
【昔、大水が出て橋もなく、通行人が難儀をしたので人夫が川渡しをしていた。しかし、ある日、川魚がたくさん群れたので、人夫たちは夢中になって魚を捕っていた。そこへ一人の旅の僧がやってきて、川を渡してくれと頼んだが、籠に入れてある魚を担いでくれれば渡してやるという。殺生の手伝いはいやだったが、しかたなく僧は籠を背負い、人夫に負われて川を渡った。しかし、立ち去り際に、たもとから小石を三つ取り出して川に投げ、「七代七流れ、この川に魚をのぼらせない」といった。それから、駒込川は魚の住まぬ川になった。※『青森の伝説』角川書店】 - 実際、駒込川は酸性が強く、魚は住めず、農業用水にも利用できないことから、昔は「降魔籠(こまごめ)川※悪いものが住む川の意」と呼ばれていたようです。
青森市の戸山地区は、この駒込川の近くで、現在は団地が立ち並んでいますが、一帯からは、縄文時代の遺跡が見つかる等、太古の昔から文化が開けていたところです。
「戸山」の地名は、近くの砥取山から砥石を産出したことから、「砥山」と呼ばれたことがその起こりで、菅江真澄は『すみかの山』において、「雨になりそうなのでためらって昼から出発し、道をわずかにくると、砥山という村があり、ここにある研磨石は、青砥山にあるこまかい砥山にもまさるよい石であるが、神のおられるところであるから、祟りがあるのをおそれて掘り取らず・・・」と記しているとのことです。
この戸山地区に斧懸(おのがけ)神社という、少し変わった名前の社があります。
その珍しい名前に惹かれて訪れた分けですが、道に迷いました。何とか赤い鳥居を探し当てたのですが、どうやらこの鳥居は裏口だったようで、結局、急な坂道を登るはめになりました。
あらためて社殿から表側の一の鳥居に下りてみました。鳥居の両脇には大きな社号標が2つ立っており、そばには、保食神と猿田彦神の碑も立っています。
参道の石段を登りきった辺りは小高い丘になっていて、東屋などもあり、そこからは青森市内 を見下ろすことができます。
境内社のひとつは久須志神社。大己貴命と少彦名命 を祀っているのでしょう。
虹梁に彫られた龍 など、なかなか見ごたえのある社殿ですが、特に木鼻の獅子は2体とも片足を上げ、参拝者を招いているかのようです。
◇参道と境内











さて、由緒書き等によるとこの神社は、【延暦20年(801年)に坂上田村麿御草創とも伝えられ、一時はその創建者である田村麿を祀ったこともあると伝えられています。「青森史」によりますと、元文元年(1736年)に戸山村と戸崎村が再建したとされており、また明治初期に青森県が編纂した新撰「陸奥国史」の社寺縁起旧期の中にも、この神社について砥山神社と記されており、「元は斧懸神社と云う」とあります。】と紹介されていますが、【津軽藩から来た砥石取りの人夫たちが、一夜にして行方不明になることが何度も続いたので、山の神の怒りにふれ「神かくし」にあったものと思い、山の神をなだめるために斧懸神社を創建した。】という説もあるようです。
御祭神は大山祇神ですが、「斧懸」という名前は、昔、木こりたちが山へ木を伐りに入る際に境内に生えている松の木に捧げ物をし、【祈りを込めて、斧の形に枝を払った木を放り投げ、みごと松の枝にひっかかった者だけが山に入ることを許される習慣があった】ことに由来するとされています。
菅江真澄は「砥山という村があり、斧掛明神という神社があった。その由来をたずねると、斧かけの松というのが御社のかたわらにたっていた。むかし木こりが宮木を切ろうというとき、まず斧にみてぐら(弊帛=神への奉献物)をとりそろえて、これにかけ奉ったという。」と記し、「花の木を くだすもうしと山賤(ヤマガツ)の とらでやしばし 斧懸の松」と詠んでいます。
この伝説の老松・・・「斧懸の松」 は、境内の端っこの方に町を見守りながら立っています。その姿形は昔も今も変わっていないのでしょう。
この老松は山の守護神であったばかりではなく、【青森平野が海であった頃、漁師たちは斧懸神社の老松を、はるか沖合いから帰港の目印にした】ともいわれています。
※HP「戸山団地」他を参考にさせていただきました。
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☆つがるみち☆



御祭神は「武御名方神(建御名方神 ※たけみなかたのかみ)」ですが、神話の国譲りで有名なこの神様は、大国主神の御子で事代主神と兄弟神であり、建御雷神(タケミカヅチ)と力比べをしたことでも知られています。
争いの後は、諏訪地方に逃れ、諏訪大社に祀られ、「武勇の神」として崇敬を集め、その分霊を祀る社が全国各地にある分けですが、農業にとって大切な「風を司る神」としても知られている他、名前の「みなかた」は「水潟」にも通じることから「水の神」としても崇められているようです。
そのような分けで、ここ諏訪神社では、「商売繁昌、 海上安全、農工漁業の繁栄の守護神」として武御名方神を祀り、多くの信仰を集めている分けです。

ゆったりと流れる堤川のほとりにあるこの神社は、成田山・青森寺(せいしんじ) と隣接しています。
一の鳥居をくぐると、大きな灯篭がありますが、よく見ると、この灯篭には青森県の著名な風景を描いた10枚のレリーフが施されています。その中には、八甲田雪中行軍隊の生き残りである「後藤伍長の像 ※八甲田馬立場に建っている」や弘前城 もありました。
参道の両脇には社務所や大きな参集殿が立っていますが、真っ直ぐに進んだところが拝殿。この拝殿の脇に境内社が3つ立っていますが、いずれも猿田彦大神の社 でした。猿田彦大神もまた、この神社の御祭神なのですが、元は下堤町、松森町に祀られていたが、区画整理により、ここに遷座したとのことです。
さて、この神社は、【第66代一条天皇の御代の寛弘年中(1004~1012 平安時代中期)、左近衛中将藤原實方朝臣の勧請により、もと造道村浪打の地に鎮座したのに始まる。寛永8年(1631 江戸時代初め)青森開港に際し、藩命をうけた開港奉行森山彌七郎が、開港の守護神として堤川中洲に遷座申し上げた。
爾来津軽歴代藩主をはじめ民衆の崇敬篤く、元禄年中まで青森五社の筆頭として崇められ、藩主たびたび参拝をしたという。7月27日は御魂祭と称して神輿を市中渡御していた。】という古い由緒をもつ神社です。
青森は津軽藩初代藩主・為信のときに開港が計画され、その構想を引き継いだ2代藩主・信枚とその家臣である森山弥七郎によって寛永期に港町が築かれた分けですが、開港にあたって諏訪神社を堤川中洲に移転させたのは、やはり御祭神の武御名方神を祀り、青森から江戸へと向かう船の安全を祈願するねらいがあったのでしょう。
移転後、この神社の社殿は2回ほど焼失していますが、それについては、【社殿は明治5年(1872)3月25日の青森大火により焼失してしまいます。その再建にあたり、火災の危険を考慮した上で、現在立地する栄町一丁目へ移転することになり、仮社殿を建て、明治40年(1907)には本殿、大正10年(1921)には拝殿の再建が完了しました。
その後、昭和20年(1945)の青森大空襲では本殿や拝殿などを再び焼失することとなりましたが、諏訪神社の拝殿復興は昭和24年(1949)と、市内でも特に早かったといいます。これは、当時進駐軍の接収を受けていた合浦公園の招魂堂 を払い下げし、拝殿として利用したためです。この移転にあたっては、なんと招魂堂を解体せず、道路に敷いた丸太の上に乗せて二日がかりで引っ張ってきたというのですから驚きです。】と紹介されています。この神社が、多くの崇敬を集めていたことを伺わせる話です。
※上記の【】は諏訪神社HP、青森市HP「あおもり歴史トリビア」を参考にしました。
◇諏訪神社境内






ところで、この神社にはイルカにまつわる伝説が残されています。天明6年(1786年)に工藤白龍という人物が著した『津軽俗説選』に次のような話が記されているとのことです。
「海豚伝説:東濱におこ婦と云ふ魚あり 毎月一度づつ上磯より十疋二十疋と揃ふて 堤川口入り 青森諏訪の社へ参詣するといへり (大体上八日 下八日 此事あり) 不測なる事は浮つ沈みつ游ぎ來るに 鎭守の毘沙門の前沖に至りては形一向見へず 其處を過ぎてあらはれ出るといへり」
- 神社の祭日には、イルカが10匹、20匹と群れをなして堤川をのぼり参詣するという伝説です。
イルカは遥か縄文の昔から大群をなして海辺に押し寄せ、人々にとってかけがえのない食料となっていた様子は、石川県真脇遺跡などから伺えますが、それだけに、人々はその「恵み」に感謝し、供養塚などをつくって祀っていたと思われます。それは熊に対するアイヌの信仰と似通ったものがあったのでしょう。
ここ青森でも昔は陸奥湾から堤川をさかのぼるイルカの姿が見られたのだと思います。そんな様子が、この神社の伝承として語られ続けてきたのでしょう。
境内には「イルカ諏訪まいり伝説」の紹介板。そして、拝殿の中には、かわいい「イルカねぶた」も置かれていました。
私が小学生の頃の修学旅行は函館でした。当時は行き帰りともに青函連絡船でしたので、津軽海峡でイルカを見るのが、ひとつの楽しみでした。
◇拝殿とイルカ





