

「まんまんと眺めもあかぬ十三の潟 千年をここにまつ風の音」 ー 15番札所薄市観音堂のご詠歌です。「十三潟」は「十三湖」、かつてはこの観音堂のすぐ側まで湖が迫っていたことが分かります。
薄市集落のある中泊町は、旧中里町と旧小泊村が合併してできた町ですが、中里町は面積の60%が山林であるために、昔からヒバの生産量が多く、その多くは河川を利用して十三湖に運ばれた分けです。とりわけ、薄市川は河口が広く、最も良い川港だったといわれ、木材を運搬する千石船で賑わったとされています。
しかしながら、昔はこれといった交通機関がなかったために、この地域の人々は五所川原方面へ出かけるのにも、大変難儀をしました。夏場は馬車、冬は馬ぞりが主でしたが、「地吹雪」になった時は、たびたび交通が途絶したとか。。
そんな北津軽の地に、鉄道を通そうとする計画が持ち上がったのは昭和2年。湿地帯がたくさんあったために難工事が続きましたが、昭和5年に全線開通しました。現在の津軽鉄道 です。中里町から金木町(いずれも旧名)を経由して五所川原市までおよそ20㎞。金木町出身の作家、太宰治に因んだ「走れメロス号」が走るこの鉄道は、北海道「ちほく高原鉄道」が廃止された現在では、日本最北の民間経営による鉄道となっています。吉幾三の「♪津軽平野♪」の中にも出てくるストーブ列車でも有名ですね。ストーブ列車は、例年、12月初めから3月いっぱいまで運行されていて、今ではすっかり津軽の冬の「風物詩」になりました。
観音堂探し。イヤー、探しました、探しました。迷いました、迷いました。同じ道を行ったり来たり。。案内板はあったのですが、民家に挟まれた奥に鳥居 があったので気づきませんでした。鳥居をくぐって、左側の参道 を上ると、こんな傾いた二の鳥居 ! ー 右側の地盤が沈下したのかな。それとも初めから? ー そんなことを思いつつ、三の鳥居 をくぐると、そこからは西国三十三観音様 が観音堂へ導いてくれました。
薄市観音堂の創建は元禄元年(1668年)。ひとつ先の今泉集落にある「千手観世音菩薩」を分祀したといわれています。寛延4年(1751年)以降は、15番札所として、たくさんの巡礼者が訪れたということです。
↓薄市観音堂 ※クリックすると拡大します。







観音堂付近には桜林があり、ちょっとした小公園になっています。下を見下ろすと青々とした水田。かつて、ここの辺りは「昆布掛(こんぶがけ)」と呼ばれ、十三湖から風によって運ばれてきた昆布を採って、干した場所であったことは、遠い昔のこと。。。
☆津軽三十三寺社巡り☆



この付近には、江戸時代以前から「観音山解脱院」と称する観音堂があったとされていますが、この地に「尾別観世音」が建立されたのは、慶安元年(1648年)のことでした。その後、14番札所として村人達の信仰を集めたこの観音堂も、明治になると神明宮 となり、本尊である「千手観世音菩薩」は、弘前市の最勝院 ヘ移されてしまいました。「廃堂」となってしまったこの観音堂が「弘誓寺観音堂」として復活を遂げた陰には、ある一人の僧とそれを支えた村民達の物語がありました。
明治34年のことです。山梨県から一人の青年僧が尾別の村を訪れました。名前は海野戒淳。戒淳は、全国を行脚し、各地の観音像3,300体を描こうという志を持っていました。地元の造り酒屋を宿とし、ここに住み着いた戒淳は、観音堂の話を聞き、最勝院から観音像を返してもらい、仮堂を建てて祀りました。その後、地元民と一体となって観音堂の再建を図った分けですが、やがて日露戦争に召集されたため、尾別を去ることになります。しかし、戒淳の意志を継いだ村人達は、再建運動を粘り強く進め、明治43年、遂に観音堂は再建されたということです。
昭和4年、「円海」と改名した戒淳は再び尾別を訪れ、寺院の創建を目指しますが、叶わず、また尾別を去ります。3回目の尾別入りは昭和19年のことでした。尾別に永住する決意を固めた戒淳は、昭和28年、遂に念願であった寺院の建立を成し遂げます。天台宗の総本山から贈られた山号・寺号は「解脱院弘誓寺」。それに因んで「弘誓寺観音堂」と呼ばれることになった分けです。
~※以上『津軽三十三霊場ー北方新社』を参考にしました。~
ー それにしても、明治、大正、昭和に渡る半世紀50年、寺院建立に情熱を傾けた戒淳。。その生き方には感心させられます。 ー
さて、県道沿いにあるこの観音堂、村社「神明宮」の鳥居をくぐると、左手に小高い丘があり、そこから石段が真っ直ぐに延びています。「○○○不動産」の案内板もしっかりと立っていて、そこが参道だということが分かります。急な石段を半分くらい上ると、右側に分かれ道がありました。道の途中には、西国三十三観音の石像が建てられています。この石像は、戒淳が残した画像をもとにしてつくられたとされています。村人の戒淳に対する感謝の気持ちの表れでしょうか。
参道を巡り、再び石段を上り切ると観音堂が見えます。松の根が縦横に走っていて、うっかりすると躓きそうです。辺りの景色のせいでしょうか、とても「明るい」感じのするお堂です。本堂の中にも大きな窓があり、お日様の光が差し込んでいました。正面には、お参りの「心得」が貼られているなど、地域の方々の心遣いが感じられました。
↓弘誓寺参道と観音堂 ※クリックすると拡大します。














帰り道、石段から下を見ると、津軽の田園風景 が広がっていました。戒淳もこのような景色を見ていたのだと思います。当時は、十三湖も、すぐそばに広がっていたのかも知れません。
☆津軽三十三寺社巡り☆




以前、鬼を祀っている弘前市の「鬼神社」についてお伝えしましたが、祀らないまでも鳥居などに「鬼」を掲げている所は30ヶ所以上 もあるということ。。
どうして「鬼」なのか?なぜ、津軽地方の岩木川流域に集中して在るのか? ー とても不思議です。「悪霊を追い払う魔除けのため」「豊作祈願のため」など、いろいろ説かれているようですが、この津軽地方独特の神社信仰、いずれ、「鬼ッコ」がある神社等を訪ねて、その由来などを調べてみたいと思います。
さて、この川倉芦野堂、神社境内の中にあるとはいっても、ここはここで「独立」しているような感じを受けます。黒門から通じるお堂は、小さいながらも何か凜とした気品がある。 ー そんな雰囲気です。先の太宰治の言葉を借りれば「ちょっと気どった」という感じかな。。
ここは、弘前藩3代藩主津軽信義が、津軽統一の戦いで斃れた者達や、新田開発事業で亡くなった農民を供養するために選んだ霊場のひとつ。「聖観世音菩薩」を本尊として、堂宇が創建されたのは、寛文8年(1668年)のことでした。
やはり、ここにも明治の神仏分離令をめぐって、政府側と住民達とのいさかいがありました。住民は、なかなか聖観音像を役人に渡そうとはせず、何人かで手分けして持ち歩いていたのですが、そのうち、とうとう観音様は行方不明になってしまいました。今でも、所在は分からないとのこと。。。
やがて昭和になり、観音様を新たに安置し、観音堂を再建しようとする話が持ち上がり、地元の大地主を中心にして、現在の場所にお堂が建てられた分けです。新本尊は、弘前市の仏師作、長勝寺の住職達によって、納めの儀式が盛大に行われたとのことです。なお、芦野堂の「芦」は、芦野湖(芦野公園)にちなんだものとされています。
↓川倉芦野堂 ※クリックすると拡大します。







