
入口のドアを開けると、床にも足跡。 これは、ここで見つかった同一人物と思われる歩行経路 を模しているようで、そのまま展示室へと続いています。
入口の側には、実際のものをそのまま切り取ったガラス張りの水田跡 が置かれており、自由に歩くこともできます。弥生人と自分の足の大きさを比べてみるのも面白いですね。子ども達にも大変人気があるようです。
このように、遙か2,000年以上も前の水田跡、弥生人の足跡、その他の貴重な遺物が、当時のままの状態でそのまま残ったのは、過去に八甲田山の噴火があり、山麓に降り積もったたくさんの噴石物が、雨によって川に集められ、洪水となって遺跡を襲ったためであるといわれています。垂柳遺跡は、洪水による土砂などで、そのまま「真空パック」された状態で埋もれた遺跡だった分けです。 ー 規模も原因も異なりますが、あの「ポンペイ遺跡」と似ていますね。 ー ⇒垂柳土層
展示室は大きく2つに分かれていて、第1展示室では発見された弥生田と畦をそのままの状態で見ることができます。周りを歩いてみると、当時の様子がよく分かります。また、大小様々な足跡は、大人も子どもも総出で稲作りに励んでいたことを伺わせます。
↓水田跡・弥生人の足跡 ※クリックで拡大します。









※下の左の画像は、出土した田舎館式土器などの写真のミニギャラリーです。クリックで拡大します。
2つ目の展示室には、弥生時代中期に稲作が行われていた「証」となった「籾殻付きの土器」をはじめ、古代の炭化米、農耕具、石器類、そして女性が身につけていたと思われる装飾品などが置かれていました。 ーそれにしても土器にぴったりと張り付いた古代米 。発見される日を待っていたのでしょうか。。
どこか縄文時代の名残がみられる壺、甕、鉢、高坏などの大小様々な土器は、「田舎館式土器」と名づけられています。その形や、平行線を特徴とする文様を見ると、この時代の人々の文化水準の高さが感じられます。
ここ垂柳遺跡では、明治時代の頃から、たくさんの土器がみつかっていて、昭和30年代には、弥生時代土器とともに炭のように黒く焼けこげた米も発見されていました。しかし、それはここで作られたものではなく、もっと南の地方で作られたものが運ばれてきたものと考えられていました。ただ一人、東北大学の伊東信雄先生だけは、この地で紛れもなく水田が作られた証であるという説を唱えていましたが、長い間認められませんでした。
その後、昭和50年代半ばにバイパス計画が持ち上がり、事前に発掘調査が行われ、調査の結果、弥生時代中期の水田跡が発見され、間違いなく津軽平野で当時、稲作農耕が行われていたことが明らかにされたのです。まさに、画期的な発見でした。
この「和製シュリーマン」ともいえる伊藤先生は、発掘調査報告書の序文でに次のように述べています。
~ 津軽地方にこのような整然たる水田が弥生時代に営まれていたことをいままで誰れが想像したであろうか。私は早くから津軽平野で稲作が行われていたことを主張していたのであるから、稲作の場である水田の存在したことは当然考えていたのであるが、それにしても初期の水田は自然の低湿地にバラ播した程度のもので、このような畦畔や水口、水路を有する相当発達した水田が存在していようとは夢にも思わなかった。私は発掘された垂柳の水田跡を見て、東北北部の弥生時代の稲作農耕技術がすでに相当高いレベルにあったことを感ぜざるを得なかった。だいいち北緯40度を超える高緯度の地で、いまから2000年も前から水田による稲作農耕を行っていた処は東北北部以外には世界にその例がないのである。青森県は耐冷性品種のイネが育成された現在でも冷害による凶作に悩まされる年の多い処である。文献的には古代のこの地方は、蝦夷の住んでいたところで、蝦夷は農耕を知らない狩猟採集民であったと言われていた。それが実際には相当発達した稲作技術を持ってコメを作っていたことが、垂柳水田の発掘によって明らかになったのである。これは日本古代史研究上の革命的な発見である。~ (「垂柳遺跡発掘調査」青森県教育委員会 昭和60年3月より)
☆つがるみち☆



第2「田んぼアート」の会場、道の駅「弥生の里」には子ども向けの遊具施設も多くあるため、休日には家族連れで賑わうところです。そういったこともあり、ここで開催されている「田んぼアート」の図柄はウルトラマン、そしてバルタン星人。子ども達が喜びそうな題材です。見学場所に上って下を見ると飛び出してきそうなウルトラマンや、愛嬌のあるバルタン星人の姿が見えます。側には、田んぼアート駅 も開設されていました。 ー このイベント、力が入っています。 ー
↓田んぼアート第2会場 ※クリックで拡大します。








※左の画像はクリックで拡大します。







さて、田んぼアートを見た後、駅の踏切を越えて舗装された道を進みます。この道のマンホールにも田舎館式土器 が描かれていました。弥生一色という感じです。
道なりに進んで行くと、間もなく水田が目の前に広がってきます。青々とした稲穂に混じって、ところどころに色鮮やかな小さな田んぼ。。これは、地元の小学生が体験学習の一環として、古代米を植えているのです。秋の収穫時には、弥生人さながら貫頭衣を着た子ども達が稲刈りをします。子ども達の「弥生田」のそばには、大きな案山子 が何本も立てられています。表情がとてもユーモラスで、思わず笑ってしまいます。これも子ども達の手によるものなのでしょうか。 ー 地域に根ざしたこの体験学習、ずっと続いてほしいものです。 ー
小学生の田んぼの前には、「垂柳遺跡」と記された石碑と、ここが「国指定の史跡」であることを示した説明板が立っていました。この遺跡が国の指定を受けたのは、平成12年のことでした。遺跡全体の広さは約4,000㎡。その中から656面の水田跡が発見されました。水田の広さは4㎡~22㎡、平均で8㎡といわれています。
現代の水田と比べると とても小規模なこの弥生田ですが、まとまって600以上見つかったことには驚かされます。今、この遺跡付近は、村から土地が貸し出され、希望する農家の方々が、思い思いに「小さな弥生田」 づくりに取り組んでいます。そういうわけで、周りは大小さまざまな田んぼ。。正に「米づくりの村」ですね。
ー次回へ続きます。ー
☆つがるみち☆



この駅の前に、「田舎館米発祥の地」という標柱と説明板 が立てられています。ここ田舎館村から、日本最北の弥生時代の水田跡が発見されたことを記しているものです。「東北地方北部に弥生時代はなかった」と言われていた「常識」をくつがえし、弥生時代中期(約2,100年前)、東北でも水耕稲作が行われていたことを明らかにしたのは「垂柳(たれやなぎ)遺跡」の発見でした。
ー田舎館村は、そんな北方稲作文化の歴史を伝える「米づくり」の村です。ー 私はまず、恒例となった「田んぼアート」が開催されている田舎館村役場を訪ねました。
※左の画像はクリックで拡大します。







