
大イチョウの多くは、その見事な「乳根」に因んで「たらちね(垂乳根)の銀杏」とも呼ばれ、特に女性の信仰の対象となっている名木をはじめ、「神木」として崇められているものも多く、様々な伝説なども残されています。

県南・十和田市にある「法量のイチョウ」 は、樹齢が約1,100年、高さ32m、幹回り14.5m、青森県では2番目に国の天然記念物に指定された大樹です。
平安時代、ここには「善正寺」というお寺があったとされていて、このイチョウは寺院創建の記念として植えられたと伝えられています。また、このイチョウは、十和田湖伝説 の主である南祖坊(なんそのぼう)が手植えしたものだという伝承も残されています。
「明神様」とも呼ばれるこのイチョウは 【毎年黄葉する前に初雪の季節を迎え、緑を残したまま落葉してしまい、日本一気難しいイチョウと写真愛好家たちを嘆かせる。しかし、いったん黄葉すると、杉林の濃い緑を背景に見事なコントラストを見せてくれる。※広報「とわだ」より】ということですが、今年はどうなのでしょうか。。

上北郡・おいらせ町にも推定樹齢1,100年という「根岸のイチョウ」 があります。こちらは高さ約32m、周囲は16mとされている名木です。
「長寿日本一の大いちょう」と呼ばれているこの巨樹には慈覚大師にまつわる伝承があります。 【恐山に向かう道すがら、この地を通りかかった大師は、川のほとりの小高い丘に腰を下ろし、景色を眺めていたが、旅の疲れに、いつの間にか手にしていたイチョウの杖に寄りかかって眠ってしまった。大師が目を覚ましたところ、イチョウの杖に根が生え、動かなくなってしまった。そこで大師は、いきさつを記した紙片と、一体の不動尊像をその場に置いて立ち去った ※案内板より】 ー その大師の残した杖が大樹となり、現在の大イチョウになったという分けです。伝説はともかく、このイチョウが昔も今も人々の信仰の対象であることには変わりないようです。

さて、私は「関の甕杉」を見た後、駐車場に引き返しましたが、そこには素晴らしい大イチョウがありました。この辺りは昔、「折曽の関」という山城があった所ですが、その地名に因んで「折曽のイチョウ」と呼ばれています。高さは約20m、周りは12mといわれていますが、いわゆる「番付」にはのっていません。「隠れた名木」とでもいえばいいでしょうか。その整った姿形は 駐車場からもよく見え、私たちの目を楽しませてくれます。側には、地元の「長寿会」の方々による銀杏観音 も立っていました。樹齢は1,000年ともいわれているこのイチョウにあやかってのことでしょうか。近づいてみると、まるで巨大な傘の中にすっぽりと入ったようです。土に突き刺さったような乳根?、太い幹回り、地面すれすれまで広がった黄色い葉っぱなど、なかなかどうして堂々たる大樹でした。
⇒折曽のイチョウ
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遠くから見た姿が水甕を伏せた形に似ているので、「甕杉(かめすぎ)」と呼ばれるこの大杉は、古くから信仰の対象だったようで、その名前は昔、「神木(かみすぎ)」と呼ばれていたのが訛って「かめすぎ」になったともいわれています。この名木の側には、南北朝時代の「古碑(板碑・供養塔)」が数多く建てられており、「関の甕杉と古碑群」と呼ばれる名所のひとつになっています。

駐車場から少し坂道を歩いて行くと、長い石段が見えてきます。 ここが入口で、その先には赤い鳥居。入口の手前には
案内板とともに菅江真澄の碑 が立っていました。
江戸時代の紀行家・菅江真澄は、寛政9年(1797年)にここを訪れ、その著『都介路廻遠地(つがろのおち)』で「かめ杉は山ぎはの小高き処にあり、その木のもとに貞和三年(1347)貞治六年(1367)石ぶみどもたてり。」と記しており、当時から大杉と古碑があるこの場所は「名所」だったことが分かります。
鳥居をくぐった所に古碑と杉の木はあり、近くには、いくつかの祠とともに「金井安東古地之碑」 という安東氏の顕彰碑が立っていました。

顕彰碑の通り、この古碑群は安東氏ゆかりのもので、説明板には、【この古碑は61~160cmある大小不同の自然石を使用した供養碑でこの場所から42基出土されており、最も古い碑は暦応3年(1340)で新しいのは応永8年(1401)と判明しています。・・碑面には安倍(※安東)という姓が刻まれていることからその一族を供養するために建てられたと推測され、・・宗派的には"阿号"が判明されているので、一遍上人を開基宗祖とする時宗の信徒によったものと考えられます。】とあります。
深浦は、安東氏の要港として十三湊とともに賑わい、鎌倉時代から南北朝時代にかけてその拠点だった所ですが、この大杉のある辺りには、「折曽(おりそ)の関」という山城(館)があったといわれています。
1268年(文永5年)頃から、津軽で蝦夷の反乱が相次いだため、この地を治める蝦夷管領代官・安藤季長(あんどうすえなが)は、その鎮圧にあたっていましたが、蝦夷の抵抗は収まらず、鎌倉幕府は1325年(正中2年)に代官職を季長から同族の季久(すえひさ)に替えます。ところが、このことが安東氏の内紛を招く結果となり、津軽は大乱に巻き込まれることになります。「安東氏の乱(※津軽大乱とも)」と呼ばれるこの争いの調停のため、幕府(北条得宗家)は、たびたび追討使を派遣しますが、容易には沈静化できなかったされています。
この大乱は、時代的には「元寇」から鎌倉幕府滅亡(1333年)までの出来事であり、鎮圧できなかった幕府の権力の弱体化を物語るものでもあるとされていますが、 この乱の当時、安藤季長が城を構えた所が、この「折曽の関」で、多くの供養塔は、その争乱を偲ばせる遺跡として重要視されている分けです。
古碑は、祭壇を真ん中に 前列、後列に分かれて整然と立っていて、碑には梵字や願文、願主名、年紀など が刻まれていました。

さて、「関の甕杉」は、高さ約30m、幹回り8.2m、樹齢は1000年といわれる大樹です。
近づいてみると、その大きさ、どっしりとした姿形 に圧倒されますが、「荒々しい」という分けではなく、たくましさの中にも、どこか「可憐」さを感じさせる大杉です。
この名木は、古の多くの争乱の歴史を見つめてきただけではなく、その整った容姿は 街道を旅する人々に「安らぎ」をも与えてきたのだと思います。
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役場庁舎の近くにあるこの社の手前には「鰺ヶ沢町奉行所跡」 が残されています。鰺ヶ沢は、津軽藩の「御用湊」として賑わった所ですが、湊の管理や治安維持のため設けられたこの奉行所は、明治2年まで置かれていたとのことです。
石造りの鳥居をくぐると登りの石段 が延びており、境内へと続いています。高台にある境内からは、鰺ヶ沢港 を望むことができました。境内にある宝物殿? や拝殿には、船主や船頭が航海安全祈願のため奉納した船絵馬が多数掲げられているとのことですが、見学のためには事前の申し込みが必要なようです。

