天明元年から8年間続いた(1781~1788)大飢饉により、津軽藩領内では人口の3割~5割もの餓死者が相次いだとされています。
新田の開発が行われたつがる市森田(旧森田村)も例外ではなく、天明5年(1785年)に森田村の床前を訪れた菅江真澄は、
「・・・雪のむら消え残りたるやうに、草むらにしら骨あまたみだれちり、あるは山高くつかねたり。かうべなど、まれびたる穴ごとに、薄、女郎花の生出たるさま、見るこゝちもなく、あなめあなめとひとりごちたるを、しりたる人の聞て、見たまへや、こはみな、うへ死たるものゝかばね也。※『外が浜風』」と、当時の飢饉の惨状を記しています。 ー 「草むらに転がる髑髏(どくろ)の目から薄(すすき)や女郎花(おみなえし)が生えて見るに耐えない。」というくだりは、鬼気迫るものがあります。
菅江真澄がその惨状を目にした「床前」は現在の「床舞(とこまい)」で、ここに八幡宮が鎮座しています。神社の詳しい記録等は焼失したとされるために、その創建については不詳ながらも、古くから村の産土社として崇められてきたとされ、境内には、月夜見尊碑や庚申(幸神)塔、馬頭観音碑などが立っています。
また、本殿のとなりには「猿賀大神」のお堂が建っており、猿賀様の信仰がこの地にも広がっていたことが分かります。
この神社の後ろ側は狄ケ館(えぞがだて)溜池になっていて、青森県の縄文を代表する石神遺跡があるところです。
◇床舞八幡宮






床舞から五所川原方面へ向かって少し進んだところに月見野という集落がありますが、ここに久須志神社があります。
集落を走る道路沿いに大きな赤い鳥居が立っており、その奥は小高い山で、そこへ向かって参道の石段が続いているのが見えます。昔から「鎮守の森」であったことをうかがわせるような眺めです。二の鳥居、三の鳥居・・・とくぐり、石段を登りきったところが境内で、拝殿、本殿、末社などが立っていました。
この久須志神社の御祭神は、大己貴命・ 少彦名命・倉稲魂命ですが、青森県神社庁HP には、【慶長三年、 丹代森右衛門この地に薬師様勧請。 正保二乙酉年、 薬師如来を祀る。 薬師堂。 明治四年、 久須志神社となる。 明治六年四月、 村社となる。 本殿は一般的な神社の造り方ではなく、 地上から高床まで厳重に囲い、 御神体が見えないようにしてある異なった構造である。 】と簡潔に書かれていました。
かつては薬師堂であったということですが、拝殿に掲げられた由緒書きには、次のように記されています。
【久須志神社(薬師様縁起) 現在の地に崇敬するように成たのは慶長15年からです。春祭4月8日例大祭7月8日秋祭11月8日。この地に崇敬された時は右の通りですが或夜枕神が立って赤わらびの奥山より持って来てくれと依頼を受けたので朝早く行って見ましたら山の中に大石が立っていたのです。その石を背負って薬師流まで来たので一休みしようと思って休んだところその石が動かなくなったのでその地に祭ったそうです。枕神に命ぜられ人 丹代盛右エ門 時慶長3年 35人力あったと称される。・・・】
- 霊夢に導かれた力持ちの村人が、山の奥から大石(薬師様)を探して背負って村まで来たところ、その地で大石が動かなくなったので、そこに祭ったというわけです。
菅江真澄は、寛政8年(1796)にこの社を訪れていますが、この縁起にふれ、
「森田の村ざかいにきて、石をならべて坂をつくってあるところをはるばるとのぼって、薬師仏をまつった堂に行った。むかし、探題某という人が大きな石を背負ってきて、仏として崇めたのがはじめであろうという。※『外浜奇勝』」と記しています。
◇久須志神社①





広々とした境内には、庚申塔をはじめ二十三夜塔、猿田彦大神碑などが立っていました。また、馬頭観音の祠や竜神様、稲荷大神の祠などもあり、地域の中心的な信仰の場であったことを思わせます。
本殿の後ろにひとつの赤い鳥居 が立っていますが、その奥のお堂は「大石神社」。かつてはここが縁起にある伝説の大石(薬師様)を祭った薬師堂だったのでしょうか。
菅江真澄は、前述の『外浜奇勝』において、
「のぼりつめて、むらだつ木々の間から遠近の眺めがよいので、あたりをまわってみた。堂のうしろの方に鳥居があり、ここから十腰内の観音菩薩へ詣でる道があるので鳥居がたっているのだという。」と書いていますが、それは、この鳥居と大石神社のことのようです。
「十腰内の観音菩薩」とは、現在の厳鬼山神社だと思われますが、当時は、この神社から弘前市十腰内の厳鬼山神社、また、赤倉の大石神社方面へと、参拝の道が続いていたのかも知れません。
「・・むらだつ木々の間から遠近の眺めがよい」と菅江真澄も書いているように、小高い山の上にある境内からは、岩木山がよく見えました。この久須志神社は、村の産土社であるとともに、村人にとって、岩木山巡礼の基点ともなっていた社だったのでしょう。
◇久須志神社②