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☆つがるみち☆



現在は、JRの奥羽本線と五能線が乗り入れていますが、五能線はこの駅が路線としての終点となっています(発着は弘前駅)。
この川部駅のすぐ近くに熊野宮という社が鎮座しています。

高架橋の下の線路沿いに立っているのが一の鳥居。そこから農道を少し歩いて行くと境内が見えます。すぐそばを浅瀬石川が流れていて、辺りはこんもりとした森の中。朱色の二の鳥居が鮮やかです。
「村社」ということで、境内には様々な記念碑などが立っていますが、二の鳥居をくぐると、そのすぐそばに二宮金次郎の銅像が立っています。隣には地元の小学校の閉校記念碑。【明治十年六月創設以来、百八年の長い間部落民の教育文化中心の場として親しまれた古い歴史と由緒のある本校は・・・】とあり、昭和61年に付近の学校と統合になり、閉校となったことが述べられていました。
いつの時代でも学校は地域の文化の中心である分けですが、諸事情(少子化など)によって、統廃合が進み、現在では田舎館村の小学校も1校となりました。
この記念碑の反対側に大きな神馬像 がありますが、神馬を挟むように、護馬神という石碑と馬頭観音?の碑がありました。田舎館村は、2,000年以上も前の水田跡が発見されたり、近年は「田んぼアート」で有名な「米の村」ですが、ここでもやはり馬は尊ばれていたようです。
◇境内






この神社の由緒については詳らかではありませんが、
【 「津軽一統志」 (享保十六年・一七三一) には 「初開年号不詳坂上田村麻呂建立焉往古真言宗寺院退転メ而今号ス新城館ト有大根子村領」 と記されてある。 仏体号の熊野大権現で真言宗派に属するというが詳しいことはわかっていない。
なお 「堂社帳又は山伏」 には 「川辺村熊野宮者従古来雖有之建立之由緒不分明其後明暦四年村中之者再興別当常福院」 と出ている。 明治四十二年七月十四日和泉の地に鎮座している村社稲荷神社を当社川部熊野宮に合祀したが、 その後稲荷神社は独立して現在に至っている。 (田舎舘村誌より) ※青森県神社庁HPより】とあります。
御祭神は、伊邪奈岐命と伊邪奈美命ですが、やはり他の地域の熊野神社と同様、修験者たちによってもたらされた熊野信仰がこの地にも根づいていたのでしょう。
拝殿のとなり、手水舎の後ろに玉垣に囲まれて大きな老木が一本立っています。この熊野宮の御神木の「エゾエノキ」です。
「エゾ」という名前から北海道固有の樹種と思われがちですが、【エノキは、日本原産の種が、4種あり、みな温暖な地方を中心に分布している。唯一、この種(エゾエノキ)だけが、北海道にも自生していることから、その名がつけられたともいわれている。国蝶である「オオムラサキ」の幼虫がその葉を食べることでも名が知られている。】とされています。
境内の説明板には次のように記されていました。【エゾエノキ大樹は、樹齢450年以上、樹高17.0m、幹周・主幹570cm。この種の樹木は、高木となることから境界や一里塚などの道しるべとして植えられたり、神社やお寺の神木や縁起樹として植えられることが多い。この種のエノキ科の樹木は、腐植菌に犯されやすく、樹齢が短いとされており、このような巨木は珍しいといわれている。】
北海道や青森県など、寒冷な地域にも自生するといわれるエゾエノキ。
- ここ熊野宮のそれは、倒壊を防ぐため支柱が施されたり、根元には大きな空洞ができたりしていますが、貫禄のある堂々たる大樹で、その姿は、あの稲垣町の一本タモとよく似ていました。
◇エゾエノキ





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☆つがるみち☆



先日も、津軽地方の神社を探していたら、つがる市・木造に「鬼っコ」がいる社を新たに2つ見つけることができました。まだ、訪れていない神社だったので、さっそく行ってみました。
はじめに訪れたのは、木造の蓮花田(れんげた)地区にある天満宮です。
蓮花田地区は、寛文3年(1663年)の開村とされ、境内にその記念碑 が立てられています。江戸前期に新田開発が盛んに行われた地域なのでしょう。
天満宮は、閑静な住宅街に囲まれたところに鎮座していますが、この神社については、【蓮花田村、小山内儀兵衛の先祖藤兵衛成國というもの、元奥州仙台藩の家臣で、北野天神社にある梅の古木を分け乞い、氏神と崇敬し、其の後、北郡鶴田町の村落田地千町歩余を開拓。当時の従夫、寛文三年当地に引越し、同九年氏神とし、村中の産土神と崇敬し、明治九年十二月二十五日村社に列せられた。※青森県神社庁HP】と紹介されています。御祭神は、もちろん菅原道真です。
境内には大きなイチョウの木があり、境内の外からもよく見えます。三の鳥居から参道が右側に折れていて、その正面に拝殿と本殿があります。
この拝殿の隣にはひとつの赤い祠。中を覗いて見ると、両手を合わせたお姿の小さな神様が祀られていました。どうやらこれは水の神・水虎様のようです。
水虎様の姿形は、それを祀る地域によって様々ですが、大別すると女神形と河童形があるとされています。ここの水虎様は河童形。水虎信仰の発祥の寺とされる実相寺の水虎様 に似ていました。
◇天満宮境内







鬼は、一の鳥居に扁額がわりに掲げられていました。背中ごと、びしっと鳥居にへばりついているような格好をしています。
表情をよく見ると、どうやらこれは子どもの鬼のようです。 目をつり上げ、歯をくいしばり、両足を広げて、必死にふんばっている様子は、とてもユーモラスで、何となく幼い感じがします。
右手と左手それぞれに、何か棒状の物を握っているようですが、よく分かりませんでした。何かの農作業に使う道具なのか・・大工用具のようにも見えますが。。きっと、そのいわれがあるのだと思います。

この神社の由緒については、【慶長17年(1612年)創立。明治四年旧社格を村社に列格。明治四十二年神饌幣帛料供進指定。※青森県神社庁HPより】とあり、詳しくは分かりませんでしたが、長い歴史を持つ古い社のようです。
拝殿の中には古の歌人たちの歌の額が奉納されていました。柿本人麻呂、猿丸太夫、在原業平・・・どうやら三十六歌仙のようです。
拝殿の両側に末社が並んで立っていました。右手(向かって)には、庚申塔?のそばに赤い鳥居。祠の中には馬頭観音 が祀られていました。一方、左手の大小の祠は稲荷社のようです。
◇鹿嶋神社境内







津軽の鬼っコは、鳥居に掲げられているもの、拝殿にあるものなど様々ですが、祠の中に納められているものもあります。ここ鹿嶋神社の鬼も稲荷社のそばの祠の中に祀られていました。
少し風化していますが、般若を思わせる怖い表情をした鬼です。その窪んだ目や裂けた口、とがったあごなど、「鬼らしい鬼」といえばいいでしょうか。頭部は獅子のようでもあり、とても貫禄のある姿です。
右手は、何かを支えているような感じですが、あるいは以前には、一の鳥居に掲げられて、笠木を支えている姿だったのかも知れません。
祠の中にいっしょに祀られていたのは福神の大黒天と恵比寿様。この鬼もまた、五穀豊穣の守り神だったのでしょう。
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☆つがるみち☆ ☆水虎様☆



一帯は黒石温泉郷 と名づけられ、古くからの湯治場として発展してきた分けですが、最近では「津軽こけし館」や「津軽伝承工芸館」などの文化施設を訪れる家族連れや観光客で賑わっています。

