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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 青森市   Tags: つがるみち  

五百羅漢の里「見道寺」ーつがるみち248


五百羅漢の里


 青森市の新城地区は、室町時代から戦国末期にかけて「新城城」という城郭があった所ですが、津軽統一の過程で、このお城は、慶長年中(1596年~1611年)に落城したといわれています。
 ⇒以前の記事(金峰神社)へ
 昭和後期から開発が進み、現在は、高台に多くの住宅や団地が建ち並んでいるわけですが、その一角に見道寺という寺院があります。


見道寺


 私がこのお寺を訪ねたのは、金峰神社からの帰り道。
「帰り道」と書くと、いかにも気軽に立ち寄ったかのようですが、実は、新城地区は土地の起伏が激しく、「坂のある町 新城」と呼ばれています。 
 ー そういうわけで、金峰神社から坂道を登っていくのはけっこう大変でした。モダンな造りの山門をくぐり抜け、道を上り詰めたところに本堂が建っていました。

 見道寺は曹洞宗のお寺ですが、「北国八十八ヶ所霊場」の63番札所になっています。
 「北国八十八ヶ所霊場」は、昭和60年代に創設された比較的新しい霊場で、宮城県から時計回りに福島県、山形県、秋田県、青森県、岩手県と巡拝していくわけですが、いわゆる弘法大師関係の「八十八霊場」とは、色合いが異なり、その宗派もまたいろいろのようです。青森県にも北国八十八ヶ所霊場の寺院がいくつかありますが、私が訪ねたところでは、五所川原市の長円寺や深浦町の円覚寺などがそうでした。

 見道寺の敷地は大変広大で、境内の中には墓園をはじめ、淡島神社や白衣観音堂、薬師堂などの堂宇が立ち並んでいます。 
 山号は「観音山」ですが、その名の通り、三十三観音をはじめ、境内のあちこちに観音像が立てられています。中には、頭でっかちスタイルの珍しい観音様もいらっしゃいます。

 そんな中でも、ひときわ大きな観音様が「白衣観音」。白衣観音(びゃくえかんのん)は、文字通り、「白い衣を着て、ベールのような白い布で頭を覆っている」観音様で、「阿弥陀如来の妻であり、観音菩薩の母でもある」とされています。観音堂の中には、立ち姿の大きな観音像が祀られていました。ここは、参拝者が絶えないようです。
 白衣観音の隣には、幼子を抱えた慈母観音。その後ろから、もう一段高い場所へと石段が続いています。

◇白衣観音ほか

 
三十三観音
観音像
白衣観音堂
白衣観音
慈母観音



薬師堂


 境内の一番高い場所に薬師堂があります。中を覗いてみると、左手に薬壺(やっこ)を持った薬師如来が、脇侍(十二神将?)を従えて安置されていました。
 この薬師堂に向かう道の両側に、動物と戯れている姿のお地蔵様が置かれています。それぞれに「午歳地蔵」とか「卯歳地蔵」「寅歳地蔵」などと名づけられていますが、「十二支地蔵」とでも呼ぶべきでしょうか。
 そして、薬師堂の隣に所狭しと並んでいるのが、「五百羅漢像」です。

 私は「羅漢」については、よく知りませんでした。
【阿羅漢 (あらかん)は、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことで、略称して羅漢ともいう。・・・中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢、第1回の仏典編集(結集:けちじゅう)に集まった500人の弟子を五百羅漢と称して図像化することも盛んであった。ことに禅宗では阿羅漢である摩訶迦葉に釈迦の正法が直伝されたことを重視して、 釈迦の弟子たちの修行の姿が理想化され、五百羅漢図や羅漢像が作られ、正法護持の祈願の対象となった。※wikipediaより
 津軽では、寛永5年(1628年)、2代藩主・津軽信枚が百沢寺(現岩木山神社)に建立した楼門に、五百羅漢像が安置されていましたが、現在は、そのうち100体が弘前・長勝寺の蒼龍窟
蒼龍窟
に安置されています。

 五百羅漢といえば、笑い、怒り、悲しみ、喜びなど、いわゆる様々な「喜怒哀楽」の表情をした姿が思い浮かびますが、ここの羅漢像もまた、一体一体が異なった表情をしていました。
 この見道寺の薬師堂及び五百羅漢は、平成16年に落慶式が行われたもので、ここは「五百羅漢の里」と呼ばれています。

◇薬師堂と五百羅漢

 
薬師様
十二支地蔵①
十二支地蔵②
五百羅漢①
五百羅漢②


 
五百羅漢③
五百羅漢④
五百羅漢⑤
五百羅漢⑥
五百羅漢⑦


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市   Tags: つがるみち  名水と霊泉  

白岩森林公園の十和田様ーつがるみち247


白岩森林公園


 深浦町のJR五能線十二湖駅の近くに日本キャニオン
日本キャニオン
と呼ばれる景勝地があります。
 その名の通り、グランドキャニオンを思わせる大断崖で、周囲の緑の中に崩壊浸食された白い凝灰岩の岩肌が露出している名所ですが、青池で有名な十二湖に近いということもあり、多くの観光客が訪れる所です。
 この日本キャニオンと規模は違いますが、平川市にも、同じように白い岩肌がむき出しになっている景勝地・白岩森林公園があります。


 白岩森林公園は、以前に訪れた尾崎八幡宮のある尾崎(おさき)集落から、山の方へと進んだ所にありますが、道中は、両側にりんご畑が広がるのどかな景色が続いています。私が訪ねたときは昨年の夏でしたので、辺りの緑がとても鮮やかでした。