ところで、この田舎館村役場、「お城」です。戦国時代、この地は南部氏の支配下にあり、千徳氏が治めていました。やがて津軽氏との抗争に敗れ、田舎館城は落城しますが、千徳氏は最後まで南部氏への忠義を貫き、悲壮な戦いを挑んだといわれています。そんな歴史を踏まえて、この役場は建てられた分けです。
(※拙記事「田舎館城」をご覧ください。)
さて、「田んぼアート」について、田舎館村のパンフレットには次のように書かれています。
~「田んぼアート」のはじまりは、平成5年からはじまった「お米」にこだわったイベント「稲作体験ツアー」でした。弥生時代からの北方稲作文化を今に伝えるために、昔ながらの手作業で田植えから稲刈りまで行うイベントで、米づくりの楽しさ、農業のおもしろさをより多くの人に知ってもらうために、色の違う稲を使って稲文字を描いたのがきっかけとなって、年々図柄は細かく芸術性も高くなり、いつしか注目を集め「田んぼアート」と呼ばれるようになっていきました。~
今日では、重要な観光資源となり、例年10~20万人ほどの観光客が訪れています。私が訪れたときも、次々にバスから降りてくる人々で賑わっていました。
「天守閣?」までエレベーターで上がると、巨大なアートが下に見えます。毎年、異なったテーマ(図柄)で創作されているこのアート、今年は「花魁とハリウッドスター」でした。華やかで貫禄のある花魁が左、道路を挟んだ右側には、あのマリリン・モンローの有名な映画シーンが描かれていました。辺りの建物と比べてみると、その大きさが実感できます。見学客達もしきりに感嘆の声を上げていました。
この色鮮やかな「芸術」の主役は古代米。アートの足もとにはそのサンプルが植えられていました。⇒古代米
さて、田んぼアートは会場が2つあって、ここ役場が第1会場。第2会場は、国道沿いの道の駅「弥生の里」にあります。そして、その近辺が垂柳遺跡です。
ー 次回は遺跡を訪ね、歴史博物館へ立ち寄ってみたいと思います。ー
☆つがるみち☆



参道の入口には、三十三霊場を示す石標 が立っています。石標には、ご詠歌が刻まれ、かわいい「馬のミニチュア?」 が置かれていました。進んだ先には、手ぬぐいで頬被りをした馬の石像。 参拝用の杖が何本も立てかけられていて、「ここから本番だぞ。」と語りかけているようです。鳥居をくぐると、長い参道 が延々と続いていました。参道の勾配はゆるやかで舗装もされていますが、何せ「先が見えない」ので、ここでも頼りは順番に立てられている三十三観音像です。
ところどころ視界が開けている場所があり、下には温湯の町並み が広がっていました。「もうだいぶ来たのかな?」と思いきや、そこから左回り 、そして右回り 。登りはまだまだ続きます。
途中、顔が3つある観音像 を見つけました。馬頭観音像は、その多くが「三面」であり、他の観音像が柔和な顔をしているのに対して、「憤怒」の形相をしているといわれています。この観音像も「憤怒」とはいえないまでも、少し厳しい表情。これが馬頭観音かな。。⇒弘前求聞寺の馬頭観音像。
もう少し行くと、休憩所 があります。しかし、縄が張られており、これ自体が祀られている感じだったので、畏れ多くて腰かけて休む気にはなれませんでした。がんばってもうひと登り。ようやく神社 が見えました。汗びっしょり。。
※左の画像はクリックで拡大します。







袋観音堂(白山姫神社)の境内は、「観音平」と呼ばれる富岡山の中腹にあります。朝方少し雨がふったせいでしょうか、木々の緑がとても鮮やかです。正面には拝殿。「白山姫神社」の文字は、とても特徴のある字体で描かれていました。辺りは物音ひとつしない静けさです。
拝殿の後ろには本殿。横にはいくつかの末社が建てられており、それらを守るように、三十三観音石像が周りに立てられています。
しかし、ここは何といっても「馬」に対する信仰が厚いところ。狛犬といっしょに、きれいに着飾った馬の石像や、拝殿のわきに掲げられている絵馬をみると、そのことがよく分かります。参道にあったものとは別の「馬」そのものが描かれた「馬頭観音像」 もありました。
袋観音堂が、このように馬を神聖視しているのは、ここが「午年生まれの一代様」になっているからです。
「一代様」とは、自分の生れた年の干支を守り神とした信仰のことで、初詣はもちろん、結婚、出産、受験、就職等の人生の節目において、自分の守り神にお参りする習慣を指します。この「守り神(本尊)」の信仰は日本各地にみられ、個人的にお参りする例は多くありますが、津軽の場合、「○○年生まれの人は○○神社・寺へ」という風に、地域全体で、お参りの寺社が定められているのです(絶対にそうしなければならないということではありませんが)。このような信仰は、ここ津軽地方(それも限られた地域のみ)独特のものであるといわれています。
実は、津軽三十三霊場の中にも、この「津軽一代様」を兼ねている寺社があります。子年が清水観音堂(多賀神社) 、丑・寅年が求聞寺、そして午年がここ白山姫神社という分けです。図らずも、3つの「一代様」を巡ったことになりました。
☆津軽三十三寺社巡り☆



昔、坂上田村麻呂が「勢至菩薩」を「袋」に入れ、大木の枝にかけて武運長久を祈願し、御堂を創建したとされるこの観音堂。ご詠歌は「いまの世は弓矢 袋におさまりて 民のかまどはにぎわいにけり」。「弓矢袋に」の言葉通り、ここもまた戦国時代の争乱の影響を受けたところでした。
戦国期、津軽地方一帯を支配していたのは南部氏。ここの観音堂は文明年間(1469~87年)に南部光政が「田村袋の観音様」として再建したと伝えられています。その後、南部氏は、浅瀬石城に千徳氏を住まわせ、黒石一帯を支配していましたが、やがて、大浦(津軽)為信によって、浅瀬石城は落城したために、観音堂も廃れてしまったとされています。(※拙記事浅瀬石城をご覧ください。)
「弓矢が袋におさまって(戦乱の時代が過ぎ去って)」 、袋地区の住民が自力で再興したのは寛永4年(1627年)のことでした。本尊は弘法大師作とされる「勢至菩薩」、あるいは「千手観世音菩薩」ともいわれていますが、うち続く戦乱のためでしょうか、両方とも失われ、現在では「馬頭観世音菩薩」が安置されています。







※左の画像はクリックすると拡大します。
「白山姫神社」と刻まれた2つの鳥居をくぐったところが参道の入口にあたります。南部氏によって再建された当時は、ここに観音堂があったといわれています。入口付近には、奉納された「馬」の石標が建てられています。ここ「袋の観音様」は、午年生まれの「一代様」として広く知られているところです。そういうこともあり、境内の中や参道には、「馬」の石像がたくさん見られます。
ここにも巨木がありました。「袋の大イチョウ」と呼ばれるこの老木は、樹齢が400~500年、幹回りがおよそ5.7m、高さ27mといわれ、辺りからも一目でそれと分かります。どっしりと根をはったその姿は、まさに「神木」といえます。因みに、ここ袋観音堂の集印所は先回ご紹介した「薬師寺」です。薬師寺には石割楓の大木、ここには大イチョウ、両方に「巨木」があることでもつながっています。
この大イチョウの周りを囲むように、三十三観音像が建てられていますが、2番~4番までは探せたのですが、なかなか1番が見当たりません。何分かうろうろしたあげく、やっと見つけました。場所は鳥居のすぐそば。。コスモスの花 に包まれて、遠慮がちに立っていました。
大イチョウの背後には、富岡山の中腹に向かって参道 が伸びていました。 ー 次回へ続きます。 ー
☆津軽三十三寺社巡り☆



