

雲祥寺は山号「金木山」を称する曹洞宗のお寺で、由来によると、その創建は慶長元年(1596年)、「九戸の乱」を逃れ、津軽地方に至った南部櫛引村領主・武田甚三郎が一緒に逃れてきた腹心の繁翁茂和尚と共に一寺を建立したのが始まりとされています。
この武田家はこの地に土着し、後に津軽藩を経済的に支えた「金木屋」となりますが、現在の山門は、その金木屋が亨和三年(1803年)に寄進したものです。因みに、町名「金木町」はこの屋号(金木屋)から生まれたともいわれています。
山門の上の方に鐘楼堂 が乗っている姿はとても特徴があります。両脇には迫力満点の仁王像。 そして、その由緒を示すように、一対の武田菱の寺紋 が刻まれていました。

本堂は青森特産の銘木である総ヒバ造りで、どっしりとした風格のある建物です。
この本堂の前に一本の「老松」 が立っています(寝そべっているというべきか)。樹齢500年以上といわれるこの老木は、雲祥寺創建以前からここにあったものとされていますが、私にはその姿形が大蛇(龍)のようにも見えました。太宰とタケもまた、この老松を見ていたのでしょうか。。

本堂の祭壇中央には「聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)」と記された額が掲げられていました。(にわか勉強ですが)「聖諦第一義」とは、「根本の真理」を表す仏教用語だということで、達磨大師にまつわる故事が残されています。
ー 昔、熱心な仏教信者であった梁の武帝は、中国へ禅の教えを伝えにやって来た達磨大師と会見し、「自分が為してきたこと(寺院の建立、仏典の写経、高僧の供養など)にはどんな功徳があるか」と問うたとき、達磨は「無功徳(ご利益なんか何にもない)」と答えたとされ、次いで「聖諦第一義とは如何」という質問には、「廓然無聖(かくねんむしょう)・・そういう尊いものなど何処にもない」と応じたのだとか。。
太宰がこの「聖諦第一義」という言葉をどのようにとらえていたのかは分かりませんが、本堂の中には自筆と思われる色紙 も飾られていました。お寺からお願いして書いてもらったものでしょうか。
再び『思ひ出』から・・【たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放(つ)けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。】
太宰が「恐ろしくて泣き出した」ものは寺宝の「十王曼陀羅」 という地獄絵で、作者は不明ながらも、江戸初期の終わりか中期の初め頃のものとされています。全て金箔が用いられているため、現在でも絵柄ははっきりしていて、近づいてみるとその迫力に圧倒されます。 太宰が『思ひ出』によって紹介して以来、見学者も増えたとのことです。
雲祥寺は、幼い頃の太宰の思い出(タケとの思い出)がいっぱい詰まったお寺でした。後年、太宰はこの「母のように慕っていた」タケと小泊村で30年ぶりに再会しますが、その様子は小説『津軽』に生き生きと描かれています。
現在はそこ(北津軽郡中泊町小泊)に、小説「津軽」の像記念館があり、太宰とタケの再会の場面 を描いた像が建てられています。
☆つがるみち☆
◇この一年間、拙いブログを訪れていただいた皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。皆様よいお年をお迎えください。



人々の憩いの場所でもある「芦野公園」は、芦野湖を含む約80haの自然公園。園内には2,200本もの桜の木が植えられており、「日本さくら名所100選」にも選ばれている公園で、弘前公園と並ぶ桜の名勝地です。
ここは幼い頃に太宰もよく遊んだ所だそうで、園内を「走れメロス号(津軽鉄道)」 が走っており、橋のたもとには「太宰治文学碑」も建てられています。この文学碑 には、「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」という、ヴェルレーヌの詩の一節が刻まれており、上部には「不死鳥」がのっていますが、これは「太宰の生まれ変わり」を意味するものなのだそうです。この碑の前では、例年6月19日(太宰の誕生日)に、生誕祭(以前は「桜桃忌」と呼ばれていた)が開催されます。

ところで金木町は「津軽三味線」が生まれたまちとしても知られていますが、芦野公園の一角にも「津軽三味線発祥之地」 という記念碑が建っています。
津軽三味線は、バチを叩きつけるように弾くその打楽器的な奏法と、速いテンポの曲が特徴とされますが、明治時代に津軽地方で「ボサマ(坊様)」と呼ばれる盲目の旅芸人が家々を回り、軒先で三味線を弾いて、お金や食べ物をもらって歩く「門付け(かどづけ)」の芸として広まったといわれます。
その始祖が、金木生まれの「仁太坊(にたぼう)本名:秋元仁太郎」という人で、仁太坊は【幼くして天然痘にかかり生死をさまよった末に失明してしまった。さらに子供時代に両親を失って天涯孤独となった。彼は生きるために門付けを行い、毎日の糧を求めて三味線を弾き歩いた。他のボサマより目立つために、より大きな音・派手な技を追求するようになり、やがて「叩き奏法」を編み出して自分の三味線芸を創り上げていった。※Web『発祥の地コレクション』より】といわれています。弟子達には、「人真似で無く汝の三味線を弾け!」と教え、多くの後継者達を育てたのだとか。
金木八幡宮の隣の「津軽三味線会館」には、津軽三味線の歴史や民謡、郷土芸能等を紹介している展示室があり、多目的ホールでは津軽三味線のライブステージなども行われています。

この津軽三味線会館の道路を挟んだ向かい側に「雲祥寺」という寺院がありますが、ここもまた太宰の「幼少時の思い出」 が詰まっているお寺です。
入口から中へと進むと、地蔵堂 があります。その側に、後生車 がありますが、「後生車」とは卒塔婆の一種で、通る人に塔婆にある輪を回してもらうことで、供養になるといわれるものです。幼い頃、太宰は当時の後生車の鉄の輪を日の暮れるまで回したといわれていて、『思ひ出』の中で【 そのお寺の裏は小高い墓地になつてゐて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒堵婆が林のやうに立つてゐた。卒堵婆には、滿月ほどの大きさで車のやうな黒い鐵の輪のついてゐるのがあつて、その輪をからからして、やがて、そのまま止つてじつと動かないならそのした人は極樂へ行き、一旦とまりさうになつてから、又からんと逆にれば地獄へ落ちる、とたけは言つた。】 と述懐しています。
後生車の上には「汝を愛し、汝を憎む」と刻まれています。これは、小説『津軽』にある、太宰の「故郷に贈る言葉」で、後に郷土の「金木文化会」発会式に出席した折りも、機関紙「金木文化」に同じ言葉を寄せたとされています。
ー 人一倍愛着を持ちながらも、自分を(その生き様を)拒み続ける故郷・・そんな故郷に対する太宰の複雑な思いや心の葛藤を思わせる言葉です。

