のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  名木めぐり  

古からの道しるべ「一本タモ」ーつがるみち84

 つがる市の稲垣町は、五所川原市の北西、岩木川下流に位置する町です。
 かつてこの地域一帯は大きな「潟」とも呼べる湿地帯でしたが、元和年間(1615~24年)の頃から開拓が始まり、藩政時代を通じて、木造町などとともに新田開発が行われた所です。
 この稲垣町・豊川地区を流れる岩木川の堤防沿いに「一本タモ」と呼ばれ、古くから地域の人々の信仰を集めきた大きな「ヤチダモ」の老木
「一本タモ」地図
があります。

一本タモ①


 私が訪れたのは、昨年の12月初旬のことでした。
 「一本タモ(ハングル文字?)」と書かれた石標が立っており、後ろの鳥居をくぐると正面にお堂が2つ
山の神・弘法大師
並んでいます。ひとつは「山の神」で、もうひとつは「弘法大師」を祀っている祠でした。この弘法大師、顔に白い化粧が施されています。
 堤防側には、百万遍・庚申塚・二十三夜塔
百万遍・庚申塚・二十三夜塔
の石碑がありました。この場所で「お講」が行われていたのでしょうか。周りのこれらの祠や石碑は、一本タモが昔から「神木」として崇められてきたことを示しているようです。

一本タモ②


「タモ(ヤチダモ)」は、モクセイ科トネリコ属の落葉広葉樹で、北海道と本州に分布しており、【家具や装飾材、日常器具の材料として利用されるほか、合板の材料にも用いられる。 また硬質で弾力性に富むため、野球のバットやテニスのラケットに使用される素材でもある。成長がよく、年輪幅が広いと重厚になり、成長が悪いと軽くなる。成長のよいものは運動用具材に、成長の悪いものは家具材として重宝される。※wikipediaより】というような特徴があるといわれています。あの王選手のホームランバットの素材としても使われていたのだとか。。
 また、その根は冠水しても生きているため、たびたび水没するような所でも生育するとされています。 ー 稲垣地区もかつては大変な湿地帯だった分けですが、「一本タモ」は、その中を生き抜いてきた「生命力の強い」樹木だった分けです。

一本タモ③


 さて、この「一本タモ」、樹高は約15m、幹回りが7.6m、樹齢はおよそ1,000年といわれており、タモの木としては日本最大のものとされています。ひと回りしながら眺めてみました。
◇大きな根元。巨象の足のように、地面をしっかり踏みしめ、掴んでいます。若い根も見られ、まだまだ現役。
  ⇒一本タモ画像その1(画像複数)
◇上に横に広がる幹と枝。年輪を感じさせる樹皮の色と深い皺。新しい生長も見られ、樹勢は衰えていないようです。
  ⇒一本タモ画像その2(画像複数)

 つがる市の指定文化財にもなっているこの老木は、様々な手当てが施され、
樹木保存の試み
現在も地元の人々から崇められている分けですが、古くからの伝承もいくつか残されています。

【昔、ある殿様が、このあたりで道に迷い、杖にしていたタモの木の枝を地上にさして目じるしにした。それに根がついて生長したのだという。※『青森の伝説』角川書店
【津軽藩二代目藩主信枚公が津軽平野の開拓をした時、広大な湿原を実地調査するための目印になった。以来、開拓民の崇拝の的となった。※「一本タモ」説明書きより
 また、現在のように道路が整備されていなかった時代には、「川沿いの細い道を一本タモを目当てにして歩いて村に帰った」という村人の話も残されています。 
ー この一本タモは、開発や人々の暮らしの中で、大切な「道しるべ」として感謝されてきたようです。

 帰り際にひとつのお堂を覗いて見たら、お化粧した地蔵様
化粧地蔵
がたくさん安置されていました。「化粧地蔵」
川倉賽の河原地蔵尊(金木町)
と呼ばれるこのお地蔵様は、幼くして亡くなった子どもの霊を慰めるために、木や石で地蔵を堀り、幼児の戒名を刻み、手作りの衣類を着せ、化粧を施して地蔵堂などに奉納しているものです。
 このような風習は西北津軽地方独特のものとされ、つがる市には多くの地蔵堂がある分けですが、とりわけ、ここ稲垣地区には2,000体以上の化粧地蔵が祀られているとのことです。

 不幸にして亡くなった子ども達の多くは、飢饉や病気、自然災害、等による犠牲者であるといわれていますが、かつては沼地がいっぱい広がっていたこの辺りは、子どもの不慮の事故等も多かったと思われます。

ー 川岸に立つこの「一本タモ」は、そんな子ども達の安全を見守り続けてきたのかも知れません。

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先代供養「報恩寺」ーつがるみち83

 弘前市の新寺町
新寺町
は、弘前城の東側にあった十五ヵ寺が慶安2年(1649年)の火災により焼失したため、翌・慶安3年に3代藩主・津軽信義が焼失した寺院を移転し、町割りがなされたところです。
⇒弘前城東側(現・元寺町付近)
弘前城絵図

 (住所は違いますが)最勝院
最勝院
をはじめ、貞昌寺
貞昌寺
など、津軽家ゆかりの多くの寺院が建ち並ぶこの町は、禅林街と並んで、弘前を代表する寺院街です。
 この町の一角に、4代藩主・津軽信政が、先代・信義の菩提を弔うために建立したお寺である報恩寺があります。

報恩寺山門


 報恩寺は、山号を一輪山、院号は桂光院を称する天台宗の寺院で、前述のように、津軽信政が先代・信義の菩提を弔うため、明暦2年(1656年)に開いたのが始まりとされています。
 津軽家は当初、曹洞宗に帰依しており、曹洞宗三十三寺をまとめて「禅林街」を造ったほどで、長勝寺を菩提寺としていましたが、天台宗の輪王寺(栃木県日光市)の住職・天海僧正と関係が深かったことから、後に天台宗に改宗することになります。報恩寺の山号・院号・寺号はその際、輪王寺宮から賜ったものといわれています。

文殊菩薩


 山門をくぐると、大小の釣鐘を吊した場所があり、側には文殊菩薩
文殊菩薩像
の像が立っていました。獅子に乗った姿のこの文殊菩薩は、このお寺の御本尊・釈迦如来の脇侍である白像に乗った普賢菩薩
本尊と脇侍
とともに、大事な信仰の対象となっているようです。
 創建以来、このお寺は津軽家の菩提寺となり、境内には3代信義、4代信政、5代信寿、6代信著、と続く歴代藩主の墓がありましたが、昭和29年(1954年)にその五輪塔は長勝寺に移されています。もっとも、4代・信政は神道であったために、その廟所は、高照神社にある分けですが。。

報恩寺本堂


 創建当時の伽藍は「壮麗を極めた」とされていますが、貞享4年(1687年)の大火など、数度の火災に遭い焼失。現在の本堂は、宝永元年(1704年)の信義・五十回忌に当たって再建されたものだといわれています。
 この本堂は、寺院本堂建築としては青森県内では長勝寺
長勝寺
、そして初代・為信霊屋がある革秀寺
革秀寺
に次いで古いものだといわれており、その格式や歴史的背景から青森県重宝に指定されています。雪解けを待って、じっくりと見てみたいものです。
 本堂の中には
本堂内
中央の本尊をはじめ、多くの古い奉納額
本堂の奉納額
なども掲げられており、このお寺の由緒を感じさせるものでした。
 また、このお寺には、寺宝として弘前市指定有形文化財である木造・津軽信明坐像、木造・津軽寧親坐像、木造・津軽監物親守坐像、木造・伝覚範法印坐像が残されていますが、拝観には事前の許可が必要なようです。

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軍師の眠る寺「誓願寺 4」ーつがるみち82

「津軽の名軍師」といわれる沼田面松斎は、慶長12年(1607年)に津軽為信が亡くなった後も2代目・信枚を支え続け、慶長17年(1612年)にこの世を去り、ここ誓願寺に葬られる分けですが、晩年の面松斎が尽力をつくしたのが、弘前城の築城とそれにともなう「まちづくり」であるといわれています。
 易学や陰陽道に通じていた面松斎は、その深い見識をいかして築城や城下の「縄張り」に取り組んだとされていて、その構想が信枚をはじめ歴代藩主に受け継がれ、「城下町弘前」が誕生する分けです。

弘前城


 弘前城は慶長8年(1603年)に為信によって、高岡(鷹岡)の地に築城が開始されますが、為信の死去により一時中断。その後、信枚により築城が再開され、慶長16年(1611年)に一応の完成をみたとされています。
 弘前は「みちのくの小京都」と呼ばれるように、平安京を範として築かれた町ですが、平安京は「風水説」

