
弘前市の紙漉町は、その名の通り、紙漉職人達のために延宝5年(1677年)に町割がなされたとされていますが、古来、この地は、湧き水が多く、清らかな水を利用した紙漉きが盛んに行われた所でした。この町に富田の清水と呼ばれる「しつこ」があります。
説明によると、【周辺は、古くから清水の豊かな所として知られ、中津軽郡富田村に所在したことから、「富田の清水」と呼ばれて来ました。貞享3年、4代藩主・信政が越前の熊谷吉兵衛を招き、紙漉き法を導入した際に、この豊かな清水が使われました。その後、地域住民の生活用水として使用され、現在に至っています。昭和60年に環境庁が選定する名水百選に選ばれ、現在は近代的に屋根や吹き放しの壁、石畳風の床などが整備され多くの人達が清水を汲みにきます。※HP「弘前市:歴史・観光・見所 」より】とあります。
中の水槽は6層に分かれているのが特徴で、【1・2番目は飲用、3番目は米・青物の洗い、洗面用、4番目は紙漉の材料や漬物を漬ける、5・6番目は洗濯、足洗い等の使用のきまりがあった※水屋の説明書きより】とのことです。
この富田の清水からほんの数m先(※町名は違いますが)に御膳水 という湧水があります。今は、枯渇しているようですが、看板には、【明治14年に明治天皇が二度目の東北地方巡幸の折、弘前市本町にある金木屋を御座所とされ、その際、お茶や食事用の用水としてこの水を使用したのが名前の由来で、また藩政時代から稲荷神社の御手洗としても使用されるなど、広く地域住民の生活用水としても利用されてきている。】とありました。 ー 現在は辺りは宅地化され、往時の様子は分かりませんが、一帯は名水の宝庫だったようです。
◇富田の清水 ※画像はクリックで拡大します。






その名の通り、御祭神は水神・宗方三女神(田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命)ですが、由緒によると、【大同2年 (807年) に坂上田村麿将軍が信仰していた辯才天を大野に勧請し、手馴れの琵琶を奉納のうえ、臣下の名川野妥女正を神主に命じ奉仕させたのが創建と言われている。寛文2年 (1662年) に、大野の地が手広となったので、現鎮座地の品川町へ遷座している。・・土手一座弁財天神社、又は弁天宮と称され、士族、町民の崇敬篤く、寛永4年(1707年)には信政公門弟の士族により末社春日宮が建立されている。明治6年、胸肩神社と改称し春日大神を合祀している。※青森県神社庁HP】とあり、元来は弁才天を祭る社だったようです。
弁天様は、【元来インドの河神であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場所に祀られることが多く、弁天島や弁天池と名付けられた場所が数多くある。そのため弁才天は、日本各地の水神や、記紀神話の代表的な海上神である市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、神社の祭神として祀られることが多くなった。※wikipediaより】とされていますが、この神社もまた、明治の神仏分離により、御祭神の差し替えが行われたのでしょう。
しかしながら、ここは古くから「弁天さま」として親しまれ、弘前のみならず津軽一円の信仰を集めてきたことは、鳥居の扁額に「辯天宮」と刻まれていることや、奉納された祈願絵馬に琵琶を持った弁才天が描かれていることからも、よく分かります。
◇胸肩神社境内 ※画像はクリックで拡大します。





水の神である三女神、弁才天を祭る社らしく、この神社の境内にも湧水があり、弘前の繁華街に面していることもあって、名水を求めて、たくさんの人々が訪れます。
水屋の中には、小さな鳥居と岩木山を模したような神石が置かれ、水の精・龍(蛇)神も祀られていました。龍の口からは、冷たい清水が勢いよく流れ落ちていて、その水量も豊富なようです。
◇胸肩神社湧水





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山間からこんこんと湧き出る清水は、【「しみず」と読むのが一般的だが、秋田では「しず」、山陰では「しょうず」九州地方では「そうず」とも言うそうで、その他、「きよみず」や「せいすい」とも読まれることがある。※HP「あおもり湧水サーベイ」より】ということですが、清らかな水に感謝の気持ちと愛着をこめて、「こ」をつけて「しつこ」と呼んだのでしょうか。

津軽には、「○○清水」とか「○○の神水」と名づけられた名水はたくさんありますが、とりわけ、岩木山麓は、その伏流水が湧き出るため、名水の宝庫ともいえます。岩木山神社の龍神水、弘前藩4代藩主・津軽信政を祀る高照神社の御茶ノ水、岩木町羽黒神社の霊泉、大石神社と厳鬼山神社の御神水などは、「霊験あらたかな水」として、たくさんの人々が、その御利益を求めて水汲みに訪れています。
◇岩木山周辺の「しつこ(湧水)」 ※画像はクリックで拡大します。






弘前市十腰内に鎮座している羽黒神社の御神水もそのひとつで、「十腰内のしつこ(しずこ)」と呼ばれ、地域の方々に親しまれている名水です。
十腰内は、縄文時代の遺跡が残っているなど、古くからの歴史をもつ地域ですが、岩木山の峰のひとつ厳鬼山の麓にあるこの村は、かつては、十腰内観音堂(厳鬼山神社)を中心とする山岳信仰の要の地でした。
この羽黒神社は、【元亀3年 (1572) 巌鬼山神社社司長見孫太夫勧請、寛文7年 (1667) 十腰内村丸岡治五兵衛が眼病になり信仰のおり、湧き水で洗眼したところ平癒したことにより、元禄3年 (1690) 同人によって再建された※青森県神社庁HP】とあり、近くの厳鬼山神社とも深い関係があるようです。
もっとも神社の由緒書きでは、【今から約四百年前十腰内村、時の庄屋左藤甚左衛門が出羽三山羽黒神社に参詣したところ、社の神水が北に流れているのを見て、十腰内のしずこ(泉)も北向きに流れて、目などを洗うと、良くなるので、これはきっと神より村に授かりし神の水と思い、村に帰り早速、庵を築き、十腰内羽黒神社として神を祀り、現在に至っているのであります。】とあって、その由緒は若干異なってはいます。
しかしながら、「眼病平癒」に効く・・という話は両方とも同じで、坂上田村麻呂の眼病を治したと伝わる霊泉がある岩木町宮地の羽黒神社同様の言い伝えが残っています。いずれにしても、「清い神の水のありがたさ」を伺わせる伝説です。

御祭神は、宇迦之御魂神(倉稲魂命)ですが、霊泉を有する神社らしく、「しつこ」の側には、水の神・羽黒龍神の碑、 拝殿には、龍神を描いた絵馬がたくさん掲げられていました。
この「しつこ」が、古くから愛され、信仰されていた様子は、由緒書きに次の歌が記されていることからも分かります。
ー 「よもとせに さかえし羽黒の 永遠につきぬ岩清水」 ー
◇羽黒神社 ※画像はクリックで拡大します。





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青森市内の方だそうで、同じく津軽北斗七神社のひとつ大星神社とともに、この北斗七星伝説に興味を持ち、親戚を訪ねるついでにこの神社に立ち寄ったということでした。