後生車を見た私は山門 へと向かいましたが、その側に巨大な観音様が立っていました。
「奥津軽大観音」と名づけられたこの観音像は高さが約10m。平成13年11月に完成したものです。雲祥寺HPでは、その建立について、【いよいよ新しい世紀が始まりました。この難値難遇の節目の秋(とき)、雲祥寺では「奥津軽大観音」を造立するという発願を立てました。思えば過ぎ去った20世紀は戦争の100年であります。愛する夫、愛する妻、そして・・愛する子を大勢の方々が失いました。新しい100年が今始まりました。この世紀を平和と安らぎの100年とするべく悲願を込めてこの造立を決意した次第です。】と紹介しています。
⇒奥津軽大観音
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



金木町は太宰治のふるさと。太宰は自分が生まれ育ったまちを【金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位置し、人口五、六千人の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町ということになっているようである。※小説「津軽」より】と語っています。
町の中のあちこちに太宰の「小説の一節」 が立てられており、この町全体の歴史や雰囲気を伝えているようです。金木町を訪ねるのは今年2回目。夏には「川倉芦野堂」に行きましたが、今回は町の中心部を訪ねてみました。

太宰の生家は今は「太宰治記念館」となっていますが、太宰ミュージアム公式サイトでは次のように紹介しています。【太宰治記念館「斜陽館」は、太宰が生まれる2年前の明治40年(1907)、父・津島源右衛門によって建てられた豪邸です。和洋折衷・入母屋造りの建物は、米蔵にいたるまで青森ひばが使用され、どっしりした重厚感が特徴となっています。国の重要文化財建造物に指定され、明治期の木造建築物としても貴重な建物。太宰はここで、家の商売や自らの立場を感じ、兄弟の間にも存在する身分の差を実感。親代わりの叔母きゑ、子守のタケとの出逢いと別れを経験し、成長していきました。】 ー 昭和25年から旅館「斜陽館」として旧金木町の観光名所となり、全国から多くの太宰ファンが訪れていましたが、平成8年に旧金木町が買い取り、現在に至っています。館内には 蔵を利用した資料展示室があり、太宰が着用したマントや執筆用具、直筆原稿、書簡などが展示されています。

この記念館のすぐそばに「金木八幡宮」があります。縁起によると、その創建は大永年間(1521年~27年)で、当時の浪岡城主・北畠具永が勧請したのが始まりとされています。天正年間(1573年~91年)には、津軽為信が戦勝祈願を行ったのをはじめ、4代藩主・津軽信政、5代・信寿の治世には、新田の開発成就祈願が行われたと伝えられています。以後、津軽藩歴代藩主の庇護のもと、霊験あらたかな神社として、安永3年(1774年)には「金木組24ヵ村」の総鎮守に選定され、広い信仰を集めるようになったとのことです。
社殿は、明治38年(1905年)に焼失しましたが、41年には復興。境内には「寺子屋」があり、 後に「尋常小学校」になったとのことですが、太宰はここで遊んだり、子守のタケが借りてきた本を読んでいたといわれています。
いくつか鳥居をくぐって境内に入ると拝殿が見えてきます。 境内には、「八幡様のお使い」とされる鳩や神馬、狛犬の石像がありますが、面白いのはいずれも手ぬぐいで頬かむりをしていることです。このことの説明書き が立っていました。それによると氏子の皆さんが「冬の厳しい寒さや夏の暑い日差し」から神社を守るために、誰からともなく「神使」達に手ぬぐいを被せるようになったのだとか。。
⇒頬被りをした石像達

境内には、津軽地方の神社の特色を記した説明書きも立てられていました。岩木川沿いには、鳥居などに「鬼が住む」神社が30数ヶ所もあるといわれていますが、この「津軽の鬼っこ」 についても書かれています。
また、各神社の大祭などでは、たびたび「神楽」が奉納されますが、「津軽神楽」はその代表的なものです。その「津軽神楽」の由緒 について書かれたものもあります。それによると、「宝永7年(1710年)に4代藩主・津軽信政が没した際、堰神宮(藤崎町堰神社)の神主・堰八豊後守安隆は、信政の神意にかなうような神楽を献上すれば、神道や地方文化の発展に寄与できると考え、(信政が傾倒していた)吉川惟足の流れの神楽の伝習を受け、これを津軽の社家の人々に伝えたのがはじまりとされる。」とされています。
ー 藤崎町の「堰神社」といえば、人々のために自ら「人柱」となった堰八太郎左右衛門安高の霊を祀る神社です。私はこの「津軽神楽」の由来は全く知らなかったのですが、こうして、以前、自分が訪ねた社とのつながりを「発見」でき、楽しい思いをしました。今年はその堰神社において「津軽神楽創始300年」 を記念して神楽が厳かに奉納されたようです。
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4月中旬の春季大祭には、「諸願祈祷祭」や「海神招迎祭」が行われる他、龍神宮神池で「神占祭」が行われ、宮司さんが米を和紙に包み神池に沈め、その沈み具合で1年を占うとのことです。また、9月下旬の例大祭には、龍神宮神苑に特設会場が設けられ、「御火焚神事」が執り行われ、「津軽神楽」も奉納されるということで、参拝客で大いに賑わうようです。

龍神宮のある神苑の先には「小神祠公園」と呼ばれる場所がありますが、道中は日本庭園になっていて、間を縫うように朱塗りの鳥居が延びています。この神社のシンボル「千本鳥居」 です。その入口付近 から見上げると遠くの小高い丘まで無数の鳥居が延々と続いており、正に壮観な眺めです。鳥居の途中には橋も架けられていて 、庭園で一休みすることもできます。
ほぼ1~2m間隔で建てられているこの鳥居の数は200数本だとか。。終点から下を見ると、まるで「龍」が寝そべっているようにも見えます(ドミノのようにも)。青森県のパワースポットにも選ばれている摩訶不思議な光景です。
⇒千本鳥居スライド

丘の上には「神明社」があり、その下の川に沿って「小神祠公園」 が広がっています。高山稲荷神社には、多くの小神祠や「おきつね様」が奉納されていて、それらをまとめて神苑を造り、祀っているわけですが、中には老朽化したものやお参りが絶えてしまったもの、所在が分からなくなってしまったものも多くあり、それらをまとめて安置している場所が「小神祠公園」です。毎年8月には、信仰者の安泰を願ってお焚き上げの神事が行われるとのことです。
この公園の入口にずらーっと並んで立っているのが無数のきつね達。 いったい何体あるのでしょうか。中には仲良く寄り添っているきつねもいました。
お堂(小屋)があったので扉を開けてみました。びっくりです。中にはこれまた無数の子ぎつね。。その中に混じって「七福神」あり「福助」あり・・何でもあり、といった感じです。⇒お堂の中