風水説

ふうすいせつ【風水説】

 中国で秦・漢時代から伝承されてきた術数の一派。堪輿,地理,青烏などの別称がある。その原理は,人間に及ぼす地気の作用を信じ,山脈,丘陵,水流などの地勢を観察して,さらに陰陽五行や方位(青竜=東,朱雀=南,白虎=西,玄武=北)をも考え合わせ,その最も吉相と見られる地を選んで,これに都城,住居,墳墓をつくらせる地相学,宅相学,墓相学で,生人の住居の場合を陽宅,墓地の場合を陰宅とよぶ。とくに陰宅を重視し,最良の地を選んで父祖を葬れば,祖霊が安定するだけでなく,その一家一族が繁栄して,子孫の中から科挙合格者や高位高官の者を出すであろうと説く。
         
                       ~kotobankより~
に基づき、方角を東の「青龍(流水)」、西の「白虎(大道)」、南の「朱雀(湖沼)」、北の「玄武(高山)」の四神に見立ててつくられた都であることはよく知られているところです。即ち、京都は鴨川(流水)、山陰道(大道)、巨椋池(湖沼)、船岡山(高山)に囲まれた「四神相応の地」だった分けです。

弘前城絵図


 沼田面松斎は、この風水に基づいて造られた平安京や江戸の街にならって「四神相応の地」を求め、高岡を選んだとされています。
 高岡は、東に土淵川(流水・青龍)が流れ、西に西浜街道(大道・白虎)が延びている所で、その条件を満たしていました。東には猿賀神社
猿賀神社
、西には岩木山神社(百沢寺)
岩木山神社
を配し、守り神としたとされていますが、猿賀神社の拝殿の青龍や岩木山神社拝殿の白虎は、その象徴であるともいわれています。この岩木山神社の白虎の目は、弘前城(旧名・高岡城)の方を見つめているのだとか。。
 ⇒岩木山神社・白虎と猿賀神社・青龍
岩木山神社・白虎、猿賀神社・青龍


 朱雀が宿る南側には、湖沼にあたる天然の池がなかったため、大きな溜池を造ったとされていますが、「南溜池」と呼ばれるこの池は、平時は人馬の水練の場として活用し、有事の際は、その土手を破り、巨大な「濠」とする意図があったといわれています。この辺りには3代藩主・信義の時に寺院が集められ、「新寺町」
新寺町
となり現在に至っています。
 また、北側にはあいにく玄武にあたる高山や丘陵がなく、「玄武=亀」ということから、北門付近に
弘前城北門
亀の甲羅に模した「亀甲町(かめのこまち)」が造られました。
 

 ー こうして面松斎が苦心の末考え出した「四神相応の地」が、その後、実現されていく分けです。

誓願寺


 陰陽道にも通じていた沼田面松斎の志を受け継いだ藩主達は、「鬼門」と呼ばれる北東の地に弘前八幡宮
弘前八幡宮
、「裏鬼門」の南西には長勝寺
長勝寺
、そして、南側の新寺町に大円寺(現在の最勝院)
最勝院(旧大円寺)
をそれぞれ配置しますが、これらは鎮護のための寺社であるばかりでなく、防御施設としての役割もあり、「長勝寺構」、「新寺構」という遺構が現在も残っています。
 実は、誓願寺もまた「西の出城的」な性格を持っていたとされており、往時には、お寺から岩木川の支流にかけて「掘」が続いていたとされています。例えていうならば、北東「鬼門」が弘前八幡宮、南西「人門(裏鬼門)」が長勝寺、南東「風門」が大円寺、そして誓願寺は北西の「天門」として、城を守護していたということでしょうか。

 ともあれ、こうした町づくりの基礎を築いた沼田面松斎は、「城下町・弘前の生みの親」として、人々から敬愛されている分けです。

 ところで、先回ご紹介した『津軽太平記』の著者・獏不次男さんは、取材で為信の霊廟がある革秀寺
革秀寺・津軽為信霊屋
を訪ねてから、誓願寺に寄り、革秀寺の方向を振り返ったとき、「胸に戦慄に似たものを感じた」として、次のように書いています。
【・・急いで帰宅して地図を広げ、本丸の天守閣と革秀寺に定規をあてた。・・何と、天守閣・誓願寺・革秀寺の三点が一直線に並んでいた。
弘前城・誓願寺・革秀寺
しかも誓願寺は、奇しくも正確に三点の中心に在り、直線は二等分されている。】

 ー 名軍師・沼田面松斎は、
沼田面松斎の石像
自分が仕えた為信と自ら創り上げた弘前城を見守りながら、ここ誓願寺に眠っているのでしょうか。

※HP「弘前公園」、獏不次男『津軽太平記』東奥日報社、工藤英寿『弘前城物語』東奥日報社、等を参考にしました。

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軍師の眠る寺「誓願寺 3」ーつがるみち81

 大河ドラマ「軍師官兵衛」も始まりましたが、たまに書店に行くと、官兵衛をはじめ、軍師を描いた本や雑誌をよく目にします。中国では劉邦と張良、劉備と孔明、我が国では後醍醐天皇に楠木正成、武田信玄と山本勘助、秀吉に半兵衛と官兵衛、上杉景勝と直江兼続・・などなど、「軍師」を扱った戦記物の人気は衰えないようです。
 実は、戦国時代の津軽にも為信に仕えた名軍師がいました。名前は沼田面松斎(ぬまためんしょうさい)。 ー ここ誓願寺は、その面松斎の墓所があるお寺です。

「沼田面松斎」・・私もよく知りませんでした。山門の前にこの人物についての説明板
説明板
がありました。【・・(津軽為信と)前世からの宿縁に結ばれていたかのように、固い主従の契りを結んだ軍師沼田面松斎は鬼謀秘計を駆使し、津軽平定という夢の実現に尽力した。尚、易学、風水、密教などの該博な知識を活かし、地方の一大名には過ぎた程の堅固にして壮麗な城と城下町の縄張りを果たした。】
 何とも格調高い紹介文ですが、その述べるところによると、津軽為信の津軽統一を支え、弘前城及び城下町・弘前の礎を築いた人物だったようです。

沼田面松斎の石像
 

 本堂の手前に面松斎の石像が建てられています。
 この石像は、弘前城築城400年祭及び面松斎の400回忌にあたる平成23年に、その功績を讃えて建てられたものです。同時に「顕彰会」
顕彰会 ※地元紙『東奥日報』記事より
も開催され、多くの人々が面松斎の墓前で焼香したようです。
 それにしても、石像とはいえ威厳のあるこの表情・・
面松斎石像
いかにも「軍師」という感じです。

 さて、沼田面松斎は上野国(群馬県)出身で、名前は祐光(すけみつ)といい、細川藤孝に仕えましたが、その後、浪人となり、名を面松斎と改めて津軽の地に流れつき、永禄11年(1568年)に津軽為信に仕官したとされています。
 武田流軍学の大成者で陰陽道や易学に通じ、諸国の事情にも詳しかった人物であり、卓越した軍略で為信を支えた・・とされていますが、その活躍の記録はほとんど残っていないため、実像はよく分かっていません。主の影となって働く「軍師」という役目柄、記録に残らないのは当然なのかも知れません。

 以前、堺屋太一さんが豊臣政権のナンバー2であった豊臣秀長(秀吉の弟)について語っていた番組を見たことがあります。その中で堺屋さんは、秀長の事績を記した物が数少ないことにふれ、「それこそが(記録が少ないこと)、秀長が偉大な補佐役であったことを示している。全てを兄・秀吉の手柄とし、黒子に徹していた証拠だ・・秀長の活躍は、後の秀吉の出世ぶりをみると分かる。」という意味のことを述べていました。
 ー 沼田面松斎が為したこともまた、為信の津軽統一のための戦いをみると分かってくることなのかも知れません。 

津軽太平記


 このような半ば「謎に包まれた」面松斎と為信が支え合って津軽家を興す過程を描いた本が、獏不次男さんの『津軽太平記』です。為信と面松斎の活躍が生き生きと描かれています。
 津軽為信は策略に長けた武将だといわれています。大仏ケ鼻城(石川城)の石川高信を攻めたときは、自分の城・堀越城
堀越城
を修理すると称して着々と軍備を拡張してみたり、先回お伝えしたように大光寺城攻めは正月元旦の奇襲。また、浪岡城攻略にあたっては領内に流言を放ち、人心の離間をはかって分裂を誘ったともいわれています。
 こうして、天正13年(1585年)には津軽統一を成し遂げる分けですが、その卓越した戦略は、面松斎に負うところが大きかったのかも知れません。

