
戦いに勝利した為信は慶長7年(1602年)、浅瀬石の高賀野山に「教学院」を建立し、愛宕大権現を祀り、祈願所としたといわれており、この「教学院」が現在の橋雲寺の前身でした。
↓橋雲寺「護摩堂」 ※クリックで拡大します。





「橋雲寺」というこのきれいな名前は、津軽藩2代目藩主・津軽信枚がみた「浅瀬石の高賀野山から、ここ愛宕山に向かって雲の橋が架かり、勝軍地蔵が渡っていった。」という「夢」に由来しており、慶長14年(1609年)に信枚によって、「教学院」が現在の場所に遷され、寺号も「橋雲寺」となった分けです。そういういきさつもあり、このお寺は津軽藩において特に重要視され、夏の例祭には隊列を整えて参詣するのが常であったといわれています。
境内には、稲荷神社 や、三十三観音像 、そして、弘法大師像 も建てられていて(ここは津軽弘法大師霊場の8番札所にもなっています)、神仏習合の形をとどめています。
また、先回ご紹介した「卯年生まれの一代様弘前天満宮」の守り本尊・文殊菩薩は、もともとはここにあったもので、その名残でしょうか、境内には天満宮 も立っていました。
ひときわ「歴史」を感じさせる建物が「護摩堂」。 このお堂は、明治14年に天皇が東国を行幸した際、当時の呉服商「金木屋」が青森県経済界の委託を受け、天皇の寝所として建立したもので、その後、ここに移築したとされています。お堂の中 には、「奥の院」とともに勝軍地蔵が安置されているということですが、見ることはできませんでした。
しかし、堂内には勝軍地蔵を描いた絵馬 がたくさん奉納されており、中には「奥の院」を描いたこんな絵 もあります。勝軍地蔵が飛び出してきそうですね。。
参拝を終えて、再び山門前からの景色を眺めると、東に八甲田山、北には梵珠山、南に阿闍羅山が見えます。西の岩木山と合わせて「津軽の四つの霊山」です。
☆つがるみち☆



岩木山 の麓の地に開かれた「神仏習合」の形を色濃く残しているこのお寺を、地元の人々は親しみをこめて「あだごさま」と呼んでいます。また、「辰年」と「巳年」の一代様としても知られており、正月には、たくさんの参拝客で賑わうところです。
↓橋雲寺「奥の院」まで ※クリックで拡大します。





参道入口には「勝軍愛宕山大権現」 と刻まれた石柱が立っていますが、「愛宕山大権現」の名が示す通り、ここは「勝軍地蔵」を本尊として祀っているところです。「勝軍地蔵」 は、馬に乗り甲冑を身につけ、武器を持った姿形から、「戦いの神様」として多くの戦国武将の信仰を集めた菩薩です。あの明智光秀が「本能寺の変」の前に愛宕山を訪れ、勝利祈願をしたのは有名な話ですね。
津軽藩初代藩主・津軽為信もこの菩薩信仰者の一人で、伝によると、為信は関ヶ原の合戦に出陣し、大垣城を攻めた際、愛宕様に戦勝祈願をしたところ、少軍勢でありながら勝利を収めたといわれています。
因みに、ここが「辰・巳年の一代様」となっているのは、古来、「勝軍地蔵」は「普賢菩薩」の生まれ変わりとされているからです(辰・巳年の守り本尊は普賢菩薩)。
一の鳥居を過ぎると間もなく参道が2つに分かれます。 真っ直ぐに進むと「奥の院」、左に行くと山門に出ます。私は、まず「奥の院」に行ってみることにしました。
急な石段の手前に「津軽十景之一」 という石柱が立っていますが、昭和の初期に地元の新聞社が選定した「津軽地方の景勝地ベスト10」のひとつとして、奥の院からの眺めが選ばれているということのようです。
ですが、この石段、数は260。なかなかで、息を切らしながら登りました。半分位行った所に巨大な杉の木 がそびえています。その根は、土そして石を「わしづかみ」しているようで、とても迫力がありました。
残りの石段を登り切ると、ようやく「奥の院」が見えました。手前には、こんな親子地蔵様? も立てられています。由緒書きによると、この「奥の院」は、本尊の「勝軍地蔵」を安置し、慶長14年(1609年)に建立されたもので、桃山文化の形式を伝える貴重な建物だということです。私は、本尊に手を合わせた後、辺りを見回し「津軽十景」が見える場所を探しましたが、残念ながら、木々が密集していて津軽平野を望むことはできませんでした。
帰りは、石段の途中から境内へ降りていく道もありましたが、私は一番下の分かれ道まで降り、あらためて山門へと向かいました。山門から下を眺めると、そこには刈り入れが進む黄金色の田んぼと町並み、そして、その奥には「八甲田連峰」 が広がっていました。「津軽十景」にふさわしい眺めです。
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



この観音堂の近くに乳穂ヶ滝(におがたき) という滝があります。高さ33mの断崖から、細い白絹のような水が静かに流れ落ちていて、辺りは静寂そのものといった感じのするところです。
↓乳穂ヶ滝 ※クリックで拡大します。





駐車場には鳥居が立っていますが、説明によると 、建立の時期は定かではないものの、ここには「不動尊」が祀られているということで、さっそく鳥居をくぐってみたら、大きな「剣」が見えました。不動明王に因んだものと思われます。
この剣の隣りにひとつの歌碑 が立っていますが、これには、あの菅江真澄がここを訪れた際に詠んだ「とよとしのしるしを水もふる雪も 千束に氷れ新穂のたきなみ」という和歌が刻まれています。全国にある真澄の歌碑の中では、もっとも古いものなのだとか。。
小さな二の鳥居を過ぎると、杉の大木の間から可憐な滝の流れが見えてきます。岩窟には、不動尊を祀る舞台造りのお堂 が築かれており、そこまでは石段が延びています。ここからは滝を「裏」から見ることができるということで、私も登ってみました。その繊細な滝の様子は、なかなかカメラに収めることが難しかったのですが(腕前のせいですが)、何とか何枚か撮影することができました。
⇒乳穂ヶ滝
この滝は厳冬期になると、流れ落ちる水が徐々に柱状に凍りつき、最後には滝口まで一本の太い氷柱になります。その氷結した姿が、あたかも「稲穂」を積み上げたように見えるため、人々は、昔からこの氷柱の出来具合によって、その年の豊饒を占ったとされています。藩政時代には、藩主がその時期になるとここに使者を送り、氷柱の形を調べさせ、その大小によって年の豊作・凶作を占ったので、この滝は「世の中滝」と呼ばれていたとか(「世の中」とはその年の稲作のことです)。。
現在でもこの伝統・風習は続いており、毎年2月下旬には、積み上げた杉葉をいぶした煙や、稲束の燃え具合を見て作物の豊凶を占う神事が執り行われています。この「乳穂ヶ滝氷祭」が行われるときには、滝全体がライトアップされ 、荘厳な雰囲気に包まれ、その姿を見ようと、たくさんの人々が訪れます。
さて、この滝の道路を挟んだ向かい側に岩木川が流れていますが、川岸に面白い形をした石(岩)があります。名前は「ガマ石」。大きなガマガエルがでーんと座っているように見えることから、その名前がつけられました。実際、見てみると「なるほど。」 という感じです。面白かったので、ちょっと画像をいじってみました。
⇒ガマ変化スライド
☆つがるみち☆