きつね達の向こうには、たくさんの祠が置かれていました。朽ち果てたもの、屋根が壊れかかっているもの・・大小様々です。祠群の間には、観音様の石像や 、逆さ龍 などもあります。
神社の標柱 がそのまま立っているのには驚かされましたし、壊れた社殿 が残っている様は、痛々しい感じもしました。たくさんのきつね像や祠群、天気の悪い日や夕暮れ時などに訪ねるのは控えた方がよさそうです。
日本人は昔から生き物のみならず、使い古した筆だとか針とか人形とかを大切に供養してきた分けですが、ここ小神祠公園にあるものもまた、供養のための「塚」なのだと実感しました。
☆つがるみち☆



ここに「稲荷大神」を祀るようになったいきさつとして、由緒書きは次のように伝えています。
【稲荷神社創建の社伝には、江戸時代の元禄十四年(1701)、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の江戸城内での刃傷事件による藩取りつぶしの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士の寺坂三五郎が奉載し、流浪の果て津軽の弘前城下に寓し、その後鯵ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し、醸造業を営み栄える。その子孫が渡島に移住するにあたり、この高山の霊地に祀れとのお告げにより移し祀った、と伝えられる。】
ー 忠臣蔵(赤穂事件)の話などが出てきて、少しびっくりという感じです。もちろん、にわかには信じられない伝承ですが、津軽には赤穂とのつながりを物語る話も残されており、この伝承にも興味を惹かれます。
(横道にそれますが・・)弘前藩の「名君」といわれる4代藩主・津軽信政は、山鹿素行を「父とも仰ぐ」ほど敬愛し、その思想に共鳴していた分けですが、同じ門弟の赤穂藩主・浅野長矩とは特に親しい間柄であったといわれています。
そういったことで、信政は、大石良雄の従弟である大石郷右衛門を用人として召し抱えていた分けですが、元禄15年(1703年)の吉良邸討ち入りに感銘した信政は、郷右衛門を呼んでその「義挙」を賞賛したと伝えられています。この大石郷右衛門の子孫は弘前に在住し、内蔵助の遺品を多く所蔵していましたが、後に赤穂市の大石神社に寄贈したといわれています。 ⇒拙記事へ

一方、吉良家とのつながりもあり、弘前藩の分家・黒石藩の3代目の当主である津軽政たけの奥方は、吉良上野介義央の三女でした。阿久里(あぐり)というこの奥方は、父が非業の死を遂げる前に逝去したといわれています。
この津軽政たけは、「津軽采女」とも呼ばれ、後に我が国最古の釣り指南書『何羨録』を著した人物として有名です。
⇒拙記事へ
夢枕獏さんの『大江戸釣客伝(おおえどちょうかくでん)』は、この津軽采女を主人公とした物語で、数々の文学賞に輝いたものです。私も手に入れました。まだ読みかけですが。。
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ー こうした津軽に残っている「忠臣蔵」にまつわる史実や伝承が、この高山稲荷神社の縁起にも投影されているのでしょうか。。。

さて、私は、拝殿前の石段を降りて龍神宮 へと向かいました。社殿 の両脇には龍神様を守る「きつね・きつね・狛犬」 がいました。三体が並んで立っているのは珍しい光景です。
ここは「神苑」とされており、【・・神苑の続く一帯には、龍神さまが住むと信仰される神池があり、龍神宮があります。この神池では神占いが行われます。願をこめて「こより」を池に落とし、こよりが真直ぐ沈めば願望成就、途中で止まり、時間がかかると願い事は難儀をする。全く沈まないと願いは無理との信仰です。また龍神さまの付近の山に入り、七枚葉の付いた笹の葉を頂いて、田んぼの水口にさしておくと五穀豊穣が叶えられるという信仰もあります。※参拝の栞より】と紹介されています。
龍神宮からその「神橋」 の方を見ると、あの「千本鳥居」 の入口が見えました。
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



ただ、伝承では天皇山に安徳天皇一行を導いたのは安東水軍(安東氏)だとされていますが、ここにもまた、安東氏との関連を思わせる「三王稲荷神社」と呼ばれる境内社があります。

社殿の後方の裏山にいくつかの境内社が建てられていますが、中でもひときわ大きく立派な建物が「三王稲荷」です。笠木の上に合掌形の破風を乗せた「山王鳥居」は、あの十三・日吉神社の鳥居 と同形のものです。その神門や全体の造りなどからは、ここは「別格」の社であることがうかがえます。由緒書きには次のように記されていました。
【・・高山稲荷神社の由緒は、創建の年代は明らかでないが、鎌倉時代から室町期にかけてこのあたりを統治していた豪族安倍安東氏の創建と伝えられている。江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社創建の社説には、十三湊東方に山王日吉神社を中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があり、安東氏の祈願所として栄えるも1443年(または1432年)頃に南部勢の焼き討ちにより消失。この時、山王大神さまが黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まられた、と伝えられる。】
ー 「日の本将軍」と呼ばれ十三湊を中心にして隆盛を極めた安東氏は、三戸南部氏の襲撃を受け、渡島(北海道)へと撤退する分けですが、最盛時には、十三湖周辺に「十三千坊」といわれる広大な宗教施設が建ち並んでいたとされています。ここ高山の地も、あるいはその一角であったのかも知れません。いずれにしても、この「三王稲荷神社」は、この神社創建の「源」であったようです。 ⇒三王稲荷神社画像

さて、ここは古くから農業や漁業を営む地元の人々の「霊地」であったと思われますが、江戸時代になり、稲荷信仰が広まると、稲荷大神を信仰する団体や個人の方々が敷地内にたくさんの祠を建て、独特の信仰活動を行うようになったといわれていて、それがこの神社の特色にもなっています。
そのような境内社として三王稲荷の周りには、作丈一稲荷神社 や、関東の方の寄進による熊五郎稲荷神社 が建てられています。
また、「よんこ稲荷神社」 という、ちょっと変わった名前の社もありますが、ここには、この地方のごみそ の方を祀っているとのことです。

