
この高照神社の社殿は、江戸時代中期を代表する「準権現造り」で、あの名君とよばれた会津藩の祖保科正之 を祀る土津神社(はにつじんじゃ)を模範として建てられています。土津神社の「土津」は保科正之が吉川神道の崇拝者であり、師の吉川惟足から、その奥義を授けられた際、「土津」の霊神号を送られたことに由来していますが、我が津軽信政も同様、吉川惟足から「高岡」の霊神号を授かっています。それで当初は「高岡霊社」と呼ばれたわけです。因みに、この高岡霊社から現在の高照神社という社名に落ち着くまでには、何回か紆余曲折があったみたいで、ガイドさんの説明によると、高照の「照」が、家康を祀る日光東照宮の「照」と同じなので、差し障りがあるのではないか。。。ということや、明治維新の際には「照」が天皇家の祖「天照大神」の「照」に通じるので不敬にあたるとされ、一時期、元の高岡を称したこともあったということです。いろいろあるものですね。そうやって藩をあげてこの神社を守り通してきたということでしょうか。
さて、この高照神社の本殿、拝殿、随神門、信政公廟所等はいずれも重要文化財に指定されている見事な建物ですが、境内には、樹齢300年を超えるといわれる「シダレザクラ」や神木として植えられたと思われる「サワラ」、「ウラジロモミ(モミの木)」などの古木もあり、いずれも市の天然記念物に指定されています。
⇒建物と天然記念物
中でも私が一番惹きつけられたのは、拝殿の天井側に所狭しと並べられていた絵馬です。色彩の鮮やかさもさることながら、その数に圧倒されました。奈良時代には神馬(しんめー馬は神様の乗り物とされていたー)を奉納する習いがありましたが、馬は高価であったことや、神社側でも世話をするのが大変だったため、平安時代になると板に描いた馬の絵が奉納されるようになっていきました。ーそれが絵馬の始まりだといわれています。ガイドさんはそんな絵馬の由来とともに、興味深い話もしてくれました。絵馬にも”格式”があって、この拝殿の中にある額が五角形(家の形)のものは藩主及び親族が、四角形のものはその他の家臣達がそれぞれ奉納したものだということでした。また、描かれた馬の色が天候(天気)への願いをあらわしているということで、白い馬は「晴れ」、黒い馬は「雨=雨乞い」を願った絵馬だということでした。ところが、中には茶色い馬や、体は白で、しっぽが黒、というものもあり、私とガイドさんは「じゃあ、この茶色いものは、白でも黒でも、晴れでも雨でもいいから、とにかく豊作になるような天気にしてくれ、天気のことはあなた(神様)にまかせますよ。よろしく。ということかな。。。」と言いながら二人で大笑いしました。なお、多くの絵馬の中でも、5代藩主津軽信寿が奉納したものは、とりわけ貴重なもので、狩野派の新井常寛の筆によるものとされています。
⇒絵 馬
境内を散策した後に宝物殿を訪ねました。建物自体はあまり大きくないのですが、ここには古美術資料や古文書、古地図・絵図などが、たくさん展示されています(ここは写真撮影が禁じられていました。ご紹介する画像は神社のパンフレットからとったものです)。信政着用の「黒小實勝色威甲冑」 や弘前藩の「卍」の旗印などは、往時を偲ばせてくれます。また、弘前藩の山鹿流兵学師範、貴田稲城が奉納したとされる「三河国長篠合戦ノ図」 なども展示されています。この貴田氏の展示資料の中には、松本城や熊本城といった名城の城絵図もあり、あの「のぼうの城」で話題になった忍城の絵図も展示されていました。しかしながら、何といっても一番のお宝は、初代藩主為信が豊臣秀吉から拝領したと伝えられる、「友成の太刀」 だといわれます。ガイドさんの話によると、刀剣に少し錆が見られたということで、それがなければ国宝級のものだということでした。
傑作だったのは、信政公の葬列を描いた絵でした。信政公は、宝永7年(1710年)の冬に亡くなりますが、そのとき、弘前城から高岡の地まで運ばれました。長い距離ではありましたが、粛々とした葬列だったそうです。しかしながら、家臣の中には不心得者もいて、寒さしのぎに「一杯引っかけて」参加した者もいたらしく、この葬列の絵の中には、毅然としてしっかり歩いている家臣に混じって、酩酊状態でふらふらしている者や、半分目を閉じている者、ほろ酔いで顔が赤くなっている者などが、しっかり描かれています。とてもユーモラスで笑ってしまいました。それにしても酒を飲んだ方も飲んだ方ですが、その様子をこうして描いた方もなかなか大したものですね。。。もちろん、酔っ払った家臣は後にきついお叱りを受けたとか。。
最後になりますが、私を案内してくださったガイドさんは、まだお若い女性の方でした。私はてっきり、市役所とか教育委員会とかの職員だと思いましたが、ボランティアの方でした。高照神社の歴史や文化財を多くの方達に伝えたい、という思いで活動しているのだそうです。すばらしいですね。
☆津軽統一までのあゆみ☆
⇒高照神社絵馬スライド