この温泉街に「落合大橋」という橋が架かっていますが、その下の河川敷に「浅瀬石川アートの道」という遊歩道が造られています。
河道には、所々に碑が立てられていますが、それは地元の伝説や地名の由来などを絵と文で記したもので、「民話モニュメント」と呼ばれているものです。自然豊かなふるさとの川の保全と、地元の伝説を次世代に伝えようという願いのもとに考案されたものですが、
【黒石の八郎伝説:むかし、黒石の山形村に生まれた八郎が友達と山へ芝刈に出かけ、川でとった岩魚を一人でこっそり食べてしまったら、急に喉が渇き、川の水を飲んでも飲んでも止まらなくなってしまったとさ。その内、八郎の体には鱗が生え、やがて龍となっていく。そして十和田湖、十三潟へと住みかを求めて歩くが、最後に遠く秋田の八郎潟の主になった話。】などが大人にも子どもにも分かりやすく紹介されています。
このモニュメントの中に、花山院忠長(かざんいん ただなが)にまつわる伝承がいくつかあります。
花山院忠長は、後陽成天皇の女官と密通した罪により、天皇の逆鱗にふれ、北海道松前に配流された公達ですが、松前の後、津軽に配流されたのは慶長19年(1614年)頃のことといわれています。
温湯温泉の名前の由来は、忠長が湯浴みをした際、「この湯は少し温いな・・」と言ったことから名づけられた・・という話など、黒石には忠長の伝承が数多く残っていますが、モニュメントの中には、こんな話もありました。
【二庄内(にしょうない)由来:むかし、花山院様が牛に乗って山に遊んだ。その帰り、途中の村でみんなの疲れを癒すことになり、酒を振る舞うことにした。一行の人数から二升が要ると命じたが、小さな村だったので集めることができず、以後、その村を「二升無い村」と呼ぶように伝えた。そして今の二庄内の名になったという。】
◇浅瀬石川アート







温湯や落合と並ぶ温泉街である「板留(いたどめ)」の由来も忠長。
【むかし、花山院様が浅瀬石川の上流で川狩をした折、村人たちが川端にある出湯に名前をつけてもらうことにしました。しかし、川の水が入り込んで入浴できなかったので、村中の板を集めさせ、川止めをしてから入ったそうだ。それで、板で留めて入った湯だから「板留の湯」と名づけてくれたそうです。】
この伝承は温泉街の小高い丘の上に鎮座している「少名彦神社」の由緒にもなっているようで、【寛永元年(一六二四)八月中旬、花山院忠長卿が鶴泉へ御温湯治なされる折り、天気も宜しいので川狩りをなされては如何かと申し上げたところ、『温泉があると聞く、入ってみたい』と仰せられた。そこで、『川上に家が三軒あり、川原の湯の出る処と水が入り交わる処に板三枚を立て、湯が入るようにしては如何でしょうか』と申し上げた。湯加減も良く小瘡に殊の他効き、眼にも大変良い。そこで、忠長卿は此処を「板留」と名付けられた。その後、湯の効能に感じ、御使者を遣わされ薬師の神を建立致すべき旨仰せつけられ小堂建立となった。元禄元年(一六八八)四月八日堂宇村中にて再建、更に宝永元年(一七〇四)九月中にて再建す。享保十四年(一七二九)七月堂宇修理、文化十三年(一八一六)三月、大国主命を薬師堂内に勧請するも明治四年神社御改正に付き、同六年五月八日中野神社へ合祭する。同八年三月復社願いの上村社に列格となる。※青森県神社庁HPより】と紹介されています。
御祭神は、医薬・温泉・禁厭・穀物・知識・酒造などを司る「少彦名(スクナビコナ)」。温泉地にふさわしい神様です。
温泉宿の裏側が参道になっていて、小高い山へと続いていますが、その途中には湯煙 が立ち上っています。後で分かったのですが、この神社のある場所が源泉のようです。
そういうこともあり、この社は「板留温泉の発祥地」として、地元の人々の信仰を集めているのでしょう。小さいながらも拝殿、本殿ともに、なかなか趣のある造りです。
境内の一角には大きなイチョウの木 がありました。端っこの今にも崩れそうな所に生えています。その根元には、多くの石がつまれ、倒れないように補強されています。これもまた、地域の人々の努力なのでしょう。
- このイチョウの葉っぱがすべて落ちる頃には根雪になる・・・そんな言い伝えがあるようです。
◇少名彦神社





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この神社の創建や、その由緒については詳しく分かりませんが、県内には「久須志」と名のつく社がいくつかあり、青森市にも同名の神社があります。
全国的には富士山頂に建つ久須志神社が有名ですが、各地の久須志神社の御祭神は「大己貴命」と「少彦名命」であり、それぞれ国づくりの神、医薬の神として祭られていますが、ここ戸門の神社もまた同様であると思われます。

大きな社号標が立つ一の鳥居から、登りの参道が続く丘の上に鎮座している神社ですが、社殿の右側(向かって)と後ろ側は、さらに小高い山になっているようで、たくさんの木々に囲まれた社です。
拝殿の前の狛犬は、とても頭でっかちで、 とぼけた表情が何ともユーモラスです。社殿は、うっそうとした森を背中にして建っていました。
石段を登り、境内に足を踏み入れたとたん、「何これ!」という感じでびっくりします。たくさんの石仏や石像、石碑、記念碑などが、境内の両脇に所狭しとばかり立てられているのです。中には、既に風化した石の塔みたいなものもあります。
参道の入口付近には、猿田彦碑、二十三夜塔、庚申塔、月夜見命碑などが並んで立っていますが、その裏側の丘には、さらに数多くの石仏・石像・石碑がありました。
ざっと見てみましたが、「○○権現碑」「鶯塚」「眼神」などの碑をはじめたくさんの碑がありました。拝殿の前には「八幡宮」と書かれた石額も置かれていますが、どんな由緒なのか分かりません。
特に多いのが、聖観音や馬頭観音などの石像で、それぞれの前には小さな祭壇が築かれています。中には、ちびの狛犬も・・・今は頭だけが残っています。
石像や石仏は、草薮に覆われているものも多く、草をかき分けてみると小さな観音様 などがひょっこりと顔を出します。気合いを入れて探すと、この丘にはもっと多くの石仏などが埋もれているのかも知れません。
石仏の多くは、浅い線で彫られた素朴なものがほとんどですが、いったい、いつ、どんな人々が奉納したものなのでしょうか。
このようなたくさんの石仏・石像が置かれた境内を見ていると、【各村々にある氏神・産土神は、今の村の人々の祖先・氏の上を祭っているだけではなく、多くは、分村、移住してきた時、団結と信仰の中心として何かを祀った。それは、もとの居住地の堂社であったり、あるいは近隣のものであったり、地域の流行神であったり、指導的立場の山伏、修験者が選んだりした。直接、自分たちの祖先とは限らず、八幡・稲荷・熊野宮などであったと思われる。※小館衷三『岩木山信仰史』北方新社】という、郷土史家・小館衷三さんの一文が思い起こされます。ここもまた、様々な時代に様々な人々がつくりあげた「産土社」なのでしょう。
◇境内の石仏・石像など












さて、社殿の後方は一段と高い丘になっていますが、見晴らしの良い小公園になっていて、そこの中央に聖観音像があり、周りには西国三十三観音像が立てられています。その建立の由来書きには次のように記されていました。
【戸門三十三観世音菩薩由来:昭和十年、故相馬藤吉翁、一念発起観音像建立を発願し 時の校長大塚桂次郎先生の協力のもとに刻苦精励 ついに三十三体の観音像を開眼 戸門城址に安置し香煙のたえる時なく経過し以来五十数年風雪にさらされ豪雨に洗われ風化はなはだしくついに信者一同再建を決意 建立役員を選出 その後営々として六年間あらゆる困難に耐えながら悲願達成のため努力し ここに建立開眼の喜びにひたる事が出来たわけであります。※由来書きより】
この由来書きによれば、どうやらこの久須志神社の丘には、かつて「戸門城」という砦が築かれていたようです。
一帯を走る国道7号線は、江戸時代には「羽州街道」と呼ばれた道ですが、江戸期以前からこの道は、弘前と青森方面を結ぶ交通の要所だった分けで、戦国の頃は、おそらくここ戸門にも、新城と同じように、南部氏の出城があったのだと思います。 - 津軽統一をめぐる戦いがこの地でも繰り広げられたのかも知れません。
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☆つがるみち☆



このお寺については、【開創などは、一時期洪水などの天災で寺が消失したらしく、記録が残されていないため不明である。唯一現存する七代目住職の位はいが、貞和4年(1348)7月6日の年号があることから、かなりの歴史があったものと思われる。現在の弘法寺は明治に入ってから再興されている。本尊は弘法大師で高野山真言宗に属し、無檀家の信者寺で、先祖の廻向、および車などの祈とうに訪れる信者が多く、特に「黄泉の祝言」-独身で亡くなった人に伴侶(はんりょ)をおくる供養の行われる寺として知られ、人形堂には県内外より奉安された約千体余の花嫁、花婿の人形が安置されている。境内に建つ修行大師の石像は信者たちの力で大正7年に建立されており、県内最古のもの。また平成2年7月には、弘法大師が四国行脚の途中、橋の下に仮の宿を求めた姿を再現した「御寝み大師」が建立され人々の信仰を集めている。※HP真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」】と紹介されていますが、ここは、福禄寿を奉安する「津軽七福神霊場」のひとつでもあります。