このような独特の境内社は拝殿の下の方にもあり、そこには千代稲荷神社 や大島稲荷神社 、そして三五郎稲荷神社 が建っていました。
この「三五郎稲荷」は、地元・牛潟に住んでいた「三五郎」という人物が慶長の頃(1596年~)に建立したものだということです。
稲荷大神のみならず、こうした個人や特定の団体が建てた神社や祠なども併せて祀っている高山稲荷神社・・・「懐の深さ」を感じさせます。例大祭は、毎年9月に行われますが、こうした境内社の大祭もそれぞれ別の月に行われているということです。
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆




大鳥居をくぐると、大きな社務所が建っていますが、ここには宿泊施設も完備されており、例大祭には、全国各地から大勢の人々が訪れるということです。
境内の案内図 を見ると、その敷地の広大さに驚きます。拝殿や本殿の他にもたくさんの摂社・末社があるようです。「よんこ神社」、「三五郎神社」など?と首をかしげたくなるような名前の社もあります。
社殿へと続く参道階段の入口には、 稲荷社らしく、一対の「きつね像」が立っていました。左右ともに子ぎつねを抱えたその姿は 、とてもほほえましい感じがします。
階段の両脇には 、多くの方々の寄進による灯籠がずらーっと並んで立っています。よく見ると、青森県のみならず秋田県や北海道の方々の寄進と思われるものもあり、この神社の信仰が遠くまで広がっていることが分かります。
登り詰めたところには、手ぬぐいで頬被りをしたきつね がいました。顔が少し風化しているようで表情はよく分かりません。ここが分岐点になっているようで、そのまま真っ直ぐ下へ進むと、この神社のシンボル「千本鳥居」の場所、右側には末社群、そして左側に社殿があります。

拝殿前の赤い鳥居の脇に何やら奇妙な石を祀った祠が立っていました。「命婦(みょうぶ)社」 とよばれるこの社をよく見ると祀られていたのは大きな自然石。
「命婦」とは、もともと宮中に仕える女官を指しますが、転じて、稲荷神の使いとされる「狐」の別名として用いられるようになったといわれています。
確かにその姿形は、子ぎつねを抱えた親ぎつね のようにも見えます。それにしても、奇妙な石もあるものです。この社、「命婦」というその名前からの連想なのでしょうか、「夫婦円満」の神様として信仰されているとのことです。※この神社に限らず、稲荷神社の狐は「親子」ではなくて「夫婦」だという説もあるようですが、どうなのでしょうか。。

さて、この神社の祭神は、全国稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社と同じ稲荷大神(宇迦之御魂命・佐田彦命・大宮賣命)で、五穀豊穣の神であるとされています。きつねはこの稲荷大神の「お使い」とされていますが、なぜそうなのかはよく分かっていないようです。 ー せっかく実った稲田を荒らし回る「野ネズミ」の天敵が「きつね」で、それを退治してくれるということから「神の使い」として信仰されていったということで、人々は感謝の気持ちをこめて、油であげたネズミを供えた。それが、「油揚げ」になった。・・という話も聞いたことがありますが。。
それはともかく、ここ高山稲荷神社のきつねも、 稲荷大神の霊徳の象徴である「巻物(鍵)」と「宝珠(玉)」を、しっかりと口にくわえていました。
ー次回へ続きます。
☆つがるみち☆



実は、青森県にも「チェスボロー号」という船が遭難した際、地元の人々が行った救助活動の話が残されていて、事件や人間愛に満ちた人々の様子を後世へ語り継ぐため、「遭難慰霊碑」が建立されています。

亀ヶ岡から再びメロンロードに出て、高山稲荷神社を目指し、旧車力(しゃりき)村へとやってきました。何回かご紹介しましたが、一帯には沼や池がとても多いのですが、この近くにはあの平将門にまつわる話が伝わる池があります。【承平の頃、ここに城を構えていた将門の側仕えの女人が池で袴を洗っていたとき、あやまって自分も池に落ちて死んでしまった。以来、「袴形池」という。」という話や、【将門の愛用の牛が、突然ものに恐れて、池に飛び込んで死んでしまった。以来、「牛潟」という。】など、池の名前の由来が伝えられています。
この牛潟池から少し進むと間もなく高山稲荷神社の鳥居 が見えてきますが、その手前に「高山小公園」があり、そこに「チェスボロー号記念碑」が建っています。
⇒付近の地図

小公園には展望台が設けられていて、壁には「チェスボロー号」 が刻まれていました。
さて、この遭難のあらましと記念碑建立のいきさつは次のようなものです。
【明治22年(1889年)10月30日の早朝、つがる市車力沖合300m付近で折からの暴風によって座礁した一隻の巨船が牛潟の漁民によって発見され、風速63mの嵐の中、決死の救出活動で乗組員23人中、4人の船員を奇跡的に救助。3日後、奇跡的に助かった4人は無事にアメリカに帰国しました。助けた当時の村人たちの心にも、助けられた乗組員たちの心にも大きな感動が生まれました。その船名はチェスボロー号、アメリカメーン州バス市の船籍。国境を超えた勇気と愛の人間ドラマは感動と共に語り継がれ、旧車力村とアメリカメーン州バス市は、積極的に交流が行なわれるようになりました。それを記念しチェスボロー号記念碑が出来ました。※Web「津軽なび」より 】
悪天候の中、荒海に飛び込み、何時間も粘り強く救助にあたった者、貧しい中から互いに食料を持ち寄り、温かい味噌汁やおにぎりをつくる者など、村人が一体となって救助活動に努めたとされています。ある婦人は、自らの肌で遭難者を温め、見事に蘇生させたといわれており、その姿はまるで「天女」のようだったと語り継がれています。

展望台から奥の方へ進んだところに遭難慰霊碑 があります。十字架は命を落とした19名の慰霊碑。 そのそばに、木造の顕彰碑 が建っていますが、これには歯を食いしばって走っている二人の若者の姿が描かれています。台座に説明書きがありました。 二人は村一番の健脚といわれた若者で、村から青森まで約64kmを一気に走り抜け、県庁に遭難事件を伝えたとされています。「使命感」のなせる技でしょうか。。
ところで、この出来事をきっかけに、車力村とバス市の国際交流が始まった分けですが、100周年にあたる平成2年(1990年)から、ひとつのイベントが始まっています。遭難した船の名前から「チェスボローカップ」と名づけられたこの「水泳駅伝」は、「車力村とバス市の直線距離10,200km」に、毎年の参加者が泳ぐ距離を累計して到達させようというものです。キャッチフレーズは「勇気と愛は海を越える」。
今では日本国内はもとより、世界各国からも参加者が集まり、つがる市の夏の大イベントとなっているようです。



