
JRの「津軽新城」という駅を中心にして開けたこの町は、「新城」の名の通り、昔、この辺り一帯には「新城城」という城郭があった分けですが、現在は駅前から高台に向けて住宅や団地が立ち並んでいます。青森市のベッドタウンといったところでしょうか。
この津軽新城駅の近く、閑静な住宅街の中に金峰神社という社が鎮座しています。

この金峰神社は、家内安全、交通安全、さらには厄除け祈願など、この地域の信仰を集めている神社のようです。一の鳥居から小高い丘の上に向かって石段が延びていますが、そこを登り、三の鳥居をくぐると境内です。
境内の入口には注連縄が張られた大木が一本。 賽銭箱が置かれているところを見ると神木なのでしょう。
その神木のそばには、「月夜見命」と「猿田彦大神」と書かれた石碑が立っています。近くの木の根元には、これまた小さな猿田彦碑。
高台にある境内にはいくつかの末社が点在しています。
○稲荷神と勉学神
稲荷神はおなじみですが、「勉学神」とは初めてです。子どもたちやその親、受験生などがお参りしているのでしょうか。中を覗いて見ると、 不動明王などの神様のほかに、筆箱(ペン入れ)なども置かれていました。
○石神様
巨石や自然石に対する信仰が残っているのでしょうか、祠の前には注連縄が張られた2つの石碑が建てられていました。
○山ノ神様
境内の奥、拝殿の脇に建てられています。この山神の後ろに一本の木(ケヤキ?) がありますが、その根元にも石碑があり、この木も神木として祀られているようです。
◇境内の末社






社伝などによるとこの神社は、【旧社名を「蔵王宮」といい、文治年中(1185年~1189年)に、新城源治郎館主の氏神として勧請された。この蔵王宮は蔵王権現の末寺で、山岳仏教が盛んな時に蔵王信仰を広め、衆生を救い導くために源治郎が祀ったものとされる。新城城は慶長年中(1596年~1611年)、新城大学頭の時代に落城したが、村民の願いにより、神主・有馬伊与太夫が新城村の氏神として奉遷した。】とあります。
拝殿の前の狛犬は、なかなか凝ったつくりで、帽子を深くかぶったような頭をしています。「阿」の方は赤、「吽」は白と、それぞれ目と口が塗り分けられていました。
拝殿の中には、古い扁額や由緒書きなどとともに、飛行機のプロペラ?なども奉納されていて、ちょっとドッキリです。
さて、この神社の御祭神は、「廣国押武金日命」と「倉稲魂命」ですが、稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)はともかく、廣国押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)については知りませんでした。それで調べてみたら、この御祭神は安閑天皇であることが分かりました(拝殿内の由緒書きにも明記されています)。
安閑(あんかん)天皇は、【継体天皇の長子で第27代天皇。継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。 安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている。※wikipediaより】とありますが、この時代(6世紀初頭~中期)にかけては、朝廷内の対立もあったとされ、いろいろ不明な点も多く、安閑天皇についても詳しくは分かっていないようです。
いずれにしても高齢での即位、在位期間の短さは歴代天皇の中でも特徴的です。日本では古来、志半ばで不慮の死を遂げたり、政争に敗れたり不遇な人生を送った人物を「神」として祀り、その事跡を広く強調しますが、この安閑天皇もまた、幸が少ない天皇と考えられていたのでしょうか、「蔵王権現」と同一視され、多くの神社に祀られています。ここ金峰神社も旧名を「蔵王宮」と称していたのは、そういう経緯があったのでしょう。
蔵王権現は、役小角(えん の おづの)が、吉野の金峯山で修業中に示現したという伝承を持つ、【日本独自の混淆宗教である修験道の本尊である。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。「金剛蔵王」とは究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王という意。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているという。※wikipediaより】という神です。
ここ金峰神社のある新城は、修験の山である梵珠山に近いこともあって、古くから修験道が広まり、蔵王権現に対する信仰も根強いものがあったのでしょう。
明治の神仏分離により、蔵王権現を祀る各地の神社は、その本尊が蔵王権現から、廣國押武金日命=安閑天皇の置き換わったとされていますが、この社もそういう経緯をたどった分けです。
◇金峰神社拝殿





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以前は、津軽地方に残されている長慶天皇の伝承を探して、浪岡から御陵墓参考地のある旧相馬村へとやって来たときに訪れたのでした。
山号寺名は「行峯山覚應院 (ぎょうほうざんかくおういん)」。真言宗醍醐派に属する寺院ですが、ここは津軽弘法大師霊場の7番札所であるとともに、福神・七福神の一人「寿老人」を奉安している「津軽七福神霊場」のひとつでもあります。

覚應院は、【津軽藩5代藩主・信寿の時に家老・喜多村氏が故あって、茶臼館に不動尊を安置したことに始まる。以来、代々の藩主の崇敬を受け、藩の祈願所となり寺禄二十俵を受けたといわれている。※真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」より】といわれています。
本尊である不動尊は「浪切り不動」と呼ばれていますが、そのいわれは、【天正13年(1585年)、津軽為信が、秋田沖で暴風雨に遭った際、太刀を海に投じて祈念したところ嵐はおさまり、錨を上げて見ると、不動明王の尊像が網にかかっていた。為信はこの奇瑞に感謝し、「浪切り不動」として、ここに祀った。※境内由緒書き他より】という伝説に基づくものです。
茶臼館は、境内を見下ろす小高い丘ですが、鳥居から参道が延びており、 頂上に不動尊を祀っているお堂があります。
この茶臼館は、かつては砦だったところで、【堀が三重になっている要所の天険であって、長慶天皇が紙漉沢御所におられた時、供奉の溝口左膳亮が東方警備に当たった所である。溝口氏は代々修験者(山伏)の流れをつぐ家で、溝江と改姓したのは江戸の末期であったといわれている。溝口氏は長慶天皇崩御の後もこの地に在住し、行峯山を開いたもようである。】といわれています。
ー 御詠歌にも「とこしへに 変わらぬ誓い たてし丘 のぼる茶臼の 坂の下」「みどり濃き 茶臼の館に 立つ御堂 峰行き山に 行きて拝まん」と詠まれているように、 覚應院の草創と深い関わりをもっている分けです。
本堂には、不動明王ほか、たくさんの仏像が安置されていますが、中には、「浪切り不動尊」と「寿老人」 の御朱印が置かれていました。
◇茶臼館と本堂






本堂から茶臼館(不動尊)へと続く境内には、いくつかの祠が立っていますが、そのうちのひとつに龍神様を祀る祠もあ
りました。私が訪れた時には、小さな池にはまだ水が張られていませんでしたが、祠の中には龍が巻きついた女神様 が祀られていました。寿老人を祀るお堂「寿老堂」は、その隣に建てられています。
さて、寿老人は【道教の神仙。中国の伝説上の人物。酒を好み頭の長い長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている。※wikipediaより抜粋】とされていますが、その姿形から同じく福神である「福禄寿」と同一神と考えられたこともあったようです。
また、寿老人と福禄寿は、道教で祀る星宿のうち、生を司る「南極老人星(カノープス)」の化身とされていますが、日本では、北極星や北斗七星を神格化した「妙見信仰」は昔からあったものの、南極星に関してはなかったために、「七福神」以外に寿老人が信仰の対象になることはなかったともいわれているようです。
◇寿老堂





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神馬(しんめ、じんめ)は、「神様の乗りもの」とされ、元々は、日本の神社に奉納された馬、あるいは祭事の際に使用される馬を指しますが、【奈良時代から祈願のために馬を奉納する習わしがある。奉納者は民間人から皇族まで様々である。小規模な神社ではその世話などが重荷となること、また高価であり献納する側にとっても大きな負担となることから、絵馬などに置き換わっていった。また、等身大の馬の像をもって神馬とすることも多い。※wikipediaより】とされています。
津軽の神社の境内に立つ神馬も、このような経緯を踏まえているものと思われますが、昔から馬は、農家にとって大切な働き手であったために、境内に馬頭観音を祀り、馬の像を奉納することも多かったようです。
- 今回は寺社めぐりをひと休みして、今まで見てきた神馬像のいくつかを紹介したいと思います。





