
全国の「名水百選」に選定されている霊泉ですが、名水百選とは、【1985年(昭和60年)3月に環境庁(現・環境省)が選定した全国各地の「名水」とされる100か所の湧水・河川(用水)・地下水】のことです。名水の基準として、【「保全状況が良好」で「地域住民等による保全活動がある」こと。】が挙げられていますが、渾神の清水は、長い期間にわたって地域の人々が守り育ててきた泉であり、十分に「百選」の条件を満たしているといえます。

この霊泉がある所は平川市唐竹、「びわの平」という高地を通って、十和田湖へと向かう道路沿いです。
入口には看板とともに赤い鳥居が立っていますが、一帯は小公園になっていて、東屋なども設けられています。そこを少し登ったところに「句碑の丘」があります。文字通り、地域の俳人達が詠んだ句碑がたくさん建っている所ですが、中にはユーモラスな句もあり、心が和みます。
その中でも、ひと際大きいものが「増田手古奈(てこな)」という俳人の句碑。
増田手古奈については、【1897(明治30)年10月3日、南郡蔵館村(現大鰐町)に生まれた。大正12年に東京大学法医学教室で血清学の研究をしていた時、同じ教室にいた水原秋桜子(しゅうおうし)に強く勧められて高浜虚子(きょし)の門に入る。虚子門下の4S(誓子(せいし)、青畝(せいほ)、素十(すじゅう)、秋桜子)台頭の時代で、手古奈はその後に続く新人の一人であった。昭和6年、家業を継ぐべく郷里の大鰐町に医院を開業。この年の1月に東北では唯一のホトトギス系の俳誌「十和田」を発行主宰し、その後、長きにわたり客観写生の俳句の道を広めた※HP「青森県近代文学館」より】と紹介されていますが、青森県を代表する俳人の一人で、師の高浜虚子から、「手古奈君はとこしへに東北の俳諧の重鎮たるを失はない」と評されたといわれています。
故郷である大鰐町・茶臼山公園にある増田手古奈の句碑には、代表作「山の温泉や夕鶯のいつまでも」の句が刻まれていますが、ここ渾神の清水に残した句は「づく鳴くや星の明りの見えそめて 」。 - ミミズクの鳴く夜、星明りに照らされながら、こんこんと湧き出る清水・・・とても清澄な感じのする情景です。
◇句碑の丘ほか






鳥居をくぐると、とても清潔な水屋があり、中からは、水量たっぷりな清水が勢いよく湧き出ていました。飲料水や、農業用水、生活用水として地域の方々に崇められ、守られてきた霊泉であることがよく分かりました。そばには、薬師様?と思われる祠とともに、この霊泉の由緒を刻んだ石碑も立っています。
この石碑並びに由緒書き板などによると、この霊泉は、【坂上田村麻呂が延暦年間に陸奥国の蝦夷征伐の際、「矢捨山」の近くに陣をしいたとき、悪質な眼病を患った。或る夜、此土地の鎮守少彦明神が夢に現れ、是れよりも奥に行くと清水があり、この水で目を洗うとたちまち治るとのお告げがあった。お告げのとおり谷を上っても清水が無いため、現在の泉のあたりで神に礼拝すると烏帽子が飛んで落ちた場所にこんこんと水のわいている泉があった。この清水で目を洗うとたちまちのうちに眼病は治癒した。その徳に感じて眼病守護のため、「阿蘇山」に剣を埋めて薬師神と崇めて本殿を建てた。この清水わく泉を渾神の清水と呼んでいる。」※坂上田村麻呂の伝説「竹館村誌」】と紹介されています。「渾神の清水」は別名「今神の清水」ともいわれており、それが転化して「渾神(いがみ)の清水」と呼ばれるようになったのだとか。。
文中に出てくる「矢捨山(やすてやま:564m)」は、この霊泉から少し進んだところにありますが、尾根が長いため「矢捨長根山」とも呼ばれた山で、この山には、【昔、阿倍一族が源義家に攻められ、背負っていた「やなぐい」という矢を入れる武具を捨てて逃げた。それで「矢捨」といった。※『青森の伝説』より】という伝説があります。
また、「阿蘇山」は矢捨山の向かい側にある「阿蘇ケ岳((あそがだけ:494m)」のことですが、【「坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、阿蘇ケ岳山頂に本陣を構えたが、眼病になった。ふもとの清水で目を洗ったら治った。この水が名水『渾神の清水』だった」】という話が伝えられているように、両山ともに、かつては、戦の場となっていたようです。因みに、この阿蘇ケ岳からは、竪穴と鋤(すき)が発見されたということで、何らかの遺跡ではないか、と考えられているとのことです。
⇒矢捨山と阿蘇ケ岳 ※画像複数
◇渾神の清水





さて、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、眼病を患ったが、霊験により清水を探し、完治した・・という話は、弘前市・羽黒神社にも伝えられていますが、田村麻呂を象徴とする朝廷の征討軍が、「各地の蝦夷との戦いで苦戦し、窮地に追い込まれたが、霊夢を見、そのお告げに従って戦い、勝利を得た」という伝説の筋はいっしょです。
田村麻呂とその軍を勝利に導いたものは、卍の旗と錫杖であったり七つの鬼面であったりと様々ですが、「眼病を治した清水」も、そのひとつといえます。
この「渾神ノ清水」は地域の霊水として崇められ、時には重い目の病を患った人々を救ったのかも知れません。それが、田村麻呂と結びつけられ、ひとつの伝説を生んだのだと思いますが、田村麻呂が「眼病を患った」ということは即ち「(戦の)先が見えなくなった=負け戦に苦しんだ」ことを意味していると思われ、「眼が完治した」ということは、「先が見えた=勝利のめどがたった」ことを示しているとも考えられます。
- 裏を返せば、それだけ、蝦夷の頑強な抵抗が続いた・・ともいえるのではないでしょうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