さて、縁起によると、この神社は大同2年(807年)に坂上田村麻呂が「蝦夷降伏祈願所」として祠を創立し、大刀一口と白旗八旗を納めて「白旗宮」と称したのが始まりとされています。康元元年(1256年)には、時の執権・北条時頼によって再建されたと伝えられ、その後、津軽為信が社殿の造営を行い、「鰺ヶ沢総鎮守」と定め、以来、歴代藩主の参拝が続いたといわれています。
長年、海運業者や漁業関係者から崇敬され、文政4年(1822年)までは、高台の境内に「常夜塔」が設置され、灯台の役割を果たしていたとされており、その時の記念として「白八幡宮常灯碑」 が立っています。
また、7世紀に阿部比羅夫がこの地を訪れたという伝承もあり、その時、境内から蝦夷渡海の日和を見るために腰掛けたとされる「比羅夫石」 もありました。

本殿の周りを取り囲んでいる玉垣 は、鰺ヶ沢湊を利用した人達や船問屋達が奉納したもので、文化13年(1816年)に造られたことが記されていて、当時の鰺ヶ沢海運史の資料として貴重なものとされ、「奉納船絵馬」と共に鰺ヶ沢町指定有形文化財に指定されています。
びっくりしたのは、この本殿の前の狛犬。狛犬というよりも「怪獣」 を思わせるその姿形は少し異様な感じがしました。しかし、よく見ると風化がかなり進んでいて、かわいそうな気もしましたが。。。

延寶5年(1677年)に始まったとされるこの神社の大祭(白八幡宮大祭)は、京都の時代まつりと祇園まつりにとてもよく似ていることから、「津軽の京まつり」と呼ばれ、次のように紹介されています。【白八幡宮大祭は、300年以上続く伝統行事です。現在は4年に1度行われ「津軽の京まつり」とも言われています。大祭の中で最も華やかなのは、町の無形文化財に指定されている「神幸祭」(御神輿行列)。二基の神輿を中心に乗馬の神職、御神馬など、古式ゆかしい装束に身をまとい御神宝や祭具を捧持する人々は300名以上で、およそ1kmの行列となって、「行導」の音を奏でながら進みます。行列の後には、各町内の山車が続き、男児による「チャンチャレンコ」、女児による「夜かぐら」の踊りが披露されます。最終日には、御座船にお神輿をお遷しして、港町ならではの海上渡御も行われ、全ての漁船は、満艦飾に飾り立てられ、御座船の後に続き、華やかさを一層際立たせます。※鰺ヶ沢町HPより】
都と津軽を結ぶ海運の拠点として栄えた鰺ヶ沢の繁栄を偲ばせるお祭りで、今年はその年にあたり、厳かに、そして賑やかに行われたようです。⇒白八幡宮大祭
ー 様々な伝承が残るこの社は、「浜の守り神」と呼ぶにふさわしい所でした。
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県道31号線は、十腰内の集落を過ぎると間もなく鰺ヶ沢町に入ります。途中で右折すると、つがる市・森田町(旧森田村)。野外円形劇場 があるレジャー施設「つがる地球村」から少し進んだ所に「石神遺跡」 があります。
狄ケ館(えぞがだて)溜池 周辺の丘陵地帯は、明治の頃には既に「遺跡」の存在が広く知られていた所で、大正時代から始まった発掘調査では、縄文前期から中期にかけての土器類、石器類、玉類等石製品、土製品、土偶等の遺物がたくさん発見されました。
近年の発掘では、竪穴住居や配石遺構、土墓坑などが見つかった他、「ヤマトシジミ」を主体とした貝塚も発見され、当時(縄文前期)には、十三湖がこの近くまで広がっていたことが分かります。現在、遺跡の周りは田畑になっていますが、 溜池には、今でも無数の土器片が散らばっているということです。

この遺跡から出土した遺物は「森田歴史民俗資料館」に展示されています。中に入ってみると展示室いっぱいに土器、石器、土偶などが置かれていました。
いずれも貴重な物ばかりですが、とりわけ、土器類114点、石器類40点、玉類等石製品・土製品56点、土偶9 点の計219点は、国重要文化財に指定されている物です。これらの展示品の多くは、発掘調査により出土したものではなくて、近くに住む人々が採集し復元したものだということです。こういった展示物 を見ると、地元の方々の「熱心さ」が伝わってきます。

出土品の中で特に目を引くのは圧倒的な数の土器類です。「円筒土器」と呼ばれるこの土器については、【・・今から約5500~4500年前、青森県を中心に南北海道から東北北部にかけて「円筒土器文化」と呼ばれる文化が花開く。この時代にこの地方の人々が使用したバケツのような土器が「円筒土器」と呼ばれていることから名付けられた文化である。 ー 『つがる市資料館ガイド』】と説明されています。
この石神遺跡の最大の特徴は、円筒土器の発生から終焉に至るまでの各型の土器が出土しているということです。つまり、ひとつの遺跡で円筒土器文化の移り変わり を知ることができる貴重な遺跡だとされている分けです。
円筒土器は、時期別に展示されていましたが、その細かい「違い」などは、素人の私には分かりませんでした。ですが、突起部分の大胆で奔放な造りや表面に描かれた緻密な紋様などは、この時代の人々の「感性の豊かさ」を感じさせてくれました。
⇒円筒土器
さて、それぞれの遺跡には、その遺跡を象徴する「遺物」 がありますが、ここ石神遺跡のそれは「人面付深鉢形土器」 です。「人面土器」とも呼ばれるこの土器は【上部の四つの突起部分に人面を模した飾りをつけた円筒土器で、その表情は「歓喜」を表現しているともいわれる。ー※前述のガイドより】とされています。
喜んでいるようにも、びっくりしているようにも見えるその表情 は、豊かな暮らしへの感謝の「証」だったのでしょうか。。
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「十腰内遺跡」は、主に縄文後期から晩期にかけての集落跡や竪穴住居、石棺墓をはじめ、数多くの石器類や土器類が発見された遺跡です。縄文時代後期(約4,000年前~)になると、気候や生活の変化に伴い、土器類は「厚手から薄手の物」に、「大型から小型の物」へと変わっていき、ツボやカメ、鉢、注口、香炉形、ふたなど用途に合わせて造られるようになったといわれています。また、この頃には呪術や祭祀がよく行われるようになり、多くの環状列石などが造られ、それに合わせて日常生活に使われる土器と、儀式や祭祀の時に使われる土器が区別されて造られるようになったとされています。 ー 十腰内から発見された多くの土器は、そのような特徴をよく表しており、「十腰内式土器」と命名され、縄文研究の「標式」のひとつとなっています。
弘前公園の隣り、藤田記念庭園 の考古館では、大森勝山遺跡の出土品とともに、十腰内遺跡から出土したたくさんの土器などが特別展示されていました。
それ以前の物に比べ、より実用的で精巧な造りの鉢や壺 は、続く縄文晩期や弥生への繋がりを思わせましたし、数々の鋭い石器 にはびっくりさせられます。また、素朴な顔の土偶や や動物の頭の土製品 なども展示されていました。