 その後、天下人・秀吉の「奥州仕置」の際に為信は本領安堵を願い出ますが、南部氏の反対もあり、危機に陥ります。『津軽太平記』には、このとき、その広い人脈を通じて奔走し、所領安堵をもたらした面松斎の姿が描かれています。
 余談ですが、為信父子はこのときの秀吉の裁定やそれをとりもった石田三成に深く感謝し、弘前城の「館神」として秀吉の木像
秀吉の木像
を祀ったり、三成の遺児を津軽に逃したりして恩義に報いています。
 一方、津軽家では家康の養女・満天姫
長勝寺・満天姫霊屋
を2代目・信枚の室に迎えるなど、徳川家との結びつきを深めていく分けですが、面松斎は、あの天海僧正と刎頸の友でもあったといわれており、津軽家と江戸幕府をつなぐパイプ役でもあったようです。
 こうしてみると、沼田面松斎は、豊臣・徳川政権下における津軽家繁栄の基礎を築いた人物であったともいえそうです。

誓願寺本堂


 沼田面松斎の墓所は本堂の裏側にあり、そこには大きな墓碑が立っていました。
沼田面松斎の墓所

 石像の側の説明板には次のように書かれています。【・・授けられた戒名は「清光院殿面松斎大居士」。院殿大居士の号は、藩主にしか許されない格式の高いものである。】 ー 近づくと、その戒名が
沼田面松斎の墓碑
はっきりと見えました。

  ー 次回は、沼田面松斎と弘前城築城を取り上げてみたいと思います。

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雪の鶴亀門「誓願寺 2」ーつがるみち80

 誓願寺は慶長元年(1596年)に、津軽為信が母親の菩提を弔うために岌貞上人を招いて、平川市・大光寺に開山したのが始まりと伝えられています。
 後に弘前城が築城されるにあたって現在の地に移された分けですが、その創建や移築に至る過程には、様々な紆余曲折がありました。それは、為信による津軽統一のための戦いと深く関わっており、誓願寺の「歩み」は、津軽の「戦国時代末期の歴史」ともいえるような気がします。

大光寺城址


 津軽支配を目論む為信にとって、大光寺城は一帯を抑える要衝としてぜがひでも確保したい城でした。
 当時の大光寺城は、南部氏の支配下にあり、滝本重行が城主となり、多くの支城を配下においていたとされていて、石川城
石川城址
や、北畠氏が守る浪岡城
浪岡城址
とともに南部氏の重要な拠点となる広大な城郭
大光寺城
だったといわれています。

 為信は天正3年(1575年)の夏、4000人もの大軍を率いてこの城を攻めましたが、城代・滝本重行は700人の手勢を率いて、本陣まで切り込むなど奮戦し、為信軍はあえなく敗退。この戦いの最中、為信は馬の足を泥田にとられましたが、近習の活躍により、辛くも窮地を脱したといわれています。
 その後、翌天正4年(1576年)正月元旦、新年の祝賀中を為信に奇襲され、大光寺城は落城。滝本重行は南部に逃れます。しかしながら滝本重行ら南部方は、天正7年(1579年)7月、1000人の兵で津軽に侵攻し、平川市・六羽川流域で大激戦を繰り広げます。大光寺城を為信が完全に掌握したのは、この「六羽川合戦」に勝利してからのことでした。
 その後、慶長4年(1599年)、為信は娘婿の津軽建広(たけひろ)を城主としてこの地を支配する分けですが、誓願寺が創建されたのはこの頃のことだと思われます。

弘前城


 新たに大光寺城の主となった津軽建広は、相模・北条氏の家臣でしたが、後に浪人しているところを為信に見い出され、その三女・富姫を娶って津軽氏に改姓した人物です。富姫は、若くして病死したといわれており、その死を悼んだ為信と建広は、それぞれ三重の塔と観音堂を建立したといわれていますが、津軽三十三霊場・大光寺慈照閣はその跡です。

 さて、慶長12年(1607年)に為信の長男・津軽信建(のぶたけ)と為信が相次いで亡くなると、津軽家では家督相続をめぐる争い(津軽騒動)が起きます。為信の三男・信枚と長男信建の遺児・熊千代が藩主相続を争った分けですが、このとき、熊千代を擁立したのが信建の側近でもあった津軽建広でした。
 結果、熊千代派は粛清され、信枚が2代目藩主となる分けですが、津軽建広は津軽追放を命じられ、江戸城に医師として仕えたとされています。その後、大光寺城は廃城となり、信枚により弘前城の築城が本格化していく分けです。

誓願寺山門


 ところで、弘前城の築城にあたっては、大光寺城にあった追手門がそのまま移築されましたが、それが現在の北門(町名から亀甲門とも)です。築城当時は、鰺ヶ沢と弘前を結ぶ「大間越街道」が主要道であったため、この門が追手門(正門)とされていたようです。
 ⇒弘前城北門
 この北門の柱には大光寺城をめぐる戦の跡(矢傷など)
北門の柱
が残されていて、当時の激しい合戦の様子を今に伝えています。

 ここ誓願寺の山門は、江戸時代中期のものとされていますが、実は、大光寺城の門と同様、誓願寺が現在の地に移ってきたとき、大光寺にあった寺院のものを移築したものだともいわれているのです。

 ー だとすれば、この美しい「鶴亀門」は、戦国の戦いや津軽家の家督争いの様子などを見つめてきた山門である・・ともいえそうです。
                      ー 次回へ続きます。

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雪の鶴亀門「誓願寺 1」ーつがるみち79

 先回は自分が訪ねたお寺の中で、印象に残った山門をいくつかご紹介しましたが、津軽一円のお寺の中でとりわけ美しい姿形をしているのが、弘前市・誓願寺の山門です。
 華麗で美しいこの山門は、人々に忘れがたい印象を残す門で、「弘前城菊と紅葉まつり」でその形を模した入場ゲートが造られたこともあります。
 地元の人々にとても親しまれており、本堂の中には、山門を描いた油絵
油絵に描かれた山門
版画(切り絵?)と毛筆
版画・毛筆
も掲げられています。

誓願寺山門


 国の重要文化財にも指定されているこの山門は、京都・誓願寺を模して建てられたとも伝えられ、【こけら葺、妻入り重層四脚門で、高さ六・九メートル。正面に切妻破風を配置し、少しも小さく感じさせない量感あふれる力作で、桃山時代の手法を残し、珍しい形とともに地方色豊かな建物として高い評価を受けている。※由緒書きより】とされています。
 その形式から江戸時代中期の作と考えられていますが、造りの中に室町期の手法も見られることから、もう少し古い時代のものともいわれています。誓願寺は、たびたび火災に見舞われ、堂宇などが焼失・縮小された分けですが、その中で、この山門だけが焼失を免れ、往時の様子を伝えている貴重な建物です。
 この山門は、建物全体が鮮やかに彩色されており、上層の四つの板壁には十二支の動物の絵が描かれているほか、懸魚(げぎょ)が鶴と亀の形
鶴と亀の懸魚
に作られているところから、「鶴亀門」とも呼ばれ親しまれています。

 何とも趣のある山門で、四方の壁に描かれた十二支の絵が違っているほかは、表から見ても裏から見ても、その可憐な姿形と鶴と亀の懸魚は変わらず、見分けがつかないほどです。   ⇒「鶴亀門」画像

図像板碑と聖観音石像


 山門をくぐって、本堂へと歩みを進めると、左手にひとつのお堂が建っていますが、この中には「弘前市指定有形文化財」
図像板碑・聖観音像
が2基納められています。
 ひとつは「図像板碑」と呼ばれるもので、津軽氏の祖・大浦光信が築いた大浦城から出土したとされ、高さ81cm、 幅70cm、 応安四年(1371年)の年号が刻まれています。碑面には梵字や銘文の他、「阿弥陀如来立像」が線で刻まれていますが、こうした絵像を刻み込んだ板碑はとても珍しく、南北朝期の仏教信仰を知る上で、貴重なものとされています。残念ながら、線がとても細く読み取ることはできませんでした。
 もうひとつは「聖観音石像」。こちらは高さ82cmで、寛文十一年(1671年)のもので、由緒書きには【素朴な中に重厚さを有し、当時の信仰の深さや心情の手厚さをよく表現しているもの・・】と記されていました。

誓願寺本堂


 さて、誓願寺は山号「光明山」を称し、阿弥陀如来
誓願寺本堂内
を本尊とする浄土宗のお寺です。
 その創建は慶長元年(1596年)、京都・誓願寺の高僧・岌禎(ぎゅうてい)上人の開山によるとされ、はじめは大光寺村(現平川市)に、貞昌寺とともに創建されましたが、慶長16年の弘前城築城に際し、現在の地に移されたといわれています。