そのかわりに・・・という分けでもないのですが、西目屋村に、深く上杉謙信を敬愛した?人物が建てた寺院と塔があるということなので、訪れてみました。

寺院の名前は「広泰寺(こうたいじ)」、塔は「不識塔(ふしきのとう)」といいます。
以前、記事で取り上げた乳穂ヶ滝や鹿嶋神社を通り過ぎ、暗門の滝方面へと進んで行くと、目屋ダム(美山湖)が見えてきます。さらにさかのぼったところに川原平という集落・・ここにそのお寺と塔 が建っています。
少し道に迷いましたが、何とか目的地に着きました。ここに「弘前大学白神自然環境研究所」 という建物がありますが、一帯は植物園になっており、この研究所が管理しているようです。ここに車を停めて入園届を書き、いざ、出かけようとした時に、管理人の方が「出るかも知れないから、一応、これを着けて行きなさい。」と言って、渡してくれた物は熊よけ用の鈴 でした。
研究所のそばに道案内板 が立っていましたが、まずは広泰寺へ。100m程歩くと、木々の間から、その建物は見えました。少し離れたところから見ると、その造りは「お寺」という感じがしますが、近寄って見ると、茶色いレンガ造り・二階建ての姿形は洋館のようでもあり、不思議な感じのする寺院です。
この広泰寺は、明治44年(1911)に完成した分けですが、建てたのは「斎藤主(さいとうつかさ)」という人物です。
斎藤主は、万延元年(1860)に弘前市で生まれましたが、17歳の時に上京し、その後、北海道に渡って役人生活を送りながら、英語や測量学、天文学などを習い、その知識を生かして北海道の奥地から千島、国後などの調査・測量に従事したとされています。その後、全国各地で土木事業に従事した彼は、明治35年(1902)に独立し、弘前で土木建築請負業を始めました。
明治35年という年は、あの悲劇の「八甲田雪中行軍」が行われた年ですが、この年はまた、冷害による大凶作の年であったといわれています。特に、西目屋村の惨状はひどく、「村人は米も麦はもちろんソバや豆まで食べ尽くし、ワラビの根を掘って食いつないだ」とされています。
村人たちの窮状を見かねた斎藤は、村を救わんがために立ち上がり、水路のトンネル工事を起こし、動員された村人に日当を支払うようにしました。生活に困り切っている村人は喜んで働いたといわれています。さらには、村の原野の開墾や植林などを手がけ、篤志家として尊敬を集めたとされています。
斎藤は、晩年には仏門への関心を深め、横浜市鶴見にある總持寺管長・西有穆山(にしありぼくざん)の下で参禅・修行を行っていましたが、その西有管長から「山形県米沢にある広泰寺が住職無住になっていて誠に惜しい」という話を聞かされます。
広泰寺は元々は戦国武将・上杉謙信が開基したもので寺格は非常に高く、上杉家では代々寺領を与えて保護していましたが、斎藤が米沢に出向いた時には既に荒れ果てて修復出来ない程の状態になっていたといわれています。それを見た斎藤は、寺格をそのまま譲り受けて寺を移転させようと考え、自ら住職の資格を得て広泰寺を西目屋村に再建する事を決心したという分けです。
- 斎藤主が、謙信をどのように思っていたのかは定かではありませんが、「高潔な人格をもった義の人」で「仏門の求道者」でもあった謙信の姿に己を重ね合わせようとしていたのではないでしょうか。
◇広泰寺






そんな謙信への傾倒を示すように、斎藤は翌1912年に「不識塔」を建てます。
名前は、もちろん謙信の法号「不識庵」からとったものですが、「不識」とは、梁(中国)の武帝と達磨大師の間で取り交わされた問答の中に出てくる言葉で、単に「知らぬ」という意味ではなくて、【ただ頭の中で考えたり、本で学んだ知識などでおしはかれるものではない。あらゆる偏った見方、考え方を捨てて、仏様に身も心も預けて、仏様とともにその教えに生きるとき、初めて真理と自分とがひとつになり、悟りがひらけて、自分も仏様になれるということ。※米沢市春日山林泉寺HPより】とされており、謙信もまた、その本旨を極めようと、修行に励んだといわれています。
この不識塔はここへ来る途中の道路からも遠望できましたが、実際に道案内に従って遊歩道を登るのはなかなかきついものがありました。
山頂めがけて登っていくと、突然視界が開けて、その建物が姿を現します。何と、鉄骨に囲まれた塔です。この鉄骨は改修工事用に組まれた足場だそうですが、撤去される見込みはたっていないとのことです。
塔は、高さ20.8m、底部の直径が5.94mと説明書きにありましたが、元々の姿は鉄骨のため、よく分かりませんでした。説明板には、鉄骨が組まれる以前の写真がありましたが 、それを見ると、こけしに似ているような何とも特徴のある姿形です。この不識塔の形は、斎藤主の「主」という漢字をかたどっているといわれていて、地元の人は不識塔を「主(つかさ)の塔」とも呼んでいるとのことです。
- それにしても、早く鉄骨が取り払われた本来の姿を見たいものです。
◇不識塔





青森の各地を訪ね、多くの紀行文を残した大町桂月は、ここ広泰寺と不識塔を訪れた際に、「寺一つ 家ひとつ満目 尾花哉」と詠み、【山の奥に思ひがけなき平地ありて、家一つ、祠一つ、寺一つ、峰上に高さ五丈ばかりの赤煉瓦の塔立てり。斉藤主といふ人、ここを開墾せむとて、田の未だ成らざるに、先ず社寺を置き塔を建てたるに、開墾成らず、空しく志を齎らして逝けり。その屍骸はアルコール漬けにして塔の中にありと聞く。世には奇抜なる墓もあるもの哉。 ※『岩木山より暗門滝へ 四・暗門滝』 広泰寺説明板より】と記しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



「霊峰水」と書かれた霊水は健康長寿、家庭円満などにご利益があるそうですが、そこからは石段が上に向かって延び、その途中にひとつのお堂がありました。
中を覗いてみると、そこに祭られていたのは「清正公大神祇」・・・戦国武将の加藤清正でした。鎧と兜を身に着けた貫録のある像です。
「何で加藤清正が。。」と思いましたが、清正は、熱心な法華経の信者、日蓮宗の信徒であり、領内に日蓮宗の寺院を数多く創設しましたが、それは、日蓮宗の信者であった母の影響を受けたとされ、母が信仰に打ち込む姿を見て育ったといわれています。
「秀吉に仕え戦場にて生死の間にあるとき、常に頭には南無妙法蓮華経の題目をいただき、先ず口にでるのは法華経の題目であった。清正公は純情一徹で、戦場では何者もおそれず、手柄をたてれば法華経の力と信じ、ますます信仰を深めた。」
- そんな加藤清正の姿を敬慕する信徒達が、ここにこうしてお堂を建て、祭ったのでしょう。
◇境内と加藤清正のお堂






この「清正堂(※正式名は分かりません)」から、さらに上の方へと石段が延びています。両脇には「南無妙法蓮華経」と書かれた題目の幟旗。
がんばって登りきると、そこに「題目大石堂」があり、日持上人の石像が立っていました。
上人のそばに、由緒書きがありますが、その大意は、【日蓮大聖人の直弟子、「蓮華阿闍梨日持上人」が御染筆した宝塔題目岩、おなじく三十番神岩が奉られている。今から七百余年前、日持上人は故郷偲ばれる津軽富士を眺め、父母墓前と身延大聖人の御廟に最後のお別れを申し、海外弘教の誓願を込め一遍の御題目にその魂を留められた。】とあります。
この宝塔題目石の存在が確かめられたのは、享保6年(1721)のことで、「黒石市・妙経寺の八世・日浄が山中に埋もれていたお題目の宝塔を日持上人の彫刻と鑑定し世にあらわれた。」とされていますが、かつて宮沢賢治もこの法峠を上り、山上の宝塔を拝んだのだとか。。
それにしても、この題目石・・・大変な巨岩で、お堂に後ろから「ふた」をしているようでした。題目堂の中に入って見ると、むき出しの石の前に祭壇があり、その大きさがよく分かります。びっくりです。
◇題目大石堂





実は、このお堂から先にも道が続いていました。ハーハーいいながら登りましたが、そこには「朝日拝殿」という社がありました。
この拝殿は、「上人が毎日のように登り、御来光を排し、日蓮大聖人に回向すると同時に、ふるさとの御両親を追慕した」ところといわれています。
◇朝日拝殿





日持上人は、津軽海峡を越え、北海道へ、そして樺太の地まで出かけ布教に努めたとされていますが、樺太にも、【樺太の一漁村にヒモチ(日持と推測される。)という名の坊さんが来て、岩に文字を記して北に向かった。この岩に祈ると大漁となり、岩が動くと大嵐か不漁になると樺太住民に信じられていた。】という、「ヒモチという坊さんと題目石」の伝説が残されているようです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



この法峠に法峠寺という寺院があります。山号は「東奥山(とうおうざん)。日蓮宗のお寺ですが、ここは、昔、日蓮の高弟であった日持(にちじ)上人が、諸国を巡った折り、ここに滞在し、開山したとされている寺院で、津軽一円の信者たちの聖地として、「津軽の奥身延」とも呼ばれているところです。

