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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 青森市   Tags: つがるみち  津軽の北斗七星  

津軽の北斗七星「大星神社2」ーつがるみち118

 坂上田村麻呂が北斗七星に導かれて蝦夷を制圧した・・という伝承を持つ大星神社ですが、その由緒については、
【延暦十一年蝦夷鎮護の祈願所として草創され、同二十年坂上田村麻呂将軍東夷征討の時、本社殿を再興して妙見宮と称して天之御中主神を祭ると言い伝えられる】とあります。「妙見宮」の名の通り、もともとは妙見菩薩を本尊とする寺院だったのですが、明治の神仏分離によって大星神社となり、祭神も天之御中主神(アメノミナカヌシ)となった分けです。

 
 藩政時代には歴代の津軽藩主の庇護のもと、社殿の建築や修復がなされたようで、由緒書きには【・・九代藩主寧親公は由緒深き本社の御神事を盛んならしめんと壮麗なる本殿を構築し、御神器諸物、御真筆の社号の額を奉納。国家安泰を祈願され、本社を津軽藩の大社に列し社禄を与える。】と記されています。※【】は青森県神社庁HPより 

 弘前藩9代藩主・津軽寧親が、ここに壮麗な社殿
大星神社本殿
を建てたのは、幕府から蝦夷地警護の命を受けたときであり、ここ妙見宮が、往古より蝦夷征伐に由緒が深い社であったことを示すものです。

大星神社三の鳥居


 大鳥居から境内までは長い参道が延びていて、途中には猿田彦大神
猿田彦大神
も祀られています。二の鳥居からは、参道が左に折れており、三の鳥居へと続いています。
 この三の鳥居の米俵
三の鳥居
、金属で出来ているようで、金色に光っていました。
 境内には、注連縄が張られた御神木がいくつかありましたが、これは、大杉と枝垂れ桜の古木。
大杉と枝垂れ桜

 由緒には、4代藩主・信政が【庭園を築き、桜樹を移植して境内を整備し神聖を計り・・】とありますが、樹齢350年以上ともいわれるこの枝垂れ桜
枝垂れ桜
は、その当時のものなのかも知れません。今でも美しい桜の花を咲かせていて、花見時には、境内はたくさんの人々で賑わうとのことです。

大星神社拝殿


 拝殿の前に見事な花崗岩造りの四の鳥居
四の鳥居
がありますが、この鳥居は、文化6年(1809年)に、当時江戸で有名な考証学者・狩谷えき斎が建立したものです。えき斎は「津軽屋」の屋号で江戸の本郷湯島にて米穀商を営み、代々弘前藩邸に出入りした御用達であったといわれている人物です。
 こちらは拝殿の側に建っている薬師神社
薬師神社
。こちらの古びた鳥居の奥のお堂
神馬堂
が気になったので、覗いて見たら、神馬
神馬
が祀られていました。
 拝殿
拝殿
は白壁造り。中には弘前藩の祈願所だったことを思わせる津軽牡丹
拝殿内
の幕が張られていました。入口にこんな「お知らせ」
「お知らせ」
がありました。宵宮のときに、ろうそくの形が「龍の姿のようになった」というのですが・・・。

妙見宮


 さて、この神社の母体であった「妙見宮」
妙見宮扁額
は、現在も境内の中に建てられています。
 妙見信仰は「星辰信仰」とも呼ばれ、天空の中心である北極星と北斗七星を崇める信仰のことですが、【古代中国の思想では、北極星(北辰とも言う)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになった。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。 ※wikipediaより】とされています。

 
 この妙見菩薩は日本では、奈良時代の頃から「妙見宮」として、お寺にも神社にも祭られていましたが、明治以降、神社には、宇宙の創生神・天之御中主が祭られるようになったといわれています。

 さらにはまた、「北斗七星」ということから、北の守護神である「毘沙門天」とも同一視されています。即ち、妙見菩薩=天之御中主=毘沙門天といわれる分けです。
 坂上田村麻呂は、戦いの神様である毘沙門天を深く信仰し、蝦夷征伐が成った先々で毘沙門堂を建てて祭ったとされていますが、津軽の北斗信仰が伝わる七つの神社も、それにあたっています。

 ここ、大星神社の妙見宮の中
妙見宮内
にも、そんな古来からの信仰(妙見、北斗、毘沙門)を物語る扁額や奉納額などが掲げられていました。

                              ☆つがるみち☆
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 青森市   Tags: つがるみち  津軽の北斗七星  

津軽の北斗七星「大星神社1」ーつがるみち117

大星神社浪岡八幡宮猿賀神社熊野奥照神社岩木山神社鹿島神社乳井神社
 津軽地方の七つの神社を線で結ぶと、北斗七星の形になる・・という伝説?があります。即ち、
1大星神社(青森市)
2浪岡八幡宮(青森市)
3猿賀神社(平川市)
4熊野奥照社(弘前市)
5岩木山神社(弘前市)
6鹿島神社(西目屋村)
7乳井神社(弘前市)
の七つの社を結ぶと、地図上に巨大な「北斗七星」が姿を現すという分けです。
※上の画像の「神社名」をクリックして、それぞれの神社の鳥居をご覧ください。

 
 この伝説は、「津軽の北斗信仰」などと呼ばれていますが、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が、平安京から見て「鬼門」にあたる津軽の地に七つの神社を造り、北斗七星の形に配列したものといわれています。
【津軽地方は王城の鬼門にあたることにより、古くから鬼神の蜂起が発生して庶民をおびやかすことがあったという。そこで津軽の阿姿羅というところに千坊の寺を建てて鬼神を平定し、国土擁護秘法を修した。ところが鬼神の横行は一向にやまなかった。そこで桓武天皇の時代に、命を受けた田村麻呂は平定した津軽に七つの社を建て、そこに武器を遺棄して、あたかも田村麻呂将軍がこの地に常駐するかのごとくに見せかけることにした。田村麻呂はその際、七社を北斗七星の形に配し、星の威光を借りて鬼神を封じたという。 ※荒俣博『歌枕謎解きの旅』 】

大星神社一の鳥居


 この津軽の北斗信仰が伝わる七つの神社を順番に巡ってみることにしました。私は、まず、青森市の問屋町にある大星神社を訪ねました。
 道路沿いに大きな石造りの鳥居が立っていて、そのそばに、この神社が有している青森市の有形文化財
神社の有形文化財
が紹介されています。そのひとつが舞楽面
舞楽面①
で、全部で九面が、この神社の所蔵となっています。
 これらの古面
舞楽面②
は、【地方に伝来したものとしては作風が極めて優れ、勇壮豪快で力強い表現は東北地方の最優作と考えられ、中世の面として全国的にも注目される存在である。地方の作と考えられるが、様式的には都ぶりの正統的な表現の系譜に属している。
また、比較的多数の面がまとまって伝来しているため、これらを用いて七曲の舞楽が演じられていたことが判明することから、彫刻としてだけでなく青森県の芸能史を考える上でも重要な資料である。※青森県HP「観光・文化・教育」より 】とされています。

鬼面の伝説


 この文化財の説明板の隣に、「鬼面伝説」として、次のような話が書かれていました。
【桓武天皇は、坂上田村麿を征夷大将軍に任じ、陸奥へと攻め入った。この「蝦夷征伐」に対し、津軽の地で徹底抗戦したのが、糠檀の嶽(八甲田山)
八甲田山
の女酉長・阿屋須(おやす)と弟・雲谷(もや)の頓慶(とんけい)である。胡笳(こさ)という草笛を吹き鳴らしては、あたりに不思議な濃霧を広げ、毒矢を射返すという、神出鬼没な二人の反撃はおおいに田村麿を悩ませた。しかし、田村麿は北天に悪鬼退散の祈願をして寝たその夜、夢枕に北斗七星が現れて七枚の鬼面を授かる事になった。そして、この面をもっての攻撃には、さしもの阿屋須も、討ち取られてしまう。阿屋須なきあと、一人頑強に潜伏し戦い続けた頓慶も、七鬼面の軍に攻めたてられ、抗戦むなしくついに力尽きてしまった。】
 ー ここでは、田村麻呂に頑強に抵抗した女酉長とその弟の話とともに、北斗七星と古面との関わりが紹介されています。

