
今回は、五所川原市金木町嘉瀬(かせ)の稲荷神社を訪ねましたが、集落の橋の上に、盆踊りに興じている農民の姿を描いた人形?が置かれていました。「嘉瀬の奴踊り」です。

この嘉瀬の奴踊りは、奥津軽の名物のひとつで、青森県の無形文化財にも指定されていますが、嘉瀬に約300年前から伝わる盆踊り唄です。
旧金木町の新田開発は、主に元禄年間(1688~1703年)になされましたが、【嘉瀬の奴踊りは、この開拓事業の成就祈祷の「願人坊」が、田植時期に、出雲大社や住吉大社の神事である「田植踊り」を勧進して、金木新田の田植踊りとしたもので、日本の北限に現存している貴重な、しかも、他に例のない動きをもつ、特異な田植踊り】といわれています。
唄は、「♪さあさこれから 奴踊り踊る(ソラ ヨイヤナカ サッサ)・・」とテンポよく進んでいく分けですが、その歌詞の中に「♪嘉瀬と金木の間の川コ 石コ流れで 木の葉コ沈む」というのがあります。実はこの歌詞は、「誠実な者は恵まれず、狡猾なものがはびこるのは残念なことだ。この世の中は逆さまだ」と藩政時代の社会を風刺したものといわれ、次のような伝承が残っています。
ー 弘前藩4代藩主・津軽信政は、新田を開発し、米の増収を図ろうと、藩士まで投入し、開墾に力を入れていましたが、多くの藩士は「武士」の面子もあり、積極的ではありませんでした。【しかし、鳴海伝右衛門は、妻子と奴の徳助をつれて嘉瀬に住み、近隣の百姓たちと共に藩主の命令に従い、開墾に熱意をもち、昼夜の別なく総力をあげ、数年後には三石町歩の良田を造成することに成功しました。ところが、ある年に金木御蔵に年貢米を納めに行った際、かつて同僚であった者(要領よく立ち回った者)が金木御蔵の役人として出世しており、伝右衛門を見る目が意外にも冷たく、腰抜け武士の典型よと冷笑されてしまいます。以来、伝右衛門は次第に懐疑的になり、日がたつにつれて沈みがちになっていきました。】
主人思いの奴・徳助はこのさまをみて、恵まれない主人をなぐさめようとして、即興的に節をつけて歌い踊ったのが、この奴踊りの始まりで、【徳助は、秋の取り入れの振舞酒の席や、月見の夜など自ら踊り、主人の不遇をなぐさめました。この奴徳助の心遣いに、伝右衛門は心から喜んで、自分でもこれを唄って踊りました。これが藩主の知るところとなり、やがて二人を弘前のお城に呼び、御前で唄い踊らせたところ、ことのほか喜ばれて賞讃されました。それからは、村人も踊りを習い、お祭りやお盆には村をあげて踊るようになりました。】と伝えられています。
※【】は、五所川原市HP他を参考にしました。
ー 「石コ流れて木の葉コ沈む(世の中逆さまだ)」という歌詞には、苦労しっぱなしで恵まれない農民達の思いも詰まっているのかも知れません。
⇒奴踊りモニュメント ※画像複数

さて、嘉瀬地区は同じ金木町の喜良市と境を接している所ですが、喜良市同様、ここにも鳥居に鬼を掲げている神社があります。
稲荷神社もそのひとつですが、この神社は嘉瀬駅のすぐ近く、境内の横を津軽鉄道が走っていました。青森県神社庁HPには、【創立年月日不詳であるが、 「神社微細調書」 (安政二年八月) に依ると、 寛永十年再建と記載してある。 】と紹介されています。
御祭神は、もちろん稲荷神・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、お使いのキツネたち も大小合わせて4体ありました。
ここにもまた、杉の木の大木があり、神木として祀られています。境内の説明板によると、高さが25m、幹回りが4mほど、樹齢はおよそ450年とのことです。境内には、たくさんの杉木立がありますが、この神木は ひときわ高く、拝殿に長い影を落としていました。
◇稲荷神社境内 ※画像はクリックで拡大します。






鬼ッコは二の鳥居に掲げられています。今まで、般若のような鬼らしい鬼や、力士のような、どちらかというと人間に近い鬼など、様々な鬼を見てきましたが、この神社の鬼は山伏風の姿をしています。
鳥居の鬼には、その地域の願いみたいなものがこめられていて、それがそれぞれの鬼ッコの顔や姿に表れていると思うのですが、嘉瀬の村人は、どんな思いでこの鬼を掲げたのでしょうか。
黒と赤、そして青い色が鮮やかな、少し上目づかいの若々しい鬼です。その表情は、何となく健さん(高倉健)にも似ているような・・。健さんに叱られるかも知れませんが。。
⇒嘉瀬稲荷神社鬼ッコ ※画像複数
☆つがるみち☆



平野部と十三湊を結ぶ交通の要所としても栄えた所で、戦国時代には、浪岡北畠氏の家臣であった朝日氏が城を構えていた場所でもありました。
この飯詰城(高楯城)は、天正16年(1588年)に津軽為信の攻撃を受け落城した分けですが、その落城にまつわる悲話は、様々なかたちで語られ(白米城の話、朝日氏の亡霊の話、奥方の逃避行の話など)、残されています。
⇒拙記事「飯詰城」 ⇒拙記事「実相寺」

そんな飯詰集落の中心に長円寺があります。山号は「太伊山(たいいざん)」、曹洞宗の寺院です。
このお寺の創建は不明ですが、弘前市長勝寺の聖眼雲祝和尚(長勝寺十四世)が開山したと伝えられています。本堂には本尊である釈迦牟尼佛と、脇侍として文殊菩薩と普賢菩薩が祭られています。
境内には、県の重要文化財にも指定されている鐘楼堂や六地蔵尊堂などの他に、数え切れないほどのお地蔵様や仏像、石像が立っていて、圧倒されます。中でも、ひときわ目を引くのが、たくさんの弟子達 に見守られながら横たわっているお釈迦さま。
この大きな石像は、釈迦が入滅した姿を描いた、いわゆる涅槃像ですが、このように上を向いている涅槃像は、あまり例がなく、とても珍しいということです。それにしても大きな体、大きな足です。

境内のもうひとつの巨像が聖観世音像で、「幸福(しあわせ)観音」と名づけられたこの観音様は、「その優しい御面相を拝む人々みんなが幸せになって貰いたい」という願いから、平成8年(1996年)5月に安置されたとのことですが、遠方からも幸せを祈願する大勢の人々が訪れるということです。
本堂を背にして、すっくとそびえているその姿は、とても壮観ですが、この観音像や鐘楼堂の周りには、千体地蔵尊 をはじめ、たくさんのお地蔵様や仏像が立ち並んでいます。よく見ると、子ども(童姿)のお地蔵様が多く、年長の者が年下の者を優しく包んでいるといった像もありました。そんな様子が、この境内全体を優しい雰囲気にしているのだと思います。⇒幸福観音を囲む地蔵 ※画像複数
◇長円寺境内と本堂 ※画像はクリックで拡大します。






