のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 自然&風景   Tags: つがるみち  

名木2014-つがるみち231


◇堂ヶ平の燈明杉(弘前市)


 今年もまた、寺社巡りを通じて、境内にある「名木」に出合うことができました。
 もちろん「名木」とはいっても、私自身が印象に残った樹木のことです。堂々たる巨木もあれば、思わず手をそえてあげたいような老木など、様々です。中には、地域の伝説となっているものもあります。
 境内を回って、社殿や狛犬、神馬、祠、石碑や塔などとともに、姿形の美しい樹木を探すことも楽しみのひとつになりました。今年、印象に残った名木たちをまとめてみました。

※画像はクリックで拡大します。

↓ 【左から】
◇沖飯詰の流れ松(五所川原市) 
◇愛宕神社の夫婦木(平川市)
◇鬼沢の鬼神腰掛柏(弘前市)
◇宮田八幡宮の大イチョウ(青森市)
◇七柱神社のけやき(平川市)

 
◇沖飯詰の流れ松(五所川原市)
◇愛宕神社の夫婦木(平川市)
◇鬼沢の鬼神腰掛柏(弘前市)
◇宮田八幡宮の大イチョウ(青森市)
◇七柱神社のけやき(平川市)


↓ 【左から】
◇熊野宮のエゾエノキ(田舎館村)
◇一丁木の大イチョウ(弘前市)
◇身代地蔵尊のハリギリ(弘前市)
◇香取神社の大ケヤキ(板柳町)
◇斧懸神社の斧懸の松(青森市)

 
◇熊野宮のエゾエノキ(田舎館村)
◇一丁木の大イチョウ(弘前市)
◇身代地蔵尊のハリギリ(弘前市)
◇香取神社の大ケヤキ(板柳町)
◇斧懸神社の斧懸の松(青森市)



 この1年間、ブログを訪れていただいた皆様に感謝いたします。おかげさまで何とか続けることができました。来年もまたよろしくお願いいたします。
 皆様、よいお年をお迎えください。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

境内でひと休み「三日月神社ほか」-つがるみち230


一の鳥居


「三日月」という珍しい神社名をもつ弘前市津賀野に鎮座する三日月神社。私が訪ねたのは10月下旬でした。
 弘前から国道7号線を走り、藤崎町へと至るその入口付近にこの神社はありますが、すぐそばを平川が流れています。
 民家にはさまれた参道を進んで行くと、間もなく赤い一の鳥居が見えますが、境内の後ろ側はりんご畑になっています。

二の鳥居


 一の鳥居をくぐると、石造りの二の鳥居、三の鳥居と続きますが、拝殿までの参道には、奉納された多くの石灯籠が並び立ち、地域の崇敬の厚さが感じられます。
 拝殿の右側には、戦時中の御霊を祀る招魂社。左側には末社とともに、猿田彦大神の碑。また、地域の農業の発展を祈念する馬頭観音碑も3基建てられていました。

 この三日月神社の御祭神は月読命と別雷尊ですが、その由緒については、
【当社は、 大同年間坂上田村麿の創設に係るといえども年月不明なり。その後藤崎城主阿部高星丸厚く崇敬して祈願所となれり。 弘長年間北條時頼公巡国の折、 当社の近傍萩の花咲乱れるをみて 「みちのくの津軽の野辺の花ざかりげに日の本の錦なるらん」 と詠まれしより今に至る。 その後天正年間藤崎城主藤崎五郎相継ぎて崇敬し来りしが卒去の後、 城も取壊しより一村の産土社となる。※青森県神社庁HP 】と紹介されています。

 現在の住所は弘前市になっていますが、中世の頃は、辺り一帯は藤崎安東氏が支配するところでした。藤崎町は、奥州安倍氏の流れを汲む高星丸が城主として治めていたとされ、「安東氏発祥の地」ともいわれていますが、この神社もまた、安東氏と深い関わりをもつ社といえます。

 また、この由緒書きには、廻国伝説で有名な北条時頼についても記されていますが、藤崎町には、時頼がこの地を訪れ、かつての愛妾であった唐糸御前を偲んだという伝説も残っています。
 その後、津軽為信の時代に至るまで藤崎城は存続するわけですが、この三日月神社は、中世から戦国期にかけて、時の治政者の崇敬を集めた神社だったようです。

◇三日月神社

 
参道と拝殿
拝殿
招魂社
猿田彦大神ほか
馬頭観音碑



一の鳥居


 こちらは弘前市新岡(旧岩木町)に鎮座する八幡宮。
 ここを訪ねたのも10月末のことで、岩木山は初雪をいただいていました。
 その縁起については、
【御祭神:誉田別尊 創立年月日、不詳なるも明治六年村社に列せられる。現代、新岡町会の守護神として、敬信されている。※青森県神社庁HP】と、簡潔に記されています。

岩木山


 岩木山の麓ということで、ここもまた周りはりんご畑。神社の入口に、由緒書きがありますが、それには、
【八幡宮の主神は誉田別命(応神天皇)であり、本源は宇佐の八幡宮とされ、八幡宮に対する信仰は古くから最も広く信仰されてきたものの一つである。奈良時代には仏教と習合して、朝廷より八幡大菩薩号を贈られ、平安時代に入り、貞観二年(680)には王城守護の神として、京都石清水に勧請されて崇敬を受け、後、源頼朝が鎌倉鶴ヶ丘に祀ってから武家の守護神として尊崇され、一般民衆の間にはお産の神として信仰されてきた。
 当八幡宮の創建は、安政二年(1855)の神社微細帳にも記載がなく、また、寛政、嘉永、文化、昭和の年代の棟札にも記載がない為不詳ではあるが、境内には板碑一基が存することの他に当集落の地に別の板碑が存すること、或いは大浦氏(後の津軽氏)の津軽一統に功臣であった豪族の居館があったこと等、その何れかに関係があったものと考えられる。※由緒書きより】と書かれていました。

 由緒書きの前半部分は、いわゆる「八幡様信仰」について述べていますが、旧岩木町の各神社には、このように御祭神や社の縁起について、とても分かりやすく記した説明板があり、大変勉強になります。