りっぱな注連縄が張られた鳥居をくぐると、今にも飛びかかってきそうな表情の大きな狛犬 が出迎えてくれます。燈籠も、とても大きなものですが、よく見てみると、その台座には龍が彫られていました。
参道には、恵比寿様や大黒天の石像がある神池がありますが、そのそばには龍神宮の祠が二つ並んで建っています。「金龍大聖王神」と記された祠の中を覗いて見ると、こんな神様が祀られていました。
広い境内の中には、稲荷神社をはじめ、天照皇大神、猿田彦大神、牛頭天皇などを祭っている末社がありますが、その中に戸隠神社があります。
前回お伝えしたように、この乳井神社はかつては「福王寺毘沙門堂」と呼ばれていた分けですが、鎌倉時代にこの地にやってきて、城郭や堂宇を建立した乳井氏は、もともとその先祖は信濃国・戸隠の修験僧であったと伝えられています。境内の戸隠神社は、そんな由緒を物語っているのでしょうか。
◇乳井神社境内 ※画像はクリックで拡大します。






さて、この乳井神社は、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に毘沙門天を祀ったとの伝説を持ち、一帯に大きな勢力を持っていた熊野修験・福王寺だった分けですが、その由緒は、【承暦2年(1078)に福王寺が開山したことで神仏混合し、戦国時代末期には津軽氏の庇護の元、猿賀神社の別当にもなり寺運が隆盛した。江戸時代に入ると弘前藩主の祈願所として庇護された。現在の社殿である旧毘沙門堂は、明暦元年(1655)に3代藩主津軽信義によって再建された。】といわれています。
その後、明治の神仏分離令により、社号は「乳井神社」と改められた分けですが、その際、【境内にあった仁王門や鐘楼などが撤去され、仁王門に安置されていた仁王像は黒石市の浄仙寺に移された。】とされており、この仁王像は 現在、黒石市有形文化財に指定されています。
※【】は、HP「青森県歴史観光案内所」他を参考にしました。
御祭神は、武甕槌命(タケミカヅチ)と経津主命(フツヌシ)、そして天手力男命(アメノタヂカラオ)。神話では、武甕槌命は大国主に国譲りを承諾させた神、経津主命は、刀剣の神ともいわれ、武甕槌命とともに国造りに活躍した神、天手力男命は天の岩戸からアマテラスを引き出した神です。
ー 毘沙門天、そしてこの三神と、代々「武神」を祭ってきたこの社は、治政者にとって、戦略的に重要な位置を占めていたのでしょう。

ところで、この神社にある板碑群と五輪塔は、弘前市指定有形文化財になっています。
板碑群は、【神社境内とその周辺に分布していたが、神社の墓地の板碑は昭和初期に集められたものである。13基の板碑の年代は、鎌倉時代末期から南北朝時代に造立されたと考えられ、年号のあるものは十四世紀初頭のものが多く、当地方では早い時期に属している。石材は石英安山岩が多く、種子や願文を刻むが、種子を月輪で囲むものや二重線で区画するなどいくつかの種類が見られる。】
また、五輪塔は、【この五輪塔は以前、本殿の裏にあったものである。比較的大形の五輪塔で、空・風輪は当初のものではなく、補修されている。火・水・地とも後部に破損が見られるが、押しつぶされた形の水輪の三面には種子が刻まれている。乳井城主の墓塔と伝えられるが年代が符合せず、五輪塔の年代はその規模や文献史料・板碑の存在から推定すると、津軽地方には少ない鎌倉時代の制作である。】と紹介されています。
※【】はHP「弘前の文化財」より
実は、参道や社殿前にもいくつか板碑 が立っているのですが、このまとまった板碑群は本殿の裏側、りんご畑の中にありました。
拝殿の脇の坂道を登ると地蔵堂 があり、そこから道が分かれています。案内の立て札 にしたがって小道を登って行くと、その板碑群が見えました。
私が訪ねたときは4月の中旬で天気も良かったのですが、やはりそこは墓所。。雪解けが終わったばかりで、辺りが「緑」になる前だったこともあり、何となくもの淋しい場所でした。
◇乳井神社の板碑と五輪塔 ※画像はクリックで拡大します。






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「乳井」という地名は、「災いが起こりそうなとき、その前兆で手水が白く濁る(乳白色になる)」との言い伝えからこの名がついたそうですが、この乳井の町に、「坂上田村麻呂が津軽に建立した七社のひとつで、毘沙門天が勧請され武器が納められた」と伝えられている、いわゆる「津軽の北斗七神社」である乳井神社があります。

この一帯には、かつて、乳井神社をはさんで、茶臼館と古館という城郭が築かれ、津軽の戦国時代に、その争乱の舞台ともなった所ですが、現在、その館跡は展望所となっています。
茶臼館は、高さ約60m程の丘陵地帯に築かれていた山城で、東西約150m、南北約300m位の規模だったといわれていますが、現在はりんご畑になっており、遺構らしきものは失われています。
かつて主郭があった頂上には、麓の曹洞宗・盛祥院というお堂から登山道が延びています。道端には、石仏なども立っており、りんご畑の間を縫うように延びた道を上りきった所が展望台。大鰐町、弘前市、平川市の平野が一望できる素晴らしい眺めです。
◇乳井茶臼館 ※画像はクリックで拡大します。






一方、古(ふる)館は、乳井神社本殿の裏側の小山に位置しており、境内の中を通って高さ100m位の山頂まで行くことができます。
展望台には、鳥居と観音堂?。辺りには、愛宕神社があり、小さな祠がありました。「丘公園」と名付けられているようです。ここからも、山裾いっぱいに広がるりんご畑と、水田や町並みを眺めることができました。
◇乳井古館 ※画像はクリックで拡大します。





この茶臼館と古館・・ともにその築城年代は定かではありませんが、鎌倉時代にこの地にやってきた乳井氏によって築かれたといわれています。
乳井氏は着々とその勢力を広げ、戦国時代、乳井玄蕃の代には猿賀神社の別当となり、「津軽の法師三大名」と呼ばれるほどでした。当時、南部氏は、付近に石川城や大光寺城などを築き、一帯を勢力下に収めていましたが、乳井玄蕃は南部氏にも従わず、「沙門大名」ともいわれていました。そのため、大光寺城主・滝本重行は刺客を放ち、1565年に玄蕃を暗殺。乳井氏は、所領を侵略をされることになります。
その後、大浦(津軽)為信が津軽統一を目指し、1571年に石川城を攻略したのを機会に、玄蕃の嫡子・建清は為信に臣従し、1575年の大光寺城攻めで滝本重行を津軽から追放することに成功した分けです。
しかし、1579年には再び押し寄せた南部方により、茶臼館などが落とされると建清は為信軍に従軍し、激しい戦いを繰り広げました。「六羽川合戦」と呼ばれるこの戦いでは、為信も苦戦を強いられ、家臣が身代わりとなって戦死するほどでした。今、この乳井付近を流れる六羽川には、為信の身代わりとなって戦死した武士を讃え、「津軽忠臣の碑」が立っています。合戦は結局、為信軍が勝利し、乳井氏は所領を取り戻し、南部氏との抗争に決着がついた分けです。