弘法大師の霊場ということもあり、境内には県内最古の修行大師像や寝姿の像などがあり、以前に訪ねた時は、それらを中心に見て回ったものでした。
お寺の裏側が高台になっていて、頂上には伏見稲荷神社がありますが、そこへたどり着くまでの道筋には、たくさんの石仏などが立っています。
今回、あらためてその山頂まで歩いてみました。
賽の河原を思わせる後生車と石仏、馬頭観音碑、牛頭天王碑など、古ぼけた石碑や石像は、ゆっくり見ていくと、とても趣があります。
参道には、西国三十三観音像が立っていますが、最後の観音様から上は稲荷神社への登り道。登りきったところに社殿があります。今回は、その中を覗いてみたのですが、中には狐にまたがった稲荷様が2体。この高台から、五穀豊穣を祈り、眼下に広がる津軽平野の「実り」を見守っているようです。
実は、この社殿の裏に展望台の跡 らしきものがあり、梯子も渡されていたようです。かつてはこの展望台から、津軽平野はもちろん、日本海、十三湖なども遠望できたのでしょうか。
◇稲荷神社への道






山頂から再び境内へ。以前、見逃したお堂があります。入口付近には無造作に置かれた野球ボール。
「ひょっとして・・・」と思い、中へ入って見ると、そこには、十字前掛けをしたり、きれいな衣装を着せられた幼子のお地蔵様 がたくさん納められていました。中央の大きなお地蔵様の周りに子地蔵が並んでいる姿は、津軽の寺社ではおなじみの光景です。
前に訪ねたときにも感じたのですが、この弘法寺の山門は、とても風格があります。その山門をくぐり、木々の間を進んで行くと本堂。マスコットの「こうやくん」が出迎えてくれます。
祭壇の横の廊下側にも、「御休み姿の弘法大師」の他、いくつか神仏が祀られていますが、その一角に福禄寿が奉安されていました。
◇地蔵堂、山門、本堂






さて、「七福神」は、一般的に、「恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁才天、布袋尊、福禄寿、寿老人」の七柱を指しますが、それが定着したのは、七福神信仰が盛んとなった近世中期以降であるとされています。それまでは、例えば吉祥天が弁才天と同一視され、代わりにメンバーに入ったりするなど、時代や地方によって異動があったようです。
福禄寿もその一人で、「背が低く、長い頭に長い髭、巻物を結んだ杖を持つ」その姿は、寿老人とあまりにも酷似しているために、同一神とされていた時期もあったといわれています。
福禄寿は、中国の道教が起源の長寿の福神ですが、日本に伝えられてから、神道や仏教と結びつけて考えられたということもないため、「道士」「仙人」といったイメージが、ほとんどそのまま生かされている神であるとされています。
「福禄寿」という名前は、「福=幸福」「禄=富貴」「寿=長寿」を表すとされ、前述のように、その姿は「短躯(短身)で頭長の体つき。美髭を蓄え、左手には如意宝珠、右手の杖頭に経巻を結び、長寿の印の白鶴を伴っている。」という福神です。この「短躯・頭長」は、いわゆる「畸形」にあたる姿なのですが、昔の中国や日本では、そのような畸形の人が「異能の神」「福の神」として大事にされてきたとのことです。
我が国の「福助」も、大きな頭とちょんまげが特徴の幸福を招く縁起人形ですが、【一説に、享和2年8月に長寿で死去した摂津国西成郡安部里の佐太郎がモデルである。もともと身長2尺足らずの大頭の者であったが、近所の笑いものになることをうれい、他行をこころざし東海道を下る途中、小田原で香具師にさそわれ、生活の途を得て、鎌倉雪の下で見せ物にでたところ、評判がよく、江戸両国の見せ物にだされた。江戸でも大評判で、不具助をもじった福助の名前を佐太郎に命じたところ、名前が福々しくて縁起がよいと見物は盛況であった。※wikipediaより】といわれています。
- そのような伝承にあやかったものでしょうか、ここ弘法寺の福禄寿は、左右に大黒天と恵比須天、そして前に福助を伴い、中央に祀られていました。
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☆つがるみち☆



福島城址、唐川城址、山王坊遺跡など、十三湊と安東氏ゆかりの寺社や遺跡が続いている分けですが、相内(あいうち)というところに「オセドウ貝塚遺跡」という縄文時代の遺跡があって、そこに神明宮が鎮座しています。

今にも地面に落ちてきそうな重量感のある注連縄が張られている一の鳥居。そこから小高い丘に向かって、右へ左へと参道の登り道が続いています。
と中に2つのお堂が並んで建っていましたが、中には石碑が祀られていました。刻まれた文字は読めませんでしたが、左側(向かって)のお堂に祀られているのは月読命のようです。右側のお堂には大石が2つ。お参り用の燭台もあり、巨石信仰のひとつなのでしょう。 ⇒参道途中のお堂
そこからは白木の鳥居が拝殿までいくつか立っていますが、鳥居のそばの木を見てびっくり。木の又に藁で作られた大きな虫(蛇) が掛かっています。まるで、木の間から龍がニューッと顔を突き出しているような感じです。
これは、奥津軽の伝統行事「虫おくり」で使われる「虫」ですが、「虫おくり」とは、田植えを終えた時期に五穀豊穣と無病息災を願い、【木彫りの竜の頭に、稲わらの胴体で作られた「虫」を若者が担いで、囃子とともに村中を練り歩き、村はずれの一番高い木の枝に「虫」をかけ祈願するお祭り(行事)】です。
その起源は、【「風」や「日照り」と並んで農業に害を与える「害虫」は、昔から恐ろしいものとされていた。そこで、駆虫効果のありそうな植物を焼いて、その煙で幼虫を追い出そうとした。それが形式化し、信仰的な行事として定着し、神社の前で火をつけ、田んぼの中を周り歩き、海とか川へ捨てに行くようになった。この行事が虫おくりである。】とされていますが、津軽では高い木に掛ける風習が定着していたようです。
「虫おくり」は津軽一円で古くから行われていたようで、菅江真澄の『遊覧記』や『外濱奇勝』などにも、その記述があるとのことですが、中でも、ここ相内地区のそれは、津軽地方の虫送りの原型といわれ、450年以上の長い歴史があると伝えられていて、県の無形文化財にも指定されています。 - 【笛や太鼓の囃子にあわせ、コミカルな動きをする荒馬に太刀振り(※坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、太刀や棒切れを振りかざして追い払ったという伝説に由来する)のハネトが続き、蛇体をかたどった5mの長虫を作り、山車で村中を練り歩く。】というこの行事は、今年も盛大に行われたようで、地元紙のWebにその様子が掲載されていました。
⇒相内の「虫おくり」 ※画像複数
※上記の【】は、五所川原市HP「奥津軽虫と火まつり」他を参照しました。
◇神明宮参道






拝殿前の狛犬はだいぶ風化が進んでいましたが、かえってそれが古い由緒を伝えているような気もします。
ここの拝殿、少し変わっていて、横長の扁額は「神明宮」ではなくて、打出の小槌が中央に描かれた「寿殿」となっています。豊作祈願というところでしょうか。
そばには末社が建っており、中を覗いて見ると山ノ神 が祀られていました。
さて、ここの神明宮は、【御祭神:天照皇大神 勧請年月不詳、 社地は御伊勢堂と称し福島城址の鬼門に当ることから館神として祀られたものと考えられる。 また、 一説に於瀬洞(オセドウ)は、古代の安日彦、 長髄彦の遺骸を再葬した墓地といわれ、 長髄神社あるいは荒吐神社と称し、 建久2年 (1191) 、安倍神社として再建されるが、 応永33年 (1426) 、福島城とともに焼討された。 延徳2年 (1490) 、天眞名井宮義仁親王は津軽に落ち当地に御幸し、 往古の安倍一族を偲び於世堂と号して一宇を建立したといわれる。元文3年 (1738) 、津軽藩の寺社令によって御伊勢宮と称され、 弘化2年 (1845) に神明宮と改める。 明治六年四月村社にら列せられる。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。
於瀬洞(オセドウ)は、「御伊勢堂」が訛ったものとされていますが、一帯からは、大正12年、県道の工事中に貝塚が発見された他、円筒式土器が多数出土しました。この土器類は亀ヶ岡式土器につながる貴重なものだといわれています。
さらに、昭和46年には斜面から多くの縄文土器が出土し、以来、オセドウ貝塚と呼ばれ、神明宮の本殿の裏側の森は「オセドウ遺跡公園」となっています。
貴重な土器類もさることながら、この遺跡を有名にしたのは貝塚から発見された完全な人骨です。 現在、東京大学に保管されているこの大きな人骨は、神武天皇の東征により畿内の地を追われ、兄・安日彦とともに津軽へ逃れてきた長髄彦であると語られたこともありました。
かつて、「長髄神社」「荒吐神社」と呼ばれていたことなど、ここ神明宮は、古代の津軽の歴史を感じさせる社です。
◇神明宮





