
津軽には、坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に、敵対する蝦夷の首魁を退治し、その亡骸を葬った・・・という伝承を持つ神社がいくつかあります。
平川市の猿賀神社の「猿賀石」は、その跡だともいわれている他、同じく平川市の熊野神社は、首領・大獄丸の首を埋葬した場所であるとされ、藤崎町の鹿嶋神社は、恵美の高丸の霊を退治した神社とされています。今回訪ねた弘前市相馬(旧相馬村)の石戸神社もまた、同様の伝承が残っている社です。

石戸神社の御祭神は、天岩戸別神と小彦名命。天岩戸別神(あまのいわとわけのかみ)については、【『古事記』の天孫降臨の段に登場する。邇邇芸命が天降る際、三種の神器に常世思金神・天力男神・天石門別神を添えたと記され、同段で天石戸別神は又の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい、御門の神であると記されている。・・・天石門別神は古来より天皇の宮殿の四方の門に祀られていた神である。天太玉神の子ともいう。※wikipediaより】といわれています。
神社の向かい側には、「天石門別乃泉」 と名づけられた御神水もありました。
この神社の由緒については、
【伝承によると、本村藤沢のメノコ館に、神通力自在の女子の蝦夷首領がいてそむいた。大同二年平定に当った坂上田村麻呂が神仏に祈って最後に討取った所が当所の清泉であった。大石を重ねた石堂にその霊を鎮め石戸権現をまつったという。
当社は古くは大重院・医王山薬師堂と称し、慶長八年(1603)再建され、明治の初め石戸神社と改称した。祭神は天石戸別命・小彦名命である。※境内由緒書きより】と紹介されています。
どうやら、この地を支配していた蝦夷の首魁は女性だったようです。「神通力自在の女子の蝦夷首領」の話は、青森市の大星神社の縁起にも出てきますが、津軽に広く伝わる伝説のようです。また、「最後に討取った所が当所の清泉」とありますが、先ほどの「天石戸別乃泉」のことなのでしょうか。
実は、このメノコ館の女首領については別の言い伝えがあります。
この辺り一帯から見渡すことのできる「棺森(がんもり)」 という、標高588mの山がありますが、そこには次のような話が伝えられています。
【坂上田村麻呂が蝦夷征伐をした当時、津軽はメノコという優れた女性が統治していた。その館は相馬村藤沢にあった。田村麻呂の軍勢は館を七重に取り囲んで攻め、メノコは包囲綱をかいくぐり棺森に逃げたが、そこで殺された。遺体を棺森に埋めたが、夜な夜な女が叫ぶ声が聞こえたり、墓石が動くため、兵士はすっかり戦意を喪失した。そこで遺体を相馬村湯口に移し、権現さまと合祀(ごうし)したら鎮まった。その場所が今の石堂神社といわれている。※Web東奥「あおもり110山」より】
- どちらにしても、この蝦夷たちは、田村麻呂軍を脅かすほどの強大な力を持っていたのでしょう。「大石をいくつも重ねた石堂が造られた」というくだりは、そのことを表しているように思います。「石堂」」が転化して「石戸神社」になったということでしょうか。その石堂はありませんが、境内には、祠とともに、いくつかの石塔が立っていました。
◇石戸神社






せっかく相馬まで来たので、ついでに一丁木というところまで足をのばしてみました。
実は、ここ一丁木には、「隠れた名木」とでもいうべき、大イチョウの木があると聞いていたからです。
その巨木は、JAの倉庫の後ろにありました。辺りに木々はなく、その大イチョウだけがそびえているという感じです。
地域の御神木として崇められてきたのでしょうか、そばには小さな祠も建てられ、「人型」の石像 などもあります。石像の台座には、もぎたての真っ赤なりんごが置かれていました。
このイチョウは、幹周りが約9.2m、高さは10mといわれています。
つやつやした茶色の樹皮と、黄色い葉っぱの色の対比が鮮やかな、見事なイチョウの木です。
◇一丁木の大イチョウ





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☆つがるみち☆



10月も残り少なくなり、ふだん見慣れている景色も、夏場とはだいぶ様変わりしてきました。「深まりゆく秋」といった感じです。
津軽の田んぼの稲刈りも終わり、あちらこちらで「わら焼き」が行われています。
前回に引き続き、今回は板柳町の神社を2つ訪ねましたが、「闇おかみ神社」の境内には、その「わら焼き」の煙が流れていました。

この「闇おかみ神社」は、板柳町の飯田地区に鎮座していますが、藤崎町と境を接するところにあります。
御祭神は闇淤加美神。「闇おかみ(くらおかみ)」「高おかみ」など、いわゆる「おかみ神」を祭る神社は、津軽では、川べりやため池などの近くに多く見られますが、それは、この神は、農業にとって大切な「水の神様」であるからです。 ⇒以前の記事へ
板柳町は、現在では「りんごと米のまち」として有名ですが、かつては津軽藩の川港があった所で、岩木川の水運によって発展した町でした。
町内の海童神社は、そのような町の歴史を伝えている社ですが、ここ闇おかみ神社の由緒にも、
【御祭神:闇淤加美 神創建不詳であるが海童神社と同様岩木川沿岸の地によく祭られた社で、 綿津見神三神上・中・底のうち上津綿津見神を主神としている川の神様である。 ※青森県神社庁HP 】と記されています。
境内には、もうひとつの農業の神様である馬頭観音も祀られていました。
拝殿の前に「八千代乃神杉」と彫られた大きな石碑と、そのそばに「闇おかみ神社八千代杉」と書かれた木柱が立っています。
碑の後ろは玉垣で囲まれており、細い杉の木 が1本立っています。玉垣の中を覗いて見ると、大きな古株がありました。元の杉は何らかの事情で倒れたものなのでしょう。その跡から若杉が育っているようです。石碑には「大正七年 樹齢三百五拾年」と彫られています。その当時から、崇拝されていた「地域の御神木」だったのでしょう。
◇闇おかみ神社