法峠寺は、黒石市の山中にある分けですが、山腹にある「本院」に向かう途中に「別院」があります。この別院では、冬の間(10月~4月まで)、法務祈祷を行っているとのことです。
別院を過ぎて山中へしばらく進むと、いかにも山寺を思わせる山門が見えてきますが、この山門を過ぎたあたりに、ひとつの標柱と案内板 が立っています。
名前は「幻の県道」。説明には【今から800年ほど前には、南部氏が八戸根城に城を構え浪岡北畠氏とみちのく北部平定にあたった頃、当地区の高館城主工藤貞行の娘・加伊寿姫が南部信政に嫁いだ時にもこの道を利用したといわれています。昭和11年9月3日には、秩父宮殿下が率いる歩兵31連隊第3大隊の歩兵500名が、当地区上十川長谷沢神社から法嶺院、法峠寺を経て、傘松峠、東郡高田村と浪岡村の境界を通り、山道を踏み分けて沖揚平を経て酸ヶ湯温泉に至ったと、当時の東奥日報が報じております。その後、太平洋戦争が勃発したことなどにより、戦中戦後の混乱の中で、この道路が未整備のまま時を経て県道酸ヶ湯黒石線に認定されましたが、最近までは通る人もなく通称「幻の県道」と呼ばれるようになりました。現在は、県内外の人々からハイキングコースとして親しまれております。】と書かれていました。
古の津軽と南部地方を結ぶ最短ルートで、地元民の生活路でもあったこの古道は、現在、その歴史に埋もれた豊かな自然道を散策する活動が続けられています。
説明書きにも出てくる宝塔山法嶺院(ほうとうざんほうりょういん)は、長谷澤神社へ行く途中にあるお寺ですが、享保年間(1716~36)の創建とされ、当初は法峠にありましたが、明治18年(1885)に現在の地へ移転したとされています。
私も以前、長谷澤神社を訪ねたときに、このお寺の立派な鐘楼を見て、びっくりしたものでした。
◇幻の県道、法峠寺別院、法嶺院






日持上人は、【鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。駿河国松野の出身。甲斐公・蓮華阿闍梨と称する。日蓮六老僧の一人。※wikipediaより】ですが、永仁3年(1295)年、46歳のときに、日本各地へ布教の旅に出発したといわれています。
東北地方には上人の足跡を伝える遺跡や逸話が多く残されていますが、青森に入った上人は、十和田、三戸を経て、法峠を訪れたと伝えられています。その後、上人は、笠松峠を越えて、現在の青森市に入り、現・本町に蓮華寺を開基したとされていますが、こうしてみると、日持上人もまた、幻の県道を歩いたといえるでしょうか。
さらに、上人は永仁4年には蝦夷地(北海道)、そして樺太へと渡航し、布教に努め、樺太の地で生涯を終えたともいわれていますが、北海道には、【日持上人が北海道に渡ったとき、それまで見たことも無い魚が大漁に採れた。「法華の坊さん」が来たからということで、その魚を「ホッケ」と呼ぶようになった。】という話をはじめ、多くの伝説が残っているとのことです。
この日持上人が、法峠で弘教の願いを込めて大岩に「御染筆した」とされているのが「宝塔題目岩」で、現在は山腹の「題目大石堂」に安置されています。
広い境内からは、山腹へ向けて、長い石段が延びていました。
◇法峠寺本院境内





ー 次回へ続きます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



県内各地にある清澄な河川水や湧水の中でも、昭和60年にいち早く認定され、名水を求める人々が引きも切らずに訪れるところが、青森市浪岡の吉野田地区にある「十和田霊泉 (とわだのしつこ)」 です。

この十和田霊泉は、旧浪岡町・吉野田地区の十和田神社の境内にある分けですが、吉野田地区は、古い伝統をもつ獅子踊りで有名なところです。
その地域の名前から「吉野田獅子(鹿)踊 」と呼ばれ、県の無形民俗文化財にも指定されている分けですが、その踊りは、【踊り手は男獅子2、女獅子、笑可児からなり、演目は追い込み、橋かけ、山かけ、注連縄、山担ぎ、女獅子狂い、和楽、暇乞がある。胡蝶のように可憐に踊るのが特色 ※青森県HP「観光・文化・教育」】であるといわれていますが、その由緒については、南北朝時代に、初代浪岡城主・北畠顕成が築城に際し、領地内の平和と五穀豊穣の祈願のため、京都から「踊り手」を招いて踊らせたのが始まりであるとされています。
現在は、獅子踊保存会の皆さんが伝統を受け継ぎ、毎年、ここ十和田神社の大祭で舞が奉納されているとのことです。
浪岡の町から吉野田の集落を過ぎ、リンゴ畑の中を進んで行くと、やがて赤い鳥居が見えてきます。町の喧騒から隔離されたようなとても静かな所で、私が訪ねた時は天気もよく、木々の緑が鮮やかでした。
以前の記事でも少しふれましたが、「十和田」と名のつく神社は、県内にもいくつかあります。「十和田様」は、窪地に水が溜まったとこに龍神が住むという、広く東北北部で信仰されている水神ですが、霊泉が湧き出るここの社は、「十和田」の名前にふさわしいものといえるでしょう。
社殿の軒下には、龍を思わせる古木が吊るされていたり、中には、龍を描いた絵馬が数多く奉納されていました。いかにも「龍神の社」といった感じです。ここの狛犬、 とぼけた表情をしていて、なかなかユーモラスです。
◇十和田神社






さて、この十和田神社のある場所は梵珠山の麓にあたる分けですが、梵珠山は標高が500mにも満たない山ながらも、岩木山、八甲田山、阿闍羅山とともに「聖山」として崇められてきた山です。付近に「大釈迦」という地名がある他、鐘撞(かねつき)山・釈迦堂山・観音山など、仏教に関係した名前の山も多く、「その昔、道昭上人が釈迦・文殊・普賢の三尊をこの山に祭ったが、梵珠の名は文殊菩薩からつけられた」とも伝えられています。
一帯は、高野(梵珠)千坊といわれ、十三千坊、阿闍羅千坊とともに「津軽三千坊」と呼ばれた一大修験場だったとされていますが、ここの霊泉の由緒書きには、【五万坪の敷地に寺院三百余を建て、各地の行者が集まり修行した。行者たちは、十和田霊泉で身を浄め、修行に励んだ。その後、地域の修験行者がこの地に居住し、信仰を深めた。】と書かれており、ここは、古くからの霊地であったようです。
神社から少し下ったところに、その霊泉はあります。周りには、かつての霊場を思わせるようにいくつかの末社や祠なども建っていました。
この霊泉、とても水量が豊富で、私が周りを歩いている間にも何人かの人達が訪れ、ペットボトルに水を汲み、その後に十和田神社にお参りして帰っていきました。
◇十和田霊泉





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



現在は「宗教法人津軽赤倉山神社」となっていますが、由緒によると、ご先祖様が、神道の神様に導かれ修行し、「カミサマ(ゴミソ・霊能者)」となり、県内外の人々に広く信仰され、神社を創立するまでに至ったとのことです。
御祭神は津軽赤倉山大神ですが、霊場の奥の院 と同様、天照大神や弘法大師、猿田彦など、多くの神々が「大神」として祭られています。

