
そんな藤崎町にも、水害から人々の命や生活を守るために「人柱」となった人物の話が語り伝えられています。名前は堰八 安高(せきはち やすたか)。安高を祀る堰神社を訪ねてみました。 ※以下、画像と○○○○をクリックしながらご覧ください。

堰神社は藤崎町内の細い路地の曲がり角付近にありますが、石造りの一の鳥居をくぐると、思ったよりも広い境内 に出ます。鳥居のそばには「水神」・堰八 安高を祀る社にふさわしく庭園風の池 が造られていました。正面のどっしりとした拝殿 の内部は拝観できませんでしたが、中には、堰八 安高が人柱となった場面を描いた絵馬?が奉納されているということです。
この拝殿の隣りに神明宮 が建っていますが、ここの狛犬 の片方は、子どもの頭を撫でているような格好で、とてもほほえましい感じがします。向かい側には小さな天満宮。 堰八 安高の霊を鎮魂するために建てられたのでしょうか。

さて、堰八 安高は通称を太郎左衛門といい、前述の安倍貞任の子・高星丸の子孫であり、「堰八」に住み、「堰守」をしていたので氏を堰八と称したといわれています。
当時(安土桃山~江戸前期)、この辺り一帯を流れる浅瀬石川の中流域には下川原堰、枝川堰、小阿弥堰、藤崎堰、横沢堰がありましたが、安高は「藤崎堰」の堰守を務めていました。この藤崎堰は、現在の黒石市・境松付近(※右画像)にあり、慶長年間には出水のたびに堰を破られ、莫大な費用と労力を投じてこれを修復するものの、堰の崩壊は止まらなかったといわれています。
人々の苦しみをみた安高は、自ら人柱となって堰の崩壊を防ぎ止めようと、津軽藩主に許可を願い出ましたが、「国法に背く行為」として許されませんでした。しかしながら、その後も水害による堰の決壊が続いたため、安高の願いが通じ、ついにその許可がおりた分けです。安高は大いに喜び、一週間潔斎し、慶長14年(1609年)4月14日、検視役人と感涙にむせぶ村民の面前で水中に身を投じて人柱となったということです。先回の川崎権太夫同様、悲壮な話です。

この話には後日譚があり、安高の志を賞した藩主はその子どもに田地を与えるお墨付を授けましたが、その後、そのお墨付を盗まれてしまったために賞田を没収され、一家は零落したということです。ところが、寛永15年(1638年)、氾濫のために堰はまた崩壊し、大被害を被った村人達からは、「これは賞田を没収された安高の霊が祟ったものである」という声が上がりました。奉行はこの旨を藩主に申し出、翌16年(1639年)に安高の霊を祀ったところ、以後水害は絶えたと伝えられています。藤崎に安高を祀る福田宮堰神社が創建されたのは正保2年(1645年)のことでした。
境内には一本の見事な大銀杏 があります。樹齢400年余りといわれるこの大樹。堰八 安高の供養のために植えられたものなのでしょうか。その大きな姿から 、安高の思いが伝わってくるようです。
☆つがるみち☆



その人物とは、当時の神職だった川崎権太夫(かわさきごんだゆう)のことです。長い間、地元の人々に「義人」として語り継がれてきた権太夫は今、弘前市・大久保平にある杭止神社に「水神」として祀られています。
※画像と○○○○をクリックしながらご覧ください。

「津軽の母」とも呼ばれる岩木川は、白神山地にその源を発し、弘前市、藤崎町、五所川原市付近でいくつかの支川を合流し、津軽平野を北上しながら十三湖を経て日本海に注ぐ一級河川です。自然環境に恵まれた流域には貴重な動植物が繁殖している他、昔から水運が発達し、藩政時代には弘前と十三湊を結ぶ経済交流の「要」でもありました。しかし、反面、「雨三つぶ降ればイガル(※イガルとは岩木川が怒って氾濫するという意味です)」といわれていたように大変な暴れ川で、ひとたび豪雨となればたちまち氾濫して人々の生命や財産を奪い、また、洪水で没した田畑は長い間放置されたといわれています。

そんな中で人々は洪水の度に「堰(用水路)」を人力で何度も作り直し、新田の開発などを進めてきた分けですが、弘前藩の歴代藩主にとっても、岩木川の治水は大きな課題だった分けです。
この「岩木川の水害との戦い」は、現在でも変わらず、台風や大雨による増水・氾濫の被害は、たびたび新聞やニュースで取り上げられています。杭止神社へ行く途中には「頭首工」があり、水量の調節・管理を行っていますが、その側にはいくつかの「災害復旧記念碑」 が立てられていました。

さて、「義人」川崎権太夫は室町時代の人で、伝承によると
~ 文明4年(1472年)、田植え期直前の大豪雨により岩木川が大氾濫し、取水口に積み上げた石俵が一夜にして押し流され、更に続いた豪雨のため復旧工事も手の施しようがない苦境に陥った。農民達の難儀を見かねた神官・川崎権太夫は、4月26日、水神の怒りを静め永く堰口を守らんと決し、身を清め白装束に身を包み、農民達に「わが身川底に沈まば腹の上に杭を打ちて石俵を積むべし。」と告げ、白馬にまたがり激流に身を投じた。農民達は怯え、泣きながら念仏を唱え、杭を打ち付けた。(※杭止神社由緒書き他からの引用です)~ とされています。
以来、ここの辺りは「杭止堰」と名づけられ、昭和37年には杭止神社が建立され、尊い「人柱」となった権太夫は堰神として祀られています。拝殿 には、今まさに激流に飛び込まんとする川崎権太夫の絵馬 が掲げられていました。

この川崎権太夫の娘も後に父の後を追うように入水したとされていて、次のような伝説が残されています。
~ 湯口の奥、紙漉沢(かみしき ざわ)部落の近くに機織淵(はたおりぶち)という淵があり、杭止の堰で人柱となった川崎権太夫の娘が、あとを追って投身したといい、晴天の日には川底に娘が織った布が見えるという。ー『青森の伝説』角川書店ー ~
「淵の底に機を織る女性がいて、機織の音が聞こえてくる。」という各地に残るこの「機織淵」の伝説。ここ津軽のそれは、悲壮な「人柱」の伝承に感銘した後世の人々が語り継いできたものなのでしょうか。。
☆つがるみち☆



青森県では、いくつかの要件を満たした清澄な湧き水などを「私たちの名水」として認定していますが、私が訪ねた寺社のうち、弘前市・多賀神社の 清水観音水 や、平川市・広船観音堂の 観音清水 がそうでした。
今回訪ねた弘前市・羽黒神社の霊泉もそのひとつで「はぐろさまのしつこ(※「しつこ」とは清水のことです)」として親しまれ、昔から「眼病に効く霊験あらたかな水」として崇められている湧水です。
※画像と○○○○をクリックしながらご覧ください。

羽黒神社があるところは旧岩木町。現在は、岩木山神社までバイパスが通っていますが、この神社は旧道沿いにあります。旧道を左に折れ、山手の方へ進んで行くと間もなく一の鳥居 が見えてきます。側には自然石に「羽黒山神社」と刻まれた社号標。ここが参道の入口になります。道中は眼下にりんご畑や田んぼが広がる急な坂道が続いており、途中には二十三夜塔 なども立っていて、何となく「神域」に近づいている感じがします。何度かカーブを曲がると赤い二の鳥居が見えました。