寺社巡りの中で、何回か「津軽一代様」 についてふれてきましたが、十二支とお参りの寺社は次の通りです。○○○○は、今まで訪れた場所の拙記事です。
◇子 →多賀神社(清水観音堂) 【弘前市】 守り本尊:千手観音菩薩
◇丑寅→求聞寺【弘前市】 守り本尊:虚空蔵菩薩
◇卯 →弘前天満宮【弘前市】・金剛山最勝院【弘前市】 守り本尊:文殊菩薩
◇辰巳→橋雲寺【弘前市】 守り本尊:普賢菩薩
◇午 →白山姫神社(袋観音堂) 【黒石市】 守り本尊:馬頭観世音菩薩
◇未申→大円寺【大鰐町】 守り本尊:大日如来
◇酉 →国上寺【平川市】 守り本尊:不動明王
◇戌亥→弘前八幡宮【弘前市】 守り本尊:八幡大菩薩
今回は、卯年生まれの一代様のひとつ弘前天満宮を訪ねてみました。
天満宮は、弘前公園(弘前城)や長勝寺をはじめ、三十三のお寺が並び立つ禅林街のすぐ近くにあり、この地(茂森町)一帯の鎮守の社となっているところです。境内は梅や桜の木々に包まれ、春には美しい花を咲かせます。また、ここからは弘前の町並みや岩木山 を眺めることもでき、市民の憩いの場にもなっています。
↓弘前天満宮 ※クリックで拡大します。






縁起は必ずしもはっきりしている分けではありませんが、かつてここは「大行院」という修験の寺院があったところで、慶長3年(1598年)に、弘前藩初代藩主・津軽為信が大行院栄尊(菅原道真の後胤にあたるとか)を招き、開基したといわれています。「天満宮」となったのは、明治になって修験廃止令が出され、「大行院」が廃寺になった際、岩木町(現弘前市)の橋雲寺 の天満宮をここに遷してからのこととされています。
主祭神はもちろん菅原道真。境内には、菅公千年祭祈念碑 なども建てられています。併せて「文殊菩薩」も祀っていますが、「三人寄れば文殊の知恵」・・文殊菩薩は知恵授けの菩薩様。「道真と文殊菩薩即ち学問」という分けで、拝殿前にはたくさんの合格祈願の絵馬 が納められていました。
また、文殊菩薩は、卯年生まれの守り本尊でもあり、ここ天満宮は「卯年の一代様」として、例年、たくさんの方々が参拝に訪れています。一代様であることを物語るように、境内には大きなウサギの石像 も置かれています。
さて、境内の側に小公園がありますが、ここには樹齢500年以上といわれるシダレザクラ があります。青森県指定天然記念物であるこの桜の古木は、 大正時代には「全国大桜番付」にも記載されていたそうで、現在でも変わらぬ美しい花を咲かせています。
この老名木を讃えるためでしょうか、境内にはこんな芭蕉の句碑が立てられていました。 ー 「しばらくは花の上なる月夜哉」。
☆つがるみち☆
◇子 →多賀神社(清水観音堂) 【弘前市】 守り本尊:千手観音菩薩
◇丑寅→求聞寺【弘前市】 守り本尊:虚空蔵菩薩
◇卯 →弘前天満宮【弘前市】・金剛山最勝院【弘前市】 守り本尊:文殊菩薩
◇辰巳→橋雲寺【弘前市】 守り本尊:普賢菩薩
◇午 →白山姫神社(袋観音堂) 【黒石市】 守り本尊:馬頭観世音菩薩
◇未申→大円寺【大鰐町】 守り本尊:大日如来
◇酉 →国上寺【平川市】 守り本尊:不動明王
◇戌亥→弘前八幡宮【弘前市】 守り本尊:八幡大菩薩

天満宮は、弘前公園(弘前城)や長勝寺をはじめ、三十三のお寺が並び立つ禅林街のすぐ近くにあり、この地(茂森町)一帯の鎮守の社となっているところです。境内は梅や桜の木々に包まれ、春には美しい花を咲かせます。また、ここからは弘前の町並みや岩木山 を眺めることもでき、市民の憩いの場にもなっています。
↓弘前天満宮 ※クリックで拡大します。






縁起は必ずしもはっきりしている分けではありませんが、かつてここは「大行院」という修験の寺院があったところで、慶長3年(1598年)に、弘前藩初代藩主・津軽為信が大行院栄尊(菅原道真の後胤にあたるとか)を招き、開基したといわれています。「天満宮」となったのは、明治になって修験廃止令が出され、「大行院」が廃寺になった際、岩木町(現弘前市)の橋雲寺 の天満宮をここに遷してからのこととされています。
主祭神はもちろん菅原道真。境内には、菅公千年祭祈念碑 なども建てられています。併せて「文殊菩薩」も祀っていますが、「三人寄れば文殊の知恵」・・文殊菩薩は知恵授けの菩薩様。「道真と文殊菩薩即ち学問」という分けで、拝殿前にはたくさんの合格祈願の絵馬 が納められていました。
また、文殊菩薩は、卯年生まれの守り本尊でもあり、ここ天満宮は「卯年の一代様」として、例年、たくさんの方々が参拝に訪れています。一代様であることを物語るように、境内には大きなウサギの石像 も置かれています。
さて、境内の側に小公園がありますが、ここには樹齢500年以上といわれるシダレザクラ があります。青森県指定天然記念物であるこの桜の古木は、 大正時代には「全国大桜番付」にも記載されていたそうで、現在でも変わらぬ美しい花を咲かせています。
この老名木を讃えるためでしょうか、境内にはこんな芭蕉の句碑が立てられていました。 ー 「しばらくは花の上なる月夜哉」。
☆つがるみち☆



長らく阿闍羅山にあったお寺を現在の地に移したのは、あの「じょっぱり殿様」弘前藩3代藩主・津軽信義です。伝によれば、慶安3年(1650年)、信義の鷹が病気になり、平癒を祈願したところ、たちまち病は治ったそうです。たいそう喜んだ信義は本尊を京都で補修させ、御堂を現在の場所に建立し、阿闍羅山から本尊を遷して「神岡山(じんごうざん)高伯寺」と号したといわれています。
ー それにしてもこの信義公、「三十三霊場の創始者」とされたり、古懸山国上寺のお不動様を「ねまらせて」みたり、何かにと話題の多い殿様です。大鰐の「湯」が有名になったのも、信義が入浴してからのことだとか。。
この「高伯寺」が「大円寺」となったのは、明治4年(1871年)、神仏分離令により、弘前市の「大円寺」が移ってきたからです。そんなこともあって、現在は「金剛山最勝院」 と称する弘前のこのお寺を今でも「大円寺」と呼んでいる人も多いようです。
↓大円寺「大日堂」※クリックで拡大します。