稲垣町を流れる岩木川の土手の下に、この社は鎮座している分けですが、その境内の横には、いくつかのお堂や祠が立っています。
稲垣町といえば町内に2,000箇所はあるだろうといわれる「化粧地蔵」のお堂が有名ですが、神社の周りにも地蔵堂がありました。中を見ると十字前掛けをした大小のお地蔵さまが並んで祀られています。
ロウソクや線香、鐘などもそばに置かれており、地域の人々が大事に祀っている様子が伝わってきます。中には、破損した(首だけ、胴体だけとか)お地蔵様を集めて供養しているお堂もありました。
そばには、小さな鳥居や庚申塔なども立っていますが、ひとつの祠を覗いて見ると、そこには龍の形をしたロウソク立ての後ろに、女神形の水虎様が置かれていました。ここもまた、岩木川の氾濫に悩まされてきたところだったのでしょう。化粧地蔵と水神・水虎様は、そのことを物語っているようです。
◇地蔵堂ほか






土手の上から神社へと降りる参道 が延びていて、道端には赤倉大神や弘法大師の像が立てられていました。
境内には、ひと際大きな猿田彦大神の碑があります。猿田彦は、赤倉の霊場でも赤倉大神や弘法大師と並んで、数多く祀られている分けですが、面白かったのは、この猿田彦の碑の台座に三匹の猿がいたことです。いわゆる「見ざる 言わざる 聞かざる」 です。猿田彦神は庚申信仰と結びついている(「猿」は庚申の「申」に通じる)とされていますが、庚申の使いは猿であることから、この三匹の猿が置かれているのでしょう。
境内の端の方には、大小様々な石が祭られています。ひとつひとつに祭壇が設けられていたり、注連縄が張られていたりします。石に刻まれた名前を見てみると、「熊野、立山、高千穂、出雲」 などがあり、日本の古代からの霊地が「大神」として崇められているようです。
もちろん、岩木山の三つの峰(鳥海、岩木、厳鬼)も祭られている分けですが、そばには、「大石山大神と大石姫大神」 という丸石が寄り添うように置かれています。これは、赤倉霊場の入口にあたる大石神社の御祭神である高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と神皇産霊神(カミムスビノカミ)を表したもののようです(両神は、男女の「むすび」を象徴する神であると考えられていることから、大石神社は、子授けの神、安産の神としても古くから信仰されている)。
◇津軽赤倉山神社境内





さて、伝説では、【昔、赤倉山(厳鬼山)には鬼神が住み、里の人々を苦しめていたので、坂上田村麿が勅命を受けて征討にやってきたが苦戦続きだった。ある日、「錫杖の印と卍の旗を用いよ」という神託にしたがって攻めたところ、鬼たちは退散した。】と語られている分けですが、ここ津軽赤倉山神社の由緒書き によると、【(田村麻呂軍が)もはやこれまでと思いし時に、雲の中より津軽赤倉大神が現れ、そのお告げにより勝ち戦となり・・】とあり、神託を授けたのは赤倉大神であるとされています。
伝承はともかく、菅江真澄が「つねに霧が深く立ち込めて、ほの暗く、道もたいへん険しい。赤倉(巌鬼山)には、「鬼神」が隠れ住んでおり、その身丈は相撲取りより高い。」と書いていることや、現在の岩木山神社は、巌鬼山神社のあった十腰内から、寛治5年(1091年)の頃に移されたとされていることなど、一帯が古くからの信仰の地であったことは確かなことです。
この赤倉の神様は、庶民に敬われただけではなく、津軽藩(弘前藩)にとっても厚い信仰の対象だったようで、【津軽藩日記によると、寛文6年(1666年)5月に大旱魃があり、4月からの連日の日照りで田畑は壊滅的状況にみまわれたことが記されています。その際、様々な雨乞いの方法を試したものの、効果がなく、ついに藩命によって、赤倉山での山伏たちによる祈祷がおこなわれるに至ります。その後、念願の雨が降り出したといわれています。山伏たちの祈祷の効果の真偽はともかくとして、津軽藩においても非常時に頼むのは、『赤倉山の鬼神』であるという点が注目され、『赤倉山の鬼神』は、古くから、単なる俗世の民間信仰ではない、『権威ある存在』であったということが知られています。※青森県音楽資料保存協会HPより】とのことです。
ー ここ津軽赤倉山神社の由緒書きは、赤倉大神が、古代から藩政時代、そして現在に至るまで、深く崇められてきたことを物語っているのでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



作沢川は、度々氾濫し、流域に広がる農地は洪水のため、大きな被害を受けてきましたが、このダムはその氾濫防止と、合わせて水田やりんご園への用水の供給を図るために建設されたものです。
その水面や山間に顔を出している岩木山など、このダムから見る景色はとても美しく、観光スポットにもなっているわけですが、川岸の山には、木々の間から大きな岩が屏風のように並んでいるのが見えます。
その姿形から「屏風岩」と呼ばれているこの岩壁は、【高さ約100mの岩壁が、幅600mにわたり佇立するとともに、学術的に価値の高い植物系が生育し、すぐれた自然環境と景観を形成している。※案内板より】とされ、県自然環境保全地域にも指定されています。紅葉の時期が最も美しいとされ、その景観に惹かれて、たくさんの人々が訪れるようです。
この岩壁は、ダムから沢田の集落へと続いており、集落の中心部にも大きな岩がそそり立っていますが、その岩の下に赤い鳥居が見えます。神明宮です。
◇屏風岩と沢田神明宮付近






この沢田の神明宮については、【旧藩時代より当時、当地を小倉村と呼び、小倉の神明様と呼称されていた。 明治維新の当時、 氏子数が少なくなり、 藤沢村の藤沢神社 (今の野田神社) へ合祀されるが、 村民の敬神の念が篤く、 昭和二十年大戦終了後に神社制度の改正の期を捉えて昭和二十二年四月十七日宗教法人令に基き、 宗教法人神明宮として復活し、 現野田神社より御神体をお迎えして奉祀する。※青森県神社庁HPより 】とありますが、その起源は定かではないようです。
江戸時代の紀行家・菅江真澄も、ここを訪れていますが、『都介路廼遠地(津軽のおち)』の中に「いつの時代に祀られたものか分からない」とあります。いずれにしても、古くから集落の産土社であったようです。境内の説明板には、「宮柱太しく立てて岩谷堂に 動きなき世を守る神垣」という、真澄の歌が記されていました。
真澄が「岩谷堂に」と詠んでいるように、この神社の社殿は、大きな岩壁の真下にあり、鳥居からは、急な石段が真っ直ぐに延びています。社殿の下から上を見上げると、巨大な岩が間近に見え、「崩れるのではないか」と、心配になるほどです。洞窟に社殿をはめ込んだ・・そんな感じです。
大壁には、いくつかの小洞窟があり、そこには祠も立っていました。
◇神明宮社殿





恐る恐る社殿の中に入ってみました。その中には、御祭神である天照大神の絵馬なども掲げられていますが、奥に洞窟があり、そこにお堂が立てられ、御神体が祀られています。ここが岩谷堂と呼ばれるところなのでしょう。岩壁には、小さな狛犬も置かれていて、とても神秘的な場所です。
◇岩谷堂





この神明宮では、毎年「沢田ろうそくまつり」という祭りが行われます。説明板には、【神明宮の 「ろうそく祭」 は、 旧小正月十五日晩の行事として行われ、 沢田部落の各家庭では売っている最大級のろうそくを準備して社殿のほら穴に灯し、 家内安全、 五穀の豊作を祈願するもので雪の奥山の岩屋堂に灯りがゆらめくさまは神秘あふれている。 】とありますが、この地域に450年以上前から伝わる祭りで、ロウの垂れ具合で豊凶などを占うというものです。
寒い冬の夜、山間の集落で、境内や岩谷堂に灯るロウソクの炎は、神秘的・幻想的で、正に「奇祭」というべきかも知れません。
⇒沢田ろうそくまつり ※画像複数
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