今の季節、それぞれの神社の表情は様々です。
前述の闇おかみ神社は、杉の木が多いこともあって、「緑の境内」でしたが、ここ鹿島神社の入口の木々は色鮮やかに染まり、まさに「紅葉真っ盛り」という感じでした。
この鹿島神社の御祭神は武甕槌神。板柳町の滝井地区に鎮座している社です。

その由緒については、
【昭和三十二年私有とされていた、 毘沙門天を再び部落の氏神として祀り鹿島神社として建立。 御神体の毘沙門天は、徳兵ヱという人が、 南部から持って来たもので田村麿呂将軍手造りの古物と伝えられる。 徳兵ヱはこれを氏神として屋敷内に祭っていたが、 同人が没後その子孫が絶えたので、 人々が相談のうえ飛竜宮末社として滝井惣十郎地内に安置し祭りを絶やさなかった。 その後尊体は何者かに盗み取られたので、 文化二年 (一八〇五) 滝井の山崎勘右エ門が江戸登りした時、 新調した毘沙門天を求めて寄進したものである。 後年村の氏神としたが、 明治に入って氏子協議のうえ信者、 小野松太郎に遺わし、 同家の氏神となった。 その後昭和三十二年初秋、 小野七郎氏より土地、 お堂の奉納を受け滝井、 館野越の部落民の協議の結果、 毘沙門堂の場所に併せて武甕槌神を主祭神として、 昭和三十六年本庁の承認を得て現在に至る。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
「鹿嶋神社」としての創設は比較的新しいものの、元々の御神体である「毘沙門天」に対する信仰は、古くからのものであり、そのお堂は、村の産土社として崇められてきたのでしょう。
拝殿の両脇には、人の身長ほどもある大きな草鞋が奉納されています。この拝殿の後ろに大きなイチョウの木 があります。幹周りや高さは分かりませんが、なかなか堂々とした巨木です。注連縄こそ張られていませんでしたが、御神木なのでしょう。
この大イチョウの枝の下に、ひとつのお堂が建っています。中を覗いて見ると、そこには「亀に乗った女神像」が祀られていました。水の神・水虎様です。この地区もまた、水神を祀り、水害防止や豊作を祈願していたのでしょう。
◇鹿島神社





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板柳町の深味という集落は、昔、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の次男・重成が隠れ住んだ地域だといわれています。
ここに八幡宮が鎮座していますが、この八幡宮は石田家ゆかりの神社とされていて、「杉山八幡宮」とも呼ばれています。
「杉山」とは、石田重成の津軽における別名「杉山源吾」からとられたものです。
石田重成は、
【石田 重成(いしだ しげなり、1589年(天正17年)? - 1610年(慶長15年)4月28日、あるいは1641年(寛永18年))は、石田三成の次男。母は宇多頼忠の娘・皎月院。兄に石田重家、妹に辰姫(津軽信枚室)。官位は隼人正。名は重成のほかに、杉山源吾某、杉山仁兵衛俊成。妻は朽木氏の娘、後妻は柘植氏の娘、子に杉山吉成、石田掃部、杉山嘉兵衛成保。 豊臣秀頼に小姓として仕えていた。】分けですが、
【慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父をはじめとする西軍が東軍に大敗し、居城・佐和山城も落城したことを知ると、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。】といわれている人物です。
津軽為信は、自らの本領を安堵してくれた豊臣秀吉への感謝の念を終生持ち続けたといわれ、弘前城の「館神」として、秀吉の木像を祀ったといわれています。
⇒革秀寺の記事へ
そのため、為信の長男・津軽信建(つがるのぶたけ)、2代藩主・信枚などもまた、豊臣家及び、その家臣であった石田三成への恩顧の気持ちは強く、三成の子どもを津軽へと逃亡させたといわれている分けです。
その後の重成については、
【「杉山源吾」を名乗り、津軽氏の保護のもと深味村(現・板柳町)に隠棲する。慶長15年(1610年)4月28日に若死したという説があるが、慶長15年ごろまで隠棲しその後出府して寛永18年(1641年)に53歳で没したという説も有力である。三男の成保系『杉山系図』には藤堂高虎に仕え伊勢で死去したという記述があるが真偽は不明。長男・吉成は弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職についており、子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続した。】と伝わっていますが、杉山家代々の墓所は、弘前市の宗徳寺にあります。
- ここ板柳町深味は、石田家(杉山家)のその後の出発点となった集落だった分けです。
※上記の【】はwikipedia他より
八幡宮の境内へと入ると、左手に馬頭観音が祀られています。そのそばには、赤い鳥居の後ろに、二十三夜塔や庚申塔が立っていました。
八幡様のお使いである、大きな狛鳩は参道の両脇に立っていますが、神馬も三体ほど。板柳町の神社の神馬は、今にも動き出しそうな前足のつくりが特徴的ですが、ここの神馬もさっそうとした姿をしていました。
◇八幡宮境内