※画像は、いずれも10月中旬に撮影したものです。
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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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☆つがるみち☆
新田の開発が行われたつがる市森田(旧森田村)も例外ではなく、天明5年(1785年)に森田村の床前を訪れた菅江真澄は、
「・・・雪のむら消え残りたるやうに、草むらにしら骨あまたみだれちり、あるは山高くつかねたり。かうべなど、まれびたる穴ごとに、薄、女郎花の生出たるさま、見るこゝちもなく、あなめあなめとひとりごちたるを、しりたる人の聞て、見たまへや、こはみな、うへ死たるものゝかばね也。※『外が浜風』」と、当時の飢饉の惨状を記しています。 ー 「草むらに転がる髑髏(どくろ)の目から薄(すすき)や女郎花(おみなえし)が生えて見るに耐えない。」というくだりは、鬼気迫るものがあります。
菅江真澄がその惨状を目にした「床前」は現在の「床舞(とこまい)」で、ここに八幡宮が鎮座しています。神社の詳しい記録等は焼失したとされるために、その創建については不詳ながらも、古くから村の産土社として崇められてきたとされ、境内には、月夜見尊碑や庚申(幸神)塔、馬頭観音碑などが立っています。
また、本殿のとなりには「猿賀大神」のお堂が建っており、猿賀様の信仰がこの地にも広がっていたことが分かります。
この神社の後ろ側は狄ケ館(えぞがだて)溜池になっていて、青森県の縄文を代表する石神遺跡があるところです。
◇床舞八幡宮






床舞から五所川原方面へ向かって少し進んだところに月見野という集落がありますが、ここに久須志神社があります。
集落を走る道路沿いに大きな赤い鳥居が立っており、その奥は小高い山で、そこへ向かって参道の石段が続いているのが見えます。昔から「鎮守の森」であったことをうかがわせるような眺めです。二の鳥居、三の鳥居・・・とくぐり、石段を登りきったところが境内で、拝殿、本殿、末社などが立っていました。
この久須志神社の御祭神は、大己貴命・ 少彦名命・倉稲魂命ですが、青森県神社庁HP には、【慶長三年、 丹代森右衛門この地に薬師様勧請。 正保二乙酉年、 薬師如来を祀る。 薬師堂。 明治四年、 久須志神社となる。 明治六年四月、 村社となる。 本殿は一般的な神社の造り方ではなく、 地上から高床まで厳重に囲い、 御神体が見えないようにしてある異なった構造である。 】と簡潔に書かれていました。
かつては薬師堂であったということですが、拝殿に掲げられた由緒書きには、次のように記されています。
【久須志神社(薬師様縁起) 現在の地に崇敬するように成たのは慶長15年からです。春祭4月8日例大祭7月8日秋祭11月8日。この地に崇敬された時は右の通りですが或夜枕神が立って赤わらびの奥山より持って来てくれと依頼を受けたので朝早く行って見ましたら山の中に大石が立っていたのです。その石を背負って薬師流まで来たので一休みしようと思って休んだところその石が動かなくなったのでその地に祭ったそうです。枕神に命ぜられ人 丹代盛右エ門 時慶長3年 35人力あったと称される。・・・】
- 霊夢に導かれた力持ちの村人が、山の奥から大石(薬師様)を探して背負って村まで来たところ、その地で大石が動かなくなったので、そこに祭ったというわけです。
菅江真澄は、寛政8年(1796)にこの社を訪れていますが、この縁起にふれ、
「森田の村ざかいにきて、石をならべて坂をつくってあるところをはるばるとのぼって、薬師仏をまつった堂に行った。むかし、探題某という人が大きな石を背負ってきて、仏として崇めたのがはじめであろうという。※『外浜奇勝』」と記しています。
◇久須志神社①





広々とした境内には、庚申塔をはじめ二十三夜塔、猿田彦大神碑などが立っていました。また、馬頭観音の祠や竜神様、稲荷大神の祠などもあり、地域の中心的な信仰の場であったことを思わせます。
本殿の後ろにひとつの赤い鳥居 が立っていますが、その奥のお堂は「大石神社」。かつてはここが縁起にある伝説の大石(薬師様)を祭った薬師堂だったのでしょうか。
菅江真澄は、前述の『外浜奇勝』において、
「のぼりつめて、むらだつ木々の間から遠近の眺めがよいので、あたりをまわってみた。堂のうしろの方に鳥居があり、ここから十腰内の観音菩薩へ詣でる道があるので鳥居がたっているのだという。」と書いていますが、それは、この鳥居と大石神社のことのようです。
「十腰内の観音菩薩」とは、現在の厳鬼山神社だと思われますが、当時は、この神社から弘前市十腰内の厳鬼山神社、また、赤倉の大石神社方面へと、参拝の道が続いていたのかも知れません。
「・・むらだつ木々の間から遠近の眺めがよい」と菅江真澄も書いているように、小高い山の上にある境内からは、岩木山がよく見えました。この久須志神社は、村の産土社であるとともに、村人にとって、岩木山巡礼の基点ともなっていた社だったのでしょう。
◇久須志神社②