乳井神社は、このような激しい抗争の歴史を見つめてきた社ですが、かつては「福王寺(※乳井氏の旧姓)毘沙門堂」と呼ばれる熊野修験系統の山伏寺でした。その勢力は大鰐町から平川市にかけて、山岳一帯の広い地帯に及んでいたと伝えられています。
大鰐町へと向かう道路沿いに一の鳥居があり、そこから境内へと参道が延びています。
参道を進み、城郭を思わせる立派な門(鳥居?)をくぐったところに水汲み場 があります。「桂清水」 と名づけられたこの湧水は、昔は、神社右手にある桂の木の根元から湧いていたということから、その名がつけられたといわれています。
現在は、少し場所が移されてはいますが、津軽地方を代表する名水のひとつとして、訪れる人も多いとのことです。この「桂清水」から 参道は境内へと続いています。
ー 次回へ続きます。
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鬼沢めぐりの2回目、今回は鬼神社を再び訪ねてみました。
「鬼は内、福は内・・」という節分の風習が残る鬼沢地区、その中心となっている社、「’つの」がない扁額を掲げている社・・それが鬼神社です。
以前、訪ねたときは、大変な雨の中でしたが、今回は天気に恵まれました。
⇒以前の記事へ

鬼神社の由緒については、【当社創立年月日不詳。伝聞の延暦年中征夷大将軍坂上田村麿、東夷征討の勅命の時、岩木山頂上奥宮鎮座顕国魂の高照比売命の霊験を蒙れるにより、岩鬼山に社宇を再建すると云う。その後、大山祇命を配祀すると云う。※青森県神社庁HP】とありますが、顕国魂(うつしくにたま)命とは、大国主命を指し、岩木山神社の御祭神でもあります。
また、高照比売命(高比売命。下照比売命とも)は、神話によると「葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚した」女神とされています。
しかしながら、御祭神はともかく、この神社は古くから「おにがみさま」と呼ばれていたように、農作や潅漑の技術を教えてくれた「鬼」を祭っている社といってもいいでしょう。拝殿の屋根の下に掲げられた大きな鉄製の農具は、岩木山の鬼を神として崇め、その力を敬ってきた証ともいえます。
実は、この神社の本殿の地下室には、巨大な刀剣が隠されているともいわれていますが、その刀は何百年経っても、黒光りしたままで、まったく錆びない・・などど、鬼の神秘的な力を思わせる不思議な話も伝えられています。
不思議といえば、この鬼神社の参道。一般的な神社は、一の鳥居から数本の鳥居をくぐり、社殿まで真っ直ぐに道が延びている分けですが、何故かここでは、ぐるっと左回りしないと、そこには行き着けません。即ち、御祭神は、通りに背中を向けている分けです。境内には古い鳥居の跡なども残されているところをみると、昔からこんな道筋だったようです。まるで、鬼達を外に出させないような不思議なつくりです。
⇒鬼神社参道
もうひとつの不思議は、本鳥居(四の鳥居)に掲げられている「卍」。
卍は、津軽氏の旗印でもあり、弘前市の市章でもある分けですが、その由来は、かつて坂上田村麻呂が岩木山麓の蝦夷を征討したときに、卍を掲げたところ、その霊験によって蝦夷達は退散したといわれているものです。いわば、鬼(蝦夷)の力を封印した象徴でもある分けです。 ー 曲がりくねった参道と社殿の配置、そして、この本鳥居の卍・・次のように想像してみました。
「鬼たちよ、お前達の霊は、ここにこうして鄭重に祀ってあるから、災いを起こさないでくれ。出てきて祟らないでくれ。」
◇鬼神社 ※画像はクリックで拡大します。






しかし、鬼たちは祟った・・という分けでもないのですが、鬼を信奉するこの鬼沢の地で、後に津軽地方最大といわれる農民一揆が起こります。
それは文化10年(1813)のことで、当時、弘前藩は、度重なる天災地変や凶作が相次ぎ、おまけに幕府からは蝦夷地騒乱鎮圧の援兵を命じられていたこともあって、その財政は逼迫していました。そのために、過酷な年貢取りたてが続き、疫病の流行などもあって、農民の生活は極度に困窮し、集団で離村、逃亡する者が後を絶たなかったといわれています。生活に困窮した農民達は、ついに決起することになった分けですが、それは、鬼沢や十腰内だけにとどまらず、東青西北津軽地方にまで及んだとされています。
この一揆のリーダー格だった人物が藤田民次郎(たみじろう)で、民次郎は「義を尊び、農民の信望も篤かった」といわれています。決起にあたって民次郎は、後に妻子に害が及ぶことのないよう、離縁し、事の成就を鬼神社に祈願したといわれています。
生死をかけた農民達の勢いは止まらず、城門まで押し込み、藩士達ともみ合いになりましたが、豪勇の者達が立ちはだかったため、一進一退が続きました。その時、民次郎は進み出て、訴願状と連判状を差し出し、必死の思いで嘆願を行いました。死を覚悟した民次郎の真情に打たれた藩士は、訴願状を受け取り、藩主に取り次ぐ事を約したといわれています。
結果、当時の藩主・津軽寧親は、農民の窮状に同情し、農民への救護策を講じ、一揆は収まりましたが、城門まで乱入した大罪を見逃すわけにはいかず、その首謀者は極刑に処されることになりました。首謀者の特定は困難でしたが、このとき自ら「自分である」と名乗りをあげたのが民次郎でした。
民次郎は、城下を引き回された上、刑を受けましたが、このとき若干22歳。以来、民次郎は「義民」と讃えられ、その勇気ある行動は、長くこの地域に語り継がれてきた分けです。
現在、鬼神社の近くの小学校には「義民 藤田民次郎」の顕彰碑が立てられています。また、神社の裏側には浄土宗・龍味庵があり、お地蔵様や観音様に見守られながら民次郎は眠っています。すぐそばには民次郎公園。
なお、この義民・藤田民次郎の話は、地元の有志により、「鬼(注:’つのがない)と民次郎」 という創作劇として上演されています。
◇藤田民次郎顕彰碑ほか ※画像はクリックで拡大します。





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この赤倉の鬼達は、坂上田村麻呂軍との闘争の話とか、里の村人との交流の話とか、様々な伝説をもたらし、その足跡は、鬼沢の鬼神社、十腰内の厳鬼山神社、大石神社や鰺ヶ沢町の湯船町などに数多く残っています。

中でも鬼沢地区は、その名前が示すように、鬼伝説が色濃く残っているところで、地域の入口には、「歴史と伝説の里:鬼沢」の看板。伝説とは即ち鬼伝説のことですが、その看板の裏側には、「地域の鬼神伝説の名所」 が描かれていました。
その看板から、村の奥に向かって進んで行くと、「鬼の足跡」というひとつの石碑が立っています。真新しい注連縄が張られたこの碑は、りんご畑に囲まれた道路際にポツンと立っていますが、石碑の真ん中に大きな円形の凹みがあり、これが鬼の足跡だと伝えられている分けです。

