

黒石→弘前→鰺ヶ沢と「津軽路」をたどると、町並みが途切れたところには、必ず道路の両側にりんご畑と田んぼが広がっています。小高い丘はりんご畑に、平地は田んぼに・・・という感じです。中には「こんな高いところにも・・・。こんな狭いところにも・・・。」と思ってしまうほど、あらゆる場所に青々とした稲穂が見えます。こういう風景を見ていると、「津軽の人々の生活や文化を支えてきたのは”米”。」という思いを強くします。もちろん、津軽のみならず、日本の地方のほとんどはそうだと思いますが。。。 8番札所日照田(ひでりだ)観音堂も、そんな田園地帯の中にありました。
ところで、観音様は相手に応じて33の姿になって功徳を施すとされていますが、ここ日照田観音堂の本尊は十一面観音菩薩です。ここの観音様はエネルギッシュで庶民的な観音様で、田植えや稲刈りのときは、たくましい若者の姿で現れ農作業を手伝ったといいます。観音様が手伝うと10日かかる作業が5日で終わったとされ、古くから農民に篤く信仰されてきたとか。。ですが、この言い伝え、裏を返せば「観音様=神様の手助けを必要とするくらい、この地域での稲作りは大変な仕事だった。」ということを表しているのだと思います。同じ津軽地方でも現在の黒石市、弘前市、平川市など、肥沃な土地に恵まれた所とは違って、山裾がすぐ間近に迫っているこの地域は、どちらかというと「やせた土地」だったのではないでしょうか。しかも、海が近いということもあり、潮風の影響もまともに受けたことでしょう。そんな条件の中で、苦心しながら土地を切り開き、水を引き、水田をつくっていった農民達のあしあとが、このような観音様の話になっていったのだと思います。観音堂の創建は坂上田村麻呂だとされていますが、開田が進むにつれ観音信仰は高まり、万治2年(1659年)に住民の手によって堂宇が建立されたという話や、廃仏毀釈のときも十一面観音像は、神官がしっかりと隠し持っていたという話からも、稲作と観音信仰との密接なつながりがうかがえます。 ー「日照田」という土地の名前にも、豊作に対する農民の強い期待が込められているような感じがしますね。根拠のないただの思いつきですが。。
鰺ヶ沢の町を深浦方面に進み、赤石川にそって車を走らせると、まもなく大きな石造りの鳥居 が見えてきます。そこからは、およそ100mあまり参道ならぬ農道が一直線に延びていました。行き着いた先には赤い鳥居 が立っていて、すぐそばにある聖観音様 が優しく出迎えてくれます。拝殿までは急な石段 を登ります。上を見上げると先客がいて、私を見ていました。どうやら、石段の幅が狭いので、私が登り切るのを待っていてくれたようです。お礼を言うと「ちゃんと、あし(足)、あがってらでば。」と言い、にっこり笑ってくれました。「よくがんばってのぼりましたね。」という意味です。こういう一声はうれしいものです。
参拝を済ませ、拝殿 や本殿の周りを見て回った後、石段を降り、ここの名物であり、鰺ヶ沢町の指定文化財でもある大イチョウ の木を見ました。幹回り8m以上という巨木です。このイチョウの葉っぱが全て落ちると根雪(春まで溶けない雪)になるといわれています。また、その大きな乳根 にさわると乳の出がよくなるとされており、ご婦人の参拝客も絶えないとか。。。
帰り道、私は、辺り一面の稲穂が黄金色に染まる秋には、今とはちがう別の風景が広がっているのかな・・。と思いつつ車を走らせました。
☆津軽三十三寺社巡り☆

