

黒石市から弘前へと向かう途中に鎮座している神社を2つ。片方は白、一方は赤と、色鮮やかな一の鳥居が立つ社です。また、両社ともに、坂上田村麻呂の創建と伝えられています。

「田んぼアート」で有名な田舎館村の大根子(おおねこ)地区に鎮座する愛宕神社です。
各地の愛宕神社と同様、御祭神は火の神様である「迦具土神(火之迦具土神:ひのかぐつちのかみ)」ですが、この神社の由緒については、【昔、 坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時、 神仏の加護を願って大根子村新城舘に長福山極楽寺を建て不動尊を勧請したという。 その後極楽寺が大根子より大曲の鳥巻に移り、 文和年中 (一三五二~一三五六) 浅瀬石川欠崩により、 更に田舎舘へ移ったといわれている。 その時同寺護摩堂の不動尊を大根子村産土神として堂社に安置したという。 そして 「堂社帳又は山伏」 (延宝八年) には 「大根子村不動堂者正保二年建立之堂也別当大徳院」 と記されている。 その後明治九年の 「新撰陸奥国誌」 には愛宕神社として次のように記録されている。 「旧は不動の像を安す。 木像にして寛永十二年八月、 源正坊作と称し。 棟札に寛永七庚午年九月別当源光坊、 願主二本柳孫左衛門再建とあれば寛永以前の草創としらる。」 (田舎館誌より) ※青森県神社庁HP】とあります。
一の鳥居のそばに、もうひとつ赤い鳥居 がありますが、その奥にはいくつかの庚申塔が立てられていました。庚申塔や二十三夜塔などは、神社の境内の中に立てられているものもありますが、こうして、別の鳥居を伴うものも多いようです。
ひとつのお堂 があったので、中を覗いてみるとお地蔵様が一体祀られていました。
以前は、だいぶ大きかっただろうと思われる神馬があります。残念ながら、その足は壊れてしまったようで、今は台座に体をあずけているような姿になっています。何となく痛々しい感じです。
「不動様」「山伏」など、その由緒をみると、かつては修験道とも深く関わっていた社らしいのですが、その足跡を探すことはできませんでした。
◇愛宕神社






田舎館村から旧尾上町(現平川市)を過ぎると、岩木川の支流である平川が流れていますが、その川岸に富岳神社が鎮座しています。
大己貴神( オオナムチノカミ)と少彦名神(スクナヒコナノカミ)を御祭神とするこの社は、【創建は不詳ですが伝承によると延暦年間に坂上田村麻呂が勧請したのが始まりと伝えられています。歴代領主から崇敬され社領の寄進や社殿の造営などが行われ領内総鎮守、産土神として広く信仰されました。当初、富田館に鎮座していましたが、寛永19年(1642)現在地に遷座し、元禄2年(1689)に吉町弥治衛門によって社殿が寄進され、弘化2年(1845)に大袋葛西勘十郎から社領の寄進がありました。古くは観音堂と称していましたが嘉永年間に大汝少彦名神社と改め、 明治元年に富岳神社に社号を改称し、明治42年に村社に列しています※HP青森県歴史観光案内所「弘前市:歴史・観光・見所」より】と紹介されています。
さらには、【古来薬師宮と称へ、 境関・日沼・大袋の三ケ村に建立いたし、 以上の三ケ村の産土神として崇敬せられ、 当時世々の地頭・領主・領内鎮護として、 崇め奉り久しく・・・※青森県神社庁HP】とあるところをみると、一帯の(※境関・日沼・大袋は、田舎館から弘前方面へ続く集落)厚い信仰を集めていた社だったようです。
二の鳥居の前に立っている一対の狛犬は、一見、猫のような容貌で、とても特徴があります。境内には、末社が2つありましたが、ひとつは「オシラサマ」のお堂でした(その中は拝めませんでしたが)。
川岸にあるこの神社は、小公園にもなっていて、ベンチやブランコなどもあり、子どもたちの遊び場にもなっているようです。
本殿をよく見ると、その両脇の木鼻には、白い狛犬が彫られていました。白く、愛らしい小さな狛犬で、こんな姿を見ていると、何となくほっとします。
◇富岳神社





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現在は愛宕神社の境内になっていますが、伝承によれば、南北朝時代に大坂の八王寺からきた高木佐門李平という武士の居館があったとされている所です。一帯には、空堀なども築かれ、平山城の体をなしていたようですが、今は、その遺構らしきものは残ってはいません。

その城跡に鎮座している愛宕神社の由緒については、【御祭神:軻遇突智命(かぐつちのみこと) 延暦年間の草創にして猿賀神社の末社なり。 明治に入り独立の神社として同六年村社に列せられる。 往古は愛宕宮、 愛宕権現、 高木山堂とも称えられた。 大正二年十一月十二日幣帛供進の指定を受け氏子一致協力して境内社殿の整備に努め経営、 以て今日に至る。 又、 津軽一統史に曰く 「延暦十年 (七九一) 坂上田村麻呂将軍、 勅命により東夷征討の節、 遠く此の地に来たりて賊将大嵩丸を津軽阿楚遍の森に攻めるも、 大嵩丸逃れて猿賀に至り、 ついに同所にて討たれる。 すなわち此の地を封じて一社を建立し、 土民に祀られる。 今の猿賀神社がこれである。 其の当時、 高木へ一社を建て武運長久を祈り、 将軍地蔵 (現愛宕神社) と唱え、 軍神として祀る。 云々」、 更に東日流大成記に曰く 「天正十三年 (一五八五) 南部勢浅瀬石城を攻めるに当たり、 中興の祖津軽為信公自ら浅瀬石城の後詰めとして高木将軍地蔵境内に陣営を布く」 とある。 ※青森県神社庁HP】とされています。
この由緒書きによれば、坂上田村麻呂が蝦夷の首魁である大嵩丸を征討した際に、猿賀神社とともに築かれたとあり、伝承とはいえ、古い歴史を感じさせます。
また、時代が下って、戦国時代になると、津軽為信が、統一の最後の仕上げともいうべき浅瀬石城を攻めたときの本陣がここに置かれたとされています。境内は為信の陣所跡だった分けです。
戦国時代、浅瀬石城は千徳氏の居城で、、現在の黒石市を中心に広い領土を治めていました。元々は南部氏の家臣であったのにもかかわらず、千徳氏は、為信と友好な関係を築いたりもしましたが、結局は1597年に、為信軍に滅ぼされ、浅瀬石城は落城した分けです。
この愛宕神社の境内は周りよりも若干小高い丘の上にあり、そこからは、浅瀬石方面 を見渡すことができます。ここに陣取った為信軍は、連日、攻略のための作戦を練ったのでしょう。境内には、二十三夜塔や庚申塔の他に、拝殿の右横(向かって)に、「津軽為信公 腰掛の石」という大石が残されており、この石に座って采配を振るったということが記されています。
また、当時、この境内にはケヤキの大木があり、為信はその木に軍旗である「曼字(卍)の旗」を掲げたとも伝えられています。この大木は、幹周りが10m近くもあったとされていて、「千年木」と名づけられていたということですから、相当に古い御神木だったのでしょう。
◇愛宕神社境内