ここには、長慶天皇御陵墓参考地がある他、坂上 田村麻呂に関する伝承、大石信仰を思わせる遺跡なども残っており、古くからの歴史を感じさせる地域です。
この地域を作沢川という川が流れていますが、その渓流沿いにいくつかの神社やお堂などが立っています。

作沢川は、上流をさかのぼると、やがて「相馬ダム」というダムに行き着く分けですが、その途中に「大助」という集落があり、そこに「大助野田神社」という社が鎮座しています。由緒などはよく分かりませんが、近くの野田神社(※大助集落ではない)の縁起によると、【明治八年当時は、 大助の愛宕神社、 坂市の雷電宮神社、 沢田の神明宮を合祭していた。】とあるので、この大助の野田神社は、かつて愛宕神社と称していたようです。
道路沿いに赤い鳥居が立っており、傍には庚申塔と二十三夜塔 がありました。そこから少し急な参道(石段) が延びていて、頂上に社殿があります。
さて、「大助(おおすけ)」という地名からでしょうか、この地域には次のような伝説が残されています。
【相馬村大助部落を流れる作沢川に、昔サケがたくさん上ってきた。その頃、近くの山に隠れて住む鬼が現れて来て、サケが川をのぼるのを待ち、真夜中に立ちはだかって、「オオスケ・コスケ、今のぼる」と叫んで、サケを手づかみにして食ったという。この声を聞いた者は、たちまち血を吐いて死ぬといわれ、村人はサケがのぼる頃の夜には、恐れて家から出る者がなかったという。※『青森の伝説』より】
これは、東北地方を中心とする東日本に伝わる「鮭の大助(さけのおおすけ)」の話ですが、各地域によって、少しずつ話の内容は変化しているものの、大要は、鮭の大助は【川魚の王とされる。11月15日や12月20日など決まった日に、妻の小助(こすけ)と共に海から川へと遡り、その際に「鮭の大助、今のぼる」または「鮭の大助・小助、今のぼる」と大声を張り上げる。この大声を聞いた者は、3日後に死んでしまうと言われる。そのためこの時期は、川の仕事をしている人は仕事を一切休んで川に出ないようにし、周囲の村人は大助の声を聞くことのないよう、鉦(かね)を鳴らしたり、餅をついたり(この餅を特に「耳塞ぎ餅」と呼ぶ)、歌ったり、酒を飲んで騒いだりして過ごしたという。※wikipediaより】というものです。新潟県では「王瀬長者の伝説」として、「信濃川近くにある村を治めていた大長者が、ある年の霜月(11月)15日に、言い伝えを守って仕事を休んでいる漁師たちを働かせた結果、天罰が下り、息絶えた。」という話になっています。
- アイヌ人の例のように、鮭は、山間で暮らす人々の大切な食糧源であり、昔から神聖な生き物として祭られ、その「禁」を守って生活してきた人々は、「蝦夷」と呼ばれる先住民だったのかも知れません。王瀬長者のように、古くから伝わる蝦夷の風習や信仰をないがしろにするような行動は、大きな摩擦を生んだのだと思われ、この伝説は、そんな歴史を伝えているような気もします。それにしても、「オオスケコスケ、今のぼる」と大音声で叫ぶ鮭は、誇り高き蝦夷の姿を思わせます。また、大助の伝説には、「鬼」が登場したりして、いかにも津軽らしい話になっています。

この大助野田神社から沢田という集落へ向かう途中に、岩屋不動尊 があります。
今は、崖崩れを防ぐためにアスファルトで補強されていますが、かつては、かなり大きく深い洞窟だったと思われ、その奥の方にも祠がありました。
ここには、寛政9年(1797年)に菅江真澄も訪れたようで、説明板には、【作沢川の高はしとて、危ふきひとつ橋を渡り、山路はるばると岩谷の不動尊とて流れの岸に堂あり。高さ知られぬ岩の上に、木を横たえて鰐口をつり上げ、綱を下げたり。※『津軽のおち』】と書かれていました。また、この洞窟からは縄文土器も発見されているのだとか。。
祠の前に一対の石灯籠 がありますが、これは、安永4年(1775年)に尾太鉱(銅)山の三上兵助という人物が寄進したものだといわれています。
尾太(おっぷ)鉱山 は、西目屋村の尾太岳 (1083m)の近くにあった鉱山ですが、開山は古く、奈良の東大寺の大仏建立にもここから銅や金が運ばれたといわれている他、江戸時代には、全国から逃げてきた隠れキリシタンの安住の地になったとも伝えられています。藩政時代には、鉱山の周りに一大集落ができ、弘前藩の「ドル箱」として賑わったとされていますが、採掘した銅を運ぶために、尾太→相馬村沢田→弘前を結ぶ道が拓かれたとのことです。
⇒尾太・相馬村沢田
鉱山は、1979年に閉山しましたが、尾太岳には、 岩谷不動尊と同じく、「尾太銅山三上兵助」の寄進による石灯籠が残されているとのことです。
- 銅山の繁栄を尾太岳に、そして運搬の安全を、ここ岩谷不動尊に祈願したものなのでしょうか。
◇大助野田神社と岩谷不動尊





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



本尊は、文殊菩薩ですが、弘法大師をはじめ、不動明王や地蔵菩薩など、さまざまな仏を祭っており、供養や祈祷のために、津軽地方から多くの人々が訪れるお寺です。

境内の中に猿田彦大神の碑が立っていますが、その側に「カサメヤ遺跡」という木柱があります。詳しくは分かりませんが、木柱の説明によると、【地元民は「カサンベ」と称し、土石器や穴開き銭も出土している】とありました。この金剛寺のある八幡崎には、県指定の「八幡崎遺跡」があり、【縄文時代晩期前半の土器、石器、石製品、土製品をはじめ、藍胎漆器、木製椀、丹漆塗腕輪・同櫛並びに草本を用いたアンペラ(敷物)などがあり、堅果種子・樹皮・哺乳類骨も発見されている。※青森県教育委員会HPより】とのことですが、奈良時代の集落跡も発見されており、現在、遺跡の上には八幡宮が鎮座しています。近くにあるこのカサメヤ遺跡もまた、古代から続いてきた集落跡だったと思われます。
境内には、日・月・天とともに、鶴と亀が線刻された石がありますが、通称「鶴亀石」と呼ばれるこの石は、近くから発見されたものをここの境内に移したとのことです。住職さんが「水をかければはっきり見えるよ」と教えてくれたので、早速やってみたら、鶴と亀が浮かび上がってきました。
本堂の前には、弘法大師と並んで、大きなお地蔵様の像も建てられています。本堂の階段には、いくつもの小さなお地蔵様も置かれていました。このお寺では、普段は家庭の仏壇等に祀っているお地蔵さまを、お寺にお参りにくる際に「一緒にお連れして」供養しているそうで、これを「お地蔵さまを遊ばせる」と呼んでいるということです。
◇金剛寺境内