何回かお伝えしてきましたが、この岩木山麓の鬼は、村人の農作や潅漑を手伝ってくれる「優しい鬼」として親しまれ、敬われている分けですが、鬼沢には次のような話が伝えられています。
【昔、鬼沢が長根派(ながねはだち)という地名であった頃、岩木山周辺は阿曽部(あそべ)の森と呼ばれていた。あるとき、村の弥十郎という農夫が、山へ薪を取りに行ったとき、岩木山中の赤倉沢で大人(鬼)と出会い、仲良くなった。親しくなった二人は、よく力比べをし、相撲をとっては遊んでいた。】
この二人が相撲をとって遊んでいた場所が「鬼の土俵」といわれている所です(同名の場所は岩木山の赤倉登山ルート上にもありますが)。
訪ねてみると、そこには、赤い鳥居が立っており、「鬼乃土俵」という石標もありました。小さな祠がありましたが、中を覗いて見ると、そこには「鬼乃土俵大神」が祭られていました。伝承によれば、弥十郎と鬼が相撲をとっていた「土俵」の場所には、雑草があまり茂らないのだということ・・いわれてみれば、辺りに比べて少し草が少ない感じもしましたが。。
◇鬼の足跡と鬼の土俵 ※画像はクリックで拡大します。







鬼沢の伝説は続きます。
【鬼は、たびたび弥十郎の仕事を手伝っていたが、あるとき、弥十郎から「水田を拓いたが、すぐ水がかれてしまうので困っている」という話を聞いた。そこで鬼はさっそく、赤倉沢上流のカレイ沢から堰を作って水を引いてくれた。村人はこれを喜び、この堰を「鬼神堰」とか「さかさ堰」とよび、鬼に感謝した。】
そんな鬼が弥十郎とともに村へと降りてくるとき、途中で、その枝に腰掛けてひと休みしたという話が伝わる一本の柏の木があります。名づけて「鬼神腰掛柏」。
そこは、りんご畑の中にひとつの鳥居が立っている場所ですが、大山祗神社 と呼ばれ、この柏の木はその御神体とされているようです。
柏の木は、県の天然記念物にも指定されていますが、推定樹齢が700年、樹高11メートル、幹周3.6メートルといわれています。
根元の祠には、鬼が履いた?と思われる鉄の草鞋なども置かれていて、地上2m位から、長い枝が何本も横に広がって延びていました。「鬼が腰掛けた」という話にふさわしい巨木です。鬼は、ただひと休みするだけでなく、この木に腰掛けながら、弥十郎に様々な知恵を授けたりしたのだとか。。
◇鬼神腰掛柏 ※画像はクリックで拡大します。





そして伝説は、【鬼は、自分が堰を造ったりしている姿を絶対見てはいけない、と村人に約束させていたにもかかわらず、弥十郎の妻はそれを見てしまった。そこで鬼は堰をつくる時に使った、鍬とミノ笠を置いて去り二度と姿を見せなくなった。弥十郎はそれを持ち帰り祀ったのが鬼神社の始まりである。そして、地名を「鬼沢」としたのである。】と続きます。
この伝説は、日本に古くから伝わる昔話の要素を含んでいるとともに、赤倉の沢は神が宿るにふさわしい荘厳な場所と考えられていたこと、岩木山麓では、かつて製鉄が盛んに行われ、鉄を扱う先住民が村人とともに農地の開墾に励んでいたことなどを思わせます。山に住む彼らは蝦夷と呼ばれ、田村麻呂軍と衝突したのかも知れません。
ー 次回へ続きます。
※【】は、鬼沢フジタ林檎園HP「古代より言い伝わる鬼神伝説」他を参考にさせていただきました。
☆つがるみち☆



お堂によって、身代わり地蔵とか水子地蔵、延命地蔵、化粧地蔵などと呼ばれたりしていますが、地蔵は、自分たちの地域や子ども達を守り、病魔退散等の御利益があると信じられ、百万遍や庚申塔、二十三夜塔などと共に建立されることが多いようです。

鶴亀門で有名な弘前市・誓願寺の境内に龍(竜)泉寺というお寺があります。龍泉寺は山号を「諸光山」と称する浄土宗の寺院ですが、このお寺の中には身代わり地蔵尊のお堂があります。
身代わり地蔵については、【浄土に住まず、人々の間に交わり、大悲をもって罪人の苦を代わり受けるという地蔵の利益は、地蔵が信者の欲する力をもった人間となって現れたり、危難を被りそうになった信者の身代りになってくれるといった、〈身代り地蔵〉の信仰へ発展した。こうして鎌倉時代から室町時代には、地蔵が僧の姿になって信者の看病をしてくれる話とか、信者に代わって田植をしてくれる〈泥付地蔵〉の話などが生まれ、地蔵の治病神・農耕神的性格もみられるようになった。※kotobankより 】といわれていますが、ここ龍泉寺の身代わり地蔵にも、次のような伝説が残されています。
【誓願寺の境内にある竜泉寺に、身代わり地蔵を祭っている。その由来は、昔近くの紺屋町に住む敦賀屋なにがしが、ある年の水不足で、田に引く水のことでけんかになり、相手の農夫に鍬で激しく打ち倒された。てっきり死んだと思ったところ、やがて敦賀屋が気がついてみると、どこにもけががない。わが家に帰って、日ごろ信心する地蔵様のおかげだと持仏堂に灯明をあげてみると、地蔵様は台座からころげ落ち、首のあたりに鍬の跡と思われる打ち傷があった。さてはわが身代わりになって、危難を救ってくださったと、感謝のあまりこれは家に祭るべき尊像ではないとして、この寺に寄進したのであった。※『青森の伝説』角川書店】 ー 「田に引く水のことでけんかになった」とは、いかにも津軽らしい話です。
⇒龍泉寺身代り地蔵 ※画像複数

高杉は、津軽三十三霊場の4番札所・南貞院があるところですが、県道31号線(大間越街道)が走っているこの地域は、藩政時代には鰺ヶ沢と弘前とを結ぶ交通の要所として栄えた場所でした。
また、街道沿いには、縄文・弥生時代の遺跡や、岩木山の鬼の伝説なども残り、歴史を感じさせる所でもあります。

南貞院から少し鰺ヶ沢方面に進んだところに、その身代り地蔵尊のお堂があります。私が訪ねたときには、まだ桜の花が咲いていました。
坂道の途中にあるこのお堂は、赤い小さな建物ですが、注連縄が張られたお堂には青い「身代地蔵尊」の扁額が掲げられていました。お堂を囲むように、そばには多くの庚申塔や二十三夜塔が立てられています。この場所で地蔵講なども行われていたのでしょうか。中には、色鮮やかな衣装をまとったお地蔵様が祀られていました。
◇身代地蔵尊 ※画像はクリックで拡大します。