 岌禎上人は津軽為信の幼名「扇」の名付け親で、為信の手習いの師匠でもありました。また、2代・信枚は岌禎上人に深く帰依し、上人のために京都の誓願寺の大仏を模した大仏を建立し、十八間四方の大殿を造営するほどでした。上人は大仏の完成を見ることなく亡くなりますが、寛永6年(1629年)に大仏が完成した際には、盛大な入仏供養が行われたと伝えられています。

 この大仏も元禄元年(1688年)の火災で焼失した他、誓願寺は寛永元年(1748年)、天保10年(1839年)、明治14年(1881年)と合わせて四度火災にあい、山門だけを残し、多くの寺宝などは焼失したとされていて、このため、誓願寺には【完全に再建すれば火事になる。天井の一部を張り残すなどしておかなければならない・・※誓願寺の栞より】という言い伝えが残っているとのことです。

                        ー 次回へ続きます。

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「津軽のお寺」山門あれこれ

 津軽の寺社をいくつか巡ってきましたが、当初はお寺の境内や本堂の様子ばかりに気をとられて、「山門」を注意深く見ることはありませんでした。
【山門(さんもん)・・仏教寺院の正門である三門の異称。寺院は本来山に建てられ山号を付けて呼んだ名残りで平地にあっても山門という。※wikipediaより】ということや、「三門」とは、「三解脱門」の略称で、「悟りを求める者が通る関門」であるということを知ったのは、しばらくしてからでした。
 津軽には「大寺」ばかりある分けではないのですが、趣があり、素朴な造りの山門も多く見られます。いくつかまとめてみたのでご覧ください。

 ※画像はクリックすると拡大します。それぞれ複数の画像が含まれています。

    

【左から】
◇弘前市  曹洞宗「津軽山 革秀寺」→津軽為信の霊屋があるお寺です。
◇弘前市  曹洞宗「太平山 長勝寺」→禅林街寺院の中心。津軽家霊屋があります。
◇弘前市  曹洞宗「耕春山 宗徳寺」→石田三成の次男・重成の墓所があります。
◇つがる市 真言宗「西の高野山 弘法寺」→弘法大師伝説が残るお寺です。

    

【左から】
◇深浦町  真言宗「春光山 円覚寺」→「澗口観音」として有名な北前船の祈願寺。
◇黒石市  浄土宗「黒森山 浄仙寺」→山門の大きな草鞋が印象的です。
◇黒石市  黄檗宗「宝厳山 法眼寺」→津軽三十三霊場の26番札所です。
◇つがる市 日蓮宗「法光山 実相寺」→水神「水虎さま」を祀っています。

    

【左から】
◇黒石市  日蓮宗「宝塔山 法嶺院」→山門の上の部分が鐘楼になっています。
◇大鰐町  真言宗「神岡山 大円寺」→「大鰐の大日様」篤い信仰を集めるお寺。
◇弘前市  真言宗「愛宕山 橋雲寺」→勝軍地蔵を祀る辰・巳生まれの一代様。
◇弘前市  真言宗「金剛山 最勝院 」→日本最北に位置する五重塔があります。

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獅子頭のお告げ「小栗山神社 2」ーつがるみち78

「獅子踊りに見とれて岩木山の神になり損ねた」という姉妹神の話に惹かれて、その伝説が残る平川市大坊・熊野神社と弘前市・小栗山神社を訪ねたところ、両神社の縁起には「獅子頭」にまつわる伝承があることが分かりました。
 「獅子」はもちろん空想上の動物ですが、日本では古来、猪や鹿などはともに「しし」と呼ばれていたように、獅子は「獣」の総称でした。それらの動物を生活の糧としていた「マタギ」といわれる狩猟民達は、獣の霊を慰めるために祭りを行い舞い踊ったとされていますが、それが「獅子踊り」の起源であるともいわれています。

獅子岩


 津軽における獅子踊り(※地域によって「獅子舞」とも呼ばれる)は、そのような狩猟民達の素朴な祭りが、やがて修験者等の山岳信仰と結びつき、「五穀豊穣」「悪霊退散」を祈念するものとして行われるようになったとされています。
 その多くは男獅子が2、女獅子が1という三匹の獅子と、猿面をかぶった「オカシコ」という道化役、それに数人の囃子方で構成されている分けですが、その形態は「鹿獅子系」のものと「熊獅子系」のものに大別されていて、明確な区別はないものの、それぞれ次のような特徴があるといわれています。
鹿獅子踊り
鹿獅子踊り
・・「鹿=春日大社」ということから春日信仰と関係が深いとされる。獅子の頭の角は
鹿獅子角
鹿の角を模して長く枝分かれしている。赤、白など華やかで明るい衣装が多く、踊り方はテンポがはやく軽快で、跳躍が見られる。主に、平野部の新田地帯に多く分布している。
熊獅子踊り
熊獅子踊り
・・「熊=熊野」で、熊野信仰と結びついているとされる。頭の角は
熊獅子角
短く、先が丸い。地味な柿色や紺の衣装が多く、テンポがゆるく雄渾荘重で重厚な感じがする踊り方である。岩木山を中心にして山間部に多く分布している。 
 ー その踊りの所作の違いから、鹿獅子踊りは豊作に対する「感謝の舞」、熊獅子踊りは「豊穣祈願の舞」ともいわれるようです。

 このような獅子踊りが盛んになったのは、弘前藩2代藩主・津軽信枚が地鎮祭を行った時に、京都から舞楽を招いて踊らせたのが始まりとも、4代藩主・信政が弘前八幡宮の大祭で踊らせてから領内に広まったともいわれています。
 しかし、広がり方が急速であったため、藩では、農民の生活が華美に流れないよう、その回数や祝儀などに制約を加えたといわれており、例えば黒石市・長谷澤神社の奥の山間部・獅子沢には、表面に獅子(鹿)の角・目・鼻・口などが描かれた獅子石
獅子石
という自然石がありますが、これは、藩政時代に獅子踊りが禁制になったため、獅子頭を埋めたところ、この石に獅子が姿を現したものだとされ、【・・獅子石の前で歌を歌うと石に彫られた獅子が踊るとか、ときには笛・太鼓ではやしながら、獅子踊りの歌を歌うのが聞こえる。※『青森の伝説』角川書店】という伝説は、それを物語るものです。

小栗山神社拝殿


 さて、獅子踊りをはじめ、津軽における様々な民俗芸能などは、山岳信仰をもつ修験者たちによってもたらされたものも多い分けですが、平川市大坊・熊野神社
熊野神社
は、鎌倉時代に津軽曽我氏が建てた社で、そのために紀州熊野から山伏達が、津軽に往来するようになり、獅子頭を回して舞っていたといわれています。
 祈祷を主とする山伏達によってもたらされた「熊獅子踊り」が、勇壮な感じの舞であることも頷けます。因みに平川市の獅子踊りは、ほとんどこの「熊獅子」です。

 ここ小栗山神社もまた、地元の木こり・重五郎が「獅子頭のお告げ」を得たことが、その縁起とされますが、由緒書きには、【・・何なる神号にて宜しからんと日夜案じけるが或夜枕辺に立ち託して曰く「吾は天の七星地の主にて五行人間を化育し給う故自今十二所権現と神号すべし」と言い給いければ当國の衆人御神徳を感じ当國の鎮守となる。】とあります。「十二所権現」は即ち熊野信仰の表れで、熊野三山の御祭神を勧請した神社だったようです。

 ところで、日本の修験道には、大峯山を修行の場とする真言宗系の「当山派」と、熊野三山の天台宗系・「本山派」があり、その行者達はそれぞれ「真言山伏」、「天台山伏」と呼ばれ、時には対立し、時には共存しながら、各地に信仰や文化を伝えていったとされています。

 津軽には、岩木山をはじめ、阿闍羅山や梵珠山などの「修験の山」や寺社が多い分けですが、かつては、岩木山神社
岩木山神社
猿賀神社
猿賀神社
、そして小栗山神社は、熊野信仰・天台系修験道で密接に結びついていたとされています。三社の祭りが「津軽三大祭り」といわれる所以はそんなところにもあるのだと思います。

 ー 「小栗山の村人は(大坊の人々も)、岩木山に詣でることをしない。」という話は、「その信仰が共通であったために、小栗山神社への参詣で済ませた」ことから、その伝承が生まれたともいわれていますが、別の言い伝えとして、津軽為信が、その宗教政策の一環として、「天台系修験道」を「真言系修験道」に改めさせたが、小栗山の氏子達はそれに従わなかった・・という話も残っているようです。
ー 古くから受け継いできた伝統や信仰に対する「誇り」がそうさせたのでしょうか。

