
黒石市に目内沢という集落があります。
「目内澤は、天保年代(1644年)黒石~目内澤~常盤、黒石~目内澤~本郷の交通の要衝であるため、往来も激しく・・※延命地蔵尊由緒書き」とあるように、藩政時代から黒石と青森方面を結ぶ要の村でした。
現在は「上目内沢」と「下目内沢」とに分かれていますが、その両方に稲荷神社が鎮座しています。今回は上目内沢の稲荷神社を訪ねました。

見渡す限りの雪の原 - といった感じですが、道路沿いに大きな社号標と赤い鳥居が立っています。
境内も雪に埋もれ、白一色でしたが、鳥居から拝殿へと続く参道はきれいに除雪されていました。
庚申塔でしょうか、不明の石碑が3基ほど。雪に埋もれているものもあるのかも知れません。拝殿の前には大きな狛犬が雪帽子をかぶっていました。
この稲荷神社は、
【御祭神:倉稲魂命 貞享元年 (一六八四) 十一月、 村中にて建立したと伝えられているが、 そもそも古来より僅かの宮地があった所と言われている。 明治四年神社改正に付き、 同六年五月十日中郷村飛内の村社稲荷神社へ合祀したが、 その後、 同八年四月復社願いを申請の上、 拝殿並びに大鳥居を建立し、 同月十七日に復社する。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。以前から「宮地」があったということですが、古くから村落の崇敬を集めていた祠があったのかも知れません。
拝殿の奉納額には、「平成3年9月28日の台風19号により樹齢200年以上の杉の大木がなぎ倒され、本殿・拝殿・鳥居等も飛ばされるという甚大な被害を被りました。氏子一同の力強い御協力により、総工事費430万円、5年計画で新築完成」とありました。
◇稲荷神社






この稲荷神社の手前に、大きな聖観音像が立っており、ひとつのお堂があります。「延命地蔵尊」と呼ばれるお堂です。
観音様の後ろに、その由緒を記した石碑が立っていますが、それには、
【寛政6年(1794年)に建立した地蔵尊は、天明3年(1783年)とあくる天明4年津軽郡中一円は元禄大飢饉以来の飢渇に襲われ、無残・地獄絵図の天明大恐荒であった。この地も、手前の坂道を登れずに倒れて逝く姿を目のあたりにして、天明の餓死者の供養と人々の助命を願い「延命地蔵尊」として、有志一同が建立したのであります。・・・朝な夕な地蔵尊にひたすら家族の延命を願いまた豊作を願い、信心すれば大願成就が成る風評が津軽地方にあったのであります。】と、その建立の主旨や地元の信仰の深さについて記されています。

由緒書きには続けて、
【また、日露戦争(1904年)に、お上から縄を掛けられたということであります。陛下のご命により国中から体格の優れた青年が続々と召集され、また、戦争が悪化するにつれて多数の戦死者が出たものであります。国家の義務とはいえ、親や子、妻を残して出征した家族となってみれば、別段の想いであったことでしょう。これだけは他人の力でならぬこと、いずれは神、仏にすがって見るがよし、そこにきて、この地蔵様を信心すれば兵隊に召集されず。また、出征しても戦死しない、という噂が伝わり、兵隊を持つ家族は我も我もと駆け込み村はずれの地蔵の周りはいつも信者で黒山の人であったという。そのことが、お上の耳に達し、「これは由々しい国事犯が目内澤に出来たものだ」「徴兵回避を宣伝する不届きな奴め」と、巡査を派遣して地蔵様に荒縄を掛けたのであります。】と書かれていました。
日露戦争と青森県といえば、大戦前夜(1902年)におこった八甲田雪中行軍事件が有名ですが、国家の存亡をかけたこの戦争の記念碑や慰霊碑は、多くの神社に立てられています。ここ目内沢の地でも、兵隊にとられていく大事な家族の安全を願う切実な思いがあったのでしょう。「君死にたまふことなかれ」 - そんな思いでお地蔵様を拝んでいたのだと思います。
「お上から縄を掛けられた」ということから、この地蔵尊は「縄掛け地蔵尊」とも呼ばれているとのことです。
いわゆる「縛地蔵(しばりじぞう)は、【強請呪術(じゅじゅつ)による祈願法の一つ。地蔵などを縄で縛り上げ、願い事をかなえてくだされば、縄をほどいてあげますというもの。※kotobank】で、祈願者が厄除け、家内安全、病気平癒などを願った風習ですが、あるいは、ここ目内沢の村人も、お地蔵様に縄をかけて徴兵されていく身内の無事を祈ったのかも知れません。声高に「反戦」を叫ぶことのできない村人の心情が反映されたお地蔵様といえるでしょうか。
この延命地蔵尊もまた、
【平成3年9月28日(1991年)の台風19号がこの地方を痛撃し、最大風速62メートルを記録したほどの烈風に遭い、高台にある地蔵尊建物は崩壊し、地蔵尊はなぎ倒され、甚大な被害を被った】とのことですが、現在は、地元の人々の手により再建され、【孫の進学のための学業成就、家内安全、無病息災、五穀豊穣などのため、お参りする人々が絶えない】とのことです。
◇延命地蔵尊