 大きな狛犬や神馬が並び立つ参道を進むと、「春日大明神」「天照皇大神宮」「八幡大神」と彫られた大きな祭神の碑があり、その奥に拝殿、両脇に二十三夜塔や庚申塔などが立っています。
 本殿の中にも狛犬がいました。この狛犬、左右ともに鞠で遊んでいるような、ひょうきんな感じのする狛犬です。

 由緒書きにあるように、境内には高さ128.0cm、幅79.0cm、厚さ33.0cmという板碑
板碑
が1基存在しますが、年代等は不明ながらも、弘前市の有形文化財に指定されています。
 
 実は、この八幡宮を中心とする新岡集落一帯には、かつて、板碑が数多く存在していて、この神社の境内にも、建武年号(1334)をもつ板碑があったといわれています。
 この板碑について、次のような話が伝えられています。
ー 建武年号(1334)の板碑の存在を知った津軽藩4代藩主・信政は、宝永元年(1704)、この八幡宮一帯の森に自らの廟所を築くことを思い立った。ところが、その建武年号の板碑が一夜にして忽然と消えてしまった。それでやむなく信政の廟は高岡の地に造営されることになった(現・高照神社)。- 

 消えた建武年号の板碑・・・この地が信政の廟所になるのを恐れた村人たちが一計を案じてある夜、密かに隠してしまったのだとか。村の大切な文化財を惜しんだものか、廟所造営にあたって、田畑がつぶされることを恐れたものか。。 

◇新岡八幡宮

 
参道
拝殿
本殿
本殿の狛犬
板碑


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: 津軽三十三寺社巡り  

「観音山普門院2」-津軽三十三寺社巡り33-2


観音堂①


 津軽の夏の風物詩のひとつに各地の神社・仏閣で開催される「宵宮(ヨイミヤ、ヨミヤ)」があります。たいていは、それぞれの寺社の大祭の前日に行われ、夕方には参道に多くの露店が並び立ち、地元の人々で賑わいます。
「山観」と呼ばれ、親しまれている普門院の宵宮は、例年旧暦の4月17日に開催されていますが、これは新暦の5月下旬にあたり、この辺りでは最も早い開催日となっています。

「いままでは親と頼みし笈摺を ときて納める茂森の寺」と御詠歌にあるように、ここは巡礼の結願所。弘前からはじまる(1番札所:久渡寺)津軽三十三観音巡礼は、同じく弘前で完結するわけです。当初、津軽の観音霊場の4番札所であったこのお寺が結願所となったのは寛永(1748~51)の頃といわれています。

 観音堂は杉林に囲まれた参道をぬけたところに本堂と隣接して建っていますが、これとは別に、直接観音堂へと至る参道もあり、その坂道には西国三十三観音石像が立てられています。
 この三十三体の観音像は、明治22年、弘前市の宮川利助という方が、西国三十三所を巡って砂を持ち帰り、建立したものとされています。三十三番目の観音様のそばには「納経塚」も立てられていました。
 日本各地の霊場を巡り、その記念として砂などを持ち帰り、地元に納める習わしはよくみかけます。特に江戸時代には一種の「巡礼ブーム」が巻き起こり、津軽からも多くの人々が四国をはじめ、各巡礼地へ出かけたとされていますが、津軽三十三観音霊場の創始は、こうした領外への人々の流出(人、金)を防ぐ意味もあったようです。

◇三十三観音像

 
 
三十三観音①
三十三観音②
三十三観音③
三十三観音④
三十三観音⑤



普門院


 さて、「お城の南、茂森と申す森これあり、観音の御堂これあり・・」と『永禄日記』に書かれているように、江戸初期(1600年頃)の頃、辺り一帯は「重森山(茂森:しげもり)」と呼ばれる丘陵地帯でした。
 藩祖・津軽為信の遺命を受けた2代藩主・信枚は、慶長15年(1610)に高岡城(弘前城)構築にとりかかり、翌慶長16年夏には、完成した城に引き移ったといわれています。ところが、
【入城したところ、城の南木々に覆われた当時の「重森山」が見える。頂上に登れば、城内が丸見えなのである。】 - 重森山の存在は、弘前城の防御上、不都合だったわけです。【そこで信牧は翌年の元和元年(1615)5月から重森山を切り崩す工事に着手した。】とされています。
「山をも動かす」と称されたこの工事は、延べ5,000を越す人夫を動員する大変な大工事・難工事だったようですが、合わせて、防御施設である「長勝寺構え」を構築し、領内にあった寺院を一所に集め(禅林三十三カ寺の始まり)たりするなど、弘前の町割りが整えられていったわけです。

 工事のために、それまで重森山にあった観音堂は、当時「金沢の栗の木林」と呼ばれていた現在の地へと移されます。その後、
・延宝6年(1678)、4代藩主・信政が老朽化した観音堂を再建し、「観音山普門庵」
 と改称
・享保3年(1718)に焼失して再び建立(現在の御堂とされている)。
・明治~大正年間に「普門院」となり、禅林街33ヶ寺のひとつとなる。
という経緯をたどっています。

 観音堂の中へは本堂から廊下伝いに進むことができます。「観音堂」「聖観世音菩薩」と書かれた古びた扁額は、このお堂の由緒を物語っているようです。
 お堂の中には、津軽藩のお抱え絵師であった新井晴峰が文政4年(1821)に描いた「関羽書見之図」の大きな奉納額も納められています。寺社の奉納額の中には「桃園の誓い」など、三国志に因んだものも多いのですが、とりわけ、義の人・関羽を描いた額が多いようです。

 中央には聖徳太子作と伝えられている本尊(聖観世音菩薩)が祀られていますが、その隣には閻浮檀金観世音
閻浮檀金観世音
が祀られています。
 この観音様は、3代藩主・信義の側室であり、4代藩主・信政の生母であった久祥院が寄進したものですが、津軽信政が名君たりえたのは、この母の薫陶によるものといわれています。 ⇒久祥院の記事(隣松寺)へ