ところで、寺社巡りをしていると、多くの巨木や老木に出会います。ここにも、樹齢250年以上、幹回り4.5mという大きなケヤキの木 がありました。「巨木さがし」も今後の楽しみのひとつになりました。
↓今まで出会った巨木たち






☆津軽三十三寺社巡り☆



↓展示されている土偶 ※クリックすると拡大します。







さて、縄文時代晩期(3,000~2,300年前)を代表するこの遺跡は、津軽藩の2代目藩主津軽信枚が1622年、この地に亀ヶ岡城を築こうとした際に発見されたといわれています(ただし、縄文館の説明資料では、亀ヶ岡城はここから少し離れた場所で、遺跡発見の直接のきっかけではないとしています)。結局、幕府の「一国一城令」のために、造りかけの城は廃城となったわけですが、出土した多くの土器などは「亀ヶ岡物」と呼ばれ珍重され、中にはオランダにまで売られた物もあったようです。また、勝手に持ち去られた土器は10,000個にも及ぶとか。。。
現在、東京国立博物館に保管されている「遮光器土偶」は、明治20年(1887年)に発見されたものですが、極端に強調されている目が、エスキモーの一族が着用する「遮光器」を連想させるために、この名がつけられた分けです。その多くは手足等が欠けた状態で見つかるために、何らかの呪術の道具だったのではないかとか、姿形が宇宙服にも見えることから、宇宙人をかたどったものではないか、などといろいろ言われていますね。

ー そんな分けで記憶に残っているのです。 ー
この三郡誌及びその類書の内容は、今から思うと荒唐無稽な話ばかりです(ご存知の方も多いと思うので詳細は略します)。反面、各市町村の「村おこし、町おこし」に与えた影響も大きく、そういう意味では、規模は違いますが、あの「旧石器ねつ造事件」と似ています。刊行された当初から、偽書ではないか?と指摘されていた分けですが、様々な調査の結果、現在では「偽書説」が定着しています。この三郡誌をめぐる一連の「事件」を丁寧に追いかけた本が、斉藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件ー新人物文庫ー』です。東奥日報社(東奥日報社は青森県の新聞社)の一記者が、徐々に”真相”に迫っていく過程がとても面白く、偽書騒動に関わった人々や自治体の様子などを様々な角度から描いています。この本については、ネット上でも多くの方々が書評を述べておられます。
この本の中に、次のようなことが書かれています。
「・・・そんな物に頼らなくても(偽書などつくらなくても)、古代東北にはこんな立派な文化(青森県でいえば、亀ヶ岡、三内丸山、是川、垂柳などの遺跡)があったんだ。それで充分じゃないか。」 ー まったくその通りです。 ー




先回の下相野観音堂から、旧木造町方面へおよそ6㎞。月夜見神社 の境内の中に12番札所蓮川観音堂があります。境内の中を進むと、こじんまりとした拝殿 が見えてきます。手ぬぐいでほおかむりをした狛犬 の姿が、何ともユーモラスです。拝殿の中 には「馬」を描いた絵馬(文字通り絵馬ですね)も奉納されていますが、ここ旧木造町は、明治時代から「馬の競り市」が開かれ、東北三大馬市に数えられたほどの賑わいをみせたところです。新田開発の大きな「力」だった馬。。そんな馬への感謝をこめて、つがる市となった現在でも、毎年8月下旬に「馬市まつり」が行われています。夜、馬ねぶた に火を放ち、馬の霊を見送る儀式は圧巻だとか。。 (※馬ねぶたの画像は東奥日報社の生活情報誌からお借りしました。)
さて、この神社の祭神は「月夜見尊(ツクヨミノミコト)」。黄泉の国から帰ったイザナギが、禊ぎをして生んだ(左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオ)三貴神の一人ですが、月(夜)の神様ということもあってか、他の二神のような華々しい活躍は記紀の中でも語られておらず、どちらかというとおとなしい神様なようです。 ー そんなツクヨミの姿に倣ったのか、観音堂 は境内の端に遠慮がちに建っていました。
この蓮川観音堂は、天和2年(1682年)に集落の村人の手により創建されたと伝えられています。本尊は「聖観世音菩薩」。当時、この辺り一帯は荒れ地同然だった分けですが、新田の開発が進むにつれ、急速に信者の数を増やし、社務所も「五間屋敷」と呼ばれるほど広大であったといわれています。三十三霊場に加えられ、12番札所となったのは、寛延年間(1746~51年)のことでした。
しかし、昭和32年、集落の外れから出火した大火により、月夜見神社も「五間屋敷」も焼け落ちてしまいました。ところが、この観音堂だけは火の粉を免れ、無事だったのです。それを目の当たりにした地域の人々はますます観音信仰を深めていったということです。 ー そんな村人の観音様に対する崇敬の念の現れでしょうか?お堂の周りには、33観音の石像が立てられています。 ーお堂を守っているかのように-。。
↓蓮川観音堂 ※クリックすると拡大します。







参拝を終えた帰り道、見つけました。あの「○○○不動産」の札所説明板です。何か、これを探すことが楽しみのひとつになってしまったような(笑)。。。
☆津軽三十三寺社巡り☆



この観音堂のある「つがる市」は、周辺の木造町、森田村、柏村、稲垣村、車力村の1町4村が合併して誕生した市です。市のHPは、まちの概要を次のように紹介しています。 「ここつがる市はその昔、一面不毛の湿地帯だったこの地を新田開拓のためにと先人たちが悪条件やさまざまな障害に立ち向かいたゆまぬ努力を注いで開拓した地です。(中略)・・・七里長浜に美しく続く屏風山防風林風景。これも先人たちが、日本海からの強い偏西風と大砂丘から飛ぶ砂塵から新田を守るため、実に200年以上にわたって続けた植林事業の成果です。」 ー この文章からも分かるように、この辺り一帯は大規模な新田開発がなされた所で、「○○新田」と呼ばれた土地がたくさんありました。「木造新田」もそのひとつです。
新田開発が盛んに行われたのは、弘前藩3代藩主津軽信義の時代からで、続く4代藩主信政の治世当時(元禄時代)の実高は30万石にも達したといわれています。しかしながら、そんな表向きの繁栄の陰には、地元農民の大変な苦労があった分けで、弥三郎節は6番で「六つあぇ~無理な親衆に使われで~十の指こから血こ流す~」と歌っています。弥三郎節は、一農家の嫁と姑との確執を歌った民謡ですが、そこには、当時の貧しかった生活に対する農民達の思いが反映されているような気がします。
さて、この下相野地区の開発の先立ちとなったのは、越前の国からの移住者であった盛作右衛門という人物で、村人を指揮し、大がかりな開田を進める一方、自宅の庭に観音堂を建てました。延宝3年(1675年)のこととされています。本尊は木像の「如意輪観世音菩薩」。現在の下相野観音堂です。この観音堂、小さいながらも人々の信仰をあつめ、寛延年間(1748~51年)には、11番札所となっていました。明治の廃仏毀釈の際に、高城八幡宮となった分けですが、観音像の没収には地元民が猛烈に反対したそうです。結局、身代わりの木像を拠出し、本物は集落内に隠しておいたとか。。。観音堂巡りをしていると、こういう話がとても多いことに驚かされます。
↓下相野観音堂 ※クリックすると拡大します。