夏に一度訪れて記事にまとめましたが、それ以来です。辺りの景色はすっかり色が変わっていましたが、しゃこちゃん(遮光器土偶石像)は、変わらずヌーッと立っていました。
ところで、この亀ヶ岡遺跡のすぐ近く、北側の丘陵地に「田小屋野(たごやの)貝塚」 と呼ばれる遺跡があります。縄文時代前期から中期にかけての貝塚遺跡ですが、「貝塚」は全国的には太平洋岸に多く分布しており、田小屋野貝塚は日本海側の数少ない貝塚として重要視され、亀ケ岡遺跡とともに1944年(昭和19年)に国指定史跡となっています。
この遺跡からは、縄文前期の竪穴住居 の他、魚類、鳥類、ほ乳類など大量の骨や骨角器 が発見されており、当時の食生活や狩猟・漁労の様子を知ることができます。
また、ヤマトシジミやイシガイなどの貝類もたくさん見つかっている他、主に南方で採れる約60点のベンケイガイも出土しています。このことは当時の気候は今よりも温暖で、海岸線も内陸近くまで迫っており、十三湖もこの辺りまで広がっていたことを思わせます。ここに住んでいた縄文人達は、このベンケイガイで「貝輪(アクセサリー)」 をつくり、それは北海道まで運ばれていたと考えられていて、盛んな交易が既に縄文前期から行われていたことが分かります。

さて、私は、以前訪ねたときは亀ヶ岡遺跡の近くにある「縄文館」に行き、出土したたくさんの土偶や土器類を見ましたが、今回はもうひとつの展示館である「カルコ」に行ってみることにしました。
「カルコ」のある旧木造町は、正に「縄文一色」といった感じで町のあちこちに「しゃこちゃん」がいますが、特に駅舎の巨大な遮光器土偶像 にはびっくりさせられます。町の中心、役場庁舎前にある「カルコ」は、亀ヶ岡遺跡をはじめ、つがる市や県内各地の出土品が展示されている所です。

中に入ると、復原(復元)された竪穴住居がありました。この復原住居はあの大森勝山遺跡で発見されたものをもとにして復原したものだそうです。
住居内には当時の服装や髪型をした男女二体の「縄文人」がいて、その生活の様子が 再現されています。
この縄文人、来訪者に「・・いずくより来たりし者ぞ・・」などと、変な「縄文語?」で語りかけてきて、子ども達には人気があるようです。

住居の上の2階が展示室になっています。県内の多くの土偶や石器、土器などが展示されていました。
亀ヶ岡遺跡は縄文晩期の遺跡ですが、晩期から続く弥生にかけて、土器の文様が変化していく過程 なども見ることができます。
この遺跡のすばらしさを広く紹介したとして、二人の人物の事績が掲げられていました。一人は、菅江真澄。 津軽の史跡を語るとき、必ずといっていいほど登場してくる人物です。
もう一人は、蓑虫山人。 私はこの人物についてよく知らなかったのですが、中泊町HPでは【放浪の画人として知られる蓑虫山人は、天保7年(1836)美濃国(岐阜県)安八郡結村に生まれました。本名は土岐源吾、ほかに「蓑虫仙人」「三府七十六県庵主」「六十六庵主」とも称しました。 嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、48年間にわたって諸国を放浪し、その足跡は全国各地に残されています。・・山人は、青森県をはじめとする北奥羽各地へ長期にわたって逗留する傍ら、名勝や文化財あるいは寄留先の様子などを詳細に記録しました。近代の北奥羽地方の雰囲気を如実に伝えるそれらの作品群は、民俗学研究の一級資料として評価されています。また考古学に対してはとくに深い関心を抱き、多くの遺物を収集しつつ、明治20年(1887)には木造町亀ヶ岡遺跡の発掘調査を手がけています。この調査の模様を記す書簡は、「人類学雑誌」に掲載され、同遺跡の名を全国に広げる役割を果たしました。】と紹介されています。
展示室には、土器や発掘の様子などを 描いた山人の作品なども展示されていました。亀ヶ岡遺跡の出土物の多くは乱掘のため、貴重な物が流出してしまったといわれています。山人はどんな思いで発掘を見つめていたのでしょうか。。
それにしても、展示されている結髪土偶・籃胎漆器・彩文鉢形土器などを見ると、縄文の人々の「芸術性」の高さを感じとることができます。
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この海岸沿いに「最終氷期埋没林」と呼ばれる太古の昔に埋もれた森林の跡があります。断崖に約1kmに渡って続いているこの「埋没林」は、世界最大規模のものだともいわれています。
⇒最終氷期埋没林付近

「埋没林」と書かれた案内板 から、中央の坂道 を降りていくとそこには日本海の荒海。 地層がはっきりと見える断崖が 海のすぐそばまで迫っています。
その崖と砂浜、そして海を見ているとなぜか映画『猿の惑星』を思い出しました。映画のラストのあたりで、海岸沿いで壊れた「自由の女神」を発見するという、あのシーンです。何となく似ています。晩秋の荒涼とした風景がそう思わせたのでしょうか(訪ねたのは11月中旬でした)。。

さて、この埋没林は、【泥炭層の下に約28,000年前とされる姶良(あいら)カルデラ(鹿児島湾) の噴火による白色の火山噴出物(姶良Tnテフラ) に覆われた立ち株や倒木が密集している部分で、最終氷期のトウヒ属とカラマツ属を主体とする針葉樹の埋没林】であり、
【・・この埋没林は寒冷な氷期から完新世(縄文時代)の温暖な気候に変動したことによる急激な水位上昇で、針葉樹林が水没・枯死し、さらに泥炭によって堆積されたことで形成されたものである。】とされています。 ※説明書きより
埋没した樹根などは全体で数千本。その範囲は1kmにも及ぶことから世界的にも珍しい大埋没林とされ、地球の気候変動や太古の植生を知る上で貴重なものといわれている分けです。約29,000年前~26,000年前とされている姶良カルデラ火山灰が、ここ津軽にも飛んできて堆積したという事実もさることながら、樹木が「真空パック」状態で残されたということは驚きです。
気の遠くなるような長い年月を経た太古の樹木は、崖からニョキッと飛び出してきそうな大きなものや、目を凝らして見なければ分かりにくいものなど様々な姿で埋もれていました。 ⇒最終氷期埋没林画像