さて、その伝説の大ケヤキは今はないのですが、境内には珍しいケヤキの木が2種類そびえています。
両方ともに御神木となっている分けですが、ひとつは「三頭木(さんとうぼく)」と呼ばれているケヤキです。「上部の幹が三つに分かれており、古くより神聖な木とされている。樹齢はおよそ200年・・・」と説明板にありますが、古来、幹の途中から三本に分かれている木は「山ノ神」が宿ると敬われ、大切に守られてきたとされています。
もうひとつは「夫婦木」と称されるケヤキで、「樹齢約300年。二本の欅が寄り添っていることから、「夫婦円満」「長寿」の御神木として崇められている」分けですが、このような2本の木が結合したものは「連理木(連理の枝)」といわれます。
【「連理の枝」は、並んで生えている二本の木が、枝の部分で一つに繋がっているという伝説上の樹木のこと。中唐の詩人・白居易の『長恨歌』の中に、玄宗皇帝と楊貴妃が七夕の夜に愛を誓い合ったことばとしてある「天に在りては願わくは比翼の鳥と作り、地に在りては願わくは連理の枝と為らん(天上では二羽一体で飛ぶ比翼の鳥に、地上では二本の枝がくっついた連理の枝になろう)」に基づく。※HP「故事ことわざ辞典」より】とされ、「男女の情愛、特に夫婦の情愛がきわめて深く、仲むつまじいことの象徴」といわれています。
このようないわれをもつ大木が、同じ寺社の境内に2種類も存在していることは、きわめて珍しく、観賞会や説明会 なども盛んに行われているようです。
- 津軽の隠れた名木のひとつです。
◇三頭木と夫婦木






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先日、かつて「下加茂」と呼ばれていた青森市浪岡・女鹿沢の加茂神社を訪ねたとき、集落の付近を走りましたが、その際に見つけた2つの神社です。

浪岡町の銀(しろがね)地区の道路際に、大きな社号標に注連縄が張られている神社がありました。ー 奇稲田姫神社。その珍しい名前に惹かれて立ち寄りました。
神社の入口には鳥居が2つ立っていますが、ひとつは馬頭観音 や二十三夜塔、庚申塔、青面金剛童子など石碑の前に立っています。その左側が神社の一の鳥居になっています。
境内は、ちょっとした小公園みたいになっていて、地域の憩いの場でもあるようです。拝殿のそばに末社がありますが、その隣の大石には紅白の幕が張られています。何らかの大石信仰の一種なのでしょうか。
拝殿、末社、本殿はいずれも屋根や建物全体が朱塗り(赤)で統一されており、大変珍しい気がしました。
御祭神の奇稲田姫(クシナダヒメ)は、言うまでもなく日本神話に登場する女神で、【高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオは、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われているアシナヅチ・テナヅチの夫婦と、その娘のクシナダヒメに出会った。彼らの話によると、もうじき最後に残った末娘のクシナダヒメも食われてしまう時期なのだという。哀れに思うと同時に、美しいクシナダヒメが愛しくなったスサノオは、クシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出た。アシナヅチとテナヅチは、喜んでこれを承諾した。スサノオとの結婚が決まると、スサノオの力によってクシナダヒメは小さな櫛の形に変えられた。そして櫛としてスサノオの髪に挿しこまれ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでその状態である。スサノオがヤマタノオロチを退治した後、櫛にされたクシナダヒメは、元通り美しい娘の姿に戻してもらい、スサノオの妻となった。 スサノオはクシナダヒメと共に住む場所を探して、須賀の地に宮殿を建てた。※wikipediaより】とされていますが、「奇稲田」は「奇し稲田(くしいなだ)」であり、稲田即ち水田を守る霊験あらたかな神として信仰されてきたようです。
一方、スサノオに退治されたヤマタノオロチの正体については、諸説あるようですが、「暴れ川の象徴」「洪水の化身」ともいわれています。
河川の氾濫及び風水害は、農業の大敵だった分けで、そのような災害から大切な地域の「稲田」を守るために、ここに奇稲田姫が祀られているのだと思います。また、この神社の近くには、文字通り「稲田」という集落もあります。
◇奇稲田姫神社






その奇稲田姫神社からほんの1kmあまり。樽沢という集落に鎮座しているのが「山神社」。
ここにもまた鳥居が2つあり、奇稲田姫神社と同じく馬頭観音が祀られていました。境内の末社にも馬頭観音 が祀られており、その信仰の深さが分かります。
なかなか広い境内ですが、拝殿の前に立っている狛犬の台座には、「チビッ子狛犬」 が彫られていました。こんな狛犬は初めてです。
この山神社の由緒については詳しく分かりませんが、御祭神は「山ノ神」即ち「大山祇神」と思われます。
山ノ神は古くから、その土地の守り神として信仰されてきた神様ですが、山間部に住む山の民と、平野部に住む農民とでは、その信仰の仕方が少し異なるといわれます。
「山の民」にとっては、山神様は大切な山林の守り神であると同時に、入山にあたっての禁忌を強いられる神ですが、一方、「里の民」にとっては、豊作を手助けしてくれる存在として敬われてきた神様です。
即ち、農民にとっての「山の神」は、「ふだんは祖霊の住む山(津軽では岩木山がその象徴)に居て、田植えの時期になると里へ下りてきて、作業を指揮し、手伝い、見守り、秋の収穫が済むと再び祖霊の住む山へ帰って行く」神様で、農民たちは、山ノ神がもたらした豊作に感謝し、盛大な感謝祭(秋祭り)を行ったとされています。
◇山神社