※画像は、いずれも10月中旬に撮影したものです。
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☆つがるみち☆



神社には御神木がつきもので、たいていは、大きくて太くて、年輪を感じさせ、古からの言い伝えがある古木に注連縄が張られてあったり、玉垣で囲まれていたりします。
樹木の種類はというと、杉の大木やイチョウの巨木が圧倒的に多いのですが、中には他ではあまり見られない珍しい木を御神木にしている社もあります。今回は、そんな藤崎町の神社を2つほど紹介します。

藤崎町徳下(旧常盤村)に鎮座する徳下(とくげ)八幡宮は、詳細は不詳ながらも、
【承応2年(1653 年・江戸時代の初め)に村中によって造られたということですが、その後大破し、延宝4年(1676 年)と貞享2年(1685 年)に再建されたという古記録が見られます。そして、明治6年(1873 年)に一旦常盤八幡宮に合祀されましたが、2年後の明治8年に復社し、その年に村社になっています。※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」】という由緒をもち、誉田別命と天照大神を祭っている神社ですが、この社の御神木はイチイ(一位)の古木です。
一の鳥居のすぐ後ろに玉垣があり、それに囲まれて立っている老木ですが、社頭に木柱と説明板があり、それには、「一位の木(オンコ) 昭和のはじめ頃の調査では樹齢五百年以上と推定され、八幡宮とともに部落民に崇められ、本村(※旧常盤村のこと)では最も古い樹木である。」と記されていました。
説明書きにあるように、村の歴史をみつめてきた幹周り2m以上もある村の天然記念物に指定されている名木です。
イチイの木は別名「アララギ」。北海道や東北では「オンコ」とも呼ばれている樹木ですが、サカキが存在しない北海道では、神前の玉串にもイチイの枝を使うのが一般的であるとのことです。神社にふさわしい木といえるでしょうか。
多くのイチイの木は、地面から生えた丸太のような幹に枝がチョロチョロ出たような樹型をしているとされていますが、ここ徳下八幡宮のイチイもそんな感じでした。
私が訪ねたのは10月の下旬でしたが、イチイの枝には特長のある赤い実がたくさんついていて、とてもきれいでした。本殿のとなりには、馬頭観音碑や庚申塔が立っており、その背後には刈り取りを終えた田んぼが広がっていました。
◇徳下八幡宮






一方、こちらは藤崎町西中野目地区に鎮座する八幡宮です。
住宅に囲まれた道路沿いにある一の鳥居を覆い隠すように、社頭の巨木が枝と葉を茂らせています。この社の御神木であるイタヤカエデの木です。
イタヤカエデは別名「つたもみじ」とも呼ばれ、大きなもので樹高が20mほどになるそうですが、この神社のものもなかなかの高さと幅のある大木です。その特長として樹洞ができやすいとされていますが、この木にも大きな洞があり、それが御神木にふさわしい形をつくっているようです。

この西中野目八幡宮も古い由緒をもつ神社で、
【平安時代の延暦年間(782~806 年)に、蝦夷地に遠征した征夷大将軍の坂上田村麻呂が建立した108カ所の神社の一つだといわれています。この神社はその昔、古館村・俵升村・中野目村の境にあって、正観音を祀り、付近の10の村の産土様として信仰されていました。
その後、亀岡村に移転し、さらに江戸時代の寛文2年(1661 年)に本殿・拝殿を現在地に建立して移転しました。また、宝永2年( 17085 年)には、吉田神道の傘下になって飛龍大権現を祀る「飛龍宮」となり、明治3年の神仏分離の際に「八幡宮」となっています。※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」】と紹介されています。
境内には庚申塔 がいくつかありますが、この庚申塔には、「強盗に襲われて難渋していたところ庚申様に助けられたので感謝の気持をこめて庚申の石塔を建てた。」という言い伝えが残っているとのことです。
また、寛政年間にこの地を訪れた菅江真澄は、「俵升山と書かれた飛龍権現の祠があり、その前の堰にたくさんの石の柱を並べた橋が架けてあった。」と記し、当時の社の様子を伺わせる絵 を残しているようです。
◇西中野目八幡宮





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☆つがるみち☆



蒼前、崇染、惣染、相染など表記は様々ですが、「そうぜん様信仰」は、主に東日本に広く伝わる民間信仰のひとつです。
「蒼前様」は、一般に馬の守護神とされていて、「勝善神」とも呼ばれているようですが、少しネットで調べてみたら、
【勝善神:勝善は正しくは「蒼前」で、つまり葦毛で四本の足の膝から下が白い馬のことをさす。葦毛の馬は「七聡八白」といい八才になると白馬になると信じられている。東北地方では「ショウデンサマ」と呼び、蒼前のような名馬の誕生を祈って祭った信仰である。・・・馬頭観音信仰が馬の安全や健康を祈ったり、死馬の冥福を祈ったりするものであるのに対して、勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰である。勝善もショウデンも蒼前=〔ソウゼン〕がなまったものである。※レファレンス協同データベース】とありました。
また、一説には、【無実の罪を着せられた都の貴族父子が、奥州へ流され、三戸郡に住み着いた。その子どもは「宗善」と名前を変え、この地でたくさんの名馬を育て村人に敬愛された。亡くなったとき、村人は一宇を建て、馬頭観音を祀り、故人を「ご宗善様」と呼ぶようになった。】という話も残されています。
青森県の県南地方は、昔から名馬・良馬の産地だっただけに、この蒼前様信仰が根強く、「蒼前」という名の社や、「蒼前」あるいは「蒼前平」という地名も多く残っています。「日本中央の碑(壷のいしぶみ?)」がある近くには「田村蒼前」と呼ばれる神社?がありますが、これは、坂上田村麻呂の乗馬がここで死んだのを祀ったことから、その名がつけられたのだとか。。。

