
津軽地方では珍しい海神を祀る神社ですが、昨年の夏には創建420年祭が執り行われ、その様子が地元紙 にも掲載されていました。
このように、古くからの由緒ある神社ですので、境内には様々な末社や石像、お堂などがあります。今回はその境内の様子をいくつかご紹介したいと思いますが、この手水舎 のように、建物の前にはその名前を記した札がかけられていたり、立てられているので、とても助かりました。

◇神池のすぐ隣にある淡島宮。 医療の神様「少彦名神」を祀っています。手前には、小さいながらもぷっくりした愛嬌のある狛犬。
◇こちらは虚空蔵宮です。 虚空蔵菩薩は、その「智慧と功徳が広大無辺」とされる菩薩ですが、丑年生まれの人の守護神でもあります。津軽では丑年生まれの一代様である弘前市・求聞寺などに、牛の石像が置かれているのを見かけますが、ここにも牛の像 がありました。
◇その虚空蔵宮の隣が平和観音堂 です。錠がしてあったので中は見れませんでしたが、馬頭観音、救世観音、そして「りんごの町板柳」にふさわしく「林檎観音」も祀られているとのことです。

拝殿 の右側(向かって)には、神楽殿、神明宮、保食大神などがあります。⇒神楽殿など(画像複数)
拝殿と本殿はいずれも板柳町の指定文化財ですが、その中門(唐門) と本殿の間にちょっと変わった狛犬が居ます。何回か写真などで見ていて、この神社を訪ねた目的のひとつでもあったのですが、残念ながら中へと入ることはできず、遠くから眺めるだけでした。
しかしながらこのブロンズ狛犬 ・・・ロボット犬というか、メカゴジラというか、とにかく珍しい狛犬です。夏場にゆっくり見てみたいものです。

さて、津軽は、弘前藩4代藩主・津軽信政が浅野内匠頭と懇意であったり、大石内蔵助の縁者が弘前藩に仕えていたりと、何かにと播州赤穂藩とのつながりが深いところですが、(※拙記事をご覧ください)ここ海童神社にも赤穂ゆかりのものが保管されています。
それは御神輿 で、この御神輿は【元禄15年(1702年)、板柳の豪商「若狭屋」が大阪での商用の折に購入し、海童神社に奉納した。この神輿は、播州浅野家が注文し作らせたものであるが、元禄14年(1701年)、浅野匠頭が殿中刃傷事件を起こし、お家断絶となったため引き取らなかったというものである。※HP『文化財オンライン』より】といわれています。
実物は見ることはできませんでしたが、この神輿には、赤穂の紋である「違いの鷹羽」がついているとのことです。
ー 赤穂といえば塩、塩といえば海・・やはりこの海童神社は、その名の通り、海と深くかかわっている社のようです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【鳥居の鬼ッコ】
板柳町の鬼ッコです。海童神社から少し離れた掛落林・稲荷神社にありました。
赤い角と赤い大きな口、鋭くとがった歯など、見るからに怖い感じのする鬼です。少し色が落ちていますが、その目も黄色で塗られていたようです。
※右の画像をクリックしてご覧ください(画像複数)。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
☆つがるみち☆



私も何度か西北津軽地方の寺社巡りでこの町を通りましたが、そのたびにひとつ気になっていた神社がありました。それは海童神社という社です。
板柳町は、りんごの生産地として有名な農村地帯ですが、それなのに「海童」とは?・・どうして「海」なのか?と不思議に思っていました。
そういう分けで、今回、訪ねてみることにしました。板柳町の寺社は初めてです。

板柳町は、江戸時代の頃には「板屋野木」と呼ばれていましたが、かつて、村を流れる岩木川の東岸に柳の木の広大な群落があり、人々はこれを打ち割って板を作り、家屋の建材として売りさばき、多大な利益を得たといわれています。「板柳村」の名は、この「柳」と「板」に因んで名づけられたのだとか。
藤崎町の辺りで合流した浅瀬石川と平川が岩木川 となり、その流域にある板柳は、天然の良港(河港)として発展した町で、文禄2年(1593年)には津軽氏が兵糧積み出しの河港に指定した、という記録が残っています。
また、弘前藩4代藩主・津軽信政の頃には、津軽平野一帯から収穫した米を、岩木川の水運を利用して十三湊へ運ぶ「十三小(米)廻し」が行われましたが、寛永3年(1663年)には、ここ板柳に廻送米の藩倉が建てられ、代官所が置かれ、藩の御用船が出入りし、若狭屋、井筒屋、小松屋、などの豪商が財を競い合い、それは城下町・弘前をしのぐ繁栄ぶりだったと伝えられています。
しかしながら、7代藩主・津軽信寧(のぶやす)の時代には、天災や飢饉が相次ぎ、藩の財政は破綻し、徹底した倹約令が出され、弘前以外の地域の商売は差し止められてしまいました。結果、板柳の町の勢いも衰えていった分けです。

一の鳥居をくぐり、境内へ入るとそこに説明板があり、この社の御祭神 が記されています。
祭神は「上津錦津見神(うわつわたつみのかみ)」「 中津錦津見神(なかつわたつみのかみ)」「底津錦津見神(そこつわたつみのかみ)」で、文字通りこの三神は海の上、中、底を司る海神です。
この神々は、黄泉国から帰還した伊弉諾尊が、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊をした際に、それぞれ、海面、海の中程、海底から生まれた神とされ、総称して綿津見神(わたつみ)と呼ばれる海の守り神になったとされています。
ー 海ではないものの「川=水」によって発展した町・板柳を象徴する祭神といえるでしょうか。

「海神」とのつながりを示す由来がもうひとつ。境内の標柱 には次のようなことが書かれていました。
【文禄2年(1593)津軽為信が豊臣秀吉の朝鮮征伐の際に軍を派遣したとき、海上安全国土繁祥の祈願所とする。現在地に遷宮したのは承応元年(1653)である。※境内の案内標柱より】
朝鮮征伐軍の海上安全と国土の繁栄を願う祈願所として、この神社は建立され、「宝量宮」と名づけられたということで、海神を祀っている理由はそこにあった分けです。
入口には大きな神池があり、そこには龍頭観音 が祀られていました。いかにも水に縁が深い神社・・といった感じです。この神池の龍神の口 からはお湯が湧き出ていますが温泉でしょうか。。観音様は、 大きな龍の後ろに静かに佇んでいました。
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



先回の尾崎八幡宮もそうでしたし、藤崎町の「藤崎八幡宮」にも掘跡や土塁などが残っていました。
今回訪ねた平川市・新屋地区に鎮座している八幡宮(以下、新屋八幡宮)もまた、新屋城というお城があった所です。

新屋城は、その築城年代は定かではありませんが、戦国時代には、新屋源次郎という武将が城主でした。
新屋氏は、大光寺城の城代・滝本重行の家臣であり、新屋城は、南部方の津軽支配のための支城のひとつだった分けです。
『津軽藩史』には、新屋氏は、天正3年(1575年)、大浦為信が大光寺城を滅ぼすと、翌天正4年に、尾崎城主・尾崎喜蔵とともに為信に降伏したと記されていますが、一説では、その前に滝本氏に攻められ、城は落城し、浪岡へ落去した後、津軽家臣となったともいわれています。
現在、新屋公民館近くに標柱が建っていますが、それによると新屋城は大館・小館・西舘・寺館の4郭からなると記されていて、集落全体が当時の城跡であるともいわれています。現在は宅地化が進み、遺構はほとんど残っていませんが、八幡宮の境内は、その主郭であったとされており、水壕の跡 が残っています。

◇道端に立っている一の鳥居からは想像できませんでしたが、その参道はかなりの長さでした。雪をかぶった杉木立や燈籠など、なかなかきれいな景色です。
⇒参道(画像複数)
◇こちらは神橋。 城の水壕だった所に架けられています。手前には小さな狛犬 がありました。
◇拝殿の前の狛犬 です。少し雪を払ってあげました。
◇手水舎 と、その近くに建っている末社 です。
◇境内の中で、ひときわ目を引くのがこの大きな神馬像。 高さ4,5m位か。。