奇稲田姫そして大山祇神を祭っているこの2つの神社は、五穀豊穣を願う地域の思いが込められている社だといえます。それは、両社ともに、農業にとって大切な働き手だった「馬」を象徴する馬頭観音を祀っていることからも分かります。
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国道7号線の鶴ヶ坂のあたりから、山中を進むこと数km。ひっそりとした「山里」といった感じの集落です。
青森市内の寺社を訪ねた帰り道に寄り道し、この集落に鎮座する淡嶋神社と八幡宮に立ち寄ってみました。
私は、国道側ではなくて青森空港の方から孫内へと向かいましたが、5,6kmほど車を走らせると集落の中心部?へとたどり着きました。そこは、バスの転回所(市内を運行するバスの終点)になっていて、ここから道がいくつかに分かれている所です。
杉の木が生い茂るこんもりとした場所があり、そこには地蔵堂がありました。中を覗いて見ると、目鼻がくっきりと描かれたお地蔵様が祀られていました。
この孫内地蔵堂から坂道を下るとT字路があり、右側へ行くと淡嶋神社、左側は八幡宮へと続いています。まずは、淡嶋神社へ。社号標を見ながら前に進むと、間もなく赤い鳥居が見えてきました。
この孫内の淡嶋神社は「子宝の神様」として、その名が知られており、県内外から、子宝占い・子宝祈願のために訪れる方も多いとのことですが、そのいわれについては、境内の由緒書きに次のように記されていました。
【淡嶋信仰 :子を授けてほしい、安産であってほしい、子が丈夫に育ってほしいと祈願する信仰は全国的なものであるが、孫内の淡嶋神社は、お産の神様として津軽一円にわたって古くから信仰されてきた。そのはじまりは、藩政初期に津軽の殿様が惣染堂を建て、父、母、子馬の絵馬を献納した事によるともいわれ、また、我満助太郎なる人物が山中で陰陽石を見つけ祀り、これを拝むと子宝に恵まれ、お産が軽くなると信じられるようになったといわれている。】 - この由緒書きは、郷土史家である小館衷三氏の著書『青森県の民間信仰』からの引用ですが、いずれにしても、この神社は【藩政時代(1680年代)からお産の神様として、厚い信仰の対象であった】ようです。
由緒書きにもあるように、この神社は「馬」と縁が深く、境内には狛犬の代わりに、飼葉桶を首から下げた神馬が立っており、拝殿にもたくさんの奉納絵馬が掲げられていました。由緒には、
【木馬奉納は古代から神様の乗物は馬であり、最も速い乗物であったことから、神様に早く来てもらい、お産を助けてもらうという願いがあり、無事出産したお礼に木馬や絵馬が奉納され、現在は社殿の裏に木馬や絵馬が納められた小屋があり、百体をこえる木馬が納められている】とあります。
ここでも馬は「安産祈願」と結びついているようです。その木馬が納められている小屋は施錠されており、中を拝むことはできませんでしたが、ガラス越しにその姿を見ることができました。
この神社に木馬を奉納する風習は広く津軽一帯にみられるようで、藤崎町の鹿島神社のある町内会では、5年ごとに交互に、同神社と孫内淡嶋神社に木製の神馬を奉納する行事が続いています。ここ孫内淡嶋神社への信仰の深さを物語る行事です。
⇒地方紙「津軽新報」の記事より
◇地蔵堂と淡嶋神社











淡嶋神社から再びT字路へ。左手の坂道を登ると、八幡宮の一の鳥居が見えてきます。
この八幡宮の縁起については、よく分からなかったのですが、小高い丘に鎮座する社からは、孫内の集落を見下ろすことができ、古くから地域の守り神として崇敬を集めてきたのだと思います。
実は、この神社を訪れたのは、「青森県の巨樹」にも選ばれている神木の「ハリギリ」を見たかったからです。その巨木は、拝殿の左側(向かって)に玉垣に囲まれてそびえていました。
説明書きによると、高さが32m、幹周りが6.1m、推定樹齢は不明ながらも、500年以上ともいわれている大木です。
幹周りが6mクラスのハリギリの木は、全国でも大変めずらしいもので、ここのハリギリは最大級のものとされているようです。地上から3mほどで、2つの大きな幹に分かれ、その枝先は、付近の杉の木に縦横に絡んでいました。
◇孫内八幡宮とハリギリ





この山里・孫内地区にも過疎化の波が押し寄せ、集落の中心であった小学校も2009年には閉校となりました。
地域住民の減少は、村の文化や伝統の継承活動にも影響を与え、多くの信仰を集める淡嶋神社の大祭へ向けての活動も停滞気味だったようです。住民たちは今、活動を廃れさせないための取り組みに力を入れているとのことです。
⇒地方紙「東奥日報」の記事より
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その御祭神は「賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)」で、「別雷」は「雷を別けるほどの力を持つ」という意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神であるとされています。
青森市浪岡(旧浪岡町)には、「加茂神社」が2ヶ所あります(もっとあるのかも知れません)が、この2つの社は、かつては京にならって、「上加茂」「下加茂」と呼ばれていました。