この地蔵尊を守る神木がハリギリ(センの木)の巨木です。弘前市の保存樹木にも指定されているこの巨樹は、樹齢が200年以上ともいわれていて、幹回りは約10m、枝が縦横に広がっているため、その高さは不明です。
その様子は、お堂全体を包み込む「傘」のようです。このハリギリは3本が並んで生えている分けですが、その根元は繋がっていて、堂々たる大樹に見えます。青森県、特に弘前周辺は、ハリギリの巨木が多い所といわれていますが、その中でもこのハリギリは、県内でも最大級のものといわれています。
大木を背にして、ひっそりと佇んでいる地蔵堂・・なかなか絵になる光景でした。
◇身代地蔵尊の大ハリギリ ※画像はクリックで拡大します。





☆つがるみち☆



神社でいえば、先回ご紹介した三柱神社(金木町川倉)、熊野宮(中泊町豊島)、そして、今回の金比羅宮(金木町蒔田)が最も北にある鬼ッコを掲げている社といえます。
⇒三柱神社・熊野宮・金比羅宮
前回も少しふれましたが、鬼ッコの分布は、江戸時代以降、農地の開拓が行われた足跡を示すものとも思われますが、この3つの神社がある地域より北側は、十三湖から津軽半島・・水運業や漁業、林業などで発展してきた地域になる分けです。

岩木川は、藤崎町の辺りで支流と合流し、大河となり、たびたびの氾濫で大きな被害をもたらしたものの、津軽の経済を潤してきた分けです。
藩政時代には、主な流域に川港がつくられ、弘前藩の御用倉も置かれ、賑わっていました。岩木川を渡る船乗り達や川港の人々は、その航海の安全を祈願し、いろいろな水神様などを祭っています。
上津錦津見神(うわつわたつみのかみ)、中津錦津見神(なかつわたつみのかみ)、底津錦津見神(そこつわたつみのかみ)の三海神を祭っている板柳町の海童神社や、宗像三女神を祭る胸肩神社、そして、数多くの船絵馬が奉納されている富野猿賀神社などは、その代表的なものといえるでしょう。
また、十三湖の入江近くの薄市(中泊町)は、天然の良港といわれていましたが、ここにも津軽三十三霊場の薄市観音堂があります。
◇岩木川沿いの主な神社など ※画像はクリックで拡大します。







御祭神は、大物主神ですが、有名なこの神様は、蛇神といわれ、水神として崇められています。
一方、「金比羅様」といえば、海上交通の守り神であり、古来、水難から守ってくれる神仏な分けですが、【江戸時代に船による流通が盛んになると、海運業者や商人によって金毘羅信仰が日本中に広められ、分社が各地に作られた。明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって神仏習合の金毘羅大権現は廃され、大物主神を主祭神とする神道の神社になった。※wikipediaより】といわれています。
ここの金比羅宮は、四国の本山・琴平宮から、中世期に上方の船主たちが、水路安全祈願のため、金毘羅様の分身を勧請したものとされていますが、それは即ち、この土地もまた、岩木川流域の大事な川港であったことを示しているように思います。
社号標は「金比羅宮」、拝殿の扁額には「琴平神社」とありました。私が訪ねたときは4月の上旬で、まだ境内の木々は葉っぱをつけておらず、半ば朽ちた老木たちの姿が印象に残りました。もちろん、境内には女神・水虎様も祀られています。
◇金比羅宮境内 ※画像はクリックで拡大します。






さて、この神社の鬼ッコは二の鳥居に掲げられています。一見して、少年のように見える若々しい鬼です。
黒く長い髪が特徴的で、目をつり上げ、いっしょうけんめいに鳥居を支えているように見えます。
口をしっかりと閉じ、しっかりと修行に励んでいる・・・そんな感じがしました。
津軽地方の鳥居の鬼ッコ、今回の金比羅宮のこの鬼ッコで、一通り巡り終えました。各神社の鬼ッコ、それぞれの表情は正に千差万別で、受ける印象もそれぞれ違い、とても興味深いものでした。いずれ、機会をみて、自分なりの「鬼ッコマップ」づくりをしてみたいと思います。
⇒金比羅宮鬼ッコ ※画像複数
☆つがるみち☆ ☆水虎様☆



弘前市三和地区に鎮座している日吉神社は、大国主命、事代主命、大山咋命(おおやまくいのみこと)の三柱を祭っている神社で、【創立年月不詳であるが、 貞享四年の検地帳には 「山王堂」 となっており、 それ以前に建立されていたのは間違いない。 明治六年四月村社、 同年中畑村胸肩神社合祭、 同年四月笹館村八幡宮合祭、 明治八年二月復社。※青森県神社庁HP】とあります。
この神社もまた、弘前市内で鬼ッコがある社のひとつなのですが、その鬼は拝殿の中に置かれているということで、あきらめていましたが、「もしも、拝殿の戸が開いていれば・・」と思い、行ってみました。結果は×。。鬼ッコを拝むことは叶いませんでした。しかたないので、境内を何枚か写真におさめて帰りました。
日吉神社は、田舎館垂柳遺跡と並んで、北限最古の弥生田が発見された「砂沢遺跡」のそばにあります。遺跡が眠っている砂沢ため池では、何人かの人がのんびり釣り糸を垂れていました。
◇砂沢ため池と日吉神社 ※画像はクリックで拡大します。






それは、五所川原市鶴ケ岡鎌田地区の八幡宮です。その由緒については、【創建年号は不詳である。 度々の水害により明暦二年現住所へ移動する。 明治六年四月村社に列せられる。※青森県神社庁HP】ということしか分かりませんが、五所川原市内で鬼ッコを掲げている神社なのです。
そういう分けで、雪解けを待って、さっそく訪ねてみたのですが、鳥居はおろか、境内のどこを探しても鬼はいませんでした。日吉神社と同じく、拝殿の中に納められてしまったのか・・と思い、がっかりしてしまいました。

ところが・・・です。先日、別の神社に出かけた帰り道、この神社の前を通りかかったのですが、何やら鳥居に人形みたいなものが掲げられていました。それは、以前、探してもみつけられなかった鬼ッコだったのです。
この八幡宮には、入口の鳥居が二つあって、鬼の鳥居のそばには、八幡様らしく、りっぱな神馬と鳩の石像があります。住所が「鶴ヶ岡」だからでしょうか、亀の上に乗った鶴?の石像 もありました。鶴というよりは始祖鳥か。。
拝殿の前の鳥居のそばには、庚申塔や祠が並んでいます。朽ちた鳥居が無造作に立てかけられた祠には大蛇の像、以前は、龍神様 だったのでしょうか。
隣に青い屋根の祠 がもうひとつ。中は、なかなか覗けませんでしたが、下の方を見ると、亀に乗って両手を合わせている像が見えます。苦労しながら上の方を見てみると、それは水の神・水虎様 でした。
◇八幡宮境内 ※画像はクリックで拡大します。






さて、たぶん冬の間、鳥居から降りて「ひと休み」していたと思われるこの鬼・・。顔を見た瞬間、ギョッとします。鼻は残っていますが、右目から下半分が割れてなくなっているのです。
つり上がった目とか、角とか、頭全体の様子を見ると、以前も怖い表情をしていた鬼だと思いますが、割れた顔が、怖さをいっそう強調しているようです。何はともあれ、2回目の訪問で拝むことができました。
⇒八幡宮鬼ッコ ※画像複数
☆つがるみち☆