本堂の入口には、大きな木像が置かれていますが、これは布袋様。布袋尊は、【唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では七福神の一柱として信仰されている。肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどるものと考えられ、所持品である袋は「堪忍袋」とも見なされるようになった。※wikipediaより】とされていますが、実は津軽地方には、「津軽七福神」を祭る霊場があって、ここ金剛寺にも「七福神巡り」のために訪れる人々も多いようです。
さて、お寺の由緒については、「金剛寺報」の中で、【初代住職の照正僧正が開いたお寺で、僧正は五所川原のお寺の末っ子で、終戦後に五所川原の地を出て、八幡崎の村が管理するお寺に入り、そこで托鉢や仏事を重ね、やがて金剛寺を建立するに至った。五所川原の地を離れる時、住職である父から一つだけ渡されたもの、それが「金剛鈴」という密教法具である。】と紹介されています。
若い住職さんは、「ダイヤモンドを金剛石というように、金剛とは固い信仰を意味している」と語ってくれました。祭壇の前には、法具・金剛杵 も置かれています。
このお寺が、赤倉の霊場に、弘法大師堂や「一代堂(※本尊の文殊菩薩は、卯年生まれの一代様。このお堂に文殊菩薩が安置されているとのこと)」及び修行道場などを建立したのは、先代住職蒔田照正師が、【夢の中に龍にのった白髪の老人が現れ「赤倉の地にお堂を建てよ」と告げられた】からであるとされています。
赤倉霊場の広い敷地内には、三十三観音像や霊堂が並び立ち、その護摩場では、【毎年、6月の第三日曜日に、修験者による火生三昧(津軽では火性三昧と言う)を厳修(ゴンシュウ)し、熱釜や火渡りなどの荒行を行い、五穀豊穣や海上安全、家内の安全を祈る】 ー 「金剛寺赤倉道場山開き火性三昧」 が行われるとのことです。
◇本堂と赤倉霊場





※お寺の紹介等は、「金剛寺HP並びに金剛寺報」を参考にしました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



いずれも、「赤倉信仰」に由来するもので、それは、赤倉霊場に奥の院をもつ社の里宮であったりしますが、弘前市の種市地区には、そんな神社が2つ鎮座しています。
はじめに訪れたのは「赤倉大神」という神社です。この神社は、明治時代に、赤倉沢で霊感を得て、神様になったと伝えられる実在の人物を祭り、その家の敷地に創建された神社ですが、赤倉霊場に奥の院があります。
この人は、「種市村の栄助」と呼ばれ、生き神様として信仰されるようになったという人物ですが、次のような伝承が残されています。
【新和村種市の対馬佐治兵術といふ人の兄が代わり者で山人になったといわれてゐる。十七、八歳のころから性質がボンヤリとなり、寒中でも白衣一枚で褌をしないで座って目をつむり、人が近寄っても他を向いて物も言わないといふ風で、いつ誰が言ったともなく、この人を神様と呼び、その父の手を経てこの神様から護符をもらうやうになった。ー 中略 ー 寒中でも、例の学衣で外出し、三十日間も家に帰らないこともあった。ある時、今日は遊びに行くぞといふので、父が握り飯二つを持たせてやったが、それっきり一ヶ月経ってもニケ月経っても帰らなかった。父も心配して村人に頼んで山を探したところ、岩木山の赤倉といふところに着物が、たった今脱いだやうに捨てられてあったので、父は帰宅する腹がないのだらうといって、そのまま引返した。 翌年、この家の苗代田の傍の平地の体み場に不思議にも清水が湧くやうになったが、地方の人は、これは神様の与へた水だといって崇め、眼を痛む人がこの清水で洗ふと治るといはれ、今はここにお堂も建ってゐる。※福士四郎『津軽海峡夜話「種市の神様」』】
同じく赤倉で「カミサマ」となった、工藤むらとともに、崇敬されている栄助様ですが、鳥居の両脇には、2体の赤倉大神が並び立ち、拝殿の中には、「先祖が赤倉山で修行の際に履いた」と伝わる大きな下駄 も奉納されていました。
◇赤倉大神






地図上では「金剛仙神社」となっていますが、「金剛仙」についてはよく分かりませんでした。赤倉大神は、その姿形を変えて降臨するともいわれているので、時には仙人のような風貌で出現するのかも知れません。鳥居の両脇の社号標は「赤倉神社」「金剛仙神社」と2つ立っていました。
一の鳥居の扁額は「赤倉山神」とありますが、二の鳥居と拝殿には「赤倉龍神」 とあるところをみると、どうやら龍神様を祭っている神社のようです。
岩木山と龍神については、「昔、大国主命が阿曽部の森(岩木山)に降臨した際、白い光を出す沼をみつけ、「田光(たっぴ)の沼」と名づけましたが、そこの「竜女」が、沼の中から珠を得て大国主命に献上し、夫婦となって国を治めた・・」という伝説があります。
【この「田光の竜女」は、竜飛、竜尾、多都比姫(たつびひめ)であり、岩木山三神の一人で、また安寿姫である。さらには、岩木山は農耕に絶対的に必要な水を恵む神であり、それは、水神である竜女の力を意味することも忘れてはならない。※小館衷三『岩木山信仰史』より】 ー 岩木山は龍神が住む山でもあった分けです。
赤倉大神も水を操る神様だったようで、鬼沢地区には、大人(鬼)が一夜で堰をつくった話も残されています。また、赤倉霊場にも龍神を祭る祠があったり、社の拝殿に鬼と龍神が掲げられていたり、さらには、龍に乗った赤倉大神を描いた絵馬が奉納されていたりします。
◇赤倉大神と龍神





ここ赤倉神社(金剛仙神社)もまた、水の神として赤倉大神を祭っているのでしょう。そのことを象徴するかのように、境内には清水が湧き出ており、そこには社殿が建てられています。
HP「あおもり湧水サーベイ」には、【社殿の中には「御水の御ゴフの中にはサイセンを入れないこと。せっかく神様がお授け下さった御ゴフがお金のサビで戴くことができない」と書かれた注意書きがあり、御ゴフを汲む長短の柄杓が整然と並べられている。「御ゴフ」の「ゴフ」とは、おそらく「護符」のことであろうが、湧水をまるでお守りのように大切にしている様子が伺える。】と書かれていますが、地域の信仰の厚い湧水のようです。
◇赤倉神社と御神水





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



座頭石山と、その麓を流れる尾神川(沢)の一帯は、ヤマツツジの自生地としても名高く、遊歩道や広場、釣り堀などもあり、現在は、「弘前市民の森」 として整備され、ハイキングや森林浴なども楽しめるとあって、市民の行楽地となっています。
「座頭」は、室町時代の頃までは、盲人の琵琶法師の官名であったとされていますが、江戸時代に入ると、「僧体の盲人で、琵琶・三味線などを弾いたり、語り物を語ったり、また、あんま・はりなどを業とした者の総称」を指すようになったといわれています。
座頭は、「盲人の旅人」というイメージからか、道なき道で行き倒れになったり、落石に打たれ、岩の下敷きになって亡くなったという哀話も多く残されているようです。
ここ市民の森一帯は、青森県の自然環境保護地域に指定されていて、それは【古生代の岩石からなる高さ100mほどの特異な岩壁地形を形成している。※案内板より】からですが、岩場のアカマツ林から顔を覗かせている岩壁が、「琵琶を抱いた盲人の姿に似ている形」であることから、「座頭石」と名づけられたとのことです。
尾神沢に沿って林道を少し登ると、切り立った岩が連なっているのがよく見えます。途中には、弁天宮もあり、ここは、景観の美しさとともに、ひとつの神域として崇められてきたのでしょう。
◇座頭石





その座頭石山の頂上付近に、最上神社という社があります。道端に社号標があり、そこから山に向かって参道が延びていますが、その途中に小さな祠が建っていました。
どうやら馬頭観音らしいのですが、その祠の後ろを見てびっくり。注連縄が張られた大きな石が寝そべっていました。その姿は大きな亀のようにもモスラのようにも見えます。ここでは、この巨石が御神体のようです。
そこからしばらく進むと、最上神社の鳥居の前に出ました。
◇馬頭観音