「上加茂」と称されていた社は、浪岡町五本松地区に鎮座する加茂神社で、浪岡城址や浪岡八幡宮のすぐ近くにあります。
この神社については、【加茂神社は別雷命が祭神で、天和の村絵図に「いかずち宮」と記され浪岡御所4代具家が上加茂神を勧請し建立したとある。
加茂の競馬は五月節句の日に浪岡八幡宮境内の広場で行われ、競馬の様子は「乗馬二十人、狩衣装束黒赤色、左右各十番相双駆行し東西に埒を構え桜と鶏冠木の二本を栽へ以て勝負の木と為す」とある(和漢三才図絵)。「永禄日記」元亀8年9月に「賀茂宮御神事ニ付御堂立直候」とあり、また元禄8年4代藩主津軽信政が同社を再興したという(津軽信政公事績)。※青森県地名辞典より】と紹介されています。
また、中世の支配者であった北畠氏(浪岡北畠)は、1373年(文中2年)に平安京を模して浪岡城の四隅に、祇園(現・広峰神社)、八幡(現・浪岡八幡宮)、春日(現在は廃社)、そして加茂(現・五本松加茂神社)の各神社を配置したといわれています。
さらに、4代藩主・信政のとき、津軽藩は、【加茂明神(浪岡・加茂神社)・貴船明神(青森市野内・貴船神社)、広瀬明神(木造町長浜にあった明神宮)・龍田明神(深浦町田野沢・龍田宮)に、五穀がよく実るよう御祈祷を仰せ付けた。御供物料は1社に銭80目ずつと、小野若狭、阿部播磨に伝えた。往復には1人につき荷付馬2疋を渡す。17日間のご祈祷の期間、上下3人ずつその郷で賄いをするように仰付けた。『弘前藩庁日記』※HP「なみおか今・昔」より】と記録に残っているようです。
この4つの神社は「郡内四社」、あるいは「津軽四社」とよばれたほどでしたが、ここ五本松の加茂神社は、中世から藩政時代にかけて(もちろん現在も)、多くの信仰を集めてきた神社な分けです。
◇五本松加茂神社






さて、一方、「下加茂」と称された神社は、女鹿沢(めがさわ)地区・松枝に鎮座する加茂神社です。
辺り一帯は、梵珠山から延びる丘陵の南端部になっていて、新田の開発が盛んに行われたところで、安政の頃には、熊野宮、宝量宮、加茂宮・神明宮・惣染堂が存在していたとされています。
この神社の由緒については、【草創不詳だが、 慶長年間 (一五九六~一六一五) の創建と伝えられる。 この地は、 浪岡城主北畠公が狩りをする時、 特に景色がいいので、 常に一服の休憩場所であった。 北畠御所時代、 「行丘紫苑山」 と呼ばれ、 北畠公六代目具永卿が、 天文二十一年 (一五五二) 二月二十八日、 民部卿大納言に昇爵の記念に同年七月、 拝殿を建築完成奉納され、 守護神は京都加茂神社の分神とされる。 浪岡町五本松鎮座の加茂神社を上加茂、 松枝鎮座の加茂神社を下加茂と称した。 明治六年四月十四日村社に列格し今日に至る。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
境内の由緒書きにも、「この地は特に景色がよいので、浪岡城主北畠公が狩りをするとき常に休憩場所となっており「行丘(※浪岡の古名)紫苑山」と呼ばれていた」と書かれていました。
- 「上加茂」、「下加茂」の名づけ親は、やはり、この地に京文化をもたらした支配者・北畠氏だったようです。
◇女鹿沢加茂神社





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この女神は、大国主命が阿曽部の森(岩木山麓一帯)を治めていた頃、田光の沼から「珠」を得て、献上したとされる竜女ですが、大国主は、この竜女を「国安珠竜女」「国安珠姫」と名づけたとされています。
「安珠」は「安寿」。即ち「安寿姫」のことだとされていますが、安寿と厨子王の伝説は、岩木山の伝説の中でももっとも知られているものです。
⇒以前の記事へ。
この伝説が古くから語り継がれてきたことは、弘前市・長勝寺の蒼龍窟に二人の木像 が安置されていることからも分かりますが、【寛永年間に、津軽二代藩主・信枚が、岩木山三所大権現の山門(現在の楼門)に納めた五百羅漢の中に、わざわざ入れさせたもの】で、神仏分離の際にそのまま長勝寺に移されたものといわれています。
安寿姫は当時から既に岩木山大神のひとりとして信仰されていた分けです。

楼門をくぐると中門。そしてその後ろに拝殿が建っています。岩木山神社の本殿、奥門、瑞垣などは重要文化財に指定されていますが、この中門もそのひとつで、【中門は、拝殿の前に建つ切妻造の四脚門である。柱などの軸部は黒漆塗りとし、木鼻や袖切などの絵様部分には朱漆を用い、蟇股や欄間の彫刻には極彩色が施されており、本殿や奥門と同様な豪華絢爛な意匠となっている。】と紹介されていますが、龍を描いたと思われる天井絵や色鮮やかな大きな木鼻は、なかなか見応えがあります。
この中門に「北門鎮護」と記された扁額が掲げられていますが、岩木山神社は、坂上田村麿呂の再建以来、都から見て鬼門にあたる北方の「守護」として崇敬を集めてきました。田村麿呂は、北の守護神である毘沙門天の生まれ変わりとされ、それが津軽の北斗七星神社の縁起へとつながっていく分けです。
拝殿は、寛永17年(1640)、3代藩主・信義のときに、当時の百沢寺の本堂として建てられたものです。弘前城と弘前の街は、「四神相応の地」に築かれたとされていますが、岩木山神社は西側にあたり、拝殿の屋根には西の守り神である「白虎」が彫られています。この白虎の目は、弘前城の方角を見つめているとのことです。
◇中門と拝殿






本殿と奥門、瑞恒、それに中門などは、4代藩主・信政が貞享3年(1686)より元禄7年(1694)までの年月を要して建立したものであり「下居宮(おりいのみや)」と称されたといわれています。
本殿は、【三間社流造の正面。全面黒漆塗りとし、随所に金箔押しを施し、彫刻類はすべて極彩色を用いているほか、飾金具を多用し、屋根は正面に軒唐破風(のきからはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)構えとし、正面庇柱(ひさしばしら)には昇り龍降り龍を取り付けるなど正面の景観を重視した、豪華絢爛な建物】ですが、立ち入ることはできませんでした。木々の間から眺めて見ましたが、黒塗りに極彩色の飾りが映え、とてもきれいでした。
津軽為信・信枚・信義・信政の4代に渡り、藩の威信をかけ造営した極彩色に彩られた壮大華麗な建物は、日光東照宮に通じるところから「津軽の奥日光」とも呼ばれています。
※記事の中の【】は、青森県HP、弘前市HP、小館衷三著『岩木山信仰史』等を参考にしました。
◇拝殿内と本殿