さて、この遺跡は厳鬼山神社 の北側に位置しており、昔から「甕(土器)」がたくさん出てくるので「カメコ山」と呼ばれていましたが、昭和35年に始まった発掘調査によると、深鉢、壺、土偶、石器など合わせてりんご箱120個分の遺物が発見されたということです。
また、この辺り一帯(県道31号線沿い)は、旧石器時代から縄文、弥生、そして中世にかけての史跡が多い所で、十腰内の近くには、田舎館・垂柳遺跡とともに、本州最北端最古の「弥生水田跡」が発見された砂沢遺跡(すなざわいせき) もあります。
遺跡近くの裾野地区体育文化交流センター には、この地域の歴史を感じさせる遺物が展示されていますが、ここでも十腰内遺跡の出土品を見ることができました。
⇒十腰内遺跡出土品

ところで、この遺跡は、昭和35年(1960年)に縄文時代後期の「猪形土製品(いのししがたどせいひん)」が出土した ことでも有名になりました。
国の重要文化財にもなっている体長18.0cmのこの土製品は、【猪の姿形を写実的に造形しており、胴部には沈線による幾何学文が描かれ、その内部に縄文が充填されている。縄文時代の動物形土製品のなかでも優れたものであり、縄文時代の精神文化の一端を良く示している。その学術的価値はきわめて高く、研究資料としても貴重である。 ※青森県HP「あおもりの文化財」】とされています。
耳が欠けていたり、脇腹の紋様がかすれていたので、修復され、弘前市へ返されたということですが、その愛らしい姿形はネット上でも話題になったようです。
愛称は「いのっち」。「いのち」に因んで地元の中学生達が名付けたものだとか。。豊穣の祈願やまつりに使われていたのではないかと考えられているようですが、その姿からは、身近な動物をはじめ自然と共に生きていた縄文の人々の思いが伝わってくるような気がします。
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大石神社の近くには「大森勝山遺跡」、厳鬼山神社の北に「十腰内遺跡」、つがる市・森田(旧森田村)には「石神遺跡」があり、いずれも貴重な遺物が発見されている遺跡です。 ⇒三遺跡マップ

実は、夏に一度「大森勝山遺跡(おおもりかつやまいせき)」を訪ねたことがあります。大石神社の帰り道に立ち寄ったのでした。入口案内板に従ってりんご畑の中を進むと遺跡へと通じる道が延びていました。
草に覆われた階段 を登ると、今は埋め戻されている遺跡 が見えました。そのときは多少がっかりしながら(埋め戻されていたので・・当たり前ですが)、説明板の全体写真 を見ながら帰ってきたものです。
青森では今、北海道や北東北の各県とともに、「縄文遺跡群世界遺産登録推進運動」が進められていて、ここ大森勝山遺跡も、その候補地のひとつになっていますが、9月には、縄文時代晩期の環状列石(ストーンサークル)を小中学生と市民ら約150人で再現するイベントが行われるなど、運動の輪が広がっているようです。⇒新聞記事より

この遺跡から出土した貴重な遺物の一部は、弘前公園の隣りにある「藤田記念庭園」で見ることができます。この庭園は、 弘前市生まれの実業家・藤田謙一氏が大正8年に東京から庭師を招いて造らせた庭園で、多くの人々が「やすらぎ」を求めて訪れる所です。その一角に考古館 があり、ここには旧石器時代から中世までの遺物が展示されています。

館内には、出土品がそれぞれの時代別に置かれており、時代背景など分かりやすい説明書きもあり、子ども達の体験学習の場にもなっているようです。
さて、大森勝山遺跡は、岩木山北東麓、標高約145mの丘陵にある縄文時代晩期(約3,000~2,300年前)の遺跡で、青森市・小牧野遺跡同様、環状列石(ストーンサークル) が発見されたことでも有名になりました。また、昭和34年~36年にかけて実施された発掘調査では、環状列石とともに大型竪穴住居跡 が確認された他、多くの石器や土器なども見つかりました。それらについては【日本国内でも数少ない縄文時代晩期の環状列石は、台地上を整地した後、円丘状に盛土し、その縁辺部に77基の組石を配置しており、長径48.5m、短径39.1mのやや楕円形に造られています。組石の配置など、他の環状列石と異なる様相は、縄文時代における大規模記念物の展開と変遷を示す物証として極めて重要です。・・・遺物は、縄文時代晩期前半の土器や、狩猟・採集用の石器である石鏃・石匙・擦石・石皿、祭祀用である岩版・石剣などが出土しています。また、「亀ヶ岡文化」とも称される極めて高度な工芸技術に基づいた土器文化に属する土器も出土しており、安定した定住生活のもとに成熟してきた縄文文化の物質的証拠を内包する貴重な遺跡です。】と紹介されています。
※【】内は「ーJOMON JAPANー北海道・北東北の縄文遺跡群HP」からの抜粋です。
さらにはまた、後期旧石器時代(約13,000年前)のナイフ形石器等も出土しており、この遺跡が長い期間にわたって続いていたことが分かります。
考古館には、鋭い切れ味を思わせるナイフ形石器や、縄文の特徴(縄目文様)を残しながらも薄く精巧な造りになってきている土器、装身具などが展示されており、この遺跡の概要を知ることができました。
⇒大森勝山遺跡出土品画像
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このような「巨石信仰」にふれたのは、弘前市・大石神社のご神体 を見たのが最初でしたが、その後、この大石神社の近くに同じように大石を祀っている社があることが分かりました。それが、弘前市・十面沢(とつらざわ)の貴船神社です。

十面沢(とつらざわ)・・何とも面白くめずらしい地名ですが、 「とつら」 は藤蔓(フジツル)のことで、それが多く繁茂している所から、その名がついたとされています。また、坂上田村麻呂が「岩木山赤倉の鬼」を征伐したとき、鬼の面を「十面」取ったことからついたという説もあります(※青森県神社庁の解説より)。
先日降った雪がまだ残っていましたが、何とか車をとめ、境内へと向かいました。二の鳥居の前には例によって一対の狛犬。 「奉納」の朱文字が鮮やかな後ろの灯籠に比べると、その「古さ」が分かります。

境内の中は閑散としていて、正に「冬」といった感じで、拝殿のシャッターも閉じられていました。
由緒によるとこの神社は、正保4年 (1647年)に 創建され、明暦、延享、文化年間に再建されたとされています。
祭神 は「貴船」と名のつく多くの神社と同じように「闇おかみ神」。(にわか勉強ですが)「闇淤加美神(くらおかみのかみ)」とも呼ばれるこの神様は、神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が「火の神」であった迦具土神(かぐつちのかみ)を斬り殺した際に生まれたとされており、「闇(くら)」は「谷間」を意味するところから、水の神・雨乞いの神・灌漑の神といわれています。 ー ここ十面沢も元々は岩木山麓の山あいの地、農業にとって大切な「水の管理」は大変だった分けで、水を司る神様を祀っている理由も分かります。