大星神社二の鳥居


 田村麻呂は、蝦夷平定の後、この鬼面を納めて「妙見社」を建立し、崇め奉ったとされていますが、その「妙見社」が、現在の大星神社であり、宝物として残されている古面は、この時の田村麻呂ゆかりのものとして今に伝えられている分けです。
 なお田村麻呂軍を苦しめ続けた阿屋須と頓慶の勇壮な物語とその勇姿は、青森ねぶた
青森ねぶた
にも取り上げられ、郷土に残された伝説を今に伝えています。

                            ー 次回へ続きます。

                              ☆つがるみち☆
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鳥居にも拝殿にも「胡桃舘八幡宮」ーつがるみち116

 胡桃舘(くるみだて)の八幡宮は、元は近くの中野村にあったのですが、荒廃したために、ここにあった観音堂の相殿として遷されたものです。
 明治の神仏分離により、観音様が取り上げられてしまい、境内には現在、淡島神社が建てられています。
 この淡島神社の社殿の後ろ側に、ひとつのお堂が建っていますが、覗いてみたら、そこが観音堂
観音堂
でした。お堂だけは残っているようです。
 観音堂の周りには、小さな末社が並んで建っていたり、庚申塔や二十三夜塔もあります。そこからは、八幡宮の本殿も見ることができました。かつては、この場所が境内の中心だったのかも知れません。 ⇒末社・庚申塔・本殿(画像複数)

八幡宮拝殿


 淡島神社、そして観音堂などを見た後、あらためて八幡宮の鳥居をくぐりました。
 ここにもまた、御神木
御神木
が2本、鳥居の脇にそびえています。第二の鳥居というべきでしょうか。
 こちらは、八幡様のお使いの狛鳩。
狛鳩
そして、こちらが狛犬
狛犬
です。とても愛らしく、「ワンちゃん」という感じです。頬被りは「神使」に対する人々の思いやり・・。西北津軽地方には、こんな頬被りの狛犬がたくさんいます。
 狛犬だけではありません。ここの神馬
神馬①
は、お腹にも手ぬぐいを巻いています。寒さから身を守る腹巻きのかわりでしょうか。
 こちらの神馬
神馬②
、前足と後ろ足に動きがあり、境八幡宮や沖の闇おかみ神社の神馬像とよく似ています。鶴田町の神社の特徴といえるかも知れません。

八幡宮拝殿龍神①


 拝殿の左右の壁には、龍神を描いた額が奉納されていました。青色の背景に金色で龍を刻んだ、なかなかの力作です。(向かって)左側の龍神の横を見てみると、いました、いました、青鬼
拝殿の青鬼①
です。
 淡島神社で見たものと同じような木工作品?の青鬼。
拝殿の青鬼②

 その瞳が、一方は真ん中、片方は下向きに描かれていて、思わず笑ってしまいます。

八幡宮拝殿龍神②


 一方、右側の龍神様の絵の隣には赤鬼
拝殿の赤鬼①
が掲げられていました。こちらの赤鬼
拝殿の赤鬼②
は、頭に大きな一本の角が生えていて、節分のときの鬼みたいです。
 黄色い目や黒い髪、鋭い牙と胸毛もしっかり描かれていますが、どこかユーモラスです。
 この拝殿の青鬼と赤鬼、とても親しみやすく、その姿を見た人は、ほっとするのではないでしょうか。

八幡宮一の鳥居鬼ッコ


 さて、この神社の鳥居の鬼ッコは一の鳥居にありました。拝殿の青鬼、赤鬼とはうってかわって、とても怖い表情をした鬼です。
 全身が金色、角も耳もぴーんと跳ね上がり、口は大きく裂け、鋭くとがった歯が見えます。眉根を寄せて、目を大きく見開き、参拝する人を睨みつけているようです。その容貌は「般若の面」を思わせます。
                ⇒胡桃舘八幡宮鬼ッコ(画像複数)

 淡島神社の青鬼、八幡宮拝殿の青鬼と赤鬼、そして一の鳥居の金色の鬼・・。ここ胡桃舘八幡宮には、合わせて四体の鬼ッコが掲げられていました。ここでもまた、鬼ッコは敬われ、親しまれているようです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鬼ッコめぐり(鶴田町2)ーつがるみち115

 青森県HP「鬼コ詳細一覧」では、鶴田町で鬼ッコを掲げている神社として、3ヶ所を紹介しています。
 その中の2ヶ所目、先回の境・八幡宮に続いて、沖地区にある闇おかみ神社を訪ねてみました。
 五所川原市の闇おかみ神社と同様、稲作に不可欠な「水」の神様「闇おかみ」を祀っています。ここもまた、新田開拓が行われた所で、用水路づくりなど、大変な作業が続いた土地なのだと思います。五所川原と同じく「鬼」を掲げているのも興味深いところです。「沖」という地名も「水」との関係を思わせます。

闇おかみ神社拝殿


 ここの闇おかみ神社も、延暦年間(782年~)に桓武天皇の命を受けて、坂上田村麻呂が建立したと伝えられていますが、詳しいことは分かりません。「明治九年十二月に村社となった」と由緒には記されていました。
 私が訪ねたときは、まだ境内にいっぱい雪が残っており、一巡りすることはできませんでした。
 こちらは台座が雪に埋まっていた狛犬
闇おかみ神社狛犬
です。この神社の神馬
闇おかみ神社神馬
も、先回の境八幡宮と同じく、とても躍動感があります。見れば見るほど、両者はよく似ており、
左:闇おかみ神社神馬 右:境八幡宮神馬
同じ年代、同じ作者なのかなと思ったりしました。
 拝殿まで進むのが精一杯でしたが、この拝殿に架かっている注連縄
拝殿の注連縄
は金属製の物でした。金属製の物は最近よく見かけます。

闇おかみ神社一の鳥居


 鬼ッコは一の鳥居に掲げられていました。鳥居と同じ石造り、同じ色のせいか、少し地味な印象を受けます。
 筋肉質のがっしりした体つきで、肩で鳥居を支えていました。どこか力士を思わせる風貌です。
 奥に引っ込んだ大きな目と、ふくよかなほっぺたなど、西郷隆盛にも少し似ているような・・。
  ⇒闇おかみ神社鬼ッコ(画像複数)



 続いて私は、胡桃舘(くるみだて)地区にある八幡宮を訪れてみました。
 ここの八幡宮は、寛文6年(1666年)の勧請とされ、当初は付近の中野村にありましたが、元禄年間にその堂舎が破損したために、ここ胡桃館に遷座したといわれています。当時、ここには胡桃館観音堂がありましたが、その相殿として祭られたと伝えられています。
 その後、明治の神仏分離政策により、 観音は取り除かれ、明治六年に村社となった分けです。

淡島神社拝殿


 広い境内には二つの社が並んで建っていますが、ひとつは八幡宮、そして片方が淡島神社です。私はまず、淡島神社を拝観することにしました。
 由緒書きがないので、よく分からなかったのですが、「淡島」ということからして御祭神は「少彦名命」と思われます。少彦名命は、国造りの協力神であるとともに医療の神様で、特に、女性の病気回復や安産・子授けなどに霊験あらたかな神様といわれています。
 そんな御祭神を祀っているからでしょうか、拝殿の前には「子宝の銀杏」
子宝の銀杏①
という御神木があります。銀杏の古木は、いわゆる「乳授け」の神様として崇められている分けですが、ここの銀杏も
子宝の銀杏②
、そんな「垂乳根の銀杏」として祀られているようです。