さて、新屋八幡宮は、創建の年代はよく分かってはいませんが、先回の尾崎八幡宮と同様、弘前藩3代藩主・津軽信義にまつわる次のような伝承が由緒書き等に記されています。※【】は青森県神社庁公式サイトより
【寛永19年(1642)11月、津軽大守藤原朝臣信義公が、この地域で御鷹狩の節、にわかに心願を興され当社へ参詣し、社司へ祈祷を命じたところ、心願が成就し大層喜ばれ、社司にこれからも祈祷に精励するように仰せ付けられた。】
さらにはまた、【翌20年正月16日の夜、当社祭神が、信義公の枕元にお立ちになり、尚37日間の祈祷を続けるよう申されたので、その旨社司へ命じたところ、祈願が成就し感悦の余り当社へ神饌を供え、御神楽を奉納、同年7月16日より本殿、神楽殿、鳥居、橋等に至るまで、悉く全て新しく造営し、翌21年正月20日、社領地として30石を寄進された。】とあり、以後、明治維新に至るまで、津軽藩主の祈願所として崇められてきたという分けです。
祭神(八幡神)が尾崎八幡宮では大石に、ここ新屋八幡宮では夢枕に立って、信義に対して「社運を興すように」と告げた・・というとても面白い話になっていますが、これは、津軽氏による領地の支配が進んでいったことを示していると思われます。
初代・為信の津軽統一、そして、2代・信枚の弘前城築城と城下町形成の後を引き継いだ信義に課せられたものは、その領地の細かな統治だった分けで、たびたび信義が行った「鷹狩り」は領地の現状を視察するという意味もあったと考えられます。
信義の時代は、新田開発などで経済が発展する一方、津軽三十三霊場の創始などにみられる宗教政策も進んでいく分けですが、この尾崎・新屋両八幡宮に伝わる伝説も、津軽氏が、その領地の「民心掌握」に努めていったことを物語っているように思います。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【鳥居の鬼ッコ】
平川市・三社神社に掲げられている鬼ッコです。新屋八幡宮からの寄り道です。
黒い目、赤い眉、大きく出っ張った白い歯・・遠くから見てもすぐその姿が分かる鮮やかなブルーの鬼ッコです。
※右の画像をクリックしてご覧ください(画像複数)。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
☆つがるみち☆



その事績や人となりについては、碇ヶ関・国上寺の「ねまった不動様」をはじめ、いくつかご紹介したので、ここでは省略しますが、平川市には、この信義に関する伝承が残っている八幡宮が2つあって、そのひとつが尾崎(おさき)地区にある八幡宮(以下、尾崎八幡宮)です。

この尾崎八幡宮の一帯は、尾崎城と呼ばれる平城があった所で、その築城年代は、はっきりしていませんが、暦応2年(1339年)の頃には既に築かれていて、津軽・曽我氏の勢力下にあったとされています。
永禄年間(1558~70)には尾崎三郎右衛門・尾崎喜蔵が城主となっていました。
尾崎氏は、大光寺城・滝本播磨守重行に従う南部氏の家臣でしたが、天正3年(1575年)に大浦(津軽)為信の攻撃により大光寺城が落城すると、城主・尾崎喜蔵は為信に降伏し、以後、大浦氏に臣従したといわれています。
しかし、尾崎氏は後に為信に対して謀反を起こします。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の際、尾崎喜蔵は津軽の留守居役として、この地にとどまっていましたが、為信の命により上方へ向かう事になった際、これに従わず、三ッ目内城(大鰐)の多田玄蕃、石川城(弘前)の守将・板垣兵部と共に、堀越城を占拠してしまったのです。反乱の理由は、豊臣方(石田方)と通じていたためともいわれていますが、ともあれ、この反乱は速やかに鎮圧され、尾崎城は廃城となった分けです。
尾崎城は、主郭・二ノ郭など5つの郭で構成されていたといわれていますが、現在、その場所は宅地化されており、主郭だった場所には城址碑と尾崎一族の慰霊碑 が建てられています。八幡宮の境内は二ノ郭の跡とされており、境内の背後には掘の跡 が見られ、そこから主郭の方を望むことができます。

笠木や注連縄の上にも 雪がのっていて、境内は深い雪の中でしたが、少し歩いてみました。
◇二の鳥居付近の狛犬ですが 、片方はこの通り。 完全に雪の中に沈没していました。
◇境内にはこの他にも狛犬や燈籠、神馬などがたくさんありましたが、樹氷ならぬ「石氷」といった感じでした。 ⇒境内の神馬や狛犬(画像複数)
◇拝殿 の隣には、神馬堂と観音堂。⇒神馬堂と観音堂(画像複数)
◇その向かい側に末社 がありますが、隣のこの立派なお堂、 何か大事なものが祀られているような気がするのですが、分からずじまいでした。

さて、この尾崎八幡宮は、延暦年間に坂上田村麿が熊野権現を祀り社殿を建立したとされ、その後、一時衰退しますが、領主・尾崎三郎右衛門が社領を付して社殿を建立したと伝えられています。
3代藩主・津軽信義は寛永の頃(1630年頃)、鷹狩りの際に立ち寄り、参拝したといわれていますが、そのときに、【八十歳ばかりの老人が大石の上に立ち、「社堂を再興せば、国中安泰、諸願成就す」と告げて姿を消した。・・この八幡様の化身とみられる老人の立った足跡のある大石は「神石」と呼ばれ、村人に崇められた。※『青森の伝説』角川書店】という伝承が残されています。
このお告げに従ったかどうかはともかく、信義が八幡宮を再建したことは確かなことのようです。 ー この伝承の意味するところは、信義が滅亡したかつての領主・尾崎一族の霊を厚く弔ったということなのかも知れません。余談ですが、信義は石田三成の孫にあたる人物ですので、前述したように西軍・石田方に味方した尾崎氏に対して、特別な思いを持っていたのかも・・などと勝手に想像してみたりします。
ところで、老人の足跡が残っているという「神石」ですが、どこにあるのか分かりませんでした。実際にあるのかどうか、雪の下になっているのか、それともあの末社の隣の立派なお堂の中にあるのか。。
ただ、入口付近に、頭に植物をのせた一対の巨石 が置かれているのが目をひきます。それは、 大きな燈籠のようにも、門のようにも見えました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【鳥居の鬼ッコ】
平川市・柏木八幡宮に掲げられている鬼ッコです。尾崎八幡宮からの帰りに寄ってみました。
石に顔を刻んだとても素朴な造りの鬼ッコで、とても優しい表情をしています。
※右の画像をクリックしてご覧ください(画像複数)。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
☆つがるみち☆



黒石市・浅瀬石城もそのひとつで、その落城に関する悲話は、「一本杉」及び「じょんから節発祥の地」という史跡として今も残されています。 ⇒浅瀬石城址・一本杉・じょんから節の碑

浅瀬石城は、黒石市・高賀野に築かれた平城で、現在は城址碑 と土塁や掘の跡がわずかに残るのみですが、その絵図 を見ると往時の広大さが分かります。
定かではありませんが、この城は仁治元年(1240年)、南部氏の一族・千徳(せんとく)伊予守行重によって築城されたといわれています。戦国時代には、石川城(弘前市)や大光寺城(平川市)とともに、南部氏の津軽支配の拠点であり、交通の要衝でしたが、永禄4年(1561年)、10代城主・千徳政氏は、大浦(津軽)為信と「統一の暁には津軽を二分する」という盟約を交わし、南部氏に叛旗を翻します。
その後、千徳氏は為信と組んで、大光寺城や、同族であり南部氏に忠誠を誓っていた田舎館・千徳氏を攻略し、これを滅ぼす分けですが、この千徳氏の裏切りに激怒した本家・南部信直は、大兵を派遣し、浅瀬石城を攻撃します。しかし、千徳氏の頑強な抵抗に合い、城を落とす事ができなかった分けですが、盟友・為信はこのとき千徳氏のもとへ援兵を送らず、このことが同盟亀裂の原因にもなったとされています。
やがて、津軽平定がほぼ成った後に、為信と千徳氏は対立するようになり、遂に慶長2年(1597年)、為信軍の攻撃を受け、千徳氏は滅亡、浅瀬石城は落城した分けです。
◇『津軽じょんから節』
♪二 ハアー今は昔の七百年前 南部行重城主となりて 伝えつたえて十代あまり
♪三 ハアー頃は慶長二年の春に 大浦為信大軍率い 城主政保討死いたす

東北自動車道・黒石ICの辺りの道端に「一本杉」と呼ばれる杉の木がポツンと立っています。高さ15mといわれるこの老木は、辻堂とともに、もとは浅瀬石城主・千徳氏の菩提寺にあったものといわれていて、現在は「辻堂跡」として史跡になっています。
この老木には、落城し、滅亡した千徳家の怨念がこもっていると信じられ、古くから大切に崇められてきた分けですが、東北縦貫道路の建設にあたり、この木が路線にあたっていたために、一時は切り倒しの話も出ました。しかし、「切り倒しては災いがおこる」という村民の意見を受け、もとの場所から50mほど離れた現在地に移植されたとのことです。 ⇒史跡一本杉(画像複数)
さて、この辻堂の住職は常縁(じょうえん)という和尚でしたが、常縁は、【為信軍と戦う主家の必勝を祈願し、神仏の加護を信じて熱祷を捧げていたが、大浦勢は喚声を挙げて辻堂にも乱入し、手当り次第に仏像をこわし、墓をあばく乱暴を働いたので、和尚は先祖代々の位牌を背負い、薙刀を構えて仁王立ちとなり「汝等、大浦の犬ざむらいめ!仏像をこわし、仏を足げにするとは仏道を恐れぬ人非人ども、人は死しても霊魂は不減なり、我れ死すとも、この罪は汝等の子々孫々に至るまで祟りあらん」と大声で叫び、大勢の大浦勢を相手に奮戦したが、多勢に無勢で、逐いに裏道から白岩まで逃れたが、進退極まり浅瀬石川 の濁流に飛込んで、その一生を終った。】とされています。
◇『津軽じょんから節』
♪四 ハアー時に辻堂常縁和尚 先祖代々位牌を背負い 高い崖から濁流めがけ