「閻浮檀金(えんぶだんごん)」とは、
【「閻浮」は仏教で須弥山のまわりにある四大陸の一つで、南にある大陸の閻浮提のこと。 「檀」は川。閻浮提の大木の下にある金塊のことや、その近くにある川の砂金を言う。仏教の経典中にしばしばみられる想像上の金の名称。その色は紫を帯びた赤黄色で,金のなかで最もすぐれたものとされる。※コトバンク他より】だそうですが、藩主・信政はもちろん、家臣や領民にも敬愛されていた久祥院が寄進したこの観音様には、津軽藩の繁栄と領土・領民の平和を願う思いが込められていたのでしょう。

◇観音堂

 
観音堂②
観音堂③
観音堂④
観音堂⑤
関羽書見之図


※記事については陸奥新報社『津軽三十三霊場』を参考にしました。

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「観音山普門院」-津軽三十三寺社巡り33-1


観音山普門院


 私の拙いブログは、津軽三十三観音霊場巡りから始まった分けですが、当初は、その1番札所である弘前市・久渡寺から順番に訪ねようと思いました。
 それで18番f札所である海満寺観音堂まで順序よく訪ねたのですが、ここから先は津軽半島の北端を巡ることになるので、青森・弘前方面の霊場を回ることにしました。そういう分けで、19番「義経寺」から22番までは、まだ訪れていません。「今年中には・・」「冬が来る前に、雪が降る前に・・」と思っているうちに今年も暮れてしまいました。


参道


 弘前市の観音山普門院は33番霊場。巡礼の打ち止めにあたるお寺です。
 全国でも珍しいといわれる同一宗派の寺院が立ち並ぶ西茂森町の禅林街。普門院もまたその中のお寺のひとつですが、長勝寺を中心とする各寺院とは少し離れた所に位置しています。私も場所が分からず、長勝寺の周りをうろうろ。通りがかりの人に「普門院はどこですか」と聞いてみたのですが?という感じで首をかしげてしまいました。「津軽三十三・・・」と私が聞くと、「あー。観音様か」といって道を教えてくれました。 - 地元の人達は地域の寺社に親しみをこめて、「稲荷様」「愛宕様」などと呼びますが、この普門院も古くから親しまれてきた「観音様」なのでしょう。

 普門院の山号は観音山。聖観音菩薩を本尊とする曹洞宗の寺院です。慶長19年(1614)の『永禄日記』には、「お城の南、茂森と申す森これあり、観音の御堂これあり候所、南の金沢の坂え引越し候。この所お城より高く、お城を見おろし申し候故、森引け申すはずに相成り候」とあり、古くからの信仰を集めてきたお寺です。
 俗称(通称)「山観」
「山観」
と呼ばれ親しまれているこのお寺は、住職さんが作る「精進料理」を楽しみに訪れる人も多いことでも知られていますが、「食事もまた修行」。食事の後、「五観の偈(※ご飯をいただくのは、人間として大道を成就するためである。この真意を忘れて、手段に過ぎない食物のために没頭して、人生の意義を見失ってはならない)」という、五つの反省と感謝の経句を念ずることが大切だとされています。

 禅林街の中心部から離れた小高い丘の上にある境内には、杉の木がうっそうと茂っています。この杉林は「宗教的雰囲気を醸し出す緑」とされ、弘前市の保存樹林に指定されています。私が訪れたのは秋口でしたが、真夏でもここは辺りよりも気温が2度ほど低い(涼しい)のだとか。。

 杉林に挟まれた参道を過ぎ、左側に折れると正面に観音堂と本堂が見えますが、その途中にいくつかのお堂と祠が立っています。中でも大きな建物が「延命地蔵堂」。中を覗いて見ると、大きなお地蔵様や観音様の回りにたくさんの「花嫁人形」や「新郎新婦の人形」が納められています。 ー 不幸にして未婚のまま亡くなった女性や、現世では添い遂げることができなかった者たちの魂を慰める「黄泉の祝言」とよばれる津軽の風習です。
 延命地蔵堂の隣には鐘楼と「閻魔堂」。大きな閻魔様が神馬やお地蔵様に囲まれて座っていました。

◇普門院参道 

 
境内
延命地蔵堂①
延命地蔵堂②
鐘楼堂・閻魔堂
閻魔堂
<


身代観世音堂①


 閻魔堂の隣に「身代観世音堂」が立っていますが、ここからは、昭和55年(1980年)に一体の円空仏が見つかりました。それは、寛文年間(1661~72年)の作とみられる十一面観音像ですが、本堂前の説明板には、
【十一面観音像(円空仏) ヒバ材の厚板に彫刻した立像。一木造り。総高175.3cm、幅46.0cm、厚さ14.6cm。頭上に十一面仏を頂き、左手で宝瓶を持し・・・・造像当時は白木のままであったと考えられる。円空仏の独特な手法が明らかな上、特産のヒバ材を用い、長い間庶民信仰の対象(身代り観音)として、現在に及んでいる。※説明板より抜粋】と記されています。

 このお寺の寺宝であり、弘前市指定有形文化財ともなっているこの十一面観音像は、現在、本堂に祀られています。
 円空は、その生涯で約12万体の仏像を彫ったと伝えられていますが、「円空仏」と称される仏像は全国各地に所在し、青森市元光寺など、青森県にも多く見られます。

 その素朴さと親しみやすさで、多くの庶民の信仰を集めてきた円空仏。ここ普門院では「身代り観音」として祀られていました。

◇身代観世音堂と円空仏

 
身代観世音堂②
本堂前
十一面観音像①
十一面観音像②
十一面観音像③


                          ー 次回へ続きます。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: つがるみち  

境内でひと休み「豊受神社ほか」-つがるみち229


稲荷神社


 以前に訪れた田舎館村の愛宕神社の手前に諏訪堂という集落がありますが、ここは、かつて「諏訪堂館」という城郭(砦)があった所です。
 その規模は、本郭・北郭・南郭の3郭で構成され、現在の諏訪堂集落のほとんどを含んでいたとされています。
 本郭は、およそ東西250m、南北250mであったといわれていますが、現在、その本郭跡には稲荷神社が鎮座しています。