拝殿の中には、地元の人々が奉納した絵馬がたくさん掲げられていました。新年の幸を祈るもの、交通安全祈願など、見ていて楽しいものばかりでした。こういうものを見ると、あらためて地域とこの観音堂との結びつきの強さを感じます。
もちろん、本尊である如意輪観音様 も、しっかりと掲げられていました。
☆津軽三十三寺社巡り☆



北前航路の要港であったこの深浦の観音様は「澗口観音(まぐちかんのん)~”澗”は港の意、港の入り口にあって航海安全・商売繁盛を守護する観音様~」と呼ばれ、船乗り達の信仰の対象でした。航海中、嵐に遭った船乗りたちは自分の髷(まげ)を切り落とし、一心不乱に安全を神仏に祈願したとされます。そうして助かった後、切り落とした髷をここに奉納していった分けです。寺宝館にはそれを伝える「髷額」や「船絵馬」がたくさん奉納されており、それらは国の重要有形民俗文化財に指定されています。
また、境内には「竜灯杉」と呼ばれる高さ30m程の大杉がありますが、海が荒れたとき、船乗り達が祈ると、この杉から光が放たれ、船を無事に港まで導いたとされています。灯台の役目をしていたのですね。この霊木「竜灯杉」には紅白の綱が張られていて、祈りながらそれを引くとパワーをもらえるとか。。
山門には、京都の吉田源之丞大仏師が、宝歴9年(1759年)から約10年がかりで造り上げたとされる阿吽(あうん)の仁王像。天井には竜神。見つめていると気が引き締まります。 ↓クリックで拡大します。







境内には、たくさんの寺宝がありますが、中でも薬師堂 にある厨子は、室町時代初期から中期の作といわれ、青森県最古の木造建造物であり、国の重要文化財に指定されている貴重なものです。
先ほどの竜灯杉の紅白の綱もそうですが、叩くと「金」の音がして小金持ちになるといわれる鐘石(しょうせき) や、そばに立っているほほえみ観音 、すましたお顔の童地蔵などを見ていると、気持ちが和みます。
私が本堂 を訪れたのは、ちょうど「お講」が始まるときでした。多くの方々が本堂の中に座っていました。やがて、朗々とした読経が始まると皆さんいっしょに唱和していました。見ていると厳かな気持ちになりました。
⇒円覚寺本堂スライド
この円覚寺は、檀家を持たないお寺ながらも、古くから津軽家歴代藩主や船乗り達、そして地域の信仰厚い人々によって、守られてきたお寺です。休みの日は家族連れの方々で賑わうということです。
☆津軽三十三寺社巡り☆




津軽三十三霊場巡礼の旅、ひとつの区切りとなる10番札所が、ここ西津軽郡深浦町にある円覚寺です。深浦町は日本海側の天然の良港として栄えてきた町です。
ところで、「日本海(側)」と「太平洋(側)」を比べると、太平洋が「明・陽」とすれば日本海は「暗・陰」といった感じで語られることが多い気がします。気候条件の違いも大きいとは思いますが、出雲のオオクニヌシの国譲りとか、義経の逃避行(安宅の関)など、もの哀しい話が数多く日本海側に残っていることが、そんなイメージをもたせているのだと思います。芭蕉も『奥の細道』の中で「・・松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し・・」と書き分けていますし、松本清張の『ゼロの焦点』にも日本海の厳しく暗鬱な風景が描かれていました。
しかしながら、古くは縄文時代から明治の初期にかけて、日本海側の地域こそ、経済や文化の中心であった分けです。わが青森県の三内丸山遺跡は、縄文時代を代表する遺跡ですが、そこからは、大陸や北海道、北陸地方との交流を物語る「証」がたくさん見つかっています。また、出雲地方や「越国」と呼ばれた北陸地方の日本海沿岸には、古代に強大な王権が存在したことを思わせる遺跡が数多くあることなどを考えると、大陸との玄関口である北九州から津軽にかけて、日本海を中心にした交易や技術・文化の交流が頻繁に行われていたことが分かります。あの戦国時代の英雄である上杉謙信も日本海ルートを活用して、京の都などとの交易を盛んにし、莫大な富を築いたといわれています。謙信は”義”の人、戦の天才といわれていますが、その強さはこの「経済力」に負うところが大きかった分けです。
さて、深浦の港 もまた古くから交易の拠点だったわけですが、最も賑わいをみせたのは北前船 の時代です。私は、円覚寺のすぐ前にある風待ち館 に入ってみることにしました。この館は北前船に関する資料等を展示しています。深浦港は「風待ちの港」とも呼ばれ、嵐をさけ、航海に良き風が吹くまで船を停泊させる絶好の場所だったといわれています。館の脇には北前船を模した大きな模型?がありました。その名も深浦丸! 。。記念写真のスポットになっているようです。
館の中で特に目を引くのは、やはり「深浦丸」。江戸時代後期に活躍した北前船(700石積)の3分の1の復元模型です。 ※下の画像をクリックすると拡大します。







また、館の中には北前船が立ち寄った主な港 の図も展示されており、当時の海運の盛んな様子が偲ばれます。
北前船の往来は、寄港先の副業を生みだし、その土地でつくられた陶器や衣類 などが盛んに売買されたといわれています。一方、文化の伝播役としての役割も大きく、展示されている金色に輝く仏壇 などは、そのことをよく表しています。
しかし、私たちが考える以上に当時の航海技術は優れていたとはいえ、相手は荒海「日本海」。航海の無事を祈り、奉納された船絵馬 や、石の重り を見ると、航海の大変さが伝わってきます。
円覚寺は津軽三十三霊場であるとともに、そんな「海の安全」を祈願する寺院でもあります。次回は、そんな円覚寺の境内の様子などについて述べてみたいと思います。
☆津軽三十三寺社巡り☆




この見入山観音堂は、康永3年(1344年)の創建とされています。江戸時代には、円覚寺(10番札所)が山伏達の修験場に充てていたとのことです。そんな縁もあり、ここの納経所は円覚寺にあります。大正11年に観音堂は全焼しましたが、地域の強い願いにより、ほどなく再建され、現在に至っています。本尊は「如意輪観世音菩薩」。本堂の中 に白衣観音、地蔵菩薩とともに祀られています。
観音堂からの下りは、上りより大変でした。手すりにつかまって、滑らないよう注意しながら一歩一歩ゆっくり降りました。けっきょく、持ってきた登山用のストックはあまり役に立たなかったような。。。無事に上り下りできたのは、道中の3つの観音様のおかげだったかな。。
⇒見入山観音堂スライド
☆津軽三十三寺社巡り☆





鰺ヶ沢町といえば、最近では映画「わさお」の舞台として脚光を浴びましたが、そのロケ地のひとつが、ここ種里城址です。津軽三十三霊場8番札所「日照田観音堂」から、少しの距離ということもあり、寄り道することにしました。
さて、大浦光信が築いたこの種里城は津軽藩発祥の地 であり、中世を代表する城郭であったといわれています。現在も発掘調査が続けられており、その様子は先月の新聞記事 にも大きく取り上げられていました。現在ここは、史跡公園『光信公の館』として整備されていますが、史跡案内板 を見ると当時の城郭の広大さが分かります。弘前市禅林街にある長勝寺 も元々はこの地にあった分けです。
城址碑 を見ながら石段を上ると、間もなく光信公の館 が見えてきます。ここには、光信公の事績や津軽家ゆかりの資料などが展示されていますが、残念ながら内部の撮影は禁止されていました。現在は週末(金、土、日)のみの開館ということです。敷地には、津軽家の紋章「津軽牡丹」に因んで、500本の牡丹が植えられており、牡丹が花を咲かせる5月~6月中旬には「ぼたん祭り」が開催され、大いに賑わいます。館の前には、采配を手にしたりりしい光信公の銅像 が立てられています。聞いた話では、生まれ故郷の久慈(岩手県)方面を見つめているとか。。。付近には、本丸跡 や、津軽家ゆかりの皇族の方々による「手植えの樹」 もありました。そこから少し下った所に、廟所 があります。光信は、敵が攻めてきても「にらみ」をきかせられるように「剣や甲冑をつけたまま葬ってくれ。」と遺言したそうで、遺言通り埋葬したところ、廟所には雑草が一本も生えないとか。。光信の威厳を物語る話ですね。
⇒種里城址※クリックで拡大します。