前置きが長くなりましたが、津軽地方にも、この蒼前様を祀っている神社がいくつかあります。藤崎町柏木堰の崇染宮も、そのひとつです。
集落の道路沿いに鎮座するわりとこじんまりとした神社ですが、昔から地域の崇敬を集めてきた社らしく、境内には、猿田彦大神の碑や、村の出身力士の顕彰碑なども立っていました。
この崇染宮(そうぜんぐう)の由緒については、
【御祭神:保食大神 崇染宮は、 享保三年 (一七一八) に柏木堰村、 俵舛村、 下俵舛村の産土神として、 馬頭観音を祀って創立されたと伝えられている。
昭和三十六年頃に編纂された 「崇染宮由緒」 には、 その昔、 当祭神は館野越の墓地近くの小川の堤から発見され、 柏木堰のある家の内神としてまつられていたが、 非常に農民を愛する神様で、 年間の豊凶のお告げがあったり、 水害から農産物を救ったり、 お堂が腐朽した時に冷害の徴候が現れ、 神罰であるから速やかにお堂を修復せよという託宣があり、 修復して神楽を奉納したところ豊作となったと言い伝えが書かれている。 又、 境内の大銀杏に登った近所の子供が三十尺以上の所から下の用水堰に落下して気を失ったが、 翌日には何事もなかったかのように快復し、 神の助けと信仰を集めた。 安永五年 (一七七六) 新しく堂社建立し名称を崇染宮と改め、 昭和三十六年本庁より承認を得て現在に至る。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
私が最近、大変面白く読んでいる(勉強させてもらっている)藤崎町の『ふるさとの史跡散歩』にも、「ここの神様は思いやりの深い神様で、その年の豊凶のお告げがあったり、水害から農産物を救ったり、境内の銀杏の大木にのぼり、高い枝から落ちた子どもを無傷で救ってくれたり‥といった物語が伝えられています。」と書かれていました。 - 古くから地域の産土社であったことが分かります。
境内には、ひときわ大きなイチョウの巨木 がありますが、これが、「神様が高い木から落ちた子どもを救った」といわれる御神木なのでしょう。そんな伝説にふさわしいなかなかの大樹です。
拝殿の前に馬頭観音の碑 と2つのお堂が立っていましたが、ひとつには神馬が奉納されていました。そして、もうひとつのお堂の中を覗いて見ると、そこには亀に乗った女神像。水の神・水虎様 でした。以前からこの地は、近くを流れる十川の氾濫の常習地帯で、その犠牲者が多かったことから水虎様を祀ったとされています。
地域の「蒼前様」は馬頭観音信仰と結びつき、古くから崇敬されてきた分けですが、明治になると神仏分離によって「惣染宮」を称していた社の多くは「保食神社」となりました。これは、保食神(うけもちのかみ)が食物神であるとともに「牛や馬の神」でもあったことに関係するとされています。
- ここ崇染宮は、その名の通り、古くからの蒼前様信仰を伝えている社です。
◇崇染宮





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☆つがるみち☆



以前、五所川原市脇元の洗磯崎神社を訪ねましたが、十三湊の支配者であった安東氏が、祖神である「荒吐神(アラハバキ)」を祀り建立した神社で、かつては荒覇吐神社を称していた社でした。その後は薬師信仰がこの地に根づき、薬師堂または薬師宮と称されましたが、明治の神仏分離によって、大己貴命と少彦名命を御祭神とする洗磯崎神社となった分けです。
この脇元の洗磯崎神社と同名の神社が藤崎町にあります。