さて、神社の入口に由緒を記した木柱 が立っていますが、それには、「(重成一行が)この地を去るとき、持ってきた守護神が急に重たくなり、執着があるのだろうと、この地に安置したと伝えられる」とありました。
青森県神社庁HPには、次のように紹介されています。
【 杉山家伝記に、「深味は先祖杉山八兵衛の知行所にして先祖代々武運長久を祈れる八幡宮の鎮座する処なり」 と記され、伝記によると関ヶ原で敗れた石田三成の子源吾とその残党が徳川の追及を逃れて海路西浜に上陸、 津軽家をたよってこの地にたどり着き深味の神家にしばらくとどまった。 間もなく黒石方面に発つことになったが、 持って来た守護神が急に重くなったためこの地に深い執着があるのだろうとのことから安置したと伝えられている。 先祖代々武運長久祈願の守護神として祭り、「杉山八幡宮」と称したといわれている。
御神体は「豊臣太閤の護神即ち肌身の守神とせるものなりを石田三成の偉功を憂せられて親しく賜りたるものなり」とあり、 また口碑には三寸三分の金無垢の像と三成の陣羽織であると伝えられている。 この御神体は盗難に会い今はない。 現在の御神体は明治初期新たに作ったもののようで二十七センチの極彩胡粉塗り立像である。 】
- 深味八幡宮は、秀吉と三成、そして重成と津軽家との強い結びつきを感じさせる社です。
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津軽地方特有の「ジャンバラ型注連縄」・・・その大きさや形もいろいろあるようです。鳥居にちょこんと架けられているものや、見るからに豪華なものなどさまざまですが、特に青森市内の神社に多く見られるようです。
中でも、前回ご紹介した高田・熊野宮と並んで、幾何学模様が緻密で、重そうな貫禄のあるジャンバラ注連縄をまとっているのが細越神社です。

この神社が鎮座する細越地区は、前回の高田集落のすぐ近く、「となり町」といったところでしょうか。
一の鳥居には、地面まで届きそうな立派なジャンバラが垂れ下がっていますが、最近はこの見事なジャンバラの作り手の高齢化などにより、後継者が不足していて、青森市内の神社でも、その対策に追われているようです。
ですが、この細越地区には「細越大年縄保存会」が結成されていて、後継者づくりと伝統の保持に努めているとのこと。この保存会で製作したジャンバラを同じ市内の神社にも提供しているようです。
⇒新聞記事より
ジャンバラをくぐると、たくさんの灯篭が両脇に立ち並ぶ長い参道が続きます。末社には保食神社。その脇には、猿田彦大神や二十三夜塔、青面金剛仏の碑がまとめられていました。
御祭神は大物主神と奇稲田姫命ですが、大物主神はもちろん、奇稲田姫命を祭っているのは、五穀豊穣を切に願う思いの表れでしょうか・・・一帯には、天保の頃に飢饉・大凶作によって、廃村に追い込まれた集落もあったとのことです。
◇細越神社境内





一の鳥居のそばに由緒書きがありますが、それには、
【慶長年間、この地域には、大橋村、枝村、中村、細越村、漆新田村、長沢村の六つの集落があった。往時、相次ぐ凶作や災害により、大橋村、長沢村の住人は困窮し、やがて離散し、今は住家も住人もいない。
明治の頃、枝村に深山神社、漆新田村に三輪神社があり、それぞれ異なる慣習、祭事があり、それが互いの対立意識を煽り、すべての事に争い事が絶えなかった。事を憂いた若者達は、再三、両神社の合併に依る和平をはかった。
遂に、大正五年、地域のほぼ中央の位置に大字名、細越を入れ、細越神社として、両神社の祭神の鎮座を仰ぐにいたった。 (細越村郷土誌より)神々を尊び、地域の融和を願い、力を尽くされた先達を偲び、我々も又、その偉業に追従する事を誓い、過ぎし事、ここに記し、建立する。※由緒書きより】
この由緒書きによっても、昔は、この地域が度重なる凶作に悩まされていたことが分かります。同じともいえる地域に、「深山神社と三輪神社があり、異なる慣習、祭事があり、対立していた。(※上記_線)」というのも、それぞれの集落で、必死に豊作を祈願したことを示すものでしょう。そんな思いを統合して、団結した結果がこの神社の建立につながったということでしょうか。
由緒に出てくる三輪神社は、以前は「生出観音」と呼ばれる観音堂でしたが、その名は、ここに土の中から生まれ出でたような自然石の観音(※だから生出(いきで)観音)があったことに由来するといわれています。
現在は、細越神社の近くに、その生出観音の跡が残っているだけですが、そこには、生出観音の由来と三輪神社へと改称した経緯等が記されています。
菅江真澄は、寛政11年(1799)にこの地を訪れ、『すみかの山』に、
【安田村を過れば山路花の多かるかたぞ見へたる。みちのかたはらに大なる黒き石のみさか よさか斗たちが生ひ立るに堂をおほひ造りて 是を生出の観音と唱え・・・】と記し、細越を「やまさくらの咲く村」と紹介しています。
- 昔ながらの面影を残す細腰地区は、「ホタルの里」 としても知られています。
◇社殿と生出観音跡





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神社の鳥居の種類や、その形には詳しくないのですが、どっしりしたものや華麗な感じがするものなど様々です。それぞれの社によって、扁額の下に米俵や酒樽を模したものを掲げていたり、奉納された草鞋が架けられていたりします。
注連縄の形や太さもいろいろですが、神社によっては、暖簾のような形をしたものがあります。横綱の化粧まわしのようにも見えるその姿は、よく見ると、幾何学模様に編みこまれています。それは、大きな注連縄の下側にぶら下げられていたり、あるいは、それそのものが注連縄だったりする分けですが、この珍しい模様を「ジャンバラ」といい、「ジャンバラ型注連縄」と名づけられています。
この「ジャンバラ」は、全国的にも珍しいといわれ、津軽地方特有のものとされていますが、いつ頃、どんな理由でつくられたものなのか、詳しいことは分かっていません。「くぐってお参りすると、複雑な幾何学模様が、様々な災いを絡め取ってくれる」という話もあるようですが、どうなのでしょうか。実際、ジャンバラ注連縄を前にすると、立ち止まらざるをえず、何となく、身が引き締まる思いがします。大げさですが、「これから神域へ入るのだ」みたいな。。