津軽信政は、正保3年(1646年)、3代藩主津軽信義の長男として弘前城で生まれました。その後、明暦2年(1656年)、父信義の死去にともない、家督を継ぎます。しかし、若干11歳で藩主となったため、成人するまでは叔父にあたる津軽信英 が後見役として、弘前藩及び信政を支えていました。この信英は、信政の人となりに大きな影響を与えた人物です。幼い頃から、聡明だった信政は、生涯に渡って儒学・兵学・神道・武芸の習得に励み、55年という長い治世の間に、津軽新田の開発、治水工事、植林、検地、城下町の拡大、養蚕や織物、製糸業などの発展・育成に努め、その善政は弘前藩の全盛期を築いたといわれています。また、対外的には寛文9年(1669年)のシャクシャインの乱 の鎮圧や天和3年(1683年)の日光東照宮の普請役を務めるなどの功績を挙げています。
さて、この信政が”師”と仰ぎ、生涯に渡って影響を受けた人物が2人います。ひとりは吉川神道の祖吉川惟足 です。この吉川神道について少し調べてみたのですが、私には難しくてよく分かりませんでした。ただ、「生活における倫理の大切さ」や「君臣の道を遵守することの大切さ」などが強調されていることは、何となく理解できました。信政は、常に自分を律し、よき君主たらんと努めていたといいます。この「君臣の道のあり方」については、次のような逸話が残されています。
ー 信政は居室に「畏天命」(てんめいをおそる)「畏大人」(たいじんをおそる)と記した衝立を用いていた。家臣はどちらをどの向きにして立てるべきかいつも迷っていたが、ある時、信政は苦笑いしながら、自分の側に「畏天命」(君主であることを天命とする自戒)を、家臣の側に「畏大人」(君臣の節度の戒め)を向けよと、教え諭したという。ー ※信政の言行録「高岡公明訓録」(弘前市立弘前図書館蔵)より。なお、「高岡」とは、神社が建っている集落名です。信政が名づけたともいわれています。このため、高照神社は当初、「高岡霊社」とよばれていました。
さて、信政に影響を与えたもう一人の人物は、あの山鹿素行です。叔父の信英の影響もあり、素行の教えやその人物を深く崇拝した信政は、素行を弘前藩で召し抱えたいと望みました。しかし、残念ながらそれは叶いませんでした。ところが、その代わりに素行の二人の娘である鶴(つる)と亀(かめ)が、それぞれ家臣に嫁ぐことになりました。結果的に素行の”血”とその教えが津軽の地にもたらされることになったのです。この鶴(つる)様の嫁ぎ先の相手は喜多村宗則といい、後に家老に取り立てられました。宗則の死後、鶴様は息子の喜多村政方に対して、四書五経や父素行の学問など全てを徹底的に教え込んだといわれています。そんな母の薫陶もあり、政方は祖父の山鹿流兵学や、儒学などを修め、弘前藩の発展に尽力することになります。ー凛とした気品を感じさせるーそんな母親だったのではないでしょうか。
ところで、「山鹿素行」といえば、何といっても赤穂藩、忠臣蔵ですね。大石内蔵助(良雄)が吉良邸討ち入りの際、叩いたのが「山鹿流陣太鼓」・・・。史実かどうかは別として、忠臣蔵の名場面のひとつです。あの討ち入りは元禄15年(1703年)のことでした。実は、信政と浅野内匠頭(長矩)は、どちらも素行の門下生だったので、非常に親しい間柄であったといわれています(長矩の刃傷から始まる一連の赤穂事件を、信政はどんな思いで見つめていたのでしょうか)。そういうつながりから、大石内蔵助の従弟の郷右衛門は信政に召し抱えられ、用人を勤めていたのです。討ち入り後、信政は郷右衛門を召し出し、内蔵助以下、赤穂浪士達の忠義を賞賛したといわれます。
こうして、山鹿素行と大石良雄の血統は津軽弘前に残ることになったのです。山鹿家と大石家の墓所は、いずれも弘前市新寺町の貞昌寺(津軽山鹿家)と本行寺(津軽大石家)にあります。
「高照神社訪問記」は2回で終えるつもりでしたが、信政公に関わる逸話を述べていくうちに、ついつい長文になってしまい、神社にある文化財を紹介することができませんでした。次回に回したいと思います。
☆津軽統一までのあゆみ☆


※赤字の箇所はクリックしてご覧ください※
私の家の初詣は、近くにある猿賀神社 に行くことが多いのですが、何回か弘前市の岩木山神社 に出かけたことがあります。ところが正月三が日はとても混み合い、車は渋滞、駐車場は満杯・・・といった状況で、初詣には”忍耐”が必要です。もう10年も前になりますが、岩木山神社に出かけたとき、あまりの混み具合いにがまんできず車をUターンさせた帰り道に立ち寄ったのが、ご紹介する高照神社 でした。
その後、当時の岩木町(合併して現在は弘前市となった)に勤務したこともあり、何回か訪れました。しかし、参拝したり、宝物殿を見学したりはしましたが、拝殿の奥にある信政公の廟所まで足を伸ばしたことはありませんでした。そういう訳で、今回はぜひ信政公の御廟を拝みたいと思い、出かけました。
この高照神社は、宝永7年(1710年)に死去した弘前藩4代藩主津軽信政の霊を祀っている神社です。信政の遺命により、5代藩主信寿が正徳元年(1711年)に廟所を設営し、その翌年(1712年)には本殿を造営するなど、次第に社の形が整えられ、享保15年(1730年)には「高照神社」と称し、津軽氏歴代の崇敬社となりました。主な建造物が東西一直線に配置されていることが大きな特徴で、これは信政が傾倒していた吉川神道に基づく独特な社殿構成とされ、国内で唯一現存する貴重な神社建築様式といわれています。また、平成18年(2006年)には境内の主な建造物が国の重要文化財に指定されるなど”歴史”を感じさせるみちのくの社です。そんな高照神社を2回に分けてレポートしたいと思います。まず、今回は入り口(一の鳥居)から信政公廟所までをたどってみたいと思います。※下の画像上の①~⑯をクリックしながらおつき合いください。
一の鳥居(①)と二の鳥居(②)の間は駐車場になっています。ここから奥へは徒歩で向かいます。三の鳥居(③)をくぐった左手に宝物殿(④)があります。ここには様々な文化財や貴重な資料などが展示されています。正面の随神門(神域に邪悪なものが入り来るのを防ぐ神様をまつる門 ⑤)と四の鳥居(⑥)の後ろには手水社(⑦)と拝殿(⑧)があります。ところで、この四の鳥居(⑥)は、画像を見ると分かるように、上部「かさ木」の部分が崩れ落ちています。これは、本年1月の大雪のためです。今も「かさ木」は手前に放置されたままでした。一日でも早く修復されることを望みます(訪れる人々に貴重な文化財の重みを感じてもらうためにも・・・)。
拝殿の右側に回り、本殿を見ながら、いよいよ信政公の廟所へと向かいます(⑨、⑩、⑪、⑫)。途中には湧水が流れていて「御茶ノ水(⑬)」という一息つける場所がありました。辺りに腰かけて休むには絶好の場所です。私も置かれていた柄杓で水を飲んでみましたが。冷たくておいしかったです。ここからは廟所へ道が真っ直ぐ延びていますが、左側に分かれ道がありました。辿ってみると、そこには「森岡氏霊屋(⑭)」がありました。この霊屋の主は森岡元隆(もりおか もとたか)という弘前藩の家老ですが、信政のあとを追って殉死したといわれています。当時は殉死は禁止されていたのですが、その忠節心を讃え、この場所に建立されたといわれています。
引き返して、信政廟へ向かって真っ直ぐな道を進みます。辺りがパーッと開け”信政公”が見えました(⑮、⑯)。実は、ここへ至る細道にはわずかながら傾斜がついています。つまり、ゆるやかな坂道になっているのです。したがって、信政廟は水平に見ることはできません。少しですが”仰ぎ見る”という感じです。信政の威徳を偲ばせるような・・・。革秀寺の為信廟や長勝寺にある歴代藩主の廟とは、また違った趣がありました。自然の地形を利用したとはいえ、正に絶妙の配置だと思います。5代藩主信寿の意向かな・・・。
さて、今回は高照神社の境内から信政廟へと続く”社の概要”について述べてみましたが、次回は、信政公の人となりや逸話、宝物殿にある文化財などについて感じたことを書いてみたいと思います。
☆津軽統一までのあゆみ☆