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私の住んでいる黒石市に境松という町会があります。
田舎館村との境目にあたるこの地区は、鎌倉時代末期に南朝方の武将であった工藤氏が築いたとされる黒石城(旧黒石城)があった所です。
後に津軽氏の時代になると黒石藩の本城は、黒石陣屋に移りますが、津軽為信は、この旧黒石城を隠居所としていたともいわれています。
そんな境松に(住所は違いますが)鎮座しているのが保食神社です。

この神社については、
【御祭神:保食神 寛永十八年 (一六四一) 五月、 元町中にて社殿の建立願いを出し、 早速許可を得て、 三尺四面の堂宇を造営す。 元禄十一年 (一六九八) 五月以降は黒石領主の祈願所となる。 明治四年四月神社改正に付き、 同六年四月十七日、 甲大工町の郷社稲荷神社へ合祭、 同七年四月復社し村社に列せられる。※青森県神社庁HP】とあるように、歴代の黒石藩主の崇敬を集めてきた社のようです。
市内の中心から田舎館方面へと進んで行くと、小学校の入口付近に赤い鳥居が立っているのが見えてきます。社号標は雪の中に半分埋まっていました。
食物の神である保食神(うけもちのかみ)を祭る神社にふさわしく、一の鳥居には米俵を思わせる大きな注連縄が張られています。夏場とは違い、今の時期は参道や境内全体が雪に覆われているため、どことなく殺風景な印象を受けます。本殿も雪の間から、ちょこっと顔を出していました。
拝殿の前に立って正面を見ると、向拝の下に一体の木彫りの像が掲げられているのが見えます。よく見てみると、それは力士のような像。「力士形鬼」とでもいうべきでしょうか。足を踏ん張り、右手と両肩で、しっかりと梁を支えていました。
◇保食神社






保食神社のすぐ近くには熊野宮が鎮座しています。
住宅の中に参道が続いていて、歩いてほんの1,2分で境内へと出ます。
この神社の後ろ側は崖になっていて浅瀬石川が流れています。現在は、城跡らしきものはありませんが、かつては、辺り一帯が旧黒石城の敷地だったとされています。天然の堀・浅瀬石川が防御の役目を果たしていたのでしょう。
熊野宮については、
【御祭神:伊弉諾尊 伊弉冉尊 寛文三年 (一六六三) 四月、 村中にて千手観音を祀り飛龍宮を建立。 元禄二年 (一六八九) 六月、 熊野宮を同社へ勧請、 以来産土神として村中の崇敬を受け今日に至る。 明治六年六月、 社格村社に列せられる。※青森県神社庁HP 】と紹介されているように、藩政時代から地域の産土社として崇敬を集めてきた社のようです。
この熊野宮の拝殿の向拝の右下にも一体の像がありました。よく見るとそれは「熊」。熊野宮の熊にあやかったものなのでしょうか。小さな熊の像ですが、こちらも肩で梁をしっかり支えていました。
◇熊野宮





津軽の神社の名物といえば「鳥居の鬼っコ」ですが、鬼っコを鳥居だけでなく、拝殿に掲げている神社も少なくありません。
その多くは、地域の繁栄と五穀豊穣を願って祀っているわけですが、多くの鬼っコや、ここ境松の2つの神社の力士や熊などを見ると、一種のユーモアを感じます。よい意味での「遊び心」といえばいいでしょうか。それだけ、地域の社に対する愛着が深いのだと思います。
◇拝殿の鬼たち





