。それにしても、火坂さんの本のように、采女は小さい頃、浅瀬石川で毎日、釣りに明け暮れていた・・と思うと、とても楽しいですね。
                      →浅瀬石川上流!をClick!⇩           
                            浅瀬石川上流!
                        




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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市  

私のまちー黒石市「虹の湖」

【こみせー黒石ー】
黒石市: 写真
黒石市 (トリップアドバイザー提供)
【冬ー黒石ー】
黒石市: 写真
黒石市 (トリップアドバイザー提供)
【虹の湖公園】
黒石市: 写真
黒石市 (トリップアドバイザー提供)
 ブログを始めてから、素晴らしい写真ブログを立ち上げている方々のサイトをたくさん拝見し、参考にさせていただきながら、自前の写真で記事を書きたいな・・・と思ってはいますが・・・。またまたトリップアドバイザーさんの写真を使わせてもらいました。
 さて、何回かに分けて、私の住んでいる黒石市について書いていきたいと思います。上の写真をご覧になればお分かりと思いますが、古き良き町並みが残っている所です。市の様子などについてはおいおい語るとして、今回は「虹の湖」について少し書いてみます。
 私たちの黒石市には浅瀬石川(あせいしがわ)という川が流れています。これがなかなかの暴れ川でして、何回か氾濫し、田畑を水浸しにしたり、橋を決壊させたりしたこともありました。ー私も少年時代(はるか昔)、大雨のため、川が氾濫、橋が決壊し、遠回りしてやっと自宅に辿り着いた思い出があります。家の周りは水浸しでしたー そんな訳で、昭和63年、上流に浅瀬石川ダムが完成しました。その後、整備が進み、ダム付近は現在「虹の湖公園」として、道の駅にも指定されている浅瀬石川ダム湖畔の公園になっています。園内には、桜やツツジ、シャクナゲなどが咲き、ゴーカートやパ夕一ゴルフ場、釣り池などの設備があり、家族連れで賑わう人気スポットになっています(私も娘が小さかった頃、よく出かけました)。近隣の小学校の社会見学でも休憩・昼食場所として利用されています。ダム湖とはいえ、なかなか景色はきれいですよ。
虹の湖のながめ!をClick!⇩                               
    虹の湖のながめ!
 


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 自然&風景  

岩木山ーその2

 時間を見つけて「岩木山」に関するHPやブログをネット上で散策していたら、あるわあるわ・・・びっくりしました。青森県在住の方はもちろん、日本各地の方々から旅行記や思い出の写真などが掲載されていました。それぞれの「岩木山讃歌」が語られており、ちょっぴり感動し、自分のふるさとを誇りに思いました。
 さて、岩木山に関するある方のサイトをのぞいていたら、~岩木山は見る地域によって、美しい山容を見せている~という記事があり、しばらく見ていました。私もつたないCG(岩木山七変化)で、似たようなものをのせましたが、その方は、津軽地方を探訪し、各地域からの岩木山の写真を掲載していました。すばらしかった!やはり実写にはかなわないものですね。きっと、その方の思い(姿形は違っても”美しさ”は変わらないという岩木山への愛着)がこめられているのでしょう)。私も、こまめに写真を撮っていこうかな?と思いました。-岩木山に限らず・・・-
 ま、それはそれとして、懲りずに「岩木山衣替え」と称するContentsをUPしましたので、のぞいてみてください!
   ⇩Click
   岩木山衣替え!
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 自然&風景  

十和田湖です!ーその2(訂正版)

 しばらく某HP作成ソフトやSWF作成ソフトをさわっていなかったので、「十和田湖一巡りContents」を作り直しました。数年前まで、職場のHPを作成していたのですが、さわっていないと忘れるものですね。。。記憶をたどりながら、しこしこ再チャレンジしています。新しく再UPしました。「十和田湖一巡り」をご覧ください!⇩CliCk!
                          十和田湖一巡り!
                       norikura1.jpg
⇒使用ソフト「カシミール3D他」

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十和田湖です!