淡島神社鬼ッコ


 さて、私は、隣の八幡宮の鬼ッコを見ようと、淡島神社から立ち去ろうとしたのですが、何気なく拝殿の扁額の方を見ると、何とそこには「青鬼」がいました。
 注連縄に隠れて見えなかったせいもありますが、ほんとに気がつきませんでした。
 あらためてよく見ると、とてもユーモラスな鬼ッコです。地域の方々の手作り、それも子ども達の作品のような気もするのですが、どうなのでしょうか・・。
 ⇒淡島神社鬼ッコ(画像複数)

                              ☆つがるみち☆
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鬼ッコめぐり(鶴田町1)ーつがるみち114

 鶴田町の富士見湖(廻堰大溜池)付近からは、縄文前期から晩期にかけての土器(土師器、須恵器など)が発見されており、この地一帯には数千年前から縄文文化が花開いていたことが分かっていますが、現在の町の原型がつくられたのは、弘前藩の開拓事業が始まってからのことといわれています。
 弘前藩3代藩主・津軽信義の時代には、開拓が非常に活発に行われ、寛永17年(1640年)頃には、現在の鶴田、野木、木筒、沖などの集落が出現し、次第に発展していった分けです。

丹頂鶴


 鶴田町のシンボルはその名の通り「鶴」。その町章は鶴を象徴したもので、町の鳥は「丹頂鶴」、町のキャッチフレーズは「鶴と国際交流の里」・・。
 江戸時代の頃には数多くの鶴が飛来したという鶴田町ですが、そんな歴史を踏まえてのことでしょうか ー
【平成4年に「生きた丹頂鶴誘致」の声が高まり、平成5年に中国黒龍江省より2羽を譲り受け、平成9年にはロシア連邦アムール州よりつがいを譲り受け飼育、現在では当町で出生したものや多摩動物公園から借受している丹頂鶴が飼育されています。】と、紹介されています。

 現在は、富士見湖に架かる鶴の舞橋を渡りきったところに「丹頂鶴自然公園」があり、元気な丹頂鶴たちが、
丹頂鶴
訪れる人々に愛嬌をふりまいています。
 また、毎年、恒例の『鶴凧揚げ大会』が開催されています。この鶴凧は、【北海道鶴居村から大切にしていた鶴凧と設計図を譲り受け制作が始まりました。今では、毎年1月2日の新春と8月15日の夏まつりに、町民が凧揚げする様子を見ることができます。風を切って大空を舞う鶴凧の姿は、本物の鶴が飛んでいるような
鶴凧
優雅な光景。】なのだとか。。 ※【】はHP「鶴田町観光ウェブマガジン」より


 この鶴田町にも、鬼ッコを掲げている神社がいくつかあります。
 まずは、境地区・高田にある八幡宮を訪ねてみました。
 この境八幡宮の創建については詳しく分かりませんが、町の各地区に鎮座している「八幡宮」と名づけられた神社は、1670年頃の建立とされるものが多く、この八幡宮もその頃のものと思われます。新田開発にあたって、五穀豊穣祈願のために建立されたのかも知れません。

御神木と拝殿


 境内へと入って行くと、大きな御神木が二本、拝殿の前に立っているのが見えます。まるで鳥居というか、お寺でいえば山門というか・・。
 ⇒拝殿前の御神木(画像複数)
 このような「門」を思わせる御神木は、以前、大鰐町の居土普門堂
居土普門堂
や、青森市入内の小金山神社
小金山神社
でも見たことがあります。
 こちらは、拝殿、本殿、そして狛犬です。⇒拝殿・本殿・狛犬(画像複数)
 ここの境内の神馬
神馬
はとても印象に残りました。何というか、動きがあって、生きているような気がします。見事な造りだと思います。

拝殿の鬼ッコ


 さて、この神社の鬼ッコは拝殿に掲げられています。
拝殿の鬼

 見てドッキリ、びっくり・・。何と顔がありません。頭部が欠落しているのです。
 長い間、このままで雨風にさらされてきたのでしょうか・・顔だった部分は、だいぶ腐食が進んでいました。とても痛々しい感じがします。
 かつては、どんな姿で、どんな表情で、参拝する人々を見つめていたのでしょうか。。 ⇒境八幡宮鬼ッコ(画像複数)

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  

悲恋物語「津軽富士見湖」ーつがるみち113

 北津軽郡・鶴田町に廻堰(まわりぜき)大溜池という大きな溜池があります。周囲11km、堤の延長がおよそ4kmで、堤の長さは日本一とされています。
 この溜池は、岩木山を水源とする貯水池でしたが、万治3年(1660年)に弘前藩4代藩主・津軽信政の時代に、堤防が築かれ、用水池になったものです。
 その後、時代を経て、何回かの難工事の末、昭和35年に現在の堤防が完成し、県内で最も大きな人造湖として、西北津軽一円の田畑を潤しています。
 その景観はとても美しく、湖面に津軽富士・岩木山を映すことから、「津軽富士見湖」と名づけられ、人気の観光スポットにもなっています。
 この富士見湖に架かっている橋が「鶴の舞橋」で、文字通り、「湖面を舞う鶴」をイメージして造られていますが、HP「鶴田町観光ウェブマガジン」では、次のように紹介しています。
【「鶴の舞橋」は、全長300メートル、総ヒバ造りの三連太鼓橋。周辺の自然環境や景観との調和を保つため、橋脚には樹齢150年以上の青森ヒバ700本を使用し、日本古来の建築技術を駆使してつくられた。・・・ゆるやかなアーチを描く三連太鼓橋は、巌鬼山、鳥海山、岩木山の三峰で形成される岩木山を模しており、天候が悪く湖面に岩木山が映らない日でも、橋の影を岩木山に見立てて観賞できるよう配慮している。※HP「鶴田町観光ウェブマガジン」より】 ⇒富士見湖と鶴の舞橋(画像複数)

鶴の舞橋


 橋を渡って行くと、途中の休憩所に富士見湖にまつわる「悲恋物語」
「悲恋物語」説明板
が紹介されています。
【今から600年前、この辺りを治めていた清水城の城主・間山之守三郎兵衛忠勝が狩りの帰り道、草深い里にある太右衛門の家に立ち寄った際、同家の息女である白上姫と出会い、一目で白上姫を恋するようになった。二人は愛し合い、一年が過ぎた。
 ところが、翌年の秋、間山之守と土地の娘・琴姫との婚約が進み、間山之守はいつしか白上姫を忘れるようになっていった。そうとも知らぬ白上姫は、間山之守の正月用の晴れ着を縫い上げ、城下へとやってきた。城に近づくと、普通の日と違って大変な人通りである。不審を抱いた白上姫は通りかかった人に聞くと、この日が間山之守婚礼の日と知らされた。手にしていた晴れ着が落ちたのも知らず、人目を避けて帰る足はいつしか大溜池の畔に姫を運んでいた。水草が揺らぎ、波紋を残して白上姫の姿は水中に消えていった。 ※鶴の舞橋説明板より(要約) 】

 ー 白上姫は悲嘆のあまり、湖に身を投げた分けですが、翌年の春、小雨降る日、大溜池に清水城へ向って湖水を渡る白竜を見た人があり、「白上姫の霊」ではないか・・と、大騒になったと語られます。龍と化した姫は、間山之守を苦しめ続け、とうとう間山之守は狂乱し、自分の妻を殺し、自らも湖に身を投げてしまいます。それ以後、湖にはたくさんの鮒や鯉が住むようになり、鶴が飛来するようになったのだとか。。