大日堂の中に入ると、正面に大きな本尊【大日如来】 が安置されています。高さ2m、青森県名産の「ヒバ」の木を使った寄木造。金箔が貼られたこの仏像は、鎌倉時代の初期に、当時平泉に来ていた都の仏師が彫ったものとされており、津軽の仏教文化の高さを示すものとして「国指定重要文化財」になっています。
さて、 【大日如来】と【】書きしましたが、実はこの仏像は「大日如来」ではなくて「阿弥陀如来」の座像なのです。昔、大鰐の地は、この大きな阿弥陀如来像があることから「大阿弥陀」と呼ばれていたそうで、「おおあみ」が変化して「おおわに」という地名になったとも伝えられています。
それにしても、どうしてこの「阿弥陀如来」が「大日如来」として信仰されていったものか、大きな謎です。「本当の大日如来は胎内仏として阿弥陀様の中に納められている」という伝説もあり、大正時代に実際に調査されましたが、何も出てこなかったとのこと。子細はともかく、この大きな本尊が「大鰐の大日様」として、古くから、津軽一円の人々の深い信仰を集めてきたことは事実です。
この「大日様」に関わって次のような話があります。
ー 昔、黒石に八郎という木こりがいた。ある日、浅瀬石川でヤマベをとり、焼いてたくさん食べた。ひどくのどが渇いたので、谷川の水を飲み干してしまったところ、姿形が大蛇になってしまった。驚いた八郎は、碇ヶ関古懸のお不動様に、自分が住めるような大きな湖をつくってくれるように頼んだが断られた。そこで、大鰐の大日様は、八郎に金のわらじを与え、「このわらじの緒が切れたところを、お前の住みかとせよ。」と諭した。八郎はわらじを履いて旅立ったが、秋田の近くで緒が切れたので、大日様の教えに従って潟をつくった。以来、そこは八郎潟と呼ばれるようになった。ー この話は、十和田湖、八郎潟、そして田沢湖にも残っている「龍神伝説」ですが、「大日様」も絡んでいたようです。。
ところで、この大円寺は「未申(ひつじ、さる)年生まれ」の津軽一代様としても知られていますが、境内にはそれを思わせるようなものはありませんでした(探せなかったのかも)。?と思いながら帰ってきましたが、後で撮ってきた写真をよく見てみると・・・ありました。
場所は山門。はじめに大鰐に縁が深い牛 。その奥に 、羊と猿 が、しっかり描かれていました。
☆つがるみち☆



↓大円寺境内 ※クリックで拡大します。







大鰐駅から線路沿いに進んで行くと、間もなく色鮮やかな山門 が見えてきます。手前には国重要文化財「大日如来」 と記された案内板。山門をくぐった正面には「大日堂」があり、ここに国重要文化財・大日如来が安置されています。よく絵ハガキ等で目にする京都や奈良の寺社を思わせる造りです。
左側にはりっぱな本堂が建てられていますが、このお寺の山号は神岡山(じんごうざん)。高野山真言宗のお寺で、「津軽弘法大師霊場第二十二番札所」でもあります。
本堂の向かい側には鐘楼堂と金比羅堂。 その背後に「西国三十三観音像」が並んでいます。石像はいずれも姿形がはっきりしていて 、霊場巡りで観音様を探すとき、大いに助かります。
さて、大日堂の隣りに「不動明王・観世音菩薩・弘法大師」 という扁額が掲げられたお堂がありますが、その名の通り、正面には弘法大師の像 と、不動明王の像がありました。このお不動様、「ぼけ厄除不動尊」 だそうで、拝むと「ぼけ防止」につながるとか。。
このお堂は「旧大日堂」で、以前はここに本尊が安置されていたところですが、その前に一対の牛の石像 が置かれています。大日如来と牛とのつながりは深く、特に西日本では、大日如来を牛の守護神とする信仰が盛んで、縁日に牛をつれて参拝する風習もあったとか。牛は農家に欠かすことが出来ない「財産」であったので、人間と同じく大日様に守られていたということでしょうか。
ですが、ここ大鰐では「牛」は、もっと別な意味でも神聖視されているのです。それは「温泉を発見したのは牛だった」という話が残っているからです。
ー「ある時、一頭の牛を連れた旅人が途中で昼寝をした。目が覚めたら牛が居なかったので探したら、川原で草を食べていた。周りは枯草なのに、そこだけ青々としていたので掘ってみたらお湯が湧き出た。」という分けです。
町ではこの言い伝えや、前述の円智上人の話に基づいて、例年「大鰐温泉丑湯祭り」 を開催しており、祭りのはじめに、大日如来を背中に乗せた牛が「ご神体」となり、温泉の祈祷式を行っています。
ー次回へ続きます。
☆つがるみち☆


今回は、寺社巡り・史跡巡りをひと休みして、今まで巡った中で印象に残った古木や巨木、名木などをまとめてみました。何分、写真撮影は素人で、あまり自信はありません。その点はご容赦を。。。
※画像はクリックで拡大します。








【左から】
◇大光寺慈照閣(平川市:三十三霊場30番札所)のサイカチの木です。
◇円覚寺(深浦町:三十三霊場10番札所)の竜灯杉です。船を安全に港へ導いたとか。
◇袋観音堂(黒石市:三十三霊場27番札所)の大イチョウです。
◇厳鬼山神社(弘前市:三十三霊場5番札所)の2本の大杉です。上までは写真におさまりせんでした。
◇蓮川観音堂(つがる市:三十三霊場12番札所)のイチョウの木です。
◇日照田観音堂の大イチョウ(鰺ヶ沢町:三十三霊場8番札所)。乳根が見事です。
◇田舎館城址のサイカチ(田舎館村)。津軽為信軍との戦で、落城した際、戦死者を弔うために植えられました。
◇居土普門堂の大銀杏(大鰐町:三十三霊場31番札所)です。








【左から】
◇川倉芦野堂のケヤキ(五所川原市:三十三霊場13番札所)の木です。
◇北浮田弘誓閣の大イチョウ(鰺ヶ沢町:三十三霊場7番札所)。昔は泉が湧いていました。
◇見入山観音堂の夫婦杉(深浦町:三十三霊場9番札所)。夫婦に見合った幹の太さ?
◇中野神社のモミの木(黒石市)。一対で神門を守っています。
◇温湯薬師寺の石割楓(黒石市)。根が石を割っている様は迫力があります。
◇大石神社の五本杉(弘前市)。一本の根から五本の幹が分かれて生えています。
◇高照神社のサワラ(弘前市)。高照神社は津軽家と深い関わりをもつ社です。
◇松倉観音堂の大天狗?(五所川原市:三十三霊場25番札所)。名木・古木ではありませんが、どうしてこんな形になったものか?自然のなせる技。私は勝手に「大天狗」と名付けています。
ー 次回からまた、寺社・史跡巡りを続けます。
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【左から】
◇大光寺慈照閣(平川市:三十三霊場30番札所)のサイカチの木です。
◇円覚寺(深浦町:三十三霊場10番札所)の竜灯杉です。船を安全に港へ導いたとか。
◇袋観音堂(黒石市:三十三霊場27番札所)の大イチョウです。
◇厳鬼山神社(弘前市:三十三霊場5番札所)の2本の大杉です。上までは写真におさまりせんでした。
◇蓮川観音堂(つがる市:三十三霊場12番札所)のイチョウの木です。
◇日照田観音堂の大イチョウ(鰺ヶ沢町:三十三霊場8番札所)。乳根が見事です。
◇田舎館城址のサイカチ(田舎館村)。津軽為信軍との戦で、落城した際、戦死者を弔うために植えられました。
◇居土普門堂の大銀杏(大鰐町:三十三霊場31番札所)です。








【左から】
◇川倉芦野堂のケヤキ(五所川原市:三十三霊場13番札所)の木です。
◇北浮田弘誓閣の大イチョウ(鰺ヶ沢町:三十三霊場7番札所)。昔は泉が湧いていました。
◇見入山観音堂の夫婦杉(深浦町:三十三霊場9番札所)。夫婦に見合った幹の太さ?
◇中野神社のモミの木(黒石市)。一対で神門を守っています。
◇温湯薬師寺の石割楓(黒石市)。根が石を割っている様は迫力があります。
◇大石神社の五本杉(弘前市)。一本の根から五本の幹が分かれて生えています。
◇高照神社のサワラ(弘前市)。高照神社は津軽家と深い関わりをもつ社です。
◇松倉観音堂の大天狗?(五所川原市:三十三霊場25番札所)。名木・古木ではありませんが、どうしてこんな形になったものか?自然のなせる技。私は勝手に「大天狗」と名付けています。
ー 次回からまた、寺社・史跡巡りを続けます。