 諏訪堂館の建築年代や館主などは不明ですが、平川市の大光寺城の支城の役目を負った南部方の砦であったようです。 
 津軽統一を目指す大浦為信は、 天正13年(1585)5月に田舎館城を攻撃し、城主・千徳氏を滅ぼす分けですが、その戦いの際に、この諏訪堂館本郭に陣を構えたといわれています。

 稲荷神社の入口は道路沿いにあり、一の鳥居をくぐって少し歩くと右側に参道が続いています。「千本鳥居」とまではいきませんが、りんご畑のそばにいくつかの鳥居が並んで立っており、それをくぐり抜けると境内へたどりつきます。

 境内には、末社の他、郷土出身の力士の顕彰碑なども立てられています。かつての城跡を偲ばせる遺構は残ってはいませんが、社殿の後ろ側は一段低くなっており、当時の堀跡とされているようです。

 この稲荷神社の御祭神は倉稲魂命ですが、その由緒については、【天福元年 (一二三三) に建立。 明暦三年 (一六五七)、 二本柳孫右衛門が再建し、 諏訪堂の産土神社として崇敬す。 元禄年中 (一六八八~一七〇四) より、 田舎舘組田中部落も氏子となる。 明治四十二年八月二十七日、 村社に列せられ、 昭和二十一年六月二十六日、 神社本庁に所属し、 宗教法人令に依る稲荷神社となる。※青森県神社庁舎HP】とあり、古くから集落の信仰を集める産土社であったようです。

◇稲荷神社

 
一の鳥居
参道
境内
末社ほか
狐像・狛犬



一の鳥居


 諏訪堂を過ぎて、弘前方面へ進む途中に豊蒔という集落がありますが、ここに豊受神社があります。
「豊受」の名の通り、この神社の御祭神は豊受気命(豊受大神:トヨウケビメ)。
 豊受大神は豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に祀られる名高い神様です。皇大神宮(内宮)に祀られる天照大御神のお告げにより、丹波の国から迎えられた神様とされていますが、御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、天照大御神の食事をはじめ、神々にたてまつる食物を司ることから、広く衣食住・産業の守護神として崇められていることは、広く知られているところです。

 余談になりますが、邪馬台国の女王・卑弥呼は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)や神功皇后など、神話上の人物に比定されていますが、卑弥呼=天照大御神とする説も多く語られています。
 安本美典さんなどの著書によれば、卑弥呼の時代は、神話にあらわれる天照大御神の時代と重なりあうことや、両者ともに女性であること、「日の巫女」であることなどがその根拠とされています。
 有名な「天岩戸」の物語は、太陽神である天照大神が隠れたために世界が真っ暗になった(乱れた)という神話ですが、これは、邪馬台国の女王・卑弥呼が死んだ後、国が乱れたことをあらわしており、アマテラスの復活は、邪馬台国の新女王誕生を象徴しているものである・・・というなかなか興味深い説です。
 卑弥呼のあとを継いだ女王の名は宗女の「トヨ」。天照大御神=卑弥呼だとすれば、豊受大神はトヨか?・・などと空想はふくらみます。

 脇道にそれてしまいましたが、この田舎館の豊受神社のそばは墓地になっていて、そこには仏の石像
仏の石像
なども立っており、ひとつの霊地となっているようです。
 赤い神橋を渡ったところには、猿田彦や庚申塔と並んで末社が立っていました。その祠のひとつを覗いて見ると、中にはオシラ様が祀られていました。

 この豊受神社については、
【当村は昔大根子村極楽寺護摩堂本尊不動尊の氏子であった。 その極楽寺が田舎舘へ移った時、 豊蒔村の産土神として勢至菩薩を極楽寺住職大円坊が勧請したという。 それが当社の始まりであり、 往昔は仏体号の神社であった。 そして寛永三年 (一六二六) より豊蒔、 二ツ屋両村で堂宇を営繕して来たが、 「貞享検地水帳」 (貞享四年・一六八七) の記録には 「豊蒔村勢至観音堂一三間九間堂建有之」 とある。明治四年の神仏分離令の出された時には、 仏体を取除いて豊受神社と改称し、 豊宇気命を奉齋した。 氏子の話によると三重県伊勢市の豊受大神宮を勧請したものだという。 (田舎舘村誌より) ※青森県神社庁HP】と、豊受大神を祀るに至ったことが紹介されています。
 全国各地の巡礼地へお参りし、その御神体を地域に奉納・勧請することは、よくあることですが、この神社もそのような社のひとつだったようです。

◇豊受神社

 
参道
末社・庚申塔ほか
オシラ様
神馬・狛犬
拝殿


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 藤崎町   Tags: つがるみち  

境内でひと休み「水木熊野宮ほか」-つがるみち228


水木熊野宮
 
淡島神社





 
 神社をめぐっていると、ときどき同じような姿形をした狛犬や神馬を見かけることがあります。特にあまりかけ離れていない地区の神社にそれは多いようです。
 私は神社の拝殿や本殿の造りや形に関して、あまり注意して見たり調べたりすることはありませんが、先日、藤崎町の水木熊野宮と淡島神社という2つの神社を訪ねたときに、社殿(拝殿)が、ほぼ同じような形をしていることに気づきました。
「神明造」「住吉造」「大社造」「春日造」「日吉造」など、様々な建築様式があるようですが、この2つの神社がその中のどれにあたるのかは、私には分かりませんが、形や色がそっくりだったので印象に残りました。

一の鳥居


 藤崎町水木(旧常盤村)に鎮座する熊野宮。かつてここには「水木城」という舘があったところです。
 水木城については、【中世の頃、浪岡城を本拠地として栄えた北畠氏は、北畠顕家系統で宗家である「浪岡御所」と、北畠顕信系統の「川原御所」に別れていました。その「川原御所」である溝城具信の所領地の要の場所にある城・舘が、溝城舘・水木城です。水木城は、津軽統一を目指す大浦氏(津軽氏)に対抗する北畠氏の最前線の基地でもあったようです。永禄5年( 1562 年)に、北畠一族の内紛である「川原御所の反乱」がおこり、溝城舘・水木城は浪岡御所の軍勢に攻められ落城したといわれます。溝城氏はその後、津軽為信に仕え、水木氏を名乗り、文禄2年(1596 年)から、「溝城」が「水木」と改められたということです。※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」】とありますが、境内横に立つ説明板によると、当時、辺りには熊野堂、惣前堂、薬師堂が設けられ、有事の際の砦としての役割を負っていたとのことです。