ここは昔は「鶴の湯」と呼ばれていたといいます。「・・脛を矢で傷つけられた鶴がこの地に舞い降り、沢水につかったところ、ほどなく傷は癒えて飛び立って行った。それを見た村人が湧き湯があることを知り、鶴に感謝した。」という伝承に基づくものです。そのことを裏づけるように、現在でも「鶴泉」という地名が残されています。
さて、ここ温湯には花山院忠長 に関する伝説がいくつか残されています。忠長は、将来を嘱望された公達でしたが、スキャンダルを起こし、後陽成天皇の逆鱗にふれ、北海道松前に配流された人です。松前の後、津軽に配流されたのは慶長19年(1614年)頃のことといわれています。
◇伝説その1・・忠長が湯に入り、「少々温いな。」と言ったのが「温湯(ぬるゆ)」
の地名になった。
◇伝説その2・・忠長が浅瀬石川を渡ろうとしたとき、橋がなくて困っていると、サケ
が背を並べて橋になった。※因幡の白ウサギの話みたいですね。
◇伝説その3・・釣りが好きだった忠長は、川に魚が少なくなると望みの魚の名前を書
いて川に流した。この「魚手形」を見た竜宮様は、海からたくさんの
魚を川に上らせた。
ー 忠長の境遇を憐れみ、これに同情した津軽の人々が創り上げた伝説です。 ー
しかし、この忠長、ほんとに釣り好きだったようで、以前、新聞に彼が残したと思われる釣り竿の記事 が載ったこともありました。
そんな忠長が堂宇を建立し、薬師如来を安置したという伝承をもつお寺が、温湯薬師寺です。延宝7年(1679年)、温湯を訪れた僧侶宗運(南宗)が開基したとされる黄檗宗のこのお寺は、天和3年(1683年)に、黒石2代領主津軽信敏により「宝厳山法眼寺」と命名されました。その後、元禄4年(1691年)に、黒石市内の山形町に移されることになります(先回、お伝えした三十三霊場26番札所「法眼寺」です)。跡には薬師堂が残され、監寺が置かれていましたが、享保9年(1724年)、弘前5代藩主津軽信寿により「瑠璃山薬師寺」の寺号を授けられ、今日に至っています。信寿が寺号を授けたのは、ここの由緒もさることながら、境内の見事な紅葉に感動したからだとか。。
このお寺の境内には、大きな岩がありますが、その岩を割り、その上にまたがる形で、根を大きく広げた楓の樹が生えています。薬師寺名物のこの楓の樹は、その様が岩手県盛岡市の「石割桜」に似ていることから「石割楓」と呼ばれ、黒石市天然記念物の指定を受けています。樹齢は400~500年、高さ11.8m、幹周り6.1mのこの大樹は、
見る者に「自然の生命力の強さ」を感じさせてくれます。
↓本堂・薬師堂・石割楓 ※クリックで拡大します。








帰り道、境内の入口で松尾芭蕉の句碑を見つけました。
「山中や 菊は手折らじ 湯の匂ひ」 芭蕉が「奥の細道」の旅で、山中温泉を訪れたときの句です。芭蕉は、ここでゆっくり温泉につかり、景色を楽しみ、薬師堂にも詣でたといわれています。 ー 「温泉」「薬師」は、ここ温湯にも通じることから、この句が置かれているのでしょう。
それにしても芭蕉さん、象潟からもう一歩北へ向かって、津軽にも来てほしかった。。
☆つがるみち☆



青森県にも八甲田山をはじめ、いくつか「けんかした山」の話が残されていますが、黒石市の黒森山(606m) もそのひとつです。けんかの相手はもちろん岩木山。
「・・大昔、黒森山は今よりも高い山だった。ある時、西の岩木山と高さ比べをしてけんかになった。黒森山は刀を投げつけ、岩木山の左肩を切り落とした。怒った岩木山が投げた刀は黒森山の頭に当たり、首が落ちてしまった。それ以来、黒森山は低い坊主山になってしまった。」
確かに岩木山をよく見ると、左肩(向かって右)の厳鬼山は、右肩の鳥海山に比べて若干低く、少しえぐれているように見えます。ー 黒森山が投げた刀のせいだという分けです。⇒岩木山
因みに、弘前市長勝寺にある三尊像は、岩木山の3つの峰を三尊になぞらえたものですが、つくられた当初、厳鬼山にあたる観世音菩薩像は、岩木山の姿形そのままに、少し低い位置に置かれていたとか。。⇒三尊像
さて、黒森山は、お椀を伏せたような「坊主頭」の山ですが、近くに高い山がないこともあり、市内からもよく見えます。この山の麓に浄仙寺という名刹があります。
浄仙寺は、文政7年(1824年)、是空(ぜくう)という行者が黒森山に入り、ここを終生の修行の地と定め、開山したのが始まりとされています。当初は浄仙庵と号していましたが、明治8年(1875年)、浄仙寺となりました。是空は修行のかたわら、ここに寺子屋を設けたため、近在の若者が教えを受けに集まりました。後に「黒森学校」と呼ばれたこの学校は大正2年まで続いたといわれています。現在、周辺には野営場や青少年の森、スキー場などがある他、境内には郷土が生んだ文人たちの文学碑 が立てられており、文学の森 と称されています。ー 市民の「憩いの森」といったところですね。
山門 までは、車で来ることもできますが、駐車場の側には「如意輪観音石像」が立っていて、下の方を見ると観音像が間をおいて立っています。観音像はここが18番。そのまま境内に続いて立てられており、一番高い場所に33番「十一面観音像」がありました。参道の案内役はここでも三十三観音様のようです。 ⇒浄仙寺観音像
苔むした石段を登って山門の前に立つと、巨大な草鞋 にびっくりさせられます。後ろにはこれまた大きな仁王像 。仁王様の強い足腰(健脚)や丈夫な体にあやかろうと、大きな草鞋を編んで奉納する信仰がここにも見られました。ー 横着せずに(車なんかで来ないで)、歩いて登って来い!ということかな。。
門をくぐって、境内の中に足を踏み入れると見事な景観が広がります。明治40年の建立(昭和41年再建)とされる本堂や釣鐘堂ほか、各堂宇が四方に建てられており、古木が境内全体を包んでいます。自然の地形を利用した築山、巧みに配置された自然石、辺りをめぐる池、草花。。境内というよりも「庭園」のような趣です。私も、ゆっくり時間をかけて散策しました。
↓浄仙寺境内 ※クリックで拡大します。










☆つがるみち☆



昔から行われていた「盆踊り」が今日のように盛んになったのは、藩政時代、黒石藩の家老であった境形右衛門という人が、城下町に人を集める対策として力をいれたからだといわれています。いつの時代にも「まちおこしの名人」はいるものですね。因みに「よされ」は「世去れ」で、「貧困や凶作の世は去れ!」という願いの表れだとか(他にも諸説様々)。。 ー 津軽三十三霊場26番札所法眼寺(ほうげんじ)は、そんな黒石市内にあるお寺です。
法眼寺の山号は「宝厳山」。延宝8年(1680年)に南宗禅師により、温湯村(現在の温湯温泉)に開基され、その後、元禄4年(1691年)に現在の地に移されたお寺で、津軽一帯の黄檗宗(おうばくしゅう)の総本山でもあります。
駐車場そばの山門 は寛保元年(1741年)の建立とされる萱葺き。いかにも「古刹」を思わせる造りです。
境内に入り、まず目に飛び込んでくるのは鐘楼堂 。高さ7.2m、奥行き4.5m、唐風造りのこの建物は、どの角度から見ても華麗な姿形をしています。見ることはできませんでしたが、この鐘には、棟方志功の手による「三尊仏」が描かれているということです。志功は自分と同じ「法眼」の号をもつこの寺の鐘をつくるとき、三尊の絵を贈ったのだとか。。
本堂 は明和6年(1769年)の建立。堂々とした大きな建物です。平成17年には大雪のため、屋根が陥没したという被害は全国ニュースになりましたが、もちろん今は修復されています。中には大名駕籠? が置かれていて、この寺がかつて、津軽黒石藩の祈願寺であったことを思わせます。
本堂の正面右手には、赤銅色の大きな十一面観世音菩薩 が安置されていました。
この観音様は、元々、近くの神明宮に祀られていたもので、「黒石観音堂」として、多くの人々の信仰を集めていました。ところが、明治2年(1869年)に民家130軒余りを焼き尽くした大火事のため、観音堂もろとも焼失したとされています。新しく法眼寺内に観音堂が再建されたのは、明治後期から大正にかけてのことでした。
再建当初、この観音様は鐘楼の下に祀られていました。しかし、信者達から「このままでは鐘をつくたびに観音様が足げにされているようだ。」という声が上がったため、現在のように本堂右側に遷されることになったといわれています。 ー 根強い観音信仰の「証」は、ここ黒石にもみられます。
↓法眼寺 ※クリックで拡大します。