長慶天皇は南北朝時代、足利尊氏と戦って敗れた南朝の第3代天皇ですが、みちのくの果て津軽に亡命し、旧中津軽郡相馬村(現弘前市)の紙漉沢 に落ち着き、この地で崩御したとされています。紙漉沢には「陵墓参考地」もあり、かつては、日本各地に広がる「長慶伝説」の中でも有力なものとして知られていました。
大鰐町にある2つ目の霊場「苦木(にがき)観音長谷堂」は、この長慶天皇につき従ってきた家臣が、観音像を安置したことが始まりとされています。
↓苦木観音長谷堂 ※クリックで拡大します。







国道7号線を碇ヶ関方面に向かって車を進め、ちょうど阿闍羅山を半周したところに 観音堂があります。由緒書き などによると、14世紀半ば、長慶天皇とともに津軽へ落ち延びた武将・水木監正の一族が、天皇崩御の後、ここ苦木の地に住み着いたといわれています。当時、ここは葦だらけの沼地で、村落らしきものもなく、大変な荒れ地でした。水木一族は少しずつ開墾を進め、集落を造り上げ、収穫が安定した16世紀半ばに観音像を安置したのでした。
参道入り口には、石段が真っ直ぐに延びていて、登り切った所に一の鳥居 。左右の杉木立の中を進むと広く明るい境内へ出ます。境内には「子宝神社」 とともに「姥石神社」 という祠もありました。「姥石」は、「子どもを守る神様」といわれることもあるそうで、「子宝」と併せて子孫繁栄・地域繁栄を願って建てられているのでしょうか。
観音堂 は、熊野神社と並んで建っていました。小ぶりな造りですが、巡礼に訪れる人々の「足跡」が詰まった品のあるお堂です。本尊は「聖観世音菩薩」。観音堂の創建は寛永9年(1632年)のこととされ、「苦木観音長谷堂」の名前は、「西国三十三所・豊山長谷寺」に因んだものとされています。
ところで、ここの観音様、二度ほど盗難騒ぎに遭っているとのこと。一度目は天保年間(1830~44年)、参拝に訪れた女修験者が観音像を盗み出し、二度目は時期は不明ですが、何と神官が盗んだとされています。二度とも観音様は無事に戻ってきましたが、村人は今後そういうことが起こらないようにと、コンクリートでお堂を造り直したということです。今は木造のものに替わっていますが、境内にある山神堂 はコンクリート造りで、あるいはこのお堂が、その時の観音堂だったのか?とも思いますが、確かなことは分かりません。
先回の居土普門堂と同じく、ここの後ろにもまた「りんご畑」が広がっていました。のどかで落ち着いた風景です。
ここのご詠歌は「いくたびも法に歩みを運ぶなり あまき苦木は後の世のため」。
ー 「あまき 苦木(にがき)」・・・なかなかしゃれていますね。。
☆津軽三十三寺社巡り☆



朱色が鮮やかな鳥居に向かって進むと、間もなく熊野神社の拝殿が見えてきます。
先回、お伝えしたように阿闍羅山は「阿闍羅千坊」と呼ばれ、「津軽千坊」のひとつとされる霊山でした。ここ居土の地もまた、その一角だった分けです。しかし、鎌倉時代初期の頃は「千坊」は荒れ果てており、唐僧・円智上人( 「津軽三不動尊」 を造ったとされる)が再興したと伝えられています。
↓居土普門堂 ※クリックで拡大します。







観音堂 は熊野神社拝殿と並んで建っています。元和6年(1620年)、弘前藩2代藩主・津軽信枚の時代に、村人の手によって建立されたといわれています。当初は「十一面観世音」を本尊としていたようですが、その後「千手観世音」に本尊が変わったようです。
寛延年間(1748~51年)には、31番札所として三十三霊場のひとつとなっており、「居土観音堂」として人々の信仰を集めていました。明治に入り、神仏分離のため、廃社となり、跡には熊野神社が置かれましたが、やがて村民の力により再興されました。本尊の観音像は、村人が密かに隠しておいたのだとか。。その後、熊野宮の新築に伴い、観音堂も再建され、「居土普門堂」と名づけられたといわれています。
ところで、寺社巡りの楽しみのひとつ「巨木・名木探し」。ここにもあります。
まずは、神社拝殿前にドーンとそびえ立つ2本の大銀杏 。巨大な「鳥居」を思わせるこの古木は、樹齢700年 とされています。
拝殿の横には、大鰐町の天然記念物である「いちょうの木」 。そして、観音堂の後ろには大きな「かつら」の古木があります。この「かつら」、隣の杉の木に見事なアーチ を架けていました。
また、観音堂の手前 には、「夫婦杉」が立っています。以前、9番札所「見入山観音堂」にあった夫婦杉 は、2本の杉の木が並んで立っているものでしたが、こちらは根は1本の木 。互いに寄り添うように上の方へのびていました。
それにしても、ここの境内、明るく気持ちの良いところです。後ろ側には、さらに畑が広がっています。農作業の手を休めた人々が、観音様にお参りしながら、ここで地域の話に花を咲かせているのでしょうか。。
☆津軽三十三寺社巡り☆



↓大鰐町と観音堂 ※クリックで拡大します。







ところでこの阿闍羅山、今はスキー場として有名ですが、昔は「津軽三千坊」のひとつに数えられる「阿闍羅千坊」があった霊山でした(他の2つは「十三千坊」と「梵珠千坊」 )。その昔、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に津軽へやってきた時、阿闍羅山に本陣を構え、岩木山まで峰伝いに千の坊舎を建てたのだとか。。
それはともかく、津軽地方は大和からみると「鬼門」にあたるため、ここ阿闍羅山も古くから「鬼門鎮護・国家安泰」を願った修験の山だった分けです。ー 津軽三十三霊場の31番札所居土(いづち)普門堂は、そんな阿闍羅山の麓にあります。
観音堂への道を進んで行くと小学校が見えてきます。私が訪ねたときは日曜日ということもあり、少年野球の大会が行われていて、グラウンドいっぱいに子ども達の元気な声が響いていました。この小学校の道路を挟んだ向かい側に小高い山がありますが、戦国時代、ここは三ッ目内城 という山城があったところです。津軽為信の軍に攻められたとき、降伏することを良しとしなかった城主は、自ら火薬庫に火をつけ、城を吹き飛ばしてしまったという話が伝えられています(城が爆発したのは、戦の準備中に誤って灯火を火薬庫に落としてしまったからだともいわれています)。
城跡を過ぎて、もう少し進んだところに「居土霊場」 と記された案内板が立っています。ここが観音堂(熊野神社)の入口です。一の鳥居の前には「地蔵堂」 。そして「馬頭観世音」 の石像が置かれていました。
鳥居の先へ、真っ直ぐに石段が延びています。なかなか急な坂道になっていて、参道の左右には杉の大木。鬱蒼としていて、上へ向かう道しか見えないという感じでした。途中で石段は途切れますが、そこからは木の根っこ が石段の替わり・・うまくできています。
しばらく行くと、辺りが明るくなってきたので「着いたのかな」と思い、登りつめると、視界がパーッと開け、そこには何とりんご畑や草原 が広がっていました。大げさですが「別天地」という感じです。空気が澄んでいるせいでしょうか、先ほど通った小学校で試合をしている子ども達の声も聞こえてきます。前方に参道が延びており、その先に「熊の宮(観音堂」の赤い鳥居 が小さく見えました。
ー次回へ続きます。
☆津軽三十三寺社巡り☆



また、黒森山に「浄仙寺」を開山した修行僧・是空は、ここ中野不動の洞穴で修行中に霊感を得て、黒森山に入ったという話が残されています。
↓中野神社 ※クリックで拡大します。