境内には「眼病平癒・石造鳥居」 の碑が立っている他、拝殿には 「目のお守り」が置かれているなど、ここが「眼の神様」であることを伺わせます。由緒書きには「大同二年(807)坂上田村麿が蝦夷討伐のみぎり眼病を患い霊夢によりこの泉を探しあて洗眼平癒したお礼に建立したと伝えられ、古来霊泉で眼病平癒した人は数知らず広く県内・秋田県・北海道の信者から信仰されています。」と書かれていました。
創建以来「羽黒大権現」として崇敬され、明治6年、神仏分離令によって「羽黒神社」となった分けですが、現在も「羽黒さま」と呼ばれ、多くの人々の信仰を集めている社です。祭神は農業の神・倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)、医療の神・大己貴大神(おおなむちのおおかみ)、そして猿賀神社にも祀られていた水の神・水波能売大神(みずはのめおおかみ)。
ここの狛犬は 参拝者や狛犬好きな人々にとても人気があるようです。阿・吽とも斜め上を向き、つんとすました表情や、背中に羽をつけたような姿形はとても愛嬌があって、親しみがもてます。

さて、霊泉は拝殿の隣の鳥居 の下にありますが、石段の途中から本殿の方を見上げると「羽黒山大神霊泉碑」 という、大きな石碑が立っているのが見えました。
泉のそばには、天照大神をはじめ、いくつかの祠 がありますが、中でも黒っぽい碑の台座には 、「目」にあやかってのことでしょうか、石の中央をくりぬいて目の形にした物や、「瑪瑙(メノウ)」などが置かれており、信仰の深さを感じさせます。
こんこんと湧き出ている霊泉は 岩木山の伏流水で、由緒書きにあるように、この清水で洗眼することで目の病が治った人が多いとされ、以前は、参拝者のための「行者小屋」も建っていたとのことです。神社には「静かなる羽黒の宮居湧く清水にごらぬ御代の影をみるかな」など、眼病平癒に関する神歌が残されており、その歌を唱え、頭から水をかぶり目を洗うという風習があるのだとか。。ー 今は、眼病治癒はもとより、飲料水としても珍重されているため、毎日多くの方が清水を汲みにここを訪れるということです。
ところで、ここ羽黒神社の宮司さんの先祖は、その昔、自らを犠牲にして洪水から人々を救った「義人」であったということです。 ー 少し調べてみたいと思います。
☆つがるみち☆


猿賀神社の主祭神・上毛野君田道命は蝦夷との戦いで戦死した後、大蛇の姿となって毒を吐き、蝦夷を滅ぼしたと伝えられており、その霊が秋田県鹿角から洪水に乗って降臨したのがここ猿賀の地。以来、この神社は「神蛇宮」と呼ばれていたことは先回ご紹介した通りです。そういう由来もあって、境内には大蛇即ち龍神に対する信仰を物語るものがたくさん残されています。いくつかご紹介します。
※画像と○○○○をクリックしながらご覧ください。

拝殿は昭和13年に造営されたものですが、向拝の梁には見事な龍の彫刻が 施されています。黄色い鋭い眼光は、まるで生きているようです。また、中には龍を描いた絵馬 や、「龍神社?」と記された古い扁額 も掲げられていました。この扁額は「明治三十九年五月・凱旋」とあり、日露戦争の勝利記念として奉納されたものだと思われます。

本殿は文政9年(1826年)の建立。江戸時代後期の神社本殿建築の遺構として、平成6年に青森県重宝に指定されている建物ですが、向拝には一対の白龍が巻きついています。 この龍、よく見ると口形が「阿・吽」になっていて「あ、うんの巻龍」 と称されています。桃山時代の様式を伝えるとされるこの龍は、彫刻家・中野桂樹が昭和32年に彫り上げたもので、社全体の「象徴」ともいえます。

拝殿から石段を降りていくと鏡ヶ池内の中島に「胸肩神社」があります。胸肩は「宗像」で、水の神様・市杵島姫命(イチキシマヒメ)を祭神とする境内社です。ここの鳥居の前の狛犬、 角があるものとないもの、それぞれが競うように胸をそらしていて、とてもユーモラスです。神橋を渡ると社殿 がありますが、実はこの社殿の後ろにまわってみると、何と屋根の下には大きな蛇。 屋根の色が赤いせいもありますが、少し、ぎょっとさせられます。

池の周りを少し歩いたところに「あかい堂(水天宮)」があります。あかい堂とは「閼伽(あか)井戸」のことで、仏前に供える水(閼伽)を汲むための井戸があるお堂を指すといわれています。祭神は水波能売神(みずはのめのかみ)で、安産・水・灌漑などを司る神様とのこと。このお堂の中には二体の大蛇 がいました。二体は夫婦なのでしょうか親子なのでしょうか。。

鏡ヶ池は、シーズンにはたくさんの美しい蓮の花が咲き、「和蓮」の北限地といわれています。池から眺める 中島辺りの様子は、公園を代表する風景です。この「神池」には次のような話が伝えられています。
~ 境内の大池に片目の魚がすむといわれる。猿賀の神様は、昔トコロのツルに足を引かれて倒れ、そのはずみにウドのからで目をついたため片目になってしまった。それから池の魚も片目になったという。・・中略・・眼病で猿賀様に願をかける人は神様が嫌うウドとトコロは食べない。境内に薬師の清水という湧き水があり、目の悪い人はこの清水で目を洗うとよいとされている。そこで人間の目の病が池の魚にうつって、魚が片目になるのだといわれる。 ー『青森の伝説』角川書店ー ~ この伝説が転化したのでしょうか、猿賀の神は「眼病治癒」の神様であるともされています。
主祭神・田道命が洪水に乗って降臨したという言い伝え、龍神(大蛇)信仰や水を司る神を祀る境内社、神池に伝わる話など・・・猿賀神社は「水の伝説」を数多く残している社でした。
☆つがるみち☆
※画像と○○○○をクリックしながらご覧ください。

拝殿は昭和13年に造営されたものですが、向拝の梁には見事な龍の彫刻が 施されています。黄色い鋭い眼光は、まるで生きているようです。また、中には龍を描いた絵馬 や、「龍神社?」と記された古い扁額 も掲げられていました。この扁額は「明治三十九年五月・凱旋」とあり、日露戦争の勝利記念として奉納されたものだと思われます。

本殿は文政9年(1826年)の建立。江戸時代後期の神社本殿建築の遺構として、平成6年に青森県重宝に指定されている建物ですが、向拝には一対の白龍が巻きついています。 この龍、よく見ると口形が「阿・吽」になっていて「あ、うんの巻龍」 と称されています。桃山時代の様式を伝えるとされるこの龍は、彫刻家・中野桂樹が昭和32年に彫り上げたもので、社全体の「象徴」ともいえます。

拝殿から石段を降りていくと鏡ヶ池内の中島に「胸肩神社」があります。胸肩は「宗像」で、水の神様・市杵島姫命(イチキシマヒメ)を祭神とする境内社です。ここの鳥居の前の狛犬、 角があるものとないもの、それぞれが競うように胸をそらしていて、とてもユーモラスです。神橋を渡ると社殿 がありますが、実はこの社殿の後ろにまわってみると、何と屋根の下には大きな蛇。 屋根の色が赤いせいもありますが、少し、ぎょっとさせられます。

池の周りを少し歩いたところに「あかい堂(水天宮)」があります。あかい堂とは「閼伽(あか)井戸」のことで、仏前に供える水(閼伽)を汲むための井戸があるお堂を指すといわれています。祭神は水波能売神(みずはのめのかみ)で、安産・水・灌漑などを司る神様とのこと。このお堂の中には二体の大蛇 がいました。二体は夫婦なのでしょうか親子なのでしょうか。。

鏡ヶ池は、シーズンにはたくさんの美しい蓮の花が咲き、「和蓮」の北限地といわれています。池から眺める 中島辺りの様子は、公園を代表する風景です。この「神池」には次のような話が伝えられています。
~ 境内の大池に片目の魚がすむといわれる。猿賀の神様は、昔トコロのツルに足を引かれて倒れ、そのはずみにウドのからで目をついたため片目になってしまった。それから池の魚も片目になったという。・・中略・・眼病で猿賀様に願をかける人は神様が嫌うウドとトコロは食べない。境内に薬師の清水という湧き水があり、目の悪い人はこの清水で目を洗うとよいとされている。そこで人間の目の病が池の魚にうつって、魚が片目になるのだといわれる。 ー『青森の伝説』角川書店ー ~ この伝説が転化したのでしょうか、猿賀の神は「眼病治癒」の神様であるともされています。
主祭神・田道命が洪水に乗って降臨したという言い伝え、龍神(大蛇)信仰や水を司る神を祀る境内社、神池に伝わる話など・・・猿賀神社は「水の伝説」を数多く残している社でした。
☆つがるみち☆