 神社正面の大鳥居の左右には、昇り龍と降り龍が刻まれています。また、境内の御神木の周りには水がたまっていますが、これは地下水のようで、神木と拝殿のあたりから湧き出ていました。「御神水」といったところでしょうか。
「熊野宮」という名にあやかったものでしょうか、拝殿前には狛犬とともに大きな熊の像が立てられていました。

 この熊野宮の縁起については、【御祭神:伊弉諾命、伊弉册命、誉田別命  創立年月日は不詳なれど、 住古溝城の館神として恵心僧が都から永正十七年 (一五二〇) に勧請したと云われている。※青森県神社庁HP 】とあるように、水木城の守り神として創建され、恵心僧都によって勧請されたと伝えられています。

◇水木熊野宮

 
水木城址
逆さ龍
境内
熊の像
拝殿



一の鳥居


 一方、こちらは同じく藤崎町福左内に鎮座している淡島神社。住所は違いますが、水木熊野宮からはほんの少しの距離です。
 明るく開放的な境内には、「天保」「弘化」など幕末期の年号を記した庚申塔が3基立っています。
 御祭神は少彦名命ですが、その由緒については、
【永正17 年(1520 年)に水木(溝城)城主であった溝城刑部の家臣である水木村の今市右衛門が、薬師堂として勧請したという古記録があります。今市衛門と今次右衛門の二人が、主君の命により用水堰を開削した時に、土の中から薬師如来の木像を発見し、それを祀ったということです。※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」 】とあるように、やはりかつての水木城と関係が深いようです。前述の熊野宮とともに「防御砦」の役割を果たしていた「薬師堂」とは、ここのことでしょうか。

 延宝3年(1675 年)には、菊理姫命(くくりひめのみこと)が合祀されますが、明治4年(1871 年)の廃仏毀釈の令によって仏体の薬師如来が廃され、菊理姫命だけを祭るようになったそうです。その後、明治20 年頃に火災で社殿を焼失し、明治33 年(1900 年)から、現在の少彦名命を祀るようになったということです。

◇淡島神社

 
庚申塔
末社
狛犬
拝殿
本殿



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Category: ふるさと【東北・青森】 > 十和田市   Tags: みちのくあれこれ  

「十和田神社」-みちのくあれこれ2


十和田湖


 十和田湖には御倉半島と中山半島という2つの島が突き出ていて、独特の湖の形をつくっていますが、あたかもその姿は、湖面に龍(蛇)が寝そべっているようです(御倉半島は頭、中山半島は尻尾)。
 青森県のパワースポットとして、その名が知られている十和田神社は、中山半島側の休屋に鎮座しています。

「十和田」は元来は「龍神が住む水のある場所」を意味し、十和田信仰は北東北に広く分布する水神信仰で、「十和田様」「十和田神社」「戸和田神社」など、各地に「とわだ」と名のつく社は数多くありますが、ここ休屋の十和田神社は、その信仰の象徴ともいえる神社です。

 境内へと至る道は2つありますが、そのひとつが御前ヶ浜から湖畔をたどる道です。ここには、「開運の小道」と名づけられた散策路が設けられていますが、そこには、溶岩の洞窟がいくつかあり、いずれも注連縄が張られ、「天の岩戸」をはじめ「日の神」「金の神」「山の神」「火の神」「風の神」が祀られています。
 カルデラ湖である十和田湖・・これらの洞窟は、太古の火山活動によって造られたものなのでしょう。この「開運の小道」を通り過ぎたところに、有名な高村光太郎作:乙女の像があり、そこから境内へと参道が延びています。

◇開運の小道から

 
御前が浜
開運の小道
天の岩戸・日の神
火の神・風の神
乙女の像


 もうひとつは、お土産屋さんやレストランなどが立ち並ぶ商店街から進む道ですが、ここに「一の宮」があり、祠が立っています。
 一の宮を過ぎると間もなく一の鳥居。参道には杉の大木が佇立していて、鬱蒼とした感じがします。こちらの参道脇にも、巨岩や奇岩が数多くあり、何となく神秘的な雰囲気が漂っています。

◇一の宮から

 
一の宮①
一の宮②
一の鳥居
参道
巨岩


手水舎


 十和田神社については、
【御祭神:日本武尊  大同二年 (八〇七) 坂上田村麿将軍東夷征討に際して、 一宇の堂を建立。 日本武尊を勧請して武運長久を祈願した。 夷賊を鎮定して後霊験高く、 旧南部藩時代には藩費を以て維持運営。 毎年代参拝礼の儀があり、 隆盛を極めた。 明治六年の変革に際して社領を没収され、 維持経営に困難した。 昭和十六年十月二十五日本殿改修、 幣殿、 拝殿、 社務所を新築。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 坂上田村麻呂が東征のおり、湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという伝説も残されており、【後、荒廃していたのを建武元年(1334)北畠顕家の奥州下向に際しこれに従って当地に来た甲州南部氏が、甲斐の国・白鳥の宮の御祭神・日本武尊の神霊を遷して再興し、藩費を以て維持運営。古くは熊野権現、青龍権現の名で知られていた。】とされています。

「神秘の湖」とも称される十和田湖には様々な伝説が語り伝えられています。中でも「昔、南祖坊(なんそのぼう)が十和田湖の主であった八郎太郎と争い、八郎太郎を秋田の八郎潟へと追いやった。」という話は最も有名なものですが、南祖坊については、この十和田神社の縁起でも次のように語られています。
【その昔熊野で修業をしていた「南祖坊」という修行僧が十和田湖にやってきました。南祖坊は熊野で権現様から「この草鞋を履いて諸国を修行し、草鞋が切れたところを住処とせよ」と鉄の草鞋を授かりました。そしてその草鞋が切れたところが十和田湖でした。ところが、その十和田湖には秋田のマタギであった八郎太郎が姿を変えた龍が住み着いていました。そして住処をめぐり八郎太郎と南祖坊の間で激しい戦いになりました。戦いは七日七晩にもおよび八郎太郎は八つ頭の龍と変じ、南祖坊は法華経を唱え経文を投げつけました。その結果、南祖坊が勝利し八郎太郎は八郎潟へと逃れることになります。そして勝利した南祖坊は十和田湖へ入寂し龍へと姿を変え「青龍大権現」として祀られることとなりました。】