藤崎町の林崎地区に鎮座するこの社は荒磯崎神社。
その由緒については、【「荒磯崎神社」(あらいそざきじんじゃ)は、江戸時代初め頃の寛永11 年(1634 年)に創建されたと伝えられています。その頃は薬師堂で、飛龍権現を合祀していたといわれます。その後、明治3年の神仏分離の際に、闇靄神社(くらおうじんじゃ)となり、間もなく現在の荒磯崎神社となったようです。荒磯崎神社には、少彦名命(すくなびこなのみこと・記紀に登場する温泉・医療の神様)と大己貴命(おうなむちのみこと・大国主命)が祀られています。】と紹介されています。
昔は薬師堂と呼ばれていたことや、御祭神が少彦名命と大己貴命であること、改名の経緯など、「洗」と「荒」の違いはありますが、ほぼ脇元の洗磯崎神社と同様の由緒を持つ社といっていいでしょう。
また、この神社がかつて「荒覇吐神社」と呼ばれていたかどうかは分かりませんが、藤崎町は安東氏発祥の地であったことから考えると、昔は、荒吐神が祀られていたのかも知れません。
林崎は五能線沿いにある集落ですが、この神社はりんご畑に囲まれた道路沿いに鎮座しています。私が訪ねたときには赤と黄色の紅葉が鮮やかでした。
神馬や狛犬などを見ながら参道を進んで行くと、拝殿の隣に大きな猿田彦大神の碑とひとつの赤い祠が見えます。中を覗いて見ると、左右のきつね像をしたがえた大きな神像が中央にあります。これは薬師様なのかも知れません。かつて薬師堂と呼ばれていたことを思い起こさせる祠です。
薬師様はもちろん、御祭神の少彦名命もともに「医療の神様」な分けですが、この神社には、【荒磯崎神社の神様は、ウドで目をついて怪我をしたことがあるため、昔、村の人達は決してウドを食べなかった。】という話も伝えられています。
「ウドの大木」即ち「無用の長物」といわれるように、生長しきったウド(独活)は、食用にも木材にも適さないとされていますが、若葉やつぼみ、芽、茎などは貴重な山菜である他、その根は湿布などにも用いられた薬草であったといわれています。
昔は、この辺りに自生するウドを採りに村人が競って押しかけ、中には、枝などで身体を傷つけた者も多かったのだと思います。この「ウドで目をついた神様」の言い伝えは、そのような村人への「戒め」なのかも知れません。
ところで、「ウドで目をついた神様」の話は、平川市の猿賀神社にもあります。
- 猿賀の神様はウドのからで目をついたために片目になってしまった。以来、神池にすむ魚も片目になった。猿賀様に眼病治癒を祈願する者は、神様が嫌うウドを食べない。 - という話です。
この伝説は、弘前、平川、藤崎、黒石などこの辺り一円に伝わる話のようです。また、眼病平癒の神様として薬師様が崇められてきたことは、多くの薬師堂に、目がよく見えるようにと「穴のあいた石」が奉納されていることからも分かります。私は、よく注意して見なかったのですが、ここ荒磯崎神社の祠の下にもいくつか穴あき石 が置かれていました。
◇荒磯崎神社





さて、この神社には次のような興味深い伝説があります。
【昔、神社の社殿に乞食が泊まり込み、ご神体を盗み出し、それがいつの間にか下北の恐山に納められていました。恐山には林崎神社という祠があり、そのご神体はいつの間にか林崎の方角を向いているのですが、そのご神体を林崎の人達が取り返しに行くと必ず風雨になるという。】
林崎神社というのは、恐山の「林崎大明神」のことですが、その祠の名前は、この荒磯崎神社がある「林崎」という地名からとられたものなのでしょうか。遠く離れた霊場・恐山との結びつきにはびっくりさせられます。
それにしても、元々、自分たちの御神体であった神様を元の場所へ安置しようと取り返しに行った人々が祟られる(嵐になる)とは、何ともかわいそうな話ですが、裏を返せば、それだけ、この御神体は「強い霊力を持つ神様である」ことを語っているのかも知れません。
◇荒磯崎神社②





※記事の中の【】は、藤崎町「ふるさとの史跡散歩」を参照しました。
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☆つがるみち☆



早いもので、今年も残すところ1ヶ月あまりとなりました。
例年、この時期になると各地域の神社では、新しい注連縄作りなど、新年を迎える準備が行われます。
以前お伝えしたつがる市・木造の三新田神社では、新年の五穀豊穣を祈願して33の米俵を奉納する習わしがありますが、今年もまた作業が進んでいることと思います。
また、お正月恒例の地域行事が行われる神社も数多くあります。
鬼伝説で知られる弘前市鬼沢の鬼神社では、毎年、旧正月に「鬼神社しめ縄奉納裸参り」が行われますが、これは、【通称「鬼沢のハダカ参り」と呼ばれ、弘前市の無形民俗文化財に指定されており、男衆がふんどし姿で、神社にしめ縄を奉納する行事です。最大の見どころは、男衆が冷水に漬かる水垢離(みずごり)の儀 です。これは神仏にお願いする前に穢れを取り除き、心身を清めるために行います。男衆は水の入った樽から出て、列の後ろにあるたき火で暖を取り、再び樽に入るという行為を繰り返します。※弘前市シティプロモーションHP他より】というものですが、400年前から続く伝統行事で、毎年多くの見物客が境内を埋め尽くすとのことです。