大浦光信が、ここ種里城を居城としたのは延徳3年(1491年)頃のことといわれています。津軽一帯は、安東氏によって統治されていましたが、やがて南部氏によって北海道に追いやられます。しかしながら、津軽奪還を図る安東氏は、たびたび、この地に侵攻を企てたため、南部氏は光信をこの地に置き、安東氏への押さえとした分けです。光信は軍事力を高める一方、民政もよくし、田畑を拓き、住民の暮らしに豊かさをもたらしたといわれています。その後、津軽統一をめざし、南部氏と対立した光信ですが、大永6年(1526年)に亡くなります。光信の悲願であった津軽統一は、やがて為信によって成し遂げられるのです。
☆津軽統一までのあゆみ☆




黒石→弘前→鰺ヶ沢と「津軽路」をたどると、町並みが途切れたところには、必ず道路の両側にりんご畑と田んぼが広がっています。小高い丘はりんご畑に、平地は田んぼに・・・という感じです。中には「こんな高いところにも・・・。こんな狭いところにも・・・。」と思ってしまうほど、あらゆる場所に青々とした稲穂が見えます。こういう風景を見ていると、「津軽の人々の生活や文化を支えてきたのは”米”。」という思いを強くします。もちろん、津軽のみならず、日本の地方のほとんどはそうだと思いますが。。。 8番札所日照田(ひでりだ)観音堂も、そんな田園地帯の中にありました。
ところで、観音様は相手に応じて33の姿になって功徳を施すとされていますが、ここ日照田観音堂の本尊は十一面観音菩薩です。ここの観音様はエネルギッシュで庶民的な観音様で、田植えや稲刈りのときは、たくましい若者の姿で現れ農作業を手伝ったといいます。観音様が手伝うと10日かかる作業が5日で終わったとされ、古くから農民に篤く信仰されてきたとか。。ですが、この言い伝え、裏を返せば「観音様=神様の手助けを必要とするくらい、この地域での稲作りは大変な仕事だった。」ということを表しているのだと思います。同じ津軽地方でも現在の黒石市、弘前市、平川市など、肥沃な土地に恵まれた所とは違って、山裾がすぐ間近に迫っているこの地域は、どちらかというと「やせた土地」だったのではないでしょうか。しかも、海が近いということもあり、潮風の影響もまともに受けたことでしょう。そんな条件の中で、苦心しながら土地を切り開き、水を引き、水田をつくっていった農民達のあしあとが、このような観音様の話になっていったのだと思います。観音堂の創建は坂上田村麻呂だとされていますが、開田が進むにつれ観音信仰は高まり、万治2年(1659年)に住民の手によって堂宇が建立されたという話や、廃仏毀釈のときも十一面観音像は、神官がしっかりと隠し持っていたという話からも、稲作と観音信仰との密接なつながりがうかがえます。 ー「日照田」という土地の名前にも、豊作に対する農民の強い期待が込められているような感じがしますね。根拠のないただの思いつきですが。。
鰺ヶ沢の町を深浦方面に進み、赤石川にそって車を走らせると、まもなく大きな石造りの鳥居 が見えてきます。そこからは、およそ100mあまり参道ならぬ農道が一直線に延びていました。行き着いた先には赤い鳥居 が立っていて、すぐそばにある聖観音様 が優しく出迎えてくれます。拝殿までは急な石段 を登ります。上を見上げると先客がいて、私を見ていました。どうやら、石段の幅が狭いので、私が登り切るのを待っていてくれたようです。お礼を言うと「ちゃんと、あし(足)、あがってらでば。」と言い、にっこり笑ってくれました。「よくがんばってのぼりましたね。」という意味です。こういう一声はうれしいものです。
参拝を済ませ、拝殿 や本殿の周りを見て回った後、石段を降り、ここの名物であり、鰺ヶ沢町の指定文化財でもある大イチョウ の木を見ました。幹回り8m以上という巨木です。このイチョウの葉っぱが全て落ちると根雪(春まで溶けない雪)になるといわれています。また、その大きな乳根 にさわると乳の出がよくなるとされており、ご婦人の参拝客も絶えないとか。。。
帰り道、私は、辺り一面の稲穂が黄金色に染まる秋には、今とはちがう別の風景が広がっているのかな・・。と思いつつ車を走らせました。
☆津軽三十三寺社巡り☆



さて、観音堂は天和2年(1689年)に庄屋であった惣兵衛という人物が創建したといわれています。その後、寛永年間(1784年~)からは第7番札所として大いに賑わいました。それについて『津軽三十三霊場ー北方新社』は、次のように記しています。~「鯵ケ沢港が間近い鳴沢地区は、昔上方と蝦夷地を結ぶ津軽の門戸として、江戸時代には駅逓として栄えていた。そのころの札所巡りの善男善女も、山深い鯵ケ沢街道を抜け、鳴沢にたどり着くと明るい海を見つけ、ほっとひと息ついたろう。」~ このように民衆に親しまれた観音堂も、明治になるといったん廃社になり、高倉神社となりました。地元住民の厚い願いにより、高倉神社内にお堂が再建されたのは昭和41年(1966年)のことでした。弘前市の久渡寺から、聖観音菩薩像を譲り受け、お堂は「弘誓閣」と名付けられたのです。
七番札所案内板 にしたがって坂道を上ると高倉神社の鳥居 が見えてきます。くぐった参道付近 には、以前、小学校があったということです。子ども達が歓声を上げて元気に走り回っていた姿が目に浮かびます。拝殿 の隣に観音堂 はありました。聖観音弘誓閣 の文字が鮮やかです。
この観音堂の前には大きなイチョウの木 がありますが、かつては、この木のそばに清水がコンコンと湧き出ていました。この清水は万病に効いたとされ(目の悪い人が清水で目を洗えば治る・・・といった)、津軽地方のみならず、南部地方や遠くは北海道からも水を汲みに訪れた人々も多かったといわれています。残念ながら今は枯れ果てており、その面影はありません。しかし、このお堂の前には、地域の人々によって奉納された手水岩 があり、往時を偲ばせてくれます。
参拝の帰りに何気なく草むらを見たら、その陰に何やら白いもの が見えたので、何だろうと思い草をかき分けてみると、あの○○○不動産と書かれた七番札所 の看板でした(確か5番厳鬼山神社と6番湯舟観音堂にはなかったような?)。看板には「七番北浮田大悲堂」の文字・・・。いろいろ名称を変えながらも、地域の人々はしっかりとこのお堂を守ってきたのですね。。
☆津軽三十三寺社巡り☆