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◇1→津軽三十三観音霊場30番札所である「大光寺慈照閣」がある平川市保食神社の神
馬です。目や鼻、口元などが、とてもくっきりと見えます。
◇2→同じく平川市にある三十三霊場29番札所「沖館観音堂(神明宮)」の像です。
慈照閣のものとつくりは似ていますが、鋭い目をしていて、今にも走り出し
そうです。足には奉納された草鞋。
◇3→座頭石を訪ねたときに立ち寄った「一野渡八幡宮」の神馬です。体全体が金属で
覆われており、重さ軽減するために、お堂には吊るしひもがあります。鉄の鎧を
まとった騎馬という感じです。
◇4→つがる市「高山稲荷神社」の社務所前に立つ大きな神馬。
◇5→同じく、つがる市繁田の「津軽赤倉山神社」の神馬。金色で津軽家の紋章である
「津軽牡丹」が描かれています。






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◇6→鶴田町境にある「八幡宮」の神馬像です。ここは鳥居の鬼っコを探して訪れまし
た。躍動感あふれる神馬です。特に足のつくりは見事なものだと思います。
◇7→片足を上げた形の神馬の多くは、台座に支え棒があり、それで上げた足を支えて
いますが、ここ五所川原鶴ヶ丘の「八幡宮」の神馬は片足を上げたままです。ど
うやってバランスをとったのでしょうか?作り手の技。。。
◇8→雪の中に佇む弘前市・石川八幡宮の神馬。首に下がっているバケツは飼葉桶か。
◇9→年代が古い狛犬や神馬の中には、地域の方々の手で、ていねいに補修されている
ものもあります。この五所川原市持子沢「香取神社」の神馬もそのひとつです。
その足は補修されるたびに短くなっていったのでしょうか。地域の「温かさ」が
伝わってきます。
◇10→西津軽地方によく見られる手ぬぐいで頬かむりした神馬。ここも鬼っコ探しで出
かけた五所川原市長富「高おかみ神社」です。
◇11→神馬像には、いろいろ飾られているものもありますが、ここ弘前市「月夜見神
社」の神馬はクリスマス風。


さて、神馬は「神の乗り物」ということもあり、大きくて、足が速く、縦横に野原を駆けぬけていく・・といったサラブレッドのようなイメージがあります。
TVや映画でおなじみの戦国時代の「騎馬軍団」もそうしたイメージですが、もともと日本の古い時代の馬(日本在来馬)は、今とはかなり違った姿形であったといわれています。
この日本在来馬については、【すべて小型馬・中型馬であり、ポニーに分類され、これはモンゴルの他、中国や朝鮮半島で最も一般的であった蒙古馬系に属する。競馬等で親しまれているサラブレッドなどの近代軽種馬と比べた場合の特徴として、全体としてずんぐりした体形、具体的には、やや大きめの頭部、太短くて扇形の首つき、丸々とした胴まわり、体格のわりに長めの背、太くて短めの肢、豊かなたてがみや尾毛、などが挙げられる。日本在来馬は体質強健で、よく粗飼に耐える。消化器官が発達しており、そのため、野草のみでも育成できると言われる。体は丈夫で、寒冷地でも年間放牧が可能であるとされる。平均的に骨や蹄が堅く、骨折などの事故はあまり起きない。この「蹄が堅い」という在来馬の特長から、日本では雪国で馬にはかせる藁沓(わらぐつ)を除いて、蹄鉄が発達しなかった。※wikipediaより抜粋】といわれています。
- このような(上記の文中の_線のような)日本古来の馬の姿を表していると思われる神馬を2つ。左上は、青森市鶴ヶ坂「保食神社」の神馬。下は、黒石市の長谷澤神社へ行く途中で見つけた「馬頭観音社」の神馬です。
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「大釈迦」という地名は、かつて一大修験場であった梵珠山に建てられていた「釈迦堂」に因むといわれていますが、この元光寺の旧堂は、昭和15年(1940年)に荒れ寺となっていた釈迦堂下ノ寺を遷したものだといわれています。
「旧堂」と書きましたが、実はこのお寺は、現在、別の場所 に移されています。
旧元光寺があった所は、国道7号線沿いで、ここには「柳久保神社」が鎮座していますが、この神社については【御祭神 は大美那能売命 (オオミナノメノミコト)。草創不詳なるも、 もとは梵珠山の近くにあり、 火災で村内沢田に移り、 明治四十三年、 現在地に移ったという。 明治初年には相殿に能野宮・春日神社があった。※青森県神社庁HP 】とされており、この社もまた、梵珠の信仰と深い関わりをもつ神社のようです。
黒石・弘前から青森、そして五所川原方面へと交通量がとても多い所だからでしょうか、旧堂の跡には交通安全を願って六地蔵菩薩が祀られています。名前は「モビリティ地蔵」。そばには、二十三夜塔なども立っており、かつての面影を残しています。
六地蔵の後ろには「地蔵堂」も建っていますが、中を覗いて見ると、お地蔵様達には新しい着物が着せられており、以前と同様、地域の人々の厚い信仰を集めていることが分かります。
◇旧元光寺跡






現在の元光寺は、旧堂からほど近い場所にありますが、高台にある境内からは、 広く集落を見下ろすことができます。大きな本堂には「元光禅寺」とありました。
境内の一角には、「子育観音堂」があり、そこからは賽の河原を思わせるような小道が続いており、風車とともに、たくさんのお地蔵様が並んで立てられていました。これもまた津軽らしい風景です。
この元光寺には、円空作と伝わる「観音菩薩坐像」が安置されています。元々は、梵珠山山頂の釈迦堂に安置されていたものなのだそうです。
この円空仏は江戸時代前期のものとされ、【円空が本県に滞在した寛文年間のものかどうかは不明である。像容の様式形式的特徴からは青森油川浄満寺像を造立直後の像とみられるが、旧浪岡町内にはもう一体円空仏が残されており、青森から弘前を経て秋田藩領へと向かう行程の途中この地での造像の可能性は極めて高い。図像様式とも円空の寛文年間青森県下及び北海道渡島地方で造像した観音菩薩坐像の特徴にすべて一致し、寛文7年(1667)夏以降における津軽半島造像と一連のものと判断される。この時期の円空仏の頭髪の表現には二種あるが、本像は髻(たぶさ)をあらわさない形式のもので、北海道江差町観音寺像や青森市油川浄満寺像、秋田県鷹巣町糠沢部落像と共通する比較的少ないタイプのものである。頭部に改修がみられ面貌に欠損が著しいなど尊容を損なっているが、寛文7年頃の青森県下における円空仏の特徴を顕著に現している。加えて津軽半島から秋田へかけての北国での円空の造像活動の、帰途ルートが推定できるなど、非常に意義深い。 ※青森県HP「観光・文化・教育」より抜粋】
- 「円空仏」は、自然の木でつくられた素朴な仏像です。地域の仏様として守り伝えられ、愛されてきた分けですが、ここ元光寺の仏も、300年以上もの時を経てもなお、人々ともに生きているのでしょう。残念ながら、この円空仏・・拝観には予約が必要ということで、私は拝むことはできませんでした。
⇒参考:普門院(弘前市)の円空仏
◇元光寺本堂と境内





ところで、本堂の中には十一面観音が安置され、境内のいちだんと高い丘には、大きな十一面観音像が建てられていますが、これは、ここ元光寺が津軽三十三観音霊場の第25番札所である松倉観音堂の納経所となっているからです。
津軽の霊場には観音堂と納経所が離れている所も多いのですが、元光寺では、以前から、松倉山へ登れない方達や日程に余裕のない人々のために納経を代行しています。松倉観音堂といえば、津軽三十三霊場の中でも最大の難所ともいわれている所ですから、巡礼者にとっては大いに助かる分けです。
境内からも、この「うつしご本尊」である十一面観音像は見えますが、小さな山門をくぐったところから参道が延びていて、その頂上に大きな観音様がありました。
◇十一面観音像





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山号は「鷹揚山(おうようざん)」、不動明王を本尊とする真言宗醍醐派の寺院です。ここは津軽弘法大師霊場第4番札所であり、本尊の不動明王は酉年生まれの守り本尊であることから「酉年の一代様」としても知られているお寺ですが、毘沙門天を奉安する津軽七福神霊場のひとつでもあります。