この鬼神社と同様、毎年、寒中をついて勇壮な注連縄奉納行事が行われている神社が、藤崎町常盤地区(旧常盤村)に鎮座している常盤八幡宮です。
その由緒については詳らかではありませんが、寛文4年(1664)の建立とされていて、天和年間(1681-1683)の古図にこの神社が描かれているなど、古い歴史をもつ地域の代表的な社であったようです。御祭神は誉田別命と気長足姫命(おきながたらしひめのみこと ※神功皇后)です。
大きな社号標から続く参道には、いくつかの鳥居が立てられており、それらをくぐり抜けると境内へと出ます。
私が訪れたときには、境内はイチョウの葉っぱで覆われていました。「落ち葉の絨毯」といった感じです。その実を踏まないように気をつけて歩いたのですが何個か踏んでしまいました(帰りの車の中は大変でした)。
境内には、庚申塔や二十三夜塔、馬頭観音碑などが祀られていましたが、この神社が古くから村の産土社であることを示しているのが2個の「力試石」の存在です。
力試石(力石)については、【江戸時代から明治時代にかけては力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。・・・人々は、山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰り、力石とした。重さが異なる石を複数用意することが多かった。置き場所は神社や寺社、空き地、道端、民家の庭など様々であったが、若者が集まるのに都合が良い場所であった。※wikipediaより】とありますが、「神社・寺院に置かれた特定の石を持ち上げて重いと感じるか軽いと感じるかによって吉凶や願い事の成就を占うものである。もともと占いのために持ち上げていたものが、娯楽や鍛錬のための力試しになった」という説もあるようです。
いずれにしても、娯楽の少なかった時代に、地域の中心であったこの神社の境内において、「力試し」が賑やかに行われていたのでしょう。2個の石は「重すぎず軽すぎず」。がんばらないと持ち上げられない・・・そんな大きさでした。
◇常盤八幡宮①





さて、恒例の注連縄奉納行事ですが、正式には「年縄奉納行事(としなほうのうぎょうじ)」と呼ばれているものです。
社頭には社号標とともに木柱 が立っていて、そこには「八幡宮建立は寛文四年(一六六四)、年縄奉納はこのころからと伝えられる。日章旗・扁額・柳樽・福俵・注連縄・邪払からなり、一切を稲藁で作り、多数の男子が締め込み一本で、毎年一月一日に行われる。」と書かれていました。
町の民俗文化財にも指定されているこの伝統行事は、よくTVのニュースや新聞でも報道されるのですが、その様子は、【毎年元日の朝に行われる、五穀豊穣・家内安全を祈願する伝統あるまつりです。長さ4.4メートル、幅2.3メートル、重さ400キロもある巨大なしめ縄を常盤八幡宮に奉納します。極寒の中、裸で水ごりをし、身を清めた締め込み一本姿の男衆が、巨大な年縄を肩にかつぎ「サイギ、サイギ、ドウコウサイギ」の掛け声を町中に響かせながら常盤八幡宮を目指します。※藤崎町HP他より】と紹介されています。 ⇒常盤八幡宮年縄奉納行事
こちらも、先の鬼神社と同様、350年以上の伝統を誇る真冬の催しです。
興味深いのは、常盤八幡宮、鬼神社ともに、注連縄奉納の際の掛け声が、岩木山お山参詣と同じく「サイギサイギ」であるということ。
「懺悔懺悔(サイギサイギ)/過去の罪過を悔い改め神仏に告げこれを謝す。」という唱文は、この神聖な注連縄奉納行事にふさわしいものともいえますが、一方、津軽人の信仰のシンボルは、祖霊の住む山=岩木山であることを思わせます。
◇常盤八幡宮②





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※体調を崩し、入院していましたが、おかげさまで順調に回復し、退院することができました。また、ぼちぼち、記事を更新していきたいと思います。多くの方々から励ましのコメントをいただき、感謝しています。今後ともよろしくお願いします。
☆つがるみち☆


Category: ふるさと【東北・青森】
お知らせ



「○柱神社」だとか「○社神社」、「○所神社」など、神社名に御祭神の数を冠している社があります。
私が訪ねた中では、津軽三十三霊場13番札所である五所川原市金木の三柱神社(川倉芦野堂)もそのひとつで、大山祇命、大國主命、水波女命の三柱が御祭神でした。
また、鳥居に鬼っコを掲げている平川市日沼の三社神社の御祭神も天照皇大神、譽田別尊、天児屋根命の三柱です。
この三社神社と同じ平川市に七つの神様を祭っている神社があります。

神社名は七柱(ななはしら)神社。文字通り、七柱が鎮座する社で、平川市尾上(旧尾上町)にあります。
拝殿前に御祭神が紹介されていますが、
「大國主神(オオクニヌシノカミ)・ 経津主神(フツヌシノカミ)・ 事代主神(コトシロヌシノカミ)・天鈿女神(アメノウズメノカミ)・ 宇賀魂神(ウカノミタマノカミ)・思兼神(オモイカネノカミ)・ 高おかみ神(タカオカミノカミ)」となっています。
いわゆる豊穣祈願の神様と、日本の建国神話に登場する神様を一同に祭っているといったところでしょうか。境内には、摂社として猿田彦神社と天満宮があります。
この神社の由緒については、
【正保四年 (一六四七) 九月建立、 明治四年太政官達にて神仏混淆仕分けの際、 獅子権現宮を七柱神社と改める。 神社改正以前は県社猿賀神社の摂社であった。 又、 一説には 「延暦十二年 (七九三) 坂上田村麻呂大将軍が田道命の霊感を受けて賊将大丈丸を討つ事ができたので、 その神恩に報いるため一社を建立した。 深砂大権現 (現猿賀神社) がこれである。 その当時、 去川派立 (尾上村) へ一宇を勧請し武運長久を祈る。 いわゆるこれが獅子権現宮 (現七柱神社) である。 爾来、 猿賀神社の摂社となる。 後に堂宇腐朽破損しているのを憂い、 正保四年九月、 氏田弥左衛門の邸内に勧請し、 更に安永七年 (一七七八) 堂宇を現在地に移遷した」 とも言われている。 ※青森県神社庁HP】とあります。
ほぼ同じような由緒を持つ神社として、近くに愛宕神社がありますが、この七柱神社もまた、地域の守り神であった深砂大権現=猿賀神社から分霊された社のようです。
◇七柱神社境内