戦国期になると、一時、荒廃したとされていますが、天正14年(1586年)に津軽為信が社殿を再建し、以後、津軽家の祈願所となります。明治時代初頭に発令された神仏分離令により「猿賀神社」と改称、明治16年(1833年)には県社に昇格し、現在に至っています。
※クリックで拡大します。↓




伝説の「猿賀石」を見た後、三の鳥居をくぐって境内の中を巡ってみました。境内には、大小たくさんの狛犬が立っていますが、印象に残ったのはこの二体です。 「親子」でしょうか、左手で子どもを抱えている狛犬と「鞠」で遊んでいる狛犬・・どちらもほほえましい姿です。
少し先に進むと、「精魂」と書かれた「大きな津軽三味線の碑」 が立っていました。これは福士政勝さんという方の生誕百年を記念して建てられた顕彰碑です。この方は、地元出身で、「津軽三味線の名人・唄付けの名手」として知られる方で、後の山田 千里(やまだ ちさと)さんなどに、大きな影響を与えたとされています。
顕彰碑の隣には朱色鮮やかな「池上神社」。 医薬治病の神とされる「少彦名神」を祀っています。
拝殿の左奥には、先回もご紹介した田道命の「神霊碑」 があります。どうして馬蹄形の鳥居なのか気になるところです。この神霊碑のそばに標柱が立っていますが、昔、この猿賀神社境内一帯は「猿賀館」 と呼ばれる館があった所です。猿賀館の築城年代は不明ですが、大光寺城主・滝本重行の家臣・後藤五郎左衛門宅庸の居館であったとされており、土塁と空堀の跡が残っています。
拝殿の扁額と梁は 、ここが「大社」であることを思わせ、その中 もまた、厳かな雰囲気を感じさせるものでした。中の「直径三尺の大太鼓」は、「長寿開運」の太鼓といわれ、参拝者に打ち鳴らされているのだとか。。
ところで、私が境内の中に入ったとき、いっしょうけんめい拝殿までの道を掃き清める係員の方や、黒い式服を着た方、着物姿の女性、ビデオカメラを準備している人達を見かけたので、「今日はひょっとして・・」と思いましたが、当たりです。「神前結婚式」が行われる日だったのです。やがて、神主さんに先導されながら、しずしずと進む、新郎新婦をはじめ親族の方々の行列 が見えてきました。 ー 図らずも「おめでたい日」に立ち会うことになりました。
ー 猿賀神社の境内巡り、次回へ続きます。
☆つがるみち☆



猿賀石は、赤い二の鳥居をくぐって、右に進んだところにあります。周りには多くの大石がごろごろしていて、ここはここで、ひとつの「聖地」であったことを思わせます。
↓クリックで拡大します。




山神社の「大石さま」同様、この巨石 も「古代人の巨石崇拝の遺物」であると説明板に記されていましたが、この石は、元々は近くの石林 という場所にあったものを明治36年にここに移したものなのだそうです(「石林」という地名もこの巨石に由来するとか)。
伝説によると、坂上田村麻呂が蝦夷の長を打ち、その首を埋めたしるしの石だといわれ、石の表面に馬蹄形の跡があるとか。。その田村麻呂が蝦夷の抵抗に合い、苦戦していた時、田道命の神霊の助けを得、大勝利を得たため、その霊を祀って創設したのが猿賀神社の起源といわれています。田道命の神霊碑 は、拝殿・本殿側の馬蹄形の鳥居?の奥に立てられていました。
この田道命(上毛野君田道命)は、日本書紀によると、仁徳天皇の勅命を受けて、西暦367年、蝦夷平定のため東北地方に兵を進めましたが、伊寺の水門(石巻付近)で戦死し、その後「蝦夷がその墳墓をあばくと、たちまち遺体は大蛇と化して彼らを滅ぼしてしまった。」とされている神です。いわば、田村麻呂の蝦夷征伐の先輩ともいえる分けで、田村麻呂がこの神様に勝利を祈願した理由も、そこにあったということでしょう。 ー もちろん、伝説ですが。。
田道命は、鹿角郡猿賀野(現秋田県鹿角市)に祀られましたが、欽明天皇28年(567年)の大洪水の時、その神霊が、白馬にまたがり漂木を舟として津軽の地に降臨したと伝えられています。 → 鹿角市には同名の「猿賀(さるが)神社」があり、由緒には、そのことが記されているということです。
さて、先回ご紹介した山神社の「大石さま」とここ猿賀神社の巨石・・どちらも「猿賀石」と呼ばれ、田道命にまつわる伝説が残っている分けですが、両者は結びついているのでしょうか。。残念ながら、それを調べる術はありませんでした。ですから、ただの想像に過ぎませんが、次のように思ってみました。
~太古の昔、山神社(金屋・権現平)の辺りに「線刻文」を使う集団が住んでいた。彼らは、巨石を崇める原始信仰を持っていた人々で、「大石さま」を中心とする祭祀場をつくっていた。狩猟を主として生活していた彼らは、やがて農耕文化が広がるにつれて、より肥沃な土地へと移った。現・猿賀神社の付近に定着し、巨石を見つけた人々は、そこを新しい祭祀場としたが、元の「大石さま」も祖先の「霊地」として、その後も変わらず崇拝し続けた。その結果、田道命の伝説も両方に残ることになった。~
実は、山神社にも猿賀神社と同じように2つの池があり 、両方の案内図 をみると、神社、池、そして巨石(猿賀石) などの配置がよく似ています。
☆つがるみち☆



その場所は、平川市金屋地区・権現平にある「山神社」という社です。ここ金屋地区は、りんごづくりが盛んで、山裾にりんご畑がいっぱいに広がっているところです。私が訪れたときも、小雨の中、真っ赤に熟れたりんご の取り入れに励む農家の方がたくさんいました。畑の中を進むと、「大山祗神社」「山神社」と記された2つの石標と赤い鳥居が見えてきますが、ここが参道の入口です。道端に立てられた歌碑を見ながら石造りの鳥居 をくぐると広場に出ます。ここは「自然の森」として整備され、遠足やキャンプなどで賑わうところです。晴れていれば、ここから眺める景色は「絶景」なのですが、あいにくの雨空。。平野の中に浮かぶ岩木山は 、まるで墨絵のようでした。
山神社と「大石さま」 ※クリックで拡大します。↓





「自然の森」からは遊歩道が延びており、登り切ったところに「山神社」 があります。説明板には、~ 山神社は原始信仰の拝所であったが、仏教文化が入ってから明治初期まで「深砂宮」という真言の守護神を祭っていたが、明治の神仏分離令により「大山祗神社」と改称して今日に至る。~ と書かれていました。入口に社号標が2つ立てられていた意味が分かりました。
拝殿や本殿 は、そのような古くからの「由緒」を感じさせる雰囲気で、境内にはいくつかの「大石」 もあり、原始信仰(巨石信仰)の名残が見られます。
さて、目指す「大石さま」には、ここから奥へと歩道を進んで行きます。何度か登り降りしているうちに「大石さま」 と書かれた木標がありました。ここからの石段登りはなかなか大変でしたが、何とか「大石さま」 を拝むことができました。山の斜面を背にして、紅白の縄で祀られた姿を見ると、この石が古くから地元の人々に崇められてきたことが実感できます。
この巨石がある一帯は「古代祭祠場跡」といわれており、説明板には~ 大石さまといわれる権現平の巨石は、大昔から先住民が崇拝した岩境である。石面には無数の線刻文が見られ、巨石文化の遺跡である。農耕文化が入ってからはカタメ石として崇められ、更に神仏混交の仏教文化が流入した頃から薬師神として祭られて現在に至っているが、先住民の精神文化を知るためにも貴重な記念物であり文化遺産である~ とあります。
また、伝によると、欽明天皇の御代に、上毛野君田道命(かみつけぬのきみたみちのみこと)という神様が、秋田県鹿角から、洪水に乗って津軽に漂着し、降臨したのがこの巨石であるとされていて、別名「猿賀石(さるかいし)」ともいわれています。石の上には神様が履いていた足駄と杖の跡や馬の蹄の跡が残っていて、雪が降っても、この石の上には積もることがないのだとか。。
神様の跡は分かりませんでしたが、古代人がつけた「線刻文」 らしきものは見ることができました。どんなことを刻んでいたのでしょうか。。
ところで、この「猿賀石」と呼ばれる巨石は、実はもうひとつあるのです。場所は津軽の大社・猿賀神社です。
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