津軽三十三寺社巡り、今回からは西津軽郡鰺ヶ沢町に入ります。鰺ヶ沢町には札所が3つありますが、いずれも「高倉神社」と呼ばれています。なお、鰺ヶ沢には同名の神社がたくさんあり、どうしてこの地に高倉神社が集中して在るのか、とても興味のあることですが、あまり深入りしないことにします(知識が追いついていけません)。今回訪れたのは6番札所である湯舟(ゆぶね)観音堂です。この観音堂にはとてもおもしろい話が伝えられています。
→「昔、ここに鬼神太夫という刀鍛治がおり、その刀の威力で村人を悩ましていた鬼を退治した。また、鉄の鋤や鍬をつくって農民に与え、農業を発展させた。村人は、鬼神太夫に深く感謝し、観世音菩薩として祀った。」
→「刀鍛冶の娘に岩木山に住む大蛇が恋をし、若者に化けて鍛冶の家に弟子入りした。腕前が上がったので、鍛冶はこの若者に娘をやり家督を継がせようと、一夜のうちに十腰(本)の刀を鍛えれば娘をやる。と約束した。若者は大蛇の姿に戻り、懸命に刀を打ち、十腰の刀を鍛えた。しかし、その姿(大蛇)を見てしまった鍛冶は、刀を一腰隠してしまった。夜が明けて、十腰に足らぬことを知った若者(大蛇)は、「とこしない!とこしない!(刀が十腰ない)」と叫びながら弘前方面に立ち去った。(先回紹介した)「厳鬼山神社」のある「十腰内」という地名は、そこから起こったといわれている。」 ※以上、~『津軽三十三霊場』北方新社~他を参考にしました。※
さて、十腰内の「内(ナイ)」をはじめ、青森には「ナイ」のつく地名がいくつかありますが、「ナイ」はアイヌ語で「小さな川=沢」を意味します。「沢」は製鉄に適した場所。古代から、鉄を扱う工人達が岩木山麓の「沢」に住みつき、製鉄を行っていた・・・。村人にしてみれば、山奥で顔を真っ赤にしながら「タタラを踏んでいる」彼らは、まさしく「鬼」に見えたのかも知れません。しかし、次第に、豊かな実りをもたらす鉄の農具をつくるその鬼達を崇拝していった・・・。農具ばかりではなく、彼らがつくる武器は、坂上田村麻呂をはじめとする東征軍を恐れさせ、ますます「鬼」は神格化されていった・・・。~この辺りにある「鉄」と「鬼」の伝説の背景には、そんな歴史が隠されているのではないでしょうか?
実際、岩木山の山麓一帯では膨大な量の鉄滓(てっさい)が出土しており、製鉄事業の中心地であったことが分かっています。特に、この観音堂のある湯舟地域の杢沢(もくさわ)遺跡からは、タタラ(砂鉄を原料にして鉄をつくり出すための製鉄炉)が大量に発見されています。ここ湯舟観音堂には、そんな伝説の「証」として、聖観音菩薩の他に、鉄をつくるときに出る鉱滓(こうさい・こうし)も本尊として祀ってあります。
5番札所の厳鬼山神社から鰺ヶ沢方面に向かって約8㎞。大きな表示板の通りに進むと観音堂が見えてきます。一の鳥居からは真っ直ぐに参道 が延びていて、その石段を登り詰めた所に拝殿 があります。拝殿の中 には、いかにも海の町「鰺ヶ沢」を示すように北前船 を思わせる絵馬が掲げられていました。古代、この地に製鉄を広めた工人達は、このような船に乗って日本海を渡り、鰺ヶ沢の港に上陸したのでしょうか・・・・。絵馬のそばには、本尊である聖観音菩薩 を描いた額も奉納されていました。
帰りに、石段の上から下を見下ろすと、「沢」から延びた平地いっぱいに水田 が広がっていました。
☆津軽三十三寺社巡り☆



さて、由緒書き によると、この神社は、坂上田村麿が蝦夷征伐の際、岩木山頂上の奥宮に高照比売命を祀り、その後、大山祇命とともに、この地に配祀されたことが始まりとされています。また、ある日岩木山から「鬼」が降りてきて、荒れ地を耕したり、用水を引いたりして、豊かな実りをこの地にもたらしたとされ、そのことを村人たちは、非常に喜び、鬼に感謝するため「鬼神社」を建立し、村の名前も「鬼沢」としたという伝説が残されています。
雨、雨。。傘をさしながら参道を歩きました。本殿までは4つの鳥居をくぐります。実はこの参道、ちょっと変わっていて、「逆U字形」に延びています。つまり、反時計回りにぐるっと巡らないと拝殿まで行けないというわけです(斜め横断もできますが)。「鬼神」様は、私たちに背中を向けているということですね。一の鳥居がある民家や街道側を向いているのではなく、裏の田んぼ側を向いています。自分が(鬼が)耕した田んぼの実り具合が気になるのでしょうか?それとも、祀るとみせかけて、実は鬼の霊が外に出て祟りをなさないよう、封じ込めているのでしょうか?・・・勝手な想像が膨らみます。
規模は小さいながらも、神社の参道や境内には興味深いものが多くあります。例えば、「鬼」の角(´)がない一の鳥居の扁額 や、しめ縄の上に米俵が乗っている二の鳥居 、最後の鳥居 の「卍」のマークなど。境内には、ぷっくりとした狛犬ならぬ狛魚? もありました。そして拝殿の屋根の上には鬼 !!! しかし、一番は何といっても拝殿に掲げられている鬼の草履 や、鬼が使った農耕具 でしょう。こんなものを見ていると、境内の脇に生えているふきの葉っぱ までが巨大に見えてくるから不思議です。
⇒鬼神社スライド
私は以前、「桃太郎」のモデルといわれる「吉備津彦」が、人々を苦しめてきた鬼人の「温羅(ウラ)」を退治したという伝説を扱ったTV番組を見たことがあります。ところが、地元では、温羅は悪人(鬼)どころか、この地方に農業の発展をもたらした神として長い間崇められていた・・・という内容の番組でした。私は、この鬼神社の「鬼」の話は、温羅の話と似通っていると思います。
大和朝廷が、全国に勢力を伸ばしていったことの象徴がヤマトタケルだとすれば、平安初期の東北平定の象徴は坂上田村麻呂だと思います。平定に従わない者(まつろわない者)は「蝦夷」と呼ばれ、蔑まれたとされますが、各地の先住民にしてみれば、田村麻呂軍は「簒奪者」であり、当然、激しい戦いを繰り広げたはずです。その頑強に抵抗した者達が「鬼」とも呼ばれたのではないでしょうか。この神社に「鬼」を祀るのは、そういった一方的な権力の押しつけに対する民衆のささやかな抵抗(反骨心の表れ)でもあると思います。
そういえば明治時代に廃仏毀釈の流れで、仏像などの多くは破棄されましたが、中には人々の手で、こっそりと匿われた観音様も多く、やがてそれが観音信仰の復活につながっていったとのことです。「鬼」の話と似ていますね。
☆津軽三十三寺社巡り☆



私は、神社全体をカメラに収めた後、境内に入りました。一の鳥居をくぐった所に手水舎があります。湧き水を利用しているということで、わざわざここに、水を汲みに来る人も多いということです。杉林に囲まれた参道は、シーンと静まりかえり、”神域”という感じがします。二、三、四と鳥居をくぐると拝殿が見えてきます。私はまず、拝殿の奥にある本殿を見ました。残念ながら、中までは見れませんでしたが、この本殿は県重宝に指定されています。また、拝殿の左手には龍神様も祀られていました。
↓ ※クリックすると拡大します。