   ※【山岳信仰の山】及び【青森県音楽保存協会】等のHPを参考にしました。
                               
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獅子頭のお告げ「小栗山神社 1」ーつがるみち77

 弘前市の石川地区から、岩木山神社のある百沢に向かって走っている広域農道は「アップルロード」と呼ばれています。文字通り「りんごの道」ですが、今の季節はこの通り。
アップルロード

 このアップルロードの道路沿いに鎮座している社が小栗山神社です。
 古くから霊験あらたかな神社とされ、地域の人々の信仰を集め、旧暦の8月に行われる例祭は、岩木山のお山参詣、猿賀神社の大祭とともに「津軽三大秋祭り」のひとつに数えられています。

小栗山神社参道


 境内をざっと回ってみました。
◇参道・・杉の木立に囲まれた参道
参道の社号標
には、社号標がいくつか立っています。
◇末社・・拝殿前の末社です。
拝殿前の末社
「馬頭観音」、「月読大神」が祀られており、側に猿田彦神の石碑があります。
◇神池・・末社の近くにある神池です。
神池
真ん中に薬師如来の祠。その側に「御神泉源池」。
薬師如来・御神泉源池

◇狛犬・・雪のため、はっきりしませんが、頭の上に角が生えた狛犬です。
狛犬


小栗山神社社殿


 拝殿
拝殿
の左側には2つの鳥居が立っていましたが、これは山の大神の祠と稲荷宮
山の大神・稲荷宮
でした。
 右側の丘の上に向かって石段が延びています。登ってみるとそこは八幡宮。
八幡宮
この神社の御神体は、元々は近くの一野渡(いちのわたり)村の「八幡岳」という所に祀られていたとされており、明治になってから、同村の八幡宮をここに遷座したとされています。
 そういういきさつもあるのでしょうか、この八幡宮、本殿
本殿
と並んで、一段と高い場所に建てられていました。

小栗山神社由緒書き


 さて、この神社の御祭神は「大山祇命」ですが、その由緒については、次のように記されています。
【文亀2年(1502年)、村の重五郎という樵夫(きこり)が、南方の深山(大和沢領八幡岳権現平※前述の一野渡と同じ地域)で道に迷ってしまい、大榎の元に座り込んで途方に暮れているうちに夜になってしまった。すると、ー 麗木大石の上に獅子頭一頭座居し身に五色の幕を纏い悪魔降伏の角振り乱し光明を放ち給う。彼の一頭申して曰く「善哉善哉承れ吾当社に在ること年久しく又尋常の人の来る処に非ず。汝我を負い人里に至り尊崇すべくば永く人間を守護すべし」と宣言せり。ー ・・重五郎はそのお告げにしたがって、獅子頭を背負って無事に村へ戻り、草堂を建てて安置し、自らは神職となって、諸人の幸福を祈ったところ、多くの御利益があった。※由緒書きより

 先々回取り上げた平川市大坊・熊野神社の縁起と同様、ここにも「獅子頭」にまつわる伝承が残っています。また、【五色の幕を纏い悪魔降伏の角振り乱し・・】という姿は、まさしく「獅子踊り」そのものです。それはまた、「獅子踊りに見とれて、岩木山の神になる機会を逃した」という二姉妹(または三姉妹)の話ともつながるものです。

 この御神体を祀って雨乞いする時は「必ず霊験があった」といわれています。 
 ー 小栗山に降る雨は、岩木山の神になりそこねた姉神の「涙雨」であるとともに、村人にとって「恵みの雨」でもあったようです。
                           ー 次回へ続きます。

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昔話「神々のあらそい」ーつがるみち76

 青森県には、こんな昔話があります。【その昔、本州と北海道がまだ陸続きだったといわれる頃、十和田湖
十和田湖
のほとりに美しい女神が暮らしていた。この湖をはさんで男鹿には赤神が、そして岩木山の北・竜飛
竜飛岬
には黒神が住んでいた。笛の名手の赤神は、語ることばも優しかった。一方黒神は筋骨隆々としてその風貌も荒々しく、つき従う四頭の龍をあやつり、自在に天空を駆けめぐっていた。
 この二人が共に女神を好きになり、お互いゆずらずとうとう争いとなってしまう。天地も割れんばかりの凄まじい戦いとなるが、やがて黒神が勝利し傷ついた赤神は男鹿に帰っていった。ところが、かわいそうに思った女神は赤神の後を追って男鹿に行ってしまったのである。戦いには勝ったものの、女神のいない湖を去り龍飛に戻った黒神は深い深いため息をついた。それがあまりに大きかったため足下から大地は裂け、東西の潮が一気にどっと流れ込んできた。こうしてできたのが津軽海峡だと言われている。※青森ねぶた祭りオフィシャルサイトより】 ー この戦いをひと目見ようと各地から八百万の神々が集まった所が岩木山で、頂上を挟んで黒神派は右側、赤神派は左側へと陣取ったとき、黒神を支持する方が多かったために、その重みで、岩木山の右肩がやや低くなったという、面白い「オチ」もついています。

岩木山神社


 この赤神・黒神の類似話として、大昔、二柱の神が津軽の地を支配しようとして激しく戦い、その結果、戦いに勝利した神は岩木山の神となりましたが、敗れた方は弘前市・小栗山(こぐりやま)
弘前市・小栗山付近
に隠れてしまったという話が残っています。

 「何で小栗山?」と思いますが、こうして唐突にひとつの地名が出てくるのが昔話のおもしろいところです。ともあれ、そのために昔から小栗山の村人は岩木山には登らぬ習わしがあり、また、津軽に降る雨は、小栗山の方から降り始めるといわれています。敗れた神様の怨念でしょうか。。

小栗山神社


 小栗山
小栗山地区
と岩木山のかかわりについては、次のような話もあります。
【昔、姉妹の神が、それぞれ岩木山の神になろうとして、山を目指していた。途中、小栗山で姉神が獅子舞のおもしろさに見とれているうちに、妹神のほうが先に岩木山についてしまい、神となったので、姉はしかたなく小栗山に住みつくことになった。以来、小栗山の部落の人々は、岩木山に詣でることをしない。※『青森の伝説』角川書店

 
  ー 先回お伝えした平川市大坊(だいぼう)・熊野神社に伝わる安寿と厨子王の「岩木山先駆けあらそい」の話は、ここでは、姉妹の神様の話として残っています。もっとも、これには別伝もあって、岩木山の神になろうとしたのは「二姉妹」ではなくて「三姉妹」で、獅子舞を見物している間に岩木山の神となったのは末の女神だったとされ、残された長姉は岩木山の見えない小栗山の神となり、次姉は大坊の神になったという話にもなっています。

 いろいろなかたちで伝えられている昔話ですが、興味深いのは、大坊の安寿・厨子王の話にせよ、小栗山の二姉妹(三姉妹)の話にせよ、「獅子舞(獅子踊り)に見とれた」
獅子舞(獅子踊り)
という話が語られているということです。
 この地域に鎮座している「小栗山神社」は、この「獅子」に関する由来を持つ社ですが、次回は、その境内を訪ねてみたいと思います。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市   Tags: つがるみち  

ぬけがけした姉「熊野神社」ーつがるみち75

 津軽の霊峰・岩木山は多くの伝説が伝わる山ですが、そのひとつに「安寿と厨子王」にまつわる話があります。
 森鴎外の『山椒太夫』にも描かれている有名なこの伝説は、【平安時代、磐城(岩城)判官正氏の子安寿姫と厨子王は、母と一緒に、筑紫に流罪となった父を訪ねる途中、人買いにだまされて丹後・由良湊の山椒太夫に売られ、酷使される。姉の安寿は身を犠牲にして弟を逃がすが、国分寺の僧侶に匿われた厨子王は、やがて国司に任じられて山椒太夫一族を滅ぼし、佐渡で盲目の鳥追いになっていた生き別れの母と再会を果たす。】という物語ですが、津軽では、安寿姫は津軽に逃れ、岩木山の「神」になり、
岩木山神社
祀られるようになったとされているのです。
 ー どうして「岩木山」なのか?それはよく分かっていませんが、太宰治は小説『津軽』の中でこの伝承に触れ、【安寿と厨子王の父、岩城判官正氏が『いわき』とも読めるところからごちゃまぜになったのだろう】と述べています。