さて、拝殿の隣から上の方に参道の石段が延びていますが 、これを登り切った所が奥宮で、そこに巨石が祀られています。なかなか急な登りで、しかも雪のため滑りやすく、注意が必要でした。どうやら先客がいたようです。 犬?うさぎ?それともきつねか?
奥宮は白いコンクリート造りのお堂でした。扉が半分ほど開いていて、そこからご神体の大石 を拝むことができました。残念ながら、それ以上中に入ることはできず、くわしく見ることはできませんでしたが、それは、横縞模様の入ったなかなか大きな、りっぱな石でした。どうしてこんなものが、この小高い山頂にあったものか、不思議です。
ところで、この貴船神社は県道31号線沿いにありますが、「大間越街道」とも呼ばれるこの県道沿いは「鬼」に関する興味深い伝説が数多く残っている所です。鬼を祀っている鬼神社、鬼の磐座とされる巨石がご神体の大石神社、鬼の足跡が残るとされる厳鬼山神社、鬼と製鉄の伝承が残る湯舟町などです。 ⇒大間越街道
正に「鬼街道」といってもいいような感じですが、伝承ではこの辺り一帯に住みついていたのは「赤倉の大人」と称される鬼で、大人は人々に恐れられた反面、農業技術や用具、灌漑の方法を伝えた「神様」として崇められたとされています。
ー 大石神社、そしてここ貴船神社・・この地域では、巨石は、古くから人々に感謝され、畏怖された「赤倉の大人」が降臨し、鎮座するにふさわしい磐座であると考えられ、祀られていったと思われます。
☆つがるみち☆



長慶天皇の「御陵墓参考地」 のある弘前市・紙漉沢へと向かいました。現在、そこには「上皇宮」という社があり、その背後の小高い山の頂に御陵墓があります。
天皇妃・菊理姫が祀られている「白山堂」から案内板に従って進んで行くと、りんご畑に挟まれて 真っ直ぐに道が延びていて、その先に社はあります。
赤い鳥居の前には「長慶天皇御辞世」の碑 が建てられています。「ゆきくれて かみすきいろに まよふみの けふをかきりの いのちなりけり」。。後世のもの?とはいえ、この地に伝わる伝承の「深さ」を感じさせます。また、側には由緒書きとともに文人・大町 桂月(おおまち けいげつ)の歌碑 「そのかみも斯くやとばかり提燈の光かよわき御陵の山」もありました。桂月は、青森の風景をこよなく愛したといわれていますが、ここへも訪れ、長慶天皇を偲び、感慨にふけったのでしょうか。
長慶天皇は、若年より和歌に優れ、【天授元年(1375年)の『五百番歌合』、同2年(1376年)の『千首和歌』(322首が現存)がある他、『新葉和歌集』に「御製」として53首が入集している。その歌風は平明で、大覚寺統伝統の二条派に属する。著作には先述の『仙源抄』がある他、『孟子集註』・『雲州往来』・『台記』などの研究も行った。ーwikipediaー】といわれていますが、ここにも上皇宮文庫 が残されていて、都の文化が伝わってきた「あしあと」が分かります。

参道の石段を登り詰めると社殿が見えてきます。 境内にはベンチも置かれ、 人々の憩いの場にもなっているようです。
由緒書きによるとこの上皇宮は、応永10年(1403年)に崩御し、山上に葬られた長慶天皇の菩提を弔うために、皇子である盛徳親王(菊理姫の子)が、この地に新たに寺を建て、「上皇廟堂」と称したのが始まりであるとされています。
伝承では、天皇は、元中2年(1385年)に身を寄せていた浪岡の館が南部氏に攻められた際、矢傷を負いながら紙漉館に逃れてきたといわれています。室町幕府成立当時、南部氏は八戸市・根城 にあって、幕府の再三の降伏勧告にも従わず、南朝への忠誠を守り続けました。しかし、南朝方が次第に劣勢となると、南部氏の勢力も次第に弱体化し、明徳3年(1392年)頃、将軍足利義満の命を受けた同族の南部守行(三戸南部氏)は、南朝を支持する南部政光(根城南部氏)に対して降伏勧告を行った後、南部氏の総領は三戸南部氏へ移ったとされています。 ー 長慶天皇の伝承が、南部町から浪岡、そして紙漉沢へと続いているのは、そんな背景があるのだと思います。
社殿の中には 菊花紋章とともに天皇の御影(肖像画)が掲げられていました。この上皇宮から御陵墓参考地への道 が続いています。

なかなかきつい登り道でしたが、何とか登り切り、御陵墓へたどり着きました。 それは、辺りの集落や山々 が望める頂上に、ひっそりと立っていました。
「長慶天皇の陵墓」とされるものは全国に20ヶ所以上(100ヶ所以上とも)あると言われていますが、その中でも旧相馬村のここは、河根陵墓参考地(和歌山県)とともに、明治21年(1888年)に「陵墓参考地」に指定されていた所でした。その後、昭和19年に嵯峨東陵(京都府)が長慶天皇陵として治定されたことにより、この旧相馬および河根の陵墓参考地はともに廃止となった分けです。
しかしながら、長い年月を経ても、この「長慶伝説」は広く語り継がれていることは確かなことで、昨年(平成24年)立てられたばかりの由緒書き を見ても、そのことがよく分かります。
石の柵で囲まれたこんもりとした盛り土の御陵墓。。その真ん中の草だけが黄色い色をしていたのが 印象的でした。
☆つがるみち☆



北畠氏の居城であった浪岡城の入口に ひとつのお墓が築かれています。長慶天皇の妃・菊代姫の伝承墓です。伝によると、菊代姫は家臣・新田宗興の養女とされており、天皇の妃として、「御潜幸の地」に付き従ったといわれています。
中に入ってみると、こんもりとした盛り土の傍らに「菊代姫御墓」 と記された木柱が立てかけられており、盛り土の上には小さな祠 が立っていました。浪岡御所に居た長慶天皇が、北朝方に追われるように浪岡の地を去ったとき、菊代姫もまた従ったという伝承もあり、ここに祀られているのは菊代姫なのか、天皇及び姫の縁者なのかは分かりません(もちろん伝説上のことです)。
祠の隣りに姫の墓碑が立てられていますが、側には寄り添うように両手を合わせた小さな観音様?。。誰が手向けていったのでしょうか、墓碑の前には花束が供えられていました。今もこの伝承に心を寄せる方々もおられるようです。⇒菊代姫墓碑

浪岡を後にして、私は弘前市・紙漉沢(かみすきさわ)へと向かいました。旧中津軽郡・相馬村だったこの地は「長慶天皇御陵墓参考地」がある所ですが、ここにもまた「長慶天皇妃の御堂」があります。
「白山堂」と呼ばれるこのお堂は、皇后・菊理姫(菊子姫)の墳墓に建てられたとされていて、由緒書きには、 天皇と共に紙漉沢に移ってきた姫が、この地で亡くなったということなどが書かれていました。浪岡の「菊代姫」は、ここでは「菊理姫」となっており、「菊理姫」というその名前から「白山大権現」と関連づけられているようです。
旧相馬村は「長慶天皇ご逝去の地」と称されていたこともあり、長慶橋とか長慶峠(県境の林道)、長慶苑など、「長慶」と名のつく所がたくさんあります。「紙漉沢」という地名も、御潜幸の折に、製紙の技術が伝えられたことから名づけられたともいわれます。また、天皇(この時点では上皇)が、ここで修験者となって身を隠していたとき、付き従ってきた家臣や南朝方に心を寄せる地元の人々は率先して警護にあたったとされていますが、そのような伝承は「覚応院」というお寺にも残されています。