ところで、この辺り一帯には沼地が多く、湿原があちこちに見られます。中でもベンセ沼 を中心とした湿原は「ベンセ湿原」と呼ばれています。
面積が約20haという広大な湿原は、6月中旬頃から7月上旬頃にかけてニッコウキスゲやノハナショウブの群落 が黄色や紫の花を咲かせます。その見事な景観は「日本自然百選」にも指定されています。
ー 今は全く季節外れ。 シーズンにあらためて訪ねてみたいものです。
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弘法寺は津軽弘法大師霊場、東北三十六不動尊霊場であるとともに、「津軽七福神霊場」でもあります。「恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁才天、福禄寿、寿老人、布袋」の七神は文字通り「福」をもたらす神として信仰されている分けですが、このお寺は「福禄寿尊札所」で、HPでは次のように紹介しています。【福禄寿というと、七福神の中ではあまり馴染みがないと思われますが、その名の通り、「福」「録」「寿」の三つのご利益があるといわれる有難い神様です。
○「福」分を越えて求めず、人知れず善徳をほどこすと「福」(幸せ)に恵まれる。
○「禄」社会や親への恩を忘れず、行状を慎むと「禄」(財産)に恵まれる。
○「寿」飽食大酒を禁じ色欲を慎み、気血を養うものは「寿」(生命運)に恵まれる。
福禄寿は中国の神聖な仙人で、長く大きい顔が特徴です。長寿の鶴亀を従え、左手の宝珠は財を与えて、右手の杖に結ばれた経巻には福・禄・寿の誓願が説かれています。】
ー 境内には、弘法大師・不動明王・福禄寿 の三つの尊像が並んで立てられていて、それぞれの「霊場」であることを思わせます。

本堂の手前に「お休み大師」のお堂があります。「お休み中なのでお静かに」という注意書きにしたがって、そっと扉を開けてみました。中の上の方には「十夜ヶ橋」と書かれた木札。 そして、その下に遍路姿の「お休み大師」の像 があります。
「十夜ヶ橋(とよがはし)」とは、四国行脚の途中、今の愛媛県大洲市徳の森にある橋の下で一夜を明かした弘法大師が「行き悩む 浮世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋とおもほゆ」と詠んだことから名付けられたもので、あまりの寒さのために、「一夜が十夜にも思えた」という意味だそうです。像のそばには「静かに撫でてお参りください」と書かれていました。

本堂廊下の天井には、お参りに訪れた人々の「願いごと」 がたくさん吊されており、「五鈷杵(ごこしょ)」と呼ばれる密教法具も置かれていました。
五鈷杵 は、「人間の煩悩を打ち砕き、仏の智慧の徳を表す法具」である「金剛杵(こんごうしょ)」のひとつで、両端がひとつの突起の「独鈷杵(とっこしょ)」、三股の「三鈷杵(さんこしょ)」、五股の五鈷杵があり、身近に置いておくだけで、厄除け・災難除けになるといわれています。
伝説によると、「弘法大師は唐から帰国した際、唐の明州の浜から、真言密教を広めるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵を投げたところ、三鈷杵は紫雲に乗って日本へ向けて飛んで行った。後に二匹の和犬 の案内で高野山近辺を訪れたとき、霊光を放つ松があると聞かされ、行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっていた。」とされています。
本堂の中 には「紫雲」「霊光」 と書かれた大きな額が掲げられていますが、それは、この弘法大師の「高野山開山伝説」を物語っているもののようです。

弘法大師、七福神、そして不動明王・・多くの信仰を集めているこの寺院は、様々な伝承も残されており、ざっと巡っただけでも、その「奥の深さ」が伝わってくるところでした。
このお寺の不動明王は「身代り不動」と呼ばれ、本堂に安置されていますが、HPでは「身代わりの 不動のおわす 津軽路の 西の高野に 法のともしび」と紹介されています。
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参道には、三十三観音像 が立っていて、道案内をしてくれます。登り詰めた所に、「伏見稲荷大明神」 があります。頂上には展望台の跡らしきものもありましたが、今は梯子が外されていました。木々の間から少しだけですが、冬枯れの「津軽平野」 を眺めることができます。稲荷宮らしく社殿の周りには、たくさんのキツネ像や祠 がありました。

山を下りて再び山門の前にやってきました。この山門の両脇に仁王像 がありますが、説明書きによれば、この仁王様は、あの北金ヶ沢の「垂乳根のイチョウ」 からつくられたものだということです。
山門を少し進むと「水かけ不動尊」 が立っています。文字通り、水をかけ、「病気平癒・悪魔降伏・満願成就・煩悩退散」などを祈願すると、御利益を得ることができるとされるお不動様ですが、その信仰が盛んな関西地方の方が寄進したものだということです。
ところで、「弘法大師と不動明王」といえば、「大師が大陸から帰朝した際、玄界灘で暴風雨に遭ったため、自ら不動明王を造り祈念したところ嵐はおさまり、無事に博多湾へ着くことができた。以来、このお不動様を「浪切不動明王」と呼ぶようになった。」という伝説があります。この「浪切不動」の伝説は弘前市・覚応院にもありました。覚応院のものは津軽為信の話となっていますが、その元祖はこの「弘法大師」の伝承なのかなと思います。伝説は時を変え、主を変えて残っていくもののようです。

紅葉鮮やかな道を 本堂の方に進んで行くと、「修行大師御尊像」 が立っています。大正7年に建立されたこの像は「津軽最古の弘法大師像」であるといわれていて、素朴な造りですがなかなか味わいのある石像です。
大師の足下には二匹の子犬。 弘法大師は、高野山の山中で白黒二匹の犬に導かれて「高野山開山」を決めたとされていますが、この二匹の犬は「神使(狩場明神の化身)」といわれ、大師ゆかりの寺社にはこの和犬像が置かれているとのことです。それにしても、愛らしい子犬です。

この修行大師像の側には「六地蔵」を祀っているお堂があります。(にわか勉強ですが)「六地蔵」とは【地蔵菩薩は地獄・飢餓・畜生・阿修羅・人・天の六道に輪廻して苦しむ人々を救うという菩薩で、日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。~wikipediaより~】とされています。
ここ弘法寺の六地蔵の台座には 「堅固慈菩薩」「持地菩薩」など、それぞれの名称が刻まれていました。中央の大きな「合掌」 は、ドッキリです。
ー 次回へ続きます。
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山号の由来について弘法寺HPでは、【・・明治までは「津軽高野山 九十九森寺」という寺であったが昭和27年「西の高野山 弘法寺」に改称。山号は所在地が西津軽郡の高野という地名であったことと、極楽浄土を表す西をもって「西の高野山」と呼ばれており、平成に入り山号に登録。】と紹介しています。
道案内にしたがって、 小道を走っていくと、お寺が見えてきます。このお寺は【本尊は弘法大師で無檀家の信者寺である。先祖供養、および家内安全などの祈祷や相談に訪れる信者が多く、特に「黄泉の祝言」(独身で亡くなった人に伴侶をおくる供養)を行う寺であり、人形堂には県内外より奉安された約千体余の花嫁、花婿の人形が安置されている。※同寺HPより】とされ、弘法大師にまつわる伝承などが数多く残っていますが、私は本堂を訪ねる前に境内を一巡りしてみることにしました。