青森市の高田地区に鎮座する熊野宮もまた、一の鳥居に、豪華な「ジャンバラ型注連縄」がある神社です。
高田集落は戦国時代に高田城があったところですが、この城については、【建築時期は不明である。戦国時代には土岐則基の居城であった。則基は高田村、荒川村を領して、800石で南部氏に仕え、津軽関門の守備を担っていた。天正6(1578)年、大浦為信が浪岡城を攻略、則基と嫡男の則重が戦死した。次男則忠・三男則吉は南部高信次男政信の娘を奉じ、三戸に逃亡し、則忠は三十石を賜った。それにより、廃城となったと思われる。※wikipediaより】とあるように、南部方の出城として築かれ、為信の津軽統一の過程で、廃城になった城です。
この熊野宮の由緒については、【御祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命 伝聞大同年中創立の由、慶長十四年五月高田、大別内、大谷、三ケ村にて産土神に再建、昔より新山大権現と称来れども、仏体に付、明治三年七月、末社熊野宮を本社と繰上、同六年三月村社に列せらる。※青森県神社庁HP】とあります。
ジャンバラをくぐり参道を進むと右手に石段があり、ひとつのお堂が建っています。保食神を祀るお堂です。正面に馬の姿が描かれていますが、しばしば、保食神は馬頭観音と同一視されるようです。
少し進むと左側に鳥居があり、「権現堂」がありました。由緒にあるように、この熊野宮の前身は「新山大権現」だった分けですが、新山宮は文禄3年(1594)に、諸難退散・五穀成就のため、高田村と尾別内(大別内)の産土神として建立されたとされています。その後、明治の神仏分離により、廃された分けですが、この「権現堂」は、その名残りをとどめているものなのでしょうか。
この権現堂から、右側に進むと、石灯籠と狛犬が並び立つ拝殿があります。境内は、かなり広く、敷地の端の方には「天満大自在大神」の碑などもありました。天神様(菅原道真)も祀られているようです。
◇保食神、権現堂ほか





権現堂のそばに手水舎がありますが、大きな龍の像がありました。何となくユーモラスな龍ですが、左手にしっかりと珠をつかんでいます。
龍は、昔から中国の皇帝の象徴であったように、権力の強大さや地位の高さを表しているとされていますが、その龍の大好物が「珠」だといわれています。
この「玉」は、仏教において「如意宝珠」と呼ばれるもので、「意の如し」「あらゆる幸運や運気を引き寄せるもの」と信じられてきました。
即ち、龍と玉(珠)は、世の中の全てのものを手に入れる(入れたい)という人間の究極の欲望を表現したものなのだといわれています。
この熊野宮本殿の彫刻はすばらしいものですが、とりわけ左右の木鼻の「龍」は、ほんとに見応えがあります。そして、この龍もまた、しっかりと「珠」を握りしめていました。
◇拝殿と本殿





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東北自動車道の大鰐ICの辺りから、平川市へと向かう街道は「乳井通り」とも呼ばれ、ここに津軽北斗七星神社のひとつである乳井神社が鎮座していますが、この辺り一帯は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、強大な勢力をほこった熊野修験・「福王寺」の跡とされています。
また、この地は、津軽氏と南部勢の激しい戦いが行われた場所でもありました。
その街道沿い、乳井の町はずれに薬師堂という集落がありますが、ここに熊澤神社が鎮座しています。
集落の道路沿いに小高い丘があって、参道の石段が延びていますが、その手前に「薬師大神」と書かれた大きな石碑が立っています。室町の頃には、ここに薬師如来を祀る堂宇があったということですが、その名残りなのかも知れません。地名の「薬師堂」もまた、ここからきていると思われます。
この熊澤神社の御祭神は、少彦名命・軻遇槌命・武甕槌命ですが、境内には、「久須ノ神」「金比羅大神」「岩木山大神」と彫られた碑も立っています。こうした、様々な神様を祀っているところをみると、やはりこの神社は古くからの村の産土社だったのでしょう。
その由緒については、【延暦年間坂上田村麿東征の折、当國に下向、戦不利のため悪鬼降伏のため、祈願勧請。不思議な感応あり妖鬼退散降伏すと伝えられる。当時は阿曽山中に在りと考えられて、幾度か奉移の後、天正十七年現在地日照田に移され、翌天正十八年、社殿及び神門等すべて修革された。又、津軽信義公、信政公等代々御信仰され、祈願されたと伝えられる。延宝年間、大災により全焼、後に元禄年間村中により再建される。※青森県神社庁HP】とあります。 - 乳井神社と同様、ここにもまた田村麻呂伝説が残っているようです。
「阿曽山」とは、近くの「阿蘇ケ岳(あそがだけ:494m)」という山のことですが、この山に陣をしいた田村麻呂は眼病にかかり、平癒のために山頂に薬師如来を祀ったとされる山です。由緒にあるように、この山から現在地へと移ってきたものなのでしょう。
杉の木立と青草に囲まれた境内はとても静かで、落ち着く場所でした。
◇熊澤神社