さて、以前にも少しご紹介しましたが、この長円寺の梵鐘には、次のような伝説があります。【昔、長勝寺と長円寺に納めるために、二つの雌雄の鐘が、京都から津軽へ送られてきた。しかし、十三湊へ入ったとき暴風雨になり、雌鐘は湖底に沈んでしまった。今でも長円寺に納められた雄鐘をつくと、その鐘は十三湖の雌鐘を慕って「十三恋しやゴーン」と響き、それに応えるかのように湖底からは「長円寺恋しやゴーン」という雌鐘の音が響くのだという。以来、十三湖は沈鐘湖とも呼ばれ、今でもよく晴れた日に、漁夫が水中の鐘を見かけることがあるという。しかし、人の気配がすると鐘の中から魚のようなものが現れて、たちまち泥をかきたてて見えなくなってしまうのだという。※『青森の伝説』角川書店】
この梵鐘は、 正徳6年(1716年)に京都で名工といわれた近藤丹波藤吉が鋳造したもので、高さ127cm、口径77cm、厚さ8cmの青銅造りで、四方に、笛、太鼓、笙、琵琶を奏する四人の天女が 刻まれており、その音色の美しさと合わせて名鐘といわれています。私は、昨年の夏に十三湖 を訪ねたとき、このもの哀しい伝説を知り、長円寺を訪ねたいと思っていましたが、今回、思いが叶いました。
なお、この梵鐘は、寛永の頃に、異国船に備えるための大砲鋳造用として、さらには、昭和18年、太平洋戦争中に行われた金属回収と、2度に渡って徴用されましたが、村人の切願によって供出を免れたといわれています。 ー 地元の人々に愛され続けてきた鐘だった分けです。
☆つがるみち☆



その由緒については、【創立年月不詳、 大同年中の言伝えあり。 明治六年四月廣峯神社に合祭。※青森県神社庁HP 】とありますが、詳らかではありません。
御祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)ですが、この神様は【建御雷之男神(たけみかずちおのかみ)と関係が深いとされ、両神は対で扱われることが多い。有名な例としては、経津主神を祀る香取神宮と、建御雷之男神を祀る鹿島神宮とが、利根川を挟んで相対するように位置することがあげられる。神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、刀剣の威力を神格化した神とする説などがある。※wikipedia】とされ、国の平定を成し遂げた戦いの神様のようです。
「大同年中」の創建という言い伝えがあるところをみると、この神社にもまた、坂上田村麻呂の蝦夷討伐の伝承が残っているのでしょうか。
境内には、五所川原市の指定名木である大ケヤキの巨木がそびえ立ち、二十三夜塔をはじめ、庚申塔なども祀られていました。
拝殿の隣に注連縄が張られたところがありますが、そこには小さな石像があります。よく見てみると、それは、亀に乗った女神型の水神・水虎様 でした。
◇香取神社境内 ※画像はクリックで拡大します。






さて、名木・大ケヤキは、高さが25m、幹回りは5.6mと紹介されていますが、高さはともかく、見た感じでは、幹はもう少し太いと思われます。樹齢は不明ながらも200年以上は経っているとのことですが、これもまたもう少し年月を経ているのではないでしょうか。
幹に大きな瘤がいくつもあって、その姿形から「乳さずけ」の神として信仰されていたようで、根元には、かつての祠の跡らしきものもありました。辺りを圧倒する老木・名木です。
⇒香取神社ケヤキ ※画像複数

住所は板柳町になっていますが、ここは香取神社とは、ほんのわずかの距離です。⇒香取神社と八幡宮
この神社は、かつては、五輪代村正八幡宮と呼ばれていたようで、【「文珠坊、寛永二年同所開発の砌一柳の辺に長三寸の異体の像を得、 其場を用い社地とし一宇修造し湯立を捧げ正八幡也という神託あり故に氏神とす」 とある。 神社の建立は承応三年で、 当村の草分け打越常左衛門の建設という。※青森県神社庁HP】とされています。

民家に挟まれた参道を歩いて行くと、辺りがパーッと開け、広い境内へと出ます。ここもまた、神社の背後には水田が広がっていました。
雪解けを待っていたのでしょうか、近所の方達が、いっしょうけんめい境内の整備をしていました。きれいに掃き清められた気持ちのよい神社です。ここの狛犬は、でっぷりとしていて、なかなか貫禄があります。
◇五林平八幡宮境内 ※画像はクリックで拡大します。






鬼ッコは、扁額といっしょに一の鳥居に掲げられていました。鳥居と同じ石造りの鬼です。
目も鼻も大粒で、口元からは、これも大きな歯(牙)が、にょっきりと飛び出しています。その耳は、横に広がっていて、とても特徴があります。体全体がガチガチで、とても「力が入っている」という感じで、その肩で、必死に鳥居を支えているように見えました。
⇒五林平八幡宮鬼ッコ ※画像複数
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中には、鳥居や小さな祠といっしょに、たくさんの庚申塔や二十三夜塔 がある場所もあり、ときどき立ち寄って見たりすることもあります。
今回は、五所川原市沖飯詰の八幡宮を訪ねましたが、道の途中に、小さな鳥居と小さな祠のそばに、形の良い松が生えている場所がありました。辺りは見渡す限り田んぼが広がっており、その姿形が引き立って、とても美しく見えます。
この松は、通称「沖飯詰の松(おきいいづめのまつ)」と呼ばれるクロマツで、五所川原市の指定名木 にもなっているものですが、高さ約10m、幹回り6.8m、樹齢はおよそ400年という老松です。
標柱に記されている説明によると、この老木は【もとからここにあったのでなく、かつての大洪水で飯詰から流されてきて、ここに根づいたもの。この辺り一帯が洪水で水浸しになった際、飯詰から見れば沖合にあたることから、村人は「沖飯詰」と命名した。】 ー 大雨による岩木川の氾濫は、あたかも平野部に海が出現したかのようだったということがよく分かります。この老木は、「沖飯詰」という地名の起源を物語るものとして祀られている分けです。
◇沖飯詰の松 ※画像はクリックで拡大します。






五所川原市の鬼ッコめぐりのひとつとして訪ねましたが、車を停める場所がなく、例によって、近くの民家の庭先をお借りしました。ご主人は快く許可してくれましたが、「鬼見にきたのが・・こないだも(この間も)、だれだが(誰かが)来て見でったやー。そったらに(そんなに)めずらしいべなー。」と、にっこりと笑って話してくれました。地元の人にとっては、「鬼」は当たり前のようです。