戸和田神社


 この白上姫を憐れんだ村人達が、その魂を鎮めるために建立したとされる社が戸和田神社です。この神社は、鶴の舞橋の入口付近にひっそりと建っていました。神社にはつきものの石灯籠や狛犬もなく、鳥居の横に社号標
社号標
と、その奥に小さな社殿
社殿
が建っているだけです。
 戸和田=十和田で、青森県内には「十和田様」と呼ばれる神社や祠が数多くありますが、「十和田様」とは、窪地に水が溜まったものを指し、そこに水の神・龍神がいるという信仰が生まれたとされています(十和田湖の十和田信仰は、その代表的なもの)。ここ戸和田神社の中にも、龍神と自然石
龍神と自然石
が祀られていました。

 社殿の壁には、同様の「悲恋物語」が掲げられていましたが、物語の終わりの方に、「白上姫の悲劇を嘆いた村人は、戸和田神社とともに、村内に白山姫神社も建立した」と書かれていました。

白山姫神社


 その白山姫神社は、戸和田神社から見て、池の対岸付近に鎮座していました。青森県神社庁HPには、「元禄六年三月産土神として勧請す。 明治六年四月廻堰八幡宮に合祭される。 翌年復社。 」と記されています。
 御祭神は、伊邪那岐神、伊邪那美神、そして多くの白山姫神社がそうであるように菊理姫命です。

 境内には、並んで立っている庚申塔
庚申塔
のそばに末社
末社
がひとつ。こちらは拝殿
拝殿
の前にある子ども連れと鞠突きの狛犬
狛犬
です。田んぼと富士見湖を背にして本殿
本殿
が建っていました。

 富士見湖を挟んで、ちょうど向かい合うように「悲恋物語」を伝える社が鎮座していることは、この伝説が地域に長い間大切に語り継がれてきた「証」なのかも知れません。 ー この悲恋伝説は、青森ねぶたの題材になったり、地元の子ども達の「ふるさと学習」の素材としても取り上げられているとのことです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

修験の館「三世寺神明宮」ーつがるみち112

 三世寺館は、鎌倉時代末期に藤崎・安東氏の庇護を受けた天台宗三世寺の修験館だった分けですが、主郭であった仁王堂からは、かつて西の郭であった神明宮が見えます。方角は南西、距離はおよそ300mといったところでしょうか。
 神明宮そのものは、その創建の年代は詳らかではありませんが、【貞享四年、 弘前藩にて田畑免除法を定めた際、 現社地は、 三世寺、 小山両村抱え境内地として調定し、 寛政八年には社寺領に属する旨、 検地元帳に登録された。 ※青森県神社庁HPより】とされています。御祭神はもちろん天照皇大神です。

神明宮一の鳥居


 
 境内は、独立した小丘陵になっていて、掘の跡なども残されており、出丸として、三世寺館の防御ラインを形成していたようです。
 そんな往時を思わせるように、境内への入口は正面の他に2ヶ所あります。こちらは裏手(田んぼ側)入口
裏手入口
に立つ鳥居。拝殿へと続いています。主郭からの往来に使われていたのでしょうか。
 一方、こちらは道路側の入口
道路側入口
です。ここもまた、鳥居の注連縄は金属製の物
金属製の注連縄
でした。
 この神社は何回か火災に見舞われたということですが、一段と高くなっている場所に比較的新しい拝殿と本殿があり、そこには、天照皇大神の像
拝殿付近
などがありました。

神明宮二の鳥居


 さて、この神明宮の境内には、弘前市指定文化財である「三世寺板碑群(さんせじいたびぐん)」があります。ちょうど二の鳥居をはさむように左右に建物があり、その中に納められています。両方の建物のそばには、板碑の説明板もあり、その様子を詳しく知ることができます。 ⇒三世寺板碑群(画像複数)

 
 この板碑群については、神社の由緒書き
由緒書き
にも記されていますが、弘前市のHPでは、【三世寺一帯は、鎌倉時代鼻和郡尻引郷(しりひきごう)であり、藤崎安藤氏の領地であった。そしてこの地には、天台宗三世寺が独立丘陵に館を構えていた。同寺の大檀那は安藤氏で別当は熊野修験であり、したがって館は修験館である。神明宮はこの館跡に位置し、境内に7基の板碑がまとまってあるが、もとは付近一帯に散在していたものである。7基とも安山岩に種子を刻み、5基は鎌倉時代末期から南北朝中期までの紀年号を有している。この中には2対4基の連碑(れんぴ)があり、そのうち1対は講衆碑(こうしゅうひ)である。また釈迦種子碑としては県内最古の年号を有する碑もある。これらの板碑は、文書史料の乏しい当地方の中世の歴史を知るうえで貴重なものである。※弘前市HP「弘前の文化財」より】と、説明しており、この地方の個人あるいは集団が建てた卒塔婆であったようです。

 
 津軽地方には、深浦町・関の古碑群弘前市・兼平天満宮など、板碑が残されているところが多いのですが、それらは、鎌倉時代後期から南北朝時代のものがほとんどで、この時期に津軽に「板碑文化」が花開いていたことが分かります。そして、その時代の中心は安東氏だった分けです。

神明宮拝殿


 二の鳥居からは少し急な坂道が拝殿へと延びていました。途中に小さなお堂があったので、寄って見たら、「疱瘡神社」
疱瘡神社
とありました。中を覗いて見ると、表面が凸凹した自然石?
疱瘡神社御神体
が祀られていました。
 それにしても「疱瘡神社」・・初めてです。その名の通り、昔、天然痘で亡くなった人々の供養と、流行病治癒を願って建てられたものなのでしょうか。

 
 後で調べてみたのですが、広島市南区堀越の疱瘡神社には次のような伝説が残されているようです。【この疱瘡神社は、疱瘡で亡くなった平清盛の側室常盤御前の娘が埋葬された地に建てられたとの言い伝えが残っています。父平清盛と母常盤御前の愛娘はとても可愛らしく「天女姫」と呼ばれていましたが、幼い時から病気になることが多く、年頃になると不治の病として恐れられていた疱瘡(天然痘)にかかってしまいました。父清盛は何としても姫の病を治そうと、日本中の医者を集めましたが効果がなく、この上は神にすがるしかないと、ことのほか信仰をしていた嚴島神社に京の都から船で姫を連れてきました。宮島中の神仏のすべてに祈願を済ませ帰路に就こうとしたところ、姫の病気はますます重くなり、色々手を尽くしたものの、皆の願いもむなしく、遂に亡くなってしまいました。この時、姫はわずか14歳でした。その亡骸を埋葬する場所を神に伺い、お告げのあった場所に亡骸を葬り、疱瘡神社を建てたと言われています。※HP 「ひろしまナビゲーター」より

 余談ですが、ここ三世寺館の大檀那である藤崎・安東氏には、源平合戦の折、その水軍(安東水軍)を率いて、平氏を救うために壇ノ浦へと出陣したという伝承が残されています。 ー ここ神明宮の疱瘡神社は、清盛の愛娘・天女姫の悲劇とともに、往時の平氏と安東氏との深いつながりを感じさせます。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

修験の館「三世寺仁王堂」ーつがるみち111

 弘前市には、鳥居などに鬼ッコを掲げている神社が8つほどあるそうですが、神社によっては鬼が社殿の中に祀られているために、かんたんには拝観できないところもあるようです。
 弘前市・三和地区にある日吉神社
日吉神社
にも行ってみたのですが、ここの鬼は拝殿の中。残念ながら拝殿は施錠されていて、鬼ッコを見ることはできませんでした。
 そういう分けで、県道37号線沿いにある種市の熊野宮を訪れました。