このお寺については、【昭和41年、加福晃教和尚が真言宗国分寺派の末寺として開山した。修験道、加持祈祷を中心に活動し、同61年、修験道を極めるべく、寺籍を真言宗当山派修験の本山である醍醐寺(京都市)に移した。醍醐寺は、豊臣秀吉最後の観桜会「醍醐の花見」と言われるように、その勢力を広めた寺で、不動寺もその修験道の法燈を津軽の地に広めるべく、信者の迷いや悩みの相談を受け、現世利益を目的とした衆生済度のために日々の活動を続けている。※HP真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」から要約】と紹介されていますが、その開基にあたっては、次のような話が伝えられています。
①【加福晃教住職は、戦後間もなく 隣に住むおばあさんの手ほどきにより、水ごり(水行)を始め、以後、 赤倉山や出羽三山に出向き修行を続けた。ある日、住職は「町の上空を畳20畳分もある黄金色の物体が飛んできて、太さ10cmほどの縄がするすると降りてきた。その縄にしがみついたところ、ある山頂の石畳の上に降ろされた。」という夢を見た。】
②【ある日、津軽三不動尊へ参拝に出かけ、長谷澤神社に祈祷した帰り際、夢で見た太い縄があった。またその後、母の供養のため四国霊場巡りをして、高野山に詣でたところ、奥の院の『無明の松』付近で夢に見た石畳があった。】
- 住職の見た霊夢が、鷹揚山加福不動寺の寺号を取得し、堂宇の建立につながった分けです。なお、津軽三不動尊とは、「その昔、円智上人が一本の神木から三体の仏像を彫り上げた」と伝えられている不動明王を祀る平川市・国上寺、黒石市・中野神社、同じく黒石市・長谷澤神社を指します。
※①、②は、弘前公益社『こころ 津軽のお寺さん巡り 弘前編』を参考にしました。
山門をくぐって境内に入ると、そこには如意輪観音の石像とともに、弘法大師像(修行大師)が立っていました。扉を開けて本堂の中に入ると、大きな燭台の後ろに、真っ赤な火焔を背負った黒光りするお不動様が見えます。そして、そのそばには、何体もの地蔵菩薩が祀られていました。
◇境内と本堂






毘沙門天堂は、本堂の隣に建てられています。住職が修行したという出羽三山を祀る祠と、童姿のお地蔵様の前を通ってお堂へと進みました。
さっそく中を拝もうと思ったのですが残念。施錠されていました。カメラごしに見てみたのですが、お堂の中には、聖観音菩薩と、もう一体の観音様、そして、その真ん中に毘沙門天が祀られていました。「右手に仏敵を打ち据える宝棒(または三叉戟)、左手に宝塔を捧げ持つ」おなじみの姿です。
毘沙門天は、仏法を守る四天王の一人であり、また、北方守護の神様でもあることから、津軽の寺社には、そのお堂がたくさんあり、たびたび取り上げてきましたが、「武神」のイメージが強いこの神が、どうして「福神」として信仰されるようになったのか・・・その由来については諸説あり、よく分かっていないようです。
もともと毘沙門天は、インドの神話に出てくる「クベーラ」という神がその前身であったとされていますが、クベーラは、財福の神だったといわれており、それが強調され、「財宝、財徳」というイメージが庶民の間に広がっていったと思われます。
ー 【庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。鞍馬は北陸若狭と山陰丹波を京都と結ぶ交通の要衝でもあり古くから市が栄え、自然と鞍馬寺の毘沙門天の本来の神格である財福の神という面が強まり、また9世紀頃からは正月の追儺において、疫病を祓う役どころがかつての方相氏(ほうそうし:鬼を払う役目を負った役人)から毘沙門天と竜天のコンビに変わっていったことから無病息災の神という一面が加わる。平安時代末期にはエビスの本地仏ともされ、日本では毘沙門天は甲冑をつけた姿が主流となるがこの姿はエビス神の古い形態でもあり、このことは市場で祀られたことと関係がある。こうして福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。※wikipediaより】 ー
◇毘沙門天堂





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私は以前にもここを訪れたことがありますが、その時は、三十三観音めぐりが目的で、参道に立つ観音像や境内の観音堂を中心に見たものでした。
⇒以前の記事へ 求聞寺① 求聞寺②
ですが、その後、このお寺は「大黒天」を奉安する津軽七福神霊場のひとつであることを知り、もう一度訪ねてみようと思いました。

求聞寺の山号は岩木山(いわきさん)、虚空蔵菩薩を本尊とする真言宗智山派の寺院ですが、その草創は、津軽藩2代藩主・津軽信枚によると伝えられています。
当時、津軽家では、藩主の継承問題をめぐる争乱(津軽騒動)が起こりました。結果、藩主となった信枚は領内の安定を願い、真言密教の「求聞持法」の荒行を行い、寛永6年(1629年)に百沢寺(現・岩木山神社)内に、虚空蔵菩薩を勧請して「百沢寺求聞持堂」を建立しましたが、それがこの寺院の始まりとされている分けです。
虚空蔵菩薩は「広大無辺の智慧と福徳を授ける菩薩」で、求聞寺の名は「求聞持法」からとったものです。
百沢寺(ひゃくたくじ)は、明治の神仏分離により廃寺(岩木山神社となる)になりましたが、求聞持堂もまた明治9年の火災により焼失。その後、愛宕山橋雲寺の衆徒・南光院斎藤法善が小俺を取り結び、再興し現在に至っています。
神社を思わせる鳥居をくぐって参道を歩いて行くと、おなじみの三十三観音石像が道の両脇に立っているのが見えます。以前に来た時はあまり感じなかったのですが、参道には杉の大木がとても多いことに気づかされます。中には、根元がくっついている「夫婦杉」という木もあったりしますが、これも以前は気づかなかったものです。この夫婦杉は神木となっているようです。観音様を数えながら石段を登ると境内、見慣れた鐘楼堂や本堂、観音堂などが見えました。
◇求聞寺参道と境内






今回は、大黒天を拝むために本堂の中へ入ってみました。入口には「虚空蔵菩薩」と記された扁額。祭壇の上にも同じような扁額が掲げられていました。本尊は祭壇中央に祀られているようです。
天井には、津軽家ゆかりの寺らしく津軽牡丹 が描かれています。奉納された絵馬の中には、真ん中に虚空蔵菩薩、両脇に虎(寅)と牛(丑)を描いたものもあります。このお寺を象徴している(本尊と丑寅の一代様)ような絵馬です。
大黒天は、祭壇の左側(向かって)に祀られていました。
さて、「大黒天(大黒様)」といえば、「左肩に大きな袋を背負い、右手に打出小槌を持ち、米俵を踏んでいる」という長者風の、いかにも福々しい姿を思う浮かべますが、元来、大黒天は【ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラのことである。「マハー」とは大(もしくは偉大なる)、「カーラ」とは時あるいは黒(暗黒)を意味するので、大黒天と名づく。あるいは大暗黒天とも漢訳される。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である。】とされているように、青黒い身体を持つ破壊の神・戦闘の神であったようです。
日本においては、「大黒(だいこく)」が「大国」に通じるため、古くから「大国主命」と習合し、【当初は破壊と豊穣の神として信仰されていたが、後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。】とされていますが、その姿形も、【室町時代以降は大国主命(おおくにぬしのみこと)の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。】というように変容しています。なお、袋を背負っているのは、「大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたため」であるのだとか。
※【】はwikipedia他からの抜粋です。
大黒天に対する信仰は民衆の間に広まり、大黒頭巾をかぶり、手には打出小槌を持って、大黒天に扮して舞う祝福芸である「大黒舞」を生み出したり、かつては、「家を建てるとき、土間と座敷の間に中心となる柱が立てられ、そこに大黒天を祀った」という、いわゆる「大黒柱」の風習も生まれたりしました。
また、大黒天は、生活の中心である台所(カマド)を守る神様でもあることから、「家内安全」、さらには、担いでいる米俵から、農家においては田の神様、商家にとっては商売繁盛の神様として崇められていったとされています。
ところで大黒様と恵比寿様は、各々七福神の一柱ではありますが、多くは一組で信仰されることが多いとされています。これは、大黒様が五穀豊穣の農業の神であり、恵比寿様が大漁追福の漁業の神であることに起因すると考えられています。二人あわせて招福、商売繁盛(農産物、水産物)の神様という分けです。
- ここ求聞寺に祀られている大黒天は、そんな神様であることを象徴するように、右手には打出小槌を持ち(大黒様)、左手には魚を持って(恵比寿様)いました。
◇本堂と大黒天