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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市
境内でひと休み「大沢八幡宮」-つがるみち237

弘前市大沢地区は、名水・桂清水のある堂ヶ平への入口にあたる集落ですが、地域の農家の方のHPには、「弘前市南の端に程近い集落です。周りは、山や畑、田んぼにかこまれ弘前の中でもとても自然が多い所です。都会と違い、ほとんどがおじいちゃん、おばあちゃん、長男夫婦、子供たちといった感じで、いわゆる昔ながらの家族がとても多い地区です。農業を営む人も多く、リンゴをはじめ、コメ、野菜などの栽培もとても盛んで、専業、兼業を問わず、どの家庭でも色々な作物を作っています。」と紹介されていました。
また、ここは江戸時代の羽州街道 に隣接するしている地域でもあります。
【羽州街道とは江戸時代の街道で、奥州街道と並ぶ東北の二大街道のひとつでした。羽州街道の長さは約497km、奥州街道は全行程が約827kmありましたが、それに次ぐ長さを持つ街道でした。現在の国道113号、13号、7号にほぼ重なるコースで、福島の桑折町で奥州街道から分かれ、宮城の七ヶ宿、山形、秋田と進み、青森の油川でまた奥州街道に合流。途中では上山や山形、天童、新庄、久保田、弘前の城下町を通っていました。※羽州街道交流会HPより】
あの松尾芭蕉や菅江真澄、伊能忠敬、吉田松陰など多くの文人や偉人たちが通り、貴重な記録を残した街道だったようです。

そんな大沢地区の集落に鎮座しているのが八幡宮です。八幡様ということで御祭神は誉田別尊ですが、その由緒等については不明です。
神社は、国道7号線(旧羽州街道)から少し奥に入ったところにありますが、ちょうど辺りのりんご畑がとぎれ、集落への入口といった感じです。そこだけがこんもりした森になっていました。
石造りの一の鳥居に架けられているのは金属製の注連縄。神社を訪ねて、初めて金物の注連縄を見た時はびっくりしたものですが、思いのほか数多くあり、最近では慣れてしまいました。
二の鳥居からは、正面に参道の石段が延びていて、小高い丘の上の境内へと続いています。両脇に大きな石灯籠が立っていますが、何となく童話に出てくる「キノコ」のような形をしていて、とても趣があります。
参道の周りには、いくつかの末社が立っていましたが、特に大きなお堂は熊野宮。中を覗いて見ると小さな祠が3つほどありました。森の中で、朽ちかけた祠を見つけましたが、その中には大きなキツネ像と小さなキツネ達。稲荷社でした。この神社は、八幡信仰、熊野信仰、稲荷信仰など様々な信仰を集める社だったようです。
◇大沢八幡宮①






二の鳥居からは、左側にも道が延びており、ちょうど丘を回りこむようにして境内へと進むことができます。歩いて行くと正面に赤い鳥居が立っており、その奥に社殿が見えました。
鳥居のそばには、大きな手水石が置いてありますが、その隣に榊の木 があります。地域の方々によって植えられ、大切に育てられているようです。
境内には大きめの神馬や狛犬のほか、八幡様のお使いである「鳩の像」も奉納されています。この二体の狛鳩は、何となくお互いに語り合っているような、ほのぼのとした姿形をしています。
私が訪ねたのは昨年の9月の末でしたが、境内は紅葉前の緑に包まれて、静かな落ち着いた雰囲気でした。
◇大沢八幡宮②





この大沢地区に伝わる伝統芸能・獅子踊は、大沢獅子踊 と呼ばれ、県無形民俗文化財に指定されています。その概要は、
【熊獅子の系統に属し、一人立三人舞である。舞は兄獅子、弟獅子、女獅子とオカシコで構成され、囃子は手平鉦、笛、太鼓で構成される。また歌ぐらも加わる。曲目には「前踊り」「祭神」「橋渡り」「山の踊り」「花おがみ」「女獅子争い」「きりぎりすの踊り」「ツマグラガエシの踊り」「門ほめ」がある。。※弘前市HPより】というものです。
津軽は獅子踊(獅子舞)が盛んで、各町村に保存会があり、その伝統を伝えていますが、獅子踊りは「鹿獅子」と「熊獅子」の2系統があるとされ、その踊りの所作の違いから、鹿獅子踊りは豊作に対する「感謝の舞」、熊獅子踊りは「豊穣祈願の舞」ともいわれるようです。 ⇒以前の獅子踊りの記事へ
大沢地区の獅子踊は熊獅子で、3月に「獅子おこし」を行い、7月には、この八幡宮に獅子踊が奉納されるとのことです。
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鶴田町のHPでは町内の主な神社仏閣について紹介していますが、それによると「闇(くら)おかみ」と名のつく神社は、町内に3つほどあります。
⇒鶴田町の闇おかみ神社
ひとつは沖地区に鎮座している闇おかみ神社ですが、ここは鳥居に「鬼っコ」を掲げている神社で、一度訪ねました。
残りの2つは、いずれも158号線に沿って鎮座しています。私が訪ねたのは昨年の11月初旬のことでした。