八幡様らしく、社号標のてっぺんには鳩がとまっていました。 民家の間を参道が延びていて、なかなか奥行きがある神社です。
この八幡宮の創建の時期は、はっきりとはしていませんが、この辺り一帯の社がそうであるように、ここもまた、新田開発がほぼ整った頃(1650年~70年?)に、五穀豊穣を祈念して建立されたものと思われます。
本殿の後ろには田んぼが広がり、実りの時期には、境内はまた違った様相を見せることでしょう。
◇八幡宮境内 ※画像はクリックで拡大します。






鬼ッコは、二の鳥居に掲げられていました。逆光で、顔に影ができていたせいもあると思いますが、何となくその顔は優しい表情に見えました。
お腹も突き出ており、腕の筋肉も盛り上がってはいますが、睨んだり、威圧したりという感じではなく、穏やかに人々を見守っている・・そんな印象です。丸く黒い小さな目や虎ひげに囲まれた口元など、とても親しみやすい鬼でした。
⇒沖飯詰八幡宮鬼ッコ ※画像複数



田舎館城は、本郭・外郭・新館・東郭の四郭で構成されていたとされていますが、現在では遺構らしいものは明確には残されておらず、本郭の端であったと思われる小高い場所に城址碑が立っているだけです。この田舎館城址のそば、道を挟んだ場所に生魂神社が鎮座しています。

田舎館城は、詳しい築城年代は分かっていませんが、建武3年(1336年)頃には既に城館があったといわれています。文明7年(1475年)には、南部氏一族で浅瀬石城主・千徳政久の次子である千徳大三郎貞武が田舎館城主となったとされていて、以後、千徳氏の居城として、南部氏の津軽支配に重きをなしていた分けです。
大浦(津軽)為信によって、津軽統一への戦いが進められていた頃の城主は、5代・千徳掃部政武でしたが、政武は、石川城、浪岡城、大光寺城などが次々と落城したり、同族の浅瀬石・千徳氏が為信と同盟を結んだりした(後に同盟は破綻)中にあっても、頑として南部氏への情誼を曲げず、戦い抜いていました。そんな姿は、何となくあの高松城主の清水宗治を思わせます。
政武は、高潔な人柄で家来や領民の尊敬を集めていたといわれており、為信もその人物を惜しみ、再三にわたって降伏勧告に努めましたが、南部氏への忠誠の念が厚かった政武は応じず、やむなく為信軍は、天正13年(1585年)5月、総攻撃を行い、田舎館城は落城した分けです。この時の戦いでは、為信軍3,000に対し、城兵は、わずか330余名、全員が突撃を繰り返し玉砕したという悲壮な落城の物語が伝えられています。
城址碑が残る小高い丘は「ヤマコ」と呼ばれており、田舎館城兵330余名を埋葬した場所で、現在、そこには田舎館城400年記念碑 が建っており、後ろには往時の城を模した役場の庁舎 が見えます。
この「ヤマコ」の老木・サイカチの木は、戦死した城兵たちの墓碑として植えられたと伝えられていますが、その姿は、 落城の様子を今に伝えているようです。
このような田舎館城の「落城悲話」を、いっそう際立たせているのが千徳政武の妻・お市の物語です。お市は、これまた為信に滅ぼされた和徳城(弘前市)主・小山内氏の娘だったこともあり、政武に嫁いでからも、父の仇である為信に一矢報いたいと念じていました。田舎館城落城当時、お市は十七歳・・夫の命にしたがって泣く泣く城を脱出したとされています。
以後17年の間、お市は身を潜めていた分けですが、慶長6年(1601年)3月、清水森で執り行われた津軽統一の際の戦死者の大法要の場に、お市は侍女と共に突然姿を現します。仏前に進み出たお市は、【「それ義によって軽きものは武士の命、情けにより捨てがたきは婦人の身なり。わが夫はなはだに武名を重んじ、すみやかに戦場一葉の露と身をなし給う」と一巻の文を、朗々と読み上げた。『津軽一統志』】 ー そして、短剣を取り出して自ら胸を突き刺し、慕う夫の後を追って自害したといわれています。
お市自刃の地である清水森には、彼女を祀る祠が建てられ、政武とお市夫妻の霊が弔らわれているとのことです。

さて、生魂神社は、その縁起によると【人皇五十一代平城天皇の御代、 大同二年 (八〇七) 四月四日坂上田村麻呂将軍建立と伝えられる。 ※青森県神社庁HP】とあり、古くから田舎館城下において、信仰を集めていた社だったようです。御祭神は「生魂神 (いくむすびのかみ)」で、この神様は【「延喜式」にみえる神祇官八神のうちの一神。物を生産する能力を神格化したもので、天皇の守護神として宮中の鎮魂祭などの祭神とされた。※kotobankより】ということですが、イクは「活」、ムスは「産」であるために、物を活発に産み出す霊力をもつ神とされています。

拝殿の中に由緒を記した額 が掲げられていますが、それによると、【田舎館城落城の際、兵火により炎上したが、不思議あると知り、為信公、御仮殿を建立・・】とあります。この「不思議ありと知り」が何を意味するのか定かではありませんが、戦国に限らず、勝者が敗者を祀ることは古来から行われてきたことで、あるいは滅んだ千徳氏の霊を鎮めるための建立だったのかも知れません。また、それは、千徳氏に代わって、新しく支配することになった土地の人心の安定を図ったものとも思われます。
さらに、2代藩主・信枚は、その後、社を再建し、【鬼板に津軽藩の紋である「卍」を付けたが、 それは現在に至るまで社紋として用いられている。】とのことです。
「卍」は、古くは坂上田村麻呂がその霊力によって、岩木山麓の悪鬼(蝦夷)を滅ぼしたとされていたり、為信が旗の紋に用いたところ、津軽統一の念願が叶ったとされ、津軽藩の象徴ともいえる紋章ですが、その大事な御紋を、この神社の社紋として与えたところをみると、藩の経営上、この田舎館の地が重要視されていたことが分かります。
境内には、もうすっかりお馴染みになった金属製の注連縄や、大きな牛の石像。本殿の隣には「千徳掃部追悼碑」が建てられていました。
◇田舎館・生魂神社 ※画像はクリックで拡大します。





☆つがるみち☆



今回は、五所川原市内の鬼の棲む八幡宮を二つ訪ねました。
唐笠柳(からかさやなぎ)八幡宮は、【創立年号は不詳である。元禄二年藩主信政公五所川原新田開発成就につき、当社へ御紋型燈篭二基、御幕一張奉納せられる。元禄四年六月信政公当社へ御社参せられ、御太刀、御馬奉納される。※青森県神社庁HP】とされているので、弘前藩4代藩主・津軽信政(1646年-1710年)の時代には、既に津軽氏や多くの地元民の崇敬を集めていた社のようです。