☆津軽三十三寺社巡り☆



「・・野中に松の一郡たてるは大石明神とて、御前に大なるふし岩、たち岩のあるあはひに、石割松、いしわり杉の生たり。・・・(以下略) ー『外浜奇勝』」
書かれてある「ふし岩」「たち岩」とは即ち、御神体の2つの「巨石」のことです。
拝殿 の後ろに回りこむと巨石を祀る本殿があります。周りを石垣で囲まれた本殿 は立入り禁止でした。真澄の文中に書かれている2つの巨石の間の「石割松、いしわり杉」は、現在はありません。なぜか、本殿の石段の上には大きな獅子頭? が置かれています。理由も由来も分かりません。ー いろいろ”不思議”が多い神社です。
古来より、巨石には神が宿るとされ、信仰の対象となり、恐れ敬われてきたという伝承は数多く残されていますが、ここ大石神社にも、かつてこの石が「千引大明神」と呼ばれていたという伝承があります。「千引石」はイザナギが黄泉の国を脱出する際、千人がかりで曳くほどの大きな石をかかえて、黄泉比良坂(よみのひらさか)の登り口を塞いだという霊力をもつ巨石。その力によって、悪霊邪気の侵入を「塞ぐ」という信仰に基づく言い伝えです。 ー 本殿の巨石は、まさに神々が降り立つ「磐座」にふさわしい、大きな見事な石でした。
本殿の脇には、「龍神御鎮座所」の立て札があり、龍神を祀る祠も建てられていました。祠からは龍神様が住んでいるといわれる「淵」を見下ろすことができます。辺りからプーンと臭いがします。臭いの正体はお酒。 ー 龍神様は酒好きのようです。
↓御神体と龍神 ※クリックで拡大します。













※左の画像はクリックすると拡大します。
ところで、この大石神社の境内。もうひとつびっくりするものがあります。馬の石像が、ところ狭しと並べられているのです。奉納された馬の祠の数は20基以上。。摩訶不思議な光景です。
馬は神様の乗り物として、神社等に奉納されていましたが、やがて、生き馬の代わりに、屋根つきの土や木製の馬を献上するようになり、その後は、馬を描いた木製の額に変わっていったとされています。これが「絵馬」の起こりで、多くの絵馬が五角形をしているのは、板の上に屋根をつけていたときの名残りといわれています。とすれば、ここに奉納された”馬”は絵馬の原型。絵馬以前の古くからの風習が残っているという分けです。
~馬は農耕に欠かせない大事な存在だっただけに、時には「雨乞い」の生け贄として神に捧げられたとされていますが、境内の馬の祠は、そんな馬たちの供養のために建てられたとか。。後ろに水の神「龍神」が祀られていることを考えると、この話、よく分かります。~
それにしてもこの大石神社。。巨石あり巨木あり、観音様、地蔵様、龍神様、稲荷神社を思わせる鳥居、神馬奉納の風習ありと、あらゆる信仰の集合体という感じで、「赤倉の大人」が住むにふさわしい「懐が深い」社でした。
☆つがるみち☆



ー 昔、ここには赤倉の大人(おおひと)という鬼神が住んでおり、山仕事をする者達に畏れ敬われていた。身長は見上げるほど高く、黒ずんだその姿を見るだけで恐怖のあまり病になる者もあったが、酒魚などを捧げ、親しく交わった者に対しては、その返礼としてたくさんの山の木を切り倒し、運んできてくれた。ときには山を下り、村人に農耕の技を教え、開墾を助けてくれた。 ー 岩木山麓に伝わる「鬼伝説」のルーツがここにあります。
この赤倉沢への入口に鎮座しているのが大石神社。慶長年間 (1596~1615年) に津軽為信が十一面観音を勧請したことに始まるといわれており、その後、一時荒廃しましたが、 享保4年 (1719年)に5代藩主津軽信寿が再建したとされています。祭神は高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と神皇産霊神(カミムスビノカミ)。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味することから、子授けの神・安産の神として古くから信仰を集めています。ご神体は名前のとおり「大石」。巨石信仰が伝わる神社です。
天気は快晴。岩木山 の姿がとても神々しく見えます。神社の大きな白い鳥居 には、「大石大神」「赤倉大神」と書かれた扁額 が掲げられていました。案内板 を見ると、ここから先には「赤倉霊場」と呼ばれる広大な霊場が広がっており、岩木山の赤倉登山コースにつながっているようです。
案内板を過ぎると、拝殿までの参道には、朱色と白のたくさんの鳥居。立ち並ぶ様子はなかなか壮観です。このようなたくさんの鳥居の配置は、稲荷神社に多く見られるということですが、この神社も何かしら関係があるのでしょうか?辺りには「大石神社」の石標がいくつか建てられています。新旧様々な石標。古くからの信仰の足跡です。
↓拝殿まで ※クリックで拡大します。








拝殿の前には、栄養状態満点のぷっくり狛犬。とてもユーモラスです。津軽為信が観音像を祀ったことに因んでいるのでしょうか、観音石像も建てられていました。
境内の中には、たくさんの古木が立ち並んでいます。巨木信仰の表れでしょうか、しめ縄をはったもの、根もとに地蔵堂が祀られているものもあります。「五本杉」と呼ばれる名物杉は、枝が5本に分かれて伸びていることから名づけられたもののようです。
↓境内と神木たち








何かしら”異界”を思わせるような大石神社のレポート。 ー 次回に続きます。
☆つがるみち☆



杉の木立に囲まれところに拝殿があり、中を通り過ぎたところに観音堂がありました。
↓松倉神社境内 ※クリックすると拡大します。










松倉観音堂は延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が創建したと伝えられていますが、その後、法然の高弟であった金光上人が承元4年(1210年)に津軽を訪れ、ここに「十一面観世音菩薩」を安置し、信仰の霊山としたともいわれています。いずれにしろ、ここ梵珠山一帯は中世からの山岳信仰の中心地。観音堂も古くから25番札所として、三十三霊場のひとつに選ばれていました。
明治になると、「松倉神社」となって、十一面観音像は上納させられましたが、後に霊場が復活された際、新たに「馬頭観世音菩薩」が本尊となり、現在に至っています。
さて、この観音堂、”奥が深くて”、実はお堂の後方に急な岩場があります。そこを上り詰めたところが松倉山の頂上。頂には3つの小堂があり、巡礼の人々はこの小堂にも参拝しているようです。私も登ってみることにしました。
岩場 にはロープが渡されており、それに従って登っていくと、間もなく岩と岩の間から小堂 が姿を現しました。気合いを入れてもうひと登りすると視界が開けます。頂上からは梵珠の山々や津軽平野を望むことができます。晴れた日には遠く日本海も望めるとか。。巡礼の人達もここに立つと、満足感と開放感を感じるのではないでしょうか。
3つの堂宇は勾配にそって建てられており、下には「大国主神」、続いて「小彦名神」、そして頂上には「大山祇神」が、それぞれ祀られていました。並んで立っている様はとても趣があります。
↓松倉山山頂