しかしながら、何といっても圧巻は拝殿脇にそびえ立つ2本の大杉 です。説明板 やその他の資料によると、この大杉、樹齢は1000年以上、高さは、それぞれ43mと42m、幹周りは9.96mと8.95mということで、正に”天を衝く”といった感じです。江戸時代にここを訪れた菅江真澄も、この巨木を見て驚嘆したとか。。。この大杉をひと目見たくて、ここを訪れる参拝客もたくさんいるということです。”神木”として扱われているのでしょうか、2本の杉の根本には小さな祠 も建てられていました。
⇒厳鬼山神社大杉スライド
最後に私は、拝殿を詣で、参拝することにしました。拝殿は開いていたので中に入ってみました。ふと、左側を見ると、たくさんの絵馬に混じって、大きな鬼の面が奉納されていました。先回お伝えしたように、「卍」の力で退治した鬼を畏れ敬っているのでしょうか。。。ところで、ここに奉納されている絵馬には、上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いや、加藤清正の虎退治など、日本史の名場面を描いたものもあり、大変おもしろかったです。
十一面観世音菩薩像は、正面に安置されていました。観音様に手を合わせた私は、もう一度、大杉を見上げながら、参道を戻りました。
↓ ※クリックすると拡大します。











☆津軽三十三寺社巡り☆




津軽三十三寺社巡りの旅、今回は、5番札所である厳鬼山(がんきさん)神社 です。6番札所「湯舟観音(高倉神社)」は鰺ヶ沢町にあるので、霊場巡りは、ここでいったん弘前市から離れることになります。
ところで、津軽の霊山といえば、何といっても岩木山ですが、岩木山の信仰について地元の郷土史家は、次のように述べています。
~「津軽の人の視線は幾百万となく岩木山に結びついているのです。それだから、眼をつむっても、三つの山形をした姿がちゃんとまぶたに浮かびますし、何時でも、津軽の人は共通の岩木山の山の姿が書けるし、そのことは心の中に自然に鎮座しているといってよいでしょう。(以下略)小館衷三『岩木山信仰史』ー北方新社~ 全くその通りで、私も小学校の頃、図工の時間に題材が思い浮かばないときは、岩木山の「三つの山形」をよく描きました。それだけで何となく”絵”になりそうな感じがしたからです。
岩木山は独立峰ではありますが、中央が「岩木山」左に「鳥海山」右側に「厳鬼山」という、3つの峰 から成り立っています。津軽の人々は昔から、中央の岩木山を「阿弥陀如来」、鳥海山を「薬師如来」、そして厳鬼山を「観世音菩薩」に見立てて、三位一体として信仰してきました。例えば、長勝寺「蒼竜窟」にある三尊仏厨子堂 の三尊は、この岩木山の姿を現したものだと伝えられています。
さて、現在、岩木山信仰の中心は岩木山神社ですが、元はここ巌鬼山神社だったのです。ここは、土地の名前から「十腰内(とこしない)観音堂」とよばれ、古くから信仰の対象でした。縁起によれば、昔、この辺りに悪鬼がおり、退治するために山神に祈ったところ、「「卍」の旗紋を用いよ」というお告げがあり、それを用いたら、たちまち鬼は退散したとか。。。そのことに感謝して、観音様を安置したお堂が建てられたとされています。卍(まんじ)は津軽家の旗印で、弘前市の市章にもなっています。この言い伝えからも分かるように、十腰内観音堂は、津軽家とはとても縁が深いお堂でした。津軽家との結びつきは古く、戦国時代に、津軽氏の祖といわれる大浦光信 が、当時、津軽地方を支配していた南部氏からの独立を意図して、ここで悲願成就を祈願したことが始まりとされています。
先回訪れた南貞院から鰺ヶ沢方面に向かって約11㎞。小さな案内板に従って、左側の小道を降りて道なりに進むと、厳鬼山神社が見えてきます。境内はとても広く、岩木山信仰の中心であったことを思わせます。次回は、津軽家とのその後の関係や、境内の様子などを中心に述べていきたいと思います。
☆津軽三十三寺社巡り☆



ところで、この高杉観音堂は、はじめからここ南貞院にあったのではなく、ここから少し離れた現在の「加茂神社」にありました。縁起によると、大同2年(807年)、坂上田村麻呂の子である花輪丸が、この地に観音堂を建てたとのこと(どこの地域でも同じかも知れませんが、青森には田村麻呂伝説が色濃く残っていて、寺社等の縁起には、必ずといっていいほど、田村麻呂の名が出てきます)。。。それはともかくとして、霊場参りで賑わったこの観音堂も明治維新の神仏分離令により「加茂神社」と改められ、祀られていた聖観音像(聖徳太子作とされる)は、取り上げられてしまいました。私は、まず、この加茂神社を訪ねてみることにしました。
南貞院から、300mあまり、民家と田んぼに囲まれた所に神社はあります。鳥居をくぐって、拝殿や本殿を見て歩きました。境内には、小さな土俵?があり、”奉納相撲大会”でも行っているのかな?と思いました。そういえば、この高杉街道付近には、相撲部のある小学校が多かったような気がします(今は分かりませんが)。。拝殿の近くに「正観音 稲荷宮」の石碑が立っており、それを見ると、確かにここが、観音堂だったことが分かります。なお、加茂神社は現在、この地域の「村社」になっています。
↓ 加茂神社※各画像をクリックすると拡大します。






加茂神社から引き返して、南貞院に向かいます。南貞院観音堂は、うっかりすると見過ごしてしまいそうな道ばたにあります。民家に囲まれた狭い境内にポツンと建っています。南貞院の山号は「紫雲山」といい、延宝年間(1673年~81年)に弘前市西福寺の南貞和尚が、ここから少し離れた所に創建したとされています。いったん姿を消した「高杉観音堂」ですが、大正時代にここに移遷され、地域住民の根強い観音信仰は続いていました。新たに4番札所となったのは、昭和42年のことです。
小さな観音堂ではありますが、ここを訪れる人々は絶えず、遠くからも多くの人々がお参りにくるとのことでした。正に「地域の人々によって守られた観音堂」「地域の人々の心の支えになっている観音堂」 ー そんな気がしました。
↓ 南貞院観音堂※各画像をクリックすると拡大します。








☆津軽三十三寺社巡り☆



津軽信枚は、藩祖為信の3男でしたが、嫡男の信建と為信が相次いで死去したために、家督を継いだ人物です。しかし、すんなりと藩主の座に就いたわけではなく、慶長13年(1608年)、兄・信建の遺児・熊千代(大熊)を擁する家中一派と、信枚を擁立しようとする一派との家督を巡る争いが起こりました(※秀吉が、信長と信忠が本能寺の変で亡くなった後、清洲会議で、信忠の嫡男の三法師を織田家の跡継ぎに推した話と似ていますね)。このため、一時津軽氏は取り潰しの危機にさらされましたが、結局、幕府の裁定により、信枚の家督相続が認められました。この一連の事件を「津軽騒動」といいます。このあたりの流れについては、拙記事「津軽統一までのあゆみ」をご覧いただければ幸いです。ーグループ別記事としてまとめています。ー
さて、信枚は、津軽騒動の後、家内安泰と領民の人心統一を祈って、この地の森の中に穴を掘り「求聞持法(ぐもんじほう)」 という荒行を行いました。「自分の命が10年縮んでもよいと覚悟し、10本の指に傷をつけ血をささげるという、真言宗の最も厳しい荒行(『津軽三十三霊場ー北方新社』)」に努めた信枚は、寛永6年(1629年)、その場所に虚空蔵堂(求聞持堂)を建立し虚空蔵菩薩を安置しました。これが求聞寺の始まりと伝えられています。しかし、直ちに、寺院としての体裁が整えられ、三十三霊場のひとつとなった分けではありませんでした。それは、すぐ隣に「百沢寺」という大寺があったからです。
百沢寺は、為信、信枚など歴代藩主の厚い庇護を受け、藩政時代には真言宗五山の一つに数えられるほど隆盛を極めたお寺で、津軽三十三霊場のひとつでもありました。ところが、明治時代になり、「神仏分離令」により、廃寺となってしまい、多くの寺宝は散り散りになりました。この百沢寺が後に神社として独立し、現在の岩木山神社となった分けです。今、岩木山神社に残る華麗な建造物の多くは、百沢寺時代のものだといわれています。
こうして百沢寺が廃寺になったため、「津軽三十三観音霊場第三番札所」は、隣の求聞寺堂に継承されました。その後、「求聞寺堂」は、「求聞寺」として再建され、現在に至っています。ですから、岩木山神社と求聞寺は、一心同体とも呼べる密接なつながりがあることになります。さて、先回は、境内に至るまでを案内しましたが、今回は境内の中を紹介したいと思います。