今の時期はどこの神社もそうですが、雪解けが終わったばかりで、境内の木々も葉っぱをつけている分けではありません。少し殺風景な感じもしますが、それだけに境内の建物や石像・石碑などもよく見えます。
八幡宮といえば鳩と馬ですが、ここの狛鳩?と神馬はとてもオシャレで、鳩のくちばしと馬の頭には、白粉が塗られていました。狛犬はマフラー? を首に巻いています。拝殿の中にはたくさんの絵馬。塀に囲まれた本殿の中にも狛犬がいました。
◇唐笠柳八幡宮境内・拝殿・本殿 ※画像はクリックで拡大します。






さて、ここの鬼ッコは、拝殿の前の専用のお堂の中に納められています。以前は鳥居に掲げられていたのでしょうか、木造の少し風化した鬼です。
その色や形は仁王様を思わせます。大きなギョロ目で睨みつけている、恐ろしい感じのする鬼です。
他の神社では、鬼ッコは鳥居にあったり、拝殿の上の方にあったりと、なかなか間近で見ることは出来ないのですが、こうして目の前の鬼を見てみると、ほんとに丁寧に彫られていることがよく分かりました。 ⇒唐笠柳八幡宮鬼ッコ ※画像複数

この八幡様については、【創建年代不詳。 『安政二年神社微細社司由緒調書上帳』 に 「広田組七ツ館村 一、 八幡宮一宇 右、 草創年月不詳候得共、 明暦年中 (一六五五~五八) 村中安全之為村中再建仕候」 とある。 明治六年四月広田神明宮に合祭。 明治八年二月復社。 ※青森県神社庁HP】とあり、やはり新田開発に合わせて勧請された社のようです。「村中安全之為・・」という文からは、この地域の守り神であったということが分かります。

参道の入口付近には、二十三夜塔などが置かれていました。拝殿の隣に赤い鳥居が建っていますが、そこには馬頭観音とともに二つの祠が建っていました。
その中のひとつを覗いて見ると現れたのは白い着物?を着た水虎様。女神形の水虎様は亀の背中に乗っている姿が多いとは聞いていましたが、ここの水虎様の足元には、確かに亀がいました。
亀は吉兆を表す生き物だといわれますが、水の神・水虎様とともに水難事故を防ぎ、豊作をもたらすものとして、その台座に彫られたものなのでしょうか。
◇七ツ館八幡宮境内と拝殿 ※画像はクリックで拡大します。







この神社の鬼ッコは、一の鳥居に掲げられていますが、実はなかなか正面から拝むことはできません。大きな米俵が、この赤鬼の体を隠しているからです。
鳥居の真下からは見えないので、少し離れた所からカメラの目を通して見てみました。斜めの位置からはその姿形がよく分かります。
長くとがった耳と、黄色いつり上がった目、大きな鼻、口からは牙ものぞいています。どちらかというと面長な顔立ちの鬼です。今まで見た鬼と違って、その両手は、しっかりと鳥居の笠木を持ち上げていました。
⇒七ツ館八幡宮鬼ッコ ※画像複数
☆つがるみち☆



青森県神社庁HPには、【建立年月日不詳であるが文政年中の勧請と伝えられている。明治六年旧小田川村立野神社へ合祭のところ同年復社同九年村社になる】とあり、江戸後期に建立された神社のようです。

一の鳥居からは、小高い山に向かって急な参道が延びています。なかなかきつい登りでした。登り切ったところが境内になっていて、眼下に平野が広がっています。
「磯崎」という名前からは、茨城県の大洗磯前神社などのように「海」を連想しますが、ここは津軽平野の内陸・・海ではありませんが、往時は、岩木川を渡る川船、溜池、そして水をたたえた水田など、この境内から眺められる風景は海に例えられたのかも知れません。
御祭神は、大己貴命と、国造りにあたって大己貴命を助けたとされる少名彦命。多くの磯前(崎)神社では、この両神がペアで祭られることが多いようです。
私が訪ねたときは、拝殿の裏側などに少し残雪もありましたが、水虎様や馬頭観音なども祀られている境内はとても静かで、落ち着いた雰囲気でした。
◇磯崎神社境内 ※画像はクリックで拡大します。






鬼は一の鳥居に掲げられています。鳥居と同じように石造りの鬼で、道行く人々を見守っているようです。
その姿からは、かつては、厳しい表情をした鬼ッコだったと思われますが、今は、だいぶ年月が経ったせいか、その角もその頭も丸みを帯びてきているようです。
しかしながら、つり上がった眉や、大きな「への字形」の口、筋肉質のひきしまった体などは、なかなか威厳を感じさせてくれます。
⇒磯崎神社鬼ッコ ※画像複数

余談ですが、「熊野宮(神社)」と名のつく社はとても多いです。岩木山麓から津軽半島の端っこまで広がっています。根強い熊野信仰の現れでしょうか。
ここ種井の熊野宮は、閑静な住宅地の中にポツンと鎮座していました。青森県神社庁HPには、【創建年号は不詳である。 明治六年田川八幡宮へ合祭の処、 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。 】とあります。

かつては、もう少し広かったのかも知れませんが、こじんまりとした境内には二十三夜塔なども建てられていました。一の鳥居をくぐり、左に折れたところに二の鳥居、その先に拝殿があります。
この拝殿のわきに赤く塗られたお堂があったので、覗いてみたら、これまた赤い石像がありました。女神姿の水虎様です。この神社から少し進んだところは岩木川、昔は水害にも悩まされてきたのでしょう・・水神様が祀られている理由も分かります。
この二体の水虎様、以前はその周りが朱色で装飾されていたようです。きっと鮮やかな色をしていたのだと思います。女神型の水虎様は、亀の上に乗っているものが多いとされていますが、一体の台座は亀なのでしょうか。。
◇熊野宮境内 ※画像はクリックで拡大します。






さて、ここの鬼ッコは、どちらかというと小粒な赤鬼です。ですが、しっかりと口を閉じ、大きな目をつり上げて睨んでいる、といった感じです。
木造のせいか、体にひびが入っていますが、それがまた貫禄を感じさせます。体の大きさに比べて、頭(顔)がとても大きく造られており、「鬼らしい鬼」に見えます。また、指先の爪が鋭くとがっているところなど、なかなか凝った造りの鬼ッコです。
⇒熊野宮鬼ッコ ※画像複数
☆つがるみち☆ ☆水虎様☆



この神社もまた、「津軽北斗七星神社」のひとつですが、実は、弘前市内には、「小北斗七星」とも呼ばれる七神社(弘前七神社とも)もあるといわれていて、津軽の大北斗の中に、小北斗も隠されている・・といわれています。その小北斗の中には弘前東照宮や大杵根神社など、現在は廃社になっているものもありますが、この熊野奥照神社は、大北斗にも小北斗にも名前を連ねていて、ある意味、北斗信仰の中心となる社ともいえそうです。