↓最勝院五重塔 ※クリックで拡大します。







最勝院のシンボルともいえるこの五重塔は、藩祖・津軽為信の津軽統一の戦いにおいて、戦死した敵味方の供養のために建立したといわれており、明暦2年(1656年)に3代藩主・信義が着工し、その後、約10年の月日をかけて、4代藩主・信政により寛文7年(1667年)に完成したとされています。
塔の総高は31.2m、初重の床面積が32.7m²。日本最北端に位置する国の重要文化財指定の五重塔で、その優美で均整のとれた姿は、文化財の指定説明にも「實ニ東北地方第一ノ美塔ナリ」と記されているとのことです。
この五重塔には、次のような伝説が残されています。
~ その昔、あるところの下男が、毎晩自分の居間で草鞋や草履を作っていた。ある晩のこと、主人はその下男の居間から明かりが漏れているのを見て、中を覗き込むと、火の気のない居間の中が非常に美しく輝いて見えた。不思議に思った主人は下男に『火もなく焚き火もない部屋で、お前が仕事をしていると言うのも不思議なことだが、このように美しく輝いているは・・』と問いただすと、下男は『ハイ、私の所持しているこの太刀を抜いて部屋の隅に立てかけて置きさえすれば、火も焚き火もいりません。』と答えた。主人は下男の手から太刀を受け取り、かざした。するとその刀身は、眩いばかりの輝きをし、その光明は四方を照らし出した。主人はそれを名剣の徳と感じ取り、下男から譲り受け、尊敬と畏怖の念を込めて『火の丸』と名付け側に置いた。そして、後に五重塔へ納めたと言う。~最勝院HPで紹介している名刀『火の丸』伝説です。
この五重塔もまた、旧大円寺時代のもので、今でも地元の人達には「大円寺の五重塔」とも呼ばれています。四方から見るその姿はとても美しく、気高く、正に古都・弘前の象徴ともいえる建物です。貴重な文化財として、また、人々の憩いの場として、これからも親しまれていくのだと思います。
☆つがるみち☆



以来、津軽家の祈願所として厚く庇護され、「僧録」という領内の寺社総取締や、津軽真言宗五ヶ寺(最勝院・百澤寺:岩木山神社・国上寺・橋雲寺・久渡寺)の筆頭を務める寺院でした。その「由緒ある格式」について、最勝院HPでは次のような逸話を紹介しています。
~現在の弘前公園には下乗橋 という橋がある。追手門より進んで南内門を過ぎ、本丸へ入るための、赤い塗りの欄干が架かった壮麗な景色の橋である。 昔、弘前城が高岡城と呼ばれていた頃、歴代の津軽藩主はこの橋にさしかかると、乗っていた駕籠より降り、歩いてこの橋を渡るのを慣わしとしていたという。それで、いつからかこの橋を下乗橋と呼ぶよ うになった。しかし、最勝院の住職が城へ赴くときには、駕籠より降りずにそのまま通ることを許されていたと言う。その為、城内城下では『土踏まずの最勝院』と噂されたと言う。当時藩主の官位が従三位下であったのに対し、最勝院住職が正三位であったことに由来すると伝えられるのである。~
このような津軽を代表する「大寺」最勝院。先回は「水屋の鬼」を取り上げましたが、他のいくつか印象に残った建物等を簡単に紹介してみたいと思います。
↓境内のいくつかの建物など。クリックで拡大します。




◇三十三観音像
神社・寺院を問わず、多くの寺社の参道や境内には、三十三観音石像が立てられていますが、ここにもありました。観音像は境内入口 から仁王門(山門)までと、門をくぐってから本堂への道半ばまでの案内役を務めてくれます。多くの寺社では、「楊柳観音」が第一番に来るのだが、ここでは最終の三十三番に配されているのだとか。。それにしてもここの観音様達、鼻に白粉をつけていて 、なかなかオシャレです。何か特別な意味があるのでしょうか。
◇鐘 楼
江戸時代から戦前まで、弘前市森町に、当時の人々に時を告げる「鐘」があり、「森町の鐘」として親しまれていたそうです。ところが、その鐘は、戦争のため共出され、なくなってしまいました。鐘を惜しんだ市民達は、戦後、昭和31年(1956年)、当時の商工会が中心になり、ここ最勝院境内に普請を行い、鐘楼と梵鐘 を復元した分けです。そんな戦時中の苦い歴史を踏まえてのことでしょうか、現在は「平和の鐘」 として一般に開放されています。なお、鐘楼の基礎の石は戦前まで弘前公園本丸にあった藩祖・津軽為信の銅像(これも戦争で共出)の台座を使用したものとされています。
◇本 堂
本堂は、昭和45年(1970年)に改修されたもので、いかにも大寺らしい風格を感じさせる建物です。中には、大日如来や弘法大師空海が祀られています。この本堂の前 に三体のウサギの像があります。左右の大きなウサギは目立ちますが、中央にも賽銭箱の前にちょこんと座っている小さなウサギ。見過ごしてしまいがちです。このウサギ達は、ここが「卯年生まれの一代様」であることを示しています。左右のウサギ達は 、その姿が異なっており、一方は立ち、片方は座っています。体の毛までていねいに彫られていて、とても精巧なつくりです。
◇護摩堂
最勝院は、明治の神仏分離令により弘前八幡宮から分離し、明治3年に現在の地へ移転しましたが、当時、ここは「大円寺」の境内でした。大円寺は大鰐町へと移った分けですが、その旧大円寺の本堂であった建物が護摩堂です。境内にはその他、旧大円寺の正面玄関であった(旧)仁王門 をはじめ、六角堂など「大円寺時代」の古建築も多く残っています。この護摩堂は、現在でも、家内安全など諸々の祈願のため、多くの人々が訪れるということです。このお堂の前には一風変わった狛犬が置かれています。 何というか、猫のような、カマキリのような。。片方は誰が被せたのでしょうか赤い帽子を被っていました。私が訪れたときは、ちょうど市内の中学生達が遠足に来ていて、女子生徒達は、この狛犬を見て、「かわいい。」を連発していました。
ー次回は、ここ最勝院のシンボル「五重塔」を紹介します。
☆つがるみち☆



その後、分かったことですが、津軽地方には岩木川沿いに、鳥居を支えたり、守ったりしている「鬼」が住む寺社は30数ヶ所も在るということです。
今回、ご紹介するのは鳥居ではなくて「水屋」を支えている鬼たちです。場所は弘前市・最勝院。このブログの中でも、たびたび、その名前が登場する寺院です。
本堂まで ※クリックで拡大します。↓