道路沿いに社号標があり、そこから境内へと参道の細道が続き、途中に一の鳥居と二の鳥居が立っていて、正面に社殿が見えます。
その入口に「けやきの森 七柱神社 七柱神社御神木 欅」と書かれた木柱と、「日本一のけやきの森」と書かれた看板が両側に立っています。
木柱に記されていた説明によると、境内には樹齢がおよそ400~450年といわれる大木をはじめ、多くの「けやきの木」があったことから「森」と称してきたようです。
現在は、御神木として崇められているけやきの巨木は4本ですが、本殿横の大木は、高さが31.7m、幹周りが6.63mといわれています。
「森」といわれてきたように、以前はもっと多くのけやきに囲まれていたようで、参道の説明板 には次のように記されていました。
「七柱神社の境内には昔、「ケヤキ」の大木が茂り、「ケヤキ」の森として親しまれたが、日露戦争のとき、木造船に徴用され、又、過去の台風や老樹のため数本倒れた。
本殿の右側の大木は「ご神木」となっていて、他に三本の巨木があり、他には例をみない。」
ー けやきの森に対する愛着と神社への崇敬の念、そして地域を誇りに思う気持ちが伝わってくるようです。「日本一の・・・」はともかくとして、造船にまで使われたというのですから、巨木が何本も繁茂する場所だったのでしょう。
私は夕暮れも近い、午後の遅い時間に行ってみたのですが、静かな境内には、注連縄が張られた御神木たちが黄色の葉っぱをまといながらそびえていました。
◇境内のけやき





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☆つがるみち☆



弘前市内から旧相馬村へと向かう途中に常盤坂というところがあります。
文字通り、「常盤坂」という坂道の名前から名づけられた地名のようですが、そこから、さらに進んだところが「悪戸」。
「悪戸(あくど)」・・その由来は分かりませんが、「悪路」が転化したものなのでしょうか。何とも変わった地名です。
この悪戸地区の山手方面、りんご畑に囲まれて常盤神社が鎮座しています。

この神社の由緒等も詳しくは分かりませんが、
【御祭神:伊弉諾神 伊弉册神 当社創立年月日不詳なるも、 元禄十五壬午暦大行院書上宮帳によれば、 悪戸村熊野宮権現、 同村大日如来堂、 同村新山権現宮三社を合祀。 明治十二年四月五日、 村社に列格される。 昭和二十一年三月二十四日法人令により届出、 同時に神社本庁に所属する。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
りんご畑が続く道を進むと、間もなく白い鳥居と黄色が鮮やかな境内が見えてきます。私が訪ねたときは紅葉真っ盛りという感じでした。
拝殿の前には神馬のほか、大きなギョロ目の狛犬があります。何ともユーモラスな顔つきです。
神社には、もうひとつの入口がありますが、こちらの方が参道のようです。途中には、二十三夜塔や庚申塔が並んで立っていました。
境内には、弘前市指定有形文化財である青面金剛像庚申塔(しょうめんこんごうぞうこうしんとう) があります。説明板によると「総高122.5センチメートル(竿部94.5センチメートル 台座28センチメートル)、石質は安山岩、形状は柱状。庚申は、60日に一度巡ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康・長寿を願う信仰である。これを守庚申または庚申待という。守庚申は平安・鎌倉時代、その夜詩歌管弦して眠らぬ一夜を過ごし、庚申待ちは宗教的儀礼の勤行をしてその夜を過ごすことをいい、礼拝本尊によって仏教・神道の神仏が当てられている。石塔は、前記神仏の画像や庚申等の文字を刻している。津軽においても盛んに信仰され、1,300基余の石塔が確認されている。この石塔は、もと目屋街道沿いにあったものを昭和に常盤神社内に移した。弘前市内の民間信仰の石塔中最古の元禄15年(1702年)の建立で、青面金剛像を刻している。」と、庚申の由来やこの像の由緒について記されていました。
◇常盤神社






一方、こちらは弘前市浜の町に鎮座する熊野神社。
【御祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・事解男命・速玉男命 元禄十五年の社堂縁記に寛文八年の創立とあり、更に、安政二年の神社微細調社司由緒書上帳によると、「萢やつ中なか村(現在の浜の町の一部)熊野宮一宇、右者寛文八年九月、佐々木吉右ェ門、及び村中にて建立。然も建立の故は不明」。※青森県神社庁HP】とあります。
古くから地域の産土社として崇められてきたとのことですが、近くの村落の加茂神社や天満宮、稲荷神社が移されて境内社となっています。