ちょっとした登山気分を味わった松倉観音堂。様々な形の老木・古木も発見できました。その中でも一番はこれ! ・・・大天狗か。。。
☆津軽三十三寺社巡り☆


津軽三十三寺社巡りも、18番小泊「海満寺」まで辿ることができました。この先をさらに進むと竜飛岬 。19番札所「義経寺」からは、津軽半島をぐるっと一巡りすることになります。日程的にきつい面もあるので、後日、日を改めて訪ねることにしました。巡礼の順番は変わってきますが、25番以降の札所を先に訪ねてみたいと思います。
そういう分けで、まずは25番札所松倉観音堂へ。津軽三十三霊場の中で、一番の難所といわれているところです。
現在は松倉神社となっているこの観音堂の付近には、梵珠山(ぼんじゅさん)という山があります。標高468mのこの山は、そんなに高くはないものの、頂上から津軽平野一円が見渡せるため、古くから「聖山」として崇められてきました。その昔、道昭上人がこの山に、釈迦、文殊、普賢の三尊を祀ったとされており、「梵珠山」の「梵珠(ぼんじゅ)」は「文殊」菩薩からきたものであるとされています。そういう由来もあり、この山は8世紀頃から、修験者達の「聖地」とされてきました。
辺りには、馬ノ神山や鐘撞(かねつき)山など、古くからの信仰を思わせる山々も連なっています。また、山麓には「大釈迦(だいしゃか)」という地名もありますが、これは、8世紀後半、桓武天皇の時代に、鬼門封じのために堂舎を建立して釈迦像を安置したことに由来するといわれています。ー 古(いにしえ)からの言い伝えが残る梵珠山一帯。今は、「県民の森」に指定され、登山道、遊歩道が完備され、ハイキングや子ども達の自然観察の場として賑わっています。 ⇒梵珠山付近
この梵珠山と松倉観音堂は遊歩道でつながっていて、梵珠山を通って観音堂へ行くこともできます(その逆も)。ただ、梵珠登山となるとそれなりに準備も必要なので、私は、直接観音堂へと向かいました。砂利道を歩くような速さでゆっくり車を走らせ数㎞。やっと参道入口 につきました。赤い鳥居 をくぐると、三十三霊場の石標 が見えます。ここからいよいよ登りが始まります。
やっぱりというか、予想通りというか、予想以上というか。。。どこまでいっても先が見えず、フーフーいいながら、何回も休み休み登りました。勾配は決して急な分けではないのですが、とにかく長い道のりです。ここでは、登山用のストックが大変役にたちました。しかし、何といっても、一番助けてくれたのは、西国三十三の観音様たちです。数を数えながら、観音様の前で一休み。 ー そのくり返しでした。
↓松倉観音堂参道 ※クリックで拡大します。







休みながら、ぼんやり辺りを眺めていると、様々な木々や切り株の様子がおもしろい形に見えてきます。例えば、
1.岩に根をはる木。 ~小さい島に見えました。
2.お稲荷様のような切り株。 ~赤いきれは営林署が伐採した印のようです。
3.狛犬のような古い切り株。 ~二匹の狛犬が向かい合っているようです。
こうして、何度も休みをとりながら、三十二番観音石像にたどり着き、背後に松倉神社 の赤い屋根が見えたときは、ほっとしました。 ー 次回は、観音堂の様子をお伝えします。
☆津軽三十三寺社巡り☆

現在は松倉神社となっているこの観音堂の付近には、梵珠山(ぼんじゅさん)という山があります。標高468mのこの山は、そんなに高くはないものの、頂上から津軽平野一円が見渡せるため、古くから「聖山」として崇められてきました。その昔、道昭上人がこの山に、釈迦、文殊、普賢の三尊を祀ったとされており、「梵珠山」の「梵珠(ぼんじゅ)」は「文殊」菩薩からきたものであるとされています。そういう由来もあり、この山は8世紀頃から、修験者達の「聖地」とされてきました。
辺りには、馬ノ神山や鐘撞(かねつき)山など、古くからの信仰を思わせる山々も連なっています。また、山麓には「大釈迦(だいしゃか)」という地名もありますが、これは、8世紀後半、桓武天皇の時代に、鬼門封じのために堂舎を建立して釈迦像を安置したことに由来するといわれています。ー 古(いにしえ)からの言い伝えが残る梵珠山一帯。今は、「県民の森」に指定され、登山道、遊歩道が完備され、ハイキングや子ども達の自然観察の場として賑わっています。 ⇒梵珠山付近
この梵珠山と松倉観音堂は遊歩道でつながっていて、梵珠山を通って観音堂へ行くこともできます(その逆も)。ただ、梵珠登山となるとそれなりに準備も必要なので、私は、直接観音堂へと向かいました。砂利道を歩くような速さでゆっくり車を走らせ数㎞。やっと参道入口 につきました。赤い鳥居 をくぐると、三十三霊場の石標 が見えます。ここからいよいよ登りが始まります。
やっぱりというか、予想通りというか、予想以上というか。。。どこまでいっても先が見えず、フーフーいいながら、何回も休み休み登りました。勾配は決して急な分けではないのですが、とにかく長い道のりです。ここでは、登山用のストックが大変役にたちました。しかし、何といっても、一番助けてくれたのは、西国三十三の観音様たちです。数を数えながら、観音様の前で一休み。 ー そのくり返しでした。
↓松倉観音堂参道 ※クリックで拡大します。







休みながら、ぼんやり辺りを眺めていると、様々な木々や切り株の様子がおもしろい形に見えてきます。例えば、
1.岩に根をはる木。 ~小さい島に見えました。
2.お稲荷様のような切り株。 ~赤いきれは営林署が伐採した印のようです。
3.狛犬のような古い切り株。 ~二匹の狛犬が向かい合っているようです。
こうして、何度も休みをとりながら、三十二番観音石像にたどり着き、背後に松倉神社 の赤い屋根が見えたときは、ほっとしました。 ー 次回は、観音堂の様子をお伝えします。
☆津軽三十三寺社巡り☆