常縁和尚が身を投じた場所は浅瀬石川に架かる上川原(じょうがわら)橋 の付近で、現在はそこに「津軽じょんから節発祥の地」という碑が建てられています。
【和尚が身投げしてから数年後の夏、村の子供等が川原で砂遊びをしていると、砂の中から変り果てた常縁和尚の屍体があらわれた。子供等の騒ぎに村人が駆けつけ、相談の結果、その場所に墓を作り、手厚く葬って、常縁の墓と名づけたので、この辺一帯を「常縁川原(じょうえんかわら)」と称した。】といわれていて、「常縁川原」がやがて「上川原」となっていったとのことです。
以来、お盆になると村人達はこの川原に集い、盆踊りに即興の唄を添えて常縁や千徳氏の霊を慰めた。 ー それが、やがて津軽を代表する民謡『津軽じょんから節』 となったという分けです。
◇『津軽じょんから節』
♪五 ハアーやがて春過ぎ真夏となりて村の子供等水浴びすれば 砂の中から哀れな姿
♪六 ハアー村の人達手厚く葬り 盆の供養をすました後は 昔偲んでじょんから節よ
※【】は『津軽じょんから節』説明板を参考にしました。また、じょんから節の歌詞には様々なものがあります。
☆つがるみち☆



1月から4月始めまで、りんご農家の方は雪の晴れ間をみて「剪定作業」を行います。むだに伸びた枝や、折れた枝などを切りとり、良いりんごがなる木の形にする分けです。
神社の境内もまた、冬の間も雪囲いやら除雪やらで、その環境作りは大変らしく、私が訪ねた時は、氏子の代表の方でしょうか、拝殿の中で休んでおられました。きっと除雪のあとだったのだと思います。

境内の中には老いた杉の木のかたわらに、こんな若木 も植えられていて、この社が地域によって守られていることがよく分かります。私は境内を一巡りした後、神馬と狛犬達 を見ながら拝殿へと向かいました。
屋根の下には絵馬や、以前に掲げられていたと思われる「八幡宮」 と書かれた額がいくつかあって、ここは古くからの由緒ある社であることを思わせます。
その額の中のひとつに「八幡 熊野 両神社」というものがありました。「八幡様でもあり、熊野様でもあったということか?」と不思議に思い、中に居る方に聞いてみることにしました。

頼んだら、快く拝殿の中に入れてもらえたので、ゆっくりと見ることができました。正面の祭壇 には、たくさんの御神燈が下げられていて、壁には八幡様の象徴である「鳩」を描いたものをはじめ、多くの絵馬が掲げられていました。⇒拝殿の絵馬
挨拶がてら、さっきの「八幡、熊野、両神社」について聞いてみると、「ああ、もともとここは熊野神社だったんだ。石川の殿様(南部高信)が敗れたとき(津軽為信に滅ぼされたとき)、八幡館(現大鰐町)にあった八幡宮が廃れてしまったので、ここにいっしょに祀ったんだ。」というお話でした。
(後で調べたのですが)青森県神社庁のHPには、そもそもこの神社は、【天文3年7月の建立で、十一面観音を祀っていたが、後に石川近郷の農民の安泰のため、 熊野大権現を祀り信仰してきた。その後、石川城主・南部高信が祈願所としていた八幡館の八幡宮が荒廃してしまったので、文政11年に奉遷・合祀し、以来「三山熊野宮」と称した。「八幡宮」と改称したのは明治6年のこと。】と書かれていました。

話を聞かせてくれた方によると、今もその「熊野宮」の祠が本殿の裏にあるということなので、そちらへまわってみました。
なるほど、本殿 の裏側は、ここはここでまた別の神域といった感じです。低い構えのりっぱな狛犬 の後ろに、三つの祠が並んで建っていますが、それは薬師如来と不動尊、 そして熊野宮 でした。
石川八幡宮の境内は、決して広いという分けではありませんが、その中に竜神宮、弘法大師、津軽の鬼ッコ、大石信仰、熊野宮などの祠など、多くの信仰の形態が残っている所です。このような多様な信仰について、郷土史家・小館衷三さんは次のように述べています。
【各村々にある氏神・産土神は、今の村の人々の祖先・氏の上を祭っているだけではなく、多くは、分村、移住してきた時、団結と信仰の中心として何かを祀った。それは、もとの居住地の堂社であったり、あるいは近隣のものであったり、地域の流行神であったり、指導的立場の山伏、修験者が選んだりした。直接、自分たちの祖先とは限らず、八幡・稲荷・熊野宮などであったと思われる。※小館衷三『岩木山信仰史』北方新社】
ー なるほど。。という感じです。地域の「産土神」はこうしてつくられ、守られていくのだと思います。
☆つがるみち☆



ここ石川八幡宮の辺りもまた、「内舘(八幡館)」と呼ばれた所と思われますが、発掘の結果、この内館からは縄文土器や須恵器、石製品、鉄製品、古銭など、古代から中世にかけての遺物が数多く発見されています。中でも、戦国時代、南部氏(石川高信)が居城していた頃のものとしては、中国産の青磁や白磁の椀や皿、 国産の壺や天目茶碗などの陶磁器なども見つかっており、その勢力が広く中央ともつながっていたことが分かります。
このような館の一角に鎮座しているこの社は、古くからの村人の産土神であったばかりではなく、城の守り神でもあったと思われます。

境内は、小高い丘の上にありますが、その拝殿の隣に4つの末社が並んで建っています。「牛頭天皇」、「粟(淡)島社・」・・・あとの2つは、文字がかすれていて読めませんでした。
牛頭天王(ごずてんのう) については、【京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座する神であり、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、祇園神という祇園信仰の神である。現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた ※wikipediaより】とされ、神仏習合ではスサノオと同一神とされています。「祇園信仰」は、牛頭天王もスサノオも行疫神だったため、その霊を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのがその始まりであるといわれ、全国に牛頭天王を祀る社が広まっていった分けです。
私が訪ねた神社の中では、浪岡・廣峰神社と弘前・八坂神社 がその社でした。もっとも、明治の神仏分離で、祭神の名や社名に「牛頭天王」「祇園」のような仏教語を使用することが禁止されたことから、多くの祇園社と牛頭天王社はスサノオを祀る神社となり、社名を改称したとされています。いずれにしても、この祇園信仰はここ石川の地にも広まっていた分けです。

一方、こちらは獅子記念碑。 他の津軽の地域同様、石川地区でも獅子舞(地域によっては「獅子踊り」)が盛んです。踊りの系統は熊獅子で、 宝暦年間(1751~1763年)にはじまったといわれ、弘前市指定民俗文化財となっています。毎年5月に大仏公園で「獅子おこし」、7月にはここ八幡宮に奉納されるとのことですが、お盆には、町内4ヶ所の墓地の墓参りも行われるということで、「豊作祈願」、「悪霊退散」に加えて、「先祖供養」の意味合いもあるようです。この記念碑は獅子舞保存会の皆さんが奉納したものなのでしょうか。それにしてもこの獅子頭、 なかなかの迫力です。
※獅子舞(獅子踊り)については、こちらの拙記事をご覧ください。

獅子記念碑の隣に、紫色の幕で囲まれた「山の神」がありました。中に積もった雪を払って見ると、現れたのは大石。巨石(大石)信仰がここにも見られます。
大石は、神々が降臨する御座とされ、その石のある場所は現世と来世、神域と人間界の境界とも考えられ、神仏や霊魂の宿る場所として崇められている分けですが、私も何回かそんな大石たちに出合いました。
郷土史家・小館衷三さんは、その著書の中で岩木山の大石信仰にふれ、次のように述べています。【高い山頂は神や霊魂が往き来するという考えがあり、山に祖霊が籠もると信じられている。祖先は亡くなって一定の時間がたって山におさまるという。ここ岩木山におさまった霊魂は、ここから村を守ってくれる。農耕社会では、春に自分達の村に迎えて祭る。これが村の鎮守・産土神として農作を守ってくれるという。秋の収穫が終わると感謝の祭りをして山に帰ってもらう形式である。 ※小館衷三『岩木山信仰史』北方新社】
ー 「山の神」は、猟師や木こり、炭焼きなどの山の民と農民とでは、その信仰が少し異なっているといわれています。山の民にとっては、文字通り「山の守護神」であり、恵みをもたらす反面、禁忌を犯せば祟る神ですが、農民にとっては、稲作の神でもあり、山を降って稲作を助け、収穫を終えると山へと帰って行く・・と信じられていて、それは「先祖の霊」としてとらえられているようです。ここ八幡宮にあるこの大石も、そんな「山の神=祖霊」を迎えるための御座なのでしょうか。
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



ひとつの境内に、熊の宮、竜神宮、稲荷宮、天満宮などの社や祠、観音像、巨石、山の神などが混在している様子は、何となく不思議な感じがして、その建立の由緒や時代背景などについて知りたくなります。
今回訪ねた弘前市・石川にある八幡宮(※以下、「石川八幡宮」)もそのひとつで、津軽地方の古くからの信仰の足跡を残している神社です。