この神社の縁起等については、以前の記事をご覧いただければと思います。(前の記事と少し重複します)「熊野神社」や「熊野宮」と呼ばれる社は津軽地方に数多くありますが、ここは、そんな熊野信仰の中核となる社です。
藩政時代には、茜町の熊野宮とともに、熊野三所権現にも例えられた他、【大同2年、坂上田村麻呂が鳥居を建てたとか、津軽国中に七社を建立して武器を伏せ、将軍が常駐するように秘法を残した。※小館衷三『岩木山信仰史』】とか、北斗七星伝説も、その縁起の中に語られています。拝殿の中に納められている巨大な奉納額?は、この神社の古い由緒を物語っているようです。
◇熊野奥照神社・拝殿、本殿 ※画像はクリックで拡大します。






その後、扇野庄(現弘前)に遷座し、「高岡熊野宮」とも称された社が現在の熊野奥照神社なのですが、すぐに遷座が成った分けではなく、一時期、御神体は別の社に預けられたと伝えられています。

その神社が、弘前市堅田に鎮座する熊野宮です。その由緒には、【当社創建立年月不詳と云えども、熊野奥照神社、上古斧杭より、扇庄に遷座の時当社地に暫く休み給ひし、神興掛石と云う大石あり、今に存せり当地に社殿を建立して以来産土神社として深く崇敬せられて年々の祭事絶えず今日に至る。※青森県神社庁HPより】とあり、熊野奥照社との深いつながりが分かります。
◇堅田・熊野宮境内 ※画像はクリックで拡大します。





由緒では、「神興掛石」という大石があった・・とされていますが、探せませんでした。注連縄が張られた本殿の磐座 が、神石だったのでしょうか。。
☆つがるみち☆



この神社は、旧名・小田川村と呼ばれた地域にありますが、【建立年月日不詳であるが寛文十二年の再建とある。 明治六年村社になり明治四十二年七月一日幣帛供進神社になり昭和二十五年九月十九日境内地譲与になった。 ※青森県神社庁HPより】とあります。先回訪れた熊野宮と川上神社のいずれの縁起にも、【明治六年旧小田川村立野神社へ合祭された】とあるところをみると、この立野神社は、この地域一帯の中心となる社であったようです。

ところで、先回、金木町には「十二本ヤス」をはじめ、名木が多いということを少し紹介しましたが、それは即ち、町全体が古木・老木の保護に力を入れているからで、名木の側には説明板が立っており、樹齢等について、分かりやすい説明が記されています。
熊野宮の隣にあった地蔵堂のクロマツや境内のイチョウの木など、印象に残るものばかりでした。この立野神社にもいくつか御神木がありましたが、中でも、樹齢500年といわれる「センの木」も町の名木に指定されているようです。
ハリギリ(針桐)とも呼ばれるセンの木は、日本では北海道を中心に多く分布するとされていますが、その特徴として、【肥えた土地に自生するので、開拓時代はこの木が農地開墾の適地の目印であった。※wikipediaより】といわれています。ー この神社のセンの木もまた、一帯の農地開拓の目印だったのでしょうか。
⇒金木町名木 ※画像複数

さて、この立野神社の御祭神は、級長津彦命と級長津姫命ですが、初めて知った神様で、恥ずかしながら私は読めませんでした。
級長津彦命(しなつひこのみこと)は、【『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。神名の「シナ」は「息が長い」という意味である。古代人は、風は神の息から起きると考えていた。※wikipedia他より】ということで、「風の神」な分けです。
風は、太陽や水とともに、稲作にとって欠かせないもので、暴風は大きな被害をもたらすため、各地で暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになったとされています。
ここ金木町の辺りも、以前は日本海はもちろん、岩木川や十三湖も今よりもずっと内陸に入り込んでいた分けで、時として強風にさらされることも多かったと思われます。加えて、稲の穂が出始める頃の「やませ」と呼ばれる冷たい北東の風による冷害や、刈り入れ時の台風による被害などは、農民を苦しめ続けてきたのだと思います。
◇境内の様子です。 ※画像はクリックで拡大します。






鬼は、一の鳥居にでーんと座っていました。大きく張り出したお腹を持てあますように、両足を投げ出し、ゆったりと堂々と居座っている・・そんな感じの赤鬼です。貫禄十分といったところでしょうか。
その姿は修験者のようにも、その顔は獅子頭のようにも思えます。大きな存在感のある鬼ッコでした。
この神社の御祭神が「風の神様」ということもあってか、私にはこの鬼ッコが、よく目にする「風神」のようにも見えました。この鬼は、地域の風の守り神として掲げられたのかも知れません。
⇒立野神社鬼ッコ ※画像複数
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中でも金木町の神社には、なかなか味わいのある面白い鬼ッコがたくさんいますが、その金木町の喜良市(きらいち)を訪ねました。以前にご紹介した奇木「十二本ヤス」のあるところです。
十二本ヤスは、道路沿いからしばらく走る山の中にありましたが、この喜良市の集落の中心部に熊野宮と丹生川上神社 という二つの社が鎮座していて、どちらの神社の鳥居にも鬼が掲げられています。

熊野宮は、【建立年月日不詳であるが当村草創のとき建立天正十二年再建。明治六年旧小田川村立野神社へ合祭のところ同八年復社同九年十二月村社になる。 ※青森県神社庁HPより】とあり、戦国時代の末期にはこの地域の産土社となっていたようです。
御祭神は、多くの熊野神社同様、伊邪那岐命・伊邪那美命・事解男命です。事解男命(ことさかのをのみこと)は、黄泉平坂における伊弉諾尊と伊弉冉尊の別離の時、伊弉諾尊が別れを告げた際に、その唾から速玉男神(はやたまのをのかみ)が生まれた後、掃き払ったときに生まれた神です。「掃き払う」ということは、「身についた穢れを落とす」ことにつながることから、この神は魔除の力をもつ神とされ、伊弉諾尊、速玉之男神と共に熊野神社に祀られることが多いとのことです。
金木町を回ってみると、いたる所に「名木・神木」があり、その説明板が立てられていますが、この神社の境内にも注連縄が張られた御神木が何本かありました。いずれも樹齢が300~500年のもののようです。⇒熊野宮御神木 ※画像複数
また、狛犬 など神使が頬被りをしている姿は、この金木町特有のものですが、ここでは、手水舎の足元にあるチビ狛犬 にも手ぬぐいがかけられていました。
◇拝殿の様子です。 ※画像はクリックで拡大します。






さて、鬼ッコの中にはいわゆる「力士型」といって、お相撲さんの姿をしているものも多いのですが、ここ熊野宮の鬼は正に関取。力士そのものです。
髷を結った頭に白い肌。眉もその目も優しい感じで、白い歯が印象的です。米俵の上に掲げられた様子は、豊作を共に喜び合っているようです。
⇒熊野宮鬼ッコ ※画像複数