 参道を通り、いくつかの鳥居をくぐる抜けると、やがて拝殿へと向かう石段が見えてきます。拝殿の奥には、500年前に建立されたといわれる本殿があり、そのそばには、熊野神社と稲荷神社が立っていました。この熊野神社には、南祖坊が履いたとされる鉄の草鞋が奉納されているとのことです。境内の杉の木にはたくさんの祈願絵馬が掲げられており、この神社に対する信仰の深さが感じられます。

 社殿から裏の山(崖)に向かって道が続いていますが、実はこの崖を登りきったところからは十和田湖で一番深いとされる「中湖」を望むことができます。そこからは、湖面に向かって鉄の梯子が渡されていて、それをつたって降りたところが「占場」。
「占場」案内板

 南祖坊が入水した場所とされ、
【吉凶を占う場として信仰を集めており、お金やお米を白紙にひねったものや、宮司が神前に供えて祈念をこらした「おより紙」を湖に投げ入れると、願いが叶うときには水底に引き込まれるように沈み、叶わないときんは重いものでも浮いたまま波にさらわれ沖へ流される。】といわれるところですが、現在は崖の頂きから占場へ下る梯子は通行禁止となっています。

◇十和田神社

 
拝殿①
拝殿②
本殿
熊野神社・稲荷神社
祈願絵馬


 十和田神社の「青龍大権現」とされる南祖坊に関する伝説は主に県南地方に多く残されていますが、一方、その戦いの相手であった八郎太郎(八郎)の話(草鞋を履いて旅に出た八郎がたどり着いた先は八郎潟であった)は、黒石市温湯大鰐町の大円寺など津軽地方にも残っており、その伝説の由来や分布など、興味深いものがあります。

※【】はHP「十和田湖国立公園協会」等を参考にしました。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 秋田県   Tags: みちのくあれこれ  

「和井内神社」-みちのくあれこれ1


滝ノ沢展望台から


 10月初旬、十和田湖の休屋にある十和田神社を訪ねました。
私の住んでいる黒石市から十和田湖までは国道102号線をさかのぼることになるのですが、その途中に滝ノ沢があります。
 ここには展望台が設けられていて、十和田湖を望むことができるのですが、ここからは道が2つに分かれていて、真っ直ぐ102号を進むと子ノ口に、右側に折れると休屋方面へと道が続きます。   ⇒滝ノ沢から十和田湖
滝ノ沢から十和田湖


 湖畔に沿って続いているこの道は、青森県と秋田県の境を縫うように走っているため、ナビの案内もころころ変わるわけですが、しばらく走って行くと大川岱という集落があり、ここに和井内神社が鎮座しています。住所は秋田県鹿角郡小坂町。

 駐車場からは、湖畔へと遊歩道が延びていて、外輪山に囲まれた十和田湖を見ることができます。私が行ったときは天気もよく、水が澄んでいて、とても美しい眺めでした。道路を挟んだ真向かいに和井内神社の一の鳥居が立っています。

◇和井内神社①

 
十和田湖①
十和田湖②
十和田湖③
十和田湖④
和井内神社一の鳥居



案内板


「和井内」という神社名が示すようにこの神社は和井内貞行を祭る神社です。
 和井内貞行は、十和田湖の漁業と観光開発に貢献した明治の偉人の一人で、かつて教科書にも取り上げられ、その感動的な生涯は『われ幻の魚を見たり』という映画にもなったほどでした。

 その業績等については、
【和井内貞行は1858年、陸奥国鹿角郡毛馬内村(現・秋田県鹿角市)に生まれた。幼名を吉弥と名乗った。1881年、小坂鉱山に赴任する。鉱山勤務のかたわら十和田湖養魚事業に着手する。それ以前、十和田湖は魚一匹住まない湖だった。何度も失敗を繰り返すも辛抱強く研究を続けた。1897年には十和田湖畔に旅館『観湖楼』を創業。十和田湖養魚事業を進めるべく、人工孵化場を作る。1903年、ヒメマスの稚魚を放流し1905年に成魚となって回帰したことによりついに和井内は十和田湖養魚事業に成功した。和井内の養魚事業の成功は、十和田湖の観光にも大きな影響を与えた。和井内は十和田湖の養魚事業の開発の先駆者であるのと同時に観光開発の先駆者でもあった。2013年現在、十和田湖はヒメマスの釣りのスポットとして有名である。これらの事業成功が評価され、和井内は1907年に緑綬褒章を授与された。その後も十和田湖を国立公園として指定するよう、内務省に陳情を行っている。※wikipediaより】とあるように、粘り強く、活動的な人物であったようです。

 40歳を過ぎて帰郷した貞行は、【明治33年、青森水産試験場から買い入れたサクラマスの卵を孵化させると、5,000尾の稚魚を十和田湖に放流。さらに、日光養魚場からも日光マス(ビワマス)の卵を買い、孵化させて稚魚35,000尾を放流しますが、うまくいかず、多額の借金を抱えることとなってしまった。】といわれています。
 失意のどん底にあった貞行は、青森市の東北漁業組合本部を訪ね、そこで、【信州の寒天商人から北海道支笏湖の回帰性のマスの話を聞きます。このマスこそ、アイヌ語で「カバチェッポ」、後に「ヒメマス」と名付けられる魚でした。】 - 貞行とヒメマスとの出会いです。

【明治36年5月、卵の孵化に成功した貞行はその稚魚30,000尾を放流。「和井内マス」と命名しました。しかし、このマスが放流地点に帰るのは3年後のことであり、また苦労の日々が続くこととなります。和井内家の家計は困窮しました。】とあるように、幻の魚「カバチェッポ=ヒメマス」が群れをなして帰って来るまでには3年の月日が必要でした。その間、困窮した家計を切り盛りし、貞行を勇気づけ、支え続けたのが妻のカツ子でした。