 途中の山裾に小さな祠を見つけました。車で走っていると、時々、このような忘れ去られたような祠がポツンと立っているのを見かけます。長く伸びた草をかき分けながら近寄って見ると、「保食宮」とありました。
 中には、馬の像が何体か奉納されていました。「保食神」は五穀豊穣の神(食物神)ですが、神話には、その「頭から馬が生まれた」とあることから、馬頭観音と同一神とされることも多いようです。

 だんだん道幅が狭くなり、樹木が目立つようになりますが、ここが公園の入口です。大きな岩の下に、ひとつの石碑
中島熊吉顕彰碑
が立っていました。
【故中島熊吉翁ハ 温厚篤実 信仰心ニ富ミ 明治七年ヨリ 丗有年間無報酬ニテ山守長トシテ誠意奉仕シ 今日ノ山間安楽郷ヲ築キタリ・・・】 ー どうやら中島熊吉という人物の顕彰碑のようです。
 この碑にも書かれているように、中島熊吉は、明治7年(1874)より30有余年、この山の山守長を務め、美しい景観を後世に残した「地域の偉人」として尊敬されてきた人物だったようです。この顕彰碑の向かい側にも大きな岩があり、そこには中島熊吉と思われる人物の石像がありました。穏やかで、慈愛に満ちた眼差しの像です。

◇保食宮・中島熊吉顕彰碑

 
 
保食宮①
保食宮②
中島熊吉碑
中島熊吉像①
中島熊吉像②


白岩森林公園案内板


 入口から少し進んだ所に、ひとつの鳥居が立っています。扁額には「山神様」とあり、そばには「大山祇神」と書かれていました。ここは山神神社のようです。祠は鳥居をくぐった少し高い所にありましたが、そばには「山神様」と刻まれた大きな石碑もありました。長い間にわたって、この山(公園)の守り神として崇敬されてきたのでしょう。

 白岩森林公園は、
【アカマツ・ブナ・カエデなど約131ヘクタールにも及ぶ広大な自然公園を有し、点在する凝灰岩の美しさで知られる白岩森林公園。その岩肌は雪と見まちがうほどの白さで、四季折々の木々や山々と織りなす色彩のコントラストは見事なものです。公園内には、キャンプ場、森の家(休憩場)、遊歩道、展望所等があります。また、毎年5月下旬には白岩まつりが開催され、多くの観光客で賑わいをみせています。※平川市HP他より】と紹介されているように、自然観察や森林浴が楽しめる行楽地となっています。
 むき出しの「白岩」を中心にして広いハイキングコースとなっていますが、私が訪れたときは、付近の崖崩れなどのために通行禁止になっている所もありました。
 圧巻は、何といっても屏風のように広がる白い断崖。スキーゲレンデのようです。

◇山神様と白岩

 
山神神社①
山神神社②
白岩①
白岩②
白岩③



薬師のシツコ

十和田神社

十和田のシツコ


 岩壁は凝灰岩でできているわけですが、凝灰岩層は、
【他の岩石の層に比べて軟弱で、また充分に固結していない凝灰岩層は地下水を含みやすく、地下水の通り道となって流動的になりやすい。・・・凝灰岩は河川などの侵食に弱いため、さまざまな形に侵食され風光明媚な地形を作る。※wikipediaより】といわれています。
「地下水を含みやすく、地下水の通り道となる」とあるように、この公園一帯には、清水が湧き出ている所が何カ所かあり、それらは総称して「白岩湧水群」と呼ばれています。
 湧水にはそれぞれ、「けやきのシッコ」「薬師のシッコ」「あじさいのシッコ」「たものシッコ」などと、親しみを込めた名前がつけられていますが、「シッコ(シツコ)」とは「清水」のことです。場所がわからず、全部は回ってみれませんでしたが、時期によっては、枯れている所もあるようです。
 それらの「シツコ」の中でも、「十和田のシッコ」は特別なようで、ここには鳥居が立っており、十和田神社の祠もあり、水量豊かな清水が湧き出ていました。
ー 北東北の水神「十和田様」は、この地でも崇敬を集めているようです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 大鰐町   Tags: つがるみち  

境内でひと休み「大鰐八幡宮」ーつがるみち246


大鰐八幡宮


 県道13号線(大鰐浪岡線)は、国道7号線から大鰐町鯖石(さばいし)で分岐し、東北自動車道とほぼ平行に走る道路ですが、大鰐町から平川市へと至る道は「乳井通り」とも呼ばれています。かつて「福王寺」という修験寺であった乳井神社をはじめ、多くの史跡がある所ですが、戦国時代には津軽統一をめぐって激しい戦いが繰り広げられた場所でした。

【天正6年(1578)、大浦(津軽)為信が浪岡城の北畠顕村を滅ぼすと、顕村の岳父であった安東愛季(ちかすえ)は津軽に攻め込み、乳井茶臼館に陣城を構え、為信軍を攻め立て、近隣の村々を襲った。それに対して、沖館村(平川市)の農民達は自らの村を守るため懸命に戦い、愛季軍の侵入を阻止した。一方、村を守るため、愛季軍に一味(いちみ:同盟する)し、為信軍と戦った村もあった。※青森県の歴史シリーズ『弘前・黒石・南津軽の歴史』より要約】というように、津軽氏と南部氏の抗争は南津軽の村々をも巻き込んで、熾烈さを極めたようです。
 そんな乳井通りの入り口が大鰐町八幡館(はちまんだて)で、ここに八幡宮が鎮座しています。

境内


 この八幡宮の創建年代やその由緒などについては不明なのですが、「村社」とあるところをみると、古くから集落の産土社であったようです。
 道路沿いに坂道が延びていて、上りきると、民家に挟まれたかたちで一の鳥居が立っていますが、鳥居をくぐって石段を進むと境内があります。