この権現崎は海抜229mの断崖絶壁で、頂上に「尾崎神社」があります。飛龍大権現を祭神として、大同2年(807年)に建立されたといわれるこの神社は、古くから修験者の聖地として崇められてきたところです。ー 昔、丹後の国から卵をいっぱい積んだ船が何艘かやってきて、一休みしようと岬の浜に近づいたら、「出ろ、出ろ」という神様の声が聞こえたので、あわてて戻った。しかし、聞こえなかった船は神様の怒りをかい、転げ落ちてきた岩のために沈んでしまった。神様を怒らせた理由は、ここ尾崎の神様は卵が嫌いだったから。。ー などという、思わず吹き出してしまいそうな”伝説”も残されています。
また、ここはあの「徐福伝説」の最北の地でもあります。泰の始皇帝の命をうけ、不老不死の仙薬を求めて航海していた徐福の行き着いた先がここ権現崎。以来、この地を蓬莱山と定めた徐福は、村人に農業や漁業、医療などの技術を施したとされています。
18番札所海満寺は、小泊漁港を臨む小高い丘の上にあります。海満寺は、弘前誓願寺の末寺で、万治元年(1658年)に船の難破による犠牲者を弔うため建立されたといわれています。りっぱな本堂 の前には、大きな慈母観音像 が建てられています。周りには、地蔵堂 や西国三十三観音石像 。本堂の後ろの石段を上ると小泊漁港 が一望できます。港は、ヤリイカ、スルメイカ、メバルの1本釣り漁などで一年中賑わいを見せているそうです。
観音堂は、本堂に向かい合うかたちで建てられており、本尊は「聖観世音菩薩」。木像の観音様は元々は近くの「柴崎城跡」に祀られ、「小泊観音堂」として多くの信仰をあつめていたとされています。しかし、宝永7年(1704年)、山津波のため、観音像はお堂もろとも海に流されてしまいました。
ところが、しばらくして、一人の漁師が海中からこの観音像を引き上げ、海満寺に仮安置されることになりました。この観音像、長い間海中にあったらしく、木面が流木のようになっていて、両腕と下半身が失われていたそうです。
この話は、たちまち広がり、信者達は観音堂再建に乗り出し、やがて、観音像は海満寺から、元の観音堂へ移され、18番札所として賑わいをみせたといわれています。
その後、明治に入り、神仏分離により、再び海満寺に戻ってきた観音像。霊験あらたかな観音様として、海満寺の名物となり、今日でも多くの巡礼者が訪れているということです。
↓海満寺観音堂 ※クリックで拡大します。







☆津軽三十三寺社巡り☆



館の中の展示コーナーは、時代に合わせて区切られていますが、まず目を引くのは、「オセドウ貝遺跡」の出土品です。「オセドウ」とは「お伊勢堂」が訛ったもので、現在は神明宮になっているところです。大正12年に貝塚が見つかったのに続いて、「円筒式土器」をはじめ、縄文前期から中期にかけてつくられた貴重な土器などが多数発見されました。
このオセドウには、はるか昔、神武天皇の東征の際、頑強に抵抗した大和の長髄彦(ナガスネヒコ)が、その兄の安日彦(アビヒコ)とともに、津軽に流れてきて、ここで亡くなったという伝承があります。安日彦は、奥州安部氏の祖ともいわれ、安部氏の流れをくむ安東氏は、ここを長髄神社とし、崇拝したと伝えられています。しかし、何せ神話時代の言い伝えであり、まともには信じられていませんでした。しかし、その後の発掘で身長2m近い巨大な人骨 が見つかり、「これこそ長髄彦の骨ではないか。」と話題になりました。もちろん、真偽は?ですが。。。
五月女萢(そとめやち)遺跡 は縄文後期~晩期の遺跡です。時期的には、つがる市木造の「亀ヶ岡遺跡」と重なります。展示されている多くの石器や土器は、当時、ここ十三湖及び岩木川周辺に「亀ヶ岡文化」が広がっていたことを物語っています。
「中世」の展示室には、十三湊遺跡から出土した様々な陶磁器や土器、山王坊遺跡にあった五輪塔の他、貴重な古文書や絵図など、安東氏の軌跡を思わせるものが展示されていました。残念ながら、このコーナーは撮影禁止でした。それでも、入口に掲げられている環日本海交易図 などを見ると、「日の本将軍」と呼ばれた安東氏の日本各地及び海外での活躍の跡が分かります。
↓歴史民俗資料館 ※クリックで拡大します。









ところで、この十三湊、興国元年(1340年)の大津波によって壊滅したというのは本当のことなのでしょうか? ー 発掘の結果によれば、中世を代表する巨大な港湾都市であったことは証明されたものの、大津波の被害を思わせる跡は発見されなかったということで、現在は否定されているようです。ー
そんな発掘の結果を裏づけているものは、かつて十三湊は日本の 「三津七湊(さんしんしちそう)」 の一つに数えられていたという事実です。このことは日本最古の海洋法規集である『廻船式目』に記されていますが、この本が成立したのは室町時代の後期。また、安東氏が南部氏に敗れ、北海道へ逃れたのは1443年頃のこと。とすれば、「大津波」の約100年後。当時の十三湊はまだまだ「健在」だったということになります。こうしたことから、ー衰退の原因は大津波というよりも(それが事実だったとしても)、安東氏が抗争に敗れ、十三湊を放棄したことにあるー と考えられます。
その後、南部氏の時代になり、次第に交易の中心は大浜湊(青森港)や野辺地港へと移され、十三湊は整備されることも無く、港としての機能は衰えていきました。ですが、津軽氏の時代になると、また活気を取り戻します。
津軽藩の財政源は、鯵ヶ沢港を通して大阪など上方に米を送り、販売して得られる収入でした。収穫された米は岩木川の水運によって、いったん、十三湊に集められ、そこから海路鯵ヶ沢に運ばれるしくみになっていました。「十三小(米)廻し」と呼ばれたこの体制は、再び十三湊に繁栄をもたらした分けです。
しかし、やがて年月が経つにつれ、港には川からの土砂が堆積し、水深が浅くなり、大船の入港は困難になっていきました。また、水運の要であった岩木川も、新田開発その他により、水量、川幅等が減退していったために、やがて、米の運搬は陸路を通じて行われるようになりました。ー「十三小(米)廻し」の終わりとともに、十三湊の衰退が再び始まったわけです。ー
こうしてみると、十三湊に衰退をもたらしたものは、政治状況の変化、交易・経済ルートの変化、そして自然環境の変化であったことが分かります。
十三湊の繁栄をのみこんだ「大津波」とは、すなわち、こうした大きな「時代のうねり」であったのかも知れません。
☆津軽統一までのあゆみ☆



十三湖付近には、牧場がいくつかあり、のんびりと草を食んでいる牛たちに出会うこともあります。のどかな光景です。山手の方へ車を進めていくと、まもなく「大沼公園」が見えてきます。ここは、「岩井・大沼遺跡」と呼ばれる縄文晩期の遺跡です。発掘調査の結果、縄文時代の土器捨て場が発見され、石器や土器製品がまとまって出土したところです。十三湖一帯には、縄文時代の遺跡がとても多く、出土した土器などは、中の島にある「歴史民俗資料館」に展示されています。湖面に架かる大きな橋は 「東日流館橋(つがるやかたばし)」。屋根付きの橋としては、日本一長い橋とされています。唐川城址は、この大沼公園から、さらに5分くらい上ったところにあります。城跡から、道なりに降ると春日内観音堂が見えてきます。
↓唐川城址周辺 ※クリックで拡大します。







唐川城 は、安東氏が十三湖を見下ろす標高160mの山の頂に築いた山城で、福島城の詰めの城(出城)であったとされていますが、元々は古代からの「高地性集落」の跡だともいわれています。城の南側には唐川が流れ、北側は険しい山岳の天然の要害で、堀と土塁に仕切られた城郭といくつかの曲輪があったとされています。
ここは、1443年、南部氏によって福島城を追われた城主の安東盛季(もりすえ)が立てこもり、防戦した城でした。その後も南部氏の攻撃を受けた安東氏は、同じく福島城の支城であった「柴崎城」に逃亡し、渡島(北海道)へと渡っていったとされています。現在、遺構はほとんど残っていませんが、駐車場の後ろ側にある土塁の跡が当時を偲ばせてくれます。
展望台が設けられており、十三の大地、十三湖、そして日本海を眼下に見ることができます。すばらしい眺めです。よく晴れた日には岩木山も見えるとか(私が訪ねたときは、あいにくの曇り空)。。黒光りする大きな安東氏の顕彰碑には、「日の本将軍」の文字とともに、日本地図、そして十三湊が描かれていました。
↓唐川城址