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その日程は、【向山(むかいやま)と呼ばれる初日、岩木山神社では、訪れた多くの人たちが参道を上ってお参りします。翌日の「宵山(よいやま)」では、大勢の参拝者が黄金色の御幣や色あざやかな幟(のぼり)を掲げ練り歩きます。白装束に身を包んだ参拝者たちは、登山囃子が響く中「サイギ、サイギ」の掛け声を響かせ、岩木山神社を目指します。 最終日の3日目は、旧暦8月1日の「朔日山(ついたちやま)」。参拝者は岩木山の山頂を目指して未明に出発します。懐中電灯などの明かりを頼りに岩場を登り、山頂付近でご来光に向かって手を合わせます。】という3日間に渡る行事です。
参拝者たちが唱える唱文は、【懺悔懺悔(サイギサイギ)、六根懺悔(ドッコイサイギ)、御山八代(オヤマサハツダイ)、金剛道者(コウゴウドウサ)、一々礼拝(イーツニナノハイ)、南無帰命頂礼(ナムキンミョウチョウライ)】というもので、その大意は、【過去の罪過を悔い改め神仏に告げこれを謝し、(登拝することにより)身命をささげて仏菩薩に帰依し神仏のいましめに従う。】というものです。 - 岩木山神社は、この「お山参詣」の中心な分けです。
※上記の【】は、岩木山観光協会HPを参照しました。
長い参道の先に楼門がありますが、先回もご紹介したように、右側に回って行くと龍神水があります。さらに回っていくと境内社のひとつである稲荷神社があります。「正一位稲荷大明神」の赤い幟のそばにはチビッ子狛犬。愛らしい姿です。
稲荷神社から石段を登ると拝殿があり、右側に白雲大龍神の参道が見えますが、ここは、ちょうど、楼門の裏側にあたります。
◇稲荷神社ほか






さて、岩木山神社の前身は「百沢寺(ひゃくたくじ)」という寺院だった分けですが、天正17年(1589年)の岩木山噴火によって百沢寺全山が焼失したため、津軽藩藩祖・為信が慶長8年(1603年)に起工し、寛永17年(1640年)、3代藩主・信義の時代に完成したといわれています。
見事な楼門は、その百沢寺山門として、寛永5年(1628年)、2代藩主・信枚の時に建てられたものですが、「桁行16.6m、梁間7.98m、棟高17.85m、丹塗り一色の二層の壮大な楼門」で、見る者を圧倒するような建物です。
以前は、ここに十一面観音、五百羅漢像が安置されていましたが、百沢寺が廃寺になったため取り除かれ、五百羅漢像のうち、約100体は、現在、長勝寺の蒼龍窟に安置されています。
この楼門は現在は岩木山神社の随神門となっている分けですが、両脇に随神像 が安置されており、門をくぐると中門と拝殿が見えます。
どうしても、前方に目が行きがちですが、「ちょっと待った!」という感じでしょうか、実は、この楼門の玉垣の親柱にへばりついている一対の変わった狛犬?がいます。しかも一体は逆立ち。。。両方とも、何とも奇妙な、そして愛嬌のある姿です。
◇楼門





ー 次回へ続きます。
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☆つがるみち☆



津軽人の「心のふるさと」ともいうべき霊峰・岩木山の頂上に奥宮をもつこの神社は、多くの寺社とも深い関わりをもち、青森県の歴史・風土・文化に大きな影響を与えてきた社でもあります。
県内外から多くの崇敬を集めるこの神社の御祭神は、顕国魂神(うつしくにたまのかみ)・多都比姫神(たつびひめのかみ)・宇賀能売神(うかのめのかみ)・大山祇神(おおやまつみのかみ)・坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと)ですが、その由緒等については、【昔から 「お岩木さま」 「お山」 と親しんで呼ばれ、陸奥津軽の開拓の神、農海産物の守護神、また祖霊の座すところとして崇められている。今から約1200余年前、宝亀11年(780年) 社殿を岩木山頂に創建したのが当社の起源であり、延暦19年 (800年)征夷大将軍坂上田村麿これを再建し、別に山麓十腰内の里に下おり居ゐの宮みやを建立して、山頂を奥宮と称し、寛治5年 (1091年) 神宣により下居宮を現在地に奉遷。その後、世々の地頭・領主何れもがよく崇敬の赤誠をつくし、江戸時代には津軽藩主為信・信牧・信義・信政により大造営が行なわれ、近代には崇敬者の熱意を集めて、建造物、諸施設とも整い、名実ともにその偉容を誇り、畏き辺りも日本の北門鎮護の名社として、農業・漁業・商工業・医薬・交通関係、とりわけ開運福の神として、色々の宗派を越え、深い信仰の源として厚く崇敬されている。※青森県神社庁HP】と紹介されています。

白い大きな一の鳥居をくぐると長い長い参道が続きますが、この参道は岩木山頂上の奥宮 と一直線に結ばれているといわれています。
その参道の入口付近に「五本杉」と呼ばれる名木があります。文字通り、根元から枝が5本に分かれている杉ですが、注連縄が張られ、境内の神木となっているようです。
三の鳥居の手前に鎮座しているのが出雲神社。社殿の前には大黒天と恵比須様。
出雲といえば大国主命ですが、岩木山神社の御祭神である顕国魂神は大国主命の別称であるとされています。大国主命は神話によると、様々な地方の女神と婚姻を重ね、180柱の神々をもうけたとされていますが、これは、古代の出雲勢力の拡大を意味していると思われます。
岩木山には、【昔、大己貴命(大国主命)が津軽に降臨し、百八十人の子どもを育てていたが、大変土地が肥え、収穫が多く、子をよく遊ばせることができた。それで、この山を阿曽部(岩木山の古名)と称した。※小館衷三『岩木山信仰史』】という伝説がありますが、出雲をはじめとする山陰地方と津軽は、古来から日本海航路を通じて深く結びついており、岩木山麓に製鉄技術をもたらしたのも、出雲地方の人々だったともいわれています。
◇参道