そのような開発の大動脈が岩木川。津軽地方を潤し、経済発展をもたらしたこの川は反面、「雨三つぶ降ればイガル」といわれるほどの暴れ川でした。 ⇒以前の拙記事をご覧ください。
弘前藩は、その盛んな新田開発のおかげで、実質的な石高は30万石にも達したといわれていますが、【その道程は洪水と凶作との過酷な戦いの連続だった。元和、元禄、宝暦、天明、天保の五大飢饉は、その度に数万人の餓死者を出し、津軽一円を凄惨な地獄へと化せしめた。食えないゆえの赤子の間引きなどの歴史も、津軽の情念となってじょんがら節の哀調や恐山のイタコ信仰の形で今日につながっているのだろう。※HP「TSUGARU BRAND」より】とされています。
こうしてみると、岩木川沿いに、庚申塔などの塚や地蔵堂が多いのも分かるような気がします。水害で亡くなった人々(多くは子ども)や飢饉のために、それ以上生きられなかった幼子の供養なのでしょう。
今回通りかかった岩木川の土手 のたもとにも後生車が立っており、鳥居の奥には地蔵堂がありました。大きな地蔵様のまわりに、たくさんの赤子の地蔵様。。
◇岩木川土手の地蔵堂 ※画像はクリックで拡大します。






この三女神は、神話によると、「アマテラスとスサノオが天真名井で行った誓約の際に、スサノオの剣から生まれた三女神」で、海の神、水の神として信仰を集めていることは、よく知られているところです。

この神社の由緒については、【創建年号は不詳である。 明暦二年弁天宮を蟹下と称する地に勧請の処、 度々の水害により弘化三年現住所へ移転せらる。 明治六年四月胸肩神社と改め、 村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】とありますが、御祭神の一柱である市杵嶋姫は、弁才天と同神とされ、各地の胸肩神社 に祭られていますが、多くの弁天宮は神池を伴っています。かつては、ここの境内にも池があったのでしょうか。
「度々の水害により」・・と由緒の中にも岩木川の洪水について記されていますが、【岩木川上流は急勾配のため、雨で水嵩が増すたびに鉄砲水のように氾濫を繰り返した。問題は上流だけではない。川には、水だけでなく、周囲の山からの大量の土砂、さらには、日本海から吹き付ける波風が海岸の砂を運び、ついには十三湖の水戸口(出口)をふさいでしまう。行き場を失った水はどっと津軽平野に溢れ出し、実りはじめた稲穂を一夜にして泥の淵に沈めたのだった。※HP「TSUGARU BRAND」より】
海ならぬ岩木川のほとりに、この水神を祭る神社を建立したのは、やはり、水運の発展と人や物の水難防止の祈願をこめたものなのでしょう。境内の中には、もうひとつの水の神・水虎様 も祀られていました。
また、【こうした数々の辛酸をなめながらも、農民たちは黙々と、馬に挽かせて田を打ち返す馬耕(バッコ)を繰り返し、灌漑工事に汗を流した。新田開発とは、まさに水との戦いだった。】とされていますが、馬は、 やはり、力強い味方だったようです。
◇胸肩神社境内 ※画像はクリックで拡大します。






さて、水神とともに地域を守っている鬼ッコですが、今まで見てきた鬼達とは少し表情が違うような気がします。何というか、哲学者のような風貌とでもいえばいいでしょうか。
姿形は修験者風の赤鬼ですが、ものを深く見つめているというか、じっくり物事を考え込んでいるような、そんな容貌です。手をゆったりと膝の上にのせ、参拝する人々の様子をじっと見ている・・そんな威厳を感じさせる鬼でした。
⇒胸肩神社鬼ッコ ※画像複数
☆つがるみち☆



そういう分けで、前回やって来たときには、観音堂ばかりに目がいって、三柱神社そのものは、あまり詳しく見れませんでしたが、二の鳥居と三の鳥居にそれぞれ鬼が掲げられているのを見て、びっくりしたことを覚えています。西北津軽を中心に「鬼ッコめぐり」をしてきましたが、私にとって、そのきっかけになったのがここの鬼ッコでした。

三柱神社の由緒については、【建立年月日不詳であるが三社権現と稱したが、 明治四年三柱神社と改める。 明治六年金木八幡宮へ合祭のところ同八年復社同九年村社になる。明治四十年四月十九日幣帛供進神社に指定になり、昭和二十六年一月二十五日境内地譲与になった。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
黒門の奥に佇んでいる観音堂は、相変わらず「品の良さ」を感じさせます。樹齢が500年ともいわれている金木町の名木・ケヤキ もそのままでした。枝には、たくさんの若い葉っぱ。
観音堂のそばに、いくつか祠が 建っていますが、中を覗いて見ると、大小の石が祀られていました。前掛けをしていたり、着物が着せられたりしているところをみると、これはお地蔵様 のようです。小さなお顔が彫られているものもありました。
◇三柱神社境内 ※画像はクリックで拡大します。





津軽三味線発祥の地・金木町らしく、拝殿のそばには津軽民謡の碑や、弘前藩4代藩主・津軽信政の時代に、この地で新田開発に努めた奉行の館跡の木碑も立っていました。 ⇒民謡碑・木碑
拝殿の前に、何やら黄色い案内板があったの見てみると、「特攻機」。 矢印の方に目を向けると、何と屋根の下に戦闘機(隼?) が吊されていました。翼に「奉納」と書かれているところをみると「飛行機絵馬」とでもいうべきなのでしょうか。。
ー 日の丸に「若櫻」、そして「陸軍特別幹部候補生」「航空兵合格記念」の文字・・何となく胸が痛みます。
出征していった若者は、その後、どうなったのでしょうか。。

さて、この神社の鬼ッコですが、前述のように、二の鳥居と三の鳥居に掲げられています。
二の鳥居の方は、石造りの鬼。金木町の鬼は、力士型のものも多いのですが、この鬼も修行中の力士のようにも、修験者のようにも見えます。
つくりの大きい鼻と、つり上がった目、右手で鳥居を支えている姿ですが、長く黒い髪が印象的な鬼です。

一方、三の鳥居の方は、金棒を手にした、節分のお面のような鬼らしい赤い鬼ッコ。とがった角と太い眉、目も大きく、睨みつけているような表情をしています。現在は、少し塗りがはげかかっていますが、以前は、もっと怖い顔に見えたのではないでしょうか。
大きく開いた口の中には、たくさんの歯。何本あるのでしょうか。。
⇒三柱神社鬼ッコ ※画像複数
☆つがるみち☆