<a href="/Attraction_Review-g1059454-d1385311-Reviews-Lake_Towada-Towada_Aomori_Prefecture_Tohoku.html">十和田湖</a>: 写真
十和田湖 (トリップアドバイザー提供)
 5月初めての投稿です。今回は「十和田湖」です。日本でも有名な湖のひとつですからみなさんご存じのことと思いますが、一応概要を・・・。
ー十和田湖(とわだこ)は、青森県十和田市、秋田県鹿角郡小坂町にまたがる湖。十和田八幡平国立公園内にある。日本の湖沼では12番目の面積規模を有する。内水ながら、国の地方港湾である子ノ口港、休屋港の二港がある。
十和田火山の噴火で形成された二重カルデラ湖。現在も活火山として指定されている。最大深度327mは日本第三位。流出河川は奥入瀬川。胡桃を半分にした形。湖の中央、御倉山と中山半島の間にある中湖(なかのうみ)とよばれる水域が最深部であり、御倉山の東側の東湖(ひがしのうみ)や中山半島の西側の西湖(にしのうみ)と呼ばれている水域の水深は50 - 100mほどである。湖畔には高村光太郎作のブロンズ像「乙女の像」の他、十和田ビジターセンター、十和田科学博物館などがあり、観光用の湖上遊覧船が運航している。湖に突き出した中山半島には十和田神社がある。また十和田湖畔温泉があり、国民宿舎十和田湖温泉が設置されている。毎年1月下旬(2月上旬) - 2月下旬には休屋で「十和田湖冬物語」が開催され、雪像やかまくらなどを見ることができる。また、20時頃から冬花火も打ち上げられる。毎年7月の第三金・土・日曜日には「湖水まつり」が開催され、また7月下旬の日曜日には十和田湖一周道路(約50km)を約12時間かけて歩く「十和田湖ウォーク」が行われる。毎年9月第1土・日曜日には「十和田湖国境祭」が開催され、青森ねぶた・竿燈・盛岡さんさ踊りなどの青森県・秋田県・岩手県の代表的な祭りや伝統芸能が披露される。青森県と秋田県の県境にあるため土産物屋では青森の特産物(りんごなど)と秋田の特産物(きりたんぽや樺細工)とが両方販売されている。ーwikipediaより

 さて「十和田湖」といえば、私には忘れられない思い出が2つあります。1つ目は小学校時代(はるか昔ですね)、全校で十和田湖へ小旅行(今で言えば社会見学かな?)に出かけた時のことです。私は、その日をとても楽しみにしていました。湖畔を散策するということで、母におねだりして、真新しいズック靴を買ってもらいました。「これを履いて十和田湖を歩くぞ!」・・・前日は寝られませんでしたね。ところが、ところが・・・当日の朝、私は全然無意識に、普段履いている「あさぐつ(ゴム靴)」を履いて学校へ行ってしまったのです。バスが出発してしまってから気がつきました。正に「後の祭り」でしたね。「あーあ」何度もため息がでました。でも、十和田湖の風景はそんな私の気分を吹き飛ばしてくれました。ほんとに美しかった。。。
 2つ目は某小中学校での思い出です(私は教員退職者です。小中併置校にも3度程赴任しました)。2年がかりで、八甲田と十和田湖を巡る社会見学がありました。1年目は「八甲田縦走」(年寄りにはきつかったけど、スキーのストックが役にたちました)。
 そして2年目が「奥入瀬・十和田湖一巡」でした。ほんとに久しぶりに湖上を遊覧しました。身近にある(いつでもその気になれば行ける)景勝地の素晴らしさを再確認しました。自然は変わらないものですね(環境の変化はあるにしても)。その時その時の貴重な思い出をつくってくれます。

 今回は「十和田湖一巡り」を作りました。My Contents に十和田湖一巡り湖上めぐりの2つをのせています。「湖上めぐり」は動画ですが、ファイルの大きさの制限もあって、あまり画質は良いとはいえません。※「十和田湖一巡り」でも動画は見れますが、ブラウザの幅を狭めて見てください。
⇒カシミール3D他で作成。





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 あっという間に師走になりました。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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Author:korekarada       ふるさと「東北・青森県」の史跡を巡り、感想などを綴っています。ときには、まだ見ぬ地方への憧れを「バーチャル旅行記」として、書いていきたいと思います。
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