初雪が降った後だったのですが、境内の紅葉はまだ鮮やかでした。大きな池を中心にして 美しく整えられた庭園があり、池のそばには 弘法大師の像が立っています。大師像は境内のあちこちに見られます。
近くに巨石を重ね合わせた築山 があったので行ってみると、何と大石の下にはかわいいカエルとお地蔵様 が住んでいました。びっくりです。

庭園の向かい側に二人の童を抱えたお地蔵様が立っていますが、これは「ぽっくり長命極楽地蔵」 と名付けられていて、このお寺の「名物」のひとつになっているようです。
由緒書きによると、【「ぽっくり」とは長生きして大往生を遂げることです。・・ある時は難病を治し、ある時は心の病を取り、ある時は私達の願いを叶える・・不思議な念力を持った地蔵様です。】と紹介されていました。

さて、このお寺は「東北三十六不動尊霊場・第十六番札所 」でもある分けですが、庭園の奥の方にその不動堂 はありました。(向かって)左側には阿婆羅底童子(あばらちどうじ) の像が立っています。不動明王には36人の童子が仕えているとされますが、この童子は16番目の侍者で、ここが「十六番札所」であることを示しています。
右側には大きなカエルを従えた大師像。 「今日も一日安全運転。無事かえる家庭の幸福は無事故運転から」という「交通安全守護蛙」でした。
これは 福を授け健康を守る「招福狸」。カエルと並んで何ともユーモラスです。
この寺院は【創建年代は、天災により寺が消失しており記録が残されていないため不明である。唯一現存する7代目住職の位牌が、貞和4年(1347年)7月6日の年号があることから開創から900年ほどの歴史があると思われる。※同寺HPより】とされる古刹ですが、境内を歩くと何となく「安堵感」を覚えます。
ー 次回へ続きます。
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この防砂林 は、木で砂を防ぐわが国最初の事業で、【津軽藩4代藩主信政は新田開発のため1682(天和2)年、野呂理佐衛門(現木造町館岡)に植林を命じた。1700年代半ば、防砂林は86万本に達したが天明の飢きんの際、木を伐採して売ったりし、一時3万本までに減った。野呂武左衛門は1863(文久3)年から復興に努め1874(明治7)年までに180万本の林を完成させた。 ※Web東奥「あおもり110山」より】といわれています。
この屏風山一帯をつがる市・森田から十三湖の手前まで、およそ22kmに渡って延びている道が「屏風山広域農道」で、周りには大小様々な沼 も点在し、とても景色のいい所です。ここは、夏には道路沿いに屏風山の名産であるメロンやすいかの出店が連なることから「メロンロード」 と呼ばれていて、並行して走る県道12号線(十三道)とともに、多くの名所や史跡がある街道でもあります。

その入口から 少し進むと「天皇山」という山が見えてきます。山といっても標高は56.7mで、「小高い丘」といった感じですが、ここにはあの壇ノ浦の戦いで二位の尼とともに、「波の下の都」に沈んだ安徳天皇が実は生き延びていて、山上に潜幸していたという伝説があるのです。
天皇山への道の手前には「天皇山高山稲荷神社」 という案内標識が立っていますが、この山の頂には「稲荷宮」があり、古くから農民達の守り神として崇められていたとされています。メロンロードの先にある「千本鳥居」で有名な「高山稲荷神社」 の前身は、ここ天皇山の稲荷様だったともいわれています。

案内に従って少し進んで行くと赤い鳥居がありました。参道を登ると 間もなく社が見えてきます。いかにも「稲荷宮」という感じで、社の周りにはいくつかの祠 とともに「きつね様の像」 も置かれていました。
特に「安徳伝説」を思わせるものはないようです。明るく整えられた社の中は 地元のお年寄りの方々の「憩いの場」になっているとのことです。

さて、ここに残っている伝説とは次のようなものです。【・・源義経・範頼の軍によって窮地に追い込まれた平家の頭領・平宗盛は、壇ノ浦の戦いを前にして「今こそ平家を援けよ」と全国に檄を送った。当時、津軽・十三にあって「安東水軍」として名を馳せていた安東太郎・堯季(たかすえ)は、それに応えて息子の貞季(さだすえ)に命じて大船団を組織し、平家救出に向かわせた。しかし、能登の沖で大暴風に遭ったため、到着したときは既に戦いは終わっていた。安東船は平家の悲運を嘆き、あちこち島々を巡って平家の落人をさがし歩いた。】 ー こうして落人達を乗せた船は津軽の浜に上陸した分けですが、その中に幼い安徳天皇と家臣、女官なども含まれていたということです。別伝では、海中に投身したのは実は安徳天皇ではなく、安藤水軍の将・塩飽次郎左衛門の子・辰丸だったともされています。
続いて、【・・やがて天皇一行は、小高い山の麓にたどり着き、さっそく「行在所」を造り、海や沼で漁を行い、土地を耕し、この地で生活を始めた。・・月の光が美しい夜にはささやかな「月見の宴」などを催したが、幼い天皇は「二位の尼はまだ来ないのか?この美しい月を見せてあげたい。都へ帰りたい」などと言うものだから、一同からすすり泣きの声がもれた。】という哀しい話へとつながっていきます。その後、安徳天皇の一行は船で中国大陸に渡り、山西省に住み、そこで亡くなったのだとか。。
※【】は『青森の伝説(角川書店)』からの要約です。