最勝院は「金剛山光明寺最勝院」と号し、宗派を問わず、多くの人々の信仰を集めている大寺です。大きな山門(仁王門)には、「金剛山」の扁額の下に「卯歳一代様」と記されていますが、ここは「弘前天満宮」とともに、卯年生まれの一代様でもあります。
さて、目指す「水屋」は本堂の前。 どうしても中の龍神様 に目を奪われてしまいますが、上を見ると、必死の形相で屋根を支えている鬼の姿があります。
この水屋は、平成15年に行われた五重塔(国指定重要文化財)への本尊奉安を記念して建立された堂宇です。天井には、光明真言(こうみょうしんごん) という大日如来の徳が凝縮された「御真言」が描かれていて、その天井の梁を支えているのが四体の鬼達という分けです。この鬼達について、最勝院のHPでは、次のように紹介しています。
~ 鬼達は元々よこしまな鬼、つまり邪鬼であった。邪鬼は正しい教えや言葉に耳を貸さず悪の道に浸りきり、世の中の人を悲しませ、怒らせ、邪悪な快楽の世界へ誘う悪行を繰り返し、困らせ続けてきた。そこで、如来は忿怒の形相を示現し明王に姿を変え、教令(如来の教え)に従わせることにより邪鬼達をも迷いの淵から救い出そうと強く強く働きかけたのである。そして、その結果邪鬼達は改心し善鬼として如来の教えを信奉してゆくこととなった。この四体の善鬼達は人の感情を現す『喜怒哀楽』の表情を呈しつつ、仏法を護るべく天井の光明真言を今も渾身の力で必死に支えているのである。この最勝院の鬼達を『護法四善鬼』(喜鬼、怒鬼、哀鬼、楽鬼)と呼ぶ。~
「喜怒哀楽」を表している四体の「善い鬼達」は、東の天井を「哀鬼」が、西を「喜鬼」、南を「楽鬼」、そして北を「怒鬼」が、それぞれ支えています。間近で見ると、その表情が真に迫っていて、とても迫力があり、「がんばれ。」と声をかけたくなりました。⇒『護法四善鬼』画像
ー「最勝院」のご紹介、次回へ続きます。
☆つがるみち☆



ですが、家族やグループで参詣に出かけるときなど、各人の干支がまちまちで、一緒に廻るのは大変です。そんな時、一代様がすべて安置されていて、干支が違ってもみんなで一代様巡りができるお寺があるのです。名前は「神宮寺(じんぐうじ)」。 岩木山神社と並んで津軽の霊地といわれる平川市・猿賀神社の前にある寺院です。
日本各地にある「神宮寺」は、神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた神社を管理する仏教寺院のことで、「別当寺」とも呼ばれています。ここ平川市の「神宮寺」もそのひとつですが、由緒・沿革は次の通りです。
~神宮寺概要:神宮寺の創建は不詳ですが、古くから猿賀神社の別当となっていた為、猿賀神社と同じ様な由緒を持っています。猿賀神社は神仏交合し別当だった神宮寺は国家守護の祈願寺、天台密教の拠点として寺運も隆盛し、歴代領主にも庇護され藤原秀衛、北畠顕家、安部師季、安部教季がそれぞれ堂宇の修復や寺領の安堵が行われました。天正14年、津軽為信が祈願所としますが、南部家との対立もあり、猿賀神社十二坊が破却され、神宮寺の僧侶も追放されたため、一時、「別当」は弘前市・最勝院が務めるようになります。その後、元和6年に2代藩主・津軽信枚によって再度猿賀神社の別当に復権し、明治時代初頭に発令された神仏分離令により猿賀神社から独立し現在に至っています。 ※ 「青森県:歴史・観光・見所」HPからの引用です。~
本堂の中に入って祭壇を見てびっくり。中央奥に祀られている不動明王の前には何と赤い鳥居 が立っていました。正に「神仏習合」そのもの・・・。初めて見ました。
さて、一代様の八本尊は、「一代本尊礼堂」 に安置されています。参拝に訪れる方々は、こちらのお堂から中に入るようです。向かって左側から八幡大菩薩をはじめ、千手観音まで八体の守り本尊 が立ち並んでいる様は、なかなか壮観でした。
若い住職さんにお話を伺ったところ、「猿賀神社に初詣に来たときなど、家族連れでここにお参りしにくる方が多い。まず、ここをお参りしてから後に、それぞれの干支を訪ねるようだ。」と話してくれました。
何とも便利で、ありがたいお寺です。こういうところをつくった津軽人(というか日本人)の「知恵」・・。感心させられます。
※「一代様」の寺社と、ここ「神宮寺」に安置されている守り本尊を合わせてみました。下の干支をクリックしてご覧ください。








☆つがるみち☆



由緒によると、創建は崇神天皇の御代にまでさかのぼり、斉明天皇の時(658年頃)に阿倍比羅夫が、津軽半島の小泊村奥尾崎(現中泊町)に、熊野三所大権現を勧請したのが始まりとされています。(※中泊町・権現崎にある尾崎神社には、熊野権現が祀られており、紀州から海を渡った「熊野信仰」が、古くから本州北端の地にも根づいていたことが分かります。)その後、延暦7年(788年)頃に、弘前の現在の地に移建され、室町時代後期からは、津軽氏の崇敬社となり、天正16年(1588年)には津軽為信が社殿を修築するなど、津軽藩の歴代藩主により修築・再建がなされ、現在に至っています。
↓熊野奥照神社 ※クリックで拡大します。





境内の中には、いくつかの末社の他に、大きな「ガマガエルの像」 が置かれており、びっくりさせられます。これは、「安全に・無事にカエル」ための「交通安全祈願碑」だそうです。以前、西目屋村・乳穂ヶ滝の記事で紹介した「ガマ石」には、このカエルの画像を使いました。→右サイドの「My contents」内の「ガマ変化スライド」をご覧ください。
さて、この社の本殿 は、慶長15年(1610年)に、津軽信枚により再建されたもので、その造りや細部の彫刻などは江戸時代前期の神社本殿建築の特色をよく残しているとされ、昭和29年に国重要文化財に指定されたものです。ー「石造狛犬」は、この本殿の前にあります。社務所でお願いし、本殿内に入らせてもらいました。この狛犬見たさにここを訪れる方々も多いようです。
弘前八幡宮では、残念ながら間近に見ることはできませんでしたが、ここでは近くでしっかりと見ることができました。見れば見るほど「味」のある親しみがわく狛犬です。ぷっくりしたお腹や、肩まで垂れ下がっている髪の毛(私には、首や肩のあたりの髪の毛が「手」に見えました)・・。
↓いろいろ画像を見比べてみました。クリックして見てください。





この3つの社(多賀神社、弘前八幡宮、熊野奥照神社)の狛犬は、いずれも寛文四年(1664年)奉納の狛犬 で、石質・形状・大きさが酷似しているため、同一工房において造られたと考えられています。石材は、県産のものではなく、福井県産の「笏谷石」であることから、日本海航路で搬入されたものと推定されており、当時の文化交流を知る上で貴重なものとされている分けです。
ほぼ同様の狛犬は青森市の小金山神社にもありました。狛犬さんは、「重石の代わり」にもなって、荒海を航海する船を守っていたのかも知れませんね。
☆つがるみち☆



(※卯年は以前ご紹介した弘前天満宮の他に弘前市・最勝院もありますが・・。)
弘前八幡宮はその名の通り、総本社は宇佐八幡宮(大分県宇佐市)で、誉田別命(応神天皇)、息長帯比売命(神功皇后)、比売大神を祭神とする「県社」であり、「八幡神(八幡大菩薩)」は、戌・亥年生まれの守り本尊とされることから、ここが一代様になっている分けです。
↓弘前八幡宮 ※クリックで拡大します。