この石川八幡宮は、現在は大仏公園となっている石川城址(大仏ヶ鼻城とも)の近くにあります。
石川城は、建武元年(1334年)年、津軽曽我氏により築城されたといわれていますが、戦国時代には南部氏の津軽支配の要として石川高信(南部高信)が城主として、この地を治めていました。当時の石川城は石川館をはじめ、茶臼館、乳井壬館など合わせて13の館から構成されていて、現在の八幡宮の辺りは内館(八幡館) があった所です。
石川高信は、智勇を兼ね備えた武将でしたが、元亀2年(1571年)、同じく南部一門であった大浦(津軽)為信の奇襲に遭い、自刃したといわれています。(※南部氏の資料では、この時には死なずに生き延び、天正9年(1581年)に死去したと伝えています。) ー 以後、為信の津軽統一、豊臣・徳川時代を通して、津軽と南部両家は何かにと反目し合い、その仲の悪さは異常なほどで、幕府は南部氏の面子を重んじ、津軽氏よりも禄高や官位を上にするなどの配慮をしたといわれています。
為信は石川城攻めにあたって戦功を挙げた板垣兵部将兼という武将をこの城の守将に任じますが、この板垣氏は、慶長5年(1600年)、為信が関ヶ原の戦いに出陣中、大鰐・三ッ目内城主であった多田玄蕃らと共に謀叛を起こし、堀越城を占領します。
やがて関ヶ原で西軍が敗れたために反乱は鎮圧され、その後、弘前城築城とともに、この石川城は廃城となった分けです。

さて、この石川八幡宮は、天文3年(1534)に、十一面観音を祀る社として創建されたと伝えられていますが、後に、城主・石川高信が領地に八幡大菩薩宮を建立し、祈願所としたともいわれています。
一の鳥居をくぐると、その参道の途中に竜神宮 が見えます。今は白一色ですが、夏場には美しい蓮の花も咲くということです。
参道はきれいに除雪されており、 気持ちよく歩けました。例祭や宵宮のときには灯篭がともるのでしょうか、道の両脇には灯りを取りつける管が立っています。このビール缶は、 中に雪が詰まらないようにするための工夫のようです。
右上がりの階段を上ると二の鳥居・・いました「鳥居の鬼ッコ」 です。ここも鳥居に鬼を掲げている神社の一つですが、先回見た白山姫神社の鬼とは違い、その肩で笠木を支えている形をしています。あごひげを生やし、目はまん丸で緑色。口をしっかりと閉じた赤鬼です。どこかとぼけた憎めない表情をしていて、鬼というよりは猿?頭に雪をのせているので、その角は見えませんでした。
⇒八幡宮鬼ッコ(画像複数)

境内には、日の丸の旗が立てかけられた八幡宮の石碑 の他、様々な祠や石碑、石像が並んでおり、ちょっと不思議な空間でした。
中でも、弘法大師の像 にはびっくりさせられます。「何でここに。」という感じです。新しく建てたものなのか、古くからあった物を修復したものなのかは分かりません。真言系の修験道を津軽に伝えた山伏達によるものでしょうか、熱心な信者達の手によるものなのでしょうか。
手前には、「弘法大師」 と書かれた碑もあって、その両脇には「不動尊」「善光寺」と刻まれていますが、これまた、その由来が気になるところです。
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



この鬼ッコを掲げている神社は津軽一円に30数ヶ所あるともいわれ、中には新しく鬼を設置する社もあるということですが、弘前市内にもいくつかあり、そのうちのひとつが白山姫神社です。

白山姫神社は弘前市・鳥井野、岩木川の川岸に鎮座しています。一の鳥居には金属でつくられた注連縄。 以前、浪岡の廣峰神社 でも見かけましたが、これもまた、津軽以外ではなかなかお目にかかれないとのことです。やはり、この金属の注連縄は「雪の影響」を考えてつくられたものなのでしょうか。
めあての鬼ッコは二の鳥居 にありました。扁額の替わりにちょこんと座っているという感じで、一見厳めしそうに見えますが、歯にはお歯黒、そして津軽の多くの鬼がそうであるように、角は短く丸められていて、どこかユーモラスな感じがする赤い鬼 です。
津軽地方で、鳥居に鬼ッコを掲げるようになったその由来はよく分かってはいませんが、最初に揚げたのは、弘前の撫牛子(ないじょうし)八幡宮とされていて、その説明板には、【「撫牛子の鬼コに角コ無エ-」とわらべ歌にも唄われてきた。人々は、鬼コを鳥居にあげて、悪霊・悪疫の防御退散を願い、さらに、鬼の神通力にあやかって強い子を育てたいと祈願した。※撫牛子八幡宮説明板より】とあります。
いずれにしても、津軽人にとって、鬼は怖い存在であるとともに、その神通力をもって、人助けもしてくれる(農作など)存在として畏敬されている分けです。

境内を歩いてみました。
◇社号標です。 何回か修築がなされたと思われます。
◇拝殿の横に建っている末社です。
◇こちらは御神馬。 地域の方々の心遣いでしょうか、四本の足に「青い足袋」を履いていました。
◇拝殿前の狛犬、 そして灯籠。 この灯籠、何となく人の形のようにも見えます。
さて、この白山姫神社の創立は詳らかではありませんが、藩政時代には「善神宮」と称していたとされ、由緒書きには次のように記されています。
【白山系の神社は祭神が白山比咩命であるが、のちに加賀の白山が修験道の霊場とされて、修験僧の入山が盛んになった頃より、菊理媛命・伊邪那岐命・伊邪那美命の三神を合祀、三神を阿弥陀如来・勢至菩薩・観世音菩薩の垂迹神として白山三所権現と称していた。当社の由緒や創立年は不明であり、明治初期の統廃合の際の記録にも見えてない点を考えると、おそらく鳥井野村成立の際、草分格の家の私社を共同の氏神としたものではないかと推察される。 ※境内の由緒書きより】
白山比咩命(しらやまひめのみこと)とは菊理媛命(ククリヒメのミコト)と同一神であり、白山信仰と関わりの深い神です。以前、私も菊理媛命を祀る青森入内・小金山神社内の白山宮や黒石市の白山姫神社、弘前市・相馬の白山堂などを訪ねてきましたが、あの長慶天皇御陵墓参考地がある上皇宮も以前は「竜田宮」と呼ばれ、白山信仰の社だったようです。 ⇒訪れた白山信仰の社

菊理媛命は、『日本書紀』の一書に一度だけ出てくる神で、【伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、その変わり果てた姿を見て逃げ出したが黄泉比良坂で追いつかれ、口論になった。そこで菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれを褒め、帰って行った、とある。菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。 ※wikipediaより】とされています。
この女神が、白山の山岳信仰や修験道と結びつき、白山大権現、白山妙理権現と称され、多くの白山系の神社の祭神となっている分けです。
白山は古来、富士山や立山と並び称される霊山ですが、その開山及び白山信仰の広がりは、奈良時代の修験僧・泰澄(たいちょう)によってなされたといわれています。即ち、【泰澄は奈良時代に登拝して、白山では白山妙理権現(本地仏:十一面観音)を山頂で、北の峰で大己貴神(本地仏:阿弥陀如来)、南の峰で大山祗神(本地仏:聖観音)を感得し、ここに白山三所権現信仰が出来上がるのである。※小館衷三『岩木山信仰史』北方新社】という分けです。
少し難しくて、私もよく理解していないのですが、この「白山三所権現」の信仰が岩木山の山岳信仰と結びつき、やがて津軽の地に根づいていったと思われます。
ー 岩木山の三つの峰(鳥海山、岩木山、厳鬼山)は三所権現にふさわしい信仰の対象となっていた分けです。
鳥居の鬼ッコといい、白山信仰といい、ここ白山姫神社は、そんな信仰の歴史を伝えている社でした。
☆つがるみち☆



この長勝寺をはじめ、禅林街の寺院は、弘前城の築城とともに津軽一円からこの地に移転してきたお寺が多い分けですが、万蔵寺 もそのひとつです。

万蔵寺の山号は「唐糸山」。以前、記事で取り上げた唐糸御前 (及びその伝承)にまつわるお寺です。
唐糸御前は、鎌倉幕府の執権・北条時頼の愛妾でしたが、周囲の妬みをかい、その讒言により故郷・津軽藤崎に逃れ、ひっそりと暮らしていました。
やがて、最明寺入道となった時頼が全国行脚の途中、津軽にもやってくることを聞き、落魄の我が身を恥じて池に入水したといわれている薄幸の女性です。 ⇒以前の拙記事へ。
唐糸御前の死を深く嘆き悲しんだ時頼は、唐糸御前が通っていた平等教院というお寺に墓をたて、厚く弔ったといわれていますが、それが万蔵寺の始まりとされています。