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【深浦発祥の歴史は定かではありませんが、深浦が記録上に現われたのは、今からおよそ1,300年の昔、斉明天皇四年のことで、日本書記には阿部比羅夫将軍が蝦夷討征をして帰順した蝦夷たちを有馬の浜(吾妻の浜)に招いて大響宴を催したと記されています。 ※深浦町HPより】
以後、十三の安東氏の繁栄の拠点であったことから「安東浦」とも呼ばれ、北前船の全盛時代には「風待ちの湊」として栄えてきた分けです。
一方、自然に恵まれたこの地は、関の亀杉や北金ヶ沢の大銀杏などの巨木・名木も多いことでも知られていますが、銀杏をはじめ、たくさんの古木が密集している所は全国的にも珍しいといわれています。
- そんな深浦町の人々の古くからの信仰を集めてきた社が神明宮で、ここに名水「トヨの水」があります。

道路沿いにある社号標にしたがって少し歩いて行くと、間もなく茅葺屋根の水屋と大きな一の鳥居が見えてきます。この鳥居、石の四角の柱を組み合わせて造られており、あまり見かけない珍しいものです。
境内は、鳥居から延びた石段を登った高台にありました。石段の上からは深浦の海が見えます。横に広い大きな拝殿の前や後ろには龍神宮などの末社 が建っていました。いずれも年代を感じさせる古い祠です。
この神明宮は、【寛永11年 (1634) 津軽2代藩主・信枚が海上航行の安全と国中安泰祈願のため、吾妻館に勧請。元禄11年 (1698) 4代藩主・信政が、吾妻館の宮遠きに付き、中沢鎮座熊野宮に遷座神明宮となり、熊野宮も合祀。しかし、西海岸の豪族であった木庭袋伊豫守頼清が吾妻館を築いた時、木庭袋氏の内神である御伊勢堂を祀り建立 (神明宮) とあるから、1500年代から吾妻館の館神として祠はあったものと推察される。社家となっての初代木庭袋若宮大夫平信貞、「慶長18年 (1613) 中沢熊野宮社司となる」とあるので、寛永11年は2代木庭袋時大夫の時代に津軽藩主信枚が再建のような形で勧請し、4代信政の時代に現在地に遷宮熊野宮も合祀したものと思われる。この拝殿が明治6年に深浦小学校として使われたそうである。※青森県神社庁HPより】
- 「小学校として使われた」そうですが、確かに大きな拝殿です。
『深浦町史』他によると、木庭袋伊豫守頼清は、「文亀2年頃(1502~1520)に深浦に入り、東妻城を築き、後に南郡平賀の大光寺城主となったが、天文2年(1533)南部高信に攻められ、壮烈な戦死を遂げた。」とされている実在の人物です。その後、木庭袋家は、永禄、元亀、天正年間と戦国の動乱に巻きこまれ、居城(吾妻館、深浦城)は落城。以後、没落し、社家となった。」といわれています。
境内の一角に「花塚」という石碑がありました。説明書きによると、【安政2年2月に建立されたこの石碑は、表面に「花塚」と刻まれていることから「花塚」と呼ばれています。・・・裏面には文化年中に活躍した浦谷源助の「花塚やきのふの露に蝶ふたつ」の発句と、山崎元雄の和歌「いけ花にこころをこめし□(不明)のらばいく世たむへき神の社に」が刻まれています。】とありました。文化から安政にかけて活躍した深浦の文芸人たちの足跡を残している貴重な石碑のようです。
◇神明宮境内






さて、「トヨの水」は、古くから崇められ、愛されてきた霊泉ですが、地元の人々は親しみをこめて「しんめいさまのとよのみつこ」と呼んでいるとのことです(しんめいさま=神明宮、みつこ=清水)。
境内の手水舎(この手水舎にも満々と水があふれていました)の隣にこんな説明板が立っています。
【このトヨの水は藩政時代から禊、水垢離、茶道の清水に使われ、また往時日本海を往来した北前船にも積み込まれた貴重な飲み水でした。今もなお茶を嗜む多くの人々に愛用されています。】
付近に高い山もないのに、いったいどこから湧き出しているものなのか不思議です。
「トヨ」は「豊」なのでしょうか。尽きることのない「豊かな水」は、「豊かな生活」をももたらしたのでしょう。深浦の海を望む高台にあるこの神明宮は、人々の憩いの場であるとともに、「聖地」でもあったのでしょう。
◇トヨの水





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☆つがるみち☆




深浦町の中心部に入る手前に「大岩」という景勝地があります。文字通り「大きな岩の島」なのですが、国道から遊歩道が延びており、歩いて行くことができます。その遊歩道の入口付近に鎮座しているのが「恵比須神社」です。ここもまた小さな島になっていて、赤い鳥居が立っており、島の上に社殿があります。
その由来書きには「恵比須澗口(まぐち)の入江を利用して漁業を営む上田豊吉が、海上安全と大漁を祈願して、祠堂を建立。以後、一帯に住む人々の信仰を集める。」とありました。
御祭神は「事代主命(ことしろぬしのみこと)と船魂主命(ふなだまぬしのみこと)。事代主命は「えびす様」と同一神とされる、漁業と商業の神で福神でもある分けですが、船魂主命については、【船霊(ふなだま)とは海の民が航海の安全を願う神。天平宝字6年(762年)に嵐にあった遣渤海使船能登で、無事の帰国を船霊に祈ったことがあり、起源は相当古いようである。御神体が有る場合と無い場合がある。ある場合は人形、銅銭、人間の毛髪、五穀、賽などを船の柱の下部、モリとかツツと呼ばれる場所に安置し、一種の魔除け・お守り的な役目を果たす。また、陸上に船霊を祀る神社をおく場合もある。※wikipediaより】といわれています。
船霊(船魂)を祀ったのは漁民の他に船大工。棟梁は船が完成すると船霊をまつる儀式を執り行ったとされています。 ー 事代主命(恵比須神)、船魂主命・・ともに漁業のまち「深浦」にふさわしい御祭神だった分けです。
◇恵比須神社と大岩






恵比須神社を過ぎると、間もなく深浦町役場がありますが、この役場の庁舎の向かい側に岩壁を掘りぬいた隧道があります。
名前は「猿神鼻岩洞門」。穴門とも呼ばれるこの洞門は、深浦港への物資の安全な運搬の為に、明治25年から明治39年に行われた能代道改修工事の際に「猿神鼻岩」を掘削し造られたものです。
「猿神鼻岩」とは、道路側に突き出た大岩が猿の横顔に似ていることから名づけられたとされていますが、北前船の風待湊である深浦湊の象徴的な存在で古くから信仰の対象となっていたとのことです。
なお、この洞門は「深浦十二景」のひとつにも数えられていて、説明板には【深浦十二景猿神鼻夕照 「奇巖怪石湾東に聳江、巖上の古松翠影を波に漂はし、一條の路道岩を穿通して三個の洞門を作す、夕陽沈む處岩に波に松に絶佳の光彩を添ふ。」 大正四年十月 西津軽郡誌 島川観水著より。】と記されていました。
◇猿神鼻岩洞門






ところで、深浦町を含む西海岸一帯は、日本海に沈む夕日が美しい風光明媚な場所で、「日本の夕日100選」にも選ばれている所ですが、円覚寺のそばにある岡崎海岸も絶景スポットのひとつです。この海岸にも鳥居と社をいただく岩島があります。名前は「弁天島」。深浦町の古くから知られた名所のひとつですが、島の頂上にある展望所からは、深浦の港を望むことができます。
ここは「弁才天」を祀っている社ですが、案内板には【港口に位置するこの岩島は弁財天鎮座の島といって安東水軍盛んな時代からすでに「安東船守護深浦弁天島」と称され崇敬されていた。藩政時代の享保元年(1716年)町の船問屋や漁民は航海安全、豊漁祈願のための弁財天を祀る小祀を建てた。昭和13年修復されたとき、その造りの見事さは工匠を感嘆せしめたと言う。】と記されていました。
水の神「弁才天」を祀る社は、海辺に多く、「弁天島」と呼ばれる島や岬は各地にありますが、これは、弁才天が、海の神である宗像三女神の一柱「市杵嶋姫命(いちきしまひめ)」と同一視されているからでしょう。
- 安東水軍、北前船・・・深浦町の海の歴史を物語っている岩島です。
◇弁天島





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☆つがるみち☆



以前に訪ねた平川市の赤倉山金剛寺もそんな霊場のひとつで、このお寺には布袋尊が奉安されていましたが、黒石市にも「えびす神(恵比寿、恵比須)」を祀っている愛宕山地蔵院があります。
地元・黒石の人々からは「あたごさま」と呼ばれ、親しまれている寺院です。