大きな一の鳥居から前方に道路が延びており、交差点を渡りきったところに二の鳥居が立っています。昔はこの道も境内の中だったと思われます。鳥居をくぐるとそこは広い境内。珍しい交通安全祈願塔 や、今ではあまり見かけなくなった二宮金次郎の像 も立っています。正面の拝殿 の中には、「八幡神社」と記された大きな扁額の左右に戌と亥を描いた絵馬 も掲げられていました。
弘前八幡宮の草創は、平安初期に坂上田村麿が八幡村(旧岩木町)に小祠を建て、宇佐八幡宮を遥拝し、武運を祈願したことに始まるとされ、その後、2代藩主・津軽信枚が弘前城を築くにあたり、城の鬼門(北東)を守護するため、慶長17年(1612年)に八幡村から御神体をこの地に遷したといわれています。信枚は「霊夢」によってこの地を選定したのだとか。。以来、「弘前総鎮守の社」として藩内で最も重要な神社の一つとなった分けです。
本殿には、拝殿の脇に設けられている格子戸をくぐって行くことができます。この戸のそばに奇妙な狛犬? が祀られていますが、これは自然石だそうです。氏子の方が奉納したものなのでしょうか。
本殿と唐門は 、創建当時の建物で、東北地方では珍しい桃山文化の様式を伝える代表的な神社建築といわれており、昭和11年に国の重要文化財に指定されたものです。
ところで、この唐門の前に一対の狛犬が鎮座していますが、弘前市指定有形文化財であるこの「石造狛犬」は、石材が福井産の笏谷石であることから「笏谷狛犬」とも呼ばれています。 ー この狛犬と年代・大きさなど、ほとんど同じものが、三十三霊場2番札所・多賀神社(清水観音堂)にもあるのです。いわば「兄弟狛犬」。
写真を比べてみました。 細かい相違はあるにしても、ほんとによく似ています。実は、この2つと同じものが、もう一体あるのです(合わせて三兄弟)。場所はこの弘前八幡宮のすぐ近く「熊野奥照神社」です。 ー次回へ続きます。
☆つがるみち☆



山門には「安養山」と刻まれた木彫りの大きな額が掲げられ、門の脇には、ここが三十三霊場のひとつであることを示す石標 が立っています。中へ入ると左手には地蔵堂 があり、地蔵尊が祀られていました。正面に見えるのが本堂。三十三霊場であるとともに、「津軽八十八ヶ所霊場26番札所」でもあることを示す木札が掲げられています。
夢宅寺 ※クリックで拡大します。↓





「夢宅寺」ーこの柔らかで美しい寺名は、弘前藩4代藩主・津軽信政が見たひとつの「夢」に由来しています。
貞享元年(1684年)の頃、悪質な眼病を患っていた信政は、病気快癒を願って津軽一円を巡っていましたが、当時「薬師堂」と呼ばれていた浅虫のこのお堂にも治癒を祈願しました。満願の日、お城の庭を眺める夢を見た信政が目覚めたときには、眼はすっかり治っていたそうです。大いに喜んだ信政は、「夢宅」の二字を漆書きにして、奉納し、ここを藩主祈願所としたと伝えられています。
信政直筆によるこの「夢宅」の額 は、現在でも本堂の中に掲げられていて、天井には、弘前藩との深い関わりを示すように、津軽牡丹 が描かれていました。
その後、元禄6年(1693年)に、雲芸和尚(青森・常光寺4世住職)が薬師堂を末庵とし、「夢宅庵」を開きましたが、このとき、津軽屋市左衛門という人が観音像を寄進したと伝えられています。以来、観音霊場として多くの人々の信仰を集め、寛延年間(1748~51年)には、23番札所となりました。「夢宅寺」を称したのは明治7年(1874年)のことです。
観音堂は本堂の中の正面、向かって右側にあり、小さな三十三観音像に囲まれて、三体の大きな観音像 が安置されています。
三体は向かって左から、「聖観音」、「千手観音」、そして「如意輪観音」と思われます。霊場の紹介書などによると、ここの本尊は「聖観世音菩薩」ということですが、中央には大きな千手観音像 が祀られていました。なお、本尊の聖観音像 は、寺内の大銀杏より彫られたものとされています。
浅虫温泉は、情緒ある温泉の風情を残し、四季を通じて観光や湯治で賑わうところです。巡礼以外にも観光を兼ねて、ここ「夢宅寺」に詣でる人々も多いということです。
☆津軽三十三寺社巡り☆



浅虫にある23番札所「夢宅寺」は、巡礼のひとつの「区切り」ともいえるお寺で、ここに詣でた後に、再び弘前方面へと霊場巡りが続く分けです(私は、順番通り回っている分けではありませんが)。中には、ここから霊場の「総本山」ともいえる下北・「恐山」 まで足を延ばす方々もおられるようです。私は、浅虫の温泉街をゆっくり歩きながら、夢宅寺へと向かいました。
↓浅虫温泉と夢宅寺 ※クリックで拡大します。





青森の市街地を抜け、4号線バイパスをしばらく進むと、左手には海、右手に浅虫温泉の町並みが見えてきます。海辺には、この景勝地を代表する2つの島があります。湯ノ島 は、約600~700万年前の火山活動によって生まれた島で、正面には赤い鳥居と弁財天を祀る祠があります。明治30年頃、村民が赤茶けた島に黒松の苗木約2,000本を小船で運び、植樹したといわれています。
一方の裸島 は、草木がほとんど生えていない高さ33mの奇岩で、海の上にドーンと佇立しているその姿は「浅虫のシンボル」とされています。少し赤味を帯びた黄褐色のこの島には、次のような伝説があります。
「昔、この辺りの村人の家に一羽の鷲が舞いおり、庭で遊んでいた幼児をさらって飛んで行った。びっくりした母親が懸命にあとを追って行くと、鷲は裸島の岩上に止まって羽を休めていた。我が子を奪い返そうとした母親は必死で岩肌に爪を立て、夢中で這い上った。そのため、生えていた草木はむしり取られ、母親の指から流れ出た血で、岩が赤く染まったのだという。 ~『青森の伝説』角川書店より~」 ー母親の愛情の深さを示すもの哀しい話です。
さて、浅虫温泉は、古くから開けた青森県を代表する温泉街で、「東北の熱海」「青森の奥座敷」とも呼ばれています。黒石市の温湯温泉は「鶴」、大鰐温泉は「牛」など、温泉の発見譚には、鳥獣に関するものが多いのですが、ここ浅虫温泉は「鹿」によって発見されたといわれています。
まちの由来によると、~ここがまだ漁村だった頃、この地にやってきた慈覚大師が、湯あみをしている一頭の傷ついた鹿を発見し、傷が癒えて走り去った跡を見ると、温泉が湧き出ていた。~ という話が伝えられています。慈覚大師によってそのことを知らされた村人は、その湧き湯で、刈り取った「麻」を蒸して繊維をとる作業をしたので「麻蒸し」と呼ばれ、それが「浅虫」という地名に変わっていったのだとか。。その後、1190年に円光大師(法然)が、ここを訪れた際、村人に入浴をすすめたのがきっかけで、以来人々に利用されるようになったとされています。
駅前には「足湯」も設けられていて、地元の人々でしょうか、汽車を待っている人々でしょうか、ゆったりとくつろいでいました。この「足湯」はそれぞれの温泉地にありますが、いずれもなかなか趣があります。⇒温泉地の足湯
浅虫は、そんな「温泉」の古い歴史を感じさせる老舗の旅館や、近代的なホテルが立ち並ぶまちです。温泉街から、山手の方に小道を進むと、目指す「夢宅寺」の山門が見えてきました。 ー次回へ続きます。
☆津軽三十三寺社巡り☆



シンボルである環状列石は、外帯の直径が約35m、内帯は約29mとされ、中央の立石を軸にした「大きな円形劇場」を思わせる造りです。この環状列石の奥の森には、「土坑墓跡」や「住居跡」、そして「捨て場跡」などの遺構が残されており、そこからは、たくさんの土器や石器、土偶、祭祀に関連すると思われる遺物等が発見されています。遺跡の入口には「ミニ資料室」 が設けられ、発掘当時の様子や出土品の写真など、遺跡の全体像を見ることができます。それらを参考にしながら、ざっと一巡りしてみました。
小牧野遺跡の遺構など ※クリックで拡大します。↓