長勝寺「蒼龍窟」


 この安寿姫に対する信仰はとても根強く、津軽人は、哀しい運命をたどった兄弟に深く同情していたとされ、弘前藩2代藩主・津軽信枚は百沢寺(現岩木山神社)の桜門の五百羅漢像の中に安寿、厨子王の木像を納めさせるほどでした。この木像は
安寿と厨子王の木像
現在、長勝寺の「蒼龍窟」に安置されています。

 また(丹後の方には申し訳ありませんが)、岩木山の神は兄弟の「敵」であった山椒大夫の地・丹後を忌み嫌っていたとされていて、「卵が嫌いな」小泊・権現岬
小泊・権現岬
の神様は卵をいっぱい積んできた「丹後船」を沈めてしまったという伝承も残っています。 
⇒拙記事「海満寺観音堂」
 さらには、津軽の海が大荒れし、風雨が強まる原因は丹後の船が浜に入って来るからだと信じられ、深浦の港
深浦港
などでは、港の役人が問屋を調べて回り、丹後の船や丹後の船頭を見つけると、すぐに国外に追放するという掟があったともされています。丹後船が退去すると不思議に天候は回復したので、これを「丹後日和」と呼んだのだとか。。

熊野神社参道


 さて、平川市・大坊地区に熊野神社という社がありますが、ここにもまた、安寿と厨子王にまつわる伝説が残っています。

 ここに伝わる伝承はもの哀しい話ではなくて、【丹後の国から逃れてきた姉弟は、岩木山を見て、どちらか早く岩木山に登った方がその神になることを約束した。大坊にある熊野神社まで来ると、獅子踊りが面白く催されていた。二人がこれに見とれているうちに、厨子王は旅の疲れで眠ってしまった。姉の安寿はその間に早くも登山して、岩木山の神になった。それから大坊の村人は(厨子王に同情して)、岩木山に参詣しないようになった。※『青森の伝説』角川書店】という、「安寿のぬけがけ」を物語るどこかユーモラスなものです。

熊野神社拝殿


 白い田んぼに囲まれた神社は、鳥居も白、拝殿も白。白一色という感じでした。⇒熊野神社境内
 この神社は、その縁起によると、大同2年(807年)、 坂上田村麻呂が蝦夷の首魁・大嶽丸を討ち、 この地に首を埋葬したとされていますが、鎌倉時代に当時の平賀郡一帯を支配していた曽我氏(津軽曽我氏)が建てた「熊野堂」が、そのはじまりといわれています。以後、「薬師権現」と称していましたが、 明治4年に「熊野宮」となったとのことです。

 伝説では、田村麻呂が大嶽丸を退治した際、大嶽丸が用いていた頬面2枚をお堂に安置したといわれていますが、頬面は雄雌一対の獅子頭のことです。 ー 安寿と厨子王がこの神社の境内で「獅子踊り」に見とれていたという話は、この獅子頭に由来するものなのかも知れません。

 平川市は、昔から獅子踊りがとても盛んなところで、各町内それぞれに「獅子踊り保存会」があり、猿賀神社の境内では、「県下獅子踊り大会」
県下獅子踊り大会 ※地元紙「東奥日報」より
も開催されています。

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白鳥の館「藤崎八幡宮」ーつがるみち74

 藤崎町は、岩木川の支流(平川、浅瀬石川等)が合流するところです。そのため、中世から藩政時代にかけて水運が発達し、平野部と十三湊を結ぶ重要な拠点として栄えてきた分けですが、現在でもそんな往時を思わせる「舟場」
バス停「舟場」
という地名が残っています。
 ここは「羽州街道」と呼ばれる国道7号線と黒石~五所川原方面を結ぶ110号線が交差する要所ですが、その道路沿いに鎮座しているのが藤崎八幡宮です。

藤崎八幡宮参道


 由緒書きによると、この藤崎八幡宮は【前九年の役(1056年)に敗れた安倍貞任の次子高星丸が、寛治6年(1092年)藤崎築城と同時に、領内の鎮守として、領民の安堵と安東氏の武運を祈願して創立したのが、この旧村社八幡宮である。祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)・・津軽藩政時代においても、代々の藩主は、この神社を崇敬し、藤崎組の総鎮守に定め、安永年間(1772~1781)には、組大神楽を奉納し、藩の繁栄を祈願している】とされています。

 今の時期、どこの寺社もそうですが、境内は雪にすっぽりとおおわれていて、体に雪をのせた神馬達も、
神馬
とても寒そうです。こちらは狛犬達。
狛犬
雪のために表情ははっきりと見えませんでしたが、首を大きくひねって顔を正面に向けている姿は、とても愛嬌があります。境内には、いくつかお堂が建っていますが、小ぶりなお堂があったので、中をのぞいてみたら、親子の馬達が住んでいました。
神馬堂


藤崎八幡宮拝殿


 拝殿
拝殿
にはまだ初詣のなごりが感じられ、その中を
拝殿内
のぞいてみると、八幡様のお使いとされる鳩の絵なども掲げられていました。

 この拝殿・本殿の後ろ側は小高い丘になっていますが、これが「藤崎城土塁の跡」です。
 丘の上には、猿田彦を祀る祠とともに、「安東氏顛末記」
碑・安東氏顛末記
という大きな石碑が立っています。石碑の表面には、文字がびっしりと刻まれていましたが、読めませんでした。文字通り、この地における安東氏の「あしあと」を記したもののようです。境内にはまた、安東氏の末裔の墓所
安東氏の末裔の墓所
もありました。
 この「顛末記」の隣りに小さな石碑が2つ並んで立っていましたが、雪をどけて見ると、「二十三夜塔」
「二十三夜塔」
という文字が浮かび上がってきました。もう一つは、暦応3年(1340年)の板碑で、
暦応3年(1340年)の板碑
この神社の向かい側にある「稱名寺(しょうみょうじ)」の境内から出土したといわれています。
 この土塁は国道の方にも延びており、そこには「藤崎城土塁の跡・安東氏発祥の地」という木柱があって、道路側から見ると、その様子がよく分かります。⇒藤崎城土塁

藤崎城址


 さて、前九年の役で敗れた安倍貞任の子・高星丸は津軽に逃れ、安倍十郎貞義と名乗ったとされますが、藤崎城は、高星丸の子・尭恒(たかつね)が寛治年間(1089~93年)に築城したといわれています。
 以後、安東氏を称するようになった子孫達は十三湊に進出し、繁栄を極める分けですが、安東氏が蝦夷地に撤退した後、城は南部氏が支配するようになります。やがて南部氏を駆逐した津軽為信は、ここに義弟の六郎や甥の五郎らを配置して重要な拠点としましたが、1585年(天正13年)頃、この六郎と五郎が川で事故死する事件があったため、その後、藤崎城は廃止されたとも伝えられています。 
 ー かつては、東西360m、南北800mという広大な平城であった藤崎城は、今、八幡宮の境内にわずかに残る土塁のみです。


 ー (谷川健一さんの『白鳥伝説』などによると)藤崎・安東氏の祖である奥州安倍氏は「白鳥信仰」を持つ一族であり、「白鳥八郎」を称し、前九年の役で源頼義軍に抵抗したとされることや、高星丸の子孫の中にも「白鳥太郎」を称する者がいたこと、さらには藤崎城が「白鳥館」と呼ばれていたことなど、藤崎町は白鳥の伝説を残している町といえそうです。そんな藤崎町に例年、多くの白鳥が
藤崎町の白鳥
飛来することを思うと興趣がつきないものがあります。

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白鳥の伝説あれこれーつがるみち73

 白鳥は古来「神の使い」として崇められ、日本各地にその伝説などがありますが、とりわけ、東北地方には根強い白鳥に対する信仰が残っています。
 宮城県の刈田郡や柴田郡はその信仰が特に強烈で、そのために仙台藩はこの地方で白鳥を捕獲することを固く禁じていた分けですが、戊辰戦争に勝利し柴田郡に進軍してきた薩長軍の兵士達が、白鳥を乱獲したために、それを見かねた柴田家の家来が白鳥を守ろうと兵士に向かって発砲するという事件(白鳥事件)が起こりました。結果、事件に関与した家来達は処刑され、その責任を取って柴田家当主は切腹したといわれています。 

『白鳥伝説』『成吉思汗の秘密』


 青森県もまた、「県の鳥」として白鳥が選ばれているように、その信仰や伝承が数多く残るところです。おいらせ町・間木堤
おいらせ町・間木堤
や、むつ市・大湊
むつ市・大湊
をはじめ、たくさんの白鳥飛来地がありますが、中でも平内町小湊・浅所海岸
平内町小湊・浅所海岸
の白鳥は国の特別天然記念物にも指定されています。