 小高い丘の上にある境内からは、乳井通りの村々や大鰐の町、阿闍羅山(あじゃらやま)、そして茶臼館などを望むことができます。
 拝殿の中には大きな奉納絵馬。玉垣に囲まれた本殿の中には、少し朽ちかけていますが、八幡様のお使いである鳩の石像も奉納されていました。

◇八幡宮

 
拝殿①
拝殿②
拝殿③
本殿
狛鳩


若木大神


 境内の端の方に、庚申塔や二十三夜塔など、いくつかの石碑が立っています。その中に「若木大神」という碑がありましたが、実は私は、これは「若」ではなくて「岩」で、「岩木大神」の碑だと思っていました。
 ー 津軽の信仰の中心は何といっても岩木山であり、岩木山神社に祀られている5柱(顕國魂神・多都比姫神・宇賀能賣神・大山祇神・坂上刈田麿命)は総称して「岩木山大神」呼ばれ、崇められていて、津軽一円の神社にはこの岩木山大神を勧請した末社や祠、石碑などが存在します。私が訪ねた神社の中では、弘前市の熊澤神社やつがる市の津軽赤倉山神社がそうでした。

 そんな多くの崇敬を集めている「岩木山大神」なので、もともと疫病退散の神様であった「若木大神」が誤読され(「若」が「岩」に)、「岩木大神」として伝えられた例もあったようです。

「若木(おさなぎ)大神(若木大明神・若木大権現)」は、山形県東根市神町にある若木山の麓の若木神社に祀られている疱瘡(天然痘)の神様です。種痘が行われる前は致死率の高い病気から逃れる為、人々は迷信にすがるしかなく、全国から多くの人々が若木神社に参拝したといわれています。東根市のHPには、
【昔、遣唐使の最澄が山近くに来たところ赤い雲が山にかかっているのを見つけ、山に登り赤く光る石を見つけました。この石を山に封じ、大日霊女尊(オオヒルメ)を祀ったと言います。この地一帯に、天然痘、疱瘡(ほうそう)の大流行があり、顔を隠してお参りした所、病気も治り顔もあとがなくなり全快したといいます。天然痘や疱瘡の皮膚病に霊験あらただった噂を聞きつけた、最上家親(義光の二男)はじめ諸国大名からも篤い信仰を集め大いに栄え、神社にあがるお賽銭はかます(米袋)に集めるほどだった、と言われています。若木神社には、現在も水疱瘡の時、症状が軽く済むように参拝する人が多いようです。】と紹介されていました。

 現在は撲滅されたといわれる天然痘は、江戸時代には死因の一、二位を常に占めていたとされる恐ろしい病気だったわけですが、津軽にも弘前市三世寺・神明宮の「疱瘡宮」のように、病魔退散を願って立てられた祠も多くあるようです。
 ここ八幡館の辺りでも、かつては疱瘡が猛威を振るっていたのでしょうか。
 
 ー それにしても、「若」と「岩」の違いには気づきませんでした。

◇岩木山大神、疱瘡宮ほか
 
 
庚申塔ほか
岩木大神(熊澤神社)
岩木大神(津軽赤倉神社)
疱瘡宮①(弘前三世寺神明宮)
疱瘡宮②(弘前三世寺神明宮)


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: つがるみち  

社号標が二つ「堂野前八幡宮」ーつがるみち245


堂野前八幡宮


 田舎館村に堂野前(どうのまえ)という集落がありますが、ここにこんな話が伝えられています。
【堂野前の墓地は、昔、グズ盛といわれた高さ三メートルほどの土盛りであった。ここを夜中に通ると、いつもグズグズものをいう声がする。そばへ行くとその声がやみ、立ち去るとまたグズグズいう。それでグズ盛とよんだ。明治になって新道開発のためここを発掘すると、朽ちた武具と、それを着ていたと思われる人骨が現れたという。※角川書店『青森の伝説』より
 何となく怪談じみた伝説ですが、その堂野前に八幡宮が鎮座しています。

一の鳥居


 堂野前は110号線沿いに開けた集落ですが、浅瀬石川の北岸にあたるこの地は、浅瀬石川の水運をいかした開発の拠点だったといわれています。
 八幡宮の境内は、道路に面した住宅地を少し入ったところにあり、その後ろ側には水田が広がっています。
「八幡宮」と書きましたが、実はこの神社は譽田別尊と保食神を合祀しており(八幡宮と保食神社)、地図によっては、「保食神社」と記載されていたりもします。そのためか、社頭には、「八幡宮」と「保食神社」という2つの社号標、そして「合祀記念碑」が立っていました。
 ⇒社号標と合祀記念碑
社号標と合祀記念碑


「八幡宮」という扁額が掲げられた鳥居には金属の注連縄が張られていて、そこから参道が延びています。境内にはいくつか石碑などもあると思うのですが、今は雪に埋もれていました。丸い石で造られた碑もありましたが、何を祀っているのやら。
 参道には神馬が2対(4体)、大事そうに祀られています。狛犬は3対(6体)。左右ともそれぞれ大・中・小の狛犬で、なかなか不敵な面構えです。小さいものは、雪に埋もれ、その顔だけが見えました。

◇八幡宮①

 
注連縄
神馬
石碑
狛犬①
狛犬②



 この八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  創立年月日は不詳なれど、 正保四年 (一六四七)、 堂野前村、 東光寺村、 前田屋敷村右三ケ村にて五穀成就、 村中繁栄の為、 願い主福士吉衛門、 神職市十郎が京都男山祇鳩峰岩清水八幡宮より勧請、 前田屋敷村の山谷四五衛門、 東光寺村孫右衛門、 堂野前村庄屋兵助等、 三ケ村を代表して産土神として再建、 破損等の節は右三ケ村にて修復されてきた。 御棟札四体あり。貞享三年十一月、 宝永七年九月、 寛保四年三月、 明和二年六月、大正二年、 幣帛供進社に指定される。 昭和二十四年九月三十日、 指令第一三一三号を以て国有境内地譲与される。※青森県神社庁HP 】とあります。