胡桃舘(くるみだて)字北田の闇おかみ神社は、小学校のすぐ近くに鎮座しています。
神社の社頭には、百万遍や庚申、二十三夜などの塚や塔が立っているのをよく見かけますが、地蔵堂もそのひとつで、ここにも田んぼを背にして三体のお地蔵様を祀っているお堂がありました。
また、一の鳥居の近くに別の赤い鳥居が立ち、その奥に小さな祠や塔が立っている神社もよくありますが、たいていは馬頭観音を祀っているようです。馬を「神様」と崇める農村地帯の特徴でしょうか。この神社にも馬頭観音が祀られていました。
金属製の注連縄が張られた一の鳥居をくぐると、境内にはベンチなども置かれており、ちょっとした小公園という感じです。拝殿にも大きく太い金属の注連縄が張られていました。
境内には、灯篭や狛犬と並んで神馬像がありますが、この神馬、 屋根つきのお堂の中に大切に祀られていました。
◇闇おかみ神社(北田)






北田の闇おかみ神社から鶴田の町へと進んで行くと山道という集落がありますが、ここにも闇おかみ神社があります。
入口に由緒書きが立っていますが、それには、
【御祭神:闇於加美神(くらおかみのかみ) 日本最古の文献古事記によると闇於加美神は神代の時代イザナミノミコトとイザナギノミコトの子として生まれ降雨止雨をつかさどる水の神と記されている。昔は飛龍権現と称され、一時惣染堂(馬頭観音)に移管されたとも伝えられるが、明治六年四月闇?神社と改め、亀田村稲荷神社へ合祭された。明治八年二月復社、同九年十二月に村社に列せられ、同四十年四月十九日神饌幣帛料供進指定神社に列格され現在にいたる。】と記されています。
この神社は交差点の近くにあるため、入口の鳥居が二つありますが、由緒書きがある方の鳥居をくぐると、庚申塔や二十三夜塔の隣に小さな祠があります。その中には男女二体の神様 が祀られていました。姿からして山ノ神なのでしょうか?
闇おかみ神、高おかみ神 - いわゆる「おかみ神」は日本の水神で、
【農耕民族にとって水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においては水神は田の神と結びついた。田の神と結びついた水神は、田のそばや用水路沿いに祀られていることが多い。また、水源地に祀られる水神・水分神(みくまりのかみ)は山の神とも結びついている。※wikipediaより】とされているわけですが、「おかみ神」は特に農村において、祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されてきたといわれています。
神社の後ろには刈り取りを終えた田んぼが広がっていましたが、社殿の隣に祠が2つ立っていました。その中のひとつを覗いて見ると、それは津軽の代表的な水神・水虎様。姉妹でしょうか、二体並んで祀られていました。
◇闇おかみ神社(山道)





