
岩木山の東麓、弘前市三和地区にある砂沢溜池は、天保年間(1830-44)に造られた水田灌漑用の溜池です。もちろん、現在でも「現役」で、地域の水田耕作を支えているわけですが、ここは明治時代の頃から、たくさんの土器や石器が出土する場所として知られていました。
1950年代には明治大学、東北大学によって最初の発掘調査が行われていますが、その結果、縄文晩期終末の貴重な遺跡だということがわかり、出土した土器は「砂沢式土器」と名づけられました。
その後、1984年(昭和59年)から4年がかりの発掘調査の結果、この砂沢遺跡からは、縄文時代後期の住居跡、石鏃、多頭石斧、土偶、管玉などとともに、水田跡や土坑、炭化米などが発見されたわけです。発見当時は、大きな話題となり、新聞紙上でも大きく取り上げられました。 ⇒新聞記事より
遺跡そのものは湖(池)の下に眠っているため、直接見ることは叶いませんが、遺跡の全貌や発掘調査の様子、出土品の一部等は藤田記念庭園考古館で見ることができます。この考古館は、弘前市立博物館が収蔵、展示活用していた先土器時代~縄文時代~弥生時代~近世まで及ぶ遺物を、平成3年藤田記念庭園と考古館の開園に合わせて移動し、展示した施設です。砂沢遺跡からの出土品のほか、大森勝山遺跡や十腰内遺跡の出土品なども展示されています。
◇砂沢遺跡と藤田記念庭園考古館








館内には、遺跡の全体が分かる写真、発掘の様子、土器、土偶、籾殻跡などの出土状況の写真の他、数多くの土器や土偶が展示されているほか、縄文から弥生へと続く古代人の暮らしの様子などがひと目で分かるパネルも掲げられており、子どもたちも楽しめる内容になっています。
水田跡は6枚発見されていますが、時期がはっきり特定でき、形もわかるのは2枚で、「1枚の面積が70~80㎡と大型のもので、本州の北端でも、西日本にさほど遅れることなく、コメ作りが行われていたことを実証している」とされています。弥生時代の水田としては、東日本では最も古く、世界史的に見ても最も北に位置する水田跡といわれているわけです。
◇砂沢遺跡と出土品について
【砂沢(すなざわ)遺跡は、弘前市北部の砂沢溜池南岸に位置する弥生時代前期を中心とする生産遺跡。昭和59年から63年の緊急発掘調査で水田跡6枚が発見され、弥生時代の水田跡としては日本最北、東日本最古のものとして著名である。また、出土土器は「砂沢式」と呼ばれ、縄文時代から弥生時代を繋ぐ標式土器として知られている。
出土品は弥生時代初頭の土器・土製品、石器・石製品、炭化米などで、縄文文化の土器の技法や器種、石器の形態を受け継ぎながら、弥生文化の特徴的な甕や壺、鑿のみ状の石器などが共伴し、最終末期の土偶や土版もみられる点で重要かつ、興味深い。今日の東日本初期弥生文化の生活の実態を知る上で、極めて貴重な学術資料である。※弘前市HPより】










多くの出土遺物が、国の重要文化財に指定されている砂沢遺跡ですが、素朴な土偶や装飾品 、九州の遠賀川(おんががわ)式土器(弥生時代前期)と同年代とされる土器などを見ると、この遺跡が縄文と弥生とを繋ぐ貴重な遺跡であることが実感できます。
「最北の弥生田」が発見された遺跡としては、田舎館村の垂柳遺跡が有名ですが、この砂沢遺跡の水田は、その垂柳遺跡よりも、さらに古い弥生時代前期(およそ今から2,300年前)のものとされています。
大森勝山遺跡から十腰内遺跡、そしてこの砂沢遺跡、さらには石神遺跡などが点在する岩木山東麓一帯は、縄文から弥生へと続く文化が花開いた地域だったようです。
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☆つがるみち☆