このような「安徳天皇生存伝説」は、鳥取県や鹿児島県をはじめ各地にあって、その「御陵墓」とされるものも数多くあるようです。しかしながら西日本ならともかく、北のはずれ津軽の地にも伝承が残っていることは驚きです。 ー【・・大日本帝国陸地測量部(現国土地理院)が1912(大正元)年に測量した地図を調べてみた。天皇山としっかり記されていた。少なくとも明治時代からそう呼ばれ、“改名騒ぎ”もなく今に至っている。 ※Web東奥「あおもり110山」より】ー
深浦から十三湖にかけては安東氏にかかわる伝承が数多く残っていますが、この「天皇山」の伝説もまた、そのひとつといえそうです。
ところで私は、この天皇山を訪れた後、書店で宇月原晴明さんの『安徳天皇漂海記(中公文庫)』をみつけました。山本周五郎賞の受賞作ということですが、源実朝、安徳天皇にまつわる物語なようです。おくればせながら読んでみたいと思います。
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その石の名前の由来となった所が弘前市・兼平地区(旧岩木町)で、ここに「兼平天満宮」があります。弘前天満宮とともに、卯年生まれの一代様であり、また、兼平石で造られた中世の「板碑」が残っている所としても知られている社です。

石造りの大鳥居 からしばらく進むと境内が見えてきます。手前の神池 をよく見ると、小さなウサギの像が置かれており、ここが「卯年の一代様」であることを思わせます。
菅原道真を祭神とするこの神社は【「天神様」として、深く信仰されてきた社で、弘安年中(1278-1287年)現在の弘前市 富栄より兼平左近という武士が当地に遷座して祀ったとされ、代々修験道の持宮であり、・・慶長8年(1603年)津軽為信が再興し、社殿を修理。正保2年(1645年)、3代藩主・信義が神楽殿を造営した。 ※由緒書きより】とされています。

二の鳥居からは社殿に向かって石段が延びていますが、その途中に中世の板碑 があります。板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて多く造られた卒塔婆(供養塔)で、板状の石に梵字、仏像、願文、名前、年紀などが刻まれたものですが、死者の冥福を祈る追善供養碑と、自分や縁者の死後の冥福を祈念するための逆修石塔碑があるといわれています。ここの境内に建てられているものは、永仁4年(1296年)や康永3年(1344年)の年号をもつものなど合わせて7基で、青森県の中世の宗教文化を探る上で、貴重なものとされている分けです。 ⇒天満宮板碑
板碑群を過ぎると邪悪な霊の進入を防ぐためか「賽神の祠」 があります。ここが神域と人界との境界ということでしょうか。

社殿やその周りには、祭神・菅原道真に因んだものがいろいろありました。「学問の神様」にあやかりたいということで、拝殿の前にはたくさんの合格祈願絵馬 。そばには「筆塚」 もあります。窪んだ大きな石は「硯」なのでしょうか。また、「菅原道真といえば牛」ですが、境内には大きな牛の石像 が立っていましたし、拝殿の中には牛に乗った菅原道真 を描いた絵馬も掲げられていました。
ところで、ここの狛犬はとても特徴があります。めずらしいというかびっくりというか。。由緒書きでは、この狛犬は安永2年(1773年)の「高麗犬」と紹介されていますが、そののっぺりした表情や丸坊主の頭を見ると、思わず笑ってしまいます。
⇒天満宮狛犬
さて、「兼平石」ですが、この石は神社から少し離れた高館山 の麓がその産地で、最盛期には【(その採掘現場には)畳より大きな平らな石が数10枚も重なり合っており、それを1枚ずつはがした。毎日作業員5-6人が露天掘りに従事し、トロッコで岩木町五代地区に石を運び、そこから各地に馬で運ばれて行った。 ※Web東奥「あおもり110山」より】とされています。大正時代の末期には、「採掘現場の近くに飲み屋が立つほどにぎわった」のだとか。。津軽の建築文化を支えてきた石だった分けです。
この高館山には、昔、安藤氏一族が立てこもり、南部氏と攻防を繰り広げたという伝承が残っていますが、南部氏に水の手を止められた一族は空堀に米を入れて、水が十分あるように見せかけた」といわれています。寄せ手に水を止められた苦境を悟らせまいとするこの「白米城の伝説」は、五所川原市・飯詰城にもありましたが、形を変えながらも県内には多く残っているようです。
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このイチョウの木は、「関の甕杉・折曽のイチョウ」のすぐ近くにあります。同じ道路沿いということで、「三名木」を合わせて訪ねる人々も多いようです。この大樹は「垂乳根のイチョウ」とも呼ばれ、古くから崇拝されてきた分けですが、伝説によると、阿倍比羅夫がここに神社を建立した時に手植えしたものとされています。
「日本書記」には阿部比羅夫が蝦夷征伐をした際、帰順した蝦夷たちを有馬の浜に招いて饗応したと記されていますが、「有馬の浜」は深浦の「吾妻の浜」だといわれており、このイチョウの由緒もそんな伝承に根ざしているようです。また、南北朝の頃には、ここに金井安倍氏(安東氏)の寺院が築かれていたともいわれています。

推定樹齢が約1,000年、幹回り22m、高さ31m(40mとも)というこの日本一のイチョウの巨樹は、近づくにつれてその大きさが実感できます。正に「巨人」という感じでしょうか。古からの信仰のあとを物語るように、周りには多くの祠 が建てられています。地面すれすれまで 葉っぱが横に広がっていて、「逆さ竜」が刻まれた灯籠 の奥にある地蔵堂は埋もれていました。
後ろの方に「礼拝堂」と書かれた社 があります。阿倍比羅夫が建てた神社の跡なのでしょうか、安東氏の寺院跡でしょうか。ここの狛犬はとても面白く、前列の一対は地上20cm位、とても低い位置にあります。初めからこうだったのでしょうか?また、後列のものは体が正面を向いていて、顔だけが中を見ているという、ちょっと変わった狛犬です。 ⇒礼拝所の狛犬

大イチョウの中に入ると、まるで森の中に足を踏み入れたような気がしました。発達した大きな気根 が刺すように地面の中に伸び、それがまた、巨大な幹 を形作っていて、その鋭くとがった気根 と穴の開いた幹は、まるで鍾乳洞のようです。イチョウは、太古の時代を生き抜いてきた「生命力の強い」木であるといわれますが、このような姿を見ると、そのことがよく分かります。まだ本格的な黄葉ではなかったものの、色づき始めた葉っぱをつけた枝は 縦横に絡まり、上の方へと伸びていました。
⇒「北金ヶ沢の大イチョウ」スライド

さて、私は帰り道、日照田観音堂へ立ち寄りました。夏に訪れたとき、その青々とした稲穂を見て、「刈り入れの頃にもう一度訪れてみたい。」と書いたことを思い出したからです。もちろん収穫はとっくに終わっていて、辺りは「冬を待つばかり」 といった感じでした。
ここにも「名物イチョウ」があります。伝承によると、このイチョウの葉っぱが落ちる頃には「根雪」になるのだとか。。それまでにはまだ間がありそうです。
※記事の画像はいずれも11月中旬のものです。
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