この万蔵寺については、【弘長二年(1262年)、曹洞宗満蔵寺縁起に、この年最明寺入道北条時頼、津軽藤崎の霊臺寺を復興して臨済宗護国寺となし、大覚禅師をもって開山すると伝えられている。また、護国寺住持の死去と後任に関する室町時代1490年代の書簡(建長寺文書)から、護国寺は鎌倉建長寺の末寺で、建長寺僧が住持として派遣されていたことが判明している。※『新青森市史資料編2古代・中世』~ブログ「あおもり”藤崎学プロジェクト”」より】とされています。
禅宗と幕府政治が密接に結びついていたこの時代は、鎌倉の建長寺を中心に全国に「関東御祈祷所」と称する幕府安泰祈願の寺院がつくられ、北条氏はその勢力を固めていく分けですが、この藤崎の護国寺(満蔵寺、後に万蔵寺)もそのひとつで、津軽を治めるための「要」となるお寺だった分けです。
藤崎にあった万蔵寺は、前述のように禅林街の構築とともに現在地へと移り、臨済宗から曹洞宗となった分けですが、重要文化財である長勝寺の銅鐘は、 もとは万蔵寺のものでしたが藩の命令で長勝寺に釣ったものです。

山門をくぐり、雪囲いの扉を開けると、古い歴史を感じさせる本堂の姿 が見えます。
中央の祭壇には、 本尊である釈迦如来。この本尊の手前に一体の毘沙門天が祀られていますが、高さ1尺3寸、約40cmのこの毘沙門天像は、 北条時頼が寄進したものだといわれています。
ー 唐糸御前は遠く離れた時頼を案じ、守り神として1寸3分の毘沙門天像を肌身離さず身につけていたとされていますが、時頼は唐糸の死を憐れみ、その仏像を持ち帰り、やがて10倍の大きさにしたものを刻ませて万蔵寺に寄進したと伝えられています。
唐糸御前の位牌 は、その毘沙門天像と寄り添うように置かれていました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

禅林街メモ 【栄螺堂(さざえどう)】
栄螺堂は天保10年(1839)に豪商中田嘉兵衛が発願して建立されたもので、天明、天保と大飢饉が続き弘前でも多くの餓死者が発生し、無縁仏となった死者を弔う為だったとされます。
建物は、平面が八角形で壁に沿って廻り階段になっている事から栄螺堂又は六角堂などと称されています。内部には階段に沿って観音菩薩や三十三観音など多くの仏像が安置され階段を昇降するだけで巡礼したと同じ御利益があるとして信仰の対象にもなりました。このような建築形態、宗教施設は東北では飯盛山さざえ堂(福島県会津若松市)と御堂だけで大変貴重なこのとから弘前市指定有形文化財に指定されています。
※ HP「青森県:歴史・観光・見所」より
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
☆つがるみち☆



久祥院は才色兼備の女性とたたえられ、信政が名君たりえたのはこの母の薫陶によるところが大きいとされていますし、信政もまた、この母を敬愛していたと伝えられています。その久祥院の墓所があるのが隣松寺 です。

隣松寺の縁起は詳らかではありませんが、享禄年間(1528~1531年)に旧岩木町・賀田(現弘前市)に創建され、慶長年間(1596~1615年)に現在地へ移転してきたと伝えられています。
元禄5年(1692年)に没した久祥院は信政により、その生家・多田家の菩提寺であるこの隣松寺に埋葬された分けですが、この多田家の先祖に多田玄蕃という武将がいます。
玄蕃は津軽為信の家臣で三ツ目内城(現大鰐町)の城主でしたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで為信が東軍に与し参陣した際に、西軍・石田方と手を結んでいた玄蕃は他の武将と共に、その留守を突き、為信の居城・堀越城を武力占拠し、反旗を翻します。やがて西軍の敗報を知り、戦意を喪失した武将達は為信の家来によって鎮圧された分けですが、その際、玄蕃は自ら三ツ目内城 の火薬庫に火をつけ、城もろとも爆死したといわれています。

久祥院は【・・酒に乱れる夫信義をいさめ、名君といわれる信政を育て、武芸の心得もあり、和歌に長じ、琴、活花、茶の湯などにすぐれて、書をよくした。衣服や身の回りの調度品に菊の模様を好んで用いたことから「菊御前」とも呼ばれた】とされており、生前、仏道に深く帰依し、延宝6年(1678年)に「久祥院殿写経」といわれる写経をここ隣松寺に奉納しています。
この写経は【妙法蓮華経8巻を鳥の子紙(和紙の上質紙、鳥の子色の紙の意、淡黄色)に浄書したもので折本8冊、かな書きであるところにその特徴がみられる。書跡は筆跡そのものも見事であるが、作者の優れた風格に接することが出来るので価値が高い】もので、県重宝にも指定されています。
余談になりますが、大鰐町の名物のひとつに「大鰐温泉もやし」 があります。温泉を利用して育てたもやしで、350年以上前から栽培されていたといわれ、味の良さ・品質の高さが自慢のもやしです。
「津軽の奥座敷」と呼ばれた大鰐町は歴代の藩主も湯治に訪れた温泉地で、かつてここには藩の御台所「大鰐菜園所」があり、もやしをはじめ、温泉熱を利用した促成栽培が行われていました。季節に先駆けて献上された「初物」は歴代の藩主をたいそう喜ばせたとされていますが、久祥院はことのほかこの菜園所が気に入っていて、母を敬愛していた信政は夏菜、葉にら、志の葉、芹、ふきのとう、青菜、もやしなどの初物を必ず久祥院に届けたと伝えられています。
さて、信政は亡くなった久祥院のために位牌堂を造り、このお寺に寄進しますが、この「久祥院殿位牌堂」は、【台座の上に置かれた建築型1間厨子の形を取っており、宝形造木瓦葺の屋根の正面には軒唐破風を付けて、屋根の頂上には露盤宝珠を載せている。全体に黒漆が塗られ、細部に付けられた金具や細工物に特徴があり、細木を組み合わせた内部の格天井など、凝った造りであり、地方色豊かなものとなっている。】とされ、「久祥院殿写経」と共に県重宝にもなっています。
※【】は青森県ホームページ「あおもりの文化財」 からの引用です。
本堂の祭壇 の後ろ側の部屋にそれはありました。 ⇒久祥院殿位牌堂(画像複数)

帰り際に、境内の「應慈濟」というお堂に立ち寄り、中を覗いてみました。その由緒も縁起も分かりませんが、中には「千躰地蔵尊」が祀られており、天井には龍が描かれています。
一体一体の地蔵尊それぞれに表情があり、それがズラーッと並んでいる様子はなかなか見応えがあります。
⇒應慈濟・千躰地蔵尊(画像複数)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


禅林街メモ 【赤 門】
赤門は禅林街33ヵ寺の内12ヵ寺を構成されていて黒門通りとは対の関係になっています。
黒門が長勝寺構えと言うのに対し赤門では耕春院(現宗徳寺)構えと称し、耕春院を中心に主に現室派が集められたと言われています。
又、長勝寺構えが東西に直線的に配置されているのに対し、耕春院構えは枡形に配置する事で南北を現しているとも言われています。
※ HP「青森県:歴史・観光・見所」より
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
☆つがるみち☆



ですが、数分後には、急に晴れ間がのぞいて、ハッとするようなきれいな雪景色 に早変わりすることもあります。
さて、私は梅林寺を訪れた後に陽光院 というお寺に向かいました。とはいってもそこは梅林寺の目と鼻の先。道路を横断するだけです。
私がこのお寺を訪ねるのは昨年の7月に続いて2回目です。

「津軽三十三観音霊場」巡りで、弘前市・桜庭にある2番札所清水観音堂(多賀神社) を訪ねたことがありますが、この観音堂の本尊である千手観音は、以前は西目屋村の岩屋観音堂 から遷されたものであることを知り、そちらへも足を延ばしてみたのでした。
この西目屋村の千手観音は天平3年(713年)行基上人の作と伝えられ、岩窟に奉安した時、近くの老松に牡丹のような花が咲いたところから「花咲き松の観音様」と呼ばれ、霊場として深く信仰されていた分けですが、弘前藩4代藩主・津軽信政のときに、弘前・桜庭の地に遷座され「清水観音堂」となります。
ところが、明治の神仏分離により、本尊・千手観音はここ禅林街の陽光院へ引き取られることになった分けです。
⇒拙記事「清水観音堂」 ⇒拙記事「岩屋観音堂」

そのようないきさつもあり、山門前に清水観音櫻庭山 と記された石柱が立っているなど、陽光院は観音様と深い関わりのあるお寺です。
境内の中にも観音像が立てられていますが、よく見ると「津軽五番」 と書かれていることから、かつてここは霊場の5番札所であったと思われます。
津軽三十三霊場の札所は、藩政時代初期にはその1番が袋宮寺、打納めが大円寺(現・最勝院)で、主に弘前城下に集まっていましたが、江戸中期(1750年頃)になると番付が再編成され、札所が津軽一円へと広がります。
これは津軽氏の領国支配が安定してきたことを物語るものですが、当時流行していた「西国巡礼」などで、領民が長期にわたって出国することによる影響(貨幣や労働力の流出)をくいとめる効果もあったとされています。
この「五番観音像」のすぐ側に小さなお堂があって、そこにはいくつかの石像や石仏が納められていましたが、素朴で、なかなか味わい深いものでした。
⇒お堂の中の石仏(画像複数)