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☆つがるみち☆



ここは、吉田松陰が東北遊学の際、嘉永5年(1852年)3月4日に訪れた地で、【嘉永四年(1851年)勤王の志士吉田松陰は、江戸遊学中友人宮部鼎蔵と密かに東北の旅に出た。 時に松陰二十二歳、学問を磨き情報を収集し、北方海岸の防備を視察する為である。
秋田藩領から矢立峠を越え、弘前、五所川原を経て嘉永五年旧暦三月四日この地を通り、波穏やかな十三湖と遥に霞む岩木山の絶景にしばし足をとどめた。※遊賞之碑の由来より】といわれています。
その風景に感動した松陰は「晴 駅(中里)を発す。今泉 合津を経て十三潟を過ぎ小山を超ゆ。山は潟に臨み岩城山に対す。真に好風景也。」と日記に記したのだとか。

この松陰の遊賞之碑の向かい側に、「今泉賽の河原」という霊場があります。
「安倍・安東氏霊場」と書かれた大きな案内板から小高い山に向かって参道が延びていますが、ここはかつて「唐崎山」と呼ばれていたようです。
参道を歩いて行くと「長寿の泉」という霊泉があり、竜神様?の祠が建っています。この水で体を清めて霊場を詣でる習わしのようです。もう少し進むと、ひとつのお堂がありました。その中には、羽黒大神 が祀られています。
やがて見晴らしのよい広々とした場所に出ますが、ここが賽の河原。いくつかのお堂が建っており、その周りには、大小のお地蔵様が並んで立っているのが見えます。
中でも、ひときわ大きなお堂が「地蔵尊堂」で、 その中は、中央に大きなお地蔵様。周りにはたくさんの方々の祈願札が納められていました。
その地蔵尊堂の隣りが救世観音堂 で、これまた大きな観音像が奉安されています。
ここは「賽の河原公園」とも呼ばれていて、毎年6月23日に例大祭が開催され、「イタコの口寄せ」が行われますが、その他に歌謡ショーやカラオケ大会などが行われるそうです。眼下に十三湖を見渡すことができるこの場所は、地元の人々の憩いの場にもなっているようです。
「賽の河原」と呼ばれる霊場は、一種独特の雰囲気を持っているものですが、天気が良かったこともあり、ここは、とても開放的な雰囲気でした。しかしながら、ここはやはり霊場。夕暮れ時など、周りも十三湖も赤く染まり出す頃には、この丘にも別な光景が広がるのだと思います。
◇賽の河原






さて、この賽の河原のある今泉は、縄文土器や土師器片が散布する遺跡(大石崎遺跡)があった場所ですが、十三湖一帯には縄文遺跡が数多くあり、ここもその中のひとつだったと思われます。
賽の河原は、【南北朝時代の大津波(興国元年・1340年と伝えられている)や室町時代の戦乱で亡くなった人々を供養するために、当時の為政者であった安東氏が唐崎山に地蔵堂を建立したのが始まりであり、明治初期に木造の地蔵尊が出土したことからこの地に復活した。※HP「青森の観光・歴史・見所」ほか】とされています。
津軽三十三霊場の16番札所である今泉観音堂は、明治維新のときまで、この地にありました。また、奥津軽の霊場として名高い旧金木町の川倉地蔵尊は、ここ今泉唐崎山にあった「地蔵堂」を享保の頃に移したものといわれています。
そういうことから、ここは「賽の河原のルーツ」であり、「最古のイタコの発祥地」「川倉賽の河原(川倉地蔵尊)発祥地」とされている分けです。
様々な色の衣装を着せられた小さなお地蔵様や、そのそばで回っている風車を見ると、やはりここは、亡くなった幼子と人々との「魂が通い合う霊場」 - そんな気がします。
下北・恐山には宇曽利湖(うそりこ)、金木・川倉地蔵尊は芦野湖など、「賽の河原」と呼ばれる霊場の多くは、湖、川、海などのそばの高台にありますが、それは、それらを「三途の川」に見立てているからだといわれています。ここ「今泉賽の河原」は、十三湖 がそれにあたる分けです。
◇賽の河原のお地蔵様





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繁田八幡宮 愛宕神社

休憩を兼ねて立ち寄り、見て回った神社を2つほど紹介します。その由緒などはあまり詳しく分かりませんでしたが、それぞれ特徴のある神社でした。
つがる市繁田に鎮座する八幡宮・・・ここには津軽赤倉山神社を訪ねた帰りに立ち寄りました。
岩木川の川沿いに赤い鳥居があり、そこから階段が延び、境内へと続いています。
この神社については、【御祭神は誉田別尊。享保2年(1717)5月15日に勧請す。 明治6年4月穂積闇おかみ神社に合祭。 明治7年12月復社。 ※青森県神社庁HP】と紹介されていますが、古い由緒を持つ八幡様のようです。
一の鳥居 の前に「平和の塔」という碑が立っており、そのそばの石のお堂の中に石仏が祀られています。中を見てみると、少し風化しているものの、どうやらこれは七福神のようです。「七福神=福神=平和」ということでしょうか。しかも、七体の福神は、いずれも手ぬぐいで「ほっかむり(頬かむり)」。
参道を歩いて行くと、またまた、ほっかむりした大黒天。八幡様の使い「狛鳩」もほっかむり。二十三夜塔や庚申塔もほっかむり・・・離れて見ると、お地蔵様のように見えます。もちろん、大中小の狛犬も、ほっかむりでお出迎え。 - どの石像も、手ぬぐいはあごの下で、しっかりと結ばれていました。極めつけは、拝殿の中に奉納されている石のお面と像。これもまた、ほっかむりです。
神社の神使たちに、ほっかむりをする風習は、主に西北津軽地方に多く見られるものですが、以前、訪れた金木町の八幡宮の説明板 には、「冬の厳しい寒さや夏の暑さから神社を守るため」と書かれてありました。同じ西北津軽のこの辺りも、そのような風習が残っているのでしょう。
◇ほっかむり姿の石像たち






板柳町石野の愛宕神社。ここは、七福神霊場(弁才天)である蓮正院のすぐ近くです。
御祭神は火を司る「火産霊神(カグツチ、ホムスビ)」。その由緒については、神社前の木柱に、【このあたりは古くから津軽新田開発が進められた場所で、寛永の頃(1624~1644)から始められ、現在の愛宕神社は明暦3年(1657)創建の地蔵堂がその前身であるとされている。】と記されていて、創建当初は「地蔵堂」として、地域の信仰を集めていたようです。
入口には、真っ赤な一の鳥居を覆い隠すように、緑の葉をいっぱいに茂らせた大木がありますが、これが、この神社の神木「ハルニレ」の木です。あまりに枝や葉っぱが多いためか、正面からはその姿はなかなか見えませんが、鳥居の後ろから見ると 、その形がよく分かります。
この大木は、樹齢が約500年、高さが25m、幹周り5.4mで、【この樹木は開拓前からの板柳・石野の歴史と共に歩んできた貴重な存在である。樹皮はかつて良好な繊維として重宝がられた。※説明書きより】といわれています。
ハルニレ(ニレ、エルム)は、主に北海道や本州の山地に自生するといわれていますが、大きなものは北海道に集中しているとされており、ここ愛宕神社のような巨木は本州では珍しいとのことで、青森の名木のひとつに挙げられている分けです。
この愛宕神社には、ハルニレの他にも、大木が多く、境内に大きな影を落としていますが、中でも、境内の真ん中にあるサイカチの木は、その姿形がとても美しく、目をひきます。これも、この神社の神木のひとつなのでしょう。そばには、この木の説明が書かれていました。
サイカチは、【サポニンを多く含むため古くから洗剤として使われている。莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつてはこれを石鹸の代わりに利用した。石鹸が簡単に手に入るようになっても、石鹸のアルカリで傷む絹の着物の洗濯などに利用されていたようである。※wikipediaより】といわれていますが、この地域の人々も、昔は「サイカチの石鹸」を使っていたのでしょうか。
サイカチからは洗剤。そしてハルニレの樹皮からは縄(繊維)。村人の身近にあった大樹は、人々の暮らしにも役立っていたようです。この愛宕神社のサイカチとハルニレは、そのことを象徴しているような御神木です。
◇境内のサイカチとハルニレ





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初代藩主・為信が津軽統一のために神仏の加護を願い、寺社を参詣し、戦勝祈願を行ったという話や、3代・信義が「津軽三十三霊場」を創始したという話など、特に為信から4代・信政の時代にかけて、多くの伝承が伝えられていますが、これは即ち、津軽氏による領国支配の完成と重なっていて、寺社政策は政治の要だったことを思わせます。 - 今回訪れた黒石市三島に鎮座する三嶋神社も津軽氏との関わりを伝えている社です。