拝殿 と本殿の周りには、いくつかの末社とともに、天然記念物の大杉が3本生えているということなので、歩いてみました。 拝殿の前、(向かって)左側に一本目の大杉 があります。狛犬の後ろにドーンと立っているという感じで、真っ先に目に飛び込んできます。この大木は樹齢が約500年。
拝殿の右隣りに石造りの鳥居があります。ここには、稲荷社と山神堂 がありました。いくつかの神社を巡ってきましたが、この2つを併せて祀っているところも多いです。手水舎 の後ろの小さな赤い橋を渡ると、坂上田村麻呂を祀った祠 があり、側には不動明王像が立てられています。この不動様の足下にカエルの石像が置かれているのですが、どういう由来なのか??
二本目の大杉は、そこから少し坂道を登ったところにあります。けっこうきつい登りでした。辺りの杉の木の中でも、ひときわ大きく太い姿をしていました。この大木は樹齢700年 といわれており、境内の中で一番の古木です。下には渓流も見え、紅葉真っ盛りの頃に、もう一度訪れてみたいところです。
再び拝殿に引き返し、三本目の大杉を目指します。拝殿の左隣りには薬師堂と天の岩戸の祠 。薬師堂はともかく、「天の岩戸」のいわれは分かりません。
このお堂のわきには石段が延びており、「観楓台」という場所に続いています。前述の「不動館」の城は、ここに在ったのだとか。目当ての大杉 は、その石段の途中にありました。樹齢が600年といわれるこの大杉、石段から眺めると首が疲れました。
寺社巡りをしていると、各地域の様々な古木や名木に出会うことができ、ひとつの楽しみになっています。今回も身近にある名木を「発見」することができました。
☆つがるみち☆



また、ここは古懸山国上寺及び長谷澤神社とともに、「津軽三不動尊」のひとつに数えられており、「中野のお不動様」 として、多くの人々に親しまれている社です。一本の神木から造られたという「三不動巡り」の最後に訪ねてみることにしました。
↓中野神社 ※クリックで拡大します。







実は、私は5月に一度ここを訪れたことがあります。(※拙記事 「中野もみじ山」 )その時は辺りの景色を楽しんだだけなのですが、今回は境内の中にある「名木」と、お不動様をじっくり見てみることにしました。
「郷社中野神社」と書かれた社号標を見て、石造りの立派な鳥居と朱色が鮮やかな二の鳥居をくぐると、中野川の渓谷沿いに開かれた美しい境内に入ります。正面にここのシンボル不動の滝 が見えますが、滝見の場所に「中野神社境内にある文化財」 という説明板が立っています。それによると、県や市の天然記念物に指定されている「名木」が3種あるということです。
まず、一つ目は三本のモミジの木 。これは、不動の滝と自生のモミジの鮮やかさに感動した津軽寧親が、新たに楓苗を移植する際、自らの手で植えたものとされ、「お手植えのモミジ」と呼ばれています。いくつかに分かれた枝が横に長く伸びており、葉っぱが色づく頃には、後ろの滝を背景にして、絶好の撮影ポイントになることでしょう。
神社の方に進んで行くと、赤い神橋があり、それを渡りきったところが随神門。門の手前に一対のモミの木 が高くそびえています。このモミの木は県の天然記念物に指定されており、説明板には「モミは暖かい地域に生育する樹木である。中野神社のモミは厳しい環境の中で育ち、樹勢は保たれている。随神の代わりに神門を守る象徴として対植えされたが、二百年以上も形態が整然と保たれている。」と記されています。それにしても、この太さ・大きさ。 神門を守るにふさわしい木ですね。
神門を過ぎると拝殿が見えてきますが、鳥居の前には雄雌の狛鶏?。。 何で狛鶏なのか?ここが、酉年生まれの一代様だからでしょうか。
不動明王は酉年生まれの守り本尊とされていますが、なぜそうなのか、その詳しい理由については分かっていません。ただ、次のようにもいわれています。
(にわか勉強ですが・・)~不動明王像 の光背は燃え盛る炎である。この炎は「衆生の煩悩を大智慧の火で焼きつくして悟りに導きたい」という、不動明王の強い意志(本誓)を現わすものとされる。不動明王が背負う炎は、迦楼羅焔(かるらえん)といい、迦楼羅が吐き出す火炎である。ーwikipedia他よりー」~
迦楼羅(かるら)は、大樹に住み、火炎を吐き、悪竜を常食とし、金色の両翼は広げると336万里あるという伝説上の霊鳥で、仏法の守護神とされています。この迦楼羅(鳥)に因んで、不動明王が酉年の守護神となったという分けです。さらにはまた、迦楼羅=鳥ということから、鶏が不動明王のお使いとして選ばれたとのこと。。拝殿前の「狛鶏」には、そういう意味があるのかも知れません。真偽はともあれ、そんな考えを生み出した昔の人の知恵。。感心させられます。
ー次回へ続きます。
☆つがるみち☆



本尊は不動明王で、火難除の神様として、また、国上寺及び中野神社とともに、津軽では酉年生まれの一代様として、多くの信仰を集めています。創建当初から「東光山五倫寺」と称されていましたが、明治40年4月に「長谷澤神社」となりました。
長谷澤神社 ※クリックで拡大します。↓







駐車場に車をとめると、こんもりとした森 に囲まれた赤い鳥居が見えます。ここが境内の入口です。2本の大杉が鳥居に左右に立っており、大きな門を思わせます。
赤い鳥居をくぐって、辺りを見渡すと無数の杉の木。太く大きな古木に混じって、小さな細い幼木 もたくさんあり、計画的に木を植え、環境を保とうとしている地域の取り組みが感じられます。
石造りの二の鳥居を過ぎると随神門があります。かつて、「東光山五倫寺」と呼ばれていたせいでしょうか、どこかお寺の山門を思わせるような造りです。側には、小川 も流れており、そのせせらぎの音が、とても心地よく聞こえました。正面を見ると、拝殿 の屋根の上の方に、もう一つ赤い屋根が光って見えました。本殿です。
拝殿で参拝を済ませた後、さっそく後ろへ回ってみると「不動明王」 と書かれた石碑と、上に向かって真っ直ぐに延びた急な石段 が見えます。その数、およそ100段以上でしょうか。。手すりにつかまりながら休み休み登りました。
ここが「津軽三不動」のひとつであることを示すためでしょうか、本殿(不動堂)の正面には、三体の不動明王の画像がありました。先回、ご紹介したように、三体を兄弟に例えるならば、順序からして(向かって)右側が次男の中野不動(中野神社) 、左が三男の古懸不動(国上寺) 。そして、中央が長男の「長谷澤不動」だと思うのですが、しかし、残念ながら、お不動様はお留守でした。
さて、先回、ここ上十川は「鹿獅子踊り」が伝わる地であると述べましたが、実は、この神社からもう少し山の方へ行くと、「獅子ヶ沢」と呼ばれている地域があります。




その獅子ヶ沢には、鹿の頭が掘られた大きな岩があり、「しし岩」 と呼ばれています。行ってみることにしました。
説明板 によると、鹿の頭が描かれたこの「しし岩(※この地方では鹿のことをししという)」が造られた年代は分かりませんが、寛政10年(1798年)に、あの菅江真澄が紹介していることから、それ以前にはここに在ったもののようです。造られた理由は鹿の供養のためだとか。。
説明板の場所から、少し山道を登って行くと「岩」を祀った2つのお堂があります。古い岩の表面には苔が張りついていて、はっきりとは分かりませんでしたが、「ししの頭」らしきものが描かれていました。
「鹿獅子踊り」、「しし岩」・・上十川は、古くからの伝承を伝えている地域です。
ーそして長谷澤神社は、そんな地域の人々を見守っている社です。
☆つがるみち☆