本堂は比較的新しい建物で、扉を開けると山号「櫻庭山」という大きな文字が掲げられています。
この陽光院は、奥州南部から来た桜庭太郎左衛門信正(藤原氏の支流といわれる)が、大浦為則(為信の養父)の家臣となり、目屋の桜庭村(現弘前市桜庭)を領し、その地に「喜山庵」を築いたのがはじまりとされています。その後、慶長15年(1610年)に信正が死去すると嫡子・信光は同庵へ葬り、寺号を「桜庭山陽光院」と称したされ、禅林街の構築に伴い現在地に移ってきた分けです。
本尊は釈迦牟尼仏。 本堂の一角には観音堂 も設けられています。その中を拝むことはできませんでしたがこのお堂の中に 、岩屋観音堂から清水観音堂、そして禅林街へと渡り歩いてきた観音様が安置されているのでしょうか。。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


禅林街メモ【黒門(長勝寺総門)】
黒門は江戸時代中期に建てられたものです。長勝寺の総門として位置づけられていますが、禅林街全体が弘前城の出城的な役割を持っていたこともあり城郭門としての機能もあり高麗門形式を採用しています。
黒門は史跡弘前城跡長勝寺構を構成する重要な遺構の1つとして貴重な存在として昭和53年に弘前市指定有形文化財に指定されています。※ HP「青森県:歴史・観光・見所」より
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
☆つがるみち☆



寺院の数は33ヵ寺、全てが曹洞宗という全国でも類例がない寺院街で、その落ち着いた雰囲気は人気の観光スポットでもあります。今の時期、お寺の本堂などは雪囲いが取り付けられていたり、境内の石仏や石像などは雪帽子を被っていて、夏場とは少し趣が違っていますが、それはそれで、なかなか味わい深いものです。 ー そういう分けで、雪景色の禅林街のお寺をいくつか訪ねてみました。
※画像はクリックで拡大します。画像と○○○○をクリックしながらご覧ください。

はじめに訪れたのは梅林寺 です。このお寺は長勝寺や仏舎利塔 のすぐそばにあります。
山門の前には一対の仁王像 が立っていますが、その阿吽の表情もさることながら、大きな掌が印象的です。
門をくぐって境内に入ってみました。
◇不動明王 ・・半分以上は雪に埋まっていました。
◇こちらは供養塔。 化粧地蔵によく見かける「十字前掛」をしたお地蔵様です。「身代わり地蔵」でしょうか。
◇こちらは本堂前に立っているお地蔵様。 これまた体半分雪に埋もれていますが、よく見ると手に「箒」を持っているので、これは「掃除小僧」のようです。
掃除小僧は周利槃特(しゅりはんどく)という釈迦の弟子でしたが、「自分の名前も覚えられないほど頭が悪く、他の弟子達の失笑をかっていました。愚かな自分を嘆いた周利槃特は弟子をやめようとしますが、釈迦から、大好きな掃除を黙々と続けるよう励まされ、長い年月、箒を持って掃除に励んだところ、ついに悟りを開いた。」とされています。ー この掃除小僧と共に本堂前に立っているのが居眠り小僧。二人(二体)を並べてみると 、とてもユーモラスです。

本堂 の中の祭壇の手前には、一体の観音様 が置かれています。何となく妖艶な感じのする観音様ですが、この観音様と隣の布袋様 の組み合わせも愉快です。
さて、この梅林寺は山号を「嶺応山」といい、釈迦如来 を本尊とするお寺ですが、その創建の年代は定かではなく、大浦氏(津軽氏)に仕えていた戦国武将・盛岡源三郎(後に森岡と改姓)の開基とされていて、当初は湯口村(現弘前市)にありましたが、慶長年間(1596-1615年)に移ってきたといわれています。
森岡家の3代目・森岡信元(もりおかのぶもと)は、津軽為信に仕え、たびたび合戦で手柄をたて、為信に「津軽統一が成ったら領地を半分やる」とまでいわれた武将でしたが、後に為信によって久渡寺で暗殺されてしまいます。
また、7代目・元隆(もとたか)は、津軽信政の信任が厚かった津軽家の家老でしたが、宝永7年(1710年)に信政の死去にともなって殉死したとされており、その忠誠を讃えて、信政が眠る高照神社内に、その霊社 が建てられています。
ー このように森岡氏は、家老として、津軽氏を支えてきた家柄だったわけで、その代々の墓所がこの梅林寺にあります。

ところで、私がこのお寺を訪ねた理由のひとつは「キティちゃん」の像を見たかったからです。像といっても、それは「動物供養塚」。台座の上にキティちゃんがのった形をしている分けです。
梅林寺は、犬や猫など、ペットの供養を行ってくれるお寺で、檀家であるないに関わらず、動物を埋葬し、お経を唱えてくれるとのことです。
本堂の裏側の方にそれはありました。可愛らしいキティちゃんに目がいってしまいますが、そこは「供養塚」。後ろには 卒塔婆がしっかりと立てられていました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
禅林街メモ【山を切崩す大工事】
1615年(元和元年)1月~6月、城の南方に位置する重森山(現在の茂森町)が、弘前城よりも高い位置にあるため城が丸見えとなっていました。防衛上の問題からこれを嫌った信枚は、1日1000人の人夫を動員して、山を切崩す大工事を行いました。そして同年3月、長勝寺門前と重森山の間に濠を造って土塁を盛り、禅林街の入口には枡形を設け、敵の直進を防ぐ工事を行いました。
工事が終わると、領内各所から城下へ寺院の移動が進み、三十三ヵ寺(曹洞宗)による禅林街を構成しました。禅林街のように、江戸時代初期に構成された同一宗派の寺院街は全国でも例がありません。 ※ HP「弘前公園」より
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
☆つがるみち☆



よく知られた巨木で、ネットや雑誌などで何回か見ていて、雪が降る前に一度訪ねてみたいと思っていました。
「ヤス」というのは、魚などを突き刺して獲るフォーク形の漁具です。この木は、幹の途中から12本の枝に分かれ、巨大なヤスのように見えることから「十二本ヤス」と名づけられたとされています。
その姿形から、地元の人々に畏怖され、「神木」として崇められてきた巨木で、大正時代に伐採の話もあったと言われていますが、「祟り」を恐れて、誰一人として斧を振るう者はいなかったそうです。
※画像はクリックで拡大します。画像と○○○○をクリックしながらご覧ください。

金木町から喜良市方面へ車を走らせて行くと、途中に「十二本ヤス」と書かれた案内板が見えてきます。
ここから延々と山道を数km進むと古びた鳥居があり、そこから参道? が延びていました。登り切ったところに説明板。前の方に小さな赤い鳥居 が見えます。
その奇怪な姿 を見たときは「おっ・・。」と声を上げてしまいました。
以前、入内の石神様 を見たときも驚きましたが、それ以来です。あちらが「奇石」ならば、こちらは「奇木」。その異様な姿には圧倒されます。

この十二本ヤスは、「ヒノキアスナロ(ヒバ)」の木で、説明板には、【樹高が33.46m、幹回り7.23m、樹齢は800年で、平成2年(1990年)に「新・日本名木百選」に選ばれている】と書いてありました。
何というか、人の手に例えるならば根元は手首。その上に握り拳のような巨大な幹が広がり、それこそ「天に向かって」真っ直ぐに伸びている・・といった感じです。横や後ろから見てみると、また違った表情を見せますが、その奇抜さは変わらず、一度見たら忘れがたい印象を与える大木です。大げさですが、道に迷ってこんな樹木に出合ったら、そこに「神様」をみるのではないでしょうか。。 ⇒十二本ヤス(画像複数)

根元のみならず幹の中にも 鳥居が置かれているほど、古くから崇められてきたこの十二本ヤスですが、次のような伝説があります。【・・その昔、弥七郎という評判の臆病者がいた。みんなの笑い者にされていた弥七郎は、ある日、魔物を退治しようと決心し、山に入った。夜も更けたころに「弥七郎」と呼びかける怪しげな声が聞こえてきたので、声のする方へマサカリの一撃を加えたところ、「ギャッ!」という悲鳴が聞こえ、年老いた白い毛の大猿が血に染まって死んでいた。弥七郎は、その供養のためヒバの若木を植えたところ、成長するにつれてその木は異様な姿になった。※wikipediaより】
ー この異様な木は、【新しい枝が出て13本以上になっても、その分古い枝が枯れて12本以上になることがなかった。】とされ、その不思議さや「12」という数字から「山の神」として神聖視されてきたといわれています。
多くの観音堂や神社には、山の神を祀るお堂 がありますが、古来、山の神は「12」という数と深い関わりがあるとされています。山下康博さんの著書『指揮官の決断』は、明治35年の八甲田雪中行軍の顛末を、遭難した青森五連隊と生還した弘前三十一連隊を比較しながら描いた作品ですが、その中で「山の神」について、次のように書かれています。【「山の神」は山を守り支配する女性神として信仰され、「十二様」とも呼ばれる。これは、山の神に十二人の子どもがいたとされることに由来する。子だくさんであることから、豊かな実りや猟果をもたらす神として祀られてきた一方、禁を破った者には祟りをもたらす神として、山で暮らす山民や狩猟民に畏れられてもきた。そのため、マタギや炭焼き、木こりなどは毎月十二日に山に入るのを避け、仕事仲間が十二人の場合には木彫りの人形を伴い、十三人にして入山したという。まして、旧暦の山の神の日の雪山への遠出は禁忌中の禁忌であった。※山下康博『指揮官の決断』中経出版】
この「山の神の日」とは、新暦で1月24日、旧暦では12月12日にあたり、この前後は天候が大荒れになると信じられていました。青森五連隊は、青森市・田茂木野 で「山の神の日に八甲田山に入るのは死にに行くようなものだ」という村人の諫言を無視して行軍を続け、遭難する分けですが、その彷徨がはじまったのが即ち1月24日(旧暦12月12日)だった分けです。
☆つがるみち☆