帰り際にひとつの古ぼけた案内板を見つけました。義経北方伝説 を記したものです。大意は、 ー 義経は衣川で死せず、北へ逃亡した。身代わりになったのは、杉目太郎行信という人物である。十三湊へ逃れてきた義経は、当時の支配者「藤原(十三)秀栄」に匿われ、やがて、竜飛から北海道へと渡っていった。ーというものです。
青森県は、八戸→青森→十三湖→三厩→竜飛と、「義経伝説」がたくさん残っているところです。ロマンをかきたてるこの伝説。。三十三霊場19番札所「義経寺」を訪ねたときに、取り上げてみたいと思います。
☆津軽統一までのあゆみ☆



少し時代は下りますが、五所川原市の「長円寺」というお寺にはこんな伝説が残されています。 ~昔、長円寺に納めるために、二つの雌雄の鐘が、京都から津軽へ送られてきた。しかし、十三湊へ入ったとき暴風雨になり、雌鐘は湖底に沈んでしまった。今でも長円寺に納められた雄鐘をつくと、その鐘は十三湖の雌鐘を慕って「十三恋しやゴーン」と響き、それに応えるかのように湖底からは「長円寺恋しやゴーン」という雌鐘の音が響くのだという。以来、十三湖は沈鐘湖とも呼ばれ、今でもよく晴れた日に、漁夫が水中の鐘を見かけることがあるという。しかし、人の気配がすると鐘の中からたちまち魚のようなものが現れて、たちまち泥をかきたてて見えなくなってしまうのだという。 ~
ーもの哀しい話ですが、古来から、十三湊が宗教文化の窓口であったことを思わせる話でもあります。ー
さて、「山王坊遺跡」は十三千坊の中心となった宗教施設。遺跡へと通じる道には、大きな鳥居 が立っています。実は、これは安東文化を顕彰するシンボル塔で、説明板 によると、平成5年のNHK大河ドラマ『炎立つ』の中で、十三湖がロケ地になったことを記念して立てられたものです。『炎立つ』は、奥州平泉藤原氏の興亡を描いたものですが、安東氏以前、十三の地は、藤原秀衡の弟の秀栄を祖とする十三氏が治めていたところです。ですから、当然、あの平泉の絢爛たる文化の影響を受けないはずはなく、後を継いだ安東氏もまた、それに倣ったことと思われます。
シンボル塔をくぐって車を走らせると、やがて「日吉(ひえ)神社」の鳥居が見えてきます。ところで、この鳥居、上にもうひとつ「屋根」がついているような独特の形をしています。この「屋根」は「破風(はふ)」と呼ばれ、仏教と神道の合一を象徴しているもので、このような鳥居の様式を山王鳥居 というそうです。「山王」とは滋賀県大津市坂本にある「日吉大社(日吉は「ひえ」とも読み、”日枝”とも書く)」の別称であり、安東氏は、その分霊社として、この社を建立したとされています。いわばここは神仏習合の宗教施設。入口にある地蔵堂 がそれを物語っているようです。
ここは、古来から霊地・聖域として村民に畏怖されてきたところで、阿吽寺という寺院があった場所ともいわれています。境内の中は無数の杉木立。まさに「神域」を思わせます。小川が流れる境内には小さな橋が架けられており、境内の説明板 に書かれているように、流れに沿って庭園が造られていたような感じがします。
↓山王坊境内 ※クリックで拡大します。







境内を一巡りした後、再びいくつかの鳥居をくぐると拝殿が見えてきます。何回かの発掘調査によると、周りにいくつかの礎石の跡が見つかり、本殿、舞殿、渡殿、仏堂風の拝殿、本地堂と神社と寺院が並存するような伽藍配置であったことが分かってきています。”素人”の私には、それらの宗教施設の判別はできませんでした。ただ、拝殿から少し回り込んだところに磐座(いわくら) の跡を見たとき、ここが仏教と神道を、ある意味では超えた「信仰の場」であったことを実感しました。







ここ山王坊は、安東氏に取って代わった南部氏が、2回にわたって執拗に攻めた場所といわれています。それは、安東氏の築いた文化の象徴ともいえる場所だったからではないでしょうか。境内の杉木立が、何となく細くてあまり年輪を感じさせないのはその時の戦いで、焼失してしまったせいでしょうか。
「安東史跡をめぐるみち」は、ここから春日内観音堂、そして唐川城址へと続いています。
☆津軽統一までにあゆみ☆



北津軽の一寒村に伝えられていたこの逸話は、「伝説」に過ぎないとされてきました。しかし、近年の発掘調査の結果、様々な遺構が発見され、港湾施設、宗教施設、土塁や堀など防御施設等を備えた、巨大な港湾都市であったことが分かってきました。
↓十三湖 ※クリックすると拡大します。







かつての十三湊の繁栄は、安東氏の時代に最盛期を迎える分けですが、当時の文化や遺構は安東史跡をめぐるみち をたどることによって偲ぶことができます。私はまず、福島城址に立ち寄ってみました。※右の画像はクリックで拡大。










安東氏は、前九年の役(1051年~)で滅んだ安倍貞任(あべのさだとう)の子、高星(たかあき)の子孫と伝えられています。初め、現在の南津軽郡藤崎町に居城を構えていた安東氏は、平安時代末期からこの地を治めていた十三氏(奥州藤原氏の末裔とされています)を寛喜元年(1229年)「津軽萩の台の戦」で破り、その後、本格的に十三湊に進出し、繁栄の基礎を築きました。その拠点となったのがここ福島城。正和年間(1312年~)に、十三氏の居城を改修したもので、発掘調査の結果、総面積は約625,000㎡にも及ぶ東北屈指の城郭であったとされています。
国道339号線を小泊方面に向けて車を走らせていると、「福島城外堀跡」の木柱が見えてきます。うっかりすると見過ごしてしまいます。私も通り過ぎてしまい、あわててブレーキを踏みました。
福島城は、外郭と内郭とで構成され、外郭は一辺が約1㎞の三角の形だったといわれています。ここはその外堀。当時を偲ばせる土塁が残っていました。
外堀を過ぎると間もなく「福島城跡」の道標が見えてきます。狭い小道を行くと、ここが、かつての内郭であったことを示す案内板が立っていました。側には、青々とした木々に包まれた黒門の模擬櫓。往時を思わせるような造りです。かつて内堀であった場所には、小さな橋が架けられています。
黒門をくぐり、中へ入ると内郭。当時は、一辺が約180mの四角形をしていたとされるこの内郭。十三湖(日本海)からの強い風と砂嵐を防ぐ杉林に囲まれた広大な城跡。かつての繁栄を偲ばせるものは少しだけ残された土塁の跡のみ。。今は夏。青々とした木々の葉っぱが落ちる晩秋の頃には、寂しく荒涼とした風景が広がっているのではないでしょうか。
かつて、十三湊から得られる財力で、「日の本将軍」と呼ばれた安東氏ですが、やがて、永享4年(1432年)頃、三戸南部氏の来襲をうけます。戦いに敗れた安東氏は渡島(北海道)へと追いやられます。安東氏は、その後、故地津軽十三湊に戻ろうとして、幾たびか戦いを起こしますが、念願叶わず、福島城は住む人もなく荒れるにまかせたままであったともいわれています。 ー 福島城は、そんな安東氏の栄枯盛衰を見つめてきた城郭だったわけです。。
十三湊「安東史跡をめぐるみち」。次回は、山王坊遺跡についてお伝えします。
☆津軽統一までのあゆみ☆