※上記【】は「十和田湖国立公園協会HP」他を参考にしました。

 長年苦労をともにしてきた妻のカツは、その後、病に倒れ、46年の生涯を閉じます。湖畔の人々はカツの温情に感謝し、大川岱に「勝漁神社」を建立して御霊を祀りました。これが、和井内神社のはじまりとされています。
 「十和田湖の父」和井内貞行は、大正12年(1922)にこの世を去りましたが、昭和8年に「勝漁神社」が「和井内神社」に改称され、現在に至っています。

 御祭神は、和井内貞行と和井内カツ子、そして貞行が信仰していたとされる事代主命(ことしろぬしのみこと)。 - 和井内神社は大川岱地区の人々の信仰を集める湖畔に立つ静かな社です。

◇和井内神社②

 
参道
拝殿①
拝殿②
木鼻
本殿


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市   Tags: つがるみち  

田村麻呂伝説「阿蘇神社」-つがるみち227


境内


 大鰐町と平川市の境に阿蘇ケ岳(494m)という山がありますが、この山についてWeb東奥「あおもり110山」には、次のような話がのっています。
「小学校のとき、阿蘇ケ岳は遠足で行く山の一つだった。学校から山頂まで歩いて約2時間。山は家畜のえさの草刈り場で、刈ったあとに遠足で行ったから、山頂からの眺めは360度で抜群だった。われわれの年代にとって、思い出深い山だ。」
 地元出身の「かつての少年」の回顧談です。今は砕石場ともなっているこの山は、大人にも子どもにも親しまれてきた山だったようですが、標高500m足らずのこの山は、坂上田村麻呂の伝説が伝わる霊山でもありました。

一の鳥居


 この阿蘇ケ岳の麓を走る国道282号線沿いに平川市唐竹の集落がありますが、その薬師沢というところに阿蘇神社が鎮座しています。
「阿蘇」という名前の通り、阿蘇ケ岳と深い関わりをもつ社な分けですが、その縁起については、
【御祭神:少彦名神  延暦十年 (七九一)、 田村麻呂東征の折り、 阿蘇嶽山頂に本陣を置いて征伐の末、 田村麻呂眼病に罹った時、 夜夢の中に二人の美人が顕われ、 清水の所在を教え、 その水で洗顔すれば平癒するであろうと告げ、 此の土地の鎮守の神は少彦名神であると言って去られたという。 その御神託によって、 眼病が平癒したことで、 眼病守護のため阿蘇嶽に剣を埋め、 薬師神と崇め社殿を建立したと伝えられる。 清水は 「渾神の井」 として知られる名水である。 阿蘇嶽社殿までは、 村より一里余りも離れて不便なため正徳六年 (一七一六)、 薬師沢へ本殿を移すにあたり掘り上げた鏃を少彦名神神璽として崇め祀り、 社名も薬師堂、 薬師宮、 久須志神社と変わり、 現在の阿蘇神社となる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 この縁起の内容については、田村麻呂の眼病を治したとされる渾神の清水の記事でも取り上げたので重複しますが、田村麻呂伝説が残る神社です。
 縁起の中に「村より一里余りも離れて不便なため」社殿を現在地に移したとありますが、同じように弘前市の熊澤神社もまた、阿蘇ケ岳の山中から奉移された社とされています。 - 熊澤神社が鎮座する場所は「薬師堂」、ここ阿蘇神社の住所は「薬師沢」・・いずれも、田村麻呂が阿蘇ケ岳山頂に祀った「薬師神」が、その地名の由来になっているようです。
 この阿蘇神社の御神体は少彦名神神霊とされる「掘り上げた鏃」ですが、実際に阿蘇ケ岳山頂付近からは、昭和16年に竪穴とともに鋤が発見されたという、興味深い話もあります。

 一の鳥居から続く長い参道の両脇にはりんご畑が広がり、社殿は小高い丘の上にありました。拝殿の前の手水舎には、鈴とともに鉄の草鞋が奉納されていました。

◇阿蘇神社①

 
二の鳥居
参道
拝殿
本殿
鉄草鞋



拝殿①


 木鼻をはじめ、鳳凰、龍、虎をはじめ、中障子の彫り物など、拝殿の彫刻はとても精巧に造られていて、すばらしいものがあります。
 境内の中を見て回り、写真に撮りましたが、その帰り道、近くで作業をしていた農家の方が気さくに話しかけてくれました。
「この辺りは昔、田村麻呂たちが通ったんだ。いい神社だべ。」という話からは、この神社と地域を愛する気持ちが伝わってきました。
「ところで、拝殿の屋根の下を見だが?」と言うので、「いいや。」と私が答えると、その方は「周りに十二支が彫られてるんだよ。」と教えてくれたので、もう一度引き返し、注意しながら見てみると、なるほど確かにうさぎ、馬、ねずみ・・・など、十二支の彫り物が拝殿を取り囲んでいました。これまた、見事なものです。

◇阿蘇神社②

 
拝殿②
十二支①
十二支②
十二支③
十二支④



相馬貞一鎮魂碑


 ところで神社の境内には末社などの他に、忠魂碑や村の開拓に関する記念碑、社の改築記念碑などとともに、郷土が生んだ名士や力士などの顕彰碑が立っているのをよく見かけます。この阿蘇神社にも郷土のために尽くした一人の人物の鎮魂碑が建てられていました。その人物の名は相馬貞一(そうま ていいち)。

 相馬貞一は、慶応3年(1867)に生まれ、昭和10年(1935)に没するまで、その一生をここ唐竹(からだけ)村の「りんごづくり」に捧げた人物です。
 明治21年に東京からふるさとへ戻ってきた貞一は、村人の貧しい暮らしを憂い、雑穀畑にりんごを植えることを奨励しました。自らも杉林を切り開き、りんご園を作ったといわれています。
 貞一の取り組みは、次第に村人に受け入れられ、唐竹のりんご栽培は盛んになっていきました。さらに貞一は、栽培技術の向上や販売組織の拡大にも力を注ぎました。こうした貞一たちの努力が実り、青森県はりんご栽培日本一となった分けです。