熊澤神社から平川市内へと進んで行くと、途中に高畑という集落へ出ます。ここに鎮座しているのが神明宮です。
この神社の由緒などについては詳しく分かりませんが、一の鳥居の前に高畑城跡 と書かれた木柱が立っており、それには「築城年代は不詳。大光寺城南備の砦で、元亀(1570~)の頃は平岡惣右衛門盛影が城主であったが、乳井大隅建清に攻略された。その後、南部勢が大挙してこの城を攻撃したが、遂に落城しなかった。この城は、三郭から成っていたという説もあるが判然とせず、今は北方の堀跡に面影を留めるのみである。」と記されていました。
高畑城は、西から東側に主郭、二の郭、三の郭を連郭式に連ねた造りで、規模は東西90m×南北150m。周囲には堀があったと推測されています。
永禄年間(1558~1570年)に、大光寺城主・滝本重行が、南部方に敵対する乳井氏(福王寺)を抑えるために家臣に命じて築城した城ですが、津軽為信と結託した乳井氏の攻撃により、城は乳井氏のものとなります。
その後、再び押し寄せた南部勢により、城は奪還されますが、結局は乳井氏が奪い返したという経緯をたどった城です。
⇒拙記事へ
ここ神明宮は、その高畑城の跡地な分けですが、遺構はほとんど残っておらず、堀の跡なども、私には確認できませんでした。
拝殿には、他の神社には見られない珍しいものが彫られています。「法螺貝」です。
- かつて、この地を中心に繰り広げられた激しい戦を象徴しているようです。
◇神明宮





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ぶらりと訪れた神社。弘前市の郊外、旧岩木町や鶴田町と境を接している小友地区に鎮座する加茂神社です。
大きく立派な扁額が掲げられている一の鳥居をくぐると境内。中には児童館などもあり、なかなかに広い敷地です。
参道を進んで行くと、左手に社殿へと続く石段が延びていますが、正面にひとつのお堂が建っています。
その中を覗いて見ると、そこには大きな切り株が祀られていました。切り株の上には「夫婦杉の芯」が置かれています。どうやら昔は杉の大木だったらしく、「夫婦」の名前からして、二本の杉の巨木が寄り添ってそびえていたのでしょう。この神社の御神木であったようです。
お堂の隣には、二十三夜塔をはじめ、庚申塔や猿田彦大神の石碑が並んでいます。
石段の両脇には、末社がいくつか立っていますが、そこには、不動明王 などが祀られていました。
鮮やかな朱色の鳥居から石段を登りきったところが拝殿です。途中には大顔の狛犬 がいます。なかなか面白い表情の狛犬です。
この神社については、【御祭神:別雷神 創立年月日詳ならずいへども伝聞最明寺時頼建立と云う。 明治六年四月十九日付社指定せられる。 昭和二十四年九月三十日国有境内地無償譲与せられる。※青森県神社庁HP】とだけあり、その詳細については分かりませんが、伝聞のように北条時頼(1227年-1263年)の時代に創建されたとすれば、大変古い由緒をもつ社といえそうです。
◇加茂神社境内






北条時頼は、
【鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗、北条宗政、北条宗頼らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた。※wikipediaより】人物ですが、執権を辞任し出家した後の時頼には、諸国を廻ったという伝説が残されています。
謡曲『鉢の木』で知られる佐野源左衛門尉常世の物語は、時頼の回国伝説の代表的なものですが、鎌倉時代の歴史書である『増鏡』には、時頼は出家してから諸国を歩き、不満を訴える人々に自らの文を手渡していたとされ、その文を鎌倉に持参すると善処してもらえたという話が伝えられているようです。
青森県にも南部町の法光寺をはじめ、時頼の回国伝説が伝えられていますが、津軽にもやってきて、かつての愛妾であった唐糸御前の死を悼んで、ねんごろに供養したという話も残されています。
⇒拙記事へ
ここ加茂神社の由緒にあるように、小友の地にも、その時頼の伝説が残されているのでしょうか。
境内は、杉の大木が並び立ち、緑がとても美しく、鳥居の赤がひときわ目立ちます。
多くの神社の拝殿は、わりと地味な色のものが多いのですが、ここの拝殿はとても色鮮やかで、その彫り物や木鼻なども、はっとするような、見事な造りでした。その拝殿の後ろ、一段と高い小山の上に本殿が見えました。
◇拝殿と本殿





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☆つがるみち☆



ここは、【古くから白鳥渡来地として知られ、毎年10月中旬頃シベリア方面より渡来し、3月下旬頃まで白鳥とのふれあいが楽しめます。また、渡橋から松島・小松島へと渡れ、景勝地としても賑わっております。海岸一帯(夏泊全体に亘り)は『小湊のハクチョウおよびその渡来地』として国の特別天然記念物にも指定されていてます。※平内町HP 】と紹介されているように、白鳥飛来地として有名な海岸ですが、ここに雷電宮という社が鎮座しています。
一の鳥居をくぐると、手水舎のとなりにひとつの木製の歌碑が立っています。これは、菅江真澄の歌を記したものですが、菅江真澄は、天明八年(1788)と寛政七年(1795)にこの地を訪れ、紀行文『津軽の奥』には「・・この夜、雷電の祠に夜ごもりはせりけり、その、いほそくらの法螺ふく声いと高し。神明の社にぬさとりその林に入れば、さばかり広きみなとは、なから厚氷のゐたるに雪ふりかヽりたるうへを、氷渡すといひて、ふみしだき渡りぬ。大空の霞たるやうに月の朧なる長閑さ。 ー のどけしなみまへは春になるかのみたらし川はまだ氷るとも」と書いています。
菅江真澄の歌碑は、拝殿前にも立てられていて、そこには「みつしほの浪のしらゆふあさな夕かけていく世になり神の宮」 と記されていました。
手水舎の向かい側に一本の大杉がありますが、樹齢約350年とも言われるこの大木は「降雷大杉」と名づけられています。
ここ平内町の雷電宮は、「五穀豊穣・海上安全豊漁・雷難除去・諸願成就の神様」である別雷命(わけいかずちのみこと)を御祭神とする避雷信仰をもつ神社で、その力により、平内町の人々を雷の被害から守るとされていますが、2005年の11月に、この大杉に雷が落ち、その上部が燃えたようです。 - 被害を民家に及ぼさず、我が身に引き受けた「神木」といえるでしょうか。
境内には、稲荷神社をはじめ、龍神宮など、いくつかの末社が建っていますが、稲荷神社と龍神宮の間に、大きな石造りの歌碑があります。これには大町桂月の歌「白鳥の羽音と共に千代までも御稜威絶えせぬいかずちの宮」が刻まれていますが、桂月は大正11年に夏泊半島を探訪していて、雷電宮を参拝した際に呼んだものとされています。
◇雷電宮境内