 昨年亡くなった民俗学者・谷川健一さんは、その著書『白鳥伝説』の中で次のような逸話を紹介しています。
 【・・昔は平内の村人は白鳥の来訪する頃には、田んぼや海岸近くに腰を下ろして待った。白鳥が五羽六羽、五十羽百羽と飛んでくると「おひさしゅうがす」「今年も無事でなあ、待ってましたじゃあ」と声をあげ、眼をうるませる。・・白鳥が神の使者であることを知らないで、筒先を向ける他所の漁師があると、血相を変えて筒口に立ちふさがり、「あれを撃つならその前におれを撃ってくれろ」と叫んだ・・】

 また「源義経=成吉思汗」説を取り上げた高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』(この推理小説、若い頃夢中になって読みました)には、【・・ 義経は八戸にいたとき、地元の豪族の娘と深い仲となり、娘は義経が蝦夷地へ旅立った後に、鶴姫という姫を産んだ。やがて成長した姫は地元の阿部七郎という武士と恋仲になるが、阿部家は頼朝に仕える身で、義経の遺児と結ばれることは許されなかった。思い余った二人は、義経を慕って、蝦夷地への逃避行をはかったが、夏泊まで来た時、追っ手が迫り、二人は半島の絶壁で胸を刺し違えて、海に飛び込んだ。以来、浅所海岸には薄幸の娘の霊を慰めるために、義経の魂が乗り移った白鳥が、毎年飛来する。】という「椿山心中」の話が語られています。⇒夏泊半島付近
夏泊半島付近


 ー 前述した柴田郡の「白鳥事件」といい、この平内町に伝わる伝承といい、正に【・・かくも狂おしい思慕を人間から寄せられる対象は白鳥以外にはない。 ※谷川健一『白鳥伝説』 】というところでしょうか。

白鳥ふれあい広場


 さて、藤崎町もまた、昔から白鳥の飛来地として有名な所で、町を流れる平川には、康平年間(1060年頃)または、正平年間(1356年頃)に万を超える白鳥が飛来し、安東氏の居城・藤崎城は「白鳥の館」と称されていたといわれています。
 現在、「白鳥ふれあい広場」と名づけられた場所に白鳥が飛来するようになったのは昭和40年(1965年)頃からで、土手には白鳥観察施設「こ~やまるくん」
白鳥観察施設「こ~やまるくん」
も建てられている他、川縁までゆるやかな階段が設置され、白鳥と間近で接することができるため、家族連れで賑わっています。

 ー 谷川健一さんの『白鳥伝説』は、古代の畿内には、「饒速日命(ニギハヤヒ)」を祖とする物部氏が築いていた王国があり、やがて九州から押し寄せた勢力(神武東遷伝承に象徴される。谷川説では物部氏も神武以前に九州から東遷してきた氏族とされる。)によって、畿内を追われた物部一族は、蝦夷と共に東北各地に進出し、独自の文化を築くに至った・・とするものです(※内容が難しく、私もよく理解していませんが、東北の熱烈な白鳥信仰は自然発生的に生まれたというよりも、白鳥を「神」と崇めていた集団・物部氏及びその一族と結託した蝦夷によって広がったもので、根強い「白鳥信仰」、白鳥に関する伝説などを探ることによって、古代東北及び日本の歴史の深層がみえてくる・・ということだと思います)。

 藤崎町は「前九年の役」で戦死した安倍貞任の遺児・高星丸(たかあきまる)が藤崎に落ち延び、やがて安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地としたと伝えられる町ですが、伝承によると、この奥州安倍氏の祖は、物部一族と共に神武軍に頑強に抵抗した長髄彦(ながすねひこ)の兄弟「安日彦(あびひこ)」とされています。また、安倍貞任の弟・則任は「白鳥八郎」と称していたとされることや藤崎城が「白鳥の館」と呼ばれていたことなど、藤崎町は「白鳥」との深いつながりを感じさせる町です。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 藤崎町   Tags: つがるみち  

まちのはじまり「鹿島神社」ーつがるみち72

 青森には、坂上田村麻呂が蝦夷征伐をした際に建立したとされる寺社がとても多い分けですが、地名の由来にもこの「田村麻呂伝説」が語られています。
 弘前市・貴船神社の一帯は「十面沢(とつらざわ)」と呼ばれていますが、この地名は、田村麻呂が「岩木山赤倉の鬼」を征伐した時、鬼(蝦夷)の面を「十面」取ったことからついたともいわれています。
 南津軽郡・藤崎町の「藤崎」という町名もまた、田村麻呂にまつわる話からその名がつけられたとされていて、そんな伝承を伝えている社が鹿島神社です。

鹿島神社参道


 藤崎町は中世の頃から、交通・政治・経済の要所として開けた町ですが、藩政時代にはここ鹿島神社の辺りには、馬継所や代官所があったといわれています。
 一の鳥居をくぐって進む境内はすっぽり雪景色。
境内の木々
鳥居の赤、松の緑、そして雪の白が鮮やかです。
 境内には、3本のケヤキの大樹がありますが、これはそのうちの一本
ケヤキの大樹
で、幹回りが5m、高さが30mといわれています。上の方の枝には、「雪の花」が咲いていて、
ケヤキの枝先
拝殿の前の狛犬達も「雪帽子」をかぶっていました。
狛犬


鹿島神社拝殿


 この拝殿
拝殿
の左側にお堂が並んで建っていますが、これは神馬堂で
神馬堂
、中には大きな神馬
神馬
が納められていました。

 拝殿右側には土俵があって
土俵
、そのそばにひとつの碑が立っています。これは、藤崎町出身の名大関「大ノ里」の顕彰碑です。
「大ノ里」顕彰碑

 大ノ里は大正時代から昭和の始めにかけて活躍した名力士で、身長は160cmそこそこ、体重は100kgにも満たない小兵ながら、「肉体と力には限界があるが技には限界がない」として、精進を重ね、大関にまで昇進した人物です。同じく小兵ながらも「土俵の鬼」と呼ばれた後の横綱・若乃花(初代)や、「技のデパート」舞の海といった青森県ゆかりの力士達の大先輩だった分けです。 
 ー 大ノ里はその温厚な人柄と、若手に対する熱心な指導のために、多くの力士達の人望を集めていたとされています。ここ鹿島神社の土俵では、その偉業をたたえて例年「大ノ里杯少年相撲大会」
「大ノ里杯少年相撲大会」※地元紙『津軽新報』記事より
が行われています。

鹿島神社本殿


 さて、この社は、多くの「鹿島神社」と同様、「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」を祀っている分けですが、由来によると、【平安時代初め坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際、蝦夷の頭領・恵美の高丸の霊を退治した時、田村麻呂の守護神である毘沙門を祀ったのが始まり。 ※「ふるさとの史跡散歩」藤崎町】とされています。

 「高丸」は、同じく蝦夷の頭領「悪路王」や「赤頭」と共に、岩手県・平泉の「達谷窟(たっこくのいわや)」
達谷窟 ※トリップアドバイザー提供
に立てこもり、田村麻呂軍に激しく抵抗したとされる伝説上の人物ですが、滅ぼされた高丸の霊魂がここ藤崎に飛んできたということでしょうか。蝦夷の頑強さを物語る伝承ではあります。

 その田村麻呂が、勝利に感謝し、毘沙門を祀った時、【地面に突き立てた藤の杖(または「むち」)から枝や根がのび、付近を藤の咲く里・「藤咲村」と呼ぶようになった】といわれており、やがて「藤咲」が「藤崎」となり、町名の由来にもなったといわれている分けです。

 このような「藤崎町の発祥」にまつわる伝承を残す鹿島神社は、藤崎八幡宮と並んでこの地域を代表する神社です。雪のために近くで見ることはできませんでしたが、本殿には、
鹿島神社本殿
その由緒を感じさせる鮮やかな装飾がほどこされていました。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  水虎様  

水神を祀る寺「実相寺」ーつがるみち71

 津軽地方の岩木川流域は「鳥居の鬼っこ」をはじめ、化粧をほどこしたお地蔵様を祀るお堂など、独特の民俗信仰が根づいている所です。
 そのひとつとして河童の姿をした「水虎(すいこ)様」という「水神」を崇める信仰があります。地図で調べてみると、岩木川沿いにたくさんありました。
祀られている水虎様
西北津軽地方を中心にその寺社やお堂などは約80ヶ所といわれていますが、「水虎様」を祀り、水難防止を祈願するこの信仰は、つがる市・木造の実相寺から始まったとされています。
実相寺山門