「三嶋(三島)」という社名の神社は、【全国でおよそ400社近くあり、その多くは伊予の大山祇神社(大三島神社)か伊豆の三嶋大社と関係のある神社である。祭神は大山祇神社系のものでは大山祇神である。三嶋大社系のものは大山祇神または事代主神のどちらか、あるいは両神を祀ることが多い。※wikipediaより】といわれています。御祭神の「大山祇命 (おおやまつみのみこと)」と「積羽八重事代主神 (つみはやえことしろぬしのかみ)」の2柱を総称して「三嶋大名神」と称するということです。また、伊予、伊豆ともに「海」に面している関係からか、地方の中には宗像三女神を主祭神とする三島神社もあるということで、青森県では八戸市の三嶋神社がそうなっています。ここ黒石の御祭神は大山祇神です。
この神社の一の鳥居にもりっぱな金属製の注連縄が掲げられていますが、よく見ると、その上にチョコンと「鶏」が乗っています。天照大神を「天の岩屋戸」から迎え出し、以来、神使といわれている鶏ですが、ここの境内にも天照大神を祀る神明社があります。その関係で鶏が置かれているのでしょうか?
境内には、「未来へ遺そう 農地 水」という大きな看板が立てられていました。地域ぐるみで農村の美しい自然環境を保全しようとする働きかけが行われているようです。それにしても、このようなスローガンが境内に掲げられているところをみると、この三嶋神社は古くから住民の「拠り所」だったのでしょう。
拝殿の前には3体(対)の狛犬が置かれています。太い一本眉で極端に「寄り目」のもの、猫のように可愛らしいものなど、愛嬌のある神使たちです。 ⇒狛犬
◇境内






拝殿の隣に「三社大神」と書かれた鳥居があり、その奥にお堂がありました。
前回の竹鼻八幡宮と同様、ここでもまた、三体の神様をひとつ屋根の下に祀っているようです。末社は左側(向かって)からそれぞれ「薬師宮堂」「神明宮堂」「馬頭観音堂」でした。 ⇒三社大神
さて、この神社の由緒については、【当社は三嶋明神の御神霊を安置し、 永禄年間 (1558~1570) に社殿五間四面の大社にして殊に壮麗を極めたが、 天正年間 (1573~1592) 千如房と申す修験者が別当の時、 失火の為社殿を焼失した。 その後、 多門坊という修験者が別当となるが、 卯の年の飢饉にて人々死に絶え、 一時御尊体を土上に安置し仮宮を建て祀る。 慶長年間 (1596~1615)、 津軽藩祖為信公が越後国川中島へ御国替を命じられた時、 多門坊は御国替なきよう願い、 神社へ籠り誠心を尽くして祈念する処、 遂に御国替赦免仰せ付けられたと云う。 依って多門坊は御報礼申し上げようとするも、 家計不如意の為、 久しく報恩叶わず、 慶長3年 (1598) 3月3日、 社殿再建の上奉遷し今日に至れりと云う。※青森県神社庁HPより抜粋】 とあります。
津軽藩は、安土桃山から江戸時代を通じて国替えやお取り潰しに遭わなかった藩のひとつなのですが、それでも何度かその「危機」に見舞われています。
天正18年(1590年)の秀吉による「奥州仕置き」の際には、宿敵・南部氏から「為信が掠め取った自分達の領地を返すよう」要求され、窮地に陥りますが、近衛家などへの接近を図った為信は、結局、本領安堵を認められます。為信は、このときの秀吉や、仲を取り持ってくれた石田三成への恩義を終生忘れることはなかったといわれています。 (⇒関連記事へ)
そして、その後に起こったのが由緒書きにある(文中_線)「川中島」への国替え令です。
由緒では藩祖・為信のときの話になっていますが、実際は2代藩主・信枚のときで、【元和5年(1619年)6月、幕府は安芸広島藩主である福島正則に津軽10万石への転封と蟄居を、津軽家には信濃川中島藩10万石への転封を命じる内示を出した。津軽よりも中央(江戸)に近い土地への転封、石高も増えているため一見栄転に見えるが、見かけの石高ではない実収入、移転にかかる諸費用、父祖の地を離れることなどを考えると、決して割のいい話ではなかった。これに対し、信枚は移転費用捻出のため佐竹義宣より借財し、家中の準備をさせる旨を家臣に通達している。また領内から転封の際は同行したい旨の嘆願が届いているなど、かなり現実的に実現手前まで進行していたことが窺える。※wikipediaより抜粋】といわれています。
この国替えの理由についてはいろいろ諸説あり、福島正則はもちろん、いまだ豊臣家に温情的な津軽家に対する一種の「仕打ち」ともいわれていますが、弘前城の築城とそれに伴う「まちづくり」に邁進していた津軽藩にとっては、正に青天の霹靂だったに違いありません。
結局、藩主・信枚と家臣、そして信枚の正室・満天姫(家康の養女)らの幕府への働きかけにより転封は取り消され、最終的に福島正則が直接、信濃川中島藩4.5万石に減封・移封された分けですが、もしもこのとき、実際に国替えが行われていたら、その後の津軽の歴史や風土・文化なども、ずいぶん違ったものになっていたことでしょう。
それにしても、この三嶋神社の縁起で語られる多門坊という修験者・・・焼失した社殿を再建したり、国替え問題を三嶋明神に祈願し、取りやめさせたりするなど、大きな力を持っていたものです。伝承なので詳しくは分かりませんが、あるいは津軽家縁故の修験僧だったのでしょうか。
◇三社大神・拝殿・本殿





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この神社のある竹鼻地区は、黒石市の中心部から離れた旧浪岡町との境にある農村地帯ですが、すぐそばを東北自動車道が通っており、長谷澤神社や法峠へと抜ける道筋にあります。
私は法峠寺を訪ねた帰り道にここへ立ち寄りました。

集落の道路際に社号標が立っていて、その道を進むと一の鳥居へと出ます。境内の隣には農村公園があり、とても静かな環境に囲まれた社です。
「八幡宮」ということで御祭神は誉田別尊ですが、その由緒については、【延宝3年 (1675) 4月15日竹鼻村中にて建立す。安政2年 (1855) の書上帳によれば「御棟札:宝暦十庚辰年三月・文化十三丙子年八月・天保十二辛丑年九月・右堂社古来より村中にて再建仕来候」とあり、代々村中にて社殿を改築し今日に至る。※青森県神社庁HPより】とあります。
「村中にて建立・改築」と書かれているところをみると、古くから地域の「産土社」として信仰を集めていた神社であることが分かります。
拝殿の前に立つ一対の狛犬は少し風化していますが、太い一本眉の大きな顔のつくりで、睨んでいるようにも笑っているようにも見えます。今は色があせていますが、以前は、口元などは赤く塗られていたのでしょう。
狛犬の前には一対の神馬。ひとつは、いかにも神様が乗るような躍動感のある像で、上げた右足のつくりなど、なかなか見ごたえのある馬です。
ところが、もう一体は石像ではなくて、何と、いろいろな神社の境内に見られる「神馬堂(厩舎)」に安置されているような飾りつけられた白馬です。しかも、ガラス張りのお堂に入ったままの姿。「箱入り娘」ならぬ「箱入り神馬」といったところでしょうか。このような神馬は初めてです。
拝殿から階段が渡されている本殿には、石灯籠が立ち、扉には奉納された草鞋も掲げられていました。
境内の一角に、注連縄が張られた横長のお堂があります。近づいて見ると、それは、「神明宮社」「愛宕宮社」「保食宮社」「大山祇宮社」「稲荷宮社」「権現大神社」・・・六つの神様を祀っている末社を合体したお堂でした。 - 「末社群」というか「神様のアパート」というか。。
中を覗いてみましたが、それぞれの御神体が大事に祀られていました。
⇒六つの末社
◇境 内