「堂野前・東光寺・前田屋敷」はいずれも隣り合った付近の村落なのですが、一帯の産土神として崇敬されてきた社のようです。
 どんな経緯があって保食神社と一緒になったのかは分かりませんが、拝殿には「保食神社 八幡宮」の扁額が架かり、拝殿の中にも二社の奉納額が掲げられていました。

◇八幡宮②

 
境内
拝殿①
拝殿②
拝殿③
本殿


 遠い昔の話ですが、郷土史に詳しい上司から「堂野前の神社は、昔、お市の方が逃げのび、隠れ住んだところだ。」と聞かされたことがありました。
「お市」というのは、田舎館城主・千徳政武の室だった人物です。天正13年(1585年)、津軽為信軍の攻撃に遭い、田舎館城は落城。政武も自刃して果てたわけですが、「共に自害を」と願ったお市は、政武に諭され、百姓姿に身をやつし、幼子とともに落城寸前の城を脱出します。 
 ⇒以前の記事へ。
 ー 浅井長政とお市の方(信長の妹)の運命を思わせる話ですが、この「津軽のお市」が逃げのびた先が、この堂野前の八幡宮だったというわけです。

 この伝承の真偽は分かりませんが、八幡宮一帯は、かつて「堂野前館」という城があった所です。堂野前館は、創建時期は不明ですが、鎌倉時代には大光寺左馬之助が、室町時代には牧野氏(※事績等は不明)が居館にした城とされていて、東西600m×南北160mの本郭と東西150m×50mの東郭があり、浅瀬石川から水を引き、堀としていたともいわれています。現在は、住宅と果樹園になっているため、当時の様子は分かりませんが、この八幡宮の境内は、何となく、こんもりとしていて、「館跡」といった感じもします。

 戦国時代には田舎館城を本城として、周辺には「諏訪堂館」や「垂柳館」などの支城がありましたが、伝承によるとお市は、垂柳に立ち寄り、幼子を預けたともいわれており、その後、堂野前館に隠れ住んだということも考えられる話です。

 お市は、それから17年後に行われた法要の席に現れ、為信の前で自害して果てるという、悲しい運命をたどるわけですが、冒頭の「グズ盛」の伝説といい、この八幡宮とお市の話といい、堂野前には田舎館城落城にまつわる悲話が残っているような気がします。(※グズ盛から発見された武人の人骨の時代は不明ですが)

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  

家臣の手で2「中川胸肩神社」ーつがるみち244


胸肩神社


 前回は、浅瀬石城主・千徳氏の家臣が建立したとされる平川市(旧尾上町)の李平保食神社を取り上げましたが、今回ご紹介するのは黒石市中川に鎮座する胸肩神社。ここもまた、同様の由緒をもつ社です。
「黒石」という地名の由来は必ずしもはっきりと分かっているわけではありませんが、
【蝦夷の住む土地を久慈須(クジシ)、国栖(クニス)と称したことから、国栖が『くるし』、さらに、『くろいし』に転化したのではないか】といわれています。
 文献の上で最も古い記録としては、【興国四年(1343年)6月20日付の工藤右衛門尉貞行の妻しれん尼が書いた書状があり、そこには「つがるいなかのこをり、くろいしごう、おなしき、まん所しきの事右所は、くどううえもんのぜうさだゆきさうだいの所りようたるあいだ、しれん、かのごけとしてそうでん(中略)ちゃくそんりきじゅ丸にゆづりあたう也(後略)】とあるとのことです。
 ー 工藤右衛門尉貞行は、鎌倉幕府から派遣されていた地頭で、黒石郷を支配していた。貞行の娘かいず御前は、八戸の領主南部信政に嫁いでいたが、貞行が没してから、貞行の妻しれん尼が、領地をかいず御前の子力寿丸(南部信光)に与えた。ー という意味の文書ですが、この書状からは、興国四年以前から「黒石郷」という地名が存在していたことや、工藤右衛門尉貞行没後に、南部氏の支配下となったことなどが読み取れます。 ※【】は黒石市観光協会HPを参考にしました。

 南部氏の所領となった黒石の郷は、やがて南部氏流一戸氏の一族である千徳氏が治めることとなり、その居城があった浅瀬石村は、中心地として栄えたわけですが、もともとこの地は、古くから大きな集落がつくられていた所でした。
 浅瀬石城址の南側にあたる丘陵地帯に「浅瀬石遺跡」がありますが、ここは縄文時代から平安時代の住居跡や出土遺物が多数発見されている遺跡です。8世紀前半・後半、9世紀前半・後半に造られたことを示す竪穴住居跡は31棟見つかっており、また、出土した土師器(はじき)は、ロクロ使用前(8世紀)の物とロクロを使用した物(9世紀)が見つかっているなど、津軽の地域では数少ない奈良時代の文化や生活様式を伝える貴重な遺跡といわれています。
 同じく奈良時代の貴重な遺跡である前回の李平上安原遺跡もすぐ近くにあり、浅瀬石川の南側一帯は津軽の古代文化が花開いた場所といえそうです。
 ⇒浅瀬石遺跡と李平上安原遺跡
浅瀬石遺跡と李平上安原遺跡