さて、雷電宮の由緒については、【第五十代桓武天皇の御代、 延暦二十年坂上田村麻呂将軍創祀と伝えられる。往古蝦夷政策が進められた中に、 征夷大将軍坂上田村麻呂公は東北経営にあたったが、 奥州の夷賊高丸・大た基も・盤いわ具ぐ等(※蝦夷の首魁たち)が謀反し、 妖術で官軍を苦しめたので、 将軍神仏の冥助によって平定しようと多くの社寺を建立された。 当社はその一社と云われる。初め南部の某地に建立されたと伝えられるが、 何時の頃にか東岳に祀られる。 後東岳の社寺離散した時、 荒田 (今の平内町盛田) に再建。文禄二年、 洪水の為祠宇流されて現今の地に漂着。※青森県神社庁HP 】と紹介されています。
古くから白鳥の飛来地であるこの辺り一帯には、白鳥を「神使」と崇める信仰が根強く残っていて、他村の猟師が白鳥に銃を向けたりすると、その前に立ちはだかったという話もありますが、次のような伝説が語りつがれています。
「津軽藩と南部藩の境にあたるこの地は争乱が絶えなかった。戦国の頃、この地を治めていたのは七戸氏で、福館を居城とし、南部氏に仕えていたが、七戸修理の代になって津軽氏に帰順した。南部氏はその報復のため、大軍をもって攻め寄せた。七戸修理は迎え撃つ覚悟を決め、雷電宮へと戦勝祈願に向かった。 真剣な祈りを奉げ、いざ戦場へ向わんとした彼が目にしたのは、何処からか集まってきた数千羽の白鳥達だった。白鳥達は次々と境内に舞い降りたが、その羽音を聞いた南部勢は、津軽の援軍来ると勘違いして、戦わずして引き揚げた。」以来、白鳥は雷電宮の神の使いであるとされ、捕獲を禁じられたという話です。
また、この小湊の白鳥には、源義経に関わる言い伝えも残されています。
「平泉から逃れた義経は、八戸滞在中、地元の豪族佐藤家の娘と深い仲になり、娘は鶴姫を産む。義経が既に北へ旅立った後の話である。歳月が流れて、成長した姫が恋に落ちる。相手は地元の阿部七郎という武士である。しかし、阿部家は頼朝に仕える身であり、義経の遺児との結婚など不可能。思い余った2人は、話にだけ聞く義経を慕って蝦夷地への逃避行を図ろうとする。そして夏泊まで来たとき、追っ手が迫った。2人は半島の絶壁で胸を刺し違えて、海に飛び込んだ。」
ー 夏泊に咲く真っ赤な椿は二人の悲恋の(心中の)象徴。そして、浅所海岸に押し寄せるたくさんの白鳥は、薄幸の娘を慰めるために義経の霊魂が乗り移ったものとされている分けです。
「椿山心中」と呼ばれるこの伝説は(伝説とはいえないかも知れませんが)、源義経=成吉思汗説を取り上げた、高木彬光氏の『成吉思汗の秘密』の中でも重要視されています。
前回、お伝えした椿山の「椿山伝説」、そして、ここ雷電宮の白鳥伝説・・・夏泊は、ロマンあふれる半島です。
◇雷電宮拝殿・本殿





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青森県の姿を形作っている津軽半島と下北半島に囲まれた陸奥湾。その陸奥湾に突き出た半島が夏泊半島です。
東津軽郡平内町に属するこの半島は、風光明媚な海岸線が続く行楽地で、夏は海水浴場やキャンプ場としても、大変賑わうところです。
平内(ひらない)という町名は、アイヌ語の「ピラナイ」が語源とされていますが、「ピラ」は山と山の間、「ナイ」は河川の意で山と山の間の川が流れる土地」という意味だとされています。藩政時代には、ちょうどこの平内町と隣の野辺地町のあたりが、津軽藩と南部藩との境目だったようです。

この夏泊半島の北端は、「椿山」と呼ばれ、椿(ヤブツバキ)が自生する北限地帯として国の特別天然記念物に指定されていますが、現在のように見事な椿の花が自生するにいたった影には、ひとつの物悲しい伝説が語り伝えられています。その伝説に由来する神社が椿神社です。
さて、その伝説とは、
【その昔、越前商人の横峰嘉平という人が、交易に来て、村の娘・玉と契り、末は夫婦になろうと誓い合った。嘉平は商用で一時国へ帰らなければならなくなり、お玉は「京の女がつけている椿の油が欲しい、今度来る時はその実を持ってきてください。絞って塗りたい」と名残りを惜しみ泣いて別れた。お玉は、嘉平を待ち続けたが、約束の年になっても船は来なかった。待ち焦がれたお玉は、嘉平を深く恨んで海に入って死んでしまった。村の人々は泣き悲しみ、海が見えるこの地にお玉の墓をつくって埋めた。三年を経た次の年、嘉平は約束の椿の実を持って来たが、お玉の死を村人から聞いた嘉平は、倒れんばかりに嘆き悲しみ、せめて慰みにと椿の実をお玉の墓のまわりに埋めてやった。それが芽を出し、年々繁殖し、椿が山を覆うようになり、今日の椿山になったという。明治の文人・大町桂月は、この伝説を書きとめ、「ありし世の その俤の偲ばれて 今も八千代の玉つばきかな」と詠んでいる。※境内の椿山伝説紹介板より】という悲恋物語です。
- 椿神社の境内には、この伝説を記した紹介板や、「お玉の墓」と伝わる祠なども建っています。
この辺りは「椿山海岸」といい、日本の渚100選にも選ばれている景勝地ですが、そこに菅江真澄の歌碑が立っています。
「影落つる 礒山椿紅に 染めて汐瀬の 波の色こき」 - 菅江真澄は、1795年の3月にここ椿神社(当時は椿明神)に参拝し、『津軽のおく』に、先の椿山伝説を記録しているとのことです。
◇椿山伝説ほか