熊野宮拝殿


 ここの辺りは、弘前市の中心部からはだいぶ離れており、ほぼ岩木山の麓にあたります。一帯には、「熊野」と名のつく社が多くありますが、これは岩木山の山岳信仰(熊野修験道)と結びついていると思われます。この種市熊野宮もそんな社のひとつです。
 道路際にひときわ目立つ赤い鳥居が立っており、そこから境内を見渡すことができ、大きな神馬像
神馬像
も道路から見ることができます。こちらは本殿。
本殿
御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命です。
 拝殿前の狛犬は、
狛犬
のほほん、あっけらかん・・そんな表情です。

熊野宮鬼ッコ


 ここの鬼ッコは一の鳥居に堂々と掲げられていました。比較的大型の鬼で、しかもよく見えるので、道行く人達も思わず足を止めて見入るのではないでしょうか。
 鳥居の色よりは少し濃いめの赤鬼です。肩で笠木を支えている分けではなく、鳥居にどんと座っている鬼でした。口を「への字」に結び、あごを突き出し、真っ直ぐに前を見て、神社に参拝する人々を見ている・・そんな感じの鬼ッコでした。 ⇒種市熊野宮鬼ッコ(画像複数)


 さて、私は、種市熊野宮の帰りに「三世寺(さんせじ)」という所を通ったのですが、その時に「参道」と書かれた大きなひとつの案内板を見つけました。
 後で地図を見てみると、そこは通称「仁王堂」と呼ばれる史跡だったので、日を改めて訪ねてみました。
 案内板には、「賽の河原、地蔵堂、仁王堂、水子地蔵堂」と書かれていて、「車でどうぞ」とあり、夏場は側まで車で行けるようですが、今はこの通り・・。
参道
雪解けはまだまだ先の話です。

仁王堂①


 あらためて眺めてみると、そこは小高い丘になっていて、まるで雪の湖の中にポツンと浮かんでいる離れ小島のように見えます。
 雪道なので気をつけながら参道を歩いて行くと、間もなく賽の河原
賽の河原
が見えました。雪のため、はっきりしませんが、付近はちょっとした崖になっているようです。夏場には、また違った景色なのかも知れません。小さなお堂があり、その中には、積まれた石の台座の上にお地蔵様
お堂の中
が祀られていました。

仁王堂②


 丘の上に登って見ると、そこからは、遠く弘前市街や藤崎町の様子を眺めることができます。
 こちらは岩木山。
岩木山
晴れ間を待つために少し粘ってみたのですが、残念ながら頂上は見えませんでした。
 一方、こちらは大鰐町の阿闍羅山
阿闍羅山
です。
 ここは、そんなに高い丘ではないのですが、ちょっとしたパノラマが楽しめます。この丘の奥の方に、お堂が建ち並んでいます。

水子地蔵堂と山神堂
水子地蔵堂と山神堂
・・・水子地蔵堂には、赤子を掌に乗せているお地蔵様
水子地蔵堂
がいます。山神堂には等身大の山の神様。
山神様①
自然の木で造ったものなのでしょうか。
 おそるおそるその顔
山神様②
を覗いてみました。
◇仁王堂・・・その名の通り、中には二体の仁王像があります。
 ⇒仁王堂(画像複数)
◇こちらは仁王堂の隣にある地蔵堂
地蔵堂
です。鍵がかかっていたので、ガラス越しに覗いたお地蔵様
お地蔵様
です。

 三世寺一帯は、鎌倉時代には藤崎・安東氏が治めていたところであり、当時は、ここ仁王堂の跡に「三世寺館」と呼ばれる平山城が築かれていたといわれています。
 三世寺館は、その築城年代は定かではないものの、天台宗三世寺が丘陵に館を構えていたとされており、熊野修験の修験館であったようです。
 館は、主郭、二の郭、西郭から構成されていたといわれており、土塁や掘の跡
主郭
も残っているようです。丘の上から、下の方を見てみると、こんもりとした森が見えますが、ここが往時の西郭(出丸)で、現在は神明宮
神明宮
になっています。

                           ー 次回へ続きます。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  

村の総鎮守「柏正八幡宮」ーつがるみち110

 つがる市は、木造町・森田村・柏村・稲垣村・車力村の5町村が合併して誕生しましたが、「柏村」の名前の由来は、次のように紹介されています。
【天正4年(1576年)、津軽藩主・右京大夫藤原朝臣為信公が領内巡視の際、山路から遥かに芒々たる葺原の中に亭々と繁る大樹をながめ、たずねて見るにそれは古木「柏の木」であった。根元には蟻が巣を喰っているので蟻巣村と称するという、先住の浪士・工藤先左衛門尉藤原祐益の言であった。為信公は、四方広遠なるこの地を見て自今廣須野と称え、廣須村と名づけられて以来、この地を発祥に廣須木造新田の荒野開発が進められ、柏村名の起源となったのである。※つがる市HPより】 
 ー 一本の古木から名づけられた村名だった分けです。この柏村の総鎮守として、多くの崇敬を集めてきた社が柏正八幡宮です。

柏正八幡宮


 この辺り一帯の住所は「八幡」。この八幡宮を中心に開けてきた町のようです。
 一の鳥居からは、長い長い参道
一の鳥居と参道
が続き、途中には保育園やアパートなども建っていて、隣には中学校もあります。昔は全てこの神社の境内だったのでしょうか。
 拝殿入り口の鳥居には、大きな注連縄と米俵が三つ、そして八幡様らしく「絵馬」が奉納されていました。親子でしょうか、二頭の馬が緑の野原を駆け回っている様子を描いた絵馬です。背景にはもちろん岩木山。津軽ですね。⇒鳥居の絵馬
鳥居の絵馬


柏正八幡宮拝殿①


 境内
境内
を回ってみました。
神馬です。
神馬
うつむきかげんで、何となく元気なさそうに見えました。こちらは、青い目をした狛犬達。
狛犬
一方は鞠突き、片方は子ども連れです。
◇本殿の隣には、いくつかの末社と庚申塔が立ち並んでいます。赤い鳥居の奥にも祠があったので、覗いて見ると保食大神が祀られていました。
  ⇒本殿・末社・庚申塔・保食大神(画像複数)

柏正八幡宮拝殿②


 拝殿の周りの壁は、たくさんの「干支の絵馬」で取り囲まれています。⇒拝殿の壁の干支(画像複数)
 中に入ってみると、これまた所狭しと絵馬が掲げられていました。この神社に寄せる地域の思いが伝わってくるようです。⇒拝殿内(画像複数)
 さて、この柏正八幡宮は、【創建は天正5年(1576年)、後に弘前藩祖となった津軽為信が社殿を建立し、金造の神像を御神体としたのが始まりと伝えられています。為信は前年この地を訪れた時、篤いもてなしを受け、村人から産土神の勧請を上願されると快く受けたとされ、社殿が完成すると国家安穏、 五穀成就、 萬民豊楽、 武運長久の祈願をこめ直筆の棟札を奉納したとされていて、以後、歴代藩主の祈願所となります。
 当初、旧柏村広須にあり広須八幡宮と称していましたが、寛文8年(1668)4代藩主津軽信枚の命で現在地に遷座し、広須木造両組の新田開発の総鎮守として広く信仰されるようになり、社殿の営繕費は代官の公費で賄ったとされます。明治42年に為信公直筆の棟札に正八幡宮にあやかり柏正八幡宮に社号を改名しました。※HP「青森県:歴史・観光・見所より】とされています。