参道はやがてりっぱな楼門へと至り、大きな狛犬 が出迎えてくれます。
この楼門を右手に回り込んだところに龍神水があります。3つの龍の頭から岩木山の清らかな伏流水が勢いよく流れ出る名水(御神水)です。ここで手を合わせ、清水をひと口飲んでいる方々も大勢いました。
前述の伝説の続き。【(大国主は)田の中に白い光を出すものあるので、よく見ると沼であった。田光(たっぴ)の沼と名づけた。竜女がこの沼から珠を得て献上したので、命は大変悦んで、国安珠竜女と名づけ、夫婦となってこの国をよく治めた。】といわれていますが、この竜女が即ち御祭神の多都比姫神です。
「光る沼」「竜女」が示すように、この多都比姫神は水神で、農業に欠かせない「水」を恵む岩木山にふさわしい女神です。それは、ここ岩木山神社の龍神信仰と結びついている分けです。境内には、龍神水をはじめ、前述の出雲神社には「白龍大神」、本殿の隣には、池をともなった「白雲大龍神」もありました。
楼門の左手からは、奥宮への登山道が延びています。「山頂まで約6km、4時間」と記されていました。
岩木山といえば、例年、旧暦の8月1日に行われる「お山参詣」が有名です。「五穀豊穣」「家内安全」を祈願して、集団登拝する「お山参詣」は、津軽地方最大の行事ですが、それ以外にも、各地域の人々がそろってこの神社に参拝する習わしがあるようで、私が訪ねたときには、地元・百沢の方々の参詣行列に出合いました。
御幣、神輿、幟端等を持った人々が、「サイギ、サイギ」と唱えながら本殿へと向かって行きました。⇒参詣する人々
◇龍神、登山道ほか





ー 次回へ続きます。
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「於瀬洞(オセドウ)」と呼ばれていた五所川原市の神明宮は、「御伊勢堂」が転化したものだといわれていますが、弘前市城北に鎮座する神明宮もまた、かつては「伊勢宮」と称する社でした。
この神社は、津軽藩の成立及び弘前城の築城と深く関わっている社です。

弘前市城北は、文字通り弘前城の北側に位置する閑静な住宅街ですが、近くには弘前八幡宮もあります。多くの住宅の中に混じって、ぽつんと緑の森が見えますが、そこが神明宮です。
大きな一の鳥居から境内が見えますが、神社につきものの狛犬などもなく、割とガランとした広い境内です。私が訪れたときは、近くの保育園の園児たちが先生と楽しそうに遊んでいました。
敷地内には稲荷神社 をはじめ、いくつかの境内社があります。
◇御志羅様(オシラサマ)
お堂には鍵がかかっていたので窓から覗き込んでいると、自転車でやってきた方が鍵を開けて中を見せてくれました。中にはオシラサマ が二体、大切に祀られていました。「時期になると(大祭のときなど)、きれいな晴着を着せるんだ。」
- 鍵を開けてくれた方の言葉です。
◇薬師如来
ここでは「目の神様」として祀られています。「目」を象徴する真ん中に穴の開いた自然石 が、お堂にたくさん吊るされていました。
◇天照大神宮
境内社の中で一番大きなお堂です。「絵馬堂」とも呼ばれているらしく、その中にはたくさんの絵馬。建物の左右、天井にいたるまで、透き間なくびっしりと掲げられていて、ひとつひとつ見ていくと首が痛くなります。それぞれに奉納された時期は異なるのでしょうが、それだけ昔から崇敬を集めてきた社なのでしょう。
◇境内社






拝殿で手を合わせ、本殿の方へ回ってみると、何やら話し声が聞こえます。どうやら地域のご婦人方が本殿の周りの草取りをしているようです。
おかげで神門の扉も開いており、本殿を正面からじっくりと見ることができました。大きくどっしりとした、とても重厚な感じのする建物です。
さて、この神明宮は、【御祭神:天照皇大御神 當社は古くより津輕公代々の守護神として藩主は勿論民衆の崇敬の的と成り、特に安産の神様として益々萬人に知られ崇敬されて参りました。 神明宮は慶長七年九月吉日津輕爲信公堀越城内に天照皇大神を祭神として伊勢宮を建立し、御神躰は元より永封にて代々藩主も御拝の例なし。慶長十六年二代藩主信牧公堀越城より高岡城(今の弘前城)に移るや伊勢宮も城内に移し、寛永四年城の東北藤ノ森(現内の境内)に移し奉り此の地に宮社を建立しました。延宝天和の頃迄は伊勢宮又は大神宮と稱し後神明宮と改稱されました。藩政時代は神佛混淆時代で津軽の各神社は最勝院の配下でありましたが獨り神明宮のみは津軽公代々領主の守護社とし、直属の神主をおき社格に於いても比較なく津軽や地方第一等社とされております。※青森県神社庁HP】と紹介されています。
由緒の通り、当初は堀越城内に建立された分けですが、堀越城は為信の津軽攻略の基点となった城です。しかしながら、為信が誤って孫の大熊に火傷をおわせてしまったために家臣の反乱が起き、高岡の地に新城(弘前城)を築くことになった分けです。その時、合わせて伊勢宮も移転したということなのでしょう。
また、為信の志を継いだ2代藩主・信枚は、いわゆる「四神相応の地」に弘前城を築いたといわれています。四神の方角(東の青竜・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)それぞれに砦を兼ねた寺社を配置した分けですが、ことに、鬼門にあたる北東には八幡宮(弘前八幡宮)が置かれました。そのすぐ隣の伊勢宮 もまた、八幡宮と並んで、城及び城下町の守護神として厚く敬われていたのでしょう。
- 「津軽の各神社は最勝院の配下でありましたが獨り神明宮のみは津軽公代々領主の守護社とし、直属の神主をおき・・・」という由緒書きからは、ここ神明宮の格式の高さが感じられます。
◇拝殿と本殿





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「昭和大仏」があることでその名を知られている寺院ですが、弘法大師を祀る「高野山青森別院」をはじめ、金堂、開山堂など多くの伽藍が建つ広い境内です。
美しい姿を見せる五重塔は、【39.35mと木造五重塔としては京都の東寺、奈良の興福寺、香川の善通寺に次いで日本第4位の高さを誇り、京都以北では最大の木造五重塔】とされていますが、境内には「○○地蔵」と名づけられたお地蔵様や、観音像、不動明王なども祀られています。入口である極楽橋から、ぐるっと一巡りしてみました。
↓下の画像の○をクリックすると、それぞれの場所の画像を見ることができます。