境内の入口 に立つと、中が見渡せます。こじんまりとまとまっている感じです。左側には、弘前市で一番大きいといわれる釣鐘堂があります。有料で、何回かつけるそうですが、帰るときにつくのは「戻り鐘」といって、あまりよろしくないとか。。本堂の前には、牛と虎の狛犬?が踏ん張っていました。ここは、丑年と寅年の方の”一代様(自分の生れた年の干支を守り神とした信仰)”でもあるようです。そばには、真言宗のお寺らしく、弘法大師 の像もあり、津軽弘法大師霊場第九番の札所でもあるとか。。
本尊の虚空蔵菩薩が安置されている本堂には、津軽家の家紋「津軽牡丹」がありました。この本堂の向かい側に小堂(名前は分かりません)があり、中をのぞいてみると、そこには神馬と絵馬
が奉納されていました。百沢寺時代に「父母の菩提を願う百沢寺 仏といわれ神といわれん」と、御詠歌に詠まれたとおり、神仏混合の流れを感じさせます。
さて、私は最後に観音堂を参拝しました。あまり大きくはないのですが、品のあるお堂でした。中には、この観音堂の本尊である聖観世音菩薩が安置されていました。
☆津軽三十三寺社巡り☆



さて、小僧さんの案内にしたがって、朱色の橋 を渡ると、右手に大きな観音様が見えてきます。実は、この辺り一帯は「蔵助沢」といい、以前(昭和50年)、大規模な土石流災害が起きた所です。当時の岩木町(現在は弘前市)では、犠牲者の冥福を祈り、土石流に流された住居付近に「示現堂」 を建立し、供養を行っているのです。
示現堂の観音様に手を合わせた後、少し坂道を上ると、また小僧さんが現れます。隣には三番札所 の案内板。久渡寺でも多賀神社でも目にしたおなじみのものです(”○○○不動産”の文字がちょっと気になりますが)。そこからは、舗装された坂道を少し上ります。すると、山門!と思いきや、石造りの鳥居が見えてきました。


鳥居の存在は、”神仏混合”という津軽三十三霊場の特色をあらわしているものだといえます。ここから、本堂へ向かって参道が延びています。実は、この参道にはちょっとした”しかけ”が施されているのです。それは、西国三十三所 に祀られている観音様の石像が、参道の右左に建てられ、私たちを本堂まで導いてくれる・・・ということです。津軽における観音信仰及び三十三霊場の成立について、『津軽三十三霊場』(北方新社)には、次のように記されています。
~江戸時代も50年を経た承応年間(1652―55年)は、天下も太平になじみ、街道往来も便利になっている。この時代、熱心な信者たちが観音信仰の頂点である「西国三十三所」に出掛けるのが大流行している。ここ津軽からもおびただしい巡礼者が西国を目指したといわれる。西国巡りは個人的にもあったが、ほとんど「観音講中」が費用を積み立てて、代表数人を送ることが多かった。この中には巡拝の各霊場から土を持ち帰る者もいて、津軽にある観音寺堂から三十三所を選んでこの土を埋め霊場とした。~
つまり、この求聞寺にある三十三の観音石像は、西国三十三所を訪れた方々が土砂を持ち帰り、遠い西国まで行けない足腰の弱い人のためにこの地に埋めた所に建てられたものだということです。鳥居をくぐると、そのことを記した石柱 と、聖観音石像 があり、私たちを本堂へと誘ってくれます。そして、33の石像の最後には、赤い唇をした十一面観音様 が、優しく出迎えてくれます。※下に33の観音様の石像をまとめてみました。 ご覧ください。
さて、この求聞寺は、岩木山神社のすぐ隣にあります。ただ”隣”だというだけではなく、歴史的にみても「一心同体」といってもいいでしょう。次回は、その歴史的な経緯や、お寺の境内の様子などについて述べたいと思います。
☆津軽三十三寺社巡り☆



多賀神社から、車で2分位で西目屋村に入ります。そこから5分位の場所にこの岩屋観音はあります。赤い鳥居をくぐり、さっそく参道を下りました。参道を上ったことは何回もありますが、”下る参道”というのは初めてです。木の階段を降り、右側に回り込むと岩木川の清流が見えます。手すりにつかまりながら、一歩一歩注意して進むと、岩窟の中に造られた朱色の本殿?が見えました。中に入って見ると、拝殿があり、上の岩からは清水が流れていました。何か「天の岩戸」を思わせるような感じでした。中には、観音様らしき仏像?(これが観音様なのかどうか、私には分かりませんでした)が祀られていました。
さて、この岩屋観音は、歴代の弘前藩主から手厚い庇護を受け(初代為信公が社殿を再建、2代信枚公は大鳥居を、3代信義公が石段を寄進しています。)、観音信仰の中心地となっていましたが、4代信政公のときに、現在の多賀神社の地に遷座されたといわれています。なぜ、移されたのか、その理由は詳しく分かっていませんが、どちらも岩壁に社殿が造られていること、岩窟から清水が湧き出ていることなど、霊場としての趣は似通っています。ともあれ、「千手観音」様は、その後、江戸時代を通してここ(多賀神社)に祀られることになります。しかしながら、本尊を失ったとはいえ、その後も、岩屋観音を参拝する人々は絶えず、それは現在でも続いており、津軽三十三霊場の”番外の札所”として、その名を知られています。
やがて明治の世になると、神仏分離令によって、多くの観音堂は、仏像排除を命じられます。「清水観音堂」が「多賀神社」となったのもこのときのことです。このとき、本尊である千手観音像は弘前市禅林街の桜庭山陽光院に引き取られました。千手観音様の2回目のお引っ越しです。なお、陽光院の山号「桜庭山」は、当時の給主(所領の管理を藩主から仰せつかった者)である桜庭氏にちなんだもので、桜庭氏は、はじめ、この辺りに陽光院を建てましたが、2代藩主信枚公のとき、禅林街に移されました。ともあれ、千手観音様は今、陽光院に安置されているということで、私は、帰りに訪れてみることにしました。
陽光院は、禅林街の中心である長勝寺のすぐ隣にあります。山門には「二番清水観世音桜庭山」の石標がしっかりと立っていました。境内を入った左側には、千手観音の石像もあり、行基上人の手による観音様は、今、このお寺に祀られていることを実感しました。
私が石像を眺めているときに、三人の男性の参拝者が訪れ、本堂に向かって一礼し、尺八の演奏を始めました。そのゆったりとした音色を聴いていると、何となく厳かな気持ちになりました。
☆津軽三十三寺社巡り☆