椿山神社の由緒については、【御祭神:猿田彦神 文治の初め椿山にまつわる伝説の祠つかあり、 天正年間は椿崎大明神と称えたり、 明暦年中より椿大明神を祀る。 初め鳥居だけ建立されていたが藩主の仰せにより社殿を建立しての信仰となる。 創立、 元禄十一戊寅年四月三日奉造立椿宮女人神霊、 別当日光院六世山造法印、 施主新十郎、 吉兵衛外村中にて建立。※青森県神社庁HP】とあるように、文治の頃(1185年頃)には、椿山伝説の祠があり、明神様として信仰を集めていたようです。その後、【天正年間(1573~1592)には椿崎大明神と称し、明暦年中(1655~1687)より椿大明神を祀り、元禄十一年(1698)には椿宮女神を神霊とし社殿を建立。安永三年(1773)には椿神社と改称し、 明治六年に猿田彦大神を祀る。※由緒書きより】という経緯をたどっています。
社殿は、一段と高い丘の上にあり、境内と海岸線を見下ろしているようでした。
二の鳥居のそばに、ひとつの詩碑が立っています。その石碑の形は「ホタテ」。陸奥湾、そして平内町の名物です。
石碑には、作詞家・星野哲郎氏の詩『天使たちの海』が刻まれていました。
ー 「ほたては 天使の掌(たなごころ) しあわせをわれらに恵む 白鳥は天使の歌篭(うたかご) やすらぎの曲(しらべ)をはこぶ やぶつばきは天使のえくぼ おだやかな憩いを誘う 天使住むむつの海 このふるさとの海を守り ほたてに感謝を われら心こめて 石に刻む」
◇椿神社





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大鰐町の山中、秋田県大館市との境は標高450mほどの峠になっていますが、ここに「石の塔(いしのとう)」と呼ばれている巨石があります。
この大石は、新第三紀中新世の凝灰岩が、浸食されずにそのまま残ったものですが、高さが約24m、周囲は約74mの巨石 であることから、昔から、「天から降ってきた神様だ」とか、「薬師如来が降臨したもの」とされ、多くの信仰を集めてきました。
その姿が、あまりにも巨大であることから、津軽地方では昔から「石の塔見ねうぢ でっけごと しゃべらいねぞ(石の塔を見ないうちは大きなことは言えないよ)」と語られてきました。
それならば、その巨石に負けないような大きな話をしよう(大ボラを吹こう)ということで、大鰐町では毎年、大ボラ大会が開かれています。名づけて万国ホラ吹き大会。 参加者は、午前中に石の塔へ参拝登山をし、その後、会場を移し、各自持ち時間5分以内で、いかに大ボラを吹くかを競います。会場を沸かせた人には「大法螺吹(おおぼらふき)免許」が認定されるのだとか。。いかにも津軽らしいイベントです。
前述のように、昔から多くの人々の崇敬を集めてきた石の塔ですが、かの菅江真澄も1796年(寛政8年)にここを訪れ、「石のすがたは手のひらをつと立てたようで、ふりあおぐと雲がわきおこるほど高くそびえている」と記しているとのことです。

さて、この石の塔は、巨石そのものが御神体な分けですが、その岩の下に久須志神社が鎮座しています。この神社については、【(石の塔は)江戸時代には、天から降ってきた神様として信仰された。地元ばかりではなく、全国から行者が参拝に来た記録が残されている。久須志神社は眼病に霊験あらたかであるとされ、4月8日の祭りに際しては参詣者を当て込んで煮付けなどが売られるほどの賑わいであった。※wikipediaより】と紹介されています。
しかしながら、石の塔への登山は険しく、麓の集落からもかなりの距離があり、それなりの体力と準備、覚悟も必要であることから、気軽に「ちょいとお参りしてくる」とはいきません。
そんなこともあってか、麓の村には「久須志」という名の社が建てられています。石の塔の久須志神社が「奥宮」だとすれば、村のそれは「里宮」にあたるのでしょうか。
石の塔への登山口にあたる早瀬野という集落に久須志神社があります。御祭神は、少彦名命・大己貴命・ 天照皇大神ですが、その由緒については、【元和九年 (一六二三) 創建。 陸奥羽後両国の境界、 海抜約六〇〇米の山頂に、 自然出現の巨岩あり (周囲約五〇m・高さ約二七m)。 霊像と仰ぐに相応しく高大荘厳、 一面に蘚苔生え、 頂上より点々と泉滴絶えず眼病の妙薬と言われ、 往古より石の塔薬師と崇敬される無双の霊石である。 明治四年久須志神社と改称され、 毎年旧暦四月八日を参拝の日と定め、 氏子崇敬者をはじめ秋田県からの参拝者も多い。 又噂の奇岩見物旁参詣する者も多い。 昭和五十九年旧暦四月八日には奥宮が改築竣工す。 因みに奥宮までは、 早瀬野里宮より約十二キロの距離があるも、 山麓下車より登坂時間は約二十分ほどである。※青森県神社庁HP 】とあるように、「里宮」としての役割を負った神社のようです。境内からは、遠く石の塔の山々を望むことができます。
◇早瀬野久須志神社