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貴船神社の二の鳥居の後隣には、神社の御事歴と由緒書きが立てられていますが、それぞれ、【文治五年源義經卿衣川戰後北海渡航の途次當村に淹留し崇敬特に深く其舊跡鷲尾川を始め歴々境内付近に存す(御事歴)】【文治五年、平泉衣川の戦いに敗れた源義経が蝦夷地へ落のびる時に、この地で海上安全を祈願したという。一説には義経がこの際勧請したと伝えられるなど、数々の義経伝説がのこっている。(由緒書き)】と、義経の北行伝説について記しています。
同じく二の鳥居のそばに「貴船神社」と刻まれた台座の上に、一体の石の神が祀られています。この石神様 の姿形は、まさしく天狗。天狗はしばしば猿田彦大神と同一視されることもあるので、この天狗像は猿田彦だともいわれていますが、全国の貴船神社の総本宮は、京都市左京区鞍馬の貴船神社。そして「鞍馬」といえば鞍馬寺。義経が天狗から武術を習ったという伝説が残る地です。そんな義経の伝承にあやかったものなのでしょうか。なお、この天狗像は、雨が降る前になると自然に濡れてくるのだとか。。いかにも、水の神・祈雨の神「高おかみ神」を祀る貴船神社らしい言い伝えです。
二の鳥居からは、大きな一対の狛犬に挟まれて参道の石段が上に延びています。登りきったところが境内で、そこには稲荷神社、拝殿、本殿が建っていました。
◇貴船神社の参道と境内










社殿が建っているところは、ちょうど鷲尾山の中腹にあたり、そこからさらに頂上へと登山道が続いています。その途中からは貴船川という小川が野内の海へと流れているのを見ることができます。この川は別名「鷲尾川」とも呼ばれているとのことです。
頂上は少し平らになっていて、様々な植物が生い茂る小公園だったようですが、現在は「鷲尾園」と刻まれた石碑が立っているだけでした。
しかしながら、辺りをよく見ると、そこには半分土の中に埋まった割れた石碑がころがっていました。これもまた、この神社の由緒を記した石碑らしいのですが、文字は読み取れませんでした。後で調べてみると、この石碑には、
【この地は源義経の蝦夷に渡らんとてここに来たり、貴船神社に海上安全を祈願せんとて逗留の折り、その妻浄瑠璃姫が羅病せしかば、その臣鷲尾三郎経春をして看病せしめ、更に他方に向かえり。経春その命を守り、忠実に看病せし甲斐もなく姫は死す。身も又病を以て死せりと伝うる所なれば、ここを開拓して名を鷲尾園と称し、永く記念のしるしとなさんとす。】と彫られているとのことです。
- 即ち、義経に付き従ってきた愛妾の「浄瑠璃姫」が病におかされたため、郎党の一人である「鷲尾三郎経春」が、ここに残り看病したが、姫は亡くなり、三郎もまたこの地で果てた。鷲尾山、鷲尾村、鷲尾園、鷲尾川などの名前は、鷲尾三郎に因んでつけられたものである - というわけです。
鷲尾義久(通称は三郎、諱は経春)は、
【『平家物語』の「老馬」の段に登場する(覚一本)。元は播磨山中にて猟師をしていたという。寿永3年(1184年)、三草山の戦いで平資盛軍を破った義経軍は、山中を更に進軍していくにあたって、土地勘のある者としてこの義久を召し出し、道案内役として使ったという。義経一行が鵯越にたどりつき、一ノ谷の戦いにおいて大勝を収めることができたのは、彼のこの働きによるところが大きく、「義久」という名はその褒賞として義経が自らの一字を与えてつけたものだと言われている。以降、忠実な義経の郎党として付き従い、最後は衣川館にて主君と命運をともにした。※wikipediaより】とされています。
また、浄瑠璃姫については、「義経は金売り吉次の手引きで平泉へ向かう途中、三河の矢作に居を構える兼高長者の館に立ち寄った。義経は、長者の館で一夜を過こし、浄瑠璃姫と恋を語り合うが、源氏再興の大願を果たすために先を急ぐ旅の身であるために、薄墨の笛を我が身の代わりにと浄瑠璃姫に渡し、東へと旅だって行った。しかし浄瑠璃姫の思いは断ちがたく、ついには義経の後を追って家を飛び出し、みちのくへ向かった。」と、『浄瑠璃物語』などで語られていますが、義経北行伝説では、「ようやくここ(野内)でめぐり合えたのもつかの間、長旅の疲れからか病におかされ亡くなった。」とされているわけです。
この浄瑠璃姫の伝説については、天明8年(1788)に、ここを訪ねた菅江真澄も貴船神社の宮司から聞いた話として、「弁財天と祝ひ祀る末社あり、これなん鬼が女十郎姫の御霊なりとも、又義経のをんなめにてやあらん旭の前と言へるが、此君をしたふの心せちに、寄りたる船の中に重き病をして身まかり給ひしを、ここに煙となし、しらほねは山奥の玉清水といふ村に埋み、塚してしるしをたて・・・」と、『外が浜つたい』の中で述べています。もっとも、浄瑠璃姫が、「鬼が女十郎姫」「旭の前」などと他の伝説の話と重なっているようですが。
菅江真澄が記している「弁財天宮」は、貴船川(鷲尾川)にそって建てられており、浄瑠璃姫の霊を祀っているとも伝えられています。
◇鷲尾園と弁才天宮