御祭神は水波女神です。水波女神(ミヅハノメカミ)は、罔象女神(みつはのめのかみ)とも呼ばれ、闇おかみ神や高おかみ神と並ぶ代表的な水神とされています。
灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神を祭るこの神社も、農業にとって欠かせない水の安定した供給を願って建てられたものなのでしょうか。

「丹生川上神社」といえば、奈良県吉野郡の社が有名ですが、ここは、その末社といえそうです。
境内には、御神木の根元にたくさんの庚申塔などが、まとめられて置かれていました。
ここでもまた、狛犬や神馬達が頬被りをしていますが、何と、石燈籠にも手ぬぐいが巻きつけられていました。寒さから燈籠を守る・・という分けではなさそうですが。。ちょっとした遊び心かな。
◇拝殿ほか ※画像はクリックで拡大します。






一の鳥居に掲げられている鬼ッコは、ここも「力士型」です。熊野宮の柔和な鬼とは違って、目をつり上げ、厳しい表情をした赤鬼です。
頭部が少し欠けているので、よけいに険しい姿に見えるのかも知れません。相撲に例えていうならば、熊野宮の鬼は勝負が終わって安堵している鬼、こちらは、これから勝負に臨もうとしている鬼・・そんな感じがします。何となく、ピリピリした緊張感が伝わってくるようです。
⇒川上神社鬼ッコ ※画像複数
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さらにはまた、猿田彦大神の碑、庚申塔、二十三夜塔、観音像などたくさの石碑もよく目にします。大きな神社ばかりではなく、決して広いとはいえない小さな社の境内にも、それはあります。
それぞれの時代に、それぞれの人々が、それぞれの信仰の証を村の産土社に祀った結果、地域の鎮守の杜が出来上がるのだと思います。富野猿賀神社の帰り道に立ち寄った中泊町豊島の熊野宮もそんな社です。

この熊野宮は豊島地区のはずれにあり、そのすぐそばを岩木川が流れていて、高い堤防が築かれています。
御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命ですが、その由緒については、【創立年月日不詳であるが、元禄十三年に再建したと「神社微細調書」に記載してある。享保七年岩木川洪水により堤防決壊したので、同十三年現地に移転した。※青森県神社庁HPより】とあります。「暴れん坊」の岩木川は、この地においても、たびたび氾濫し、村人を苦しめたようです。
拝殿の左横(向かって)に御神木があり、その前に三つの石碑が建てられています。
ひとつはおなじみの庚申塔。【庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。※wikipediaより】で、古来、各村では庚申講(庚申待ち)という一種の社交の儀式が行われるのが常でした。これは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、60日ごとにやってくる庚申の日に夜通し眠らないで、塔のそばで勤行をしたり宴会をしたりする風習です。
二つ目は、これもよく目にする猿田彦大神の碑で、三つ目は猿田彦とともに、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の名前が刻まれた碑でした。
天鈿女命はいうまでもなく、天照大神を岩戸から導き出した神であり、天孫降臨の際、天照大神の使者として国津神の猿田彦の名を問い正したとされる神です。猿田彦は、ニニギノミコトの天降りの道案内をしたことから、道祖神として崇められている分けですが、「庚申=カノエサル=猿」ということから、猿田彦と庚申塔はそろって建てられていることが多いようです。 ー この神社の境内でもそんな庚申講を思わせる儀式が行われているのでしょうか、そんな「あしあと」が残っていました。木に架けられた絵札に描かれているのは岩木山。 津軽ですね。。

拝殿の右の方には三つのお堂。 順番に覗いてみました。一番左側は、水難防止の神・水の神の水虎様 です。すぐそばを岩木川が流れていることを考えると、この水神を祀っている理由もよく分かります。高おかみ神社同様、ここの水虎様も河童姿ではなく、女神様 でした。
真ん中は稲荷大明神。 稲荷様は、豊饒神・宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)で、春になると山から里に下りてきて田畑の豊作をもたらす神様と考えられていて、人々は古くから春になると、この神を迎え、収穫を終えると初穂を捧げて神に感謝したとされています。キツネは、その稲荷大明神のお使い。祠の中には、神様と神使 が仲良く祭られていました。
右側は馬頭観音 のお堂でした。馬は牛とともに、農業にとってはなくてはならない大事な働き手で、農民にとっては神ともいえる存在だった分けで、それを崇める気持ちはとても強いものがあり、こうして観音様 として祭られるようになったのだと思います。

さて、私がここ熊野宮を訪ねようと思ったのは、実はここにも鬼ッコが掲げられていると聞いたからです。
真っ白い壁の拝殿の上、扁額の横に、その鬼はいました。鬼というよりは「修験者」を思わせる姿です。
頭部は少し欠けていますが、大きく見開いた目や、右手の拳をしっかりと握りしめた姿からは、力強さ、意志の強さみたいなものを感じます。
⇒豊島熊野宮鬼ッコ ※画像複数
この熊野宮の後ろには、見渡す限り田んぼ が広がっていました。
ー 小さな境内に祀られている水の神・水虎様、豊作の神・稲荷様、人々の労働を手助けし、見守る馬頭観音と鬼ッコ・・・それらは五穀豊穣を願う地域の信仰の現れなのだと思います。
☆つがるみち☆



以来、地域の精神的な拠り所として敬われてきた分けですが、例年旧暦8月に行われる大祭は「猿賀大権現例大祭」 と呼ばれ、多くの参拝客で賑わうとのことです。
般若寺の本堂 の手前には弁天宮があり、弁財天が祀られています。いくつかの鳥居 をくぐると神社の拝殿の前にたどりつきます。
※画像はクリックで拡大します。





ここ富野猿賀神社は、200年前に分霊を受けたときから変わらずに深砂大権現を御祭神としてきた分けですが、社号標をはじめ、拝殿前の扁額、あるいは拝殿の中の奉納額にも「深砂(沙)」の文字が刻まれていて、その歴史と信仰の深さが伺えます。
⇒深砂大権現 ※画像複数
横長の拝殿 には、たくさんの奉納額をはじめ、絵馬、草鞋などが納められていました。中には、こんな権現様(獅子頭) もあったりして、ちょっとドッキリです。