青龍寺は高野山の青森別院で、【昭和23年創立の新しい寺院。開基住職の織田隆弘師が「焦土と化した日本を復興させるための手助けをしたい。一人でも多くの生きていく人の支えになれば・・・また、護国の英霊を慰め、一般国民が心からご英霊に対し、報恩の誠をささげる心を育てたい」と托鉢し建立された。※真言宗津軽仏教会HPより】
元々は青森市茶屋町にありましたが、【境内地が狭隘であったため、昭和53年に将来の移転先として桑原の地を譲り受けました。 その後、青龍寺の境内地として昭和大仏、金堂、五重塔など伽藍を整備し、平成12年に旧茶屋町より高野山青森別院を移転復興しました。※青龍寺HPより】と紹介されています。津軽弘法大師霊場の第16番札所で、東北三十六不動尊霊場・第18番札所でもあります。
さて、境内の聳え立つ昭和大仏ですが、【1984年(昭和59年)9月30日に開眼。第二次世界大戦後に、茶屋町に作られていた高野山青森別院を移転する際に、織田隆弘が仏像資金の寄付を募った。大日経の所説に基づいて作られた胎蔵界(生)曼荼羅の教えでは、大日如来を中心として、その周りに宝幢(ほうしょう)、開敷華王(かいふけおう)、無量寿(むりょうじゅ)、天鼓雷音(てんこらいおん)の四仏と、普賢、文殊、観自在(観音、観世音)、弥勒の四菩薩が位置しているが、その大日如来の像として建造されたものである。仏体だけで21.35 mの高さを持つが、これは日本にある青銅座像仏では最大のものであり、重量も220トンある。※wikipediaより】という、日本一大きな大仏な分けですが、実際に下から見上げて見ると、その大きさに圧倒されます。
胎内には1階と2階があり、入ることができます。1階に入ってみましたが、そこには大日如来 阿弥陀如来 千手観音菩薩 虚空蔵菩薩 文殊菩薩などが安置されていました。
◇昭和大仏





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このイチョウの巨木は2本あり、通称「東株」と「西株」と呼ばれています(※名称は他にもあるようです)が、いずれも八幡宮の付近にそびえ立っています。
イチョウが、その美しさを見せる季節にはまだ早いのですが、神社めぐりを兼ねて訪ねてみました。
この宮田の八幡宮については【永和年中 (1375年頃) 北畠顕能卿が建立、 万治年中 (1658年頃)、 弘前町 (現弘前市) の武士、 棟方角之亟が部落の背後にある東岳を修業の場とする為に再建したもの。 明治6年3月村社に列せられたのを機に、 近隣の原別部落で易者を営む工藤齋祈を初代宮司に任じ、 現在に至る。 八幡宮は東岳の麓に鎮座し氏子は宮田八幡宮と呼んで、 元旦には家族の人数分のお供餅を神に捧げて、 日の出とともに元旦祭を行うのを恒例としている。 また参道に通じる道筋には樹齢350年の大銀杏が生えており、 枝についている樹脂の垂れ下がる様が乳房に似ているところから、 乳のよく出る神様と言われ妊婦の参拝者も多い。※青森県神社庁HP 】と紹介されています。御祭神は譽田別命と大山祇神です。
由緒の通り、北畠氏が創建したものだとすると、相当な古い歴史を持つ社であると思われますが、いずれにしても、この地域の信仰を集める中心的な神社といえます。
「八幡宮」と書かれた大きな幟旗が参道の両脇に立っていて、そこから一、二、三と鳥居が続いています。境内へは石段の登り道が延びていますが、その中央には地元の小学生の手による七夕飾り(短冊)がたくさん吊るされていました。前述の紹介文に「元旦祭を行うのが恒例となっている」とありますが、七夕の時期もまた、子どもたちの成長を願って、こうした行事が行われているのでしょう。
由緒の中に「東岳を修行の場とするために再建した」とありますが、東岳 (あずまだけ 684m)は、宮田の村落の背後にそびえる山です。頂上からは青森市内が一望できることもあり、登山客も大勢訪れるところですが、次のような伝説があります。
【東岳と八甲田山は、昔から仲がよくなかった。そしてとうとう山の争いがはじまった。壮烈な戦いの末に、八甲田山がすっぱりと東岳の首をはねてしまった。これから東岳は、今見るような平らな山になってしまったのである。※『青森の伝説』角川書店】
これは「山争い」の昔話ですが、八幡宮の由緒の通り、この山もまた、修験者を中心とする山岳信仰の山だったようです。境内の隣の道には、「イチョウ」と書かれた案内板とともに「山寺跡地」 と書かれたものも立っています。ここが、この八幡宮の前身である修験寺だったのでしょうか。注連縄と玉垣に囲まれた中央には、大木 が祀られていました。かつての御神木だったのでしょうか。この跡地の向かい側に大イチョウ(東株)があります。
一方、西株の方は、参道の入口側、「青面金剛童子」の碑と「龍神宮」に挟まれた場所にあります。龍神宮の傍らに水屋が建っていますが、この水は「龍神御水」 と呼ばれる県内の名水のひとつで、地元の方を中心に水汲みに来る方も多いとのことです。
◇境内とその周辺