覚応院の山号は「行峯山(ぎょうほうざん)」。真言宗醍醐派の寺院ですが、ここの本尊は「浪切不動尊」と呼ばれ、次のような伝説があります。
~ 天正13年(1585年)、津軽為信が、秋田沖で暴風雨に遭った際、太刀を海に投じて祈念したところ嵐はおさまった。いかりをあげてみると、さきに投じた太刀が不動明王の尊像とともに網にかかって引き上げられた。為信はこの奇瑞に感謝し、「浪切り不動」として、ここに祀った。※『青森の伝説』ー角川書店ー ~ 何か、新田義貞の「稲村ヶ崎」を思い起こさせる話です。
さて、この覚応院・本堂 の向かい側に「不動尊」を祀る社 がありますが、鳥居の先の小高い丘は、かつて「茶臼館」と呼ばれ、三重の堀がめぐらされた要害であったとされています。
由緒によると、この館は、長慶天皇が紙漉沢御所に居たとき、武官であった「溝口左膳亮」という人物が、東方の警護のため、元中2年(1385年)に築き、長慶天皇崩御の後もその「陵」を守るためにこの館に在住し、修験者となり、「行峯山」を開いたともいわれているのです。
参道は、昔ここが「館」であった名残り を感じさせる登りが続き、丘の上からは、御陵墓参考地のある紙漉沢一帯 を眺めることができました。
ー次回へ。
☆つがるみち☆



先回は、かつて「天皇社」と呼ばれていた「廣峰神社」をご紹介しましたが、あらためて付近を訪ねてみると、大銀杏がある「源常林」周辺には他にも伝承の地がいくつかあることが分かりました。
古くから浪岡に残されているこの「長慶伝説」・・今回は2ヶ所を取り上げてみました。 ⇒浪岡・長慶伝説の地。

「源常林の大銀杏」のそばに農業用のため池がありますが、そこから「天狗平山」が見えます。美人川・羽黒神社境内からも望むことができるこの山は、 標高174m。山頂に「長慶天皇の御陵墓」があったとされている山です。
「長慶天皇御潜幸の地」は日本各地に数多くありますが、かつて、その「御陵墓」に比定された所も20ヶ所以上あるといわれています。謎に満ちた長慶天皇・・大正15年にその在位が確認されて以来、「天皇の御陵墓はどこか」ということで、多くの市町村が、「我が村・我が町にある墳墓こそ御陵である」と名乗りをあげたといわれていますが、青森県でも南部町、七戸町、相馬村(現弘前市)とともに、旧浪岡町もそのひとつだった分けです。
浪岡は、南朝・北畠氏に関連する遺跡が多くあり、長慶天皇と結びつけやすい土地柄なわけですが、そのきっかけとなったのは、大正2年(1913年)、この天狗平山の山頂から「貴人の墳墓」と考えられる遺構や遺物が発見されたからでした。遺構を天皇の御陵墓として裏付けることはできませんでしたが、昭和10年(1935年)頃の浪岡の古い写真や、昭和30年代に発行された歴史雑誌に掲載されていた写真から、以前、この墳墓跡に「陵」が造られていたことが確かめられています。この伝承地、今は、陵墓に関するものが何も残されていないということですが、地域の歴史を知る上で重要な場所であると考えられています。(※青森県HP「なみおか今・昔」を参考にしました。)

先回取り上げた廣峰神社の近くに「行岳山西光院」という寺院があります。この辺り一帯の住所は「北中野字天王」で、これまた長慶伝説との関連を思わせます。
この西光院は、浄土宗の開祖・法然上人の高弟であった金光上人が、「東奥念仏」の布教後、入寂した場所と伝えられていて、山門前にはその石標 が立てられています。金光上人は法然と出会い、師と仰ぐようになり、正治2年(1200年)頃に念仏布教の旅に出て、浪岡の地で布教を続け建保5年(1217年)に亡くなりますが、遺言により北中野に墓をつくったのが、このお寺のはじまりと伝えられています。
このお寺の境内に「長慶天皇皇子・寛光親王」の五輪塔があります(※この親王について詳しくは分かりませんでした)。本堂 のそばにその五輪塔 は立てられていて、近づいて見ると「長慶天皇皇子一品式部卿征東大将軍寛光親王」 と記されていました。
台座には観音様と思われる像 が埋め込まれています。親王の「霊」を慰めているかのようです。また、塔の後ろには には大きな法螺貝 も埋め込まれています。「征東大将軍」の権威の象徴ともいえるこの法螺貝・・もしかして、「征東(征討)」の相手は「蝦夷」ではなくて「北朝」だったのではないでしょうか。 ー いずれにしてもこの五輪塔は伝説とはいえ、長慶天皇及びその皇子の思いを偲ばせるものでした。
ー 次回へ。
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それは、長慶天皇の即位の時期と重なる分けで、南朝3代目の長慶天皇及び、南朝方の有力武将達が、この地と深い関わりをもっていたことは十分に考えられることです。そういったこともあって、浪岡には「長慶伝説」が多く残っているのだと思います。

先回ご紹介した「源常林の大銀杏」がある一帯は「源常館」と呼ばれ、北畠氏が浪岡城に移るまでの居城であったとされていますが、実は、ここに長慶天皇が潜んでいて「浪岡源常」と称したという伝説があります。北朝方の追及を逃れ、南部地方からここに落ち延びてきたということでしょうか。
この源常館の先端部は御廟館 と呼ばれ、古くは玄上寺という寺院があったとされていますが、ここからは中世の「鰐口」が発見された他、万延元年(1860年)には、神像、獅子頭、土器などが見つかったということが弘前藩の「藩庁日記」に記されています。(※青森市HP「なみおか今・昔」より)
今は、朽ちた鳥居 の周りは笹藪でおおわれ、かつての様子は分かりませんが、浪岡の歴史を考える上で重要な地であるこの「御廟館」・・廟の主は長慶天皇と関わりを持った人物だったのでしょうか。。

御廟館の近くに「廣峰神社」 という社がありますが、ここにもまた長慶天皇の「あしあと」が残されています。
金属の注連縄が架かる鳥居をくぐると思ったよりも長い参道 が続いています。二の鳥居、三の鳥居を抜けると古くからの由緒を感じさせる拝殿 がありますが、手前にある狛犬 は、今にも飛びかからんとする格好。。しかし、表情はどこか柔和で愛嬌があります。拝殿の隣には2つの末社 が並んでいますが、ひとつは果樹観音堂 です。
文字通り「果樹=りんご」の豊作を願って地域の方々が建立した珍しいお堂ですが、扉にはりんご が描かれ、中の観音様の隣にもりんごが下がっていました。
さて、この神社は大同2年、坂上田村麻呂の建立と伝えられていますが、縁起によると、後醍醐天皇の「緒太(天皇が即位式や大嘗祭に履く草履)」を奉り、「天皇社」と称していたといわれています。また、後に北畠氏が「須佐之男命」を祭神として併せて「牛頭天王」を祀ったため「天王社」とも呼ばれていたとか。。
後醍醐天皇の名前が出てくるあたり、北畠氏と南朝との関係を思わせますが、さらにはまた、この社は長慶天皇が当地に潜んで「浪岡源常」と称していたという伝説に因んで「御廟社」ともいわれていたということです。
ー 次回へ。
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以前、大鰐町の苦木観音長谷堂を訪ねたとき、由緒書きに長慶天皇の家臣・水木氏 がこの苦木の地を開いたことが語られていました。
長慶天皇は、南北朝時代の南朝・第3代の天皇でしたが、その存在は詳らかだった分けではなく、正式に「皇統第98代」の天皇として即位が確認されたのは大正15年のことでした。弘和3年(1383年)、南朝最後の天皇となる弟の後亀山天皇に譲位し、南北朝合一後も、南朝方の勢力を結集し、室町幕府に対して抵抗運動を続けましたが、応永元年(1394年)に再興の夢半ばで崩御したといわれています。ところが、いつ、どこで亡くなったのかは定かではないため、日本各地にその「御潜幸伝説」や「御陵墓伝説」があり、青森県にも多く残されています。南部地方から津軽地方にかけて点在するその伝承は 、あの源義経の「北行伝説」を思わせます。