さて、この神社の大きな特色は、拝殿の壁に所狭しと数多くの「船絵馬」が奉納されていることです。
【猿賀神社には、奥津軽一円から北海道松前まで広域にわたる人々によって奉納された船絵馬88枚が一括して保存されており、中里町文化財に指定されています。おもに江戸時代後期から明治時代末にかけて奉納された船絵馬は、100年あまりの歳月を経ているにもかかわらず、今なお鮮烈な色彩をとどめており、往時の水運や船体構造に関する資料として、あるいは「下の猿賀様」信仰の一面を示す民俗資料として重要な情報を提供しています。】
ー 88枚にものぼるこの船絵馬・・・内陸部なのに何故「船」?と思いますが、これはやはり、藩政時代に岩木川~十三湊にかけて水運が盛んだったことを物語っているようです。【弘前藩は岩木川流域に御蔵を設けて年貢米を納めさせていましたが、それらは春になるといわゆる「小廻し船」で十三湊に輸送され、さらに鰺ヶ沢や北海道松前などに運ばれました。岩木川から十三湊を経て鰺ヶ沢に送る輸送方法は“十三小廻し”と呼ばれました。岩木川の旧流は、富野付近で大きく蛇行しつつ猿賀神社の西側を流れ、往時は境内から大型船の帆が見えたとされています。また風のないときは綱で曳船をしたとされ、曳船用の道も富野側にあったと伝えられています。】
かつては、岩木川と十三湖が合流する地点は、突風が吹き、船が転覆することも多かったといわれています。【小廻し船の船頭たちは、川口での安全を船から見える猿賀神社に祈り、いつしか船絵馬を奉納するようになったとは考えられないでしょうか。】 ※【】はいずれも「中泊町博物館」HPからの引用です。
天保2年(1831年)~明治43年(1910年)の間、およそ80年間に渡って奉納され続けたこの船絵馬。その奉納者は、十三、小泊地区などの日本海沿いの村にとどまらず、北海道方面の方々の物もあります。このことは、十三湊交易圏の広がりを物語るものです。また、地元の農民による奉納も多く、漁業や商業のみならず、農業においても、この富野猿賀神社は信仰を集めてきた神社だった分けです。
⇒富野猿賀神社船絵馬 ※画像複数
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「地上の北斗七星」になぞらえられた七神社は、いずれも坂上田村麻呂の東征伝説に基づいている分けですが、この猿賀神社の縁起には、とり分け、田村麻呂と蝦夷の首長の戦いの話が大きく取り上げられています。
この神社の由緒等については、以前の拙記事をご覧いただければ幸いです。 ⇒拙記事「猿賀神社」

伝説によると、この地で坂上田村麻呂と戦ったのは、岩木山に住む「大丈丸」という蝦夷の長で、田村麻呂は浪岡に陣を構え(七神社のひとつ浪岡八幡宮)、岩木山、阿闍羅山で戦いを繰り広げていましたが、八幡崎(猿賀神社の一帯)の戦いでは、「田村麻呂は大丈丸と一騎打ちとなったが、大丈丸の力のほうが勝っており、もはやこれまでかと思われた。その時、何処からともなく、こもをまとった大男が現れ、大丈丸に襲いかかった。大丈丸が一瞬ひるんだ隙に田村麻呂の剣が大丈丸の胸を貫いた。田村麻呂はこの助太刀の男に尋ねたところ、猿賀の郷兵衛と名のり立ち去った。」といわれています。
この田村麻呂を助けた巨漢は、実は「深沙大将(じんじゃだいしょう)※深沙神、深沙大王とも」の化身で、田村麻呂はその勝利に感謝し、「深砂(沙)大権現」として祀ったのが猿賀神社の起こりといわれている分けです。
深沙大将は、【玄奘三蔵がインドに仏典を求める旅で、途中の砂漠で難儀をした時、出現して励ましたと伝えられる護法神(沙悟浄)。形像は腰衣だけ着る力士形の裸形像で、腹部に小児の顔を出現させ、首に髑髏(どくろ)の瓔珞(ようらく)をかける二臂(にひ)の立像である。※kotobankより】とされていますが、猿賀の伝説は、玄奘三蔵の難儀と田村麻呂の苦戦を置き換えて伝えたもののようです。
また、深沙大将は、その手に青蛇を掴んでいるとされていますが、境内の胸肩神社や水天宮の大蛇、拝殿の青龍、本殿の白龍などは、深砂大権現の象徴な分けです。
⇒猿賀神社の龍(大蛇)※画像複数

正式には「富野猿賀神社大権現」と呼ばれるこの社は、およそ200年前、文政8年(1815年)に平川市・猿賀神社より分霊され、深砂大権現を祀ったのが、その始まりと伝えられています。平川の猿賀神社は、その御祭神は現在、上毛野君田道命になっていますが、ここでは祭神の差し替えは行われなかったようです。

中泊町は、小泊村と中里町が合併してできた町ですが、旧小泊村は漁業が盛んなのに対して、この「下の猿賀さま」のある旧中里町は農業依存型の町です。
この地域もまた、江戸時代に新田開発が盛んに行われた分けですが、一帯は葦の茂る沼地が多く、その開拓は容易ではなかったようです。 ー 【湿地帯で「腰切田」とか「乳切田」といわれ、多くは深いぬかるみ田んぼ。加えてたびたび冷害に見舞われた。※中泊町HPより】
そんな先人の苦労や努力を物語るように、神社の近くには「葦の魂」という石碑が建っていました。「不撓不屈の心」ということでしょうか。。

「富野猿賀さま」 という看板にしたがって歩いて行くと、間もなく大きな鳥居 が見えてきます。鳥居の先は「般若寺」というお寺。神社はこの般若寺の境内にあります。完全な神仏混合の世界です。
般若寺の由来は、【「元和中(1615―1624)考弁と云う僧の開基」とされていますが、おそらく新田の開発が進行するなかで成立し、地域の祈願所になったものと考えられます。元文元年(1736年)に成立した富野村の検地帳には「自性院」という寺が記されています。この自性院が一時期無住になったのち、般若寺として再興したとする説もあります。 ※中泊町博物館HPより抜粋】といわれています。
本堂からは、神社への参道が延びており、その先に猿賀神社がありました。
⇒般若寺と境内 ※画像複数
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



新田の開拓にあたって、沼地の埋め立てや用水路づくりに苦心してきたことは、各溜池の水門入口付近に立っている「工事記念碑」や、「水の神様」を祀る神社が周辺に点在していることからも、そのことがよく分かります。
以前、同じ五所川原市で、大きな溜池のそばに水神「闇おかみ神」と「鬼」を祀っている闇おかみ神社を訪ねましたが、今回、は同じように「二の沢溜池」という大きな溜池のそばにあり、同じく水神を祀っている高おかみ神社に行ってみました。

集落が続く道路沿いに、ひときわ高い一の鳥居が立っていますが、道路を挟んだ向かい側に、ひとつのお堂があります。中を覗いてみると、十字の前掛けをして晴れ着を着せられたお地蔵様が、たくさん納められていました。化粧地蔵のお堂です(お化粧は、あまり施されていませんでしたが)。
幼くして亡くなった不幸な子ども達の霊を慰めているとされるこの化粧地蔵・・ここにも津軽独特の風習が残っていました。辺りの溜池などで水難事故に遭った子どももいたのでしょうか。
⇒化粧地蔵堂(画像複数)