この地蔵院は、黒石市内の山形町にある分けですが、すぐ隣には津軽三十三霊場・26番札所である法眼寺が建っています。
ここはまた、津軽弘法大師霊場第20番札所ともなっていて、次のように紹介されています。
【古くは京都三宝院末の修験道であったが、修験廃止により真言宗となり、醍醐派に属す。本尊勝軍地蔵尊を安置する。承応三年(一六五四)、津軽土佐守(3代藩主:信義)が創建、開基は日蔵という。信英公(黒石初代藩主)が弘前より分知となり、その後元禄十年に黒石三代領主津軽政たけ公が寺禄三十石を下賜、津軽黒石藩代々の祈願所となる。慶長年間津軽為信公が浅瀬石山上(黒石)に愛宕宮を創建、勝軍地蔵尊を勧請する。そのころ地蔵院は愛宕権現といわれていた。のちに浅瀬石山上より岩木町愛宕山橋雲寺に遷座のおり、本尊を寄進されたといわれている。※HP真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」より】
まったくの余談ですが、黒石藩の3代目の当主・津軽政たけは、後に我が国最古の釣りの指南書『何羨録』を著した津軽采女ですが、奥方は吉良上野介の娘「あぐり」で、浅野長矩の妻と同名でした。湯川裕光さんの小説『瑤泉院』 では、松の廊下で上野介が梶川与惣兵衛と、自分の娘の「あぐり」について語っているとき、それを耳にした長矩が「自分の妻と自分を揶揄している」と思い込み、逆上して上野介に斬りかかった、という筋で物語が展開していきます。なかなか面白く、興味深い「忠臣蔵物」でした。
話がそれましたが、津軽藩2代目・信枚の「黒石・高賀野から、雲にのって将軍地蔵が渡ってきた」という霊夢により築かれた旧岩木町の橋雲寺のルーツは、ここ黒石の愛宕様だった分けです。この地蔵院には、普賢菩薩も合祀されており、辰年と巳年生まれの「一代様」としても多くの信仰を集めています。
山門をくぐって境内へ進んで行くと、「地蔵院」という名前通り、「身代地蔵尊」や「水子地蔵尊」のお堂があり、本堂とともに、たくさんのお地蔵様が祀られていました。ただ、お堂はいずれも施錠されていて、その中を拝むことはできませんでした。貼り紙によると「いろいろな物の盗難が相次いでいるため・・」とあります。残念なことです。
◇愛宕山地蔵院






さて、「えびす神」は【イザナミ・イザナギの間に生まれた子供を祀ったもので古くは「大漁追福」の漁業の神である。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす、商業や農業の神となった。(七福神の中では)唯一日本由来の神。※wikipediaより】といわれていますが、「えびす」は大国主命の子である事代主神と同神であるとされていたり、あるいは、古代に東国の者が「東えびす」と呼ばれていたように、異邦の者を意味するともされています。
しかしながら、私たちが親しんでいる「えびす様」は、「狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿」で、「えびす顔」と称されるふくよかな笑顔の神様ですが、その信仰の広がりは、中世以降の商業発展と深い関係があるとされています。
境内を真っ直ぐに進んだところが「大師堂」で、「えびす様」は、このお堂に弘法大師とともに奉安されていました。ここにも鍵がかかっていたために、ガラス越しに少しだけ、その姿を拝むのがやっとでした。
◇大師堂(えびす神)






この地蔵院の山門の隣に由緒書きが立っていますが、その中で「黒石よされ」の由来について記しています。
「黒石よされ祭り」 は黒石市の名物で、祭り期間中に行われる流し踊りは「日本三大流し踊り」にも数えられています。
「よされ」は「貧困や凶作の世は去れ」という意味であるとされていますが、『黒石よされ節』は、「♪黒石よされ節どこにもないよサァーアンヨ♪」という出だしで、にぎやかに始まります。
この民謡の中に「♪踊り踊るなら 愛宕の庭(つぼ)でサァーアンヨ 深くなるほど御堂のかげヨサレサァーアンヨ♪」という一節がありますが、「愛宕の庭」とは、ここ愛宕山地蔵院のこと。 - ここは「黒石よされ」の発祥の地でもあった分けです。
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☆つがるみち☆



前回ご紹介した「山ノ神」の鳥居のそばに、燈明杉への道しるべがあります。
「燈明杉へ170m」 ・・・矢印にしたがって進みました。すぐ目の前に、周りの杉木立と比べて、明らかに太さも大きさも違う貫禄のある大杉 がありました。いかにも燈明が下がるのにふさわしいような枝ぶりで、「これが燈明杉か?」と思いましたが、道標に記された距離と合わないようで、どうやらこの大木ではなさそうです。それにしても、見事な杉の木でした。
そこからさらに進んで行くと、森の中には「修験場の跡」を思わせるような社がいくつか点在していました。

◇弁天宮
七福神の一員「弁才天」のお堂です。元来は、インドの河神であることから、水辺や島、池、泉など水に深い関係のある所に祀られている水神ですが、多くの社の境内には神池があります。ここの弁天様 も、池の真ん中に祀られていました。

◇毘沙門宮
弁天宮から少し進んだところに鳥居を伴って鎮座しています。毘沙門天 は「七難を避け、七福を与える」神仏。仏教を守る四天王の一人で、「北方守護の神」とされています。都からみて「北」にあたる津軽には、この神様を祭る社がたくさんあり、その多くは坂上 田村麻呂の伝説と結びついています。

◇淡嶋社
小さな祠が見えたので近づいて見たら淡島社 でした。草藪の中にポツンと立っていて見過ごしてしまいそうです。周辺にはこんな祠がもっとあるのかも知れません。淡嶋社は、神話では「国造りの協力神」である少彦名命を祀っている社ですが、この神は医薬・穀物・酒造の神として、津軽でも多くの神社に祀られています。

◇観音堂
辺りで一番高い丘の上には観音堂があり、十一面観音が祀られていました。十一面観音は頭の上に11の顔をもち、幅広く人々を見守り、災難回避、病気治癒、財福授与、延命、死後成仏などのご利益があるとされています。ここでは、慈悲の神様 として祀られていました。
- 日本では古来より、山そのものを御神体とする山岳信仰が生まれ、山中にある大石や巨木、滝や泉などは神霊・山の神・水神などが宿るものとして崇められてきました。とり分け、山岳に入って修行し、その霊力を体得し、呪術宗教的な活動をすることを旨とする修験者たちは、自然の神を崇め敬い、神仏にその修行の成就を祈願したと思われます。この堂ヶ平山中にある龍神宮、山ノ神、弁天宮、観音堂などは、そのことを物語っているように思います。

観音堂からは下りの道が続いていて、歩いて行くと、何と道路沿いの鳥居 へと出てしまいました。目指す燈明杉は見つかりません。
仕方がないので、もう一度山ノ神へと戻り、案内板を見たところ、毘沙門宮を回りこむように燈明杉への道が延びているようです。
気を取り直して、歩き始めましたが、この登り道、なかなか急で何回か立ち止まって休みました。しばらく登ると杉木立がとぎれ、目の前に大きな杉が現れました。
巨木の傍らには小さな狛犬と祠 が建っていて、中には山ノ神 が祀られていました。そばにある説明板には、次のように記されています。【「県指定天然記念物 燈明杉」 - この杉がある堂ヶ平一帯は、津軽地方における修験道の中でも古い歴史をもつところである。いつからか定まった時期に天からこの杉に燈明がおり、光を放ったことから燈明杉と呼ばれ崇められ、その燈明の具合により、作物の豊凶などを占ったと伝えられている。また、昭和30年代までは、「かんかけ(鍵掛)」の風習も見られた。樹齢は約700年と推定されるが、樹幹の樹皮にはつやがあり、樹勢はなお盛んで樹姿も整然としている。根周13.5m、幹周6.6m、樹高約33mで、厳鬼山神社の大杉2本に続く巨木である。※説明板より】
「定まった時期」とは「毎年4回、ほぼ同じ時期」といわれているところをみると、四季の移り変わり(春分、夏至、秋分、冬至)を指しているのかも知れません。また、「かんかけ(鍵掛)」とは、いわゆる「願かけ」のことで、「好きな人と結婚できるよう祈願する」風習であるといわれています。
その姿は、高さ、太さも他の杉を圧倒していて、「孤高の巨木」という感じです。縦横に伸びたその枝は、正に「燈明」を思わせ、とても神々しい感じがします。以前、金木町の十二本ヤスを訪ねたときにも感じたのですが、山中でこのような巨木に出合ったときに、そこに「神様」を見るのではないでしょうか。地元の人々にとっても、この燈明杉は長い間崇められてきた神木だったのでしょう。そして、その前で五穀豊穣や家内安全を祈願していたのでしょう。それは現在でも続いています。
◇燈明杉