一の鳥居


 胸肩神社のある中川(なかがわ)は、バイパスと水田に挟まれた集落ですが、浅瀬石川の岸に開けた所で、かつては、村のすぐそばまで川が迫っていたことでしょう。神社は、そんな集落の中心に位置しています。
 この胸肩神社については、
【御祭神:市杵嶋姫命  文明年間 (一四六九~一四八七)、 浅石城主千徳左衛門政久の家臣中河隼人が社殿を建立して、 弁才天を勧請した。 大永三年 (一五二三) 中河村の産土神となったが、 慶長二年 (一五九八) 浅石城落城により廃社となった。 寛永元年 (一六二四)、 村中にて社殿を再建し、 文珠菩薩像を奉斎して、 弁天宮と称した。 明治三年、 菩薩像を弘前市最勝院に納め、 胸肩神社と改称した。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)は、いわゆる宗像三女神の一柱で、日本の代表的な水の神ですが、海辺でもなく、大きな湖沼もないこの地に祀られているのは、やはり浅瀬石川が存在していたためと思われます。農耕に欠かせない水を恵んでくれる大河に感謝するとともに、その氾濫による安全を祈願して祀られたものなのでしょう。
 創建は千徳氏の家臣「中河隼人」によるものとされていますが、現在の「中川」という地名も、この「中河隼人」からきているのかも知れません。
 比較的狭い境内に、一から三の鳥居まで立てられていることは、古くから村の崇敬を集めてきた神社であることを感じさせます。拝殿前の狛犬は雪の中にすっぽり埋まって、姿が見えませんでした。

◇胸肩神社①

 
二の鳥居
三の鳥居
拝殿①
拝殿②
本殿


 社殿の隣にもうひとつ社号標と鳥居が立っていて、社号標には「諏訪神社」と刻まれ、鳥居には「文殊菩薩」の扁額が掲げられています。その鳥居の奥には「史跡文殊社」の木柱と祠があります。祠の中は「諏訪神社」となっています。
 由緒に「村中にて文珠菩薩像を奉斎して、 弁天宮と称した」とありますが、ここがその「文殊菩薩堂」だと思われます。やはり明治の神仏分離の際に「諏訪神社」となったのでしょうか。

 かつて「弁天宮」と呼ばれていたこの胸肩神社。多くの弁天宮は神池を伴っていますが、
冨野猿賀神社の弁天宮(中泊町)
この社にも「鵲の池」と呼ばれる池があります(現在は雪に埋もれて見えませんでしたが)。
「鵲の池」というその名前から、何かしら古の伝説でもあるのかと思いましたが、どうやらそうではなく、「鵲(かささぎ)は、古来から神の世界と人間の世界とを結ぶ神使といわれる鳥。それにあやかり、御祭神と氏子との間をとりもってほしい」という願いから名づけられたとのことです。

◇胸肩神社②

 
諏訪神社①
諏訪神社②
諏訪神社③
鵲の池①
鵲の池②


 黒石郷の領主であった千徳氏は、戦国時代になると大浦(津軽)為信と手を組み、周辺の南部勢を打ち破り、津軽統一を果たしていくわけですが、やがて対立し、浅瀬石城は落城、一族も滅亡します。 ⇒以前の記事へ。
 それに伴って、ここ中川の弁天宮も廃社となったわけですが、後に村人達の手で社殿が再建されます。支配者が変わっても、「産土社」に寄せる村人の思いは変わらなかったようです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市   Tags: つがるみち  

家臣の手で「李平保食神社」ーつがるみち243


保食神社


「大同二年、征夷大将軍坂上田村麻呂東征にあたり、戦勝を祈願して・・」 ー 津軽の神社の縁起ではおなじみの文言ですが、他にも、「○○○○年、村中にて創建」とか「○○村の某、○○観音を奉じて・・」など、各社の由来は様々に語られています。
 戦国時代に入ると、時の城主(領主)やその家臣が建立・再建したとされる神社も数多くなるわけですが、平川市李平(すももだい)に鎮座する保食神社も、そのひとつです。

遺跡説明板


 李平の上安原・下安原地区は、縄文時代からの遺跡が残る所として知られていますが、大きな火の見櫓がある李平町会センターに遺跡の説明板が立っています。
【この遺跡の特色は、(注1)縄文時代の遺跡に歴史時代(奈良・平安)に入ってから再び人が住み始めたことが明らかで、縄文土器が地表に多く散見され、地下には土師器が伴う住居跡が埋れている。また、上安原、下安原の丘陵地一帯に集落が形成されていたようで、土器片が広く散布している。住居跡から出土する土師器はロクロを使用しない此の地方古式のものであり従って須恵器が伴出しなかった。北側急斜面の下の水田から夥しい土器が出土したという。或いは縄文晩期の遺物包含地とも考えられる。この地区から検出される住居跡には明確にカマドが設置されていて、付近一帯は稲作に最適な地であり津軽地方でも比較的早くから開拓された地域であった事が推測される。(注2)縄文時代は北側低地部を大河が流れていたと考えられ夥しい程の漁撈具が出土している。※遺跡説明板より】 

 これを見ると、一帯は縄文時代から連綿と続いた遺跡だったことがわかります。下安原の方の遺跡からは、「頭位を南西方向にし、腹部に子供の頭大の大きさの川原石を置いた」平安時代の埋葬人骨
埋葬人骨
が発見されているとのことです。

(注2)の「低地部を流れる大河」とは、即ち、浅瀬石川のことですが、この川は古代から幾たびも氾濫を起こした川で、(注1)にあるように、「奈良、平安に至って再び、人が住み始めた」というのは、縄文から続く一時期、氾濫による大きな環境の変化があったことを示しているように思います。
 因みに、「北方最古の弥生田」として有名な田舎館垂柳遺跡もまた、浅瀬石川の氾濫により、貴重な水田跡や弥生人の足跡が「真空パック」されて残った遺跡だとされています。また、ここ李平と同じ平川市の八幡崎(やはたざき)地区の八幡宮一帯にも、縄文から奈良時代へと続く遺跡があり、石製品、土製品、藍胎漆器、木製椀などが見つかっています。 ー 浅瀬石川文化圏とでも言ったらいいでしょうか。