八戸市の櫛引八幡宮は「南部一之宮」として崇敬されている大社ですが、縁起によれば、南部家初代・南部光行が平泉合戦の戦功により源頼朝からこの地を拝領し、建久2年(1191年)に入部した折、社殿を造営したのが始まりとされています。
この社には、国宝である鎧が二領収められていて、その一つの「赤糸威鎧兜大袖付」は「菊一文字の鎧」とも呼ばれており、長慶天皇ゆかりのものと伝えられています。

先回ご紹介した南部町・法光寺がある名久井岳の麓に「長谷の森林公園(ふるさとの森公園)」がありますが、園地には8,000本のぼたんが植えられており、「長谷のぼたん園」 として多くの観光客が訪れる所です。
ここは「長慶天皇ご潜幸の地」とされ、~ 陸奥の北畠守親が長慶天皇を吉野からお迎えたしたとき、八戸の根城に拠っていた南部氏が仮の御所を造営し住まわせた。ところが北朝方に知られたため天皇を津軽の浪岡へ移し、表向きは崩御したとして石塔まで建立した。※『青森の伝説』ー角川書店ー ~ という伝承や、
~ 南北朝時代の頃、南朝の長慶天皇が名久井岳の麓(現・三戸郡南部町)、長谷寺を訪れ、食事に困った時に家臣の赤松助左衛門が近くの農家からそば粉とごまを手に入れ、自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを天皇に食事として出した。この食べ物が後の「南部せんべい」の始まりである・・。※wikipediaより~ という名物「南部せんべい」の由来話も残されています。
上北郡六戸町には「犬落瀬(いぬおとせ)と鶴喰(つるばみ)」 という集落がありますが、ここにも伝説があり、「犬落瀬」は、天皇がここに入った時、1匹の白い犬が里の川で溺死したのを憐れんで命名したとされています。また、ここの南・「鶴喰」の小高い山は「天皇山」と名づけられており、天皇は、ここで村を見おろし、余生を送ったとされていて、その頂上の「若宮八幡宮」は付き従ってきた家来達が建立したといわれています。天皇山のふもと「明光山月窓寺」の本堂には天皇の位牌も安置されているとか。。いずれも長慶天皇の潜辛をしのばせる話です。

同じ上北郡・七戸町の見町 には「見町(みるまち)観音堂」があります。室町時代の建築様式を伝える貴重な建物で、堂内にある絵馬や羽子板、読経札、棟札などは、国指定重要有形民俗文化財となっていますが、この観音堂は応永3年(1396年)に南部政光が長慶天皇の菩提を弔うため、創建したと伝えられています。
このように、青森県の南部地方には「長慶天皇伝説」が数多く残されている分けですが、その「あしあと」は、青森市・浪岡(旧南津軽郡浪岡町)へと続いています。
ー 次回へ。
☆つがるみち☆
長慶天皇は、南北朝時代の南朝・第3代の天皇でしたが、その存在は詳らかだった分けではなく、正式に「皇統第98代」の天皇として即位が確認されたのは大正15年のことでした。弘和3年(1383年)、南朝最後の天皇となる弟の後亀山天皇に譲位し、南北朝合一後も、南朝方の勢力を結集し、室町幕府に対して抵抗運動を続けましたが、応永元年(1394年)に再興の夢半ばで崩御したといわれています。ところが、いつ、どこで亡くなったのかは定かではないため、日本各地にその「御潜幸伝説」や「御陵墓伝説」があり、青森県にも多く残されています。南部地方から津軽地方にかけて点在するその伝承は 、あの源義経の「北行伝説」を思わせます。

八戸市の櫛引八幡宮は「南部一之宮」として崇敬されている大社ですが、縁起によれば、南部家初代・南部光行が平泉合戦の戦功により源頼朝からこの地を拝領し、建久2年(1191年)に入部した折、社殿を造営したのが始まりとされています。
この社には、国宝である鎧が二領収められていて、その一つの「赤糸威鎧兜大袖付」は「菊一文字の鎧」とも呼ばれており、長慶天皇ゆかりのものと伝えられています。

先回ご紹介した南部町・法光寺がある名久井岳の麓に「長谷の森林公園(ふるさとの森公園)」がありますが、園地には8,000本のぼたんが植えられており、「長谷のぼたん園」 として多くの観光客が訪れる所です。
ここは「長慶天皇ご潜幸の地」とされ、~ 陸奥の北畠守親が長慶天皇を吉野からお迎えたしたとき、八戸の根城に拠っていた南部氏が仮の御所を造営し住まわせた。ところが北朝方に知られたため天皇を津軽の浪岡へ移し、表向きは崩御したとして石塔まで建立した。※『青森の伝説』ー角川書店ー ~ という伝承や、
~ 南北朝時代の頃、南朝の長慶天皇が名久井岳の麓(現・三戸郡南部町)、長谷寺を訪れ、食事に困った時に家臣の赤松助左衛門が近くの農家からそば粉とごまを手に入れ、自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを天皇に食事として出した。この食べ物が後の「南部せんべい」の始まりである・・。※wikipediaより~ という名物「南部せんべい」の由来話も残されています。
上北郡六戸町には「犬落瀬(いぬおとせ)と鶴喰(つるばみ)」 という集落がありますが、ここにも伝説があり、「犬落瀬」は、天皇がここに入った時、1匹の白い犬が里の川で溺死したのを憐れんで命名したとされています。また、ここの南・「鶴喰」の小高い山は「天皇山」と名づけられており、天皇は、ここで村を見おろし、余生を送ったとされていて、その頂上の「若宮八幡宮」は付き従ってきた家来達が建立したといわれています。天皇山のふもと「明光山月窓寺」の本堂には天皇の位牌も安置されているとか。。いずれも長慶天皇の潜辛をしのばせる話です。

同じ上北郡・七戸町の見町 には「見町(みるまち)観音堂」があります。室町時代の建築様式を伝える貴重な建物で、堂内にある絵馬や羽子板、読経札、棟札などは、国指定重要有形民俗文化財となっていますが、この観音堂は応永3年(1396年)に南部政光が長慶天皇の菩提を弔うため、創建したと伝えられています。
このように、青森県の南部地方には「長慶天皇伝説」が数多く残されている分けですが、その「あしあと」は、青森市・浪岡(旧南津軽郡浪岡町)へと続いています。
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※画像と○○○○をクリックしながらご覧ください。