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◇つがるみち◇



堂ヶ平山(どうがたいさん:496m)については、次のような話が伝えられています。
【本県にスキーが入って間もない1919(大正8)年。スキーで弘前市大沢から堂ケ平山を越え、大鰐町折紙地区に抜けたパーティーがあった。リーダーは、本県でのスキー普及に尽力した油川貞策大尉だった。おそらく、本県における山岳スキーツアーの第1号とみられる。同年1月28日付の東奥日報はそのときの模様を次のように伝えている。「歩兵第五十二連隊は油川大尉の指導で将校五人が一週間スキー術を練習。熟達したため一月二十五日、弘前中学教諭一人を含む七人で山越えを計画した。午前七時、連隊に集合。堂ケ平山山頂までは雑木の密林で苦労。また下りは急斜面のため斜滑降で慎重に滑り午後十一時半、折紙地区に着いた」※Web東奥「あおもり110山」より】
今はスキー目的で入山する人はなく、山菜やキノコ採り、そして、名水「桂清水」を求めてやってくる人々などで賑わう山です。
この堂ヶ平山一帯も、中世から江戸時代にかけて、山伏たちの「修験の森」であったところで、山麓にはかつて修験の寺などもあったそうですが、現在でも山中に鳥居やお堂、祠などが点在し、かつての面影を残しています。
案内板 では、「堂ヶ平神社」となっていますが、それは、これらのお堂や祠を総称したものと思われます。一帯全部が「境内」だといえばいいでしょうか。
大沢の集落を過ぎると堂ヶ平の山並みが見えますが、そこからは細い林道となっており、杉林の中を進んで行くと、やがて鳥居や祠などが現れます。とても心細い山道ですが、視界が開けて目指す「桂清水」が見えたときには、ほっとしました。
◇桂清水まで






「桂清水」という同名の湧水は、津軽北斗七神社のひとつである乳井神社にもありました。乳井神社のそれは、「昔、境内にあった桂の木の根元から清水が湧き出していたことから名づけられた」ものですが、ここ堂ヶ平の桂清水は、文字通り、ほんとに桂の老木の根元から、勢いよく水が湧き出しています。
「よく水の流れが尽きない(とぎれない)ものだな・・」と感心するほどの水量です。「自然の不思議」といえばいいでしょうか。
地域の人々は、そんな桂と湧水の姿に水の神「龍神」を見たのでしょう。桂の根元、水の出口には「龍の面」がはめ込まれていました。
ー【桂清水は1988(昭和63)年、県指定「私たちの名水」に選ばれた。これを契機に水をくみに来る人が急増、土、日曜日には、順番待ちの行列ができるほどだ。・・・地元大沢地区には昔から「おさの(大沢の)どがでの(堂ケ平の)桂水飲めば、80ばさまも若ぐなる」という歌があり、名水を誇りにしている。この歌は津軽民謡『ドダレバヂ』の節に合わせ盆踊りで歌われる。※Web東奥「あおもり110山」より】ー
◇桂清水





さて、堂ヶ平山一帯は、鎌倉時代初期、この地方に大きな勢力を誇った熊野系修験の「福王寺跡」とされているところですが、藩政時代には「金光山市応寺」という修験の寺が置かれていたともいわれています。
「福王寺跡」は、前述の乳井神社一帯にもあったとされています(※「桂清水」という名前にも共通点があるように思います)が、だとすれば、堂ヶ平山から尾開山、大鰐阿闍羅山、そして乳井地区にかけて、延々10数kmにも及ぶ、一大修験場が形成されていたことになります。福王寺氏(乳井氏)をはじめとする当時の修験寺が強大な勢力を持っていたことがうかがわれます。
桂清水の後ろには「龍神祠」があり、そこから少し進むと、「山ノ神」を祭る神社がありました。鳥居をくぐり、坂道を登ると、見事な桂の老木があり、そのそばに「大山祇神社」のお堂がありました。中には、2体の山ノ神。この山全体を守護しているのでしょう。ここからさらに小高い山に向かって道が延びており、いくつかのお堂が建っています。
◇山ノ神堂(大山祇神社)





ー 次回へ続きます。
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☆つがるみち☆



自然歩道の名前は名水と忍者修験道のみち 。「忍者修験道」とは、2つの山一帯は、中世から江戸時代を通じて、山伏(修験者)達の修行の場であったことに由来しています。また、「名水」は、尾開山の中腹には「御茶ノ水」、堂ヶ平山には「桂清水」という、いずれも県の「私たちの名水」に認定されている湧水があることから名づけられたものです。
私はまず、石川地区にある「御茶ノ水」を訪ねてみることにしました。

御茶ノ水へは、大仏公園(石川城址)のそばを通り、「文学の丘」という見晴らしのよい台地へと進みます。そこからは、りんご畑の中の道路を進んで行く分けですが、いつの間にかりんごの花も過ぎ、実をつけていました。しばらく行くと「尾開林道」の入口が見えますが、狭い道を通って行くと、やがて御茶ノ水へと出ます。
ところで、この尾開山(おびらきやま:508.8m)は、「クリの山」といわれたほど、一帯からはクリがたくさん採れたそうで、「昔は、山全体がほとんどクリの木で覆われていた。今見られる杉林もリンゴ園も、みんなクリ林だった」といわれています。山頂には「種グリ」と呼ばれる幹周り4.8mというクリの巨木もあるのだとか。
クリは、地元の人々の大切な収入源でもあったようで、【収穫期に強風が吹くとその夜、太鼓をたたきながら「明日は山開きだ」と地区内を触れ回り翌日午前7時、地区民が山に向かって一斉に走りクリを拾った。クリ拾いはその日の正午まで、と決まっていた。それ以降は自分の山でも入ることは許されなかった。山を守るためだった。半日だけの収穫だが、180キロを拾う者もいた。このクリを馬に引かせ、黒石、大鰐、平賀、鯵ケ沢など周辺市町村に売りに行った。「コメ1升、クリ1升」と言われたように、コメと同じ価値だった。クリをコメや魚と交換する人もいた。】という話が残っています。
また、【当然クリは、ほかの地区から狙われた。夜陰に紛れて忍び込み拾う人もいた。このため同地区では「1人たりとも山に入れるな」と2カ所に番小屋を建てて見張りを置いたほか、シーズンになれば常時山を巡回した。運悪く見つかったクリ泥棒は、太鼓を先頭に同地区内を引き回された。】ともいわれているところをみると、ここは正に「クリの村」であったようです。※【】はWeb東奥「あおもり110山」からの抜粋
前述したように、尾開山一帯は中世からの「修験の森」であった分けですが、江戸時代には津軽藩の戦術師範山鹿一族の修練の場だったといわれています。また、弘前城築城の際、尾開山山麓の木材が使われた、と伝えられているなど、地域の人々は、古くから、尾開山と密接にかかわってきたようです。
◇御茶ノ水まで






現在も、石川地区の人々の尾開山の豊かな自然を守ろうとする営みは続けられており、御茶ノ水の休憩所には、「ブナの森造成」と題して、こんな文が 掲げられていました。
さて、この尾開山の名水「御茶ノ水」ですが、【昔は「長坂の水」と呼ばれていた。1881(明治14)年9月10日、明治天皇が東北ご巡幸の際、弘前市石川地区の斎藤七内氏の家で休憩された。そのとき、地区総出でこの水を選び、天皇にお茶を差し上げた。以来、この水は「お茶の水」と呼ばれている。】といわれています。
明治天皇一行は、明治9年と同14年に青森県を巡幸されたといわれています。県内には「御膳水」や「御茶水」と名づけられた名水が数ヶ所ありますが、いづれも明治天皇が東北を巡幸した際に、お茶や料理用として使用された湧水で、ここの御茶ノ水もそのひとつだった分けです。
林道沿いに水屋と休憩所があり、そばには明治天皇のご巡幸記念碑が建っていました。水量はとても豊富で、一口飲んでみたのですが、冷たくとてもおいしい水でした。
私が訪れた時には、既に何人かの方が水汲みにやってきていましたが、水が入ったペットボトルが20~30本あまり、びっしりとダンボールに詰められていました。中には、「じょうご」を取り付けたホースを水の出口に置いて、ポリタンクに入れている方もいます・・・アイデアですね。
この方たちは、ここの常連のようで、「いろいろな所の湧き水を回ったが、ここのが一番良い(おいしい)。ペットボトルに汲んでいって、コーヒーを飲むときなどに使っているが、水は2ヶ月はだいじょうぶだ。」と言っていました。
この御茶ノ水からは、もうひとつの湧水である「堂ヶ平桂清水」 までの自然歩道が続いていますが、道の状態が悪いため、通行止めになっていたので、いったん戻って、大沢地区から堂ヶ平方面へ向かうことにしました。
◇御茶ノ水