↓長谷澤神社まで ※画像はクリックで拡大します。







長谷澤神社へ向かう入口には、大きな赤い鳥居が立っています。「ここから参道?」と思いきや、実は社はここから数㎞程先。。この鳥居の前には、「上十川の追分石」 という石碑が立っています。追分石は、道案内の標識として集落の出入り口や分岐点に建てられているものですが、ここ上十川(かみとがわ ※集落の名前です。)にあるものは正徳4年(1714年)に建立されたもので、津軽地方では最古のものであるとされています。
大鳥居からは、しばらく曲がりくねった道が続きます。道なりに車を走らせると、宝塔山法嶺院 の鐘楼が見えてきます。創建は享保年間(1716~36年)といわれるこのお寺。それにしても大きな見事な鐘楼です。今回は写真撮影だけにとどめました。
もう少し進むと、道ばたに馬頭観音社がありました。小高い丘を登ったところに小さな祠 と、ぷっくりした馬の石像 。由緒書き によると、境内の馬頭観音碑は、黒石市内では2番目に古いものなのだそうです。
道中、何回か車をとめて辺りの景色を見ました。ススキの穂が垂れ下がり、山間の田んぼは黄色に染まり、畑のリンゴも赤く色づきはじめています。ー 実りの秋ももうすぐという感じです。長谷澤神社入り口の木々の紅葉もはじまっていました。
さて、この長谷澤神社のある上十川地区は、青森県無形民俗文化財に指定されている「上十川鹿獅子踊り」 で有名なところです。上十川地区振興協議会ホームページによると、
「創始年代は不明ですが、伝承では天正12年(1584年)、10代浅瀬石城主・千徳政氏に獅子そろいを贈って家臣に取 り立てられた南部の品川六郎右衛門が、千徳家のかかえ獅子として舞を完成。千徳家が滅亡後は、浅瀬石の村人が伝承し、野際村を経て明治7年に上十川に移されたといわれています。 一時期、保存困難から獅子を山中に埋めたものの、上十川の村一帯に悪疫が広まった時、獅子を再び掘り起こして獅子舞を踊ったところ、悪疫を払い除くことができたことから、以来病難・災難などの凶事退散の舞として受け継がれています。」 とのことです。
長い伝統を受け継ぐ「上十川鹿獅子踊愛好会」の方々によって、「獅子起こし(舞い始め)」が行われるのは旧暦の4月8日。その場所が即ちここ長谷澤神社なのです。
ー次回へ続きます。
☆つがるみち☆



不動明王信仰は、弘法大師空海が、中国から不動明王を本尊とする経典を持ち帰ったことが始まりとされ、当初は国家護持の仏として崇められていました。その後、時を経て、次第に大衆の中に広まり、「厄難除災」の仏として篤く信仰されてきたといわれます。
※右の画像はクリックで拡大します







国上寺の本堂前には「東北三十六不動尊霊場」と記されていますが、青森県には6つの霊場があり(13番~18番)、ここは13番目の札所になっています。
前青森県知事の筆による「古懸不動尊」の額を見ながら本堂の中に入ると、正面に祭壇が見えます。中央には不動明王像 が置かれていました。確かにどっかりと「ねまった(座った)」姿でした。ですが、本尊は4年に一度の例大祭のときだけ開帳されるということなので、これはまた別のお不動様なのだと思います。
(向かって)左側の祭壇に目を転じると、そこには大日如来 。そして、如来様を守っているかのように、後ろには大きな大きな不動明王の画像 が掲げられています。実はこれ、あの棟方志功が描いたもの なのです。右の眼をカッと開き、左眼はうすく閉じ(左眼を閉じるのは、低劣な教えである左道に陥るのを防ぐためだとされています)、下の歯で右上の唇を咬んだ憤怒の形相、背後には鮮やかな火炎。。 ーさすが天才・棟方志功。とても迫力のある絵です。この絵に惹かれて、ここを訪れる人々もたくさんいるようです。
⇒棟方志功が描いた不動明王像
さて、先回もふれましたが、ここの不動尊は「東北三十六不動尊霊場」、「津軽弘法大師霊場」、「津軽一代様」などの「肩書き」を持っていますが、実はもうひとつ。。ここの不動明王は「津軽三不動」のひとつでもあるのです。
「津軽三不動」とは、円智上人が一本の神木から作りあげたとされる三つの不動様のことで、ここ国上寺に一体、あとの二体は、黒石市の長谷澤神社(ながいざわじんじゃ) と中野神社 に、それぞれ安置されています。
津軽ではこの「三不動尊」を巡り歩くという信仰が、今でも根強く残っています。
~ 一日で巡り終えると、特に大きな御利益があるとか。。
☆つがるみち☆



「不浪寄・・?」ー私は読めませんでした。後で調べてみると「なみよせしらず」と読むということが分かりました。それにしても山間の地なのに何で「浪?」と思いましたが、縁起によると「創建は不明であるが30代敏達天皇の御代(572?~585年?)に、大規模な山津波(白髭水)が起きたが、八幡様の霊験により被害を最小限で食い止めることができた。以来、不浪寄八幡宮と呼ばれるようになった。」と伝えられています。その後、坂上田村麿がこの地を訪れ、神像を奉納し、社殿を再建したのだとか。。
↓以下の画像は、クリックで拡大します。







(にわか勉強ですが)、 「白髭水(しらひげみず)」とは、白髪白髭の老人が大きな水の波に乗ってやって来るという、北上川沿いに残る伝承からきた大洪水の呼び名です。
~ある日、一人の木こりが川の奥に木を切りに行くと、白い頭、白い髭のおじいさんに出会った。「おなかがすいた」と言うので弁当を差し出すと、ペロリと食べてしまった。それからも度々おじいさんが現れ、弁当をせがむので、困った木こりの奥さんは、川原で拾った石を熱くして、ふくべにはお酒の替わりに油を入れて木こりに持たせた。するとまた現れたおじいさんはそれを食べてビックリ。口から火を噴いたおじいさんが「雨よ降れ」と念じると、たちまち大雨が降った。雨は七日七晩降り続け、大洪水(山津波)になってしまった。以来、山津波のことを「白髭水が出た」というようになった。~とのことです。
ここ碇ヶ関地区は、今では山側に大きなダム が築かれていますが、昔は、度々山津波や洪水などが起こった所でした。まるで川が怒っている様から「怒ヶ堰」とも言われ、それが「碇ヶ関」という地名の由来になったと言われています。この「不浪寄八幡宮」をはじめ、裏手には「龍神堂」、そして境内の中には山神堂 や弁天宮 も建てられており、山や川といった自然の神様を畏れ敬い、五穀豊穣を願う信仰が、この地に根づいていることが分かります。
ところで、この八幡宮、社殿の前に一対の石柱が立てられていますが、よく見ると石柱に大きな龍 が、一方は頭を上に、片方は下にして巻きついていました。「昇り龍・降り龍」といえばいいのでしょうか、由来は分かりませんが、一対で社を守っているかのようです。
さて、この国上寺は大きな寺院であるだけに、いくつかの「肩書き」を持っています。由緒あるご本尊を安置する「東北三十六不動尊霊場」であり、「津軽弘法大師霊場」である他、酉年生まれの「津軽一代様」でもあるため、例年、たくさんの参拝客が訪れます。(※一代様については、拙記事「袋観音堂」をご覧ください。)
そのことを示すように、境内にはこんな句碑も立てられていました。
「長男も 吾れも酉年 初不動」 ・・・ほのぼのとした句ですね。。
「国上寺探訪」ー 次回でまとめにしたいと思います。
☆つがるみち☆