浄瑠璃姫と義経の物語は、室町時代頃から琵琶法師の語りものとして広まり、やがて、節をつけて語る芸能「浄瑠璃」となっていくわけですが、江戸時代に、奥羽地方に伝承されていた浄瑠璃は、「奥浄瑠璃(仙台浄瑠璃)」と呼ばれました。三味線の伴奏にのって法師たちが語るこの古浄瑠璃については、松尾芭蕉も『おくのほそ道』の中で、「法師の琵琶(びわ)をならして奥上るりと云(いう)ものをかたる。平家にもあらず舞にもあらず、ひなびたる調子」と書いています。
特に『牛若東下り』と呼ばれる演目は人気を博したようですが、岩手から青森にかけて広がる義経北行伝説の流布は、この奥浄瑠璃がもたらしたものともいわれているようです。
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「文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉方の圧迫に屈した藤原泰衡は、平泉衣川館の義経を襲撃して自害に追い込んだ。」とされる「衣川の戦い」は、鎌倉方の目を欺くために奥州藤原氏が仕組んだ「偽戦」であり、源義経は戦いの1年前には平泉を脱出し、北へ向かって逃げのびた。 - いわゆる「義経北行伝説」。ミステリアスでロマンあふれるこの伝説は、軍記物や推理小説、伝奇小説などに数多く取り上げられてきました。
なかには、義経一行の北行の「足跡」を丹念に追い、取材した研究書も書かれているわけですが、岩手県や青森県に残る義経一行に関する伝承や義経にかかわる地名や寺社の由来などをみると、「史実としては立証できないが、かといって明確に否定もできない」といえそうです。

伝説によると義経一行は、平泉から岩手山中、そして三陸海岸へと逃避行を続け、やがて青森県へ。その後、十三湊に滞在し、津軽半島の竜飛岬から蝦夷地へ渡った(やがて、大陸へ渡り成吉思汗となったとも)とされているわけですが、青森県への上陸先は八戸の種差海岸であるとされています。
海岸から数百m離れたところに、熊野神社がありますが、ここは、義経が上陸後休憩したといわれている社です。

八戸市は、青森県における義経北行伝説の入口ともいえる街で、義経ゆかりの寺社も多く、その様子については市のHPでも紹介されています。
⇒八戸 源義経北行伝説
市内に長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)という神社がありますが、御祭神は素佐鳴尊と新羅三郎源義光命で、新羅(しんら)という名称は、南部藩主開祖の先祖とされる新羅三郎義光を祀るからだといわれています。この神社には、【義経の命を受けた家来の板橋長治がこの地に先行し、芝や樹木を植え、主従の隠れ家を準備して、居を構え、長治山と称された】という伝承があります。「長者山」は「長治山」が転化したのだとか。。
また、「高館山」というところは、義経が【高館山に居を移して以来、一体が「高館(たかだて)」と呼ばれるようになった。高館山の麓にある小田八幡宮 には、義経が写経したと言われている大般若経が保存されており、京都から持参していた毘沙門天を安置する毘沙門堂を立てたと言われている。義経が、この周辺に田んぼを段々に開いたことから、「小田(こだ)」と命名された。】といわれています。