ー 次回へ続きます。
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☆つがるみち☆



「鶴ヶ坂」という地名は、実はこの炭焼藤太の伝説からきていて、【世をしのんで隠れ住んでいた藤太が、傷ついたツルが湯浴みをして、やがて治って飛び去ったのを見て湯を発見した。それから「鶴の湯」と呼び、土地の名前も鶴ヶ坂というようになった。※『青森の伝説』】といわれています。
この話が物語っているように、鶴ヶ坂地区は、かつては「鶴ヶ坂温泉郷」と呼ばれていた古くからの湯治場でした。

この鶴ヶ坂の駅の近くに保食(うけもち)神社という社が鎮座しています。
線路のそばにある神社ということもあって、そこへ行くには線路を渡らなければなりませんでした。このような参道は初めてです。注意書きを見ながら、おそるおそる渡りました。豪華な注連縄が張られた鳥居をくぐると、小高い丘の上に境内があります。ここからは、梵珠の山並みや鶴ヶ坂の町並みを望むことができました。
鶴ヶ坂は、藩政時代に「津軽五牧」と呼ばれた津軽藩の牧場のひとつだった所です。
「津軽五牧」とは、ここ鶴ヶ坂の他に、岩木山麓の「枯木平」、十和田湖周辺の「滝ノ沢」、小牧野遺跡がある「入内」(※小牧野遺跡一帯は、江戸時代には放牧地であったことが分かっています)、そして八甲田山への入り口にあたる「雲谷」に置かれていた牧場を指します。 ⇒津軽五牧
五牧のひとつ、雲谷(もや)については、【寛永8年(1631)、弘前藩の命を受けた川越源右衛門を牧頭とし、献上馬・進上馬などの名馬養育のため開かせたと牧場跡の石碑に記されています。この石碑から十和田湖方面へ進むと萱野高原 の茶屋が見えてきます。ここのお茶は飲むと長生きするといわれており、川越源右衛門が雲谷の牧場で働かせている牧夫の健康維持のため、畑で採れた雑穀と山で採れたきのこ等を配合し、焙じて飲ませたのが起源とされています。※HP「青森歴史街道探訪」より】と紹介されていますが、津軽領産の馬は鷹とともに藩祖・津軽為信の時代から、関白をはじめ、有力諸大名への献上品として珍重されていたとされており、優良馬を産出していた「津軽五牧」は、津軽藩の外交において重要な役割を果たしていたとのことです。
◇保食神社①






さて、鶴ヶ坂の牧場は「津軽坂の牧」と呼ばれていましたが(※「つるがさか」と「つがるざか」・・まぎらわしいですが、「鶴ヶ坂」は「津軽坂」が転化した地名だともされているようです)、境内の由緒書き等によると、【保食(うけもち)神社は、弘前藩が良馬産出のため開いた牧場「津軽五牧」の一つ「津軽坂の牧場」があった場所です。寛永15年(1638)、弘前藩3代藩主・津軽信義は家臣に命じ、南部藩領倉内村から牧司・倉内図書を招き津軽坂に牧場を造らせ、牧頭としてその経営にあたらせました。その際、村に馬頭観音を祀った惣染堂(そうぜんどう)を建立し、馬の守護神としたのが始まりとされ、その後、惣染宮、保食神社へと名前を変え、現在に至っています。】と説明されています。
牧場の規模は東西二里、南北三里、下付された馬の数は牝馬15頭、牡馬1頭だったといわれていて、「津軽信義に良馬1頭を献上したことから、絵や書が得意であった信義の御染書が奉納され、御神体として祀られるようになった。」とのことです。
現在では、国道や鉄道が走り、往時の面影は見られませんが、高台に鎮座するこの保食神社は、かつての様子を伝えているように思います。
牧場に由来する神社ということで、拝殿の前には狛犬とともに神馬が奉納されていましたが、そのがっしりとした姿形は、駿馬というよりも、農耕を支える「働き者」という感じがしました。
◇保食神社②





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☆つがるみち☆



先回は、そんな「梵珠の名水」として、浪岡・吉野田の十和田神社(十和田霊泉)をご紹介しましたが、同じく梵珠の麓、五所川原市野里というところに、十和田霊泉と同様に、県の「私たちの名水」に認定されている湧水のある社があります。
社の名前は中山大権現。霊泉は「恵の泉」と呼ばれています。
この中山大権現には、国道101号線から分かれた県道を進んで行く分けですが、この道を真っ直ぐに進んだところには、「鬼っコ」が3体も掲げられている闇おかみ神社があります。闇おかみ神社を訪ねてから何ヶ月も経っている分けではありませんが、何となく懐かしい感じがしました。
農業用の大きな「長橋ため池」の付近から曲がって、梵珠山の方へと山道を進んで行くと、赤い鳥居が立ち並ぶ境内へと出ます。とても静かな場所で、辺りには小鳥の声と泉の湧き出る音だけが響いていました。
この境内の「恵の泉」は、「頭痛や眼病、皮膚病」などによく効くとされており、多くの人々が訪れるとのことですが、境内には、そんな来訪者の方々が気軽に休める「憩いの家」なども建てられていました。鳥居の先には、祠や社殿が見えます。
◇中山大権現境内






ひとつの鳥居の先に祭られていたのは、何と大きな石。祭壇が設けられており、巨石には注連縄も張られているところをみると、これは御神体の神石なのでしょう。その由来は分かりませんが、ここにもまた巨石信仰が見られます。それにしても、ごろんとした大きな神様です。隣にある鳥居をくぐって石段を登ったところに、社殿と祠がありました。
この社の由緒などは分かりませんでしたが、権現(ごんげん)とは、【日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。※Wikipediaより】・・いわゆる神仏習合で「仏が民衆を救う目的で姿をあらわした姿(神)が権現」とされていますが、多くは山岳信仰と修験道が結びついて広まったものといわれています。
梵珠山が修験道のメッカであったことから考えると、ここ中山大権現もまた、修験者にとってひとつの聖地であったのかも知れません。修験者達は、こんこんと湧き出る「恵の泉」で身を清め、修行に励んでいたのでしょうか。
◇中山大権現






県の名水認定の碑が立っている辺りは、きれいに整備されていて、緑に囲まれた山からは、水量豊富な水が音をたてて流れ出ていました。「恵の泉」という名前にふさわしい霊泉です。
多くの名水や霊泉には、龍神様が祭られていて、その水の出口は龍をかたどったものがほとんどですが、ここのそれは、何と「ライオン=獅子」です。
山伏(修験者)達は、しばしば神社の境内で神楽を行い、獅子頭を回して「護国豊穣」「病魔退散」等の祈祷を行ったとされていますが、 その祭りの時に、神霊が獅子頭に降ろされ、獅子頭はご神体が宿った「権現様」となる・・といわれています。
- この「恵の泉」の獅子もまた、獅子頭=権現様にあやかったものなのでしょうか。
「恵の泉」は、地元はもちろん、県内外のたくさんの人々から愛されているようです。社殿の中には、岩手県の方が作った「泉」と題する讃歌が掲げられていました。
(※下の画像をご覧ください)
◇恵の泉





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☆つがるみち☆



「休憩場所も神社」などとこだわっている分けではないのですが、たまたま適当な休む場所がないときに、ちょこっとおじゃまして、境内をぶらぶら・・という感じです。
そのような社のひとつが、弘前市大和沢地区に鎮座している大狼神社で、ここには、旧相馬村沢田の神明宮を訪ねた帰り道に立ち寄りました。