 遺跡説明板のある町会センターのすぐ隣が保食神社です。雪に埋まった一の鳥居のそばには、手水舎や庚申塔などが立っていました。

◇李平遺跡、保食神社ほか

 
火の見櫓
八幡崎八幡宮
道路から
参道
庚申塔


拝殿


 この保食神社については、
【御祭神:宇氣母智神(うけもちのかみ)  永正二年 (一五〇五) 浅石城主千徳左衛門政久の家臣、 天内治右衛門が社殿を建立し、 馬頭観音を勧請したのに始まる。 崇染堂と称せられ、 永禄三年 (一五六〇) に李平村にて社殿を改築したが、 天正三年 (一五七五) 失火により焼失した。 寛永六年 (一六二九)、 馬頭観音像を鋳造して御神体となし、 社殿が再建され、 更に正保元年 (一六四四)、 村中にて社殿を改築、 産土神として崇敬されるようになった。 明治三年、 観音像を弘前市最勝院に納め、 保食神社と改称した。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 由緒にあるように、当時の支配者・浅瀬石千徳氏の家臣であった天内氏の手によって創建された社ですが、天内氏は、浅瀬石からこの地に移り、「天内館」を築き、居館にしていました。
 天内館は、「3郭で構成され、各郭は空堀と土塁が設けられていたという。北側は丘陵の段差を利用し、南側は浅瀬石川上流から引いた水路をもって堀としていた。」とされていますが、 慶長2年(1597)、浅瀬石城が大浦(津軽)為信の手により落城すると、天内館も廃されることになります。現在、館跡は住宅地となっているため、その遺構はほとんど残っていません。

 この保食神社は主人・千徳氏から授かった領地の繁栄を願った天内氏の思いが詰まった社であり、それを大切に育んだ村人達の「産土社」であったのでしょう。今は、雪の中にひっそりと佇んでいました。

◇保食神社

 
境内
狛犬
拝殿
本殿
末社


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火流しの山里「大川原稲荷神社」ーつがるみち242


大川原集落


 黒石市を走る国道102号線を曲がって、394号線を進むと名所・中野もみじ山(中野神社)黒森山浄仙寺があります。
 この道は、八甲田山・酸ヶ湯へと続いていますが、その途中に「大川原(おおかわら)」という集落があります。
 大川原は、南八甲田山系の裾野、中野川の渓流沿いに開けた、ひっそりとした山里ですが、ここに稲荷神社が鎮座しています。

 この山里は、奇習「大川原の火流し」
「大川原の火流し」
が行われることで知られています。
【大川原の火流し:毎年8月16日の夜、集落を流れる中野川で行われ、アシガヤを編み上げた3つの舟(長さ3m、幅1・5m、帆柱の高さ3m)に火をつけ、1隻を5~6人の若者(舟子)が引きながら、500mほど下流の大川原橋まで川を下ります。すげ笠に野良着姿の舟子が、帆柱の火を消さないように「ヤーレヤーレ、ヤーレヤ」と掛け声を発しながら舟を走らせる姿はまさに勇壮。また、川岸では地元の小・中学生らが、笛や太鼓のはやしで、悪戦苦闘する若者たちを盛り上げます。3隻の舟には意味があり、それぞれをワセ(早生)・ナカ(中生)・オクテ(晩生)と稲の3種に見たてたもので、その火の燃え具合から、翌年の豊凶を占いますが、地区では、村内安全、疫病退散を願う伝統行事としても受け継がれています。 ※黒石市HPほかより

 青森県の無形民俗文化財にも指定されているこの伝統行事は、南北朝時代、御醍醐天皇の第三皇子・宗良親王を長年にわたってかくまった信濃の豪族・香坂高宗の子孫が、戦いに敗れて大川原に落ちのび、南朝方戦死者の慰霊と故国をしのぶため、約600年程前に始めた「精霊流し」が起源だと伝えられています。
 宗良(むねよし)親王(1311年 - 1385年)は、和歌に長じた人物としても知られていますが、南北朝の対立の激化にともない、吉野、伊勢、越中、越後など諸国を流浪の末、信濃国・伊那郡の豪族であった香坂高宗に招かれたのは、1344年(興国5年・康永3年)頃のこととされています。
 香坂高宗(こうさかたかむね)は、宗良親王を約30年にわたり庇護し続けた「南朝の忠臣」として知られる武将ですが、親王は、香坂の領地・信濃を拠点としたために、「信濃宮」とも「幸坂の宮」とも呼ばれていたようです。
 この香坂が治めていた領地は信濃国の「大河原」。香坂の子孫が落ち延びてきたとされるここ黒石の「大川原」 ー その地名の一致は興味深いものがあります。

 大川原地区も過疎化が進み、集落の小学校は廃校となりましたが、現在は「お山のおもしえ学校」という観光施設に生まれ変わっています。私が訪ねたときは、その学校跡や温泉、川沿いの地蔵尊などが、深い雪の中に建っているのが見えました。

◇大川原集落

 
中野川
地蔵堂①
地蔵堂②
大川原温泉
お山のおもしえ学校



稲荷神社


 村社・稲荷神社は、中野川沿いの高台にあります。
 雪をかき分けながら坂道を上ったところが境内で、そこからは集落と黒森山を見渡すことができます。社号標と一の鳥居、そして本殿は、半分以上雪に埋まっていました。
 境内には、末社の祠がひとつ。夏場には、他の石碑なども見られるのかも知れません。大きな雪帽子をかぶった狛犬と石灯籠が印象的でした。