さて、この最上神社は、地図の上では「尾神神社」となっていますが、「おがみ→もがみ」に転化したものだと思われます。御祭神は、その名の通り、貴船神社などに祭られている「闇おかみ神・高おかみ神」。いわゆる「おかみ神」ですが、「おかみ=龍」で、この神は、水を司る「龍神」であることから、祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されている分けです
「闇」は谷間を、「高」は山の上を指すともいわれていますが、この座頭石の地形(座頭石山、尾神川)を考えると、この神様が祭られている理由も分かる気がします。
参道の石段を登ると社殿の前に出ます。ここは頂上ではなく、さらに上の方へと遊歩道が続いていました。途中、馬頭観音の巨石にもびっくりさせられましたが、この社殿の周りも巨石がいっぱいです。
ひとつひとつにていねいに注連縄が張られたこの大石たちは、おかみ神の依り代、磐座なのでしょう。石の大きさもさることながら、その数の多さには驚かされます。
社殿の後ろの小さな祠(ここが本殿か)には自然石 が祀られていました。
実は、この神社に向かう道路沿いにも、大石を祀っているお堂 がありました。
ー 盲人を思わせる岩壁、最上神社周辺の大石・・・「座頭石」の名にふさわしく、ここには巨石信仰が根づいているようです。
◇最上神社





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆



案内図を参考にして、ざっとひと巡りしてみましたが、「ここが○○○だ」と、なかなか特定できませんでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大石川に架かる橋の手前までには、大小の鳥居やお堂が並んで建っています。「弘法大師堂」や「一代堂」などのお堂は、平川市の「赤倉山金剛寺」というお寺の建立によるものですが、他にも、各地域のカミサマ達の里社の別院とも考えられる社が並んでいます。
鳥居、三十三観音石像、弘法大師像・・・ここには神仏習合の世界が、何の違和感もなく存在しています。
中には、力士と行司が一緒に祀られているお堂もあったりします。「相撲大神」とでも呼ぶべきか。
◇大石川手前の霊堂など






大石川は、霊場を流れる渓流ですが、その橋の先は岩木山への登山道へと続いています。ちなみにこの橋、5月の初めに訪れた時は使用禁止の状態でしたが、 今は取り壊され、立派な新しい橋に生まれ変わっていました。
この橋を渡って少し進むと、「赤倉山大山永野神社」と「赤倉大神」という2つの神社の前に出ます。「種市」とか「石川」とかいう地名を見ると、それぞれに里宮を持つ社なのでしょう。多くの方々が、神社の中や周りを清めようと、いっしょうけんめい働いていました。
そこからは、少し心細くなるほど長い登り道が続きます(実際は、それほどでもないと思いますが)。「赤倉山大神」という赤い社が見えたときは、正直、ほっとしました。それにしても「赤倉○○」という、同じような名前が多いのには面食らいます。
ここは、霊堂が建ち並んでいる場所としては一番の奥にあたるらしく、「みそぎの滝」方面と、「赤倉山(厳鬼山)登山道」方面の2つに道が分かれているようです。
私が訪ねた時は、ちょうど巡礼姿の団体のみなさんがやってきていて、各お堂に参拝し、滝の方へと進んで行きました。
登山道の入口には、登山者の安全を祈るかのように慈母観音 が立っています。「赤倉コース」と呼ばれるこの登山道は、かつては岩木山登山の中心でしたが、急峻な道が続く難コースだったため、比較的平坦な百沢コースや嶽コースが使われることが多くなったとのことです。赤倉沢を越え、厳鬼山頂上へと至るこの登山道には、三十三観音が立ち並び、登山者を守っています。
◇赤倉山大神付近






さて、私は青森県HP「鬼コ詳細一覧」やGoogle「鳥居の鬼コmap」などをもとにして、弘前から西北津軽の「鳥居の鬼ッコ」を回ってみたのですが、ここ赤倉霊場の「赤倉大神宮」の鬼も紹介されていました。
厳鬼山、赤倉、その麓の十腰内や鬼沢は、何度もお伝えしてきたように津軽の鬼伝説のルーツ・・ここから鳥居に鬼ッコを掲げたりする風習も始まった分けです。
「赤倉の大人」とか「大兄」「大仁」といわれ、怖れられながらも敬愛されているこの「おに」たちは、
・天にとどくほどの大きな身長
・体格ががっちりしている
・大岩を持ち上げるほどの力持ち
・鼻が高いなど顔立ちが異国人風 (※青森県音楽資料保存協会HPより)
の民として語られますが、ここ赤倉霊場などに祀られている「赤倉大神」 の像を見ると、その特徴的な風貌がよく分かります。
彼らはまた、「働き者で、やさしく、高度な技術力を持ち、村人に農業や潅漑の道具や知識・技術を授けた人々」とされていますが、「高度な技術」とは、かつて岩木山麓で盛んに行われてきた製鉄技術であるともいわれています。赤倉山(厳鬼山)付近からは、製鉄炉の跡がたくさん発見されており、【操業年代は、奈良~平安時代の頃からはじまり、江戸時代にわたると推定されており、古代から中世を経て近世にわたる長期の間、岩木山赤倉の山麓一帯で、製鉄作業がおこなわれていたことを、これらの遺跡が示している】とのことです。
そして、【彼らは普段、山にこもって生活していたため、山から離れた里の人々と交流を持つことは少なかった。そのため、自分達とは風貌が大きく異なる不思議な民の噂が、いろいろと人々の想像力をかきたて、さらにその「山の民」の持つ高度な技術が、人智を超えた魔術のように受け取られたこともあって、次第に枝葉がつけられ、仏教説話の中の「鬼」と同一視され、バケモノ扱いされていった。しかし、彼らと交わることが多く、彼らとの関係の深かった「山に隣接する地域」では、「鬼」の文字は使うものの、その意味合いは、あくまで、多くの知識を授けてくれる「大兄(おに)」であり、現在も彼らへの尊敬と親しみの念が脈々と息づいている。】といわれています。
※【】は、青森県音楽資料保存協会HPからの引用・要約です。
それぞれの神社の「鳥居の鬼ッコ」の中には、般若を思わせるものも多くありましたが、ここ赤倉大神宮の鬼は、赤倉大神と同様、異国風の容貌でした。大きな鬼面の下に龍神が刻まれていたのも印象に残りました。
⇒赤倉大神宮の鬼 ※画像複数
☆つがるみち☆



それから3週間後に訪ねた時には、雪も消え、いくつかの神社やお堂には、何人かの人々がやって来ていて、囲いを外したり、掃除をしたりしていました。「霊場開き」に備えていたようです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この霊場の中心である赤倉山神社からは道が2つに分かれていて、左側の方は、赤倉登山道へと続いています。真っ直ぐに進むと、十腰内堂の方へ向かうようです。案内図 の⑥⑦⑧の辺りでしょうか。もっとも、周辺にはいくつかのお堂や祠が散在していて、正直、どれがどれだか分かりません。ともかく、真っ直ぐな道を進みました。
ゆるい坂道を登り切ると、赤い鳥居と建物が見えてきます。「赤倉山宝泉院」と呼ばれる辺りでしょうか。道場とも思われる大きな建物もあります。
ここの境内には、弘法大師や龍神大神が祀られていますが、「庚申大神」と書かれた大きな碑があり、台座には下駄も置かれていました。いかにも「修験」を思わせます。
この場所にはかつて「赤倉山三重塔」という三重の塔が築かれていましたが、現在は取り壊され、その跡だけが残っています。
赤倉に盛んに霊堂が築かれたのは、ほぼ50年位前のことですが、その使われ方もいろいろで、この地のみを霊場とするものや、それぞれの「カミサマ」が住む里の社が本拠地で、赤倉をいわば「奥の院」として位置づけているものも多いようです。
中には、廃堂になったと思われるものもありますが、考えてみれば、「カミサマ」が有する特殊な霊能力は、一代限りのものであり、その子孫へと簡単には引き継げないものなのでしょう。
◇三重塔跡の辺り