観音様は相手に応じて33種類のお姿に変化して現れ、我々を救うといわれます。津軽三十三観音霊場には、そのうち、千手観世音菩薩、十一面観世音菩薩、 馬頭観世音菩薩、 聖観世音菩薩、 如意輪観世音菩薩の5体の観音様のいずれかが祀られています。先回訪れた久渡寺には「聖観世音菩薩」が祀られていましたが、今回は「千手観世音菩薩」を祀る多賀神社 を訪ねます。多賀神社は「清水観音」とも呼ばれ、三十三霊場の2番札所になっています。
弘前市内からおよそ30分、世界自然遺産白神山地の表玄関、中津軽郡西目屋村に向かって車を走らせると、右側の小山の下に赤い鳥居 が見えてきます。そして目の前の「清水観世音」 と書かれた大きな看板の案内にしたがって、右折すると神社にたどり着きます。参道入口、一の鳥居の脇には、「二番札所」の看板が掛けられた「水舎」がありますが、これは、上の本殿にある湧き水をここまで引いてきているものです。この湧き水は「清水観音水」 と呼ばれ、青森県の名水のひとつに選ばれています。
二の鳥居をくぐりぬけると左手に、清水地蔵尊のお堂があり、中をのぞいてみると、かわいいお地蔵様が微笑んでいました。また、隣には「遥拝殿」もあり、上の本殿まで行けない人でも参拝できるようになっています。⇒清水地蔵尊と遥拝殿
ここから石段の参道を登り、本殿を目指します。そんなにきつい勾配ではなく、辺りに鳥の声を聞きながら、ゆっくり歩いて5分位で神門に至ります。この神門には、神馬が一対奉納されていますが、よく見ると、右側の馬は、左脚を挙げ、顔を手前(参拝者側)に向けていました。めずらしいですね。⇒参道・神門・神馬
さらに次の門までは、急な石段を登ります。弘前市指定文化財の石造狛犬が出迎えてくれました。⇒石段と石造狛犬
上を見上げると、本殿がどーんとそびえ立っていました。この本殿は、弘前藩4代藩主津軽信政公の時代に、京都の清水寺を範として建てられたもので、「清水観音」という名前の由来となっています。清水寺とまではいかないものの、急な岩場に築かれた舞台はなかなか堂々としています。⇒本殿(観音堂)
この本殿を右側に回り込むと、清水観音水があります。ここから下まで引いているのですね。ちょっとした洞窟になっていて、小さな祠もありました。⇒清水観音水
いよいよ、本殿に上り、参拝しました。さすがにここから下を見ると、その”高さ”が実感できます。本殿には東北復興を願って、明治天皇の御歌「しきしまの大和心のをゝしさはことある時ぞあらはれにける」の幟が立てられていました。 ⇒本殿参拝
ところで、この神社には初めから千手観音様が安置されていたわけではありません。また現在もここには安置されていないのです。推理小説の題みたいですが、「さまよえる観音様」といえばいいでしょうか。。。そのいきさつや、この神社の歴史等については、次回に述べたいと思います。
☆津軽三十三寺社巡り☆




津軽統一と弘前藩の成立に至る過程を追いかけてきましたが、今回からは、津軽一円の寺社を訪ね、ときどき寄り道しながら、感想などを綴っていきたいと思います。青森県には、津軽三十三霊場 と呼ばれる札所がありますが、そこをゆっくり時間をかけて巡り、郷土の歴史にふれてみたいと思います。
ところで、「三十三霊場」の「三十三」という数字は、どういう意味をもっているのでしょうか?三十三霊場、三十三回忌、三十三間堂、以前ご紹介した弘前市禅林街のお寺の数も「三十三」。。ずっと「何で三十三?」という疑問を持っていましたが、円覚寺(西津軽郡深浦町)のHPに分かりやすい説明がのっていました。以下はその抜粋です。~全国にある観音霊場は、一般には三十三観音霊場と言われます。なぜ三十三という数字が出てくるのかというと、観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品)というお経に、観音さまは相手に応じて33種類の姿に変化して現れることが書かれているからです。しかし、三十三種類の観音さま(三十三観音)すべてを安置している霊場は全国どこにもなく、三十三カ所(秩父は三十四カ所)の観音さまをお参りするのです。そのため、正確には三十三ヶ所観音霊場と呼ぶのが正しいのです~※因みに三十三の観音様の名前はこうなっています。 この津軽三十三観音霊場は、弘前藩3代藩主津軽信義が津軽統一の際の戦没者(武士・農民)を供養したことが始まりと言われています。信義公は、「暗君」だとか、「じょっぱり=がんこ」だとか、いろいろ言われてはいますが、そうとばかりはいえないようですね。。。いずれにしても、津軽における観音信仰は、3代藩主信義公から4代藩主信政公の時代にかけて盛んになったと思われます。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、今回は1番札所の久渡寺 を訪ねてきました。久渡寺(くどじ)は、山号を護国山と称する真言宗の寺院です。創建は延暦年間(782年~806年)、阿闍羅山(南津軽郡大鰐町)に建立されたのが始まりと伝えられています。その後、この地に移り、江戸時代には弘前藩主の祈願所として庇護されるなど、由緒あるお寺です。また、イタコの習俗や、オシラサマ講などの民間信仰が盛んなお寺で、円山応挙作と伝わる幽霊画があることでも有名です。因みにこの幽霊画、年1回の公開の日には必ず雨が降るとか・・・。
弘前の市街地を抜け、5㎞ほど車を走らせ、久渡寺の入口に着きました。【※以下(①~⑯)をクリックしながらご覧ください。※】

いよいよ聖観音堂にたどり着きました。後ろには奥の院が見えます(⑧、⑪)。観音堂の左側には、聖観世音菩薩が、すっくと立っていました(⑨、⑩)。このお姿を拝みたくて登ってきたわけです。観音堂の右側には、鶴亀延命堂(⑫)という建物がありますが、お寺なのになぜか手前には真っ赤な鳥居があります。「寺なのに神社?」と不思議な気がしますが、前述の円覚寺HPの説明には、~観音様は人々を救う為に、あるときは高徳の僧になったり、武将になったり、父や母などに姿を変えて功徳を施したといわれますが、ときには、「神」にも身を変じ「権現」と呼ばれて神社にも祀られました。観音様は神様同然と思い神社扱いされた観音堂も少なくなかったのです。この様な歴史的背景により、津軽の霊場は未だに「神仏同化」を色濃く残している特殊な霊場となっております。~と書かれてありました。なるほど。。。という感じです。
さて私は、たくさんの観音様の石像(⑬)を見ながら、国見台へ向かいました。ここからは弘前の街が一望できます(⑭、⑮)。ここは昔、津軽為信が、重臣とともに眼下に広がる平野を眺め、「ここを我がものにしよう。統一が成ったら、お前に半分つかわそう。」といい、津軽統一の決意を語った場所だといわれています。ところが、いざ自分の支配下に収めると、分け与えるのが口惜しくなったためか、その重臣を暗殺してしまいました。暗殺された人物の名は、森岡信元(もりおかのぶもと)といい、合戦では、たびたび為信の窮地を救った功臣でした。真偽はともかく、何とも悲惨な話ですね。。。私は、ここで少し休憩してから、石段を下りました。帰りには麓にある、「こどもの森ビジターセンター」(⑯)に立ち寄ってきました。こども向けの図鑑だとか、野外活動のパンフレットや資料などが展示されていました。「こどもの森」の活動は四季を通して行われているということです。
私は弘前市内の高校に入りましたが、その高校の恒例行事に「久渡寺マラソン」というのがありました。校門から久渡寺入口まで片道5㎞、往復10㎞を走るのです。ふらふらになりながら、やっとの思いで完走したことを覚えています。今回、久渡寺を訪ねて、そんなことを思い出しました。
☆津軽三十三寺社巡り☆