 この稲荷神社については、
【御祭神:倉稲魂命  元禄八年 (一六九五) 七月、 住吉大明神と観世音とを建立。 時の公家村は、 往古、 外ケ浜より笠松峠をかけて小川添に下り黒森山の下を通り、 オーバク平と云うところを経て国中の方へ出る道筋だが、 寛永年中、 高橋久作、 佐藤三之丈の二人は国中より浅瀬石川に沿い小川に上って土の目量を計ったところ、 当地は良土であったので、 此処を住民地と定め、 田畑を開墾し段々移住の者が増えた。 後に黒石藩主より公家村を改め小川原村と云う名を付けられ、 更にその後、 いかなる事か現在の大川原となった。 万治年中に田山堰ができてから堰添を通り黒石へ出ることとなった。 元文元年 (一七三六) 四月、 稲荷大明神を住吉大明神の内へ造立す。 明治四年神仏仕分けの際、 住吉宮並びに観世音を廃止、 稲荷大明神を氏神として勧請す。 奇習 「大川原の火流し」 の里の鎮守さまである。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 集落の歴史をも伝えている由緒書きですが、かつては「公家村」と呼ばれていたとのことで、前述の「大川原火流し」の由来(宗良親王、香坂高宗とその子孫の伝説)との関わりを感じさせます。

◇稲荷神社

 
境内
末社
狛犬と灯籠
社殿
境内から


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  

弥生画奉納「鶴田八幡宮」ーつがるみち241


鶴田八幡宮


 どこの市町村を訪ねても、「稲荷神社」「熊野宮」などとともに数多く見られる神社は「八幡宮」です。
 各村落に必ずといっていいほど鎮座している八幡様ですが、鶴田町HPでは、同町の八幡宮を8つほど紹介しています。
 その中でも、鶴田駅の近く、いわば町の中心部に鎮座している八幡宮を訪ねたのは、昨年の11月のことでした。

 町の中心部ということで、交通量も多い交差点付近にこの神社はありますが、広い境内の中は静かな雰囲気でした。

 この鶴田八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  当社の縁起は甚だ古く 「平城天皇大同二年に坂上田村麻呂が蝦夷退治に悪戦苦闘し同年退散せしめこの地を平定せり、 依って同年九月大川畔の木を伐りて神殿を造営し蝦夷退散国中安泰守護神を勧請し、 敬仰せり」 とある。
 現在の地に遷座したのは天正二年と伝えられている。 当社は安永三年、 板屋野木村宝量宮 (板柳町海童神社) と共に赤田組の祈願所に指定され、 第七代藩主信寧公から御武運長久風雨順時五穀成就組中安全祈願の為、 伊勢御田扇神宝一通太神宮大麻と鳴弦御守札が奉納され、 宝量宮と一年交替で六月一日に組中でお神楽を行う事を命ぜられた。
 また、 安永五年十月には再び藩主から太神宮大麻と鳴弦御霊札が奉納され、 宝量宮と七年交替で組中で御輿を通行させるように命ぜられた。 明治六年四月に村社、 明治四十四年九月八日神饌幣帛料供進指定神社。 】と紹介されています。

 例によって、坂上田村麻呂の創建とありますが、「赤田組」というのは、津軽藩が設置した行政区域25組の1つで、主に津軽平野の中部、岩木川の中流域の村々を統括する組だったようです。
 位置的には、現在の藤崎町から板柳町、そして鶴田町から五所川原市へと続く岩木川沿いにある一帯は、川港の要所として、土地の開発が盛んに行われた所でもあります。この八幡宮は、由緒にもあるように、板柳町の海童神社とともに、歴代の津軽藩主から崇敬された祈願所でもあったのでしょう。拝殿、本殿ともに、そんな「格式」を感じさせる重厚な造りです。

◇鶴田八幡宮

 
境内
拝殿①
拝殿②
拝殿③
本殿


 拝殿の両隣には、それぞれ別の鳥居が立っています。右側に祀られているのは猿田彦大神。鳥居の後ろ側に猿田彦碑と庚申塔がありました、
 一方、左側には十和田神社と水波能売命。「十和田様」は、北東北を代表する水の神で、各地域の神社にも数多くその祠があります。
 水波能売命(罔象女神:みずはめ)もまた、「灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる日本の代表的な水神」です。
 鶴田町には、津軽富士見湖に伝わる伝説をはじめ、闇おかみ神社や水虎様など、「水神」を祀る社が多いわけですが、それはやはり、岩木川の水運によって発展してきた町だったからでしょう。

◇鶴田八幡宮の末社

 
猿田彦大神
猿田彦碑
十和田神社①
十和田神社②
水波能売命



弥生画①

弥生画②

弥生画③


 この八幡宮は、年末から正月にかけて「弥生画」が奉納されることでも知られています。 
「弥生画」は、五穀豊穣を願い、額に穀物の種子を一粒ずつ貼り付けて仕上げたもので、全国で唯一、鶴田町で継承されているものです。「弥生」という名前は、水田耕作が始まった時代に因んだものであり、その起源は藩政時代(天明の大飢饉)の頃までさかのぼるといわれています。鶴田町のHPでは、
【寛政元(1789)年は夏中、日照りが続き、思い余った村人たちは残り少ない種子を持ち寄り、餅で作ったのりで板に張り付けて雨の神様に祈願した。その種を土に植えたところ、翌年は大豊作になったことから毎年行われるようになったという。 】と紹介しています。
 現在は、
【町内の「元町弥生会」と、「山道弥生保存会」が継承しており、毎年、9月頃に下絵に取りかかる。絵の題材は、来年の干支や七福神など、五穀豊穣を願って毎年決めているという。11月下旬になると、いよいよ種子の貼り付け作業である。細い線は菜種や粟(あわ)、太い線は小豆などの粒の大きいもの、白い部分はうるち米、赤い部分は赤米など。十数種類の穀物の色や形を使い分け、削った割り箸やピンセットを使い、ひと粒ずつボンドで張り付けていく。穀物の色をいかし、いっさい着色をせずに仕上げるのも弥生画の特徴だ。こうして完成した弥生画は年末になると、元町弥生会は「鶴田八幡宮」へ、山道弥生保存会は「山道闇おかみ神社」へそれぞれ奉納される。】ということです。