私が訪れたときはとてもいい天気で、朱塗りの鳥居がひときわ鮮やかに見えました。金色に光る注連縄(金属製)が張られている一の鳥居から、道路に沿って参道が続いています。
境内には、大きな月夜見尊や庚申塔なども立てられていて、由緒にあるように、社殿の両側には、天満宮や稲荷大明神、猿田彦大神などの末社がありました。
拝殿の建物を覆い隠すような見事な御神木。 このイチョウの巨木・・・高さ、幹周り、樹齢等は分かりませんが、「神木」と呼ぶにふさわしい大木です。
◇熊野神社





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☆つがるみち☆



大鰐町の町の中心部から、少し離れた居土地区は、津軽三十三霊場の31番札所である居土普門堂があるところとしても知られています。
その居土から、さらに山の奥の方へ数km進んだところに沢田という集落があります。
まさに「山間の里」といった感じの村ですが、私が訪ねたときは、稲の刈り取りもすっかり終わり、早、晩秋の気配が漂っていました。この集落の中に八幡宮が鎮座しています。

道路際に社号標と一の鳥居が立っていたので、さっそく鳥居をくぐって参道を進んだのですが、その先には朽ちかけた二の鳥居 があるだけで、道らしい道はありませんでした。山の上の赤い鳥居が少しだけ見えたのですが、どうやら今は道がふさがっているようです。
もう一度、入口まで引き返し、辺りを歩いてみると山の上に小さな本殿が見えました。城の天守閣のような感じです。そこまでは、神社への裏道が続いており、少し歩くと、境内へたどり着くことができました。
この村の中で一番高い場所に鎮座しているこの社からは、大鰐町のシンボル・阿闍羅山や、山間に開けた村落を見下ろすことができます。ほんとにのどかな風景です。
小さいながらも新しい社殿には、「ジャンバラ型」の注連縄が張られ、石灯籠、狛犬、神馬などが置かれていました。
由緒によると、この沢田の八幡宮は、
【御祭神:誉田別尊 当神社は、 天正二年 (一五七四)、 新田源氏の末裔新田顕義が当地に陰伏し、 秘かに一旗を挙げんと此の地に社殿を建立、 武神を祀り祈願所とし、 後に小笠原伊勢守信静が居住し崇敬してきたが、 天明の大飢饉により村民四散し、 本社は只名称あるのみにて廃社同様となる。 昭和二十一年一月、 下山藤太郎外四名の村民山林を境内地として無償にて借用することを願い出の上申請し、 昭和二十一年六月十八日、 正規の神社に認可される。 同六月十九日宗教法人令施行と共に八幡宮となる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
- 詳しくは分かりませんが、何やら戦国期の「落武者伝説」なども伝わっていそうな山里の社です。
◇沢田八幡宮






沢田の集落から居土へと引き返し、三ツ目内川の上流をさかのぼり、十和田山(664.1m)へと向かう道を進みました。
この十和田山は、地域の霊山として崇められてきた山で、ここに「戸和田(とわだ)貴船神社」の奥宮があります。
戸和田貴船神社は、「藩政時代三免内御山の本トワダ沢の峰にあって、水の神様として敬われ、津軽地方一帯の人々にトワダ様として信仰されてきた。藩政時代には、干ばつ続きで領民が困ったとき、藩命で幾度か神社奉公が雨乞いをした史実もあるといわれている。奥深い山中に神秘的な御神池があり、そこにはクロサンショウウオとモリアオガエルが産卵し、それらの産卵の多少とその位置で作付けの豊凶を決定するものとして、昔から津軽地方の農民に敬われていて、大勢の人々が参詣に集まったと伝えられている。※由緒書きなどより」神社ですが、社号標 が立つ場所から奥宮までは、案内板によると、曲がりくねった山道が4,50分続き、しかも「熊に注意」とあったので、あきらめました。

この戸和田貴船神社への入口にあたる集落が高野新田(こうやしんでん)という村で、ここに神明宮が鎮座しています。
神明宮については、
【御祭神:天照皇大神 当村は藩政時代、 津軽藩主信政公より宝永六年 (一七〇九) 三月大鰐組居土村領高野平の畑地へ漆を仕立てて新村をつくることを命ぜられてより高野新田が支村として成立した。 当神社は、 漆栽培への農民の信仰厚く、 祭神を天照皇大神として享保一八年 (一七三三) に建立、 明治六年に村社として祀られ、 昭和二十一年七月十日宗教法人令による届出により神明宮となり、 その後前記境内地譲与認可され今日に至る。 ※青森県神社庁HP 】とあるように、漆栽培と新田開発のために開かれた村の産土社であったようです。
この神社もまた、沢田の八幡宮と同様、小高い山の上にあり、境内からは周辺の山々の紅葉を見ることができました。
境内には、水の神「十和田様」も祀られており、いかにも十和田山の麓にある社にふさわしい感じがします。
神馬が一体ありましたが、この神馬、前足で鞠を抱えているような姿をしています。鞠を抱えている狛犬はよく見かけますが、鞠を抱えている神馬は初めて見ました。
◇高野新田神明宮





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☆つがるみち☆