環状列石は「小牧野式」と命名された規則正しい配列をしていますが、外帯には、一見、ランダムに置かれているような組石があります。これらは特殊組石 と呼ばれ、当時の縄文人にとって「聖なる場所(例えば岩木山)」の方向を指し示すもの(あるいはその祭壇)と考えられているようです。また、中央の立石と「馬頭観音」と刻まれた立石を結んだ線は太陽の通り道 で、夏至の日には中央立石から馬頭観音碑の方向へと、日が昇ることが確認されており、いずれも、ここが「祭祀場」としての役割を負った場所であることをうかがわせます。⇒中心からみた組石の方向
森の中に足を踏み入れると、大きな土坑墓(どこうぼ)が見えてきます。土坑墓は文字通り、人の遺体を納めて葬送した場所ですが、縄文人は、いちど埋葬した遺体が骨になった時点で、取り出し、遺骨を再び埋葬する習慣(再葬)をもっていたといわれています。その遺骨を入れた「壺」が甕棺土器で、ここからは現在、土葬用の墓50基以上の他、環状列石の外帯と内帯の間から「土器棺墓(再葬用の墓)」が3基程見つかっています。⇒土坑墓と土器棺墓
また、土坑墓の周辺からは、表面に模様があり、裏面は滑らかな三角の形をした岩版がたくさん発見されていますが、この「三角形岩版」 は、祭祀用として墓の上に置かれたものと考えられており、小牧野遺跡の最も特徴的な遺物とされています。
森の中には、住居跡 や捨て場跡 もありますが、ここからは、土器や石器などの生活用具に加えて、祭祀用道具と思われるものが、
たくさん出土しています。環状列石を造っていた時や、祭祀の時などに使われたものなのでしょうか。⇒出土品
遺跡内を一巡りした後、展望台 に行ってみました。眼下に陸奥湾が広がるすばらしい眺めです。そばには、縄文人も見たと思われる樹木も植えられており、正に「縄文の森」といった感じです。⇒森の中の樹木
さて、青森の「縄文」を一躍有名にした三内丸山遺跡は、ここから近い場所にありますが、それまで大規模な拠点集落であった三内丸山は、縄文時代中期末(約4,000年前)頃になると、縮小していきました。理由は、長い間、同じ土地で生活したことによる食糧不足とか、環境の汚染、祭祀形態の変化など様々なことがいわれています。いずれにしても、この時期には大規模集落が拡散・分散し、人々は、他の地に居住しはじめていったと考えられています。ここ小牧野遺跡も、そのひとつだった分けです。
しかしながら、「山」を切り開き、離れた川原からたくさんの石を集め、巨大な環状列石を造りあげるためには、たくさんの労力が必要であり、いくつかの集落の人々がまとまって作業にあたったとされています。
ー ここ小牧野遺跡は、そのような周りの集落の人々が共同して造りあげた「聖地」だったと思われます。年に何回か人々はここに一同に会し、祭祀を行っていたのだと思います。そして、ここに居住していた人々は、中心となって祭祀を執り行う集団だったのではないでしょうか。
☆つがるみち☆



青森市街から南へ約10㎞程、津軽三十三霊場・入内観音堂の近くにあるこの遺跡は、縄文時代後期前半(約4,000年前)のものとされ、深鉢形土器、壺形土器等の土器や、竪穴住居跡、土坑墓群、貯蔵穴群等が発見されており、平成7年3月に「国指定史跡」として認定された貴重な遺跡です。観音堂巡りのついでに、ちょっと寄り道してみました。
↓小牧野遺跡環状列石 ※クリックで拡大します。







荒川と入内川の間に挟まれた、標高140m~150mの台地に築かれたこの遺跡は、数々の貴重な出土品もさることながら、 「環状列石(ストーンサークル)」 が見つかったことで、一躍脚光をあびた所です。「環状列石」といえば、東北では秋田県鹿角市の「大湯環状列石」 が有名ですが、環状列石は、縄文時代の共同墓地であり、それに伴う祭祀場であるといわれています。大湯の環状列石は舌状台地の先端部に、長い時間をかけて築かれたものとされていますが、ここ小牧野は、「山」を切り崩し、平らにするなど、大規模な土木工事のもと、計画的に造られたものだといわれています。
この遺跡は長い年月の間に地中に埋もれ、江戸時代には馬の放牧地として使われていて、「小牧野」という地名もそのことに由来しています。特徴のある2つの立石 には「馬頭観音」の文字が刻まれていますが、この立石が馬の供養碑として利用されていたことを示しています。ー残念ながら文字側からは撮れませんでした。
この環状列石の発見は、平成元年に地元の高校の考古学部が調査したことが始まりでした。辺りは「石神平」と呼ばれるほど、たくさんの石が転がっていましたが、これらの石は、丸みを帯びた川原石だったため、「丘陵(山)の上に、こんな石があるはずがない。」と考えたことが、大発見につながったものです。
私はまず、遺跡全体が見渡せる小高い丘の上に登ってみました。航空写真 ほどではないにしろ、1mほどの立石 を中心にして、環状列石は、外帯、内帯、中央帯の三重の輪で構成されているのが、何となく分かります。
実際に周りを歩いてみると、数多くの石が場所によって直線的に、そして円形に規則的に配置されている ことが分かります。
外帯、内帯の組石は、縦に置かれた石の両側に平らな石を数個積み重ねた、「石垣」を思わせる造りで、この特異な組石は「小牧野式配列」 と呼ばれています。
はるか昔、このような施設を築き上げたのは、どんな人々だったのでしょうか。
ー次回へ続きます。
☆つがるみち☆



参道の途中には、一対の逆さ龍 の石像が置かれていて、ドキッとさせられます。そこからは急な石段が続いており、登って行くと、間もなく拝殿が見えてきました。小高い山の上といった感じで、下の方からは谷川のせせらぎの音が聞こえてきます。「石」そのものを祀っているので本殿はなく、この拝殿の後ろへ回り込んだところに、ご神体の「石神様」があります。
石神神社と石神様 ※クリックで拡大します。↓





おそるおそる拝殿の後ろに進み、「石神様」 を目の当たりにしたときは、頭をガツンとやられたような衝撃をうけました。全身金縛り状態というか、体中が凍りついたというか・・大げさに言っている分けではなく。。その姿の異様さは、見る人に畏れを抱かせるに十分です。ぎょろっとした大きな「目玉」は、人間の心の奥底までを見透かしているような・・そんな感じです。とても自然の造形とは思えないこの異形の大石が、古くから「神様」として崇められてきたことが、実感できました。
大きな2つの「目玉」は、それぞれ、伊邪那岐命が禊をして、左目から「天照大御神」、右目から「月読命」を生んだという神話になぞらえられています。右目の「月読命」 からは、以前は霊水が湧き出ていて、眼病や難病に効能があったのだとか。。左目の「天照大御神」 は、右目に比べると少し柔和で優しい感じがします。いずれにしても、正に神様が「彫り込んだ」としか思えないような不思議な造りです。
伝承によると、「石神様」の発見者は、隣村の長内弥十郎という村人で、目を患っていた弥十郎は、ある日、駒田山の清水で目を洗うと眼病が治るという夢を見、翌日、駒田山に分け入り、この不思議な自然石を見つけたとされています。弥十郎はさっそく、窪みから湧き出ている清水で目を洗ったところ、夢のお告げの通り眼病が治ってしまったのだとか。。この話は、やがて広まり、その霊験が喧伝され、「石神様」として、多くの信仰を集めるに至ったということです。
また、明治になると、神仏混淆禁止令により、「神社の形態が整っていない」という理由で、石神神社の信仰は禁止されました。しかし、秘かにここを訪れ、霊水を汲んでいく人々は絶えなかったため、ついに石を破壊しようと石工が派遣されましたが、手を触れた石職人が病気になったり、自然災害が頻繁に発生したりして、ついに「石神様」を壊すことができなかったという話も残されています。 ー いずれにしても、この「石神様」は、これからも人々から、畏怖され、崇められていくことでしょう。
☆つがるみち☆