 境内入口の由緒書き
由緒書き
には、前述のように、津軽為信がこの地を訪れたときの話として、【・・ようやくたどりついて見ると一大老柏木の傍に葦芽の家が三軒並んであった。これは、工藤祐益、花巻頼母、山崎織部等落武者の庵で付近僅かに粟稗が耕されてあった。一行は暫くこの草庵に憩をとることにした。昼時ともなったので、村人達は心をこめて粟や稗の酒飯を炊いてもてなした。為信公はことのほか上機嫌で祐益老の願いを聞くと産土神の御加護の下に開墾を進めたいとお宮の建立を上願した。】とあり、この神社の縁起は、「柏村」という村落の発祥と密接に結びついていることが分かります。正に村の総鎮守だった分けです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鬼ッコめぐり(弘前市)ーつがるみち109

 寺社を巡るときは、一応、場所を地図で確かめて、カーナビも利用してはいますが、それでも場所が分からず、道に迷ってうろうろ・・・。
 そんなときは、地域の人をつかまえて聞くようにしていますが、ほんとに親切に教えてくれて、とても助かります。
 案の定、今回も迷ってしまいました。「どうしようか。」と思っていると、運良く軽トラが通りかかったので、運転していたおばさんに、「この辺に、鳥居に鬼ッコがある神社はありませんか?」とたずねたところ、「あー。そいだば(それだったら)、おらほの(自分の地域の)しめさまだ(神明宮だ)。」と、ていねいに道順を教えてくれました。ありがたいことです。
 ー そういう分けで弘前市・富栄にある神明宮
弘前市・富栄神明宮
へ、無事に着くことができました。

神明宮拝殿


 県道41号線沿いのりんご畑に囲まれて、ポツンと建っているこの神社・・その縁起など、詳しいことは分かりませんが、それこそ地域の「鎮守の森」として崇められてきたのだと思います。
 一の鳥居の脇には、一体の石仏
石仏
があり、参道を進んで行くと、大月宮・二十三夜塔・庚申塔
大月宮・二十三夜塔・庚申塔
が並んで立っているのが見えました。
 こちらは本殿。
神明宮本殿
その後ろが野原のためか、風が強く、荒涼とした感じでした。
 狛犬達は元気で、その目を光らせて睨んでいます。ちょっと「寄り目」の狛犬
神明宮狛犬
です。

神明宮二の鳥居


 めあての鬼ッコは、二の鳥居にいました。小さな可愛らしい鳥居で、その大きさに合わせているかのように、この鬼ッコも比較的小さな姿形をしています。
 全身が赤一色。細い角、奥に引っ込んだ目、その肩で必死に笠木を持ち上げて踏ん張っています。
 よく見ると、小さいながらも、なかなか力強い表情をしている鬼です。 ⇒神明宮鬼ッコ(画像複数)



 鳥居に金属製の注連縄が張られてある神社は、以前、弘前市・白山姫神社でも見たことがあります。
 当初は大変めずらしいものだと思っていましたが、津軽には、金属の注連縄の神社がけっこうあるようです。
 富栄神明宮の鬼ッコを見た後、同じ弘前市・中崎にある月夜見神社へと向かいましたが、ここにもまた、大きな銅光りする注連縄
月夜見神社注連縄
がありました。

月夜見神社拝殿


 この神社の御祭神はもちろん月読命ですが、その由緒については、【・・創立年月日不詳なれども明治以前は大師堂と称する。小野万太夫抱へ部上納米二斗五升免除。明治八年四月村社に列せられる。※青森県神社庁HPより】とあります。「大師堂」が何だったのかは分かりませんが、古くからの村の社であったようです。
 この神社の三の鳥居
月夜見神社三の鳥居
は、笠木の両端が見事につり上がっていて、とても特徴があります。扁額がわりの米俵・・これも石で出来ています。
 そばに老木が立っていますが、御神木
御神木?
なのでしょうか、その根元は空洞になっていました。痛々しい感じです。
 こちらは着飾った神馬。
神馬
拝殿の側には、目と口が赤く塗られた狛犬
月夜見神社狛犬
がいます。

月夜見神社二の鳥居


 ここでもやはり鬼ッコは二の鳥居。
 耳が大きく、鼻が少しつぶれていて、全体的に平べったい顔をした鬼です。
 少し色褪せてはいますが、眉や目は黄色く塗られていて、なかなか迫力があります。
 口のまわりのひげも黄色と黒・・虎を思わせるような鬼ッコです。 ⇒月夜見神社鬼ッコ(画像複数)

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鬼ッコのはじまり「撫牛子八幡宮」ーつがるみち108

 今回訪れたのは、弘前市・撫牛子地区にある八幡宮です。 
 「撫牛子」と書いて「ないじょうし」と読みますが、一発で読める人はなかなかいないと思います。鉄道に詳しい方なら、奥羽本線の弘前駅の隣に「撫牛子駅」という駅があることをご存知かも知れませんが、どうしてこのような地名がつけられたものか、その由来について詳しいことは分かっていません。
 一説では、これはアイヌ語で、「ない=内」で川や沢を意味し、「じょうし」は、魚を捕るための柵である「チャシ」が転訛したものだともいわれています。
 実際、青森県内には「○○内」など、「ナイ」がつく地名が多くありますが、弘前市にも十腰内(とこしない)とか小比内(さんぴない)という地域もあり、それらの語源はアイヌ語で、その文化の名残りであるともいわれています。
 しかしながら、「撫牛子」・・音が似ているとはいえ、あえて「撫」とか「牛」という漢字を充てている意味は今ひとつはっきりしていません。

撫牛子八幡宮境内


 撫牛子八幡宮は、撫牛子駅から5分ほど歩いたところにあります。神社というとたいていは、こんもりとした森の中に鎮座している・・というイメージで、実際、多くの神社はそうなのですが、ここはこの通り。
参道
樹木は数えるほどしかなく、隣の民家とかがすぐ側に見えます。後ろの方も遮るものがなくて、回っている間にもJRの列車が通り過ぎて行くのが見えました。
 そんな開放的な境内なので、神馬の像や、立ち並んでいる庚申塔・二十三夜塔なども、とても大きく見えました。 ⇒神馬像など(画像複数)
 境内の中には、二本の御神木
二本の御神木
らしき大樹がありましたが、いずれもその先は切られていました。以前は、この境内もちょっとした森の中だったのかも知れません。

撫牛子八幡宮本殿


 何本かの鳥居をくぐって進むと拝殿
拝殿
と本殿があります。これは、拝殿の前の大小の狛犬
大小の狛犬
です。
 敷地は隣の家と塀で仕切られており、その側にいくつかの石碑と末社
石碑と末社
が並んで建っています。何となく窮屈そうな感じがしました。
 本殿の隣に赤い鳥居があり、ひとつのお堂があったので、覗いて見たら、馬の像が見えました。ここは神馬堂
神馬堂
だったようです。

撫牛子八幡宮鬼ッコ


 さて、ここ撫牛子八幡宮は、その創建年代は不詳ながらも、地域の「産土神」として、深く崇敬されてきた神社ですが、津軽地方の各神社の中で、一番最初に鳥居に鬼ッコを掲げた社として知られています。
 その鬼ッコは一の鳥居にありました。鬼ッコはたいていは二の鳥居や三の鳥居にあることが多く、一の鳥居に掲げるためには、地域の総意が必要だ・・という話を聞いたことがあります。正にパイオニアの面目躍如といったところでしょうか。。

 
 入口の説明板
説明板
に、その由緒が記されています。
【「撫牛子の鬼コに角コ無エー。西郷隆盛に首タコ無エー。」とわらべ唄に歌われて来たこの鬼コは、悪霊を防ぐ魔除のために氏子一同が鳥居にあげたものである。】
 西郷隆盛はともかく、鬼に「角が無い」というのは、津軽では鬼は畏怖される反面、優しく頼りになる存在として好かれていることを示しているもので、鬼の伝説で有名な鬼神社の鳥居の扁額は「鬼」の文字から角である「’」が省かれています。
鬼神社扁額