ここは「四国八十八ヶ所お砂踏み参拝所」と呼ばれ、参道の下には八十八ヶ所霊場の砂が埋められており、それを踏みながら進むと霊場遍路の功徳にあやかれるという分けです。ー 国上寺は「津軽弘法大師霊場」のひとつにも数えられているお寺です。
↓参道と四国八十八ヶ所お砂踏み参拝所 ※クリックで拡大します。














この参拝所の向かい側に護摩堂があります。境内の中では一番古い建物で、とても風格のあるお堂です。国上寺は、明治26年(1893年)の火災で本堂ならびに仏堂を焼失しましたが、この護摩堂だけは焼失を免れたため、昭和54年(1979年)に現本堂が建立されるまで、ここに本尊の「不動明王」が安置されていました。その名残でしょうか、正面には「不動尊」と書かれた額も残っています。お堂の中には不動明王を描いたたくさんの絵馬が掲げられていました。謙信と信玄の「川中島の戦い」を描いたものもあります。二人とも深く神仏を信仰した戦国武将でしたが、特に謙信は「毘沙門天」を、そして信玄は「不動明王」を厚く敬っていたとされていますね。
ところで、ここ国上寺の本尊・不動明王は、「ねまり不動様」と呼ばれる一方、世の中に不吉なことが起こる際には、「汗をかく(湿ってくる)」という言い伝えがあり、「汗かき不動様」とも呼ばれています。
護摩堂の前に信枚公御手植之楓 という石柱が立てられています。津軽信枚は、弘前藩2代目藩主。弘前城 を築城し、城下町の基礎づくりをした人です。ところが、この弘前城、1627年に落雷により天守閣が焼失してしまいました。天守閣に吊されていた鐘が熱で真っ赤に燃え、地下の火薬庫に落ち、火薬に引火し、大爆発を起こしたのです。当時、天守は防御施設でもあったため、大量の武器と火薬がたくさん保管されていた分けです。
実はこのとき、信枚はここ国上寺に来ていたのです。その頃、領内では地震や災害が多発し、信枚の心中は穏やかではありませんでした。そんな折も折、国上寺の「汗かき不動様」が、びっしょりと汗をかいたという話を伝え聞き、急いでお参りにきたのでした。弘前城の天守が焼け落ちたのはまさにこの「汗かき不動参り」の直後のことだったといわれています。爆発した際の火柱は、遠く離れた碇ヶ関からも見えたとか。。。
高岡城(鷹岡城ともいう)と呼ばれていたお城が、この天守閣焼失を機に、「弘前城」と改められたのは、このときからだとされています。 ー次回へ続きますー
☆つがるみち☆



↓道の駅「津軽関の庄」 ※クリックで拡大します。















そんな歴史を持つこの地域の人々に古くから親しまれ、崇拝されてきた寺院が、古懸山不動院国上寺です。
創建は推古18年(610年)、円智上人が自ら彫り込んだ不動明王像を大鰐町の阿闍羅山に安置したのが始まりで、建長6年(1258年)に、時の執権・北条時頼がこの地に不動明王像を移し、歴代鎌倉将軍家の祈願所としたとされています。その後は、津軽藩歴代藩主の祈願所にもなっていました。
「古懸(こがけ)」という名前の由来は、昔、鬼神のお松という女山賊が徳一という子供を生み、エズコの中に入れて松の枝に掛けておいたのが「子掛」となり、「子懸」から今の「古懸」になったと言い伝えられています。因みに「鬼神のお松」とは、歌舞伎の中に出てくる女盗賊で、奥入瀬渓流の石ケ戸の岩屋 に住み着き、通りかかる旅人に襲いかかっていたという伝承が残されています。お松が生んだ「徳一」は、真の仏教を求めて東国に下り、その後、会津地方に数多くの寺院を創建したとか。。また、「エズコ」は「えんつこ(嬰児籠)」ともいい、わらで編んだ籠のことで、赤ん坊を布でくるんで、ゆりかごのようにゆらして、あやすために使った昔の道具です。そうやって赤ん坊を見守りながら、親たちは農作業に励んだのですね。
さて、ここ国上寺の本尊の不道明王は、座っている姿形をしているので、「ねまり不動」と呼ばれています。これについては、次のような面白い話があります。
~強情っ張りで有名な三代藩主津軽信義公は、ある日江戸城において、並んでいる大名を前にして「不動尊とは座っているものであろう・・」と言い放った。他の大名は「そんなはずはない。不動尊とは本来立っているに決まっている」と反ばくした。ここで信義公生来のジョッパリが出て「そんなにおっしゃるなら検見役つかわしてお検べあれ、津軽の不動尊は座っているから!」と大見得を切ってしまった。強情を張ってみたものの、自分でも座ったお不動様を見たことがない信義は、今更後にも引けず、国元の家老に「何とかしろ」と命じた。困り果てた家老たちであったが、「このまま捨て置いてはお家の一大事」とばかり古懸不動尊に詣でて、「不動尊よ!そもぢはそもそも起立せるものではあろうが我が殿は男の意地でのっぴきならぬものなれば、不動尊は座っているものと言い張りジョッパリコイてしまったのである。貴尊には何とぞ座り給うで困難を救いたまえ、もししからずんば津軽の地より去りて恩義知らずの不動と呼ばれるがよい・・・」と、半ば恐喝的にもちかけたところ、不動やおら答えて「それだば座りシジャ」と、ベッタリ腰をすえたという。~
※『広報いかりがせき』より
愉快なホラ話ですが、ジョッパリでならした信義公ならばあるいは・・・と思わせる話です。この信義公、あの石田三成の孫です。(※拙記事「貞昌寺」をご覧いただければ幸いです。)
境内をめぐっている途中、地元の方に「ねまり不動様は、実際に見れるのですか?」と聞いてみましたが、「見れません。」ということでした。しかし、その方は、「現在の本堂ができたとき、旧本堂(現在の護摩堂)にあった不動様が遷されたときに見たことがある。不動様は、体中を白い布で覆われていた。」と話してくれました。そのときは、村中総出で見守ったそうです。
ところで、このお不動様、「ねまって」いるだけでなく、ときどき「汗もかく」のだとか。。。 ー 次回に続きます。 ー
☆つがるみち☆



中でも大光寺城周辺には、沖館城、新屋城、尾崎城、田舎館城(現田舎館村)、浅瀬石城(現黒石市)、三ッ目内城(現大鰐町)など多くの諸城が置かれ、大勢力圏を成していました。
大光寺城の歴史は古く、鎌倉時代初期頃に、曽我氏が築城したとされていますが、南北朝時代以後は安東氏の居城となりました。安東氏は、十三湊を経由して、この地方に富と文化をもたらし、一帯は津軽の中心として栄えたといわれています。しかし、やがて応永25年(1418年)、南部氏によって攻め立てられた安東氏は、十三湊に撤退し、以後、140年余り、南部氏が支配することになる分けです。(※拙記事「十三湊と安東氏」をご覧いただければ幸いです。)
その後、為信による津軽支配が完成する過程で、大光寺城は落城することになりますが、城主瀧本氏の激しい抵抗に遭い、為信軍は敗退します(為信が、沖館観音に勝利祈願をしたのはこの時のことです)。正月元旦未明の奇襲によって、城を攻略したのは、天正3年(1575年)のことでした。
ー 大光寺城は、幾たびかの戦乱の舞台となった城でした。現在、城跡 には石碑。そして周辺にわずかながら遺構が残るのみです。
第30番札所大光寺慈照閣は、そんな大光寺城と深い関わりを持つお堂です。
↓大光寺城と周辺の諸城 ※クリックで拡大します。