その後、当時の岩木町(合併して現在は弘前市となった)に勤務したこともあり、何回か訪れました。しかし、参拝したり、宝物殿を見学したりはしましたが、拝殿の奥にある信政公の廟所まで足を伸ばしたことはありませんでした。そういう訳で、今回はぜひ信政公の御廟を拝みたいと思い、出かけました。
この高照神社は、宝永7年(1710年)に死去した弘前藩4代藩主津軽信政の霊を祀っている神社です。信政の遺命により、5代藩主信寿が正徳元年(1711年)に廟所を設営し、その翌年(1712年)には本殿を造営するなど、次第に社の形が整えられ、享保15年(1730年)には「高照神社」と称し、津軽氏歴代の崇敬社となりました。主な建造物が東西一直線に配置されていることが大きな特徴で、これは信政が傾倒していた吉川神道に基づく独特な社殿構成とされ、国内で唯一現存する貴重な神社建築様式といわれています。また、平成18年(2006年)には境内の主な建造物が国の重要文化財に指定されるなど”歴史”を感じさせるみちのくの社です。そんな高照神社を2回に分けてレポートしたいと思います。まず、今回は入り口(一の鳥居)から信政公廟所までをたどってみたいと思います。※下の画像上の①~⑯をクリックしながらおつき合いください。

拝殿の右側に回り、本殿を見ながら、いよいよ信政公の廟所へと向かいます(⑨、⑩、⑪、⑫)。途中には湧水が流れていて「御茶ノ水(⑬)」という一息つける場所がありました。辺りに腰かけて休むには絶好の場所です。私も置かれていた柄杓で水を飲んでみましたが。冷たくておいしかったです。ここからは廟所へ道が真っ直ぐ延びていますが、左側に分かれ道がありました。辿ってみると、そこには「森岡氏霊屋(⑭)」がありました。この霊屋の主は森岡元隆(もりおか もとたか)という弘前藩の家老ですが、信政のあとを追って殉死したといわれています。当時は殉死は禁止されていたのですが、その忠節心を讃え、この場所に建立されたといわれています。
引き返して、信政廟へ向かって真っ直ぐな道を進みます。辺りがパーッと開け”信政公”が見えました(⑮、⑯)。実は、ここへ至る細道にはわずかながら傾斜がついています。つまり、ゆるやかな坂道になっているのです。したがって、信政廟は水平に見ることはできません。少しですが”仰ぎ見る”という感じです。信政の威徳を偲ばせるような・・・。革秀寺の為信廟や長勝寺にある歴代藩主の廟とは、また違った趣がありました。自然の地形を利用したとはいえ、正に絶妙の配置だと思います。5代藩主信寿の意向かな・・・。
さて、今回は高照神社の境内から信政廟へと続く”社の概要”について述べてみましたが、次回は、信政公の人となりや逸話、宝物殿にある文化財などについて感じたことを書いてみたいと思います。
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さて、津軽信英は、元和6年(1620年)、2代藩主信枚の次男として生まれました。母は家康の養女である満天姫です(異説もあるようですが)。つまり、家康の孫にあたる人物です。幼少時から英邁で、長ずるにつれて、武術(刀、槍、弓、馬術等)を修練し、学問や諸芸にも通じていたといわれています。正に”文武両道”といったところでしょうか。信英は山鹿素行 を師として兵学と儒学を修め、その学識は幕府や諸大名にも知れ渡っていたといいます。そんな信英ですから、とかく評判の悪かった兄信義(及び嫡男信政)に代わって、信英を藩主に擁立しようとする事件がおきます(正保の変)。藩内に多くの処罰者を出したこの事件は、信英の人徳を物語るとともに、石田三成=豊臣血統から、徳川血統の藩主を擁立しようとする津軽家内部の事情を表していると思います。 明暦元年(1655年)に信義が死去し、嫡男の信政が11歳で藩主になりますが、その際、信英には黒石周辺に5,000石が分知されました。これが後の「津軽黒石藩」の基となったわけです。黒石に入った信英は、人材(家臣団)を登用し、集落を改編し、黒石陣屋(黒石城)を築くなど「街造り」や「殖産興業」に努めました。あのこみせも信英のアイデアだといわれています。その後の黒石藩及び現在の黒石市の基を創った人だったのですね。
津軽信英は寛文2年(1662年)に死去しました。黒石陣屋東南の隅に廟を建立して埋葬されましたが、その後、明治時代に入り黒石陣屋が廃城になると、信英の遺徳を偲び明治12年に黒石神社が建立されました。その際、黒石陣屋の大手門近くにあった廟門を移築したといわれています。信英の公書状、御神刀太刀、釣燈籠2基、石燈籠2対、2代目黒石藩主津軽信敏建立の石碑、信英公頌徳碑などが黒石市文化財に指定されています。
私が黒石神社を訪れた日はどんよりとした曇り空でしたが、境内に入ると”ヒュー”と風が吹き、辺りの木々の枝が揺れました。ー史跡を訪ねて得られる感動というのはこういう瞬間ですよね。何か、先人が”歴史”を語りかけているような・・・。ー ほんの少しですが、信英の思いにふれたような気持ちになりました。因みに、この信英の孫が、あの我が国最初の釣りの指南書『何羨録』を著した津軽采女です。
さて、信英は黒石藩の領主としての役目の他、幼い弘前藩4代目藩主津軽信政の後見人として、本家弘前藩の発展にも力を尽くしました。この信英の薫陶を受けた 津軽信政は、江戸時代前期の名君、弘前藩中興の祖として有名です。次回は、その信政が祀られている高照神社(弘前市)を訪ねてみたいと思います。
☆津軽統一までのあゆみ☆
⇒ 黒石神社