西北津軽地方では、「鬼」「水虎様」そして「馬頭観音」の三神を祀っている社も少なくありません。また、神社の境内だけではなく、道路沿いに建てられている祠の中にも、馬頭観音が納められているところもあります。
今回は、つがる市柏・下古川の稲荷神社の鬼ッコを見に行きましたが、岩木川の川岸にあった馬頭観音堂を二ヶ所みつけました。
馬頭観音は、【仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身の1つであり、六観音の一尊にも数えられている。衆生の無智・煩悩を排除し、諸悪を毀壊する菩薩である。他の観音が女性的で穏やかな表情で表されるのに対し、馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒(ふんぬ)相である。】とされていますが、民間信仰では、「馬頭」というその名前から馬の守護神(仏)として崇められてきたようです。
【近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。「馬頭観世音」の文字だけ彫られたものは多くが供養として祀られたものである。】
ー 津軽に限らず、馬は、農作業の大切な働き手として尊ばれ、農民の生活に欠かせない生き物だった分けで、過労その他で、馬を亡くした悲しみは想像以上に深かったのだと思います。今回見つけた二つのお堂も、馬の供養のために建てられたものだったのでしょうか。 ※【】はWikipediaからの抜粋です。
◇岩木川馬頭観音の祠 ※画像はクリックで拡大します。






御祭神は、宇気母智命(うけもちのみこと)。「保食神」とも呼ばれるこの神様は、【天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。】と神話に語られています。
ー それにしても神話に登場する日本の神々はほんとに「人間くさい」ですね。夫婦や兄弟の仲違いあり、嫉妬あり。。
神話では、その後【天照大神が保食神の所に天熊人を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲などが生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。】とされ、食物の神様として稲荷神と同一視され、各地の稲荷神社に祭られていったということです。※【】はWikipediaから
興味深いのは、保食神は頭から「牛馬を生んだ」ということから、牛や馬の神として祭られたり、「頭から馬」ということで馬頭観音とも同一視されているということです。 ー 五穀豊穣を願う神社に馬頭観音が祀られているのは、そんな意味もあるのだと分かりました。
稲荷神社らしく、ここではお使いのキツネ が狛犬代わり。神馬と並んで建っている末社には、水の神・水虎様 が祀られていました。津軽です。
◇稲荷神社境内 ※画像はクリックで拡大します。






さて、この神社の鬼ッコは二の鳥居に掲げられていますが、この鬼にもまた顔がありません(失われています)。耳と鼻穴らしき跡は分かるのですが。。
やせた体の鬼ッコですが、腰はしっかりしており、下半身は丈夫そうです。見た感じは「猿」にも似ていて、身軽そうですが、肩でしっかりと鳥居を支えている姿形をしています。かつては、どんな表情をしていたのでしょうか。なお、この鬼ッコは、その後ろ姿も人気のようです。
⇒柏稲荷神社鬼ッコ ※画像複数
☆つがるみち☆ ☆水虎様☆



今回は、つがる市の鬼ッコを求めて、二柱神社へと向かいましたが、途中にひとつの地蔵堂をみつけました。
二柱神社は、つがる市の稲垣町に鎮座していますが、稲垣といえばおよそ2,000ヶ所にも及ぶ化粧地蔵が祀られている町です。
不幸にして亡くなった幼子の供養のために祀った化粧地蔵堂・・それは、川原のそばにポツンと建っていました。そばには、百万遍の塚と後生車。拝むたびに回すたびに幼い子どもの魂を呼ぶのでしょうか。お堂の中には、十字前掛けをしたお地蔵様 をが祀られていました。西北津軽ならではの風景です。
車を進めているうちに、いつの間にか名木・一本タモのある場所へと辿りつきました。二柱神社は、この近くにあります。
◇化粧地蔵堂 ※画像はクリックで拡大します。






享保二年に稲垣村元語鎮座稲荷神社を合祭する。 明治六年四月稲垣村千年鎮座の石上神社へ合祭される。 明治七年十二月に復社する。 大正三年六月十八日に社号天満宮を二柱神社に改称の願いを出す。 大正五年参十日許可を得て現神社名となる。 ※青森県神社庁HP 】とあります。
「稲荷神社」「天満宮」ということからも分かるように、御祭神は、倉稲魂命と菅原大神です。天神様(菅原道真)を祭る社らしく、拝殿の中には、道真を描いた絵馬 も掲げられていました。
境内の桜は、まだ少し名残りをとどめていましたが、本殿の後ろの田んぼには水が引かれており、季節の移り変わりを感じさせます。神社につきものの狛犬がないな・・と思っていたら、何と燈籠の足元に置かれていました。小さくかわいい狛犬です。
◇二柱神社境内 ※画像はクリックで拡大します。






さて鬼ッコですが、鳥居ではなくて拝殿に掲げられています。かつては鳥居の下に置かれていたこともあったようです。木造の小さな鬼ッコですが、何といえばいいでしょうか・・・子犬のようにも、ロボット人形のようにも見えます。
その顔や姿形の原型は失われていて、元はどんな様子だったのか、ちょっと想像つきませんでした。
ですが、よく見ると、なかなか味わいのある鬼です。上げた右手は以前は鳥居を支えていたのでしょうか?
「よく来たな、こっちへおいで。」と、手招きしているようにも見えました。見る人を和ませる鬼ッコです。
⇒二柱神社鬼ッコ ※画像複数
☆つがるみち☆



その由緒については、【建立年月日不詳であるが口伝に依ると元亀三年の建立にして明治六年四月村社になり明治四十年七月幣帛供進神社に指定になり昭和二十五年十月境内地譲与になった※青森県神社庁HP 】とあります。広い境内は、古くからこの地域の産土社として崇められてきたことを思わせます。

川に沿って進んで行くと、赤い神橋があり、一の鳥居が見えてきます。そばに、百万遍の塚があり、古びたお堂が建っていましたが、中には、色鮮やかな前掛けをしたお地蔵様 が祀られていました。
川岸に開けたこの神社の境内は、なかなか奥行きがあり、神武天皇碑をはじめ、庚申塔、二十三夜塔などが立っていました。「八幡様」ということで、神馬、鳩、狛犬なども拝殿に向かってズラーッと並んでいます。
⇒嘉瀬八幡宮境内 ※画像複数
目を引いたのが、大黒天と恵比寿様のお堂です。両者とも福をもたらす七福神たちですが、【大黒と恵比寿は各々七福神の一柱であるが、寿老人と福禄寿が二柱で一組で信仰される事と同様に、一組で信仰されることが多い。このことは大黒が五穀豊穣の農業の神である面と恵比寿が大漁追福の漁業の神である面に起因すると考えられている。また商業においても農産物や水産物は主力であったことから商売の神としても信仰されるようになっていった。※wikipediaより】
ー 二柱をひとつのお堂に祭っているのは、やはり、新田開発に伴う五穀豊穣と、岩木川を利用した水運の繁栄を祈願したものと思われます。
こういった様々な「神」を祭っている社を見ると、【各村々にある氏神・産土神は、今の村の人々の祖先・氏の上を祭っているだけではなく、多くは、分村、移住してきた時、団結と信仰の中心として何かを祀った。それは、もとの居住地の堂社であったり、あるいは近隣のものであったり、地域の流行神であったり、指導的立場の山伏、修験者が選んだりした。※小館衷三『岩木山信仰史』】ということがよく分かります。
◇嘉瀬八幡宮 ※画像はクリックで拡大します。