「春日内観音堂」「聖観世音菩薩」と記された石標を通ると、間もなく鳥居が見えてきます。ここからはおよそ300mほど坂道が続きます。静かな杉木立の中を歩いていくと、やがて、鮮やかな朱色の「橋」が見えてきます。ここが観音堂です。老杉に囲まれながら、ひっそりと佇んでいる ー そんな感じでした。
↓春日内観音堂 ※クリックすると拡大します。






周りを見ると、お堂の左、右、後ろにそれぞれ鳥居が立っていました。左の鳥居の側には、観音堂の由来を記した案内板。年数を感じさせる古い物と、新しく立てられた物、新旧2つが並んでいます。ここの鳥居をくぐった先は、急な崖地になっていて、西国三十三観音像を一巡りするようになっています。
後ろの鳥居の奥は、小さな滝になっていて、境内に清水が流れこんでいます。『十三往来』には、この滝のことが 「龍水邏(ら)落(らく)」と書かれており、現在よりももっと水量が多かったことが分かります。時期によって、水量が変わるのかもしれません。私が訪ねた時は「滝の水がみなぎっている」という感じではありませんでした。
右側の古びた鳥居からは、大きな岩が見えます。岩肌を眺めていると、何となくそれが「仏」の姿形にも見えてくるから不思議です。
↓春日内観音堂周り









さて、旧市浦村は、安東氏に関する史跡がとても多いところで、東北自然歩道安東史跡をめぐるみち という大きな案内板が立てられています。ここ春日内観音堂も道中のひとつに数えられていました。
ー 次回は、その「安東史跡」を少し紹介してみたいと思います。
☆津軽三十三寺社巡り☆


◇文中の赤字はクリックしながらご覧ください◇
「名物しじみ料理」とか「しじみラーメン」という幟が立ち並ぶ店の側に、今泉「ゆとりの駐車場」があります。ここは十三湖 の入口のひとつ。幕末の頃にここを訪れた吉田松陰を記念して吉田松陰遊賞之碑 も建っています。松陰は、十三湖の湖面と遠くにかすむ岩木山を見て、「・・真に好風景なり。」と日記に記したといわれています。あいにくの曇り空、岩木山は見えませんでした。
中泊町の3つめ、16番札所今泉観音堂は、このすぐ近くのはずなのですが、先回同様、入り組んだ道を何回もぐるぐる。。。やっと見つけました。鳥居の側の狛犬たちはオレンジの頭巾に青い足袋 。なかなかオシャレです。場所探しに時間を取られたので、急いで参道を上りました。
いくつかのお堂がありましたが、まずは神明宮からと思い、石段を上ってびっくり!左右の2本の木が大きな「×印」 をつくっています。 「通せんぼしているのか?鳥居代わりにくぐれということか?」などと、くだらないことを思いながら、拝殿まで上りました。ここにも青い足袋の狛犬。しかも赤い頭巾 です。
下の景色を見てみようと、拝殿の後ろへ行ってまたまたびっくり!老木の太枝に青い頭巾 が被せられていました。馬のようにも見えるし、恐竜のようにも、狛犬のようにも見えるし。。反対側に行ってみたら、老木の根元 には、お茶、ジュース、お酒。「こんな所に空き缶を捨てて・・」と思ったのは私が鈍いからで、「御神体」として祀られていたのですね。
さて、ここ今泉地区について『十三往来』という書では「東には山野つづき、渺々たる牧なり。千匹の馬・・・思い思いに勇むなり・・・」と記しています。十三湖を望む山裾は、現在でも広い牧場になっています。この地に観音堂が建立されたのは寛文9年(1669年)のことでした。尾別地区の弘誓寺観音堂と同じく、明治になると本尊の「千手観世音菩薩」は、一時、弘前の最勝院に移されますが、明治8年、村人の強い願いにより、千手観音を譲り受け、神明宮の下にお堂を再建したと伝えられています。当初は、茅葺きの粗末な堂宇でしたが、昭和38年に改築され、現在に至っています。
他の観音堂と同じく、ここにもまた、西国三十三観音石像が参道に沿って立てられていました。この33体の観音様もまた、狛犬に負けないくらいオシャレです。ピンク、黒、白、赤などの色の「着物」を着ている観音様は、それだけで絵になります。上りは急いだので石段を通りましたが、帰りはゆっくりと観音像を見ながら降りました。
↓今泉観音堂 ※クリックすると拡大します。







⇒今泉三十三観音スライド
狛犬の足袋、老木の頭巾、三十三観音像の着物など、大変楽しい参拝でした。足袋、頭巾、着物・・・いずれも色褪せてはおらず、鮮やかな色でした。
ー地区の方々の信仰心の表れだと思います。ー
☆津軽三十三寺社巡り☆

中泊町の3つめ、16番札所今泉観音堂は、このすぐ近くのはずなのですが、先回同様、入り組んだ道を何回もぐるぐる。。。やっと見つけました。鳥居の側の狛犬たちはオレンジの頭巾に青い足袋 。なかなかオシャレです。場所探しに時間を取られたので、急いで参道を上りました。
いくつかのお堂がありましたが、まずは神明宮からと思い、石段を上ってびっくり!左右の2本の木が大きな「×印」 をつくっています。 「通せんぼしているのか?鳥居代わりにくぐれということか?」などと、くだらないことを思いながら、拝殿まで上りました。ここにも青い足袋の狛犬。しかも赤い頭巾 です。
下の景色を見てみようと、拝殿の後ろへ行ってまたまたびっくり!老木の太枝に青い頭巾 が被せられていました。馬のようにも見えるし、恐竜のようにも、狛犬のようにも見えるし。。反対側に行ってみたら、老木の根元 には、お茶、ジュース、お酒。「こんな所に空き缶を捨てて・・」と思ったのは私が鈍いからで、「御神体」として祀られていたのですね。
さて、ここ今泉地区について『十三往来』という書では「東には山野つづき、渺々たる牧なり。千匹の馬・・・思い思いに勇むなり・・・」と記しています。十三湖を望む山裾は、現在でも広い牧場になっています。この地に観音堂が建立されたのは寛文9年(1669年)のことでした。尾別地区の弘誓寺観音堂と同じく、明治になると本尊の「千手観世音菩薩」は、一時、弘前の最勝院に移されますが、明治8年、村人の強い願いにより、千手観音を譲り受け、神明宮の下にお堂を再建したと伝えられています。当初は、茅葺きの粗末な堂宇でしたが、昭和38年に改築され、現在に至っています。
他の観音堂と同じく、ここにもまた、西国三十三観音石像が参道に沿って立てられていました。この33体の観音様もまた、狛犬に負けないくらいオシャレです。ピンク、黒、白、赤などの色の「着物」を着ている観音様は、それだけで絵になります。上りは急いだので石段を通りましたが、帰りはゆっくりと観音像を見ながら降りました。
↓今泉観音堂 ※クリックすると拡大します。







⇒今泉三十三観音スライド
狛犬の足袋、老木の頭巾、三十三観音像の着物など、大変楽しい参拝でした。足袋、頭巾、着物・・・いずれも色褪せてはおらず、鮮やかな色でした。
ー地区の方々の信仰心の表れだと思います。ー
☆津軽三十三寺社巡り☆