わたしのまちー黒石市には二つの黒石城址
があります。

旧黒石城址と新黒石城址です。旧黒石城址(黒石市境松)は、14世紀初頭~中頃に、この地方の代官であった工藤氏が築いた居城で、別名「黒石館」と呼ばれています。その後、戦国の世になると、千徳氏が浅瀬石城を居城に定めて、黒石を支配したために、この城もその配下に入ったと思われます。しかし、 慶長2年(1597年)、津軽為信が、浅瀬石城の千徳氏を滅亡させたため、津軽氏の居城となりました。為信はこの旧黒石城を改修し、晩年には自らの隠居所として活用したといわれています。 現在では「旧黒石城址」の碑が立てられているだけで、堀や郭の跡を思わせる地形は見られますが、遺構はほとんど残されていません。 ⇒ 旧黒石城址
さて、一方の新黒石城址(黒石市黒石内町)は、黒石陣屋とよばれ、明暦2年(1656年)に弘前藩から5,000石が分地された黒石津軽家の陣屋です。陣屋を築いたのは津軽信英(つがるのぶふさ)という人物で、この人は弘前藩三代藩主津軽信義の弟です(母はあの満天姫ですー異説もありますが)。当時は、大手門の近くに町令所や太鼓櫓が置かれ、西側には馬場、南側には蝦夷館(えぞだて)、北側には中門と無常門などが配置されていました。特に南側は崖地になっており、その下を宇和堰・小阿弥堰という人工の用水堰が流れ、さらにその外側には浅瀬石川と、人工、天然の堀が陣屋を守っていました。こうしてみると陣屋とはいえ、なかなかの要塞であったことがわかります。
往時には馬場であった場所は今、「御幸公園」となっており、そこには黒石城址の碑とともに陣屋の案内板が設置されています。実は、この案内板の裏に「黒石陣屋の由来」を記した説明が記してあるのですが、訪れた人達は、なかなか気がつきません。何とかしてほしいものです。この案内板のある場所は当時の主郭ではなくて、主郭は、道路を隔てた現在の黒石市中央スポーツ館の辺りにあったといわれています。城址碑の後ろ側の小高い丘が蝦夷館で、堀で仕切られていましたが、その堀の跡も残っています。
この御幸公園は、様々な催しの場所になる所ですが、私が小学生の頃にはここにバックネットが立っていて、少年野球大会なども開かれていました。私も何回か出場した記憶があります(下手でチームの足を引っ張ってばかりいましたが・・・)。あまりに身近にあるせいか、最近訪れたことはありませんでしたが、これを機会に、時々足を運んでみたいと思います。
☆津軽統一までのあゆみ☆
さて、この陣屋を築いた津軽信英は、英邁な人物で後の黒石藩の礎となった人ですが、現在は黒石神社に祀られています。次回はこの神社を訪ね、黒石藩と本家弘前藩とのつながりなどについて調べてみたいと思っています。
⇒ 黒石陣屋

があります。


旧黒石城址と新黒石城址です。旧黒石城址(黒石市境松)は、14世紀初頭~中頃に、この地方の代官であった工藤氏が築いた居城で、別名「黒石館」と呼ばれています。その後、戦国の世になると、千徳氏が浅瀬石城を居城に定めて、黒石を支配したために、この城もその配下に入ったと思われます。しかし、 慶長2年(1597年)、津軽為信が、浅瀬石城の千徳氏を滅亡させたため、津軽氏の居城となりました。為信はこの旧黒石城を改修し、晩年には自らの隠居所として活用したといわれています。 現在では「旧黒石城址」の碑が立てられているだけで、堀や郭の跡を思わせる地形は見られますが、遺構はほとんど残されていません。 ⇒ 旧黒石城址
さて、一方の新黒石城址(黒石市黒石内町)は、黒石陣屋とよばれ、明暦2年(1656年)に弘前藩から5,000石が分地された黒石津軽家の陣屋です。陣屋を築いたのは津軽信英(つがるのぶふさ)という人物で、この人は弘前藩三代藩主津軽信義の弟です(母はあの満天姫ですー異説もありますが)。当時は、大手門の近くに町令所や太鼓櫓が置かれ、西側には馬場、南側には蝦夷館(えぞだて)、北側には中門と無常門などが配置されていました。特に南側は崖地になっており、その下を宇和堰・小阿弥堰という人工の用水堰が流れ、さらにその外側には浅瀬石川と、人工、天然の堀が陣屋を守っていました。こうしてみると陣屋とはいえ、なかなかの要塞であったことがわかります。
往時には馬場であった場所は今、「御幸公園」となっており、そこには黒石城址の碑とともに陣屋の案内板が設置されています。実は、この案内板の裏に「黒石陣屋の由来」を記した説明が記してあるのですが、訪れた人達は、なかなか気がつきません。何とかしてほしいものです。この案内板のある場所は当時の主郭ではなくて、主郭は、道路を隔てた現在の黒石市中央スポーツ館の辺りにあったといわれています。城址碑の後ろ側の小高い丘が蝦夷館で、堀で仕切られていましたが、その堀の跡も残っています。
この御幸公園は、様々な催しの場所になる所ですが、私が小学生の頃にはここにバックネットが立っていて、少年野球大会なども開かれていました。私も何回か出場した記憶があります(下手でチームの足を引っ張ってばかりいましたが・・・)。あまりに身近にあるせいか、最近訪れたことはありませんでしたが、これを機会に、時々足を運んでみたいと思います。
☆津軽統一までのあゆみ☆
さて、この陣屋を築いた津軽信英は、英邁な人物で後の黒石藩の礎となった人ですが、現在は黒石神社に祀られています。次回はこの神社を訪ね、黒石藩と本家弘前藩とのつながりなどについて調べてみたいと思っています。
⇒ 黒石陣屋