大光寺城址から、500m程進むと大きな案内板が見えてきます。現在は「保食(うけもち)神社」となっている社の鳥居をくぐって進むと、社殿と並ぶ形で「慈照閣観音堂」が建っています。
創建は、為信の津軽統一後のこととされています。瀧本氏に代わって大光寺城に入ったのは、為信の女婿である津軽建広でしたが、妻の富姫は若くして病死したといわれています。愛娘の死を悼んだ為信は、この地に三重の塔を建て、建広もその後、護寺と観音堂を建立し、「慈照閣」と命名しました。
弘前藩2代藩主・信枚は、弘前城構築にあたり、周辺の寺院を弘前市禅林街付近に移しましたが、慈照閣には「富姫の三重の塔」があったため、そのまま残されたということです。しかし、この三重の塔は、後に落雷をうけて焼失してしまいました。
観音堂は、寛延年間(1748~51年)には、30番札所に加えられ、多くの巡礼者が訪れるところとなっていました。文政6年(1823年)には、西国三十三所を巡拝した人々が、その土を持ち帰り、境内に納めたとされています。
やがて明治になり、神仏分離のため、本尊であった「聖観世音菩薩像」は上納させられましたが、時を経て、再興されたときには新たに「千手観世音菩薩像」が祀られ、現在に至っています。
かつてこの境内には「観音けやき」と称される樹齢1,000年余りの老木があったといわれていますが、今はそれもなく、観音堂は、実りを控えた田んぼに囲まれ、ひっそりと立っていました。
☆津軽三十三寺社巡り☆



鳥居をくぐり、境内の中へ進むと、先回の「広船観音堂」同様、整備された「築庭」が広がっていました。「平成の苑」 と書かれた記念碑によると、草野原だった「神苑池(弁天宮)」の復元造成に取り組み始めたのが平成2年。翌年には、津軽地方を襲った台風19号のために、古木・神木等がたくさん倒れ、境内も荒廃してしまったということです。新たに木を植え、庭を築き、境内が復興したのは平成4年のことでした。今、境内にあるいくつもの樹木には、古木・幼木を問わず、縄が張られ、祀られています。 地域の方々の思いが伝わってくるようです。
面白かったのは、カズラ。木々や石碑 、そして狛犬 にまで縦横に絡みついている姿は、この築庭を趣のあるものにしてくれています。
↓沖館観音堂(神明宮)境内 ※クリックで拡大します。














さて、観音堂は参道左手側の石段を登り切ったとろにあります。本尊は「十一面観世音菩薩」。延暦年間(782-806年)に、坂上田村麻呂が創建したとされていますが、その後、久しく荒廃していました。この観音堂を、僧・知慶が永仁2年(1294年)に再興し、さらに文明11年(1478年)には、修験者・全賢により神明宮が勧進され、社殿が建立されたと伝えられています。
戦国時代、ここ沖館の地には南部氏の支城「沖館城」が置かれ、戦乱の絶えないところでした。やがて、南部氏からの独立を図り、津軽統一を志す大浦(津軽)為信は、南部方の瀧本氏の居城である「大光寺城」の攻略にあたって、ここ「沖館の観音様」に勝利祈願をしたとされています。その甲斐あって、戦いに勝った為信は、宝殿や拝殿を寄進した他、観音堂に「十一面観音画像」を納めたとか。。観音画像の裏面には、為信の直筆で「天正四丙子年八月、願主藤原為信(※津軽氏は藤原家の血統と称していた)」と記されているそうです。
また、ここには次のような物語も残されています。
「 室町時代中期、時の関白・平房三男の政友は、藤原尚之の姫・貴増と恋に落ちた。しかし、姫は政友の兄・政知との婚約がととのい、妻となった。政友と貴増はその後も、ひそかに恋を語り続けた。その悲恋も兄・政知が知ることとなり、二人は老臣の州崎(すのさき)政市を共に、駆け落ちすることとなった。そして、遠くみちのくの奥の奥、沖館の地に庵を結んだのである。二人は沖館に住み、山野を拓(ひら)き農耕、植林に励んだのだという。」 ー 『津軽三十三霊場』北方新社より ー
二人の墓碑が境内の中にあるということなので、いろいろ探してみましたが、うまく見つけられませんでした。たぶん、ここかな? とは思うのですが。。
この二人の間に生まれた子どもが前述の修験者・全賢でした。全賢は、村人とともに農耕に励む一方、深く観音様を信仰したと伝えられており、その子孫が代々、観音堂の堂守となっているとのことです。
☆津軽三十三寺社巡り☆



「広船」の地名は、村落の形が舟の形に似ているところから生まれたともされており、藩政時代には「世界へも洩らさで乗する広船の 弥陀の浄土へ押して行くなり」と歌にも詠まれています。航空写真 を見てみると「うーん・・。」という感じですが、実際に集落内を歩いてみると、確かに両端が山に囲まれており、大きな窪地になっていて「船底」を思わせます。観音堂は坂道を上がった所にあり、小高い場所に建てられています。船の「舳先」といったところでしょうか。また、ここは戦国時代に「広船館」と呼ばれる平城があった場所でもあります。
「廣船神社」と記された赤い鳥居をくぐって行くと、明るく広い境内に至ります。
観音清水 と呼ばれる手水舎は、青森県認定「私たちの名水」にも選ばれています。ひと口飲んでみましたが、冷たく、とてもおいしい水でした。
よく整備された境内には「滝造園」と呼ばれる自然の地形を利用した庭園があります。後ろ側には小さな滝も流れ、周りにはいくつかの祠が建ち並び、どこかほっとするような雰囲気です。庭園内に立てられた「滝造園記念碑」 を見ると、地域の力でこの社が守られていることがよく分かります。
ここは古くから、神仏混合の社として「広船観音堂」、「弘船寺」などと呼ばれていました。境内には「薬師堂」や「稲荷神社」も建てられており、地域の「村社」として崇められているところです。
拝殿の横には、「獅子踊りの記念碑」 が立てられていました。説明書きによると、
ー 大永年間(1521-1528年)に遠野地方から、ここに獅子踊りが伝播され、津軽熊獅子の発祥の地と称される。ー ということで、現在、青森県無形文化財に指定されています。そういえば、ここ平川市は、獅子踊りの伝統が根づいているところで、各地区の保存団体による競演 も盛んに行われています。
↓広船神社境内 ※クリックで拡大します。















さて、観音堂は神社拝殿と並んで建てられています。石造りの鳥居をくぐると、観音堂の由来を記した石碑があります。
本尊は「千手観世音菩薩」。大同2年(807年)に坂上田村麻呂が創建したと伝えられていますが、その後、正長元年(1428年)と慶長10年(1605年)に、それぞれ再建されたともいわれています。この古い歴史を持つ観音堂は、当初から津軽三十三霊場に数えられ、寛延年間(1748―51年)以降は28番札所となり、多くの参拝者が訪れていたとされています。
明治の神仏分離令により、観音堂はいったん廃されますが、古い歴史をもつ「古仏」が失われることを惜しんだ村人が願い出て、千手観音像をもらい受けたといわれています。やがて、広船神社となったこの社に千手観音を祀りなおし、観音堂が再建されたのは、昭和15年のことでした。
由来書きの後ろには、石段が続いており、「聖観世音像」が、お堂へと導いてくれます。お堂は木造、一間四方という小さな建物ではありますが、落ち着きを感じさせるその色合いは、辺りの緑によく溶け込んでいて、参拝する人々の気持ちも安らぐのではないでしょうか。
下を見下ろすと、さっきの観音清水の辺りにマイクロバス。巡礼の方々がバスから降りてくるのが見えます。
ー昔も今も厚い信仰を集めている観音堂です。ー
☆津軽三十三寺社巡り☆