また少し進んで行くと、別の霊場が見えてきます。十腰内堂の辺りなのでしょうか。ここもまたインパクトがある摩訶不思議な空間です。
御神木の側に鳥居と小さなお堂があり、たくさんの神様達の石像が立っています。赤倉大神、岩木大神、猿田彦大神、鋭い剣を背にした不動明王など。。
その中に、もんぺ姿の一人の女性の像があります。女性は「平間ハル」という方で、この十腰内堂を開いた人物ですが、昭和39年の朔日山登山(旧暦7月29日)で、大雨をついて信者とともに登山を強行し、信者たちの目の前で、鉄砲水に巻き込まれて亡くなった方なのだそうです。 ー 信仰に殉じたということなのでしょうか。
余談ですが、昭和39年(1964年)といえば、東京オリンピックの年。この年の1月には、秋田県大館市の大館鳳鳴高校山岳部員5人が吹雪の岩木山で遭難し、 4人が命を落とした遭難事故が起きています。岩木山で、悲惨な事故が続いた年だった分けです。
◇十腰内堂辺り






さて、前述したように、私が2回目に訪れた時には、多くの人達がそれぞれの霊堂を清めていた分けですが、何気なくその方達の「こぼさま、やったが」という会話が聞こえました。?と思いましたが、これは「弘法大師さまをきれいにしましたか」ということのようです。
この会話から分かるように、ここ赤倉霊場には、赤倉大神(赤倉大権現)とともに、弘法大師を祀るお堂や、大師像がとても多いのに気がつきます。
津軽地方においても、弘法大師の信仰は盛んで、23ヶ所の「津軽弘法大師霊場」をはじめ、各地の寺社に大師像が立てられていますが、弘法大師が津軽を訪れ、民衆に道を説き、様々な功徳を施したという伝説もまた、数多く残っています。
ー 【弘法大師が弘前の町の酒屋に入り、ざるを出して酒を買い、代金を払おうとした。亭主は、ただの僧ではあるまいと思い、代金はいりませんと答えた。すると大師は、では疫病よけのまじないを教えようといって、そうめん三本、イモ三本、ネギ三本を塩なしで煮て食うべし・・といって立ち去った。※『青森の伝説:弘法の酒買い』角川書店】など。。。
また、赤倉の大師信仰については、【赤倉山は、真言宗開祖弘法大師巡錫の地と伝えられている。弘法大師御霊験記によると、弘仁十一年(八二〇年)御大師様は、陸奥国御巡錫のおり赤倉霊場に立ち寄られたと記されている。 御大師様が、巨岩の前にお立ちになって「三世十方の諸仏、若しこの地に密教広まりなば、此処に我が足跡を印し給え」と呪文を唱え、その岩をお踏みになったところ、忽ちわらじの跡が歴然と印されたと言う。※HP真言宗津軽仏教界「津軽弘法大師霊場」より】といわれています。赤倉山で行に励んだ修験者達が伝えたものなのでしょう。
⇒赤倉霊場の弘法大師像 ※画像複数
ー 次回へ続きます。
☆つがるみち☆



このイタコと少し似ていますが、津軽には「ゴミソ」または「カミサマ」という民間巫者(ふしゃ)の人達がいます。
イタコと違うのは、特定のカミの体現者として、神託を授けたり祈祷を行う「カミオロシ」を生業としている点です。このカミサマやその信者の人達が建てたお堂が、数多く密集している所が「赤倉霊場」です。

厳鬼山(赤倉山)は、その急峻な地形のため、鬼神が住む場所と怖れられ、崇められてきたことは何度か取り上げてきましたが、その赤倉沢で修行を積み、霊感を授かった人々が、ここ赤倉霊場の主人公である分けです。
大石神社の大鳥居をくぐると、霊場への道が延びています。大鳥居の扁額には「大石大神」とともに「赤倉大神」とも書かれていて、この鳥居は霊場への道標でもあるようです。また、大石神社の御神体である巨石は、聖なる領域と俗なる領域の結界を示しているともいわれ、それから先は正に「神域」であるといえそうです。
神社との分岐点に立てられている案内板を見ると堂宇の数は28。お堂には、浪岡、鼻和、十腰内、五所川原、金木など、新旧の津軽の地名がつけられており、それぞれの地域のカミサマ達が、建てたものであることが分かります。その多くは、昭和30年~40年代に建設されたそうですが、カミサマ達が一体となって建てたものではないので、その神社名も「赤倉神社」「赤倉大権現」「赤倉山神社」等、様々です。それにしても津軽の信仰が、ここに集結しているような感じを抱かせます。
岩木山の信仰といえば、百沢にある岩木山神社が有名ですが、岩木山神社が古くから津軽藩の庇護を受けてきたいわば「表・官」の顔だとすれば、ここ赤倉霊場は一般の民衆が信仰する「裏・民」の顔ともいえるかも知れません。
さて、霊場へと進んで行くと、間もなく右手にひとつの神社が見えてきます。「菊之道神道教社」という社号標が立つこの社を興したのは須藤芳信という人で、碑には【秋田県山本郡八森町岩館で出生。幼少より霊感あり神仏混淆を修行す。昭和三十二年弘前市東目屋の江利山氏を頼り鬼神の地岩木山中の赤倉山に三重塔を建立し後建石御堂へ籠もり昭和四十二年宗教法人赤倉山菊之道神道教社を創設神殿を落慶大教師となる。】とありました。この社を過ぎると、「津軽赤倉山神社」と「赤倉山神社」という2つの鳥居の前に出ます。
◇赤倉霊場まで ※画像はクリックで拡大します。





津軽赤倉山神社は、案内図では「繁田むすび講社」と紹介されていますが、同名の神社は、つがる市・稲垣町繁田にもあることから考えると、ここはその本山、あるいは修行の道場なのかも知れません。
社殿の中、その御祭神の数 には驚かされます。たくさんの方々が、それぞれの神様を祀っているのでしょう。そのことは、奉納された草鞋や歌 などからも分かります。
境内には、西国三十三観音や地蔵堂などもありました。
◇津軽赤倉山神社





一方、こちらは「赤倉山神社」。この霊場の中心ともいえる神社です。この神社を建立したのは「工藤むら」という、赤倉霊場の生みの親ともいえる人物で、現在は神様として祀られています。
赤倉は、昔から修験の場であったのですが、山伏のみならず、霊験を得ようとする人々が修行に励んでいたといわれています。「工藤むら」もその一人で、大正の末頃、彼女は娘の病気等、様々な事情で、人に勧められて赤倉山に行くようになり、鼻和村の産土神様に3年3ヶ月の願をかけたり、大石神社で行をしたりしているうちに霊感を得、カミサマ(ゴミソ)になったといわれています。
その後、むらが赤倉に修行に来ていると夢の中に赤倉様が現れ、「赤倉に社を定めるように」との天啓を受け、営林署から土地を借り受け、現在の霊堂ができあがったとの事です。そんな由緒を示すように、社殿の前には、大きな「工藤むら」様の像が立てられていました。
◇赤倉山神社





霊場は、この赤倉山神社からさらに奥へと続いています。 ー 次回へ。
☆つがるみち☆