浪岡城址から少し南へ進むと「北中野」という集落がありますが、ここに「源常林の大銀杏」 と呼ばれる名木があります。浪岡川と正平津川に挟まれたところに大きな溜池 があり、その側にこの大銀杏はあります。樹齢は500年以上、高さ約21m、幹回り約6.5mといわれるこの巨木は、古くから信仰の対象となっていたようです。
この大銀杏の付近は現在ではりんご畑になっていますが、昔ここには「源常館」という平山城がありました。その築城の時期や築城主は不明とされていますが、通説では、南北朝時代の末頃、北畠氏がこの地に入部したときに築いたとされており、浪岡城に移るまでの居城であったといわれています。
大銀杏から少し坂道を登った所には北畠神社と奥都城 があり、空堀の跡 なども見られ、ここが北畠氏にとってひとつの「聖地」であったことを思わせます。

大銀杏の前にある鳥居をくぐると、小さな祠と「源常林姥神社」と記された扁額が置かれています(扁額は元々は鳥居に掲げられていたものでしょう)が、隣りに由緒書きがありました。それによると「(この大銀杏は)奈良朝和銅二年、道昭大僧都が行岳(※行岳は浪岡の旧名)天王山玄上寺を建立し、銀杏の種子を蒔き、大木となったが、八百年前に玄上寺が焼失したので銀杏も枯れた。その後、津軽十三城主・藤原秀栄の子が乳母が病死したので墓の印として銀杏の枝をさしたのが大木となったのです。」とありました。
また、ここには「炭焼き藤太と夫婦となった福姫は藤太が亡くなった後、姥(老婆)を連れて都へ戻る途中、その姥も病で亡くなってしまった。福姫はその墓の上に銀杏の杖をさして都へ上った。それが生長し大銀杏になった。」という「美人川伝説」の後日譚も伝えられています。
藤原秀栄の子の「乳母」、福姫の「姥」の話を物語るように、道路の向かい側には源常林姥大明神 の社があり、そばには朽ち果てた鳥居 もありました。後ろの小高い丘は「御廟館」と呼ばれ、そこまで参道が続いていたと思われます。

「源常」という地名が「玄常寺」に因んだものかどうかは分かりませんが、この大樹は、戦国期には既に広く知られていたようで、津軽の代表的な民謡「津軽山唄」の中でも「♪浪岡 浪岡が 源如林の 銀杏 銀杏の木は 枝は浪岡 葉は 葉は黒石 花は弘前 城 城に咲く 種はお城の 御殿 御殿薬♪」と歌われています。この津軽山唄の基は、津軽為信が浪岡城を攻略した際、祝宴の席で家臣の一人が唄ったものといわれていて、大銀杏のそばには、その石碑も立っていました。
さて、由緒書きに「藤原秀栄」の名前が出てきますが、そこには先回の「美人川伝説」同様、津軽氏の足跡が感じられます。
津軽為信は豊臣秀吉が天下統一を果たした頃(1590年頃)には、南部氏の支配下にあった津軽地方を既に手中におさめていましたが、秀吉の「奥州仕置」の際、南部氏は津軽氏の祖・大浦光信が南部方の武将であったことなどから「津軽は元来、我が領地」を主張しました。そこで為信は、自らの家は「藤原氏の系統」であることを唱え、本領安堵に成功した分けです。その系図上で「始祖」とされたのが「藤原秀栄」。藤原秀衡の弟であり、十三湊を中心に津軽一帯を治めていた「十三藤原氏」の先祖です。為信以降、歴代の藩主も藤原姓を名乗り、「津軽氏は津軽を治める藤原氏」という認識を定着させていった分けです。大銀杏の由緒書きにある話も、そんなことを踏まえて伝えられたものだと思います。
「源常林の大銀杏」は、津軽・浪岡の歴史を見つめてきた古木です。高さはともかく、樹齢は500年よりももっと古く、幹回りももう少しあるように見えました。
⇒源常林大銀杏
☆つがるみち☆

浪岡城址から少し南へ進むと「北中野」という集落がありますが、ここに「源常林の大銀杏」 と呼ばれる名木があります。浪岡川と正平津川に挟まれたところに大きな溜池 があり、その側にこの大銀杏はあります。樹齢は500年以上、高さ約21m、幹回り約6.5mといわれるこの巨木は、古くから信仰の対象となっていたようです。
この大銀杏の付近は現在ではりんご畑になっていますが、昔ここには「源常館」という平山城がありました。その築城の時期や築城主は不明とされていますが、通説では、南北朝時代の末頃、北畠氏がこの地に入部したときに築いたとされており、浪岡城に移るまでの居城であったといわれています。
大銀杏から少し坂道を登った所には北畠神社と奥都城 があり、空堀の跡 なども見られ、ここが北畠氏にとってひとつの「聖地」であったことを思わせます。

大銀杏の前にある鳥居をくぐると、小さな祠と「源常林姥神社」と記された扁額が置かれています(扁額は元々は鳥居に掲げられていたものでしょう)が、隣りに由緒書きがありました。それによると「(この大銀杏は)奈良朝和銅二年、道昭大僧都が行岳(※行岳は浪岡の旧名)天王山玄上寺を建立し、銀杏の種子を蒔き、大木となったが、八百年前に玄上寺が焼失したので銀杏も枯れた。その後、津軽十三城主・藤原秀栄の子が乳母が病死したので墓の印として銀杏の枝をさしたのが大木となったのです。」とありました。
また、ここには「炭焼き藤太と夫婦となった福姫は藤太が亡くなった後、姥(老婆)を連れて都へ戻る途中、その姥も病で亡くなってしまった。福姫はその墓の上に銀杏の杖をさして都へ上った。それが生長し大銀杏になった。」という「美人川伝説」の後日譚も伝えられています。
藤原秀栄の子の「乳母」、福姫の「姥」の話を物語るように、道路の向かい側には源常林姥大明神 の社があり、そばには朽ち果てた鳥居 もありました。後ろの小高い丘は「御廟館」と呼ばれ、そこまで参道が続いていたと思われます。