明治3年、神仏分離令のため、いったん取り壊され、同10年に再建されたといわれる本堂ですが、梁や木鼻などの彫り物を見ると、往時の様子が伝わってきます。⇒本堂の彫り物(画像複数)
本堂の中には、本尊の薬師如来 の隣りに不動明王 も祀られていますが、面白かったのは、薬師如来の手前にチョコンと置かれていた「ミニ扇ねぷた」。 いかにも「弘前」という感じです。因みに、弘前は「ねぷた」、青森は「ねぶた」です。

さて、このお寺が取り壊された時は、明治になったとはいえ、未だ幕末の動乱がさめやらぬ時代でした。
当時の藩主は12代・津軽承昭(つがるつぐあきら)でしたが、弘前藩は戊辰戦争が始まると奥羽列藩同盟に加わります。しかしながら、藩論は揺れ動き、なかなか統一できず、徳川慶喜が謹慎した後、近衛家から「勤皇に決すべし」との親書を受けて列藩同盟から脱退します。
その後は朝廷から「奥羽触頭」に任命され、箱館戦争が勃発すると青森は官軍の兵站基地となり、弘前藩もまた、明治2年5月には軍勢を松前に派遣して旧幕府軍と戦うことになる分けです。
ー 薬王院は、その箱館戦争のときの関係者が逗留したお寺でもあるのです。

逗留したのは、松前藩13代藩主・松前徳広(まつまえのりひろ)とその家臣達で、明治元年(1868年)10月(旧暦)、榎本武揚らの旧幕府軍の蝦夷島侵攻により、松前城は 陥落。徳広一行は熊石村(八雲町)に敗走し、追い詰められますが、このとき徳広は、敗戦のショックと持病の肺結核のため、「生ける屍」のようであったといわれています。
その後、11月19日、船を調達して関内の浜から厳寒の津軽海峡を渡り、 二昼夜かけて青森・平館村の津軽藩砲台近くに 漂着し、弘前藩兵に助けられて上陸した分けですが、この航海の際にわずか5歳の姫君が船酔いで亡くなるなど、松前藩の家老は泣きながらその悲惨な状況を訴えたとされています。
弘前藩の手厚い介護を受けた一行は、24日、平舘から弘前に入り、ここ薬王院に滞在することになった分けですが、藩主・徳広は心労がたたったのか、29日に急死してしまいます。亡骸は長勝寺に仮埋葬され、函館戦争終結後、松前に改葬されたといわれています。
この松前徳広の墓所は、 2012年に長勝寺から発見され、一般公開され、大きな話題になりました。 【長勝寺の徳広墓所は、報恩寺(ほうおんじ=弘前市)の津軽家墓所の発掘例と比較しても、見劣りしない。この時期の弘前藩は箱館戦争の影響もあって混乱していたはずだが、そのような困難な時期にあっても、不遇の他藩藩主を手厚く葬ったことがうかがえる。(千葉一大 青山学院大学非常勤講師)】といわれています。

この松前藩主従の他、函館戦争後、薬王院に滞在した一行がいます。それは、あの新撰組の浪士達です。
土方歳三に率いられた新撰組は、大いに活躍した分けですが、土方が戦死した後に、新政府軍に投降します。
捕虜となった新選組は、弘前藩に預けられ、ここ薬王院で謹慎の身となった分けです。そのメンバーは、大野右仲、森常吉、中島登、そしてあの巨漢・島田魁など96名ともいわれています。中島登は、新選組関係の研究資料である『中島登覚え書き』をここで執筆したのだとか。。
その立場や逗留の時期は違いますが、敵どうしとはいえ、ともに箱館戦争を戦った人々がここ薬王院に滞在していた分けです。
ー 薬王院は、そんな「北の明治維新」を見つめてきたお寺です。
☆つがるみち☆



その後、【承応3年(1654年)3代信義が再興し、さらに元禄9年(1696年)4代信政が修覆しており、また天保5年(1834年)には9代寧親社殿堂宇を再建薬王院に自分の木像を寄進するなど歴代におよんで保護を加えた。】分けですが、明治の神仏分離によって建物はいったん取りこわされてしまい、再興がなされたのは明治10年のことといわれています。 ※【 】は由緒書きより。

山門の前に「赤倉山大権現」と共に、「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」の石柱が立っていますが、ここ薬王院の本尊は「薬師如来」です。
天台宗系の寺院では薬師如来を祀る寺院が多いとされていますが、ここ津軽もその例外ではなく、「薬師信仰」は古くから津軽地方に広まっていたようです。
津軽の霊峰・岩木山は修験者達がもたらした天台系の密教や熊野信仰と結びつき、三つの峰がそれぞれ御神体として崇められています。即ち、鳥海山が「薬師如来」、岩木山が「阿弥陀如来」、厳鬼山が「十一面観音」という「三尊仏」になぞらえられ、信仰されている分けです。
⇒三つの峰と三尊
この信仰について、江戸時代の紀行家・菅江真澄は、寛政八年に次のようなことを記しています。【左の峰(※厳鬼山)に観世音をまつる寺があり、岩鬼山観音院西方寺といって、もと十腰内村にあった。右の峰(鳥海山)は薬師仏をあがめて鳥海山景光院永平寺といい、もと、松代村にあった。なか峰(岩木山)は弥陀仏をまつり、岩木山光明院百沢寺という。これが元尊法印のひらかれた寺である。この寺も、もと十腰内にあったが、いまはここにうつされている。むかしは十腰内まで行き、その村から岩木岳に登るのを主な登山道としていた。 ※菅江真澄『津軽の奥』 】

さて、このお寺は「巌鬼山叡平寺薬王院」を称していますが、その前身は菅江真澄が記している鳥海山の麓・松代村(現鰺ヶ沢町)にあった鳥海山景光院永平寺であり、永平寺は岩木山最初の寺院であったと伝えられています。したがって、ここに祀られている薬師様は、岩木山信仰のはじまりともいえる分けです。
本堂の中には、 そんな岩木山信仰の象徴ともいえる「お山参詣の祝詞・サイギサイギ」 を描いた絵も掲げられていました。
真ん中には瑠璃色に光る大きな本尊・薬師如来。 そばにはこんな可愛らしい絵もあり、 この御本尊が、多くの人々に信仰され、親しまれていることが分かります。
ここ薬王院は「津軽八十八ヶ所観音霊場第六十番札所」でもあり、由緒書きには、『ひにつきに やくしかんのん ねんずれば げんぜあんのん ごしょうごくらく』という御詠歌が書かれていました。
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



「津軽天台四山」は、当時、徳川幕府で大きな勢力を持っていた上野寛永寺の天海僧正に師事し、大きな影響を受けていた弘前藩2代目藩主・津軽信枚が、それまでの真言宗から天台宗へと改宗し、開山・整備した寺院ですが、薬王院の建立は寛永元年(1624年)のことといわれています。

山号「厳鬼山」を称する薬王院ですが、山門の前にそれを象徴する「赤倉山大権現」 の石柱が立っています。
岩木山は、鳥海山、岩木山、厳鬼山という三つの峰 から成る分けですが、そのうち、厳鬼山は別名「赤倉山」ともいわれ、この赤倉山を御神体とする「赤倉信仰」は、広く津軽の地に根づいています。
この「赤倉信仰」について、郷土史家・小館衷三さんは著書『岩木山信仰史』で、次のように述べています。
【よく晴れた日に、岩木山を東北・北の津軽平野から見ると、太陽に照り映える赤肌の断崖は信仰の対象としてうなづけるものがある。恐ろしさと崇敬の念が混然として信仰の念を深めているといってよい。※小館衷三『岩木山信仰史』北方新社より】
「一度悪天候ともなれば地獄を思わせる」というこの断崖絶壁は、「赤倉沢」 と呼ばれ、古来、ここには「赤倉の大人」という鬼が住んでいたとする伝承は、以前お伝えした通りです。 ⇒拙記事へ