ーこの時代のお寺は、仏事を執り行う場、広い意味での教育の場としての本来の役割の他に”砦”としての役目も課せられていたのですね。あの本能寺も堀と土塁で固められていたとか。。ー さて、シンボルともいえる三門(上の画像)をはじめ、国や県指定の文化財を有するこの寺の境内には、環月臺(為信の正室)、碧巌臺(二代藩主信枚)、明鏡臺(信枚の正室の満天姫)、白雲臺(三代藩主信義)、凌雲臺(六代藩主信著)という、五つの霊廟が立ち並び、正に「津軽家の菩提寺」という感じがします。各霊廟は、革秀寺にある極彩色の為信廟と違って、いずれも木造の質素な建物ですが、風格があり、見る者を落ち着いた気分にさせてくれます。実は、私がこの長勝寺を訪ねてみたいと思ったのは、この明鏡臺の主である満天姫のことを知りたかったからです。
満天姫(まてひめ)については、その生涯を題材にした小説や読み物がたくさん出版されていますし、その数奇な運命の物語は劇団民藝により、『満天の桜』として公演されています。また、ブログ上でも、たくさんの方々が記事になさっています。私も拝見し、勉強させていただきました。そんな満天姫の生涯を簡単にまとめると、
①天正17年(1589年)頃、徳川家康の異父弟である松平康元の娘として誕生。その後、伯父の家康の養女となり、慶長4年(1599年)に福島正則の養嗣子福島正之に嫁ぐ。しかし、慶長12年(1607年)、正之が乱行のため幽閉され、死去する。このとき、満天姫は正之の子を身ごもっており、程なく男児(後の大道寺直秀)を出産するが、正則の判断もあって徳川家に帰された。
②慶長18年(1613年)、家康は満天姫を津軽弘前藩主津軽信枚に再嫁させることにした。信枚は、石田三成の娘の辰姫を正室として既に迎えていたが、辰姫は側室へ降格され、満天姫は正室として迎えられた。福島正之との間に儲けた男児も一緒だった。満天姫は、辰姫の死後、信枚と辰姫の子である平蔵を信枚の世継ぎとして育て、平蔵は、後に第三代藩主津軽信義となる。
③元和5年(1619年)6月、幕府は広島藩主である福島正則に津軽への転封を、津軽家には越後への転封を命じる内示を出した。しかし結局、満天姫の尽力で、内示から1ヶ月も経たないうちに津軽家の移封は取り消しされ、危機は回避できた。寛永8年(1631年)に信枚が没した後、満天姫は葉縦院と号するようになる。
④一方で実子直秀が、自らは福島正則の孫であるとして、このときすでに改易され一旗本にまで身分を落としていた福島家の大名家再興を考えるようになり、しきりに活動するようになる。葉縦院は、直秀の活動は幕府の心証を害し、津軽家に災いとなると考え、直秀を諫めた。しかし、直秀は一向に考えを改めることなく、江戸へ上って幕府に福島家再興を訴えると言い出した。寛永13年(1636年)、江戸に出発するため葉縦院の居所へ挨拶に訪れ直秀は、葉縦院に勧められるまま杯を空けると、急に苦しみだして死んでしまう。毒が盛られていたという説がある。寛永15年(1638年)、葉縦院は弘前で生涯を終えた。
~以上、Wikipediaからの抜粋です~
こうしてみると、満天姫は「右肩に徳川家、左肩に津軽家を背負った波瀾万丈の人生を送った人」といえるのではないでしょうか。満天姫は津軽家に輿入れする際、養父の家康に「関ヶ原図屏風を拝借したい。」と涙を流して頼んだといわれています。徳川家の宝物ともいえる屏風をあえて所望した満天姫の、徳川家の一員であるという自負心と、遠国の地へ旅立つ決意が偲ばれる話です。また、いくら信枚の意志を継いだとしても、実子がありながら、辰姫の子供を次期藩主として養育するということはなかなかできることではありません。これも津軽家の行く末を考えてのことだったのでしょうか。ただ、私は、満天姫は辰姫に関して、自分と似たようなその境遇(それぞれ、家康及び高台院の養女であったこと、最初の結婚が不幸であったことなど)に、ある意味、同情というか共感していたのではないかと思うのですが、どうでしょうか?それにしても、最後に自分のお腹を痛めた子供を毒殺しなければならなかったなんて、悲惨な話ですね。
私は、満天姫は、その後の津軽家の礎を築いた人だ思います。だからこそ、二代藩主信枚と三代藩主信義の間に霊廟が建てられたのだと思います。ー明鏡臺(津軽家を照らす鏡、津軽家の行く末を明らかにした鏡)ー正に満天姫にふさわしい廟所名ではないでしょうか。
ところで、各廟所の扉には「津軽牡丹」という近衛家から許された紋章がつけられていますが、満天姫の霊廟だけは、徳川家の「葵の紋章」であると聞いていたので、明鏡臺をじっとみたところ、確かに「葵」が見てとれました。なんか、秘密の宝物を発見したような気持ちになりました。
☆津軽統一までのあゆみ☆
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⇒こちらもどうぞ。長勝寺を訪ねて!