 貞一は村人から敬愛され、「唐竹のとの様」といわれるようになりましたが、このとの様はけっして自分の業績を誇ることなく、自らりんご畑に出ては仕事をし、村人とともに歩んだ人物だったようです。人々は、そんな貞一を親しみをこめて「オドサ(お父さん)」と呼んでいました。

 このように、りんご作りを通して村の発展を築いた貞一は、死を間近にして自分の思いを表した短歌を遺しています。
ー 願わくは りんごの花の下陰に しづ心なく 眠りはてなん -

 阿蘇神社境内に立つ鎮魂碑には、今もなお、そんな「オドサ」相馬貞一を敬愛する地域の思いが込められているような気がします。

※相馬貞一については、平川市の小学校の「ふるさと学習」でも取り上げられ、社会科の副読本にも紹介されています。私も、その副読本を参考にしました。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 藤崎町   Tags: つがるみち  

村の繁栄を願って「八坂神社」-つがるみち226


一の鳥居


 日本には菅原道真、源義経、信長、秀吉、家康など、歴史に名を残した英雄を御祭神として祭っている社がありますが、各地方にも、それぞれ「郷土の偉人」と称される人物を祭っている神社があります。
 藤崎町の堰神社は、自ら「人柱」となって、村人を水害から救った堰八太郎左衛門安高(せきはちたろうざえもんやすたか)を祭っている神社でした。
 また、御祭神ではないものの、郷土の発展のために尽くした人物の優れた業績や、その思いが創建と深い関わりをもっている社もあります。藤崎町福島(旧常盤村)に鎮座する八坂神社も、そのひとつです。


古川仁左衛門霊


 社頭には庚申塔、二十三夜塔、馬頭観音碑
馬頭観音碑
など、いくつかの石碑がありますが、一の鳥居のそばに「本村開闢 元祖 古川仁左衛門霊」と刻まれたひと際大きな碑が立っています。
 この古川仁左衛門は「福島の村の生みの親」といわれ、集落の敬愛を集めている人物ですが、この八坂神社の近くには、その墓所もあるとのことです。 

 
 古川仁左衛門は津軽藩の藩士で、
【仁左衛門綱智は、開拓者四三名を督励し、大湿地帯に用水工事の難事業を遂行、一七〇町歩の開田を成就し、寛文六年(一六六六)観音堂(現八坂神社の前身)を建立し、持佛の千手観音を産土神として祀り、福島部落の開祖。※藤崎町HP】といわれ、村落発展に多大な業績を残した人物だったようです。
 青森県神社庁HPにもこの神社の縁起について【当社は、 寛文六年 (一六六六) の建立と伝えられる。 津軽藩御家中、 古川仁左衛門が当家の持仏 「千手観音」 を祀って産土大神とする。】とあり、その創建と仁左衛門との関わりについて述べられています。

 一の鳥居の左手には、前述のようにいくつかの石碑がありますが、右側には別の赤い鳥居が立っています。ここには、穀物の神・宇気母智大神(うけもちおおかみ ※保食神)が祀られているようです。

 鳥居から続く参道はけっこう距離があり、広々とした境内でした。拝殿の前に一対の狛犬がいますが、この狛犬、口の回りが真っ赤で、大きいだけに少しギョッとさせられます。

◇八坂神社①

 
 
庚申塔ほか
宇気母智大神
一の鳥居
狛犬
拝殿



牛頭天王


 拝殿のとなりにも鳥居が立っていますが、ここは胸肩神社でした。古川仁左衛門は、田地開発にあたり「大湿地帯に用水工事の難事業を遂行・・」とありますが、かつてこの辺りは湿地帯だったこともあり、それに伴う被害(水害)も大きいものがあったのでしょう。境内の中に胸肩神社を建立し、いわゆる宗像三女神を祀ったのは、そんないきさつがあったのだと思います。
 この胸肩神社をはじめ、境内にはいくつかの末社(祠)があります。藤崎町『ふるさとの史跡散歩』には、「境内には千手観音堂、八幡堂や庚申堂、宇気母智大神などのお堂があり、さらに胸肩神社、祇園大明神などがある。」と紹介されていますが、私には、どれがどの祠なのか見分けがつきませんでした。

 祠の他に、「千手観音」「宇気母智大神」などの碑も立っていますが、その中に「牛頭天王(ごずてんのう)碑」があります。
 この神社は御祭神として素戔嗚尊を祭っている分けですが、由緒によると「明治二年神仏分離により、 旧来、 牛頭天王を祀ってきたので、 祭神素盞雄命を勧請して、 八坂神社と改称した。」とされています。

 牛頭天王については、
【平安京の祇園社(現八坂神社)の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきたが、御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになった。これが祇園祭の起源である。※wikipediaより】とありますが、神道と習合し、スサノオと同一神であると考えられていたようです。
 それは、「牛頭天王もスサノオも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。」とされています。いわば両神とも「祟り神」であった分けですが、それを排除するのではなく、その霊を祀り鎮撫し、「疫病除けの神」に転化する・・・という、日本独特の信仰形態といえるでしょうか。
 この福島の集落も、かつては、大飢饉などのために疫病が流行し、人々を苦しめたのかも知れません。村人は、救いを求めて「疫病除けの神=牛頭天王」を祀るようになったと思ったりもします。

 村の産土社とされてきた神社の境内には主祭神の他にも多くの神様が祀られており、一見、とりとめのない感じもしますが、この福島の八坂神社をみると、「衆生を漏らさず救済する」千手観音、食物の神・宇気母智大神、水の神・宗像神、そして疫病退散の神・牛頭天王と、そこには、古川仁左衛門がもたらした村の繁栄を守り継いでいこうとする地域の願いが感じられます。

◇八坂神社②

 
胸肩神社
末社①
宝物殿と末社
末社②
千手観音・宇気母智大神


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 早いものでもう3月になりました。雪解けを待ち、また史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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