「源常」という地名が「玄常寺」に因んだものかどうかは分かりませんが、この大樹は、戦国期には既に広く知られていたようで、津軽の代表的な民謡「津軽山唄」の中でも「♪浪岡 浪岡が 源如林の 銀杏 銀杏の木は 枝は浪岡 葉は 葉は黒石 花は弘前 城 城に咲く 種はお城の 御殿 御殿薬♪」と歌われています。この津軽山唄の基は、津軽為信が浪岡城を攻略した際、祝宴の席で家臣の一人が唄ったものといわれていて、大銀杏のそばには、その石碑も立っていました。
さて、由緒書きに「藤原秀栄」の名前が出てきますが、そこには先回の「美人川伝説」同様、津軽氏の足跡が感じられます。
津軽為信は豊臣秀吉が天下統一を果たした頃(1590年頃)には、南部氏の支配下にあった津軽地方を既に手中におさめていましたが、秀吉の「奥州仕置」の際、南部氏は津軽氏の祖・大浦光信が南部方の武将であったことなどから「津軽は元来、我が領地」を主張しました。そこで為信は、自らの家は「藤原氏の系統」であることを唱え、本領安堵に成功した分けです。その系図上で「始祖」とされたのが「藤原秀栄」。藤原秀衡の弟であり、十三湊を中心に津軽一帯を治めていた「十三藤原氏」の先祖です。為信以降、歴代の藩主も藤原姓を名乗り、「津軽氏は津軽を治める藤原氏」という認識を定着させていった分けです。大銀杏の由緒書きにある話も、そんなことを踏まえて伝えられたものだと思います。
「源常林の大銀杏」は、津軽・浪岡の歴史を見つめてきた古木です。高さはともかく、樹齢は500年よりももっと古く、幹回りももう少しあるように見えました。
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福姫が変身したとされる「美人川」は、公園からも眺めることができますが、 側には羽黒神社の鳥居が立っており、ここをくぐって下へ降りていくと、伝説に因んだ「福姫橋」 があります。隣には姫が顔を洗った様子が描かれていました。この橋を渡って石段を登り詰めると境内に出ます。

この神社の由来は分かりませんが、「羽黒」というその名前からして、修験道との関連を思わせます。もっとも、伝説では福姫が顔を洗った際、「お歯黒」をつけたので、この社を「羽黒神社」、この地一帯を「羽黒平」というようになったのだとか。。
祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)。境内にはひときわ目立つ大きな杉の古木 がありますが、福姫がお歯黒をつけたとき、楊枝がわりに使った杉の小枝が生長したものとされ、「楊枝杉」と名づけられています。

さて、この「美人川伝説」は「炭焼き長者譚」の類話ですが、「炭焼き小五郎伝説(※小五郎は藤太とも)」と呼ばれるこの話は大分県を中心に全国各地に分布している伝説です。各地域によって違いはあるものの大筋は、◇都の姫が嫁ぐ相手を探して地方へと赴く→◇炭焼きをしている小五郎(藤太)と出会い結ばれる→◇二人は黄金を発見して長者となる・・というものです。この話が広く伝搬したのは、古代、鉄器は黄金にも匹敵する貴重品であり、その製造に欠かせない「炭」を焼く仕事はいわば「黄金を生み出す仕事」とされていたからだともいわれています。
ここ浪岡の近くに鶴ヶ坂というところがあり、その戸建沢地区にも ~ 貧しい炭焼き藤太の暮らしをみかねた姫が一枚の黄金を差し出すと、藤太は笑って「そんな物はいくらでもここにある」と言い、沢から黄金を掘り出してみせた。姫にその価値を教えられた藤太は長者となった。~ という、この伝説があります。
しかし、浪岡の「美人川伝説」には、黄金にまつわる話はなく、かわって強調されているのは、「福姫は近衛家の姫君だった」「藤太は藤原一族の流れを引く者だった」という二人の出自です。ー このことは、津軽氏との関連を思わせます。
津軽藩の藩祖・為信は、自らを藤原家の末裔と称し、近衛家から許された「津軽牡丹」という紋章を用いていました。その為信が浪岡城の北畠氏を滅ぼし、この地を支配下においたのは天正6年(1578年)のことです。以来、津軽家にとって、「古代からの名族・藤原氏の末裔」を名乗ることは、この新しい領国を治める上で、大きな力となっていたのではないでしょうか。 ー 主人公二人を「藤原氏の縁者」とするこの「美人川伝説」には、そのような当時の政治状況も反映されているような気がします。
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青森県の県南地方・南部町に「法光寺」というお寺があります。曹洞宗の東北屈指の名刹とされ、境内の承陽塔(三重の塔) は、日本一の大きさであるといわれています。その縁起によると、この古刹の開祖は北条時頼とされ、次のような伝説が残っています。
~鎌倉時代に、旅僧に身をやつしたさきの執権・北条時頼がこの地方を旅したとき、名久井岳中腹にある寺に一晩の宿を乞うたが断られた。やむなく山奥の別の庵寺に宿を求めたところ、庵寺の捐城(えんじょう)和尚は快く迎え入れ、厚くもてなされた。和尚の人柄に深く感激した時頼は翌朝自分の持っていた扇子の表に「千石を与える旨のお墨付き」を残し、ひそかに立ち去った。翌年、鎌倉から使者が来て、捐城和尚を住職とする法光寺が創建された。~ この話は、青森県に残る最明寺・北条時頼の廻国伝説のひとつですが、藤崎町には、先回の記事でも少しふれましたが、時頼の愛妾・唐糸(からいと)御前にまつわるもの哀しい伝承が残っています。時頼廻国伝説の「津軽版」といえばいいでしょうか。

伝説によると、~唐糸御前は藤崎の生まれで、執権・北条時頼に仕えていました。美しく心根の優しい才色兼備の女性で、時頼から深く寵愛されていましたが、そのことが周囲の女性達の妬みをかい、鎌倉を逃れ、生まれ故郷の津軽・藤崎に隠れ、ひっそりと暮らしていました。やがて執権を退いた時頼が、諸国行脚の旅の途中、津軽を訪れます。その話を聞いた唐糸は、「田舎に落ちぶれ、衰えやつれた姿を見せるのは恥ずかしい」と、柳の枝に衣を掛け、そばの池に身を投げてしまいました。※『青森の伝説』角川書店他を参考にしました。~ といわれています。

この唐糸御前の「遺跡」は、現在は唐糸御前史跡公園 になっていて、園内には杖を片手に旅姿の唐糸の銅像 や、その身を投じたとされる柳の池 などが造られています。
西側の一角に大きな松の古木がある場所がありますが、この辺り一帯は、唐糸御前が通っていたお寺・平等教院があったところとされており、赤い柵の中には延文の板碑と「唐糸」と刻まれた石碑 が立っていました。
唐糸御前の死を深く悲しんだ北条時頼は、この平等教院に墓をたて、厚く弔ったといわれており、幕府や地元の安東氏などの庇護を受け、「護国寺」と呼ばれ、中世津軽における宗教や文化の中心となったとされています。
その後、津軽氏の時代になり、護国寺は「万蔵寺」となり、弘前市・禅林街に移ります。(私はまだ訪ねてはいませんが)この万蔵寺には、唐糸御前の位牌と毘沙門天像が祀られていますが、唐糸は遠く離れた時頼の身を案じて、毘沙門天を肌身離さず持っていたとされ、死後にそれを知った時頼が持ち帰り、一回り大きな像をつくり、寄進したと伝えられています。
唐糸御前の伝説は、安東氏を中心とした中世津軽・藤崎と鎌倉との盛んな交流を物語る話といえます(一説には、唐糸は安東氏の娘であるともいわれています)。
また、北条時頼は弘長3年(1263年)に亡くなりますが、十数年後には「元寇」が起き、それをきっかけに鎌倉幕府の土台は崩れていきます。 ー そういったことを思うと、この「唐糸御前伝説」は、もの哀しい話ではありますが、時頼の廻国伝説とあいまって、北条政権が咲かせた「花」のひとつともいえそうです。
☆つがるみち☆