↓御鈴大滝まで ※クリックで拡大します。





(石神神社までは)明治時代には集落内を通り、山地へ向かう林道が整備されたものの、当時は、神社に至る満足な登山道はなく、未開の地だったとされています。観音堂へお参りにきた地元の方に道順とその様子を聞いてみたところ、「入内の村を過ぎて林道を真っ直ぐ。車でも行けるが、じゃり道で狭く、すれ違うのも大変。崖があり、ガードレールもないので気をつけて。」というお話でした。私は、どうしようか迷いましたが、途中に「御鈴大滝」という美しい滝もあるということを聞いていたので、とにかくそこまでは行ってもみようと思い、車を進めました。
話のとおり、集落を過ぎ、林道に入ると大変なでこぼこ道。2回ほど車とすれ違いましたが、道が細く、一苦労。「このままじゃだめだな。」と思った私は、少し広い場所に車を置き、歩くことにしました。
林道の中は とても静かですが、鬱蒼とした感じではなく、景色を眺めながらゆっくり歩きました。途中に「二十六夜大神」 と書かれた鳥居が立っていましたが、寄らずに素通りしました。後で分かったことですが、ここ石神神社一帯には、巨石が多く、それぞれを「○○神」として祀っているようです。
そこからしばらく歩いて行くと、右手に大きな鳥居 が見えてきます。下の方からゴーゴーと水音が聞こえてきたので、ここが「御鈴の滝」だと分かりました。さっそく鳥居をくぐって下の方へ降りていくと、不動明王 が立っています。そこから少し石段を降りると、木々の間から滝が見えてきました。高さ15mといわれるこの滝の姿はとても美しく、何人かの方々もネット上で「もっと有名になってもいいのに。。」と述べておられます。本当にその通りだと思います。
⇒御鈴大滝画像
滝を見ながら少し休憩し、再び山道を歩きはじめると、地元の方の車が見えたので「石神神社までは、どのくらいですか?」と聞いたところ、相手の方は少しキョトンとしていましたが、「・・あー、神様か。あと少しだよ。」と教えてくれました。 ー 地元の方々にとっては、「神様」というだけで通じるようです。それだけ信仰が根づいているということでしょうか。
ー次回へ続きます。
☆つがるみち☆



私が訪ねた史跡や寺社だけでも、長脛彦、源義経、花山院忠長、長慶天皇などの伝説にふれることができました。
そして、ここ入内の地には、あの平将門の孫・信田小太郎(しだのこたろう)という人物の伝承が残されているのです。信田小太郎は、幸若舞に登場する人物です。
『しだ【信田】 信太,志田とも書く。幸若舞の作品。上演記録の初出は1551年(天文20)。作者不明。平将門の孫信田小太郎(しだのこたろう)は幼少で父の死にあい,母は老臣浮島太夫の諫言を聞かず,小太郎姉千寿の夫小山行重(こやまゆきしげ)に所領の常陸信田庄の半分を与えて,小太郎の後見を依頼する。しかし,小山はすべての所領を横領し,母と小太郎を追放する。さらに,母を調伏で祈り殺し,降参した小太郎を千原太夫に殺させようとする。~kotobankより』
入内観音堂 ※クリックで拡大します。↓





(この幸若舞の物語のように)家臣の裏切りにあった小太郎は、諸国を放浪する旅を続け、天慶の頃(938~47年)、ここ入内の地に住み着き、白山権現社と観音堂を建立して、神仏に救済を祈願したといわれています。全国の白山権現社の多くは、菊理媛神(ククリヒメのミコト)を祭神としていますが、神話では菊理媛神は、黄泉比良坂で伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたところから、「平和・家内安全・仲裁」の神として崇められています。ー 伝説とはいえ、この菊理媛神を祀った小太郎の切ない思いが伝わってくるようですね。この「白山宮」 は、観音堂の裏側を少し登った小高い丘の上に立っています。
さて、観音堂には、隣の小金山神社とは別の参道が道路から延びていて、お堂には、 参拝した方々のたくさんのお札が掲げられています。この観音堂は、慶長年間(1596~1616年)に、津軽為信が再建し、「華福寺」の寺名を与えて保護しましたが、山奥の寺だったため、僧が住み着かず荒廃してしまったといわれています。
しかしながら、村人達は寛永18年(1641年)に新たに堂宇を建立し、その後、幕末まで霊場の24番札所として、多くの人々の信仰を集めてきました。本尊は「聖観世音菩薩」。恐山(おそれざん)に円通寺を開いたという慈覚大師の作と伝えられています。ここもまた、明治の神仏分離によって、本尊は上納を命ぜられましたが、観音像がなくなっても参詣する人々は絶えることはなかったそうです。その後、廃仏毀釈の流れが薄らぐと、村人達は隠し持っていた古い観音様を祀り直したのだとか。。
市街地から遠く離れた山里に静かに佇むこの観音堂は、昔も今も住民の「心の拠り所」。私が参拝を済ませ、駐車場で休んでいる間にも、何人かの方が車を降り、お堂にお参りし、さらに奥にある村へと向かっていきました。
☆津軽三十三寺社巡り☆



伝によると、大同年間(806~10年)に、蝦夷征伐のため出陣した坂上田村麻呂が、ここに住んでいた「大嶽丸」という「鬼」を退治し、その首塚の上に観世音菩薩を安置したのが始まりとされています。
↓小金山神社 ※クリックで拡大します。





広い駐車場に車を置き、辺りを見るとこんもりとした森の中に、観音堂と「小金山神社」が並んで建っているのが見えます。私はまず、神社の方から巡ってみることにしました。
一の鳥居の「扁額?」は、ちょっと変わっていて、石板に「小金山神社」 と刻まれており、何となく「小判」を思わせます(金色ではありませんが)。「小金山」という神社名の由来は、必ずしもはっきり分かっている分けではありませんが、宮城県の金華山・黄金山神社と同じく、金山彦神(かなやまひこのかみ)と金山姫神(かなやまびめのかみ)を祀っている社です。神話によると両神は、伊邪那美神の吐瀉物から生まれたとされ、吐瀉物が銅や鉄を溶かした状態を連想させることから、「鉱山」を神格化した神だといわれています。ここ入内の地でも、かつて「金」とまではいかなくても、なにがしかの「鉱物」が採れたのでしょうか?地元には「川から時々、金が流れてきた。」という言い伝えも残っているようです。
鳥居をくぐって参道を進むと、大きな神木が2本。 その後ろに、「狛馬?」と「狛犬」が見えました。この馬の石像、 よく見ると、一方はしっかりと胸を張り、前を見ているのに対して、片方は「しょぼん」とうつむいているような感じで、とてもユーモラスです。狛犬は どちらも元気いっぱい。とても愛嬌があって、親しみが持てます。
さて、この神社にはもう一対、本殿 に、青森市の有形文化財に指定されている狛犬が奉納されています。
説明書き によると、この一対の狛犬は、 寛文5年(1665年)に越前国の中村新兵衛という人が寄進したもので、狛犬の石の材質は、福井市足羽山(あすわやま)産出の凝灰岩の一種、 笏谷石(しゃくだにいし)であるとされています。髪の毛が真っすぐに 垂れ下がっている姿が特徴的で、何となく、あのスフィンクスに似ています。
ところで、「笏谷石」という言葉から思い出したことがあります。以前、弘前市の多賀神社(清水観音堂)を訪ねたときに、同じく福井県の「笏谷石」で造られた狛犬を見たような気がしたので、写真を比べてみました。 髪の毛は違うものの、両手の位置や表情、ぷっくりしたお腹の感じなど、とてもよく似ています。当時(江戸前期)から、日本海を経由して、このような「文化」の交流・交易が盛んに行われていたことがよく分かります。
ー次回へ続きます。
☆津軽三十三寺社巡り☆