この高おかみ神社は、【文化文政の頃当村の新岡仁兵ヱ、 其田弥太郎両人の内神を産土神として祀る。 明治六年に嘉瀬八幡宮へ合祭のところ同八年復社。 同九年村社になり明治四十年六月十二日幣帛供進神社に指定せられる。※青森県神社庁HP】とありますが、この地を切り拓いた村人の守り神であったようです。
御祭神の「高おかみ神」は、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとされる神で、「闇おかみ神」と同一神であり、「闇」は谷間を、「高」は山の上を指すとされています。「おかみ」は水を司る「龍」であることから、祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されている分けです。村人にとっては、稲作に欠かせない「水」を恵んでくれる神様だったのですね。
◇境内の様子です。 ※画像はクリックで拡大します。





拝殿の脇に小さな祠 がいくつか並んでいたので覗いてみました。そのうちのひとつに、観音様のような女神様のような 像が納められていました。実は、これは水虎様だったのです。水難で亡くなった子どもの供養と、水難事故防止祈願のために祀られたといわれる水虎様・・私は、その姿は河童 だと思っていましたが、
【水虎様は、すべて河童の形をしているわけではありません。岩木川を境にして西側には河童の形をしたもの、東側には、カメに乗った女神様の形をしたものが多いのです。河童の形をした神様も不思議ですが、岩木川を境にして形が違うのも不思議です。※HPまるごと青森「津軽不思議発見!水虎様」より】なのだそうです。確かに、ここ高おかみ神社の地区は、岩木川の東側で、水虎様が「女神形」なのも頷けます。
西と東を比べれば、西の方が土地が低い分けで、いったん岩木川が氾濫すると湿地帯が多かった西側は、被害も大きく、事故も多かったと思われます。東側も、もちろん、そうだったと思いますが、反面、水の管理・潅漑は土地が高い分大変だった分けで(大小の溜池はその証)、そういった農業用水の確保の安全も「水の神=水虎様」に祈願したのではないでしょうか。結果、女神形が生まれた・・などと思ってしまいます。

さて、鬼ッコは二の鳥居にありました。ここにもまた、農業や潅漑を手助けしてくれる優しい鬼が祀られています。全身が赤、緑っぽい「垂れ目」の鬼で、とても愛くるしい姿をしています。
私が鬼ッコの写真を撮っていると、境内の掃除をしていた土地の方が、いろいろとこの神社の由緒や、かつて、この地域を開拓した人々の話を聞かせてくれました。話の節々に、この神社やこの地域に対する愛着が感じられました。
その方の話によると、「この間も、マイクロバスで大勢の人がやってきて、この鬼ッコを見て帰って行った。」とのことです。
⇒高おかみ神社鬼ッコ(画像複数)
☆つがるみち☆ ☆水虎様☆



浪岡八幡宮です。この八幡宮は、中世に北畠氏の居城であった浪岡城入り口の向かい側に鎮座しており、浪岡城の鎮守の社でもありました。
この地の領主であった北畠氏、及び、その後の津軽氏の崇敬も厚く、藩政時代には、弘前市の弘前八幡宮、鰺ヶ沢町の白八幡宮とともに「津軽三八幡宮」と称され、歴代の弘前藩主の祈願所として敬われてきた社です。

北畠顕家の流れをくむ名族・浪岡北畠氏は、京の都にならって浪岡城の周りに、祇園・八幡・春日・加茂の四社を建立したと伝えられていますが、「祇園」は現在の廣峰神社 で、以前、長慶天皇のことを調べたときに訪れました。「八幡」はここ浪岡八幡宮、「春日」は現在は廃社になっています。「加茂神社」は、現在の五本松地区にある社ですが、私が訪ねたときは、まだ境内の雪が深く、離れたところから、その本殿 を眺めただけでした。
この加茂神社の御祭神は「賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」で、「いかずち宮」として信仰を集めていたとされていますが、五月節句の日に行われた「加茂の競馬」は【乗馬二十人、狩衣装束黒赤色、左右各十番相双駆行し東西に埒を構え桜と鶏冠木の二本を栽へ以て勝負の木と為す】と、『和漢三才図絵』という書物に紹介されているとのことです。また、元禄10年(1697年)頃、津軽は凶作続きで、それを憂いた4代藩主・信政は、加茂明神に加護を願い、社殿の修復に努めたといわれています。
加茂神社から八幡宮まではわずかの距離。ちょうど、浪岡城址を挟むかたちで両社は鎮座しています。境内を歩いてみました。 ※画像はクリックで拡大します。








神社の境内にはつきものの土俵 もあります。実は浪岡町では、古を偲んで、毎年、お盆に「北畠まつり」 が行われているのですが、その祭り期間中にこの土俵上で、赤ちゃんの「泣き相撲大会」 が開催されます。
文字通り、大きく激しく泣いた子どもが勝つようで。。。

さて、由緒書き等によると、この浪岡八幡宮は、【大同2年(807年)坂上田村麻呂が東夷東征の際、この地に宇佐八幡宮の分霊を勧請して国家鎮護の祈願を行い祠を建立したのが始まり】といわれています。
津軽の北斗七神社には、いずれも田村麻呂の蝦夷征伐の伝承が伝わっているのですが、蝦夷との抗争の話は、岩木山周辺、大鰐・阿闍羅山、平川市・猿賀など津軽一円に残っており、ここ浪岡の地もまた、戦いの重要な拠点だったことを思わせます。もっとも、田村麻呂は津軽までは侵攻してこなかったといわれていますが。。
その後、この八幡宮は【浪岡城主となった北畠氏から崇敬庇護され社殿の修復や社領の寄進が行われ祭祀には家老赤松隼人が取り仕切っていた。江戸時代に入ると弘前藩主である歴代津軽家の祈願所となり慶長19年(1614年)に2代藩主津軽信枚が社殿を再建以降、寛永、元禄、寶暦、寛政、嘉永の改修には藩費によって賄われた。】という、古い歴史を持つ神社な分けです。
浪岡城は、1578年(天正6年)に大浦(津軽)為信の攻撃を受け、落城し、それとともにこの八幡宮も一時荒廃したと伝えられています。
余談ですが、為信の祖父は大浦政信で、南部方の武将だった分けですが、その政信は、この八幡宮に丑の刻に参拝したとき、ひとつの法螺貝を得たといわれていて、その法螺貝を鳴らすと大浦軍は「敵無しだった」のだとか。
その政信の孫の為信が津軽を統一出来たのも、この法螺貝の霊験によると伝えられています。
ー 浪岡城を滅ぼし、浪岡八幡宮を一時荒廃させた法螺貝は、実は浪岡のものだった・・。歴史の綾というか、皮肉というか。。
☆つがるみち☆