また、この早瀬野の隣の集落である島田にも、もうひとつの里宮である久須志神社があります。
この神社については、【御祭神:少彦名命・大山祇命・宇賀御魂命 宝永元年 (一七〇四) 創建。 由緒不詳なるも、 隣り部落早瀬野久須志神社の創建に遅れること約八十年、 石の塔薬師の霊験を信仰する者多くなり、 石の塔の奇岩の一部を奉戴し、 地中深く納め周囲にゾベコ石をめぐらし、 その上が本殿になるように社殿を建立したと伝えられ、 改築の現在も変らないという。 久須志神社の社名は明治になってからのことで、 大山祇命・宇賀御魂命の社殿は、 久須志神社の境内外にあって、 「山の神さま」 「稲荷さま」 として崇敬護持されている。 ※青森県神社庁HP】とあり、ここもまた、「里宮」として、石の塔との深いつながりを感じさせます。
「石の塔の奇岩の一部を奉戴し、 地中深く納め周囲にゾベコ石をめぐらし・・」とありますが、この「ゾベコ石」については、どういう意味なのか分かりませんでした。因みに、この辺りの住所は「大鰐町島田字ゾベコ沢」。この神社の由来に基づくものなのでしょうか。
拝殿の中には、巨大な石の塔を象徴しているかのように、大きな下駄 も奉納されていました。
◇島田久須志神社





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住吉町は市の中心部に位置する町ですが、「住吉」という町名の由来は、当時の富田村領(付近の旧名)に住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)を祀る「住吉大明神社地」が置かれたことから、その名前がつけられたといわれています。

この住吉神社は、昔は、津軽三十三霊場の打ち止めの札所(33番)である西茂森町の観音山普門院 が別当寺となり、多くの崇敬を集めていたとされていますが、現在は護穀神社となっています。
住吉神社から護穀神社へと社名が変更されたいきさつについては詳しくは分かりませんが、護穀神社は、もともと住吉神社内に、五穀豊穣を願って、藩主の手により勧請された社であるとされています。相次ぐ領内の凶作や飢饉をうけてのことだったのでしょうか。
御祭神は、穀物の神である宇賀魂神(倉稲魂命:ウカノミタマノミコト)ですが、その由緒については、
【当神社は津軽五郡の五穀成就の守護神として、 寛延三年津軽信著公の建立せられたる神社にして、 藩主崇敬特に篤く豊作の吉例として、 京都吉田家より天子の御緒太並に御田扇を宝物として賜り年々五穀成就の御祈願は勿論、 藩主直々日々遥拝なさる思召に依り、 城中玄関先より出来得るように当神社本殿を西北方に向け建立をせられたるものにして、 現在の本殿の位置は即ち創建のまま在置せるものなり。 明治維新前は旧暦四月十四~十五日の大祭には津軽藩内みな仕事を休み重き祭日として年中行事の一つとせり。
明治六年四月村社に列せられ土地改正に当り神域一千坪に限定せられたるも、 明治四十四年六月国有林一反回畝五歩を境内に編入許可をうけ、 昭和二十一年本庁設立と共に宗教法人令に基き宗教法人として現在に及ぶ。※青森県神社庁HP 】とあります。
この由緒書きによれば、その建立は津軽信著(つがる のぶあき)の時代であるとされていますが、信著は、享保16年(1731年)に6代藩主となった人物です。
当時の津軽藩は、先代藩主・信寿の浪費などに加えて、地震、洪水、飢饉などが相次ぎ、その財政は困窮していました。護穀神社の建立は、領内の安定を願う藩主の思いの現れだった分けです。それは上記_線の「藩主直々日々遥拝なさる思召に依り、中玄関先より出来得るように当神社本殿を西北方に向け建立」という一文からも分かります。
また、「大祭のときには、津軽藩内みな仕事は休み」ということからは、この神社がいかに大切にされてきたかが分かります。
現在、境内には、この護穀神社をはじめ、松尾神社、稲荷神社の3社が並び立っていますが、松尾神社の御祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)。古来から、酒の神として、醸造家から厚く信仰されている神様ですが、ここ松尾神社の社殿の前にも、津軽の名酒が奉納されていました。
護穀神社の拝殿の横には、猿田彦大神を祀る祠があり、碑も立っています。この石碑の台座の部分をよく見ると、猿田彦=猿にあやかって、「みざる、きかざる、いわざる」の三猿が刻まれていました。
◇御穀神社境内










私が境内で休んでいると、ちょうど、この神社にお参りに来た方がいて、気さくに話しかけてくれました。その方は、この辺りの3つの神社を順番に参拝するのを日課としていて、もう何年も続けているとのことです。
3つの神社とは、ここ護穀神社と「弁天様」と「稲荷様」のことだそうですが、「弁天様」は、すぐ近くの胸肩神社(品川町)のことで、「稲荷様」とは、隣の「富田稲荷神社」のことです。その方が言うには、「稲荷様から住吉様を拝み、最後に弁天様にお参りし、水(御神水)を飲む。」のが順路なのだとか。。
100mくらい歩いたところに、その富田稲荷神社がありました。この神社については、【創立年不詳なるも安永以前に勧請せられたる神社にして、本殿奉斎神鏡に安政7年(1860)正月吉日と銘記あり。※青森県神社庁HP】ということしか分かりませんが、実は、近くに弘前の名水である「富田のしつこ」と「御膳水」があります。
その御膳水の由緒書きには、「この水で身を清め、稲荷神社へと参拝した」という意味のことが書かれています。
- この富田稲荷神社から護穀神社へと向かう道は、五穀豊穣を願う人々の参道だったのでしょう。
◇富田稲荷神社





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