ところで、この嘉瀬八幡宮には、何とも奇妙な自然石?があります。名づけて「人丸の神石」・・人丸は、あの歌聖・柿本人麻呂のことです。
正面から見ると、 起き上がり小法師が、大きく口を開けているような形の石ですが、後ろへと回って見ると、何と、そこには「人丸」の文字。。
この神石については、【嘉瀬八幡宮境内に“歌の神”として「人丸」の二文字を刻んだ大石が祀られています。その文字は「万葉集」の歌人で、三十六歌仙の一人でもある柿本人麻呂を意味するといわれ、同地区の昔日の文化を象徴する神石であると伝えられています。高さ70cm程の神石、いつ、だれが、どこで彫ったものか、いまでも歌の神として、詣でる人たちの姿が時々見かけられます。※HP「津軽なび」】と紹介されています。太宰治を生んだ文学の町・金木ならではの史跡?といったところでしょうか。
余談ですが、以前、梅原猛先生の『水底の歌』という本を夢中になって読んだことがあります。「藤原不比等を中心とする時の政権に追われた柿本人麻呂は、やがて水死刑に処された。」「人麻呂は正史には登場しないが、同時代に柿本猿という人物がいる。人麻呂は懲罰のため、猿に改名させられた。」「人麻呂=猿は、即ち、猿丸太夫である。」といった内容は、まるで推理小説を読んでいるようでした。
柿本人麻呂が津軽へとやって来た分けはありませんが、この神石、何となく人麻呂の肖像画と似ているような。。。

さて、この八幡宮には二体の鬼がいます。拝殿の前に二つの祠 がありましたが、覗いて見ると一方は稲荷様、そして片方の祠には、木製の鬼が祀られていました。
丸いドングリ目とふくよかな頬、大きく出っ張ったお腹など、なかなか貫禄のある鬼ッコです。
口元のあたりが腐蝕していたり、左の手がもぎとられていたりと、痛々しい感じですが、かつては鳥居にあったものなのでしょうか。ろうそくも立てられていて、お参りする人々も多いようです。

続いては二の鳥居に掲げられている石造りの鬼。
この鬼も風化が進んでいて、その表情はよく分かりません。祠にあった鬼と違って、こちらはやせ型の怖い表情をしていた鬼ッコだったと思われます。
以前は、その角も鋭く尖り、牙もむき出しにしていたのではないでしょうか。
「老骨にむち打って」、守り神としての役目を果たそうと、必死に鳥居を支えている・・そんな感じでした。
⇒嘉瀬八幡宮鬼ッコ ※画像複数
☆つがるみち☆



村市地区は、西目屋村から名所・暗門の滝に通じる県道28号線沿いに開けている集落ですが、ここには西目屋村の温泉施設「もりのいずみ村いちの湯」 があり、家族連れなどで賑わう所です。
鹿嶋神社は、この施設のすぐそば、ほとんど同じ敷地内に鎮座しています。

ところで、西目屋村というと、その昔から、氷結した滝の太さや形状などによって豊凶占いが行われるという乳穂ヶ滝があります。
毎年、2月下旬に滝の前で行われるその神事は、「乳穂ヶ滝氷祭」というイベントとして知られていますが、果たして、今年の占いはどうだったのでしょうか。
実は、私もその氷結の様子が見たくて、2月、3月、そして4月上旬と、何度か足を運んでみました。2月には、がちがちに凍った氷が、滝壺めがけて延びていて、一本の氷柱となりそうな感じでしたが、祭りのときはどうなったのか分かりません。4月に訪ねたときには、雪解けの水が、太い筋となり、音をたてて流れていました。
◇冬の乳穂ヶ滝 ※画像はクリックで拡大します。






さて、この鹿嶋神社は、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が勧請した古社とされていますが、神社の説明板には【坂上田村麻呂将軍を祀っている鹿嶋神社拝殿に安置されている仏像は、将軍が地方征服した際、桂の木をとり彫刻したものであると伝えられている。】と記されています。平成18年には、村民の手により、建立1200年祭が盛大に行われたとのことです。
江戸時代の紀行家・菅江真澄は、寛政8年(1796年)にこの神社を訪れ、次のように述べています。
【・・昨夜の雪も今朝はなごりなく晴れて、日も照っているので、家をでて、藤川という村の、こちらの畳平という村からはいり、おおひら山の麓、守沢というあたりに、大同年間の由来をもつといい伝えられている多門天の堂があった。
山本に群れだつ杉がたいそう多い。去年か今年、改修されたと思われる清らかな堂にはいると、むかしの御仏であろう、六、七尺ほどの朽ちた古像がふたつたっていた。この堂の後方に人の丈の高さのところではかると、周囲七尋(十ニメートルぐらい)ばかりある大杉があった。たくさんある杉のなかで、これはとりわけ、どれほどの年を経たものか知れない古木である。この幹の真中あたりのところが朽ちて、その空洞に水がたまり、これを池の杉とよんでいる。三枚平という峰にのぼって、この杉の真中の空洞をみていると、ときには鮒のおどることがあるなどと、案内人が指さし見上げながら語った。※菅江真澄『雪のもろ滝』】
菅江真澄が、「多門天の堂があった。」と書いているように、この社は以前は「村市毘沙門堂」と呼ばれていましたが、明治の神仏分離令で「鹿嶋神社」と改称された分けです。また、真澄が見た二体の仏像は、現在も拝殿に安置されているということです。
「巨木探し」に興味を持っている私としては、真澄がいう「周囲七尋(十ニメートルぐらい)ばかりある大杉」も見たかったのですが、探せませんでした。今はないのかも知れません。

津軽の北斗信仰は、毘沙門天信仰でもある分けですが、これについては、【北斗七星や北極星は、航海の方向を示すので、いつの間にか神格化し、北方鎮護の守護神とされ、北方神の毘沙門天(多聞天)と同一視されたものであろう。※古館衷三『岩木山信仰史』】といわれています。
都からみて「鬼門」であった津軽の蝦夷を征討し、統治するためには、北の守護神・毘沙門天の力を必要とした分けで、その中心であった田村麻呂は、毘沙門天の生まれ変わりとも称されていました。
青森、浪岡、猿賀などとともに、この辺り一帯にも「まつろわぬ民(蝦夷)」の集団がいて、かつては激しい戦いが行われたのでしょうか、ここの毘沙門堂の建立は、他の七神社同様、戦勝祈願のためだったと思われます。
なお、西目屋村には、行基上人が、布教のためこの地を訪れたところ、蝦夷の抵抗にあったため、布教を成就させようと観音様を祀ったという伝承も残されています。
⇒拙記事へ
境内には、不動尊、稲荷神、山の神と並んで、「鬼神様」 という祠も建てられていました。「鬼神」が何を指すのか分かりませんが、あるいは、征服された鬼達(蝦夷)の霊を祀っているのかも知れません。
◇鹿嶋神社境内 ※画像はクリックで拡大します。





☆つがるみち☆