実相寺鐘楼

 つがる市役所から木造駅へ。道の途中にこのお寺はあります。その山門は姿形が美しくとても趣があります。
山門
本堂と鐘楼の屋根の左右は、ピーンとつり上がっていて、まるで鳥の羽のようです。
 実相寺は山号「法光山」を称する日蓮宗のお寺ですが、その創建については、五所川原・飯詰城(高楯城)
飯詰城跡
に関わる伝承が残されています。

 戦国時代、大浦為信による津軽統一が進む中、飯詰城を守護していたのは、浪岡北畠氏の家臣・朝日左衛門尉藤原行安で、飯詰城は、北畠氏滅亡後も10年に渡って為信の攻撃を持ちこたえましたが、遂に1588年に落城しました。 ⇒飯詰城址
 その時、【城主の後室お妙の方は身ごもっていたため、城主の命により家老とわずかな供を連れ立って間道を通り城から大原(つがる市柏下古川)の地に逃げ延び男子を出産。その後、慶長2年(1597年)大原に主従の霊を弔うため落飾し庵を建て供養した。 ※実相寺縁起より】といわれており、「法華庵」と呼ばれたこの庵が実相寺の前身で、その後、【50年ほど経て寛文年間(1661-72年)のころ讃岐(香川県)生まれの実相院日成上人は布教伝道の為この地を訪れ、特に木作(木造)地方の多くの人の信望を得たので、住持していた法華庵を元禄2年(1689年)に現在の地に移し本行寺(弘前市)の末寺となった。元禄14年(1701年)本堂、庫裡の改装工事が完了し、法光山実相寺の寺山号を公称した。】とされています。

実相寺本堂

さて、「水虎」とは【中国の湖北省の川にいたという妖怪。外観は3、4歳の児童のようで、体は矢も通さないほどの硬さの鱗に覆われている。普段は水中に潜っており、虎の爪に似た膝頭だけを水上に浮かべている。日本には本来、中国の水虎に相当する妖怪はいないが、中国の水虎が日本に伝えられた際、日本の著名な水の妖怪である河童と混同され、日本独自の水虎像が作り上げられている~wikipediaより~】といわれていますが、津軽では「妖怪」というよりも、「龍神様の使い」「水神」として崇められています。それは江戸時代の末頃、ここ木造一帯で多発していた子どもの水難事故を憂いた実相寺の日順上人が、「水虎大明神」を勧請・祈願して広く水虎信仰を広めたことが、その源になっている分けです。

 現在でも、つがる市や五所川原市付近には沼や池
点在する沼
がたくさん見られますが、当時は川も多く、湿地が広がり、新田の開発も大変難儀をしたといわれていますし、悲惨な子どもの水死事故も多かったと思われます。余談ですが、山から離れていたため、薪が不足していたこの地方では、田んぼの底に積もった葦などの泥炭層を掘り、それを乾燥させて燃料にしていました。「サルケ」
サルケ ※Web『こまきのいせきものがたり』より
と呼ばれるこの燃料は昭和20年代まで使われていたとのことです。

 本堂の中に入り、「水虎様」を拝ませてもらいました。それは、中央の祭壇
本堂祭壇
に祀られていました。「水虎様」は、
水虎様
とても愛らしく、親しみやすい感じの「水神」でした。若い住職さんの話によると、遠く関東の方々も拝観に訪れるとのことです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  

豊作祈願「三新田神社」ーつがるみち70

 木造町は、弘前藩2代藩主・津軽信枚の「新田開発令」以来、3代・津軽信義の頃から新田開発が行われた所で、続く4代・津軽信政の治世には大規模な開発が進められました。
 その信政は、新田の開発がほぼ成った貞享元年(1684年)に当時の「木作代官所」に仮宿を建てますが、その時に手植えした松は「千代の松」
千代の松
と呼ばれ、現在も残っています。
 当時、主に開発が行われた所は「木造(現つがる市)」「金木(現五所川原市)」「俵元(現五所川原市)」で「津軽三新田」といわれますが、開発にあたり信政が延宝年間(1672年)に造営し、「新田開発五穀成就」を祈願したのが三新田神社です。

三新田神社一の鳥居


 木造町の中心街、つがる市役所の側にこの神社はあります。その鳥居には、しめ縄と共に多くの「米俵」
鳥居の米俵
が取りつけられていました。これは町内会の皆さんが
町内会の皆さん
例年、奉納しているもので、「三十三俵しめ縄奉納」と呼ばれています。
 300kg以上の大しめ縄と33の俵を奉納し、新年の五穀豊穣を祈るこの催しは、この地域では数百年前から続く伝統で、俵作りの技術後継者不足もあり、いったん途絶えたそうですが、約20年前に復活したとのことです。古来、数字の「3」は神聖な数で「多数」を意味し、「3」が並んだ「33」は「無限」を表すとされるところから、「多くの恵み=豊作祈願」につながるもののようです。

三新田神社参道


 さて、由緒によるとこの社は元和元年(1615年)、「産土神」として建立されたのが始まりとされています。津軽信政による造営の際には、神明宮と稲荷宮を勧請し、御神体として、 藩祖・為信秘蔵の兜の鍬形の御前立小鏡が納められたといわれています。
 御祭神は天照皇大神をはじめ、譽田別命・宇加魂命・大宮姫命・猿田彦命で、歴代の藩主や地域の人々の崇敬も深かった神社で、明治期には、氏子の方々の熱意により、正殿・拝殿・神楽殿等が造営され、現在に至っています。

三新田神社境内


 参道を進んで拝殿の前まで行くと狛犬
狛犬
と共に一対の神馬像。
一対の神馬
木造町は「馬のまち」でもあります。
 境内にはいくつかの摂社が建っていますが2つ並んだこのお堂は
事比羅神社と天満宮
事比羅神社と天満宮のようです。こちらは豊穣の神・稲荷宮。
稲荷宮
柱には小さな龍
小さな龍
が巻きついていました。

 拝殿の前に「夫婦イチョウ」
夫婦イチョウ①
という町の名木がありましたが、このイチョウ、よく見ると片方は先が欠けていました。
夫婦イチョウ②
折れたのでしょうか、分けがあって切り取られたものでしょうか。。

 境内には、多くの猿田彦命の碑
猿田彦命の碑
と共に二十三夜塔
二十三夜塔
が並んで立っています。二十三夜塔は「月待塔(つきまちとう)」のひとつで【特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔である。月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。~wikipediaより~】とされています。十三夜は虚空蔵菩薩を、十五夜は大日如来、二十三夜は勢至菩薩をそれぞれ本尊として祀ったとされていますが、昔から月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も全国に広がったといわれています。ここでもまた「お講」が行われ、人々が集まっていたのでしょうか。

 三新田神社の境内には、歴代藩主の手植えによる木々があるなど、津軽家の崇敬も厚く、昭和39年には津軽華子様が、父義孝氏とともに結婚報告に参拝された神社としても知られています。

     ※画像はいずれも昨年12月のものです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 自然&風景   Tags: 名木めぐり  

じょうぶで長生き長もち

 明けましておめでとうございます。
 新しい年を迎えるにあたっていつも思うことは、いつまでも健康で過ごせたら・・ということです。ー そういう願いをこめて、昨年の秋頃から訪ねた寺社や史跡の「名木、巨木」をまとめてみました。いずれも「じょうぶで長生き、長もち」の樹木です。あやかりたいものです。 ○○○○をクリックしながらご覧ください。


sam8.jpg sam8.jpg左:弘前天満宮のシダレザクラ。春にはまだまだ見事な花を咲かせます。
◇右:橋雲寺の大杉。地面をわしづかみしている根っ子。

sam9.jpg sam8.jpg◇左:堰神社の大銀杏。私の中では、隠れた名木の一つです。
◇右:源常林の大銀杏。様々な伝承が残る巨木。


sam2.jpg sam8.jpg◇左:最終氷期埋没林。28,000年前の針葉樹です。
◇右:新穂ヶ滝の神木。3本でご神体の滝を守っています。


sam8.jpg sam8.jpg◇左:関の甕杉。古碑群のそばにそびえています。
◇右:折曽のイチョウ。姿形がとても美しいイチョウです。


sam8.jpg sam8.jpg◇左:北金ヶ沢の大イチョウ。日本一の大イチョウ。その大きさには脱帽です。
◇右:雲祥寺の老松。いたわってあげたい老木です。

今年もどうぞよろしくお願いします。
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 早いものでもう3月になりました。雪解けを待ち、また史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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kamome.gif Author:korekarada       ふるさと「東北・青森県」の史跡を巡り、感想などを綴っています。ときには、まだ見ぬ地方への憧れを「バーチャル旅行記」として、書いていきたいと思います。
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