 最初の鬼ッコは、【甲冑師・高山玄南作の木彫であったが、昭和26年の大火で焼け落ち、ここに見える鬼コは、大正8年に石工・櫻庭音吉氏がこの鳥居と共に製作したものである。】とされ、その後、【霊験あらたかな鬼コの話を聞いて、柏木町、日沼、種市、沖等次々に鬼コをあげて、悪霊、悪疫の退散は勿論、さらに鬼の神通力にあやかって強い子供を育てたいと祈願するようになった。】という分けです。因みに日沼の鬼ッコとは、以前ご紹介した平川市・三柱神社
三柱神社の鬼
の鬼のことです。 
※【】は由緒書き(説明板)より

 ー 緑色をした津軽最初の鳥居の鬼ッコは、一の鳥居にでーんと鎮座していました。
  ⇒撫牛子八幡宮鬼ッコ(画像複数)

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

水神と鬼「闇おかみ神社」ーつがるみち107

 以前、弘前市・十面沢(とつらざわ)の貴船神社を訪ねたときに、その祭神が「闇おかみ」であることを知りました。
「闇おかみ」は水(淡水)を司る神様で、十面沢のみならず、各地に鎮座している「貴船神社」の祭神となっている分けですが、中には、祭神名そのまま「闇おかみ神社」を名乗る社もいくつかあります。今回は、五所川原市にある「闇おかみ神社」を訪ねてみました。

闇おかみ神社


 この神社は、五所川原市の神山という地区にありますが、この辺り一帯には「長橋溜池」をはじめ、大小の溜池が点在していて、稲作の「源」になっています。
⇒闇おかみ神社付近
闇おかみ神社付近

 闇おかみ神は、水を司る水神で【農耕民族にとって水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においては水神は田の神と結びついた。※wikipediaより】とされています。
 田の神と結びついた水神は、田のそばや用水路沿い、または水源地に祀られていることが多く、「水分神(みくまりのかみ)」とも呼ばれています。
「みくまり」の「くまり」は「配る(くばる)」で、即ち、稲作にとって重要な水を分け与える・・という意味ですが、ここ闇おかみ神社の一帯は長橋溜池の側、いわば「分水点」であり、正に水神を祀る場所にふさわしい所といえます。 

闇おかみ神社拝殿


 参道
闇おかみ神社参道
には、二体の狛犬と神馬の像が立っています。また、隣には、境内社の金比羅神社
金比羅神社参道
もありますが、ここにも狛犬がいます。これらの狛犬や神馬達・・いずれも頬被りをしており、金木町の八幡宮と同様、ここにも「神の使い」に対する地域の心づかい(寒さから神使を守る)が感じられます。
 ⇒狛犬と神馬(画像複数)

 
 拝殿の中に
拝殿内
、ひとつの新聞記事が額に入れられて掲げられていました。境内の神木である「クロマツ」の移植の記事です。このクロマツは樹齢が約350年という名木ですが、道路整備のため現在の所へ移植されたとのことです。
 ⇒境内のクロマツ(画像複数)

 金比羅神社の参道に雪に埋もれた小さな祠
水虎様
が顔を覗かせていました。中を見ることはできませんでしたが、これは「水虎様」のようです。
 水虎様は、水難事故で亡くなった子どもの供養とその安全を守るための水神信仰ですが、ここもまた沼地に囲まれた土地・・昔は悲惨な事故もあったのかも知れません。

 
 
闇おかみ神社鬼ッコ①
 
闇おかみ神社鬼ッコ②
 
闇おかみ神社鬼ッコ③


 さて、ここ闇おかみ神社には、何と三体の鬼ッコがいます。ここの鬼ッコは鳥居に掲げられているのではなくて、入口に二体、拝殿に一体あります。
 入口の社号標の前に片膝をついて、どっかと座っているのが「青鬼」です。
青鬼
横綱?をしめ、赤い化粧まわしをしているその姿は、どう見ても「鬼」というよりは「関取」といった感じですね。

 一方こちらは、御神木・クロマツの隣の「緑鬼」。
緑鬼
長い赤い角、つり上がった眉と黄色い大きな目、とがった手足の爪など、いかにも鬼らしく怖い感じがします。自分専用の「家」の中に納まっていました。

 三体目は、拝殿に掲げられている「赤鬼」です。
赤鬼
こちらは、垂れた眉、まん丸いどんぐり目、上向きの鼻など、どこかとぼけた表情をしていて、親しみやすい優しい鬼、といった感じです。

 ー 津軽の鬼は、稲作の神様でもあり、荒れ地を開墾したり、田植えや稲刈りのための道具をもたらしたり、田んぼに水を引くための用水路を造ったりと、村人に感謝されている分けですが、この神社に祀られているのは、「闇おかみ神」と同様、稲作に不可欠な水を司る神様として崇められてきたからだと思われます。
 溜池から田んぼに水を引くという作業は、大変困難な仕事で、それこそ「鬼の神通力にすがりたい」という思いだったのでしょうか。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 板柳町   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鬼ッコめぐり(板柳町)ーつがるみち106

 海童神社、そして高増神社と、板柳町の大きな社を回ってきましたが、途中、鳥居に鬼ッコを掲げている神社にも立ち寄ってみました。
 はじめに訪れたのは、板柳町・夕顔関という地区にある八坂神社です。
 この神社の創建は詳らかではありませんが、この地域の開拓(新田開発)が始まった頃(1630年頃?)だと考えられています。「八坂」という名前からして、牛頭天皇を祀る祇園信仰と関係の深い神社なのかも知れません。明治の神仏分離以後は、多くの八坂神社がそうであったように、ここでも素戔嗚尊を祭神としています。

八坂神社拝殿


 伝承によると、開拓が行われていた頃、土の中から観音像が一体掘り上げられたので、鎮守の神として祭ったのが始まりで、その観音様は現在でも本殿に納まっているとのことです。また、往時は、山伏達が居て、神事を執り行い、村中はもちろん、近郷からも多数の参拝者が訪れ、非常に賑やかであったとされています。
 拝殿の前に一本の老木があります。推定樹齢が450年、板柳町の名木に数えられている「トチノキ」ですが、町では土壌の改良に努めるなど、保護活動に力を入れています。 ⇒八坂神社トチノキ(画像複数)

八坂神社二の鳥居


 鬼ッコは二の鳥居にありました。丸い顔、カールした髪の毛、とがった角・・その肩で笠木を支えているいわゆる「強力型」と呼ばれる鬼です。黄色い目をいっしょうけんめいつり上げて威厳を保とうとしているようで、何となく微笑ましい感じのする鬼です。周りが真っ白な雪だったせいか、その鮮やかな朱色が引き立って見えました。 ⇒八坂神社鬼ッコ(画像複数)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 続いて訪れたのが同じく板柳町・常海橋にある八幡宮です。
 この神社もその由緒ははっきりとは分かりませんが、境内の説明書きによると、【・・津軽藩最古の神社調「延宝9年堂宮神主山伏行人之覚」に、勧請年月不詳なるも、蒔苗市兵衛により寛永2年(1625年)の創建云々」】とあり、先の八坂神社同様、地域の開拓がなされた頃に建立されたもののようです。その後、一時荒廃しましたが、貞享4年(1687年)に再建されたと伝えられています。

八幡宮拝殿


 境内は思ったよりも広く、中にはいくつかの末社や石碑が建てられています。これはそのひとつで龍神宮と馬頭観音
龍神宮と馬頭観音
です。雪で分かりませんでしたが、神池もあるのでしょうか。。
 拝殿
拝殿
は、わりとこじんまりとした感じの建物でしたが、その前には大小二体の狛犬
拝殿前の狛犬
が鎮座していました。 