さて、県の天然記念物である宮田のイチョウですが、説明板には【・・・いつごろだれが植えたのかは解明されていないが、遠い昔から神木として広く人々の信仰をあつめたようである。とくに母乳の不足がちな人たちが、この木を削って家へ持って帰り、細かくきざんでご飯にまぜて食べると母乳が多く出るようになったという。】とあります。
東株の方は、樹高が28m、幹回り8.0m、推定樹齢が約300年といわれ、八幡宮と山寺跡を見守るようにそびえています。
西株は、樹高が18m、幹回り9.2mですが、こちらの推定樹齢は約800年といわれる巨木で、近寄って見ると、その大きさに圧倒されます。
この宮田のイチョウと八幡宮の前身である「山寺」について、寛政8年(1796)4月にここを訪れた菅江真澄は、『すみかの山』の中で次のように記しています。
ー 「やがて吾妻山の麓なる宮田といふ村に来る、此塚原のやうなる処に、古る銀杏の木二もとたてり。寺のありしあととおぼしくて、五百とせよりこなたの石塔婆あまたふしまろび、橋にも渡し、あるはおしたて、あるは埋れたるもありき。近きころこの畠中より、こまで(高麗手)の陶皿あまた掘得しといふ。ふたもゝとせのむかし、此山かげに大寺のありしが、いつとなううちあばれてけれど、すり(修理)、さらにくはふる人もなう、いよよ、きつね、たぬきのふせどとはなりぬ。」 -
◇宮田の大イチョウ





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「モヤ」はアイヌ語で「小さい」を意味するといわれ、「モヤ」と名のつく山は、北海道や青森県、秋田県に多くありますが、いずれも整った三角形の形をしており、昔から人々に神聖視され、信仰の対象になっていたようです。
ここ脇元の靄山は標高150m位の山ですが、数々の伝説が伝わる山です。
青森県には、八甲田山をはじめ黒石市の黒森山など、岩木山と「背比べ」をした山の昔話がありますが、この靄山もまた、そのひとつです。
岩木山との関わりはとても深く、【昔、安住の地を捜して旅をしていた安寿と厨子王が、この地に立ち寄ったときに、厨子王が獅子舞のとりこになり、姉の安寿と離ればなれになってしまった。姉の安寿はあきらめて遠い津軽の岩木山におさまることになったが、弟の厨子王は形が似ている脇元の靄山におさまることになった。】という伝説もあります。姉の安寿は岩木山に、弟の厨子王は靄山に鎮座したという分けです。
頂上には「岩木山神社(脇元岩木山神社)」も建っており、岩木山で盛大にお山参詣行事が行われている頃、同じくここ靄山でも「さいぎ、さいぎ」の声と登山囃子の演奏が響き渡ります。今回は頂上までは登ってみませんでしたが、晴れた日には、真正面に岩木山が見え、すばらしい景色が眺められるとのことです。
また、この靄山は、昔、安東氏が築いた「人工の山=ピラミッド」であるという話もありますが、ロマンをかき立てる神秘の山といえそうです。
◇靄山






その霊山・靄山の麓、脇元漁港の近くに洗磯崎神社が鎮座しています。境内は小高い丘になっていて、ここから見る靄山は三角形ではなく、鍋を伏せたような形をしています。
洗磯崎神社については、【御祭神は大己貴命と少彦名命で、安倍・安東氏の祖神を祀った神社であるといわれている。 文永11年 (1274) 天台宗僧賢坊により薬師堂が建立され、 それ以来薬師信仰が盛んになり、 旧暦の4月8日には薬師祭が行われ白旗立てた参詣者が近隣から集まり賑わいをみせたという。
また、 一説には天和3年 (1683) 村中建立とも伝えられる。 何れにせよ明治以前は、 薬師堂または薬師宮と称され、 明治6年4月神仏分離令により洗磯崎神社と改め、 村社に列せられる。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。
安倍・安東氏の祖神とは「荒吐神(アラハバキ)」のことだとされていますが、【アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)は、日本の民間信仰の神の1柱である。その起源は不明な点が多く、歴史的経緯や信憑性については諸説ある。東日流外三郡誌で遮光器土偶の絵が示されており、それに影響を受けたフィクションなども見られるなど、古史古伝・偽史的な主張と結びつけられることも多い。アラハバキを祀る神社は約150で、全国に見られる。東北以外では客人神(門客神)としてまつられている例が多く見られる。※wikipediaより】という謎の多い神です。
「縄文神の一種」であるとか、「蝦夷の神」であるともいわれていますが、「蝦夷の末裔」を自負する安東氏の守護神ともいえる神だったのでしょう。
道路際にある一の鳥居をくぐるとそこは境内。右側に回り込んだところに二の鳥居、三の鳥居、そして拝殿が建っています。
あいにく、拝殿の扉は閉まっていましたが、境内に一軒の民家があったので、宮司さんのお宅ではないかと思い、訪ねてみたところ、おばあさんが出てきて快く鍵を開けてくれました。窓から日差しが入り込み、とても明るい感じのする拝殿でした。
この拝殿の隣にひとつの末社が建っています。中を覗いて見ると、中央の大きな石の左右にいくつかの石が祀られていました。石を御神体とする社のようです。中央の大石は靄山の姿(神社側から見た丸い靄山)を表しているのだとか。。。
境内には、まるで龍が横たわっているような大きな老松がありますが、その後ろに、これまた整った三角形の山が見えます。おばあさんに聞いてみたところ、この山は「不動山」だということでした。頂上には不動明王が祀られているとのことです。「登れますか?」と聞いたら、「あー、登れる。わらはど(子どもたち)だば、すぐ登る。入口に鳥居が立ってる。」という話だったので、行ってみると赤と白の鳥居があり、「軻遇突智(カグツチ)神社」とありました。火の神・火之迦具土神を祀っているようです。ここもまた霊山なのでしょう。
この不動山について、おばあさんは、こんな話をしてくれました。
ー 「三月には、わらはどが白いのぼりをもって、この山さ登ったもんだ。あっちの山(靄山)に登る者と二つに分がれで、どっちが早く、多く、てっぺんにのぼりを立てるか、競争したんだ。」 -
このおばあさんの話・・・正直、よく分からなかったのですが、後でHP「Web東奥ーあおもり110山」の靄山の記事を見ると、次のようなことが書かれていました。
【靄山にはかつて「3月25日」という行事があった。地元の方の話によると、旧3月25日、同地区の小学生までの子供たちが授業を午前中で終わり、親が準備してくれた重箱を持って靄山と北のお不動さまに登る。山頂で条幅に「天下太平 菅原運真公」と筆で書き、ササにつるしたものを山頂に立てた。下山の途中、各人がやぶの中に休憩場所を作り、そこでごちそうを食べた。】
- 二つの霊山に囲まれた、まさに、この地域ならではの行事だった分けです。
◇洗磯崎神社ほか










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