さて、境内の入口付近、道路を隔てたところに、庚申塔や二十三夜塔、馬頭観音などの石仏が並んで建てられていますが、その中に「黒石市指定民俗文化財」があります。それは、『廻国納経塔』、『百観音碑』、『五庚申塔』で、通称『竹鼻の文化財』と呼ばれているものです。そばに説明板が立っていました。
『廻国納経塔』・・・正徳4年(1714)に六十六ヶ国霊場の完行記念として建立。津軽
最古の碑。
『百観音碑』・・・・西国・坂東・秩父の百観音霊場巡礼の記念塔。正徳4年の建立は
津軽最古。
- ともに「津軽最古」と称されるものが、どうしてここ竹鼻八幡宮に集められ、建てられたものか、不思議です。
もうひとつの文化財『五庚申塔』については、【文化6年(1809)「五庚申の年」に豊作を祈願して建立。津軽ではただ一基。】と説明されていました。
庚申信仰については、【道教に由来するとされる人間の体内にいる虫「三尸(さんし)」が、60日に一度の庚申の日に人間が眠ると体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされることから、庚申の夜は眠らずにすごすようになった。一人では夜を過ごすことは難しいことから、地域で庚申講とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待ちが行われるようになった。※wikipediaより】ということなど少しは知っていましたが、「五庚申」については分かりませんでした。
少し調べてみると、【庚申(かのえさる)の日は、暦に従って60日おきにめぐってくるため、1年に6回だが、旧暦では平年は353~356日、閏年は383~385日あるので、年によっては、一年に庚申が5回しかなかったり、逆に7回あったりするということも起こる。これらは、それぞれ「五庚申の年」「七庚申の年」などと呼ばれて、人々によって特別に意識されていたようだ。・・・「五庚申の年は不作、七庚申の年は豊作」と言われている地方が多いようだが、「五庚申・七庚申ともに凶作になる 」という伝承もある。いずれにしても、五庚申や七庚申の年にはそれを記念して、「庚申塚」「庚申塔」というものを立てるという習わしが、とくに東北地方には広くあったようだ。※HP「宮澤賢治の詩の世界」を参考にしました。】ということが分かりました。
ところで、この竹鼻の『五庚申塔』が建立された文化6年((1809)という年は、黒石藩が成立した年でもある分けですが、時の弘前藩の藩主は第9代・津軽寧親(つがるやすちか)でした。
当時、東北地方は、天明の大飢饉(1782年~1788年)をはじめ、自然災害や冷害、疫病が相次ぎ、農作物の収穫が激減。弘前藩の記録では、死者が十数万人に達したとも伝えられています。
また、寧親の時代には、幕府から蝦夷地警備を命ぜられたこともあり、出費が増大。それを賄うために領民に重税を強いたため、ついに文化10年(1813年)には、弘前鬼沢の義民・藤田民次郎を中心とする大規模な農民一揆が起こります。
- こうしてみると、この『五庚申塔』が建てられた頃は、特に農民にとっては悲惨な時代だった分けで、この庚申塔には、「豊作祈願」はもとより、「安心して生活できる平和な世の中」への願いも込められているように思います。
◇竹鼻の文化財





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☆つがるみち☆



御祭神は、もちろん「誉田別尊(ほむたわけのみこと)※応神天皇」です。
一の鳥居にかかる注連縄は金属製のものでした。この金属の注連縄がある社は、当初は珍しかったのですが、何度か見ているうちに、今ではすっかりおなじみになりました。

一野渡八幡宮には、座頭石・最上神社を訪ねる途中で立ち寄りました。なかなか大きな神社だったので、境内を回ってみた分けです。
後で気がついたのですが、ここは東北自然歩道になっていて、「座頭石と久渡寺参拝のみち」 と名づけられた遊歩道の中には、座頭石をはじめ、久渡寺、そして先回ご紹介した大狼神社などもあります。
社殿は、小高い丘の上に建っていて、そこまでは石段が続いています。石段を上り詰めると広々とした境内。そこには、「神馬像いろいろ」の記事でも取り上げたように、鉄の鎧を身に着けた大きな神馬が奉納されています。
◇二の鳥居から境内へ





拝殿に掲げられている由緒書きによると、この神社は【当八幡宮は、誉田別尊を祭神とする今から280年前(※由緒書きは昭和53年のものです)、東山天皇の御世元禄11年建立す。一野渡八幡宮と称す。その後明治6年小栗山神社に合祭させられ、同8年復社、同9年村社となる。】となっています。
現在に至るまで、火災などにも見舞われたため、地域の方々の手で何回か新築、修築がなされたようで、敷地の中には、旧社の跡?と思われる礎石なども見られます。
朱塗りが鮮やかな本殿へと至る別の参道なども造られており、地域の信仰を集める「村社」として、境内の整備は続いているようです。
◇拝殿と本殿






拝殿の隣にひとつの末社 があったので覗いてみたら、着物をすっぽり被った神様(像)。オシラ様です。
「オシラ様」は、【日本の東北地方(特に岩手県、青森県)で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。神体は、多くは桑の木で作った1尺(30cm)程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。貫頭衣のかたちをしたものと布を頭部からかぶせた包頭型とがある。普段は住宅の神棚や床の間に祀られていることが多い。※wikipediaより】
岩手県の遠野地方にみられる伝承で有名な「オシラ様」ですが、久渡寺にも「オシラ講」と呼ばれる習俗が残っています。
【久渡寺のオシラ講:生産の神であるオシラ様は桑の木で作った男女一対の木像が御神体で、毎年の久渡寺の大祭には大勢の人が参拝に訪れる。以前は旧暦の4月であったが、現在は5月15・16日の両日で、前夜祭の15日から泊り込みで祭りに参加する人もいる。当日は家や村で祭っているオシラ様を持参し、衣裳を重ね着させ、本堂で印を押してもらい壇に並べる。祈祷では護摩が焚かれ、オシラ様と参拝者を大幣でお祓いする。住職が退場し、境内で口寄せをしていたイタコが御詠歌やオシラ祭文を唱えるのが済むと、参拝者はオシラ様を受取り帰路につく。※弘前市HP「弘前の文化財」】
この「オシラ講」は「オシラ様を1ヵ所に持ち寄って祭る数少ない習俗の例として貴重である。」といわれていますが、久渡寺にほど近い、ここ一野渡地区にもまた、そのような風習が残っていると思われます。ここ八幡宮境内のオシラ様の祠は、そのような信仰の現れなのでしょう。
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真言宗醍醐派に属する蓮正院(れんしょういん)の山号は「大峰山(おおみねさん)」。不動明王を本尊とする津軽弘法大師霊場の第14番札所で、福神・弁才天を奉安する寺院です。

静かな農村地帯にあるこのお寺。趣のある山門をくぐると、弘法大師の霊場らしく、大きな大師像が目に入ります。弘法大師霊場には、御詠歌がつきものですが、このお寺の歌は、「かかる世に 望みをつなぐ 蓮正院 南無や大師の 深きこころに」というものです。
不動明王を祀る寺ということあってか、境内には不動堂や石像なども立っていました。もうひとつの御詠歌 - 「似非笑う 人もあるらん 濁り世に 不動利剣の 利益知らせん」
ここの狛犬、目の中に10円玉や50円玉を入れていて、 なかなかひょうきん者です。
この蓮正院は、およそ450年ほど前に、加賀の国(石川県)の僧・観性(かんしょう)法印によって開かれたとされていますが、【蓮正院の縁起はその記録が乏しいため、詳細は明らかではない。断片的な資料を総合すると、最初は法隆院と称したが、寛政年間前後に蓮覚院と改め、文化、文政のころにいたって寿円山蓮正院と改称したようで、弘前市の大行院の支配下であった。
その由来は「明治14年火生三昧御祈祷御寄進帳」に次のように記されている。
「大聖不動明王、その昔能登国石動山不動院に奉安請御本尊なり、大納言前田利家郷より火災消除祈願のため、我が祖たる堂守観性法印に下し給へし御神体にして、天正2年(1572)大和国大峰山に入りて修行し、権大僧都の位を得、巡り巡りて当国に来りて云々。※真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」より】と紹介されています。
もっとも、別の説もあり、それによると開山は「関ヶ原の戦いに敗れ、山伏に変装してこの地に落ち着いた由緒ある武士」とも伝えられているようです。
御本尊の不動明王は、前田利家から譲られたものとされていますが、寺宝として、開祖・観性法印所持の法螺貝とわき差し(一尺一寸二分、無銘)一腰が保管されているとのことです。
また、このお寺には五能線工事の際、大戸瀬(深浦町)から出土した石法螺(いしぼら) が保存されていますが、その口を吹くと、今でも音が出るようです。
◇境内






本堂へ足を踏み入れると、豪華な祭壇もさることながら、まず圧倒されるのが天井いっぱいに描かれた(飾られた)「雲龍図」。まるで生きているような迫力です。あまり見事なので、右から左から斜めから、そして仏様には申し訳ありませんでしたが、畳の上に寝そべって、下から眺めてしまいました。
弁才天は、祭壇の右側(向かって)に奉安されていました。
この神様については、「宗像三女神の市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視される水神で、その祠には池が設けられていること、海辺や島に祀られていること」などや、「才」は「財」に通じることから「弁財天」とも呼ばれる福神であること・・・など、何度か取り上げてきました。
七福神の中では唯一の女性の神様であり、手に琵琶を抱えた妖艶な姿で描かれたり、造られたりすることが多いのですが、中には手に宝珠を持った吉祥天のような姿で描かれることもあるようです。吉祥天と同一視されていた時期もあったせいでしょうか。
⇒弁才天
弁才天は、元来、「サラスヴァティー」と呼ばれる芸術、学問などの知を司るヒンドゥー教の女神ですが、【サンスクリット語でサラスヴァティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神であるともされている。インドの最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』において、初めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の化身であった。流れる川が転じて、流れるもの全て(言葉・弁舌や知識、音楽など)の女神となった。※wikipediaより】とされています。
日本には仏教伝来時に『金光明経』を通じて中国から伝えられ、その後、様々な神仏と習合し、七福神の一人として、広く信仰されるに至った分けです。
ここ蓮正院には、手に琵琶を持ち、ふくよかなお顔の弁才天が祀られていました。
◇本堂と弁才天