を訪ねてきました。辰姫は、1598年、豊臣秀吉が亡くなった後に、高台院(北政所=ねね)の養女となっていました。ー高台院は、淀殿や三成との敵対心から東軍側についたとされていますが、この三成の娘を養女にしたり、側近に西軍側の関係者が多かったりしたことから、必ずしも「東軍寄り」ではなかったのではないか?ともいわれています。高台院にしてみれば、天下の行く末よりも、秀吉と自分が築き上げた豊臣家の安泰が第一であり、そのために東、西を問わず、あらゆる人脈を探っていたのではないでしょうか。ー
さて、辰姫は、関ヶ原の戦いの後、兄重成と共に津軽に下り、津軽家の庇護を受けて暮らしていましたが、慶長15年(1610年)頃、二代藩主津軽信枚に嫁ぎます。二人はとても仲睦まじい夫婦であったといわれています。辰姫にしてみれば、ようやく安住の地を得た思いでいっぱいだったのではないでしょうか。しかし、そんな幸せもつかの間、北の守りを重視する徳川幕府は、慶長18年(1613年)、家康の養女である満天姫(まてひめ)を信枚に降嫁させます。こうして満天姫が正室となったため、辰姫は側室に降格となり、上野国大舘に移されます(そのため大舘御前と称された)。ところが、信枚は参勤交代の際には、必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、やがて、長男信義(のぶよし)が誕生します。辰姫はそれから数年後、32歳でこの世を去りますが、残された信義は、津軽家に引き取られ、育てられます。信枚は、「自分の嗣子は信義」という強い意志をもっており、反対する家臣の意見を断固として拒んだといわれています。辰姫への思いがよほど深かったのでしょうか。三成の津軽家に対する恩義に報いようとする気持ちが強かったのでしょうか。ーこうして、信義は三代目の藩主になります。つまり、三成の孫が藩主になったわけです。
ところで、辰姫が移された上野国大舘は、関ヶ原の戦いの戦功として加増された津軽藩の”飛び地”であり、旧尾島町(現群馬県太田市)の地域が大半を占めていました。ここには津軽藩とのつながりを感じさせる史跡が数多くあり(私はまだ行ったことはありませんが)、東楊寺境内には、辰姫のお墓もあります。このお墓はその後、信義の手により貞昌寺に改葬され、現在に至っています。
そういった歴史事情もあり、尾島町と弘前市は、平成3年に友好都市になっています。弘前市といえば「ねぷた祭り」で有名ですが、昭和61年に弘前ねぷたが初めて尾島の夏祭りに出陣したのをきっかけに、 「尾島ねぷた」が開催されるようになり、祭り期間中は、たくさんの観光客で賑わっているということです。これも、辰姫が結んだ”縁”でしょうか。
さて、私が訪れた貞昌寺は、津軽為信が生母を弔うために建立した浄土宗のお寺です。近代的な寺院の境内には、辰姫(荘厳院)の他、為信と信枚の生母、為信の息女が埋葬されています。私は、庫裡で辰姫のお墓の場所を聞きましたが、「寺の裏に四つの大きな墓があるところ。」と教えてもらいました。この四人のお墓のことだな、と思い、その場所へ行ってお墓に手を合わせました。残念ながら「荘厳院」という墓碑銘は確認できませんでしたが。。。
この貞昌寺には、 「一文字の庭」と呼ばれる有名な庭園があるので入ってみました。広大な庭園の景色は、とても美しく、紅葉の頃にもう一度来てみたいなと思いました。
☆津軽統一までのあゆみ☆
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☆こちらもどうぞ。 ⇒ 貞昌寺庭園「一文字の庭」!



宗徳寺は、初代藩主、津軽為信が実父の武田守信の菩提を弔うために建てた由緒ある寺院ですが、私が訪ねようと思ったきっかけは、関ヶ原の戦い(1600年)の後、津軽に逃れてきた石田重成(石田三成の次男)の墓があることでも知られているお寺だからです。
この三成の次男、重成と三女の辰姫(辰姫が、この時、兄と一緒に逃れたかどうかについては、諸説あるようです)を津軽に逃したのは、為信の嫡男であった津軽信建(のぶたけ)です。信建は、大阪城で豊臣秀頼に小姓として仕え、津軽家の正式な後継者として期待に違わぬ活動をしていました。しかし、病のために、慶長12年(1607年)、死去したといわれています(その後、為信も亡くなり、津軽家は三男の信枚が継ぐことになります)。この信建の烏帽子親が石田三成だったのです。重成を津軽に逃したのは、そういう恩義に報いるためだったのでしょう。因みに信建の子どもの熊千代(大熊)は、為信が手元にあずかっていましたが、為信は誤って、この孫の顔に火傷を負わせてしまいました。信建は熊千代を引きとろうとして、家臣の天童氏を使者として送りましたが、要を得ず、結局、「使者の不手際」とされ、天童氏は罰せられました。これに激怒した天童一族が、当時の居城「堀越城」の本丸に乱入するという事件(天童事件)が起こりました。この事件を契機に、居城が「高岡城(弘前城)」へ移されたことは、以前の記事で述べたとおりです。
さて、津軽に逃れた重成は杉山源吾と名乗り、その後、津軽氏の保護を受け、隠棲したといわれていますが、重成の長男である吉成(よしなり)は、藩主信枚の娘を妻に迎え、家老職につき、子孫は代々、弘前藩の重臣として仕えました。
宗徳寺は、しっとりとした落ち着きを感じさせるお寺で、広い境内の緑も鮮やかでした。私は、住職さんにお願いして、重成(杉山家)のお墓に案内してもらいましたが、墓碑銘を読み取ることはできませんでした。しかし、吉成のお墓には、はっきりと「豊臣」の文字が刻まれていました。まぎれもなく、三成とのつながりを感じさせる墓碑銘でした。感慨深かったです。
それにしても、徳川時代には、豊臣家を滅ぼした「奸臣・佞臣」として不当な扱いを受けてきた三成を先祖に持つ子孫たちは、どんな思いで、ここ津軽の地で暮らしていたのでしょうか。。。
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⇩禅林街の周辺を何枚か撮影しました。画像をクリックすると拡大します!