八幡宮二の鳥居


 さて、鬼ッコは二の鳥居にあります。面長な顔立ち、肩まで垂れ下がっている長い髪、黒くとがった角、太い眉の下の「どんぐり眼」が鋭く睨んでいます。
 何といってもここの鬼ッコの特徴は、金棒を持っていることです。正に「鬼に金棒」ですね。
 ⇒常海橋八幡宮鬼ッコ(画像複数)
 この鬼は2007年に新しく掲げられたものですが、それまでの「古い鬼ッコ」
拝殿の鬼ッコ
は拝殿にありました。
 現在のものとは、だいぶ姿形が違っていたようです。

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神意を受けて「高増神社 2」ーつがるみち105

 高増神社は、板柳町のりんご農家であった安田健之助の不可思議な体験や霊夢に基づいて、昭和7年に創設された比較的新しい神社です。昭和28年には宗教法人「高増神社」になり、本殿、拝殿、社務所、参集殿が建設されました。
 先回に続いての境内巡りですが、私は、この神社の創始者・安田健之助夫妻の像を見てから手水舎
手水舎
の辺りへ戻り、拝殿や本殿のある方へ向かいました。

高増神社薬師堂


 手水舎からは、2つの大きな建物
拝殿と薬師堂
が並んで建っているのが見えます。まずは右側のお堂の方へ。
 なかなか大きなお堂だったので、何だろうと思って戸を開けて見ると、薬師大神
薬師大神
という扁額が掲げられていました。ここは薬師堂のようです。
 このお堂の側に雪に埋もれた石碑と石像がありましたが、後で社務所の方に聞いてみると、石碑は月読大神
月読大神
で、石像は薬師様(薬師如来)
薬師如来
であるということでした。

高増神社拝殿


 一方、こちらは拝殿です。前から見ても横から見ても、とても大きくりっぱな建物で、その中も広々としていました。 ⇒高増神社拝殿(画像複数)
 拝殿前の狛犬は雪にすっぽりと埋まっていましたが、片方だけは何とかその顔を
拝殿前狛犬
拝むことができました。
 この拝殿の奥が、本殿及び参集殿になっているようですが、この本殿、
本殿
お城の天守閣のようにも見えます。

高増神社龍神宮


 社殿の横は広々としていますが、龍神宮を中心とした庭園
庭園
になっているようです。
 ここにもまた、鳥居が立ち並び、いくつかの祠や石碑が建てられていました。多くは雪に埋もれて見れませんでしたが、こちらは、大国主命
大国主命
を祀っている祠です。
 社務所の裏側同様、こちらにも神池があり、真ん中に龍神宮がありました。この神池の中に立っている石燈籠、龍はもちろんですが、他にも様々な動物(十二支?)が掘られており、なかなか見応えがあります。 ⇒神池の石灯籠(画像複数)

 さて、もう一度、安田健之助が遭遇したとされる伝承をみてみると、
【夜ともなれば大男が姿を現し、 大きな足跡を見せた・・・畑には驚く程大きなヘビが姿を見せた・・・家の壁には文字が書かれ、 それは十二山の神、 大山祇大神と読めた】とありますが、それは次のように考えられます。

◇「夜ともなれば大男が姿を現し、 大きな足跡を見せた」
 この大男は、弘前市の大石神社や厳鬼山神社、鬼神社に伝わる「赤倉の大人」即ち岩木山麓に住む「鬼」と同じだといえます。この鬼は、稲作や潅漑などを手伝ってくれ、津軽地方で崇められている鬼です。鬼といえば「巨石(大石)」がつきものですが、ここ高増神社の境内にも所々に大石
境内の大石
が置かれていました。

◇「畑には驚く程大きなヘビが姿を見せた」
 大きな蛇は即ち、水を司る「龍神」の象徴。農業に欠かせない「水」の守り神。境内には龍神池が2ヶ所ありました。

◇「家の壁には文字が書かれ、 それは十二山の神、 大山祇大神と読めた」
 「十二」は山の神が好む数。大山祇大神は山の神と同一神といわれる神様です。
 山の神は山民と農民とではその受け止め方が違いますが、農民が崇める山の神は、ふだんは山の中にいて、農繁期になると山から降り、豊作をもたらし、収穫が済むと山へ帰って行く・・というもので、先祖の霊と同一視されている神様です。 ⇒拙記事へ。

 ー こうしてみると、この高増神社は、地域の五穀豊穣、農業発展を願った安田健之助翁の思いがこめられた社であるといえそうです。

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神意を受けて「高増神社 1」ーつがるみち104

 神社の由来や縁起には、様々な伝承がありますが、その中には、「我を祀れば御利益あらん」という祭神のお告げがあり、建立された社も少なくありません。
 夢枕に立った祭神のお告げを聞いたのは、藩主や領主のみならず、その土地の豪農、豪商、あるいは村人だったり、いろいろです。
 板柳町の高増神社もそのひとつで、地域のりんご作り農家の方が、その「神意を受けて」建立した神社です。

高増神社福寿門


 この高増神社の境内には温泉が湧き出ていて、「不動の湯」という浴場があります。この温泉も神様のお告げによって発見されたのだとか。。
 鳥居の前の説明板
説明板
には「家内安全」「商売繁盛」「地鎮祭」などと書かれていますが、この神社は「子宝の神様」としても多くの信仰を集めているとのことです。

 お寺の山門と見間違うような福寿門。
福寿門
屋根雪のために通り抜けることはできませんでした。こちらは門の前の狛犬
狛犬
です。

 境内の中に入ると、赤い鳥居の奥に
境内の鳥居
ひとつの石像が立っているのが見えたので、何だろうと思い、近づいて見るとそれは弘法大師
弘法大師像
でした。「神社なのに弘法大師?」・・不思議ですが、あの石川八幡宮でも見ました。ほんとに神仏習合の世界です。

高増神社境内


 境内の中はとても広く、どこから回ろうかと迷いましたが、先ずは社務所裏の龍神池
龍神池
の方に行ってみました。
 目をこらしてよく見てみると、池の中に龍の頭や手足、様々な格好で泳いでいる魚の石像が見えます。なかなか凝った造りです。 ⇒龍神池の中
龍神池の中


 この龍神池の隣には、鳥居がいくつか立っていて、その後ろには何体かの神様が祀られていました。
 こちらは猿田彦大神
猿田彦大神
、大きな目と高い鼻が特徴ですね。そして、こちらが天照大神と火結神(迦具土神)
天照大神と火結神
です。三体ともとても大きくて、迫力のある像でした。

安田夫妻の像


 三体の神様の隣に老夫婦の像が立っていますが、それが安田健之助夫妻
安田健之助夫妻の像
です。

 この安田健之助という人が、この神社を勧請した人物ですが、その建立に至るまでには、次のような不思議な出来事があったとされています。

 【安田健之助翁が、りんご生産に専念していた昭和三年の春頃より、不思議な事が起り始めた。庭の立木に一尺二寸、高さ三尺位のお堂が紅白の縄で結ばれていた。誰の仕業か話合っていると、夜ともなれば大男が姿を現し、床に長さ一尺八寸、巾が九寸位の大きな足跡を見せた。度重なる出来事に夜も眠れぬ日が続き、畑には驚く程大きなヘビが姿を見せたり、家の壁には文字が書かれ、それは十二山の神、大山祇大神と読めた。※青森県神社庁HPより

 その後、家の壁に「タユ (神主)タノム」、即ち、「我を祀れ」と書かれていたために、安田健之助は立木にあったお堂を自分の家の床の間に祀ることにしたのですが、いつの間にか、そのお堂は元の立木の場所に戻っていた・・ということです。
 それを見た安田健之助は、それならばその場所に社殿を建立しようと思い立ち、地域の方々の協力を得て、昭和7年に完成したという分けです。

                      ー 次回へ続きます。

                              ☆つがるみち☆
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 あっという間に師走になりました。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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