岩木山の信仰は、日本海航路や北陸路を通じてもたらされた比叡山文化の影響が大きいといわれていますが、この「赤倉大神」を奉ずる信仰もまた、天台密教を伝える修験道と土着の信仰が結びついて発展していったと考えられます。
薬王院の本堂の中には、本尊の隣りに大きな「赤倉山」の奉納額 とともに、赤倉大権現を詣でる人々を描いた額も納められていました。ここには、神々が宿る岩木山の姿も描かれています。
⇒奉納額
日本海側からもたらされた文化を伝えるものが境内にもうひとつ。化粧地蔵を安置している地蔵堂です。 幼くして亡くなったこどもの霊を供養する化粧地蔵は津軽独特の風習ですが、もともとは、京都や若狭近辺の風習が北前船によって、津軽の地に伝えられたものだといわれています。
ただ、この津軽の化粧地蔵、 その多くは「十字前掛」をしており、この十字が何を意味しているのか・・よく分かっていません。不思議な風習です。

さて、この薬王院は、すぐ近くにある「弘前東照宮」の別当寺だった分けですが、弘前東照宮は、元和3年(1617年)の創建で、【弘前藩2代藩主津軽信枚が日光東照宮(東照大権現:徳川家康)の分霊を弘前城内に勧請したのが始まりと伝えられています。信枚の正室満天姫は家康の養女だった事から他の大名に先駆けて東照宮を勧請し徳川家と縁を強化し津軽家の安泰を図ったと思われます。寛永元年(1624年)には江戸城と日光東照宮との位置関係と同じ様に弘前城から見て北方の位置である現在地に遷座し、 寛永5年(1628年)には社殿を新たに造営しています。※HP「青森県:歴史・観光・見所」より】という大変由緒ある建物で、その本殿は国指定重要文化財になっています。
ですが、この弘前東照宮、財政が破綻し、破産してしまいました。 その後の動向が大変注目されていた分けですが、弘前市が所有することとなり、その保護がなされることになったようです。私が訪ねたときは、本殿がすっぽり大きな建物で覆われ、その修復工事が行われていました。
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



ですが、信義は歌人としても有名で、和歌集を残すほどであったし、絵画に対する才能もかなりのものであったといわれているほか、一説には「津軽三十三霊場」の創始者ともいわれています。また、十三湖の水戸口の工事、鉱山の開発、新田開発などを推し進め、藩の財政を豊かにし、当時の弘前藩の実高は10万石を越えていたとされていて、続く信政の「善政」の土台は信義によって築かれたともいえそうです。
信義は明暦元年(1655年)に亡くなりますが、4代・信政が、その供養のために造らせたのが弘前市・袋宮寺(たいぐうじ)にある「十一面観世音菩薩立像」です。

袋宮寺は「那智山袋宮寺」と称し、先回取り上げた「熊野宮」の別当として樋口村(現・樋の口町)にあり、報恩寺・神宮寺・薬王院 と共に「津軽天台四山」に数えられていましたが、明治の神仏分離により、現在の地に移ってきたものです。
また、当初は「津軽三十三霊場」の1番札所でしたが、その後、江戸時代中期の頃に霊場の番付が見直され、現在は札所を退いています。境内には、そんな名残りを示すように西国三十三観音 が奉安されています。こちらは地蔵堂。 中には化粧地蔵や閻魔様の像 が納められています。境内の観音様や地蔵様はいずれも色鮮やかな頬被りをしていました

本堂は、すぐ近くの報恩寺の末寺であった「無量院」という観音堂でしたが、袋宮寺の移転に伴い、新たにその本堂となったものです。当時の法恩寺周辺には大伽藍が立ち並び、弁天宮や阿弥陀堂もあったといわれていますが、この「無量院観音堂」もそのひとつで、延宝5年(1677年)頃の建立と伝えられています。
法恩寺は、4代・信政が父・信義の菩提を弔うために建立したお寺ですが、同じく供養のために十一面観音像を本尊として、この無量院に安置した分けです。五間四方という小規模な建物ですが、均整のとれた美しい堂宇で、「境内仏堂」と呼ばれるこの種の建築では、県内において、七戸町の見町(みるまち)観音堂 に次いで古いものだとされています。

「観音堂」と記された入口 の戸を開けると、巨大な観音様が目に飛び込んできます。はじめはお腹の辺りしか見えないのですが、目を上に向けると、その大きさが実感できます。この十一面観音像について袋宮寺のHPでは次のように紹介しています。
【・・この御尊像は、延宝五年(1677年)に津軽四代藩主信政公が、父信義公の菩提を弔うために弘前城内の老木を使用し、悲願をこめて作らせたものであるとされ、地方においては稀に見る大作です。頭部には11の面があり、丈は1丈9尺6寸(6.15メートル)、肩幅5尺、天衣の裾幅7尺3寸、水瓶2尺5寸、輪光の直径6尺3寸となっています。胴は一木を前後に割って内部をくり抜いて側面で合わせ、頭部と両腕は金具で取り付け、全身を漆と金箔で仕上げており、作者は不明ですが江戸時代作の代表的なものと見られます。※袋宮寺HPより】
古来、人々から「背高観音様」と呼ばれ、篤く信仰されてきた観音様ですが、当時、5万石にも満たない小藩であった弘前藩がこのような大観音像を安置したことについては、幕府の目を憚るところもあったようです。
ー この観音像、大きさもさることながら、その「荘厳さ」には圧倒されます。
⇒十一面観世音菩薩立像(画像複数)
この6m以上という「背高観音」に合わせるためでしょうか、本堂の天井はとても高く、そこには天女が描かれていました。 また、壁面には、観音様と上人様を真ん中にして円く輪になった人々を描いた額(法話の様子でしょうか?) も掲げられており、信仰の深さが感じられました。



今回は弘前市・茜町にある熊野宮を訪ねたのですが、すぐ近くにあることは知りつつも、どうしても道が分からず困ってしまいました。それで、通りがかりの人をつかまえて「熊野宮へは、どう行ったらいいんですか?」と聞いたところ、「あー、くまのさまが・・」と言いながら、ていねいに教えてくれました。親しみがこもった「くまのさま」でした。

この熊野宮は長勝寺の裏側にあり、仏舎利塔(忠霊塔) の後ろ姿が見えます。二の鳥居 をくぐって、まずは境内をひと巡り。
◇拝殿前の狛犬です。 雪を払ってあげたかったのですが、高くて届きませんでした。
◇こちらは御神木。 高さ31m、幹回り3.8m、樹齢200年のイチョウの木です。
◇境内社の天満宮。 手前の狛犬はのほほんとした表情。 側には猿田彦大神 の碑がたくさん立っていました。
拝殿と本殿の間に中門がありますが、実はこの中門、昨年の冬に雪の重みで倒れ、ニュースになりました。 今はこの通り、補強されてしっかりと立っています。

さて、この熊野宮の御祭神は伊邪那岐命ほか四神。その創建は不詳とされていますが、その縁起には津軽藩初代藩主・為信と2代目・信枚、親子2代にわたる「霊夢」の話が語られています。
由緒書きによると、熊野宮は、文明の頃(1469年)に如来瀬から湯口(いずれも弘前市)に転社し、飛龍大権現・飛龍山東福院を称していましたが、応仁の乱のため衰退していました。
津軽統一を目指す為信は永禄12年(1569年)、諸人が社付近を馬に乗って通ると必ず落馬するという話を聞き、【我も行って見んとて御馬にて出で行きしに、案の如く落馬せし、あらぬ躰にてお帰りになりにぞ・・・。※由緒書きより】
その夜、夢の中で【汝、一国の主となるべし。我、末にまで守るべし。】というお告げを得た為信は、この神様の御神影を錦の袋へ奉納し、軍神として戦場に勧請。後に、社を建立し、御神像を祀って「袋の宮」と称したといわれています。

その後、2代目・信枚も、これまた「霊夢」により再建を決意。慶長19年(1614年)頃、熊野三所権現(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)にならって、門外村に熊野新宮、八幡村に熊野本宮(現・熊野奥照神社)、そして現在の地に「那智大社」に相当する宮・「那智山袋宮寺熊野三所大権現」を建立した分けです。別当・袋宮寺(たいぐうじ)の名称は、為信の「錦の袋」からきたものなのでしょうか。
明治時代初頭の神仏分離令により、別当だった袋宮寺から独立し「熊野宮」となる分けですが、現在の本殿は 慶長20年(1615年)に建てられたもので、江戸時代初期の貴重な神社本殿建築として青森県重宝に指定されています。
ところで、この本殿に狛犬がいますが、この狛犬、どうやら木造の狛犬 のような気がしますが、どうなのでしょうか。。
初代・為信の功業を受け継いだ2代目・信枚に課せられた役目は、城、町、そして藩内政治の新たな「建設」でした。とりわけ、政事(まつりごと)は祀事(まつりごと)であり、宗教政策は重要な課題だった分けです。ここ熊野宮に伝わる信枚の「霊夢」の話には、そのような当時の状況が反映されていると思われます。因みに信枚は、愛宕山橋雲寺の建立に際しても「霊夢」を見ています。
熊野宮は、津軽家の祈願所として歴代藩主の崇敬を集め、社殿の修繕などは全て藩費をもって賄われてきたとされていますが、そのことを示すように、本殿の屋根には家紋「津軽牡丹」 がありました。
☆つがるみち☆