を訪ねました。革秀寺は山号を「津軽山」といい、慶長15年(1610年)に、弘前藩二代目の藩主、津軽信枚(のぶひら)によって建立された曹洞宗のお寺で、藩祖津軽為信の菩提寺です。為信は、慶長12年(1607年)に京都で生涯を閉じましたが、その際に「岩木山が見える場所に埋葬してくれ。」と遺言したといわれています。-いつの時代にも、津軽人にとって岩木山は心の拠りどころだったのですね。ー 遺言のとおり、岩木山が見渡せる境内には、重要文化財に指定されている津軽為信霊屋(つがるためのぶおだまや)があります。この霊屋は、はじめは質素なものだったそうですが、文化年間(1804~17年)の修理で、現在のように極彩色の華麗なものになったといわれています。実は、この霊屋の中には、あの豊臣秀吉の木像が安置されているのです。
「木造太閤秀吉座像」といわれるこの木像は、もともと、弘前城に館神[たてがみ]として祀られていたものです。今も弘前城の一角に、館神跡がありますが、ここは藩主や城内の安全などに関わる加持祈祷が執り行われていた場所で、ここへ出入りできたのは、藩主や神官やその家族など、ごく限られた人だけだったといわれています。表向きは稲荷社でしたが、後ろに厨子があり、その厨子は一度も開かれることがなく、 「開かずの宮」と呼ばれていました。明治になって、その「開かずの宮」の扉が開けられたとき、ひっそりと安置されていた「館神=秀吉木像」が見つかり、その後、1957年津軽家から革秀寺へ寄託され、現在に至っています。それにしても、なぜ、弘前城の一角に秀吉が祀られていたのか、とても興味があります。
為信は、1550年、南部一族である久慈氏の子として生まれましたが、後に津軽郡大浦城主、大浦為則の養子となり、家督を継ぎます。その後、南部氏との抗争を経て、秀吉の時代には、ほぼ津軽地方を平定していました。1590年、秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、天下統一の総仕上げとして、 「奥州仕置」を行いましたが、その中で、為信は所領を安堵されました。姓を「大浦」から「津軽」に改めたのもこの頃のことです。しかし、この為信の「本領安堵」は、順調に進んだわけではありませんでした。南部氏から「為信の所業は私闘を禁ずる秀吉の命令(惣無事令)に違反する」との訴えが出され、一時、危うい立場になったといわれています。しかし、為信は、ここで持ち前の政治力を十分に発揮し、豊臣秀次や石田三成、近衛前久たちと親交を結び、秀吉へのとりなしを依頼し、遂に南部氏のクレームは却下され、津軽の領有が認められたのです。このように、為信はじめ、歴代の津軽家藩主にとっては秀吉は正に「大恩人」だったわけで、弘前城の守り神として、秀吉の木像を祀ってきたわけも分かるような気がします。それにしても、徳川幕府が豊臣家の痕跡を消そうと躍起となっていた時代に、ひっそりとはいえ、秀吉を祀ってきた歴代の藩主には感心させられます。豪胆というか、頑固というか、律儀というか。。。
なお、本領安堵の際、為信を援護してくれた中心人物は石田三成であり、為信は、特に三成に恩義を感じていたといわれます。関ヶ原の戦いでは、為信と信枚は東軍、嫡男の信健は西軍につきましたが、為信親子は三成の次男である重成を保護したり、三女の辰姫を信枚の妻に迎えたりしています。特に、この辰姫はその後の津軽家とは切っても切れない縁になるのですが、そのことについては、津軽家の菩提寺である長勝寺(弘前市西茂森)を訪ねて、簡単にレポートしてみたいと思います。
さて、この津軽為信霊屋の中は、ふだんは非公開になっていて、その中を見ることはできませんでしたが、お寺の中にちょっとしたギャラリーがあって、そこに秀吉の木像などの写真が飾られていました。住職さんに撮影の許可をお願いし、撮影してきました。この革秀寺は、周りの池に見事な蓮の花が咲き誇ることでも有名です。ギャラリーの中には、参観者が写した蓮の花の写真や、小学生の蓮の絵が展示されていて、心が和みました。
☆津軽統一までのあゆみ☆
⇩革秀寺境内散策!
⇩津軽為信霊屋!





を訪ねてきました。のどかな田園の風景を眺めながら、自宅から車をとばして50分、城跡の入口に着きました。ここからは道がとても狭いので、近くの農家の方の庭先にとめさせてもらいたいと思い、お願いしたら「えよ(いいですよ)。」という返事、端っこの方にとめて車を降りようとしたら、「したらだはじっこでねぐ、まながさとめへじゃ(もっと真ん中にとめてもいいよ)。」と言ってくれました。ありがたかったです。
細い道を城跡に向かって歩いていくと、妙龍寺

というお寺があります。この寺が城址内に建てられたのは、寛文年間(1661年~73年) とされ、江戸時代に菅江真澄が、飯詰の里を訪ねた時、寺に立ち寄り、 「右のかた岨(そば)の中に七面の堂ありと杜(もり)に ほくゑきゃう(法華経)よむ声」