この大狼神社は、アップルロード沿いにあります。私は、西目屋村や旧岩木町へ行くときには、アップルロード(弘前市石川の青森県道260号石川百田線と、百沢の青森県道30号岩木山環状線、青森県道3号弘前岳鰺ケ沢線を結ぶ、22 kmの道路。日本有数のリンゴ栽培地帯において農産物の輸送を担う広域農道。※wikipediaより)をよく走るのですが、この道路沿いには、小栗山神社などもあります。
大狼(おおかみ)神社とは、何とも不思議な名前ですが、名前の由来は、「大神」から転化したとも、あるいは付近の地名である「狼森(おいのもり)」からきているともいわれています。「狼森」は文字通り、昔、「狼が住む森があった」ことから、その名がつけられたとされていますが、アップダウンが連続する道路沿いは、かつては、鬱蒼とした狭隘なところだったのかも知れません。
一の鳥居から、上に向かってやや急な石段が延びていて、登りきった小高い丘の上に社殿があります。境内にある由緒書きには、【昭和29年に大和沢地区にある稲荷神社の分神として建立された。家内安全、護国豊穣、交通安全、厄払いと町内の守護神として奉られているが、特に合格祈願に御利益があるといわれている】とあります。受験生なども訪れるのでしょうか。
稲荷神社の分神とあるように、御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。ここでは狐が神使です。
拝殿の中には、「狼=wolf」にあやかったのでしょうか、「WOLF BRAND」という絵馬?も掲げられていました。赤いりんごが描かれているところをみると、りんごのブランド名なのでしょうか。
◇大狼神社






拝殿の脇からは遊歩道(東北自然歩道)が延びており、「陸羯南詩碑」がある山頂まで続いているようです。行ってみようと歩き始めましたが、これがとんでもない藪道で断念。しかたなく、下へ降りました。
ですが、鳥居の前の案内板を見ると、この神社の先にもうひとつ登り道があったので、そこから登ってみることにしました。
ここもまた、「藪をかき分けかき分け」といった感じでしたが、頂上付近には、石灯籠や社殿の跡、祠なども建っていて、かつては、ここも神社だったことを思わせます。ここからの岩木山方面並びに弘前の街の眺めはとても素晴らしいものでした。もう少しがんばって登ると、陸羯南の詩碑が建つところへと出ます。
ところで、私は陸羯南(くがかつなん)という人物についてはあまりよく知りませんでした。少し調べてみると、【弘前生まれ。本名中田実。新聞記者、思想家。欧化主義に反対して官を辞し、明治21年新聞「東京電報」、翌年「日本」を創刊。国民主義を唱え政治評論で活躍。・・・ 1888(明治21)年には新聞「日本」をつくり、翌1889(明治22)年には創刊号を出した。その発行の趣旨は、「わが『日本』は、もとより現今の政党に関係あるものに非ず、しかれども亦、商品を以ってみずから甘んずるものにあらず、吾輩の採るところ既に、一定の義あり。」こうして新聞「日本」が取り上げたのは、時の政府に対する痛烈な批判だった。それらは政府の腐敗を論じ、国の政治のあり方を述べたものである。※wikipedia他より】 - 国民主義を唱えた近代ジャーナリズムの先駆者と形容された「国を思う」「志の高い」人物だったようで、正岡子規をはじめ、多くの文人達と交流があったとされています。
この丘には陸羯南が詠んだ五言絶句の石碑が、司馬遼太郎さんの文とともに建てられています。
名山出名士(名山名士を出す)
此語久相伝(この語久しく相伝う)
試問巖城下(試みに問う巖城の下)
誰人天下賢(誰人か天下の賢)
- 名山の見える土地はすばらしい士を出すという。この言葉が世におこなわれて久しいが、しかし試みに問うに岩木山の秀峰を見るこの弘前城下から一体どんな天下の賢が出ただろう。 司馬遼太郎『北のまほろば』 -
◇陸羯南詩碑





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☆つがるみち☆



桜の名所である芦野公園北東部の小高い丘にあるこの地蔵尊は、恐山と同様にイタコの霊媒が有名で、旧暦6月22日からの例大祭には県内外から多くの参詣客が訪れ、哀調を帯びたイタコの「口寄せ」に聞き入る人達が見られます。
地蔵堂内とその周りには、数多くのお地蔵様(大小約2,000体とも)が祀られているのも特色のひとつで、金木町出身の作家・太宰治も「ふるさとの名物」に挙げていたといわれています。

鳥居の上に三角形の破風(屋根)が乗った山王鳥居のような特徴のある山門?をくぐると境内へと出ますが、その山門の前に慈覚大師の像が建っています。
この地蔵尊の宗派は天台宗で、東北の総本山は平泉中尊寺ですが、その由緒については、【ここ川倉の賽野川原は慈覚大師の開創と伝えられる点は、下北の恐山と同様であるが、天空からお燈明が降り、掘ると一体の地蔵尊が出土、これを安置したのがその始まりともいう。文化、文政の頃から参詣人が増えたということから、およそ170年も前から民間信仰のメッカとして支えられ・・・。※案内板より】とあり、慈覚大師の開基伝説が残っています。
私が訪れたのは5月の中旬でしたが、どんよりと曇った雨空・・しかも霊場ということで少し「寒気」がしましたが、境内をめぐってみました。
本堂(地蔵尊堂)の隣にひとつの供養堂が建っています。中に入って見ると、真ん中のお地蔵様をはさんで、左右には風車やミッキーマウスなど、子ども向けの人形がたくさん置かれていました。人形の供養堂のようです。
そして、その奥には、数え切れないほどの花嫁人形や新郎新婦の人形が飾られて(祀られて)いました。
この地蔵尊には、「未婚の男女の霊が結婚適齢期に達すると神様が夫婦として結びつけてくれる」という伝説があるとのことですが、『死霊婚(冥婚とも)』と呼ばれるこの儀式は、「独り身で死んだ青年や子供たちに、死後の世界で嫁や婿を迎えさせ、成仏させてやりたい」という遺族の想いから生まれたものといわれています。
ー きれいな花嫁・花婿の人形には、そんな切ない「霊」が宿っている分けです。
◇慈覚大師像と供養堂など






境内から、両端に風車が並んだ坂道が延びていますが、ここが「賽の河原」と呼ばれる場所です。
地元紙にこんな記事がありました。 - 【津軽地方では、夭折(ようせつ)した子どもの供養のために木や石で地蔵を造り、名前を付けてムラの地蔵堂や墓所へ奉納して、定期的に衣装を替え化粧を施すという、独特なスタイルがはぐくまれてきた。旧暦6月22日~24日には、津軽の各ムラの地蔵堂に婦人たちが集まる。御詠歌を唱え百万遍(ひゃくまんべん)の数珠を回して地蔵を供養した後、持ち寄った料理で会食が始まる。また、集落近くにサイノカワラという霊場を設け、そこに地蔵を奉納し、供養の大祭を行う習俗も多い。※陸奥新報『地蔵信仰の広がり』より抜粋】
賽の河原の坂道を降りて行くと、十字前掛けをした大小のお地蔵様がありました。風車のそばにポツンと立っているもの、お堂の中に納められているものなど、様々です。かつては夜や雨の日にここに来ると、亡くなった子どもたちが遊ぶ気配が感じられたという伝承もあったのだとか。。
◇賽の河原






本堂の中には、子供服や靴、玩具など、幼くして亡くなった子供たちの遺品が、所狭しと並べられ、積まれていました。参拝者達が奉納した草鞋や供物も。
大祭には、県内外から【幼子を亡くした人々が集まる。本堂では、川倉地蔵講中の世話で参詣者が諷誦文(ふうじゅもん)を書き、近隣の僧侶が法要を行う。参詣者は本堂正面の裏に並ぶ我が子の地蔵へと向かい、着替えさせ供物をあげる。本堂の裏ではイタコたちが小屋を立て、依頼に応じてホトケ降ろしを行う。※陸奥新報より抜粋】とのことです。
本堂の後ろに並べられたお地蔵様には圧倒されます。いったい何体あるのでしょうか。ちょっとしたスタジアムを思わせます。一体一体にそれぞれ大きさがあり、表情があり・・・参詣者の方々は、そんな自分のお地蔵様に語りかけるのでしょう。
この川倉地蔵尊に祀られている多くのお地蔵様や「冥婚した花嫁・花婿」たち・・・その様子を漢字一文字で表すとすれば、それは「未」という文字でしょうか。
◇本堂内





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☆つがるみち☆