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以後、除々に境内を整備しながら現在に至っている分けですが、加持祈祷所を専門とする寺院として、水子および万霊供養、ペットの供養、受験合格の祈願、交通安全の祈願、精神療法、厄払い、不幸や災難続きで因っている人たちの相談など、広く地域の信仰を集めている寺院です。
私が訪ねたときは、現在の住職さんがいろいろと説明してくれて、開創にまつわる話をいくつか聞くことができました。
※以下の『』は住職さんのお話です。

『先代が、この山にやってきた当時は、あちこちに観音像や地蔵などの石仏があったそうだ。多くは朽ちていたり、倒れていたりしていた。西国三十三観音像などもあり、奉納者の名前や住所を見ると、青森だけでなく、函館の人のものもあった。』
- ここは昔、城郭があった場所で、城主一族の館神が祀られていたと思いますが、以後、地域の霊場となっていて、その信仰は津軽海峡を越え、北海道にも及んでいたことを思わせる話です。
『仏様(観音や地蔵)の中には、破壊されていたものも多かった。戦争で、この山も焼かれたそうだが、そのときのものなのだろう。』
- 青森市は、太平洋戦争末期に大空襲に見舞われています。
【青森空襲:昭和20(1945)年7月27日深夜、米軍のB29爆撃機2機が青森市内に約6万枚のビラをまいた。数日中に同市を含む11の都市のうち4、5カ所を爆撃すると警告、避難するように書かれたビラだった。
翌28日、硫黄島を飛び立った62機のB29が午後10時37分~同11時48分の71分間で8万3000発の焼夷(しょうい)弾を投下。1000人以上が犠牲となり、市街地の約9割が焼失した。※Web「陸奥新報」記事より】
【雨のように降り注ぐ焼夷弾は、空中で飛び散り、花火のように美しく見えましたが、地上に達すると、たちまち建物を炎でつつみこみました。燃え狂う火炎、異様なにおい、巻き上げる火の嵐、窒息しそうな煙。猛火は、アスファルトの道路もドロドロに溶かしていきました。 その中を市民は逃げ回り、逃げ遅れた多くの人々が無念の死をとげました。※HP「青森空襲を記録する会」より】
- 被害に遭った多くの三十三観音像は、補修され、造りなおされ、現在は境内の周りを取り囲むように立っています。
◇三十三観音像と石仏






『自分が小さい頃は、大雨が降った後などに山の地面から土器の破片がたくさん出てきたものだった。鐘堂(鐘楼)を建てたときも、地面を掘り返すと、土器がいくつか出てきた。』
『考えてみれば、すぐ近くに三内丸山の遺跡もあることだし、同じ文化を持った縄文人達がここに住んでいたとしても不思議はない。城が築かれる遥か昔からここには集落があったのだと思う。』
- 言われてみれば・・・という感じで、確かにここから三内丸山遺跡までは、わずか1.5~2km。
「○○遺跡」というと、どうしても「その場所だけに集落があり文化があった」と思いがちですが、実際には、付近にも小さな集落があり、盛んに交流していた分けで、そういう意味では、ここもまた「三内丸山遺跡の一部」と考えてもいいのかも知れません。
三内丸山遺跡は、縄文時代中期末(約4,000年前)頃には縮小し、大規模集落が拡散・分散し、人々は、他の地に居住しはじめていったと考えられています。同じ青森市の小牧野遺跡は、その代表的なものですが、ここ新城も、そんな集落のひとつだったとも考えられます。
境内には、観音像のほかにもたくさんの石仏が置かれていますが、多いのがお地蔵様。「六地蔵堂」というお堂には、大きな地蔵を真ん中に、仏教でいう六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)それぞれを救うとされる六地蔵 が祀られていました。
帰り際に住職さんが案内してくれたのが「地蔵堂」です。何体ものお地蔵様の中央に「慈母観音」が安置されていましたが、この観音様について、住職さんは次のように話してくれました。
『真ん中の慈母観音様は造ったままのお姿にしてある。金箔を施した方がいいのでは・・・という声も多かったが、自分の一存で塗らなかった。母親というものは、子どもを育てるために、自分の体を削るような努力をするものだと思う。だから子どもも、そんな母親に感謝し、愛情を持つ。慈母観音様は、そのような献身的な母親のお姿。だから、(金箔など貼らず)そのままのお姿がいいと思っている。』
- 何とも含蓄のあるお話でした。
◇六地蔵と地蔵堂





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城郭は、JR津軽新城駅の手前の丘陵地帯にあったとされていますが、【高台に本郭(くるわ)、その南側に二ノ郭、そして本郭の西に三ノ郭があったとされる。城は丘陵の突端にあったので、北と東に青森湾方面が開け、南は山地に接し、西は鶴ヶ坂(津軽坂)の難険を擁していた。地元ではこの地を新城城跡と呼んでいる。※真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」より】といわれています。
その新城城の跡に立っているお寺が照法寺(しょうほうじ)です。

照法寺の山号は「元城山(げんじょうざん)」。かつてあった城郭に因んだものなのでしょうか。
本尊は聖観世音菩薩。醍醐天皇の生母胤子菩提寺の京都勧修寺を本山とする真言宗山階派の寺院で、津軽弘法大師霊場の15番札所になっています。
道路際の入口には、小さな観音石像と「元城山照法寺」の碑が立っていますが、そこから見ると確かに境内一帯は小高い丘になっていて、いかにも城跡を思わせる眺めです。
参道の入口には案内板とともに「新城城址」の標柱が立てられていました。そこからは曲がりくねった登り道が続きますが、道の両端には、たくさんのあじさいの花が咲いていて、とてもきれいでした。後で、住職さんに「見事なあじさいですね。」と聞いたら、にっこりと笑って、「檀家や地元の皆様のおかげです。 - 和尚さん、持ってきたや・・ - と言って、花の種や苗を持ってきて植えてくださるんです。ありがたいことです。」とおっしゃいました。
そのあじさいの花や草木の間には、地蔵堂や観音像 が置かれています。境内に近いところには、石灯籠や「観音山照法寺」の石柱も建てられていました。
◇境内まで






道を登りつめると、本堂や地蔵堂などが立ち並ぶ広い境内。東屋などもあり、そこから下を眺めて見ると、ここが城跡であることがよく分かります。
このお寺の御詠歌は『越えて来し 津軽坂なる 峠みち 眺め遙けし 元城の山』という歌ですが、確かにここは、かつては要害の地だったのでしょう。
本堂の玄関には「佛心」と書かれた大きな衝立が置かれていました。中央の祭壇の両側には、十二支の守り本尊(一代様)が祀られています。津軽の一代様は、生まれ年にしたがって参詣する寺社も違いますが、一代様をまとめて安置しているお寺は、平川市の神宮寺と、ここ照法寺だけのようです。
気さくで話好きの住職さんだったので、昔の新城城のことなどを訪ねてみたのですが、詳しいことはよく分かっていないとしながらも、「戦国時代の前からお城はあったみたいだ。油川の殿様は、為信に攻められて、すぐ逃げたけど、ここは、それからも残っていたようだ。」と話してくれました。
前回お伝えした金峰神社の縁起には、【文治年中(1185年~1189年)、新城源治郎館主の氏神として(金峰神社は)勧請された。新城城は慶長年中(1596年~1611年)新城大学頭の時代に落城した。】とあるところをみると、少なくともこの新城城は、12世紀中頃から江戸初期までは存続していたようです。
前述_線の「油川の殿様は、すぐ逃げた」というのは、ここ新城から少し離れたところに、かつて油川城 という城がありましたが、この城もまた築城の時期は定かではないものの、大浦(津軽)為信が、統一を進めていた頃の城主は奥瀬善九郎とされ、南部氏の家臣として津軽の要所を支配していたといわれています。
ところが、【天正13年(1585)3月、為信に攻め立てられた。このとき、為信は城近くの山上で多数の篝火をたかせ、大軍の襲来と見せかける謀計を用いた。これを見た奥瀬善九郎は元来臆病であったので、わずかの者と軍資金を持ち、田名部(下北)へと逃亡した。これにより為信は一兵も損せず、油川城を攻略した。※HP「戦国期の東北」を参照しました】という分けです。
さて、住職さんはこの城跡に寺が築かれたいきさつを次のように話してくれました。
「先代は、元々は小柳(青森市)の寺の住職だったが、その後、中里の寺に移り住職をしていた。近くにお寺を建てようと思い、適当な場所を探していたら、ある日、夢をみた。それは、ー 雪の中をさまよう住職の前に女性が現れ、ここに寺を建てよ、と小高い丘を指し示した。 - という夢だった。」
「先代は、いてもたってもいられず、中里から五所川原、そして川部(田舎館村)と汽車を乗り継ぎ、新城の辺りまでやって来たとき、急に胸がどきどきして、外を見たら、何と、夢に出てきた高台があった。」
それから、高台に登り、ここに開山しようと決心したという分けです。
このお寺のもうひとつの御詠歌
- 『世を照らし 法を広めん この山に 眺めはるかな 津軽海原』
◇本堂





ー 次回へ続きます。
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