と詠んだといわれています。
さて、この飯詰城は、高楯城とも呼ばれ、浪岡北畠氏の家臣だった朝日氏の居城でした。標高約60mの丘陵に築かれたこの城は、津軽平野内陸部と十三湊を結ぶ交通の要所であったといわれています。津軽為信が、天正6年(1578年)、浪岡城を攻略し、主君の北畠氏が滅んだ後、城主の朝日行安は、その後10年間も抵抗を続けましたが、遂に1588年、力尽きて城に火をかけ、主従300余名は自刃しました。この飯詰城の落城を以って、津軽為信の17年に渡る津軽統一事業は完成したのです。正に反為信派の”最後の砦”だったのですね。
当時、西郭・主郭・東郭という3つの郭で構成されていたこの城は、その間が堀切で区画され、その周囲は、切り立った崖になっており、なかなか攻めにくい城だったと思われます。そのためか、為信は、城を包囲した後、城内に通じる水脈を絶つ作戦にでました。たちまち城内は深刻な水不足に陥り、ついに落城したといわれています。この飯詰城の落城にあたっては、次のような伝説が残されています。
- 水が不足した城内で、わざと包囲している大浦勢から見える場所で馬を白米で洗い、いかにもに水があるように見せかけたという伝説や、近くの川に鎧を投じて逃れようとしたが力尽き、主従が自害して果てたという伝説(「鎧留」の名が残っているそうです)-必死の抵抗の様子が偲ばれますね。 こうして飯詰城は落城したわけですが、毎年落城の日が近づくと城の周囲に怪異な事が起きたといわれています(日照りや長雨などの天候不順が続いたり、鎧武者たちの亡霊が現れたり・・・)。朝日一族の祟りと噂されていたそうです。なお、西郭には、天守を模した高楯城史料館「あすなろの家」が建てられていますが、私が訪ねた時は開いていませんでした。
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⇩飯詰城を訪ねて!




(1)なぜ安土に城が築かれたのか?(2)安土城はどんな城だったのか(外郭、内部の構造など)?(3)なぜ焼失したのか(誰がどんな理由で燃やしたのか)?
安土に信長が新城を築いた理由としては、①安土は、東西の陸路が通り、交差する交通の要所であったこと。②琵琶湖や瀬戸内、大阪からの水路の便が良い地であったこと。③故郷の尾張から近かったこと。 ④京の都(京都)から近かったこと。などが挙げられています。信長は他の武将のように、ひとつの城に固執せず、清州、小牧山、岐阜と、居城を移していますが、そんな信長にとって、安土は「天下布武」を目指す上で、ぴったりの地だったのではないでしょうか。特に「京に近かったこと」は大きな意味をもっていると思います。当時の信長は、自身の官位の件、天皇の後継者の件、暦の問題などで、朝廷と対立していました。そんな朝廷との駆け引きの上でも安土は便利だったと思います(つかず離れず、近いけれども京の内ではない、かといって遠くもなく、事あればすぐに囲める、睨みをきかせられる、という絶妙の距離)。朝廷にとっては、喉元を抑えられた感じだったかも知れませんね。
安土城の様子については、近年の発掘調査の結果、多くのことが分かってきています。五層七階、我が国初めてといわれる天守閣(安土は天主閣と呼ぶ)をもつ豪華絢爛な大城郭だったと伝えられています。以前、NHKスペシャル『信長の夢「安土城」発掘』という番組の中で、各階の造りがCGで詳しく紹介されていました。番組を見て、びっくりさせられたのは、中に「吹き抜け」の空間があったということです。斬新な造りの反面、火をつけられたらひとたまりもないこの「吹き抜け構造」については、映画『火天の城』でも取り上げられていました。また、城郭の中に御所の清涼殿を模した建物があったらしいということ。これは、安土に天皇を迎えるための「御幸の間」だといわれています。ただ、この御幸の間は、天守閣から見下ろす位置にあり、そのことからも信長の朝廷に対する意思が伺えるとされています。こうした造りが本当だったとすれば、安土城は、戦いに備えた「軍事施設」というよりも、信長の「権威の象徴」としての役目を負わされた城、といえるのではないでしょうか。
作家の井沢元彦さんは、『逆説の日本史ー10戦国覇王編・天下布武と信長の謎』(小学館)の中で、安土城は信長の思想を表現した城であり、後に新城を大坂に築くつもりであった、と述べています。信長がそう考えていたという記録はありませんが、その後、秀吉が大阪城を築いたのは信長のアイデアを基にしたものだといわれています。秀吉にとって信長はいろんな意味で「師匠」だったのですね。当時、大坂の中心部には石山本願寺があり、信長と激しく敵対していましたが、戦いの背景にはそんな理由(本願寺の地がほしかった)もあったのでしょうか。
さて、この安土城が「なぜ焼失したか」について、一般的には「信長の次男信雄は、愚かだったので父親の名城に火をかけた」という説や、明智光秀の娘婿の秀満(明智左馬之助光春)が放火したという説が取り上げられているようです。二人とも、山崎の合戦後、相次いで安土城に入城しているので、そう思われてきたのでしょう。しかし、信雄については、何といっても息子であり、しかも長男の信忠が亡き後、安土の主におさまるのは、順序からいって信雄自身であることなどから、火をかける理由がないとされているし、一方、秀満は、主君光秀の山崎での敗戦が伝えられると、ただちに坂本城へ引き上げ、炎上した当日は安土にいなかったという事実や、坂本城が落城する際、城中の名品を灰にするのは忍びないといい、寄せ手側に引き渡したという行為からして、「そんな心配りのできる者が、天下の名城安土を焼くはずがない」と考えられているなど、二人の”放火”を否定する意見も数多くあります。要するに、炎上の真相は詳しく分かっていません。
この安土炎上について、工藤健策さんは、その著書『信長は本当に天才だったのか』(草思社)の中で、次のように述べています。ー「安土城は歴史上の建造物として現代では大きな意味をもつが、当時の武将にとって、金箔と朱で”キンキラ”に飾られた天主が名品としての価値をもっていたとは思えない。」- ”キンキラ”はともかく、天下統一が進んでいたとはいえ、まだまだ混乱期にあった当時の武将たちが、「城」に求めたものは「守るに適した堅固さ」だったと思います。そういう意味からすれば(そういう彼らの価値観からすれば)、安土城は、「異質な」城郭だったのではないでしょうか。ですから、誰が燃やしたにせよ、私たちが感じる”もったいない”という気持ちとは、少しかけ離れていたのかも知れません。
それにしても、琵琶湖の湖畔にそびえ立つ安土城の壮麗な姿を見てみたかったですね。残念ながら、私はまだ、安土城址を訪れたことはありません。「いつの日にか・・・」とは思っていますが。。。