こうして、しばらくの間八戸に滞在した義経一行は、やがて津軽半島を目指して北上するわけですが、そんな青森県における北行伝説の中間地点が青森市の野内で、ここに貴船神社が鎮座しています。
この神社の境内は「鷲尾山」と呼ばれる山の中腹にありますが、かつて鷲尾山の裏手には、龍の口(たつのくち)という奇岩があり、まるで、八頭の龍が口を開けてにらんでいるような姿のため、「八ツ頭」ともいわれていたとされ、菅江真澄の『外が浜つたい』にも、「こなたへとて径にさしいざなへるに、あやしうさし出たる岩どもあり、名を竜の口といふ。とは、あら垣を波の中までもうちめぐらせてまもりたり。」と記されているとのことです。名所のひとつだったようですが、地震のために倒壊し、現在は崖崩れに備えて補強されていました。 ⇒龍の口跡?
さて、貴船神社については、
【御祭神:高おかみ命 当社は、 野内鷲尾山腹に鎮座する。 草創は大同二年 (八〇七) 坂上田村麿の勧請による。 文治五年 (一一八九) 源義経衣川の戦いの後、 北海道に渡る途中此地に滞留、 海上の安全を祈願したという。
降って元禄九年、 領内四社の一と称せられ、 津軽藩主信政公堂塔を野内龍の口に建立、 深く信仰して年に一度づつ藩主公の代拝あり、 風雨不順の季節には四社へ風雨順調を祈願することを例とした。 その折は神徳著しく天候回復せるという。 往時は境内樹木うっそうとしてヒバ、 イチョウの老木あり、 山麓に奇巌散在し景観にとみ、 八ツ頭の名勝は名高い。 ※青森県神社庁HP 】と紹介されています。
青森市浪岡五本松の加茂神社などとともに、津軽藩領内の五穀豊穣を祈願する四社のひとつであり、古い歴史と格式をもつ神社なのですが、何といっても、由緒の中に義経伝説が述べられているところにひきつけられます。
「鷲尾山」という名前。実はこの名前は義経の郎党の一人であった「鷲尾 義久(わしお よしひさ):通称は三郎)に因んで名づけられたといわれており、この神社に伝わる伝説を興味深いものにしているのです。
ー 次回へ続きます。
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岩木山の東麓、弘前市三和地区にある砂沢溜池は、天保年間(1830-44)に造られた水田灌漑用の溜池です。もちろん、現在でも「現役」で、地域の水田耕作を支えているわけですが、ここは明治時代の頃から、たくさんの土器や石器が出土する場所として知られていました。
1950年代には明治大学、東北大学によって最初の発掘調査が行われていますが、その結果、縄文晩期終末の貴重な遺跡だということがわかり、出土した土器は「砂沢式土器」と名づけられました。
その後、1984年(昭和59年)から4年がかりの発掘調査の結果、この砂沢遺跡からは、縄文時代後期の住居跡、石鏃、多頭石斧、土偶、管玉などとともに、水田跡や土坑、炭化米などが発見されたわけです。発見当時は、大きな話題となり、新聞紙上でも大きく取り上げられました。 ⇒新聞記事より
遺跡そのものは湖(池)の下に眠っているため、直接見ることは叶いませんが、遺跡の全貌や発掘調査の様子、出土品の一部等は藤田記念庭園考古館で見ることができます。この考古館は、弘前市立博物館が収蔵、展示活用していた先土器時代~縄文時代~弥生時代~近世まで及ぶ遺物を、平成3年藤田記念庭園と考古館の開園に合わせて移動し、展示した施設です。砂沢遺跡からの出土品のほか、大森勝山遺跡や十腰内遺跡の出土品なども展示されています。
◇砂沢遺跡と藤田記念庭園考古館








館内には、遺跡の全体が分かる写真、発掘の様子、土器、土偶、籾殻跡などの出土状況の写真の他、数多くの土器や土偶が展示されているほか、縄文から弥生へと続く古代人の暮らしの様子などがひと目で分かるパネルも掲げられており、子どもたちも楽しめる内容になっています。
水田跡は6枚発見されていますが、時期がはっきり特定でき、形もわかるのは2枚で、「1枚の面積が70~80㎡と大型のもので、本州の北端でも、西日本にさほど遅れることなく、コメ作りが行われていたことを実証している」とされています。弥生時代の水田としては、東日本では最も古く、世界史的に見ても最も北に位置する水田跡といわれているわけです。
◇砂沢遺跡と出土品について
【砂沢(すなざわ)遺跡は、弘前市北部の砂沢溜池南岸に位置する弥生時代前期を中心とする生産遺跡。昭和59年から63年の緊急発掘調査で水田跡6枚が発見され、弥生時代の水田跡としては日本最北、東日本最古のものとして著名である。また、出土土器は「砂沢式」と呼ばれ、縄文時代から弥生時代を繋ぐ標式土器として知られている。
出土品は弥生時代初頭の土器・土製品、石器・石製品、炭化米などで、縄文文化の土器の技法や器種、石器の形態を受け継ぎながら、弥生文化の特徴的な甕や壺、鑿のみ状の石器などが共伴し、最終末期の土偶や土版もみられる点で重要かつ、興味深い。今日の東日本初期弥生文化の生活の実態を知る上で、極めて貴重な学術資料である。※弘前市HPより】