 この弥生画、1ヶ月後には「道の駅つるた」に運ばれ、常設展示場に1年間展示されるということで、道の駅に行って見ました。大黒様と恵比寿様(鶴田八幡宮)、花咲爺さん(闇おかみ神社)の大きな弥生画が飾られていました。その精巧な作りは驚きです。残念ながらガラス張りのため、うまく写せませんでしたが、後で鶴田町HPで、その奉納の様子を見ることができました。
 ⇒ 観光ウェブマガジン「メデタイ・ツルタ」 観光情報

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境内でひと休み「赤坂八幡宮」ーつがるみち240


八幡宮


 地元・黒石市の神社めぐりの続きです。
 前回にご紹介した目内沢の稲荷神社の近くに赤坂という集落があります。目内沢から、橋をひとつ渡ったところですが、この赤坂の村の入口に八幡宮が鎮座しています。
 私が訪ねたのは昨年の11月中旬。初雪もまだ降らず、刈り入れ後の田んぼが辺りに広がっていました。

一ツ森岩吉碑


 神社の一の鳥居のとなりに大きな石碑が立っています ー 「一ツ森岩吉碑」。
 一ツ森岩吉については、「1866(慶応2)年4月5日生まれ、1934(昭和9)年8月4日死す。黒石市赤坂の八幡宮境内にその碑がある。」と黒石市HPで紹介されていますが、赤坂出身の力士だったようで、その活躍を讃えて村の有志たちの手で顕彰碑が建立されたとのことです。

 この赤坂八幡宮の由緒については、
【御祭神:誉田別尊  寛正年間 (一四六〇~一四六六) の創建、 慶長年間 (一五九六~一六一五) 本村宇野某、 殊に大神を信仰崇敬し、 堂宇の朽敗を嘆き社殿を建立、 更に近村の力士を募集して相撲を行なう。 宝暦年間 (一七五一~一七六四)、 村中にて社殿を再建し、 明治四十二年八月二十七日村社に列格、 神饌幣帛料を供進される。 更に、 昭和二十一年に至り国有境内地譲与申請の処、 昭和二十五年二月三十一日に法律第五十三号に依り無償譲与となる。 ※青森県神社庁HP】とあり、古い歴史をもつ社です。
「近村の力士を募集して相撲を行なう」とありますが、この八幡宮の境内にはかつて土俵がつくられており、村の若者たちの力試しの場であったようです。

 各地の神社の境内には土俵がつくられており、奉納相撲や各種の相撲大会なども盛んですが、昔、娯楽の少なかった時代には、神社の境内で行われる相撲大会は、村人の楽しみであったのでしょう。
 境内の土俵や力石(力試石)は、そんな当時の様子を偲ばせますが、重い米俵を軽々と持ち上げる力士は、人々の人気を集めたと思われ、神社の鳥居の「鬼っコ」にも、力士を思わせるものが数多くあります。「重い米俵」は即ち豊作の象徴であり、それを担ぎ上げる力士もまた村人の敬愛を集めたのだと思います。この神社に限らず、郷土(町村)出身の力士の顕彰碑は多くの神社に建てられています。

◇力士顕彰碑など

 
神社土俵(浪岡八幡宮)
力試石(常盤八幡宮)
力士型鬼(金木熊野宮)
力士顕彰碑①(田舎館稲荷神社)
力士顕彰碑②(藤崎鹿島神社)



一の鳥居


 一の鳥居の注連縄は金属製のものですが、どちらかというと横長で細身のものです。
 新しく奉納されたと思われる灯籠の後ろには、神馬と狛犬がそれぞれ一対ずつ。その後ろに拝殿と本殿があります。境内には樹木が少なく、道路沿いからもよく見渡すことができ、明るく開放的な感じのする社です。

 拝殿の隣には、二十三夜塔や庚申塔などが立っていますが、ここの庚申塔は赤坂の庚申塔
赤坂の庚申塔
と呼ばれ、黒石市指定民俗文化財になっているものです。少し風化しているため、はっきりしないのですが、どうやら刻まれている像は「青面金剛(しょうめんこんごう)」のようです。

 青面金剛は、
【日本仏教における信仰対象の1つ。青面金剛明王とも呼ばれる。夜叉神である。インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸を押さえる神とされる。・・・三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されるが、一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。 頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いている場合もある。また、どくろを首や胸に掛けた像も見られる。 彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られる。この青は、釈迦の前世に関係しているとされる。※wikipedia他より】といわれ、古来から庚申信仰と深い関わりをもっています。

 日本各地の石造の庚申塔には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に青面金剛像が描かれている例が多いといわれていますが、以前、訪ねた弘前市・常盤神社の庚申塔には、青面金剛像と踏みつけられている邪鬼、そして三猿が刻まれていました。
 ⇒常盤神社の庚申塔
常盤神社の庚申塔


 この八幡宮のある赤坂は、かつては、六郷村の中の集落だったわけですが、近くには、同じく市の文化財に指定されている庚申塔がある竹鼻八幡宮があります。一帯には、昔からの庚申信仰が根強く残っているようです。

◇赤坂八幡宮

 
参道
拝殿
狛犬
拝殿と本殿
赤坂の庚申塔


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 六月になりました。辺りの緑が濃くなり、とても鮮やかです。今後も、ぼちぼちと史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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