多くの出土遺物が、国の重要文化財に指定されている砂沢遺跡ですが、素朴な土偶や装飾品 、九州の遠賀川(おんががわ)式土器(弥生時代前期)と同年代とされる土器などを見ると、この遺跡が縄文と弥生とを繋ぐ貴重な遺跡であることが実感できます。
「最北の弥生田」が発見された遺跡としては、田舎館村の垂柳遺跡が有名ですが、この砂沢遺跡の水田は、その垂柳遺跡よりも、さらに古い弥生時代前期(およそ今から2,300年前)のものとされています。
大森勝山遺跡から十腰内遺跡、そしてこの砂沢遺跡、さらには石神遺跡などが点在する岩木山東麓一帯は、縄文から弥生へと続く文化が花開いた地域だったようです。
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☆つがるみち☆





「大山祇命(オオヤマツミ)」は、『古事記』では伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた神とされていますが、『日本書紀』では、イザナギが軻遇突智(カグツチ)を斬った際に生まれたとなっています。
【神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となる。別名の和多志大神の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。※wikipediaより】とありますが、多くは「山ノ神」として、全国の大山祇神社や山神社、山神神社において、主祭神として祀られています。五所川原市の大山祇神社もそのひとつです。
この神社は、津軽の霊山のひとつである梵珠山の麓ともいうべきなだらかな丘陵地帯に鎮座していますが、五所川原市方面へと続く道路際にこんもりとした森が見えます。
神社の回りはりんご畑になっていて、森の入口には社号標と大きな一の鳥居が立っています。社号標の奥には、赤い鳥居と末社が3つほどありますが、小さな池をともなっているところをみると龍神様なのでしょうか。
鳥居をくぐった境内の中は「静寂の世界」といった感じで、二の鳥居からは丘の頂上へと参道の石段が延びていました。石段を登りきり、左へと折れたところに拝殿と本殿があります。辺りは木々で覆われ、まさしく「山の神が住む社」という感じでした。
この大山祇神社については、
【御祭神:大山祇命 勧請年月不詳。明治6年4月新山権現堂を大山祇神社と改め村社に列せられる。明治6年6月福岡八幡宮、水野尾稲荷神社、富枡稲荷神社を合祭せるも同8年2月右三社分離復社となる。大正10年1月4日神饌幣帛料供進指定神社に列格せられる。本殿、拝殿明治元年及大正6年12月改築。昭和26年3月31日国有境内地無償譲与許可。昭和63年7月幣殿、拝殿改築。※青森県神社庁舎HP】と紹介されています。
◇大山祇神社






大山祇神社から少し離れたところに松野木という集落がありますが、ここに八幡宮が鎮座しています。
その由緒については、
【御祭神:誉田別尊 承応2年 (1653) に勧請されました。明治6年4月松野木大山祇神社へ合祭されましたが、明治8年2月復社しています。明治9年12月村社に列せられ、大正10年1月4日神饌幣帛料供進指定神社に列格されました。本殿は明治13年12月に改築、大正6年7月28日に営繕され、拝殿は明治13年12月に改築、昭和26年7月に営繕されています。昭和25年11月18日国有境内地無償譲与許可があり、昭和52年幣殿、拝殿が改築されました。※青森県神社庁HP】とあるように、古い歴史をもつ社のようです。
道路を挟んだ向かい側には、赤い鳥居が立っており、奥に百万遍の塔や庚申塔が並んでいます。古くからの祈りの場であったのでしょう。
大きな松の隣に社号標。一の鳥居からは二、三、四と鳥居が続いており、くぐり抜けると境内に至ります。社殿の前には、紫色の胴衣をまとった神馬や狛犬、そして八幡様のお使いの狛鳩などが並んで立っていました。なかなかに広く、趣のある境内です。
◇松野木八幡宮





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☆つがるみち☆
ご挨拶がおくれましたが、あけましておめでとうございます。今年も皆様方にとって、幸多き年であることを願っています。
なにぶん雪国のため、寺社めぐりも滞りがちで、記事の更新もスローペースとなりますが、よろしくお願いします。

